Tumgik
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15 Ladybird girl
Ladybird girl / PIED PIPER / the pillows
 観客席の一番後ろの真正面に、みぞれはいた。人混みの中で落ち着かなそうに周りを見つめているその瞳が、ステージを見つめ始めると世界に入り込むことは知っていた。真正面から見た彼女の瞳の色は、初めて会った時と同じだった。
 演奏の終わったあとのコンサートホールは、思い思いの声で溢れている。感想を言い合う人。再会に声を上げる人。反省会を始める人。そのどれも通り過ぎて最後列にたどり着くと、伏せられていた彼女の瞳が開いていくのがわかった。
「来てくれたんだ」
 私の言葉に、みぞれは頷く。少し落ち着かないように息を吸う私を、みぞれはただ何も言わず見つめていた。瞬きをしているのが見えて、生きてるんだってなぜだか安心した。まっすぐに向き合うときに、いつもはどこを見てたんだろうか。いつのまにか忘れてしまっていた。
 紡ぐべき言葉を探している。『ありがとう』、『どうだった』、『嬉しい』。どれもこの喧騒の中では霞んでしまいそうな気がして、本番後の熱くなった脳内は空回りし続けてる。落ち着こうと思っても、後ろで聞こえる黄色い歓声に驚かされてしまう。口を開けずに眼の前にいるだけの私を、みぞれはただ黙って見つめていた。いつでも、待たせている。そんな気がしている。
「あのさ、この後時間ある?」
 演奏会が終わって、今はもう十九時を回っていた。ホールの外はもう暗くなっているはずだ。みぞれが頷くのを確認して、私は今日の打ち上げを抜け出すこと決めた。
「ちょっと、外歩かない?」
 ずっと高まったままの頭には、酸素と風が必要だった。まだざわついた人たちに気づかれないように、そっと二人で抜け出した。
 *
 河川敷を歩く。肌寒さがなくなったこの季節は、みんな夜が長くなるようだった。通り抜ける風は新鮮な空気を届けてくれるから、高揚した心が少しずつ落ちつてくるのがわかる。向こう岸の喧騒がまるでさざめきのように聞こえてきた。
 眼の前の流れなんて気にも止めずに喋り続けているカップル。ただ川を眺め続けている人。橋の上で電話をする人。少しだけ遅い時間まで遊んでいる高校生たちの声は、一際大きく届く。様々な人たちを横目に、私とみぞれはただ歩き続けていた。いつもより少し丁寧に歩幅を刻んで、時折後ろを振り返って。そこにちゃんと彼女がいることに、ひどく安心してしまう。ほのかな明かりだけで照らされる彼女の表情は、あまり読めない。
 行き先を決めるのは私だから、私が歩き続ける限り、みぞれが歩き続ける。そんな風に思い込んでいたのは、一体いつからなんだろうか。はしゃいだままの観光客。ランニングシューズで駆け抜けて行く人。急ぐスーツの男性。そのどれとも違うリズムの足音が、ずっと聞こえ続けているのを感じながら考えている。等間隔で並ぶ恋人たちを通り過ぎても、答えは出てきそうにもなかった。
「今日、来てくれてありがとね」
 立ち止まると、川の音が少し大きく聞こえた。選んだ言葉が霞んでしまいそうな気がしても、声を張ることが出来ない。あのころからずっと、喉の奥に張り付いた薄い膜に言葉を飲み込まれていくような気がしている。放たれた音は流されてしまうぐらいのものでしかなくて、だからみぞれが頷いてくれたから、本当に安心した。
 栄えた街の声はもう遠くになっていて、今は横道を通り過ぎる車の音と、川の流れの音しか聞こえない。ここならどんな声だって届くってわかっていても、何を話せばいいのかは、まだわからない。五歩の距離向こうの彼女は、カーテンの閉められていない部屋からあふれる光に照らされている。懐かしさはそこにはなかった。ただあの頃とつながった今が、季節達を通り越して眼の前に立っている。一緒にいたはずの季節なんて、考えてもいなかったはずなのに、どこを見渡しても思い出があった。
「元気だった?」
 思い切りありきたりな言葉を選びながら、また目を逸してしまった。誤魔化すのように返事もせずに歩き出すと、みぞれが少し駆け出して、また距離が短くなる。少し横目で見れば、表情がわかるぐらいの位置にいる彼女が小さく頷いたのが見えた。
「元気」
「よかった」
 無事なのは知っていた。これ以上続けても、白々しい言葉しか出てこないだろう。後ろを歩く彼女との距離を図りながら、少しずつペースを落とす。曖昧な言葉の代わりになるものを探している。向こう岸を見渡しても、助け舟はどこにも浮かんでいなかった。逃げるように前を見て、動くようになった頭を動かしてみても、いまいち答えにたどり着きそうになかった。
「あ、」
 みぞれの声に気がついて振り向くと、視線の先には飛び石が置かれていた。少しだけ水しぶきに濡れたそれは、幼い子どものころに渡ったものとよく似ている。なんだか懐かしくなって、つい笑ってしまう。
「渡れそうだね」
「うん」
「行ってみる?」
 私の言葉にためらうように一歩身を引いた彼女に、なんだかおかしくなって。立ち止まったままのみぞれの代わりに、私が少しだけ大きく踏み出すと、ちゃんと着地出来て安心する。
 少しだけ不安そうな目をしたみぞれに、川の中から手を差し伸べた。彼女がここまで渡れるように。
「ほら」
 促しても、みぞれの足は動き出さずに、視線が手に捧げられているだけだ。もしかして、別に渡りたかったわけじゃないのかな。彼女の言葉を何も聞いていないことに気がつく。差し出した腕が重力に従って落ちていくのを止められなくなった。少しだけ恥ずかしくなって、首を下に落とすと、新品の靴と流れていく葉が見れる。また空回りしてしまった。
 ふと少し足音が聞こえて顔を上げると、みぞれがこちらに踏み出そうとしているのが見えた。飛び石の上は一人では持て余してしまうけど、二人で乗るには少し狭い。
「えっ、ちょっとみぞれ?」
 私の制止を他所に、みぞれの細い足首が露出する。少し後ろに下がって慌ててスペースを確保しようとすると、体のバランスが取れなくて転びそうになる。慌てて体勢を立て直そうとする私の右手を、なんてことないように着地したみぞれの左手が掴んだ。引き寄せられる力にどうにか転ばずに済む。心臓がひどくうるさい。
「大丈夫?」
 少し息が荒くなってしまった私のそばで、みぞれはなんてことないように私を見上げた。罪のない表情に思わず笑って、どこか呆れそうになってしまう。彼女の突飛な行動はいつものことでも、やはり心臓に悪い。
「焦ったよ、いきなり飛び出してくるから」
 空いたほうの手で心臓を抑えながら、息をつく。もう落ちないように少しだけ中央に寄ると、首をかしげたみぞれの顔が、いつもより近くに見える。
「希美、手出してたから」
「え?」
 そう言われて、今繋がれている右手に意識が向く。ひどく力の抜けたそれは、狭いパーソナルスペースの中でぶら下がっている。手をつないだのなんて、いつぶりだろう。
「繋ぎたいのかなって」
 違うの?そう問うみぞれはあまりに幼い子どものように見えて、夜にはあまりにも似合わない。ひどく的はずれな彼女の考察に、笑いがこみ上げてくる。思わず顔を逸して震えた私に、みぞれの瞳が開かれた。そのまま笑い続ける私に、その表情はだんだんと不満げなそれに変わっていく。少しだけ膨れた頬をどうにかしなければとは思っても、なかなか笑いが収まらない。
「ごめんって」
 どうにか笑いを抑えて謝るころには、みぞれは見たことがないほど頬を膨らませていた。少女らしい表情が可愛らしい。
「みぞれが渡れるように、手出しただけ」
 私が説明すると、みぞれは納得したように普段の無表情に戻った。少し頬が赤いのは、照れている証拠だろうか。うつむいたままの彼女に、なるべ普通を装って声をかける。
「渡っちゃおうか」
 そう言うと、うつむいたままみぞれは小さく頷いた。私が先に渡って、みぞれが後からついてくる。手はつないだままだったから、一つ一つ丁寧に、踏みしめていった。子どものように飛び跳ねたくなるのを我慢して。
「ついちゃった」
「うん」
 あっという間に向こう岸にたどり着いて、つないだ手はそっと離れた。きっとこの先しばらく、誰の手も握ることはないだろう。子供のような時間が終わるのは、いつでも寂しい。紛らわすようにみぞれの方を見ると、川の流れを眺めていたみぞれは私の視線に気がついて、その赤は私を見つめ返している。
 街灯の光が、河岸に佇む彼女を照らしていた。静かな風にそよいだ髪は、水の表面で流されることなく踊っている。美しくて、ここじゃないみたいだった。
 照らし���、ほしくなかった。
 一歩だけ足を進めると、彼女のすべてを私の影が包んだ。きっと私と同じように、彼女の表情は影に隠れていく。川の表面を撫でるように揺らめく街の光も、彼女には届かない。私が覆い隠したから。
 ただの彼女になら、素直に伝えられる。だから私は、なんども飲み込んだはずの言葉をもう一度探す。
「手紙、返事出せなくてごめんね」
 懺悔のように絞り出したはずの言葉は、ちゃんと届いてるのだろうか。みぞれは何も言わなかった。ただ私だけを見つめているその瞳に、伝えるべきことを探し続ける。
「コンサート、行けなくてごめんね」
 連絡取ってなくてごめんね。何も出来なくてごめんね。伝えられなくてごめんね。後悔を並べ続けても、いつまでも本当にはたどり着けない。伝えるべきこと。本当に、わかってほしいこと。
「みぞれのこと、全然知らなかったんだなって、離れてから気がついたんだ。本も、音楽も、好みも」
 彼女のことがわかりたかった。それが、私が求めている誠実さのような気がした。だからいろんな本を読んで、いろんな勉強をして。
 それでも、わからないことだらけだった。みぞれがどんな風にこの本を読んだのか。みぞれがどんな風に毎日を過ごしていたのか。あの坂を、毎日どんな気持ちで登っていたのかも。
 私にはわからなかった。探り続けたものの答えには、みぞれがいないとたどり着けない。そんなことに気がつくのに、一年もかかってしまった。
 それでも、遅くないと言うのなら。
「今日、来てくれて、本当に嬉しかった。ありがとう」
 これが最後になったとしても、私の気持ちだけでも伝えたかった。こんな風に演奏できるようになったんだよ。それも、みぞれのおかげだよって、そう伝えたかった。きっと嘘じゃない。探し続けた一年間で学んだ感情たちは、ちゃんとメロディに乗るようになった。それだけでも、十分よかったよ。そのままじゃ伝えられないから、音楽に乗せた。
 伝えたいことは全部、もう伝えてあったのだとわかった。彼女に光が当たるように、少しだけ離れるように歩く。向こう岸の賑やかな部屋の明かりが眩しい。優しい白に、少しだけ目を細めたくなる。
「今さらかも、しれないけど」
「そんなことない」
 伏せようとした目を開くと、横顔を照らされたみぞれの声がはっきりと届いた。その真剣な表情に、あの教室を思い出す。
「そんなことないよ」
 子供のような瞳が、私を貫いている。影の外でずっと綺麗に光る、それがなんだか嬉しかった。通り過ぎていくトラックの騒音も、どこかずいぶんと遠くで鳴って、まるで私達には関係のないようなふりをしていた。
「夏紀から聞いた。手紙、ずっと考えていてくれて嬉しかった。忘れちゃうかなって、そう思ってた」
 初めて会った時のことを思い出す。あのころの不安そうな瞳が、今こんな風に、私を救う。
「希美が私のこと考えててくれて、嬉しかった」
 そう言うと、みぞれはそのまま目を伏せた。その長いまつげがきらめいていた。
「そっか」
「うん」
 簡単な確認だけで、伝わったことを伝えた。
 十分だと思った。流れ行く川の向こうに見える日常に戻る前に、少し約束をする。
「留学先の住所、教えてね」
 私の言葉に、みぞれは首をかしげた。種明かしのように笑いかける。
「手紙、届かないでしょ?」
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14 眩しいサイン
眩しいサイン / BIG MACHINE / B'z
 コンサートのパンフレットを作るのに、特別な理由なんてなかった。サークルで与えられた役割の中で、一番人気がなかったのを選んだだけ。ただ空いた枠に滑り込んだだけで与えられた仕事。流すようにこなしてきたそれに、特別な意味があるような気がしてしまった。自分のいない演奏会の題目の字をただ埋め込むだけの作業とは違って、大切な作品を一つ仕上げているような、そんな気持ちが少しあって。店頭の綺麗なメニューを参考にしたり、ちゃんと検索してみたり。先輩には、現金すぎるだなんて笑われちゃったけど。大学生になってから初めてのコンサートは、やけにお洒落になってしまった。
 フォントをちゃんと選んで。空白を計算して。見栄えのよいそれは、ずいぶんと綺麗だと評判だった。これからもよろしくね、なんて言われて、少し仕事を増やしてしまったかなって思ったけど、不思議と後悔はない。誰にもでも見せられるものがあるのは、嬉しいと思う。
 出来上がったポスターを高校に届けるのも、私のしごとになった。あの頃は毎朝登っていたはずの坂道は私を試すかのように、ひどく長くなって私の前に現れた。軽々と登っていたはずの高校時代が信じられないとこぼしたら、先生はそんなものですよと笑っていた。掲示板の側にまとめて置くと、あのころ見向きもせずに、毎日通り過ぎていたことを思い出して笑ってしまいそうになった。
 高校からの景色は、相変わらず綺麗だった。街並みを映すそれに、いくらでも見てきたはずなのに、思わずカメラを向けたら、側で見ていた先生に「大学生ですね」って笑われた。
 帰る前に、一枚だけ取っておいたパンフレットを封筒に入れて差し出した。やっぱり、返事は何も書けなかった。
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13 桜が咲く前に
桜が咲く前に / 猫とアレルギー / きのこ帝国
 夜九時を過ぎた喫茶店は、まだ案外人の息がある。ガラスの向こう側に上がる紫煙を横目に見ながら、塞がった両手の代わりに口を開こうとする前に、みぞれはその顔をあげて文庫本を閉じた。
「夏紀」
「おまたせ。バイト長引いちゃって、ごめん」
 謝りながら、みぞれの本の表紙を盗み見ようとしたけれど、ブックカバーに阻まれて出来なかった。もしわかったら、希美に今度会った時に教えてあげようと思ったのに。そんな私の考えを他所に、みぞれは目を閉じて首を振った。
「大丈夫、ありがとう」
「いえいえ」
 もはや必要のあまりないプレートを、こぼさないようにそっと机の上に置く。席に着いて、いつもの癖でため息を付きそうになったのをみぞれの前だということを思い出して慌てて飲み込んだ。
「時間、大丈夫なの?」
 呼び出された場所は、優子の家からほど近いチェーン店だった。バイト帰りにそのまま来れるのはありがたいけど、みぞれの時間が心配になる。
「大丈夫。終電、十二時まである」
「そっか。危なかったら、優子に言えば泊めて��えると思うけど」
「大丈夫」
 みぞれがはっきりと言い切るのを聞いて、これ以上口を出す意味もないかな、なんて思った。優子の過保護がいつの間にか感染ってしまったようだ。口角が上がっていくのを抑えている私に、みぞれは鞄から取り出した布製のトートバックを差し出した。その厚みで、今日なぜ呼び出されたのか理解する。
「CD、ありがとう」
「どういたしまして。貸したこと忘れてた」
 受け取ると、思ったよりも重みのあるそれに驚いてしまう。こんなに貸してたっけ。なんだか押し付けたようで、不安になる。
「何枚ぐらい貸したんだっけ、十枚ぐらい?」
「十二枚、あった」
「あー、すごいな。貸しすぎちゃったかな」
 丁寧に折り畳まれたそのバックを開いて、何を貸したのか思い出す。普段CDなんて適当に部屋にしまいこんでしまっているし、好きなアーティストの新譜も出ていなかったから、CDケースを確認することもなかった。一枚一枚見ていくと、気合の入ったその並びに笑い出しそうになる。CDショップの店員かのようだ。これでは喋ると熱くなるサークルの同期を笑えない。
「聞くの大変じゃなかった?」
 そう聞くと、もうやるべきことを済ませたからか心なしかゆったりと椅子に腰掛けていたみぞれは少し体を浮かせながら首を振った。
「面白かった。普段聞かないから」
「まあ聞かないよねぇ」
 みぞれをオルタナ・ロックのライブ会場で見かけたら、それこそ自分の頭がどうかなってしまったと思うだろう。想像出来ない音楽の趣味というのは面白い。貸し出した中で、一つでも気に入ったものがあればいいなと思う。
 自分の選んだ十二枚を順にめくっていきながら、そういえばと思い出したように声を出す。
「別に急ぎで返してくれなくても大丈夫だったのに。なんかあったの?」
「返す機会、なくなっちゃうから」
 みぞれはそういうと目を伏せた。その意味がわからなくて、首をかしげる。
「留学、行くから」
 そういうみぞれの声はなんでもないかのようだった。それでも、その二文字が私の想像しているようなものとは違うことはわかる。
「どれくらい行ってるの?」
「半年。五月から」
「確かに、それは長いね」
 私がそう笑うと、みぞれは真面目に頷いた。半年手元にCDがなくても困りはしないが、誰かに渡せないのは少しさみしいかもしれない。例えば、希美とか。
「頑張ってね」
 ありきたりな言葉をかければ十分だとわかっていたから、あえて自然に出せる言葉を選んだ。自然と上がった口角に気がつく。
「ありがとう」
 そういうみぞれの伏せられた目の奥に、どんな感情があるのかはわからない。
 きっと、希美は返事を書けていない。それがなんとなくわかるぐらいには、希美のことをわかっている。彼女のことだから、まだクリアファイルに挟まれたままの手紙を、机の中にしまいこんでしまっているだろう。私はそれに、何を言うことも出来ない。最近大学で見かけた希美は、なんだか忙しそうにしていた。サークルの発表会のオーディションがまたあるとか言っていた。結果は聞けていないから、どうなったのかすらもわからない。そのぐらいの距離感になっている。
「もう、卒業式から一年近くかぁ」
 なんとなく目に入ったカウンターのそばのカレンダーを見て、そう気がつく。もう少しすれば、桜の季節だ。みぞれが行く前に、四人で桜でも見に行こうか、なんて思った。
 ぼんやりと視線を外した私の手元を、みぞれが見つめている。
「ハッピーアイスクリーム」
 やがて開かれたみぞれの口から飛び出したのは、本当に意外な言葉だった。いつも以上に真意が掴めない彼女の言葉に、どこか切実さが含まれているのはわかる。
「全然、言えなかった」
 それが誰と積み重ねたものを言うのか、誰にでもわかるだろう。
「そんなものじゃない?」
「でも、夏紀と優子は、いっぱい言ってる」
「数があれば良いってわけじゃないよ」
 羨望の感情が乗っかったその言葉に笑いながら、一体幾つぐらいのハッピーアイスクリームがあれば、二人は幸せになれるんだろうかと、ふと思ってしまった。丁寧に送られる日々に、どれだけの言葉の重なりがあればいいんだろうか。必要なものはなにか。結局私には、なにもわからない。
 眼の前のコーヒーが冷めていくのを思い出しながら、また小さく息をついて、アルバムを眺める。ベストアルバムだとかで、思ったよりも厚みのあるそれは、急に手の中で軽くなってしまったような気がした。
「そういえば、どれが一番良かった?」
 思い出したように問いかける。十二枚もあると、一番良かったものを選ぶのは結構大変だ。それでもなんとなく聞いてみたくなった。
 みぞれは私の問いかけに、扇のように広げられた十二枚の中から、一番左端のアルバムを迷わず選んだ。
「これ」
「これ?」
「うん」
「どの曲が良かった?」
「えっと、」
 私が差し出したアルバムを受け取ると、楽曲リストをみぞれが一つ一つ指さしていく。その感想を聞きながら、私は笑いが堪えきれなくなってしまった。笑いだした私に首をかしげたみぞれに、種明かしをする。
「これね、希美のお気に入りなんだよ」
 なんとなく紛れ込ませていた一枚が、希美が熱心に私に進めてきたものだと気がついたのは貸し出した後からだった。別に騙すつもりなんてなかったのだけれど。
 私の言葉に目を見開いたみぞれは、綺麗に頬を染めた。ずっと大人びた彼女ばかり見ていたから、少し新鮮な気持ちになる。見せてあげたかったな、と思う。
「そう、なんだ」
 そういうと、みぞれは噛みしめるかのようにそのアルバムを胸元に抱きしめた。まるで幼い少女がぬいぐるみを抱きしめるかのようなその様子に、昔見た幼いころの様子が重なる。
「きっとこれからも、いろいろ見つかるよ」
 そういうと、みぞれは小さく頷いた。まだ春は少し遠くても、今日は暖かく帰れると、そう思った。
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12. 赤い糸
赤い糸 / Hadou / 稲葉浩志
 呼び出されたのは、いつもの学生食堂だった。少しだけいつもより速いテンポでこちらに向かってくる優子に、この前と違って目を向ける人はいない。昼時の食堂は誰もが忙しく栄養をかきこむことに精一杯で、他の人間のことなんて考える余裕がないように見える。
 端の二人席を確保した旨を伝えると、「わかった」と短い文が届いて、これはまた怒られるのだろうなとわかった。そもそも呼び出されたときの文面からなにか言われることはわかっていて、それでも逃げ出したりはしないのは、美徳なんだかどうなんだかよくわからない。
「食べてないの?」
 席に着くなりそう訪ねた優子の視線は、席確保のためだけに買ったまだ封すら切っていない菓子パンに注がれている。広いテーブルの上にポツンと置かれたそれは、滑稽に映っているだろう。
「うーん、まあ」
「そう」
 訪ねた優子もそこまで興味はなかったようで、私の適当な返事を気にすることもなく、テキパキと自分の食事の準備を始めている。その様子を眺めながら、ノロノロと菓子パンを取り上げてマジックカットに手を添える。力が入らなくてもちゃんと切れることに感謝したのは始めてだった。急に自分が老け込んでしまったような感覚になって、腕をテーブルに乗せて酷く重力に負けた自重を支えた。その様子に気がついた優子の眉間に皺が寄る。
「何、その態度」
「いや、なんか年取ったなって」
「はぁ?」
 向かいの表情が更に険しくなった。勘違いされているような気もする。思えば、こういうすれ違いを回収しないまま来てしまった。過去と現在を曖昧に笑っていると、優子は諦めたようにため息をついた。
「こういうのは夏紀の担当だと思うんだけどね」
 そういいながら、優子は丁寧に手を合わせて食事を始める。育ちの良さが現れる彼女の前には、いつからか習慣になったらしい弁当箱が広げられていた。リボンの色が少し落ち着いたナプキンの端が机からはみ出そうになっているのを眺めながら、言葉を噛み砕く。
「伝言?」
「そもそも夏紀は知りもしないわよ」
 そういいながら優子は卵焼きを口にして、その出来に満足そうに咀嚼した。話がイマイチ見えなくて、とりあえず食べ終わるのを待つために菓子パンの袋を開く。
 飲み込み終えた優子は口を拭くと、そのままなんでもないように口を開いた。
「みぞれ、留学するって」
 私の目を見ないで言葉を放つ優子は、珍しいなと思う。放たれた言葉よりも、その外れた視線に意識が向く。言葉はそのあとについてきたから、思った以上に動揺してない自分に気がつく。
「そうなんだ」
 思ったことをそのまま言葉にしてみると、思ったより冷たい感じはしなかった。どうすればいいのかわからなくて、とりあえず手に持った菓子パンにかじりつく。優子は私の言葉に怪訝な目を向けた。
「知ってたの?」
「いや、初めて知った」
 でも、どこかわかっていたのかもしれない。自分で口にしながら気がつく。それこそ何度も想像した彼女の晴れ舞台が、少しずつ現実のものになっているだけなのかもしれない。だから驚いていなくて、その代わりに言葉を探している。
「そう」
 こんどの言葉は、ずいぶんと含みがある言葉だった。さっきまでと同じように箸は動いているけど、優子が言葉を選んでいるのがわかる。優子が本当に怒るのは、いつもならじゃれあいですむそれに手がつけられなくなるのは、誰かのことを思っているときだとわかったのは大学生になってからだった。菓子パンを食べ進めても、味はまったくわからなかった。
 弁当箱の中身を空にし終えると、優子の目がはっきりと私を向いた。
「なんでそんな淡々としてんのよ」
「うーん、なんでだろ」
 思っていることをそのまま言葉にすると、思った以上に軽薄に響いて少し焦る。思ったとおり、優子の目がゆっくりと細められていく。
「もしかして、自分には関係ないとか思ってないでしょうね」
「思ってないよ」
「ふーん」
 慌てて答えても、優子の目は相変わらず厳しいままだ。これをどうにかできる人間は一人しかしらない。味のしないものを口に含むのをやめて、今度は私が言葉を選び始める。
「なんか、予想してたっていうか、驚いてないわけじゃないんだけど、なんとなくわかってた気もするんだよね」
 言葉を落とし始めた私の言葉を、優子はただ黙って聞いている。周りの人間はみな自分のことで精一杯だから、他の人の言葉に耳を傾けている様子もない。だから、安心して言葉を選べる。
「驚く資格がない、みたいな」
 なんとなく選んだ言葉に納得する。みぞれの留学に、驚く資格が私にはない。それだけじゃなくて、いろんな資格が私にはないような、そんな気がする。
 眉をひそめた優子が私の言葉に納得していないのは丸わかりだった。当然だ。優子と私を納得させるために、言葉を選ぶ。
「夏に貰ったみぞれの手紙に、まだ返事してないんだ」
 ひどく簡潔に選んだ言葉で、伝えたいことの説明がつく。伝わると、わかる関係は楽だ。少し情けなさがやってきて、うつむきそうになる私の視界に映るのは開けた菓子パンの袋と、空っぽのお弁当箱だ。それ以上つなげるべき言葉がわからないから、代わりに菓子パンをとりあえず飲み込むように口に含むと、容赦なく口の中の水分を奪って、元からカラカラだったのかどうかもわからなくなってしまった。
 ため息が聞こえて、顔を上げると肘をついた優子の呆れた顔が目に入った。
「そんなことで悩んでるの」
「ひどくない?」
 人に話させておいて、流石にそれはないだろう。苦笑する私から目を逸らさぬまま、優子が口を開く。
「あんたがみぞれを待たしてるのはいつものことでしょ」
 優子はなんでもないふうにそう言うと、淡い桜色の水筒を傾ける。ひどく雑に放たれたその言葉は、ずいぶんと優しく聞こえた。
「そうだね」
「そうよ」
 まあ、なんでもいいけど。優子はそう言いながら立ち上がった。本当にそれだけを伝えに来たようだった。
「後悔しないようにしなさいよ。もし留学前に話せなかったら、半年間はまあ確実に会えないんだから」
 片付けをさっさと済ませた優子の後を慌てて追う。ゴミを適当に突っ込んで、少し駆け足で追いつくと、優子は足音に振り向いて口を開いた。食堂の入り口はさっきよりずっと静かになっている。
「うん」
「まあ、あんたは一年近くみぞれ待たしてるんだし、あんたも半年ぐらい待ってみてもいいかもしれないけど。みぞれが可哀想だし」
 優子はそれだけ言うと、さっさと背を向けるように歩き出した。ありがとうを伝え忘れたことに気がついたのは、その背中がずいぶんと小さくなってからだった。
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11. 親知らず
親知らず / 生命力 / チャットモンチー
「留学?」
 聞き慣れたようで馴染みのない言葉が放たれたとき、思わず私は意味もなく繰り返してしまった。みぞれが嘘をつくことなんて、ないと知っているのに。
「うん、留学」
「へえ」
一月が終わっても、まだ冬は終わらない。雪は丁寧に振り続けていて、ひどく冷え込んだ街から逃げるように飛び込んだ席での話だった。
現実感を取り戻すために、コーヒーカップに口をつける。とりあえずで入ったチェーンのカフェは、コーヒーが美味しくないことを頼んだあとに思い出した。
「もう時期とか、期間とか決まってるの?」
「今年の五月から、三ヶ月」
 もう何度目になるかわからない近況報告会が、初めてそれらしく機能していることに気がつく。音大の留学がどんなものなのか、私にはわからなかった。
「結構長いね」
「うん」
 そういうとみぞれは、頼んだココアを飲み始めた。冬になると、自販機の前でココアとミルクティとで迷っていたことを思い出す。ココアはスチール缶だったから、電車に乗るまでに飲み干してしまわなければいけなかった。
 そういう記憶から薄れていくということを、私は十分学んでいた。コーヒーに映る私は、何も変わってないように見えるのに。
「留学、か」
 みぞれがいうそれは、キャンパスのそこら中に貼られたポスターに書かれた薄っぺらい二文字とは、きっと重さもなにもかも違うのだろう。どれだけの重さがあるのか、今ではもう想像ができなくなった。
 見えているだけなんだな、と思う。こうやって顔を合わせることがあると、忘れてしまいがちだけれど。少しずつ立っている場所は離れていて。彼女の周りの世界も、段々とわからなくなっていく。こうやって会えるのも、少しずつ少なくなっていくんだろう。
「優子?」
 みぞれの声に顔を上げると、二つの赤がはっきりとこちらを捉えていた。その視線が突き刺さるかのようで、私は中途半端に体を曲げたままになる。視線だけを合わせると、心配そうな表情が見えた。
「思いつめた、顔してた」
 大丈夫?と、みぞれが聞いた。みぞれが心配だと私が勝手に始めたものなのに、私が心配��れている。なんだかおかしくて、それなのにあんまり笑えなかった。
「大丈夫、なんでもない」
「そっか」
 自分の部屋に帰ってから、なんとなく実家の電話番号を選んでしまったのは間違いじゃないと思いたい。
 こういう日に限ってあいつは実家に戻っていて、「なんでよ」なんて思ってしまったのも原因かもしれない。
『そういえば、あなた前に来た時忘れ物して言ったわよ』
「えっ、なにを?」
 簡単な現状報告のあと、母親がそう切り出した。覚えがない話に、転がしていた体を起こした。
 母親は、「なぜ」かは問わない。そういう人なんだと、わかったのは最近のことだ。離れてはじめてわかることがあるなんていくらでも言われていることなのに、自分で改めて感じると急に寂しくなってしまう。
『ハンカチ。東京いったときに買ってたやつ』
「なくしたと思ってた……」
 年末に帰��してからまだ一ヶ月と経っていないのに、受話器の向こう側からは懐かしい声がするから、なんとなく気が抜けてしまう。安心も一緒になって、思わずこぼれたため息に、父が気づいてなかったか、と笑ったのが聞こえた。
『送ろうか?』
「いや、そこまでしなくていいよ」
 相変わらずの甘さに苦笑いを浮かべる。なんだかんだ甘やかされていたことに気がついたのも、一人で暮らし始めてからだ。
『じゃあ、取りにくる?』
「うん、そうする」
『わかった、いつくる?』
「んー、ちょっと待ってね」
 予定を聞かれて、机の上に置かれたカレンダーを見る。意外と隙間のある予定を見つめて、どこに埋めるべきか迷う。
 なんとなく気乗りしなくて、次の月をめくる。来月の今日には、近況報告の予定が書いてあった。再来月も、四月も、五月も、律儀に組まれているそれは、ちゃんと消せるように鉛筆で書き込んでいた。
「明日」
 それを消して、書き直さない日のことを思ったら、なんだか無性に、帰りたくなった。
『え?』
「明日、行っていい?」
『いいわよ』
 ほんの少しだけ、沈黙があって。それがあまりにも優しくて、泣きそうになってしまった。
「ありがとう」
『あんたが好きなもの作るわよ、何食べたい?』
「別にいいって」
 お正月のことを思い出して、また笑ってしまう。あまりにも豪華で、食べきれなかったというのに、父も母も嬉しそうに笑っていた。
『言っときなさいよ、普段食べられないものとか』
「うーん、じゃあ――」
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10 極夜
極夜 / Diving in the silence / 坂本真綾
「あ、」
 繋がった、と思った。電子音が切り替わってノイズが走り出す。空気が触れるだとわかる。同じぐらい意味のない音のはずなのに、どこか息を飲んでしまうのはなぜなのだろうか。
 寝静まった家族を起こさぬように家を抜け出して、最寄り駅の方まで歩きだしながら、スマートフォンを耳に当てていた。もう十二時近い駅の周りはひっそりと息を潜めていて、まるで私なんていないかのようだった。
『……もしもし、鎧塚です』
 懐かしい声がした。本当に、懐かしい声だった。どれくらいの時間が、経ったのかさえわからなくなってしまった。目的もなく進んでいた足は止まっていく。駅からやってきた疲れた人が、私を通り過ぎていった。
「みぞ、れ?もしもし?」
『希美?』
「あ、希美、です」
 どやら長い月日の間に、電話のかけかたすら忘れてしまったらしい。苦笑いを浮かべても、誰も見ていないことに気づく。駅の近くの広場は、昼の顔とは違っていて。これだけ長く暮らした街なのに、知らないことがいくらでもあるのだと思う。
『……希美』
「ごめん、名乗るの忘れちゃうね」
『大丈夫、声でわかる。登録も、してあったから』
「そっか」
『うん』
 言葉が重なると、電話越しの輪郭が確かになっていく。みぞれはいつもそうだった。音と、言葉が、彼女を確かにしていた。大人しく、主張しないその存在がはっきりとするのは、彼女の言葉か、それとも音かのどちらかで。
 姿が見えなくても、それは同じで。変わっていないことに、安心する。
「急に、ごめんね、」
『大丈夫』
「電話番号、卒業式のときに交換したっきりだったね」
『うん』
 繋がらないんじゃないかと、思っていた。渡されていた11桁の数字の羅列に、意味があると信じるのは難しい。時が流れれば、それはなおさらだ。
 手紙の返事は、結局書けなかった。だから、こうやって声で伝えようと思っても、一日中向き合っても原稿用紙を埋められない言葉は、口に出しても伝えられないのだとわかっていた。それでも、番号に縋ってしまったわけで。
「今、大丈夫?」
『大丈夫』
「よかっ、た」
 公園の中には入れなかった。足を踏み入れたら、戻ってこれないような気がしていた。入り口にあるガードレールに寄りかかると、思ったより落ち着けた。
 電話の向こう側のみぞれの声は、いつも以上に柔らかかった。合宿で、夜遅くまで遊んだ時のことを思い出す。あのときと同じ声だ。あのころはかけらもなかったはずの罪悪感が、酷く苛んでいるような気がした。
「コンサートのこと、聞いたよ、夏紀から。大成功だったって」
 言葉を紡ぐための時間が、白い煙で形になっていく。
 いろんな話を聞いた。いろんなことを聞いた。それを告げるのは、卑怯な気がしていた。だって、私は何もしていないのだから。まるでテレビの向こう側の人間を眺めるかのように、みぞれを見つめてしまうのは、本当に卑怯なことだと思った。
 うわずった声だなと、沈黙の間に思う。こんな情けない声を出せるようになったのは、あの日からだ。
『……希美にも、聞いてほしかった』
 短い沈黙のあとのみぞれの声は、いつもと同じで。
 その言葉は、私が大切にしたかったものを、私まるごと突き刺していった。
 なんて答えればいいのかわからなかった。「予定があったから」?「また今度聞かせて」?昔の自分なら選んでいたはずの言葉が、どれも通り過ぎていくだけだった。時間を重ねるにつれて、笑うのが下手になっていく自分と重なる。
「ごめんね」
 絞り出すように選んだ言葉を聞くと、自分が何を伝えたかったのか、すっかりわからなくなってしまった。
 男女の二人組が、やわらかそうな笑みを浮かべて歩いていくのが目の端に映る。ああいう幸せが、今同じ時間にあるのが信じられなくなった。
「ごめん」
 もう一度言葉にすると、何に謝りたいのかすら、わからなくなってしまった。
『希美が、謝る必要なんかない』
 十二月の夜はあまりにも長かった。まだ朝が来ないのは、救いだったけれど、このままではいつまでも朝はやってこない。明けない夜を待ち続けて、ずっと苦しんでいるのはみぞれのはずなのに、みぞれの声はいつもずっとはっきりとしていた。
「うん」
『希美が、見たいと思ったら、見に来てくれればそれでいい』
 あまりにも優しい言葉に、何も言えなかった。情けない自分を抱え込んで、次の言葉がやってくるまで、私は夜に座り続けた。
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09 飛べない魚
飛べない魚 / フィードバックファイル / ASIAN KUNG-FU GENERATION
 待ち合わせに指定された大学食堂は、夕方のせいか人はまばらだ。近所に済む学生が夕飯をざっと済ませたり、女子が喋りの場として利用していたり、よくわからない同好会がのさばったりしていても、互いにプライベートが守られる空間だ。解放的な構造になっていても、どこか隠されているような気がする。
 持ち込んだ紙パックのジュースは、すでに半分以上減っている。手持ち無沙汰的に飲み物を飲んでしまう癖は、自由になるものが増えてから顕著になっていった。ストローの先を軽く噛みながら、これ以上飲み込むのをなんとなく我慢する。口の中に残った人工甘味料に顔をしかめそうになるのを抑えていると、私を呼び出した本人があらわれる。
 優子は食堂の入り口に立って食堂全体を睨むように眺めて、だらしなくストローをくわえたままの私を見つけた。睨むような視線を向けられるのは慣れない。
 相変わらず大学でも人気があるらしい優子の歩く姿を、熱っぽく見つめている男子が何人かいた。こんなに機嫌が悪いことが丸わかりだというのに。その誰もに勝ち目はなさそうで、思わず笑ってしまう。机の上に投げやりに鞄を載せた優子は、私が笑っているのを見ると怪訝な目をした。ずいぶん疲れているらしい。
「何笑ってんのよ」
「いや、なんでも」
「ふうん」
 私の返事に怪訝な目をしたまま優子がつぶやいた。呼び出されたときから、なにか怒られるような予感はしていたけど。そもそも、こういうときに呼び出されるのは私が悪い。自覚がなくても。誰が相手でも。
「おつかれ。なんかあった?疲れてそうだけど」
「別に、何もない。それより、これ」
 会話もそこそこに、乱暴に置いた鞄を引き寄せてなにやら取り出した優子を眺める。説明もなく突き出されたパンフレットに、本能的に口角を上げた。私の表情を見て、優子の眉間の皺がまた深くなった。私が知る限り、あれをどうにかできるのは二人しかいない。私はその二人じゃないから、見なかったふりをする。
 全4ページ構成で折り畳まれたそのパンフレットの中には演目が並べられていて、一体なんなのか言われなくてもわかった。
「ありがとう」
「まだ何も言ってないんだけど」
「うん」
 私がパンフレットに目を通しながら答えると、優子は大きなため息をついて椅子に座った。可愛子ぶっているわけじゃなくても、普段は落ち着いているから、その不機嫌さを隠さない様子に驚く周りの人間だっているだろう。そのことを、私が知っているのもおかしな巡り合わせだ。
 渡されたパンフレットには、あの大学の名前が載っていた。たとえ覚悟ができていたとしても、氷を背中に当てられるような嫌な感じは消えなかった。今でも引きずっているのかと、どこかがっかりする。お目当ての名前を探す。目が逃げて、上手く文字が読めない。
 頭に入ってこないことを自覚しても、なにか言わなきゃいけない気がした。
「一年生なのに、すごいね」
「講義内の発表だから、サークルとかとはまた事情が違うんでしょ」
「そっか」
 口の中がやけに乾く。目はパンフレットに釘付けになったまま、手でオレンジジュースを探す。見ていなくて危うくはたきそうになったそれを優子が避難させていた。
「ちょっと、危ないでしょうが」
「あ、うん、ごめん」
「しっかりしなさいよ」
 無理矢理目を紙面上から引き剥がすと、心の底から呆れた顔をした優子の顔が見える。なんとか口角を上げてみる。
「その顔やめなさいよ」
 私の笑顔に優子は釣られることもなく、そう言い放った。冷たささえ感じられるその言葉は、意外と残酷さはない。どこまでも優しい人だなと思う。その眼差しを見つめていると、高校のあの空間で、私だけがただ一人子どもであったということを思い出してしまう。
「ええ、生まれつきだし」
「そういう意味じゃないって、あんたもわかってるでしょ」
 誤魔化せないな、と思う。何も言い返せなくなって、もう一度紙面に目を落とす。今度は落ち着いて見ることができた。紙面の端に載っている名前は、珍しいせいかよく目立つ。後ろから二番目。曲目は――
「来るの?」
 私の思考を遮るように、優子は問いかけた。表紙を確認して、コンサートの日程を確かめる。クリスマスイブ。予定は、なかったはずだ。
「行けたら」
 うん、と頷く代わりに、曖昧な言葉が現れていた。あまりにも誠実ではない言葉に、自分で自分を笑いそうになる。
 私の言葉を聞いた優子の表情は、想像していたよりずっと穏やかだった。言うべきことを飲み込んだようなその表情が、いつかの夏紀と重なる。一緒にいると、表情すら似てくるのだろうか。
「そう」
 優子はそれだけ言うと、立ち上がった。そっと目を向ける学生がいるのがわかる。
「まあ、私は伝えたから」
「怒らないの?」
 鞄を肩にかけた優子に問いかける。とっさにでた言葉だった。ひどく小さなころ、父親に許された日のことを思い出す。
 私の言葉に固まった優子は、たっぷりと時間をかけて私を見た。そらさずに見ると、その大きさがわかる。そこには、哀れみとも怒りともつかない表情が乗っているような気がした。
「怒られたいの?」
 その声は、私にただ問いかけていた。だから、私は余計に自分の間違いに気付く。
「ごめん」
 どうしようもなくて、謝る。問いかけには答えてない、逃げている自分にまた気付く。
 優子はうつむいた私にため息をつくと、鞄をもう一度肩にかけなおした。
「謝るのは、私にじゃないでしょう」
 そういって歩いていく彼女を、どれだけの人が見つめていたのかはわからなかった。ずっと、うつむいていたから。
 結局、コンサートには行けなかった。行かなかったのだ。
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08 また始めるために
また始まるために / Sing / GRAPEVINE
 オーディションに落ちた。サークルの冬のコンサートの。フルートの枠は二枠で、六人で争った。三番目だったと後から告げられた。
 なんとなく、わかっていた。ショックを受けない自分がいて、わかっていたのだと気がついた。声も震えなかったし、涙も浮かばなかった。自分が何をわかっているのを、わかるのは案外難しい。
 悔しくないわけじゃない。審査は厳正だった。本当に、思っていた以上に。自分の実力が足りなかっただけだ。悔しくならないわけがない。
 それでも、衝撃はなかった。歯を食いしばったり、手を強く握りしめたり、逃げ出したりはしなかった。先輩に声をかけられて、「悔しいですね」と「おめでとうございます」だけ言った。言葉はまっすぐだけど、私は嘘みたいだなって思った。
 涙を流す代わりに、夏紀を呼び出した。
 そういえば、何ヶ月ぶりなんだろうか。
 目の前でコーヒーを飲んでいる夏紀をぼんやりと見つめながら、ふと空白に気がつく。最後に見たときの夏紀は、まだ夏が始まることを憂いていたのに。目の前にいる夏紀はネイビーのジャケットがよく似合う女性になっていた。いつの間にかあの頃よりまた大人びた雰囲気をまとっているように思えるのは、私の勝手な思い込みなのか、それとも。
 二十四時間営業のチェーン店で、誰もいない二階の端に座った。無意味な店内放送も節電のために切れられて、階下からする店員たちの話し声もかすれて聞こえない。そういう位置に二人でいる。
「久しぶりな気がする」
「そうだっけ」
 呼び出しておいて、何を喋ればいいのかわからなくなった私を、夏紀はいつものように見つめていた。私は、テーブルの染みを数えている。選んだ抹茶のラテは、一口も減っていない。初めての味を確かめることより、何を話すべきかということが脳の中を支配していた。
「前にあったの、七月になる前だった気がする」
「そっか。やっぱ学部とかサークルとか違うと、どうしてもね」
「そうだね」
 途切れ途切れの接続はあっても、顔を突き合わせることはなかなかない。向き合わなければわからないことは、案外それなりにある。でも、それはいつでもそうだったのかもしれない。
「バイト、大変?」
「最近はそうでもないよ。優子の部屋にお邪魔させてもらってることもあるし」
「そっか」
「その代わり、料理の腕は上がったけど」
 そういう夏紀の苦笑いには、ひどく優しさがあるのがわかる。あまりの喜ばしさに、あんまりからかう気にもならない。
「一石二鳥だ」
 私の言葉を聞くと、夏紀ははにかむような笑いを浮かべた。
「そう、かもね」
 その表情を見て、よかったな、と思う。幸せであってほしいと思った。そのまま、素直に言葉をつなげる。
「あのさ、今日、ありがとね」
「どういたしまして。まだ何もしてないけど」
 私の言葉に、夏紀はそう茶化すとまたコーヒーカップに口をつけた。夏紀は評価を下さない。「久しぶりに話さない?」なんて、なにかあることまるわかりのメッセージを送っても、夏紀は意味を問うこともない。
 ひどく、甘やかされている。きっとあのころから。そう気が付き始めたのは、距離が遠くなってからだ。優しい人間だとはわかっていたけれど、その優しさがどれだけのものか、少しだけ大人になってやっとわかった。
 その優しさは、一体どこから来るんだろうか。
「夏紀は、」
「ん?」
 疲れないの。言葉にする前に、違う、と気がつく。
 そうじゃない。私が、甘えているだけだ。
 気がついてしまった。不思議そうにこちらを見つめている夏紀に、本当に紡ぐべき言葉を選ぶ。逡巡する私の瞳に、夏紀が首をかしげるのが映った。
「優しいね」
 選んだ言葉では、何も大切なことは伝えられなかった。距離がはなれていたわけじゃない。逃げていただけだ。情けない私を、問いたださない夏紀に、甘えていた。
 終わるのに理由がいるように、続けるのには覚悟がいる。そんなこと、わかっていたはずなのに。
「希美?」
 私がうつむいたことに気がついた夏紀が、心配そうに声をかける。私が私のこ��しか見えてなかったときに、夏紀は一体どれくらい世界を見ていたんだろう。
「みぞれから貰った手紙、まだ返事してないんだ」
 私の言葉に、夏紀の表情が変わったことに気がつく。未だに私の鞄のクリアファイルの中で眠り続けているその便箋の存在を、知っているのは私とみぞれと夏紀だけだ。あれから何ヶ月も暖めたままの下書きは、もう季節の挨拶さえ変わっている。
 もうほとんど逃げ出しているようなものだった。意識の外に追いやっていた。思い出したのは、オーディションに落ちたからだ。
 懺悔なんてするつもりもなかったのに。
「もうとっくに締め切りなんて過ぎてるのに、まだ考え中っていって逃げてるだけ」
 言葉にすると、自分の浅はかさに気がつく。私の自嘲に、夏紀が声を張り上げる。
「そんなこと」
「オーディション、落ちちゃったの」
 私が落とした言葉に、夏紀は固まった。綺麗な表情に、影が走るのがわかる。
「サークルの。でもね、ショックじゃなかった。悔しかったし、今も頑張ろうって思ってるけど、ショックじゃなくて。あのときのこと、あれだけ悔しかったんだなって、気づいたんだけど」
 少しだけ、夏紀の顔が苦痛に歪んだ。私が何を思い出しているのか、夏紀にはわかっているのだろう。
 気がついた。悔しくても、あのときの衝撃をまだ乗り越えていない自分がいる。大きな傷の中では、小さな痛みに気がつくことは難しい。膝を擦りむいてみて、初めてわかることがある。
 それなのに。
 顔を上げて、夏紀を見つめる。輪郭がひどく不安定に見えた。
「あんなにショックだったのに、まだ向き合いきれてなくて、それで、また、私、こうやって甘えてる」
 恥ずかしくて、泣きだしそうだった。
 無邪気に振る舞えなくなったのは、いつの日からなのだろうか。昔の自分の幼さに、気づき出したのはいつからだろうか。
 小さい頃のワガママが恥ずかしくなる年は過ぎた。そういう年齢が誰にでもあるということを知ったからだろうか。それよりも、もっと恥ずべきことがあると知ったからだろうか。
 謝りたいと思った。どう謝ればいいのかもわからなった。過ちを償う方法はわかっても、愚かさを償う方法はわからない。
 情けないと思った。
 償いたいと思った。
「希美は、立派だよ」
 夏紀は小さくそうつぶやくのが聞こえた。
「まだ���やり直せるのかな」
 何が、必要なんだろうか。また始めるために。
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07 ふたり
ふたり / anthor sky / GRAPEVINE
『ごめんね、わざわざ来てもらったのに。講義のグループワークの課題やってたら、遅くなっちゃって』
「大丈夫。私も、何も連絡しないで来た」
『でも水曜はいるって言ったの私だし。いやほんとごめん。みぞれ今度なんか奢るわ』
「CD、貸してもらったの、私の方。気にしないで」
『うーん、いや、ごめん。なんでこういう週に限ってわけのわからない課題出すんだろ……』
「優子、疲れてる?」
『いや、ちょっとグループワークの子がね……』
「大変、そう」
『みぞれに比べれば全然よ。あともうちょっとで解放されるから、急いで三十分ぐらいで行けるんだけど、マンションで待っててもらうのは流石にまずいし。どっか喫茶店も……ないか』
「大丈夫、待てる」
『いや、今日冷えるし。風邪引かないでほしいから』
「大丈夫」
『うーん、暗くなってきたし、安全的にも怖いのよね……CD、ポストに入ったりしない?』
「試してみる、けど。ちょっと無理そう」
『結構貸したもんねー、入らないかぁ……』
「……優子」
『ん?どうかした、みぞれ』
「ペット、飼ってる?」
『飼ってない、けど。そもそもうちのマンション、ペット禁止だし。どうして?』
「優子の部屋から、足音がする」
『え?』
「近づいて、来る」
『え?本当?』
「うん、いまドアのところにいる」
『え?なんで、えっ、あっ』
「鍵が、空く音がしてる」
『いや、あのね、みぞれ、ちょっと待って』
「扉、空いた」
『あーー』
「すいません、人んちの前で電話するのやめ……、みぞれ?」
「……夏紀が、出てきた」
『あーー』
「……」
「……」
『あーー』
「……とりあえず、入る?」
「……うん」
『あー……』
「はい、ココア。飲める、よね?」
「大丈夫。ありがとう、夏紀」
 ココアの入った来客用のコップを差し出しながら、自分の誕生日会の準備をするのは、こんな気持ちなんだろうかと考える。どこか他人行儀。拭いきれない違和感。どこかで間違えているような感覚は、時折肌をなぞっていく。
 意味もなく胸を抑えたくなるのを堪えながら、自分がこの空間に随分と慣れ親しんでいたことに気づく。そんなことを言ったら、お前の前にあるその専用になったコップはなんなんだよと言われそうだけど。誰に?優子にか。いやでも、優子はそういうことは言わない。
 みぞれは湯気の立つマグカップに少し息を吹きかけて、一口含むと、顔をほころばせた。
「美味しい」
「良かった」
 こういう動作のとき、本当にみぞれは幼く見える。なんとなく、優子が過保護な母親のように振る舞う理由がわかる。みぞれが私たちよりもうずっと大人であることを、優子は知っているのだろうけど。
 人には内側の輪郭があって、それがひどく不安定に見えてしまうのがみぞれという人間なのかもしれない。一年中ずっとあの調子の優子、人当たりのよい希美に、ヘラヘラしているだけの私。そういう中で見ると、みぞれはどこか柔らかくて。なんとなく、手を差し伸べたくなる。サークルの男たちに言わせれば、「守ってあげたくなる」のだろうか。だから、希美はみぞれに声をかけたんだろうか。と、今では思う。
 ゆったりとした無言の時間が続いている。三年生のときも、一緒にいるときはあまり言葉を交わさなかった。みぞれのココアが少しずつ減っていくのを眺めながら思い出す。同じクラスだからといって、何もかも見れるわけじゃないし、何もかも喋るわけじゃない。当たり前だ。でも、あの頃の私はきっと、彼女の何かを知っていたのだろうと思う。希美も優子も知らない、何かを。
「夏紀?」
「えっ?」
 みぞれから声をかけられて、ふと現実に引き戻される。眼の前ではみぞれが首を傾けて私を見つめていた。
「飲まない、の?」
「ああうん、飲むよ」
 慌ててカップに口をつける。まだ熱くて、舌を火傷しかける。誤魔化すように飲み続けると、置いた頃には半分近くまで減っていた。調子が崩れているのがまるわかりで、つい自嘲したくなる。
「そういえば、今日はどうしたの?」
 苦笑いを浮かべる代わりに問いかけると、私の向こう側を見ていたみぞれの目が、私に向けられる。
「CD、返しに」
「ああ、そういやあいつそんなこといってたね。返しておくよ」
 そういって手を差し出すと、みぞれは私を見たまま固まってしまった。差し出された手に向けられた視線を感じながら、みぞれが動き出すのを待つ。さっきから、なんとなく噛み合わない。
「みぞれ?」
「あ、うん。ありがとう……。よろしく、お願いします」
「あ、うん」
 思ったよりよりある厚みを手で図りながら立ち上がる。これは貸す時も大変だったんじゃないだろうか。曖昧なことを考えながら、優子がいつも寝ている部屋の扉を明けて、一番近くにあるホワイトボックスの上に置く。こういう場なら、勝手に入っても怒られないだろう。流石に。いやでも小言ぐらいは言われるかもしれない。仕方ない場面だから、受け流しておけばよいだろう。
 怒られた時のシミュレーションを脳内で繰り返しながら、席に戻ると、みぞれはまだ落ち着かないように目だけ動かして部屋の中を見渡している。そんなに面白いものでもあるのだろうか。よく見ると、さっきから彼女のマグカップのココアはあまり減っていない。
「戻してきたよ、結構借りてたの?」
「うん、10枚」
「そりゃ多いね」
 中途半端に投げ出していた椅子にもう一度座り直しながら、声をかける。どこを見ているのかわからないみぞれを眺めながら、自分も飲みかけのココアを口に含む。さっきよりは飲みやすくなっていてホッとする。
「ねえ夏紀」
「?」
 みぞれの問いかけに、首だけを動かして答える。みぞれはこの部屋にも見飽きた��うで、まっすぐ私を見ている。
「優子と夏紀、一緒に寝てるの?」
 吹き出しかけた。
 とっさに顔を背けて慌てて飲み込むと、ココアが気管に入り込む。咳き込む私に、みぞれが心配そうに身を乗り出す。
「大丈夫?」
「だいじょ、ぶ」
 片手で口を抑えながら、もう片方の手でみぞれを止める。みぞれがもう一度座り込んだころには、咳も収まっていたから、テーブルに置いてあったウェットティッシュをとって手と口を拭く。
 椅子にもう一度座り直しながら、くしゃくしゃになったウェットティッシュを手で握りつぶす。みぞれは相変わらず困ったような表情をしていた。みぞれのせいで困っているんだけどな、とは言わないでおく。
「……なんでそう思ったの?」
 ウェットティッシュを右手から左手に移しながら、その湿った感覚がなんとなく気持ち悪い。冷や汗をかいたときのような居心地の悪さが、さっきから体の中を走り回っている。
「寝室、一つしかないから。寝る場所、他にない」
「あーうん、なるほどね」
 立ち上がって、ゴミ箱にポケットティッシュを捨てに行く。普段ならそれこそ椅子に座ったまま投げやって、優子に行儀が悪いと怒られるところを、本当にゆっくり丁寧にやる。時間稼ぎだ。
「そもそもね、私は一緒に暮らしてるわけじゃないから」
「そうなの?」
「うん」
「そう……」
 みぞれの言葉から、明らかに納得していないのがわかる。それはそうだろう。無理がある。まだ優子がいるときだったら誤魔化せたかもしれないが。
「昨日夜勤で、遅くなったから寝てただけで。今日全休だし」
「優子の家で?」
「うん……」
「こんな時間まで?」
「……うん……」
 無理がある。確信した私は、諦めて一から事情を説明することにした。なんとなく向き直る。
「私、今ギターやってるんだけど、前期そのためにバイトしてたの」
「うん、知ってる。優子から聞いた」
「あっそうなんだ。それで、夜勤のほうが給料がいいから、入ることにしたんだけど。どうしても帰るのが朝とかになっちゃって。そのまま大学行くのつらいなーって思ってて。それでも最初の方は頑張ってたんだけど」
「うん」
 ひどく言い訳を積み重ねているようだ。こんな説明、だれが好き好んで聞くのだかと思う。目の前のみぞれは、ずいぶんと真剣な様子なのだけど。
「それで、まあ生活リズムが当然崩れ始めて。だんだんだめになってきたときに、優子と遊ぶことがあって。それで帰る前に荷物運びにここ来て、休憩って言ってソファに座ったらそのまま寝ちゃって」
 あの日のことを思い出す。ヘラヘラ笑ってる私の不調を、きっと優子は見抜いていたんだろう。だから、いつもはさせないような荷物持ちなんかさせて、無理やり部屋に連れてきたのだ。今ならわかる。わかるからこそ、そこまで心配させてしまった自分がときどき恥ずかしくなっては、掃除や洗濯を手伝って誤魔化している。
「それで?」
「で、起きたときには朝でさ。日曜日だったから別に問題はなかったんだけど、怒られるなぁって思ったら、そんなに疲れてるんだったらバイトの帰りうちに来たらって言い出して、それから。寝るときはソファー借りてる。結構大きいから、十分寝やすいし」
「そっか」
 みぞれの相槌の打ち方があまりにも優しい声だったから、自分がひどく甘ったるい声を出していたことに気づく。
 納得したように、みぞれはココアの最後の一口を飲み干す。本当によく見ている子だな、と思う。高校の時から、多分そうだったのだけど。ぼんやりと自分の中にいるようで、その実ちゃんと目を向けるべきところには向けている。それは演奏にも出るし、こういうところでもちゃんとわかる。
「みぞれと会うと、優子楽しそうだし。ストレス解消にもなってるみたいだから。付き合ってあげて」
「私も、優子に助けられてる」
「そっか」
 優子は、ずっときっとあのまま、誰かのために生きるのだろうと思う。それはもうそういう風に生きるようになっている。だから、誰か見てあげなきゃいけない。
「みぞれが見ておいてあげるなら、多分優子は大丈夫だね」
「夏紀も」
「ん?」
「夏紀も、見てる」
「……そうだね」
 ふと、希美のことが浮かんだ。今、彼女のことを見てあげられている人はいるのだろうか。
「私のやつ、ロックばっかりだけどいいの?」
「いい。いろんなCD聞いてみたいから」
 優子の家に置いておいたアルバムから、いくらか選ぶ。これを渡したことがバレたら、優子から怒られそうだな、と思う。
「そっか、ならいいけど」
「ありがとう、夏紀」
「今度感想、聞かせて」
「わかった」
 みぞれがそう言いながら、鍵を開ける。結局優子は、時間に間に合うことがなかった。大方誰かの分まで課題を肩代わりしているのだろう。その努力に応じて、夕飯用のおかずはもう作ってあるのだけど。
「じゃあ、ありがとう、また」
「みぞれ」
 出ていこうとするみぞれのことを呼び止めてしまう。振り向くみぞれに、少しだけためらう。
「あのさ」
「うん」
「希美のこと、信じてあげて」
 言うようなことじゃないのは、わかってる。それでも、伝えておきたかった。
「今、考えてるはずだから、ずっと」
 もう秋になろうとしている夜は、ずっと寒くて。さっきまでの部屋の中や、ココアが愛おしくなる。ここから外に出るのには、少しだけ勇気がいる。その何倍もの決意を持って、みぞれは歩き出したのだろう。今ならわかる。冷え切った風に吹かれて、泣きたくて戻りたくて仕方ないときだってあるはずだ。
 それでも、みぞれは進んでいる。
「だから、ね」
 言葉は上手く続かなかった。こういうとき、言葉にしようって決めてから、いつでも上手く行かない。それでも、しようとすることに意味があるのだと信じている。彼女のように。
 みぞれは、何も言わなかった。迷っているようには見えなかった。それは言葉を選ぶための沈黙で、だから私はみぞれが何も言わずとも、もう答えはわかっていた。
「大丈夫」
「そっか」
 みぞれが選んだ言葉はそれだけだった。それだけあれば、互いに十分だとわかっていて。今更不思議な関係だと思う。
「気をつけてね」
「うん」
 思ったよりずっと大きなみぞれの背中を見送った。扉を閉める頃には、部屋の中はすっかり冷え切っていた。秋が来る思った。
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06 赤黄色の金木犀
赤黄色の金木犀 / フジファブリック / フジファブリック
 結局、返事は書けていない。メモ帳の一ページを使って書き始めた下書きは、消したあとで少しだけ汚くなってしまった。
 自分の部屋の、どこに置くべきなのかもわからなくて。ただの紙一枚を、こんなに持て余すなんて思わなかった。
 こんなこと、相談するようなことじゃないってわかっていても、誰かに聞いてみたくて。夏紀に聞いたら、「大切に持ち歩けばいいんじゃない」って言われた。
 だからあの手紙が届いた日から、私の鞄は数グラム重くなっている。
「じゃあ、失礼します」
 他大学のなれない練習空間は、言葉にできないプレッシャーを与えてくる。それは、テリトリーに足を踏み入れたときから、出ていくまで続く。
 合同練習は、このサークルの特筆すべき活動なのだとOBの先輩がいつだかの飲み会で言っていたような気がする。それにしては、別に得るものがなかった。そういう思い込みのような何かを、自分は笑える人間じゃないことぐらいはわきまえてい���から、何も言えないし、確信も持たないけれど。
 自分の荷物をまとめて、一足先に退散することにする。立ち上がってからわかる怠さに、思っていた以上に疲れていることに気づく。精神的な疲れ。大学生になると老けるというのは、どうやら本当らしい。
「あれ、希美飲み会来ないの?」
「うん、ちょっとお金なくて」
「あー、そっか。そりゃ仕方ないね」
 なんで合同練習の日に、ガッツリ飲み会の予定を挟んでいるんだか。ため息をつきそうになるのをこらえて、代わりに口角を上げる。誰も気にしてないみたいで、まだまだ私の笑いは通用するんだなって、何故か安心する。
「じゃあ、おつかれ」
「おつかれ」
「お疲れ様ー」
 バラバラに返ってくる返事をまとめて会釈で返す。踵を返して、騒がしい方向から逃げるように帰った。
 ちょっと今日の帰り方は、早急だったかもしれない。行きと同じなれない道を辿りながら、すこしだけ反省する。
 一人の時間がほしいような気がするし、誰かとじっくりと話をしていたい気もする。よくわからないけど、いろんな人と一緒にいる自分が嫌なのは確かだ。たくんの人にまぎれていると、いつまでも変わらない自分に気付かされる。軽蔑して、忌み嫌ってしまったあのころの自分の影を見るような、そんな感じがする。
 土曜日の夕方の見知らぬ街に、知っている人は誰もいない。だから、表情を作る必要もない。知らない街は、こういうところがいい。自分のことを気にしなくていいから、例えば民家から見える綺麗に咲いた花だとか、人気のいない公園だとかを、なんとなく眺めることができる。知らない街は優しいのだ。
 付き合いを重視して作られたスケジュールだと、普段より早く切り上げられてしまうからなんだか物足りない。いっそ自分だけ部室に戻って、練習してやろうか。そう思っても、時間が時間だから意味がない。だた無駄足を踏んで、それでバレたら面倒だ。諦めてさっさと帰ることにする。
 ため息をついてスマートフォンの画面を暗くすると、ぼやけた自分の顔が映る。鏡のそれが笑っていなかったことに、少し安心した。
 駅のホームは閑散としていた。土曜日の夕方の日差しは、まだ少しだけ厳しいから、影になるところを探し逃げ込む。九月の京都はまだ暑い。よく冷えたペットボトルを買って飲みながら、次の電車の時間を確認する。まだ、十五分もあった。
 まだ読みかけの小説は、開く気にならなかった。気に入った作家とまとめて並べられていた小説を買い始めても、あまり最近は手が進まない。電車の中で読んでいても、なんとなく途中で手が止まってしまって、そのまま目的地まで開くだけだったり。家でも、途中で投げ出してしまったりして。理由は、なんとなく想像がついているのだけど。
 なんとか鞄の口を開くところまでたどり着いても、やっぱり乗り気にならなくてやめてしまった。代わりに、目に入った封筒をなんとなく広げる。
 綺麗な字だなと思う。初めて一緒についていった中学の図書館の、貸出カードを思い出す。彼女の手から紡ぎ出される文字達が、なんとなく羨ましくなったのを思い出す。
 毎年の年賀状のやり取りでも、その綺麗な文字が見れたのが嬉しかった。少しだけいつもより明るくて、どこかふざけたようなメッセージが嬉しかった。
 進路希望調査。部活のアンケート用紙。練習ノート。合奏用の書き込み。いくらでもあったはずのそれも、思い出せるものはわずかだけだ。
 自分が書いたものは、いまでも覚えているのに。
 年賀状、どこにしまったかな。きっととっておいてあるはずだ。家に帰ったら見返そう。そう決める。
 電車が来るまではまだ時間があった。なくしてしまったらいけないから、手紙は丁寧にしまって。まるで宝物のようだ、と思う。返事もしていないのに?そう笑う声がして、力のない笑みがうかんだ気がした。
 メモ帳を取り出して、手紙の返事の続きを書く。電車が来るまでになんとか書けた一行は、結局家に帰ったら消してしまった。
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05 手紙
手紙 / You can't catch me / 坂本真綾
 傘木希美様
お���気ですか。暑い日が続きますが、体調を崩したりはしていませんか。高校生のあのころとちがって、毎日顔を見たりはできないから、こうやって思うことしか出来ないのはなんだか少し寂しいです。
この便箋は、大学の先輩からもらったものです。余ってしまったからあげると渡されて、最初に顔が浮かんだのが希美でした。暑中見舞いだと言い張ってみたりします。
こうやってちゃんとした手紙を書くことなんて、小学生のときに書いた自分への手紙以来のような気がします。なんだか、変な感じです。
先月、高校を訪ねに行きました。校舎は、あの頃とほとんど変わっていなくて。部活の様子も、少し見させてもらいました(フルートには新入生が五人入ったらしいです。オーボエは二人、入ったと聞きました)。思い出が詰まっていて。だから、手紙を書きたくなったのかもしれません。
あの坂道を、覚えていますか。私は今でも思い出します。あの坂を、登っていた季節のことを。登りきって、少し弾んだ息が落ち着いたころに校舎に着いて。希美を待っていた時間のことを、今でも私は覚えています。雨の日は、傘を指して。晴れの日は、階段に座って。そういうことを思い出しながら登ったあの坂は、あのころよりなんだかずっと長かったように思えました。
急な手紙に、びっくりさせてしまっていたらごめんなさい。伝えたいことはいっぱいあるはずなのに、こうして書いてみると、その100分の1も伝えられていないような、そんな気がします。
まだ便箋は残っているので、またいつか手紙を出すかもしれません。その時も、最後まで読んでくれたら嬉しいです。
 鎧塚みぞれ
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04 季節
季節 / Stranger / 星野源
「ありがとう、ございます」
 懐かしい声を聞きました。
 いつものように部活を終えて。たまたま通りかかった職員室に、その人はいました。
「失礼、します」
 そういってその人が頭を下げて扉を閉めて、振り向いた先で待ち構えていると。
 そういえば、あのときも驚いた顔をしていたな、なんて思いだしました。
「お久しぶりです、みぞ先輩」
「梨々花、ちゃん」
 初めて、そう呼んだときのことを、思い出します。
「先輩は、今日どうして高校に?」
「滝先生に、用があって」
「用って?」
「今年、私の大学を受けたい子がいるから、説明してくれって」
「なるほどー」
 懐かしい会話のリズムを辿ります。日曜日の夕暮れの校舎は、足音がよく響いてしまって。一人のときはそれがなんとなく淋しげなのに。二人だと楽しくなってしまうから、不思議なものです。
 先輩の声は、記憶とあまり変わっていません。表情も覚えているまま。だけど、少しだけ大人びて見えるような気がします。同じ制服と、違う色のリボンがなくなってしまったからでしょうか。柔らかいベージュのスカートがよく似合っています。
「素敵ですね」
 そう言うと、先輩は何のことかわからなかったようで、首をかしげました。こういう感情表現が、少しずつわかりやすくなっていったことが嬉しかったのを、思い出します。
「先輩、大人っぽいです」
 少し歩幅を緩めて先輩の方を見ると、伝わったようで。先輩は少し照れくさそうに笑いました。
「ありがとう」
「いえ、」
 西日が校舎に差し込んで、少しまぶしくて目を細めます。とっても、綺麗でした。
 いつも、友達と歩いているときの歩幅とは違うから、廊下がずっと長いような気がします。いつもならあっという間にたどり着く階段までもが、とても遠く感じて。遠くあってほしいのかもしれません。
 こうやって一緒に帰ることは、去年もあんまりなかったから、年甲斐もなくはしゃいでしまうのを我慢して。
「音大って、大変ですか?」
「大変。でも、楽しい」
 興味本意で問いかけてみると、力強い答えが帰ってきます。先輩の言葉に嘘はないから、きっと本当のことなのでしょう。
 どんなことを話しても、楽しいことはわかっていて。だから、私は思うままに言葉をつなげます。
「周りの人は、どんな感じなんですか?」
「みんな、すごい上手い。プロみたい」
 みぞれ先輩がそういうなんて、どんな世界なんだろう。そう思います。私にとっては未知の世界で。
 でも、上手い人の演奏を聞きに行ってみたい。そんな気持ちもあって。
「そうですかー。オープンキャンパス、行ってみようかな」
「二年生で、もう行くの?」
「ちょっと試しに、ぐらいですけど」
 ちょっとだけ背伸びした答えに、みぞれ先輩が驚きの表情を見せます。踵を上げすぎちゃった気がして、恥ずかしくて誤魔化して答えます。
 大学の目星は、すでにつけてはじめていて。音大は、みぞ先輩のところだけチェックしていました。行けるのかな、なんて思ってしまうけど。チェックするだけなら、大丈夫ですし。
「偉いね」
 そういうみぞれ先輩の表情は、とってもまっすぐでした。初めてこの表情を見た時、何を考えているのかわからなくて、とっても気になったのを覚えています。
 私は頭の中で言い訳を並べるのをやめて、先輩の目線の先を見て。
「私、二年生のときそんなこと考えもしなかった」
 そういうみぞ先輩の声には、後悔も懐古もありませんでした。今でも、私はみぞ先輩が何を考えているのかわからないときがあって。そういうときは、ただ黙って先輩の声を聞くことしかできません。
「偉い、と思う。応援する」
「ありがとう、ございます」
 だから、ふいに先輩の声がやさしくなったとき、なんだか泣きそうになってしまいました。
「そういえば、ふぐ、元気ですよ」
 階段を降りながら、思い出したことがあります。
「理科室の?」
「はい!」
 私はスマートフォンをそっと取り出して、昨日撮ったばかりのふぐの写真を探します。理科室での餌やりは、先輩がいなくなったあと、なんとなく続けていて。
「はいこれ、三匹とも上手く撮れて」
 そう言いながら写真を見せると、みぞれ先輩は嬉しそうに写真を見たあと、なにやら気になることがあるかのように、目を細め始めました。
「ふぐ、ちょっと太った?」
「そう、ですかね」
 私も気になって、先輩と一緒に写真を覗き込みます。いつも見ているからか、あんまり違いがわかりません。
「餌、あげすぎてないと思うんですけどねー」
「気のせい、かな」
「でも、みぞ先輩が言うなら、そうなのかもしれません」
 あの餌やりを、誰よりも真面目にやっていたのは先輩でした。私は、忘れないようにあげるのが精一杯で。ちゃんと、見れてないのかもしれません。
「餌、あげててくれたの?」
 私が反省回を始める前に、みぞ先輩は私の顔を覗き込みました。顔が近くて、ちょっとびっくりしながら、慌てて答えます。
「あ、はい」
「ありがとう」
 そういって、先輩は笑ってくれました。
 今日の玄関は、なんだか本当に綺麗でした。いつもの日常がこんなに綺麗に見えるから、少しだけ勇気が出て。
 もうちょっと勇気をもらうために、立ち止まります。来客者用の靴箱に向かおうとしていた先輩は、私の様子に気づいて。
「どう、したの?」
「今年、オーボエ、新入生が入ってきてくれたんです」
 ずっと、思っていたことを話します。きっと、誰にも言うことではないこと。
「そう、なんだ」
「初めてのことだらけで、ちょっと大変ですけど」
「うん」
「みぞ先輩みたいなお手本になれるように、がんばります」
 ずっと、言いたかったこと。
 言ったから、どうなるわけじゃないけれど。ずっと言っておきたかった。多分、新入生を前にしてから、決意してからずっと。
 卒業式の日に、先輩の前で泣いてしまった私は、言えなかったことが幾つかあって。それをもう一度今、伝え直すことにきっと意味はなくて。だから、今伝えたいことを伝える。
「私、あんまりいいお手本じゃ、なかったと思うけど」
「そんなことないです」
「……そう?」
「先輩は、最高のお手本でした」
 私がそう言うと、先輩はまた嬉しそうに笑ってくれました。
「そっか」
「はい」
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03 エネルギヤ
エネルギヤ / トライアル / the pillows
 本当に偶然だった。
 その日は、いつもより二時間も早くシフトに入っていて、その分解放される時間も早かったから。何気なく開いたSNSで、昔良く聞いていたバンドが音楽雑誌に乗っていると知ったから。まだ書店が開いていいる時間だったから。久しぶりに、昔作ったプレイリストを再生したりしていたから。今どんな曲書いてるのかななんて、気になってしまったから。
 そういう偶然が重なっていて、書店で店頭に並んでいた雑誌を特に考えずに手に取って、買い物を済ませたあとだった。
「夏紀」
 聞き慣れた声に後ろを振り向くと、レジの列に並ぶ希美が小さく手を振っていた。
「帰る?」
「うん」
 挨拶もおざなりに、駅までの道を歩き始める。同じ大学とは言っても、いつでもどこでも会えるわけじゃない。それでも、毎回他人行儀のように『久しぶり』なんて言うのはおかしな気がして。小さなためらいは、いつもいつの間にか消えていく。
 平日の夜の小さな駅前に、目立った人混みはない。大学の最寄り駅とはいっても、ほとんどの学生はもう家に帰る時間だ。こうやって静かな夜道を二人で歩くのは、あるようでなかったことの一つだ。
 大学の最寄りのバイト先を選ぶと、こういうこともあるのかと気づく。もっと遅い時間にばかり帰っていたから、気づくことがなかった。
「夏紀が雑誌買ってるの、初めて見たかも」
「そう?」
「まあ、高校に雑誌持ってこないしね」
「確かに」
 適当にリュックに詰め込んだのを見ていたのだろうか。私と希美の音楽の趣味は、合うようで微妙に合わない。今日買った雑誌にも、希美の好きなバンドは一つか二つしか載ってないだろう。
 別に、そういうものなんだろうなと思う。共通の趣味とやらがなくたって十分楽しいということは、優子となんだかんだやっていけてることが証明している。
 なんとなくリュックを背負い直しながら、歩き続ける。希美は誰かと歩いているとき、すこしゆったりした歩幅になるから、そのリズムに合わせて。
「こういうの、本当に気軽にできるようになったよね」
「こういうのって?」
「高校生のときとかはさ、雑誌とか買うのにも、めっちゃ悩んだじゃん」
「あー、わかるわ」
 希美が笑いながら相槌を打つ。希美はこういうなんでもないことでも笑うな、と思う。
「それがさ、大学生になってバイト始めるとさ、なんか割とサッと買えちゃうじゃん?」
「それね」
「なんかね」
「うん、なんとなく言いたいことわかるかも」
 中身のない会話に、なんだかおかしくなって笑いが溢れる。気楽だな、と思う。
 ずっと梅雨が続いていたから、つい右手で持った傘を持て余してしまう。無意識で刻んでいたリズムを止めて、気恥ずかしさを誤魔化すように話を変える。
「希美は?サークル?」
「うん。ミーティングがあって」
「あー、お疲れ様。一年生なのに参加するの?」
「そうなんだよー。なんか全員参加とか言ってさぁ」
 希美は大袈裟に肩を落としてため息をついてみせる。私のサークルは基本自由活動だから、そういう苦労はよくわからない。
「大変だね」
「部活が如何に有意義な会議してたかわかったわ」
「あー」
 なんとなく何が起きてるのか想像できて、苦笑いを浮かべる。希美はもう一度わざとらしくため息をついてみせると、またすぐにいつものような笑みを浮かべる。
「まあもちろん悪いことだらけじゃないんだけどね」
 楽しいし。そういう希美の表情に嘘はないように思えた。それならいいのかな、と思う。
 どうしても何をやっても、高校時代と比べてしまう自分はいて。それがなんとなく嫌だったから、私は吹奏楽をやめた。
 けれど、希美や優子は続けていて。もちろんみぞれも。そういうことをふと思うと、寂しくならないと言ったら嘘になるのだろう。
「まあ、頑張るよ。まだ始まったばっかりだし。ちゃんとオーディション受かってみせるし」
「応援してる」
「ありがと、あ、そういえば聞きたいんだけどさ」
「なに?」
「ミーティングのこと、MTGって言う?」
「え、なにそれ」
「言わないよね!」
 あーよかった、と希美が息をつく。
「なんか先輩がさ、エムティージーエムティージーっていうから、最初なんだかわからなくて。全然短くなってないじゃん」
「確かに」
「もう慣れちゃったけどさー」
「あるよね、そういうの」
「いつもこのぐらいに終わるの?バイト」
「今日はかなり早いかな。いつももう二時間ぐらい遅い」
「えー、大変じゃん。終電間に合うの?」
「今のところは。まだ繁忙期じゃないから」
「ってことは、そのうち帰れなくなっちゃうんじゃない?」
「そうしたら、頼み込んで優子のところに泊めてもらうわ」
 くだらない話をしていると、駅の入り口が見えてくる。こういう機会は少ないのに、過ぎてしまうのはあっという間だ。
 定期券の用意をしながら、そういえばと声をかける。
「希美、何の本買ってたの?」
 改札を抜けたあとの彼女に、後ろから声をかける。こっから私と希美は反対方向だから、駅でお別れだ。
 もっと早く聞いておけばよかったかもしれない。話すべきことは、聞きたいことは、いつも通り過ぎてから気づく。
「文庫本」
「なんてやつ?」
 少し足を速めて、希美の隣に並ぶ。駅の灯りに照らされて、一瞬希美の表情が見えなくなった。
「つめたいよるにって小説。短編集」
「へえ」
 希美はそれきり言葉を紡ぐことなく、歩き始めた。私もそれに黙って続く。
 特に意味もなく、二人揃ってホームの端まで歩く。駅のホームも人気がいない。その更に奥は、本当に誰もいない。電車到着のアナウンスだけが聞こえる。
 誰もいない夜のホームは、なんとなく寂しい。照らせるものがないから、かもしれない。
「みぞれがさ、読んでて」
 短い言葉でも、それが何を指しているのかはわかった。それよりずっと前からわかっていた。大学生になってから、希美が持ち歩くものが増えた理由。
「あんなに長い時間一緒にいたのにさ、何読んでたかなんて覚えてないもんだね」
 よく本を読んでいた。忙しい部活の練習の合間だとか、教室での休み時間だとか。同じクラスだったから、自然と目に入って。
 黙ったままの私に、希美がまた表情を崩して口角を上げる。希美はこういうところでも笑う。
「笑っちゃうよね」
 そういう笑い方が、どうしても好きにはなれそうにない。
「笑わないよ」
 思わず言う言葉に、力が篭った。希美の力のない笑いが崩れるのが見えた。よかった、と思った。こんな孤独な場所で、笑ってほしくなかった。
「笑わない」
 笑えるものか、と思った。
『お下がりください』
 力のないアナウンスが響く。希美の後ろに、彼女を運ぶ列車が止まる。いらないぐらい明るい光が、希美の表情を覆い隠す。
 電車がゆっくりと速度を落としていく。降りる人たちの足音に、みぞれが我に帰るように、また笑った。
「ありがとね」
 そう言って、私に向けた後ろ姿が、どこまでも淋しげだった。
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02 ここだけの話
ここだけの話 / Awa Come / チャットモンチー
 夜の閉店少し前のファミレスは、なんだかよくわからなくて、好きだ。
 みんながみんな、内緒話に夢中になっているような、そんな気がする。声は聞こえるけど、会話は聞き取れない。そのぐらいの距離感が、互いに保たれていて。店員も奥に引っ込んでしまえば、そこは見せかけの共犯関係が成立する。優しい無関心で埋められた底は、秘密の話にぴったりだ。
 だから、つい口が緩むもので。
「あからさまなわけ、態度が。俺カッコいいでしょ、みたいなのを見せつけられるわけ。大してカッコよくもないのに」
「大変、そう」
「勘違いだったらいいんだけどさぁ」
 こんなくだらない話をするつもりはなかったのに、段々おかしな話にずれていく。こんなはずじゃなかったのにとどこか少しだけ思いながら、でも目の前のみぞれが笑っているからよしとした。
 こういうくだらないおしゃべりに、みぞれを誘えるようになったのは、結局あの母校を去ってからだった。六年間、あれだけ毎日飽きずに一緒の部活にいたはずなのに、やってみたことのないことは意外とたくさんあって。少し距離が離れると、その距離の分、ためらいなく心配したり、話をしたりできるようになった気がするのだ。それは多分気のせいじゃなくて、近くなら見えていたはずのものが見えなくなってしまっただけなのだけど。
 つまらない人間関係の愚痴を吐き出し終えると、なんだか気が楽になった。
「こんなこと話してたら、もう夜だわ」
「うん」
 ふと店内の時計をみると、もう21時を過ぎていて。高校のときなら、こんな風にみぞれと遊んだとしても、三時間もファミレスで時間を潰すようなことはしなかっただろう。五月の終わりは意外と暑くて、買い物でバテ気味だった二人で逃げ込んだファミレスで、ドリンクバーだけで席を粘っていたら、もういい時間になっていた。ご飯も、アイスクリームも食べたのだからこれぐらいのことは許してほしい。
 なんだかんだ言いながら、今のところ毎月顔を合わせているみぞれは、少し大人びてきたように見える。制服ばかりみていたあの頃と違って、子どものような不安定な輪郭が消えている。本当に大人びてきたのか、それとも顔を見ない一ヶ月がそうさせているだけなのかはわからない。でも、以前はしなかったような柔らかい笑みをみぞれが浮かべているのを見ると、少しだけ寂しくなって、それでいてとても嬉しくなる。
「みぞれはどう?大学は大変?」
 三時間も使って、やっと本題を思い出す。いつもはじめに聞こうと思っているのに、他愛もない話をしているうちに忘れてしまう。大切なことを聞き忘れてしまうのは、あのころと同じだ。
「大変。だけど、楽しい」
 みぞれはこういうとき、いつも目をしっかりと合わせるようになった。その目を見つめると、その奥の強い意志まで見抜けるような、そんな気がする。
 本当は、わかっている。本当は、きっとこんな心配をする必要なんてないのだと。それでも、どうしても気にかけてしまう。彼女がずっと強いということ、私はもうわかっているはずなのに。
 別れの時間が近づくに連れて、少しずつ大きくなっていく寂しさを押し込める。こうやって胸の奥が少し痛むのは、きっと春が終わったせいなのだろう。そう思うことにした。
「みぞれは変な先輩とかいない?大丈夫?」
「大丈夫」
「そう?何かあっ��らなんでも私に相談してね。すぐ答えるから。力が必要だったら、夏紀引っ張っていくし」
「夏紀、大変そう」
「いいのよあいつは。どうせ最近はバイトしかしてないし」
 答えながら、ティーカップの中身を見ながら新しい飲み物を取りに行くタイミングを図る。
「何か、買うの?」
「ギター買うんだってさ」
 そういうと、みぞれは少しだけ驚いてみせた。表情が豊かになったなと思う。彼女の表情に薄く乗る感情は、彼女が持つ柔らかさを引き出しているような気がする。
 綺麗になったなと思う。親友としての贔屓目を除いても。
「なんか、納得した。夏紀、ギター似合いそうだし」
 夏紀がギターを始めることに関しては、みぞれも納得のようだ。なぜここまでみんな同じなのか。確かに、あいつにギターが似合わないとは思わないけれど。
「そう?今でさえ講義に遅刻しかけてるのに、これ以上不真面目になったらどうするのかしら」
「そこは、優子の腕の見せ所」
「なんでよ」
「冗談。言ってみただけ」
「もう……」
 あまりにもマジメな顔でみぞれが冗談を飛ばすものだから、思わずため息をつく。何を期待されているのかと思うけど、みぞれがどこか楽しそうだから許せてしまう。
「ちょっと冷えるね」
「うん」
 ファミレスの扉を明けると、少し肌寒いぐらいの気温になっていた。本当に長いこと話し込んでしまった。こんな遅くなるとは思っていなかったから、互いに軽装だ。少し寒そうにしているみぞれを見て、少し反省する。と言っても、次会ったときにはどうせ忘れているのだけど。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫」
 ファミレスから駅までの道を、なるべくゆっくりと歩く。あれだけ互いのことを喋ったという言うのに、どうしてもお別れのタイミングでは同じようなことを聞いてしまう。
 私の言葉に、みぞれはいつものようにそう答えた。なら、きっと大丈夫なのだろう。みぞれはずっと大丈夫だったのだろう。
「そっか」
「うん」
 でも次も、私は同じことを聞くのだろうと思う。これはきっと、ずっとやめられない。六年間の積み重ねは、非連続な一日を何回繰り返したって消せはしない。きっと。
「優子は、大丈夫?」
「大丈夫」
 同じように聞いてくるみぞれに、なんだか笑ってしまう。問いかけているみぞれは、ずっと真面目な顔をしているのだけど。
「優子、ずっと誰かのこと心配してるから。自分のことも、ちゃんと考えてあげて」
 みぞれの表情は、真剣そのものだった。
 気づかれているのか、と思った。
 自分でも、気づいていた。大学生になって、いろいろ変わった。高校生だった自分よりずっと、自分を見るようになった。
 理由はわかっている。少しだけ、周りとの距離が大きくなったからだ。あの頃は止めてくれる人がいたから。終わってみると気づくこと。その関係が変わっていて、不安になることも確かにある。
 それでも。
「みぞれがそう言ってくれるだけで、大丈夫だよ」
「そうなの?」
「うん」
 でも、これも本当のことだ。
 駅まで、あとほんの少しになった。少しだけ迷ってから、足を止める。私の様子に気づいたのか、みぞれも足を止める。駅の光が少しだけ足元を照らしていても、互いの表情はわからない。
「ここだけの話ね」
「うん」
 足元に落ちているタバコの吸い殻を見つめる。駅のホームから出てきた人たちが、急いで家路を向かっていく。そんな中で立ち止まっている私達は、どんなふうに映るんだろうか。
「ちょっと、よくわからなくなるときがあるの。今、私何やってるんだろうって。何がやりたいんだろうって」
 みぞれは答えを返さなかった。ただただ黙って、私を見ている。
「何もやらなくてもいいんじゃないかなって。高校、結構頑張ったし。何もしないで、そのまま流されてもいいんじゃないかなって思うこともあるんだけど、でもね」
 顔を上げる。目の前にいるみぞれと、しっかりと目を合わせる。
「みぞれが頑張ってるって思ったら、ここでダラダラしてられないなって。そう思うの。だから、」
 ありがとね。なんだか恥ずかしくなって、少し声がかすれてしまった。でも、ちゃんと伝わっていると思う。
「それなら、嬉しい」
 ��ういってみぞれは笑った。今日見た中で、一番綺麗な笑顔だった。
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01 桜の季節
桜の季節 / フジファブリック / フジファブリック
 桜の季節は、いつも落ち着かない。
 桜が苦手なんじゃなくて、散っていった花びらが苦手なんだ。宙を舞う花びらには見とれても、地面に落ちてしまったそれはどうしても苦手だ。それが道をびっしりと埋め尽くしていると、なんだか喉の奥が痒くなったときのようなもどかしさを感じてしまう。だから、春の日はわざと少しだけ遠回りしてしまう。桜並木を避けるように。
 昔、桜は不気味なものだったらしい。昨日読んだ本を思い出す。よくわからない話だった。続きが気になってしまったから、夜ふかしまでして読み終えたはいいものの、夢見も悪かった。まだ私が読むには早かったのかもしれない。
 お花見は好きだし、咲き始めの桜を見に行くことだってある。カレンダーの桜の写真に、人並みに感動したりもする。なのに、桜の散ったあとは嫌いだなんて、なんだかひどく子どものようなわがままを言っているようで。恥ずかしいから、こんなこと誰にも言ったことはない。私が桜の季節の終わりが嫌いだなんて、きっと誰も知らない。
 でも、もしかしたら、あの子は。
 入学式の日。少し駅から離れた会場へと足を運ぶ。
 大学の入学式は、思ったよりずっと面白くないものだと知った。中学や高校のときは、入学式といえば、前の夜には不安と期待が半分ずつぐらいあって、なんだか眠れなくて、用意された椅子に座ってもずっとそわそわしていたような気がする。もしかしたら、勝手にそう思ってるだけで、ずっと飄々としていたのかもしれないけれど。
 そもそもガイダンスだとか、健康診断だとか、入学式前のイベントが多すぎて、三月の頭に少しだけあったワクワク感はどこかに追いやられて、今あるのは同じようなイベントへの少しの嫌気と、開放への大きな期待だった。今日の入学式が終われば、少し休みがあって、そこからもう大学生活がスタートする。もう入るサークルも目星をつけていたし、新しい友達だってできた。早く儀式のようなものたちを終わらせて、新しい生活を始めたかった。
 時間を持て余したような生活では、隙が多すぎて油断出来ない。早く忙しくなって、心を休めたかった。
 式が始まるまではまだ一時間ぐらいあったし、夏紀と優子と少し余裕を持って決めた待ち合わせの時間もまだ少し先だ。地図に示された最短ルートを少し外れて歩く。今年はまだ桜の写真を、一枚も撮っていないことに気がつく。せっかくだしと、会場を少し通り過ぎて河川敷を目指す。まだ散りきっていない桜があることを信じて歩く。
 そういえばと、中学二年生の春にもこんなことをしたのを思い出す。
 まだ始業式だから部活の朝練はないというのに、私はいつもどおりのように目が覚めてしまって。時間を持て余していたから、私はまっすぐに学校に行く代わりに、みぞれを待ってみることにした。なんだか新鮮な気分だった。いつも「また明日」をする分かれ道で、少し眠そうなみぞれが現れて、私を見たときの驚いた表情は、今でも思い出すことができる。
 何があったのかわからずに固まっているみぞれに笑って、時間はまだあるから、桜を見に行こうって言ったのは私だった。
 そうして普段の通り道を少し外れて、桜が綺麗だとよく言われていた遊歩道に寄り道した。のんびりと桜を眺めていたら遅刻しそうになって、焦って中学に向かっていったのも覚えている。
 あのとき見た桜は、なぜだか思い出せない。きっと綺麗に咲いていたはずなのだけど。
 頑張って思い出そうとしていると、気がつけばもう河川敷にたどり着いていた。まだ散り切ってはいない桜に安心する。少しみっともないと思いながら、スーツが汚れないように気をつけて、河川敷への狭い階段を降りる。花びらが川に乗って流れていく。上手く場所を取りながら、写真に納めて。
 カメラロールの上半分が、鮮やかな薄赤色で埋まると、なんだか春を満喫した気持ちになった。我ながら単純過ぎて笑ってしまう。
 もう少し綺麗に取れないかと試行錯誤していると、後ろから声が聞こえる。
「何やってるの」
 聞き覚えのある少し高い声に後ろを振り向くと、着物姿の優子が私を見下ろしていた。後ろから夏紀も顔を出す。二人は最寄り駅が同じという話をしていたのを思い出す。
「桜の写真、撮ってて」
「ふーん」
「あ、私も撮ろうかな」
 興味のなさそうな優子を置いて、軽やかな足取りで階段を降りる夏紀はスーツ姿だった。よく似合っていると思う。もちろん、優子の着物も綺麗だけれど。
「夏紀、スーツ似合うね」
「そう?」
「ちょっとチャラいOLって感じ」
「褒められてんだかけなされてるんだかわからないわ」
 そう笑いながら、夏紀は散りかけた桜の木を見上げる。彼女の頭を花びらが撫でていくのを眺めながら、まだ上から動こうとしない優子の方を見る。
「優子は?写真撮らないの?」
「これ着物だから、降りるの大変なの」
 鮮やかな赤の着物の袖を見せるようにしながら優子が答えた。みぞれも、こういう日は着物を着るのだろうか。みぞれには青色の着物が似合いそうだなと思う。
「歩きづらそう」
「思ったよりしんどいわ、これ。大体二人共スーツなの?」
 そういう優子は、私と夏紀の格好を睨むように見た。
「着物なんて考えもしなかった」
「私も」
「二人と並んだら、私浮くわねこれ……」
 優子がため息をつく。いつものようなやり取りが始まる。そう思って、まだ桜を見上げたままの夏紀の方を盗み見る。
「似合ってるし、大丈夫でしょ」
「そういう問題じゃないでしょ」
 興味がなさそうな夏紀の言葉に、優子はため息をもう一度ついた。なんだか意外な言葉に、思わず夏紀の方を見る。桜を見つめることに飽きたのか、夏紀はポケットからスマートフォンを取り出していた。
 二人の纏う空気が変わったような、そんな気がする。いつからだろうか。もしかしたらずっと前から、変わっていたのかもしれない。意味のない推測に、なぜか胸の奥が少し傷んだ。
 夏紀がスマートフォンをしまうのを待って、二人に声をかける。
「そろそろ、入学式向かった方がいいかな」
「そうね、時間もちょうどいいし」
「行こっか」
 優子の元へ階段を上がりながら、もしかしたらずっと前から二人は大人で、それに私がやっと気づいただけなのかもしれないなんて、ふと思った。
 目の前の二人を見つめる。優子の後ろ姿からは、なれない着物に苦労しているのがよくわかった。
「やっぱ着物って歩きづらいのよね」
「おててにぎってあげましょうか?」
「うるさい」
 愚痴を言う優子に、先頭を歩く夏紀が振り向きざまからかう。優子がそれに噛み付く。高校のころさんざんみたようなやり取りだ。それになんだか安心する。
「やっぱり、あんま変わってないね」
 それがなんだか嬉しくて、気がつけばそう声に出していた。夏紀と優子が不思議そうにこちらを向いた。そのタイミングまで一緒で、私は笑いそうになりながら、いつものように振り向いて。
「そう思うよね?」
 そう、聞こうとした。でも、それは音にはならなかった。
 そこには誰もいなかったから。遠くに、桜がただ舞っていただけだから。
 ここには、あの子はいないから。
「希美?」
 夏紀の声がして、慌てて前を向く。しまったな、と思った。少し呆れたような優子の表情が目に入る。バレている。
「いや、なんでもない、あんまり二人が変わってないなって」
「まあ、そんなに急には変わらないでしょ」
 夏紀は誤魔化せたけど、優子はこういうときいつも鋭い。変わらずにいる優子に、私は力なく笑うことしかできなかった。
「いや、その、ね?」
 それでもなんとか言い訳を探そうとすると、優子に大きなため息をつかれた。見抜かれてる。私は何も言えなくなって、ただ貼り付けたの笑いで立ち尽くしていた。本当に呆れられているのがわかって、なんだか謝りたい気持ちになった。
 先手を打たれるように、優子が前を向く。私は黙ってついていくことしかできない。
「しっかりしなさいよ」
「はーい……」
 歩き出すと、私を笑うかのように桜の花びらが目の前を通り過ぎていった。そういえば、最後まであの日の桜は思い出せなかった。
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