Tumgik
mhysd-note · 1 year
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忘れないうちに覚書
「君たちはどう生きるか」を見てきた。 何かのファンを自認することは普段滅多にないけれど、10年ぶりに宮崎作品を劇場で見て、この体験に変わるものってちょっと無いなと思った。これから新たな宮崎作品が見られないなんてどうしたらいいんだろうと。 ちょうど思春期のただ中に千と千尋やハウルを見てしまい、まったく迷うことなくモノ作りの道を選んだ。その時点で完全にやられてしまってたな。 そして「君たちは」は大人になった今見て本当に良かったので(序盤のホラー描写が以前は無理だったと思う)、結果この時代に生まれてきて大正解だったと言える。 劇場で宮崎作品を見たあと、いつも映画館を出たところで放心し心がゼロに戻される感じがした。今回の映画もそうだし、わかりやすい「泣ける」シーンの無い作品も、見た後謎の涙がぼろぼろこぼれた。 頭で認識したストーリーとは別の何かが水面下で動いていて、知らぬ間に心の重石だったものが決壊する。 自分もそんなふうに地下水脈に繋がるような作品が作りたいと、昔歯がゆく思っていた感情までも思い出してしまった。
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mhysd-note · 1 year
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山の上の聖地
梅雨の合間の晴れの日、急に思い立って山の上の植物園に行った。 六甲山系の山の上には2つの植物園がある。市立の森林植物園と私営の高山植物園だ。バスとケーブルを乗り継ぎ、花が見頃の高山植物園に行くことにする。 三ノ宮の駅からだいぶ時間がかかったが、入り口の門をくぐった途端奥まで美しい緑に覆われた池と庭園が目に入って立ち尽くした。 6月はちょうど希少な植物が開花時期を迎えるのでそれを楽しみに来たのだが、周辺を覆う木々も道端の雑草も、その辺りにはない外国の種や樹齢を経て目一杯梢をのばす大木など、どこもかしこも目を奪う風景ばかりだ。 関西では京都府立植物園や大阪公立大学付属の森林植物園の広大な敷地を見てきたが、それらに負けず劣らず豊かな森だった。
さっそくヒマラヤの青いケシやコマクサを写真におさめ、初めて見るエーデルワイスの花の意外な肉感を観察し、あとはひたすら一足ごとにシャッターを切りまくる。 園の一番奥まで来ると出口の直ぐ側にカフェがあり、一旦園外に出てケーキを食べて一服した。カフェでは森に突き出したテラスで緑に囲まれて食事ができた。
カフェのWifiで近隣のマップを調べていると、覚えのないピンが直ぐ側に保存されている。そこはある神社だった。たしか、秋に見たアートイベントの展示で知った神社で、六甲の山の名の謂れになった史跡を、県外のアーティストがリサーチ過程で取り上げていたのだ。 往復で30分もかからない場所にあったので、これもなにかの縁かもしれぬと神社を探しに歩き出した。 神社はたしかに近い場所にあったが、途中からアスファルトの道を外れて完全な登山道になった。獣道のような細さだ。 道が途中で分からなくなり、滑りやすい花崗岩の上を谷間に向けておそるおそる降りていった。 道々、いくつか立派な巨石が鎮座している。雰囲気は完全に縄文の遺跡で、そばに酒瓶が供えてあるところを見ると今も大切に祭られているらしい。 じぐざぐの獣道を降りていく途中に意味ありげな丸石がある。ちょっと「千と千尋の神隠し」の導入部っぽい。 獣道は下り続け絶壁をはしごで降りるようなルートに変貌し、崖に張り付く小屋のような祠にたどり着いた。そこには5人ほどの参拝者が来ていた。 祠は扉が開いていて、中は昔民俗学の本を読み漁っていた頃、白黒の写真で見た東北のシャーマニスティックな土着信仰の神棚に似ていた。 先に来ていた人々は祠の中で物々しい雰囲気で手を合わせている。 祠の後ろ、岩が迫り来ている隙間から人が出てくる。祠は拝殿で、本殿はこの後ろらしい。(岩か山が御神体なのだろう。) 裏に回ってみると、岩の隙間に小さい祠があり、なんだか魔術の跡のような御札や盛塩が置かれている。ここでも一心不乱に祈っている人がいる。 私も手を合わせ、「気軽に来てしまってすみません。世界が平和になりますように。」とだけ祈ってお賽銭もあげずに来た道を戻った。
後々マップの口コミを見ると、一様に興奮した語り口で、祠の周辺のエネルギーが良いと賛美のコメントが並んでいた。(どうも今界隈では、「神話では隠されていた女神」とそれを伝える古史古伝が大人気らしい。 この祠はおそらく縄文時代くらいまで遡るので、元々の祭祀の対象は分からないが、今はその女神様の総本山とされているのだ。) 足元が極端に悪い、すぐにも崩落しそうな斜面の祠が、いつからこんなに人を呼び寄せるようになったのだろう。
隠された歴史や神々の物語はロマンがあって、大概わたしも嫌いじゃない。 でもどうも、似たような言葉選びで神社や女神の素晴らしさを語るコメントの数々を見ていると、「人の語ったファンタジーを消費していて楽しいのかなあ」と塩っ辛い感想が浮かんでくる。 何千年何万年とそこに根ざす神様がいるなら、自分もひとり地に溶けいるようにその場所と対峙して、自分のもっとも奥から出てくる言葉や形を捉えてみればよいものを。と思ってしまう。 自分の感覚から自分の神話を紡ぐことに意味があるのだと。
植物園に戻ると、急にカメラのレンズの焦点が合わなくなった。完全な故障である。マクロモードの切替をしすぎたのか、半信半疑で参拝した報いか。わたしも多分この日、あまりの写真映えに興奮しすぎ、その時その場所にただ溶けていることを怠ったのだろう。と思うことにした。あとはのんびりコアジサイやブナの樹を眺めて山を降りた。 あれから数日たったが、体と心がすこぶる元気だ。たしかにあの場所は「エネルギーが良かった」ようだった。
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mhysd-note · 1 year
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小豆島の地表
小豆島へ行ってきた。数日前、天気予報を見ていて当日大雨だったので、これでは山に登れまいと宿をキャンセルしていた。休みの前日になってみると、1日目だけ晴れの予報に変わっていたので、弾丸日帰りで行ってみることにした。
小豆島は小さいのに800mの山(星ヶ城山)があり、寒霞渓周辺だけではなくハイキングスポットがたくさんあったり、雰囲気ある祠や景観が点在する。散策好きにはたまらない島だ。車無しの日帰りではさすがに山頂へ登って帰っては来られないけれど、絵の材料になる写真は撮れよう。
当日、電車のダイヤがみだれてあやうくフェリーを逃すところだったが、無事乗船して島へ渡った。春休みなので、学生さんの団体で船の中は賑々しい。途中スマホの電波が途絶えたので、図書館で借りて積読していた本「極北へ」(石川直樹著)を読み出す。スヴァールバルの陰鬱な冬の港町の様子を読んでいたらいつの間にか福田港へ到着した。
港発のバスに乗り、山地をぐるっと回り込んで役場などがある市街地につく。ここから見上げる山はだいぶ圧迫感がある。普段よく見ている六甲山系(もけっこう的急に海からせり上がっているけど)よりもさらに急角度でそそり立っている。まだ春のはじめだからか、乾いて固く引き締まった雰囲気の山々だ。海辺のカフェでホットドックを食べ一服したあと、海岸線にそって岬のつけ根にある低山へ向かう。
道々、農地や民家を通りすぎると露地がたくさんあり、庭木に花が咲き誇っていたり大きな犬が寝そべっていたり。八朔のあかるいオレンジと海風が、地元の浜名湖のそばの山を歩いたときに似た、ゆったりした空気を醸していた。
山道にさしかかると、周りの森はほとんどウバメガシのようだ。乾いて密度の高い森がずっとつづいている。途中石垣や山桜を見物し、もうこれ以上行っても植生は変わらないだろう、と思ったところでUターンした。バスの時間だ。
土庄港に着いてみると周りをぶらぶらする時間はあまりなかった。最終のフェリーは夕方早々に出てしまうのだ。瀬戸内の島にある小さいけれど趣のある神社が好きで、いくつかチェックしていたがまた今度来ることにして、残った時間でお土産を選んだ(醤油のアソートセットを買った)。
帰りのフェリーは西へ向けて出港した。まだ明るい時間で、島影が遠ざかるのを甲板にあったブランコを思いきり漕ぎながら眺めた。
追記:
帰ってから、地形の由来が気になり「小豆島 地質」で調べると地質図がわんさか出てきた。様々な火山岩で構築された特徴的な島、ということもあるが、数十年前に大規模な土砂災害があり、防災研究の必要性から調査されてきたようだ。私がのんびりホットドックを食べながらウィンドサーファーをながめていたあたりは土砂がせまってきた場所だった。
オリーブの街路樹が印象にのこって、植生図を調べだすと今度は全国版の植生マップを見つけた。これは森の写真を撮りに行くときにとっても役立ちそうだ。やわらかな緑の濃淡がどこまでも奥につづくブナ林なんか、次は探しに行きたいと思う。
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mhysd-note · 2 years
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曽根の山と鹿嶋神社へ行った話
前回雨のためあきらめた尾根歩きのリベンジで、また曽根へやってきた。今回は傾斜の少ないルートからすぐ150mほど登りきって尾根道に出る。岩の少ない道を選んだが、ほとんど硬い火山岩でできた山らしく、丈の低い灌木が道の両側にほそぼそ生えているくらいで緑は少ない。ずっと眼下に平地の町が見える、見通しのよい山だ。ちいさなアップダウンをくりかえし、そろそろ降りようとマップを見ると神社の境内を抜けていく下山ルートがある。
道を下っていくとどこからかカンカン金属のぶつかる音がする。降りはじめてすぐ植生が変わり、しっとりした重い緑の森になった。地面もいつの間にか岩ではなく土になっている。
(あとでシームレス地質図で調べたところ、この辺りの山の主原料は流紋岩という溶岩で、硬くて崩れにくい。でも裾の方は川が運んできた土砂が段丘を作っているので、水が染みやすく植物が生えやすいということのようだ。辺り一帯水だったのだ)
そのうち木々の向こう側に屋根の破風が見え、山の中の末社をいくつか通り過ぎ赤い鳥居を反対側からぬけると境内に出た。
とても大きいお社の立派な神社で、たくさん参拝の人がいる。今回もまた、知らず知らずに由緒のある神社に辿り着いたらしい。
拝殿の奥にはたくさんの千羽鶴、賽銭箱の上にはいくつも吊るされた鈴。金属のぶつかる音はこの鈴の音と、献灯用のろうそく立てについたロウを落とすためにおじいさんがごりごり金物をすり合わす音だった。
お参りをし、真っ白い狛犬の写真を記念に撮って、ぶらぶら参道を逆流して外に出ると、たくさんのかしわもち屋の旗がある。今も門前町があるのだった。さっそく1軒目の店で餅を買い、江戸時代の旅人らしく軒下でほおばる。砂糖が控えめで蓬の草っぽい匂いがしておいしい。
門前町を端まで歩くと巨大なシルバーの鳥居が町を見下ろしていた。チタンで造られているそうだ。その立派さに感心して田圃だらけの道を駅に向かって歩き出す。すぐ次に登る山について考えはじめる。
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mhysd-note · 2 years
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生石神社に行った話
 曽根の登山口は地図の上で見ると駅のほんの目と鼻の先にあった。ゆるい山裾の道を想像していた。ところがくねくねした住宅街の道をぬけてそこに立つと、突然火山岩の絶壁がそそりたっていた。
落ち葉が雨にぬれて岩をおおっている。登山アプリの記録開始ボタンを押してしまって、なんとなく後戻りしがたく(よくない見栄だ) つるつるすべる斜面をはいつくばって登っていった。 天気予報はくもりだったが岩の上に届く前に雨がパラパラ降り出した。見上げると狭い足場をつたって傘を差しながらゆうゆうと登っている人がいる。もしカツラクでもしたときのために人の目の届くうちに安全なところまで行こうと、なんとか岩のてっぺんにはい上がった。 下を見るともうその道から下山するのはむずかしいのは自明だった。地図を見て、等高線のゆるい下り道をさがす。道中古墳の穴がぱっくり口をあけている。古墳は眺めのよい丘陵につくられる。晴れてたら日当たりのいい丘なのだ。そこからうねった道が下っていて無事下界へ降りたった。次に来るときは晴れの日にこの道を使って尾根の先まで行こう。 地図ではこのまま田園地帯をあるいて宝殿の山へいくコースがある。宝殿の名前で、以前にKさんに教えられた不思議な石を祀る神社が近くにあるのを思い出した。せっかくなのでそこまで歩いていくことにする。 平地にポコポコと山塊が突き立っている。遠目に存在感のある岩山が見える。加古川、高砂の地域は海側にも山が見えて不思議な地形だ。西国��道にそってのんびり行くと、山の斜面にりっぱな門が架かっていた。櫓のような入り口だ。
急な階段を登り、生石神社の社殿の前にでた。生石と書いてオウシと読む。駅から少しはなれているのに思ったより人がたくさんいて、有名な神社であることを知った。その不思議な石は、社殿の奥に鎮座している。戸建ての家ほどもある四角い石。浮石と呼ばれ、接地面がえぐられ見えなくなっていて、まわりは水が溜まっている。
その昔神様たちが神殿を建てる予定が、アクシデントで横倒しになってしまい、そのまま今に至ると由緒書には書かれている。
ぐるっと一周して見れば見るほど、古代の自然崇拝のイメージとはなれた幾何学的な形状をしている。それが山腹のくぼみにすっぽり抱えられて、祀られているのだった。あまりに意味あり気で、思わずSNSに「古代の宇宙船みたいだ」と投稿した。今も半ば本気で思っている。
そこから高砂の住宅街へ下り、GoogleMapにピンされていた「てらもとおやつ店」を探す。ふつうの民家の庭先に、トゥクトゥクがあるのが目に入る(東南アジアでタクシーに使われる屋根付き三輪バイク)。人一人乗るくらいの幅の小型車だ。わたしは完全なペーパードライバーなので、自分で運転してどこでも行く人に憧れがあるが、これなら運転もたのしそう!と思ってじろじろ眺めていたら、そこがおやつの店だった。ゆずのジャムがたっぷり入った米粉のマフィンとコーヒーを頼む。しばらくぶりに座って足を休ませる。マフィンは、今まで食べた米粉菓子の中で指折りのおいしさだった。
満足して、宝殿の駅まで歩いて帰路につく。ポコポコ波打つ丘を見て、また次に来たとき、もっとこの岩山のつらなりとお近づきになりたいなと思いつつ。
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mhysd-note · 2 years
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からだの中の森
 心象風景かと聞かれて、はいそうですと答えられなかった。
でも紛れもなくそれは心的エネルギーの流れた河川跡みたいな形をしている。 意識の底で心が液体とか粒子になって霧散している。宙に自由に同化したり、漂ったりする動きについて、語りたい、と心がのたまう。 一見暗く真空のような、天地もない寂しい宙に、心の滴によって光は点滅し、飛び散り、軌跡を残す。洞窟の中の灯りに浮きあがる絵画。目をぎゅっとつむった時に点々と見える光の形。 そんな暗闇、満ちる空間にわたしの心は跳ね回って駆けめぐる。 動くもの、流れるもの、光るなにか、意識を持つもの、息するもの、「わたし以外」のうごめきが、空間全部に満ちている。 その空間がまた、「わたし」になって、心の輪郭が解けだす。 ひとつひとつの光が、寄り集まって森になる。
# murmur #イメージについて
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