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幽霊、それはあなたの記憶の 思い出せない深いところで あなたのこと見てる 脳のすみずみまで見渡している それ、いま手を挙げた けれどもあなたは見えない、気づかない けど感じるだろう脳の髄の奥のうらがわ とても小さい穴を通して あなたのこと見てる とてもつぶさに見渡している
まぶたのうらがわ 目を凝らしてみて かすかに匂う懐かしい香り たどってみて頭の奥深く こもごもの思いでをくぐり抜けて 意識の光灯るその手前 暗幕の向こう側 誰かいる あなたのこと見てる いま幕がひらく
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昼過ぎに起き玄関の戸を開けると、籠ったようなぬるいにおいがした、朝ににわか雨が降ったのだろうと思った。それで散歩に出るのをやめた。
もしも散歩に出ていたら、私は足を怪我した猫を見かけていたことだろう。そして見て見ぬふりをして横切る。しかしその猫は、かりに私が保護し飼うことにした場合、「ミケ」と名付けられ長くともに暮らすことになるのだ。
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自然因果の系列の内にぱっと開いた火花の人間的な色に人の生きる価値が存する 障害者の生きる意味を殊更問題にして非難を受けた映画の話を聞いたが、その非難の言う「朝、カーテンを開けて差し込んだ日差しに微笑む、そこにすでに人権がある」ということの大要はここにあると思う 石火の如くにぱっと開いて消えるその人間的な色、それがすでに最もかけがえのない尊重されるべきものである
して、自己愛はこの最小にして最も尊重されるべき段階においてなされるべきかと思う 親からの愛の転化として自己愛が生じ、その転化として他愛が生じるのならば、これが最も適当ではないだろうか
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雨が止むのを待っているうち、須臾にして街は重たい灰色を湛えた。それにつけても僕は明日のことが憂鬱で、時が進むのがひどく遅く感じられるのだった。ダイモンの声が聞こえる。
『剔抉せよ、魂の底の不純を、剔抉せよ…』
その不純は、もうとっくに魂の一等大事な部分に根を張ってしまっているので、取り出せば、即ち僕は死んでしまう。あの子の朗らかな声がききたくなった、耳の奥底で響く重苦しい命令を、束の間であれ忘れられる気がする。そうしてやはりこの雨が止むのを、僕は苛々待ち続けるのだった。
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堕落の底から
通り雨を避けて逃げ込んだ軒の下、アルセーヌルパンみたい
傘がないので小降りになるのを待って、借りて来た本を鞄から取り出した。湿気が怖かったが悪影響が実際にあるのかは分からない、危惧より手持ち無沙汰の気持ちが勝って、繰った頁に女性の声が伴ったので驚いた。
「ひゃー、雨だ雨だ、…あ。」
傘を持たず雨に降られた髪の長い女性が、平たい鞄で身を守りながら、このバス停へと駆けてきたのだった。こちらに気が付いた女性は独り言を取り繕うようにこちらに会釈をしたので、私もそれに返した。湿気を省みず借り物の本を手にしていることが、その視線に気まずく感じた。
「…。」
幾らか距離を保って並ぶ、暗いバス停の内には裏の山から腐葉土の匂いが立ち込めて蒸していた、アスファルトを強く打つ雨の音ばかりが時間を埋めた。視線の端で団扇のようにして扇ぐ手の動きだけが認められた、初めにあった視線に自ら監視の意味を込めたがためにページを繰ることも本を鞄に直すことも何かままならなかった、一切の行動がことを荒立てるように思われて動けない、それでただ開かれた本の真ん中にある一節に意味を伴わず視線を落としていると、
「雨、すごいですねえ。何時止むんでしょう。」
昏くて深い居間の内
どこにも出口がないけれど、ほんの少しの戯れに少しずつ奥の方へと入りこんでいく 遠い昔の足音のわき、空寝する寝息の向こうで頽廃へと身をやつしていく 夏のことで入道雲が山の上に重なっている。影絵のようになった電線の交わりを遠くに望みながら淡く青い、潜ますような言葉を
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死をおもって生きることは思ったより難しくて、けどそれ以上にそうしたところで生があるのみかもしれなかった 底が開けて、いや開かれないのだ 些末でくだらない欲求に終始しているから何ら問うていない 肉の習慣は思ったよりも何も深い意味のない端的な意味でとても強い 今ここからは叡智的なものが、それへの道もなにも見えない これではただ高尚なことを口にすることに満足して、日々をむさぼる怠惰の塊だ くすぐるような卑しい快楽に顔をゆがめるだけ そこから遠くをみても、くすんだ灰色が広がるばかり 見ているのか見ていないのかもわからない 眼を開けているのかいないのかも 起きているのか寝ているのか、 ただ起きていることを確認するために、口の端を歪めるために間接的に誰かを傷つけることを定期的に、まるで休み時間にたむろ彼らのように行うだけ
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よくなすことと、よくなしていると思いなしていることは区別されねばならない 前者は根底的存在にとってのよさを、後者は表層的、日常的な生活にとってのよさを表している 問題となるのは無論前者である しかしこれは問いの始まりにすぎない その問いとはすなわち『ゴルギアス』に語られる「自らが望み、意思していること」、これとは何か、つまり根底的存在にとってよいとは何かという問いである その問いは、根柢的存在の場を開く 逆に言えば、それは問われるまでは思いなしに覆われているのである ソクラテスは『クリトン』にてよく生きることを説いた このよく生きることとは、よさへの問いにより開かれた、そして問い続けることだけによって維持される存在の地平にて生きることである よさとは真に自らを生きるための鍵である
神は、或いは神の意志は、このよさにあると思う 神への絶対帰依が即ち自己の存在を問い続け、地平を開き生きることである よく生きることがそこではじめて可能になる モンテーニュは自らの墓を掘る農民を目撃して、そこに自らの存在を全く生きることを見た 信仰を超越した不信仰の可能性に曝されるような信仰、信仰の底の、裸形の生を見た 問わなくてはならない 答えはない、答えは直に思い無しである、問いに身をやつして開かれた地平を望まなくてはならない、自らを生きるために、またそこで死ぬために
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お腹すいたねー、なんて言って。
アコはそれに気の無い返事をして、頁を繰り続けた。
お腹空いてない? 空いたの? んー、まあ、でも空いてないならいいけど …食べ行く? ん。 言ってカヨコはこたつから這い出ると脇に投げていた鞄をとって振り返り じゃ、すぐ来てよ、車ん中温めといたげる 言って出ていった
けっこう腹減ってたんじゃん 暗い廊下に消えた背にぽつりと言った
なんか言ったー? なんでもないー。 聞いたのか聞いてないのか、すぐにドアの閉まる音がきこえた、夜の冷たい空気が思われて億劫だた
どこに行くのだろう いまの時間に空いていると言ったらまあ、チェーン店だろう マクドナルドとかか。
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ハイデガーは聖書に付き従っての問いは、いずれその底の信仰を超越した信仰の場、即ち存在そのものの場へと跳躍せねばならないと説いた 存在―神学である、造物主と被造物など聖書上の記述はメタファーに過ぎない、その底には真に自らなされる問いにより開く、裸形の存在の場がある 不信仰の可能性にさらされた信仰が、つまり記述を超えて不信仰との差異が曖昧にさえなった場所に宗教は至ることになる、キルケゴールの言葉を引用してのハイデガーの言にはかような意味がある
神の隠れたもうた現今の世にあっては、ただ哲理のみが挫折をともなった信仰の先と同じ所に眼差しを向けうる
しかし今の哲学はどうだ 形式的な言葉の使用ばかりに関わって、なんら根柢の方へと目を向けない ここに私の不満がある 自らの血肉を絞って、根柢へと向かうための論理が必要である カミュは哲学に唯一の問題は自死だといった しかし自ら死を選ぶということにいかなる���生の真面目があろうか 自死についてではない、しかし死、もっと明確に言えば無を問題としなければならない 宗教の死んだ此岸にあって、根柢にある無へと目を向けることによって、初めて真に生きることが出来るようになると思う
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夜に生れて私たちは 歌の唄い方をまなびに来たのです
アノマリーな身体には 刻印ばかりがはびこっていて
触れられない 泥池の底の塊、どうかそばにいていただけませんか
しらない木の実食べてより 日も闇も苦しくて 笑われてばかり
格子窓越しの蒼穹の端 揺蕩う色の話について
聴いていただけませんか この影の中で
呪文
精霊が死んだこの世界で、わざわざ言葉を紡ぐことについて この世界ではもはや呪文は不可能になった、差延はそれとして固定化し、そこにアレゴリーは湧出しない かつて呪文は底を開いていた いまは閉じたまま 昏く匂えるワセリンのたくるこの肌は、管に巻かれたこの体は 生まれ落ちた時に切られた根に 息が出来ない 腐り行く もとは池に住まう魔物 枝葉の隙よりの曙光に、照らされていた この肌 いまは腐臭を放つ泥の塊 歌の唄い方もわからぬまま
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自由は制限に対して存するのみだとすれば、絶対の自由を求めた場合にはさまよい、挙句の果てに宙ぶらりんになること必定であろう、しかし体系の極限のところで、ふいに開けたところに出ることがある、それを自由と呼んで求めたいのだ
習慣づけられた或る卑屈さのなかに彼らは常に住まっているので、その目の遠さも相俟って照らされ影へと逃げ込む醜い奇形の塊のうちには昔の匂いする暴力の妄想が、滾々と、その身を内に包み守るように湧出する
行ったり来たりにも達せず、思い、撤回しを繰り返している、しかしそれに伴う足踏みや後ずさりが、足元に何らかの形をなしている、そう思いなしたいだけかもしれない、しかしこれを頼りにしたいとは思っている
黒南風や ふすまを隔て 遊ぶ声
ひと過ぎの楽観と悲観を繰り返しているが、悲観の方が過度で初めのとこまで否定が及んでしまう
梅雨が明けない
表層的我を滅却、否定しきって根柢的統一を絶対的に肯定する、己を全く虚しうした後根底的全を肯定する、この意味での自己同一をはかる、これが絶対矛盾的自己同一である、かく生きねばならない、人と対せずしてただ天とのみ向かう、これもこの事実を表していると思う、己を殺しきってしかるのち己を生きることが可能となる
私には宗教が必要である、しかし神の隠れたもうたこの時代に、果たしてかような信心が可能であろうか、なればまずは、哲理を尽くした先の豊穣たる無の世界を神とあやかり生きてみようと思う。
雨が降っては雨と生きなん 風が吹いては風と生きなん
かかる先、私はやっと安んずること能うように思う
創作からある種の神聖さが失われたことを契機として、また理性への懐疑に伴って、人は人の創作の持つ型、構造に対して批判的になりそれを超出しようとしたのだろう。ポストモダン、脱構築の時代である、そこでは人間存在のぎりぎりのところで活動が行われる(それが成功しているのかは分からない)。
そうした運動の先端のところでは自らの精神を危機的状況に追い込みながらの悪戦苦闘が繰り広げられる、しかし、中流のところでは態度だけは一丁前な、血を流すこと能わずかつそれに無自覚な人々の活動が蔓延していくことになる、ここに「メタフィクション」が生まれたのではないか、創作を行うところの自己の認識における、思いなしの所産である。そしてその見た目の新奇さ、態度の崇高さに引かれて人々はそれをつくりもてはやす、中流域はそうした贋作で埋まる、そこにもとから生存していた純粋なフィクションは、その持っていた残存した神聖さをついに全くはぎ取られて絶滅していき、先端での真なる運動は中間の煌びやかさに影となり、もとよりそれは自傷的な活動なのである、影の中で自ずから死んでいく。後に残るのは繁茂した、内容の無い脱形式という形式である
あと全然関係ないけど伏線回収を過度に賞賛する最近の傾向はふつうに大嫌いです。関係あるかも。メタフィクションも伏線回収も、アレゴリーとして何らか神聖さを持っていたフィクションが死んでしまったあとの、そしてその死を冷笑する人々の娯楽物って感じがする。一歩引いて作り物として見る、その高階に立って見ていることの優越感だけを楽しみとするさもしい神なき国の人々の感性を、おもねるように刺激するだけの形式的装置。名前のない快楽的玩具。それがマジョリティーとなった時代にあっては、内容は高踏的と嘲笑われ、しかももし内容を持ったとしても、その生の躍動は受け手のさもしさによって実用的価値、道徳、イデオロギーと化してしまう。語ることの許されない時代。かつて実用性、相対主義と結びつけられた私秘性が、今や崇高さの生きる道となってしまっているのかもしれない。
道化という言葉を西洋の詩人はわりとよく使う気がする、けど日本人にとって、少なくとも私にとっては道化という言葉は使用に際しあまりに強く、また稚拙にうつる。詩の中に見る場合はよくとも、とても使用しようとは思えない。しかしそこに仮託される「無為を承知でことを為す」という考えは、何かとことに意味を求めてしまう現代の傾向からして魅力的である、代用の語が欲しい。それとして行動してみたい
本来の意味での蛙化現象というのはなんとなく理解できる気がする 好意とは動的にある存在の特定面の顕在化を求めることである、拘束性である それが性的好意であれば、目は性的自己の顕在化を要請し、そのように行動せよと拘束するだろう 肉よりできた不気味な拘束具、おもねるようにしてついてくる、そうした視線、振舞、言葉の底に拘束の圧力を潜ませた すえた匂いの粘液的な肉の塊、即ち蛙である 視線と視線とよりなる場の内で人が蛙と化す
プロット・登場人物
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禅仏教に「物に入りて物をみる」という言葉があります。
主観の滅却というのは東洋思想に共通した傾向であると思います、例えば仏教や老荘思想など。西洋思想が自身の伝統、アリストテレスに淵源する主語と述語を基盤に持つ論理形式に批判的になるとき、往々にしてそこに東洋の思想伝統との類似が生じてくる。よって、一方の思想的な伝統を他に還元することの問題は大きいとはいえ、西洋思想史に度々生じるそうした思想体系は、主体への懐疑という類似点からむしろその他西洋思想の体系よりも、上記禅の言葉といっそう互いに理解を補い合うように思うのです。
それで以下では、そうした西洋の思想体系の一つ、ドイツ観念論に属するフィヒテの論を、「物に入りて物をみる」という禅の言葉をたよりにして考えてみたいと思います。
フィヒテは意識の次元を二つに分けます。一つ目は単なる表象、意識の様々な状態の次元であり、彼はこれを「自我Ich」と呼んでいる。二つ目は「我々が我々自身を意識している」という次元で、彼は上述一つ目の次元はこれを根拠にして成り立っているとする。
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私は近頃、感想を文章の形で求められた際にひどく書き淀んでしまうことが多い。何故か。その原因と解決の手立てを考えてみたい。
言論であれ芸術作品であれ他者が作ったものはそれとして独立した一つの体系をなしているように思う。ここで独立というのは、一般によく言われる作者の手を離れたという意味ではなく、単純に外物として私に対して他であるという意味である。確かに、他なる体系といっても私により理解されたときにはもうすでに私の理解した体系になってしまうだろう、しかし理解以前の出会いの場においては確かにその他性は私にとって残っている。そしてまた、そうして体系に対する私も同様に一つの体系として存在している。よって、私がある言論や作品に相対した時、これは二つの独立した体系の対立を意味しているのである。
そうした理解のもとで、感想はその初めにおいては一つの感情としてあるように思う。二つの異なる体系が対立し、そこに種種の関係、例えば矛盾や類似がおこる、それに対して私の心が何らかの反応を見せるのである。先に述べたような、既に理解された他なる体系が私のうちで部分として他の部分と関係し生じるが如きの、いわば私の匂いに浸され切った感情ではない、全くの他に対して摩擦熱みたくな苦しさを伴った生の感情がそこにはあるのである。
このように考えると、私が感想を上手く言語にできない原因はその感情を言語に翻訳するための水路として働く、論理と文体と語彙の未発達にあるのではないか。未だ言語となっていない感情が言語となるために通る水路が欠陥を抱えているために、確かに生じたはずの感情が紙面に起こって来ない。ならば行うべきは論理と文体と語彙の改革であろう。具体的には、才ある著作家の感情の言語化をひたすらに追いかけ、自らの水路のゆがみを正していかねばならない。
かく書いてきたのを振り返るだけでも、文の重く明瞭でなく不自由なことにげんなりします。
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