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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどきR指定編3〉
【ハイパーセンシティブ。直接的な表現が多い。】
・東京に移って暫くしてソープで働くようになった。住所が不定でまともな仕事には就けない状態だったからだ。何の抵抗もなかった。むしろ向こうが動いて出してハイおしまいなんだから楽だなあくらいに思ってた。売り出し方はいままでの風俗でのプロフィールとほぼ変わらず。特徴的な部分についての記述と「大人しくて良い子です」的なも��。
・初めての客がどうだったかも別に覚えてない。
・ただセックスするだけの仕事といえばそれまでだった。男の身体を洗って風呂に入れて舐めて演技して挿入して話をしておしまい。非常に失礼な話かもしれないが、ソープの仕事は職場体験で伺った老人ホームの入浴介助によく似ていた。なぜなら、男たちは言われなければ何も動けないグズだったからだ。
・自分はソープの客たちにイライラするようになった。何だかんだ自分は毎日知らない男にベタベタ触られることよりも「指示を聞かない」「能動的ではない」「コミュニケーションがまともに取れない」みたいなところにストレスを感じていた。ただこれはソープだからという話ではなく、遊園地の案内係でもカスタマーセンターでの受電業務でも同じことを思っていた。風俗業はやたらと「楽な仕事だよね〜www」だとか「知らない人とセックスするなんて…」だとか、何かと異端な職業だと思われがちだけれど、人に身体を貸すことに何の抵抗もない身としては考えることも身のこなし方も「普通の仕事」だった。
・騎乗位が苦手だった。「何でてめーのために動かないかんのや」という苛立ちを一番煽られる体位だったからだ。しかも騎乗位をさせる客は大抵他の部分でも面倒臭いと相場は決まっていた。
・妖怪チクビナメテ……な客も嫌いだった。大抵「おめー!その体勢で乳首舐めろってか!骨折れるが!?」ということになるからだった。客の多くは人体構造を上手く理解していない。客はもしかしたら人間じゃないのかもしれない。
・この時に煙草を本格的に吸い始めた。暇があれば基本吸っていて、一晩で一箱を消費するようなヘビースモーカーだった。銘柄はラッキーストライク・チルベリー・8mg。タールがしっかりしたメンソールが好きだった。
・客が何をすれば自分を好きになってくれるのか、はよく理解していた。けれどいつしか、それを行使するのが面倒臭くなるようになった。RPGで言うところのMPが削られていくような感じがしたからだ。どちらかというとポケモンのすてみタックルに近いかもしれない。使えば上手くいくけれど、自分に返ってくるダメージも甚大だった。
・仕事中は喘ぎ声を出しながらずっと考え事をしていた。容姿のこと、ひとびとがより生きやすくなるためのこと、政治のこと、自分自身のこれからのこと、よく分からないけどとにかく色々なことを考えていた。
・自分は��付きオナホールのようなものだなと思うようになった。自分が何を考えていても客にはどうでも良くて、ただ首から下を良いように使われるだけの仕事。たまに、身体を揺すぶられながら涙が出た。自分の人生、これまでも今もどうしようもねえなという思いだった、多分。
・目をよく褒められた。可愛い目だねと言われた。だけど目は整形しているから「自分のありのままを褒めてもらえることはないな」と思った。風俗客に何を求めているんだという話だけれどここでもまた虚しかった。自分に自信を持ちたくてメスを入れたのに、褒められたら褒められたでこれなのだからめんどくせえ奴だな、とまた自己嫌悪が花開いた。
・仕事で何度も何度も風呂に入るからプライベートでシャワーを浴びるのが面倒に感じるようになった。
・働いていて他にも思うところはいっぱいあったけど大抵忘れた。ただソープで継続的に働いて「人に性欲を向けること」「容姿に惹かれること」について真剣に考えるようになった。人と性愛は切り離せないと思っているからこそ、生きる上でそれをどう行使するか、先入観に囚われず慎重になるべきだと感じた。
・一月になって全く出勤出来なくなった。年末年始の休みを過ごすうちに、仕事から遠ざかるうちに、働く気が失せてしまった。あなたのことを考えると、どうしても働きたくなかった。今までそういう部分だって割とどうでも良かったのに、初めて「好きな人が居るのにあんなところに行きたくない」と思うようになった。そうして逃げるようにソープを辞めて、煙草も辞めて、ちゃんと生きる決意をして、今に至る。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどきR指定編2〉
【内容的にはR指定でもないしセンシティブ度もかなり低いけど業種的に一応。】
・前置きとして私は大四を迎える前に家を出た。大三の春、三月二十何日かに羽田から那覇に行き、そして鹿児島の離島へ出た。沖永良部島という知らない島だった。そこのスナックで働くことになっていた。那覇のホテルに着いた夜、流石にしんどくて泣いた。買ったお酒は飲めずに置いていった。
・家を出るまで追い詰められた(?)のは特に決定的な何かがあったわけではないけど、ただ十数年静かに回り続けた毒が致死量を超えたという感じだった。多分ここで書くべきことは沢山あるのだろうけど話が逸れるのでここでは省く。
・スナックの男性オーナーは優しかった。同じ寮に住む同僚の女の子たちも優しかった。女の子はみんな訳ありという感じで「あたしも家から出てきたんよ〜!同じやな!」と肩を叩いてくれた歳上のお姉さんに一番懐いてた。生まれて初めて自分だけのものを買いにスーパーへ行って、自炊をして、自分のためだけに生きているという感覚が心地良かった。初めこそ自分のやったことが正しいか分からなくて泣いたけど、すぐにケロッとして島での生活を楽しみ始めた。
・��だ仕事は一番キツかった。毎日キツかったわけじゃない。基本は常連のお客さんにお酒を出しながらゆっくりお話をするだけ。話し下手の自分に丁寧に話をしてくれる常連さんが多くて、そこもまた有難かった。常連さんたちのことは、男性、だとか客、としてではなくてその人そのものとして覚えた。キツかったのはたまに来るその他大勢。離島という閉鎖的な環境が生んだのか、鹿児島という土地そのものに流れる保守的な空気なのか、場所に限らずスナックに来る男の特徴なのか、価値観は圧倒的に前時代的で「男の方が上!」を丸出しにして来た。仕方がないことだけれどやっぱりここでも他の子より性的な言葉をたくさんたくさん浴びせられて気が滅入った。それでも面白く返さなきゃいけない、というのが面倒だった。
・この時から自分の身体に対する嫌悪感が激しくなった。性的な言葉を浴びせられる所以は分かっていた。憎かった。所謂大人しそうな顔、をしているから余計になめられてあれこれ好き勝手に言われることが憎かった。いつか島を燃やして島の男を全員殺してやろうとさえ思った。
・これはただの考察だけれど離島の男たちがあんなにも性に貪欲でたかだかスナックで当たり前のように下衆なセクハラを吹っかけてくるのは、離島にはスナック以外の場所がないからだと思う。本土、特に自分が居た関東にはキャバクラも風俗もたくさんあったから、自分の欲望に合わせて��ぶことが出来たけど、離島にはそれがない。風俗で一発抜いてもらうのにも船で渡らなくてはいけない。だからこうなってしまったんだと思った。少し哀れみを覚えた。
・八時から仕事をして、アフター等の用事がなければ1時に終わる仕事。帰ってきて見るのはNHKと島のケーブルテレビ。窓も無い部屋で真っ暗な中でひたすら流してた。窓もないから流してた。目覚めた時に見るテレビが日差しの代わりだった。島のケーブルテレビはひたすら公民館の利用方法だとか教員の異動表だとかそういうのが流れてて、それはそれで面白かった。
・ただどうしても客に耐えられなくて、予定より早く島を出た。毎日毎日からだを通してこころを傷つけられていく感覚があった。風俗は何であれ自分に会いたくて選んで来てくれるけどスナックでの接客はそうじゃないし、辛いことから逃げたかったのに毎日容姿をあれこれ言われて気が狂いそうだった。
・とにかくそういうことで、島を出て東京でホテル暮らしをするようになった。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどきR指定編1〉
【センシティブてんこもりと言ってしまえばそうなので読まなくてもいい。】
・確か第二の三月頃、人生で初めてピンサロを始めた。コールセンターを辞めたことを母親に言っていなくて、お金がないと怪しまれるので始めた。ただそれだけで、特に抵抗はなかった。
・そもそも初めて性的な行為をしたのは高二の秋とかその辺だったと思う。所謂援助交際。本番行為はせずに名前も知らないおじさんのちんこを舐めて出されたものを飲んで金をもらった。それを二回した。この時も別にお金がなくて困ってたとかじゃなくて、ただ何となくした。初めてのキスもフェラも飲んだ精液も知らないおじさんだった。今思うと一種の自傷行為だったかもしれない。この時は「最低限清潔だったら誰とでもセックスできるなあ」と思ってた。
・三回目の援助交際は、当時好きだった先生の初めての補講だったから行かなかった。そういうところでまた、勝手に救われた気になってた。
・ピンサロはそんなに出勤しなかった。自分の嘔吐反射が結構強くて舐めることが苦手だということに回数を重ねて気づいたから、あまり出勤しなかった。出勤祝いの10万円を分割で受け取りきったあとはもう出勤しなかった。
・ピンサロの店内では真っ暗な室内でずっと90年代くらいのJPOPが大音量で流れてて、ブースでそれを聴きながら携帯をいじって客が来るのを待ってた。黒夢の『ピストル』、カッコイイ曲だなとかそんなことを考えてた。
・確か大三の秋頃に、今度はホテヘルを始めた。この時はお金はないけどコンスタントに働きたくもなかったから始めた。ちまちまするのが面倒臭くてその日の三人目の客くらいで本番を許して初めて男性のそれを迎え入れた。別に言ってるほど痛くもなかった。バックとは別にお金がもらえてすぐ終わるならこれで良いじゃんくらいの気持ちだった。
・この時は先生のこともあって既に男性に対する嫌悪は爆発させてたけど、だからこそ、恋愛対象になるような相手じゃないからこそ割り切って仕事が出来た。ただ流れてくるゴミを教わったマニュアル通りに捨てるだけ。そういう感覚だった。
・ピンサロの時もホテヘルの時もそうだったけど、仕事が終わったあと街を歩く男性が全員客に見えた。帰りの電車で漂う柔軟剤の香りが、客の着ていた服を思い出させた。口の中には精液の味がこびりついていた。
・ホテヘル初出勤後は首じゅうに蕁麻疹が出て、目が腫れた。多分ストレスだった。無意識に感じていたんだと思う。
・ホテヘルでの記憶も特にない。人生初のラブホテルも当然ながらこの仕事をしてからだった。暗い部屋、シャワー、ローション、お金。それしか書けることがない。めちゃくちゃしんどかったとも思ってない。ただ「あんまりしんどくないな」という事実が、自分に人としての何かが欠けているような気にさせてそこだけが哀しかった。
・多分大三の冬頃に、今度はセクキャバを始めた。ホテヘルはいちいち脱いだり移動したりが面倒臭かったからやめた。ただセクキャバの方が面倒臭かった。話を盛り上げてその上でエロいことまでしなきゃいけないというのが割に合わないなと感じた。他の子は割と話も出来たのに自分はよく分からないうちにすぐ客にキスをされて身体を触られて「めんどくさいなあ」という気持ちでいっぱいだった。
・どちらかと言えばセクキャバの店内はピンサロに似ていてここでも懐かしのJPOPみたいなのが流れてた。普段は何ともなかったのに、大塚愛さんの『黒毛和牛上塩タン焼680円』が流れたときだけは自分のやってることが情けなくて泣けてきた。
・店での記憶はあんまりない。風俗と違って待機中も給料が発生するのがありがたくてしばらくそこにいた。
・容姿に自信のない自分が何故本格的に風俗に踏み込んだのかは分からないけどやっぱりこれも自傷行為の一環なのだとは思う。こうして書いていてもあまりにも記憶が曖昧な辺り、自分が気持ち悪い。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき5〉
・そう言えば、自分は大学に行きたくなかった。そもそも金銭的に国公立か夜間の二択だったし、どうせ良い人生を歩む気がしていなかったからさっさと就職するか手に職をつけるために専門学校に行きたかった。でも学校も親もそんな選択肢は許してくれなくて、仕方なく受験勉強をしていた。ゾーンに入ってしまえば勉強は楽しかったけど、受験するにあたってどうしても人と関わる機会が増えたのが嫌だった。成績を気にしながら、期待されながら机に向かうことが嫌だった。ひとりにして欲しかった。もっと頭が悪いふりをして、大学に行けないような空気を作ってしまえば良かった、と小一の自分を憎んだ。
・まあとりあえず、夜間大学での学校生活が始まった。昼間は遊園地でアルバイト、夕方から大学に行くという生活だった。自分は憲法が好きだった。常に正しく生きたかった自分に法律の授業はよく合っていたけれど、今思うと社会学部に入れば良かったと思ってる。
・学部で友達はひとりも出来なかった。正確に言えばひとり男の子の友達は居たけどその子は割とすぐ辞めてしまったし、もう一人知り合った人も他学部の先輩だったから、友達とは言えなかった。男の子からは授業の合間に性的な言葉を浴びせられて、女の子はただ自分を睨みつけるだけで悲しかった。本当に何もしてないのにこんな風になってしまうことが悲しかった。けどバイトは楽しかったし授業が始まりさえすればそこに集中するだけだったから、何とかなった。
・唯一友達だった男の子は、憲法の授業で「六法見せて」と言ってきたのが初めての関わり合いだった。ゼミもたまたま同じで、初めてのグループ分けで誰とも組めずに机でじっとしていた自分に「何してんの、一緒にやろうよ」と言ってくれたのが、嬉しかった。
・大学生活はただ行って授業を受けて帰るだけで特に何もなかった。通ううちにどんどん男の子という存在そのものが嫌いになって授業後にめそめそ泣くようなことはあったけど、大学そのもので大きなイベントはなかった。
・学食はそんなに美味しくなかったと思う。
・大学生になってメイクをしたり私服になる回数が増えたからか、余計に美醜に対して執着するようになった。鏡がある度顔を覗き込んだし家の中でも毎日30分くらいはインカメラなり鏡を見て自分の顔を研究していた。小学生の頃からずっと不細工だと思って生きてきたけど、眺めれば眺めるほどそれが浮き彫りになって苦しかった。でもやめられなかった。
・確か大二の時、母親と渋谷を歩いている時に「街を歩いて��女の子がみんな可愛いから」という理由で街のど真ん中で泣き出した。本当に悲しくなった。中途半端な付け焼き刃の努力ばっかりで本質を何も変えられない自分も嫌だった。色んなことがとても悲しかった。母親は「何で泣くの?有り得ない」と怒った。そのまま自分を可愛くて綺麗なカフェに連れて行って、かわいいスイーツと飲み物を頼んで自分に食べさせようとした。多分母親なりの慰めだったのかもしれないけど、もう予約してたから行かなきゃいけなかったのかもしれないけど、周りの可愛いものたちがしんどくて泣き出したのにこんなところに連れてこられたのがもっとしんどくて、いい歳して泣いてるのが気持ち悪いのはわかるけど慰めるどころか怒るばかりの母親が怖くて辛くて、何で泣きながらここに来たんだろうって店員さんの目も苦しくて、でも食べ物を残すのも嫌で、食べなきゃ許してくれなさそうな母親の目もあって、全然味のしないスイーツを食べた。
・それから、要約すれば自分が不細工だという内容の夢をたくさん見るようになって、起きて急に泣き出すという赤ん坊みたいな状態になった。可愛い女の子、というものに対するアレルギー反応が強くなって、それ以降女性アイドルを推す、ということが一切出来なくなった。
・今でも、美醜に対する認識は変わってない。過去のことで唯一切り抜けられてないことかもしれない。どうにかしたいけど、もう生まれてからずっと悩み続けてるようなことだし多分しばらくはどうにかならない。自分が変わらなきゃいけないことはよく分かってるんだけど、どうしてもうまくいかない。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき番外編〉
【高三から大学生にかけての恋の話が多いので別に読まなくてもいい。そもそも全部読む必要ないけどこの回は恋人に聞かせるべきなのか分からないので…。でも人生の大きなイベントだったから書かずにはいられない。スルーしてください】
・注意書きした通り、高三で恋をした。世界史の先生だった。初回の授業で一目惚れした。よく通る声も、分かりやすい話し方も、抗えないカリスマ性も、全部が好きだった。
・世界史なんて今まで大して好きでもなくて船漕ぎまくってたから点数はいつも赤点ギリギリだったのに、高三になってから90点台しか取らなくなった。テスト返却の時に目を見て褒めてくれるのが嬉しくて、頑張った。
・毎日毎日お昼休みの時間には授業の質問をしに行った。受験勉強では使わないような範囲や内容を聞きに行って、その度に先生はちゃんと答えてくれた。一緒にお昼を食べたこともあった。質問の内容を褒められた日には、嬉しくて一日中胸があったかかった。
・必要も無いのに毎週月曜夜の補講にも顔を出した。仲良しの男の子が居たからその子と一緒に席取りを頑張って、目の前で授業を聞いてた。同担の女()と静かに火花を散らしてたけどどう考えても自分のが先生に好かれてたから別に良かった。
・普段の授業ではなかなか当ててもらえなかった。何故か自分だけ飛ばされるときが多かったけど「いやそれ聞くの…?」みたいな難しいタイミングの時にだけ「答えられるよね?」という顔をして急に当ててくるから冷や汗が止まらなかった。
・夏休みには「頑張ってるから」って問題集をくれた。お守りみたいにいつも持ってた。
・何やかんやで大学受験を乗り越えられたのは先生のおかげだった。恋に引っ張られるまま、勉強してた。まあ、第一志望には落ちたんですけど……
・卒業するタイミングで、手紙を渡した。感謝と、出来たら卒業後も交流したいですみたいなことを書いた。夜、LINEが来た。「野球部の子から聞いて追加しました!手紙ありがとう!とりあえずすぐ会いましょう!」。すっごくすっごくびっくりしたのを覚えてる。「世界を知りたいから」って理由で財閥のパーティーに転がり込んだり政治家や社長に会いに行ったりするフットワークの軽さがすきだったけど、まさかそれが自分に向くとは思ってなかった。
・高校を卒業して数週間も経たないうちに、先生と会った。色んな話を聞いた。大一の秋にも会ったし、卒業してからも高校の文化祭に行って先生と話をした。大して会ってもないのに、ずっと好きだった。高校卒業後の好き、は恋愛事の好きというよりは尊敬、という感じだったけど、会いに行く時はいくらでも時間をかけて身なりを整えた。恋の名残がまだあった。
・そんな感じで、先生のことが好きだった。尊敬してた。聡明で生徒思いで、もし自分が教員になるならこんな人になりたいと思ってた。
・でも大三の五月、要約すれば「セックスしたい」みたいなLINEが来て、先生に抱いていた尊敬も信頼も何もかも失った。先生には奥さんも子供も居た。なのにそんな話を持ちかけてきた。先生はそんなことしないと思ってた。先生は男性に対する唯一の希望だった。高三の頃は、可愛く見られたくて。大学に入ってからは、ちゃんとしてると思われたくて自分なりに磨き続けた容姿に対する努力が全部泡になっていくような気がした。元々はバイだったけど、ここでもう男性の性欲、男性の存在そのものが駄目になってしまった。大学で男の子にエロい目でしか見られなくて死にそうだったのを、トドメを刺された。容姿を磨いたところで何にもならないと悟った。自分に自信が欲し��て頑張ってた、好きな人によく思われたくて頑張ってた、全部裏目に出た。気持ち悪い目に遭うばかりならもういいや。とヤケになって髪を金髪にして、フリルも花柄もスカートも手放した。ひとつずつ丁寧に選んで大事にしていたデパコスだらけだったメイクボックスが、どんどんドラッグストアで適当に買ったよく分からないものに変わっていった。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき4〉
・中二、中三のことはあんまり覚えてない。辛かったってことだけ何となく残ってるけど、あんまりにも忘れたかったのか単に脳味噌の容量が足りなかったのか、本当にほとんど記憶にない。書けるほどの詳細さがない。
・でも、放課後友達とゲラゲラ笑いながら話してたら友達が窓ガラスをドスンって叩いたタイミングで窓の遠くで爆発が起きた時は色々ビックリしすぎてよく覚えてる。丁度そのとき工場が爆発したらしい。爆風みたいなのが窓に響いて、友達は「俺そんな強く叩いてないけど…!?!?え!?」ってなってた。
・受験期は、最初は農業高校に行きたいってずっと言ってた。『のうりん』と『銀の匙』を同時に浴びてたのがかなりでかい。けど、第一次産業の重要性みたいなのは前から考えてて携わりたいと純粋に思ってたのもある。ただ親にも先生にもめちゃくちゃ反対された。「大学入る時にまた考えてくれ」って宥められて結局普通科高校に進んだ。志望校を幕総にしたのはそんなに勉強しなくても入れる高校で校舎が綺麗だったし制服が可愛かったから。あと学校説明会で司会してた放送委員の人の声がきれいだったから。
・高校生活そのものは穏やかだったと思う。高一のクラスは超ド陰キャのわたしにも何とか居場所があって、放送委員でたまに表に出る機会があると「頑張ってたじゃん」って言ってくれる子も居た。高二高三のクラスは完全に他のクラスメイトから後ろ指さされるタイプで、クラス全員から苗字にさん付けで呼ばれる二年間だった。
・それなのに高三で文化祭の実行委員をやって実権をかなり握った。多数決のやり直しで意見を変えるだとかそういうムッソリーニとヒトラーも裸足で逃げ出すような独裁を敷いた。今思うとよくもまあやったなという感じ。仕事を淡々とこなすだけだったから、実行委員をしたからってクラスに馴染めたわけではなかった。けど同じ実行委員をやってた子と積極的にクラスの出し物作りに関わってくれた子だけは「こいつ案外普通の奴なんだな」という目で見てくれるようになった気がする。嘘、多分仕事の面で頼ってくれてただけだと思う。
・母親曰く「お高くとまってるように見える」らしい。逆に高一の時まで何とか人間関係うまくやれてた理由を教えて欲しい。
・放送委員会時代(高一)はそれなりに楽しかった。けど高二に上がるタイミングで「ひとつ上の先輩どうしようもないし何か雰囲気悪いからしんどいな」でやめた。放送委員してたときは一通り撮影機材触って毎日発声練習して、好きなことしてるなって感じだった。動画編集の楽しさを知ったのもこのとき。アナウンス班に居た。自分の声が大好きだった。滑舌の甘さとかは嫌いだったけど、ちゃんと気合い入れて使うときの自分の声は大好きだった。
・だから、NHKホールに自分の青春が詰まってる。たった一年、されど一年。普段日の目を浴びない人間たちが死に物狂いで作った番組が、原稿が、声が、しのぎを削るあの場所が愛しくて堪らない。
・蛇足ですが、他校の一緒に練習したりした先輩に今活躍されている若手声優がいます。声を聞く度に顔を見る度にうれしくなる。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき3〉
・中一の時は何故か人望があったので投票制の班長決めに毎回選抜されて最後は「お前は殿堂入りなので今回は参加権なし」と担任から通達されて悔しかった。フルコンボだドンだったのに…
・中一の秋まで吹奏楽部に居た。チューバ吹きだった。けど低音楽器が少ないから一年生でコンクールに出なきゃいけなかったりキレると物を投げるタイプの先輩が居たりして何かと(今はあんまり思い出せないけど)プレッシャーが凄くて、多分そのせいでメンタル拗らせた。その後は文芸部に身を隠すように所属して日々を過ごした。
・そう言えば、自分が見た目に対して酷く執着するようになったのは小三ぐらいの時に『崖の上のポニョ』を歌ってた女の子を指差しながら「この子はこんなに可愛いのに���んたは…」って母親に言われて祖母に笑われたのがきっかけだったと思う。それ以降、母親に新しい服や髪型を「かわいいね」と言われても幼いながらに「親だから可愛く見えるだけ」「芋臭くて情けなくて可愛く見えるだけ」みたいな風にしか思えなくなって、可愛くなりたくて、毎日毎日鏡を眺めてばかりの生活になった。
・閑話休題。話を一旦中学生の頃に戻す。ひとりクラスの女の子にめちゃくちゃ好かれて年中べたべた後ろをくっついて歩くようになられる。あんまり覚えてないけど多分依存されてた。中三の時にはクソデカ感情てんこもりの手紙をもらった。文芸部でも様づけで呼んでくる女の子が居たし、ほかのクラスの女の子に好かれて放課後制服脱がされて胸揉まれた。中学生の時は何か女の子にモテるタイプだったんだと思う、多分。
・メンタルを拗らせてから色々あったのだけは覚えてるけど記憶がズタボロなので掻い摘んで。声が出なくなって合唱コンの練習に参加出来なくなった。気づいた時には太腿を何度もハサミで切りつけてた。精神科に通うようになった。でも毎回毎回母親が診察室に一緒に入ってくるから、まともに何も話せなかった。本当、何も覚えてないな。言葉に出来ない、写真一枚だけみたいな記憶ばっかり。文芸部の顧問のおばちゃん先生に「大丈夫よ、」ってまんまるのおててで摩ってもらった時、何より誰より安堵したのを覚えてる。そんな感じだったから何かと学年の先生からは注視されてたと思う、今思うと。
・母親と、家族と、完全にやりきれないなと思い始めたのも多分この頃。小学生の頃からもやもやと言葉に出来ないまま、感情にすらなれないまま漂ってた違和感が憎しみや苛立ちになって現れた。あ、因みにこの時の家族構成は曾祖父母、祖父母、母親、叔父の七人家族。曾祖母は世話焼きの痴呆で、勝手に部屋のドアを開けたり喚いたり小言が多くて本当に苦手だった。年配の方が苦手になったのは曾祖母が原因だと思う。晩年は完全に痴呆になって手がつけられなくて、最後は入院。曾祖父のが先に死んだんだけど、もう人間じゃない別の生き物みたいな呻き声を上げながら日々死に近づいていくのを見て、医療のあるべき姿は何だろうとずっと考えてた。
・家族は、小さな社会だった。祖父が居ない時には祖母と母が祖父の悪口を言い、母親が居ない時には祖父母が母親の悪口を言い。叔父は引きこもりで殆ど外へ出なかったから、ときどきそれをからかうようなことを祖父が言うのが恐ろしかった。叔父が居ないとき、祖母が叔父の部屋に塩をまいていた時もあった。きっと自分の悪口も言われているんだろうなという感覚が家庭の中ですらあるのが、居心地悪かった。
・なんでこんなほの暗いことばっかり………。英語の授業で発音をめちゃくちゃ褒められた。発音記号とか正しい発音とか全然知らないけど、昔から物真似が好きだったから「英語ネイ��ィブっぽく話す」という中川家礼二的手法で誤魔化してた。
・小六の終わりから好きだったゴールデンボンバーに一番熱があったのは中学の時だったと思う。喜矢武豊のことがめちゃくちゃ好きだった。今でも曲は好き。好き!って言って褒められるバンドじゃなくなっちゃったけど。ガハハ……
・多分中一の時はクラス全員と仲良かったけど結局オタクな男友達とばっかりつるんでて、美術の時間にラノベの話をしながら彫刻刀がじがじしてるのが楽しかった。
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minwanko · 3 years ago
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もう書けるものがないよ!嘘です!
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき2〉
・小学生の時は男の子と仲が良かった。女の子とも遊びはしたけどキラキラした女の子たちとは所詮校外学習だとかのグループ分けの時にはちゃっかり外されるか、格好良い目立つ男の子たちのつなぎにさせられてた。男の子とは放課後にカナヘビ捕まえにいったりキックベースしたり、ポケカしたり、漫画描いたりドッジボールしたり色々だった。小五・小六は図工の時間に男の子と下ネタで笑いながらヘチマの絵を描いてた記憶がある。
・小学校の頃は、テストが100点じゃないと仕事から帰ってきてご飯を食べながら答案を眺める母親に「何��100点じゃないの?」と怒られた。96点でも怒られた。周りの子はその点数なら褒めてもらってたのに自分は怒られて「最初のテストからもっと低い点数取って勉強出来ないことにすればよかった」と思ってた。
・委員会活動があった高学年の2年間は放送委員をしてた。六年の時は委員長だった。お昼の放送で読み聞かせ企画をして、読み方を教頭先生にべた褒めされたのがうれしかった。
・クラブ活動は一年間バトンクラブに居た。けど練習中に後ろに立ってた子が投げたバトンが吹き抜けの天井に届きそうなほど高く飛んだ後で自分の首にぶち当たってそれ以降怖くてバトンが投げられなくなってやめた。当てた子は大して謝らなかったし先輩には「どうしてそんなことで泣くの?」と言われた。いてーんだから泣くだろ、ばーか。
・本当に何でか分からないけど小学生の頃陸上部に入ってて長距離走ってた。運動神経ないのに。なんで?
【以下、恥ずかしくて二件削除】
・小四、小五くらいからなりきりの世界に飛び込んだ。小一から何故かタイピングはめっちゃ出来てたしパソコンをこそこそと触ってたから、ある意味必然だったのかもしれない(?)。二次元の最多使用キャラは銀魂の沖田総悟だと思う。本当にずっとやってた。今でも銀魂のキャラは読んでたところまでならだいたい出来ると思う。
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minwanko · 3 years ago
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〈ガサツな来歴もどき〉
・頭の中にある一番古い記憶は家の中で室内用三輪車を漕いでいる太腿の視界。ミッキーの青い三輪車。育つのが早くて身体と三輪車が合わなくなってきて、動かしづらいなと思っていたのを覚えてる。
・幼稚園の頃ずっと髪の毛をまとめるのにジェルを使われててそれが凄い嫌だった。今思うとよく動く時期にジェルは理にかなってるとも思うんだけど周りの子は誰もつけてなくて嫌だった。あと何か苦手な女の子にジェルのついた髪の毛を「うんこついてるみたい」って言われて、詳しく思い出せないけど嫌な思いしたことも覚えてる。だから余計嫌だった。
・千葉から東京に引っ越すにあたってマリアから仲町に幼稚園が移った。マリアは日本人の担任の先生は一応居るけどメインで色々教えてくれるのはオーストラリア人の先生で、クリスマスだとかハロウィンだとかは盛大に楽し���し毎日帰りがけに海外製のお菓子をくれた。まあ言ってしまえば海外色の強い幼稚園だった、国際と名乗ってるわけだし。で、越した先の仲町幼稚園は仏教系で、クリスマスもハロウィンもなくなってイベント事はお釈迦様の誕生日だけ。毎日正座でお経を聞かされて、子どもながらに生活が180度変わったなと感じた。
・マリア幼稚園に居た影響なのか母親の個人的な趣味だったのか分からないけど、幼稚園の頃トトロと魔女宅は英語でしか観たことがなかったしトトロの『さんぽ』も「あるこ〜🎶あるこ〜🎶」じゃなくて「Hey let's go🎶Hey let's go🎶」だった。メイちゃんの「あ!どんぐり!」みたいなセリフも「acorn!」だった。だから小学生になってから音楽の授業で『さんぽ』を歌おうってなった時、日本語の歌詞を一から覚える羽目になって「なんでこんな帰国子女みたいな……」って思ってた。
・ちなみに幼稚園から小学校に上がる段階で両親が離婚して千葉にある母方の実家に転がり込んだ。何で別れたとかちゃんと教えてくれなかったけど、まだ母方の実家に住むとかそういうの全く分かってないときに母親が隣で緑の紙に何か一生懸命書いてたのだけ視覚的記憶として残ってる。いま思えばそれは離婚届🎶
・小一の時「ぱぱどこ?」って聞いたら思い切りぶん殴られた。小一やぞ、許せよそれくらい。まだ何も分からない幼気な子だったんだぞ。
〈疲れたので一旦終わり220129〉
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