Tumgik
ohmamechan · 5 years
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愛みたい
 ※東京。凛ちゃんがハルちゃんを観察している話。
 朝。
 遙が起きてすぐにすること。Tシャツを、背中からむいっと脱いで、そのまま洗濯機に放り込む。そのフォームはさながら、ゆるいウインドミルの下投げ。
 遙は日に何度か、こうしてTシャツを新しいものに換える。汗で貼り付くのが嫌。らしい。なので、Tシャツの洗い替えは無限にあるようだ。 地元にいた時からそれは変わっていないが、一体いつの間に着替えているのか、その姿を見たことはほとんどなかった。
東京の一人住まいの部屋は、すべてワンフロアで繋がっているし、ドラム式の洗濯機はダイニングに備え付けられている。なので、凛が洗面所兼 風呂場で顔を洗っている背中で、遙が、さっとTシャツを脱いで着替えるのを、鏡越しに見つける、なんてこともありえるのだ。
 食事。
 遙と共に食事をしていると、ふと、自分の無作法に気付く時がある。例えば、箸の持ち方。遙ははじめに右手で箸を持ち上げ、箸先を左手で支 え持ち、それからすっと右手指を添える。それは百年前からその形で待っていたかのように、自然な動きだ。この一連の動作を、彼は何 気なく一呼吸の間にしてしまうので、幾度となく食事を共にしていたのに、気付いたのは最近だ。他にも、こまごまとした食事のマナーに気付かされる。お椀の持ち上げ方。口の中の物を飲み込んでから「ごちそうさま」を言うこと。当たり前のことと言えば、当たり前のことなのだが、とにかく、ハッとさせられることがある。食事のマナーについては、昔、祖母に習ったものだけど、海外生活や男子寮生活を送るうちに、すっかり疎かになっていた。まあ、これは言い訳にすぎないけど。
 ひっそりと反省し、ひっそりと遙を真似て、無作法を正す。おそらく、日本に戻る度に 、こうして「そういや、そうでしたね」と自分を正すのだろう。
 洗濯。
 Tシャツでも何でも、必ず一度、はたいてから干す。Tシャツだったら肩の部分を両手で持ち、顔前まで持ち上げてから、思いきりはたく。皺 を伸ばす、というより、パン!といい音を立てるためにやってるんじゃないかと思うくらい、乾いた小気味のいい音がする。同じ要領で、タオルでもハンカチでも、必ず音を鳴らしてから干す。でも、靴下はしない。それから、二人で汚してしまったから、洗わざるを得なかったしわくちゃのシーツも。
 遙の住む部屋は南向きに掃き出し窓とベランダがあって、日中の日当たりは申し分ない。朝、干して出かければ、帰ってくるころには気持ちよく乾いていそうだった。それを伝えると、陽が沈む前に帰って来られる日はまれで、干しっ放しで夜露に濡らしてしまうことも、時々あるそうだった。遙が洗濯物を取り込むのを忘れるくらい、泳ぎ疲れて、帰って来てすぐに寝床に沈む姿が想像できる。なぜなら、自分にも憶えがあるからだ。
 映画館。
 喉が渇くのを嫌がるわりに、映画館のポップコーンは買いたがる。そして、上映が始まると、大体において、彼はポップコーンの存在を忘れる。時々、思い出したようにもこもことした山に手を伸ばすけれど、なんと一粒ずつ食べるのだ。一粒、指先でつまんでは、上唇と下唇の狭間に挟み込み、ゆっくり、ゆっくり、もそもそ食べる。凛が、わしっとひと掴みして、口にざらざらと放り込んで食べる速度の、三分の一ぐらいの進み具合だ。
 さらにいえば、彼は物語に見入ると、完全に手が止まる。そういう時は、わずかに口が開いている。その小さな小さな隙間に、ポップコーンを放り込んでやりたくなる。
 それから、不思議なことがある。うす暗い中で一体どうやって察知するのか、凛が物語の展開によっては涙ぐんでしまうことがあると、少しうろたえたような仕草をして、タオルを凛の顔に押し当てて来る。これで視界を遮られて、大概、いい場面を見逃すのだ。いつか、そのうち、「放っておいてくれても大丈夫だから」と伝えたい。
 スマホ。
 人差し指でプッシュホンを操っているかのような、覚束なさ。凛が親指で操作するのを真似てやってみたが、誤字脱字がひどく、しまいには「指がつった」としょんぼりしていた。それでも、貴澄に教えてもらったというアプリで電車の乗り換え案内を検索するのは慣れているし、乗り降りしやすいホーム位置まで教えてくれる。
 改札やホームで凛を案内する時、遙はあまり言葉を発さないし、指で示したりもしない。まるで猫が「こっちに来て」と誘う(いざなう)みたいに、ちらちらと凛を振り返ったり、足並みをそろえたり、目線で行き先を示したりする。新宿のダンジョンのような駅構内を、すいすいと迷いなく歩く遙の後姿は、街に住み慣れた猫みたい。
 電車。
 よほど疲れた時でなければ、積極的に座席に座らない。扉と座席側面の隙間にするすると猫みたいに収まるのが、ものすごくうまい。 地元で、同じ電車に乗ることはほとんどなかった。たまに、乗り合わせて移動する時は、鈍行列車のガラガラに空いた座席に座るのが当たり前だ ったので、立ち並んだままでいるのはなんだか新鮮だ。
 遙は、ガラス窓に映る街並みを、隈なく点検するみたいに眺める。車体が揺れても上手にバランスを取る。大きく揺れた時は、それとなく、凛の背中を手のひらで支えてくれたりなどして、それ、女子にもすんのかよ、するんだろうな、ハルってそういうやつだよな、と照れと嫉妬が同時に巻き起こって、なんとも言えない気持ち。
 風呂。
 長い。とにかく風呂が長い。遙が入っている間に、凛は寝る支度どころか、翌日の準備や連絡など、その他のタスクをすべて終えてしまう。自分がせっかちなのもあるかもしれないけれど。新たに汗をかく前に、肌がすべすべしたまま眠りたい。ので、待てずに先に寝ることがこれまでも多かった。遙の長風呂は、東京へ来て、風呂の仕様が変わっても、相変わらずだった。
 新たに汗をかきたい気分で(いわゆる、そういう、恋人同士の、という意味で)、がんばって起きていたとしても、遙は風呂から上がると、かなりスローになる。コップの冷えた水をちびちび飲みながら、ぼうっとしている。髪を乾かすのが面倒らしく、ドライヤーを使いたがらない。自然乾燥でいいと言う。つまり、彼曰く、ぼうっとしているのではなく「髪を乾かしてる」状態なのだと言う。
 見かねて、「ちゃんと乾かせよ。頭皮を大事にしろ。将来的に、悲惨なことになるぞ」と脅すと、目をぱちぱちさせていた。凛がドライヤーを持ち出して乾かしてやる時は、大人しくしている。遙のつむじの場所と向きがおもしろいし、割と意志の強い感じのする、まっすぐな黒髪は触っていて心地よいので、乾かす作業は結構好きだ。屋外の、塩素濃度の調節が難しいプールで泳いでいた頃よりは、毛艶はよくなった気がする。
 就寝。
 あんなにもたもたしていたのに、寝るとなると早い。凛の背中に鼻先をくっつけて、くんくん匂いを確かめたり、頬っぺたをぴたりと当てて、体温が馴染むのを待ったりしている…かと思うと、すうっと寝入ってしまう。毎回、驚かされる寝つきのよさだ。非常にうらやましい。
 しばらくじっと待ち、遙が身じろぎしなくなってから、そっと体を返して向かい合わせになる。今日一日の観察をまとめる。高校生の頃と、変わったところ。変わっていないところ。離れている間に更新された遙の観察記録。かといって、どこかに書き付けたりはしない。ただ、時々思い出して楽しむだけだ。
 いつもまっすぐでサラサラの髪が、少しだけ乱れている。その髪の束のカーブとか、閉じたまぶたの淵の、睫毛が描く半月のラインとか、呼吸に合わせてわずかに上下する肩とかの、遙にしかない、遙を象る(かたどる)線を、全部なぞりたくなる。遙の命の輪郭。それを、どこにいても、離れていても、そっくりそのまま思い出せるようになぞりたくなるのだ、無性に。でも、触れれば起こしてしまう。だから、ただ、見つめるばかりだ。薄暗がりの中で飽きずに眺めていると、遠くでサイレンが鳴った。消防車に救急車、パトカー。どこかで誰かが困っている。あるいは、苦しんでいる。でも、その音は、夜に溶けていくみたいに、小さく、遠のいていく。
 深く寝入ったと思っていたけれど、遙はそれで起きてしまったらしい。やや身じろぎをして、薄っすらとまぶたを起こした。
「凛、」
「ん」
 寝たふりが間に合わなくて、寝床で間近に目が合ってしまう。遙は眠たそうな重い瞼を何度か起こし、閉じ、また起こして、小さく言った。
「明日は、まーぼーどうふだ」
「ん?」
 まーぼー。どうふ。
 ああ、麻婆豆腐ね。そう、麻婆豆腐。
「なんだよ、それ」
「食べたいって言ってただろ」
「言ったっけ?」
 そう言えば、帰国前に「何が食べたい」とたずねられて、いくつか適当に答えたような気がする。それも、辛いメニューばかり。それを遙は律儀に覚えていたのだ。
「明日の晩は、まーぼー」
「わかったって。なんで今、明日の晩飯の話すんだよ…お前は親か。おふくろか」
「実は、作ったことないから、おふくろさんの味になるかどうか、わからない」
「いや、いーよ。おふくろの味じゃなくて。ハルの味で」
 一体寝床で何の��をしているのか。色気もそっけもない、麻婆豆腐の話がなんだかおかしくなって、笑ってしまう。ふふ、と声を漏らしてしまうと、またまぶたをくっつけそうになっていた遙も、ふふ、と笑った。
「それとな、凛は、話は変わるけど、て、ちゃんと断って話すのが、いい」
「…ほんと突拍子もねえな。何の話だよ、もう」
「今度会ったら言おうと思ってて、まだ言ってなかったから…」
 眠気に浸かった、覚束ない声で言う。明日、この小さなやり取りのことを覚えてないかもしれない。
「べつに、普通のことだろ」
「普通のことが普通に出来るのが、いい」
「そんなもんかな」
 すべてひそひそ声で話しているのも、なんだか、小さい頃みたいでおもしろかった。お泊まりとか、旅行とかの夜みたいに。
「もう寝ろよ。まだ何かあるなら、明日聞くから」
「そうだな、明日」
 ふあ、と遙は小さく欠伸をする。
「…よかった。凛が、ここにいて」
 そう言って、遙は腕をそろそろと伸ばして、凛の頬を撫でた。
 よかった。ここにいて。
 まるで、ここにいるのが奇跡であるかのように、大事そうに、包むみたいに言うので、自分の命の輪郭がはっきりする感じがした。
それから、遙は、こめかみにも、肩にも、背中にも、順に触れていった。撫でるというよりも、凛の体の輪郭を、なぞるみたいにそっと触れた。 じっと押し当てられた手のひらの真ん中から伝わる、遙のぬるい体温が心地いい。
 そうしているうちに、彼はまた眠りに落ちて行った。はたりと腕の力がゆるんで、凛の腰に腕を添えたまま、子どもみたいに眠ってしまった。
 遙は多くを語らない。「よかった」に込められた意味は、凛が感じ取るしかない。けれどこうして、さざ波が立てる泡みたいな彼の気持ちを、大事に、大事に、掬う。
 よかった。
 自分だって、そう思う。
 この体で、この姿かたちで、どこも損なわれることなく、海を隔てた遠い場所へ行っても、無事にここへ戻って来られて、よかった。愛してくれる人を悲しませるようなことが起きなくて、よかった。好きな人を、好きなだけ映せる目と、時間と、触れられるこの腕があってよかった。そしてそれは、そのまま、遙へも「よかった」と思えるのだ。誰に感謝すればいいのかわからないけれど、そういう当たり前の奇跡の創生者に、ありがとう、と言いたくなる。
 今日は特別な記念日でもなんでもない日だ。それなのに遙が、凛の命の輪郭を、愛おしそうに優しくなぞるので、…こんな何でもない日の、特別ではない夜に、生きていてよかったと思える。心の奥底の、深い深いところから、間違いのない愛みたいに、そう思えるのだ。
 そして、こういう瞬間のことは、きっと一生忘れない。
「明日の晩は、まーぼー」
 なんとも気の緩む、どうでもいいような会話を、一人でなぞって、まぶたを閉じる。遙と呼吸のリズムをそろえているうちに、自分も眠りの波にさらわれてしまった。
 台所。
 豪快に、フライパンを振る。力強く躍動する前腕に、筋が入っていて、思わずなぞりたくなる。近くにいると「危ないだろ」と猫を追い払うみたいに言われてしまう。それでも見ていたくて、背中からくっつく。「動きづらい」「重い」「今日は甘えん坊だな!」とぶつぶつ言いつつ、時々肩越しに味見をさせてくれる。ぴりりと山椒の効いた、まーぼー。
 たぶんだけど、お互いに、背中の匂いと体温、好きだよな。そこは間違いなく、お揃いだと思う。
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ohmamechan · 6 years
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煌々と、透明
 気づけば、道のガム跡を見つめながら歩いていることがある。  駅前や公園側の通りには特に多い、大小さまざまな、黒い点々模様。上京してすぐは、この黒い点が一体なんなのか、わからなかった。舗道に敷き詰められたブロックタイルの模様な どではないことはわかっていたが、その正体を知らなかった。猫の足跡のようにどこにでも点々と落ちているそれらが、吐き捨てられたガムが踏みつぶされて、固まり、取れなくなって しまったものだと知った時は、妙な気分になった。遙の知らない、いつかの誰かがここを歩いた跡だ。それも無数の。恐竜の足跡と同じ、「何者かが生きていた証し」だ。もちろん、き れいなものでも、珍しく貴重な物でもない。清掃するか、新しく舗装されない限りは、その黒い模様はそこにあり続ける。テナントビルに入った飲食店は目まぐるしく変わっていくのに 、路上のガム跡はしぶとく残るのだ。  赤信号で歩みを止めた。遙の少し前を歩いていた凛のスニーカーの底が、黒い点の端を踏みつけている。ごつごつとして重く、赤い凛のハイカットスニーカー。気に入って履き続けて いるので、ソウルは擦り減っていくばかりだ。擦り減ってどこかへ溶けていく凛のスニーカーのラバーソウルと、消えない黒いガム跡を、なぜだがじっと見つめてしまった。そこで、駅 を出てからほとんど、俯いたまま歩いていたことに気づいた。  凛には、「どこに行きたい?何したい?」と、空港で顔をあわせたそばからたずねておいた。その答えは、まる一日経って返って来た。今朝、凛はコーヒーメーカーから立ち上る湯気 に、ふかふかと煽られながら、「ぶらぶらしたい」と言った。「ちょっと買い物もしたいし」と付け加え、ガラスのサーバーを傾けてコーヒーを注いだ。アルミ製の、登山で使うような カップ、二つ分に。  なので、昼を過ぎて、いわゆる「若者のまち」に繰り出した。  その街は、上京してすぐに、真琴とスーツを仕立てたり、安くて着まわせる服を仕入れたりするために訪れた町だ。求めるものが無ければ、特に足を向けることは無い場所だった。そ もそも、「お出かけ」なんて、何か目的が無ければしないものだけれども。故郷には確かにあった、目的が無くても足を向けるような場所が、こちらには少ない気がする。海とか、神社 とか、展望台とか。無目的の人間を無条件に無関心に受け入れてくれる場所だ。そういう場所が、東京にもまったくないわけではないのだ。アパートの近くの公園とか、川沿いの桜の並 木道とか。少ないけれどもある、ということは、ここに確かに自分の暮らしがあるということだ。上京して間もなく一年が経つ。自分の足元から、細くて小さな根が生えていたりするの かな、と思う。  大きな交差点の赤信号は、待ち時間が長い。車はまるで連結した車両みたいに、絶え間なく行き交う。小春日和のあたたかい日だった。凛は、遙が貸した裏起毛のパーカーを着ている 。真夏のシドニーからは、厚手のコートを一着持ち帰るので精いっぱいだったらしい。けれども、お馴染みの黒いロングコートで出かけるには、今日はあたたかすぎた。凛が「日本は冬 もあったかすぎて、大丈夫なのか」という心配をしてしまうくらい、今年の冬はあたたかい日が続く。 「いや、天気よすぎだろ」  凛が空を見上げて、眠いみたいに言う。  ぎざぎざのビルの山脈の間に、水色のリボンがたなびくような空が覗いている。  ふー、と長く息を吐いていると、あわい水色の空に、カッターで切れ目を入れるように、大声がこだました。誰かが、拡声器を使って、金切り声で叫んでいる。近くの公園でデモが行 われているのだ。デモの声を聞くのも、その集団を目にするのも、こちらでは珍しいことではない。プラカードを掲げたパレードとすれ違ったこともある。けれど、以前耳にしたものよ りも、随分と過激だ。悪口雑言で、何ごとかを罵倒している。拡声器の音が割れていて、ところどころしか聞き取れないが、「しね」とか「出ていけ」とか、声に乗った重たい憎しみの 感情が、つぶてのように降った。その声に否応なく耳を叩かれているはずの信号待ちの人々は、何の温度もない顔をしているように見えた。  遙は、半歩前に立った凛を、掠めるように見た。凛は、スマートフォンで目的地を検索する手を止めて、声のする方に目をやっている。凛には、あの声が、どんな風に聞こえているの だろう。凛の耳を塞いで、謝りたいような気分になった。デモの声は、遙の声ではない。でも、街の声だ。何かを主張し、誰かを罵り、道行く人々にお前はどう考えるのだ、と答えを迫 るような声。あらゆる問題に対して、当事者でいなければならない、と突き付けるような声。それらが、遙の体の中にじりじりと侵入してくるように思えて仕方がない。青信号になって 歩き出しても、ガム跡の黒い点のように、声は遙の中にこびりついて離れない。  横断歩道を半分ほど過ぎてから、凛がちらりとこちらを向いた。 「疲れたか?」  え、と短い声が漏れた。「疲れたか」が、別のことを指しているように聞こえて困惑した。凛は歩みを止めないまま、言った。 「昼は軽く済ませたもんな。どこかで休憩するか?」 「いや、大丈夫だ」 「そ?」  じゃあ、もうちょっとで着くから、付き合ってくれな、と凛は軽い足取りで歩いて行く。東京の人ごみには遙の方が慣れているはずなのに、凛はヨットの帆先みたいに、無数の人々の 群れの中を軽やかに進む。  疲れてなどいない。と、思う。  一年近く暮らして、こちらにも、親しい友人や、馴染みの場所が増えた。もう知らない土地ではない。どこからどんな風に日が上るのか、日暮れ時の景色はどんな色か。日々刻まれて いく街の記憶がある。でも、今、凛に「疲れたか」と問われて、無性に、帰りたくなった。どこに。アパートに。ふるさとに。プールに。どこが、自分の帰るべき場所なのだろう。どこ へ、とも知れないが、帰りたい。透明になれる場所に。この土地でずっと暮らすうちに、いつか、透明になる方法を忘れてしまいそうだ。  こっちこっち、と凛の的確なナビゲーションで辿り着いた先は、大きなCDショップだった。いや、ショップと呼ぶに納まらないほどの規模だ。入り口に、「NO MUSIC NO LIFE」とで かでかと掲げられた九階建てのビルを、思わず見上げてしまった。 「改装されたって聞いて、来てみたかったんだよな」  凛は相変わらず迷いのない足取りで、自動ドアをくぐっていく。慌てて追いかけ、凛のうしろにくっつくようにして、エスカレーターに乗った。  店内のすべての壁を埋めることに使命でもあるのか、ポスターやポップが賑やかで、目が飽きるということがなかった。また、ひっきりなしのレコメンド放送が耳を埋めた。目と耳か らの情報の洪水の中で、遙は凛の色とか形とか匂いを手がかりに、必死に立っているような気分になった。  四階に上がる頃になってようやく体が馴染んできて、フロアガイドに目をやる余裕が出来た。CDなどの音楽ソフト全般はもちろんだが、映画ソフトやAV機器も置いてあり、カフェ や本屋も併設してある総合施設らしい。 「何階に��があるんだ?」  エスカレーターを下りて、また登りの方へベルトコンベアのように体を運びながらたずねる。凛は肩越しにこちらを振り返って言った。 「順番に上から見て行きてえんだけど」  順番に、上から、というと、九つのフロア全てということだ。地元のCDショップに二人で行ったことがないわけではないが、ワンフロアのこじんまりとした店舗だった。この音と光 に溢れたタワーを、一階ずつ攻めていくのかと思うと、う、と息が詰まった。すると凛は、苦笑いした。 「わーかったよ。特に行きてえのは八階かな」  ぐいぐいとエスカレーターに運ばれながら、フロアガイドを確認する。八階は、主に洋楽の音楽ソフトを置いているフロアらしい。  ビルをジグザグに縫うように上へ上へと運ばれて、ようやく目的の階に到着した。エレベーターでもよかった気がするのだが、凛はあえてエスカレーターを選んだようだった。移動し ている間ずっと、彼は店内の様子をおもしろそうに眺めていた。縁日の屋台を見て回るみたいに。 「ここまで連れて来ておいてなんだけど、ハルは、カフェか本屋で時間潰すか?」  8F、と書かれたフロアマットを踏んで、凛が言う。ふるふる、と首を振って意思を伝える。たまにしか会えないのに、別々で過ごすのは、選択肢になかった。それに、ぶらぶらする のに付き合うのは、苦手ではない。真琴や旭の買い物に付き合うこともよくある。 「ハルには、退屈かも」  それまでまったくそんな素振りなど無かったのに、急に心配になってきたらしく、凛はやや重い足取りと、小股で移動した。陳列棚の間を進みながら、 「べつに、いい」  と返した。それでも凛は、申し訳なさそうに言う。 「わざわざショップに行かなくてもさ、いまどき、配信でも手に入るのが多いんだけど、…マイナーなやつとか、配信の方が早かったりするし。でも、なんか、ジャケットを手に取って 選びたいっつうか」 「わかる」 「ほんとかよ」  凛は思いきり疑っている。遙が音楽に興味の薄いことを知っているからだ。 「魚は、実際に捌いているところや、目を見て鮮度を確かめたい。それと同じだ」 「そうじゃねえ、とも言い切れねえ…絶妙な例えを持ってくんな」 「とにかく、俺も適当に楽しむから、気にするな」  もっと理由を説明したほうが親切丁寧なのかもしれないけれど、自分でも、なんとも説明のしようがなかった。  凛は地図アプリを見ていた時と同じように、天井に下がる案内札を見ながら迷いなく進んだ。時々、黄色いエプロンの店員に「いらっしゃいませー」と笑顔を送られながら、八階フロ アの隅にある、一区画に辿り着いた。 「改装されて、ちょっと数は減ってるけど、ここ、インディーズの品ぞろえがいいんだよな。視聴もできるし」  そう言って、凛は、宝物でも探すように頬を煌めかせて陳列棚を眺めはじめた。遙も四角いケースにパッキングされたCDの群れを眺めてみたけれど、ピンとくるものはなかった。色 とりどりのCDのパッケージより、凛を眺めている方がおもしろかった。先ほど、べつに、いい、と返したとき、このことを伝えた方がよかったのだろうか。凛の指先が、つい、とケー スの背表紙を引き出す。ケースは、表、裏に返されて、また列の中に戻される。発掘調査員みたいなその様を見ているのが、おもしろいし飽きないのだ。そう言ってみたところで、果た して理解されるだろうか。言ってもいいことなのだろうか。  試聴したい、というので、壁づたいにひっそりと設置された試聴コーナーに移動した。「掘り出しもの!」「密かに沸騰中」など、手書きのポップが躍る試聴カウンターの前に立ち、 凛はヘッドホンを手に取った。再生ボタンを押された試聴プレイヤーの中では、青い円盤がきゅるきゅると回転している。凛はCDジャケットを眺めながら、何がしかの音楽を楽しんで いる。並びには、同じように試聴する客の姿がぽつぽつとあった。ポップやジャケットをくまなく眺めた。遙も適当なヘッドホンを手に取って、耳を塞いだ。再生ボタンを押すと、しゃ がれた女性の歌声が、破天荒ででたらめなピアノの音に乗って聞こえて来た。もちろん、遙の知らない歌姫だ。隣の凛が、ヘッドホンを着けた遙をおもしろそうに見ていた。  曲を聴くというより、ヘッドホンを装着しているだけの時間を過ごしていると、ふと、先ほどの、デモの声が蘇った。どれだけ耳元で音楽が鳴っても、店内が賑やかな音で溢れていて も、街の空に亀裂を入れるような、女の叫び声を剥し去ることができない。「しね」「出ていけ」「ほろびろ」「消えうせろ」ヘッドホンをしているからか、尚更、遙の体の中のあちこ ちで跳ね返り、耳から出て行くことを許されず、モンスターみたいに暴れた。こうして暴れはじめると、遙にはなす術がない。時に任せて、薄くなって、やがて忘れてくれるのを待つし かない。    不意に、隣の凛が「あ、これ」と呟きに近い声を出した。つん、と肩を突かれて顔を向けると、凛が遙のヘッドホンを外した。そして、自分と同じプレイヤーのフックに掛けられてい たヘッドホンをぱかりと開いて、遙の耳に当てた。突然、世界が静寂に包まれた。いや、正確には、ちゃんと音楽が鳴っている。ピアノとかギターとか。たぶん、笛も?なんというジャ ンルの音楽なのか、見当もつかないが。 「これさ、」  と、凛が説明を始める。しかし、ヘッドホンをしているし、音も鳴り続けているので、うまく聞き取れない。戸惑っていると、凛が身を寄せて、右耳のヘッドホンと、遙の左耳のヘッ ドホンをこつんと触れあわせた。そして、CDジャケットの裏の、曲目リストを指で差した。数cmのところで、凛の赤い唇が動く。 「このバンドの作曲担当がさ、自然の音を録音して、サンプリングして、曲の中にミックスするのが好きなんだ」  ここまではわかった?という風に、かすかに首を傾げて確かめて来るので、こくこくと頷いた。 「それでさ、今、聞いてるのは、海の波音とか、ダイビング中の海の中の音とか、イルカの鳴き声がサンプリングされてるんだってさ。ハルなら、なんか、聴き取れそうだなって、思っ てたんだ」  凛はおもしろそうに笑って、こちらを見ている。曲も聴かないといけないし、凛の説明も聴かないといけないし、イルカや波音も聴き取らなければならないので、忙しい。それに、何 より、突然に、近いし。パーカーの布越しに、凛の体温がじわりと伝わってくる。それくらい、凛が、近い。セックスだってなんだってしているのに、こういう時、どうしようもなくな ってしまう。心音が跳ねまわって、皮膚の下で反響している。 「どう?イルカ、いた?」 「ぜんぜん、わからない」  残念だが、わかるはずがない。正直に、首を振る。それでも、凛は楽しそうだ。「だよな」と、くすぐられたみたいに、笑っている。音楽の中に溶け込んでしまった動物の声を探すな んて、無茶な話だ。でも、二人で並んで同じ音楽を聴くのは、楽しいことなのかもしれなかった。ようやく動悸を落ち着かせて、他の客に怪しまれない程度に、体の片側をくっつけて、 どこかの国の、どこかの誰かが作った音楽に耳を澄ませる。ヘイトに満ちたデモの声を聴くよりも、凛と一緒にイルカの鳴き声を探す方がよっぽどいい。  ふと、こんな風に、高校生の時も、身を寄せ合って音楽を聴いたことがあるのを思い出した。駅前の、つぶれそうでつぶれない、小さなCDショップで。やっぱりその時も、凛は遙の 知らない音楽を楽しそうに聴いていたし、遙はその横顔を見つめていたのだ。凛はもしかして、泳いでいる時も、歌っているのだろうか。あとで聴いてみようか。そんなことを、思って いたのだ。凛の記憶は、きっとどこを取り出しても、息をしているみたいに鮮やかだ。  凛はその後も、いくつか試聴し、いくつかのCDアルバムを手に取ってうんうんと悩み、二枚のアルバムを選び抜いた。凛がレジに並んでいる間、離れたところで待っていると、手招 きされた。「二枚も買ってもいいと思う?」と不安そうにたずねてくる凛は新鮮で、どこかに再生ボタンがあれば、何回も押すのに、と思った。  アルバム二枚の出費は、親に仕送りをしてもらい、ろくにアルバイトもできない身分としては、確かに思い切ったものかもしれない。支払いを済ませた後も悩ましげな凛と一緒に、九 階のカフェテラスへ上がった。屋上にあるカフェはオープンテラスで、空がぐんと近かった。暑い季節になれば、ビアガーデンとして人の集まる場所らしい。レジ横のポスターには「B BQ予約開始」の文字がでかでかとあって、一気に季節感が狂いそうになる。 「江がおいしいって騒いでたな」と、凛は試しにタピオカミルクティーとやらを注文した。手渡された透明なカップの中を、茶色の半透明の球体が、ふよふよと泳いでいる。 「ナントカって魚の卵みたいだ、とか、言うなよ」  先に言われてしまって、黙るしかない。遙はブレンドにした。カップを手にして、テラスの端っこの席に座った。  凛はやたらと太いストローを咥えつつ、さっそく、包みを開けて、歌詞カードを眺めている。出費に関しては、もう開き直ったらしい。 「それ、うまいか?」 「んー、何とも言えねえ。甘すぎないのは、いいかもな」  唇からストローを外して、「飲んでみるか?」と、カップをこちらに向けて来る。顔だけ寄せてストローを唇で食む。なかなかうまく吸えなかったが、微かな甘みのある液体と一緒に 、ぽこぽことタピオカの粒が口に飛び込んで来る。こういうのを、楽しむ飲み物なのかな、と思った。 「魚の味はしないな」 「当たり前だろ」  凛は呆れたように笑って、またストローを口にしようとして、はた、と止まった。ほわ、とその耳の先が赤くなる。無意識のうちに、間接なんとやらをしてしまったことに、お互いに 気づいた。真っ昼間のオープンカフェは、老若男女問わず、客で溢れている。けれど、誰も、こちらを見てなどいない。しかし凛は気になるのか、カップをテーブルに置いてしまった。 「このくらい、友だち同士でもあることだろ」 「そーだけどよ!ダチなら気にしねえよ。…でも、俺とお前は、ダチ同士じゃねえだろ」  まだ赤い耳を隠すみたいに、凛はパーカーのフードを被ってしまった。どうやら、見られているかもと意識したからではなく、単に間接なんとやらが恥ずかしくなってしまったらしい 。セックスでも何でもしているのに、お互いに、些細なことに照れてしまうのは、何なのだろう。 「この後、どうする?」  フード男にたずねる。凛はCDジャケットを見ている振りなのか、ケースで顔を隠しながら、 「ぶらぶらする」  と応えた。 「他に、行きたいところは?」 「特に、ねえけど。ぶらぶらしたい」 「いいけど」  それ��、凛は楽しいのだろうか。 「ハルと、ぶらぶらしたかったから。東京でも」  フードとCDケースの間から、凛の目が覗いている。 「今日、デートっぽいだろ」 「うん、まあ…」 「デートっぽく、したかったの、俺は!」  やっぱり小声だが、凛は、自己主張は忘れない。思わず、笑ってしまった。ぶらぶらと歩いたり、CDを選んだり、同じ曲を聴いたり。自分だって、そういう何でもないことがしたか ったのは確かだ。 「ぽく、じゃなくて、しっかりデートだ。…すごく、楽しい」  凛の意見を肯定したかっただけで、言うつもりはなかったのに、最後に楽しい、と言ってしまって、自分に驚く。遙はストローをくるくると回して、タピオカのつるつるした球体をカ ップの中で躍らせた。 「結局、どんなCDを買ったんだ?」 「おー、これ?」  凛は歌詞の書かれたブックレットを遙に渡し、お守りにみたいに小さなプレイヤーをポケットから取り出した。 「スウェーデンのロックバンドなんだけど。いくつか、配信で入れたやつもあんの」  言いながら、イヤホンの片方を遙に差し出す。ころりとしたそれを受け取って、左耳に差す。凛が再生ボタンを押す。先ほど試聴したものより、少しだけかさついた音源が流れ出す。 凛が、曲のタイトルを口にして、バンドの説明をしてくれる。けれど、やはり、申し訳ないが、音楽よりも、凛の声が聴きたいだけだった。    相変わらず、デモは続いているようだった。太鼓の音と拡声器の声が不調和に入り混じってビルの壁を叩いている。おそらく、路上をパレードしているのだ。けれどその声は、遠い。 色とりどりの音と光の詰まったタワーの最上階までは、届かない。  あの叫びに耳を塞ぎ、やり過ごすことがいいことなのか、遙にはわからない。わからないけれど、今は、フードに隠れた恋人の声に、彼と半分こしているイヤホンから流れる音楽に、 耳を澄ませるので精いっぱいだ。  CDのディスク面が、力強く光を跳ね返す。 「いや、やっぱ、天気よすぎだろ」  凛が、歌うみたいに言う。ごちゃつく街の、少しだけ空に近い場所で、透明に、体が清んでいく。 end 公式ブックの、あるコメントを読んで。遙も東京暮らしに疲れることもあるのかなと思ったので。
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ohmamechan · 7 years
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しっぽ、前足、ひげ
 夕立に降られて、慌てて庭の洗濯物を取り込む母を手伝った。 「もう、いつの間に雲が来てたのかしら」 夏の終わりって、こうよねえ、と仕方なさそうに言う母の隣で、Tシャツやら短パンやらを手早くハンガーごと腕に抱えていく。「お兄ちゃん、こっち」と掃き出し窓から 両手を広げている双子たちに、衣類の塊をパスする。その間にも、大粒の雨がみるみる庭の土を黒く濡らしていく。 「お兄ちゃん、浮き輪も忘れないでっ」  蘭が竿にぶら下がったままの浮き輪を指差してねだる。 「これは濡れても大丈夫だろ」 「大丈夫じゃないの。枕にして寝るの」 「はいはい」  蘭のお気に入りのピンクのイルカの浮き輪も回収していると、 「うわ、わ」  誰かが慌てて、門扉の柵の向こうを駆けていった。黒いかたまり、のように見えたのはおそらく制服だ。声の感じと、慌ただしく大股で石段を駆け上がって行く気配から して、きっと凛に違いなかった。 浮き輪を抱えて軒下に逃げ込む。「あーあ、濡れちゃった」「ね、見て、お父さんのTシャツが水玉模様だよ」双子たちが洗濯物の山を仕分けしている。真琴は二人の側に 腰を下ろして、一緒に、濡れたものとかろうじて濡れずに済んだものを分けた。 「今日、凛が来る」と遙が言っていた。思ったよりも早い時刻だ。部活が終わってすぐに来たのかもしれない。 「家のことと勉強が済んだら、真琴も来い」と誘われている。一応受験生なのだが、親しい仲間に誘われてしまえば、少しくらい行っても許されるよなあ、と気も緩んでし まう。  結局、取り込んだもののほとんどは、乾燥機にかけることになった。双子たちは、流れ作業みたいに濡れた衣類をパスしながら、どんどん乾燥機に放り込んだ。お手伝い を楽しみながらやってくれるのは、とても助かる。  家の中にいても、どうどうと激しい雨音が、迫るように響いた。 「台風かな」蓮は不安そうだ。蓮は強い風の音や雷の音が怖い。「今日はお兄ちゃんと寝てもいい?」とくっついてくる。きっと双子たちが眠る頃には大雨は降り止んでい るだろうけど、「いいよ」と言ってやる。 「ていうか、こんなの台風じゃないし。通り雨だしービビりすぎ!」と、蘭が蓮をからかい始め、蓮が意地になって言い返すので、一気に脱衣所は賑やかになった。回り始 めたドラムの中で、色とりどりの衣類がリズムカルに跳ねている。 今頃、突然の雨でびしょぬれになった凛は、遙に迎え入れられて、風呂にでも入れてもらっているかもしれない。 「今日、凛が来る」  遙の口から幾度となく聞いた言葉だ。ちょうど一年前の夏の終わりごろ、遙はそれをどこか重たそうに口にしていたものだ。少し怒っているような、でも、口元がなんと いうか、へにょへにょしていて、なんとも言い難い不思議な顔をするのだった。 「凛、よく来るね」 「ああ」  いつもの海岸沿いの道を、まっすぐ前を向いて歩く遙の眉は、やっぱり困ったように微かにハの字だった。 「仲直り…っていうのかどうかわかんないけど、凛とまた遊べるようになってよかったじゃない」 「…そうだな」 ずっと隔たっていた凛が、昔みたいに遙の家に遊びに来るようになった。それは、あの夏を境にして訪れた大きな変化だった。遙はそれが、うれしくないわけではないけれど、こうして度々、うかない顔をするのだ。 「なんか、あった?喧嘩した?」 「いや、そういうんじゃない」 じゃあなんで、と目で問う。凛は外泊届を出して、泊ることだってある。遙はそれが迷惑だったらはっきり言えるタイプだ。でも、凛には言えないでいるのだろうか。また 隔たってしまったら、と不安に思うあまり。 遙は、うつむいて、足を擦るように運んでいる。舗道に散った砂が、じゃりじゃりと鳴る。 「楽しいんだろうか、あいつ。何しに来るんだろう」 「何しにって…。遊びに来るんじゃないの」 「だって、うちには、何もない」  確かに、遙の家には娯楽に使うような玩具はほとんどない。遙は特に自分で好んでゲームはしないから、ゲーム機器を持たない。真琴の家に来て、双子たちにねだられて することはあっても。あの家には、おじさんが置いて行ったオセロとか、将棋なんかの古いボードゲームがあるくらいだ。あとは、トランプぐらいだろうか。  二人で向かい合って、トランプをする遙と凛。想像がつかない。ババ抜きだったら、一瞬で終わってしまう。 「いつも、何して過ごしてるの」 「べつに、なにも。飯食って、ちょこちょこ話して…。話すことがなくなって、黙ってることもある」 「それって、普通じゃない」 「でも、結構長いこと黙ってるんだ。一番初めに泊りに来た時は、そんなことなかったのに。最近は、ちがうんだ。あいつは、そんなんで、楽しいんだろうか」  一層眉が寄って行くので、遙が何に一番困っているのか、わかってしまった。二人でいると、沈黙が訪れることがある。それが、遙には気詰まりというか…悩ましいよう だった。遙自身が口下手なのはもう昔からだけど、凛はどちらかというと賑やかな方だ。再会して、打ち解けてからは、ぶっきらぼうながらも口数は増えたし、楽しそうに はしゃいで笑うことだってある。あの凛がいて、しんと静かになることがあるなんて、どこか信じられない。 真琴が遙といても、お互いに何も話さないことなど、幾度となくある。それぞれ好きなことをして適当に時間を過ごす。沈黙が苦ではない間柄なら、何も話さない時間があ っても平気なはずだ。遙は渚や怜とだって、ぼんやり静かに過ごすことがある。誰と話しても話さなくても、一向に気にしないものだと思っていたけれど…凛との間にある 「何も話さない時間」だけは、勝手が違うらしい。 「あんまり気にしなくてもいいと思うけどな」 「気になんか、してない」  思いきり気にしてるくせに、すぐにそんなことを言う。遙の頑固が出てしまった。 ふう、と胸がへこむのがわかるくらい、遙は深く息を吐いた。まなざしは、白み始めた夕空と海が接する、遠い沖を見つめていた。 「とにかく…静かなんだ。二人でいると。ソーダの泡が、ぱちぱち弾けるのが、聞こえてしまうくらい」  それは、どんな静寂だろうか。ささやかな泡の音が鼓膜に響くくらいの静けさ。あの、凛といて。 「真琴も、来い」  間がもたないから、とは言われなかったけれど、遙からの救難信号なのは確かだった。  それから、凛が遊びに来るときは、できる限りで混ざるようになった。渚や怜や江も、そこに混ざって、みんなで賑やかに過ごすことも幾度かあった。 凛は寮生活なのでそう頻繁に遊びに来る機会があったわけではないけれど、そのうちの何度かを一緒に過ごしているうちに、気づいたことがあった。 凛は、人がいればいるほど、賑やかになる。冗談を言ってふざけたり、渚や怜をからかって遊んだり。時にはむきになってみせて、遙に喧嘩をふっかけてじゃれたり。 遙と凛と真琴の三人でいると、わりと静かになる。しかしそれも、大勢でいる時と比べれば、だ。凛が黙りこくってしまうなんてことは、まったくなかった。どこからか話 の種を持ち出してくるし、自然にこちらの話題を引き出してくれる。 遙と凛は、真琴の目の前ではごく普通に、当たり前に言葉を交わしたし、昔に戻ったみたいに…いや、昔以上に馴れ合っているように見えた。凛は遙の隣に自分から寄って 行くし、肩を組んだり、くすぐったり、スキンシップだって当たり前にした。遙が言っていたように、この二人の間に、静かで何も話さない時間があるだなんて、ますます 信じられなかった。  たしか、秋の終わり頃のことだったと思う。 「みんなでお好み鍋をしよう」という、渚の企画で、遙の家に集まることになった。鍋の材料は、買い出し係に立候補した渚と怜に任せてあった。鍋の材料以外に、ひとり 一品おかずを持ち寄ることになっていたので、母に卵焼きを巻いてもらって、それを携えて遙の家を訪れた。 玄関には一足先に来ていたらしい凛の靴があった。私服で来たらしく、大きな黒いスニーカーが三和土の隅にきちんと揃えてあった。 居間へ通じる廊下の先には、その靴の持ち主がいた。台所と居間の境目に座って、水泳雑誌を読んでいる。遙の家の板張りの廊下は、きんと冷えていた。温かい居間で読め ばいいのに、なんとも中途半端な場所に凛がいた。 「寒くない?中に入ろうよ」  と声をかけると、凛は「おー、来たか」と座ったままこちらを見上げた。台所では、遙が鍋を仕込んでいた。 「これ、母さんから」  遙の脇から卵焼きを差し出す。鍋の出汁の味を見ていた遙は、「おばさんの卵焼き、久しぶりだな」と頬を緩めた。 「皿にいいか」 「うん。あ、その前に、切ってくれる?」  なるべく冷めないように、と切り分けずにそのまま持って来たのだ。  遙はまな板を布巾で一拭きして水気を拭うと、卵焼きの黄色い塊に、包丁を入れた。すっすっと肘から先のぶれない、いつもながら滑らかな手さばきだ。 食器棚から大皿を取り出して、遙が等間隔に切り分けてくれた卵焼きを盛り付ける。居間からは、絞られたテレビの音と、凛の雑誌を捲る音がした。たまに「ふわわ」とい うあくび。 「他に手伝うことはない?」 「大丈夫だ。ゆっくりしててくれ」 「わかった」  居間へ卵焼きの乗った皿を運ぶと、ちゃぶ台にはカセットコンロや取り皿や箸が人数分、完璧に配膳されていた。おそらくこちらは凛が整えたのだろう。 「鍋、そっちに運ぶぞ」  遙が鍋掴みを両手にはめて、台所からそろそろとやってくる。まだ火を灯さないコンロの上にそっと土鍋を乗せて、傾いていないか確かめる。 「渚と怜が来ないことには、鍋も仕込みようがない」 「さっき、店を出てこっちに向かってるってメールが来てたから、もうすぐ来るとは思うんだけどね」  材料は彼らが調達してくるので、あとはもう待つしかなかった。  遙は台所へは戻らず、その場でエプロンを脱いだ。しばらく居間で休憩するらしい。  すると、凛が、台所と居間を仕切る襖を占めて、そろりそろりとちゃぶ台の近くへやって来た。そしてまた、雑誌を捲る。気にする必要ものない行為だったけれど、その 時、ふと、何かが引っかかった。思わず凛を見ると、凛はおもむろに雑誌をぱたりと畳んで、「なーハル?」と遙の肩に手を掛けた。 「俺の持って来たキムチは?」 「冷蔵庫だ」 「ちゃんと鍋に入れろよ」 「今日の鍋の監修は、渚だ。渚がいいって言ったらな」 「なんだよそれ、お好み鍋だろ」 「渚の、お好み鍋だ」 「うわ、嫌な予感しかねーな」 「俺もだ」  いつもの二人だ。いつもの二人のやりとりが、目の前で展開している。おかしいことなんて、何もない。でも、引っかかる。 もしかして、もしかして。 自分がこ うしてやって来るまで、この二人、会話が無かったのでは? 「おっじゃましまーす!」「お邪魔します」  渚と怜が到着したので、遙は再びエプロンを身につけて台所に立った。 「お前ら遅いぞ」  凛が廊下に手をついて身を乗り出す。 「ごめんごめん。スーパーのはしごしちゃったあ。なかなかお目当ての材料が見つからなくてさあ」  渚ががさがさとビニール袋を置くそばから、遙は彼らが仕入れて来た材料を取り出して、支度にかかる。ネギ、白菜、しいたけ、しめじ。豚肉、白身魚。 「お、プリンじゃねーか。デザートか?かわいいもん、買ってきやがって」 「違うよ、それは鍋に入れるんだよ」 「えっ渚くん、そのつもりでカスタード成分が濃厚なプリンを探してたんですか?」 「そうそう。醤油とプリンを混ぜたら、ウニの味になるって言うじゃない?だったらさ、醤油ベースの出汁にプリンを入れたらさ、豪華なウニ味の鍋になるんじゃないかな って」 「やめろ。絶対やめろ」 「やめましょう。危険です」 「えっなんでー?ちょっと試してみたくない?ハルちゃんはどう?」  いつの間にか、凛も渚や怜と共に台所に入っている。台所は、人と食材と賑やかな声に溢れていた。その様を見つめながら、真琴はある確信に辿り着いた。  きっと、おそらく、ほんの数分前まで、ここは静寂に包まれていたはずなのだ。真琴が「お邪魔します」とやって来るまで。  鍋で湯の沸く音。遙が冷蔵庫を開け閉めする音。まな板と包丁の奏でるリズムカルな音。テレビの音。凛の、雑誌を捲る音。小さなあくび。聞こえるのは、日常の音だけ だったはずだ。  なぜなら、凛が、何も話さないから。静かにそっと、遙の側にいたから。  凛がわざわざ台所と居間の境目にいたのは、襖をしめてしまうと、遙の姿が見えなくなるからだ。気配が遠のくからだ。だから、あんな中途半端な場所にいたのだ。  でも決して、ぴたりと側に寄って馴れ合ったりはしない。ある一定の距離を置いて、遙の側にいるのだ。  思い返してみれば、いつもそうだった気がする。真琴が「お邪魔します」と玄関から上がって居間に入ると、二人は必ずと言っていいほど、離れて座っていた。凛が縁側 にいれば、遙は居間に。遙が縁側にいれば、凛は居間に。遙が台所にいれば、凛は廊下側のふすまのそばに。  少しの距離を置いて、それぞれテレビを見たり、雑誌を捲ったりして過ごしていた。真琴がやって来ると、一斉に二人の時が流れだしたみたいに、「遅かったな」とか「 りんご食べるか」とか「ゲーム持って来たか」などと口々に話し始める。でも、それまで…真琴が居間の襖を開けるその瞬間まで、二人は沈黙の中にいたのだ。今日みたい に、近づきすぎない距離で。  この距離感には、覚えがあった。この、目で計ると、およそ2mとちょっと。歩いて三歩分ぐらいの距離は、野良猫と、同じだ。そうだ、凛の遙との距離の取り方は、猫 と同じなのだ。  新参者の野良猫は、初めは人に慣れていないから、顔を合わせると逃げる。少し見慣れて来ると、道の端と端で目を合わせる。だんだん、逃げなくなる。声をかけたり、 しゃがんでちっちっと舌を鳴らしたりすると、恐る恐る近づいてくる。でも、その距離はひと息には縮まらない。でも、怖がって逃げたりしなくなる。少し離れたところで 、毛づくろいをしたり、だらりと伸びきって昼寝をしたりするようになる。それが、その猫にとって、人との心地いい距離なのだ。  野良猫に例えていることが凛に知れたら、とてつもなく怒られそうだけれど、真琴には彼の振る舞いが、猫そのものに思えてしかたがなかった。  凛が時に何も話さず、付かず離れず遙の側にいるのは、彼なりに心地よい距離を測っているからなのだ。皆がいる時には、勢いで振る舞えても、二人きりになるとそれが できない。それがなぜなのか、本人に聞いてみないとわからないけれど、一緒に過ごすのが嫌なわけじゃない。嫌だったら、億劫だったら、わざわざ外出許可をもらい、電 車に乗り、離れた町まで何度も会いに来たりしない。凛なりに精一杯気を遣い、遙との親しさの距離を測りながら過ごしているのだ。四年と少し、心も体も隔たっていたそ の距離を埋めるために。  そう気づいてしまってからは、凛の振る舞いの一つ一つが微笑ましく見えてしまって仕方がなかった。  渚が調合した奇想天外な鍋の味も、凛の持って来たキムチの激辛味も飛んでしまうくらい。 「まこちゃん、なんでずっと笑ってるのー?この殺人キムチ食べても平気なの?」 「おい、ひでえな。うまいだろ。辛さの向こうに、旨みがある」 「いや、これ普通の人には無理だよ」 「遙先輩、大丈夫ですか?気絶してません?」 「なんだよ、なっさけねえなあ。おい、ハル?」 「辛さの向こうに、意識が飛んでいた…」  みんなで一緒に鍋をつついて、わいわいと笑いながら、遙と凛を見る。大勢でいる時は、凛は遙の隣だ。輪の中で、隣り合って、笑っている。  でも、二人だけになると、猫の距離になる。会話がぴたりとやんでしまう。でも、それはそんなに重たい沈黙じゃない。そうやって、少しずつ、少しずつ、ちょうどよい 距離を探っていくのではないだろうか。三歩の距離が、一歩に。一歩の距離が、尻尾一本分の距離に。尻尾一本分の距離が、前足の届く距離に。きっと少しずつ、近づいて 行くに違いなかった。  大丈夫だよ、ハル。  早くそう言ってやりたかった。会話がなくても、ぎこちなさがあっても、心の距離は近づいて行っているはずだから。凛は、遙に近づきたいって思っているはずだから。 昔みたいに、ためらいも、わだかまりも置き去って、すぐ側で笑い合えるまで、きっとあと少しだから。  鍋パーティの次の朝に、さっそく遙に自分が気付いたことを伝えてみた。 「猫…あいつが、そんなかわいいものか?」  遙はまったく納得がいかないようだった。凛が猫だと言ったわけじゃない。猫みたいな振る舞いだ、と説明し直す。 「とにかくさ、待ってみなよ。そのうち、大丈夫になるよ」 「猫がなつくのと同じみたいにか?」  どうも遙は真琴の持論を軽んじているようだった。けれど「そうだよ、猫みたいなものだよ」と真琴は押し切った。 「初めは遠い���ど、だんだん近付いて行くんだよ」 「お前、たまによくわからない論を、大真面目に展開するよな」 「わかりやすいって言ってよ」  遙はやっぱり気難しそうに眉を寄せていた。  遙だって、猫みたいなものだよな、と思う。言ったら不機嫌になるだろうから黙っておくけれど。彼らはお互いに、心地いい距離を測り合っている、二匹の猫だと思う。 猫は、一度近しい距離を許したら、もうその後はころころくっ付いて過ごすだけだ。 「大丈夫。きっと、大丈夫になるよ。もう少し、待ってみようよ」  励ますつもりで、満面の笑みを向ける。遙は困ったように首を傾げたあと、「まあ、待つのは慣れてる」とぽつりと言った。  あれから、およそ一年が経つ。  今やすっかり凛は、我が物顔で遙の家に通う猫だ。  あれから、二人の間にある沈黙がすっかり解消されたのかどうか、真琴にはわからない。けれど、遙の口から悩ましげなことがこぼれるのはほとんどなくなった。  代わりに、凛がどうしたこうした、と二人の間で起きた出来事を、よく話してくれるようになった。いつだったか、「縁側の猫がくしゃみをしたら、次に凛がくしゃみを した。くしゃみが移った」という話を、朝も、昼も、夕もしていた。よっぽどお気に入りの出来事だったらしい。  何より「今日、凛が来る」と困ったようにではなく、明日の天気でも言うみたいにさらりと口にするようになった。  もう放っておいても大丈夫そうだったので、呼ばれても、頻繁に混ざることはなくなっていた。そもそも、三年に上がって、凛は部長を任され、多忙な毎日のようだった 。おかげで、遙の家を訪れることがすっかり減っていた。 「今日、凛が来る」 は、久しぶりに聞いた気がする。今朝、いつものジョグをこなしながら、遙が言った。何気なくあっさり口にしたつもりかもしれないけれど、口元がへにょへにょしていた 。うれしさが隠せていない顔だったな、あれは。  双子を寝かしつけたあと、夜に回していた課題を片付けた。しばらくして、「久しぶりに、あの変な深海魚のゲームしようぜ」と凛から電話がかかって来たので、その日 のノルマを片付けてから、遙の家へ向かった。ついでに、凛に教えてもらおうと英語のテキストとゲーム機とソフトを抱えて。  数時間前の大雨が嘘のような、月が明るい夜だった。雨に打たれたおしろい花が、甘く香っていた。石段の途中で、ちりりーん、と風鈴の音が聞こ えた。海に大きく縁を開けた遙の家は、よく風が入るので、こんな夜は冷房がいらないくらいだ。 「お邪魔します」  居間の戸も開け放たれていて、庭から台所の小窓まで心地よい涼風が吹き渡っていた。  遙と凛は、二人とも、畳の上に転がって、寝入っていた。テレビは点けっ放し、ちゃぶ台の上の水泳雑誌は、開かれたままだ。凛は座布団を枕にしてすうすう眠り、遙は 自分の腕を枕にしてすぐその隣に身を横たえていた。  まさに、猫の距離だと笑ってしまう。尻尾や前足どころか、これはヒゲも触れ合う距離だ。一年前が、嘘みたいに。  起こすのが忍びなくて、しゃがみこんで、寝息を立てる二人をしばらく見つめた。よくよく見れば、凛が着ているのは、遙のTシャツだ。なんとかという深海魚の。雨で 濡れネズミになってしまった凛に、遙が貸してやったのだろう。よかったねえ、と何度も何度も言いたくなる。  青いはねの扇風機が、首を振って風を送ってくれる。さやかな風に、二人の前髪がふわふわと揺れていた。  それにしても、どちらが先に寝て、どちらがくっついていったのだろう。凛だろうか、遙だろうか。このままだといずれ、鼻先もくっついてしまいそうだ。 おしまい
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ohmamechan · 7 years
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沖をゆく青い舟
 ※大昔に出した本の、短編を中途半端に再録です。  夏合宿の前に、一日だけ実家に戻った。  母が物置をひっくり返して大騒動をしているので何かと思えば、遺品の整理をしているのだと言う。 「来年はお父さんの十三回忌でしょう?久しぶりに、色々片付けようかと思って」  そう言いながらも、母が何一つ父に関わるものを捨てる気が無いのを知っている。七回忌の時もそうだったからだ。  仕舞い込まれていたものを取り出しては並べ、天日に干して、また元通りに収める。  各種大会で取ったメダルや額入りの賞状。トロフィー。くたびれた皮のジャケットやジーンズ、ぼろぼろのスニーカー。色あせた大漁旗。古びたランタン。  とりとのめのない、父を思い起こさせる物ものたち。  それらは、普段は目のつかないところに収められているけれど、その物ものたちの存在を忘れることは決してない。母は特にそうだろう。普段の食事や、居間で和んでい る時、ふとした会話の端々に、父の存在を滲ませる。父がいたこと、父が今はもうこの世にはいないこと、そのどちらも当たり前にしている。母はそんな話し方をする人だ った。 「このTシャツなんか、もうあんたにぴったりじゃない?」  時代を感じさせるスポーツメーカーのTシャツを、背中にあてがわれる。靴を脱ぎ終わらないうちから、母が玄関に飛んできてそんなことを言うのだ。  江は、居間にテーブルにアルバムを広げて、色あせた写真を眺めていた。 「いっつも思うんだけど、私もお兄ちゃんも、ちっともお父さんに似てないのよね。花ちゃんのとこは、みんなお父さんに似てるのよ。娘は父に似るって言うけどうちは違 うわね。全部、お母さんに寄っちゃったみたい」  などと、一人で何やら分析している。  そこへ母が戻ってきて「ほら、このTシャツよ。みんなで海へ���かけた時に着てたのよ」と手にしていたTシャツとアルバムの写真を交互に見ながら言う。どちらも見比 べてみた江が、ほんとだ、と感激する。  以前は、このやり取りを見ているのが苦痛だった。二人が、父の話を和気あいあいとする中に、うまく混ざることができなかった。父の写真を持ち歩きながらも、本当は 写真の中の父と目を合わせるのはこわかった。母に会えば、父の思い出や存在に嫌でも向き合わなければならなくなる。あからさまに避けていたわけではないけれど、あれ これと理由を付けて帰らなかったのは事実だ。  それなのに母は、いつも子ども部屋を出て行ったままにしておいてくれた。小学生の時に使っていた机も椅子も本棚も洋服箪笥も。そう広くもない平屋住まいなのだから 、ほとんど帰らない息子の部屋を物置にするぐらいのことをしても誰も咎めやしないのに。  荷物を自分の部屋に置いて居間に戻った。  アルバムを熱心に覗き込んでいる姉妹みたいな二人に自分も加わる。  どれどれ、と覗き込むと、 「お兄ちゃんは見ないで。この頃の私、太っててやだ」  と江がアルバムの左上のあたりを手のひらで覆い隠した。写真は見えなかったが、指の間から書きこまれた文字だけはなんとか読めた。日付からして、江が二歳、凛が三 歳の頃の写真が収められたページのようだ。 「お前、食っては寝てばっかだったもんな」 「そうね、江はおっとりしていてまったく手がかからなかったわ。おやつをあげればご機嫌で、あとはすやすや寝てたもの。お兄ちゃんがちょこまか動いて忙しかった分、 助かったものよ」 「そうだっけ」  おやつを食べかけたまま寝こける江の姿は記憶にあるのに、自分がどうだったかなんて、まるで覚えていない。 「そうよ。走り回るあんたをおっかけて、ご飯を食べさせるの大変だったんだから。一時もじっとしてなかったのよ」  ふうん、と頷きながら、するりとアルバムに置かれた江の手をスライドさせる。 「あっ、お兄ちゃんだめったら」  露わになった写真に写っていたのは、浜辺に佇む家族の姿だった。祖母の家があるあの町の海岸かもしれない。母に抱えられた江はベビービスケットを頬張っている。腕 はふくふくとしていて、顔はハムスターの頬袋のようにまるい。とてもかわいらしい赤ん坊だと思うのに、江は顔を真っ赤にして「見ないでよ」と憤慨している。  同じく写真に写っている自分はというと、父の肩にまるで荷袋のように抱えられて笑っている。浅黒く日焼けした父も笑っている。こうして顔が並んでいるところを見れ ば、つくりは多少違うけれど笑い方は似ている気がする。 「これ、お父さんが外海に出る前に撮った写真ね」 「全然覚えてないわ」 「おれも」 「まだ小さかったもんね。外に出れば一ヶ月は戻れないから、大変だったのよ。お父さんが」 「大変って?」 「離れてる間にあんたたちに忘れられちゃうんじゃないかって、不安がるのよ。お見送りの時はいっつもさめざめと泣いてたわ」  お父さんかわいい、と江が小さく噴き出した。  中にはいくつか風景写真もあった。眺めているうちに、見覚えのある海岸線が写っているものを見つけた。 「これは、おとうさんの船で島まで渡った時のものね」 「あ、ほんとだ」  母と江がそろって覗き込んで来る。小さいながらも、父は自分の船を持っていた。青い船体に赤い縁取りの漁船。普段は大型漁船の乗組員として沖合や外洋に出ていたが 、禁漁で船が出せない期間は、よく自分の船に乗せて近海に連れ出してくれたものだ。小島を渡って、釣りをしたり、磯で生き物を探したりした。  小学生の時も、オーストラリアにいる時も、父を思わない日は無かった。けれどそれは、こうして思い出に浸るようなものとは少し違っていた。自分が何のために泳ぐの か、今なぜここにいるのかを確かめるための座標のようなものだった。そこに、感傷はあるようで無かった。感傷を背負い込む余裕すらなかったのだ。 「今度、江も凛もここに合宿に行くんでしょ?」 「うん」 「まさか、またあのコーチに船出してもらうのか?」 「いいじゃない!結構楽しいよ」 「お父さんが生きていたら、喜んで船を出してくれたでしょうねえ」  ゆっくりと母が言った。  昨年の夏、あれほどの問題を起こしたのに、鮫柄高校水泳部と岩鳶高校水泳部は頻繁に合同練習を行い、大会前は対抗試合を行うほど親交が深まった。  許してくれる人間もいればそうではない人間もいる。部内には、凛に対して風当たりの強い部員も当然いる。岩鳶高校と交流を持つことをよく思わない部員もいる。そん な中でも、御子柴部長は率先して岩鳶高校を自校へ招待したし、自分たちも岩鳶へ遠征した。今春から後を引き継いだ新しい部長が今回の合同夏合宿を持ちかけたのも、O Bの意見を取り入れたからだ。  彼の言動というよりも人柄が、凛が水泳部に居座ることを不快に思う部員たちの意識を変えていった。 「だって、江くんと会える絶好の機会じゃないかあ」  などと茶化してはいたが、彼がどれだけ気を遣い、部内の雰囲気を良好に保つために力を割いてくれたのか、側で見ていた凛には痛いほどよく分かる。  自分にできることと言ったら、泳ぐことしかなかった。御子柴の厚意に甘えるばかりでは、何も示せない。ひたすら、どんな時も、誰よりも真剣に泳いで見せた。泳ぐこ との他には、先輩に礼を尽し、後輩を支えた。それは部員として当たり前のことばかりだったが、その当たり前を一心にやり通すこと。それが素直にうれしくもあった。  六月末、島へ渡り、例年通り屋内プールを貸し切っての合宿が始まった。昨年と異なるのは、岩鳶高校と合同だという点だ。  合宿の中日は、午前中のみオフタイムとなり自由行動が与えられた。五日間のうち、四日間は泳ぎっぱなし。合宿後はすぐに県大会に向けて最終調整に入る。ではここぞ とばかりに休もう、ではなく、遊ぼう、と考えるのは、まさに渚らしかった。 「ねえねえ、凛ちゃん。明日のお休み、みんなで海で遊ぼうよ」  合宿二日目、専門種目の練習の最中、隣のコースに並ぶ渚がのん気に話しかけてきた。そういう話は後にしろ、とたしなめても、彼はにこにこしながらなおも言った。 「絶対行こうよ。おもしろい景色、見せてあげるから!怜ちゃんが!」  そんなことを大声で言うので、やや離れたところでフォームのチェックをしてもらっていた怜がぎょっとしていた。  渚の言う「おもしろい景色」とは、まさにおもしろい景色だった。 「お前、なんだそのナリは」  晴天の下、焼け付く白砂の上に降り立った怜を見て、凛は顔をしかめた。 「し、仕方ないでしょう。これがないと、ぼくは海へ出ちゃいけないって、真琴先輩が…」  しどろもどろな怜の腰、両方の上腕にはヘルパーが取り付けられ、腕には浮き輪を抱えている。浮き輪はピンクの水玉模様。先日、江が押入れから取り出して合宿用の荷 物の中に加えているのを確かに見た。まさか、怜のためのものだったとは。 「おもしろいでしょ?怜ちゃんてば、去年色々やらかして大変だったんだから、まあしょうがないよね」  何をやらかしたかについては、大体聞いている。夜の海に出て溺れかけたらしい。一歩間違えれば大変なことになっていた危険な行為だ。だからと言って、これはあんま りだろう。 「お前、ほんとに水泳部員かよ」 「どこからどう見ても、水泳部員です!昨日見ましたか、ぼくの美しいバッタを!」 「あ?全然なってねえ。せっかく俺がじきじきに教えてやってるのに、もうちょっとましになったらどうだ」 「知識・理論の習得と実践の間には時間差があるものです。だから昨日あなたに教わったことはですね…」 「もうまた始まった!バッタの話になると長いんだからやめて、二人とも!」  そうして三人で波打ち際で騒いでいると、 「まあまあ、三人とも、とりあえず泳ごうよ」  やわらかい声がすんなりと差し込まれた。真琴がにこにこしながら海を指差す。 「ハル、待ちきれずにもう行っちゃったよ」  見れば、遙が波打ち際から遠く離れた場所をすいすいと気持ちよさそうに泳いでいた。 「なんて美しい…海で泳ぐ姿は、本当にイルカや人魚のようですね」  怜がうっとりした顔をしていた。男のくせになんつう比喩だ、と毒づきたくなるが、あながち外れてもいない。 「僕もあんな風に海で泳ぎたいものです」  怜が唯一泳げるのはバッタのみで、他の泳法は壊滅的にだめなのだそうだ。一年をかけて少しずつ特訓してきたが、どうしても上達しない。合同練習で会えばバッタの練 習しかしないので、遙と同じく「ぼくはバッタしか泳ぎません」というスタンスなのかと思っていたが、違うらしい。 「鮫柄の皆さんにカナヅチがばれてしまうのも時間の問題です」 「いや、ばれてるよ、怜ちゃん」 「怜…残念ながら」  渚と真琴がそろって悲しげな顔を作った。 「諦めんなよ。練習しろ」  とりあえず励ましておくことにすると、怜は「でも…」と暗い顔で俯いてしまった。その背中を渚が押して、「そうそう、練習しよう!」と無理やり水辺へと引っ張って 行く。 「さあ、特訓だ!松岡教室開講~!」 「いやです!今はオフです!」 「秘密の特訓をして、みんなを驚かせたくないの?」 「それは…」 「いいから来いよ、怜」 腰が引けているその手を取ると、怜は恐る恐る波に足を浸けた。 「やさしくしてください…」などと、目を潤ませ、怯えた小鹿のように言うので、笑いをこらえるのがやっとだった。 「たぶん大丈夫だろうけど」と言いつつ遙を一人で泳がせておくのが心配になったらしい真琴は、遙の後を追って沖へと泳いで行った。遙の姿はもう小さな点にしか見えな いくらい遠のいていた。一人で遠泳でもするつもりなのだろうか。  そういえば、遙とは昨日も今日もろくに言葉を交わしていないことに気付いた。練習中は専門種目が違うのでウオーミングアップやリレーの練習の時ぐらいしか接点がな い。オフだからと浜辺に集まった今朝は、黙々と一人で体をほぐしていた。 小島まで泳いで渡るつもりなら自分も行きたい。前もって伝えておけばよかったな、と思った。別に、必ず遙と一緒でなければならない理由ではないのだけど。 胸のあたりまでの深さのところで、怜の特訓が始まった。 潜ることは抵抗なくできるというので、とりあえずヘルパーを外して自分の体だけで楽に浮く練習から始めた。だるま浮きだの大の字浮きだの初心者向きの手ほどきは散々 やって来たことらしいのだが、それすら怪しいのだと言う。 「海水は水より浮力があるからな。少しは浮くんじゃねえの」  本当は波のないプールの方が断然初心者には向いているし、浮力が問題ではないと思われた。けれど、慰めにそう言ってみると、怜は「なるほど」と素直にうなずいてい た。なんだかすっかりその気のようだ。  怜はすう、と大きく息を吸って水に潜った。だるま浮きから水面近くに浮いて来たところでじわじわと手足を伸ばす。水面下10cmあたりのところで怜の体がゆらゆら と揺れる。 「わあ、海水マジック!浮いてるよ怜ちゃん!プールの時よりもずっと!」  渚が歓喜して大げさに拍手する。とても浮いているうちには入らないような気がするのだが。  次、バタ足を付けてみろよ、と指示を出すと、怜は恐る恐る水を蹴った。ぱちゃぱちゃとバタ足を数回繰り返したところでその体がずぶずぶと沈んでいく。 「おいおい」  掌を掬い上げて浮力を助ける。ぶはあ、と怜が苦しげに息を吐いて体を起こした。 「はあ…途中まではいい感じだったんですが」 「うんうん、進んでたよ」 「潜水艦みたいにな。もう一度やってみろ」  再度バタ足にチャレンジする怜に「もうちょっと顎を引け」と伝えると、すぐに言われたとおりにしてみせた。怜は理屈っぽいところがあるが、素直だ。力を伸ばすのに はそれは大切な要素だ。  顎を引いた分だけ浮力を得て、わずかなりとも浮きやすくなるはずだ。しかし、怜の場合は逆効果だった。頭の方から斜めに沈んでいく。まさに、潜水艦のごとくだ。 「わあ、頭から沈んでいく人、初めて見たあ」  渚の遠慮のないコメントに笑ってはいけないのに、こらえきれずに小さく噴き出してしまった。 「ちょっと!笑わないでください!ひどいです!」  びしょびしょに濡れた髪を振り乱して怜が喚く。 「わりい…いや、ちょっとした衝撃映像だったから」 「動��、とっとけばよかったね!」  渚と二人で笑い合っていると、怜はもう泣きそうな顔をしていた。 「しょうがねえよ。体質だ」  怜の肩に軽く手を置いて慰めた。 「体質?」 「お前、陸上やってたんだろ?」 「はい」 「筋肉質で体脂肪が少ない上に、骨が太くて重いんじゃねえの。ついでに頭も」 「怜ちゃん、頭いいもんね。脳みそ重いんだね」 「なるほど…」 「もうどうしようもなく浮くようにできてねーんだよ。そういうやつ、たまにいるぜ」 「そうなんですか?僕だけじゃなく?」  凛はしっかりと頷いて見せた。 「極端に痩せた人はもちろん、筋肉をがちがちに鍛えた人も当然浮きにくいよな」 「物理の法則からするとその通りですね。僕の体は、そもそも水に浮くようにできていない…」  しょんぼりと肩を落とす怜を、渚が心配そうに覗き込む。 「怜ちゃん…楽に浮けるように���りたかったら、脂肪を蓄えるしかないね。ドカ食い、付き合うよ」 「いや、脂肪は付きすぎると水泳にとっては邪魔なものです」 「そうだっけ?」 「ようはバランスだな」 「カロリー、体脂肪率、筋肉の質…僕の体にとってのこれらの黄金律を導き出さなければ…!」  怜はかけてもいない眼鏡のツルを押し上げる身振りをして、ぶつぶつとつぶやき始めた。 「ま、でもバッタが泳げりゃいいんじゃね?」  あまり思いつめるのもどうかと心配になったのでそう軽い調子で言うと、怜は切実そうに訴えた。 「あなたまで皆さんと同じことを。ここまで焚きつけておいて」 「だってよ、ここまでとは思わなかったからな」 「ひどいです。僕だって、みなさんと同じように泳げるようになりたい」  顔をくしゃりと崩す怜を見ていると、ふと幼いころを思い出した。こんな風に、父と海で泳ぐ練習をした覚えがある。海育ちは、潜るのは得意だが、わざわざフォームを 整えて浮いたり泳いだりはしない。潜って魚を捕ったり、磯で生き物をいじって遊んだりするのがほとんどだった。だから、幼稚園のプールでいざ泳いでみて、ショックだ った。潜水したままプールの床底を進む凛に、友だちが「それ泳ぐのと違うんじゃない」と言ったのだ。スイミングスクールに通っている同じ年の子どもが、それなりに様 になったクロールを披露してくれた。水の中にいるのなんて息を吸うように当たり前にできるのに、あんな風に泳ぎ進む、ということがどうやったらできるのかわからなか った。  しょげかえる凛を見かねて、父が特訓してくれた。当時は祖母の家の隣の長屋に住んでいて、目の前は海だった。幼稚園から帰ってすぐに海へ駆け出して行って、ひたす ら泳いだ。「がんばれ」と両手を広げる父まで、辿り着こうと必死で水を掻いた。毎日練習を繰り返して泳げるようになったとき、父はうれしそうに笑っていた。  もうずっと昔のことが鮮明に思い出されて、懐かしさで胸がいっぱいになった。  だからなのか、肩を落とす怜に思わず言っていた。 「わかった。とことん付き合ってやるから、がんばれよ」  怜が顔を上げて、その目を輝かせた。ええもう遊ぼうよお、と渚が後ろに倒れ込みながらぼやいた。  それから小一時間練習して、休憩に入った。  怜は、沈みがちではあったが、バタ足で10mほど進めるようになった。クロールのストロークはもとより様になっていたので、特に言うことは無かった。推進力はある のだから、ブレスでなるべく浮力とスピードを落とさないようにすれば、それなりに泳げそうだった。あくまでも、それなりにだったが。  三人で丸太のように木陰に転がり、ほてった肌を冷ました。 「感動です…ぼくでも何となく形になりました」 「怜ちゃん、感動したよぼくも!」  わざわざ凛を挟んで、渚と怜が会話する。凛は浮き輪を枕にして、二人のやり取りを聞いた。 「渚くんは、途中から変な顔をして僕を笑わせようとしていたでしょう!手伝っているのか邪魔しているのかわかりません!」 「心外だなあ。リラックスさせようと思ってやったんだよ。緊張したら体が硬くなるでしょ?怜ちゃんぷかぷか作戦の一つだったのに!」 「そ、そうだったんですか」 「なんてね」  渚はそう言うや、跳び起きて海へと駆けだして行った。怜からの反論を見越していたのか、見事な逃げっぷりだった。 「ぼくも、向こうの島まで行って来るねー!」  ぶんぶんと手を振り、あっという間に波間に消えて行った。 「あの人は、いつもああなんです」 「楽しそうだな」 「疲れます」  それには頷くしかない。 「あなたも、泳ぎに行かなくていいんですか?」 「ああ、いいんだよ。ちょっと、疲れも溜まってるし」 「…すみません。オフなのに疲れさせてしまって」  怜が顔を曇らせる。 「いや、お前のせいじゃねえよ。ついオーバーユースしちまうから、オフの日はなるべく休めってコーチに言われてんだよ」 本当は島まで遠泳できるならしてみたかったが、心残りになるほどでもなかった。ひんやりとした木陰の砂の上に転がって、潮風を受けていると、とても気持ちがいい。瞼 の裏に枝葉をすり抜けてきた光が差して、まだらにかぎろった。 「あなたが、ぼくに泳ぎ方を教えてくれるのは、昨年のことを気にしているからですか?」  まるで独り言のような小さな呟きが耳に届いて、凛は瞼を起こした。  怜が生真面目な顔でこちらを見ていた。 「なんだよ急に」 「すみません、確かめておきたくて」  怜が言っているのは、昨年の地方大会のことに違いなかった。彼を差し置いて、岩鳶高校の選手としてリレーに出た。彼らの厚意に乗っかって、大事な試合をふいにして しまった。得ることの方が大きかったけれど、負い目を感じないわけがない。しかし、負い目があるから怜に泳ぎを教えているのではない。それははっきりと、違うと言え る。 「あなたがいつまでも、ぼくに負い目を感じる必要はありません。ぼくが決め、あなたたちが選んだ。それだけのことです。そりゃあ、問題になりましたが、いつまでも引 きずっていても…」 「待て待て、怜」  怜の言葉をやんわりと止めて、上半身を起こした。乾いた白い砂の粒が、はらはらと肌の上を滑って落ちる。怜も体を起こして凛と向き合った。きちんと居住まいを正す ところが、怜の真面目で誠実なところだ。 「負い目って言われるとどうかと思うけど、それは一生無くならない。失くせって言われても無理だ。そういうもんなんだ。でも、罪滅ぼしのために、お前に泳ぎを教えて んじゃねえよ」 「ではなぜですか」  面と向かって問われると、答えざるを得ない空気が漂う。凛はがしがしと後ろ頭を掻いた。 「お前が一生懸命だからだ」 「一生懸命?」 「一生懸命練習しているやつがいたら、手伝いたくなるだろ。そういうもんだ」 「敵に塩を送ることになっても?」 「一人前なこと言うな、お前」 「だって、そうでしょう」  凛は口端を上げた。自然に笑みが湧いた。 「一にも二にも努力努力っていうけどよ。努力すらできないやつだって、ごまんといるんだよな。努力する才能ってやつも必要だ。お前にはそれがある。それは…すごいこ となんだ。そういうやつを、俺は尊敬してる」 「尊敬、ですか」  怜がしみじみと噛みしめるように言った。 「あんだけ見事な潜水艦だったのに、さっきの特訓では一度も音を上げなかったしな。俺だったら三分で逃げ出してる」 潜水艦って言わないでください、と怜はむっとした顔を作った。けれど、すぐにそれを解いて微笑んだ。 「ぼく、とても楽しみなんです。今度は、ぼくもあなたたちと一緒に泳げる。いつだってこうして楽しく泳ごうと思えば泳げるけど。試合で泳ぐのは、特別な気がします」 「確かにな」 「緊張もするけれど、わくわくします」  わくわくします。それはいい言葉だった。長らく自分が見失っていた感情に近い気がした。 「あなたは勝ち負け以外の何があるんだって、言っていましたが」 「どうしたって、勝ち負けはあるんだぜ」 「知っています。でも、ぼくはわくわくするんです。勝つかどうかもわからない。勝ったらどんな感情を抱くのか。負けたらどんな自分が出て来るのか。それは理論では計 り知れない。そういう未知なる気配が、おもしろいと思えるようになったんです」 「俺もそう思う」 「わくわくしますか」 「ああ、する」 「一緒ですね」  怜がふわりとはにかむ。隙だらけのあどけない顔をするので、思わずその頭をわしわしと撫でまわしてしまった。 「なんだよお前。ガキみたいな顔しやがって」 「だって」  怜は泣き笑いのように顔をくしゃくしゃにした。 「僕にも、皆さんと同じ景色が見られるんじゃないかって、今、すごく思えたから」 「そうかよ。楽しみにしてろよな」 「はい」 「怜、ありがとな」 「はい…えっ?」  まさか礼を言われるとは思っていなかったらしい怜は、戸惑っていた。妙に照れくさくなってしまって、そんな怜を置いて弾みをつけて立ち上がった。 「やっぱ泳ぐかあ。あいつら、どこまで行ったんだ?」  木陰から一歩踏み出ると、目が眩むほどの強い日差しに、何度か瞬きをした。  そこへ「せんぱあーい!」と似鳥の甲高い声が聞こえてきた。防風林の向こうから駆けて来る姿があった。 「自主練終わりました!ぼくも仲間に入れてください!」  そういえば、似鳥も海水浴に行きたいと言っていた。わざわざ断ってくるところが彼らしい。 「愛ちゃんさん、自主練をしていたんですね。見習わなければ」 「お前も自主練みたいなもんだろ」  似鳥はあっという間に、なだからかな浜を駆け下ってきた。 「御子柴ぶちょ…あ、元部長が差し入れにいらしてましたよ」 「暇なのか?あの人」 「そんなこと言ったら泣いちゃいますよ。ちゃんと後であいさつしてくださいね」 「わかってるよ」  怜を連れ出して沖まで行くか、と相談しているところに、今度は「おにいちゃーん!」と江の声が届いた。  見れば、ビニール袋を提げた両手をがさがさと振っている。言わずもがなのアピール。  「手伝います」という後輩たちを置いて、パーカーを羽織ると江のもとへ浜を駆けのぼった。怜は真琴の言いつけ通りの完全防備で、似鳥に浮き輪ごと曳航されて沖へと 出て行った。 「のんびりしてたのに、ごめんね」と江は詫びつつも、しっかり凛に重い荷物を譲り渡した。買い出しのために顧問に車を出してもらおうとしていたら、鮫柄の顧問から呼 び出しがかかってしまったらしい。 「ったく、買い出しくらいあいつらにさせろ。それか、マネ増やせ」 「そうね、マネも増やしたいなあ。時々、花ちゃんが手伝ってくれるんだけどね」  麦わら帽子をちょんと被りなおした江が、それにしても暑いねえ、とのんびり言う。  岩鳶高校が宿にしている民宿は、浜からそれほど遠くない。ビーチサンダルで砂利を踏みながら、江と並んで歩いた。太陽はますます高く、縮んだ濃い影が、舗装された 白い道に焼き付いてしまいそうだった。 「あ、ねえ、お兄ちゃん、見て」  江が白い腕を伸ばし、海のかなたを指した。 「あの船、お父さんの船に似てるね」  見れば、はるか沖を行く船たちの姿が、ぽつぽつとあった。マッチ箱ほどの小さな船影の中に、確かに、父の船と似ているものがあった。青い船体に、白い縁取りの漁船 だ。青い船は、白波を立てて水平線を滑るように進んでいく。やがてその姿は、小島の向こうに消えて見えなくなった。  二人で船を見送ったあと、わたしね、と江が言った。 「一つ、思い出したことがあるの」 「何を?」 「お兄ちゃん、お父さんが死んじゃったあと、よく海に出かけて行ってたでしょ?ひとりで」 「そうだったか?」 「そうだったよ。お母さんが、夜になっても戻らないって、すごく心配してたの。あの時、お兄ちゃんは、何をしに行ってたのかなあって」 「海に行くのは、いつものことだっただろ」 「そうなんだけど。お父さんが死んだあとのことよ。毎日、毎日、お兄ちゃんが帰って来ないって、お母さんが玄関の前でうろうろしてた。それを見て、わたしはすごく不 安だったことを思い出したの」  突然、遠い昔の話を出されて困惑してしまう。確かに、父が亡くなったあと、毎晩のように浜辺へ通っていた覚えがある。けれど、何のためにそうしていたのか、よく思 い出せない。 「でもね、お兄ちゃんは、ちゃんと帰って来た。お兄ちゃんが海から家に帰って来たら、ああ、よかったあ、ていつも思うの。待つことしかできなくて、とっても不安だっ たけど、ああよかった、お兄ちゃんは、どこへも行かずにちゃんと帰って来てくれて、って安心するの。そういう記憶」  沖をじっと見つめていた江が、また歩き始めた。歩調を合わせてゆっくり歩いた。 「お父さんが死んだとき、私はまだ小さかったから記憶はおぼろげなんだけど、最近は、よく思い出すんだ。お父さんが死んだ時の、お母さんの顔とか、海に出て行ったお 兄ちゃんが庭に放りだした自転車とか、お父さんの大きな手とか、声の感じとか、色々、ごちゃまぜに」 「そうか」 「なんでかな、今まで忘れてたわけじゃないんだよ。毎日、仏壇にお線香上げるし、お花の水も換えるし、お祈りもする。けど、そういう決まったことのように亡くなった 人のことを思うんじゃなくて、勝手に湧いてくるの。ふとした時に、お父さんの気配みたいなものが」  それは、凛にもわかるような気がした。さっきだって、怜に泳ぎ方を教えながら、それを感じたばかりだからだ。もう形を持たないはずの父が本当にそこにいるかのよう な感覚。五感のどこかに残っている父の記憶のかけらが、不意に集まって形作るような。 「海にいるからかな」 「そうかもな」 「お兄ちゃんが、お父さんの話をするようになったからかもしれないよ」 「どっちだよ」 「どっちもよ」  江がそう言うのなら、そうなのだろう。  並んで歩きながら、沖を行く船の姿を探した。けれど、もうあの青い船の姿は見えなかった。その名残のように、小さな白波がいくつもいくつも、生まれては消えた。太 陽の高度はますます上がり、水面に踊る光の粒がまばゆく目を刺した。  江を送り届けて海岸に戻ると、遙がぽつんと遊歩道に立っていた。もう海から上がっていたらしい。  江から、あと小一時間���どしたら宿に戻って食事を摂り、午後からの練習に備えて休むように言ってほしい、と頼まれていた。それを伝えようと軽く手を振ると、遙はふ い、と顔を背けて再び浜へ下りて行ってしまった。なんだよ、とつい零したくなるような態度だ。迎えに来てくれていたわけではないのは分かっていたが、あまりにも素っ 気ない。まあ彼としては珍しくもない振る舞いなので、まあいいかとすぐに思い直した。  真琴や渚たちも沖から戻っていた。彼らは屋根付きの休憩所で水分補給をしていた。 「怜がちょっと泳げるようになってたから、俺、感動しちゃったよ」  真琴が声を弾ませて言う。怜はその隣ですっかり得意げな顔だ。 「浮く練習なら深いところがいいって愛ちゃんさんが言うから、やってみたんです。そしたらできました」 「へえ、やるじゃねえか」 「はい。…しかしまあ、愛ちゃんさんがすごく怖くて。ヘルパーも浮き輪も容赦なく外してしまうし」 「愛ちゃん、スパルタだったよ!」  渚の隣で、似鳥は恐縮したように肩をすくめた。 「凛先輩ほどじゃありませんよう」 「いや、おれよりお前の方がえげつない練習メニュー考えるよな。この合宿のメニューだってさ、一年が、青ざめちまってたもんな」 「え、そうですかあ?ぼく、もしかして、後輩にびびられてますか?」  似鳥が困惑顔で腕に縋り付いてくる。いや、それはない、とすぐに否定しておく。童顔な彼は、どうかすると後輩に舐められてしまいがちだが、面倒見が一番いいのでよ く頼られている。 「似鳥、俺たちはそろそろ戻るか」 「もうですか?」 「午後連の前にミーティングと、OBに挨拶があるんだろ?」 「そうですね…。もうちょっと、皆さんと泳ぎたかったですけど」 「え~、愛ちゃんも凛ちゃんも行っちゃうの?」  似鳥の縋った腕とは反対の腕に、渚がぶら下がる。重い。 「しょうがねえだろ。OB様は、大事にしておかねえとな」  残念がる似鳥を促して、荷物の整理をしていると、それまでベンチの隅にしゃがんでいた遙が、急に立ち上がった。もの言いたげにこちらを見るので、「なんだよ」と思 わず言ってしまう。そのくらい、視線が重い。何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。 「なんか言いたいことあるなら言えよ、ハル」 「別に」  何もない、と遙はまたそっぽを向く。明らかに何もないわけがない態度だったが、もう放っておくことにした。 「お前らもぼちぼち戻れよ。江が、メシ作ってるって」  ちえ、バカンスは終わりかあ、と渚は盛大にこぼし、真琴は部長らしく「手伝いに戻ろっか」とお開きのひと声を発した。まるでそれを待っていたかのように、ぷしゅ、 と空気の抜ける音がした。遙が水玉模様の浮き輪の空気を抜く音だった。無言のまま、ぎゅうぎゅうと体重をかけて押しつぶしている。むっと口を結んでいるところを見る と、やはりご機嫌ななめらしい。 ほんと、よくわかんねえやつ。  手伝うよ、と真琴が遙に歩み寄る。その様を見ているのがなんとなく癪で、凛は「帰るぞ」と似鳥を連れて宿に向かって歩き始めた。  明け方の白砂は、潮を含んで重かった。  少し足を取られながらも、波打ち際を流すようにゆっくりと走った。連日の猛練習の疲れは残っているが、だらだらと眠るよりも、こうして体を動かしている方がすっき りする。  夜の間に渡って来たらしい雲が、東の空から羽を広げるようにたなびいている。それを、水平線に覗いた朝日がうっすらと赤く染めている。波も、同じ色に染まっている 。  朝日の中を行く船があった。まばゆい光の中にあって、色はわからない。  ゆるやかな海岸線の中ほどで、凛は足を止めた。上がった息を鎮めながら、沖合に目を凝らした。  なぜ、父が亡くなった後、毎日海へ出かけたのか。  昨日、江にたずねられたことを改めて考えているうちに、あることを思い出した。昨夜、眠りに落ちる前に、ふとおぼろげな記憶の中から浮かび上がってきた。   父は、凛が五歳の時に亡くなった。夏の終わりの大時化で、船と共に沈んでしまった。船そのものも、遺体も上がらなかった。何日も捜索が続き、母は毎日、港に通った。 何かしら知らせが来るのを待ち続けたけれど、ついに父は戻らなかった。船長を含めた十数人が行方不明のまま、捜索は打ち切られてしまった。だから今も、墓の下に父の 骨は無い。墓石や仏壇に手を合わせる時、どこか空虚な気がするのは、そのせいかもしれなかった。 飛行機に乗って世界中のどこへでも行けるし、ロケットに乗って月へも行けるのに、たった沖合3kmのところに沈んだ船を見つけることができないなんて、おかしな話だ 。捜索を打ち切って、浜から上がって来るゴムボートを眺めながら、そんなことを思っていた。 父が戻らないことを凛と江に告げる母は、やつれて生気を失ったような顔をしていたが、どこかほっとしているようでもあった。何か一つの区切りを迎えなければ、母は限 界だったのだろうと思う。毎晩、祖母に縋り付いて泣いているのを、凛は知っていた。江と一緒に仏間の布団に寝かされ、小さくなって眠る振りをしながら、母の細い嗚咽 を聞いた。母は、泣いて泣いて泣き伏すうちに、いつか細い煙になって消えてしまうんじゃないかと心配だった。朝になると、母は気丈に振る舞っていたので、その不安は 消えるのだけど、夜になって母のすすり泣きが聞こえてくると、家全体が薄いカーテンの中に包まれて、そこだけが悲しみに浸かっているような気がした。 捜索が打ち切られた数日後、形ばかりの葬儀が行われた。遺体の上がらなかった何世帯が一緒に弔いをすることになり、白い服を着た大人たちに連なって、海沿いを延々と 歩いた。波は嘘のように穏やかだった。岬で読経を上げる時、持たされた線香の煙がまっすぐに天へ昇ってい��たのをよく覚えている。  葬儀が終わると、生活のすべてがもとに戻り始めた。母には笑顔が戻った。友だちと外で遊び、お腹が空いたらつまみ食いをした。江は勝手に歌を作って歌い、ちょっと 転んだだけで泣いた。いつもと同じ毎日だった。  けれどもそれは、凛にとっては、大きく波に揺り動かされて、遠くへ投げ出されてしまったかのように強引で、拭いようのない違和感に満ちていた。誰もかれも、日常の 続きを演じているような奇妙さがあった。  四十九日が済むと、海辺の家を離れて、平屋のアパートを借りてそこで三人で暮らすことになった。父の船は、知り合いに引き取ってもらうことになった。新しい家も、 父の船が人の手に渡ってしまうことも、嫌だった。けれど、決まったことなのよ、と母に泣きそうな顔をされると、何も言えなかった。  引越しをする少し前から、毎日海へ通うことになった。  行き慣れた海岸は、潮が引くと、磯を渡って沖まで行くことができた。ごつごつとした岩場を歩き、磯の終わるところまで足を運ぶと、そこに座り込んで海を眺めて過ご した。  せり出した磯は、ずいぶん海の深いところまで伸びていて、水面から覗き込んでも海底は見えない。もっと小さい頃は、一人では行くなと言われていた場所だった。磯か ら足を滑らせれば、足の着かない深みにはまって危険だからと。  しかし、磯の岩場には、釣り人もいたし、浜辺には船の修理をする近所の大人の姿もあったので、凛は構わず出かけた。  手にはランタンを提げて行った。父が納屋で網を繕う時に、手元を照らすためにいつも使っていた、電池式のランタンだ。凛は、暗くなるとそれを灯して、いつまでも磯 にいた。  父が戻らないことは、幼心にもわかっていた。これから、父のいない生活を送らねばならないことも。  もう二度と、あの青い船に乗せてもらえないこと。泳ぐのが上達しても、大げさなくらい喜んで、頭を撫でてもらえないこと。大きな広い背中に抱き付いて、一緒に泳ぐ こと。朝霧の中を、船で進む父に手を振ること。お帰りなさい、と迎えること。そんなことは、もう、ないのだとわかっていた。  わかっていたけれど、誰も父を探そうとしてくれないことが、誰もが当たり前の顔をして日常に戻ってしまうことが、悔しかった。かなしかった。  海へ通い続けたのは、ぶつけどころのない感情を、なんとか収めようとしていたからなのかもしれない。海はただそこにあるだけで、凛に何も返さない。何を投げても、 すべてを吸い込み、飲み込み、秘密のままにしてくれる。父を飲み込んだ海なのに、憎いとか恨めしいとか、そんな感情は浮かばなかった。むしろ、誰よりも、そばにいて くれている気がしていたのだ。  ある風の強い日だった。その日も、いつものように海へ出かけた。波は荒く、岩にぶつかっては白い泡になって弾けていた。大きな雨雲の船団が、どんどん湧いては風に 押し流されていた。空は、黒い雲と青い晴れ間のまだら模様で、それを移す海も同じ模様をしていた。  嵐の日と、その次の日には海へ行くなと言われていた。嵐の後には、いろんなものが流れ着くからだ。投棄されたごみならよくあることだが、時に死体が流れ着くことが ある。入り組んだ海岸線が、潮の吹き溜まりを作っていたのだ。  父と海に出かけた時に、一度だけ水死体が岩場の端に引っかかっているのを見つけたことがあった、凛は離れているように言われたので、遠目にしか見えなかったが、白 くてふくふくとした塊を、父や漁協の仲間が引き上げていた。あとで父は、凛に諭すように言った。 「嵐の後の海には、こわいものがいる。海に引きずり込まれるかもしれないから、近寄ってはいけない」と。  あの時の教えを忘れたわけではなかったけれど、凛は横風に煽られながら磯の際を歩いた。いかにも子どもらしい発想だ。本当に見つけたとして、どうしていいのか何も わかっていなかったというのに。  雨雲の隙間から、光が差していた。波に洗われて、日に照らされた岩肌は、滑らかに光っていた。海面にはスポットライトのようにまるく光が差し込み、まるで南海のよ うにエメラルドグリーンに透き通って見えた。雨上がりの海の景色の美しさにすっかり心を奪われた。深い深い海の底に、何かもっと美しい景色や生き物がいるのではない か。凛は、父を探すのも忘れて、磯の際に手と膝をつき、夢中で覗き込んだ。きらきらと光のかぎろう碧が美しくて、ため息が漏れた。鼻先が海面に付くかつかないかとい うところで、びゅう、と背中から風が吹いた。ど、と勢いよく押されて、体が前に倒れ込んだ。あぶない、と気付いた時には遅かった。頭から海に落ちてしまう。海にはこ わいものがいる。引きずり込まれるかもしれない。近寄ってはいけない。あれほど言われていたのに。恐怖に体の自由を奪われて、抗えないまま海へ落ちてしまう寸前、後 ろから、ぐい、と強く腕を引っぱられた。 「危ないよ」  と声がした。  慌てて振り返ってみたが、誰もいなかった。ただ、小雨に濡れて黒々とした岩場が広がっているだけだった。  少し遅れて、心臓がばくばく鳴り始めた。  たった今、海に引きずり込まれそうになったこと。それを誰かが助けてくれたこと。その誰かの姿は、どこにも見当たらないこと。  なにか、今、不思議なことが起きたのだ。  凛は泣きそうになりながら、家へ駆け戻った。とにかく、怖かったのが一番。次には、懐かしいようなうれしいような気持ちでいっぱいだった。  危ないよ、という声が、父の声のように思われたからだ。  不思議な出来事は、その一度きりだった。二度と海が不思議な光を放つこともなかったし、助けてくれた声の主と出合うこともなかった。  海辺の家を離れて、母と江と三人で暮らし始めると、そんなことがあったことすら忘れていた。  あれはなんだったのだろうと思う。海面が光って見えたのは見間違いかもしれないし、引きずり込まれそうになったと感じたのは、ただの風のせいだったのかもしれない 。本当はあの時、通りすがりの釣り人がいて、海に落ちそうになっている子どもに声をかけただけかもしれない。  とにかく、奇妙な体験だった。海では不思議なことが起こるものだと感覚で知っている。言い伝えや昔話も多くあり、それを聞いて育つからだ。でも、自分の体験したこ とをどう片付ければいいのか、わからない。  今は、朝日を浴びて美しいばかりの海は、暗くて深い水底を隠し持っている。この海は、父の命を飲み込んだあの海とつながっている。このどこかに、今も父がいるのだ 。 「凛」  不意に声をかけられて、身をすくめる。  気づけば、足元を波にさらわれていた。慌てて、波打ち際から離れる。 「そのままで泳ぐつもりだったのか?」  遙だった。凛と同じようにロードワークに出ていたのか、汗ばんだTシャツが肌に貼り付いていた。  返事ができずにいる凛を、遙は不審そうに見ている。 「いや、泳がねえよ」  首を振ってこたえると、遙の視線が凛の足元に落ちた。 「濡れちまった」  波に浸かってぐっしょりと重くなったランニングシューズを脱いで、裸足になった。砂の付いたかかとを波で洗う。 「どこまで走るんだ?」  気を取り直すようにたずねると、遙は「岬の方まで」と答えた。答えたものの、凛の顔をじっと見つめたまま走り出そうとしない。  昨日は、午後練になってもろくに口を利かなかったからか、どこか気まずい。 「何を見ていたんだ」  遙が言った。 「何って…海しかないだろ」  凛の答えに納得したようではなかったけれど、遙は海を向いた。 「お前も、真琴みたいに海がこわいのか」 「そんなわけねえだろ。俺は海育ちだぞ」 「そうか。真琴みたいな顔をしてた」  相変わらず言葉足らずで要領を得ないやりとりだったが、どうやら心配してくれているらしい。  遠くから霧笛が響いた。大きなタンカーが沖へ向けて港を出て行く。 「船が…あっちの方に、船がいたから、見てた。それだけだ」  そう付け足すみたいに言うと、遙は船の姿を探して、沖合に目を凝らした。潮風にあおられて、彼のまっすぐな黒髪がさらさらと揺れた。遙の目は、「本当にそうか?」 と不思議そうにしていた。遙の目は雄弁だ。誤魔化さずに本当のことを言わなければならないような、そんな気がしてくる。だから、というだけではないけれど、凛はほと んど独り言をつぶやくみたいに、小さく言った。 「船、見てたらさ。俺、思い出したことがあんだよ。昔のことなんだけどさ」  遙を見ると、彼はまだ遥かな沖合に目を向けていた。凛の話を聞いているようでもあるし、波音や風の音に耳を澄ましているようでもあった。 「親父が死んだあと、毎日海に行ったんだ。何をするのでもなかったんだけど。ランタンなんか提げてさ。暗くなるまで海にいた。それで…嵐が来た次の日にも海に行った らさ、おかしなことがあったんだ」  遙がこちらを見ないことをいいことに、一方的に語った。昨夜ふと蘇った、海での不思議な出来事の記憶を。  遙にこんなことを話しても仕方がない。誰かに聞いてほしかったわけでもない。でも、船の姿を探しているような遙の横顔を見ていると、ほろりと漏れだしてしまったの だ。  彼にとってはどうでもいい話。きっと聞いたからといって、何をどうしようとも思わないだろう。  そういう気楽さがもどかしい時もあれば、救われることもあることを知っている。 「あれは、一体なんだったんだろうな」  話終えると、心の中も随分片付いていた。昔のことだから、記憶はおぼろげだし、端から消えていくように心もとない。事実とは異なるところもきっとあるのだろう。  けれど、あの時、海に落ちそうになった自分を助けてくれたのは父だったと思いたがっている自分がいる。  どうしようもない、独りよがりの感傷かもしれないけれど。 「俺も、見たことがある」  遙がふと口を開いたのは、いくらか時を置いてからだった。ごくごく小さく呟くので、凛が語ったことへ返されたものだとはすぐに気が付かなかった。 「見たって、なにを?」  たずねると、遙は、「海が光るのを」と言った。 「一人で遊んでいる時に。海が、とても美しい碧色をしていて、水底まで透けそうだった。子どもの頃の話だ。あの頃はまだばあちゃんが生きていて、話したら、近づくな って言われた」 「どうしてだ」  遙は少しだけ横目でこちらを見て、すぐにまた海へと視線を戻した。 「死は、時々美しい姿で扉を開くんだって言ってた。小さかったから、よくわからなかったけど」 「そんなの…迷信かなんかだろ」 「そうかもな」  でも、と遙は言い添えた。 「お前の親父さんだったかもな」  不意に父の話に繋がって、けれども相変わらずタイミングはちぐはぐで、理解するのにひと呼吸、必要だった。けれど、遙が言おうとしていることは分かった。凛の気持 ちを汲んで、そう言ってくれたことも。  あの海での不思議な体験は、幼かったので、本当はどうだったかわからない。けれど、それでいいのだと思えた。父が、海に落ちそうになった凛を助けてくれた。そう思 いたければ思えばいい。遙のまっすぐな言葉が、不確かだった記憶をすとりと凛の中に収めてくれる気がした。 「…んじゃあ、そういうことにする」  素直にうなずくと、遙はちらりと意外そうな顔をした。朝の美しい海を前に、わざわざ意地を張る必要もない。  凛は頬をゆるめて、遙かに向かって言った。 「あっちまで走るつもりだったんだろ。行って来いよ」 「お前は?」 「俺は、足、こんなだし。散歩でもして戻るわ」 「じゃあ、俺も散歩する」  一緒に波打ち際を歩き出しながら凛は言った。 「ハル、お前、昨日はなんで怒ってたんだよ」 「べつに、怒ってない」  遙が小さな波をぱしゃりと蹴り上げる。その態度が、すでに、なのだが。 「いーや、むすっとしただろ。言いたいことがあんなら言えよ」 「べつにない」 「べつにって言うのやめろ」 「べつにって言っちゃいけない決まりなんかないだろ、べつに」  ついさっきまで、たどたどしくも心がつながったような、そんな気がしていたのに、もういつもの言い合いが始まってしまった。陸に上がると大概そうなってしまう。  はあ、とわざとらしく長いため息をついて見せると、遙はやや口を尖らせて、ぼそりと言った。 「…島に、行きたかったのに」 「行っただろ、真琴たちと」 「いや、行ってない。泳いだけど、すぐに引き返した」 「行けばよかったじゃねえか」  そんなに行きたい島があったのだろうか。 「お前も、連れて行きたかったのに」 ※このあと、二人で海辺を散歩して、微妙ななんだかそわそわする雰囲気に雰囲気になって、宿の手前で、みんなに会う前にハルちゃんが不意打ちでチューをかまして・・・みたいな展開でした。中途半端な再録ですみません・・・
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ohmamechan · 7 years
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地方大会のリレーについて
※ES版と劇場版「約束」では、地方大会のリレーの印象が違うように感じたので、書いておきます。 ほぼ自分の妄想かもしれないし、事実は違うのかもしれない。自分が気付いていなかっただけで、今更??と思われるかもしれない。けど、…改めて、映画館であのリレー を見て、すごくすごく、胸が震えたので。 地方大会のリレーで、鮫柄はタッチの差で岩鳶に負けてしまうという結果は、ES版と劇場版で変わりがないが、レース自体の印象は全然違うものに感じた。 ES版では、岩鳶対鮫柄の対決図式を中心に描かれていた。それは、一期最終話の凛の「鮫柄で最強のチームを作ってやる」という発言から二期につながり、それからずっと物語 の側にあったものだった。 けれど、劇場版では、演出の違いによって、対決図式を強調したものではなく、鮫柄水泳部という大きなチームそのもののためのリレーが展開されたんだ、という印象に変わった。 ES版から疑問に思っていたのは、「鮫柄は岩鳶に負ける」という結果を用意していたのなら、なぜ凛を、50mを泳いでターンした時点で遙に追いつかせたのか、並ばせ たのか、ということだった。 そもそも、宗介が肩を故障しており、それは無視できないほどで、泳ぎ切ることすら難しいかもしれない、というハンデを鮫柄側は背負っていたので、岩鳶に勝てる可能性 は初めから低かった。リレー自体が成り立つかどうかすら、危うかった。 だから鮫柄が岩鳶に負けても「どこか仕方ない」と思わせる雰囲気はあった。だったら、ターンで一度並ぶことなく、そのままの流れで競って、タッチの差で負ける、とい う展開でもよかったのに。なぜだろう、と思っていた。  ターンで並ばせることで、もしかして勝てるのでは、と期待させたり、レースを白熱したものにすることはできる。  ES版を視聴した当時は、対決図式を盛り上がらせるための演出かな、と片付けてはいたが、そうなると、結果として凛が「リレーで最終的にせり負けた、勝てなかった 部長」になってしまっている気がして、どこか腑に落ちなかった。対決図式のみが強調されると、そうなってしまう。(もちろん、それも二期の熱い見どころの一つだったので 、これがいいとか悪いとかの話ではない)  けれど、劇場版では少し異なる。対決図式はややなりを潜めて、「鮫柄のリレー」を中心に描く演出がなされていた。  それは、遙が、凛と宗介のやり取りを聞いて、その���えた状況やリレーへの思いを、渚たち岩鳶のメンバーに伝える場面がカットされていたこと。そして、リレーの 直前に、「岩鳶と鮫柄の泳者が順に、それぞれの思いを宣言する」場面(ES版)が、「モモ、似鳥、宗介、凛の鮫柄リレーメンバーが、それぞれのチームへの思いを語る 」場面に変わっていたことが挙げられる。 この演出が、岩鳶対鮫柄の対決図式ではなく、「鮫柄の思いのこもったリレー」にクローズアップさせる役割を果たしていたと思う。 宗介が抱えていた、重い苦しみと現実を知った上で、それぞれがどんな思いでこのレースに臨むのか、表情と声の演技で、くっきりと描かれていた。似鳥は、ずっと願って いた凛と泳ぐリレーへの思い、モモは昨年のリレーの話を聞いてから、なおリレーへの憧れを膨らませ、宗介はもう一度、凛とリレーを泳ぎたい、という夢をはっきりと見 いだせた。 その三人の思いを最終的に引き継ぐのが、第四泳者の凛だった。  レースの流れ自体は、ES版と変わらない。第一泳者のモモが真琴とそう変わらないタイミングで引き継ぎ、モモが渚に食らいついてそう遅れることなく、宗介に引き継 いだ。宗介は、途中で肩の痛みに呻き、水を掻くことができず、失速してしまう。(足をついたら失格、という緊張場面でもある)しかし、宗介は凛の呼ぶ声と、自身に残 っていた想いの強さを力に、死に物狂いで腕を掻き、やや怜に遅れを取りながらもタッチする。  このあと凛は、当然、宗介が力を振り絞って繋いだリレーを渾身の力で泳ぐ。けれど、この時凛が考えていたのは、岩鳶に勝つこと、第四泳者でライバルである遙に勝つ ことだけではなかったのではないかと思う。  なぜなら、凛には責任がある。  宗介の肩の故障というハンデを抱えながらも、本人の意思、希望、似鳥やモモの願いもあって、棄権せず、リレーメンバーの振り替えもせず、そのまま続行した。  もし、失格、もしくは結果が出せなかったら、似鳥やモモ、何より宗介に負い目が残る。自分たちだけが「結果はどうあれ、よかった。がんばって泳いだな」では済まさ れない。なぜなら、リレーに熱い思いを注ぐのは、他の部員も同じだからだ。似鳥、モモ、宗介、凛の代わりにリレーを泳ぎたかった部員がいる。(モモにメンバーの座を 奪われ、悔しがりながらも託した魚住しかり)みんなで全国にいきたい、と願って必死で声援を送る部員たちがいる。サポートに徹して来た、レギュラーになれなかった数 多くの部員たちがいる。 凛の背中の向こうには、リレーメンバーだけでなく、鮫柄水泳部そのものがいるのだ。部長として仲間とともに築き上げて来た、水泳部の存在があるのだ。  そのことに改めて気づかされたのは、新規で、応援していた鮫柄水泳部部員が、全国にいけるかどうか、固唾をのんでリザルトが表示されるのを待ち、結果を見て安堵し ていた場面が追加されていたことからだ。ここで、リレーメンバーだけではない、「リレーを熱く見守っていたみんな」の存在をよりくっきりとさせていると思う。  だから凛は部長として、リレーへの熱い思いを語って来た者として、なんとしてでも、彼らを全国へ連れて行かなければならない、と思っ���いたと思う。    ここで、リレーの展開の話になってくる。この時、凛が第一に考えていたのは、遙に勝つことではなく、タイムも順位も狙っていくことだったのではないか。(それが結 果的に岩鳶に、遙に、勝つことにもなるのだが) そのために、前半の50mで遙に差を詰めた。個人種目とは打って変わって、リレーでフリーを泳ぐ遙のハイスピードは相当なものであること、後半で巻き返そうとしても ノンンブレスでさらに加速して泳ぐ遙を刺すのは相当難しいことを、凛はよく分かっていたはずだ。何度も競い合ってきたから。なので、前半に出来る限りの力を突っ込ん でなんとか並び、ターンで差を広げて離す、という作戦に出た。しかし、前半に体力を相当つぎ込んでいたために、抜き去ることが難しかった。 結果として二位だし、最終泳者としては負けた。けれど、全国に出場することができる。 責任というプレッシャーに打ち勝って、凛は立派に全国へ繋いだのだ。 もはや、ES版で受け取っていた「リレーで競り負けてしまった部長」という印象とは全く異なる。 ハンデを帳消しにし、誰にも負い目を感じさせず、タイムと差を縮めて全国大会に出場できるように、見事に泳ぎ切った。 御子柴部長から打診があり、それを受け止め、部長という役割を背負った時から、凛なりにその役割を全うしようと日々つとめてきた。 その熱い思いの現れが、あのリレーの、100mフリーだったのではないか。 凛の部長としての誠実さと、勝負者としての確かな計算と熱意を感じる、レース展開と結果だと、改めて思い直した。 それに、凛にとっても、ようやく自分だけの、自分の想いで構築されたリレーができたのではないか、とも思う。 小6のリレーは、父への尊敬と思慕、七瀬遙へのあこがれ、リレーそのものへの憧憬から。 高2のリレーは、仲間との絆、水泳への想いを取り戻すためのもの。 それが、ここにきて、一から自分が作りあげたチームでリレーができた。やりたかったことを、周りを巻き込み、思いも寄らぬ形になったことすら力にして、リレーを泳ぎ 切った。凛の思いが一つ叶った瞬間だったと思う。 約束のキャッチフレーズは「あいつらに見せたい夢がある」だった。 「あいつら」が表しているのは、リレーメンバーだけだと思っていた。けれど、凛にとって、「あいつら」は鮫柄水泳部の仲間や、松岡凛に関わる全ての人たちなのではな いか、と映画を見るうちに思うようになった。 夢ってなんだ、未来ってなんだ、一生懸命生きるってなんだ。 そういうことを、日々を大切に、がむしゃらに生きて生きて、生き抜くことで体現し、投げかけている。そんな気がする。 松岡凛とは、こういう人なんだ、と改めて思い知らされた映画であり、このリレーの一場面をとっても、それがひしひしと伝わって来る。 息子さんの姿を、お父さんに見せてあげたいな。きっと、お空から見てると思うけど。 リレーから話は逸れるけれど。 その圧倒的な勢いで生きている凛が、七瀬遙が立ち止まった時だけはほろりと「前を泳いでいてくれなきゃ、困る」「じゃねえと張り合いがねえだろ」などと、半分弱音の ようなこと零すので、はるりんババアはたまらなくなりますね。 遙が立ち止まっても、迷っても、凛は泳げる。その強さがある。でも、本当は少しだけ、不安で、近しいところに指標としていてほしい…遙にだけ、そういう弱みが出ると いうか…弱みという名の人間らしさが出ると言うか…。そこがたまらない。んだよちくしょー!! また留学しようかどうか悩んでいたところや、決意までの道のりは深く描かれなかったけれど、朝焼けの中、遙に語って「リベンジだ」と宣言したのは、他でもない遙に聴 いてほしかったからじゃないかな、と。壁にぶつかったとき、尖った感情が主に遙に向かってしまっていたことを考えると、この流れもすごくまっとうで。遙は未来を見つ ける旅、凛は未来の方向を確かめる旅になった。他でもない、唯一無二のライバルと共に。この数日間の旅を、二人は一生覚えているんだろうな。  凛の突き進む強さや勇ましさはかっこいいし、魅力的だと思うけれど。ほろりと見せる本音が…また彼を魅力的にしているし、誰かと繋がって生きているんだ、と思わせ てくれる。 一期視聴時には、凛のことを「さそりの火」みたいだな、と思っていたけれど。もうそうじゃないんだな。ひとりぼっちでがんばってるんじゃない。誰かと繋がりながら、自分のためにも誰かのためにも、自分を大 切にして生きられる人になっていくんだな。 最後にやっぱり、はるりんおばさんがひょっこり顔を出したけれど、絆も約束も、一期と二期とハイスピが持っていたテーマをよりわかりやすく中心に据えて再構築され、 新たな見方や人物たちの魅力を伝えてくれる、すばらしい映画だといえる。続編に、期待しかない。 以上。
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ohmamechan · 7 years
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「約束」感想
※感想というより、ハッとしてグっときたことをただ羅列しているだけです。まとめとか考察とかない。メモリー。 ※骨の髄まではるりんなので、時々はるりんババア目線が出てきます。 <冒頭> ・ついに、凛ちゃんの幼少期の補完きた… ・七瀬家の間取りと似てる。特に玄関先。結構大きな日本家屋。海に向かって玄関があって、潮風が吹き付ける家。 ・ちったい凛ちゃん、高い高いしてもらう凛ちゃん、パパ大好き凛ちゃん… ・でも、いっこ下の妹の甘えを優先するお兄ちゃんまなざしに、慈しみが溢れている…。ヤキモチ焼いてもおかしくないのにね…。 ・ちったい江ちゃんは、ちょっと言葉が遅い子だったのかな~かわゆゆゆゆゆゆ ・予想はしてたけど、美母!!ちょっとアンニュイ。七瀬母より先に登場。ハルちゃんにとっての母と、凛ちゃんにとっての母の、ウエイトのちょっとした違い。 ・デコ眼鏡父。ああ、凛ちゃんのおでこゴーグルと重なるなあ ・父の目元、やさしい ・「競泳」「金メダル」「オリンピック」と出合ったのは、アルバムの写真がきっかけ。父は、自ら語ったことは無かったんだね。 ・難破事故の一報を、幼い凛ちゃんが受けなければならないなんて残酷すぎる ・そのあと、お母さんに連絡したのかな…まだ6歳ぐらい?だっただろうに ・泣き崩れる母、一人遊びしてる妹。二人を慰め、支え、生きて行こうとする幼い凛の姿。友だちや仲間は、誰も知らない、自分も語らない、凛の姿。(でもいつか、ハルちゃんさんに抱きしめてもらってください…) ・支えなくては、一番にならなくては。自己暗示。自分を奮い立たせるおまじないにもなるし、呪いにもなってしまう。 ・そこで出会ったのが、七瀬遙。憧れ、目標にすべき、頼るべき存在である父がいなくなった凛にとって、心に灯った光のようなものだったのかなあ。少年らしくいえば闘志だけど。なにか、核や礎のようなものになったのではないか。純粋なる憧れがほとんどだっただろうけども。しかしそれも、支えや目標になる一方で、勝たなくては、なぜ勝てないんだ…という、呪いにもなってしまう。 ・だからこそ、一期であんなに痛々しささえある言動をしてしまったのも、挫折した時の尖った感情がハルちゃんを向いてしまったのも、納得がいく。しっかり繋げてくれた。お互いに辛かっただろうけど、ハルちゃんが凛ちゃんを、救ってくれてよかった…。よかった… ・レースのから、目が合ってたじゃん…意識してんじゃん??一目ぼれじゃないの?え?おばさんに言ってごらん? ・あっさりした、岩鳶メンバーとの別れ ・留学した凛と、中学校に入学した遙の、新生活が交互に、同軸で表現 ・挫折を味わい、泣きながらゴーグルを投げつけたところで、赤信号で立ち止まる遙へつながる。 ・何かを察したような遙。しかし、遙は仲間に囲まれ、新たな環境で進んでいく。羽ばたく鳥を見て、胸を高鳴らせる。鳥→空→凛とつながっている。思いを馳せる、期待に満ちたような顔。 ・一方で、呆然と立ち尽くす凛の姿。凛は、立ち止まったまま。絶望、停滞、ひとりぼっち。(この場面、胸を抉られて、血を吐きそうだった) ・プールの真ん中で立ってしまったの、凛ちゃんもだったんだね… <OP> ・ありがとう、としか言いようがない…最高のOPでは… ・何回も観たい ・ラリアのカッフェでいちゃついてたの、見逃さない…。鮫のラテアートなんかしてもらったりして!!浮かれちゃって!!! ・一期OPのオマージュのごとき、水面の上で向かい合う遙と凛。それぞれ、一歩ずつ歩いて行く姿が、たくましく、勇ましく…すれ違う時、お互いに、笑みを浮かべていた。わかりあっている顔。 ・しっかりと、一歩ずつ、一歩ずつ。松岡凛の歩み。歴史。自分の手足で掴んでいくんだなあ、と教え子を見送る気持ち。(誰)(まだOPですよ) ・二軸主人公のひとり、「松岡凛」の存在を、ワンカットごと、あますことなく体現したOPだった。 冒頭とOPだけでお腹いっぱいなので、とりあえずここまで。 あとはパラパラ。また思い立ったら、書き足します。 <その他> ・一言でいえば、松岡凛の生きた軌跡を見せられた気がした。彼の人間味、人間力、人間性が、過去軸と、エピソードの重なりによって深く描き出されていた。  こんな人間の凄味のある重低音効かせた男(幼いころから背負っているものがありすぎるのも)、そりゃあ、箱庭でむつまじく、静かに平和に暮らしていた遙と真琴にとっては、衝撃だし、稀有だし、簡単には枠の中に入れられないよなあ…。眩しいし、その存在は大きい…。 ・おかしな話だけど、二次創作はある部分、二次元のキャラを、身近でリアルさを感じる場面やセリフを使って描くことで、三次元に落とし込む作業だと思っているんだけど、そんな風にできたらいいな、と思っているんだけど。この映画で、向こうから三次元に来てくれて、とても生々しい松岡凛の存在を感じた。かといって、アニメのキャラクターとしての魅力を損なったわけではなく。鋭く、深く、人間愛に溢れたやさしい目線で丁寧に描かれた作品だからなんだろうなあ。もっと、彼の人生の、その先を一緒に見守っていきたいと心から思った。マモが、「この映画は、支えてくれているFANのみんなとも”約束”してくれている気がする」というようなことを言っていて、ほんとうにそうだな、と思った。Free!という世界で生きている人物たちと、作品に携わる人々と、FANの絆であり、約束なんだなって…。(柄にもなくロマンチックなことを考えてしまった)  本当に、続きが楽しみです。いつか終わることなんて、考えたくない。きっと、一生心の上を去らない作品です。好きです。 ・凛vs宗介のレースと、凛vs遙のレースの描写の違いがくっきりしていた。  凛vs宗介=異種の海獣 凛vs遙=色違いの同種の魚 という感じ。 ・郁弥の脅威ぶり、すごくたぎるるるるるるるる!!!!!!めっちゃ見たかっためっちゃ見たかった!!!!テメエ後出しだろ、て殴られてもいいから言うけど、そこを二次創作しようと考えてたから、本編で描いてくれるならもうほんと…生きててよかった・・・。スイマーとしての遙と凛、の間に割って入る郁弥が観たかった!!!でも、レースして終わりじゃないのがFree!なのでそれにまつわるストーリーが楽しみすぎて死にそう。郁弥と対峙する松岡凛…熱い展開すぎる。 ・凛ちゃんは、あの中一の冬のあとのハルちゃんの事、今回の映画の時点ではてんでシラネーだったので、これはきっと続編で…。 ・郁弥の件でキーパーソンになるのは、旭と貴澄だろうから、彼らの出番にも期待。貴澄君、ベランダでビール飲みそう。似合う。 ・宗介のことは…サクサクサク…宗介、みんな待ってる。凛ちゃんだけじゃないよ、みんな待ってる。サクサクサク・・・。(ごめん、いっぱいいっぱいすぎて、まとめるのに時間が欲しい。あと、二次創作して一端落ち着いた、というのもある。でも、宗介の事、ずっと気にかかる) ・秋の映画の予告が、やたら、やっぴ~♪な雰囲気で、あ、そんな感じで大丈夫…? ・もう、さらに続編があるとしか思えない。確定。ありがとう、生きます。あっ働きます。生きる意味すぎて。 ・絆と約束をクロスさせて、また考えてみたい。ゆっくりゆっくり。 ・遙さんinTOKYOの場面もね…まこちゃんと二人のあれ…ううやばい;;;; 追記 ・宗介が、凛に本音を口にするのって、いつも夜で(勝負も夜)、いつも森みたいな木々の下で、リレーの意味を見いだしたくて苦しみをぶつけた時なんか、背が高い樹木に囲まれて、まさに迷いの森だったなあ…。でも、地方大会で、肩の故障も苦しみも迷いも全て打ち明けた時は、明るい木漏れ日の下だった。救いがある演出だった。それに、宗介自身が、リレーを泳がせてくれ、行こう、て自分から歩みを進めたんだ。森から出て。宗介、もう一歩、進もうよ。時間がかかってもいいから…。 ・凛ちゃんに焦点あてて、掘り下げて描かれたことで「俺は凛みたいに強い思いがない」てハルちゃんが言った、その「強い思い」が、この映画ではっきり、重みを持って響いてきたなあ。ハルちゃんは、隣でひしひしとそれを感じてたんだなあ。
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ohmamechan · 7 years
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無題
※東京まこちゃん視点  量販店のセール品で安く買ったトースターは、同時に二枚しか焼けないので、先にハルと凛の分を焼いて、バターまで塗って皿に乗せて出すと、寝起きの二人は爆弾でも処理するみたいに慎重に手を伸ばした。きつね色のトーストの面で、バターはじわじわと端から溶け出して、奥深く香ばしい匂いが立ち上る。二人は同時に「罪深い」と言った。 おれにはすぐには、二人の言うことがわからなかった。朝ごはんに出したトーストの、罪深さというものが。 二人は昨日、この夏の過ごし方をすべて決めてしまうような大きなレースに出て、それぞれに結果をその背中に貼りつけて、ここにいる。おれの住む、小さな六畳一間のアパートに。結果もまた、それぞれだった。よい結果とよくない結果とをそれぞれ背負っていた。各種目、たった二枠をおよそ四十人近くで争うのだ。無傷で勝てるほど、彼らは無敵じゃない。 結果を背中に背負って、昨夜はラーメンを食べに行った。勝ち飯も負け飯もラーメンだと決めているらしくて、二人は大盛りチャーシューメンねぎ増し煮卵追加を黙々と啜り上げて、汁まで飲み干した。三人でいる時は���れなりによくしゃべって、場を取り持ってくれる凛は、ずっとしかめっ面で麺を啜って、チャーシューに齧りついて、煮卵をひと口で腹に収めて、それから「替え玉!」とカウンターに声を投げた。ちょっとその声が震えていて、それからすぐに鼻を啜る音も聞こえて来て、俺はどうしてあげたらいいんだろう、って悩んでいるうちにハルが「こっちも」と競うみたいに丼から顔を上げて言った。 おれは、挑むみたいにラーメンを平らげていく二人の横で、何も言えないまま、丼の底に覗いた龍と目を合わせてたんだ。 「ごめん、バター、だめだった?」  とりあえず大きなレースを終えて、昨夜はラーメンまで食べたのだからバターぐらい、いいだろうかと思ったのだけど。無頓着だと思われただろうか。返事を待つ間、一人でいるよりも一人になったような心持ちだった。だって、おれは二人に、気の利いた一言も、かけてあげられていないのだ。おれの知らない世界を見て来た二人に、安くかけられる言葉なんて、簡単には見つからない気がした。 大事なレースの後に、二人がおれに会いに来てくれたのはうれしかった。ハルと凛は、結果を背負ったまま二人だけでいると、きっと自重で潰れてしまいそうだったに違いない。だからおれを呼んだのだ。何かを期待して。 「パン、焼きなおそうか」  台所からなるべく明るく言うと、二人は同時に俺を見上げて「パンにはバターだろ」「バター最高」と言った。そして、恭しくトーストを両手で掲げて「この黄金の河を見ろ」「バターの河、最高」と口々に言いながらそれを頬張った。うまい、うまい、と人生で初めての食べ物に出会った人みたいに歓声を上げるので、おれは笑ってしまった。笑いながら、やっぱりおれは、さみしいし、うれしいのだった。 「真琴飯、うまい」 「まぎれもなく、真琴飯だなこりゃ」 「でも真琴はちょっと控えた方がいい」 「だな…ちょっと腹のあたりがな…。合コン飯の食い過ぎじゃねえの」 「バターは没収だな」  失礼なことを言い出した二人に、おれはどかどかと歩み寄って「もう、おいしいものはおいしいって顔で食べなさいよ!」としかりつけるみたいに言った。  すると二人は「は~い」と子どもみたいに首をすくめた。そして、同時に大きな口を開けてトーストをひと齧りしたのだった。
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ohmamechan · 7 years
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清教育
 ※間接的で、うっすらとですが、きわどいプレイの話題が出てきます。苦手な方はご注意。自己責任。※以前プライベッターに上げていたものの再掲です。 「よいですか、みなさん。わかりますでしょう。以上の事から、お互いの体を大事に思いやるならば、セイフティセックスを心がけると言うよりは、 結婚するまで、こういった行為をしないことを心がけるべきです」  それまで水を打ったように静まり返っていたフロアに、笑いが起きた。さざ波のような笑いは、大別すると、失笑と苦笑と純粋なるおかしみだった 。失笑が七割近かったと思う。「無理」「無理だろ」「それは無理な話」という呟きの数々が、整列した生徒たちの頭の上をピンポン球みたいに跳ね て、壇上の女性に届いた。  女性は居心地の悪そうな顔で、ワイヤレスマイクを握りしめたまま、しばらく動かなかった。講師として招聘された産婦人科の女医は、自分でも「 無理」なのは分かりきった上で発言したようだった。講堂の壁に控えていた生活指導の男性教師が身を乗り出し、マル暴さながらのにらみを利かせる と、ようやくざわめきが収まった。  講師の女性は、気を取り直したように壇上から生徒たちを見回して、話を続けた。けれども、講義の始まりから小一時間続いていた緊張は、一度ゆ るんでしまえば、完全には元に戻らない。みんな、我慢していたニヤつきや揶揄に近い呟きを、こらえたりしなかった。ざわめきは続く。正体のない 、草むらの影の生き物の気配みたいに。  凛はパイプ椅子にかしこまって座ったまま、あくびを噛み殺した。午後、講堂に集められて行われたのは、三年生を対象とした、性行為、避妊、妊 娠出産をテーマにした講義だった。  講師は自分たちの母親よりも一回りほど年嵩のある中年女性だった。腰回りの肉付きがよく、化粧っけはないが、肌は白くもちもちとしていた。( 「たぶんおれ、あのおばさんで抜ける」とぼやいた猛者がわりといた)彼女には、男子校のオス猿どものどうしようもない本能と衝動と鬱憤とが、手 に取るように見えているに違いない。それが分かっていて、「清く正しく美しい肉体関係」について、絶え間なくしゃべり倒したのだから、なかなか 熱心な教育者だと思う。  望まない妊娠・出産による様々な問題について、理解できない猿ではない。でも、結婚するまで童貞を貫け、というのに等しい発言は、さすがに笑 えた。どう考えたって、笑い話だ。  凛は、パイプ椅子の上で少しだけ身じろぎをして、座りなおした。まっすぐに座ると、どうにもだめだ。ある程度の角度を保っていないと。  壇上のスクリーンには、統計グラフやらかわいらしい赤ん坊のイラストやらが、映し出されている。それを背負った女医が、にこやかに語りかける 。 「大切なのは、思いやりです。パートナーの体を思いやるならば、節度を持って接することです」  その通りだ、と大いに頷く。遙に聞かせてやりたい、と心底思う。講堂に集められる少し前に届いた、遙のメールを思い浮かべる。文面には、たっ た一言。  ごめんなさい〔ごめん〕  なぜ「ごめん」が二重なのか、しばらく悩んだ。  どうやら、携帯電話の機種が違うせいで、絵文字が変換されなかったらしいと気づいて、噴き出した。隣にいた宗介に変な顔をされた。遙が慣れな い絵文字を使って詫びを入れてきたのはなかなかおもしろかったが、それでも簡単にほだされてやるつもりはなかった。「しね」と返した。その後す ぐに講義が始まり、端末は凛のポケットで一回だけ震えた。遙はなんと返して来たのだろう。  講師は、さきほどまで避妊具の使用義務とその方法について滔々と語っていた。途中で誰かが、もういいよ、とぼやいた。「避妊具」「性行為」と いう単語だけで催しそうらしい。どんだけ溜まってんだ、と誰かが突っ込んでいた。  それにしても、避妊について語っておいて、「結婚するまでやるな猿ども」「結婚したらいいぞ猿ども」と無茶を言うのだから、納得がいかない。 大いなる矛盾だ。いや、見方を変えれば慈悲深いともいえる。やってもいいけど、ちゃんと避妊しろということなのかもしれない。 もしくはこのおばさんは、男子高校生など、出さないと死んでしまう人種であることと、その切実さを真にわかってくれていないのかもしれない。 「先生は、この猿の群れの中に、昨夜セックスもしくはマスをかいた生徒がどのぐらいの割合でいると思います?」 と聞いてみたい。  何割ほどなのかは分からないが、自分はその中の一人であり、先ほどから直腸の奥辺りにぶちまけられたものの残りが降りてきそうで落ち着かない のは確かなのだった。だから、早く終わってくれないかな、と思う。先ほどから、便所行きてえ、と百万回唱えている。腹の奥に、まだ残っていたの だ。遙がぶちまけたものが。掻き出して洗ったのに、奥の奥に入り込んでいたものが、数時間を経てのろのろと降りてきたのだ。それもこれも、全部 遙のせいだ。  遙は昔からそうだけど、率直だ。ものをあまりにも率直に言いすぎる。  ゴムを着けていたのに、あるいは着ける前から「出したい」と言うことが度々ある。「出したい」の一言で、事が済むとでも思っているかのように 、それしか言わない。何でも率直に言うのはどうかと思うけど、計算をしない彼には他の言い方がおそらく分からない。それで別にいいと思っている ところが自分にはあって、つい「いいけど」と許してしまう。風呂場でやる時は後始末がわりと楽だから、「いいけど」と返してしまう。それがよろ しく無かったのだと思う。なんでも許される、という間違った思い込みを植え付けてしまったのだ。  昨夜、風呂場でセックスをした時、遙はぱんぱんに膨れたものから精液を出し切ると、抜かないまま腰をゆすって、「出してもいいか」と言った。 二回目のおねだりなのかと思っていたら、すっかり違ったのだ。遙は凛の返事を待たずに、精液ではないものを凛の中に放った。先に出されたどろり としたものと、さらさらとした別の体液が腹の奥で混ざって、下腹がたぷんと波打った。遙が何を出したのか、自分の腹を満たす水分が何なのかがじ わじわと分かって、うなじから背中が、経験したことがないくらいに震えた。腹を遙の体液でたっぷりと満たされるその感覚が怖いのと気持ちいいの とで、わけが分からなくなった。混乱のさなかに、抗えない快感が押し寄せてきて、結局自分もいってしまった。 …思い出したくないけど、いく時ちょっと悲鳴に近い嬌声が出てしまった。「ひん」とか「ぁん」とか。そういう。 さらに思い出したくないことに、その後泣いてしまった。思いも寄らないものをなかに出されたことに腹が立ったし、それでいってしまったことと変 な声が出てしまったこと、とにかくすべてが恥ずかしくて、どうしようもなくて泣いてしまったのだ。  泣きじゃくりながら遙を風呂場から追い出して体を洗い、風呂の前で正座していた半裸の遙を殴って家を出た。  何をされたのか、まだうまく整理がつかない。なぜ遙があんなことをしたのかもわからない。 「繰り返しますが、婚前の性交渉を控えることや徹底して避妊することです。相手の体に負担をかけないこと、無理をさせないことです。それが、思 いやりであり、愛情です」  女史が話の結びに、静かに語り掛ける。その目には真剣さが滲んでいる。猿ども一匹一匹に届くように、届くはずだと妄信している目だった。彼女 が言うことは、何から何まで正しかった。パートナーに、それも同じオスに中出しされまくっている自分には、身が透けて消滅してしまいそうな正論 だった。漂白剤、もしくは抗生物質に漬け込まれたような気分だ。  それが、思いやりであり、愛情です。  まったくその通りだと思う。避妊どころではない遙のあの行為に、思いやりはない。  でもよ、先生、と胸の内で思う。  でも、あらゆる体液を相手に流し込みたいっていうその衝動や感情は、なんとなくわかる気がするんだよ。わかりたくないし、納得できないし、許 せないけど、わかってしまうんだ。同じだから。結局は、俺も、ハルと同じだから。とてもとても近しい生き物だから。  遙のしたことは許しがたいことだが、遙に愛情が無かったとは思えない。どちらかというと遙の愛はいき過ぎていて、それを受け止められるのかど うか、試されているのかもしれないとも思える。  結局はこうしておおらかに解釈し、許容してしまっているのだから、どうしようもない。自分も、頭の悪い猿の一匹に過ぎない。 「三月にはこの学び舎を旅立たれるみなさんの、素敵なパートナーとの出会い、そして明るく輝かしい未来を歩まれることを切に願っております。ご 清聴ありがとうございました」  小雨のような拍手がフロアに響く。壇上には慈愛に満ちた聖母のごとき笑顔。凛はズボンのポケットの中の端末を、布地の上からそっと撫でた 。  講堂からわらわらと吐き出される生徒の群れから抜け出し、宗介には「便所行って来る」と告げて離れた。  中庭に面した渡り廊下の途中で、ポケットから携帯電話を抜き出した。メールフォルダを開きかけたところで、「松岡」と教師に声を掛けられた。  強面の、生徒指導主任だ。 「お前、真面目に聞いてたな。えらいぞ」  うす、ありがとうございます、と腰を折ると、忘れそうになっていた直腸の奥のものが、じわ、と内壁を伝い落ちて来た。ぞく、と背中が震えたの があからさまにならないように、拳を握ってこらえた。悟られないように顔をうつむけたまま、丁寧に一礼してその場を去った。  トイレに向かって足早に歩きながら、端末の画面を見る。  本当にごめん。気が済むまで殴っていいです。  凛は、ちゃんと怒るところがいいと思う。好きです〔ハート〕 「な、ん、じゃ、そりゃぁ!」 明るい中庭に向かって叫ぶ自分の顔は怒ってるけどたぶん笑っていて、本当にどうしようもないのだった。
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ohmamechan · 7 years
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うずらの心
お父さんはいい、と言われて台所に入れてもらえなかった。所在なく洗濯物など畳んでいると、障子戸の隙間から笑い声がこぼれてきた。どうも息子と凛は、うずらの卵を茹でているようだった。明日の弁当に入れたいらしい、うずらの卵だ。茹でるのぐらい、見ててやるからさせてやるのに。お父さんはいい、と言われてしまった。凛は側に付いていてもいいらしい。なぜか、と気になるけど、考えたら負けなので考えない。考えないようにしながら、洗濯物をひたすら畳んで山にする。暖かくなってくると、我が家の人々は、日に何度も靴下を履き替えるので、大きい靴下と小さい靴下がたくさんあった。先っぽが赤い息子の靴下には穴が空いていて、それはそれは見事な破れ目だった。山から分けて、小さく丸めておく。捨てていいかどうか、きちんと聞かないと、大変なことになるのだ。 台所はやはり賑やかで、息子のはしゃいだ声がひっきりなしに聞こえてくる。うずらの卵を茹でるだけのことに、何を見つけたのだろう。気になるけれど、台所に一歩でも入れば、そのせっかく見つけた何かがたち消えてしまいそうな気がした。息子のことは、なんでもわかっているつもりだったけど。日々のなす全てを知っているつもりだったけど。そうではないことがあるのだ…こんな風に感じる日が、きっとこれからもあるのかもしれない。 「うずらの卵がな、沸騰したお湯の中で跳ねるだろ。そんで、鍋底にぶつかって、ココココッて鳴るんだよ。それが楽しかったみてぇ」 その晩、寝床で凛が教えてくれた。まあこういう日もあるさ、とついでに慰められてしまった。 こういう、父だけのけ者にされてしまう日がまたあるらしい。 父とは、孤独に耐えねばならない生き物だ、とは、どこで聞いた話だろうか。 でもきっと、明日も息子のために弁当を作り、幼稚園に連れていくのだ。嫌だと言われても、きっと。 諦めのような、覚悟のような、腹に何かが居座るのを感じていると、そんなさみしそうにすんなよぉ、と凛が背中から覆い被さってきて、鼻をつままれてしまった。
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ohmamechan · 8 years
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春コミで開催される遙凛プチ『HR Fes』で発行される開催記念メッセージブックの表紙を描かせて頂きました。 (詳細は下記URLからご確認くださいませ) http://hrfes.web.fc2.com/kikaku.html#2 ノリノリで描いたので、当日手に取るのが私も楽しみです~!どうぞよろしくお願いします!!
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ohmamechan · 8 years
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水にすむ
 ※鮫柄モブ視点   同じクラスのY本は、クズだった。  あいつは目に見えて正真正銘の、どうしようもないクズだ。 クズとゲスは似て非なるもので、ゲスは凡人にも考え付かないような悪事を平然とやってのける輩のことだ。その点クズであるY本は、自分が干された バスケ部の連中にねちねちと嫌がらせをして、憂さを晴らす程度の小物だ。到底ゲスにはなれないが、少々やっかいなやつだ。  Y本に絡まれたスポーツ成績優秀な生徒たちには、本気で同情する。すれ違いざまに揶揄されたり、あからさまな嫌味を言われたりする。やることはみみっちいので、ほとんど誰もY本の相手をしなかったが、繰り返されるとそれなりに消耗する。俺は何度も彼のどうしようもない行いを目にしたし、何度も「やめろ」と制止した。やんわりとだが。中には側にいる俺もグルだと思ってか、俺に突っかかって来るやつもいた。訴えたい気持ちは大いにわかる。 Y本はとにかく、クズなのだ。  そのY本がなぜ、俺なんかについて回るのか、ほとんどおしまいまで分からなかった。  俺は家から近いというだけの理由で、鮫柄学園を選んだ。鮫柄は全寮制のスポーツ強豪校として有名だが、スポーツをしない一般生徒も入学できる制度 がある。全体の一割程度の少数枠だが。  せっかくスポーツさかんな高校へ入学したのだから、どこかの部に所属してみようか、と考えた時期もあったが、俺はどうしたって運動部のあの独特の雰囲気には馴染まない気がした。汗をかくのもあまり好きじゃない。世の中には、一生涯においてスポーツをする人間と、しない人間がいる。住み分けも せずに。ただそれだけのことなのだ。  一年生の初めの頃、Y本は帰宅部の俺になど眼中になかった。お互いに、顔と名前を知っているだけの、ただのクラスメイトのひとりにすぎなかったはずだ。  その頃のY本は、毎日体育館へ通い、バスケの練習に打ち込んでいた。公式戦には、毎回レギュラーで出場していたらしい。体育の授業で彼がプレーするところを見たことがあるが、まさに水を得た魚だった。俺にはバスケのプレーの良しあしなど分からない。ただ、彼がとても生き生きとゲームを楽しむので、思わず「お前、すごいな」と言っていた。それほどまでに楽しめることがすごい、という意味で言ったつもりだったのだが、彼は得意げに「まあな」と返して来た。優秀さを褒め称えられることに慣れ切っている態度だった。「お前、タッパあるし、パワーあるし、ついでに顔もいけてる。バスケやれよ。歓迎するぜ」そう言ったY本は、まるきり子どもみたいな顔をしていた。スポーツをやる人間は、時々こんな顔をする。それでしか楽しみを得たくない、とその瞳が雄弁に語っている。  ところが、彼は一年生の冬に膝の故障を起こし、入院からそのままリハビリのためにしばらく休学した。リハビリを終えて学校生活に戻ったものの、よほど膝を傷めていたのか、なかなかレギュラーに復帰できずにいたようだった。 「Y本のやつ、もう、だめっぽい」  Y本が体育館へ通わなくなってからほどなくして、ふと誰かが口にした一言だ。誰かが言い出した「もう、だめっぽい」が徐々に本当の「だめ」に成り代わって行く。まるで言霊のように、そのささいなひと言は強烈な力を持ち、現実を連れて来る。二年生に上がった春には、Y本は完全にバスケ部から退いた。復帰してから部を辞めるまで、部内で色々と揉めたらしかった。  けれどもY本のようなケースは、この学校では特別珍しいことではなかった。一年生の頃だってよくある話だった。誰もがそのスポーツの第一線で活躍することを望んでこの学校へやって来るが、怪我や故障、精神的な問題によって、選んだ場所から退いていく。そんな人々を、何人も見て来た。 「○○のやつ、もうだめっぽい」  いつだって、誰かが発したこの言葉が、事実より先に耳に飛び込んで来るのが不思議でならなかった。本人が退部や休部を決めるよりも先に、どこからか発された声は、さざ波のように校舎の隅々まで広がり、やがては本人の足元まで届く。その声に背中を押されるみたいに、誰もが部を辞めていくのだ。続けるか、続けないか。ぎりぎりに立たされた人間の心の均衡を打ち崩す圧倒的な力がその言葉には宿っていて、それに抗えた人間を俺は見たことが無い。  Y本もその一人だった。諦めるのか、続けるのか。決めるのはY本だ。なのに、「もう、だめっぽい」という誰かの勝手な憶測が、予言めいた響きをまとい、最後には事実へと取って代わって行くのを、俺は目の当たりにした。  部活動をしない人間、というだけで、Y本は気安さを求めてか、俺の周りをうろつくように��った。他のクラスメイトにはつるんでいるように見えていたらしいが、俺にはさっぱりそんなつもりはなかった。ただY本が勝手に寄って来るのだ。人によってはとても悪質な行いを仕掛けるのに、俺には一切そういうことをしなかった。嫌味なことを言われたら、無視するか言い返せばいいのだが、「さぼろうぜ」と誘われれば、断る理由がなかった。Y本に誘われなくたって、俺は時々授業を抜け出していたからだ。なので、彼を追い払う理由が見つからなかった。おそろしく面倒だ、とは思っていても。  Y本は放課後になると、よく校外へ出かけていった。部活をするでもなく、目の前に迫った試験や進学に向けて勉強に励むのでもない。ただ時間は膨大にあったので、他校の生徒とつるんで、どこへ行くでもなく、だらだらと過ごすのがほとんどだった。何度か付き合わされたことがある。Y本の中学時代の友人たちが、その無意味な集まりの主なメンバーだった。Y本は彼らの前では、右足を引き摺って歩いて見せた。「Y本の膝、まだ調子悪いんだな」と 言わせて、満足そうにしていた。わかりやすいといえば、わかりやすい「俺は傷を負った元バスケットマンである」というパフォーマンスだ。俺が彼のマ マだったら、少々憐れんでやったかもしれないが、あまりにもしょうもない振る舞いに辟易した。  俺はY本の過去の一端に触れることに興味などなかったので、放課後になると、誘いを躱してさっさと帰宅した。とりあえず駅前の予備校に通った。なにせ時間は膨大にあったので、時間を埋めるのに勉強しか思いつかなかった。母は、俺が授業をさぼりがちなことを知っていて、でも予備校にはきちんと通っているので安心しているようだった。予備校通いは特に有意義ではなかったけれど、父が遺した労災年金を受講代に充てられているのだと思うと、逃げ場はない気がした。  昼休みは時々、Y本を避けて、第一体育館のギャラリーか、その外に添え付けられた非常階段で過ごすことがあった。非常階段はほどよく風が吹き抜ける心地いい場所だった。何より、体育館の二階ではバスケ部が昼練習をしている。Y本が近寄るはずもない場所だった。 俺は非常階段から、ぶらぶらと校門を出て行くY本の姿を何度か見た。付き纏われずに済んだことにほっとする半面、どこかすっきりしなかった。Y本に絡まれるのも、懐かれるのも面倒だ。でも、彼が行く当てもなくひとりぼっちでいる様を見ていると、なぜだか胸の端っこが削られた様な気分になった。 非常階段で、特にやることがあるわけでもなかった。ここで音楽でも聞いてみれば様になったのかもしれないが、俺は自分が何の音楽が好きなのかもわからなかった。  暇つぶしに、一階で昼練をしている体操部を眺めた。体操に興味があったわけでも、詳しいわけでもなかった。たまたま、体操部の練習風景がよく見える場所を、俺が休憩場にしていたというだけだ。体育館の一階の天窓と非常階段の踊り場が同じ高さで、柵の間からよく見えたのだ。  ひときわ明るい笑い声が聞こえた。同級生のK村だった。K村は中学時代からあらゆる大会で賞を取って来た優秀な選手で、一年生の時、日本選手権でメダリストに引けを取らない演技で入賞していた。強化選手に選ばれているので、国外に遠征することも多い。 もちろん彼はY本の標的になったことがあった。しかし彼はいつもあっけらかんとしていた。「お前、いじわるなやつだなあ。友だちいなくなるぞ」と笑いながら返していた。そんな風に返せるやつは、なかなかいなかった。誰もが、腫れ物を触るみたいにY本のことは見て見ぬふりをしていたから。彼の寛大で、風格のある王者のような振る舞いに、俺は気後れする。俺やY本とは人種が違う。  K村は、フロアの中央にあるトランポリンに乗り上がると、脇の誰かに手のひらで合図をして、ぽーん、ぽーんと体を慣らすみたいに跳ねた。幾度かそれを繰り返して、ぐ、と沈み込んだかと思うと、天窓の高さまで跳ね上がってきた。地面に風穴でも開いていて、風に吹き上げられたみたいに勢いよく、高く跳んだ。非常階段にいる俺の目の前にその体が迫る。K村は重力の糸を振り切るみたいに、勢いよく体を回転させ、ひねり、精いっぱいの抗いを見せた。そして、再び重力の糸に絡めとられて、美しい軌道を描いて落ちていく。見ていると、不思議と飽きなかった。着地の瞬間、息をつめ、そしてゆるゆると吐く。そうしていると、深く深く息をすることができて、胸を塞ぐ息苦しさが少しだけ軽くなる気がした。自分の体が、呼吸している。そのリズムを感じる。非常階段から体操部の練習を見ている時が、唯一好きだと言えなくもない時間だった。  バスケ部を干され、スポーツに打ち込む人間を妬み、しょうもない嫌がらせをして生きるのみになってしまったY本だが、そんな彼が新たに興味を持ったのが、松岡凛だった。 「オーストラリアに水泳留学していたやつが、帰国するらしい」  一年の終わりに、そんな噂が出回った。  スポーツ留学を終えての帰国だなんて、華々しい高校デビューを果たすやつが一体どんなやつなのか、それなりに興味があった。もちろん、Y本の耳にも入っていて、前評判だけですでに彼のターゲットになってしまったのは、わかりきったことだった。お気の毒に、と顔も知らない松岡に同情した。  始業式に現れた松岡凛は、およその想像を裏切って大人しい男だった。顔こそ整っていて派手な印象を与えるやつだったが、彼は始終静かな佇まいだった。  さっそく彼に興味を持ったY本が「留学経験者なんてやってきちまったから、水泳部のやつ、レギュラーやばいんじゃねえの」と松岡にも、同じクラスにいる水泳部員の耳にも届くような大声で言った。水泳部員は戸惑った様子だったが、松岡は、特に何も反応しなかった。彼は窓際に宛がわれた席から、窓の外を見ていた。四月の初めで、まだ桜は咲き始めたばかりだった。Y本が妙な絡みをしてくるのが面倒だったのか、松岡は手のひらに収まるサイズのプレイヤーを取り出し、イヤホンを耳に挿しこんで、外部の音を遮った。  教室では常にそんな様子だったので、彼の口から留学の功績を聞くことも、海外生活のおもしろおかしい話を聞くこともなかった。彼は、クラスメイトとは必要最低限の会話しかしなかった。拒絶しているわけではないが、かといって近寄っては来ない。彼は誰とでも一定の距離を保った。たぶん、誰にも興味が持てなかったのだと思う。  さぞ鳴り物入りで水泳部に入部するかと思いきや、彼はしばらくどこの部にも所属しなかった。放課後は教室に残ったまま、ぼんやりしていた。やはり窓の外を見ていた。窓からはプールの半円状の屋根が見えていた。彼はそこに、温度の通わない視線を投げていた。ぞっとするほど冷たく見えることもあったし、燃えるような怒りを滲ませているようにも見えた。  彼が鮫柄にやって来て二週間が経つ頃には、誰もが「あいつ、水泳やめたんじゃねえの」と噂し始めた。  Y本は何かしら理由があって第一線から退いた人間が、何より好物だった。 「なんもしねえなら、放課後遊ぼうぜ」  嫌がらせから一変、露骨な誘いをかけるようになった。松岡はやんわりとそれを躱したが、Y本はしつこかった。仲間ができた、と勘違いしたY本の有様は、それはそれは憐れだった。  ある時、体育の授業でサッカーをすることになった。  俺は松岡と同じチームになった。松岡は全身をしなやかに動かして、ボールを自在に操った。足さばきが見事で、ボールに触り慣れているのが一目でわかった。彼の足がボールを追いかけるのではなく、ボールが彼の足元に吸い寄せられていくのだ。サッカー部のやつが「松岡、サッカー部入れよ」と言った。お世辞でも何でもなく、本気で言っているのは分かった。それくらい、松岡はうまかった。サッカー部にいてもおかしくない。誰もが称賛した。本気で口説かれたのが松岡にも伝わったのか、彼は「どうしようかな」と苦笑した。  彼が鮫柄にやって来て三週間近くが経とうとしていたが、まだどの部にも属していなかった。相変わらず教室で過ごしたり、敷地内の園庭をぶらぶらしたりと、身の置き所なく過ごす姿を何度か見た。それは、Y本だって同じだった。そして、そんなY本とつるむ羽目になってしまった俺だって似たようなものだった。行き場のない野良犬が三匹、スポーツこそが絶対の正義とされるこの学園に迷い込んだみたいだった。  ゲームが終わり、別チームと交代でピッチを出た。応援という名の休憩をする中、俺はさりげなく松岡の隣に座った。 「Y本が面倒なら、もっとはっきり拒絶しろよ」  そう言うと、松岡は「わかってる」と頷いた。彼の目は、ピッチの隅を適当に流して走るY本に注がれていた。 「あいつはバスケ部を干されて、腐ってる。絡まれると面倒だ」 「うまく躱してるつもりだけどな」 「松岡がそれほど気にしてないなら、いいんだ。でも、もしやっかいな絡み方されたら、きっぱり言ってやれよ。それがあいつのためだ」 「お前…あいつのダチなの、なんなの?」  松岡は不思議そうに言った。俺だって、不思議な気分になっていたところだった。友だちなわけあるか。Y本みたいなクズに付きまとわれて大いに迷惑だ。Y本をかばうつもりなんて、もちろんない。けれど、まるでY本側の人間みたいに、松岡に忠告めいたことを言いたくなってしまったのはなぜだろう。 「とにかくさ」  俺は単調な試合運びの続くピッチに目を向けて言った。サッカー部のエースが絶妙に加減して放ったループシュートが、ゴールポストのバーの下、すれすれをくぐっていく。歓声と怒声がギャラリーから沸き上がった。Y本はおもしろくなさそうな顔で、うつむいていた。体育の時だけ装着する膝のサポーターが、白々しくて見ていられない。 「そのうち、松岡も部活を始めるんだろ?そうすればとりあえず、Y本は絡まなくなると思う。だから、始めるなら早めにやればっていう話、」 「なあ、なんに見える?」  俺が言い終わらないうちに、松岡が言った。声を発している途中だったので、詰まった息を吐いてから、改めて問い返した。 「なんに見えるって、なにが」 「俺は、何をする人間に見える?」  色素の薄い長めの髪が、その目元に影を落としていた。春の日差しが真上から差しているのに、松岡凛は凍えきった人のようだった。ひどく何かに怯えているようにも見えたし、今にも何かを叫びたがっているような、強烈な衝動を抱えているようにも見えた。時々、Y本もこんな顔をする。こいつも、同じだ。うすうす感じていたことだったが、それがくっきりと形を持った。松岡も、スポーツの世界から蹴り出された側の人間なのだ。そして彼自身もおそらく気づいている。Y本と自分が、近しい存在であることを。Y本を邪険にできないのは、Y本の振る舞いの質がどうであれ、決して他人事ではないからだ。厳しい勝負の世界にさらされてきた人間には、それがわかりすぎるくらいわかってしまうのだ。こいつらは、お互いに同じ匂いを嗅ぎつけてしまう野良犬同士だ。 「何って、水泳だろ?あ、競泳って言うんだっけ?」  問いかけられていたことを思い出して、あわてて返答した。なるべく当たり障りのないことを。しかし、松岡に対するある種の痛ましさが胸を占めていて、きっと明るい声を出すのに失敗していたと思う。痛ましさ。そう、痛ましさだ。Y本にも、俺は痛ましさを感じていたのだ。 「おれは、水泳をやる人間に見えるか?」 「そんなの…わかんねーよ」  なぜ俺が追い詰められたような気分になっているのだろう。妙な苛立ちが湧き上がったが、それを松岡にぶつけるのは違う気がした。松岡は隣で、わるい、とぎりぎり聞き取れる声で言った。ぼこん、と間抜けな音を立てて、ボールが宙に浮かんだ。数人が跳び上がり、頭と体をぶつけあってボールを奪い 合う。長さも太さも異なる足の束が再び地面に着地するまでの間、松岡は息を細く、細く、吐き出した。それから、ゆっくりと立ち上がった。 「明日から、水泳部に入るんだ」  松岡の固い声は、まるで水泳を何かの���かであるかのように思わせた。そんなに思いつめた顔をして、本当にやりたいと思っているのだろうか。松岡の目は、グランドの向こうにあるプールの建物を捉えていた。その時の俺には「がんばれよ」なんて気安い言葉は口にできなかった。再び競技の世界の洗礼を受けるだろう松岡が、眩しくも憐れな生き物に思えてしかたがなかった。もし、何か彼に言えるとしたら、「逃げろ」と言ってやりたかった。逃げられるなら、逃げろ。自身の抱えるプレッシャーから。もしくは、背中を突き飛ばしてくる、誰かの無責任な声から。 「あいつ、水泳やめたんじゃねえの」  この言葉がいつか真実になって、松岡が本当に水泳をやめてしまう日が来てしまったら。「痛ましい」を生み出すスポーツそのものが、俺は嫌いになってしまいそうだった。  夏の半ば頃だった。  松岡が、地方大会で反則行為をした、という噂話が一気に広まった。何でも、他校のチームに紛れ込み、替え玉選手としてリレーに参加し、失格処分になったらしかった。  夏の講習が行われていた頃で、その話で教室は持ちきりになった。  松岡は春の終わりに水泳部に入って以降、県大会で入賞するなど、それなりの結果を出していたので、順調に部活に打ち込めているのだとばかり思って いた。その話はまるで現実味がなく、耳にした時は驚くしかなかった。そんなことをしでかして、無傷でいられるわけがなかった。  噂話を同時に耳にしたY本は、うれしそうに「やっぱりな」と言った。「あいつ、水泳部にいられなくなるんじゃねえの」と顔を歪めて笑った。松岡が、自分のもとに落ちて来る。そう確信していた笑みだった。こいつは、とことんクズだ。怒りが湧き上がった。なぜなのか後になってもわからない。普段なら、軽く蔑んで終わっていたはずだ。けれど、その時の俺は突き飛ばされるような勢いで、「やめろよ」とY本の背中に向かって怒鳴っていた。渡り廊下の中途半端な場所だった。昼休みでいくらか生徒の往来があり、突然声を荒げた俺にいくつか視線が貼り付いたのがわかった。 「いろんな奴に、くだらねえ絡み方すんの、やめろよ」  Y本は一瞬怯んだが、すぐに目を吊り上げた。 「いきなり、なんなんだよ」 「もう、やめてくれよ。お前ら、痛々しいんだよ」  お前ら、と言ってしまって、自分でも驚いた。お前ら、の中には、Y本も松岡も、誰も彼もが含まれていた。そうだ。どいつもこいつも痛々しい。他人を傷つけずにはいられないY本も、失格処分を受けるような大それたことをしてしまった松岡も、静かに退いて行った名もない選手たちも。全部、全部。痛々しい。痛ましい。必ず報われるとは限らないのに、スポーツなんてものに身を投げ出してしまうからこうなるのだ。スポーツなんて、結果が出なければ何一つ評価されないのに。結果が出せず、名も残さずに消えて行った選手がどれだけいると思っているのだ。派手な死に方をしたほうが、よっぽど新聞の紙面を騒がせる。車道に飛び込むとか、真っ昼間にビルから飛び降りるとか。真実を暴露する遺書があったらてき面だ。 なぜみんな、形のないものにそこまでひたむきになれるのだろう。 どいつもこいつも、浜辺に打ち上げられて、腐っていく魚だ。 「結果出してるやつをねたんで、あからさまな嫌がらせすんな。わざと膝が痛い振りすんな。かわいそうなやつぶるな。痛いんだよ、お前…やること全部痛いんだよ」  声を荒げるのなんて久しぶりで、うまく息が出来なかった。Y本は殴り掛からんばかりの形相で俺を見据えていたが、やがて「そんなの、知ってるよ」と呟いた。 「お前にだけは言われたくねえけど、でも、そういうこと言えるのはお前みたいな奴だけなんだよな」  Y本はどこか力の抜けた顔で、けれどまっすぐにおれを見て言った。 「お前さ、バカにしてるだろ」 「なにを」 「スポーツする人間を」 「そんなこと、ない」 「ずっと、そうじゃねえかなって思ってたんだよな。お前、部活とかスポーツをする奴らを、最初からバカにして見てるよな。なんでわざわざ努力したり、挫折を味わうような目に合うためにやったりするんだよ、バカじゃねえのって」  思ってもみなかった反撃を受けて怯む。なぜ俺が、Y本に責められなければならないのだろう。しかしY本は容赦なかった。まるで用意されていたかのように、よどみなく言い放った。 「痛々しいだ?やったこともねえくせに、随分高いところから言ってくれるじゃねえか。バカにしやがって。お前さ、もうどうしようもないってくらい、苦しんだことがあんのか?何かに必死になって、でもだめで、どん底を味わったことがあんのか?ねえだろ?お前、生きることに飽きてるだろ?死人みたいなツラしやがって。俺から見れば、お前だって、痛々しいんだよ」  叫びを上げた喉がひりひりした。Y本から浴びせられる言葉にも、全身の皮膚がひりひりして、細かな傷が刻まれていくようだった。クズのくせに。しょうもない嫌がらせをするしかない、クズのくせに。でも、そのクズが言うことは、かなしいくらい真実だった。Y本がとことんクズになれるのは、彼がひたむきにバスケットに向き合った証しだった。たとえ、その行いが間違っているとしても、俺なんかよりもよっぽど必死に何かに打ち込んだ証だった。Y本だけじゃない。松岡も、他の選手たちも、誰もが、きっとそうだった。何が彼らをそこまで追い込むのか。何を求めてスポーツの世界に挑むのか。俺にはわからない。そんな風に、生きたことが無い。彼らは本当に、痛々しい。純粋すぎて、ひたむきすぎて、痛々しい。それが羨ましいと思えてしまうほどに。絶対にこんな風に思いたくなかったのに。Y本のせいで気づいてしまった。気づかされてしまった。クズのくせに。クズのくせに。  Y本への強烈な怒りと侮蔑、そして自分自身へのわけのわからないかなしみが胸を覆い尽くしていた。苦しかった。長い間、自分の心がそんな風に大きく動くことがなかったのだ。腐っていたのは俺だ。 「…苦しんだことがあるやつなら、いいのかよ。他人にしょうもねえ嫌がらせしていいのかよ。お前のやってることは、何なんだよ」  正しいことを言っているはずなのに。俺の「正しい」はどこか薄っぺらい。正しいのよりどころなんて、どこにもないことを知っているからだ。 「…なんで、俺に絡んで来るんだよ。なんでだよ」  呻くように言うと、Y本はボトムのポケットから手を引き抜いた。ポロシャツの裾を少し握って、離す。 「…悪かったな。色々言っちまって」  まさか謝罪されるとは思わず、俺はいつの間にかうつむけていた顔を上げた。 「お前は覚えてねえだろうけど、一年の時、お前さ…」  言いかけて、Y本はやっぱなんでもねえ、と口を噤んだ。それからすぐに、「お前がお人よしだからだよ」と言った。  わけがわからなかった。 「お前、さっきと言うことが違うだろ」  Y本は頬を引きつらせたうまくない笑みを浮かべた。 「俺みたいなやつを、憐れんで、一緒に心を痛めてくれる。結局、お前はお人よしなんだよ。だから、俺みたいなのに付き纏われるんだ。かわいそうなやつ」  俺の返答を待たず、Y本の足は教室ではなく、渡り廊下の先に向かって行った。渡り廊下には、他に誰の姿もなかった。  それ以来、Y本は俺の周りをうろつかなくなった。学校はほとんど休みがちで、たまに出て来たかと思うと、同級生や後輩の幾人かとつるんでしょうもない嫌がらせを繰り返していた。もうY本にはそうすることしかできなかったのだと思う。  松岡はというと、夏の大会で違反行為をしてしまったがために、多少の罰則を受けたようだった。けれど、それを境に彼はますます水泳に打ち込むようになった。ひたむきなのは変わらず、しかしどこか余裕のある顔つきになっていった。いつも水泳部の同級生や、先輩や後輩に囲まれて楽しげにしていた。何が彼を変えたのか。俺には知りようもないけれど、あの夏は、きっと彼にとっては特別な夏になったのだろう。  高三の秋、Y本は水泳部の一年生と暴力沙汰を起こして、とうとう罰を受けた。教師も彼の生活態度に再三指導をしてきたところだったが、いよいよもめ事を起こしたので思い切った処分を下した。と言っても、数日の謹慎程度だったが。  罰則よりY本に重く響いたのは、バスケ部の主将の存在だろう。暴力事件を起こして以降、Y本には、バスケ部の主将が付き纏うようになった。俺とは真逆だ。主将は自らY本に接触し、しつこく何度もバスケ部に戻って来いと口説いたらしかった。それでY本は大荒れに荒れて、何度か教室で、廊下で、言い合いをしているところを見かけた。 「バスケ、好きなくせに」  三年になってY本とはクラスが離れていた。学食ですれ違った時に、そう言ってみた。ウインターカップ行きを逃したので、三年はすでに引退の時期だ。再び始めても何か大きな道が拓けるわけでもなかったかもしれない。けれど、俺はY本の背中を押してやりたかった。「もうあいつ、だめっぽい」と突き飛ばすのではなく、そっと、前へ。手遅れになる前に。  案の定、Y本は俺を刺し殺さんばかりに睨んで来た。けれど俺は構わず手にしていたかつ丼をY本に押し付けて、「がんばれよ」と言い捨ててその場を去った。列に並んでいた同じクラスの山崎宗介が、「食わねえなら、それ俺にくれよ。最後のかつ丼」とぼやいていた。  その次の日、Y本は第一体育館に姿を見せたらしかった。彼は頭を五分刈りにして、フロアにいた全員に深々と頭を下げた。その話を聞いて、なんて単純なやつなんだと呆れた。迷惑にも程がある。  秋が深まり、肌寒くなった。俺は相も変わらず予備校へ通うために教室を出て、校門へと向かっていた。第一体育館の前を通った。Y本を避ける理由が無くなってしまったので、すっかり足が遠のいた場所だった。体操部は変わらず一階で練習に励んでいた。その上にはバスケの練習が行われているフロアがあって、開け放たれた窓から掛け声とボールの弾む音が降ってきた。Y本の姿は見えなかったけれど、きっと今日も彼はそこにいるのだろう。 「な、すげえだろ」  二階を見上げていると、弾んだ声が聞こえた。体育館の側面入り口に、誰かがしゃがみ込んで体操部の練習を覗いている。体操部にはK村がいるので、取材やファンの見学はざらにあることで、人が群がっているのは特に珍しくはない。俺が驚いたのは、それが松岡だったことだ。ジャージ姿の松岡が入り口に居座って体操部の練習を見ている。先ほど、水泳部がトレランに出るところとすれ違ったので、とうに部活は始まっているはずだ。こんなところで何をしているのだろう。  訝しく思って声をかけようとすると、松岡の隣にいた生徒が、「俺だって、あれくらいできる」と言って、急に立ち上がった。どうやら松岡の知り合いらしかった。他校のジャージを着ていた。白地に水色のライン。IWATOBI、と背中に書いてある。岩鳶高校。どこかで聴いた名前だった。その生徒は、両手を上に伸ばしたかと思うと、側転を始めた。うまくもないが、ヘタでもない。着地した後の姿勢はやたらまっすぐで、どこか誇らしげだったので、彼にとっては得意技なのかもしれなかった。 「そんくらい、誰でもできるっつーの。俺はロンダートできるぜ」  特に見え映えのしない側転になぜか対抗意識を燃やして、松岡も立ち上がった。数歩後退って助走をとり、大きく地面の上で跳ねて、空中に飛び上がった。トランポリンも板も何もないのに、見事な跳躍だった。そのまま体を捻って地面に降り立った。どうだ、と言わんばかりに岩鳶生を見やったが、とうの彼は目をつぶっていた。 「おい、ハル!なんで見てねえんだよ。俺の渾身の技を」 「危ない技は、怖くて見てられない」  正直に語る彼の隣で、松岡は屈託なく笑った。呆気にとられていると、松岡が俺に気づいて「よっ」と手を振った。何してんの、とたずねると、「K村の練習、見に来たんだ。こっそりな」と松岡はいたずらっぽく笑った。 「ほら、ハル、始まるぜ」  松岡が「ハル」と呼ぶ生徒は、仕方のなさそうな顔をして、再び入り口まで引っ張られていった。二人並んで胡坐を組み、肩を寄せ合って体操部の練習に目を注いだ。俺も釣られるようにフロアに目をやった。いつも非常階段から見下ろしていたのでわからなかったが、マットや吊り輪や鞍馬、トランポリンが整然と並べられ、ジオラマの街のようだった。床は滑り止めの粉が散って、ところどころ白んで埃っぽかった。照明は眩しいからか消されていて、代わりに天窓から光が差していた。仄明るい海の底のようだった。  K村が四角く塗り分けられた枠の角に立った。大きく肩を上げて、深呼吸を一回。それだけで、俺まで緊張してしまいそうだった。K村の体操を見るのは久しぶりだった。  K村は床を蹴って駆け出した。空気の壁を押しやるような勢いで。倒れ込むようにして床に両手を着いたかと思うと、その体は宙に飛び上がった。側転からの前方伸身。着地して後方の伸身。駒みたいに回って、ひねりを入れて着地。  何回転したのか、いくつの技が合わさっていたのか、速すぎて目が追いつかなかった。K村の体はほんの数秒の間に、枠の対角まで運ばれていた。勢いを殺しきれず、着地で軽く跳ねた。「やっちまった」という顔で照れ笑うK村に、松岡と「ハル」が拍手した。K村が気付いて、手を振った。「なにやってんだ、水泳部」とおかしそうに笑った。俺にも手を振ったように見えたけれど、きっと気のせいだった。同じクラスになったことも、話したこともない。 「すげえなあ」 「ああ」 「ハル、ちゃんと目ぇ開けてたか?」 「ちゃんと開けてた。どきどきするな」 「ハル」が心臓に手を当てた。松岡がうれしそうに笑って「俺も」と言った。俺も同じようにどきどきしていた。一つの大きな奔流に、心ごと飲まれてしまったような感動と爽快感がいつまでも胸にあった。練習とはいえ、K村の演技には人の目を引き付ける鮮やかさがあった。強さとしなやかさ。競技の一つに過ぎないのに、躍動する命の根源を見たような。 「バネでも入ってるみてーだよな」 「足も腕も、筋肉がすごい」 「どんな飯、食ってるんだろな」 「筋トレもな」 「あとで聞いてみるか。専用のトレーナーさんがついてるらしいけど」 「さすが、」 「国際選手様」  そこでぴたりと二人の声が重なった。松岡とハルは、まるで子どもみたいにはしゃいでいた。大きなカブトムシや、ホースの撒く��に映る虹とか、水底に光る魚とか。そういうものを見つけた時のような無邪気さで。自分にとっての喜びを、誤魔化さずに喜びとするまっすぐさが彼らにはあった。二人はまったく違う顔つきなのに、双子のように似ているのだった。 「凛」  不意に、「ハル」が言った。りん。松岡の名前だ。静かだけど、耳に響く声だった。それまではしゃいでいた松岡が、はっとなって「ハル」を見た。 「泳ぎたいな」  続けて「ハル」が言った。彼の声は、深い海の底から聞こえて来るみたいだった。でも、恐ろしさはない。目は深く澄んだ光を称えていて、見ていると強く魂を引っ張られるようだった。決して派手な面立ちではないのに、強烈な存在感があった。こんなやつを、俺は他に知らない。 「おう。丁度俺も、そんな気分」 「泳ごう、今すぐ」 「ハル」が立ち上がった。松岡も慌てて立ち上がった。彼は大人しそうに見えるが、思い立ったら聞かないようだった。 「よっしゃ、行くかあ」  じゃあな、とフロアのK村にも、俺にも手を振って、松岡は駆け出した。「ハル」は俺を見て、ぱちりとひとつ瞬きをした。目が合ったので、どきりとした。しかし「ハル」は気にした風でもなく、松岡に「ほら行くぞ」とせかされて、すぐに身をひるがえした。彼らが走り出してすぐに、校舎の角を曲がって水泳部員が一人飛び出して来た。「何さぼってるんですか!」と後輩らしき生徒に怒鳴られていたので、どうやらこっそりトレランを抜け出してK村を見に来ていたようだった。きっと松岡が、「ハル」に見せてやりたかったのだろう。  松岡と「ハル」は、後輩に追い立てられるように走った。乾いた落ち葉を踏みしめ、笑い声を上げながら。光の差す方へ走るうちに、彼らはそのまま魚になって、とぽん、と水に飛び込んでしまいそうに見えた。  気付けばひとり残されて、どこかさみしい気持ちになった。どうして、と聞いてみたかった。どうして、泳ぐんだ、と。何がお前らをそうさせるんだ、と。子どもみたいな顔に戻してしまうくらい夢中になれるものに、どこで出合ったのか。聞いてみたかった。もしも彼らが将来、大きな舞台に立った時、俺はきっと遠くから彼らを見つめながら、同じ問いを抱くのだろうと思う。俺はいつまでもこちら側に立って、なぜ、なぜ、と問い続けるんだろう。  せめて、自分の立つ場所を自分で選ばなくては。ふとそんな思いに駆られて歩き出そうとしたところで、名前を呼ばれた。K村がタオルで汗を拭いながら俺の元まで歩み寄って来た。 「もうちょっと、見て行けば」  と彼は言った。まさか話しかけられるとは思っていなかったので言葉を返せないでいると、「いつも見てたよな、あそこから」と彼は天窓を指差した。俺が非常階段から眺めていたことを、彼は知っていたのだ。 「体操、好きなの?」 「いや、別に…」 「そうなのか?」  どこか残念そうだった。 「俺さ、トランポリンで跳ねてる時、ちょうどお前がいるのに気付いてさ。ずっと見てるから、体操、好きなのかと思って」  あとさ、あとさ、と彼はなぜだかうれしそうに続けた。 「跳んだ時、お前が見えるとこまで上がったらいいジャンプなんだ。勝手に目安にしてたんだ。何のことかわかんねえかもしれないけど、練習にお付き合いありがとう」  幹のようなK村の腕が伸びて来て、俺の手を掴んだ。石みたいにごつごつした、豆だらけですっかり皮の厚くなった手だった。闘う手だった。誰かに手を握られたのはとても久しぶりだった。驚いて引っ込めようとした俺の手を、K村はもっと強く掴んだ。なぜだか父の手を思い出した。いつも冷たくて、死んだ時も冷たくて、俺はこわくなって振り払ったのだ。握り返してやればよかった。大丈夫、と言ってやればよかった。 「な、もうちょっと見て行けよ」 「なんで」 「なんでって、おもしろいだろ。体操」 「べつに、俺は」 「見てるうちに、好きになるかもよ。そんで、体操やろうぜ」 「やるわけないだろ」  K村の手を振り払うと、彼は「じゃあ、マネージャーとかどう?」と追いすがった。 「まさか、人手が欲しいだけかよ」 「ばれた?」  部員が増えちゃってさあ、色々追いつかないんだよね、とK村は屈託なく笑った。彼は笑うとずっと幼くなる。バカみたいに裏のない笑顔だったので、俺も釣られて笑ってしまった。  まあまあ、もうちょっと近くでどうぞ、とK村は強引に俺の手を引いた。慌てて靴を脱ぎ、フロアに足を踏み入れる。  淡い光に満たされた体育館の端に立ち、色々と物珍しさから辺りを見回す。 「なあ、本当は体操、好きだろ」  脇に立つK村が言った。何もかもわかっているようだった。別に、とはもう言えなかった。でも、素直に好きだとは言えない。混沌の中に答えを探す。白んだ床を踏みしめる俺の足元に、まるく光が差していた。
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ohmamechan · 8 years
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台風が来る前の岩美
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ohmamechan · 8 years
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雪風の岩美
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ohmamechan · 8 years
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公式新展開がうれしすぎて、またツイッター始めました。 http://twitter.com/oh_mame_san
です。よろ…よろしければ…! すっかり引っ込み思案になってしまた…。
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ohmamechan · 8 years
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来ればいいのに
 お前、何やってんの。  掃き出し窓の淵に腰かけて、ぼんやりしている遙に思わず声をかけた。  遙の住まいには、テントを一つ立てたらそれでいっぱいになってしまいそうな面積の小さな庭がついている。厳密に言えば庭ではなく、物干しスペースなのだろうけど。  駅から川沿いに歩くと、じきにその庭が見えて来る。アパートの横っ面が川に面しているので、横合いから川越しに庭を覗き見るようなかたちだ。掃き出し窓は南向きで、開け放たれてレースの遮光カーテンが揺れていることもあれば、ぴたりと閉じられていて、中の明かりが漏れ出していることもある。季節によって、日によって、時刻によって、様々だ。  ガードレールと、助走をつければ跳び越えてしまえる幅の川と、庭を囲む柵を挟んで、久しぶりの遙と顔を合わせた。彼は大体いつも玄関で迎えてくれるので、ちょっとだけ体も声も遠くてどこか新鮮だ。  何やってんの、と急に声をかけられて、遙は面食らった顔をしていたが、相手が凛だとわかると、 「窓、拭いてた」  と答えた。確かに、手にはくたびれたタオル地の布が握られていた。雨雲が綿々と続くような曇りの日で、掃除日和だとは決して言えないが、遙は窓を磨いていたのだ。それから、ぼおっとしていたようだ。やっぱり、何やってんの、ともう一度聞きたい。物思いにふけるような顔をしてたけど、何考えてたんだよ、と。 「荷物、それだけでいいのか」  リュック一つの凛を見て、遙が聞いた。 「だいぶ送ったからな。場所くっただろ」  わりいな、とキャップを外して断りを入れると、遙は首を巡らせて部屋の中に顔を向けた。 「そうでもない…思ったより少なくてびっくりした」  視線の先には、凛がオーストラリアから送り付けた段ボール箱がいくつか積まれていることだろう。キッチンを入れて六畳一間の彼の部屋には、十分な侵略者だ。  凛の持ち物だけが先に送り出され、持ち主である自分が今日ようやく到着した。川を隔てて遙と顔を合わせていると、このまま引き返してオーストラリアに戻りたくなる。戻っても住まいは引き払ったし、旧知のクラブチームに籍はないのだけど。  拠点を日本に移すと決めてから、住まいに関することが、一番難航した気がする。大げさな問題や事件が起きたわけではないけれど、それでも。今でさえ、ここにいていいのかな、と思う。遙の住まいを目の前にして、今日から本当にここに住んでいいのだろうか、と迷いが立ち込める。  凛の日本での住まいが決まったのは、ほんの数週間前だ。  オーストラリアでの活動に一区切りをつけ、新たに所属を変えて日本で暮らすことにする。  遙にそう話したとき、「住む場所はどうするんだ」と聞かれた。「一緒に住みたい」とそこで素直に言ってしまえばよかったのだけど、なんとなく言えなかった。一時帰国の際は、遙の方から「うちに来い」と言ってくれたから、何も考えずに甘えることができていた。当然のように「うちに来い」と言ってもらえるものだと期待していたので、「どうするんだ」に対する答えをまったく用意していなかった。  一緒に住みたい。二人で暮らしたい。少し広い部屋でも借りて。  遙に話す前はそんな気持ちがいっぱいに膨らんでいたのだけど、いざとなると、自分からは言えずじまいだった。  具体的な住まいの話にならないまま通話を終えた後、ふとそれは怖いことのように思えた。一緒に暮らすなんて、とんでもない。  恋人同士であるならば、一緒に暮らしていくことは一つの幸福なかたちだ。だけど、この関係を誰の目にもくっきりとさせてしまうことでもある。友人にも、家族にも、知人にも、お世話になっている人々にも。どうかすると、テレビや雑誌の向こう側の人々にも。  しかし凛にとっての問題は、外の目だけではない気がした。  二人で暮らすことは、何より自分たちに、この恋と関係をくっきりさせてしまうことだ。付き合っていて、恋人。男同士で、元は友だちだった彼と不意に始まってしまった恋。それが、目の前にはっきりとした形を持って現れてしまう。  急にそのことが怖くなった。突然、心の真隣に棲み始めた、得体の知れない怖さだった。  東京とシドニーに離れて暮らしている間は、距離と時間が恋しさを上手に募らせたし、たまに会えた時の喜びをずっと深いものにした。この数年間、どこか現実味が薄いまま、浮かれたように遙と恋をしていた気がする。遙への想いが偽物だとか、まやかしだとかそういうことではなく。  しかし、毎日顔を合わせて一緒に暮らすということは。本当に始まってしまうことなのだ。  そこには新たな覚悟がいる。この関係がずっと続くのか、いつかだめになるのか、ある一つの結末を見る覚悟。そして、関係が続く限り、何があっても背負い続ける責任だ。この恋に、遙を巻き込んでしまった、責任。  遙が一緒に住むことについて、どう考えているのかはわからない。けれど、彼は物事を限定してしまうことを避ける性分だし、おそらく選択を凛に委ねるつもりで「どうするんだ」という問いを投げかけたのだろう。凛は凛で、遙の意図を汲みすぎて、「まだ考えてない」と曖昧に濁した答えを返してしまった。  それきり、住まいに関する話題にはならなかった。  ひとまず東京でも別々に暮らした方が、うまくいくのかもしれない。  そう考えて、都内にマンションを探そうとした矢先に、遙が突然「来ればいいのに」と言い出した。  住むところのことだけど。うちに、来ればいいのに。  願いでも提案でもない。どちらの的もすかっと外した、ぼかしたような言いかたに、素直に喜べなかったし、正直かちんときた。はっきり言ってくれたら簡単なのに。  結局、「じゃあ、世話になるわ」とまるで仮住まいにするかのような返事をしてしまって、やっぱりそれからもどこかちぐはぐだった。    何度も「ずっと一緒に暮らしたい」と告げようとしては、心を折った。凛からは、どうしても言えなかった。何かを始める決定権なんて、こちらにはないのだ。男なのに、友だちだったのに、遙が好きで好きでどうしようもなくて、女性と普通に恋愛をしていた彼を、無理やり引き摺って巻き込んでしまったような関係だからだ。  だから、最初から何もかも、全部こちらの負けなのだ。他のすべてに勝っても、この恋に関しては初めから負けている。始めるのも続けるのも終わらせるのも、すべての決定権と選択権は、遙にある。  胸にすっきりしない気持ちを居座らせたまま、お世話になった人々に別れを告げ、ほとんど身一つで遙の住まいへやって来た。  途中で違う路線に乗り、また乗り換えて戻り、予定よりも随分と遅れて、最寄り駅に着いた。改札を出る時に、勇気が必要だった。駅からの道の途中でコンビニに寄り、公園に寄り、届いた真琴や宗介からのメールに、必要以上にじっくりと時間をかけて返事をし…思いつく限りの時間つぶしと寄り道をした。  そうして凛がふらふらと彷徨っている間、遙は窓を拭いていたのだ。窓を。  いや、それは別にいい。どうでもいいことだ。ただ、このまま川を越えて、遙の住処に踏み入ってもいいのだろうか。 「凛の荷物は、」  相変わらず川越しに見つめ合うまま、遙が口を開いた。 「凛が来たら、一緒に片付けようと思ってて、そのままだ」 「おう」 「今日の晩は、真琴が焼き鳥のうまい店、取ってくれた。俺が作ってもよかったんだけど」 「…うん。いや、気ぃ使わせて悪いな」  やたらと口数の多い遙は、なんだか変な感じだ。構えているように見える。声を交わしたのは二週間も前だ。それからは短いメッセージのやり取りだけだったので、ぎこちなさは拭えない。  遙のサンダルをつっかけた裸足の指の先で、ヒメジョオンが揺れていた。曇り空の下にも薄紫の花弁が明るかった。ヒメジョオンは庭先に点々と咲いていて、引っこ抜こうとしたのだろうか、何本か茎が折れていた。  特に言葉も出て来ず、遙の方へ歩みを進めることのできずにいる凛をどう思ったのか、遙はまた口を開いた。 「今日は、大学は休みだし、練習は午前中だけだったし、掃除は大体昨日までに済ませたし、他にやることが無くて…それで、まだ窓を拭いてなかった、と思って」  それで、と遙の話は続いた。 「窓を拭いてたら、猫が来たんだ」 「ねこ?」 「いつも話してた、しましまのやつ。凛が来てる時は、なぜだか絶対来ないから、まだ会ったことないだろ」  おう、となんとも言えない気持ちで返事をした。確かにアパートに通って来る猫たちの話はよく聞いていた。色んな猫がいるらしいが、特にしましまの茶トラは神出鬼没なんだ、と言っていた。野良猫なんて、大体神出鬼没だと思うのだが、確かに黒ブチや灰猫には会ったことがあるのに、しましまにだけはまだ遭遇していなかった。 「でも、逃げてしまって…またあの猫が来たらいいのに、と思ってたら、凛が来た」  なんだ。どういう意味なんだ。  窓の話も、猫の話も、正直どうでもよかった。そんなことよりも、「よく来たな」と、一言くれればそれでいいのに。  しましまの猫だったら、うちに来い、一緒に暮らそう、とはっきり言ってもらえたのかもしれない。大歓迎で、すぐに家に入れてもらえたのかもしれない。猫よりも存在が縮んでしまったかような惨めな気持ちになる。  本当にここへ来て、よかったのだろうか。  こんなの自分らしくないと思うのに、だめだった。泳ぎでは絶対に負けないと思えるのに、こうして違うフィールドに立つとどうしてもだめだと思う。だってこれは、負けっぱなしの恋なのだ。 「猫もいたら、完璧だったのに」  彼はまだ猫の話をしていて、雑巾を持ったままの手と、サンダルの足を投げ出したまま残念そうに庭先に目をやった。いなくなった猫を探すように。 けれど、すぐに凛を向き直った。 「そうだ。ケーキはある。焼いたから」 「けーき」 「そう」 「けーき?」  突っ立ったまま、間抜けに口をぱかりと開けて返す。そう、けーき、と遙は繰り返した。「チョコの、あんまり甘くないやつ」「部屋中がその匂いでいっぱいだ」と言い足した。 「なんで、けーき」 「なんでって…。やることがなくて」 「…意味わかんねーんだけど」 「誰かの誕生日でも記念日でもないのにケーキを焼くということは、無理やりに空白を埋めることだ。空間とか、時間とかのぽっかりした空白を」  遙はひとりで納得したような顔で言う。 「どういうことだよ」  どうにも意味がつかめないでいると、遙は拗ね��様に、凛のせいだ、と言った。 「…凛がなかなか来ないから。もしかしたら、もうここには来ないのかもしれないと考え始めたら…急にぽっかりして。胸のところが」  小さな呟きが、微かな川音に乗って凛の足元に届く。  急にぽっかりして。  ケーキを焼いて、窓を拭いていた。  凛がまっすぐにここへ来ることができずにいる間。ぽっかりした空白を埋めるみたいに。 「もしかして、心配した?」  少しな、と彼は頷いた。 「…わるい、遅くなって」 「べつに、いい。ただ、部屋もきれいにしたし、飯はうまいところに行くし、ケーキも焼いたし、窓も拭いて…それでしましまの猫もいたら、今日という日は完璧だったのに、と思っただけだ」  彼はうつむいて、足元のバケツに雑巾をぽちゃりと浸した。  焼き鳥のおいしい店。部屋の掃除。あんまり甘くないケーキ。磨かれた窓。たまにしか出没しない猫。  すべてが揃っていたら完璧だったのに、と彼は言う。  すべてを揃えたかったのだ。何のために?  それはもしかして、今日、遙の住まいにやってくる凛のためにだろうか。 「ケーキ、甘くないやつ?」 「そうだ」  やっぱり拗ねた口調で遙が言う。遙が怒ったように口を利くのは、心配や不安が強い時だ。 「いらっしゃいのケーキ?」 「暇だから作っただけだけど…そうなるな」  そっか、と凛は足元を見た。もう一回、そっか、と呟いた。  ちゃんと、待っていてくれたのだ。凛を。もしかしたら、凛と暮らしていく今日からの日々にそれなりの期待をして。  だったら…はっきり言ってくれればいいのに。  来ればいいのに、とか来たらいいのに、とか控えめ過ぎる。大事なことは、はっきり言ってほしい。  やっぱり腑に落ちないけど、不安の種がぐずぐずと崩れていって、凛はようやくちゃんと息を吸えた気がした。 「そっか…しましまのやつ、いたのか」 「本当だぞ」 「わかったって…。今日はまあ、いいさ。また来るだろ、そのうち」  それでも残念そうな遙に、凛は言った。 「いいんだ。おれは、ハルがいてくれればそれで」  誤魔化し一つない、ありのままの心を明け渡す。凛にはそれしかできない。大人の男の手管もなければ、駆け引きもできない。最初から負けているのだから、すべてを届けて、選んでもらうしかない。  すると、遙がくしゃりと泣きそうな顔で口元を緩めた。疲れたようにも、ほっとしたようにも見えた。それで、彼の中にもなにかしらの不安の種があったのだとわかった。 「…待ってた。早く会いたかった」  まるで何十年も隔たっていたかのような、懐かしみと慈しみのこもったやさしい声に、泣いてしまいそうだった。  こんな顔をさせてしまうとわかっていたら、一秒でも早くここへ来たのに。  うろうろと寄り道をしていた、さっきまでの自分をなじった。  でもいい。もう、いい。遙が待っていてくれたのだから。  ケーキを焼き、窓を磨き、通い猫を引き留めて、凛のために、せめてもの完璧を揃えて待っていてくれていたのだから。  とりあえず入れ、と言われて、凛はアパートの入り口に周るために歩き出した。重いリュックを背負って歩きながら、やっぱり泣いてしまいそうだった。女々しくて面倒くさいやつだと思われたくなくて、耐える。でも、扉を開けて抱き付いた途端に、もし泣いてしまったら、それでもいいと許してほしい。どうしようもなく好きなんだと、みっともなく泣いてしまうことを、許してほしい。  まるで嵐のような、理不尽なくらいの愛しさを抱きながら、小さな橋を渡ると、 「あ」  遙が短く声を発した。凛の背の方を指差している。振り向いて、指の先を見れば、しましまの猫がいた。川に架けられた橋の袂にもヒメジョオンが咲いていて、そこに身を隠すみたいに蹲っていた。あたたかい夕焼けの色をしたオレンジの毛玉は、幸せそのものみたいだった。 ※ゴムとかセーターの話と繋がっています。たまに、実は恋に奥手で情緒不安定な凛ちゃんnn!!てなります。 ※相変わらず文が畳めずにすみません…エディタ言うこときかない。
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ohmamechan · 8 years
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色々めでたい日!!
とにかくハルちゃん誕生日おめでとう~! 驚きと煌めきに満ちた日々を送られますように。HAPPYBIRTHDAY!! 小話書いてたんだけど、まったく誕生日にならなかったので、また後日…
あと、公式新展開ありがとうございます泣いてる;;;;泣くしかない;;;生きる…!
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ohmamechan · 8 years
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だんごむしとピクニック
※はるりんちゃんとお子の話
 なるほど。確かに、だんごむしだ。
 遙は妙に感心してしまって、玄関先で泣きじゃくる息子をまじまじと見た。いつだったか凛が「だんごむしみたいになって泣かれると、まいっちまう」とこぼしていたものだが。背を丸め、頭を畳んだ手足の間に引っ込めて、これ以上なく小さく縮こまった姿は、まさにだんごむしだ。制服のブレザーが紺地なので、色合いとしてもなんとなく近い。  まるで名物品に出会えた時のような感慨深さが胸を占めていたが、はた、と我に返って息子に声をかけた。息子に、と言うか、だんごむしのごとく丸まっているので、息子の尻に。 「櫻太、泣くな」  よしよしと背中をさすってやったが、息子から返って来るのは、おうおうと激しさを増した叫びだけだ。鼓膜をびいんと刺激され、あまりの激しさにのけ反ってしまう。  こうなってしまうと、気の済むまで泣かせるしか術が無いように思う。けれど息子は泣き過ぎると、体力と気力を残らず消耗し、のぼせから発熱してしまうことがある。なので、ほどほどにしてやった方がいい気もする。  どうしたものか、と悩みつつ、遙は息子の側に寄り添って、ぽんぽん、と背中を叩いてあやした。
 朝起きて顔を洗い、着替えをし、朝ごはんを食べ終え、歯磨きをしたところまでは順調だった。いつものように、幼稚園バックを肩に掛け、セーラー帽を被って、玄関に向かったところで、息子は不意に気付いてしまった。  いつも玄関で見送るはずの遙が、自転車の鍵を手にして靴を履いていることに。  いつも自転車の荷台に乗せて幼稚園まで送ってくれるはずの凛の姿が、どこにもないことに。  そこからが大変だった。  息子は大慌てで家中を駆けずり回って、凛を探し始めた。  居間と仏間、トイレと風呂場、ありとあらゆる部屋の扉を開け放って、「パパー!」と叫びながらとたとたと走り、凛の靴を玄関まで探しに来たところで、玄関マットに躓いてずてん、と派手に転んだ。助け起こして、パパは櫻太が寝ている間に出かけたと伝えると、泣き出した。それはもう、この世の終わりであるかのような悲壮な声を上げて。  それからずっと、この有様。  まんまるにまるまった、だんごむしなのだ。
 凛は一便に乗って遠征先である東京へ向かうために、夜明け頃にここを経った。  東京での予定が詰まっていたし、面と向かって「行ってきます」をすると櫻太がぐずるだろうから、という考えもあってのことだ。ただ、まったく黙っていたわけではない。一週間ぐらい前から少しずつ、大会参加のために家を空けることを伝えてはいたのだ。 「パパ、もうすぐ東京に行って来るな」「大きなプールで泳ぐんだ」「お父さんと、お留守番よろしくな」「パパもがんばるからな」  凛が話すことを、櫻太は大体理解できる歳だ。大会の映像を何度か見せている��で、「競泳」についても、薄っすらと理解している。なので、凛がしばらく家を留守にすることは、なんとなく飲み込めたようで、櫻太は顔をぎゅっとしかめながらも、健気に頷いていた。  しかしそれが、いよいよ今朝のことだとはよくわかっていなかったらしい。  凛は確かに昨夜、「明日、行って来るな。櫻太はちゃんと幼稚園に行くんだぞ」と言い聞かせていた。櫻太も、わかった、と頷いて、凛と拳を合わせていた。  離れがたい思いは凛だって同じだったのだろう、ずっと櫻太を膝に乗せていたし、抱きつぶさんばかりに腕に抱えて同じ寝床で休んだ。(凛が早朝に起き出すときに櫻太を起こさないように、夜中にそっと寝床を変えたが)  しかし一晩経ってみれば、そんなやりとりの記憶もぽっかりなくなっていたのか、実際に凛がいない事実が大いにショックだったのか。寂しさと恋しさが、櫻太の胸に一気に押し寄せて、大決壊を起こしたのだ。 「パパぁ、とうきょうっ、…うそつきぃっ、っく」  そうきたか、と苦笑いしてしまう。嘘はついていない。が、櫻太が寝ているうちに家を出たのは、だまし討ちのようではあったかもしれない。  心苦しさはあるが、例え凛が「行ってきます」の儀式を櫻太の前できちんとしていたとしても、結果はあまり変わらなかったように思う。きっと、見事なだんごむしになっていたはずだ。昨年、遙が大会参加のために「行ってきます」をして家を出た後も、同じ様子だったと聞いているし。  ならば、果たしてどちらがよかったのだろう。  「行ってきます」をしてから出て行くか、しないまま出て行くか。大人の都合ではなく、櫻太にとっては、どちらがよかったのだろう。
 泣き声がやや治まったかと思うと、今度はけぽけぽと咳き込む音が聞こえて来た。泣き過ぎて喉がかれてしまったのだろう。脇に手を差し入れて抱き上げると、櫻太は大人しく遙の胸にすがり付いて来た。先ほどまでは、「玄関マットがわが半身」と言わんばかりに握りしめて離さなかったのに。 「よしよし、さみしいよな。あとで、パパに電話しような」  と宥めると、「うぅや、うぅや」という、「うん」と「いや」の複雑に混ざった返事があった。「どっちなんだ」と笑ってしまいそうになったけれど、息子の矜持のために何とか耐えた。  櫻太を抱えて階段の一段目に腰を下ろし、咳き込む背中を辛抱強くさすってやった。そのうちに、すんすん、と啜り泣きに落ち着いていった。感情のピークは越えたようだった。そろそろ大丈夫だろうか。 「櫻太、幼稚園行こうか。今日はけいちゃんとお砂場遊びする約束、してたんだろ?」  そう促してみると、思いも寄らぬ大反発が返って来た。「やだ!」とものすごい力で遙のパーカーの襟元を握り、顔をぐりぐりと押し付けて来た。 「そうだ、櫻太」  遙は身を乗り出して靴箱に乗せておいた弁当包みを手に取った。 「今日の弁当は、凛が…パパが作ったんだぞ。櫻太のために」  最強の切り札をちらつかせてみると、ぴた、と泣き声が止んだ。 「櫻太に幼稚園で食べてほしくて、パパが朝から作ったんだ」  櫻太はわずかに顔を向けて赤いチェックのハンカチに包まれた弁当に目をやったが、結局はまたびやびやと泣き出した。  おかげで、遙のTシャツは、櫻太の涙と鼻水と汗でぐっしょりだ。  …一歩進んで、三歩ほど下がった気がする。  遙はそっとため息をついた。これは骨が折れる。櫻太が駄々をこねることは常々あるが、これほどまで長引くことも、頑なになることもない。凛のことがよほど恋しいらしい。  遙は泣く子を抱えたまま居間に戻った。  あやしながら縁側に立ち、パーカーのポケットから端末を取り出した。幼稚園に遅れる旨を伝える。それから、凛のダイヤルを呼び出してみたが、もちろん出ない。まだ飛行機に乗って空の上だ。なので、メッセージを残す。落ち着いたら連絡をくれ、と。  しばらくして、息子のしゃくり声はすっと溶けるみたいに消えた。静かになったな、と腕の中を覗き込むと、櫻太は泣き疲れて眠っていた。  そっと縁の淵に腰を下ろし、ゆりかごのように体を揺らして、扉を閉じたばかりの安らかな眠りを手伝った。春霞のやわい日差しは、息子の泣き濡れた頬の上で、静かに照っている。  凛は、「櫻太は甘えん坊で、繊細なところがある」と言っていた。だから、置いて家を空けるのは、ひどく寂しい思いをさせるのではないか、心配でもあるのだ。確かにそれは言えたことだとは思うが…ここまで泣いて泣いて、全身でかなしみを主張するのは、よほど根性があると遙は思う。結構な頑固者に育つのではないか。  ふと、自分もこんな風に泣いたことがあったことがあっただろうか、と思った。  声を上げて、全身を絞るような勢いで、強烈に何かを欲して、泣いたことがあっただろうか。凛はどうだろう。彼はいくつになったって、泣きたいときは手放しで泣くので、あまり変わらないかもしれない。  物心ついてからの記憶を探ってみても、遙には大泣きした覚えがない。涙にもきっと体質があるのかもしれない。体質というか、性質が。自分はたやすく泣けない性質なのだ。  けれど最近、ふいに、泣きたいような気持ちになることはある。かなしいことなどどこにもないし、本当に泣きたいわけではない。涙は滲みさえしない。けれど、涙の気配が立ち上る時があるのだ。
 縁に放っておいた端末が着信を告げた。凛からだ。  息子が敏感に反応して、目元を擦りながら頭をもたげた。 「…パパ?」 「ああ、あっちの空港に着いたみたいだ」  着信に応じて「凛?」と呼びかけると、待たせたな、とちょっと笑いを含んだような声が返って来た。 『もしや、大変だった?』 「それは、もう」  わはは、と軽快に笑う凛に、「笑い事じゃないぞ。櫻太の涙に家が沈むかと思った」と返していると、うるうると涙をためた櫻太が端末に手を伸ばして来た。  櫻太はまだ端末を上手に持てないので、テレビ通話に切り替えて、縁の板目の上に置いた。 『櫻太?』  画面に凛の顔が映り、呼びかけが発せられると、櫻太は端末に飛びついて「パパぁー!」と叫んだ。ぼたぼたと涙が落ちて、画面を水玉模様にしてしまう。凛の端末の画面には、泣きわめく我が子の顔がいっぱいに映し出されていることだろう。 『こらこら、櫻太、そんなに泣くなよ』  宥める凛の向こうには到着ロビーのざわめきが映っていた。着いてすぐにかけてくれたらしい。 「パパぁ」 『うんうん、さみしいな』  えぐえぐと泣きじゃくる櫻太に、凛は凪いだ声をかけ続けた。 『終わったら、すぐに帰るからな。お父さんと、おりこうでいてくれよ』  それでも端末に額を擦りつけるようにして、パパ、パパ、と泣く櫻太に凛も困り果てた様子だった。 『もう泣くなよ~。帰りたくなるだろ。パパもさみしいんだぜ』 「…お父さんもさみしい」  遙は端末の脇で膝を抱えて、ぽつりと呟いた。しっかりそれも拾われていて、「お前もかよ」と返されて、心外だった。 「…パパ、」 『うん、さみしい思いさせてごめんな』 「パパ、…っ、ね、…」  ひっく、と嗚咽を漏らし、引きつる喉の奥から、櫻太は声を絞り出すようにして言った。さっきから、パパ、パパ、と繰り返しているだけかと思いきや、何か言いたいことがあるらしい。それに気付いて、凛も遙も口を噤んだ。 「どうした、櫻太」  丸まった背中を撫でてやると、櫻太はわななきながら、口を開いた。喉はひゅうひゅうと木枯らしのような音を立て、言葉はところどころ途切れて非常に聞き取り辛かったが、息子は確かに「いってらっしゃい」と言った。言いきると、小さな手で顔を覆ってまた泣き出した。  遙は端末ごと櫻太を抱き上げた。 「パパに、いってらっしゃいって言いたかったんだな」  そう語りかけると、櫻太は目元をごしごしと拭いながら、頷いた。  さみしいばかりで泣いていたのではなかったのだ。ちゃんと、「いってらっしゃい」で送り出すつもりで、毎日心の準備をしていたのかもしれない。それなのに、言う機会もなく離れてしまったのが、櫻太にとっては、かなしいことだったのだ。  遙と凛は、お互いのすっかり参ってしまった顔を画面越しに見合った。  お別れの儀式を避けてしまったことに、罪悪が募る。  凛はバツが悪そうに頭を掻いていたが、すぐに思い直した様子で微笑んだ。 『櫻太、ありがとな。行ってきます』 「パパ、がんばって…」 『おう、がんばるぜ。一等賞、とってやるからな』  そう男らしく返す凛に、櫻太はやっと泣き顔をやわらげた。しかしすぐに、 「…幼稚園、行ってない…」  と、不安げに遙を見上げた。抱きかかえる遙の腕をにぎにぎし始める。凛との約束を違えたことが、急に気になり始めたようだ。 『そっかあ。行かなかったのかあ』  遙も凛も、苦笑するしかない。こうなることは大体予想していたことだ。 「…行く」 「…今から?」 『お、偉いぞ。櫻太』  よしよし、と凛の代わりに頭を撫でてやると、櫻太は自分の頭に両手をやって、「あ、帽子!」と驚いた声を上げた。先ほどまで頭の上に乗っていたはずのものが無いことに気付いて、慌て始めた。「たぶん、玄関じゃないか」と教えてやると、櫻太はぴゅう、と玄関に走って行った。 『鞄も忘れるなよ~。ハンカチと名札と弁当もな』  と、持ち物チェック係の凛がのんびりした声で言う。 『…参ったな』  二人だけになると、凛は片眉を下げた。 「結構、わかってるんだな。いろんなことが」 『だな。次からは、ちゃんと見送られて出かけるわ』 「そうしよう」 『そろそろ、見せてもいい気がするしな』  それは、櫻太も東京へ連れて行って、大会の観戦をさせると言うことだ。 「いいと思う。そばで応援させてやりたい」 『来年は、ハルの番だしな。…見せてやりたいな』 「今からそっちに行ってもいい」  今からあ?と声を上げて、凛は笑い出した。  選手権は明日から始まるのだ。航空券も宿泊先の手配も何もしていない。櫻太は飛行機に乗ったこともない。無茶な話だと分かっていて、口にしてみたが、今すぐ東京へ飛んでいきたい気持ちは本当だった。櫻太が自分の父親が闘いに行くのだとわかって、見送る気持ちでいたのだ。ならば、その姿をテレビの画面越しではなく、目の前で見せてやりたい。  何より、誤魔化したり宥めすかしたりすることに骨を折るよりは、きちんと本当のことを見せてやった方がいい。  凛にも同じ気持ちが芽生えていたのか、静かだけど確かな声で言った。 『…ま、今年はちょっと難しいけど。来年は絶対、辰巳のでかいプールを見せてやろうぜ』 「自分も泳ぎたいって言い出すかもな」 『そりゃ、お前だろ』  素知らぬ顔で受け流しているうちに、櫻太は帽子をきゅっと目深に被り、バックを回収して戻って来た。その様子が凛に見えるように、カメラを向ける。櫻太は端末に手を伸ばし、しかし上手にはつかめないので遙の手に自分の手を添えて画面を覗き込んだ。近すぎて、たぶん顔の一部分しか映っていないだろうけど。 『準備できたか?櫻太、えらいな~』 「行ってきます!」  画面の向こうの凛に向けて、ぱかりと口を開けて言った。そんなにでかい声じゃなくても…というくらいの勢いだったが、凛はおかしげに肩を揺らした。 『おう、行ってらっしゃい』  櫻太は満足そうに、久しぶりの笑顔を覗かせた。少しばかり頬が緩んだだけの、いつもの控えめな笑顔だ。 「櫻太、お弁当は?」  たずねると、櫻太は幼稚園バックをぱかりと開けて中を見せた。凛がこしらえた弁当包みが、しっかりと収められている。 「よかったな。楽しみだな」 『おいしすぎて、ひっくりかえんなよぉ』  凛は少し照れくさそうにしながら、八重歯を覗かせてにかりと笑った。
 凛との通話を終える時、特にぐずることはなかったので一安心だった。  気もちはすでに、凛が作った弁当に向いているようだった。  普段、食事も弁当も主に遙が担当しているのだが、凛が作ってやりたいと言い出したので任せた。  いつも遙がやっているキャラ弁に挑戦する!と息巻いていたのはいいが、気になって仕方がなかったのは、彼の出発時刻だ。こだわりすぎて遅れないように、彼の後ろで側でそわそわしながら手伝った。  自転車に乗っても今さらなので、幼稚園までは歩いて行くことにした。  学生の姿も働き人の姿もない、昼前の静かな道を息子と歩いた。坂道で出会うのは、港に住まう猫ばかりだ。  櫻太は歩きながら何度も「すぺさる、パパべんと~」と歌うように言った。 「卵焼きでしょうか」「ゆで卵かもしれません」「カニさんでしょうか」「タコさんかもしれません」と二人で弁当のおかずを予想しながら歩いた。弁当作りを手伝ったので、中身はすっかり知れているのだが、あえて知らないふりをした。  ふいに櫻太が「お父さんのは?」と聞いた。いつもは遙が櫻太と凛の分を作るので、気になったらしい。 「父さんのも作ってくれたから、大丈夫だ」  実際は、弁当用のおかずの残りをタッパーに詰めただけのものだが。 「おそろい?」 「そうだな。櫻太とお揃いだ」  すると櫻太は、ふへ、と口元を綻ばせた。ピクニック、したいねえ、と言った。そうだな、それはいいな、と答えた。  本当にそうし���しまってもいいような、春の日だ。幼稚園を一日休んだくらいで、何かが大きく変わるわけでもない。今日くらい、いいんじゃないか。そう言ってしまおうか、と考える。見晴らしのいい展望台で、二人で弁当を広げ、歌を歌い、凛を応援する掛け声を考え、洗濯物みたいに日光に洗われて過ごす。だって、今日は、春の陽があんまりにも心地よく眩しい日なのだから。  しかし、息子の目は、すでに丘の上に見えて来た幼稚園の門へと注がれている。  彼の世界の入り口が手を広げて待っている。  何より、櫻太は凛との約束を守るし、凛は櫻太との約束を守る。二人とも、そういう性質だ。 「あ、おーちゃんだ」庭で遊んでいた誰かが櫻太に気付いて手を振る。  櫻太は門の手前で遙の手をそっと離した。それからその手を、振っているつもりなのだろう肩の高さでにぎにぎとさせ、それから園庭へ駆け込んでいった。遙は、海からの風がやさしく息子の背中を押してくれるのを、静かに見つめた。  ああ、まただ、と思う。さっきから、ずっと涙の気配がする。
 園の先生に挨拶をして、一人で坂を下った。歩きながら、さざ波のように涙の気配が押し寄せるのを、不思議な気持ちで受け止めた。なぜ、泣きたいような気持ちになるのだろう。  さみしくなどない。かなしいことも、どこを探してもない。  それなのに。腕に、さっきまで泣き寝入っていた息子の重みと温もりが残っていること。闘う凛が、いずれは遙と櫻太のもとへ帰って来る当たり前があること。海へと下る道が、目に沁みるほど白く明るいこと。信頼があること。この街に暮らしがあること。息子のためのお弁当。ピクニックのこと。駆けていく小さな背中。  そういうことに、ふと…。  路地の陰から、猫がのそりと姿を見せた。オレンジと黒毛の三毛猫。少しふとっちょ。凛と櫻太が「みっけ」と呼んでいる猫だ。透き通ったビー玉のような目がきょろりと遙を見た。なんでも知っているような目だ。   猫と同じ歩調で歩く遙の横を、自転車が風のように追い越して行った。
        長い記事は畳むあの…あれを忘れててすみません…。
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