Tumgik
mace · 6 years
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三つ目は、常識の壁。 初対面からタメ口だったり、非常識なことをやっている人とは関わらない。 インターネットの悲劇は、持っている常識が全く異なる人が、同じ空間にごちゃ混ぜになってしまっていることだ。 その人はその人で正しいのかもしれないが、”自分の”常識で理解できない人とは関わらないようにする。 どんなにフォロワーが多くても、どんなにすごそうな人でも、自分から見て「ん?」と思う人とはリアルでは会わない。 もしかしたら自分の可能性を狭めてしまうことになるかもしれないが、「その人の世界観」を理解できるようになってから会うのでも遅くないと思う。
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mace · 7 years
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感想 優れた技術でありながら、内部がブラックボックス化した結果、扱える人がいなくなりだれも読むことができなくなったStarの話、なかなかに示唆に富む現代寓話である…。
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mace · 7 years
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イキりオタク、という言葉が最近あるが、これはどちらかといえば「一般人的なオタク」といった方が正しい表現だと自分は思う。一般人は、大抵イキっているのだ。彼らはマジョリティなので、自分達のルールが社会全体のルールであるように錯覚しがちである。先のエロ本をコンビニから排除せよという訴えも、決して特異な政治主張を持った異常な集団だけが言っているというよりは、自分をマジョリティだと思っている「一般人」の感覚というように見える。そうした人々に居場所を奪われてきた人たちこそが「オタク」であり、コミケはそうした人達のためにずっと居場所を提供してきた。今、そんなオタクたちの祭典が「排外的」だと言うのなら、それでもいいのではないかと自分は思う。「排外的」だからこそ優しい空間というのが世の中にはあって、そういう空間こそ今の世の中に必要な気がする。そしてその「排外性」まで含めたコミケについての十分な理解を、参加者のみならず社会全体に対して求めるべく、今後もきちんとコミケを理解している人々がその理念や歴史について語ってゆくべきだとは思うし、今後のコミケのレギュレーションについて考えることもまだまだ多いように思う。今回の件、単に雑多な議論に終始するには勿体無い事例であったのではないだろうか。
真木よう子のコミケ参加はなぜ批判されたのか : ありすの宝箱Blog
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mace · 7 years
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バカは途中経過なので、バカであっても構わないのだが、一生懸命考えた結果こうした状態から抜け出せないというのは少し可哀想かもしれない。
為末大さんはなぜバカなのか | The Key Questions
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mace · 7 years
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動機と技術と時間の話 結局のところ、適切な時に適切な方向と量の動機を持てるかどうか、という話なんだろうなという気がする。 働いているときに、それと全く別の趣味としてプログラミングが始められるか、それだけの時間と気分の余裕を持てるかどうかというと、多くの人には難しいかもしれない。大学生ならどうか、高校生ならどうか、中学生なら……と考えてみても、それぞれ人に個別の事情があるだろうから、単純な時期の問題でもないと思う。だから、目的に特化していない「プログラミング」一般として高校生の頃にやっておくのは、そう考えると、悪いことではないんだろうなと思う。自分だって働きはじめてから必要になった数学やら英語やらの能力については、それこそ高校生の頃にやっておいた下地があるからなんとかなってるわけで、考えると基礎教養というものはそういうものだ。何かをやりたくなって、それがある技術や知識を必要とするときに、しかしその技術や知識をゼロからやり直す時間がその瞬間にあるとは限らない。 将来に作りたくなったものができたとき躊躇せずに実際の作業に飛び込んでいくために、時間がある段階でやれることをやっておく。そういう話なのかなと思うと納得できる。なんかボヤけた感想だけど、そんなことをあれこれ考えてた。
プログラミングを始める動機はどこにあるのか、の話 - たごもりすメモ
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mace · 7 years
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平成27年度 東京大学学部入学式 教養学部長式辞 新入生のみなさん、入学おめでとうございます。難関をくぐり抜けて念願の東京大学入学を果たされたことを心よりお祝い申し上げます。また、ご両親をはじめとするご家族の皆様にも、お祝い申し上げます。 東京大学に入学した学生は、全員が、まず、教養学部に在籍して、少なくとも2年間を駒場キャンパスで過ごします。その2年間は、東京大学では前期課程と呼んでいますが、そこでリベラルアーツ、すなわち、教養教育の基本的な理念に基づく幅の広い一般基礎教育を受け、その間にさまざまな可能性を模索しながら、自分の専門を決めて、後期課程の学科に進学していきます。 この教養学部の2年間は、それをどのように過ごすかによって、その先の長い人生が変わるといっても過言でないほど、大切な期間です。その間にみなさんは、月並みな言い方ではありますが、よく学び、よく遊んでください。そして、その学びと遊びを通して、良き師と良き友を得てください。教養学部は、そのための最高の環境です。みなさんは、それを最大限活用してください。今、教養学部長として申し上げたいことは、この当たり前のことに尽きるのですが、それについて思うことを、少しばかり付け加えたいと思います。 まず、学びについてですが、それは2つに分けられます。一つは、将来の仕事に必要な知識や技能を習得することを目的とした専門基礎としての学び、もう一つは、仕事には直接的には必要とされないものの、人間として、偏りのない幅広い見識と教養を身につけるために必要な学びです。教養学部は、その両方についてバランスのとれた教育を行っています。 専門基礎としての学びは、職業人として自立していくためのものですので、自分の将来の進路が決まれば、誰でも一生懸命取り組みます。東大入試合格という明確な目標に向けて努力し、それを達成されたみなさんですので、専門基礎の勉強については、何の心配もしていません。 しかし、大学に入学したばかりの時点で、将来の進路を決めている人はむしろ少数で、大部分の人はまだ決まっていません。そもそも、自分が本当は何が好きで、何をやりたいのかもわからないという人も少なくないと思います。しかし、それは、まったく心配することではありません。それどころか、むしろ当然のことです。なぜなら、みなさんのこれまでの人生経験も、学んできたことも、ごく限られたものに過ぎないからです。日本の近代教育の根底を築いた偉大な教育者の言葉に、「専門学科と職業の選定は遅いほど良い」とあるくらいです。 教養学部に入られたみなさんは、誰もが、まずこのことを意識したうえで、自分の世界を拡げる努力をしてください。それは、できるだけ広い学問分野に触れ、その中に入り込み、迷いを重ねることです。この努力は、すでに進路を決めたつもりの人にとっても必要です。自分の世界が拡がると、それまで当然のこととして決めていた自分の進路を見直すことになる可能性もあるからです。教養学部は、みなさんのその努力を、さまざまな形で強力に後押しします。それが、教養学部における教養教育です。 教養学部で開講される授業の範囲は非常に広く、その内容はきわめて多彩です。講義の数は毎年2000以上に上ります。それには、物理や化学といったなじみのある科目名とともに、タイトルすら見たことのないようなものもあるでしょう。初めて見るタイトルの科目の内容がみなさんにとって非常に新鮮であることはもちろんですが、よく知っているつもりの科目の授業も、その内容は、高校までとは驚くほど異なることでしょう。ぜひ、その知的興奮を味わってください。 授業に出るにあたっては、その内容を理解することはもちろんですが、教員とのコミュニケーションも、劣らず大切です。東京大学での授業の多くは、その分野の第一線の研究者、すなわちその分野の学問の構築に参画している教員によって行われます。授業のなかで、そのような教員の学問に対する情熱を感じ、その考え方や生きる姿勢を学び取ってほしいと思います。それは教科書を読むだけでは得ることのできない、とても大切なことです。それが、生涯の師との出会いとなり、あるいは、将来の進路を決定する機会となるかもしれません。そのような機会は、もちろん、待っているだけでは決して訪れません。気に入った授業には十分な準備をして出席し、積極的に対話に参加してみてください。同学を志す友人との間に深い友情を育むきっかけともなるでしょう。一つでもそのような授業に出会えることを願っています。 みなさんが教養学部で受ける授業の多くは、教養を身につけるための科目ですが、同じ科目でも、人によってその位置づけは変わります。いずれにせよ、みなさんが教養学部で学ぶ多くの科目は、将来の職業に直結しないという点においては一種の“遊び”のように思われるかも知れませんが、しかし、その遊びこそが、人間として偏りのない幅広い見識と教養の源となるのです。 これまで学業のことばかりお話してきましたが、教養学部の学生生活のもう一つの柱は課外活動です。課外活動は学業ではないので、これは純粋な遊びといえますが、今申し上げた観点に立つと、とても大切な営みであり、教養学部としても重視しています。実際、さまざまなスポーツや文化芸術活動がさかんに行われており、その中には、驚くほど高いレベルに達しているものもあります。親から見ると、子供は勉強するために東大に入ったはずなのに、課外活動にばかりうつつを抜かしていると思われるかもしれませんが、それも教養学部における広い意味での教育の一環ですので、ご心配は無用です。 課外活動を重視するのは、好きなことに没頭するときに得られる高揚感を体験し、それが生きる喜びそのものといえることを知ってほしいからです。また、好きなことに徹底的に取��組み、努力していけば、やがてそれは、自分だけではなく、他の人にも喜びをもたらせるようになることもわかるでしょう。たとえば、スポーツや音楽演奏は、最初のうちはなかなかうまくできません。それでも、困難を一つ一つ克服してゆくのはとても楽しいものです。努力を重ねてある程度上手にできるようになってくると、自分だけでなく、それを見たり聴いたりしてくれる人にも楽しんでもらえるようになります。これは、他の人との間で深いレベルのコミュニケーションが成立し、それによって喜びが生まれることを意味しています。音楽の演奏であれば、自分が奏でている音楽がこんなにも美しいものなのだという思いが聴き手に伝わり、それが感動を呼び起こすのだといえるでしょう。 自分の思いが深いレベルで他者と共有される喜びは、創造を伴うあらゆる営みに共通します。自然科学や人文科学の研究の喜びも、自分の発見したことの面白さを伝え、それを共有してもらえることにあります。したがって、課外活動としてよく遊ぶことも、よく学ぶことに劣らず大切なのです。 しかも、課外活動を通して得られる友人との間には、共通の趣味を介しているだけに、とても強固な結びつきが生まれます。生涯を通しての友人も得られるでしょう。指導者に師事すれば、その先生とも強い結びつきが得られます。 みなさんが、教養学部における学びと遊びを通して、良き師と良き友に巡り会うとともに、自分が本当に喜びをもって深めてゆけるものを見出して、その道に進むに十分な基礎を養われることを心から願って、私の式辞といたします。 平成二十七年四月十三日 東京大学教養学部長 小川桂一郎
平成27年度 東京大学学部入学式 教養学部長式辞 - 総合情報 - 総合情報
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mace · 8 years
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mace · 8 years
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でも、やっぱり、一生慣れないかもしれないのは、日本独特の「どんな状況でも、ドラマチックなところに落とし込もうとする」ところ、かもしれません。ホストにまで「人間性」を求める。 いや、ホントは求めてない。 求めている自分を確認する。 そして差別化を測る。誤解なきよう、決してホストの方々に人間性がないなんて言ってるわけではなくて、みなさんとてもいい人だと思います。でも、イケメンとおいしいお酒を飲む、というビジネスモデルに、人間性や、内面を強引に入れ込む習慣は、やっぱり世界的に見ても稀だと思います。ドラマチックなセリフを日常生活でよく聞くのは日本です。 中身はともかくとして。「アメリカかぶれ」と思われるのが極端に嫌いな僕が、「アメリカ」に住んで良かったと心の底から思うのは、グーがチョキに勝って、チョキはパーに勝って、グーはパーに負けるという単純なルールがちゃんと成立してるからです。国民全体がインテリのパーセンテージの高い日本は、そんな不文律も複雑にしがちです。高校野球でも勝ったチームより、負けたチームにスポットライトが当たることがある。ひきこもりのコに対して、親が、学校が、社会が、ひいては国にまで責任が及ぶ。ひきこもりならまだしも、犯罪者に対しての責任まで、複雑に討論して、ヘタすると加害者を被害者にまでする「理屈」が生まれる。もし、グーを出して、パーに負けたら、負けだ。 それ以上の理屈はない。だから、次は勝てるように努力する。でも、「どうして彼はグーを出したのでしょう。 核家族化の社会現象が、彼にグーを出さざるを得ない性格にしてしまったということは考えられないでしょうか、、、」と、したり顔で評論する。深すぎるぜ(笑)グーを出して、負けた張本人まで、「勝負には負けたかもしれない、、、でも、僕は握った拳をほどくことは、どうしても性格上出来なかった。 それで負けたら、それはそれで仕方ないと、天国のお母さんも笑ってくれるだろうから」と涙目で語る。カッコよすぎるぜ(笑)でも、僕は知ってる。 もし先方がパーを出すと知ってたなら、間違いなくチョキを出してたことを(笑) 握った拳を簡単に開いたことを。
NY在住の社長が語る一生慣れないと思う日本人の嫌な習慣 - ライブドアニュース
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mace · 8 years
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手段へのこだわりがエンジニアをスペシャリストにする ただ、プログラマに関して言うと、いやプログラミングに限らずソフトウェアエンジニアリング全般がそうだと思うけど、ある分野に精通してそれを手段として使いこなせるようになるためにはそれなりの時間と経験を要するし、それは結構狂気に似た没頭が必要だと思う。それこそ「目的なんか知るか。俺はこの技術が使いたいんだ!」っていう態度が結果的にその人をその技術のスペシャリストに導くことも多いし、自分が置かれている状況を理解していわゆる"大人な選択"をするようでは没頭しているとは言えないことも多い。 そういった手段へのこだわりや情熱を持たず、その時点での目的に対して必要最小限の技術の使い方しか学ばず、早い段階でバランスのとれたエンジニアに成熟してしまった人は、平時には高いパフォーマンスを発揮するんだけど、目指すべき方向性が変わってしまったときや緊急の対応が必要な時に頼りにならない。 僕はそういう「大人で、聞き分けのいい」ソフトウェアエンジニアになりたいと思わないし、自分の後輩や同僚にもそうなって欲しくないと思う。 知っていてこだわらない、それがいいソフトウェアエン��ニア 例えば、初めて自転車に乗れたときの感動を今でも覚えている人はいるだろうか。かっこいい乗り方、速くこげる乗り方、疲れない乗り方、子どものころにはそんないろいろな方法を練習した人も今では単に移動の手段で使っている人が多いのではないかと思う。 目的だったものが手段になるということはそういうことだと思う。かっこいい自転車の乗り方も知ってる、疲れないこぎ方も速くこげるこぎ方も知ってる、だってかつてはそれに強いこだわりをもって必死に練習したんだから。でも今は単にある場所まで移動したいだけだからそのために必要最低限の使い方をするんだ、と。 エンジニアリングもそうなんだよ。あるプログラミング言語の得意とすること・苦手とすること、データストアとして RDB が得意なこと・NoSQL が得意なこと、各アプリケーションフレームワークの設計思想、そういうのは熱狂的なまでのこだわりとそれなりの量の経験の先にしか身につかない気がするんだけど、さらにその先にそれを手段として使いこなせるようになるんだと思っていて、そのときにこそ熱狂的な情熱からちょっと冷めて物事を俯瞰的に見れるようになるんだと思う。 もちろん情熱を失ったほうがいいと言いたいわけではないし、必ずしも俯瞰的な見方をしたほうがいいというわけでもない。ある領域へのこだわりや情熱は個人の嗜好性の範囲ではずっと持ち続けていいと思う。 ただ多くの開発現場がチームでプロジェクトを進めていく以上、チームで目的とすることとそれを実現する手段の整合性は重要で、そのためには目的と手段のスコープの切り替えが大事になってくると思っている。 そういう意味で、熱狂的な情熱と周辺領域まで含めた俯瞰的な視点の切り替えを繰り返していくことは大事で、その結果だんだん目的と手段のスコープの切り替えが上手になっていって、手段としての専門性の深さと目的との整合性をうまくとれるような、そんな理想のエンジニアになれるんじゃないかなと思うんだ。 僕が理想とする「知っていてこだわらない」エンジニアというのはそういう人で、僕自身も今後もそれを目指していくし、僕が若者に伝えていきたいこともそういうことなんだよなぁ。
知っていてこだわらない、それがいいソフトウェアエンジニアの条件なんだと僕は思うんだ - assertInstanceOf('Engineer', $a_suenami)
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mace · 8 years
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カテゴリ7(Cat7) 10GBASE-Tを適用範囲とし、10Gbpsまでの伝送速度を規定したケーブルです。Cat7はケーブル外装がシールド化され、UTPではなくSTPとなります。最大周波数は600MHzの性能要件を満足し、伝送性能区分は「クラスF」になります。クロストーク・ノイズに対しての耐性を高めるため撚線にシールドを施し、かつケーブル全体にもシールドが施されたSTPケーブルです。 LANケーブルを多条束ねて敷設している場合、特に高周波による高速通信時に互いのケーブルが干渉し、エイリアンクロストークによる通信障害が発生するおそれがあります。STPケーブルとなっているカテゴリ7のLANケーブルでは、このようなクロストークをシールドによって防止することが可能です。 カテゴリ7の規格は、シールドが施されたケーブルですから、UTP(アンシールド・ツイストペア)の規格から外れています。自己輻射ノイズや外部ノイズにも高い耐性を示しますが、前述したように、通信用クリーン接地の確保、STP対応のハブ・ルーターを使用するなど、Cat6以下のUTPケーブルを使用した通信インフラと違う機器構成が必要になりますので、通常の家庭用構内LANとして使用する場合には過剰投資となる可能性があり、コストパフォーマンスが悪化することに繋がります。採用には慎重な検討が必要です。
UTPケーブル・STPケーブル | LANケーブルの種類と規格・カテゴリの違い
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mace · 8 years
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乖離の立ち尽くし もちろん、すべての人は破片。 すべてのことをできるひとはいない。 そんな0/1の話をしたいわけじゃない。 程度の話。 そして、その破片をわかっていれば問題ない。 わかっていれば、できないことがわかってるから、 どうすれば解決できるかわかるから。 破片プログラマーの最大の悲しみは、 破片であることを自覚せずに成長してしまうこと。 プログラミング経験年数と、 実はほとんどプログラミングをしてこなかった という事実に乖離がある。 それに気付かず、 ステージが違うことに気付かず、立ち尽くしてしまう。 もしくは、足を引きずりながら突き進んでしまう。
破片プログラマーの悲しみ - jfluteの日記
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mace · 8 years
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1個だけいいですか?ゲームを作る側も観戦だけする人のことを考えてゲームを作るべきだと思います。流行するには見る専門の人の人気だって重要になってくるのではないでしょうか。いまは観戦して面白いかどうかってゲームを作るうえであまり考慮に入れられてない気がします。 例えば、ストリートファイターっていまVが主流じゃないですか。去年まではⅣだったんですよ。ウルⅣ。でもⅤに合わせてトップダウンでVにプレイヤーが以降したんです。Ⅳの大会は今後やりません、Ⅴ中心で行くんでVに移ってくださいというような公式のメッセージが感じられました。で、Ⅴなんですけど多くの格闘ゲームからプレイヤーが集まっています。ゲームとして奥深いゲームになっています。必殺技を出すことにリスクあり、ヒット確認��どの技術介入も重要になっています。読みあい、差し合いなど熟練プレイヤーにとってはとてもいい出来のゲームに仕上がっているような気がします(もっとも、ネット対戦環境や実装されていないモードなど、その他の面で不安は大きいが…)。しかし、見る側にとってはどうでしょう。 個人的な感想になるかもしれませんが、見ている側…とくにこのゲームはプレイしないが見るのは好きという人にとって、観戦の楽しさはウルⅣのときのほうが上だったように感じます。難しい目押しのコンボ、派手な必殺技の応酬等々、ストⅣのほうが華やかでした。深い読みあいや、深い地上戦はプレイする側にとっては至高でも、上級プレイヤーでない観戦勢にとっては面白さが伝わりにくいのではないかと思います。 LOLについても観戦勢に配慮したゲームだとは言い難いと感じます。画面のごちゃごちゃ感や、キルシーン以外でのPlayに対する上手下手などがわかりにくい。 流行させるには”ゲームをしていないけど観戦する” このような層への配慮、そういう点もゲームを作る側、配信していく側が力を入れられればいいのかもしれませんね。
東大卒のセミプロゲーマーに聞いた、日本でe-Sportsは何故流行らないのか!? | Challenger速報 チャレ速
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mace · 9 years
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解説 というわけいかがでしたでしょうか。 話をまとめますと ● 先生が子供にたいして「才能がある」と思うと、実際に才能を花開かせる。これを「ピグマリオン効果」と言う。 ● またプロの「最初の先生」は、みんな「優しくて楽しみを教えてくれる先生」だった。 ● プロはすべて「1万時間��練習をしていた。 ● 結局何より大切なのは「積み重ね」。子供の先生を見つけるときは、喜びをもって練習を続けられるようにできる人を探すこと。 ● 何をするのも、今からでも遅くない! となります。 また調査に関連しての話ですが、この「1万時間」に例外はありませんでした。 「1万時間練習しても、プロになれなかった人」はいなかったのです。 また「プロで、1万時間より練習が少なかった人」もいませんでした。 まさに「プロ=1万時間」だったのです。 僕はこれ、ものすごく勇気を与える情報だと思います。 実際、ものすごく上手なマンガ家さんの「昔の絵」などを見ると、「あれっ…?」と思うことも多々あります。 しかし、仕事として毎日のように描き続けることで、どんどん絵が上達し、今のレベルになっているわけです。 「いや自分は何をしてもダメだ!」 「自分はすごくヘタだ!」 と主張する人は多いかもしれません。 しかし聞きましょう。 「あなたは1万時間やりましたか?」 この答えは間違いなくNOのはずです。 「自分には才能がないから」 「ちょっとやってみたけど、うまく行かないから」 「続けられるというのも才能の一つで~」 大半が「次々と、やらない理由を見つける天才」です。 そして結果的に、何も実になりません。 とにかく理由を見つける前に、1時間でも2時間でも、1万時間に向かって進んでいくことが大切です。 1万時間さえやれば、何であっても、必ずできます。 そのことを、決して忘れないでくださいね。 ちなみに自分はバスト妄想する時間が1万時間を超えています。軽く2万時間に近づく勢いです。これはプロと言って差し支えないと思います。 問題は仕事に差し支えることです。 切ない思いを抱えつつ、ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
「1万時間やれば誰でもプロ!~ピグマリオン効果」マンガで分かる心療内科 | 秋葉原/心療内科/ゆうメンタルクリニック秋葉原駅0分 岩本町駅・精神科・東京・カウンセリング
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mace · 9 years
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やはり我慢出来ずに書き込みます。基本的に私自身が約10年間で80振り(80種類)近い日本刀で実際に斬って来た経験と、戦時中に実際に人を斬った方や逆に斬られた方等とぶっちゃけトークを重ねて来た内容を元に書きます。 ①切れ味について まず初めに「脂がまいて斬れなくなる」についてはほぼフィクションです。人間の身体を斬る時の刀の速度を考えてみて下さい。20人や30人を戦闘不能にするなら間違いなく「脂で斬れなくなる事」はありません。(100%ではないですよ。何十万振りとある日本刀には粗悪品もあるでしょう)脂が刀身にへばりつく様な斬り方しか出来ない人は刀の斬れ味が悪くなる以前に命はないと思います。 「刃こぼれして斬れなくなる」…これも技量の問題です。そもそも刀選びから剣士の力量が問われます。実用刀としての刀目利きが出来ない(見る目がない)レベルの剣士は歴史に名前なんて残っていません。まず、相手の刀を刃で受ける事は稽古不足の証拠であり、実践の刀術では刀身を痛めない捌きを自然と学ぶものです。(余程の金持ち以外はそう簡単に研磨に出したり、買い替えたり出来ないのは今も昔も変わりません) 空論ではなく、私自身が体験して導かれた情報を再度書きます。 約10年間で合法的なあらゆる素材を数えきれない程斬ってきて、刃こぼれは一度だけで捲れが一回です。 刃こぼれは新刀で古刀と刃を合わせた時、捲れは軍刀で鉄板(約3mm厚)に斬り込んだ時に起こりました。(他の先輩や後輩の刀が損傷した事は何度か見ていますが…)また特殊な刀身に限って言えば刃こぼれは簡単に起こります。もの凄く重ねを薄く幅広に造られた刀は巻藁等柔らかい素材なら簡単に斬れますが、3cm以上の青竹などは持ち主が斬ろうとしません。現代刀の波紋の鮮やかな刀身は本来しなければ成らない制作行程の焼き戻しをしていない可能性があり、こういった刀はそれこそボロボロ刃がこぼれます。(私の現在の愛刀は新刀期の刀身ですが、約2年間で巻藁、竹、木材、紙、アルミ缶、薄い軟鉄板、など数千回斬っていますが稽古に支障があるほど斬れ味は落ちていません。もちろん、刀身の曲がり、刃こぼれすらありません。) ②殺傷能力について 日本刀での「斬る技術を体得熟知している斬り手」によってなら、相手の戦闘能力を失わせる斬りつけ(頸動脈を斬り上げたり、手首や親指を斬り落したり、足に斬りつけたり…)は不可能ではありません。即死させなくても戦闘能力を失わせる斬りつけは結構色々在るんですよ。 ③刀の強度について これも斬り手の力量と刀身に比例しますので、下手な斬り手が粗悪品を使用した場合はかなりの確率で刀をダメにしてしまいますが、日本刀としての平均レベルの刀身を稽古を積んだ斬り手が使用した場合は余程の事がない限り折る様な事は起こりません。 追記 kumialphaさんの「本当に切るのは切っ先3寸だけです」は違うと思います。良く居合の稽古などで「切先3寸を意識しろ」と指導する事がありますが、これは初心者への指導をする時に「遠心力」を感じさせる(意識させる)目的で乱用される決まり文句です。刀で物を斬る時に一番適した部分を「物打ち」と呼びますが、物打ちは斬る対象物により移動します。もちろん、細い青竹などなら切先3寸で斬れますが、人の腕を斬り落したり、袈裟斬りをする時はだいたい刃長(鍔元から切先まで)を3分割した時の切先側の中央辺りが速度も乗り手の内も一番安定します。まぁ、百歩譲って頸動脈を斬り上げるだけなら切先3寸でも足りますが。 「③刀の製造時期でも」に関してはとんでもありません。恐らくkumialphaさんは刀剣書は読んでいる様ですが、試斬のご経験はあまり無い様ですね。 ●昭和の軍刀は粗製乱造品なので切れ味は最低です。 全くの誤った情報です。 当方が抜刀の全国大会で優勝した時に使用した刀はまぎれも無く「昭和の軍刀」でした。長さ2尺2寸反り7分で、先幅なんか5分程度の細身でした。(昭和刀(軍刀)6振り、満鉄刀1振り���の試斬経験有り)軍刀が馬鹿にされる発端は日本刀を美術品(商品)として昭和の日本刀ブームの時にビジネスで関わった人達の誤った刀剣価値観が撒き散らかされた事に起因します。確かに、刃中の働きや、地鉄の鍛え肌など見えにくい軍刀は美術品としての地位は得られていませんが…刀としての能力はちゃんとしてます。 ●江戸時代のは殆どは装飾刀なので切れ味はいまいちです。 これも刀剣書の受け売りでしょう。江戸中期の新刀で本年は準優勝しております。 「新刀」(室町以降〜幕末まで)は鉄質が古刀と比べると全体的に固く曲がりにくいが斬り手が下手だと刃切れを起こしたり最悪は折れます。 (大阪新刀・江戸新刀・加州物や肥前物など、約25振りでの試斬経験から) 日本刀に関する誤った書込みだけは黙って見逃せなくて…
実際の刀による斬り合いは…実際はどうだったのでしょうか?①切れ味に... - Yahoo!知恵袋
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mace · 9 years
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CPUのアーキテクチャへの理解と、現実にコードを書く我々、この2つを勘案した上で、実際に前置インクリメントを使うべきか、後置インクリメントを使うべきか、また今の時代そういうことは気にしないべきか、考える必要があります。 私は、後置インクリメントを使っている事を指摘した際に「だってゲームエンジン・アーキテクチャに書いてあったからなんとなく」という答えをするプログラマが増えない事だけを願っています。
前置インクリメント vs 後置インクリメント | 闇夜のC++
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mace · 10 years
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これを解決するのがSSLだ。SSLでは「公開鍵暗号」と呼ばれる暗号化/復号方式を用いる。公開鍵暗号方式は、暗号化と復号に別の鍵を用いるのが特徴だ。セットになった2つの鍵があり、片方は「公開鍵」、もう1つは「秘密鍵」と呼ばれる。そして、公開鍵で暗号化したデータは、秘密鍵でしか復号できない。たとえて言うなら、両方が同じ鍵を持つ方式(共通鍵暗号)は、箱に鍵をかけて送り、受け取った側は同じ鍵(共通鍵)で箱を開けて中身を取り出すようなものと言える。これに対し公開鍵暗号方式は、箱に南京錠をかけて送るようなものだ。これを開けることができるのは、鍵を持っている人物だけだ。
Lenovoが最悪クラップウェア「Superfish」で失った信用の大きさ | サイバーインシデント・リポート
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mace · 10 years
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教授に言われたその一言の経験からは 大学でも、仕事でも、友人関係でも、SNS上でも 突発的に相手に何かを指摘しよう、意見しようとしたときは、こう思うようになりました。「本当に相手に言いたいこと、やりたいことを自分は理解しようとしているか?  その上で、意見を言おうとしているか?」
君は批判する権利があるか? 批判のマナーを教えてくれた教授の一言が人生でめちゃくちゃ教訓になっている - 人生かっぽ — 佐藤大地のブログ
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