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Precarious Life
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precariouslife-blog · 8 years ago
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空転する主体と主体化の場―ラッツァラート『記号と機械』への書評として―
憂鬱さや無気力、気怠さを抱えながら、ただ生きつづけていくといった生の形式が一般化して久しい。すでに多くの人がそのことを漠然とであれ感じながら日々を送っており、それによって自分たちが何かに攻撃されているという認識を持つようにいたっているように思��る。しかし、ただのっぺりとつづく死の瞬間までの時間を、その場をやりしのぎながら生きていくことを要請するこの社会のもとで生きる私たちの生の有り様に、ここ最近、微妙な変化が訪れているように感じる。それは、生の形式自体が社会的力の変化によって新たな形式に変えられるといったものではなく、何者かになれという命令を受け入れることによって、何者かになることを否定される脱—主体化の力学が生む屈辱の感情に、人間が耐えきれなくなっているということを意味しているのではないか。その屈辱の感情は、その規定力に抗うための主体化を要請する。この主体化を自殺に見たのがビフォであった。
 二〇〇一年九月一一日以来、自殺こそがわたしたちの時代における決定的 な政治的行為となった。人間の生命が無価値になるとき、屈辱はもう耐え難く 爆発しそうなほぼにまで育つ。このとき希望はおそらく、自殺からのみ生じうるのである。[1]
こうしたある種の乱暴性を伴った主体化への欲求は、近年自殺や自爆テロのみに限定されない広がりを見せているように思える。この主体化の様式について考え、批判的な介入を構想していくとき、ラッツァラートの『記号と機械』というテクストは、一つの重要な参照項となりうるだろう。ここでは自分の関心にしたがいつつ、このテクストに応えていきたい。
1 まず、ラッツァラートはドゥルーズ・ガタリのテクストを参照しつつ、社会的服従と機械状隷属の概念を整理する。それは特に機械状隷属概念が、現在の資本主義分析に有用なものとなっているからだ。
ここでいう社会的服従とは、人間に性別や身体、職業、アイデンティティなどのカテゴリーを当てはめ、個人化された主体を生産することを通して、人びとに主観性を装備させる権力の様態を意味する。そこでは人間という主体の間で交換を可能にすると同時に、人間と他の存在は区分される。
一方、機械状隷属は人間と他の存在の間に区別を設けず作動する権力の方式のことである。機械状隷属の視点から見たとき、例えば個人と機械は連続しており、共に交換可能な部品として見なされる。つまり、機械状隷属はデーター、数値化する前—個人的かつ超—個人的に作動し、主体を解体する。主観性は、この二つの装置の交錯点において生産される[2]。
では、主観性にはどのような形式がありえるのだろうか。以前であれば、それはコミュ��ストや民族、ブルジョア、労働者といった形式を兼ね備えていた。しかし新自由主義が全面展開し、冷戦以降のイデオロギーの無効化という言説の旺盛と機械状隷属の浸透という文脈のなかで、そのような一連の主観性の形式は徐々に消滅しつつあり、一方で「企業家の主観性」(フーコー)が遍在化するようになった。「企業家の主観性」は、既存の主観性の形式を破壊し、自己責任のもとに自己を管理、運営する主体を要請する。ここではフーコーと問題意識を共有していたドゥルーズを参照しよう。
工場は個人を組織体にまとめあげ、それが、群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいていたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健在な競争心だと主張するのである。しかもこの敵対関係が個人対個人の対立を産み、個々人を貫き、個々人をその内部から分断するための、じつに好都合な動機づけとなっているのだ、「能力給」にあらわれた変動の原則は、文部省にとっても魅力なしとはいえない。じじつ、企業が工場にとってかわったように、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているのではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである。[3]
変動相場のような数字の変化が個人の生のうえに押しかかってくる。その局面局面において存在が点数づけられる。そのような点数の変動の波を乗り切るために自己を管理、運営していくことが人生として認識される。こうした状況が一般化された状況を、私たちはいま経験しているのではないか。人の価値がそのときどきの数字によって測定され、さらにその数字を参照しながら他者を見通していく。そのとき、数字によって自分の価値が測られることに対する屈辱は際限なく育っていく。
2 しかしどのような世界意識が、私たちが機械状隷属という装置を知覚することを妨げているのだろうか。
例えば、イタリアの映画監督であり思想家でもあるバゾリーニを参照しつつ、ラッツァラートが述べたつぎのような言葉にその問いを考える糸口があるように思われる。
 文化としての自然は、表現力をもった自然である。文化としての自然は自らにたいして語りかける。「樫の木」という言葉を発する人と「樫の木」そのものとのあいだには「いかなる連続性にも解消されない連続体」がある、「樫の木」そのものは「樫の木」という記号の指示対象ではない。それは記号そのものであり、図像的記号なのである。まったく同じように、生きている人間は「人」という記号の指示対象ではない。「命ある―図像的」記号そのものなのである。[4]
人間が主体を持った存在であるのと同様に、自然もまた「自らにたいして語りかける」主観性を持ち合わせた存在であった。自然への畏怖の感情、歴史や神話には、人間以外の存在にも主観性や表現の主体性が備わっており、その諸主体の表現の結晶形によって現実が構成されているということを認識させてくれる機能が内在していたはずである。しかし諸技術や機械の発展とともに肥大化した科学的合理性は、そうしたものを非合理性の名のもとに排除し、神話や歴史をフィクションとして、自然を商品生産の対象—道具として人間に従属させてしまい、人間という存在意識の優等性だけが過剰に肥大してしまった。ある精神病理学者のつぎのような言葉は、その点で重要だ。
「<歴史>的主体」にあっては、<想起>の主体は感覚的主体ではなく<歴史>の力自体である。<歴史>の力が、言語という有機的組織の持続力そのものが人間に<想起>させ、感覚に酔った自然人を歴史的存在にしてくれるのだ、という健全な謙虚さがまだ自覚されていた。この謙虚な自覚が地上から消え去りつつある。人間が<歴史>を所有し、<生命>的主体が<歴史>を作るのだ。われわれが言葉を自由に使用し、必要な新しい言葉を作るのだ。このような、あまりにも感覚的な倒錯から免れている謙虚な、均衡のとれた精神は殆どなくなってしまったのではないか。[5]
歴史もまた主体であるということ、そしてそれを想起するのは人間ではなく、歴史が感覚的存在である人間に「<想起>させる」ことを通して、人間感覚への盲従を相対化し、「思い上がり」を抑制する効用をもたらしてくれていたことが、ここでは記されている。
今日、事態は自然からの一方的な資源の引き出しにとどまらず、自然それ自体を、そして歴史それ自体を商品とすることによって、その「トゲ」を跡形もなく消し去り、自らの使い勝手がいいようなものへと意図的に変成させるというところまで進んできている。人間は自然の荒々しさや、自らを構成する歴史の暴力性とそこに隣り合わせにある亀裂性との相互交流を通じて自己を変形させ、知恵を絞り、抗いながら生きてきた。その喪失が示すものはいったい何なのか。そしてその回復において、私たちはどのような新しい関係を結んでいくことができるだろうか。
3 ラッツァラートが言うように、監視社会においては言葉が普及することによって、意見の一致、画一化が推し進められる[6]。言葉の伝達には、デジタル・ネットワークやテレビ、動画、広告などの形式が採用される。こうした言葉の普及はただ単に外在的な形で展開されるのではない。それは人びとの知覚に影響を及ぼす。つまり、言葉を受容する人たちはそれをそのままの形で受容するのではなく、多かれ少なかれデジタル・フラット粒���によって変成されたものを受容するのである。
もはや私たちは、生の言葉に感動しなくなりつつある。私たちが興奮するのは、編集された後にデジタル・ネットワーク上にアップロードされた言葉であり、それを確認するために私たちは現場へといくようになっている。
レーニンの時代、彼の演説はそれを聞くために通りに集まった人びとの感情を高まらせ、興奮を促し、その感情はさまざまなところへ伝わっていった。今日、演説は道路から消え去りつつある。人びとの胸を打つのは、加工されデジタル・ネットワーク上にアッ��された動画媒体であり、スマートフォンのなかでそれは再現されている。しかし、そこには限界がある。動画は人間の目を特権化し、それ以外の知覚を遮断する。デジタルな連絡細胞の網は、人と人の距離を近づけながら同時に、その間に分断線を引いている。私たちに問われているのは、それに対して物質に依拠した集団的情動の論理を汲み取ることができるかどうかということなのかもしれない。
4 旧来の主観性の形式が消失してしまい、「企業の主観性」を絶対的なものとして受け入れることを余儀なくされた状況を過ごしてきた結果、人間はもはやそれにも耐え切れなくなりつつあるのではないか。そして主体化への欲望が触発され、そこに存在のすべてをかけようとするとき、ネットワーク状に過剰に埋め込まれた言葉によってその者は捕えられ、そこを食い破ろうとし、しかし逆に食い破られてしまう。こうした「主体の暴発」とでもいうべき事態を、私たちは目にしている。そう考えるとき、主体化に介入し、既存の主体化とはべつの主体化の構想することが求められていることが私たちの課題として浮き上がってくる。
しかし、そうした主体化への介入、あるいは新たな主体化への構想という課題への応答は、おそらく暴発する主体の言葉を批判し、それに違った言葉を対置することによってのみでは達成しえないだろう。ラッツァラートが何度も述べているように、言語ではなく人間存在の非言説的な部分への注目が必要なのではないか。「なぜなら主観性の変化の基盤には、自己、他者、世界の存在論的理解と肯定があり、この存在論的な非言説性の結晶化を起点にして、新たな言語、新たな言説、新たな知識、新たな政治の増殖が可能となる」[7]からである。
彼がバフチンの発話理論を参照しながら、文法—統語—文語と発話—口語のあいだにある差異を考察していることに注目したい。発話は、人びとがメタ言語や規範が生みだす構造的な主体へと行為遂行的に主体化していくものではない。つまり、言語行為と主体化のあいだには溝があるのである。統語論や文語を前提とする言語行為論は、発話行為が「前—人称的な情動の力とポスト—人称的な倫理—政治的な社会的力」[8]を現働化するものであることを決定的に見落としている。つまり、発話の交錯のなかで生まれる応答、身振り、感情の流れ、理解ということを省略してしまう。バフチンの議論を確認しておこう。
発話という���のは、すでに外部に存在している究極的な特定の事物について考えることでも、あるいはそれを表現することでもない。それはつねに、まだ存在しないものを創造することであり、反復不可能なまったく新しいものを生みだすことなのである。さらにそ���はつねに価値(真実、善、美など)と何らかの形でかかわる。ただし生みだされるものはつねに所与のもの(言語、観察された現実の現象、経験したことのある感情、話をする主体自身、その世界観に定着したものなど)から生みだされる。所与のものは、生みだされるもののなかで完全に姿を変える。[9]
したがって主体化への、あるいは「主観性の危機」(ガタリ)状況への介入のためには、新しい言葉の創造することではなく、まず「主観性の変化の基盤」にある「自己、他者、世界の存在論的理解と肯定」の地点、非言説的な情動の結晶点を捉えることが必要なのである。それは発話が生みだす刷新性を帯びた行動に目を向けていくことでもある。
[1]フランコ・ベラルティ(ビフォ) 『プレカリアートの詩』櫻田和也 訳、河出書房 2009,p86 [2]マウリツィオ・ラッツァラート『記号と機械』杉村昌昭 松田正貴 訳、共和国 2015,p23,p39-40参照 [3]ドゥルーズ「追伸―管理社会について」『記号と事件』宮林寛 訳、河出文庫 2007,p359-360 しかし、工場のシステムのなかでの集団的抵抗を「有利」と把握してしまうドゥルーズの視角は図式的すぎる。労働者間の敵対性は、企業による「敵対関係の導入」とはべつに存在していたはずである。この「敵対性」概念をどのように練り上げるかが重要なポイントとなるだろう。 [4]ラッツァラート 同上 p165 [5]渡辺哲夫『二十世紀精神病理史序説』西田書店 2001,p138 [6]ラッツァラート 同上 p174 [7]ラッツァラート 同上 p27 [8]ラッツァラート p218-219 [9]『ミハエル・バフチン著作集八』
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precariouslife-blog · 8 years ago
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[翻訳]<いまーここ>から脱北者を思考する
<いま−ここ>から脱北者を思考する(1)                            キム・ソンギョン ・難民、場所を失いし者  難民の辞典的意味は、苦境に陥った百姓である。難は憂い、災難、病乱、戦乱などを意味するものであり、民は人民もしくは百姓を意味すると同時に、祖先代々に特定の場所で生きてきた者が、自分のことを指し示す代名詞でもある。難民という用語は、政治、社会、経済、環境的災いによって、自分の故郷や母国を離れた者たちを称するものとして用いられているが、その文脈は根づいた場所を剥奪されるほどの災禍的情況を意味すると同時に、百姓にとっては自分たちの場所を離れるほかない状況が「難」それ自体だという意味も含まれている。似通った英語で難民を意味する「refugee」は、フランス語において避難所を意味する「refuge」に起源を置いているのだが、危険や痛みのない「隠れ場」、「待避所」を意味していたものが、20世紀の世界大戦を経つつ、故郷を脱出し、安全な場所を求める者たちを称する用語に変形され使用された。似た意味として使われる概念が、’displaced’あるいは’uprooted’ということから推し量ると、難民は故郷という場所を剥奪された者もしくは自身が根づいていたところから追放された者を意味するものだ。それほど難民という概念は、場所と深い連関がある。
 ここでの場所は単に物理的空間、あるいは国籍のような政治的地位を意味するものだけではない。場所は時間が蓄積された社会的関係が幾重にも積み重ねられている象徴的空間であると同時に、個人だけの意味で構成された物理的実体でもある。自分だけの場所を剥奪された者たちは、単に故郷あるいは「家」を失うにとどまらず、自分たちだけの生、社会的関係、意味体系、歴史、そして未来の可能性まで根こそぎ失うようになる。場所を剥奪された難民は、自我の根幹を失った者だ。場所を剥奪される経験は、アイデンティティの大きな破裂を作りだし、以前の自我に戻ることを難しくさせる。ある理由からたとえ難民が定着することのできるまたべつの空間を探したとしても、決して彼/彼女たちを「主体」にする場所を復元することも、彼/彼女たちの破壊されたアイデンティティを回復することも簡単なことではない。
 しかし大部分の難民に関する議論は、難民が失った場所の時間性や文化的脈絡を十分に考慮しないまま、国籍や近代国民国家の枠に押し込めて解釈する傾向が存在する。このような接近において、難民と国民は対蹠点に置かれるようになり、難民の問題は究極的には彼/彼女たちが「国民」になればきっちり解決されるものとして単純化されさえする。これはたとえ難民が法的に国民の地位を回復したとしても、継続的に経験するようになる数多くの社会的・文化的混乱を隠蔽するだけではなく、難民が剥奪された場所があたかも再び構成できるだろうという純真な信仰を駆り立てもする。このような文脈において、難民を定着社会の構成員として受け入れなければならないというような議論や主張は空虚だ。さらに、難民を作りだした難を解決して彼/彼女たちが母国に帰させればいいというような解決策もまた、可能とはなりえない。彼/彼女たちを追放したその状況が簡単に解決されえないという現実的な問題提起はさしあたり棚にあげておくとしても、彼/彼女たちがたとえ物理的な空間としての故郷に帰郷すると言ったとしても、一度追放され難民的経験をした者は、故郷に帰ったとしても、これ以上そこを「家」と感覚することのできない可能性が高いからだ[1]。
 難民は例外的な問題ではなく近代社会の普遍的な現象だ。国家の境界の外に存在する難民は、その外部から国民国家と国民という枠を規定し、維持する役割を遂行してきた。いいかれば、近代国民国家が登場するとともに難民は継続的に生産されてきた。難民と拮抗関係にある「国民」は市民権を持ち、人権のような普遍的権利を保障される反面、難民は市民権のみならず人権をも保障されえない存在だ。先にアガンベンが主張したように、普遍的権利としての人権は、事実上国民国家と市民権なしには存在しえない虚構である[2]。「世界人権宣言」において明示された人間の権利は、国民国家の枠で構成されているがゆえに、国家の外に追放された諸存在は「人間」として存在できない。
 そうであるならば、難民が再び「人間」になるための条件は何なのだろうか。さらにいえば、果たして人間宣言において主張された自由、存在、平等などの価値が難民と対蹠点にある国民には十分に保障されているものなのだろうか。人権宣言において明示された人間としての権利が、果たして人間を「人間」となるようにさせる基本的条件なのだろうか。何が人間を「人間」にさせるのか対する哲学的議論は、歴史において多少異なるように進んできたが、その根幹には人間は「個人」として存在するのではなく、他者との関係を通して構成されるという合意点を基盤としている。いいかれば、人権の根幹である自由、尊厳、平等などの価値は、国家が保障してくれる条件ではなく、他者を前にしての主体の権利であり、主体が他者に向けて必ず堅持しなければならない姿勢でもある。このような文脈から見れば、難民は国家の境界の外に特定集団としてのみ存在するのではなく、他者の前で「主体」として存在することのできない数多くの者たちを含んでいる。さらにいえば、ある集団に属していたそれらの者が国民であれ、あるいは非国民であれ、誰であれ難民に転落する可能性は存在する。最近、シリア難民問題が大きくなるなかで登場した「私たちはみな難民だ」という多少転倒したスローガンは、国家の境界のなかの国民がその外に存在する「難民」を助けなければならないという恵与的な宣言にとどまるのではなく、国民もまた自分たちの場所を剥奪される難民的状況にいつでも置かれうるという意味において、再び読まれなければならない。さらにこのスローガンは、難民の対蹠点に存在する市民���または国民のような集団は、神話としてその見かけだけが残っていることを告発するメッセージとして再解釈されなければならない。境界の外の難民は、国家中心的な私たちの思考を再考させ、国民の境界の外の新しい人間と政治共同体を想像させる��アガンベンの言語を借りれば、難民は社会的集団ではなく実際に存在する真正な主体であり、「今日考えうる唯一の人民の形象」なのだ[3]。今まで主体として命名されてきたが、決して実体がなかった人民、市民、人間などの概念から抜け出し、国家、法、権利などの外に存在することを転覆的に思惟することによって、「むしろ個人の避難所」を生産することができるだろう[4]。
・人権より国家、そしてその上の分断  国民国家内部において場所を失ったまま浮遊する難民たちは数限りなく多い。新自由主義の暴圧から資本によって「難民」となってしまった市民たち、有無形の制度と規範として存在する家父長制が排除する少し「ちがう」人びと、国家主義と民族という名の暴力の前に自身の位置を失ってしまった者たちにいたるまで、自我あるいは他意によって自分たちの場所を奪われた者たちは、いたるところに存在する。彼/彼女たちのなかでも、脱北者が最も「韓国的難民」だ。アーレントが難民に注目し、難民が普遍的な現象であると主張した理由は、まさに近代国家体制の「政治的なもの」の限界と可能性を内包しているからだという議論は、脱北者を見るとき有効な視点を提示している。おそらく脱北者を問題視することは、朝鮮半島の文脈から「国家」そして「国民」の問題を思考するようにさせるだけではなく、国家の境界内において「人間」としての権利がどれだけ制限的に作動しているのか、そして人権より優先視されるものが何なのかを確認させてくれるだろう。
 憲法三条によれば、大韓民国の領土は朝鮮半島とその付属島嶼だ。これは大韓民国が朝鮮半島の唯一の合法政府であることを宣言するものであり、同時に国家の領土が朝鮮半島の北側の地域までを含んでいることを明確にしているものだ。この憲法規定によって、北朝鮮(2)住民は北朝鮮の主権によって、不法的に抑留された大韓民国の国民である。脱北者が韓国社会に到着するとすぐに提供される法的地位の根幹は、彼/彼女たちが大韓民国の国民という大前提を基盤としている。だが彼/彼女たちは、韓国社会の構成員たちと区別される、もう一つの名で呼ばれる。脱北者―これが韓国社会において彼/彼女たちのアイデンティティーと存在を規定づける名前である。彼/彼女たちが韓国国籍を得ることができたのは北朝鮮を「脱出」したためであり、南朝鮮行きを選択することで主敵たる北朝鮮に「害」を与えたためだ。法的には大韓民国の国民だが、彼/彼女たちは人間の基本的な権利より国家、そして分断という論理に規定される。そのうえ、法的に市民権と国家の警戒内に存在するが、国家は「分断」という理由を盾にし、平気で彼/彼女たちの人権を侵害しもする。ユ・ユソン氏事件においてもよく表れているように「間諜」という疑心だけで、彼の妹ユ・ガリョ氏を拘禁することも、兄と妹が会うことを不許可にすることも可能だ。韓国に到着した北朝鮮出身者であれば、みな通っていくほかない合同新聞センターで脱北者は潜在的「間諜」である。もしも疑わしいことがあるのならば、その疑惑が完全に解消されるまでいつまででも拘禁することができる。それだけではなく、ハナ院(3)の教育機関を経て、賃貸住宅を割り当てられ、韓国社会に定着するようになる脱北者には、各地域管轄警察署の担当刑事が付くのだが、彼らは「保護」という名目で周期的に脱北者を管理し動向を把握する。このように脱北者にとって法的身分は、分断と国家の安危という名でたやすく侵害されるだけでなく、国民であれば全員保障されるようになるであろうものと信じられていた人権は事実上、等しく作動していないことを確認させてくれる。
 さらに分断体制内において自分たちの場所を棄てて、南朝鮮に移住してきた脱北者たちは、自分たちの故郷を否定しなければ韓国社会で受け入れられない。彼/彼女たちが脱出してきたところ、その場所に関するあらゆることは消し去らなければならない。韓国社会は、北朝鮮体制と北朝鮮社会、あるいは北朝鮮の人を区別するのに疎い。そうであるがゆえに北朝鮮体制に対する敵対心は、北朝鮮社会とそこの出身者たちに向いたりもする。そのうえ北朝鮮経済が危険な状況に陥っており、政治と社会領域の全体主義的な作動が継続されながら、北朝鮮と関連されるあらゆるものは否定的で変化されなければならないものとして単純化され意味化される。だが、脱北者にとって自分たちのアイデンティティーの場所は、否定と肯定という二分法によって遡及されない、文化的価値と習性などの堆積物である確率が高い。そのために彼/彼女たちの北朝鮮的習性、あるいは行動様式は完全に空白にすること、そしてその空いたところを南朝鮮社会に合わせて新しくそれを再構成することは不可能であるだけでなく、このようなことを暗黙のうちに要求すること自体がまさに分断が生産した暴力性の一面であろう。
 少数者でありながら国民国家内の難民である脱北者は、社会が自分たちに差し出してくれる制限された場所に忠実であることによって、国家の枠のなかに存在しようとする。アイデンティティーの根幹である故郷、その場所の痕跡を消し去るために脱北者は今日も自発的に母国を批判し、それと関連するあらゆるものを否定する。韓国社会に同化するために北朝鮮式の抑揚や身ぶりを直すために努力し、韓国社会に自分たちを挟め合わすために最善を尽す。ラカンが主体化の過程における「早急な同一化(precipitous identification)」、あるいは「予期的な先立ちanticipatory overtaking」という概念で説明したように、韓国社会という他者に認められるために脱北者は、より過剰に、より先立ってここから彼らに差し出してくれた役割を遂行し抜く[5]。韓国社会が脱北者に要求する役割が自分たちの故郷を否定することだということをまず把握し、要求されるものよりも、より忠実に、過剰にその役割を内面化し、実践し抜くのである。最近、オボイ連合(4)デモにお金をもらって参加したことで知られた脱北者たちは、単にお金稼ぎのためにデモに参加したのではなく、韓国社会で自分たちを証明するためにデモ隊に立ったと見るのが���当だ。自分たちが「反北」ということを満天下に「過剰に」表明することで、ここで認められようとする。万一、彼らのなかの誰であれ北朝鮮に対する友好的な視角を堅持したり、故郷を懐かしがるような態度を見せるならば、韓国社会の攻撃の対象となる可能性が高い。要するに2015年光復70周年を記念し、統一関連のTVドキュメンタリーに出現したある脱北大学生が、統一に関して否定的な意見を披露し、北朝鮮の人たちに対する愛情をあらわしたという理由でネット上の攻撃の対象となった事例は、多くのことを含意している。この脱北青年に対する書き込み攻撃は、主に「そんなにいいなら北に行け」という言葉で行われたのだが、これは日常において脱北者たちが「反北」ではない位置に立つことが、どれだけ難しいのかを推測させる。そのうえ、彼らは南北関係が悪化するたびに職場と日常において、激しい叱咤の対象となりもし、「北朝鮮がいいの?韓国がいいの?」というふうな二文法的質問をいつも受け、はやく南朝鮮の思考と習性になれなければならないという強要ないし脅迫にいつも苦しむ。
 そのくらい脱北者に向かう韓国社会の視線は二重的だ。彼/彼女たちに「故郷」を消してしまうことを暗黙のうちに強いつつ、同時に彼/彼女たちを「北朝鮮」以外のどのような特徴もない集団として同質化させてしまう。単に「北朝鮮」出身であるだけではない脱北者は、韓国社会が「北朝鮮」に対するどのような立場を堅持するのかによって区別される社会的位置を付与される。冷戦の暴圧のなかでは「帰順勇士」という名前で「英雄」の位置に存在していたが、東側諸国の没落と体制競争が事実上幕を降ろした80年代後半以降には、韓民族という当為性に基盤を置いた「帰順同胞」の位置に、そして北朝鮮経済難を起点に大量脱北がはじまると、「北朝鮮離脱住民」というまた異なる名前が彼/彼女たちに与えられた。北朝鮮を離脱した住民という意味の法的用語である「北朝鮮離脱住民」」は、彼/彼女たちが相変わらず故郷を棄てたということを明示的に表しつつ、「帰順勇士」あるいは「帰順同胞」よりは少し脱政治的な意味を持っている。これは脱北者の移住動機と特徴の変化ゆえでもあるが、要するに1990年代序盤までの脱北者の大部分は、男性でありながら政治的理由から南朝鮮行きを選択した反面、その以後には経済的理由へ移住動機が変わったのみならず、彼/彼女たちの性比も圧倒的に女性が優勢になった。2016年現在、韓国に定着した脱北者は、約29000余名に達し、このなかの70%を上回る比率が女性だ。だが、彼女たちの移住動機がどのように変わったのであれ、彼/彼女たちの性比の大きな変化があろうと、韓国社会での彼/彼女たちは「脱」北者であるだけだ。
・ジェンダー化された脱北過程  脱北者が韓国にいたるその旅程は苛酷だ。全世界で最も多い武器が密集している南と北の間のDMZを平凡な北朝鮮住民が渡ることは、事実上不可能に近い。それに大部分の脱北者は、北朝鮮と中国の国境を越え東南アジアを経て韓国に到着するようになる。中国は北朝鮮出身者を難民とし、北朝鮮体制は彼/彼女たちを「反逆者」として処罰までする。そうであるがゆえに、移動の旅程において彼/彼女たちは近代国家、あるいは法的体系から徹底的に「存在しない者」でなければならない。彼/彼女たちが法の前で立つ場合、彼/彼女たちの移動は無為と化してしまう。アーレントが、無国家者たちは犯罪を犯しながらはじめて法の前に人間として再び存在することができる機会が生じると主張したように[6]存在しなかった彼/彼女たちが中国を抜け出し、東南アジアに到着するようになれば、ついに「不法越境者」と自分たちのことを明らかにすることで、再び法的存在の位置を回復するようになる。つまり母国である北朝鮮を離れて、東南アジアで「不法越境者」として処罰を受けるまで、彼/彼女たちは人間ではない者、つまり存在しない者なのだ。
 興味深いことは、このように苛酷な旅程を耐えた後、韓国に到着する脱北者の大部分が女性だという事実だ。大部分の脱北女性は、短くは数ヶ月を中国で送ったり、長くは十年近い歳月を中国で「存在しないまま」生きてきた。綿密に調べてみると、北朝鮮女性がそもそも国境を越えることができるのも、彼女たちが北朝鮮社会の公的領域から事実上排除されてきたからだ。90年代中盤から苦難の行軍時期(5)の北朝鮮体制は「自力更生」を訴え、北朝鮮住民に国家の配給や安全網なしに自ら生き残ることを強いるようになる。国家主力産業や公的領域に服務する男性の場合、職場を離れることが事実上可能ではなかったが、主に男性労働力を支援する役割を遂行した女性たちは、職場や所属を離れ生活戦線に飛び入ることを国家が見逃してくれるようになった。はじめは家の中にある物品を小規模の市場で売ることからはじまったが、後には都市を移動して回り、本格的な商売をする女性たちが登場するようになり、いくらかの人びとは国境を越えて中国にいくお金を稼いだり、親戚の助けを受けたりもした。伝統的に社会主義国家は「移動の自由」が制限されているのだが、北朝鮮では経済難、特に苦難の行軍という極限の飢饉によって住民たちの移動が本格化される、予想することのできなかった結果を生むようになったのだ。特に移動の主体が女性だという事実、そしてその移動が可能であった理由がまさに彼女たちが北朝鮮社会で国家が統制する公的領域から一歩疎外されていたからという事実は、多くのことを含意している。もちろんこのような状況は、単に北朝鮮女性にのみ現われる現象ではないが、急激な都市化を経験した世界のいたるところで女性たちは、いつも移動の主体として再誕生して来た。逆説的にも移動する女性の移住動機は、家族や家父長制に服務するためであったが、移動の過程を経つつ独立的な主体へ再構成されもする。[7]
 中国行きを選択した相当数の北朝鮮女性が、それでも「ホモサケル」の生を維持することのできた理由は、彼女たちが「女性」であったからだ。要するに東北三省の朝鮮族社会の相当数の朝鮮族女性は、すでに中国内大都市あるいは韓国に労働移住に出かけた状態であり、北朝鮮女性たちは朝鮮族女性が残しておいたその空いた場所で、それでもしばらく自分の身分を隠すことができた。改革・開放の風に乗り、一層発展しはじめた中国の中小都市で女性の労働力受容が急増した���とも、彼女たちがしばらく体を隠し耐えうるようにさせた。もちろんこの過程で「結婚」という名前の下で、暴力的状況が一度や二度ではなく発生し、「(類似)性産業」で体を隠した北朝鮮女性たちは、資本と性の搾取構造のうちで苦痛な生を延命した。この過程で「存在しない者」という彼女たちの極限の状況を悪用する数多くの男性たちと家父長的構造が、彼女たちに数多くの拭い去ることのできない傷を与えもした。しかしここで看過してはならない事実は、彼女たちが北朝鮮に北送されずに中国でずっと何年間も耐えることができたのは、まさに彼女たちが女性であったためであり、中国内に「存在しない者」が隠れることができるその僅かな隙間は、まさにジェンダーとセクシュアリティの空間だという事実だ。彼女たちのための法が存在しないところにも強固に作動するのはまさに男性中心の権力体系だということは、一方では彼女たちが法の前に立つことのできるところへもう一度移動することを可能にさせたという意図しない結果を生産すると同時に、女性に対する性的搾取と抑圧がどれだけ根深いか再び確認させる。
・北朝鮮出身女性に向かう性愛化された視線  脱北女性が国民になった後に彼女たちの位置は、むしろよりジェンダー化されるようだ。脱北過程の苛酷さを説明するたびにしばしば登場する人身売買の経験と性暴力に晒された記憶などは、時には「人権」の名で叙事化されるが、フェミニズム的資格において無国籍者のジェンダー化された状況に対する総体的な問題提起ではなく、脱北女性に向かった窃視症的視線のみ増幅させる水準につねに留まっている。要するに脱北女性をスタジオに招待し、彼女たちの脱北経路とその暴力的経験を選定的に報道する韓国メディアの形態を、「人権」問題を提起するための意味ある報道だとは言い難いだろう。少しでもより積極的な素材を探す総合編成ジャーナル(6)にとって脱北、女性、(性)暴力などの叙事は、非の打ち所ないよい獲物であることが明らかだ。さまざまな媒体は、競争的に脱北女性をカメラに写し、この過程で彼女たちのジェンダーとセクシュアリティは道具的に対象化される。
 例えば、最近集団的に脱北した海外食堂の労働者に対する韓国各メディアの報道は、韓国社会が北朝鮮出身女性に対してどのような視線を堅持しているのか確認させる。去る4月9日、政府は「緊急ブリーフィング」を通じて海外食堂で勤務中だった13名の北朝鮮住民の集団脱北を公開したのだが、このなかの北朝鮮男性1名は管理人の身分であり、残り12名は北朝鮮食堂で仕事をしていた女性従業員だった。お互いがお互いを監視する社会統制システムが作動する北朝鮮社会で、「脱北」という最も反体制的な行為が「集団的」に成されたという事実に社会が揺れ動き、これが第四核実験以降に韓国政府が念を入れてきた対北制裁の効果という分析から北朝鮮体制の崩壊可能性にいたるまで、いつものように脱北者にはじまる議論は、北朝鮮体制の行方を占うものに拡大再生産された。はじめは政府が力を入れてきた対北制裁の効果の証拠として扱われていた集団脱北は、より積極的なニュース���素材を探すメディアを経由しつつ、屈折を重ね、やがて彼/彼女たちに関する言論報道は、彼/彼女たちが着てきた服と外貌までを窃視症的視線で掘り返すにまでいたる。要するに大部分の総編放送においては、政府が公開した脱北女性の写真を分析しながら、彼女たちの外貌と面々を評価し、彼女たちの身なりまで「洗練された感じのスキニージーンズ、赤色のスボン、華麗な色感の服、キャラクターが描かれた鞄」などの表現を多用しイシュー化した。以後、北朝鮮政府が彼女たちの写真を公開すると、韓国テレビでは先を争ってこの写真を公開したりもした。彼女たちが大韓民国の国民であり、これから先韓国社会で定着し、いきていいかなければならないという点は全く考慮しないまま、彼女たちの身の上の事情に対する報道が続けられた。そのうえ、その後すぐ男性管理者と女性従業員のうち一人が不適切な関係だという風な、確認されてなかった諸事実を散々報道することで、韓国メディアの窃視症は頂点にいたった。
 北朝鮮出身女性に対する性愛化された視線は、そもそも今回の事件でのみ露呈されたものではない。一時期社会を騒がせた大韓航空機暴発事件(7)は、キム・ヒョンヒという人物の性的対象化に点綴された議論へと再生産され、体育行事に参加した北朝鮮チームを「美女応援団」と称し、対象化した視線、実体も確実でない北朝鮮の「喜び組」に対する先定的な報道など、北朝鮮女性は男性的視線に剥製されたまま、性的対象物として存在してきた。北朝鮮女性は、主体ではなく韓国社会という男性的視線のなかで存在する対象に留まる。韓国社会は時には同情と憐憫で、時には男性的優越感を内在化した他者的視線で、北朝鮮女性と向かい合う。分断が作り出した権力関係と男性中心的構造が、二重的に結合した現在の状況において、北朝鮮女性が「北朝鮮」出身ということから自由でありながら、同時に男性の視線のなかの性的対象ではない自由、平等、尊厳などの権利を持った人間として存在することは困難に見える。そのくらい韓国社会の北朝鮮出身女性は、二重の抑圧構造に位置しつつ、常時的な苦痛を経験するようになる。
・他者中心の倫理  韓国社会を離れて自ら難民の生を選択した脱北者が急増している。何名かの専門家たちは、その数が約5000余人に至るという主張をしたりしている[8]。南朝鮮に定着した脱北者の数が30000余人に満たないことを考えてみると、実にとてつもない規模だ。「存在しない者」として中国を彷徨うとき、あれほど望んでいた国民という身分を自ら捨て、その多くの数の脱北者が韓国社会ではない、べつのところでの「難民の生」を選択したわけだ。その理由は多様だと言えるが、大きくは彼/彼女たちが韓国社会で向き合った生が決して国籍なしに彷徨う「難民」と比べみたとき、よくなかったということだ。韓国社会で北朝鮮出身者に与えられた国民の権利、つまり人権は国家の安危と分断という名でいつでも留保されうる。母国の痕跡を消し去ることを涵養する韓国社会は、北朝鮮出身者に毎瞬間暴力的に近づいてくる。そのうえ、北朝鮮出身女性の移動を可能にさせた日常の男性中心的権力体系は、彼女たちが再び国民の位置を得るようになったときには、さらに暴力的権力の視線で彼女たちを対象化する。
 実に「いま−ここ」における脱北者の生は難民的だ。ここでの脱北者は、単に自分たちの場所を剥奪されたものに留まらず、絶えず自分を否定しなければならず、主体ではない対象としてのみ存在するというわけなのだ。脱北者は大韓民国の境界内で「人間」として存在できない。そうであるならば、彼/彼女たちが「人間」へと再び主体化することのできる方法はないのだろうか。脱北者という他者と韓国社会は、どのような関係性を作っていかなければならないのだろうか。問題は、難民的生を生きる彼/彼女たちを同等な社会構成員として受け入れなければならないという、あまりにも政治的に正しいその命題を繰り返すことによっては、解決するものがそれほど多くはないという事実だ。善意という名で向けられる数多くの行為が、結局は権力を持った者たちのアリバイとして活用されてきたことを、私たちはよく知っている。そのうえ韓国社会がどのような努力をしたとしても、分断という状況が継続される限り、いや仮に政治的に分断が克服されたとしても、文化と日常に残った分断は相当な期間の間、脱北者を国民の内の難民として区別する確率が高い。実践的水準で脱北者の生を画期的に変えうる機制を現在の社会体制から探すことは難しい。
 そうだとしてもこの文章が悲観的な現在の状況を責め、日常で向かい合う脱北者に対して何もする必要がないと主張したいのではない。現実的水準での努力や試みは続けられなければならないが、少しより巨視的でありながらも根本的な思考の転換が共になされなければならないということを強調したいのだ。先に言及したように脱北者の存在は、韓国社会を再び内省させる。脱北者は「いま−ここ」の作動メカニズムを解体し、その向こうを想像させる資源という側面において大切だ。韓国社会において脱北者を思考するということは、結局何がこの社会で重要視されているのか、分断体制を胚胎したこの場所で国民と国家がどのような方式で作動しているのか、そして日常の家父長制が(他地域出身、特に分断として対置状態にある北朝鮮)女性をどれだけ他者化しているのか、その現住所を確認させるという点で意味がある。
 アーレントが思考するものの重要性を強調しつつ、現代社会の多くの人びとが他人の日常で考えることのできない「思考の不能性」に陥っていると警告したことがある。悪は平凡な姿で存在し、日常において容易に探すことができる。語ることができず、そして他人の立場から思考することができないものは、結局人間を「人間」ではない悪へとつくりだす。[9]脱北者という「他者」と向かい合うこと、そして彼らの立場から考えることは、ここに生きている「平凡な」私たちが再び他者中心の倫理を回復し、思考する人間として存在することができる機会だ。他人に対する責任と倫理意識を回復することは、国民国家という神話的枠を越えて新しい共同体、いいかえれば疎外されたあらゆる個人の避難所としての政治共同体を、夢見るようにさせる始発点であることは明らかだ。国家、国民のようなあまりにも明確で強固に見えるもの、その向こうを想像することは痛ましいことだ。特にすべての人が一つの場所を眺めている群れのなかで、「べつの」何かを考えるということは、孤独なことであることは明らかだ。しかし他者を通して思考するということは、実存的挑戦であると同時にそれ自体として輝いている。  
原註 [1]Schuetz.A 「Homecomer」 『American Journal of Sociology』 1945 50-55頁 [2]ハンナ・アーレント『全体主義の起源Ⅰ』ハンギル社 2006 524-534頁(ハンナ・アーレント/大久保和朗『全体主義の起源Ⅰ』みすず書房 1972) [3]ジョルジョ・アガンベン/キム・サンウン, ヤン・チャンリョル 訳『目的なき手段』ナンジャン 2009 36頁(ジョルジョ・アガンベン/高桑和巳 訳『人権の彼方に―政治哲学ノート』以文社 2000) [4]ジョルジョ・アガンベン 同上 25頁  [5]スラヴォイ・ジジェク/イ・ソンミン 訳『否定的なものと共に留まる』図書出版b 2007 144-149頁(スラヴォイ・ジジェク/酒井隆史, 田崎英明 訳『否定的なもののもとへの滞留』太田出版 1998, ちくま学芸文庫 2006) キム・ソンギョン, オ・ヨンスク『脱北の経験と映画表象』文学と知性社 2012 221頁から再引用 [6]ハンナ・アーレント 前掲書 517−518頁 [7]ホン・チャンスク「ドイツ独立後、旧東ドイツ出身女性の西ドイツ移住と西ドイツ化の多様性」『韓国女性学』27-4号 2011 84頁 [8]キム・ヨンチョル「誰が脱北者に「デモバイト」をさせたのか?」『プレシアン』2016年4月27日(‘누가 탈북자를 ‘알바 시위꾼’으로 만들었나?’) [9]ハンナ・アーレント/キム・ソンウク 訳『エルサレムのアイヒマン:悪の平凡性についての報告書』ハンギルシャ 2006 (ハンナ・アーレント/大久保和郎 訳『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』みすず書房1969)
訳注 (1)本稿は、韓国において刊行されている雑誌『言葉と弓』(말과활)11号所収の김성경 ’이곳에서 탈북자 사유하기’という論考を訳出したものである。 (2)原文は북한(北韓)となっている。実質的には朝鮮民主主義人民共和国の領土のことを指しているが、この論考全体として朝鮮半島の北側の地域という意味を含んでいるという点と原則的に原文に近い翻訳の作成という点から、以下「北朝鮮」と翻訳した。なお、남한(南韓)は南朝鮮と訳出した。 (3)ハナ院とは、北朝鮮からの移住者に対する社会定着支援のために設置された統一部所属機関である。移住者たちは、ここでさまざまな教育過程を受けることになる。 (4) 韓国の保守団体。「オボイ」とは、オモニ(母)の「オ」、アボジ(父)の「ボ」を組み合わせてつくられた言葉で「父母」の意味。したがって、オボイ連合の正式名称を訳出するとすれば、「大韓民国父母連合」となる。ちなみに参加者には高年齢の人たちが多い。 (5) 1995年に発生した自然災害によって経済危機がより深刻になるなかで呼び��けられた共和国政府に政治スローガン。共和国内の新聞が合同で「「苦難の行軍」の精神」で奮闘し、「自分の力で革命を最後までやりとげる自力更生」が求められた。「苦難の行軍」自体は、1938年11月から39年3月の金日成による満州抗日遊撃戦の最中において金日成部隊が日本軍を逃れて雪の中を行軍したことに由来している。 (6) ニュース報道やドラマ、教養番組をはじめとしたあらゆるジャンルの番組を編成して放送できるチャンネルのこと。他の地上波放送との差異点としては、放送がケーブルテレビと衛星テレビ加入者に限られ、他の地上波放送が一日19時間しか放送ができないのに対して、このチャンネルでは24時間の放送が可能であるという点をあげることができる。 (7)1987年11月29日にバクダッド発ソウル行の大韓航空機858便がビルマ沖で消息を断った事件。一通りの調査を終えた韓国政府は、88年1月に北朝鮮工作員の犯行によって爆破されたものだと発表。事件の際拘束された女性がキム・ヒョンヒである。それに対して共和国政府は一貫して韓国当局が作った陰謀だと主張している。
(翻訳:K)
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precariouslife-blog · 9 years ago
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「被曝」の極点で―市村弘正「逆向きに読まれる時代」に寄せて
 ここ数年、さまざまな場面で「ここからがはじまりだ」という類いの言説を耳にするようになった。最近こうした言説を聞けば聞くほどに、現実認識という次元を超えて、いま自分たちが生きている時代が抱え込んでいる問題系に対する認知の不在をあらわしているのではないかという印象を受けるようになってきた。 
 市村弘正がいまから20年ほど前に記した「逆向きに読まれる時代」というテクストは、20世紀に行われた「反省的な思考」の底に流れている問題意識を探り出し、そこからさらに思考を開いていこうとする試論的性質を持つものであると同時に、私の問題意識に呼応しているようなテクストでもあると思われるのである。
 20世紀という時代は、多く物事を喪失し、さまざまな出来事を忘却し、幾多の終焉を見送るという形式において進行していった。重要なのは、こうしたことが一度ではなく繰り返し、形をかえながら継続されていったうえに、20世紀という時代が存在しているという認識である。つまり、こうした反復のうえ��現在が存在するという認識を持つからこそ、問題の原基への「立ち戻り」という方法論が要請されるのである。しかし、それは「たんなる遡行ではない。」すなわち、単純に過去への回帰を称賛する思考法では決してない。
 終着の地点に背を向けて適切な折り返し点に立ち戻る、というのでなく、終末の地形を触知し、それに身を曝すことを通じて空無なる「世界」の在りかたを手探りする。それが、私たちに「わずかに残る」思考の道筋なのではないか。身を曝すべきその場所は、世界が人間的世界であることをやめるような極点にほかならない。それは、内在の論理を貫くことによって「終り」を語ることも、「本来的な」状態を前提して日常性を批判することも、言説としての拠りどころを失うような臨界点である。ここでは逆向きとは、もはや認識の方向ではなく、そこで世界が反転するような存在の方位感覚としてあるだろう。[1]
 20世紀を通り越し、21世紀に入った現在においても、この思考態度は有効でありつづけている。いや、おそらく市村がこの文章を書き綴った当時よりも、一層切実に私たちはこの方法論を探求しなければならないのではないか。
 日常のあらゆるものが商品化されて久しい。20世紀の後半、韓国光州5.18の虐殺を目にしたある詩人は、「忘却はつぎの虐殺を準備する」と詩った。しかし時代はいま日常の商品化にとどまらず、忘却の前提として存在する記憶さえも、すでに資本の胎内に取り込まれている段階にまで来ている。
 しかしそうした現在にあってもなお、「終り」を安易に拒否し現在に過剰な希望を見出すのではなく、また現実の圧倒的な絶望さに飲み込まれるのでもなく、身近に現われている終末の極点へと身を「被曝」させていき、右へ左へ振られながら、それでも、抗い、飯を食べ、寝て、ゆっくりと呼吸をしていくこと[2]。生きていくこと。
[1]『増補「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー、1996 169頁 [2] O「肯定性の調として―踊ってばかりの国「Songs」」参照
(K)
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precariouslife-blog · 9 years ago
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「盲人」とは誰なのか
先日、とあるアートスペースにパフォーマンスを見にいった。前日のワークショップとセットになっているその企画は、視覚に障害のある人たちが参加し、そんなに広くない一室に段ボールやひも、布などで作品を作って部屋中にちりばめ、その中を動き回るパフォーマンスをやる、というものだった。 1日目のワークショップでは、視覚に障害がない人もアイマスクをして作品づくりにとりくんでいたそうだが、私は所用あって2日目のパフォーマンスの部だけの参加になった。 部屋に入るとアイマスクを渡され、それをつけて部屋中の作品たちを手触りで「鑑賞」した。作品でいっぱいになったそのスペースは「森」と名付けられていた。なるほど、床や壁に張り巡らされ、天井からぶら下がっている作品たちの中を手探りで動き回る感覚は、さながら森の中を探検しているようだ。ひとしきり歩き回るとアイマスクをとった。目で見ると、何のことはない、がらくたでいっぱいの部屋だ。「鑑賞」中ひときわ私の関心を引いた壁の一角は、部屋の中で最も色彩のない、白い地味な場所に見えた。 定時になるとパフォーマンスが始まった。1日目の参加者が、「森」の中を動き回るのだ。視覚に障害のない出演者も、アイマスクをつけて動いていた。作品や他の出演者とふれあったりしながら、パフォーマーたちは自由に動き回っていた。そのパフォーマンスは1時間ぐらいつづいた。私は、さっきのアイマスクをつけた自分と、パフォーマーたちを比べながら、その動きを見ていた。 アイマスクは、視覚障害のことを学ぶときによく使われる小道具である。しかし、アイマスクを用いることには批判もあり、感想会では「アイマスクをしても、視覚障害者の気持は分からない」と言う声もあった。私も、本当にその通りだと思った。なぜなら、アイマスクをした私の動きと、パフォーマーたちの動きは、あまりにも大きく隔たっていると感じたからだ。 私は、アイマスクをつけたとき、動きも思考も止まってしまった。何をしたらいいのか分からなくなって不安になった。歩き出せばいいのか?手を伸ばしたらいいのか?声を出したらいいのか?主体性が一瞬でたち消えた。程なくスタッフが、固まっている私を作品のあるところまで導いてくれ、私の手をとって作品に触れさせてくれたので、恐る恐るながら私は「鑑賞」を始めることができたのだ。 「盲人が盲人の道案内をしたら、ふたりとも穴に落ちてしまう。」聖書にそんなたとえ話がある。アイマスクをした私のさまは、まさに「盲人」のそれであった。ふと目隠しをされたら、手を取って「はい、触っていいですよ」と言ってもらえるまで何もできない自分の主体性の脆さが、アイマスクをすることで明らかになったのだ。私は自分が「盲人」である事実を発見してしまった。 パフォーマーたちは自由に「森」を動き回る。ある人は静かに、ある人はダイナミックに体を動かしながら周りの人や物とふれあう。そんなふうに動くことだってできるのだと、教えてくれているようだった。私ははじめ、人と人がふれあう動きに、目のやり場に困るようなストレスを感じた。それは、作品を触って楽しむときに感じた新鮮さと表裏をなしている。私は、この社会で「普通に」暮らすために、人や物に触ることを強く抑制してきたのだろう。パフォーマーたちの動きはいたって自然で、人間らしいものに感じた。変な動きをしているのは、家族とか国家とか資本とか、そういうものに規律された「盲人」の私の方だったのだ。 自ら「健常者」と思いなす者は、「障害者」をいろいろなふうに呼ばわってきたが、なんだかどれも自分のことを言っているように聞こえる。東京都知事だったある者は、知的障害者を「人格がないようだ」と言って、自ら人格のない男だと表明したし、相模原事件の容疑者も、「コミュニケーションができない者」を殺すことで、自らを話の通じない殺人者にしてしまった。人間は、目の前の者が人間であることを否定することによって、自ら人間であることを否定するのだ、と言うようなことをアレントか誰かが言っていた気がする。私自身も、なにか重大な勘違いをしている可能性に気付いてしまった。人はいろんなことを言って、他人を蔑んだり憐れんだりする。しかし、それは自分自身への不安の裏返しに過ぎないのではないか。目前にいる生身の人間というのは、すでにそのような浅薄な想像力を超えた存在である。 他人はいつもいろいろなことを教えてくれている。尊厳とはそういうものだ。他者の尊厳の価値を識ることができない責任は、常に自分の側にある。 (ラビット)
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precariouslife-blog · 9 years ago
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ナチズム、欲望の散種態―『愛と欲望のナチズム』書評として
他者の身体と自己の身体を交錯させ、互いの欲望を絡ませ合うとき、ひとは興奮とともに喜びを感じるだろう。そこはもっとも内密で私的とされている性の時空間でもある。しかし、行為者以外誰も介入できないかのように考えられているその空間のなかに、ナチスは自己の政策を達成するための欲望を滑り込ませた。『愛と欲望のナチズム』(田野大輔 講談社メチエ 2012)が問うのは、その領域である。ここでは本書を私の問題意識に沿いつつ、辿っていきたい。(以下の引用は、註釈がない限り、同書から引用したものである。
男女の愛がなければ、詩も絵画も音楽もありえない!・・・・・愛とは唯一の真の宗教的な世界体験である。それを知らず、望んだことのない者は、偉大なこともなしえない。・・・・・偽善的で不誠実な心情が、愛を忌み嫌 うのだ。(p10)
上記の引用は、親衛隊の機関誌『黒色軍団』に載った論説のなかで、肯定的に引用されているある判事の言葉である。ナチスは単に伝統的な家族道徳への回帰を説き、生殖の管理を企てることを通じて、人びとの性を抑圧したのではない。そうではなく、人びとの性に介入しつつ、彼/彼女らの性的欲望を積極的に惹起、解放し、そこに自分たちの政策を達成するための糸口を見いだした。そのような「性—政治 Sexualpolitik」を遂行しようとしたナチスにとって、性を忌み嫌い、罪的なものとして見なすキリスト教の価値観に基礎を置いた伝統的な家族道徳は、むしろ敵ですらあっただろう。そうした文脈において上記の引用を読み返すとき、この言葉の発話者が人間の創造力を増幅させる領域として性を捉えているのに対して、性を「忌み嫌う」者は「偽善的で不誠実な心情」を持っていると言明することによって、伝統的な家族道徳を退けていることがわかる。ナチスにとって重要な問題であったのは、人間の生を充足化させ、その力を増幅させる性の領域をどのように利用し、民族国家の繁栄という目的へと接続するかということだったのである。
そうした問題に対する対策の一つとして、ナチスによる裸体賛美をあげることができる。宣伝省にしろ親衛隊にしろ、ヌード写真等の氾濫を批判こそすれ、ある程度は取り締まりつつもそれらを一掃することはしなかった。その背景には帝政期以来ずっとつづいてきた裸体文化運動の影響がある。『黒色軍団』はその基本理念を継承し、人間の肉体は何によっても隠されていない状態が自然であり、衣服などによって肉体を覆い隠すことこそが例外だとして、衣服は自然の神聖な力から人間を疎外させることによって、人間を堕落させてきたという。そして衣服の拘束からの脱却し、健康で美しい人間へと脱皮することを通じて、ドイツ民族は最高の力を手に入れることになると主張する。(p116−117参照 )
『黒色軍団』のこのような主張は、ナチスの権力層のなかで、すんなりと受け入れられたわけではない。保守派はこのような主張に嫌悪感を示し、論戦を張る一方、裸体文化を禁止する政令も出された。しかし取り締まりは徹底することなく、裸体文化運動は継続された。さらにヌード写真はヒトラー自身によっても称賛された。彼はドイツ兵士について言及しながら、「前線から帰ってきたとき、彼らは美しい造形に感嘆して嫌なことをすべて忘れたいという肉体的欲求をもつものだ」、「ドイツの男が兵士として無条件に死ぬ覚悟をするためには、無条件に愛する自由も与えられなければならない」と発言した。(p135)
ここには男性性欲を増幅させることで、戦場における兵士のポテンシャリティを極限化させようとする意図が透けて見える。さらにナチスが兵士と労働者を同一視し、彼らを民族共同体の担い手として捉えていたことを踏まえるならば、男性性欲を刺激することは狭義の意味での戦場において兵士がその戦闘力を十全に発揮することのみを目標としていたのではなく、日常の労働動員という次元においても、労働力の回復過程の一部として性を位置づけることによって、民族国家の発展という目的のもとに従属させようとしていたとも言えるかもしれない。[1]
この論点を考えるときに、ゲーリング研究所外来診療部長をつとめたシュルツが書いた性教育書が重要な考察対象として浮かび上がってくる。ゲーリング研究所とは、��体制に服従を誓った心理学界が帝国元帥ヘルマン・ゲーリングの従兄弟で精神科医であるマティアス・ハインリヒ・ゲーリングを代表者に据え、1936年5月帝国医師指導者と帝国内務大臣の指示により、精神分析研究所を改組することによって設立された「ドイツ心理学精神療法研究所」の別名である。この研究所の外来診療部長であったシュルツは、医師の責務を民族全体の健康を守ることと位置づけ、民族の健康についての議論を展開する。彼は、民族の健康を根幹において保障するのは「性生活の再建」であるという。そのために彼は結婚・性生活という課題に考察をすすめる。
シュルツが描き出す結婚・性生活は、幸福で喜ばしき共同体というべきもの である。強い愛の絆で結ばれた男女が形成するのは「神聖な国」であり、二人が営む性的関係は「男女の最も神聖で自然な結合」であるとされる。ここでは性的快楽も自然な喜びとして肯定され、欲望の享受が奨励されるが、著者はさらにオルガスムスの意義を強調して、これを達成するためにはキスや 胸の愛撫、性器への刺激を勧め、安全な避妊方法を論じることなど、性生活向上の得策まで教示する。性体験における「きわめて激しい肉体的情熱  」や、「純粋な肉体性の喜びのなかへともに参入し、ついには至高の一体化の神秘のなかで自己を見出す」ことを熱っぽく語るシュルツの口ぶりは、まさしく性解放論者のそれである。(p51)
シュルツは同性愛を「深層の心的発達障害」(p53)として性結合の単位から排除しつつ、男女というジェンダー単位を自然化しその枠内から脱け出さない限りにおいて、性体験の快感を極限化する方法を啓蒙し、そこから「神聖な国」への参与を導くこと、つまり枠付けられた性的欲望の充足、生の喜びを肯定しながら、人びとをナチスの人口・政策上の目的へと動員し、従属させていくことをめざしていた。そこには以前まで抑圧され、秘匿化され、ベールに包まれていた領域へと知の言説を通して浸透し、主体形成へと導いていく権力のあり方が見出される。(p62参照)それと同時に、そうした主体形成の過程を経るなかで過剰にそれを引き受け、実践しようとするズレた主体の出現を見逃してはならない。動員はつねに過剰を引き起こすのである。
本書においてその主体を探すとき、まず目に入ってくるのは体制の言説を引き受けつつ、自らの行為を正当化しようとする少女の言葉である。ある母親は、兵士や親衛隊隊員などの多くの者たちとの交際を経験している娘をたしなめるのだが、少女は「もし妊娠したら、私は総統がいつも要求している通りの、ドイツの母親になれるじゃないの」と反論する。(p203)さらに戦時下においてドイツ女性が、捕虜としてドイツに連行されてきたフランス人戦争捕虜やポーランド人、チェコ人の民間労働者たちと交際し、性的関係まで持っていたという事例もある。(p208参照)体制側が憂慮すべきとしたこうした事例からは、権力の言説に沿って既存の家族道徳を破棄し、自らの欲望を解放しつつも、国家の捕捉から逃れていく主体の線を見出すことができるだろう。
浮かぶ問いは3つ。
セックスの現場にナチスは介入しえたのか。しえたとするならば、そこにどのような規律を与えようとしたのか。
動員の過剰は異性愛のみならず、同性愛をも引き起こしただろう。そうした事態にナチスはどのように対処したのか。そして同性愛者たちはナチス政治の下においていかにして自らの欲望を達成しようとしたのか。さらにいえば、欲望の散種を引き受けつつ、そこからそれてゆくような主体形成はいかなる条件において可能なのか。
ナチスによる「性—政治」を抑圧一辺倒と規定していた戦後における記憶の力学のなかには、どのような欲望が隠れていたのか。
[註釈 ]
[1]ナチスが民族共同体の理念のもとに労働者=兵士という表象を採用したという点については、田野大輔『魅惑する帝国―政治の美学化とナチズム』、「第4章 労働者の形態」を参照
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062585361
(K)
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precariouslife-blog · 9 years ago
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[번역] 누가 누구를 왜 죽였는가
누가 누구를 왜 죽였는가
헨미 요(辺見 庸)
우리는 몸에 큰 구멍을 막연히 안으면서 ��다. 그 공허함을 어렴풋이 알고 있다. 그러나 알아내려 하지 않는다. 구멍이 얼마나 깊은지를. 웅크려서 내려다본다면 무슨 것이 있는지 알지 못한다. 따라서 구멍이 없는 체한다. 공허함이나 구멍은 그대로 두고. 우리는 뚫린 구멍을 메우지 않는 채 노래를 부르고 많이 시끄럽게 떠든다. 구멍이 아니라 사랑에 대해서. 굳어진 것처럼 웃고 사랑을 부르고 공허하게 얘기한다. 까만 구멍의 밑바닥으로 사랑이 굴러 떨어진다.
사가미하라(相模原) 장애인 살인 사건의 용의자는 이미 잡혔다. 하지만 솔직히 ‘누가’ ‘누구를’ ‘어째서’ 죽였는가라는 중요한 점에서 이해가 가지 않는다. 목 끝까지 올라오는 것�� 있다. 그걸 말로 표현하려고 한다. 말이 와르르 무너진다. 솔직히 말하자면 나는 한밤중에 엉겁결에 오열했다. 어둠에 떠다니는 피 냄새 때문에 숨이 막혔던 것은 아니다. 이 사건은 인간에게 너무 중요함에도 그 “핵심”을 말하려고 해도 도저히 잘 말할 수 없어 내 속에 뚫린 구멍으로 모든 가설이 떨어져 가 버렸다. 그래서 울었다.
참극은 사람에겐 1.‘살 가치가 있는 존재’ 2.‘살 가치가 없는 존재’라는 두 종류의 삶이 있다고 용의자 청년이 대담히 분류했던 것을 의미한다. 이 이분법 자체를 “광기”라고 단정짓는 경향이 있는데, 그것이 옳다면 인류는 “광기”의 길에서 한 번도 벗어난 적이 없을 것이다. 살 가치가 있는 삶인지 아닌지. 그런 존재론적 질문은 사실 고전적이자 그 질문에 대한 논의와 번민은 절학에서도 문학에서도 종교에서도 거듭되어 왔으며 모든 전쟁의 또 다른 과제이기도 하다.
우리는 아마도 착각하고 있다. 자타(自他)의 삶이 살 가치가 있는지 아닌지라는 논의와 고민은 지금까지 엄청난 대가를 치러서 이미 결론에 도달해서 끝났다는 잘못된 생각을 가지고 있다. 모든 삶이 살 가치가 있다는 이념은 단연한 것이 아니었다. 깊은 구멍이 있었다. 생각해 보자. 모든 삶이 살 가치가 있다고 무의식적으로 생각해 왔던 사람들이라도 대개는 저 청년이 시형판결, 집행을 당하는 것은 어쩔 수 없는 일이라고 수긍하지 않는가. 즉 우리는 “살 가치가 있는 존재”와 “살 가치가 없는 존재”의 구별과 선별을 간접적으로 받아들여서 궁극적으로는 후자를 “말살”하는 것을 암묵적으로 긍정하지 않는가.
그렇다면 사형이라는 생체를 “말살”하는 일을 막연히 암묵적으로 긍정하는 사람들과 “말살”을 혼자서 실행했던 그와의 거리는 실제로는 가깝지 않을까. 적어도 지금 우리는 같은 광야에 방향 감각을 잃어버린 채 멍하니 서 있다고 할 수 없겠는가.
나치즘은 졌다. 일본군국주의는 망했다. 적자생존 사상은 사라졌다. 천부인권설은 지구 전체에 퍼졌다....라 할 수 있는가? 어쩌면 나치즘이나 일본군국주의의 “뿌리”가 과거와 모습을 갈아서 지금 소생하고 있지 않는가. 7월 26일 이른 아침에 흘려진 붉은 피는 결코 옛날의 저녁노을이라도 환시(幻視)라도 아니다. “1억 총 활약 사회”의 모퉁이에서 내뿜은 현재의 피다. 그건 가까운 장래 내뿜을지도 모르는 대량의 피를 암시하고 있지 않는가.
저 청년은 지금 무엇을 생각하고 있을까. 악몽에서 깨어서 떨리고 있는가. 그는 사람을 죽였다는 실감적인 기���을 가지고 있을까. ‘제초(除草)’와 같은 일을 끝냈다고 생각하고 있을까. 사는 방법조차 없는 철저한 약자야말로 차라리 가장 “살 가치가 있는 존재”지도 모르겠다. 그런 사념(思念)이 구멍에 떨어졌던 그의 뇌리를 한 순간이라도 빛나는 것은 없겠는가.
눈을 돌리지 않고 응시한다면 세계는 분노보다 먼저 이름도 모르는 벌레처럼 낮고 가냘픈 목소리로 울 수밖에 없는 풍경으로 가득 차 있다. “일본에서 생활보호를 받지 않으면 당장 죽어 버린다고 하는 재일(在日)있다면 그대로 죽어라!” 앞날에 행했던 도쿄도 지사 선거에서의 가두 연설에서 외국인 배척을 호소하는 후보자가 주저도 하지 않고 소리를 질렀던 것에 대해서 듣던 사람들은 큰 박수를 쳤다고 한다. 그는 11만 44천표이상을 얻었다. 내 예상보다 두 배 이상 많았다. 이것과 사가미하라 살인 사건이 일어난 배경을 직접적으로 연결해서 생각하는 것은 조급하다. 그러나 동란기에 접어드는 지금, 각처에서 원인을 특정할 수 없는 심한 경련이 일어나고 있는 것은 부정할 수 없다.
저 청년이 중의원 의장에게 보냈던 편지에는 사랑과 인류에 대한 생각이 산산조각으로 깨진 거울의 파편처럼 날뛰고 있다. “전 인류가 마음 구석에 감춘 소원을 소리로 내서 실행하는 결의....”라는 문장이 유리 파편이 돼서 눈에 질린다. “전 인류가 마음 구석에 감춘 소원”이란 글 전체의 맥락을 봤을 때 중도장애인을 “말살”하는 것을 가리키는 것이다. 장애인은 살 가치가 없고 공적인 비용이 많이 들기 때문에 배척해야 한다는 것이 사람들이 “마음 구석에 감춘 소원”이라는 것일까. 이것이 “사랑하는 일본국, 전 인류를 위한”것이라는 것인가. “아니다, 잘못된 생각이다!”고 말하기만 하는 것은 쉬운 일이다.
끔직한 짓이 일어난 그 날도 그 후도 세계는 계속 포켓몬 go에 열광되었으며 텔레비전에서는 “한여름의 공포 영화 강화 월간”이나 리우 올림픽 중계가 방송되었다. 현실과 비현실의 이음매가 구별되지 않는다. 그리고 보니 선의와 악의의 경계도 꽤 애매해졌다. 장애인 19명을 자발적으로 죽인 청년이 범행을 결의하는 지속적인 선의나 악의를 가지고 있었는지 의아하다. 전율할 것은 살상자 수보다 이것이 ‘선행(善行)’이나 ‘정의(正義)’나 ‘사명’으로서 행해진 가능성이다.
참극의 원인을 단순히 ‘광기’에 기인하는 것으로서 이해하는 것은 이해하기 쉬울 뿐 너무 단순한 사고일 것이다. 우리는 ‘누가 누구를 죽였는가’라는 물음에 대한 대답을 침착히 찾아야 된다. 세계 각지에서 잇따른 테러를 바라볼 때, 생각이 드는 것 역시 ‘누가 누구를 죽였는가’라는 물음을 던져야 되는 사건들이 실제로는 비뚤어진 윤리가 복잡하게 착종하는 상황 아래서 일어나 있는 경련이라는 것이다. 그런 증상은 결코 테러를 일으키는 가난한 사람이 이상하기 때문에 일어나 있는 것이 아니다.
잘 알다시피 미군특수부대는 2011년 파키스탄에서 알 카에다 지도자 오사마 빈 라덴을 암살했는데, 그 직전에 중앙정보국(CIA)의 간첩이 폴리오 백신을 예방접종하는 체했고 빈 라덴 가족의 DNA를 얻었다. 백신 접종이 폴리오 멸종을 위해서가 아니라 암살을 위해서 이용된 셈이다. 그 결과 현지 사람들은 파키스탄에서 폴리오 예방접종에 종사하는 착한 의료 종사자에 대해 의심을 많이 품게 돼서 반미 게릴라는 그들을 표적으로 하여 살인하는 사건이 올해도 이어지고 있다. 폴리오 멸종은 늦어지고 있다. 그런데도 미 정부는 빈라덴을 살해했던 것을 자랑하다. “미국의 정의”를 지켰다고 해서.
정의와 선의와 증오와 “이물정화(異物淨化)”의 욕동이 민주적이고 평화적인 척하면서 세계 각지에서 착종하며 경련을 일으키고 있다. 7월 26일에 일어났던 일은 그 가운데서 발생했던 다른 형태의 테러라고 나는 생각한다. 저 청년은 “눈에 보이지 않는 찬동자”들이 뒤에 있는 것을 여겨서 눈을 반짝거리면서 튀어나오는 피를 뒤집어썼을지도 모른다. 그가 순수한 ‘단독범’이었는지 아니었는지는 궁극적으로는 확정할 수 없다. 이시하라 신타로(石原 慎太郎)전 도쿄도 지사는 전세기 말에 장애인시설을 방문했을 때, “저런 사람은 인격이 있는 건가”라고 꺼리지 않고 말했다. 새로운 출생 전 진단(出生前診斷)에서 ‘이상’이 발견된 부인의 90%이상이 중절을 선택한다. 이런 것은 무엇을 의미하는가.
“살 가치가 있는 존재”와 “살 가치가 없는 존재”의 이분법적 인간관은 아직도 극복된 적이 없는, 오늘날도 반복되고 있는 원죄다. 남이 필요로 했던 적이 드문 존재를 사랑하는 것은 그 존재를 싫어하는 것보다 어렵다. 그렇기 때문에 그 사랑은 고귀하다. 청년은 그것을 이해하기 전에 죽여 버렸다. 그는 우리의 그림자가 아닐까.
(번역:K)
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원문
http://yohemmi.up.seesaa.net/image/E4BD90E8B380E696B0E8819E__2016.8.13-b0eb1.pdf
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precariouslife-blog · 9 years ago
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肯定性の調として 踊ってばかりの国「Songs」(2015)
さようなら、私の記憶
さようなら、私の顔
     Shing02 “No.13 Reprise”
一聴して、耳にこびりつくように迫ってくる力をもったトラックはほぼ皆無。有り体な言葉で表現すれば常にその片隅に狂気、狂っているの結局どちらなのだという問いかけを放つ質の狂気を忍ばせ続けてきたこれまでの作品群に比べれば、これはどうにも穏やな一枚だとすることもできる。サウンドからはブルージーな香りもイケデリックな妖しさも薄れていて、それはヴォーカルにおいても同じだ。優しく、慈愛すら感じられるようなそれは、だが、もとから優しさや慈愛としてありえたわけではない。もちろん、彼らの音楽は一貫してある優しさのなかにあった。だが今あるのは、狂気や崩壊する感覚のなかで研ぎ澄まされながら残っていったものであり、したがって単なる変化というにはあまりにも大きく、彼らの表現の根本的な部分に係るものだろう。
そこには、諦めがある。彼らは諦めながら、諦めながら、だが表現することをやめようとはしない。大事なのはそのことだ。
話しをやや、迂回させよう。
主に90年代以降の日本における運動と対抗的な文化表現の関係をめぐる歴史を著した『ストリートの思想』(2009年)のあとがきで、毛利嘉孝は彼が目撃してきた現に在ってきた出来事の連なりをして、ストリートの思想は希望の思想であると表した。ここで問題となるのは、毛利がこの本で取り上げている様々な〝ストリートの思想〟、新宿ダンボール村やサウンドデモ、素人の乱etcといったものが希望と言いえるかどうかということではない。問題なのは、毛利がストリートの思想を希望の思想として言いきってしまったことにあった。
当時の文脈を抑えよう。リーマンショックによる首切りの嵐のなか、年越し派遣村などによって〝反貧困〟が可視化されもしていたこの時期、しかし〝希望〟はなかった。その言葉はプレカリアートとしての非正規雇用労働者に対して、自己責任を謳い、貧困を自助努力や向上心の問題に回収しようとするメディアやネオリベラリズムが投げつけるものでしかなく、奴らは「希望を持て」と繰り返していたが、そ���はたとえば当時高校生であった自分にも十分うすら寒く聞えるものだった。〝希望〟とは、少なくともその時代において肯定的な何かを呼び起こすような言葉であるどころか、抑圧的ななにかでしかなかった。だが毛利がストリートの思想は希望の思想だとするとき、そこに込められていたのは非常に楽観的な意味合いでしかなく、またそう読むことしかできないほどにあっさりと言明されていた���
だが、ここで幾分過剰に意味を読み取ることをしてもよい。毛利のそうした言辞は、ネオリベラリズムに簒奪された〝希望〟という言葉を奪回し、世界の変容可能性への投企をおこなう一言であったのではないか、と。そうした読みを遂行することも決して不可能ではないだろう。しかし、それでもここには、ではなぜそれが〝希望〟だと言明されなければいけないのかという問いが残されている。繰り返せば、ストリートの思想が希望の思想であるか(あったのか)などどうでもいいのだ。ただ、それを希望だと言い切れる態度、それが問題であった。だから、こうも言えるだろう。毛利のなかにあるであろう希望を見出したという欲望こそが、問題であったのではないかと。
現在になにかしらの希望を見出したいという欲望は、翻って希望のない絶望への恐怖に裏打ちされたものだ。希望も絶望も、共に〝望み〟に執着するという点においては変わりがない。〝望み〟はあるのだということを信じない限り、希望も絶望も概念として存在しえないのだから、希望と絶望とは常に表裏一体なものである。希望が確保されない限り絶望は消えないし、絶望が支配する限り希望は見出されない。その意味で、絶望のなかに希望を見出すというようなテーゼもまた、依然として〝望み〟を捨てきれないという点では希望/絶望という図式を解体するものではないだろう。そしてこうした希望をめぐる欲望の問題は、毛利一人の問題ではない。今もまた、現状において過剰なまでに希望を見出そうとし、そうすることで絶望を回避しようとする心性は支配的であり、その傾向はこの数年、つまりは3.12以降の放射能汚染の世界で高まっていった。現在の運動の趨勢が肯定的なものであるといえるかをあえてここで置いておいたとしても、議会政治における敗北の現実にすら「勝っている」という掛け声においてこれを直視しようとしないような態度は、どこかでいとも簡単に希望なき絶望へと転化するだろう。だか、そうした絶望への恐怖こそが「勝っている」という言辞を求め、希望に見合いそうななにかに過剰な期待が投資=投企されていく。このとき、ロス暴動についてのチャールズ・ブコウスキーの詩を引きながら、マニュエル・ヤンが書き表している次の言葉はすべてを言い当てている。
あれから(引用者注:ロス暴動)二〇余年経った今も、政治や社会運動に過剰な期待を抱く善意で敷き詰めたどのような進歩思想より、この詩に示されている階級的諦観のほうがはるかに優れているようにおもえる。敗北や自滅を勘定に入れない闘い方は、死を前提にしない生き方のように、絶望に至る病を引き起こす、もしくは妄想のレンガで固められた盲信を生み出すのが関の山だ。
「 「捕らわれ人には自由を」──警察暴力、暴動、アメリカ民主主義の黄昏 」
さて、そんな10年代半ばの今。「Songs」という素っ気ないタイトルが付けられた、2008年に結成された彼らによって3.12以降に製作されたものとしては三枚目の作品は、基本的にはただただシンプルなバンド・サウンドへと削ぎ落とされている。たとえばそれは「セシウム」や「話はない」でのあのゾッとするような質のものではない。
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そこには、一言でいえば諦め、それだけがある。希望も絶望も、遠い彼方のさきに捨ててこられた。あるのは放射能に塗れ続けるこの国と社会の無残さを前にして、ただ諦めをもって立ち尽くしている姿だけだ。希望にも絶望にも興味はない。声を荒げることすら、もはやないだろう。放射能と内部被爆をただただ忘却しながら成立してきた3.12以降のこの国において、彼らの音楽は誰も触れようとはしない放射能に言及するから重要だったのではない。ただ、この国に醸成し蔓延した忘却への欲望に加担しない彼らは、日々おかしくなっていくことを忘れようとする人々が表現しようとしないことを、表現していたというだけのことだ。息すること、食べることという人間の生活の根幹が汚染されるなかで生きていくこととはなにかを、歌っていただけだ。
それでも、幾らかはあったであろう怒りや、絶望感、もしくは光のようなものは、今作においてはどれくらい見あたるだろうか。そこには、慟哭することなく、ただ諦めながら日常を歌い奏でるだけのものたちがいる。世界が変わることも、世界が終わることも望まず、ただ、日々少しずつ文字通り腐っていくだけのこの社会を前にして、歌うたうだけ。そこには〝望み〟がいかなる形において表現されることはない。〝諦め〟だけが歌われていく。
だが、ここにはある矛盾があることを、見出そう。「本当に諦めきってしまえば、ならばすべてをやめてしまえばいいのではないか?」と。諦めながら、なお歌い表現すること。そこにはどう考えても矛盾がある。諦めながら歌うということは、諦めているはずの自分を行為遂行的に裏切っていくことなのだ。だが、それはありきたりな「諦めていたはずなのに」という語り口を生み出すような物語では決してない。
なにより、10分近い、「ヒッピーに捧ぐ」を歌い上げる忌野清志郎の抒情と同質(とは言い過ぎかもしれないが)の情動によって歌われるような、消え去った〝あなた〟のその記憶を愛おしく抱き続ける「Hero」からクロージングトラックにして今作してのベストトラックでもある「ほんとごめんね」に至るまでの展開が素晴らしい。あらゆる力みから無縁の徹底した諦観のなかで、そこに執拗に立ち現われていくのは〝あなた〟もしくは〝君〟のことでしかない。だがそれは希望の別名として、希望の仮託先としてあるのではない。〝望み〟のその先の地平で、諦めながら歌うという振る舞いが結果においてなにかをもたらすことはない。だが、諦めながらなおも執拗に歌うなかで発露し喚起されるのは、脆く揺れながらも消えることのない情動であり、それは〝あなた〟と〝君〟にかかわったものであり続ける。そう、駆けられているのは、そうした矛盾の過程(プロセス)のなかで立ち現われていく情動なのであり、それは今作においては、〝あなた〟と〝君〟の記憶に、〝あなた〟と〝君〟を愛した自らの記憶に他ならない。そう、ゆえに、定言命題は次のようになる。忘れるな。
敗北や死、喪失、諦めを表現することは、しかしなによりも肯定性の表現としてある。人が本当に諦め切ったとき、それは人が何もしなくなる時でしかない。必要なのは「諦め切って」しまうことでも「諦めない」と言いきることでもなく、諦めながら、なお表現することである。それをなおニヒリズムや敗北主義だといって切って捨てるなら、そんな人間は信用しなければいい。
諦めながら、生きていくこと。表現すること。終わってしまった愛。あなたのこと。世界は終わるものだが、まだ終わらないとして。さあ、なにをしようか。00年代を通過し、3.12から5年が過ぎ去った10年代半ば、民の深部と共震する数少ない傑作。
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