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プラクティス!練習という言葉を英語に訳すと、practiceであり、意味はもちろん、練習、ということになるのだが、第一義には「実践」という言葉が対応するそうだ。「習慣」という意味もある。練習という言葉���対応した言葉が、実践であるとか、習慣であるとか、そのような意味とも対応する、ということは、「練習」という意味と「実践」「習慣」という意味が区別される必要がなかったということになる。それは「練習」という概念を示す練習という言葉がないほど英語文化圏の人は代々練習をしてこなかったのか、それとも「練習」という概念が「実践」「習慣」とそれほど変わらないと思われていたのか、と思うけれど、英語文化圏の歴史とかをよく考えてみると、なんとなく野球とか強い訳で、「練習」に当たる事はしていると思われる、が、「練習」と「実践」が区別されない以上は、練習も実践であって、そこに「これは練習だから」などといった、軽さや重さのヒエラルキーはないように思える。練習という言葉を文字通り行為する人は、もしかしたら機械的な反復をする訳だけれど、その反復が、何かある、これこれやってください、と、目的のために使われてしまい、期待通りの感動を届けるかわりに、消耗してしまうのではなく、その反復そのものが、幸せなものであったら、いいなぁ。 <音楽がメディアに利用されている現実をみつめ、あたらしい技術で抵抗するための手がかりはことばにある。音楽は音をうたがうことからはじまる。ひびきの魅力から身をもぎはなし、音楽をつくる要素のうちの時間的でない部分にたよって流れをたち切り、古典的な時間のドラマのかわりに、不必要な情報をすべてはぎとって、ひとつのことをくりかえし言う技術をまなばなければならない。(高橋悠治)> 僕はボンゴというキューバの太鼓を叩かせてもらっているけれど、肩が痛くなって、ボンゴを叩いたせいなのか、と思い、ああ、楽器なんかして、体を壊すなんて、本末転倒じゃないか、と思ったけれど、そうでもなくて、ボンゴを叩くたびに、体がすっとして、肩も痛くなくなるので、ああ、ボンゴにだって生かされているのか、と。逆にライブハウスなどで音楽を聞いてると、猛烈に痛くなる。不思議だ。じっとして聞いているのがいけないのか。これでは、チャラい系の音楽ならいいけれど、クラシックホールでやる音楽が、聞けないじゃないか!
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morororo-blog · 8 years ago
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向こう
 この場所はスーって風が抜けて、不思議な感覚…。こういう日ならクーラーはいらないし、お腹を出してたら冷えそう。冷たいものばかり食べても、お腹壊しそう。むしろ熱いインスタント味噌汁でもいい、熱々の、しかし物質感のある液体を体の中に入れると、体の中というのは、口から食道、胃、腸、肛門まで管でして、人間の体は脳や心臓以前にあきらかにこの管からできている、その管に液体が通り、温まっていくのがわかる。チューバのような複雑な管楽器が、うまく空気を管の中に通すことと一緒で、管の中は繊細であろう。通り道を作ってあげることがコツだろう。夏は拾い食いのような感覚で野菜を買っては生でかじり、2リットルの麦茶を飲んでは買いしてるけど、夏の日差しの中ではあんまり持たないのでいつも自然とちょっとお腹壊し気味で必然的に去年よりも夏バテといえば夏バテに近いが、年々夏に対する感受性が強くなってきて、私は夏が好きだ。にわかにレコードオタクみたいになって、お金が増えた、給料が増えた、都会に出ることによって、役に立つのか立たないのかよくわからない変な仕事をしていても給料は増えたと思っていても生活はちっとも楽にはならず、部屋はレコードで埋まり、だってレコードの音っていいんだもん、実際回ってるし、そこに針を落としたらそこから実際音がなっているのをアンプリファイしてる仕組みだから、これは鳴ってる、モノが鳴る音だよ!って、ホント、僕は大学生の時は学校終わったら家に帰って山本精一率いる羅針盤かアルノルト・シェーンベルクの浄夜を聞きながらひたすら寝てた、寝すぎて二日経っていた、菓子屋のピーナッツチョコを食べながら寝てたから全然餓死感っていうか、飢餓感はなかったんだけど、さすがに三日目はやばい、三連休ずっと寝てた、ってなってさすがにカレー食べに行こうと外に出ると今まで見たことのないような大雪でホント、浄められていた、あの時とは聞く音源は違うけど、同じのもあるけど、レコードなんで、出会いが大事なので、思わぬものに出会ったりするので、この人がこれ!?なって、全部あの頃とりあえず興味のある、自分の箱みたいなものの情報は網羅している気になっても、びっくりするものがあるっていうのは、やっぱりどの世界にもあるじゃないですか、そういう世界に行きまして、具体的には100円で買ったモダンジャズカルテットのジョン=ルイスの『情景』っていうレコードを買って、大したことないだろう、と思って針を落としてみると、やっぱり素敵なもので、そっから、とりあえずレコードの棚を4箱買ったけどすぐ埋まって金がない。仕事が、今住んでる場所よりも一段と都会にあるのでレコ屋があり、出会う時にはめちゃくちゃ出会うので買っちゃう。グルダのやってるジャズとか、ウェーベルン全集とかね。CDやデータで聞いてた時には、これがあるのは知っていたけど、こんなもの、どうやらめちゃくちゃプレミア付いているみたいだし、どうせだいぶ後々になって聞けるかどうか、っていうその後々に僕たちは差しかかっているみたい。レコードを聞くようになって、音楽自体にまた興味が湧いてきて、よし、昔のものを掘り返してみよう、って思って昔のものは壊れたハードディスクの中に結構入っている、その音楽をイヤホンジャックに繋いで聞こうとすると、イヤホンジャックが壊れていてものすごくショックを受けた。僕は最近取材をするようになって、イヤホンで人の話を聞いてそれを文字起こしをするのが好きで、今日もそれをしようとしたのだけどできなくて、仕方ないから昔戯れに、オーディオインターフェースからUSBに接続して、そのフェースからアンプに繋いで音を出したっけ、それをやってみよう、と思って、ハードオフでクズみたいな一番かっこよくて導線もそれなりに便利な長さだったりする、そういうのを100円で買って聞いてみるとめちゃくちゃ音が良くて、もしかしたらレコードよりも良いかもしれなくて、今はマイルスの『オンザコーナー』を、データで聞き直しています。今聞いてるのはなんとビル・エヴァンスで、レコードでも買ったことがないんだけど、当時美大生だった女の子が、絵しか知らないから音楽は、洒落た音楽はビル・エヴァンスしかなかったんだけど、かろうじてビル・エヴァンスだけは知っていて、とりあえずビル・エヴァンスだけはかけておこうってビル・エヴァンスをかけてくれて丁寧にお茶までいただいた。今日の仕事は120号ぐらいの立派な絵を3枚ぐらい保管庫へ届けるっていう仕事だったんだけど、別に絵心があるわけでもないけれど、美大生に対するなんとなくの憧れはあって、賢い大学のサークルに入って美大生の方の人々とつるみ、借りパクしたキーボードを貸したらパクられたまま東北の方に行ってしまったあの人は今どうしてるんだろう?…去る者は追わず、か。いつのまにか、訳も分からず去っていく人に対しては、去っていくその方法に対する評価なんかをした方がいいんだろうか?『自死という生き方』という本にまとめられた草稿を出して自殺していった須原一秀っていう人がいるらしく、でも概説を読んだだけだけど、どうも、ねえ、そもそも例に出している三島由紀夫も伊丹十三も、伊丹十三は黒沢清の映画で見たことがあって、それはそれでいいといえばいいんだけど、やっぱり僕はそんなにピンと来ないし、概要を知れば知るほど度量の狭さの典型みたいな人のように思えて僕はまだ追っかけていないのだけれど、僕が追いかけてる小島信夫が、彼が死んだときにその知らせを聞いて、「ハタ迷惑な!」って言ったみたいだけど、人はみんな唐突に死ぬとしてもそんな風に周到に死ぬ人は少なくて普通は何かしら事故のようにして死んでいく。空の青みを見続けて、梅雨がどんより立ち込めて雨がにっちもさっちもいかないような状態で布団にうずくまっていて、青臭い話かもしれないけど、カミュの『異邦人』のムルソーは「太陽が眩しかったから」人を殺すこともあるし、今ふと思い出したのは、ゴダールの『気狂いピエロ』のラストシーンで、かなりきれいな海辺で男がダイナマイトを巻きつけて座って���バコの火をつけようとしたら引火してしまって、「ヤバいヤバい」っていってる内に爆発する、とかいう、ズーッと例えが高校生から大学生の背伸びした趣味みたいになっているけど、それはそういうもんで、免許を取り立ての友達が、「俺は今、2時だけど、今から、明日仕事だから自分の町まで帰らなくてはいけない。しかし俺は眠い。俺は一人ではもしかしたら死ぬかもしれない。おまえは明日何もないだろ。今日のことはお前が呼び出したようなところもあるんだから、助手席に乗って一緒についていてくれないか。」まぁ、仕方がない。まぁ、僕も乗ってて気づいたんだけれど、深夜のドライブっていうのは僕は結構好きで、あの独特の高揚感は、自分がどこまでもグングン行くのを夜が受け止めてくれるような気になるからか。僕自身、高速道路に、自分の運転で乗ったことがあって、教習所を抜け出してなんだけど、教官が「これちょっと横にハンドル切ったら、死ぬなぁ」って、今運転してるこの人も同じことを言って、めっちゃ嬉しそうな顔してる。世の中には持ってかれる人と持ってかれない人がいて、持ってかれる人は完全に持ってかれて、意味もなく消えてしまうこともある。気象とかで。やっぱり僕は実存とかエゴとか計画っていうのは嘘で、どちらかというと空間とか他者に親和性の強いであろう風水を信じるようになってきて、それが僕が例えば即興を考える上での今時点での回答に繋がっているところもあるんだけど、例えば、そういう即興のパフォーマンスの中で、ナルシシズムをどう扱うかについてある後輩と会話したことがある…んだけど、ラインの会話だったので消えてしまって、向こうも死んでしまったので、正確なことは何も言えないんだけれど、ナルシシズムを発揮する、ナルシシズムをうまくコントロールしてそれを技術にする、という千葉雅也っぽい話から、それは例えば即興の大御所、灰野敬二さんでも山本精一さんでもいいんですが、何かに没入する、音に没入する、音そのものになる、っていうのは、まず姿勢というか、構えから入って、次第にほんまものというか、シャレにならないところに行ってしまい、でも最終的に自分の身体の中に帰ってくる、というまでが、例えばナルシシズムの技術によって、つまりそれは心の操縦というようなちょっと胡散臭い話にまでなってしまうかもしれないけれど、パフォーマンスをする時にはどうしてもナルシシズム的な没入がないと、それは確かにナルシシズムでも、本物らしい音にはならない、まぁ、本物でなくてもいいんだけど、人間の活動というのは特にそういうものでもないし、でも、何かパフォーマンスをやる時にはそういうことが必要なんじゃないの、っていう話を振った記憶があり、あっちはシュールレアリスムの行為論で一席ぶっていた記憶がある。何を言っていたのかあんまり覚えていないが、パンジャマン・ペレというシュールレアリスムの人の中でも一番徹底してめちゃくちゃで、だからこそ未だに強度の強い、謎の残る、日本だ��俳人の永田耕衣さんに通づるところのある散文書きがいるのだが、ペレもある種憑依によって書いているところもあるんだろうが、この本も手元になくて引用することができない。
 本当はあんまり関係ないっちゃ関係ないのかもしれないが、永田耕衣の俳句を引く。
 老懶や過剰ざくらもひざまづく
 老放尿抛物線の花見かな
 南無初湯即佚老は睾丸祭
 『耕衣造語俳句鈔』では、最初の句は「過剰ざくら」、真ん中の句は「老放尿」、最後の句は「睾丸祭」という、耕衣独自の造語である。老懶はロウランと読み、「年老いて物事をすることがおっくうであること」を意味する。佚老は「世を遁れた老人」というような意味であるが、全体的に、この意味不明さが意味不明なまま妙な説得力を持って、なんか分かってしまうところがペレと共通する気がして、ますます関係のない話をすると、最近AORのようなしっかりとした電気リズム隊の上でフニャフニャしているっていうのがやばいんじゃないか、と思っていて、チェット・ベイカーの『キャンディ』というアルバムはすごくいい。高速道路を高速で走り抜けて、何も起こらないフラットな風で実はものすごく何事かが進行している様は孤独なところがあるが、そういう孤独が僕は大好きで、助手席に乗ることは特に悪い気はしない。そういう時のBGMはもちろんAOR。例えばモダンジャズの、ドルフィーをかけて運転している人の助手席に乗ったことがあるが、小さな車体でめちゃくちゃな速度で運転するものだから、車が浮くかと思った。次に会った時は内田光子のフランツ・リストをかけながら運転していて、それはそれで細い神経に触れる、過激なものだったが、それを貸してくれたそいつの不倫相手に俺はコートを取られ、君の羽織ってるものは僕のコートだから返してくれと言っても聞く耳を持たない。酔ってるんだな。「これはやっぱり、どう考えても…ぼくのコートだわ。しっかり目が覚めれば、分かるだろう。これは僕のコートだからね?今、君は酔ってるから、分かってないのかもしれないけれど、これは僕の、新品のコートで、確実に、僕のコートなんで、君のやっていることは泥棒だからね?こればっかりは、僕のコートなんです。本当に。いいね?」剥ぎ取ったらやっぱすごい顔しだしたけど、そんな顔されても困る。これは僕の、しかも新品のコートで、泥棒されては困る。酔っ払っていようがこれは立派な泥棒で、人のものを着たまま返さないというのは、どんな理由があってもあってはいけない。それは立派な泥棒なのだ。僕も泥棒せずに、ちゃんと正統な手続きを踏んで、レコードを買っている。俺はそれで万年金がなくても、幸せなんだ。泥棒は良くない。でも、今度蚤の市でレコード売ります。さすがに。8月19日(土)、20日(日)は東京の大井競馬場で、待ってます。青い空がどこまでも伸びて、梅雨の時期が嘘みたいに晴れ、今年の梅雨の時期の雨はずっと降り続き、もってかれた人もいれば、もってかれなかった人もいる。そのような危ういバランスで、そもそも僕たちは生きているんだな、とこの頃よく思うし、不安定さの危険さを思うともう手放しで、「不安定さゆえに良い」っていうことも言えないかもしれない。憑依をいくら方法論として構築しても、いつも帰ってこれるとは限らないのだ。橋を渡った先、門の外を踏み出すといつも分からない。
岡田さんは素足に草履をはいて、モンペ姿でどんどん歩いて行き立ち止まると、私どもをあつめて指さした。
「ここに日光橋、月光(がっこう)橋というのがあるでしょう。写真の場所はここです」
 小川が流れ、ささやかな石の橋が二つあった。
「こんな名のついた橋はどこかで見たことがあるでしょう。正月の元旦に天香さんが白装束で笠をかぶり草履をはき杖をついてこの二つの橋を渡られるのを、一同が見送ることになっています。これが終わってから初めて新年となるのです」
「病気になられてからは、中断しているのでしょう」
と婦人記者がきいた。
「そうですね。でもポツポツこの正月には、なされると思います。そのとき、天香さんは、お別れのあいさつをなさり、『それでは皆さん、私はこれから行くから』とおっしゃるのです。すると、われわれは『いってお出でなさいませ』といいます。それで天香さんは杖をついて橋を二つお渡りになります。それから、『皆さん私は帰ってきました』とおっしゃる。そうすると、われわれは、『よくお帰り下さいました』と申すのです」(中略)
「実はさっきの石橋をお渡りになる儀式のことですが。あれはただの儀式というわけではないのです。天香さんは、旅立ちをなされてそのまま行ってしまわれるかもしれないのです。われわれは毎回緊張してそのつもりになっているのですから、そこのところが肝腎なのです。」
「行っておしまいになるというのは、どういうことですか、タトエ話ですか」
「タトエ話?」
「お出かけになってそして、お帰りになるということは、タトエ話だということはよく分かりますが、そのままお戻りにならぬ、ということは、どういうことですか」
「どういうことって? その通りのことです」
と岡田さんはケゲンな顔つきをした。
「よく分かりました」
と私は言った。
(小島信夫「月光」)
 私はその頃、家内が入院していて、誰でも一生に一度か二度経験することを経験しつつあった。それでくどくなるけれども、雑踏の往来を歩きながら、やたらに声をかけたくなるようなことに類する気持をいだいていた。私は一燈園の訪問をモデルにして、こんなふうに小説にすることを思いついた。ここでは、天香さん��当る老齢である上に十分に病気から恢復していない教祖の独白のかたちをとることになっていた。私は彼が、日光、月光の石橋を渡って、ひそかに放浪の旅に出ようとして、杖をついて高速道路を渡るか、あるいはそのあたりのところまでやってくるというふうに書いた。もちろん、これは独白であるから、歩きながら眼にうつるものを口にするのである。彼は、岡田氏が語ったように、彼がほんとに旅に出て野垂死にしたり、もう一度赤子のように泣くことの期待をもっているべきだということを、自分がいい、同志たち、外からの私のような訪問者にも語るということを心得ている。それは元旦の儀式である。それは再生の儀式である。それは昔からある農耕の儀式を取り入れたものであるけれども、彼はある年のくれ、成功した。「新しき村」を出てふいに旅に出る。一燈園の西田天香は、それから五、六年生きられて園内で同志にとりかこまれて大往生をとげた。私は今では、「十字街頭」のようにすべきではなくて、ほんとうの天香さんのようにあるべきではないかと思うようにもなっている。しかし、西田天香のような経歴の人が、自分の口から、「帰ってこないかもしれないよ」とか、「帰ってこないことがあることが建前である」と、この儀式を開始するに当たっていったとしたら、ほんとうに、いつかは、ふいいに、夜陰にまぎれて姿を消すか、あるいは、みんなが見守っているなかを、二つの石橋を渡り終えるか、あるいは渡ることをせずに、真直ぐにあの夫妻の銅像の立っている広場をつききって出かけようとしたこともあったのではないかと思う。
 そのとき、同志たちは、とめようとするであろう、しかし、どこまでもとめつづけることが果たして出来るであろうか。また彼らは、あとをつけて、彼が倒れたり、あるいは何かその身に異変が起こったとき、救急車をよんで連れもどすことをすることが許されるであろうか。
(同上)
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morororo-blog · 13 years ago
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3谷内純について
さっき食べたトーストを食べたせいかお腹���痛い、という想像をしている。ちょっと古くなって、むしも狙っていたから、固くなっていたところを取って、食べたのだけれど、まあ気のせいだろう。このように文章にすると、そういうことが深刻になるから困る。頭の中が言葉だらけの人間は、深刻だろう。言葉といっても、頭の中がぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああとかぶぅぅぅぅううううううえええええええええええええええええええとかなら、またおかしなことになる。僕も小さなときは、頭の中が言葉で溢れ、そうなってくると、自分が二人にも三人にも何人にもなっていく。実際そんなところがあるらしい。
王が自分以外の如何なる主体の命令も拘束も受けない絶対主体であるとして、しかし、主体であることには自意識であることを意味し、自意識は原理上、自省構造を持ち、要するに自分に命令する自分と、それに命令される自分という「二人」によって構成される。「私は散歩する」という些細な行動すら、散歩を命令する自分と散歩を命令される自分とがいて、散歩する王は散歩を命令するもう一人の王の命令に従っているのである。つまりはその場合、王は主体である限りにおいて王は断じて絶対的自由者では有り得ないのである。(丹生谷貴志)
おー!すごい。だから自意識の戦いを繰り広げた少年時代には人格が倍々に増えたのだな!今となっては何も考えていないから、もう人格すらあるのか怪しいなぁ!
王が自由であろうとするならば、王は究極において主体であることをやめなければならない。つまりは主体であることから「脱我」した者でなければならない。主体であることから陥没し、ありとあらゆる法から陥没し……人間であることが自意識を必然とするならば、人間であることから陥没し、要するに「人間としては死ななければならない」。(丹生谷貴志)
ひえ〜。「人間としては死ななければならない」ってあれかな?狂気かな!?やっゔぁいね!でも僕も睡眠的な生活を送ってるので、昔よりも主体が怪しくなって、俺は王だ!知らないけど!ああでも、王になっちゃった!でももっとすごい王を知ってるよ!谷内純って人!どんな導入だ…。
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morororo-blog · 13 years ago
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はちみつが美味しいということを、なぜ忘れていたのか、忘れていた気になっていたのか、それとも忘れる風にしていたのか、分からないけれど、はちみつは、おいしい。食べ物はいろんなあじがするので、いろんなおいしさがあるのだけれど、昔は、このおいしさしか認めない!という感じで、洋食屋さんと和食屋さんどっちに行くのか、と聞かれると、和食屋さん!と必ず和食屋さんを選択した日々が12年ほどあった。回転寿司やさんに行くと、必ずいくらを最後に食べた日々が7年ほどあった。よく考えると、回転寿司やさんのいくらは、あまりおいしくない。僕は、山国で育ったから、港町のようにスカッとな��ず、かっこよくもなく、卑屈で、特にスカッとしようとも思わない。今となっては食べ物にこだわりもなくなり、メインのおかずしかおかずと認めなくなかった僕は、ポテトサラダを望んで、喜んで、食うようになり、むしろポテトサラダがメインであり、たくさんのものが、おいしく感じられるようになったけれど、それで味の多様性に対して、感動した、などとは思わない。想像力がない僕は、目の前に現れるものしか、なんだかよくわからなくて、そういうものはものすごく難しく言うとすると、現象ということになる。例えば、あの人はしっかりしていて、きっと苦労してやってきた、だから怖いところがある、という風に、人を見て物語を作ることのできる人をとても尊敬する。そんな人は、きっと、すごく人を分かっているんだね、って思うので、きっと、とても頭がいいのだろう。そんな気もする。僕は、人が何かしでかした事しか、なんだかよくわからないので、想像力がない。その人は実際にしたことしかしていないのだから、したことしかしていない訳だよね?そういう人を見て、物語を作って人物を教えてくれる人がいるけれど、それはすごい、って思う。きっと本当に頭がいいのだ。きっと多様性ということも、知っているんだろうな。
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morororo-blog · 13 years ago
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さて、うまくやれればいいです。文章を書く事は、恥ずかしいことだ、と、中原昌也も言っています。その通りだと思います。最近は、抽象的なことを書けば書くほど、恥ずかしい、だけど、具体的なことだと、僕はもはや別に、なにもおもわない、いや、おもわないわけでもないですが、比較的書こうと思う事は、別になんだって、書くぞ!なんて、そんな意気込みもないですが、(それも書くということが書かない、という事に対して特権的だから、見えないところがいっぱい、あるので。)書きますが、具体的なことは、迷惑をかけてしまう、そういうことがあるので、そういうことは、小説にしてどこかの新人賞に応募でもしないと、ああ、これはフィクションなんだ、という風に意味付けをしてもらわないと、なかなか難しいですね。tumblrで書いても、「おまえはブロガーじゃん!」みたいになるわけで、はい、ブロガーデビューです!憧れのブロガーうれしい。今からトーストにはちみつをかけます。
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morororo-blog · 14 years ago
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恋する原発
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morororo-blog · 14 years ago
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ゆん
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morororo-blog · 14 years ago
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堕落論 (角川文庫)
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morororo-blog · 14 years ago
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お伽草紙・新釈諸国噺 (岩波文庫)
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morororo-blog · 14 years ago
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生活を彩る
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morororo-blog · 14 years ago
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ポロポロ (河出文庫)
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morororo-blog · 14 years ago
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暮坂
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morororo-blog · 14 years ago
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小説の楽しみ (水声文庫)
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morororo-blog · 14 years ago
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ヌードファイター柚希 1 (ビッグコミックス)
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morororo-blog · 14 years ago
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あねちゅう!溺愛悶絶美奈子さん 1 (BUNCH COMICS)
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morororo-blog · 14 years ago
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『菅野満子』
11時起床。朝から古本市に行く。雨が降ってきたので、ぬれちゃった。傘をさしたけれど、ハスミシゲヒコの本がちょっとぬれちゃった。 帰ってきてから、宿題をしなきゃならなかったのだけれども、浅野忠信の手抜きみたいな映画を見た後(二つめの、ゴシック時代劇のショートムービーはよかっ た。 )永井荷風の断腸亭日乗を読む。この本は古本で、付箋がページを埋め尽くさんとしているほどなので、むかしこの本をもっていた人は、永井荷風の断腸亭日乗 をたくさんたくさんよんだのだなぁと思うと、この本を大切にしよう、という気持ちになり、買いました。この本を読みながら、チャットで友達としゃべりま す。世の中は便利になったなぁ。物理的には誰にも会っていないのに、ここ二三日は、にんきものになったきもちがします。
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morororo-blog · 15 years ago
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ニートピア2010
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morororo-blog · 15 years ago
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文学者
漁師たるもの、男だもん
網を使ってはいけない
漁師たるもの、
網を使うことは御法度なのだ
漁師だからな
網をつかってならん
漁師だからだ
網を使ってはいけないでしょう
高校の読書感想文を小林多喜二で書いたので
きっと小林多喜二は喜んでくれるはずだ
高校の読書感想文は蟹工船で書きました
きっと小林多喜二は喜んでくれているのではないだろうか
漁船で稼いだ金を使い今日もFXで一儲け
漁師たる所以みたいなのがにじみ出てとっても良い気持ち
俺は小林多喜二だ!
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