manabiya-kuebiko
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学び舎・くえびこ
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manabiya-kuebiko · 1 month ago
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1学期の中間テストを終えて
中学生も高校生も1学期の中間テストを終えました。まだ結果は出ていませんが、生徒たちのテスト前の取り組みを見ていて、各生徒頑張っているな、と嬉しく思うことが多かったです。
みなが集中してやるべきことをやっている空間というのは美しいです。こいう光景を今年度も何度も見たいです。
しかし、んん??と感じたことも…。
中学生については、当塾ではテスト前に対策授業を組み、通塾回数を増やしていますので、勉強時間が増えている���より多くの問題に取り組んでいるということは全生徒共通しています。
それでも、どうしても個々の生徒の取り組みの差は否応なく現れます。それはおそらくテストに対して「自分」を「主語」にして向き合っているか、という姿勢による差であると思われます。そうでない生徒はテスト勉強をしていても、どこかそこに自分が入っていない、親や先生に言われたから、提出しないといけないから…などの後ろ向きな理由でここに座っている、そばで見ている大人の目にはそういう姿勢は目立って見えるものです。
さて、そんな風な子たちについてどうしたものか…と思いながらその様子を見ています。
共通しているのは、提出物に手をつける、または進めていくのが遅いため、終盤はそれに追い立てられ、しかも自分の学力からは到底難しい問題もあって、そうした問題でまた手が止まってしまい、時間だけが過ぎていく…という残念な勉強の仕方をしていることです。また、せっせと手を動かしているな、と思ってみると、赤ペンでひたすらワークに答えを書き写しています。提出物というノルマを達成するためには必要な作業らしいですが、何も学力向上には寄与しません。わからなかった問題の答えを写すという無益な作業を本当に学校が強いているのかは不明ですが、私は生徒には、塾ではそんなことに時間を使わないでくれ、自分がちょっと頑張れば解ける問題の理解に努めよう、と声をかけます。その問題の選別はこちらがもっと徹底しないとと思わされました。
彼らは提出物を終わらせることがテスト勉強であると考えている節があって、それは早急に意識を変えてほしいなと感じるところでした。こちらも対策を考えています。
「勉強の主語」を自分にしたとき、それは人との競争ではなく、シンプルに自分がどれだけ自分のために頑張れているかという話になります。すると結果とは別に、「過程」の重要さに気づくはずです。結果はそれぞれでいいと思います。目くじら立てて人と比べろ、という考えは私にはありません。しかし、「過程」は横にいる同級生と比べながら、自分の準備は最善だったか、あいつの努力を僕、私はしていたか…と考えてほしいと思います。
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学び舎・くえびこ
〒690-0875 島根県松江市外中原町64−1
TEL : 070-2659-3753 (堀本)
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manabiya-kuebiko · 4 months ago
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ある同業の方の決断
くえびこを始めた2017年の秋、Googleで「学び舎・くえびこ」と打っても検索の網に引っかからないので、キーワードとして上位に挙がるようTwitter(現X)のアカウントを作りました。
初めて覗き見たTwitterの世界で、いろんな人がいろんなことを言う、その手軽な自由さに良くも悪くも目をくらませながら、しかし素晴らしい方との出会いもありました。
塾のアカウントなのでフォローしたりされたりは同業の方が多いのですが、その中でも東京で高校受験向けの個人塾をやられているKさん(アカウント名は本名ですがここではイニシャルで)は常に私の関心の対象でした。
自らの教務力、集客力、実績を顕示することに余念がない多くの塾アカウントとはまるで違うKさんのつぶやきから聞こえてくるのは、基礎学習に悩みを抱えている子に寄り添い、励まし、叱咤する、街の塾の先生の声でした。
私も経験上わかるのですが、学習の何たるかを理解している子を更なる高みに引き上げることよりも、そもそも学習観のない子を、自分で問題に取り組めるレベルに引き上げることの方が、講師に要求される忍耐力と柔軟性は大きいです(もちろんその分やりがいも大きいです)。そうした精神的ハードワークをあえて塾の仕事の中心に据え、日々試行錯誤されているKさんのつぶやきは私を励ますものでした。
ところで学習塾が保護者さんの目を惹き、通わせてもいいかなと思ってもらうために最も手っ取り早い宣伝方法は「実績」(と口コミ)です。「〇〇大学合格、△△高校合格」という字面の放つ力は思いの外強く、私も例に漏れず、そうしたアピールが可能なときは内心嬉しい気持ちで、しかしそれをひけらかすのも憚られるという中途半端な羞恥心とプライドに邪魔をされながら、ちゃっかり黒板やWebに書いていたりします。
しかしKさんにとっては、人目を引くような合格実績を作って集客を目論むというビジネスモデルは最初から眼中に無かったのではないかと想像します。このようなストイックなスタイルは、私の中でKさんをさらに仰ぎ見る対象へと高めてゆくのでした。
しかし先日、Kさんは突然、塾を辞められる旨の長文ポストを投稿されました。「えっ」と言葉にならない驚きを持って、そのポストを読みました。そこに書かれた文章は、まさしく私がKさんのお人柄として想像していた誠実さと優しさの現れたものでしたが、Kさんが塾業に限界を感じていたということが率直に綴られていて、私は動揺してしまいました。
自分をどのようにも見せることができるSNSのことばを私は基本的に信じませんが、Kさんは普段からありのままのことばを使われる方でした。そして廃業を宣言するポストの中で、そのことばはより透明でまっすぐなもので、それゆえにKさんがした決定の重さを際立たせていました。
Kさんは次の道を模索されるとのことで、私はただ次のステージでのご活躍を祈るばかりです。そして私はKさんの長文ポストを読んだ時の感覚を、この先の自分のためにも忘れないでおこうと思いました。塾業の中でも、私の仕事はKさんのそれと重なるところが多いと思っています。だからKさんの存在を無意識のうちに支えにして、鏡のようにして、自分も頑張ろうとしてきたのです。そしてだからKさんが感じたと語る限界は、私も感じているものなのです。私はたぶん、Kさんよりも鈍感で、あるいは姑息で、そのことに目を瞑っているのかもしれません。もっと自分の仕事を見つめるために、Kさんのことばは最後まで私には示唆に富んだものでした。
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manabiya-kuebiko · 5 months ago
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入試という季節
入試という季節、とふと頭に浮かんで、受験生にとっての将来を賭けたその時限りの戦いを、一年というサイクルの一要素でしかない「季節」と等号で結びつけるなんて、軽率で緊張感に欠けているし、何より当事者たちに失礼だ、と自分で自分を罰したい気持ちに駆られるのですが、それでも「入試という季節」は頭に残り続けます。
彼ら(受験生たち)が��この瞬間に、受験日その日に向けて重ねている努力のそのリアルさ、みずみずしさ、嘘のなさを、受験という勝負の瞬間そのものから遠く離れて、なおかつその周りをうろうろしながら食い扶持を得ている私という人間はそれを畏怖し、尊敬し、その鮮烈さゆえに少しでもそれを客体化しようとし、無意識に出た言葉が「入試という季節」。
彼らの生が入試という制度を通じて私に見せつけたその生々しさに、私は少しクールでいようとしたのです。
入試はギリギリの勝負です。勝ってくれ、くえびこの受験生たち。合格を掴む努力を君たちはしたのだから。
受験日のその直前までギリギリまで必死にコミットして、そう祈る瞬間、私はきっと受験の外部者になります。その日彼らは奮闘し、私はそれを気にしつつご飯を食べ、歯を磨き、洗濯をし、、、。彼らの受験生としての日々に伴走し叱咤し共に悩んできて、その時初めて私は自分は受験生でないことに気づくのです(これは半分マジです)。
そして私は「入試という季節」を過ごしたのだなと思います。これは私の入試に対する主体と客体の均衡を表わすギリギリのラインでの実感であり、それは季節である限り、また新しいサイクルを招き、またそこに私はコミットしていく。
書いてみて徹頭徹尾私のための言葉でしかなく、恐縮ですが「入試という季節」という言葉についてでした。
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manabiya-kuebiko · 1 year ago
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2024年を迎えて
久しぶりの投稿です。
2024年になり、共通テストも終わりました。受験生の皆様、まずはひとつ、本当にお疲れ様でした。
年始に能登半島で地震があり、大きな被害を報じる映像に不安を掻き立てられるなかで、現地の受験生たち大丈夫だろうか、無事共通テストを迎えられるだろうか、という心配をしていることに気づきました。まったく、この職業に染まっています。
あんなことがあって、大丈夫なはずはないのです。大きな悲しみや不安は、きっと彼らの問題を解く手や頭を遅らせたり惑わせたりしたはずです。
災害ということの大きさの中では、たかが大学受験と見る向きもあるかもしれません。しかし高校生に身近に接して勉強している様子をつぶさに見てきた身としては、彼らが勉強に費やしてきた、そしてそれをぶつける一回きりの今という時間の重要性を思うのです。人生について大局的な目線で、今がこうでもきっと大丈夫、と思えるのは大人の特権です。決して10代の少年少女たちから今この時間の価値を奪うことはできません。
被災されて大変な状況の中受験された生徒たちに頭が下がる思いです。まだこれから、もう少し頑張りましょう。
思えば昨年からのイスラエル・パレスチナ戦争や、先日の能登の地震など、多くの人命が失われたという知らせに、あまりに耳と目を奪われているようです。悲惨な現実があるという事実に対して、何もできようがなく日常を過ごすことは、大なり小なり“後ろめたさ”を心に蓄積させていきます。
夕方、ストーブに入れる灯油を買いに行った帰り道、もうほとんど暗くなった、雲の敷き詰まった暗い空の彼方に、微かな雲の割れ目を見つけました。立ち止まって見て、その割れ目からのぞくのは、もう青空としての輝かしさや鮮度をすっかり失ってしまって、しかしそれでもなお青空としか言いえないものでした。
するとふと、この美しさは自分にとってどんな意味があるのだろうという疑問が浮かびました。悲惨なことがこんなにも多くある世の中で、夕方の空が感動するほどに綺麗であるとの意味はなんだろう?
こんなふうに人生に起きる出来事に意味を問うてしまうのは私だけではないはずです。そして意味を問うということが、悲惨な出来事に向けられることが多くて心が疲れてしまうのかもしれない。
自分の人生に悲惨なことが起きたとき、その意味を問うことになるのは不可避でしょうが、それを世界の出来事の一つ一つに繰り返していたら身も心も持たないというものです。ニヒリズム的に「意味などない」と言い切る強さではなく、自分の日常性を守るために、「意味ではない」のだと、しどろもどろになって弁明する姿勢もあっていいのではないでしょうか(それは悲惨な出来事から目を背けるということとイコールではないと思います)。何につけても、つい意味を問いたがる自分を反省しながら、灯油缶を片手に塾に戻りました。
2024年も私はこの仕事をして、生徒たちよりも学んでいきたいと思います。お前に何があるのか、と問われたら、それしかないのですから。
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manabiya-kuebiko · 3 years ago
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子どもであることについて
「子どもたちは未来である」という言い方があります。私はこの言葉の意味が、子どもの頃わかりませんでした。
しかし大人になって三十を過ぎたいま、自分が子どもに携わる仕事をし、周りの友人たちも子を持つようになるなかで、その意味が大変よくわかるようになりました。(わかるようになるも何も、その意味は文字通��のものなのですが…)子どもたちは、未来です。というか、人間は生命が紡がれてゆくことにおいて、初めて未来という概念を発見するのではないか、とさえ思います。
もうひとつ、子どもの頃からよく聞いた同じような言葉に、「子どもたちは宝である」というものがあります。これも子どもの私にとっては、ただ綺麗なだけでその実、擦り切れるほど使い古された陳腐な言い回しとしてしか聞こえず、ことばの意味はそこでは死んでいました。しかし、いまこの言葉は、ある確かさを持って、私自身の内部から湧き出てくるようでさえあります。
これらの受け止め方の変化は、「子ども」という言葉の指す対象への、私の見方の変化そのものです。
歳を重ねだすと、生きている1日1日があっという間に過ぎ去り、どう生きようと行く先は死であるという事実が、嫌でもリアリティを持ち始めます。 その中でふと、人間はその人生のいつから過去を回顧するという行為に至るようになるのだろうと考えます。それは言い換えると、いつから過去がもう取り返しのつかない隔たった時間として価値を持つようになるのだろうと。
子どもにとっては、過去が取り返しのつかない何かである、という感覚はおそらく薄いのではないかと思います。今生きている日々と地続きの、ただ去っていった日々。いや、もしかすると自分がそこに置き去りにしてきた日々とすら感じているかもしれません。今ここにいる自分を中心とした、いわばある種の傲慢さを、子どもたちは過ぎ去っていったものに対して抱くのではないでしょうか。
しかし、大人にとって過去は、特に子ども時代は、もう決して返ってくることのない心情や風景そのものであり、私たちはそこに特別なものを認めざるを得ません。あのとき見て、聞いて、感じたことの全てを、もう一度あの時のように見て、聞いて、感じることはできない。そんなふうに過去を振り返り、そこにあったものに、もう二度と触れることができないと悟ったとき、きっと私たちは大人になり、その時初めて「子ども」という時間(存在)が対象化されるのではないでしょうか。
良き思い出を持つことが、良き人生の条件であり、良き思い出にすがることが、人生の鎮痛剤となりうるとすれば、良き思い出の根源的な参照先である子ども時代が、特別な意味を持つのは当然ではないか。そう考えたとき私は、人の子ども時代に大なり小なり関わる自分の仕事に、「教育」という言葉を背負わせざるをえないと思いました。
誰にとっても子ども時代は、本当の本当に一回きりで、それはその後の人生を支えもするし、挫きもするのですから。
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manabiya-kuebiko · 3 years ago
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チラシを作りました。
塾の前や、私個人の顔馴染みの場所に置いていただいた��しています。代わり映えのしないチラシですが、手に取っていただければ幸いです。
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manabiya-kuebiko · 3 years ago
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2021年度を終えて
3月11日の県立高校の合格発表をもって、くえびこの2021年度の入試は完結しました。生徒さんの進学先は以下の通りです。 高校
松江北高校(2名)
大学
広島経済大学 経済学部(推薦)
立命館大学  経済学部
広島大学   情報科学部
一橋大学   社会学部
今年度の入試は、試験から合否発表まで、本当にドキドキしながら待つものが多く、いささか疲れましたが、電話口から聞こえてくる生徒の合格報告の声の弾みに、そんなものは全て吹き飛んでしまったのでした。
今年受験した高校3年生。中でもTくんとKくんの2人は、1年生の頃からくえびこに通ってくれた生徒でした。17年の末に開塾したこの塾にとって、高1の頃から見させていただける生徒というのは彼らが初めてであり、そのことで私は入試が近づくにつれて、緊張と責任を普段以上に感じていました。
2年半にわたって、彼らと私の3人で英語・数学の授業を進めてきましたが、その淡々とした日々の中で彼らは着実に成績を伸ばしました。意欲的に、勉強を嫌がることなく楽しみながら学んでくれたその姿はこちらをも鼓舞してくれました。
Tくんの英語をはじめとする文系科目の強さ(歴史など私が教えを乞うていました)、Kくんの数学を解くときの直感の鋭さと粘り強さは驚��べきものであり、私は何度となく、率直に”君たちは私よりよっぽど優秀なんだから…”と語りかけました。それでも最後まで弛みなく私の授業についてきてくれ、難関大学に現役合格されました。本当に感心しますし、感謝しています。
受験生はみなそれぞれに、それぞれの大変さを背負って机に向かっています。難化した今年の共通テスト後には泣きながら問題用紙を破る生徒もいたと聞きます。17、8の子供をそのような気持ちにさせるほど、入試という勝負は厳しく残酷です。何が合格と不合格を分けるのか…。不合格になった子はそこに到らなかったことで何を思えば良いのか…。当塾からの受験生が皆合格という結果を報告してくれたことで、かえってそのようのことばかり考えてしまっています。
もちろん当事者は、合格!よかった!春から大学生(高校生)!で良いと思います。おめでとう!です。しかし私はこれに仕事として携わるものとして冷静に、合格という結果に到りえた必然性と偶然性のバランスを分析しないと、と考えています。入試結果の開示が待たれるばかりです。
くえびこは少人数クラスの学習塾です。中高生を対象に、誤魔化しでない思考力と学力をつけられるよう、試行錯誤しながら授業しています。1人で業務を行なっているため、受け入れられる生徒さんの人数には上限があります。春からしっかり学んで目標を達成したいと思う生徒さん、保護者の方は下記の連絡先にお気軽にお問い合わせをしていただければと思います。
(*当塾は決して「目指すべきは難関校!」という気風の塾ではありません。様々な学力、目標をもつ子が学んでいます。よろしくお願いいたします。)
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manabiya-kuebiko · 3 years ago
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2021年への感謝を。
2021年、最初で最後のエントリーです。長らくここに文章を載せていませんでした。自らの怠慢を思い知り、恥じるばかりです。
しかし今年は、平日毎日塾の前の黒板を更新するという徒労を自らに課していたので、毎日何かしら書くことを考えていました。脳裏を掠めて行った大小様々な事象について、いちいちを言葉にしてみると、色々考えてるつもりでも、同じところを堂々巡りしているだけだなぁ、という感想です。
2021年も学び舎・くえびこは学び、気づきの場である、という使命をいくらか全うできたように思います。それというのも一重に、意欲的に学んでくれた生徒さん、その生徒さんを実績も大してない当塾に預けていただいた保護者のみなさまあってのことでした。本当に���りがとうございます。
一人の社会人、人間として未熟である僕は、そんな日々の中でそれこそ生徒さん以上に学んだ1年であったと振り返ります。一人のお子さんを預かるということは、その子をめぐるたくさんの方の想いの一部を背負うことでもあるのだな、ということも何度となく身にしみましたし、受験生である子達との時間の中で、彼らが否応なく競争の最前線にさらされていることも再認しました。数字がモノを言うわけではない、というスタンスの当塾ですが、数字に徹し切る瞬間は生徒のためにも厳しくいかなければ、と息をつめることもありました。
全く、「学び舎」とは僕自身のための言葉か、と思うくらい日々反省と学習の毎日ですが、最大限それを生徒さんに還元していけるよう、5年目も頑張っていこうと思います(頑張れるチャンスがあるだけで幸せです)。 2022年もよろしくお願いいたします。
学び舎・くえびこ 堀本理記
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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ぐうたら受験生だった私の秋
私にとって秋は、最も受験を意識づけられる季節です。受験までの時間が限られてきて、今までやってきたことと、これからできることの間で、自分の可能性が見えてきて、良くも悪くも「ここ(志望校)」で勝負だと腹を括る、そんな季節。
私自身について振り返ると、大学受験を控えたこの時期、センター試験の対策をやりながらも、そのスピード勝負の勉強に嫌気が差してしまって、塾の自習室で一人、やたら難しい数学や物理の二次試験の問題に逃避していました。そもそもこうやって文章を書いたり、読んだりすることが好きな私は自他共に認める「文系脳」の持ち主なのですが、高2の文理コース選択の際、「文系の学部に進んで、将来何の仕事に就くのか全くイメージ出来ない」などとうそぶいて(今思えば単なる無知でした)、理系に進みました。この選択は今思うと誤っていたとも、正しかったとも言えるのですが、ここでは後者の観方から少し書かせてください。
そんなふうに消極的に理系に進んだ私は、当然のことながら理系科目に苦しめられることとなります。なかでも本当にちんぷんかんぷんだったのは「化学」。担当の先生が部活の顧問だというのもあって、そこそこの点を取らないと、と思い自分なりに頑張っていたのですが、いつも化学を勉強するときに感じていたのは「俺いらないじゃん」という気持ちでした。化学の体系的な、完成された分野というイメージに全く自分を投影できず、機械的に用語や式を覚えるしかない、という疎外感が常にありました。いまだにそんな「化学」とは和解できていないような気がします(しかし今書いていて気づきましたが、勉強の苦手な子にとって、勉強自体がそういうものなのかもしれません。だとすると本当に辛いことです)。
こんな具合に理系科目に馴染めなかった私を、受験勉強を通じて少しだけ受け入れてくれたよう思えたのは、「数学」と「物理」でした。正直、どちらも点数という面では、理系の生徒としてはさほど振るわなかったと記憶しています。しかし、塾の自習室で参考書を開き、前屈みになってページを覗き込み、文字や式を追っていくうちに、頭の中に何か熱いものが駆け巡る感覚を得たのは、間違いなくこの二教科においてでした。それは何というか、自分が課せられた問題に向き合っているうちに、その問題と自分自身の対話(式や計算を通じて)が行われているような、そんな感覚でした(それが化学でなく、数学や物理だというのは、あくまで全く個人的な体験のうちでしか通用しない言い方です)。
受験勉強というと、ただ辛くしんどいというイメージがあるかもしれませんが、真剣に、本当に真剣に(大事なことなので二回言いますね)取り組んだとき、人それぞれどこにポイントがあるかはわかりませんが、日常からフッと離れて、深みをのぞくような経験ができるものだと思います。そしてそれは大人になってから、物事に取り組むときの姿勢に何らかの影響を与えるものだと思います。もちろんそれは必ずしも受験勉強を通じて得ないといけないものではないのですが。 ここからの時期、なかなかこのように受験の精神に与える効用ばかりに目をやって勉強はできないでしょうが、テクニカルなことはこちらで指導していくので、勉強の根本的な意味を各々見据えながら、残りの日々を駆け抜けて欲しいと思うのです。
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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センター試験現代文に見る、戦後文学の綺羅星たち
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ここ2ヶ月ほど、高3生の現代文の授業は、センター試験の過去問(評論・小説)をひとつずつ丁寧に読んでいく、という内容で進めています。本文と問題の選択肢を見合わせて、これはこうで、だからこうなんだよね、ということをコツコツやっているので、嫌でも文章を精読しなければいけない、という状況になっています。
センターの問題設定は悪くいうと「表層的」です。時間さえかければ(時間のなさがただただネックなのですが)満点を取るのもそこまで難しくはないと思います。授業では、その表層的な読みに終始するだけではもったいないので、何か一言二言言えないかな、と思いつつ準備しているのですが、いつの間にか文章の世界にふっと入ってしまって、そんなことも忘れて読み終えてしまうということがあります。こんなふうに設問の表層性とは裏腹に、センターの文章のチョイスは「グッジョブ」と言いたくなることがしばしばあります。そんな文章をいくつか紹介します。
近々のもので言うと、今年、最後のセンター試験で出題された原民喜の小説「翳」です。原民喜は広島で被爆し、のちにその戦中戦後体験を綴って発表した作家です。「翳」は語り手が、自分たち夫婦の家をよく訪ねていた近所の魚屋の丁稚の少年が、出兵、帰国の後に故郷で亡くなっていたことを知り、その少年との出来事を回想をするという形の作品です。戦争の時代の中で、何も知らぬまま消えていった多くの命の一つであったであろう、その丁稚の少年との距離を、近づけすぎず、遠ざけすぎず、ありのまま淡々と描いているのが印象的でした。悲しみを粒立てない(あまりにも多くの悲しみがあった)ことで、悲しみが際立つ、そういう文章でした。
その前年、2019年の上林暁「花の精」も素晴らしい作品です。私小説家として名前は知っていましたが、僕は読むのは初めてでした。子と夫に先立たれた妹と、妻が入院中の「私」の会話で始まる文章は、人の心の機微を巧みに表現しており、後半部分の幻想的ともいえる風景描写と相まって、読者を作中の世界に連れていってしまうような魅力を持っていました。読後、顔を上げたときになんとも言えない疲労と心地よさを感じました。授業後、早速この作家の本を買い求めました。
そしてもうひとつは、これは作家の名前すら知らなかったのですが、2016年出題の佐多稲子「三等列車」です。調べてみるとプロレタリア文学の作家として位置付けられている人で、なるほどこの作品は「三等列車」の題通り、戦後すぐの庶民的な情景を切り取っていて、読み方によってはプロレタリア文学の匂いを感じとることもできるでしょう。しかし、僕が感心したのは、自分がその場面に偶然居合わせたような感覚すらもたせる描写のうまさでした。戦後を力強く生きる人たちの、一瞬見せる疲れ、そしてそれを敏感に感じとる子ども。それらを見つめる語り手の眼差しが、哀しみと暖かみを際どいバランスで浮かび上がらせる名掌編です。佐多稲子の本(エッセイ)もすぐに手に入れました(この人のエッセイは抜群にうまいはず!)。
こんなふうにセンターの近年の過去問だけ見ても、高校生は多くの優れた作品に出会う機会を持っていると言えそうです。しかしそれがテストという、極めて短い制限時間の中で情報を取捨選択するゲームのような場での出会いになっていることも事実です。僕個人としては、こうした文学の魅力を伝えていくことで、子どもたちに文学、そして過去にもっと近づき、目を向けるようになってほしいと思っています。
(センター試験の過去問は、「○○年 センター 過去問」などと検索すると容易に問題を入手できるので、上で紹介した文章も読むことができると思います。)
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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くえびこ文庫から「石原吉郎詩集」
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こんな時ですが、こんな時だからこそ、じぶんのこころを落ち着かせる方策が必要です。目の前を流れてゆく様々な情報は重要なのですが、それに目を通し続けることで、精神に余計な緊張(できること、すべきことは限られているので)を与えすぎているかもしれません。最近の自分自身を省みて、そう思いました。
というわけで、詩を読みましょう。詩。
くえびこ文庫にもいくつか詩集は入っていますが、僕のお気に入りはなんといっても石原吉郎です。石原吉郎は戦時中、ロシア語通訳としてロシアに徴用され、戦後すぐ捕虜として、彼の地に抑留生活を余儀なくされました。その後八年に及ぶ抑留生活の中で、文字通り「死線」を跨ぐような経験を何度もし、それらは詩の中に強く投影されています。
いわゆる戦争文学、抑留者文学(フランクルやソルジェニ���ツィン)に位置づけられる一人ですが、もっと広い意味での戦後文学の重要人物だと、僕はずっと思ってきました。二冊の詩集と、一冊のエッセイ集がくえびこ文庫にあります。明晰さ、内省の深さが恐ろしいほど際立つエッセイから読んでみてもいいかもしれません。
短くて、有名な詩をひとつ引用しておきましょう。
花であること 
花であることでしか 拮抗できない外部というものがなければならぬ 花へおしかぶさる重みを 花のかたちのままおしかえす そのとき花であることは もはや ひとつの宣言である ひとつの花でしかありえぬ日々をこえて 花でしかついにありえぬために 花の周辺は的確にめざめ 花の輪郭は 鋼鉄のようでなければならぬ
「石原吉郎詩集」思潮社 
以下はまったくの蛇足ですが、だいぶまえ、やっぱり毎日ぱらぱらと石原吉郎詩集のページを繰っていたときに、突然思い立って書いた自作の詩があります。表現の巧拙と、石原吉郎のスタイルをまんま模倣していることは置いといて(置いとくな)、言いたいことは言えた、と思った詩でもあるので、載せてみます。
無題
詩は一陣の風である 「風が吹くと桶屋が儲かる」ように 誰がどこで儲けるかは 預かりしらぬが 確かに この肌をぬぐっていく瞬間 それは風である 風が 千の荒野と 千の海と 千の山々を巡り ひとつの祈りを 運ぶとき ひとつのゆるしを 舞うとき みぎわに 打ち捨てられた風車が 人知れず まわりだすだろう
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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春期講習のご案内です
春期講習のご案内を塾の前に置いています。HPでもどうぞご覧ください。3月22日まででしたら、無料の体験授業もいたします。お気軽にご連絡ください。
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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県立高校入試、終わりました。
島根県の県立高校入試が終わりました。受験生の皆さん、本当にお疲れ様でした。受験勉強を通じて、自分を追い込んで頑張った人、自分を超えようともがいた人、受験の現実に嫌気が差してしまった人、目の前のことから逃げてしまった人、いろいろな3年生がいることでしょう。みんなどうあれ、そこには葛藤があったはずです。
特に今回自分が逃げてしまった、誤魔化してしまったと思っている人たち。そのこと自体は、第三者がとやかく言うことではありません。自分がそのことを、今だから受け止めて、自覚して、そして受験勉強って何なんだ、と再び考えてみてください。
僕はいかなる理由、建前においても、テストという選別装置を肯定的なものとはみなしません。テストの1点に一喜一憂することは、自らを人間の知性から遠ざける行為だとすら思っています(こんな考えの僕が塾屋をやっている因果の謎は自分にもまだ解けていないのですが…)。
もし、受験から目を背けたあなたを、自分自身で肯定するのならば、テストによって測られえない知について、あなた自身で考えを膨らませてください。その考えは、所詮子どもの戯言、甘え、逃げと大人には言われるかもしれません。そして僕も同じことを言うかもしれません。それでもあなたは考え続けてください。問いばかりで、決して答えと言い切れるものがない、それがあなたが受験を否定したことの代償として得うる思考の方法であり、人間の知性の本来のあり方なのだと思います。
ともあれ、すべての受験生に、光の当たらんことを。塾屋の端くれとして。
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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くえびこ文庫から イ・ラン「悲しくてかっこいい人」
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先日岡山で、韓国の女性シンガーソングライター、イ・ランのライブを観てきました。個人的にこのイ・ランという人には、坂口恭平と並んで強い興味を抱いており、今回の西日本ツアーの最寄りの会場だった岡山まで足を運んだのでした。
イ・ランとはどんな人物なのでしょう。 僕はイ・ランは言葉の扱いにおいて、ミュージシャンの中で群を抜く才能の持ち主だと思っています。初めて聴いたのはYouTubeでたまたま見つけた「世界中の人が私を憎みはじめた」という曲だったのですが、そこで歌われる詞は視聴後しばらく、僕の中で強い印象を保ち続けました。それからインタビューなどをネットで探して読むと、その発言は刺激的で、現実の社会に対する眼差し、忌憚なき意見に改めて深い共感を覚えました。 そんな風に興味を抱きはじめた頃、このエッセイ集「悲しくてかっこいい人」が出版され、すぐに買い求めました。
一読し、この本に対して何にも先んじて浮かんだ感想は、「自由な精神」にとって、この世の中はなんて生きにくいのだろう、ということでした。「自由な精神」は常に脅かされ、死を傍におき、それでも自由であることを諦めません。そんな精神の体現者のひとりであるイ・ランの声を少し抜粋します。
私は人が「しちゃだめだ」と言ったことをしようとする。死について語ることだ。(…)大人になった私たちは、いつからかこうしたことについて話せなくなった。「死にたい」という言葉はほんとうに死にたいときではなく、「面白くて死にそう」だったり「死ぬほど腹が減った」ときに使う。だからほんとうに死にたい人は、なぜ死にたいのかきちんと話すことができずに死んでいく。私はなぜ死にたいのか話したい。(P173)
いつからかやらなくなったことを思い浮かべてみた。お腹を抱えて大笑いすること、走ること、そして踊ることだった。こんなに美しいことはこの世にほかにないとすら思えるのに。神様は果たしてダンスを踊るか?道を歩いていて突然踊りだしたくなるときがある。特に、道行く人たちがみな幽霊みたいに同じ方向にひたすら歩いている出勤時間の地下鉄の駅や、広い横断歩道で。(…)横断歩道の向こうで信号待ちで立っている人たちが、信号が変わると反対側にいっせいに早足で歩き出し、たがいにぶつかり合って、飛んでいく様子はどうして舞台でしか見られないのだろう?(…)同じ空間でローザス舞踏団の公演を観ていた客の誰もが、舞台で繰り広げられるものを「美しい」と思っているのに、私たちはただ静かに歩いて家に帰っていく。重たい靴の中で小さな足の指たちを動かしながら。「ダンスは美しい」と頭だけで考えながら。(P180)
抜粋した文章からは、人生に本質的な問題とそれについての表現を、社会生活の中で、抑圧・忘却・希釈化させていかなければならないことへの抵抗が、やさしい言葉で、詩的に語られていることがわかると思います。あまりに自明なことをそれでも執拗に問い続ける、この痛々しさを伴う思索が、僕は僕自身の声ではなく、イ・ランの声と言葉で表出されていることに、大きく慰められます。
岡山のライブで、目の前数メートルにいるイ・ランは、美しく気怠げで、それでいて親密な雰囲気をもっていました。日本語でのMCもばっちり笑いをとって。
「わたしは「人生」と「楽しい」の言葉はいっしょにならないと思っています。だけどみなさんがこうしてハミングしたり、手を叩いてくれるときは、少し、うれしい」(MCより)
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学び舎・くえびこ
〒690-0875 島根県松江市外中原町64−1
TEL : 070-2659-3753 (堀本)
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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「まとまらない人」「我が詩的自伝」
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くえびこ文庫に新しく入った本のご紹介です。
坂口恭平という人物をご存知でしょうか。建築家、作家、歌手、絵描きなど広い活動領域をもつ芸術家です。僕がこの人の名前を初めて知ったのは、ハッキリ覚えていて、海外の旅から帰国した2015年の秋に(スワローズが優勝した年でした)東京を訪れた際、青山ブックセンターでこの人の特集が組まれており、その著作が平積みになっているのを見たときでした。その時は「建てない建築家」というようなフレーズが目に入り、手にとってパラパラめくってみただけでした。
それから時が経ち、塾を開いて、広報の一環としてTwitterを始めた時、この名前を再びよく目にするようになりました。そこで以前と違い、この人に興味を抱く決定的なきっかけがあるのですが、それは彼の多岐にわたる活動のひとつである「いのっちの電話」という自殺予防活動を知ったことでした。
坂口さんは自身が躁鬱病を患っており、鬱状態に入ると自殺願望に取り憑かれてしまい、布団から出られなくなると公言しており、その経験からか、希死念慮に憑かれている人の話し相手になることで、自殺を防ごうと活動されています。電話番号を公にし、無償で行われるその活動を通じて、2万人ほどの人と話した、という坂口さんの言葉に、一瞬立ちくらみのようなものを覚えた僕は、それ以来この人への興味が尽きない状態になっていました。
そして先日、昨年末に出版された語り下ろし本「まとまらない人」の出版記念ツアーが行われるとのことで、広島までいそいそ話を聞きに行きました。それはもう、とんでもないライブで、終演後すごく元気になれたのですが、その感動は字面で伝えうる自信も筆力もないので、ここには書きません。ただ坂口さんの「声」が、これは救われる人もいるよな、と思えるほど、安心感のある、懐かしい、小学生の頃のいっつも面白い遊びを考えついてくる友達、みたいなそんな声で、そのことが強く印象に残ったのでした。 帰りのバスの中で、紀伊國屋で買った詩人・吉増剛造の自叙伝を、フランク・オーシャンを聴きながら読んでいたのですが、ここにもたくさん「声」にまつわる話がありました(フランク・オーシャンの声も凄い、、)。どちらも少しずつ引用してみます。
「まとまらない人」から。
小説でも、歌でも「声」を出そうとしてるんだよ。最終的な僕の目標は、声だけにいこうとしてるみたい。(…)「おい!」(すれ違う友人に軽く手を挙げ声をかけるような朗らかなトーンで)って人に声をかけるくらいの声を出したい。僕はああいうものの価値を見出してる。それで人は元気になる。いのっちの電話で僕の声を聞いただけで、泣いて、電話切るんだから、みんな。P39
みんなコミュニティーばっかつくろうとするから、俺はただコミュニケーションだけを、コミュニティーを作らずにやりたいという感じです。コミュニケーションっていうか、言語の交換だけを徹底させるっていう。(…)社会っていうことは、言語が途中でダラダラになっちゃうんですよね。(…)それだと絶望とか失望状態の、いちばん敏感な状態のときに、いい感じの会話ができないんですよ。P65
また創作することについてはこんなことも。
つくったものが評価されて、それで食っていくためにつくるんじゃない。「私はたった一つの現実なんです」と言い切ろうとしている現実に対して、そうじゃないでしょ、と声をかけるためにつくる。そうやって考えると、自分だけの問題じゃなくなってくる。P39
つくっても、つくっても、自分は確立されないからね。経験談としてわかる。どんどん揺れていく。それも大変。(…)つくっても自分のものだと感じられない。でもそういうふうに自分を確立することを諦めるっていうか、そうじゃない道があると感じたとき、そこに新しい健康の芽を感じたけどね。P33
また、以下は吉増剛造の自叙伝「我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!」(講談社現代新書)から。
(子どもの頃)自分が声を出すっていうこと、声が出るっていうことに対して非常な興味を持っていた。2歳か3歳の子どもってそうだよね。それも依然として僕は覚えてる、僕の喉が覚えてる。P64
やっぱりここにギンズバーグの「Howl(吠える)」がある。「Howl」の朗読を聞いてるわけ。声から聞いてる。ボブ・ディランも声から聞いてて、こんなふうにして語られる声の浮遊状態っていうのかな、こんなのあるかと思ってさ。そのころ岡田たちと勉強してて、「万葉集」なんかを読んでた時にも、柿本人麻呂からとんでもない声が聞こえてきて、ああ、これが人麻呂かと思った。P94
決定的だったのは柳田(國男)さんの語り口、声だね。それはね、幼いときの記憶を呼び出すときの思考の瑞々しさだった。すべて別のトーンだけど折口さんにも小林さんにも、それぞれ思考の瑞々しさがあるのね。柳田さんの場合には、僕は一生それとつき合った。P278
ライブで坂口さんも、ディランの歌ってることなんてひとつもわかんないけど、師匠なんだと言っていました。そして「A Hard Rain's A-Gonna Fall」の日本語カバーを歌われました。「声」なんですよね。
坂口さんの本は、思想の本として読んでも十分にアクチュアルで厚みのある内容なので、広く読まれるといいなと思います。でも、あの声は本当なら生で聞いてみたほうがいいのかもしれない。声を聞いただけで、泣いて元気になっちゃう、というのはあながち、いや全然嘘じゃないなと思うかもしれませんよ。
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manabiya-kuebiko · 5 years ago
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試験のこと
2020年になり、はや半月余りが過ぎてしまいました。 そして受験生のみなさんはセンター試験を迎えたわけなのですが、どのような結果を手にされたのでしょう。 教える身として、去年も同様に感じたのですが、気持ちはとても重いです。 この「重さ」は何だろうと、今年も考えてしまいます。これを生徒に対する、または教えてきたことに対する責任や義務感、あるいはプロ意識といった言葉に絡めてみると、それは僕がどうしても持つべき、誇らしいとさえ感じてもよさそうな重荷だ、といえなくもないのですが、いやぁ、どうしてもこの重さを好きになれないです。 この重みは、僕ですらこうなのですから、お子さんの頑張りをずっと傍で支えてきた保護者の方の心労というのは、もう察するに余りがありすぎるほどです。 親の心子知らず、とはよく言ったもので、僕は自分がセンター試験を受けたとき、そうした周囲の大人の気持ちを慮ることなど一切ありませんでした。 できるときはできる、できないときはできない、それでしょうがねえじゃねえか、という大きく開き直った態度で、のしのし試験場へ向けて歩いていたのを思い出します。今から思えば、その無責任さがいささか腹立たしいところなのですが、しかし、とにもかくにもその心の有り様の軽かったこと。そして事実として(具体的にセンターの成績は覚えていないのですが)その「軽さ」が試験を受ける自分にとって良い方向に影響したように思うのです。
僕は、教える側や親がどういう気持ちでいようとも、子どもたちにはこの軽さを持って試験に臨んでもらいたいと思っています。試験は試験、それ以上のものでも、以下のものでもありません。その結果如何において、直近の進路は変わってきますが、志望校に行けないことが、人生を決定的にスポイルしてしまう、などとは誰にも言えません。人の一生というのは、そこまで“ちゃち”であるはずがないですから。
だから恐れずに試験に臨んでほしいです。もちろんその恐れを知らぬ軽さを身につけるためには、そこまでの過程においてやり切ったという、少なくとも自分自身への確証が必要だと思います。
そして最後の最後は独りで戦い切ること。腹を括った瞬間、気持ちは不思議と軽くなります。そしてそういう瞬間を経るとき、子どもの顔がまた少し大人びてくるのだと思います。
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manabiya-kuebiko · 6 years ago
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大人のくえびこ、���尾紗穂さんのライブのこと、など
何かきっかけがないと書けない、怠け者の僕がポツポツと更新しているブログです。塾や勉強のことに限らず、雑感やたわごとを頻繁に綴っているので、塾のプロモーションにはなりませんが、それでも自分が持つ唯一の文章のプラットホームですので、もう少し一生懸命に、たくさんのことを書いていけたらな、と思います。
さて、“きっかけ”がありましたので、更新いたします。 去る9月29日、不定期で開催している勉強会「大人のくえびこ」の第7回目が終了しました。今回のテーマは「私たちが対話可能であるために」。昨今のヘイトなどの差別的、非論理的(デタラメ)な言説の台頭について、ネット・SNSなどと絡めて、みなさんとお話ししました。
14名の参加者が、それぞれに思うところを語り合い、頷きあい、また新たな論題を提示していきながら、2時間はあっという間に過ぎていきます。話をしながら、聞きながら、また新たな考えを巡らせるので、終わる頃には頭に言いようのない疲労が残ります。しかしそれは爽やかな疲れであり、会終了後、ボーッとしながら、なされた話のあれやこれやを検討し直すのが、いつもの僕の楽しみなのです。
今回思ったのは、ある人が意見を言い、その意見を受けて誰かが意見をし、それについてまた賛成なり反対の意見が出…というように、意見が紡がれて一つの流れのようになることの面白さ、ダイナミズムがあるということでした。参加者のみなさん誰もが、人の意見に耳を傾ける、それを尊重するということが自然にできる方達なので、こういった場ができたのだと感謝しています。この声の連なりの中で、深く納得する瞬間もあり、ほおと唸る瞬間もあり、んん?とこちらの考えが触発される瞬間もあり、どこからか、この時間に身をまかせることが心地よくなってくるのです。知的であることを諦めない、というみなさんの態度が、僕にそのように感じさせたのでしょう。
さて、その夜は寺尾紗穂さんのライブに足を運びました。寺尾さんは東京で活動されている歌手で、美しい声とピアノを聴かせてくれる人です。
僕が寺尾さんを知ったのは、カナダのトロントに住んでいる頃でした。異国の地での厳しい冬を迎えようという頃、英語での生活のうまくいかなさと、自分の不甲斐なさなどで、気持ちが灰色に染まりかけていた頃に、ネット上で「楕円の夢」という曲のPVを見たのです。映像の始まりから終わりまで、食い入るように見つめ、そこに、自分によく馴染みのある「さみしさ」をみとめました。うわぁ、と思い、すぐに歌手の名前を調べ、聴けるだけの曲を探して聴きました。
そんな人のライブということで、楽しみにして出かけたら、それは予想以上の素晴らしい歌と演奏でした。寺尾さんという人がピアノの前に座り歌い出すと、その場がすぐさまその歌を受容する真空の器になったように、どこまでも音が会場に響きます。そして歌っているその居様がもう、なんというか黒いドレスで、スッとして、有難い存在のように見えるのです。僕はダンボの耳で、寺尾さんとバンドの演奏を聴き尽くそうとしました。しかし同時に、聴こえるものの向こう側に、今夜の音があると思いました。
最後に、僕は寺尾さんの声と言葉に耳を澄ましながら、誠実であることについて考えていました。この数日前に、俳優の池松壮亮さんのインタビュー記事を、あるwebサイトで読んだ時も感じたのですが、言葉がその人の中を何千時間と巡って、ようやくここに出てくる、そんな言葉を語れるのは一体どういうことだろう。
何かに対して、全思考を傾けて、ある一定の沈黙を経ないと、そういう言葉を身につけることはできないような気がします。そしてそれは、勉強した言葉ではなくて、体に刻み込んだ何かから発する言葉です。例えばハタチの頃の、自分がここにいるというだけのことにすら、果てしない疑問を抱き、考え込んでいた自分から翻っても、今の僕は、確信を込めた何かを言えるほど、思考を深みに至らせることは全くできてないな、といたく反省しました。
知的に生きたい、と思う心に多くのヒントが舞い込んだ秋の週末でした。
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