Tumgik
ophelia333k-k-k · 8 months
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note-5
 ◆2023.09.12  ドゥルーズによるのなら、an essence(本質)とは a difference(差異)そのものであり、しかもそれは、ultimate and absolute difference(究極的で絶対的な差異)で、qualitative difference(質的な差異)とも言い替えられる。つまり、ここで言われている an essenceは、たとえば科学的真理のような客観的なものというよりかは、もっと主観的なその人にとっての固有の真理(であるように見える)。
 この"qualitative difference"(質的な差異)は、"the uniqueness of the fashion in which the world appears to each one of us"(私たち一人一人に対する世界のあらわれかたの独自性)と言い替えられ、"if there were no art, would remain for ever the secret of every individual"(もし芸術がなければ、それは永遠に各個人の秘密になったでしょう)と言われるような、普通の方法では決して伝えることのできない差異。
 そして、"Each individual express the world from a particular point of view"(それぞれの個人は、固有の視点から世界を表現する)と言われた上で、この"the point of view is difference itself, internal absolute difference"(視点は差異そのものであり、内的で絶対的な差異である)とも主張される。
 だから、an essence(本質)=内的で絶対的な差異そのもの=the point of view(視点) だと言うことができて、an essenceをtruth(真理)に近いものとして読むのなら、真理とは固有の視点そのものだということになる。
 ***
 ただしここで、"Yet this does not amount to subjectivism"(しかし、これは主観主義にはならない)と付け加えられて、"for the world that is expressed is not a function of the subject that express it"(なぜなら、表現された世界は、それを表現する主体の作用ではないからです)と理由が説明される。
 subject(主体)が世界や、内的で絶対的な差異を生産するのではない。「本質(essence)を展開するのは、主体ではなく、むしろ、自身を展開し、包み込み、主体の中へと巻き込んでいく本質(essence)そのものである」
 そして、すべての主体(subject)は、ライプニッツのモナドのようなものであり、あいまいな形ではあるものの、それ自身の中に世界すべてを含みこんでいる。
 世界は、モナドの中で、世界そのものを展開していく。世界は、包み込まれ(enfolded)、巻き込まれる(implicated) それぞれのモナドの内に(within each monad)。
 個々のモナドの世界についての表現は、それぞれの固有の視点(particular perspective)によって制限されている。すべての主体は異なる世界を表現しており、芸術だけが唯一、閉ざされた世界同士の間で、相互にcommunication(連絡)をすることができる。『失われた時を求めて』において、マルセルが「芸術を通してのみ、私たちは私たち自身から浮上する/抜け出す(emerge from ourselves)ことができ、他の人間が見ている世界(universe)が、私たち自身の世界とは異なっているということを知ることができます。もし芸術がなければ、他者にとっての風景は私たちにとって未知のままだったでしょう 月の風景のように」と述べるように。
 だから、このとき真理(trutu)あるいは本質(essence)は、固有の視点そのものである。それは真理が主体に依存するという主観主義にも見えるけれど、本質および世界の側が、主体へと本質そのものを巻き込んでいく。言い換えれば、兆候(signe)が、主体へと暴力的に侵入して、本質や真理を気づかせる。
 まとめるのなら、真理はすべて個々の視点の差異そのものだという意味で相対主義的ではある一方で、それは主体が能動的に真理を手にできるということを意味しない。気になるのは、このあとの「文学機械」の議論において、「真理を生産する」ということが何を意味するのか。
 あと、ふと思ったけれど、相対主義にも真理はあるというのはある意味、当たり前かもしれない。相対主義においても、個々の人間にとっての真理は存在していて、でも、普遍主義者はそんなものを真理だとは認めない。真理というのは暗黙の内に、「(普遍的な)真理」を意味していて、「(個別的、特異的な)真理」なんてものは、その人の単なる妄想と区別がつかないと考えられる。ただ、単なる妄想にも、世界そして本質が折りたたまれている。
 ◆2023.09.13  p52、
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ophelia333k-k-k · 1 year
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note-4(哲学とは何か、老婆)
 0. 「天使のいない12月」を買ってやりたいな。世界、意味、世界、意味、世界、意味。マクドナルドでカフェラテを飲んでいる。向かい側には、黒い毛皮の帽子を被った白髪の老婆がいて、何らかのバーガーと水を飲んでいる。そして、その老婆の後ろの壁には「ENJOYING THE SIMPLE THINGS IN LIFE」と書いてある。きっと、あの老婆も何かしらの趣味とかを楽しんでいるのかもしれない(あるいは恋と革命)。何というか、若い頃からの秘密をずっと大事に抱えながら生きてきて、そして年を取った、みたいな老婆だった。自分はと言うと、ずっと「ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する」を読んでいて(その内容については下に書くけれど)、でも少し疲れたから、鴨川に行って大森靖子でも弾き語ろうかと思っている。もしくは、瑛人の香水を大森靖子っぽく弾き語ってもいい。    入試は無事に終わったけれど、ハンナ・アーレント『人間の条件』、ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』、チャールズテイラー"Politics of recognition"という三つの読書会があったりして、案外やることが多いままだ。あと、個人的に、ドゥルーズの『差異と反復』と『ザッヘル=マゾッホ紹介』は英語版とフランス語版をコピーして対称しながら読みたいけれど、現金の持ち合わせがほとんどなく、図書館までの交通費が一回分しかないので、なかなか行けない。それ以外で借りたい本は如月小春の戯曲と、郡司ペギオ幸夫の本。あと、これも個人的に、日本の文藝賞と芥川賞受賞作をひととおり読み進めようとしているのと、息抜きに村上春樹の『カンガルー日和』を読んでいる。と言うと、凄くたくさん読んでいるみたいだけど、実際には起きてから5~6時間くらいは全く調子が出ないのでぐったりしていて、20時くらいになってからようやく頭がまともに働き出す。だから、その20時以降のわずかな時間を利用して、本を読んだり勉強したりしている。  最近、哲学と小説について考えることがある。正確に言えば、その断絶について。哲学と小説というのは近接したイメージを持たれているような気がするけれど、その実、断絶がある。ほとんどの哲学者は小説を書かないし、ほとんどの小説家は哲学書を書かない。それは、両方をバランスよくやるなんてことができないから。自分も、哲学をするときと、小説をする(変な言葉遣いだけど)ときでは、明確に頭を別のモードに切り替えていると思う。一言で言えば、アイロニーとユーモア。小説におけるある種の「どうでもよさ」がそのどうでもよさゆえに持つ、本質性のようなもの。    1,  近藤和敬の「ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する」を読んだ。まずは第一部第二章(p48)まで。語りの特徴として、いわゆる「ポストモダン」的な文体ではない、ということがあると思う。つまりはアジテーション的な飛躍を含んだ文体ではなくて、誠実で一段一段ずつ進んでいくような文章。序文ではドゥルーズにおける「内在の哲学」について考察する上で、郡司ペギオ幸夫という科学者(生命論や複雑系の研究者らしい)の著作に影響を受けたらしくて、調べてみたらこの郡司ペギオ幸夫という人がかなり面白そうなので、読んでみようと思った。    2,  ドゥルーズとガタリは『哲学とは何か』において、哲学、科学、芸術の三者関係を論じつつ、結論においてそれらを「脳」における「統合なき接合」をなすものとして論じたらしいけれど、「統合なき接合」とは何か。その三者はどのようにして接合して、その結果としてどのようなことが起きるのか。    3,  「内在の哲学」とは、創造を生きるための哲学だが、同時に創造を生きるような世界を立ち上げるための哲学でもある(p18)。それは、ドゥルーズとガタリがいう固有の意味での「政治哲学」であり、資本主義とは異なる「相対的脱領土化」の「場の潜勢力」と接合する思考の「絶対的脱領土化」たる哲学の「未来形式」である。  →ドゥルーズとガタリがいう固有の意味での「政治哲学」とは何か(第三部)    4,  なぜならここではテキストに内在する論理の齟齬や不連続性から、現にはないが、しかしあるべきとしか思われない読みの筋を浮かび上がらせることこそが問題となるからだ(p23)    5,  ドゥルーズとガタリによる批判は、「意識の哲学」が「内在」について考えていないということではなく、むしろ「意識の哲学」はそれをわがものとして欲し、哲学の出発点としておきながら、つねに「内在」を「この意識への内在」とすり替えることで「この意識」という「超越」をもち込んでいるという点にある(p33)  →「意識の哲学」とはデカルト、カント、フッサールに代表される流れで、分かりやすいのはカントだと思う。カントは『純粋理性批判』において、それまで大きな影響力を持っていた神の存在証明が成り立たない(=神の存在を理性によって証明することは不可能である)ことを主張していたし、理性による「超越」に対して批判的だった。  その意味で、確かにカントは「内在」を出発点としていたはずだけれど、やっぱりその「内在」とは「この意識への内在」であり、超越論的統覚。デカルトによる、「我思う、ゆえに我あり」という形式での自我を、カントは時間という形式によってひび割れさせたものの、「私」という主観がどうしても超越してしまう。  それをドゥルーズとガタリは「誰にも属することのなかったギリシア的世界は、しだいにあるキリスト教的意識の所有物となってゆくのだ」と表現する。内在の超越化と、ギリシア的世界からキリスト教的意識への移行が、パラレルに論じられている。    6,  宗教的かつ封建的な権力装置から法と資本を脱コード化し脱領土化し、資本主義的社会へと超コード化し再領土化すること(この点は、それが「キリスト教的意識の所有物となること」と矛盾しない。むしろ資本主義的社会において必要な万民法としての道徳の内面化とみるべきだろう)。で、日々の労働力を賃金と交換する。また、過去の善良な経歴を将来へ投射することで信用に変換し、計画的な将来の時間を負債に変換する。そういった責任能力をもった主体(良き市民)を社会的に構成することと、「内在野(champ d'immanence)」の意識への「所属」は連動しているとドゥルーズとガタリはみていた(p34)  →この話は『マゾッホ紹介』において、カントによるプラトニズムの転倒によって切り開かれた「法の近代的なイメージ」の発展系だと思う。『マゾッホ紹介』においては、「おそらく、それは世界における重要な変動を表現していた。おそらく、それはキリスト教的世界の彼岸にある、ユダヤ教的信仰への回帰の最終的な帰結をも表現していた」と書かれているけれど、「キリスト教的世界」「ユダヤ教的信仰」「ギリシア的世界」というそれぞれの単語は何を意味しているのだろう。マゾッホ紹介において、そのあと、「《法なるもの》が定義する漂白の領域において、人はすでに有罪なのであり、すなわち《法なるもの》がなんであるかを知る以前に、その領域において境界をすでに侵犯してしまっている。つまり、エディプスなのだ」とあるように、「キリスト教的世界」「ユダヤ教的信仰」はドゥルーズがのちに批判する「エディプス」的なものと強く結びついている。一方で、ドゥルーズは「ギリシア的世界」を単に肯定しているわけでもないから、繊細にそれらの意味を把握しないといけないと思う。    7,  第二章においては「内在」概念の考古学(の、その方法論の準備)というのがその主題になっていて、そこでは一般的な用語としての「内在」が、徐々にドゥルーズとガタリの「内在」となり、それが『哲学とは何か》において、ドゥルーズとガタリ独自の意味での「内在」になるまでの過程が考古学的に分析される。ここでの「考古学的分析」というのは、ミシェル・フーコーが用いた「考古学的探査」と「系譜学的探究」という二つの語によって行われる。  「系譜学的探究」において、そこに「系譜学的同一性」が見いだされるべき条件は、形式的あるいは統語論的なものと、実質的あるいは意味論的なものの二つがある(p44)。形式的な条件とは、「それらの概念が異なっているにもかかわらず、文脈やそれが語られる際に登場する語りの内容や参照文献など、その概念の周囲環境に関して著しい類似が成立すること」。  意味論的な条件とは、「それらの概念がある同じ問題意識、問題設定にたいして応えようとするところで出てきたものであり、同時に以前の概念がその問題にたいする答えとして不十分��あるがゆえに消滅し、再びその問題に答えなおそうとして異なる概念が発生しているということが確認できること」  もちろん、この方法論は思想研究において、あらゆる場合において応用できる。そしてこの場合は、それがドゥルーズとガタリにおける「内在」という概念において以上の方法論が使用される。筆者は、「内在」概念の考古学的調査を行うにあたって、四つの閾(いき)を設ける。つまり、ここでは地層がイメージされていて、「内在」概念について、五つの層があると考えられている。  次は3,4,5章(p71まで)読みたい。  
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ophelia333k-k-k · 1 year
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2023-02-07
 今日、志望していたある大学の大学院に合格した。筆記試験を突破して、面接を受けて、今日合格が発表された。なのでとりあえずはよい結果なわけだけど、面接のとき、普通に自分の受験番号を忘れていたり(聞かれるかもしれないと思って一応覚えたつもりだったけれど、6桁の数字なんてすぐに忘れてしまう。もちろん事務的には覚えていなくても全く問題はないけれど、なぜかこちらがいったん受験番号を言うターンがある)、面接の部屋に入室してから「椅子に荷物を置いてください」という趣旨のことを言われて椅子に荷物を置く際に、荷物が多すぎて(リュックと小さい鞄と上着)、椅子の上に置いたあとに荷物が転がって床に落ちて、がちん、と大きな音を立てたり、そういう不器用さがすごく目立つ振る舞いだったな、と思う。大学院の入試では、そういう形式的な側面はそれほど重視されないので普通に受かったけれど、そういう形式を重視する場では自分は無理な気がする。    内容面では、志望理由や純粋に哲学的な質問に対しては普通に答えられた(どうしても緊張して言葉が途切れ途切れになってしまうので、もっと普通に緊張せず、やわらかく喋ってもいいんだよ、と言ってもらった)。ただ、受けた研究科が純粋な哲学科とかではなく、実践的・社会的なことも重視するところだったから、自分の研究が実践的・社会的な領域でどのような意味を持つか、みたいな質問に答えるのが大変だった。この辺りに自分は何となく負い目を感じていて、「哲学は役に立たないことに意味がある」みたいな正当化はもちろん重大な意味を持つのだけれど、同時に、形而上学的なことに終始していることへの負い目。プラトンは、たしか「哲学は50歳になってから」という趣旨のことを言っていたらしいけれど、それはある意味では的を射ていて、嫌と言うほどに世俗的な世間知を身に着けたあとでの、そのような世間知を哲学知へと変形する大改革の営みとしての哲学(中島義道『働くことがイヤな人のための本』)なわけで、逆に若いうちだと世間知もないのに哲学をしても仕方がない、というのは一つの見方としてありうる。  ただ、永井均なんかがそうであるように、むしろ、「子ども」にこそ哲学の萌芽があって、成熟した大人よりも、「子ども」の方が遥かに哲学的だという見方もできる。  理論的なことに終始していると無力感を感じてしまうことがあるけれど、それなら実践って一体何なんだろう。思想書を読んでいかにもな「実践」をするというのは難しくて、たとえばニーチェが「超人」や「永劫回帰」について書いているのを読めば精神的に勇気づけられたりはするけれど、そこから具体的な行為とか実践をするのは難しい(生そのものが実践であるにせよ)。その意味で、マルクスなんかはすごく分かりやすくて、プロレタリア革命なり労働者の団結なり社会主義の現実化を目指せばいい(それが可能かはともかく)。理論と実践について。アメリカの学生が大学入試でアピールするみたいに、起業をするとかボランティアなりをしていれば実践なのか、それとも。  そんなことよりも、バイト先で必要な領収書を普通に、完全になくしてしまったから、バイトに行くのが何だか嫌だな。こういうとき、いっそのことバイトそのものをやめたくなるし、実際、そろそろ今のバイト先も辞め時だとは思っているけれど、もう少しだけ続けないといけない、お金のために。生きることの不安と終わることの不安と始まることの不安と、お金の不安がある。    ***    今日の朝、何かの夢を見た。その世界では、「333」という言葉について口に出してはいけないし、考えてもいけない。なぜなのか、理由は全く分からないけれど、完全に禁止されている。禁忌、タブー、触れてはいけないし、考えてもいけないもの、そのようなものとして「333」という文字列があって、夢の中の世界で、自分はそれをあらかじめ知っている。それどころか、「333」という言葉について考えているだけでも、それを誰かに察知されて、(何かは分からないけれど)大変なことになるのではないかという強迫観念があって、ずっとおびえていた。家に帰ってからインターネットで「333」という文字列を検索してみても、「検索結果は0件です」と表示されるだけ。何となく、「333」という文字列を見ていると、赤ん坊の声を思い出す。親からは、「薬を飲みなさい」と言われる。何の薬なのかも分からないまま、薬を飲む。薬を飲もうとしたら、飲もうと思って���た薬が弱い放射線を放っている物質で、薬そのものは幻覚だったことに気が付いて、自分が狂気に飲まれかけているのではないかと思って怖くなる。自分は何か、取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと不安になる。そんな中、ある一人の少年が、自分に「333」についての話を持ちかけてくる。「333」という文字列の強迫観念はずっとあって、現実世界では会えないからさっきの少年にLINEでそのことを聞きたいけれど、「333」という文字列をLINEで送ると、すぐにそれを誰か(監視している上位存在みたいなものに)察知されてしまうのではないかという強迫観念が続く、という夢だった。
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ophelia333k-k-k · 1 year
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筆記の試験が昨日で終わったから、今日は大体だらだらしていた。まだ明日口頭の面接があるけれど、もはや英語とかそういう対策してきたものは終わったから。ずっと勉強だったり課題だったりバイトだったり締め切りだったりで、一日何もしない日というのがかなり久々で、もちろん何をかをするのはかなりしんどいから、何もしない方がいいのだけど、それはそれで不安になる。自分がいつも強制的に外に出るのは、動き続けることで何かをごまかせるから、ある場所に居続けると不安になるから。ファミリーマートで買った国産果汁のフルーツミックス(果汁1%)でどこまでも口を甘くして、歯を磨いて眠る。いつも自分の口の中を自分の歯で剥がしてしまうから(よくある「爪を噛む」みたいな癖として)口の中がぼろぼろなのだけど、口の中を噛んだことで、更にぼろぼろになってしまっている。それも、「国産果汁のフルーツミックス」(果汁1%)を飲んでごまかす、眠る
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ophelia333k-k-k · 1 year
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note-3(2023年1月30日)
 受けようと思っていた大学院の教授がちょうど今年から別のところに行ってしまう、ということを試験一週間前くらいに知って、モチベーションが下がっている。それでも、その先生がいなくても、自分の研究したいことはその大学でできるから、と思ってまた勉強をしたりもしたけれど、その先生は東京の私立大学に移るみたいだから、それなら自分もそこを受けたかったな、と思う。でも、一瞬、そのことを知った時にわりと受験がどうでもよくなって、無職でもフリーターでも大学院生でも何でもいい、と思ったけど、少しだけ頑張ってみようと思う(自分の文章を読み返すと、「思」ってばかりで嫌だ、嫌だ、と感じる)。  ***  三条河原町のマツモトキヨシでブロン(84錠)とクリーム玄米ブランとリポビタンDを買ったら、「濫用可能性がある薬物について」みたいな文字が書かれた大きなシートを出されて、「成人してますか?」「はい」「こちら、飲まれたことはありますか?」「はい「症状は何ですか」「咳です」というやり取りをしていた。外では、全学連の人間が「アメリカが…中国が…戦争を止めよう…」と街頭宣伝をしていて、その声がマツモトキヨシの中にも響き渡っていた。  ***     宇佐美りんの『推し、燃ゆ』を読んだ。  一応、褒めようと思えばいくらでも褒めることができる。まず、『推し、燃ゆ』というタイトル自体、かなり絶妙で、ほとんど完璧といってもいいくらいだし、「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。」という書きだしも、文句のつけようがない。    あと、優れていると思った表現として、学校での水泳の授業のときの、   〈入ってしまえば気にならないのに、タイルの上を流れてくる水はどこかぬるついている気がする。垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶けだしている〉
 というのはほんとうに上手い、と思った(表現としてよいだけじゃなくて、作品自体の、誰かを「推す」ことによって自分自身の肉体の重さのようなものから逃れ、浮上しようとする、というテーマとも結びついている)。情景描写として、100点満点なんじゃないかと思う。   〈成美はリアルでもデジタルでも同じようにしゃべる。ふたつの大きな目と困り眉に豊かに悲しみをたたえる成美の顔を見て、あたしはよく似た絵文字があるなと思いながら「駄目そう」と言う〉
 という描写も優れていると思う。インターネット時代の人物描写としてお手本みたい。あと、「来てて偉い」が一瞬、「生きてて偉い」に聞こえるという描写も現代という時代をちょうどよく表していて、その辺りが芥川賞受賞作らしい    と、間違いなく「上手い」作品だけど、個人的にはそれほど好みの作品ではなくて、いくらか物足りなさがある。バランスがよすぎるし、よくできすぎていると感じるし、そもそも芥川賞が求めているものと、自分が欲望しているものが噛み合っていない(そのわりに、褒めようと思えばいくらでも褒められてしまうのが作品の強度なのかもしれない)。    「推し」という文化から自分は自分にとってなじみ深い、というほど近いものではないけれど、性的でない、そして距離があって一方的という意味ではすごく現代的で、新しい「関係」の形なのかもしれない、と思う。ただ、一方では『推し、燃ゆ』における「推し」とは天皇のメタファーである、という話題とか、偶像としてのアイドルとか、歴史的な連続性もまたあって、反復されたテーマでもある。でも、それでもそこに「推し」という言葉を与えて、現代を描き切ったのは紛れもない実力を感じる。    ***    ドゥルーズによれば、思考とは知を愛すること、つまり愛知(フィロソフィー)から始まるのではなくて、むしろ嫌知から始まる。外部から侵入する暴力的なシーニュとの出会いによって、考えるように強制されることでしか、人は思考なんてしない。何かに強いられて考えるし、何かに強いられて哲学をする。でも、それだと、シーニュに出会わない人間は考えることができないわけだけど、シーニュとはつまり私たちを揺らがせるものだから、その揺らぎを排除するのではなく、揺らぎを保ち続けることによって、シーニュと出会うことができる、のかもしれないと思った。    ***    ***    スピノザがドゥルーズに与えた影響というのは、身体力能を低下させ、「なしうること」をより少なくする(制限する)ものとしての「道徳」に対する批判であり、身体力能の増大(より多くのことをなしうること)を目指すものとしての「倫理」の肯定。    「おまえはこの木の実を食べてはいけない……」とアダムが言われたとき、アダムはそれを道徳的な禁止として受け取るけれど、そこで言われているのは本来、その木の実がアダムの身体にとって毒になるということでしかない。にも関わらず、人々はそれを道徳的な「わるい」として受け取る。本来、この世界には「善」も「悪」もなく、ただ組み合わせに基づいて相性の「いい」「わるい」だけがあるだけ。  〈よさ〉とは活力、力能の問題であり、私たちをより多くのことをなしうるような出会いはよく、私たちがより少ないことをなしうるような出会いは、〈わるい〉。その意味で、道徳的な法とは、私たちの身体がなしうることを減少させるものでしかなく、求められるのはスピノザ的な身体力能の増大と唯物論的な〈出会い〉の倫理。  その意味で、スピノザには「生」の哲学がある。文字通り、それはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発する。  出会いによる触発(アフェクチオ)と力能(ポテンチア)の増大。    「私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている」(『スピノザ 実践の哲学』p49)    「道徳的世界観は、生きる上では無用であるばかりでなく、生きることを否定し続けている。心をめぐってお喋りを続け、悲しみを利用してお喋りを続け、悲しみを利用して小銭を稼ぎ、道徳支配を強めるばかりで、多様な生を肯定して、多様な生を信頼することができないのだ。どうして、もっと単純に、もっと晴朗に、一切の生を祝福することができないのであろうか」(『ドゥルーズの哲学 生命・自然・未来のために』)    ***    校長先生��話はつまらない、というクリシェがあるけれど、数百人の生徒に向けて「校長先生」として話すのではなく、個人として話すのならそれなりに面白い話もあるんじゃないかな、と思うことがある。基本的に話というのは一般的であると面白くなくて、何かしらの特異性が含まれていないと面白くないのだけど、「校長先生としてスピーチする」という状況は「一般的な」話をすることを強いる。それは政治家の話がつまらないのも似たところがあって、一般的なことしか話せないから。  そして、自分ももしそういう立場に立たされたのなら一般的なことばかりを喋ってしまうのだろう、とは思うけれど、どこかで一般的ではなくて特殊な、具体的で特異的なことを言いたいと思う。
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ophelia333k-k-k · 1 year
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note-2(2023-01-27)
 自分をぐちゃぐちゃにしてくれるもの、世界も自分もぐちゃぐちゃにしてくれるもの、外部からやってくる暴力的なまでの出会い、祝祭的で、自分という存在を解体してくれるような新しい何か、をいつも探している。でも、問題なのは第一に、自分をぐちゃぐちゃにする方法というのはあまり多くないし、第二に、そのような祝祭的なものは、それが潜在的である限りにおいては魅力的だけど、現実化した途端に世俗的でどうしようもないものになってしまうということ。
 ここではないどこか、という言葉があるけれど、ここではないどこかはやがて「ここ」になり、また新たな「ここではないどこか」が求められることになる。こんなパーティーから抜け出した先が新しいパーティーになって、またそこから抜け出す。
 ***
 ときどき、世界は今あるような仕方で絶えずあるパターンが反復されながら崩壊と再生を繰り返し、私たちは資本主義の中ですべてが交換価値化されて同じものになり、どんな新しいものもそれが現実化した瞬間に光を失い、私たちはただ岩を転がすシーシュポスのように同じ動作を繰り返し、あるいは労働をして、そうやっていつの間にかすべて終わっていく、という種類のどうしようもないくらいの退屈に襲われて、どうしようもなくなってしまう。
 旅には二種類あって、一つは物理的な旅で、それこそインドにでもいけばいいのかもしれないけれど、あまりにもお金がない。私たちには、旅行に行くお金がない。そして、もう一つは精神的な旅(トリップ)。中枢神経系に作用する向精神薬の奥行き。世界はすべて精神であるとも言えるし、すべてが物質であるとも言える。向精神薬がもたらす感覚って、まず第一に脳も物質にすぎない、ということだけど、同時に、世界すべてが自分の精神にすぎないということも同時に感じられることがある、
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ophelia333k-k-k · 1 year
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note-1(2023-01-27)
 保坂和志の「小説的思考塾 vol9」を半分くらいまで見た。問われているのは小説は何か、小説とはどのようなものなのか、ということで、批評や論評、社会性やポリコレに対比して小説を位置づけているところが特に印象深い。ポリコレに関して言うのなら、それはもちろん必要なものだし、ある時期には望んでいたものですらあるはずなのに、それが強く現実化した今となっては、ポリコレは一般的で空虚な概念にも思えてしまう。ポリティカル・コレクトネスは一般的であるがゆえに個別的なものを捉え損ねる、網の目があまりにも粗いから(だからこそ機能しやす��のだけど)。  そして、そのような一般性の網から零れ落ちるものを拾えるのは、ポリティカル・コレクトネスという一般性を突き破り、個別的な生のその具体性を表現できるのは芸術であり、文学であり、小説だとは思う。小説を書く以上、一般的なものを書いても仕方がなくて、どこまでも具体的な生を書くべき。  あと、小説を書くとき、人は明確に、何を書いて何を書かないのかを選択している。朝起きてから、通学(あるいは通勤して)、誰かに会って、みたいな。でも、そこで、朝の歯磨きに焦点を当てて描くこともできる。どんな色の歯磨きで、何を考えながら、どの程度の歯磨きをするのか。歯磨き粉のチューブはどのくらい残っていて、音楽を聴きながら歯磨きをするのか、ぼうっとした意識で歯磨きをするのか。もちろん、書かないこともできる。何を書いて、何を書かないかが根本的に自由であること。  あとは、メロディが先にあって、言葉があるという話もかなり自分の身体感覚に近かった。文字を書く、という意識というよりかは、文字で歌を歌う、文字で絵を描く、文字で彫刻を作る、文字でダンスを作る、そういう意識で書くこと。小説は意味を伝えるものではないから、AさんとBさんがいて、きちんとした対話になっていることなんてありえないということ。    ***    ポリティカル・コレクトネスに関して思うのは、たぶん正面からアイロニー的にその原理の正しさを問い直す、ということはかなり厳しい気がしていて、むしろユーモア的に個々の事例へと下りながら、個別の生の複雑さを提示することしかないと感じる(そして、それは文学であり芸術という形を取る)。    ***    情動は決して能動性を差し込めないパッション=受苦だから、サディストは当然無感動でなければならないんだ、とふと気づいた。元からドゥルーズはサディスト(というかサドの小説)を無感動で論証的なものと形容していたけれど、実際そうで、情動は受動的なパッション、受苦、非意志的なものだから、主体的なサディストとは情動的であってはならない。徹底して無感動なサディスト。でも、そうなると、無感動なサディストが感じるとされている快楽が何なのか、自分にはよくわからない。征服に対する喜びとかそういうことなのかな。自分にとって、受苦が快楽へと転じるのは理解できるけど、サディストが得ている快楽の方がむしろ理解しづらいんだと気づいた。    ***  
〈「わたし」はもはや「鉱物」や「花」など「わたしでないもの」でしかなく、「わたし」の主体性もアイデンティティも存続する余地はない。それが有機的に組織された身体が崩壊し、「木が、柱が、花が、杖が、身体を貫いて伸びる」のが感じられる分裂症的瞬間である。このとき「わたし」と「その内に入ってくる木」という主体/客体の区別がそもそもなくなり、さまざまな感覚、「気分」の流れ、揺らぎだけが存在するようになるだろう。そして「わたしは花になる」や「わたしは神になる」といったさまざまなかたちの感覚のブロックが、その強度の度合いを変化させながらつぎつぎに通り過ぎてゆくばかりになるだろう〉  
 というのは『ドゥルーズ キーワード89』の「器官なき身体」の項からの引用だけど、この文章を読んでいるとLSDが効いていたときの感覚を思い出す。全然関係のない話だけど、そのときにLSDが効いたまま、何かのサイトから人間の性行為の動画へと飛ばされたとき、ヒトの性行為が、あまりにも無意味そのものでびっくりしたことがある。そもそも、生物の身体というのは徹底して無意味で、繁殖することも死ぬこともただそのようにあるだけなのだけど、その無意味さそのものが突きつけられているような気がした。幻覚剤が効いているときには、(カントのいう意味での)物自体が目の前にあるような気がするけれど、効果が切れたらまたすべては仮象へと戻る(もちろん、ほんとうは効果が持続している間も仮象なわけで)。    〈器官なき身体とは、すでに形成されたものとは異なるものを生み出しうるこの「実験の場」、いまだ実現されておらずかたちをもたない変化への潜在的な力に与えられた名にほかならない〉    「器官なき身体」という単語が初めて使われたのはたぶん『意味の論理学』だと思うけれど、それは大まかに言えば『差異と反復』における「潜在的なもの(Le virtuel)」としての理念(イデア)の領域を引き継いでいて、分化、現実化する以前のかたちのない領域。でも、そこに分裂症の詩人であるアントナン・アルトーの言葉である「器官なき身体(corps sans organes)」という言葉が使われている以上、もっと特異な言葉になっている。    ***    フランス現代思想なんてやっていると、文章がジャーゴン(専門用語)にまみれていって、ほんとうに自分は意味のあることをしているのかよく分からなくなることが、ときどきある。もちろん、新しい用語が作られるのは別にものごとを複雑にして分かりにくくするためではなく、むしろ現実を分かりやすく説明するためになのだけど、そうやってより現実に合う言葉を発明すればするほどに言語の体系はより複雑になってしまう。表現したいこと(意味)は単純なのに、それを表現するための言葉がどんどん複雑になっていく。それはベルクソンが『哲学的直観』で言っていたことに近い。哲学���はあるシンプルな直観を表現したいだけなのに、それを表現するために膨大な哲学的体系が必要になってしまう。あまりにも単純であるために、それを表現するのに無限の言葉が必要となる地点。  学問というのは原則として、対象を外側から観察して、体系的な知識を蓄え、進展させていくもので、それはもちろん日々の生活とも密接に関わっている訳だけど、やり続けるにはあまりにも退屈に感じられてしまう。    ***  サン・ラを聴きながら勉強をしていた。英単語帳の例文の中で起こっていることについてぼんやりと考えていたら時間が過ぎ去っていく。    ***  「あなたはどんな性格ですか?」という質問を受けた時、自分がまったく何も答えられないことに気が付いた。こういう質問にはすぐに簡潔に答えられる器用な人もいる一方で、自分はまったくそうではない。聞かれても、ほんとうに何も思いつかなかったし、自分がどういう性格なのか、何も分からない。思えば、自分は、自分が普段どういうリズムで生活をしているのかもよく把握できていなくて、自己認識が曖昧だと感じる。だから、「あなたはどんな性格ですか?」とか「あなたの長所(短所)は?」というような質問に対して、何を答えればいいのか分からなくなる(一応、性格を述べる上でのパターンみたいなものを調べたら、「マイペース」とかが近いのかもしれないけれど、経験上、それほど好感を持てる言葉でもない)。
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ophelia333k-k-k · 1 year
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2022年12月13日
暗闇 見つめている二重らせん 週刊誌の最後のページ 孵化する 孵化させる 目が覚める からっぽのまま 赤ん坊の手を握る 哲学ニュース 強度 占星術師 と打ったら変換される 性占術師 学生時代 最も力を入れたこと 死は幻想である 愛、あ、あ、あ、名前を教えて なりたいもの わたしが 明るい世界 明るい未来 クビになったドラッグストア 礼拝 お好み焼き チューニングの狂った 歌 聴こえなくなるまで 聴こえなくなるまで featuring あなたのこと 声 死について って誰も知らない経験していない から 駆け込み乗車 禁止 お兄ちゃん お兄ちゃん 扉を開けて 機内モードで延命する アジテーション はやくしたい 遅く 結婚 まん防 イデア的には ずっと一緒がいい よね 今だけ無料 アジテーション テナント募集 の 看板 らすとくりすます とぽろじー 言葉で考えるのをやめる あ、あ、あ、 図式化 ズキズキする 監視されていた 白い部屋 女衒 パッチワーク フランケンシュタイン みたいに 愛と幻想と 愛と幻想と 糸 ほどけていく ことを想像する ジャスミンを銃口に 営業系総合職 死んだ瞬間の聴覚について 死んだ瞬間の聴覚について のように のように さようなら 魔法少女 ハートフィールド 歌う メヌエット ピーチ姫の テトラポット アストラル界 あなたの 吸い込まれる ダム 死体画像 すぐ会いたい女子が急増中 アカツクシガモ 京都市植物園 振り回す キャリアチェンジ された アルバイト する このサイトにアクセスできません と 声が して振り向く 昨日 のことを覚えていない 迷宮 のようだと うわさのベーコン クルトン コーラ・パール ゾラ ほら、と 初音ミクの額から垂れる汗 花園神社で 迷い込む 見世物小屋よ 一生バイト ポケットモンスター 正解を引き当てるまで やる気が出ないな 英単語帳 ランボーを読んでしまったなら ロックンロールはそう ホテル暮らし 空調の音 Jアラート 星座を結ぶ ロックマンエグゼ lain rain ruin  ビスク・ドール 野良犬 奈良へ向かう列車 アーレント 現実感 人生攻略サイト 灰と は 意図 思考 回路の中を むさぼり食う 吸う 空気 止まった ままの 子宮的な エリア 嘘をついたまま死ぬ のね ルビンの壺 12ポイント stray sheep と 動詞動詞動詞動詞 同時的に 田中角栄 魔人ブウ 犯す 壊す 作る 波打つ わたしは 殺す 生かす 咲く 咲かす ライフハック 死 冷蔵庫 咲かす 飛び立つ やわらかく もやもやと ばたばたと 解毒する 夏休み 向日葵 消滅した 蝉が鳴く なく 無く 咲く さ さ さ 教育する アナイス・ニン 逃げ出す 逃走する 闘争? 領域を広げていく 閉じる 閉じこめる 閉じ込められた 布団の中 宇宙のように 宇宙そのもの 高橋まつり 滅びた 100年後のことを考えて 文章を書く 脳みそから溢れ出した 白い水着 黒いタイツ 道化のように 大天使のように 借りる 回帰する アカツクシガモ 成長すること 天秤のことを考える by  this river ラブ&ポップ 脳破壊 快楽 シャドウ・ワーク 子宮口から この世界の果てまで 共同体 忙しい 忙しさ exclusive みんなのレビュー 連帯 証明するために ランキング もっと欲しい あなたらしい 瞬間に 祈る手 summer 上映する ロングヘアー 偏差値 ピアス 18個  生き延びる ラリる 刺さった 反射した 発射した 家畜人 ホワイトノイズ 空間 依存症 白い 微分不可能な やわらかい その曲線 エゴサーチ バーモント・カレー 姦淫する 階段 聖書 夢の中に出てくる 中島らも 他人の日記 読む 話す 歌う ような気がする そんな感覚が 一時間天気予報 ペヨーテ ぐるぐる回る 永久に 永久的に 結びつけた 途端に壊れる ぱりん、と ふらっと 消えちゃいそうな気がする 意識が高い 高低差 風圧 やさしい言葉 インターネットのグロサイト 巡る 再度 巡る 繰り返していた クリスマス サンタさん 産道 乱視のまま 今日も生きている 息をする あらゆる 虹色の 永久に理解されることのない強度 氷点 貯金やダイエット レポ漫画 面白くなる 国語辞典 解剖する やまい、だれ 芽殖孤虫 ひらひらと 眠る ゴミ出し 擬音一覧 シーシュポス 間違った注文 集める 女性が一生で排卵する卵子の数は400個~500個と推定され 細胞膜 ずきずきと 痛む手 うつらうつらと その指で 欺瞞 マッサージ されたまま死ぬ アイライナー いつかは終わる 旅 続いていく 気持ち悪い、 と少女 折りたたみ傘 出会う 解剖学の教科書 ホーリー・マウンテン もやし 食物繊維 的な ひらく 伸びる 匂いがする 恥丘 裏切る 一本の木 待ち続けている 市民会館 明かしえぬ共同体 ムーミンたち ムーミン谷へ 向かっている ヤツメウナギ もし仮にそれが ハッとする 気がつく 失う 海のそばで グランドメニュー 幽霊 ピアスの穴 カッターナイフで切る 舌を 下へと 血が出る 地が出る前に ここからいなくなる 踊る 大雨の中 浴びる 天高く 土砂降り もっと 濡れてしまいたい 溶ける あらゆる種類の動詞 固着した エディプス・コンプレックス 身体を売る 眠りにつく べたべたした くすぐる 太もものうぶ毛 のように 行こうね ずっと一緒に 逆にする 黒板に描かれた 天使と怪物 流れとよどみと 恋と革命 そのままの 君でいてね イデオロギー それとも 触れる 手に 手のひらに その温度を そっと撫でる ように見える 青ざめた 顔 目で 浮き上がる 物流倉庫会社 キスをする どこにも行けない どこにも行けない 憂鬱な夫婦 中絶用の 願いを書く 七夕 永遠に落ち続ける夢 人生ゲーム 青いピン そのように 性行為のやり方 鍵付き完全個室 運動会 発熱 保健室 はつなつ 人生経験 終わりゆく 肉の厚さ 海馬 言語野の 衰退 ダウンロード数 数えていた 新しい生活様式 リズム 物語ること 豊かな 再生回数 氷 覆われる 世界すべて 素数のように 感じる 解体 怒らない? 起こらない、何も 可能性が失われていく 研ぎ澄まされていく 失われていくことで 何者かになった その平らな牧場 忘れてきた お持ち帰り する 立派な 飛び降りて 刻まれた 胎児のように さえぎられる 海岸には小屋があって 喧嘩をする 白鳥 食べられる 汚い 穢れてしまった 純粋なもの 銃を撃つ 一発 チェーホフ、どこへ行ったの? と母親が階段を上がってくる 切符をなくしてしまったままで 生き続けている気がする 少女には 晴れ 絵日記は かすれてしまった とうに 音楽にはならない 寒天培地の上で 有性生殖する していた した方がいい 人生経験 ペットボトル HPVウイルス 頭のない 風邪総合 目をさます 神経系 ポーチの中で 白い粉になった 睡眠薬 遠くの方へ、遠くの方へ 並べられている 全校集会 鳴らされて 走る 望遠鏡を 覗き込む もうすっかり 子宮頸がん 夢中になって 標本にする どうやって? 悟りについて 五億年ボタン 走馬灯 一週間くらい考えてもいい? 愛妻弁当 ぷっちょ の容器でオナニーする カンブリア紀の 海中生物やわらかく モニターの奥 夏の光 ぴったりと 豊かに 遅延しながら 本間ひまわり いま、を指差す指の先 爪の長さ 変わって 一括見積もり ふざけているのではなく 頭痛 左側 ありがとう こんにちは おはようございます それは愛ではなく の ような 夜行バス 棺 出生外傷 の あなたは ロビンソン トリップした 虹色の女 devenir ひだ 開く 一枚一枚 めくっていく 匂いがする 工場の赤ん坊が コンクリート 嘘だった あてのない 意味のない 海 潜り続ける 潜水艦の中で 夢を見ている 象徴的に もっと速く 飛び立つ 自壊したい 鯛 平らな 館内における密を避けるため 破れた 四つん這いになって するだろう 想像 するだろう 未完のままの もはや戦後ではない 未亡人 ぷろ、ぱかんだ 重量と恩寵 根を 肉体が壊れていくのは かもめ 肉塊 台風が来る前の夜 アオカビ もっとたくさんの地獄 天国は通り 過ぎては消えていく スーツの人が通り過ぎていったあとの 匂い 大人の匂い 食器返却口 この席の使用はお控えください アルコール消毒 セーブポイント 豚 のような女 と 猿の ような 男が出会う 死体ごっこ バラバラに 組み合わせる 英単語帳の例文みたいに 死に近い コンクリート 裂け目 洗浄液 メリークリスマスの Yahoo知恵袋 真理があると言われている そこにある 死んだあと魂はどうなるの? と子どもが尋ねる 何グラムの 前世の記憶 当たり前の事 トンネル 潜り抜ける音 夢の中の休憩所 自動販売機 光 光 夜の闇に飲み込まれないように コンビニエンスストアは灯台として 鳴りやまない 崩れていく 昨日 来ない 来ている すでに いま 冬の ま、ふゆ ま 電気ストーブ あたたかく すりつぶす 通勤・通学 するための列車 眠る 折りたたまれたヒダ 予言する 1999年 産まれ た 朝 ねむる ねむる もっとよくなる 地方都市
夢の中では 現実的な 現実的なもの 親ガチャ 100年後の 2000万年後の 想像していてね 空っぽの脳 おばさんが入ってくる大量に 魚 飛び跳ねる 誰も見ていないところで 老人の声はデカい 無が無���に膨らんで 恒星たちは爆発し きっと届かないまま ��ーム実況見ていた 二年間 だった気がする だった気がする この区域で路上喫煙をすると 一千円の過料が科されます と どこかに書いてあった 教科書に落書きをしている間に 終わっていた もっと濡れたい 雨に 幼形成熟 恋と革命のために 太郎 花子 由香 香織 紗耶 話題のツイート 温泉むすめ 逃れてゆけ 逃れてゆけ 自撮りしているふたりを 見つめる 目 目玉 浜辺で 白く 白く 白く 白く 境界線はほどけた もう一度 あまい 糖衣錠 統一的な 像 増殖する お支払い方法 まとめサイト この世界の秘密 ねじれたソーセージ 青い 白い 脆い イオン・モール 迷子になる 歌を歌う 歌っていた 冗談でした あらゆる 情報商材のために すべて ひとつの 自己啓発 は はいいろの ノイズで 
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