Tumgik
motokanao · 1 year
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❦kakasi flax flue
2023 3/30-4/9
布で体を隠すのではなく空間と同化して空間に自分がなることで大きな体を讃えたい。
It expresses the desire to celebrate the beauty of a large body by blending it with the environment instead of hiding it behind clothing. The idea is to become one with the space and have the space itself become a part of the person.
展示の説明
部屋全体について
いずれの動画もホームムービーをもとに制作された。布は、作者が服などを作るために用意した自宅の積荷や試 作品やインテリア、大事な着物の下着や帯などアトリエ兼自宅の中身を一部流用した。 この展示の映像には作者の自撮りや他撮りが組み合わさっている。ここには四股を踏んだり、ジャンボタニシを除 ける薬剤を自分の田圃に撒く姿や泥パックしている姿や猪の仮装をする姿が写っている。自分の山を探しながら 回っている作者からみた景色が写っている。悪を払えるらしい魔除けのモチーフや土地を耕す動作が加わり景色が 広がっている。作者の肌を透過することでそれらを自分の体と一体化していて、映像の光の中で空間と溶け込んで いる。
毒を取り入れて毒を自分のものにしてしまう感じ。 そういえば私の夢は大きくなって爆発したいだった。 このもっと大きくなるというのは自分にとって部屋全体を自分の体のように纏ったりコーディネートし、ただ食べ物を 食べて消化してだけじゃなくて、畑を耕して見つけた草をきれいにして食べるような耕すことと共にある。環境と体の 成長を同時に叶えることなのだ。 力士は食べることと地を耕すことを行っている。四股は土地を耕したり���中にいる邪気を払う動作らしい。私も、儀 礼としての四股を踏む動作を行う。 太っていると布を大きく纏えて空間の中での存在感もインテリアのようになることができる。
ランプシェードたちについて
作者が制作したランプシェードを配置している。空間のための補正下着を目指して制作した。ボディーポジティブの 意思表示のためにワイヤー入りの下着を何より手に入れたいという気持ちは無くなった作者も自身の特徴を生かす ためにもワイヤー入りの補正下着は体を拡張してくれるため愛用しており、自分の体の光を妨げるシェードという形 で表現した。 バージスラインは、バストと体の土台の境目のラインのことで汗腺が多く、太った人はジャンプすると全身の肉が体 から離れるように大きく揺れて痛い。さらにぬるぬるに汗をかく。ジャンプするとバストが特にちぎれそうに痛い。その ためジャンプする動作で空間の中の自分を際立たせながらワイヤーが特異な結節と拡張の場を支えている。
写真の撮影と編集 桑嶋燦
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motokanao · 1 year
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Poppy Milk Party_Room B
《じくじくする。チキンレース中》
《四季咲きの体》
2022
Installation
写真の撮影 中西真穂
展示記録動画の撮影 川本杜彦 永田風薫
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motokanao · 1 year
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Poppy Milk Party_Room A
《じくじくする。チキンレース中》
《四季咲きの体》
《おべべのないドロシーの友達》
《こぼれたミルク》
《自画像》
2022
掛け軸, 風鎮, ドローイング, プロジェクター
Installation
この展示ではポピーミルクパーティーという名のボディーミルクを作成し、公衆浴場に見立てた会場内で活用 します。タイトルのポピーミルクパーティーは、『オズの魔法使』(1939)の主人公であるドロシーがポピー フィールドで寝てしまう、という著名なシーンから着想を得たものです。 また、「フレンドオブドロシー」という言葉があります。これは広義のLGBTQの人々を指し、相手にドロ シーの友人であるかどうかを尋ねることによって、敵意を避けながら性的指向を聞くために使用される独自の ひそかな合言葉でした。この言葉を制作者の公衆浴場でのアウティング発覚経験に引き継ぎます。公衆浴場に おける性別の振り分けと裸の仲や場の解放感と安心感の矛盾、ポピーの花言葉である癒しと眠気と相容れない 乳液の毒性、良かれと思って行われ���アウティング行為の加害性など、これら3つの共通点を、匂いを伴うインスタレーションや掛け軸に仕立てたドローイングで構成します。
メッセージ 体が分裂して花が咲いてしまうほど疲労している。 アウティングしないで、こんなになるし、体はいつも分裂してる。
写真の撮影 中西真穂
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motokanao · 4 years
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《Detection of the Dough》
2021
インスタレーション
キルティング プロジェクター
 毒団子をめぐって猫と鼠の知覚の関係をキルティングを用いた映像イ ンスタレーションの中で再演した。Tactile,Tangible と形容できるような 表現や素材によって探求する。 具体的な提起の1つ目はキルティングの糸と布の結節点とヒゲの構造 は似ているということだ。猫や鼠のヒゲはセンサーになる。知覚でき るからこそ彼らはテリトリーを占有する。キルティングもまた用途に合 わせて糸や生地の追加をし、あるいはパターンを動かしながら縫い止め られ布自体が空間を占有していく。言い換えればヒゲもキルティングも パースペクティブを担う。毒団子はそうした中でどう Detect されるのか。 2つ目は毒団子で鼠を殺すと猫が同時に死ぬ。あるいは猫が死んで鼠は 生きている。または猫も鼠も生きている。ここでは毒団子のせいで生き 物が遺体になってしまう危険性がある。また遺体は毒団子に限りなく近 くなってしまう。 制作の発端は養鶏場である祖母の家で鼠を殺すためホウ酸団子をつ くっていたことだ。しかし毒団子を食べた鼠を猫が食べてしまった。あ るいは鼠が猫に殺められているの見た。家畜としての猫がいる。家畜が 財産である以上物として扱われがちであり害獣の鼠の命を軽視する傾向 があった。
上の写真は中西真穂、永田風薫 による撮影である。
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motokanao · 4 years
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《へびへび。ねこねこ。じゅうたんじゅうたん……。》
2019
絨毯、照明、映像
サイズ可変
 絨毯の模様から連想し戦う。絨毯の模様のジグザグを眺めていると蛇が動いているようにみえる。蛇使いのつもりで互角を保つ。猫のように蛇と対戦する。私は絨毯の上を移動しながら見つめることで相手と自分を行動し捉えている。 蛇は猫で絨毯で私だ。 このような第一人称と第二人称と第三人称の違いと環境やテリトリーの違いは似ている。 それは主格やテリトリーの違いとも通じる。 オリエンタリズムは外部と切り離すことだ。例えば西と東と区切り私とあなたというじぶんとそれ以外位のものとして区切るということだ。意識は表面張力している。引きつけあいお互いを時に引き離そうとする。
上の写真は中西真穂、桑嶋燦‬による撮影である。
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motokanao · 4 years
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《エメラルドの秘密》
2020
映像
0:29
田中絹代による恋文という映画を鑑賞し制作されたファウンドフッテージである。この映画は現在の109の場所にあった恋文横丁を舞台に米兵などに送る恋文を売春婦が委託し送った当時の状況から脚本された。 私は翻訳作業は有機的だと考える。単語、文節、文、パラグラフによって誤差を修正して行く連鎖が追いかけることに似てるからだ。つまり翻訳と動物と人の関係は似てる。ぐるぐるする。
109の階段のへりで友達と喋った。ファッションビルなのに何もお店見ずに閉店間際でお店が段々暗い光に包まれていくのをみた。 開店と閉店という契約の中で、観客と店員または経営者と建物の新陳代謝は動く。建物には出口があって入り口がある。映像にもまたそうである。
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motokanao · 4 years
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《悪いところを探すと、それを期待しているなら、あなたはそれを得る》
2020
Video
2:03
《健康で文化的な最低限度の生活を営む権利》
2020
Animation
2:13
《狂った》
2020
Video
6:51
家の間取りの中の権力に目を向けて、輪回しをしながら穴を開けるような映像を部屋に投影す ることで住宅の中での公平な再領土化を要求します。 輪回し、たがまわしは棒で輪を回す遊びです。俳人宝井其角の句にも、「たが回したが回し始 めけん」とあるように誰が初めたかわからない世界中で様々な時代から行われている遊びです。 古代ギリシャでは少年への愛情の印として輪回しの道具が与えられました。そうした広大に共有 された同じ遊びを行うことによってつくられた小さな歴史の積み重ねと、自身の経験によるアニ メーションの技法でモキュメンタリーをつくり状況を再現します。それに従い元岡はこの遊びに おける足の動きの感覚は、生活の中で体験してしまうよろめきや立ち上がること似ているといい ます。映像の導入がひとつのスタートからしか始められないのに対しこの時の体験は複数に分断 しながら結合されます。 足を踏み入れてしまうことは濁点で全文を読み直すような動向を思い通りにしてしまって巧みに これを隠蔽します。
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motokanao · 4 years
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《Pill Pupil》
パフォーマンスビデオ
2020
4:55
別れを告げることは難しい。高校の制服を着た女が女子校生だとは限らないのに、女子高生の話題性は一人歩きする。  墓の中で私はこの前みた女子高生の行動の再現をするパフォーマンスを行った。複数の女子高生のイメージがある。食パンを咥えて移動するブランコに乗るまた鉄棒に上る、パフォーマンスの記録映像という形式は期限を伴った妄想のなかで組み立てられる。
薬を飲むことは相手も自分も守る。しかし服薬する必要性はその病気あるいは機能を滞らせるためにある。それは副作用でもある。
一旦快く受け入れることについて考える。薬には副作用がある。複数の作用があり一筋にはいかない良し悪しの反応を起こす。食パンを加えた女子高生を見たときにその状況の話題性に感動した。女子高生はキャラクターとして匿名化される。自分が「女性」であることを受け入れられない私が女子高生を演じてみることでその作用を再現する。
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motokanao · 4 years
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《Group of Mine, Kagome Kagome Especially  Being Someone and Globster》
籠、 糸、古布、針金、映像
2020
160 × 90
 以下は展示の際使用したステートメントである。
かごめかごめとグロブスターに共通する支配の匿名性に着目する。  かごめかごめとは唄と遊びの組み合わさった児戯だ。  「かごめ かごめ かごのなかの とりは いついつであう よあけの ばんに つると かめが すべった うしろのしょうめん だれ」  歌が終わったら一斉にその場にしゃがむ。鬼役は自分の後ろの人の名前を当てる。誰なのか当てるときにヒントを出し合う。一人一人が歌に先導されながらも踊りや停止は集団の決定に依る。(円の中心にいる者は集団の遊びの中で匿名性をもつ。むしろ名前を当てる行程において名前を奪い取られる。しかし円の中で孤立する。名前が当たった途端名付けられた固有名のために特定されてしまうのだ。マッケンジー・ワークは「今や私たちはただのユーザーにすぎない。私たちの行動はコモディティー化されてしまった。集団で行う労働と遊びによって、世界は人々にとって不利なものとなり、私たちにのしかかってくる…集団で行う労働は、世界を支配階級のものにしてしまった。支配階級は、そこに自らのイメージを作り出すだけでなく、絶えずそのイメージに私たちを投影している。」という。この遊びでは誰もが円の真ん中に配置されてしまうことによってこの状態から逸脱できる。集団の決定がルールの中で不意に蘇る。  支配の匿名性は展示でも起こる。鑑賞者と作家、作品の間それ以外のもの例えば白い壁のホワイトキューブはだれも無視されるけれど白い床に落ちた誰かの髪の毛は他意に満ちる。そこでは物自体からというより案内されている意思を読み解いていく。そこでここでは遺品を用いることで物が支配しているのか人が支配しているのか考える。着物や帯を用いる。それは纏うために紐を結び、肉体と布をつなぎとめるための隙間を着る人が設定する手順を従った民族衣装だからだ。そこには大小の時間が流れる。また特別な展示台などでなく床置きすることにする。日常的な衣を纏った人間と似ている条件言い換えればそれが魂を纏ったものだと考えるからだ。そうして展示されているという意味から少し外れてみる。読み取るべきでない意味は充分に加味されどことなく鑑賞者を覆い尽くされるべきだ。  グロブスターは海岸線で漂流する正体不明の有機塊だ。 グロブスターは少なくとも最初の訓練を受けていない観察者によって識別が困難でありそのアイデンティティに関して論争を引き起こすことによって通常の浜辺の死体と区別される。  この映像では作者の身体と紅白幕が重なり溶け合いグロブスターのような肉塊を表象する。人間の身体が肉塊として見られるような何ものでもないと識別されたとあるいは紅白のような多義の象徴を扱う。それによって理性の対義語が本能であることに対抗する。身体を人間たらしむのは一途に理性なのか本能なのか。ここでも支配の問題がある。警告や対抗する2組やハレの意味を持つ紅白には、血を連想させたりアパタイトを促進させる生理的な効果を持つ。スキンカラーいはゆる肌色にはポルノグラフィティとヌードや単一民族などを連想させる。ここでは支配のインターセクショナリティを見つめる。
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motokanao · 4 years
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《トーンを見つけるために運転するとき》 2019年 シングルチャンネルビデオ 4:40
物語は2つの古典的な映画が混ざっている。 1つは、アリス・ギィのキャベツ畑の妖精(1896)の2つのバージョンだ。 彼女はフランスのパイオニアであるフィクション映画製作者である。物語はキャベツから出てくる赤ちゃんを作り出して届けることができる奇妙な妖精が関与する短いファンタジー物語に基づいている。 もう1つはチョコバナナ、原題はBanane al cioccolato(1986)イタリアのアダルト映画で、メインキャストはチチョリーナだ。彼女が高貴な妖精の王女であるかのように、セックスと映画の物語に対して彼女の行動を持っている。 彼女のビジュアルは男性向けではないが、世界中で人気だった。 私のビデオ作品の問題は出産の神話への抵抗だ。 リビドーに正直になることは、出産だけではない。 主に防御的で繊細なセックスは、常に生殖と愛を分離する。
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motokanao · 4 years
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《赫赫たる二頭》
映像
2019
2560×800
 アルベールカミュの異邦人を読み制作された。私は主人公と太陽の眩しさに対しての感覚を共有する。私は先天性の白内障で、眩しくて景色が見えなくなることがある。そうした経験も伴いこの映像は点滅するように進んでいく。フランスのテレビに出た時のカミュのニヒリズムについてのインタビューと海の動画による二画面映像である。太陽に付和雷同し、太陽が眩しすぎることで視界はホワイトアウトしてしまう。そうした余白で思い出すのはカミュの顔でその生涯のことである。
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motokanao · 4 years
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《皆無と糜粥》
映像
2016
2:42
あらすじ
海面を移動する波を船で見ている。小さな窓辺の蛾が飛び回る。蛾が外に出て行き砂嵐が吹き荒れる。大地が中央に近づいていく。黒い画面の中で水の滴る音が遠くから聞こえてくる。
この動画は人間失格を読み終えた時の感覚と幼い頃から定期的に私が見る砂嵐が吹く中、大地が両サイドから中心に向かっていく風景の夢をもとに制作した。このお二つには共通して物語を忘れてしまう哀しみがあった。生きていながら孤独で走り続けても逃れ常に孤独を感じているのだ。皆無と糜粥とは思いを忘れ、忘却を繰り返し循環することだ。
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motokanao · 5 years
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《ニードルスレッダーの恋人たち》
映像
2019
100 ×600
お会いしたことがあるかしら?この物語は日露戦争の日本海海戦で行われた丁字戦法とニードルスレッダー についてだ。これらは三角構図を持っている。このビデオインスタレーションはポリアモリーとモノガミーの態度の特有のメソッドを選ぶ。私たちはどう不確かなリテラシーとともに様々な様相を決定するのだろうか。
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motokanao · 5 years
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《テリトリーガイド》
映像
2019
160 × 90
 猫の目線を追うと目が回る、大気の匂いを一同に感じているのだ。実家で飼っている猫と私のテリトリーを撮影した。私は今住む東京がテリトリーと感じない。瀬戸内海を見ると帰ってきたと思うので瀬戸内海を飛行機の上から撮影した。猫の場合はブロック塀に囲まれた家の駐車場に入ると帰ってきたと鳴き出すのでそこで猫の様子を撮影した。
 テリトリーはイメージをキャプチャすることで囚われる。思い付いた限りや記憶の範囲で捕らえる範囲の特定とテリトリーを決めることは同様であると考える。また行き来することでテリトリーは捉えられる。自覚的に範囲が特定されるからだ。
 猫は私のことが好きなので私の近くからなかなか離れなかった。しかし私はここに住んでいないのでこの猫のテリトリーから離れる必要がある。テリトリーの強弱がある。私のテリトリーの方が広い。その中で細かなガイドはできないが猫はできる。ここで水が飲めるとかだ。私には決定的なテリトリーがなく���っかりしたガイドができない。飛行機での視線のように目線の赴くままでしかその場を共有することはできない。  
 テリトリーを規定することは紛争を従う。領土問題だ。猫の喧嘩はテリトリーの奪い合いである。実家の猫は家を城として半径300m内のボス猫である。私は契約で賃貸は借りているが自分のテリトリーで縄張りを争ったことはない。この点でも私たちのテリトリーは紐づいていないようだ。
 このような私と猫のやりとりの記録になっている。私たちはここをガイドされてもここに居残ることはできない。
以下には映像のキャプチャがある。
https://motookacapture.tumblr.com
上の写真は中西真穂‬による撮影である。
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motokanao · 5 years
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《共依存しかし捨てられた作品との方がまし》
廃棄物、動画
2019
71 × 71
 ある女生徒の体験を元にこの作品は作られた。東京藝術大学の講義室での教授とのやりとりが淡々とテロップとして流れる。
 一点の星の立場から逃ようとする。講義という演劇場から不参加の意思を出さずに、流星群の中、流れ星は飛び交っている。発言をすれば地に足がつく。女生徒は異星人として目の前に起きたことをただ見ることでしか関係性を見つめることはできない。正義を振りかざすことは重力から逆らうような必死な目をしたライオン、猛獣としての意識を持って生まれ持った状況でしか手を握ることはできない。
 今回の動画の中で扱われたやりとりではセクハラや質問の論点の破壊が行われる。そうして女生徒の動きを抑え込む解決に向かうはずもない言葉で生徒を侮辱する。しかし女生徒はありがとうございましたという一言でその状態を受け入れたように場を見繕っている。返答に返信することが権力によって止められているのではないか。女生徒は思わぬ回答にたじろぎ、ここから消滅しようとした。これは比喩ではなく教授と侮辱された女という役割の構図から身を引こうとしていたのである。この世界にいることで起こった問題を同じ世界で処理することを諦めた。彼にとっては質問の曖昧さが生んだアクシデントでもあるし、規範を免れようとするには良い場面だったのだろう。大して問題として扱わず発言したわけで回答の論理性は欠いているし、女生徒が傷ついたのも皮算用だった。講義室の中で正義は危うく、誤用に近い。引用された中森明菜の「少女A」の中に(特別じゃない、どこにもいるわ)というフレーズがある。匿名性で保護されている。この歌詞の中では明菜はただの少女になりアイドルという立場から一旦離れることができる。これは講義室で女生徒が行った行為とも同様である。女生徒も教授も一点の役割事から逃げようとしていたのである。私たちは講義室から身を消す瞬間が生まれていることに気づく。各々の立場からしか実証を掴み取ることはできないのだ。
 漆の造形物は骨董品店の廃棄物である。廃棄物は市場経済や所有権にとって無用である。漆の作品自体は他の作者が作ったものであり私の元に行き着くまでも廃棄物として所有の編宮とともに価値を奪われ付け足され続けた。廃棄物は権威的な表現から逃避していると言える。再評価を受けるまで若冲の絵画が長い間美術館の倉庫に無造作にしまいこまれていたように人にとってのものの価値は定義されることで習得される。世の中に浸透する定義は常に優位に立つものによって描かれる。あるときは戦勝者や母など力の弱いものは言い返す余地もなく現れる。権力は見せつけられない。性的な悪用もそういう立場に自分を格上げしようとする行為なのかもしれない。女生徒は漆の作品のように価値を奪われ定義をされたとも言える。そうして暴走しないためにつなぎとめるメディウムになる投射する物体として映像にリフレクトする。
 立場を伝える縦軸の文字と横軸の文字が動画では用いられる。動画の縦文字についてはテレビのテロップのナルシズムを持つ。テロップなどテレビの語り方はアニミズムのような実直さを持つと考える。流れる速さで情報は動き抽象化が行われる。例えば協賛する会社ロゴはあたかも模様のように画面を埋め尽くす。そうやって象徴的に物語を始める特性があると考える。出来事の一片を画面サイズに切り取りあたかもその世界が正しいという表現が行われること、情報軽視にそれは近似するところがあり、妄信性をもつ方針で常に思考より前の段階で人々の心を掴み上書きする。それをより定義し補助するのがテロップだと考える。逆に歌詞や字幕は絶対の規約を見せつける言葉だと考える。音声の聞き逃しや誤解を禁じるからだ。音楽のリズムより先に言葉の意味を押し付ける。動画では縦のテロップを利用して横流れの歌詞と意気がる。
 とうとう女生徒も教授も役割から逃げようと講義室から身を消す瞬間にその立場から実証を掴み取る。双方が価値を奪われ定義をされ、象徴的で妄信させる物語を始める縦のテロップと断定的に横に癒着する歌詞がここでは交流する。
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motokanao · 5 years
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《レアメタルの一連のピクニック》
映像
2019
300× 700
 日常の区切りは実際の暦とは無関係に、立ち上がったり起き上がったりする自分の動作の中にある。それは特定できない現在地の揺らぎへの感覚にも通じている。脚やアイドルを映すカメラマンのばたつき、あるいは睡眠しながら移動する女などに象徴されている。起床するごとに目線は足に追いやられる。体を起こすことで目線とそのフレームは扇子のような動きで攪拌される。誰かと寝るときも自然と行われていると考える。この動きは人生の中で視界と乖離させる動きになる。さらにフレーム比やカラーグラフによって再編されうる体験を凝視する。読書を元に本と作家の体験が反復するように構成され、洞察によって試写をするという姿勢で映像は即物的に往復を続ける。
 洞察とはただ見つめることに付随する情報を含んだことである。ここには印象と事実の違いがある。例えば社会的な状況に至るまでの物語によって見ることである。それは言い換えるなら目が見えていなくても見えることであり、推察を含んだ情報と目から入る情報である。加えて試写とは洞察や見ることで得られた情報を思い返すことである。その人の個人の感覚に基づいて再現が行われる。例えばこの映像では作者の姉妹が出てくる。山口百恵の音楽を聞き、本を読み忘れられることもなく頭に残ったのが姉の虚像だからである。いつも目の前にいる存在を確かめるようになぞる。この映像では彼女は眠りについている。景色のいい場所で景色自体を見ていない。しかし夢の中、まぶたの裏では他のことを想像している可能性もある。幸運なことに意識のない人間に対してすぐにカメラを向けることはたやすく、無意識の中の抵抗、現実ではなく進行する未来を生きることを獲得している。
 引用文はこれらを満たす言葉と考える。これはストルガツキイ兄弟『Пикник на обочине(路傍のピクニック)』(邦訳『ストーカー』)からである。「きみは悪から善を作るべきだ、それ以外に方法がないのだから」この言葉は小説の物語の始まる前に読者に提示される。映像後半から私は上記の言葉を守る。今までの映像の物語を遠くから見直すためカラーグラフによって再編される景色を一望する。前半の映像からカラー情報のみ抽出したヒストグラムを画面を表示している。そこでの映像の物語は景色につながると考える。一人語りでも肉声によって身体と感情を引き継いだ情報が伝達されている。言い換えれば身体は体自体から発生する表現によって身体と感情を一塊にしている。それはパラグライダー的な区切りを決定することのようである。身体と地面、環境の中の空気圧を目の前というより目を擦りながら疲労を伴うような抵抗を瞬きの回数に相乗して感じる。私と環境、過去や他者はいつも気にかけあっている。その動きは反動的である。
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motokanao · 5 years
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《いつかここでお祝いしようね》
雛人形のお盆
2019
30× 30
 対の構成を欠損させることによっ てハレとケの必要性の選択を託し映像のように熟考した視点の 共有や移動を発生させる。
 最近骨董屋との関わっている。漆製品は家庭の中でお祓い箱らしい。お椀や漆の絵画をいただいた。骨董市では趣味的な道具や装飾物から、酉の市のための汁椀などプラスティックに取って代わられた製品たちを見る。そのような物に対する価格は低下している。今回用いいた漆の雛飾りは500円で購入した。これ自体だけではお祭りを祝うことはできない。購入する前にお仏壇に置けばいいとお客のお婆さんに言われた。ひな祭りはその程度の完成のためにある。近年では男女の平等が叫ばれているが結婚が女性の人生で大きな転機であり生活のツテになっていることがある。貧困層や中流層に関しては代々受け継がれた雛飾りはどこにもなく、受け継がれず、作られない。購入されるのは雛飾りの模様の駄菓子である。形骸化させる儀式だが女の子は結婚させるという強い願いは変わらない。そもそも私たちのほとんどは農民でありお雛様を与えられていなかった。あくまで慣習が薄い湯葉のように私たちを包んでいる。
 骨董品屋のお客が応えたように死後の世界との繋がりを老年化や形骸化が進むうちのプラスチックな宗教心が掻き立てる。思いつくお願い事は南無阿弥陀仏の言葉で叶えられるだろう。死にたい。孤独感は一重に最果タヒの「死んでしまう系のぼくらに」のような世代は増え続け、古今のお祈りを発つ。
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