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はい、8年に渡るご愛顧ありがとうございました。楽しかった。楽しくなかった日なんか一日もなかったです。ラジオの人、としては、きっぱり引退させていただきます。えー、しれっと来年ぐらいに六本木あたりで番組始めたら、嘘つきって言ってぼこぼこにしてください。そうゆうのには慣れてるんで。ただ、ぼこぼこにするなら、つまんなかったらにしてくださいね。嘘なんかつかれたって、楽しけりゃそんでいいんだから。さよなら皆さん。嘘でも言いますけど、愛してます。アンチの人や、愛憎入り乱れてるメンヘラの人もね。諸君らも歳をとって、余計な傷が薄くなってくれば、この俺様を、素直に過不足なく愛せるようになるから楽しみに待ってろ。それでは、これにて、菊地成孔の粋な夜電波を終了します。Keep Rolling. 音楽に最大の感謝を。長きに渡るご愛顧ありがとうございました。皆さんは一人残らず、私の、神様です。
(2018年12月29日「菊地成孔の粋な夜電波」最終回)
菊地さん8年間本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。
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この番組が終わってしばらくすると、まあー、もう最後だから言っちゃいますけど、あの悪臭ばっかり撃つ、筋も見栄も冴えねえオリンピックがやってきて、この国は、今まで経験したことがないぐらいの、鈍い打撃を、受けるはずです。皆さん喪失はね、喜ばないといけない。鍛えられるから。強くなんの。でもそこは、まあー、まああたしの考えでは、やっぱ音楽が鳴ってないとだめですね。ただの喪失、には折れちゃう時もあるから。だから、まあ、少なくても、あたしは、そういう感じで、あらゆる喪失、今までいろんなものなくしてきましたけど、まあ、そのたび、えー、音楽と一緒に、大きなものを得てきました、だから、この番組が終わっても皆さん、どうか音楽を、聴き続けてください。そしたら、喪失とケミストリーを起こして、皆さんちょっと強くなってるから。混迷の現代、の、奴の方も、本気出してくるけど、やっつけられます。造物主の意志ですよ。すべてに意味があるの。
(2018年12月29日「菊地成孔の粋な夜電波」最終回)
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君の世界で僕は今も生きてますか?
僕の世界では一年に一回、空が高くなり、
吐く息が少しずつ白くなって、
木々が枯れ始め、
僕がマフラーを引っ張り出した頃、
街はいつのまにか、君の色になるんです。
年々薄れてゆき、年々濃くなるんです。
僕の世界の話です。
( 2《FALL FALL FALL》)
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あたしは反省しない
あたしは後悔なんかしない
あたしは神様なんて信じない
あたしにバチを与える神様なんて信用しない
あたしは何も信用しない
あたしが信用するもの以外 信用しない
(岡崎京子『ハッピィ・ハウス』)
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自殺する人は真面目で優しい人です。······ 感性が鋭くて、それゆえに生きづらい人です。生きづらいから世の中から身を引くという謙虚な人です。そういう人が少なくなっていくと、厚かましい人ばかりが残ってしまいます。
(末井昭『自殺』)
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見ようと思っても何も見えないのはそこに何もないからさ。
匂いを嗅ごうと思っても嗅げないのは、そこに匂いがないからさ。
誰かに触ろうと思っても触れないのは、そこに誰もいないからだよ。
考えをわかろうと思ってもわからないのは……そこに言葉がないからさ!!!
(「ぼのぼの」 アライグマくん)
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山戸結希監督 映画「溺れるナイフ」の、大森靖子《ハンドメイドホーム》が流れるシーンについて (『欧米休憩タイム』収録の批評をうけて)
8月10日に発売された、敬愛する菊地成孔氏の映画批評書『菊地成孔の欧米休憩タイム』。その中に、敬愛する山戸結希監督の『溺れるナイフ』の批評も収録されている。(一応言っておくと、山戸監督、小松菜奈ちゃん、ジャニーズWESTの重岡大毅くん、大森靖子ちゃん、おとぎ話、つまりこれら本作に関わる大半の要素が元々大大大好きであった私にとって、映画『溺れるナイフ』は特別な作品なのである。ちなみに恥ずかしながら原作は未読。すみません。そんな私は、もし「この映画どうだった?」と言われたら、「好きか嫌いかを飛び越えて、変態性と狂気が垣間見えるとんでもない拘りで埋め尽くされた、私にとってはおそろしい問題作」と返します。)
「日本の漫画原作映画は原作漫画のノベルティグッズとして無料化するだろうか?」という話は面白いし、本作品における小松菜奈のレアさや、重ちゃんの「普通」の演技の素晴らしさについては超同感だ。さて、読んでいくと、こんな箇所がある。
「音楽は選曲もOSTも、良くも悪くも凡庸で、大森靖子氏が提供した楽曲(実際に歌っているのは堀越千史)は余りにも短すぎて気の毒だし(「短いが効果的」とかでもない、ただ単に短い)、他の選曲は印象に残らない。」
OSTについては特に言及しない。この菊地さんの評をうけて私がこれから話したいのは選曲、つまり既存の楽曲の使い方についてだ。
この映画に使用されている楽曲を挙げておく。(大友が歌う《俺ら東京さ行ぐだ》は抜かします。はあ~、あそこは名シーンだよね、本当に。)
・大森靖子《絶対彼女》
・大森靖子《ハンドメイドホーム》
・tofubeats《水星》
・おとぎ話《めぐり逢えたら》
本作ではすべて堀越千史さんが歌っている。
映画冒頭、モデルとして活躍する夏芽をバックに流れる《絶対彼女》(絶対女の子がいいな)と、終わりの方で、夏芽とコウの最後を前にして流れる《めぐり逢えたら》(グッバイ思い出よ)は、菊地さんの言う通り短い(《めぐり逢えたら》はほんと、えっ、と思うくらい兎に角短い。でも最高に切ない良い曲なので取り敢えずYouTubeででも聴いてくれ。)し、このシーンでこの曲がかかるのにもすんなり納得ができる、つまり凡庸っちゃあ凡庸。
しかし残りの二曲はどうか。初めて観た時、それぞれが流れるシーンで私は思った。「え?なんでこのシーンでこの曲??」 そう、私にはこの二曲の使われ方が凡庸だとはとても思えないのだ。(しかもこの二曲は比較的長く流れていたし。《ハンドメイドホーム》はほぼフルですし。)
《水星》のシーンについてはきっとこの曲のファンか誰かがどこかで語っていると信じて、大森靖子ファンで《ハンドメイドホーム》という楽曲が大好きな私は、《ハンドメイドホーム》のシーンについて話す。
夏芽とコウはあの事件を境に会わなくなってしまっていたのだが、そんな時、久しぶりにコウの姿を見た夏芽は不可抗力で吸い寄せられるようにコウのことを追っていく。コウはそんな夏芽に気付きながら、ふらふらと逃げる。追いかけて、逃げる。あの頃みたいに。コウを追い駆ける夏芽を捉えながら流れ出す《ハンドメイドホーム》という曲は、こういうシーンでかかりそうな、所謂切ないラブソングでも、情熱的な愛のうたでもない。以下に歌詞をあげる。
金色の空 黒い満月
張りぼてのステージ 手作りの夜
大好きな悪魔と引き裂かれ
王子様とキスをした
淡い水色 薄いパンフレット
ちょっと高すぎる気もするけれど
悪魔のひとが売ってたから
買っちゃった ウフフ 仕事がんばる
毎日も手作りだよね
日記を書いて 花を飾って
夜があけて また夜がきても
大好きな歌で夢を見る
ハンドメイドシティANDハンドメイドホーム
惰性のにばん 君がいちばん
嫌いな言葉をわたし歌いたい
気持ちをおさえてできるだけ
たのしくするから嫌わないで
毎日もうどうかしそうで
でもアイドルだって笑ってるし
ちょっとだけどうにかしようね
毎日は手作りだよね
······
ギターを弾いて 君を飾って
夜が明けてまた夜がきても
大好きな歌で夢をみる
······
どうだろうか。「毎日は手作りだよね」、って、日々の生活を生き抜く為の曲がかかるのがなにゆえこのタイミングなのか。ちなみに靖子ちゃん自身も、「(この曲が流れるの)どのシーンか分かったよ!カナちゃんが初めてお化粧するシーンでしょう?」と監督に言って、「あ!違います!」と返されたようだ(ユリイカ「大森靖子」より)。本人も想像のつかないような使いどころ。私はSNSなんかでいくつか感想を見ただけだが、「ここで?」と思った人は少なくはない筈だ。
じゃあなぜこの曲はここで流れるのか。
観終わった後考えて、最初に「あっ」と思ったのは、「たのしくするから嫌わないで」というフレーズだ。これはまさに夏芽がコウに対して思っていたことなのだ。二人が付き合っていた頃、恋する乙女みたいにじゃれつく夏芽に向かって「つまらんのう」と呟くコウ。それに対して夏芽は「おもしろく生きてみせるから!!」と叫ぶのだ。
そうか。この歌も、この歌詞でも、ここでは夏芽からコウへの一種のラブソングになるのかもしれない。そう考えると、きっと「もうどうかしそう」な夏芽の毎日に飾りたい「君」はコウだ。夏芽の神様コウ。「大好きな悪魔(コウ)と引き裂かれ 王子様(優しいいなかっぺ王子大友)とキスをした(この時はまだしてないけど)」、でも、やっぱりコウしかいない自分に嫌でも気付くのだ。悪魔みたいな、夏芽の神さん。追い駆ける。「気持ちをおさえてできるだけ」。でも追い駆ける。「君がいちばん」。結局感情は剥き出しになる。夏芽の「手作りの毎日」には、どうしたってコウちゃんが必要なのだ。夏芽のもはや狂気みたいなコウへの執着。そう思われても仕方ないくらいの運命。《ハンドメイドホーム》はこのシーンに降り立って、焦がれるような強烈な想いを歌った歌に変貌していたのだ。
以上はあくまで私の解釈ではあるが、《ハンドメイドホーム》がこのシーンで流れる納得のいく理由が、はっきりとはわからないにしても、確かにあるのだろうということは感じ取れる。(ちなみに山戸監督は、この曲から感じる「孤独」と夏芽の「孤独」を重ねたのだという(ユリイカ「大森靖子」)。山戸監督の思考は常人でははかれないのだよ。)
さあ、果たしてこの選曲は凡庸だろうか。少なくとも私はこの曲の使い方を解釈するのに時間を要した。逆になぜ菊地さんはこの選曲を凡庸だと思ったのか。(そもそも菊地さんの記憶にこの曲のシーンがはっきりと残っているのかがわからないが…。)
と、ここで私がふと思い出したことがある。担当教員から「特に新しいことは言ってないですよね」と笑顔で評された私の大学時代の論文だ。映画における既存の楽曲の存在の仕方について書いたこの論文の中で、私は、簡単に言うと以下のようなことを考えていた。
映画の中で既存楽曲が使用される時、そのシーン(物語+映像+音楽)から観客が感じ取るものには、観る人によって、二種類あるのではないか。
一つ目は、観る人がその楽曲のことを知らなかった場合だ。この場合、その人が感じ取るものは、物語と、映像と、楽曲の音楽的な性質(テンポや音色や、まあつまり、明るいな、暗いな、ラテンのノリだな、激しいな、キラキラした音がするな、とかいう大体の音楽の雰囲気)との混ざり合いから受ける印象だ。つまり、明るいシーンにキラキラした音楽で華やかだな、とか、残虐なシーンなのに楽しい音楽が流れてるから気味悪くて緊張感増すしサイコパスっぽいな、とか。流れている音楽が既存のものだということに気が付きもしない場合だってあるだろう。
もう一つが、観る人が元々その楽曲を知っていた場合だ。その人はその楽曲がどういう曲なのか、バックグラウンドまで知っていたりするのだから、物語、映像、音楽的性質による印象を感じ取るのにプラスして、その楽曲がそのシーンで使用されることの意味を考えるのだ。曲を知らなかった人より深読みが、解釈ができるのだ。
歌詞がある歌曲なら尚更、両者が一度で受け取るものの量差は大きくなるだろう。歌詞が元々頭に入っている状態で観るのと、全く知らない状態で、なんて歌っているのかよくわからないまま観る(映画を観ている時、流れている曲の歌詞を懸命に聞き取ろうとする人ってそういないだろうし、それが普通。)のとでは、そのシーンに対する印象は違ってくる。(歌詞が端に字幕で出たりする場合は別。)
つまり何が言いたいか。菊地さんが《ハンドメイドホーム》という楽曲を元々知っていたということはないだろう。となるとあのシーンで菊地さんの耳に入ったであろうものは、メロディと、原曲からはアレンジされた音色と、千史さんの歌声だ。歌詞も聞き取れないこともないだろうが、呟くような千史さんの歌い方だと、しっかりと文脈をもって頭に入ってくることは難しいだろう。キャッチーなメロディと、カラオケみたいなガールズポップ感のあるアレンジと、かわいらしいウイスパーボイスの切ない千史さんの歌声とから受ける印象は、例えば、「女の子の心に響きそうな恋のうた」だったかもしれない。それならば、菊地さんがこの選曲に特にひっかかることもなく、それどころか凡庸だとさえ感じたということに、納得できるということだ。
この曲の歌詞を菊地さんの前に広げて、「この歌詞があのシーンで歌われたことにすぐに納得がいきますか?結構理解に苦しみません?私は一回苦しみました。私だったら絶対にあのシーンでこの歌使おうとは思いません。選曲、凡庸なんかじゃないんですよ実は。良くも悪くも。」と言ってみるところを想像する。(絶対無理。)
私は映画の作り手ではなく、いつもただの一観客だけれど、既存の楽曲の使い方というのは本当に難しいと思うのだ。作り手の選曲意図が1ミリも伝わらないこともあれば、思いがけずまったく違った効果をもたらすこともある。それはそれで良いこともあれば、結局その楽曲を使った意味なかったよね、ということも大いにある。作り手にとっては恐らくハイリスクであるし、だからこそ観客としてはおもしろがりがいがある。観たその時には何も思わなくても、長い時間を経て、はっとその意味に気が付くことだってあるのだ。
こうして考えると、《ハンドメイドホーム》や《水星》の使い方に、菊地さんのように何もひっかからなかった人もいるかもしれないのだなあ。でもそんな人の中にも、「あれって何て曲だったっけ」というところから歌詞を調べたり原曲を聴いてみたりして、「あれ、何でこの歌詞の曲があそこで流れたんだ?」という疑問から地獄巡りみたいな深読みを経て、あのシーンのとんでもなさに気付いてしまう人がいればいいと思う。この長い文章すべて私の個人的な思い入れから来た妄言のようなものだけれど。私だって監督からしたらあさっての方向を向いた解釈をしているかもしれないけれど。
果たして「溺れるナイフ」での既存楽曲の使い方は成功であったか。それは私にはわからないし、一概には言えない。私は批評家で食ってる訳でもなんでもなく、恐らく菊地さんが言うところの「幸福な観客」であるので、そんなことは結局どっちだっていい。だけど。
私はあそこであのイントロが始まった時の胸騒ぎをずっと忘れない。あのシーンは私にとってとてもじゃないけれど凡庸ではなく、度肝を抜かれるようなクレイジーなシーンだった。そう、私にとって映画「溺れるナイフ」は、おそろしいほどの問題作なのだ。

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