Tumgik
parus-minor · 7 months
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写真行為について
最近色々と考えていることに、写真を撮ったりや見たりすること、つまり写真行為がある。特に教育における写真行為とはどういった特徴をもつのかということ。
写真論としては、ロラン・バルトやスーザン・ソンタグ、ピエール・ブルデューをはじめとして色々な議論がある。最近だとケンダル・ウォルトンとか。
たぶん写真行為はここ20年ほどで大きく変わっている。というのもカメラが変わったからだ。ニコンとかソニーとかの一眼レフだのミラーレスだのを買う人もいるけれども、日常実践としての写真行為はほとんどスマホや携帯電話になった。我々はスマホを通して写真を撮るので、カメラはハードウェアというよりソフトウェアになった。さらに撮った写真はほとんど現像されず、スマホの画面を通して閲覧されるようになった。
一方で写真行為をめぐる現象に変わらないものもある。例えば、写真行為は「不介入な行為」である。つまり、撮影する人は基本的に、写すものの外にいる。「ハゲワシと少女」の写真がその最たる例。ケビン・カーターはあれでピューリッツァー賞を獲ったが、その後「なぜ少女を助けなかったのか」という世間の非難にさらされ自殺した。X(旧twitter)で何かの事件の様子を撮影した写真や動画がアップされバズるたびに、同じような批判がたびたび起き炎上する。これは写真の不介入性ゆえである。
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写真は現実の一部を切り取るが、文脈まで切り取るわけではない。したがって、撮影者の意図と鑑賞者の捉えはしばしばズレることになる。とはいえ、写真の「かつて・それは・あった」という性格は共通して認識する。インデックスとして、コードなきメッセージとしての写真は、しかしつねにコード化された共示なしには語られることはできない。だからこそなのか、我々は写真を見るとき、物語を欲する。
写真の物語の特質は「かつて」あった出来事を「いま」外から観察することで、わたしのものではない記憶を写真のディティール、物語素のなかに発見し、あるいは新たにつくりだすこと、そのようにしてあらたに物語ることである。ソンタグが「記憶の道具というよりもむしろ、記憶の発明」であるというとき、彼女もまた、写真の物語のこのような特質にふれているといえるだろう。
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教育での写真行為として最近取り上げられるのは、教師の省察における写真利用である。教育実践の様子を写真で撮り、それを後から見返しながらリフレクションしたりカンファレンスしたりする。
なぜ動画ではなく写真なのか。
自分が撮った写真を見返すとき、撮影した時には意図しなかった事物が目に入ることがある。他者が見つける場合もあるかもしれない。省察で重視されるのは、自身の価値観の更新である。そのためには、撮影行為の意図性を越えていく必要がある。動画撮影の場合、我々は流れを理解しようとする。つまり、撮影者の意図を理解しようとするし、撮影者自身が見る場合には自身の撮影意図の確認になる。つまり省察という目的は達成されづらくなる。
カメラは状況に物語構造をあたえ、撮影者はこれに語りの視点を与える。しかし写真はそれ以上になにごとも語らず、撮影者は物語の主体ではない。写真の物語は、これを見るものに委ねられている。そして物語は言葉によって語られる。ロラン・バルトの言い方を借りれば、言葉はプンクトゥムの宿る場所、細部の物語素から、そのつど一定のコードとコンテクストにそって派生する。
西村清和は次のようにいう。「写真に写りこんだディテイルをあらためて目撃し、これら見るものをつきさす物語素の力を衝迫として、写真の〈かつて・あった〉そして〈おわった〉なお知られざる物語を、そのつどの自分の〈いま・ここ〉の現在を語りだすこと、これがわれわれ写真を見るものに託された、写真行為のエートスなのではないか」
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どんな写真を撮ればいいのか、そんなことは気にしなくていいのか。つまりどんなスタンスで見ればいいのかについて議論したほうがいいのか、やっぱりある程度意図が必要なのか。だとしたらそれはどんな意図であればいいのか、そういったことをこの間から考えている。
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parus-minor · 8 months
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3年後
2020年5月に書いた記事からの進捗
株に投資する
2023年8月時点
投資額:4,549,280円
評価額:5,781,079円
プラス:1,231,799円(+27.1%)
評価額内訳
SBI(特定):1,934,100円
SBI(NISA):2,590,160円
WealthNavi:1,256,819円
所感
思ってるよりいい感じに増えてる。
半年に一回くらいしか状況を確認してない。
そのときに明らかに上がりすぎていると思われるものを売って、安すぎると思ったものを買う。
何を売って何を買うかは気分で決めてる。チャートしか見てない。ニュースとか見ない。
その際にNISAで上限まで買って、その他買いたい銘柄があったら特定で買っていく。
WealthNaviは毎月3万円を自動積立して、それとは別に、気が向いた時にまとまった額を入金している。
SBIもWealthNaviも、配当は口座に入れるようにしていて、複利でさらに増やす方針。10年以上出金する予定もないし。
銘柄の中には株主優待で何か送られてくる系もあり、生活を多少豊かにしてくれている。
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parus-minor · 1 year
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論文を書く
査読また落ちた。仕方ないので紀要に回す。
とりあえず紀要でもいいから、一定のまとまった重い文章を書くことを続ける方がいい。
今の大学、基本的に書かない人が多くて、自分の研究者としてのアイデンティティを保つためには、他のコミュニティに属するしか基本的に方法がなく、そうやってギリギリ平静を保っている。
今は学生に卒論指導をする身になって、つくづく課題設定が大事だなと感じる。
課題設定次第で、卒論が面白くなるか苦行になるか分かれる。
自分が学部生の時、卒論の課題設定に1年以上費やした。指導教員からOKが出たのは10月になってからで、実質3ヶ月で先行研究の整理と調査データの収集と分析と記述を行なった。
時間がかかったおかげで課題設定がはっきりしていたから、調べるべき文献も、調査の方法も分析も、何をしたらいいかいちいち立ち止まって考えることなく進めた。
量的研究と質的研究のトライアンギュレーションをしたので、他の学生の2倍の研究をしたことになる。おかげで良いものができて、満場一致で講座の優秀卒業論文に選ばれた。
あれが成功体験の一つ。
修士課程に入って今度はおもしろくない課題設定になって、けれどとにかく量が必要で、脳死でたくさん書いた。
論文の形式のテンプレートと、それにあわせてたくさん書く方法を習得して、修士課程のうちに複数の論文を世の中に流せた。
これらの論文は私にとってはたいして面白くなかったけど、それに価値を感じる人には引っかかったようで、それで今の職を得ているので、悪くいうことはできない。
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parus-minor · 1 year
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生存戦略としてのポートフォリオ
研究者としての生存戦略について
学部生のうちから何でも手を出した
むかしから新しいことをすることへのハードルが低い。後先考えずに興味を持ったことに手を出しまくっている。
読書はジャンル問わずなんでも読む。スポーツもそこそこする。この前市民マラソン走った。いまだに深夜アニメも観るし、ドキュメンタリーも観る。毎年ボランティアに参加する。デジタルガジェットも好き。コーヒーにこだわる。
そこに一貫性をもっておらず、ただなんとなく気になったからという理由だけで色々なものを生活の中に取り入れている。
学生の頃からそうだった。部活サークルを4つ掛け持ちしながら4年間で200を超える単位を取った。4年生になっても一般教養の講義を受けに行った。旅行が好きだったので、長期休暇のたびに一週間くらいの一人旅をした。下宿は安くてボロいところにして家賃を浮かせて、その分バイトもそこそこに、可処分時間を勉強と遊びに費やした。
3年生になるとゼミ配属があって、ゼミ単位で学生室が使えるようになった。ずっと入り浸って勉強したり上級生と研究の話をしたりした。卒論を書くゼミとは別に、興味のあったジャンルの先生の元に行きそのゼミにも参加させてもらった。もちろんそこのゼミ生と同じ課題をしたし、一緒に追いコンもした。
卒業研究も人の2倍はしたように思う。しょせん学部生の卒論だったけど、あるテーマについてアンケート調査して因子分析して尺度作ってそれで統計ソフト使って分析して、さらにインタビュー調査してM-GTAの真似事した分析もした。
いわゆる方法論のトライアンギュレーションってやつ。
これをしたおかげで、一度は質的研究も量的研究もやった気になれて、それ以降研究に色々な手法を組み入れることに抵抗感がなくなった。
ここで「この手法使ったことないから...」と避けていたら、自身の研究の幅は確実に狭まって論文がそんなに書けなかったと思う。
大学院では文献調査して理論研究で論文も出したので、マジで中途半端になんでもする人間になった。
けどそのおかげで、今大学教員としてやっていけている。
「ふつうの人」の生存戦略
要は組み合わせの問題だと思う。自分は何かが突出して優れているわけではない。いわゆる「ふつうの人」だと思ってる。研究者にならなかった同期と話をしていても「絶対こいつが研究したら一瞬で抜かれる」みたいな感情を抱くことはままある。周りには常に自分の上位互換がいるのだ。
そういう状況下で自身が生き残るためには、分野を一つに絞らず得意分野の組み合わせ方、いわゆるポートフォリオを意識する方がいいと考えている。
https://twitter.com/stdaux/status/1605762769499721729?s=46&t=Fs4keTAc7REWgf-d6iQmcw
同じようなことを言ってる人いた。
ただし精神的に健康であるためには、ポートフォリオを作成するために無理に武器を探すのではなく、「誰かにやれと言われたわけでもないのに勝手にしてしまうこと」を自己分析で明確にしておく必要があると考えている。
最近はChatGPTでPythonのコード生成して、Colaboratoryで動かしてみてキャッキャしてる。むかしPythonを勉強していたついでに、機械学習や深層学習の原理も表面だけ学習した。そのおかげでどういった情報を送ればChatGPTが自分の欲しい回答を生成してくれるのか、他の人よりわかっているつもり。
斯学領域では統計やプログラミングができない(というより忌避している)人が多いので、ちょっと分かっているだけで普通に武器になったりする。
横井軍平が提唱したの「枯れた技術の水平思考」って考え方があるじゃないですか。発想はそれに近い。
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parus-minor · 1 year
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お金と自由
みんな金の話してる。お金好きすぎない?
同僚と話するとすぐお金の話してくる。二言目には、「それ手当出るの?」みたいな。「試験問題作ってるのにこんだけしかもらえない」とか「来年から担当コマ数増えるのに給料上がんない」とか。
前任校でも同僚と待遇の話をしていたときに「ここ、学長で800万だよ。夢がないよね」とか言ってた。そんなもんでは?
筆者は地方私立大学の下の方の職階で、他大学と比較してもむっちゃ給料が低い部類らしい。公立小中高の教員している同期と遊ぶときに「大学の先生はお金持ってるからなー」なんてよく言われるけど、持ってない。「いや、君ら給料より少ないよ?」と言うと冗談だと思われる。
世では高給取りと思われてるらしい。「大学教授 年収」とかでググると、平均1000万円!みたいなのが出てくる。
んなわけないだろ。
ネットの情報と現実があまりにかけ離れていてよくわからなくなる。
職階が下の方でも、例えば「30代講師で平均650万くらい!」みたいなまとめサイト(笑)がでてくる。これも現実味がない。中央値は500万くらいでは?と思ってる。
現実味のある数字がわかるのはこのサイト。自己申告性。ほんとうの大学教員が何人いるのかわからんけど。
http://sp.nenshushare.com/job.php/q1180/
大学による、としか言いようがない現状が見てとれると思う。
同じ39歳でも、720万と390万の人がいるところに大学の闇を感じる。
金の話好きなのはわかるけど、金を多く持ったとしてどうしたいの?いやわかる。この不安定な時代、確かなものは金なのだ。どうしたいとかでなく、持っておきたいのだ。
20代の世間話の時点でiDecoとかNISAとか出てくるのもそういう理由だと思う。
ただ、金のことを考えているうちは自由になれないよなと思う。
筆者は自由が欲しい。なんらかの束縛から逃れるような「〜からの自由」というかたちで言い表せる消極的自由ではなく、「〜への自由」というかたちで言い表せる積極的自由が。
積極的自由は、周囲の社会関係に主体的に関与する。つまり、世界の内に存在することを実感できる。
他者との比較でも、承認欲求でもないところで生活したい。つまり金を無視したい。
学内の研究費申請手続きがめんどくさすぎて、私費で書籍とか分析ソフトウェア買いまくったあげく金欠になってる。
講義も会議もない日は10時半に出勤してコーヒー飲んでたら昼飯の時間来て飯食って昼寝してちょっと研究して帰るってなんだこの生活?????
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parus-minor · 1 year
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「ゲーミフィケーション」と「遊びによる学び」
小学校以降の学習で奨励されている形態は、アクティブ・ラーニングである。そしてアクティブ・ラーニングを行う実践方法に、「ゲーミフィケーション」が導入されているところも多い。
ゲーミフィケーションは、ゲーム以外の文脈でゲーム要素を展開する動作又は方法を指す(Deterding et al. 2011)。
つまり、ゲーミフィケーション自体は「文脈の流用」であり、その目的に学習のみをさしているわけではない。ゲーミフィケーションは、学習に限らず、健康やマーケティング、ビジネスの効率化などに応用される。教育分野のゲーミフィケーションの研究が際立って多いというだけである。
近い概念として、シリアスゲームやエデュテインメント、ゲーミング・シミュレーションなどが挙げられる。
ここで気になるのは、「ゲーミフィケーション」も「幼児教育・保育における遊びによる学び」も、遊戯性を学習へと転換させる制度(?)であるが、何が違って、何が一緒なのか?
シリアスゲームとかエデュテインメントの理論は、McgonigalとかPrenskyあたりが有名か。日本だと、藤本徹とか井上明人あたりがその辺を書いてる。
先ほど挙げた、「ゲーミフィケーションにおけるゲーム要素」とは何を指すのか。「ゲーミフィケーション」として紹介されている事例で使用される代表的な要素は、ポイント、バッジ、ランキングの3要素が圧倒的に多くなっている(文化庁、2020)。
ゲーミフィケーションにおいて学習を目的をする場合においても「何を学ぶか」を先に設定することなる。これがあらわすことは「面白さ」はあまり重要ではなく、ゲームというシステムのなかに学習が組み込まれるということである。ゲームにはゴールが設定されている。クリアしなければゲームでないということである。
つまりは、クリアをするために学習をしなければならない状況を意図的に作り出すことが、学習のゲーミフィケーションの形態となる。
翻って、幼児教育・保育における「遊びによる学び」はどうかというと、「学習目標がない」という一点で上記と異なる。幼児教育・保育が注目するのは、遊びが主体的な活動である、という点である。秋田喜代美なんかが「遊び込む」ことを提唱しているように、主体的な活動の結果、何を学んだかは重視しない。過程を重視する。
けれど、幼児教育・保育で、遊びの過程が重視されることは、「発達上の配慮」だけで守られている気がするのだ。しかし、これは本当だろうか、と思うことがある。
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parus-minor · 2 years
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空から単位が降ってくる
京大ではそう言われるらしいけど、あそこは能力が足りなかったり勉強してないと普通に落とす。空から単位が降ってくるのはむしろFラン私大の方だと思う。
Fラン私大では基本的に単位が取れるように設計されてる。仮に点数が足りなくても、再試や追試をやってくれる。多くの場合上からやれと言われる。
来年ソイツをもう一度見たくないから単位を上げる教員もいる。前にいた大学で会議の場で堂々とそういうこと言って、その場にいた全員からドン引きを食らってた人を知ってる。モラルがイカれてると思う。
また、単位が取りやすくなるかは、学生と教員だけの問題ではない場合もある。例えば、ある大学では、単位は教員のボーナスに関わる問題になってる。落としてる人が多いと、「君の担当授業どうなの?」「教育力がないのでは?」とお上から詰められるし、査定に響いたりする。このように単位取得率が教員の査定に反映される場合がある。それでボーナスに下がったり、昇進できなかったりする。ヤバない?
点数のつけ方は結構工夫がいる。お国から出席点はとるなと言われているので、提出物やテストで100点にしなければならない。必然的に学生がする課題の量は増える。こちらも課題を用意しないといけないし、それを点数化しないといけないので、業務時間が増えてうれしくない。学生もやることが多くなってうれしくない。
テスト一発勝負でも良い気がしてるけど、大体の学生には不評である。頑張ったプロセスにも点数が欲しいらしい。頑張ったプロセスと実際に身につけて欲しい知識・スキルは別に関連しないのだけれども、何かと結びつけだがるヤツが多い。
到達目標があるのだから、それに到達していることが何らかの手段で確認できれば、別に単位をあげても良いと思うんですけどね。
1回目の講義のときに、その時点で到達目標を達成できていれば合格点を取れるようなテストをして、ラインを超えていた人は単位あげるからそれ以降講義来ても来なくても良いよみたいな。
今は全国的に15回ちゃんとやれという圧力があるのでできないのが悲しい。
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parus-minor · 2 years
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2022年度前半戦
外部研究助成金がとれた。研究しないといけなくて、他大学の先生と共同研究の形で進めてる。他人に引っ張ってもらう制度。月一くらいで進捗報告しあってる。
同じようなお誘いは、別の大学の先生からも来てて、研究データを一緒に解釈したり読書会したりしてる。こちらは週一。
読書会では二人が興味のある本を読んでる。事前に読んできたりレジュメを切ってくる必要はなく、その場で音読しながら進めていく。
したがって、本さえ持っていけばいいのだけれど、自分は人より理解のスピードが遅いので、①読書会前にその日進みそうなページをなんとなく読む→②読書会で一緒に解釈しながら読む→③一人で章ごとに読み直してレジュメを作ってまとめる、ことをしてやっと人並みの理解を実感できる。
講義は単独で2科目担当した。去年度の資料が使えるかなと思ったけど勝手が違って3割くらいしか使えなかった。あとは全部イチから作り直した。したがって、週1日を除いてずっと講義資料を作っていた。
学生の質もFランだけどそれなりに上がっており、鋭い質問が飛んでくる。去年の資料を使い回す場合、必ずファクトチェックを行い、どの資料に基づいて提示しているかをわかるようにした。
1回の講義資料を作るために、教科書5冊くらいを比べ読みして、専門書を5冊くらい、論文10編くらい読んでた。時間がかかるけど、理解できるし、理解ができると自信を持って話せるので学生にも安心感を与えることができる。そのあたり気を遣った。
学内政治には首を突っ込みたくないので基本的に大人しくしてるけど、嫌でも巻き込まれる。
誰につくかは平和に仕事する上で大事な要素で、基本的に長いものに巻かれてる。
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parus-minor · 2 years
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個人研究室
所属大学が変わって、個人研究室になった。一国一城の主の感じが出てきて、雰囲気としては非常に良い。
片側の壁に本棚を並べ、そこに専門書と論文雑誌、教科書をずらりと並べた。たまに来る学生や先生がそれを見て、勝手に圧倒してくれる。
学生には決まって「先生、これ全部読んだんですか?」と聞かれるので、「2割くらいしか読んでないよ」というと「なんじゃそりゃ」と怪訝な顔をされる。読書なんか不完全で良いんだよ。素人にはわからんのです。
両隣の研究室は、常に静かで(大体先生もいない)、うちの研究室もシンとしている。
去年共同研究室だったので、常に同室の先生と無駄口を叩いて事務業務が進まなかったけど、研究は進んだ。
それに比べて、今は全て自分を律することができないと、何もできない。気づいたら3時間ウマ娘をやっている、なんてことがここ2ヶ月続いて、さすがにまずいなと思った。遅い。
そういう背景もあって、他大学の先生を巻き込んで、共同研究を進めている。それに関連して、今年度も外部研究助成を申請し、先日採択された。
外部の研究助成は研究後に報告書を書かないといけなくて、全世界に公表されるので、それなりの質を担保しなければならない。
そうやって、外部から尻を叩いてもらうことで仕事する制度を作っている。
今異なるテーマの研究を4本同時並行で進めている。そろそろ回らなくなってきた気がするけど、良い加減学位も欲しいので、色々手を出していく中でテーマが定まれば良い。
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parus-minor · 2 years
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���年度やること
仕事
博士後期課程の院試に落ちたんで、来年思っていた以上に時間ができそう。なので、その時間を有意義なものにするためメモを残す。
新しい職場に馴れる。良好な人間関係の構築。とりあえず寡黙にニコニコしながら、体育会系の後輩的ポジションを演じる。
任期付教員なので、いつ切られてもおかしくない。もしかしたら来年度だけかもしれない。別の大学の先生とも変わらず仲良くする。
母校の講座にも顔を出すようにする。
講義。今年度だいぶやっつけで行ったので、大幅な改善が必要。
外部研究費助成を獲得した研究を進める。できれば12月のうちに書ききるまでいく。
新しい外部研究費助成の獲得。以下1時間くらいかけて調べた候補。
4月:中央教育研究所:教科書に関する調査研究
5月:発達科学研究教育奨励賞:学術研究の部
6月:大川情報通信基金:国内研究助成
8月:公益法人前川財団:家庭・地域社会教育
10月:公益財団法人日本科学協会:笹川科学研究助成
10月:私学事業団:若手研究者奨励金
10月:サントリー文化財団:若手研究者のためのチャレンジ研究助成
1月:公益財団法人三菱財団:人文科学研究助成
おとなしく科研費取れ。無理。
卒論指導にどれくらいの時間が取られるか読めない。
とにかく、大学では目立つことをしないこと。なにもせずに言われたことを粛々とやる。そして、それらと関係のないところで成果を出して褒められると、学部内で一定のポジションが獲得できる。
先輩教員から聞いた話で、今年自分も実感したことだけど、ほとんどの私立大学は学生の教育に力を入れていて(当然)、学部集団としても当然学生に熱心に関わる姿勢が求められる。けれど、一応各先生のポジションというのがあって、なんとなく「教育」担当の先生と「研究」担当の先生に分けられてる。研究担当の先生は、学部内分担業務もそれ相応になっていることが多い。そのポジションを獲得できるかどうかは、最初の1年の自分のスタンスにかかっている。
今の学校では、自分は「研究する側の先生」だと認識されたっぽくて最小限の業務分担しか降ってこなくて心に余裕があってよかった。来年度もそれを目指す。
趣味
休日に籠ることのできる喫茶店を5つ見つける。
会員制のスイミングクラブに入る。ずっとテニススクールに通ってたけど、次に住むところは近くに無いので、別の運動を見つける必要がある。ジムは向いてない。
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parus-minor · 2 years
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退職エントリ2022
退職と次の職場への手続きを進めている。
そのために色んなところ��移動する必要があり、その移動中は色々な感傷に出てきてしまう時間でもある。
社会?に出てから「辞める」ことに難しさがあることを知った。それなりに段取りを踏まないと辞めることができないらしい。
民法では「退職の申し出は2週間前まで」になってるし、大体の会社の就業規則には「退職の申し出は1ヶ月以上前」とか書いてあるだけだし、「辞めます」と申し出て一ヶ月後から行かないようにすればいいだけでは、と思うのだけれども、そういうわけにはいかないみたい。
退職願とか退職届だって、状況に応じて必要なだけだし、義務的に出す必要はないはずで、それが文化になっているのが不思議で仕方がない。
円満に退職するためにそれなりの段取りと手続きがいるっぽいと知ったのは、上長に「辞めます」と言って認められた後だった。
まだ公にはできないけれど、仕事上同僚に先に伝えておく必要があって、何人かに個人的に報告した。
そのときに「自分も辞めたいと言ったのだけれども辞めさせてもらえなかった」という人が結構いたのだ。「どうやって認めてもらえたの?」と聞かれた。びっくりした。
「次のところの内定決まったので辞めますと言いに行ったら、あっさりオーケーされましたよ」と言うと、「やっぱりそうしないとだめかぁ」と言ってた。
隣の研究室の先生は、他の大学の公募に出して二次面接まで行ってたのだけれど、それを上長が聞きつけてその大学に電話をかけてストップさせられた、と言っていた。
別の先生は、博士後期課程に通おうと思っているので退職したいと申し出ても、認められなかったと言っていた。博士後期課程の試験は受けたけど結局落ちたらしい。良かったのでは。
また別の先生は、来年辞める予定だと言っていた。聞けば、3年前から上長と交渉していたようでやっと来年なら良い、とやっと認められたらしかった。水面下で他の大学の先生に声をかけて引き継ぎの準備を進めているらしい。
これらの先生方は40歳前後で、教歴も10年そこそこになって、学内運営でも中心的な役割を担う頃だ。ここらあたりが最後の異動のチャンスで、次に異動した大学では定年まで身を置くつもりで動いている。そのためにはお上との駆け引きが必要らしい。他人事みたいだ。
あと、報告周りをしてた時、ある先生が今年度で契約が切られることを知った。え?教育課程上を必要な講義担当だよ?むしろ辞めさせてもらえないとか言ってる先生のなかに、教育課程上全く必要のない講義を担当している人いるけど?
どういった論理で動いてんのか分からん。あれか?運営の人たちと仲が良いかどうかか?でも、嫌われてるしな...学内の委員会活動頑張ってるとか?いや毎回会議を引っ掻き回して委員全員がうんざりしてるの見てきたし...マジ分からん。どうなってんの?
辞める前に爪痕を残す気もないので、粛々と引き継ぎしてる。
雇い止めにあった先生と一緒に退職準備を進めている。まだ次の就職先が決まってないらしい。まじで任期付き大学教員は闇。怖すぎ。1年気を抜いたらフリーターになるとか。十年後に僕も同じ目に合うかもしれない。一度コケたら二度と戻ってこれない恐怖がある。
僕らの世代は、30代のうちに無期契約を獲得できないと人生詰む気がしてる。
次の就職先で無期契約が決まってる先生は、そうした準備を数年かけてやってたらしい。色んなところにパイプを作って、分かりやすい研究業績を作って、準備をしていたと言っていた。僕もそういうことをしないといけなくなるのか。
この不安定な職について、研究の姿勢に打算的な考え方が入ってきた。生きるために研究してる。そこに新しいことを発見したいとか、社会課題を解決したいとかいう気持ちがなくなってくる。
最近、外部の研究助成金が獲得できた。「外部の研究費を獲得できるかどうかは、大学教員として評価される指標の一つだよ。これで数年は安泰だね」先輩の研究者が言っていた。
いや違う。
今年はたまたま倍率が低かったのだ。例年なら3割くらいだった採択率が、今年に限って7割くらいだったのだ。形式通り書いてれば通るわけで、ただ運が良かっただけなのだ。
けどそうした運を味方につけて僕は大学教員を続ける。思えば、来年度から働く大学の公募も、たまたま力のある先生の口利きがあったからだ。多分書類選考には20人くらい応募してたと思われる。けど、実際に面接選考に呼ばれたのは僕だけだった。教えてくれた先生が学部長に話を通していたらしい。今年しかチャンスがなかった。運が良かった。3〜5年はそこにいさせてもらえる。多分その次もまだ大丈夫。けどその後はもうない。
あと10年くらいはそういう恐怖に追われながら、生活を続けることになる。ましてや家庭を持つとか現実味がない。
先日、T大大学院でPh.D.を取った友人がいて、この前4時間くらいLINEのやりとりをした。「現代文明の基準レベルで家族全員を幸せにさせるとか無理。幸せのハードルが高すぎる」「今後長生きは金持ちの特権になると思う」みたいな話をした。まあそうだよな。
やはり金の価値の脱構築が必要な一方で、一定の社会的な承認を得るためには相応の消費生活を余儀なくされるところに矛盾を感じる。
社会的立場と自己の欲求を満たしながら、どこまで生活のレベルを落とすことができるかという人生ゲームを行っている。今後、自分が実存を感じることは何かを、明確にしておく必要がある。そして、それは金をかけないと実現できないことなのかも考えておかないといけない。
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parus-minor · 2 years
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テキスト用テキストメモ2
なんで歴史を学ぶ必要があるのでしょう
「巨人の肩に乗る」って知ってますか?我々が今ここで考えられることなんてたかが知れているんですよ。頭のいい人が考えてきたことをダイジェストで知っておく方がコスパ良くないですか?
不易と流行という考え方もあります。
基本的に、保育のあり方は社会の要請の影響を大きく受けます。
こんな人を育てたいとか、こういう能力を身につけていてほしいとか。
現在(2022年)であれば「VUCAの時代」という社会的認識からくる、社会情動的スキルとか非認知能力とかです。保育用語に置き換えると「資質・能力」になります。
当然10年もすれば変わるでしょう。その時に、じゃあ次に何が必要かを知るためには、これまで何をして、どう良くてどうダメだったのかを知っておくと建設的に物事を考えられると思いませんか。
なので、保育の歴史的変遷を簡単に整理しておきましょう。
『保育学講座』の変遷図を1ページ丸々使用する。
基本的に、社会的要請とワンセットで考えてみましょう。
保育内容もそうですけど、その内容をどのように実践するのか(方法)も、振り子のように行ったり来たりしています。
その流れを捉えることで、「いまここ」がどっちに偏ってるかを知ることも重要でしょう。
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parus-minor · 2 years
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テキスト用テキストメモ
タイトル通りです
節のポイント
評価は、次の保育をより良くするために行う。
子どもの「出来」を見るのではなく、なんだ...?
優れた保育者は、自身の保育に関する振り返りを残しています。例えば、倉橋惣三は『育ての心』で「こう」言っているし、津守真は『保育者の地平』で「こんなこと」言っています。
これらは、保育の評価における優れた考え方を示しています。
また、幼稚園教育要領には、評価に関して、次のように示されています。
「保育者の個人評価です」
こう記されているように、保育者はその仕事としてより良い保育ができるように、評価・改善のプロセスを行うのです。
PDCAサイクルってやつです。
では、どのような視点から評価し、それが次の保育につなげていけばよいのでしょうか。
事例を挙げてみましょう。
そもそも一口に評価って言っても周類があってさあ、、、まず形成的評価ですけど、これはこうでー、、、
こうやってくんや。終わり
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parus-minor · 2 years
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絵本のストーリー構造
上司から「絵本の読み聞かせで外部向けの講座やってね」と言われたので、専門外ですけどやらないといけない。やりますよてやんでい。
いきなりできるわけないのでそのメモ。
良い絵本とは何か
「良い絵本」ってなんでしょう。でもこの問いは、対象年齢とか読む場所など、考えるべき要素の幅が広すぎるので、ナンセンスな問いだったりします。なので少し範囲を絞りましょう。
「保育における読み聞かせに向いてる良い絵本とは何か」くらいにしてみましょう。話しやすくなりましたね。
保育の時間に使う絵本なので、絵本は教材になります。なので、読み聞かせにも保育的意図があるはずです。
そのため絵本の内容は「苦い薬と甘い飴」が入っている絵本が良さげです。「苦い薬」とは、こちらが伝えたい教訓とか子どもが乗り越えるべき課題とかがあたるでしょう。「甘い飴」は面白さや欲望の発散などです。
そして、これを無理なく両立させるストーリープロットが「行きて帰りし物語」です。
これが、この時間のテーマです。
絵本を読む。『おふろだいすき』
行きて帰りし物語の構造
導入には、主人公の課題や不満が表現されます。
次に、何か不思議なことが起こって、別の世界へと誘われます。
現実と仮想現実をつなぐしかけのことを、エブリデイマジックと呼んだりします。
主人公は、仮想現実で、自らの課題を克服したり不満を解消したりします。
「行きて帰りし」ですから、行きっぱなしということはありません。ある程度すると、元の世界に帰ることになります。
ここでも、仮想現実から現実へと戻るしかけがあります。
元の世界に戻ると、元あった課題や不満をクリアした状態になります。
行きて帰りし物語と保育
教育では、こうした絵本の内容と今の子どもたちが抱えている課題をリンクさせます。
質の良い絵本には、こうしたプロットがちゃんと絵本や文章にしかけられています。
では、実際に探してみましょう。
絵本を読む。『かいじゅうたちのいるところ』
以下メモ
良い絵本とは・・・ハズレがないのは、長年子どもたちに愛されているベストセラー絵本。
絵本の内容分析をして、��む時のポイントを理解する。
読むことの意味
「鏡」としての読書:自己を見つめる契機→「自分作り」
「窓」としての読書:自己が対峙する「世界」→「他者」と出会い受け止める契機である→「世界作り」
社会的な営みとしての読書=「媒介」としての読書:「仲間作り」
絵本の内容
絵と文章の関係
左から右への動きの流れ
日常→非日常→日常を経る中で人物が変容していく物語→行きて帰りし物語
エブリディ・マジック(日常の魔法)
ファンタジー教材、動物絵本
「行きて帰りし物語」の構造を持つ絵本の例
かいじゅうたちのいるところ
どろんこハリー
もりのなか
あひるのピンのぼうけん
おふろだいすき
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parus-minor · 2 years
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2021年
結構チャレンジングな一年だった。
ダイジェスト
1月に教員公募に応募した。1月末に連絡があり、2月に面接試験を受けて、その月に正式な採用が決定した。
3月は仕事もそこそこに、ひたすら講義準備。テキストを3冊くらい比べ読みしながらシラバスとか授業スライドを作成した。
3月末に引っ越した。
4月から全く知らない土地で働き始めた。人間関係はゼロ。新しく再構築されるので、とにかく良い人を演じた。これが最後まで効いた。
5、6月は講義準備と講義と学内業務に追われた。研究をやっている暇がなかった。
7月から学生の頃所属していた大学院のゼミに、オンラインで参加するようになった。研究が進み始めた。いくつかアイデアが浮かんで、簡単に論文の元となる文章を書き始めた。
8月にある先生から博士課程を受験しないかと連絡がきた。ついでにとある大学の公募に応募しないかと誘いもきた。
9月、その先生にノせられるがままに、公募書類を作成し郵送した。この月は学生が夏季休暇なので、読みたい本を読んだり研究をしたり色々ことが進んだ。
10月は講義が始まり講義準備と講義に追われた。少しは勝手が分かってきて、1週間の時間の配分ができるようになってきた。講義準備に使う時間が平日5日のうち2日で良いようになってきた。
11月、教員公募に応募していた大学の面接を受け、内定をいただいた。すぐに指導予定教員と博士課程の研究計画作成を加速させた。今いる大学の上長に辞意を表明した。こちらも向こうも5年くらいはいるつもりでいたので、色々と申し訳ない気持ちもあったが、同僚の若手教員からの後押しは心強かった。
12月、後輩の論文投稿を手伝いつつ、自分の論文投稿準備と博士課程受験の想定問答集を作成した。その間に講義や学内業務に取り組んだ。
所感
理想的な生活。生活と仕事の区切りがない。土日も専門書読んで勉強や研究をするし、平日昼間からゲームしてる。
周りから求められるだけの出力はできてるからそれでいい。
自ら積極的に切り拓くべきことと、受け身で波に乗るべきことをうまく配分し、自分の理想とする方向に着実に進んでいる実感がある。
新しい論文を書ききれなかった。この辺は、一人で論文を書く能力が能力が足りない証拠。博士課程を受験するのは、自らそうした環境に身を置くことで、一人前の研究者になりたいという思いが多少なりともあったから。
反面、博士課程で下手にテーマに絞られるよりかは、修士のまま大学教員を続けて、自分の書きたいテーマを書いたり、共同研究に乗ったりするのでもいいかなとも思ってる。
自分だけで勤勉な研究生活を管理するのは厳しいので、いずれかのかたちで他者に巻き込まれる必要がある。
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parus-minor · 2 years
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陰謀論の哲学的治療
陰謀論者との出会い
最近、親しかった友人から久々に電話があった。ご無沙汰な友人からいきなり連絡がある。これだけで十分怪しさを感じてしまうのは、筆者の友達付き合いの悪さが由来するのか、たんに大人になったからなのか、どちらなのだろう。
とにかく電話で久々に話すことになった。開口一番「ワクチン接種した?」と聞いてくる。おおう。なかなかホットな話題ですね。「受けたけど5Gには繋がらなかった。残念だ(笑)」と冗談を言うと、「あー、受けちゃったか...」と残念そうにしている。立て続けに「ワクチンを接種して死亡した人がたくさんいる」「ワクチンは製薬会社の金儲けだよ」など熱く論を展開される。思わず「それはどこで仕入れた情報なの?」と聞くと、Youtubeだと返される。思わず膝が崩れ落ちる。「3回目があると思うけど、(筆者)は受けないでね!」と謎の説得を受ける。
続けて、話は日本の歴史に変わる。最近、本をたくさん買って読むらしい。知識欲があることはとても良いことだ、と思っていたら、「『日本の歴史の真実(名前忘れた)』を読んでいて、敗戦の際に消された文化が...」と言い始める。膝に続けて上体の力も抜けてorzの状態になる。
「真実」とか「真相」とかが冠につくまともな本があるわけないだろ目を覚ませ。司馬史観よりひどいわ。国立大出てるのに何を学んできたんだよ。...と言いたくなるがグッと耐え、「せっかく色々と知りたい欲があるんだから、とり���えず〇〇先生とか読むといいよー」と学術書を紹介した。
その後も「精霊が見えた」とか「オーラがどうの」など、スピリチュアルの満漢全席を小一時間味わうハメになった。
電話が終わってから、こういう時にどういえばいいのだろう、と考える。安易に陰謀論を論駁しようとすると、ムキになってしまい、かえって深みにハマると聞いたことがある。
陰謀論者の論理
ざっくり言うと、陰謀論は複数の現象をある要因に統一する論展開である。自分にとって納得できない、都合の悪い、不安を煽る諸現象になんとか折り合いをつけたくて、複雑な過程を吟味することなくすっ飛ばして、自らにとって明快な原因を見出すものである。
陰謀論は、ソースを無限に生成できるため、「それっぽい」論が無限に生成される。ここでソースの真偽は問われない。自分にとって「納得できる」「分かりやすい」「都合の良い」情報であることがもっとも価値があるからである。したがって、こちらがどれほど正しい情報を示しても、「そうは言うけど、まだ明らかになってないけど、ともかくあるのだ」と、それらは無効化される。
このように、陰謀論者を救おうとするのは難しいと言われる。次から次へと原因を生成するからだ。これらの論展開に反駁の余地があっても、すぐに新たな原因というより詭弁を生成する。
最後まで反論しきっても、陰謀論者たちは決まってこういうのだ。「確かにそういう事実はあるけれど、ともかくそういう陰謀があるのだ」。
決定論者の哲学的混乱
さて、われわれ��どのようにして無限に論を生成してくる陰謀論者に対抗し、陰謀論に陥ってしまった親しい友人たちに、帰ってくるよう有効な説得をすることができるだろうか。この辺り、ウィトゲンシュタインが1941年にケンブリッジで行った講義が参考になりそうだ。
古田哲也のウィトゲンシュタイン研究に依拠しながら論を進めていく。
ウィトゲンシュタインは、この講義で自然法則にる決定論を問題とする。
決定論とは「人間の行動は自然法則に支配されており、本当は自由意志など存在しない」という主張である。
決定論は、近代自然科学研究と大変相性が良い。というのも、近代自然科学研究の基本的な考え方は、目の前で起こっている自然現象の法則を明らかにすることが目指されるからだ。それらの研究のモチベーションは「まだその原理は明らかになっていないけど、ともかく何らかの原理法則あるのだ」という信念である。そして、その信念よって、多くの自然現象が数理的に解き明かされてきた。
ここまでは良いことだ。問題は、決定論を人間の行動に敷衍してしまうことにある。
この論理は、無敵の論理である。なぜなら、どんな都合の悪い証拠が出てきても無視できる、反証不可能な主張であるからだ。
ある自然法則(主張)に対する反証となるような現象が見つかったとしよう。このとき、決定論者は次のように言うだろう。
「では、少なくともこの現象については当該の自然法則は誤りだが、ともかく別の自然法則があるのだ」「今は我々は知らないけれど、ともかく何らかの自然法則に支配されているのだ」
このいわば無敵の反証不可能な主張は、もはや「主張」と値するものにすらなっていない。
決定論者は「当該の現象を説明できる自然法則がどのようなものかを我々が知っていようがいまいが、ともかく何らかの自然法則があらゆる物事の進行を決定している」と語る。そうである限り、決定論者の物言いは、どんな反論や証拠を示しても揺らがない、あるいは、どんな反論や証拠も自分の言っていることと一致していると抗弁できてしまう。
石の落下運動や天体の運行が数式によって法則的に記述されてきたのと同様に、人間の行動を正確に予測する自然法則もいずれは見出される、「それはたんに時間の問題であり、程度の問題に過ぎない」というのである。
しかし、人間の行動を正確に予測する自然法則なるものの発見が、「いつ」「どのように」成されるかも、「いつか」成されるかどうか自体も、何ら分かっていない。人間の行動を正確に予測する自然法則はいつか見出されるという予断には根拠も中身もない。
したがって、「人間の行動は自然法則に支配されている」とか「人間の行動は石の落下や天体の運行みたいなものだ」などという物言いは、物事の見方や活動の仕方を曖昧に、方向付けているだけである。それらの文字列によって喚起されるイメージが意味ありげに聞こえるだけで、人間の行動をどのように見るか、人間の行動に対してどのような探究や活動を行っていくか、その方向性を大雑把に示すだけである。それで満足してしまう。
その記号列の内容そのものが指し示すものは意味不明であり、その記号列を用いてなんらかの意思表明をしているに過ぎない。
これは、自然科学の探究を進める上での大枠の方針を述べているにすぎない、あるいは、科学主義への一種の信仰告白にすぎないのだ。
哲学的混乱の自覚を促す
ウィトゲンシュタインは、このような哲学的混乱は、本人の哲学的治療によって解決されるべきとした。
彼は、決定論者に対して次のように要求する。
自分達が発している記号列が自分達の望み通りの意味を有しており、たんなる像を表しているのではなく実質のある主張を行っているというのなら、その具体的な文脈を自分で提示して欲しい、と。
決定論者が口にする記号列が、彼らの期待するようなかたちで意味を成す文脈は決して存在しないとアプリオリに断言することはできない、可能なのは、決定論者が自分で納得し、諦めることである。
すなわち、自分は少なくとも有意味な命題を発していたつもりだったが、それは勘違いだったと認めることである。
その意味で、決定論に対するウィトゲンシュタインの議論は、相手の自己治癒の手助けである。自分の思考の混乱に本人が気付くのを手伝うこと、そこに手法の特徴がある。
陰謀論からの脱出
陰謀論も同じく、「意味ありげ」なことを言って「本当に言いたかったことは何か?」と問うべきである。
哲学は、諸現象を抽象化し吟味することで、より妥当な解を見出す行為である。それぞれの欲望や、思惑や、文脈が入り込まない「つるつるの氷の上」の議論である。しかし、それが我々の生活に降りる時、「ざらざらの大地」に復帰した時、それらの概念はうまく適用されない。なぜなら、われわれの日常生活では、言葉と意味は一対一対応にないからである。言葉は文脈によって多様な意味を持つ。
何かに原因を求めたくなった時、そこで自分が本当はどんな具体例を思い描いているのかと問うこと。
普遍的な意味を持つと言い張る像について、その像はどこから取って来られたのかと問うこと。ウィトゲンシュタインはそれを繰り返し述べている。
その物言いは、何を言いたかったことなのか?その物言いは、具体的にはどういうことなのか?日常のどういう場面で、適用されているのか?
それらを問うていくことは、本人が周りを見てそのズレに気付くプロセスになる。
陰謀論者自身が気に入る具体例は何かあるのだろうか。自分でどんなに頭をひねって探しても見つからなければ、陰謀論者はやがて、そうした例は存在しないと諦めるかもしれない。その諦めは、陰謀論者が自分でその看板を下ろすことにつながるだろう。
これらの自己治癒により行われるほかない。
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parus-minor · 2 years
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陰謀論者と哲学者の距離はそんなに遠くないと思ってる。
むっちゃざっくり言うと、陰謀論は複数の現象をある要因に統一する論展開である。自分にとって納得できない、都合の悪い、不安を煽る諸現象になんとか折り合いをつけたくて、複雑な過程を吟味することなくすっ飛ばして、自らにとって明快な原因を見出すものである。
哲学は、諸現象を抽象化し吟味することで、より妥当な解を見出す行為である。それぞれの欲望や、思惑や、文脈が入り込まない「つるつるの氷の上」の議論である。
しかし、それが我々の生活に降りる時、「ざらざらの大地」に復帰した時、それらの概念はうまく適用されない。なぜなら、われわれの日常生活では、言葉と意味は一対一対応にないからである。言葉は文脈によって多様な意味を持つ。
陰謀論と哲学は、諸現象をまとめ、そこに一般性を見出し操作しようとする営みであるという点がよく似ている。乱暴にいえば厳密性が異なるだけだ。
陰謀論者を救おうとするのは難しいと言われる。次から次へと論を生成するからだ。これらの論に反駁の余地があっても、すぐに新たな論というより詭弁を生成する。
ではどう取り戻すのか。この辺り、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の議論が参考になりそう。
日常の特定の文脈における言葉の使われ方から立ち上がってくる像を、その言葉が使われるすべての日常の文脈に当てはめるのは危険だ。像に物事の本質を見出し、像に現実の方を適合させることは、現実を歪める「無茶苦茶な説明」に繋がってしまうが、哲学者が普遍的で形而上学的なことを語るときに行なっているのは得てしてそうしたことなのだ。
というニュアンスのことを言っている。
普遍的で形而上学的なことを言いたくなった時、そこで自分が本当はどんな具体例を思い描いているのかと問うこと。普遍的な意味を持つと言い張る像について、その像はどこから取って来られたのかと問うこと。ウィトゲンシュタインはそれを繰り返し述べている。
これらは自己治癒により行われるほかない。
これ、色々な現象の治癒に使える。最近だったら、「経済成長不要論を叫ぶ高学歴を批判する」文脈とか流行りだけど、これ適用すると「誰が経済成長不要論を言ってるの?主語が大き過ぎひん?」と返せるわけである。
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