デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社.2017)
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(以文社.2017)
序 リベラリズムの鉄則と全面的官僚制化の時代
-1970年代以降、官僚制に関する研究がめっきり減少[p4]
→官僚制が私たちにとって空気なものになったから
-ネオリベラリズムと官僚制
:・旧来の福祉国家の解体とともに「市場による解決」を貫徹させようとする右翼が反官
僚主義的個人主義の語り口を採用するにつれて、主流左翼は福祉国家の残骸を救出せ
んとする防衛的な位置に自らの立場を切り縮めていった。[p8]
・歴史的にみて市場は、自由で自律的な領域としてあらわれたのではなく、政府による
活動、とりわけ軍事的行動の副産物であるか、直接に政府の政策によって形成された。
それ以前は多くの人々がインフォーマルな信用手段を利用していたのに対して、金銀
銅などからなる物理的貨幣やそれが可能にした一種の非人格的市場は、軍隊の動員、
都市の略奪、貢納の取り立て、戦利品の処分を補助する役割に留まっていた。近代的
中央銀行システムはそれと同じく、戦争への融資を目的に創設された。[p11-12]
市場は政府と対立したり政府から独立しているという発想が、少なくとも一九世紀以来、政府の役割の縮小をもくろんだレッセフェールの経済政策の正当化のために用いられたとしても、その政策が実際にそんな効果をもたらすことはなかったことである。たとえば、イングランドのリベラリズムがみちびいたのは、国家官僚制の縮小などではなく、その正反対、すなわち法曹家、役所の記録係、検査官、公証人、警察官たちの際限のない膨張であった。自律した個人のあいだの自由な契約の世界というリベラルな夢をみることができるのも、かれらあってこそなのだ。自由な市場経済を維持するためには、ルイ一四世風の絶対君主制の数千倍のお役所仕事が必要だったわけである。[p13]
→リベラリズムの鉄則
:いかなる市場改革も、規制を緩和し市場原理を促進しようとする政府のイニシアチブも、
最終的に帰着するのは、規制の総数、お役所仕事の総数、政府の雇用する官僚の総数の上
昇である。[p13]
=市場システムを動かしつづけるためにはおびただしい数の行政官が実際には必要にな
る。[p13]
→アメリカの官僚制的習慣のほとんどが民間セクターから生まれてきた。[p18-19]
:・アメリカ社会において「官僚」(=企業の中間管理職)という言葉と「公務員」とを同
じ意味で扱うべきだという感覚は、1930年代に生まれた。
* ルーズヴェルトのニューディーラーたちは、法律家、エンジニア、フォード社やコカコーラ社などによって雇われた企業官僚の一群と密接な協力関係を結びつつ、彼らのやり方や感性の多くを吸収していった。
:・より大きなレベルではアメリカ政府は、軍事目的のため特定の国内産業は保護し発展
させるといった具合にソヴィエト流の産業計画に関与してきたが、軍事目的というお
題目によってそれは産業計画として認識されてこなかった。実際には鉄鋼プラントの
維持からインターネットを設立するための研究にいたるこれらの計画は、軍事官僚と
企業完了の連携によって実行されたため、それは当初から官僚制に関わるものであっ
た。[p20]
:・1970年代にあらわれ、今日までつづいている事態として労働者から離脱し株主に接近
すること、そして金融機構総体へと接近するというアメリカ企業官僚制上層による戦略
上の転換がある。[p27]
→・企業経営がますます金融化
・個人投資家にとってかわった投資銀行やベッジファンドなどによって金融セクター
も企業化
万人が投資家の眼をもって世界をみるべし、これが、この時代のあたらしい信条である。[p28]
教育が私企業化する。その結果、授業料は増大する。学生たちは、巨大フットボール・スタジアムやそのたぐいの常務理事お気に入りのプロジェクトへの支払い負担や、増える一方の大学職員の急増する給与支払に貢献するよう見込まれている。それから、中産階級の生活水準を保障してくれるはずの職種への参入資格証明としての学位への要求の上昇、その結果、負債の度合いもどんどん高まる-これらすべて、単一の網の目を形成しているのだ。こうして積み上がった負債の結果の一つ目が、政府それ自体が、企業利潤取得のための主要な機構と化してしまう事態である。(もしだれかが学生ローンの債務不履行をやらかしたとして、なにが起きるか考えてみるだけでよい。法にかかわる機構総体がただちに作動をはじめ、資産の押収、賃金の差し押さえ、数千ドルもの追加的罰金をもって脅しをかけることになる。)結果の二つ目が、債務者を強制して、かれの生活のいろんな局面をますます官僚化させることである。つまり、かれの生活は、収入と支出を計算し、たえずその収支バランスを確保すべく格闘する小企業であるかのように、運営されねばならないのである。[p34]
→証明書のフェティッシュ化
市場や個人のイニシアチブへの賞賛にもかかわらず、この政府と金融の同盟のもたらした結果は、旧ソ連あるいはグローバルサウス[南の発展途上国]の停滞した旧植民地にみられる最悪の過剰な官僚制化に顕著なまでに似ている。たとえば、旧植民地世界における、証明書、免許、卒業証書へのカルトについての人類学的文献は多数にのぼる。それらの文献でよく指摘されるのは、バングラデシュ、トリニダード、あるいはカメルーンのように、植民地支配の重苦しい遺産と土着の魔術的伝統のあいだをさまよっている国では、公的な資格証明書(official credentials)が一種の物質的フェティシュとみなされている、ということである。そうした[資格]証明書が証明しているはずの現実の知識や経験、訓練とは完全に区別された、おのずと力を発揮する魔術的対象なのである。しかし、一九八〇年代以来、資格偏重主義(credentialism)の真の爆発が、アメリカ合州国、イギリス、カナダのような、もっとも「先進的」とされる経済国にも起きた。[p30]
1 物理的暴力そのものの重要性を過小評価してはならない。
日常生活の官僚制化とは、非人格的規則と規制の押しつけを意味している。ひるがえって、非人格的規則と規制が作動できるのは、それらが実力の脅しによって支えられる場合にのみである。そして実際、全面的官僚制化のこの最新局面において、わたしたちが目撃してきたのは、監視カメラ、白バイ、仮IDカードの発行人、公共・民間施設問わず、さまざまな制服でうろつく男性と女性である。威嚇、脅迫、究極的には物理的暴力を行使する戦術を訓練で身につけたかれらは、まさにほとんどあらゆる場所にあらわれる。遊園地、小学校、大学キャンパス、病院、図書館、公園あるいはリゾートビーチですら。五〇年前だったら、そのような光景はけしからんじゅものか、あるいは端的に場違いであると考えられたはずだ。[p44-45]
2 原因としてのテクノロジーの重要性を過大評価するな。
テクノロジーの変動は単純に独立変数であるのではない。テクノロジーは進歩するものであるし、しかもしばしば驚嘆すべき予期せざる仕方で進歩する。しかし、それのとる方向性は社会的諸要因に依存しているのだ。[p47]
3 すべて究極的には価値にかかわることであると銘記すること(あるいは、最大の価値は合理性にあるとだれかがいうのを耳にしたら、そのひとが最大の価値が本当はなんなのかを認めたくないからそういっているのだと銘記すること)。
いいかえれば、合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際にはなんのためのものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と想定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。市場と官僚制が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。
→この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配が生み出した最も深刻な遺産
:合理的・技術的手段とそれが奉仕する不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識
であるかのように見せかけてきたこと
→・もともとの想定では人間は豊かになるために市場に足をむけ、そのために最も効率的
な方法を計算するとされる。しかし、実際には合理性ないし効率性それ自体が価値で
ある、われわれは「合理的」社会を構築せねばならぬと宣言する人間が出現する。
・生を豊かにするために芸術や宗教がなくてはならないという想定が、生活自体が芸術
に、あるいは宗教にならねばならない、と主張する人間が現れる。
*目的と手段の間の分裂を埋めようとする衝動
それゆえ、大局的には、世界を官僚制的効率性で再組織しようが、市場の合理性で再組織しようが、ほとんど問題ではない。根本にある諸々の想定は、すべて、なんら変わることがないのだから。国家による経済の完全な統制から完全な市場化へと、大喜びで宗旨替えした-そして鉄則に忠実に、その家庭で官僚の総数を劇的に増大させた-旧ソ連の役人たちのように、なぜその両極を横断するのかがかくもやさしいのか。あるいは、現代の全面的官僚制化の時代にみられるように、なぜこの[官僚制的効率性と市場的合理性]二つとが融合して、ほとんど継ぎ目のなだらかな一体性を形成しうるのか。その理由は、まさに、そこ[諸々の想定の同一性]にある。[p56]
1 想像力の死角? 構造的愚かさについての一考察
ジョセフ・ヘラー『キャッチ=22』、ボルヘスの作品群など[p75]
→・官僚制の生活の喜劇的な無意味さを強調しているこれらの小説は、同時に暴力の空気
に満ち満ちた作品でもある。
・極端な暴力行為は、おおかた官僚制的環境(軍隊、監獄など)で生じるか、官僚制的
手続きに直接に包囲されている。
この論考の主要な対象は、暴力である。ここで論じたいのは、暴力によって形成される状況は、官僚制的手続きにふつうむすびつけられているさまざまな種類の自発的盲目を形成する傾向にあるということである。ここでいう暴力とはとりわけ構造的暴力である。構造的暴力という言葉でわたしの意味しているのは、究極のところは物理的気概の脅威によって支えられた遍在的な社会的不平等の諸形態である。おおざっぱにいうと、こうだ。官僚制的手続きは本質的に愚かであるというだけではないし、あるいは、官僚制的手続き自身がおらかと規定するふるまい-それらは実際に愚かなのだが-を生み出す傾向にあるというだけでもない。官僚制的手続きは例外なく、構造的暴力に基礎づけられているがゆえにすでに愚かである社会的諸状況を操作する方法なのである。[p81]
→構造的暴力とは何か。平和学的な「構造的暴力」概念=(物理的暴力行為を含んでいな
いにもかかわらず、暴力と等しい効果をもつ「諸構造」があるという考え)の拒否
:・官僚制的制度を支え、官僚制的手続きによって正当化される物理的暴力、ないしその
ような力を行使する人間を招集する力能[p82]
・恣意的決定を可能にし、相対的に平等主義的な社会的諸関係に特有の討議、説明、再
交渉を回避する効果をもつ。[p92]
=(構造的)暴力の要点は、「解釈労働」の回避、ないしその省略[p92-96]
*「解釈労働」:ひとの直接の意図や動機を表面的に把握するのを超えて、より深く把握
したいときになされる多大な努力行為[p92]
暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となるのである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。[p97]
→「想像力の構造」[p
:ex)自分が1日性別が変わったらと想像させ、この1日がどのようなものになるのかを書
かせるという課題を課したところ、男子学生のかなりの部分がこのようなエッセイを
書くことを拒否してしまうのに対して、女子学生たちは誰もが詳細な弔文のエッセイ
を書いてくる。
→いかなる場所でも女性たちは、あらゆる状況が男性の視点からどのように見えてい
るかをたえず想像するように期待されているのに対して、同じような期待は男性に
はほとんどおきない。[p99]
*2つの要素の存在
⑴知の形式としての想像的同一化の過程[p100-101]
:支配の諸関係の内部では当該の社会的諸関係がどのように実際に作動しているのかを理
解する作業は、実質的に従属状況に置かれた人々にゆだねられている。
⑵共感的同一化の結果として生まれるパターン[p101-102]
:貧民はあかりにいつも惨めな状況にあるため、ふつうであれば共感力の豊かな観察者も
すぐ圧倒されてしまい、彼らの存在を視界から抹消してしまうように余儀なくされる。
その結果、社会的階級の底辺に位置するものが、多大な時間をかけて頂点にあるものた
ちを想像する。
→構造的不平等は、例外なく高度に偏りのある想像力の構造を形成する。このような不平
等な諸関係を維持する最大の力がこの想像力の構造[p102]
-暴力の正当な管理運営者としての警察官
:警察とは武器をもった官僚[p103]
→警察の仕事のほとんどは、実力による事態への介入にあるのではなく、ペーパーワーク
を発生させる類のものにある。[p103-104]
ex)強盗や盗難の大多数は、作成すべき保険証書があるとか、再発行すべき紛失書類があ
るとか、そういう場合でないと報告もされない。[p104]
→ここ50年来の大衆文化のなかで警察が想像的同一化の対象と化してきたことが一因
となり、そのような混乱が生じた。[p105]
少なくとも、これらのことは、鉄の檻についてのウェーバーの有名な憂慮、すなわち、近代社会は無機質なテクノラートによってギチギチに組織されるため、カリスマ的英雄も、魔術も、ロマンスも完全に消え果てるであろうというウェーバーの危惧に対して、異質なニュアンスを加えるものである。結論からいうと、実際には、官僚制社会は、それに特有のかたちのカリスマ的英雄を生み出す傾向をもっているのである。一九世紀末以来、こうした英雄は、神話的探偵、警察官、スパイ-すべて情報を秩序づけるという官僚制的機構と現実の物理的暴力の適用とがむすびつく領域で活動する人物たちであることは重要である-が、とっかえひっかえで顔を出すというかたちをとってあらわれてきた。官僚制は、つまるところ、数千年ものあいだ存在してきたし、官僚制社会は、シュメールやエジプトから中華帝国にいたるまで、偉大な文学を生み出してきた。しかし、主人公自身が官僚であり、完全ある官僚制的環境の内部でのみ活動するといったジャンルを生み出したのは、近代の北大西洋文学がはじめてである。[p105]
2 空飛ぶ自動車と利潤率の傾向的低下
「現代の現実はSF的無想のベータ版である」(リチャード・バーブルック)
一九五〇年代や六〇年代までに、はやくも、テクノロジー的イノベーションのペースは、二〇世紀の前半の猛烈なペースからすると原則をはじめていた、と、信ずべき理由がある。いわば発明の最後のほとばしりが、一九五〇年代にみられるが、それは、電子レンジ(一九五四年)、ピル(一九五七年)、レーサー(一九五八年)がたてつづけに登場したときである。しかし、それ以来、もっとも目立ったテクノロジー的進歩は、大部分が、既存のテクノロジーを結合するあたらしい方法(宇宙競争においてすら)か、あるいは既存のテクノロジーを民生用に転換するあたらしい方法(もっとも有名な事例はテレビジョンで、発明こそ一九二六年ではあるが、大量生産されたのは一九四〇年代の終わりから五〇年代のはじめにかけてやっとであった。それはアメリカ経済の布教への落ち込みを防ぐため、あたらしい消費需要をひねりださねば、といった意識的な努力によるものである)の、いずれかの形態をとっている。しかし宇宙競争も手伝って、いまの時代は異例の進歩の時代なのだという考えが拡がった。その結果、テクノロジーの変化のペースはコントロール不能なまでにおそろしく加速しているというのが、一九六〇年代に支配的な大衆の印象となった。[p163-164]
テーゼ
一九七〇年代に、いまとはちがう未来の可能性とむすびついたテクノロジーへの投資から、労働規律や社会的統制を促進させるテクノロジーへの投資の根本的転換がはじまったとみなしうる。[p171-172]
:・ニクソンvsフルシチョフの「キッチン・ディベート」(1959)[p174]
→ニクソン「あなたがたの共産主義的「労働者国家」は、宇宙空間へと人類をいざなっ
たかもしれない、しかし、汗して働く大衆の生活を本当に改善した洗濯機のようなテ
クノロジーをつくったのはまさに資本主義なのです」
・アメリカがスターウォーズ計画を試行していた1980年代においてさえ、ソヴィエト
はまだテクノロジーの創造的利用を通した世界の変革の構想や計画をやめていない。
Ex)スピルリナといわれる食用真正細菌を湖や海から収穫することで世界の飢餓問題を
解決しよう、数百に及ぶ巨大な太陽光発電機を打ち上げ軌道に乗せそこから得られる
電気を地球に送ろうといった計画など[p176]
なによりまず、民間セクターでおこなわれた真にイノベーティブである研究の総量は、ベル研究所をはじめとする一九五〇年代、六〇年代の企業研究部門の全盛期以来、実際には減少しつづけている。その理由のひとつは、課税の仕組みの変化である。電話会社はその利潤の多大なる部分を自発的に研究に投資していたが、それは、利潤への課税がきわめて高額であったためである-自社の労働者(忠誠を買うことができる)と研究(つまるところカネ儲けよりはモノづくりこそ企業の努め、という古い考えにいまだとらわれた会社にとっては筋の通ったものだった)とにカネをつぎこむのと、そのおなじカネをたんに政府にもっていかれるのとでは、どちらがマシか、を考えればよい。序章で述べたような一九七〇年代と八〇年代におけるもろもろの変化のあと、これらのすべてが変貌を遂げた。法人税は引き下げられた。いまや、経営者たちはますますストックオプションというかたちで報酬を受け取っているが、かれらは、利潤を投資家たちへの配当として支払いにあてるだけではなく、昇給、雇用、研究予算にもふりむけうるカネを、株式を買戻して、経営者たちのポートフォリオの価値を上げるため-生産性の上昇には寄与しない-に使用しはじめたのである。いいかえれば、減税や金融改革は、その提唱者たちがいうところとは、まったく真逆の効果しかもたらさなかったのだ。[p182-183]
→このような徹底した取り組みの根底にあるのは、階級闘争への介入
:・新しく現れたテクノロジーの性格は、監視、労働規律、社会統制に適したもの
→それが活用されるやり方は、労働なきユートピア達成のための手段としてではなく、
労働者を負債の泥沼のなかに引きずりだし、伝統的な雇用の安定性を突き崩し、総労
働時間を上昇させる方向へ向けられてきた。[p184]
・多くの資金投資がなされているはずの医療部門[p185]
:ガンの治療法や風の治療法ですらも進んでいない一方で、プロザック抗うつ剤、精
神刺激剤のようなものの領域においてブレイクスルーが起きる。これらは、フレキ
シブルな労働体制のもとのあたらしい職業上の要求が社会生活不能なまでに私た
ちを狂わせてしまわないよう、特別に与えられた品々。
・労働市場のネオリベラル改革の帰結は、労働を脱政治化することにかけては、めざま
しい成功を遂げてきた。[p186]
:不生産的、つまり資源の浪費でしかない軍隊、警察、民間セキュリティー・サービ
スの急成長
アンチテーゼ
とはいえ、莫大な資金をえている科学やテクノロジーの領域すらも、もともと期待されていたブレイクスルーをみていない。
変化したものは官僚制の文化である。政府、大学、私企業の相互浸透がすすむにつれて、企業世界に起源をもつ言語、感性、組織形態が、すべての部門にわたって採用されるにいたったのである。このことは、直接市場向け製品の開発の速度をいくぶんかは上昇させるのに役立った-企業官僚制の任務として目されていたのがこれだ-とはいえ、もともとの研究を促進させるという観点からは、その結果は破局的なものであった。[p191]
→・ペーパーワークの爆発的上昇は企業マネジメント技術の導入の直接の帰結
:それはあらゆるレベルへの競争の導入によって効率を高めるという口実で正当化さ
れているが、このようなマネジメント技術が実際にもたらしたのは、補助金申請、
書類の企画書、学生の奨学金や助成金申請の推薦書、同僚の評価、新規の学際的専
攻や制度の設立趣意書、カンファレンスのワークショップ、そして大学自体などを、
たがいに売り込むために、誰もが自分の時間をほとんど四苦八苦しながらつぎ込ん
でいるという事態。その結果、想像力や創造性の実現を芽のうちにつむことをめざ
しているとしか思えない環境のもとで「想像力」や「創造性」を高めることを唄う
書類が積み上がる。[p191-192]
・「オリジナルなアイデアあるところ申請書は却下される。これが鉄則なのだ。なんと
なれば、そんなアイデアはまだうまく使えるかどうか判明していないから、だ。」
:いまの時代、ドゥルーズやフーコ、ブルデューが大学世界に現れたなら、彼らは大学
院すら修了できない。アカデミアが変わり者、図抜けた頭脳、浮世離れのための、社
会のなかの避難所であった時代は、もはや存在しない。そこはいまや、プロの自分売
り込み人の領域である。[p193]
臆病な官僚主義的精神が、知的生活のあらゆる領域に浸透してきたのである。たいてい、それは、創造性、イニシアチヴ、起業精神といった言葉で飾られている。しかし、これらの言葉は無意味である。あたらしいコンセプト上のブレイクスルーを達成しそうな可能性のもっとも高い研究者は、資金を獲得する見込みのもっとも低い人たちである。もしこうした状況にもかかわらずブレイクスルーが起きたとしても、そのうちにひそむもっとも大胆な含意をひきだしながらそれにつづこうとする者があらわれないことは、ほとんど確実である。[p197]
→ソ連に対するアメリカの最終的勝利が「市場」の支配へ導いた、ということはない、そ
うではなく、その勝利は単に短期的で競争力のある実利的発想を口実に革命的な可能性
をはらむものすべてを剥奪する企業官僚の支配を強化しただけである。[p199]
ジンテーゼ
詩的テクノロジー(Poetic Technologies)から官僚制的テクノロジー(Bureaucratic Technologies)への移行について[p200]
ex)インターネットは、あらゆる種類の創造的ヴィジョンやコラボ的創意を解放してきたが、
それが現実にもた���してきたのは、目的と手段の反転、すなわち創造性が管理運営に奉
仕すべく動員されるという事態[p201-201]
→諸機械がありえない空想を実現するために動員されることもある。詩的テクノロジーが
そのようなおそろしいまでの空想的要素をはらんでいるのは確かである。しかし詩は、
恩恵を与えたり解放をもたらしたりするのと同程度、闇の悪魔の工場をも誘発するもの
なのだ。ところが合理的・官僚制的テクノロジーは、つねに特定の空想的目的に奉仕し
ているのである。[p203]
どう時代の産業革命に手放しの礼賛をみせていたマルクスとエンゲルも、この点については端的に誤っていた。より正確に言えば、工業生産の機械化が最終的に資本主義を解体させるだろうという点では、かれらは正しかったが、市場競争が工場所有者をして機械化を永続させるよう強いるであろうという予測においては誤っていた。その予測が誤っていたとしたら、理由はただひとつである。かれらの想定とは異なり、市場競争は、実は、資本主義の特性にとって本質的なものではなかったからである。なにはともあれ、競争の大多数が、擬似独占大企業の官僚制的機構内部での内部取引というかたちをとるようにみえる現代資本主義の形態は、かれらの眼には、まったくの驚きであろう。[p204-205]
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板垣竜太「フィールドワークを歴史化する ヴィンセント・ブラントの韓国村落調査(一九 六六年)をめぐって」
板垣竜太「フィールドワークを歴史化する ヴィンセント・ブラントの韓国村落調査(一九
六六年)をめぐって」
一 はじめに-本稿の背景と目的[p110-113]
米国の人類学者 ヴィンセント・ブラント(1924〜)『韓国の村落-農地と海のあいだ』
:1966年忠清南道の西海岸にある石浦(仮名)という村落において実施したフィールドワ
ークに基づく民族誌
⇒本稿の目的は、彼によるフィールドワークがいかなる社会的背景のもとで、どのような
関係性のなかで、どのような手法で行われ、そのフィールド経験のどの部分が民族誌と
なっていったのか、その歴史的文脈ないし社会的位相の一端を明らかにすること
→フィールドワークの歴史化、あるいは社会史的資料としての批判的再活用
二 民族誌以前と以後-ブラント略歴[p114-119]
・1949年外交官試験に合格し、米国大使館のストラスブール支所に派遣される。
・朝鮮戦争中だった1952年、韓国の臨時首都・釜山に派遣される。
* 食糧不足の実態調査と救援穀物の調達先の視察のため、威鏡北道出身の通訳とともに、ジープに乗って韓国の農村を回る。その過程で道ゆく韓国人を車に乗せ、タバコをあげてはいろいろインタビューもする。
・1953年にソウルへ、1954年にはワシントンでの台湾デスクの部署で働き、1955年に東
京の米国大使館へ転勤。
・1960年、官僚仕事を退屈に感じており、1年の休暇がほしいと大使館にかけあったもの
の、それが認められないことがわかるや辞職を願い出る。
・1960年10月より妻(東京滞在時に釜山で出会い米国留学から帰ってきた鄭喜環と結婚)
や友人らとともに大西洋横断のヨット旅行を敢行。
・1961年にハーバード大学院に入学し、東アジア地域研究と社会人類学を専攻する。
・1965年、コースワークを終え、韓国に渡り語学研修を受けたあと、1966年3月より石
浦へ移り住む。
・1968年に博士論文提出
・以後、ソウルの板子村(スラムないしバラック街)、民主化運動などを研究する。
*「私は米国政府のために冷戦の戦士からスタートして、最後は光州のカトリックによっ
てラディカルにされてしまった。」
三 民族誌の位置づけ
四 フィールドワークを歴史化する
・フィールドワークの方法
-インフォーマント
・李先生:両班層に属し、村で唯一の国民学校教諭
*ブラントは、彼のサラン房(客間兼書斎)に住む。
・金泰模:10代の若者で学歴としては、書堂と国民学校だけだったが「李先生」も認め
る人物
⇒「李先生」は博識だが調和と協力の理想化された像で石浦を語りがちなため、争いごと・
泥棒・姦通などについてはよいインフォーマントではなく、逆に泰模はシステムの不公
正さ、貧困や土地なしの人々への差別を感じており、批判的視点から起きた出来事につ
いて説明をしてくれ、またスキャンダルについてもよく話してくれた。[p131]
-参与観察の導き手としての米国の文化的ヘゲモニー
・自宅のサラン房でインスタントコーヒーやウィスキーを振舞いはじめると、村に喫茶
店がなかったこともあり、無料の飲み物を求めていろんな人がやってくることになっ
た。
・大量の薬入り医療キッドを持ち込み、村人にしばしば治療行為を施す。
⇒米国の文化的ヘゲモニーは、現地調査のなかでも作動していた。[p132-133]
-質問紙調査から垣間見える韓国60年代農村の社会性
・博論に際してハードなデータも要求されていたため、収入、財産、負債、乳幼児死亡
率、相続、再婚・妾、養子などの個人情報を調べる調査票を配ったが、実際に得た調
査データをクロスチェックしてみたところ、多くの情報がでたらめだということがわ
かった。
→「李先生」の解説
古くからつらい経験をしてきた教訓から、村人は知らない人に対して口を閉ざすようになっている。とりわけ金銭や政治に関わることについてはそうだ。何千年ものあいだ韓国の農民は徴税官や警察その他の寄生官吏に抑圧され搾取されてきたから、秘密にすることを生き残る戦術として身につけており、外部の人には可能な限り軽く嘘をついて流すようになっている。[p134]
⇒植民地期や米軍政期を含めてさまざまな「調査」に曝されてきた民衆は、調査票を片手
にやってきた外部者に対して「こいつは何を聞きたいのか」「これで面倒なことに巻き込
めれないか」を気にかけるようになった。[p134]
・分断国家と米国の存在
-ソウル行きの船が故障して一時停止したときの経験
「もしこのまま流されたら、わたしらは北朝鮮の人にスパイ船と間違われて捕まるのではないか」と誰かが口にした。深刻なやりとりが続いた後、米国人が一緒に乗っていたらみんな撃たれるに違いないという話になった。二人の女性は、真剣な敵意をもって横目で私を見た。[p136]
-「密売」へ関与した経験
・当時、村の人が現金収入を得るために豚を売ろうとしていた。だが正規のルートを使
うと、輸送、屠殺、卸売、検査、食肉証明などを経ねばならず、またその過程で中間
搾取を受けなければならなかった。そのため、その人は仁川の食堂の人々と直接交渉
し、金銭をそのまま受け取る戦略を取った。そのとき、夜間外出禁止令に基づく警察
による検挙を避けるために、ブラントを使用しようとした(当時、米国人であれば警
察は見逃してくれた)。
私が石浦の人々で敬服すべきことはいろいろあった。その一つは、かれらがシステムに打ち勝ち貧困を緩和させようと、乏しい資源を最大限活用しようとする際にみせる、頑強で、ユーモアあふれ、弾力性をもち想像力にとんだやり方だった。どんなものも無駄にはしなかった。この場合でいえば、あやしげな外国の人類学者の価値でさえもである。[p139]
・参与と共感[p139-140]
-開発投資の「失敗」
・石浦の行先を心配したブラントは、米国財団の韓国担当者を通して開発資金を引っ張
ってくる。
・里長および有志からなる評議会で運営する開発基金を立ち上げる。
⇒しかし、評議会によって選ばれた融資対象は、みな有志の親戚筋ばかりで、誰一人とし
て事業が成功に結びつかず、酒にひたって息子と喧嘩した挙句、息子が投資対象で船を
売り、べつの小舟を買って漁に出るケースまで表れた。
五 おわりに-今後の課題
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金東椿 韓国「近代」の肖像-五〇年代韓国農村社会における家族と国家
金東椿 韓国「近代」の肖像-五〇年代韓国農村社会における家族と国家
1 はじめに
-本稿の問い:今日の資本主義化された韓国社会、特に社会関係と社会組織を構成するそ
の基本的な原理は、その基盤をいつ築いたのか。[p57]
-問題提起
資本主義経済秩序が樹立され、農地改革や分断国家形成に向けて伝統的な家族・親族の秩序があらたに変形されはじめた朝鮮戦争直後の五〇年代こそ、高度に都市化され「資本主義化された」今日の韓国社会の実質的起源をなしていると思われる。その理由は、今日の韓国資本主義がたんに資本主義市場経済という普遍的原理を基礎として作動しているものではなく、工業化以前より存在していた韓国特有の政治・社会秩序、とりわけ伝統的家族・親族関係が現代的に変形結合した基盤のうえでいとなまれていると考えるからである。[p57-58]
-分析対象:資本主義的社会関係の成立地点を50年代に置き、50年代農村における社会
的ネットワーク、特に親族関係の現代的再編過程および新たな近代的社会組
織の登場とそこへの農民の参加、国家の農村統制過程などを追跡し、韓国の
伝統的な家族・親族秩序がどのように再編されて資本主義経済秩序と結合し
てきたのかを考察する。[p59]
* 筆者は言及していないが、本稿で使用されている資料の多くが韓国人類学において蓄積された民族誌である点も重要である。
2 歴史的遺産-李氏朝鮮時代以後の家族と共同体
-李氏朝鮮時代の家族秩序[p63-65]
・血縁親族集団と居住親族集団との折衷型であり、姓氏集団(clan)として存在(金宅圭)
:同じ姓氏であっても居住地域や直系祖先の地位によって全国単位あるいは地域単位でそ
の社会的地位が異なる。
・「家」という観念世界(崔在錫)
:韓国の伝統社会の両班層にとって「家」とは、集落や地域に居住する同じ姓氏の門中集
団を指すことが多く、それは観念的に拡大された家族であり、その構成員は過去の祖先
から未来の子孫へと連結された時間を超越し永続性を帯びた集団として想像された。構
成員は祭礼行事を通して象徴的な団結を追求し、祖先の功績を反芻することで、現在と
過去の生を連結させ、家族的秩序内の序列や年齢構造を通して集団的統制と秩序維持を
はかった。
-日本の植民地統治による家族秩序の変容[p64-65]
:身分関係に基礎づけられた伝統的社会秩序を、経済的関係つまり地主—小作関係を根幹と
する社会関係へと再編しつつ、伝統的支配階級を部分的に包摂しその社会的地位を部分
的に維持させると同時に伝統的な親族的・共同体的統制構造にかえて総督府という新た
な国家機構・地方行政機構を据える。そのため、植民地期は半封建的秩序が定着し、身分
秩序と階級秩序が錯綜した時期ではなかったかと推察される。また植民地時代の抵抗過程
で「家」という観念世界を飛び越え、「はらから」「同胞」という意識を抱くようになり、
実際に数百万の人口が海外に移住するようになる。
-解放以降および朝鮮戦争期[p61-62,65]
:朝鮮戦争を前後して実施荒れた農地改革によって個別家族単位に土地が分割所有される
ことで、半封建的経済関係は瓦解し、農村経済は資本主義的商品・貨幣関係に編入され
る。また、朝鮮戦争の過程で軍人と民間人数百万名が朝鮮半島のはるか向こうの果てま
で移動するという経験をし、軍人だけではなく避難した人、自分のふるさとで韓国軍や
人民軍と出会った人など、すべての人々が戦争のなかで自分とは異なる言葉づかいや思
考様式、行動様式と接触する機会をもつ。
* 崔在錫によれば、解放以前は農家全体の88パーセントが家で服地をつくっていたが、解放後には65パーセントの農家が服地を買い求めるようになったという。[脚注6,p96]
3 五〇年代農村の家族関係と地域
⑴ 身分・親族・地域
-韓国における近代国家形成は、班常[両班と常民]の身分的差別とともに同族をなしてい
た父系親族集団の解体を通じて可能となった。しかし、同時に地域によって違いはある
ものの、50年代の農村社会においても地方の主要同属集団は、世論形成と地域内の意思
決定と資源の配分にかなり影響力を行使した。[p66-67]
:・同属集団は、物的基盤が農地改革によって瓦解したとしても相対的に高い教育を受
けた人が多く、地域内に強力なネットワークを形成しているため、自分お過去の身分
地位を、末端の行政機構の長や公務員や地方議会委員などにかたちをかえて延長させ
ることが多かった。
・50年代には特定の門中集団が大勢を左右する「氏族投票」が全国的に見られる。
* 「部落の同族を原型とする地域的・血縁的共同体ないし共同体的関係は[ふつう]近代化
の進展とともに弱化されるものであるにもかかわらず、むしろ補強されてゆく特殊な様相を呈している」(梁會水)
⇒しかし、このように部分的には意思決定に際して大きな影響力を維持しつつも、伝統的
な父兄親族的紐帯は客観的に見れば弱化せざるをえなかった。[p67]
:・両班が常民に棺輿(死者の棺を墓に運ぶ輿)をかつげと要求したところ、常民出身者
は自分の棺輿もかついでくれるのでなければ両班のそれもかつがないと突っぱねる。
[p67]
・植民地時代と同じ割合・範囲(郡内、広くとも道内の人と結婚)で通婚圏が広がって
いた。(結婚範囲においては、変化はさほど見られない。)[p68]
・1950年代末の時点で大多数の農民は、国内外の消息をラジオや新聞のような全国的メ
ディアによって把握していたのではなく、他人から、特に集落の教育を受けた層や有
力者から受け取っていた。[p69]
⇒50年代は、法的・経済的には身分秩序が崩れた時期ではあったが、通婚の制約に象徴さ
れるように、この時期は社会的には身分秩序がいまだ決定的に瓦解していない過渡期に属
している。[p70]
⑵ 家族の構成と性格の変化
-朝鮮戦争後、最も際立った変化は、三代以上が居住する直系家族が大幅に減り、核家族
が増えたこと[p71]
:・核家族のような小規模家族への再編は、家族の柱である直系男性家長の権威を弱化さ
せる結果をもたらしたと思われる。[p73]
・直系家族内の年長者の影響力が弱まり、個別家族の自律性が高まった結果、人々は李
氏朝鮮時代の人々のように氏族・親族構成員の出世を自分の出世と同一視するよりは、
「子ども」の出世だけを自分の社会的地位獲得と同一視する傾向が見られるようにな
った。[p73]
・この時期、農村に完全な意味での核家族が定着していたとはいいがたいが、長男の経
済状況も地主の消滅と小農化によって他の兄弟と変わるところがなかったため、分家
した兄弟と世帯運営が実質的に外的に強制された。[p74]
4 農村の社会組織と農民参加
⑴ 農村社会のネットワーク-契・祭祀などを中心に
-契(日本でいうところの講)[p75-77]
:・李氏朝鮮時代には父母の教えや教化、公共事業、相互扶助、災害保護、産業的目的、
資金の融通を目的とする契があり(白南雲)、1937年の時点で朝鮮には約2万8000余
の契が存在しており、その構成員は約88万人に昇っていた(崔在律)。
・朝鮮戦争後、激しくなるインフレーションと相まって、全国のいたるところで婦人契
や高利債対策としての契などさまざまな契がつくられ、信用評価という匿名的社会関
係に依存するのではなく、個人的信頼という対面的・人格的社会関係に則って運営が
なされた。
・しかし、このような契は形式上該当者全員加入を条件としていたが、実質的には年齢
や姓氏などによって加入の可否が決定された。
-祭祀[p78-79]
:・洞祭は、植民地時代までは比較的維持されていたが、解放後50年代になると消失し
てしまった。
・家族・門中といった親族単位の祭祀は年に10回以上、数十回も繰り返された。
⇒洞里単位の会合頻度よりも、家族・門中単位の会合頻度の方が比較にならないほど高く
なり、家族内部に自閉する傾向が高まった。ある調査のなかで「だれが一番信じられる
か」という問いに対して「親族」と答えた人は53.8パーセント、隣の人と答えた人は
14.2パーセントにすぎないという結果が示された。[p78-79]
⑵ 国家と農民
-解放以前の行政機関[p80-81]
:李氏朝鮮末には洞里に農庁や郷役所といった自生的機関が存在し、勧農と五倫道徳の教
養を実施していたが、植民地時代に日本はこのような自生的組織を解体させ、帝国農会
の法規をつくり朝鮮農会を創設し、農民を統制した。
-朝鮮戦争以降の行政機関[p81-
:・50年代に入ると、洞契の役割を次第に郡・面・里単位の行政組織が代行しはじめl上
からの行政組織とその末端の管理者である里長が主導的にそのような役割を担うよう
になった。
・政府や地方行政機構は、農村の貧困克服と秩序維持のために模範農村を建設する運動
を展開し、4H青年運動や農業指導要員を養成するなどの措置を講ずることによって、
農村指導事業を推進した。
* しかし、農民たちは国家が上から組織した行政組織にしぶしぶ参加しただけであり、当時の社会的条件下で親族的紐帯から抜けでて水平的人間関係を基盤にしたクラブや市民社会組織に参加しようという意識は、希薄であった。[p83-85]
かつての氏族的紐帯がいまや部分的に解体され[かたちを変えて]再生するとともに、過去には氏族内部や自然部落でおこなわれていた秩序維持・福祉・娯楽・余暇といった機能の相当部分を、国家・行政機構・資本が主導する全国的言論機関や放送網や映画館などが吸収しはじめた。それにともない農楽や歳時風俗のような集団的娯楽がしだいに消えてゆき、農村の青年たちは花札などの賭博にのめりこみ、農村地域の小さな邑や面の単位にまで映画館がひろがっていった。農作業をやっていては食べてゆけないし、社会的地位も得られないので、多数の農村の青年たちは自暴自棄の状況に陥ってしまい、わずかでも教育を受けた人は農村を離れようとした。[p85-86]
⑶ 学校・教会と農民[p86-87]
-50年代に農民が最も自発的かつ情熱的に参加した組織=教会と宗親会・師親会[PTA]
:50年代の農民は、個人的な精神の安定と社会的地位の追求の通路として、教会と学校に
積極的な関心を示していた。
5 現代韓国における新家族主義の登場
すでに指摘したように、植民地経験をへた韓国農民の権力にたいする不信は、自分のほかはだれも信頼しないというかたち心理的伝統として落ちつくようになった。たとえば「洋服をきている」にたいして農民がどれほど善意をもって接触したとしても、心のなかで農民は「あの野郎またきたな、あいつらがまたくる」という意識をもっていた(崔ビョンヒョプ、一九九五、一六頁)。そのうえ朝鮮戦争をへるとともに、農民の伝統的な諦念や服従や不信主義が復活し、うわべは国家に服従するがいまや信ずるものは家族しかないと考え、内容的にはもっぱら家族の安定と福利だけを追求するあらたな「家族主義」が定着しはじめた。[p90]
⇒伝統的家族主義が家紋の名誉と家紋の親族の繁栄を第一の目標とするのに対して、すで
に核家族化した家族をひとつの分離不可能な共同体と見なし、家族の繁栄を最高の価値
として受け入れるこの心性は、「新家族主義(neo-familism)」といいうるもの[p91]
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中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』
中村江里『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館2018)
森田和樹
序章 戦争とトラウマの記憶の忘却
1 問題の所在
アジア・太平洋戦争期における「トラウマ」と本書の問い[p2-3]
:「戦時神経症」または「戦争神経症」と名付けられ、軍部や国家の一大関心事となる。
※ にもかかわらず、なぜ日本社会では戦後50年以上も戦争神経症は見えない問題となってきたのか。
2 先行研究と本書の位置づけ
直接の先行研究:野田正彰『戦争と罪責』(岩波書店1998)、清水寛 編著『日本帝国陸軍
と精神障害兵士』(不二出版2006)
→特に清水編著の方が戦争神経症を含む「精神障害」兵士について包括的に論じる唯一の
研究[p11]
問題点:・戦争神経症の顕在化と深い関連のある総力戦のインパクトが考慮されていない。
つまり、総力戦体制と「福祉国家」化や軍事援護研究が明らかにしてきたような、
総力戦期における動員の拡大と同時にとられるようになった多面的な統合策と精
神疾患の関係が考察されていない。[p12-13]
・国府台陸軍病院という陸軍病院の資料に基づいた考察に限定されており、国府台
陸軍病院の特質や患者の動態、戦争と精神疾患を取り巻くさまざまな文化・社会
的構造が捨象されているため、静態的な歴史像になってしまっている。[p13]
3 本書の課題と視角
課題[p14]
⑴総力戦期において軍隊内の精神疾患への対応にはどのような特徴があるのかを明らかに
すること
⑵戦時精神疾患の問題を国府台陸軍病院のみに集約せず、より広い文化・社会的構造の中
で再考すること
→視角[p14-15]
:・総力戦下において福祉領域へ国家の介入がつよまったという文脈を踏まえる。
→軍事援護という問題領域での議論を再構成する。
・医療記録に残された人々が全体から見ればある意味で特異な位置に置かれた存在であ
ったことを念頭に置き、国府陸軍病院の外に目を向ける。
→病気の発現の仕方や受け止め方を社会的、文化的構造のなかで捉える。
※ 精神科医で医療人類学者の宮地尚子が、一般的には受けた被害が大きければ大きいほどその人物は雄弁にその問題について語りうると考えられているが、実際にはトラウマ的出来事からの距離の近さは発話力に反比例すると指摘していることに示唆を受ける。
第1章 兵員の組織的管理と軍事心理学
総力戦としての第一次世界大戦[p24-25]
→・軍部はあらゆる分野の関連を要請する総力戦という衝撃によって心理学も含めた軍事
以外の分野に関心を持つようになる。
・心理学では「作業能力とその発言に関する研究」を行う実験心理学という分野が産業
効率化にも利用されるようになり、その力量を活かせる場を探していた。
1 軍隊と心理学[p25-33]
-陸軍と心理学研究
・1921年4月から陸軍士官学校の教育課程のなかに心理学が設置される。
背景:第一次世界大戦におけるドイツ軍の敗北と帝政ロシアの崩壊(ロシア革命)によ
る大正デモクラシー(「新思想」)の開花と「思想悪化」
→強圧的で盲目的・奴隷的服従ではなく、「理解ある服従」を兵士たちに求めることで軍紀
を引き締める必要性が高まる。そのためには将校が教育学や心理学の知識を身につけて
おかなければならないとされる。
→実験心理学および戦争心理学と呼ばれている分野が陸軍に応用される。
「精神的の機能を分量的に而も其個人差を測定せんとする」分野
ex)「戦時及戦争中の心理」(戦争心理学)「平時の軍隊心理」(実験心理学)の把握
:実験心理学の実践として当時渡米していた東京帝国大学教授松本亦太郎らにより、第一
次世界大戦中に米軍で実施された集団式知能検査が紹介され、実際に検査が行われる。
※ しかし、陸軍では海軍のように特殊化・細分化された技能を持つ兵員を選抜する必要がなかったため、検査自体は単発で終わる。
2 戦争心理・戦争心理研究[p34-45]
⑴内山雄二郎『戦場心理学』
:陸軍では、心理学・教育学・倫理学・社会学を研究するために2年あるいは3年間将校
を東京帝国大学および高等師範学校などに派遣する制度が戦間期にできあがっており、
その制度に基づき1927年から1930年まで東京帝国大学文学部において教育学・心理学
の聴講を命じられ、系統的な心理学研究を行った歩兵少佐内山雄二郎が書いた本。
→この本のなかで内山は、戦争において臆病であったり精神的に不調をきたしたりするこ
とは、必ずしも兵士個人の性質にのみ原因が帰せられるべきではなく、環境などの外的
要因の影響も大きいと指摘。
⑵『偕行社記事』における戦場心理の報告
陸軍将校の研究・親睦組織「偕行社」の機関紙『偕行社記事』において満州事変から日中全面戦争の時期に「戦場心理」を関した論文が多数掲載される。
:前線よりも後方部隊の方が戦闘の悲惨な光景から受ける精神的影響が大きく、恐怖観念
を伴う、死傷者が出た場合に後送を申し出る者の中には臆病者がまじっている、負傷し
て後送される兵士を羨むなど、さまざまな事例が報告される。
⑶教育総監部における研究
:1938年、数回戦場心理班を設け前線兵士たちに質問用紙調査と聞き取り調査を行う。
※ 資料は終戦時の「処分」命令と戦災によって紛失
第二章 戦争の拡大と軍事精神医学
軍隊における精神病はなぜ問題とされるのか。
-1912年陸軍軍医学校卒業式における「御前」講演[p52-53]
:「精神変質」や「精神薄弱のような「素因ある兵卒」が「生活の激変」を伴う軍隊生活に
入ることで精神病が発生し、それによって抗命、逃亡、離散などの「犯罪」を犯すよう
になり、それが軍全体に広まる。
1 日中戦争以降の治療方針と治療体系
1937年8月患者後送計画[p54-55]
;・治療に一ヶ月以上かかるものは内地移送とする。
※ 朝鮮人、台湾人兵士に関しても同様。
・内地移送された兵士は、国府台(こうのふだい)陸軍病院(千葉県市川市)で治療を
受ける。
※ 国府台陸軍病院は、1938年11月に重度の「戦時精神病」患者を治療するための特殊病院として開院。そこの軍医たちはエリート中のエリート。なお、斎藤茂吉の長男、斎藤茂太も国府台陸軍病院で軍医を勤めていた。
2 「戦時神経症」の定義
軍医たちは戦争神経症をどのように理解したのか。[p59-61]
・陸軍軍医大佐梛野巌の講演での発言(1937年11月)
:・第一次世界大戦で注目を浴びたKriegsneurose(ドイツ語で「戦争神経症」)に対して
「戦時神経症」という訳語をつけた。神経症患者が戦線から離れるほど重篤化し、後方
部隊や休暇で帰郷中にも発症することがあるため、「戦争」ではなく「戦時」という言
葉に置き換えた。
・「戦時神経症」の具体的症状の大部分はヒステリー(麻痺・知覚過敏症・歩行障害・言
語障害・聴覚障害など)とする。
・「戦時神経症」の原因には先天的な部分と後天的な部分があるとしつつ、根本的な
原因は「帰郷願望」にあるとし、治療はこうした願望を打ち砕くことであるとする。
3 「皇軍」における戦争神経症の存在の隠蔽
・陸軍医務局は、欧米軍に多数発症した戦争神経症は、日本の皇国民の場合、士気旺盛な
ため起こりえないと述べる。
・しかし、民衆の間では帰還兵のなかに精神的変調をきたすものたちの存在(「戦地ボケ」)
の噂が流れていた。
小括
このように軍隊における精神疾患の原因を兵士個人の脆弱性・逸脱性に帰する見方は、過酷な戦場の状況や軍隊内務班における「私的制裁」などが兵員の精神に及ぼす深刻かつ長期的な影響を見過ごし、ひいては戦争と精神疾患に関する軍部の責任を免責する論理につながったと考えられる。またこうした問題が戦後日本社会において広く認識されることを阻む一要因にもなったのではないだろうか。[p70]
第3章 戦争の長期化と傷痍軍人援護
戦争の長期化と援護政策の展開[p78-79]
・1937年3月軍事救護法が改正され、軍事扶助法が制定される。
・扶助対象の拡大と充実がはかられる。
・1937年11月内務省社会局に臨時軍事援護部が設置され、1938年4月には厚生省外
局として設置された傷兵保護員が臨時軍事援護部から独立して傷痍軍人保護事務を担
うことになる。また、1939年7月には臨時軍事援護部と傷兵保護員合併し、軍事保
護員が設置され、傷痍軍人・軍事遺家族・期間軍人の援護事業を統合的に行う。
1 医療保護
⑴傷痍軍人療養所の開設[p79-83]
療養所入所資格
:陸海軍病院での診断の結果、兵役免除と判断され、引き続き療養を必要とするもの。
※ 結核と精神症をわずらった人々に対しては、「公務に基因」と規定することで、対象者を広くとる。
→恩給診断書に関わる問題(「傷痍軍人」としてさまざまな優遇恩恵を得られるかどうかの
線引きには戦傷病が戦闘・公務に基因するかどうか。)
:精神神経疾患の場合、外相という明確が原因が存在する頭部戦傷や外傷性癲癇などは一
等症だったが、精神分裂病をはじめとするそのほかの精神疾患は戦争末期に傷痍疾病差
が改定されるまで二等症であった。
→「傷痍軍人」とそれ以外の傷病兵との間に区別が存在することによって、傷病兵たちの
間の不満を高めるのではないかという問題が起こる。
⑵傷痍軍人武蔵診療所[p83-88]
武蔵診療所までのルート
① 回復して原隊復帰の見込みがある者は国府台陸軍病院に残る。
② 症状が固定して回復(原隊復帰)が見込めない者のうち家に帰れる者は帰る。
③ 帰れない者は武蔵診療所へ転送される。
※ このような患者の再配置は、戦況の悪化に伴い、先頭・労働能力に応じて人員をより組織的に管理しようとした試みであったといえる。
武蔵診療所の入所数(1940~1945)
総数:953名
精神分裂病、進行麻痺、躁鬱病、神経質・神経衰弱・ヒステリーなど、神経薄弱、癇癪という順番に患者が多かった。
⑶食糧事情の悪化と死亡率の上昇
戦争の進行とともに療養所の食糧事情が悪化し、死亡者の増加につながる。[p89]
2 職業保護-「再起奉公」の対象外となった精神障がい者-[p90-92]
戦時下の傷痍軍人保護の中でも最大の問題は、就労能力を失った「戦争傷痍者」を再び職業戦線に参加させ、「第二の御奉公」をさせることであった。なぜなら、人一倍健全な身体をもって国家の為に尽くして傷ついた者を「生来の不具者」と同列にしてはならないからである。そのためには、職業教育によって職業生活への復帰を可能にする必要があった。それは、傷痍軍人を日露戦争時のように「社会的寄食者」の状態に置くのではなく、積極的に国家の「人的資源」として活用すべしという総力戦の要請とも合致するものであった。[p90]
→・傷痍軍人援護における職業斡旋は、基本的に総力戦という文脈のなかで理解すべき。
・第一次世界大戦期のドイツでは神経症患者の戦時労働力化が組織的にすすめられ、労
働が治療の一環として考えられる一方、恩給の節減という国家の目的にもかなったも
のであった。
※ 結局、精神障がい者となった人々は雇用されず。
3 国民教化-保護と排除のせめぎあい-[p92-97]
国民教科の第一指導目標
:「国民をして、戦没軍人、傷痍軍人及出征軍人に対する感謝の念を昂揚持続せしめ、苟も
年月の経過に伴ひ冷却するが如きことなからしめること」
→ポスター・パンフレットなどの文芸作品の作成、映画・レコード・ラジオの利用、標語・
絵画などの募集、善行者の表彰など
※ 戦傷病兵間の亀裂/戦傷病者緒方文雄による病院生活の記録『陸軍病院』(講談社1941)
:皇軍将兵には戦争神経症のような意志薄弱な1人でもいるはずがない。
→恩典を貰ってしかるべき「われわれ」と大した症状もないのに恩給を要求する戦争神経
症の「彼ら」を差異化。
第Ⅱ部 戦争とトラウマを取り巻く文化・社会的構造
第1章 戦場から内地へ-患者の移動と病の意味-
戦場から内地へ、また病院から郷里への移動は、単に物理的な移動にとどまらない、病の持つ意味が変移していく経験だったのである。[p106]
1 統計から見たトラウマの地政学[p107-112]
1940年の陸軍身体検査規則改正
:徴兵身体検査の基準が大幅に緩和され、従来不適合とされていた「身体又は精神の異常
のある者」であっても兵業に支障がなければ合格判定を出すことに。
→患者数の増加
:・国府台陸軍病院に送られてきた患者の��倒的多数が中国大陸からの患者であった。
・しかし「精神病」および「その他の神経病」者数は1942年〜45年の4年間だけでも
国府台陸軍病院に収容された患者数をはるかに上回っていた。
⇒国府台陸軍病院は、精神神経疾患の治療の中心地と位置付けられていたが、入院した患
者は全体のうちのごく一部であり、その背後には精神疾患を患いながらも内地に還送さ
れなかった膨大な数の患者が存在していた。
→内地に還送されて治療を受ける者は「特権」とされ、軍部や将兵たち自身が特有の目線
を向けることにつながった。
Ex)・内地還送を望んで自傷行為に及ぶものたち
・後方へと送られることを「恥」と考え、自殺するものたち
※内地還送をめぐってさまざまな心性が兵士たちの間に広がる。
2 戦場に取り残された精神疾患兵士たち
「中国では精神を患った兵士には全く出会わなかった」という証言
→軍隊内部、野戦病院・兵站病院においても患者は隔離されていた。[p114]
3「ヒステリー発生の温床」としての陸軍病院
国府台地区軍病院の軍医たちは、戦場から内地へ還送された患者の病像変化に多大な関心を寄せる。
→笠松章「戦時神経症の発見と病像推移」/細越正一「戦争ヒステリーの研究」[p130-131]
:・戦場体験直後の反応とその後の時間差を伴って現れる症状を区別し、前者は誰にでも
生じうる生理的な反応で一過性のものであるとする一方、後者は戦場からの逃亡や恩
給などの願望のもとに発言する症状とされた。
・持続的な精神加工による症状の発展固定への移行が前線から後送され内地陸軍病院に
いたるまでの患者の移動と重ね合わされて捉えられる。
・同一の体験でも発症する人としない人が生じるのはなぜか、という問題に対しては「本
人の素因」に原因を還元する。
小括
基本的に国府台陸軍病院の軍医たちは、戦争神経症の原因を、暴力に満ちた戦場・兵営の状況ではなく、願望や素因のように患者個人に問題があるためだと考えた。このため、戦場・兵営体験の持続的で長期的な影響は見過ごされることになった。国府台陸軍病院の軍部に言わせれば、前線と銃後の中間地点に点在する陸軍病院は、後方に近づくにつれて「ヒステリーの温床」としての性格を強めていくものであった。[p134]
第2章 一般陸軍病における精神疾患の治療-新発田陸軍病院を事例に-
1 衛戍病院・陸軍病院における精神疾患の治療
衛戍病院→陸軍病院という名称へ(1936年11月)[p139-143]
:戦争の長期化とともに各陸軍病院内の精神治療科も拡大
2 陸軍病院と銃後社会
⑴新発田陸軍病院の概要[p144-145]
・三等甲病院で収容人数は294名
※ 一等病院(小倉・大阪・広島)の収容人数は2950、2731、913、二等病院である国府リクグ運病院は1272名
⑵患者の慰問[p146]
・大日本国防婦人会の支部会員たちが頻繁に病院を訪れる。
⑶病気を恥じる兵士と家族[p147-148]
・<健康な身体>の基準を満たさないことは<国民>として、<男>として恥ずべきとい
う価値観が社会的に共有されていたため、身体的要因によって除役となることは「恥ず
べきこと」と考えれた。
Ex)「遺憾」と感じたある男性は、徴兵保険金を献納、後送を拒否、遺家族が献金(償い)、
自分の病気の悪化に際して必ず全快させて再び原隊復帰させてくれと頼む患者
⑷「白衣の勇士」のあるべき姿[p149-150]
・「第二の奉公」を志すものたち-戦傷病兵たちの再就職を準備する場としての陸軍病院
・「偽傷痍軍人」の登場
3 新発田陸軍病院病床日誌に記録された精神神経疾患
・新発田陸軍病院では「神経衰弱」患者が最も多く、そのなかには頭痛や睡眠障害などを
伴う軽度の心身の不調から、自傷他害のおそれがあるため受診に至ったケースまで幅広
く存在していた。[p159]
・除役になるという経験-兵役を全うできずに郷里へ変えることが<男として>恥ずかし
いという意識。[p162]
[補論]戦争と男の「ヒステリー」-アジア・太平洋戦争と日本軍兵士の「男らしさ」
軍医と患者の口問
口問
(中略)
(三)お前の病気は一体なんだと思ふか?-ヒステリー
(四)ヒステリー等は日本の兵隊にあるか?-ありません
(五)一体どんな人間がかかる病気か?男か?女か?-女です[p195]
→・ヒステリーの特徴である感情的反応の強さは、女性に生まれつき備わった性質である
ためにヒステリーは女性に多いという説明が社会的に広がっていた。
Ex)女性解放運動は、「ヒステリー性の跋扈」であり、「戒むべきこと」
・軍隊における「女々しさ」=「女性性」を否定的価値として措定し、それを克服する
ようにする文化
⇒ヒステリーになった兵士は、「女々しい」恥ずべき存在として自他ともに捉えられた。[p183-196]
第3章 誰が保証を受けるべきなのか-戦争と精神疾患の「公務起因」をめぐる政治-
・「戦時神経症」と傷病恩給の関係性はどのようなものだったのか。
1 陸軍における恩給制度
・恩給法[p203-206]
傷痍疾病等差-一等症、二等症(公務起因でない場合)
恩給の種類:・普通恩給
・ 一時恩給
・増加恩給
・傷病年金
・傷病賜金
2 国府台陸軍病院における恩給策定
・恩給策定は軍医によって行われていた。[p209-213]
→軍医たちは、頭部外傷やマラリアなどの流行病患後の精神神経疾患のように公務に起因
することがわかりやすいものたちを「一等症」にする一方、「精神薄弱」は「二等症」と
した。
→精神分裂病、躁鬱病、反応性精神病、神経衰弱、癲癇などは公務に起因するか否かを判
定する要素として重視された。
※ しかし実際にはこれらの要素ではなく、軍務への貢献によって公務起因かどうかを判断するようになった。
・「戦時神経症」をめぐるアリーナとしての臨床
→軍医たちは、戦争神経症の発症メカニズムを説明するうえで、患者の願望(逃亡欲求な
ど)を重視していた。
戦争神経症の治療の場は、まさに自らの生存・生活をかけた患者の訴えと、彼らが国家のために自らが払ったと主張する「犠牲」を客観的に証明できる器質的根拠がないことを立証しようとする軍医の主張がせめぎ合うアリーナだった。[p217]
※ 扶助をもらえなかった患者たちが「当局を非難し動もすれば反軍的なこと迄も云々する。」[p217]
・恩給の策定[p229,233]
→・内地で発症した患者を一等症患者からなるべくのける。(1942年以降、内地で発病す
るものたちが中国大陸で発病するものたちを上回る。)
・「勤仕年月六ヶ月以上」や「困苦状況」の証明がない限り、公務起因で発病したとはみ
なさない。
3 戦後の精神疾患と傷病恩給をめぐる言説と実態
恩給申請という行為への着目は、個人及び集団の戦争記憶が構築され、戦われる場や、自己の問題経験を定義し、社会や国家に向けて訴えようとした主体としての戦争被害者像を前景化させる。しかし一方で、その語りはある一貫したストーリーと公務起因とう法の規範を満たしていなければ裁定には結びつかなかったものと考えられる。援護法をめぐる議論でも指摘されたように、公務起因の要件として発症時期は限定されており、戦後長期間を経て発症した遅発性PTSDは対象外となった可能性が高いだろう。また、言語化不可能(困難)であるというトラウマの性質や、戦争・軍隊経験のように、戦地で殺し殺される恐怖、厳格な上下関係、飢えや病に苦しみながらの果てしない行軍など種々のストレスが複合的に絡み合う経験とは馴染みにくい制度であるとも言えるのである。[p253]
第4章
1 旧国府台陸軍病院入院患者の戦後
目黒克已による証言(1965年に旧国府台陸軍病院に入院していた戦争神経症患者を調査)
現在はそうでもないですが、調査した時点では精神病患者に対する差別があり、精神病であるということだけで日本の社会の中で切り離されていましたね。たとえ病状が軽くても本人も親族も言わないし、言えば就職も結婚もできない、出世もできないというのが普通でした。彼らは指針病であるということ自体を恥と考えていたし、その延長線上で返事をしない人々が多数いました。[p268]
2 神奈川県の精神病院に入院した元兵士たち
自己および他者に対して攻撃性を発揮する患者たちの存在
:「軍隊の現実が市民の現実に取って代わる時、感情や行為の認知スタイルも変化する・・・
この新しい認知の仕方、体験の仕方を身につけるということは人格の完全な変容を意味
する。」(シャータン)[p282]
→・家庭内暴力の存在
・「社会適応」の再考-結婚や就職を通しても「社会適合」はなされない。[p293]
3 臨床の場に現れた戦争の傷跡
PTSDはよく「異常な状況にたいする正常な反応」であると言われるが、そもそも正常/異常の境界線は、文化やその時代の価値観に大きな影響を受ける。「日常的に人を殺す」ことが「異常」であると考えるのは戦後の市民社会における価値観であると言えるだろう。「人を殺せる」兵士こそが「正常」であるという圧倒的な価値体系のもとで生きなければならなかった元兵士の中には、そうした軍隊の論理と、個人の良心や戦後の市民社会における加害行為を否定する論理とのギャップに苦しみながら戦後を生きた人々もいたのではないだろうか。[p191-192]
終章 なぜ戦争神経症は戦後長らく忘却されてきたのか?
⑴精神的犠牲者の大部分を占める戦地に取り残された人々の記録が軍事精神医療システム
から抜け落ちてしまっていたり、終戦時の焼却命令などによって失われたりしてしまっ
た。また彼ら自身も「自分だけが生き残ってしまった」という生存者罪悪感や記憶喪失
などのために証言することが困難であった。
⑵軍事精神医療システムに組み込まれたとしても、過酷な「戦場」体験がその直後に何ら
かの影響を人間の心身に及ぼすということは認知されていたものの、それがいかに長期
的な影響を及ぼすかという点は考慮されていなかった。
→「戦場」とは地理的に限定された概念でいいのか、また国家間の戦争が終わるとともに
それは消失してしまうものなのか。
トラウマを負った人はよく「二つの時計」を持っていると言われる。一つは現在その人が生きている時間であり、もう一つは時間が経っても色あせず、瞬間冷凍されたかのように本尊されている過去の心的外傷体験に関わる時間である。そのような圧倒的な恐怖を核とする心的外傷後の反応として戦争神経症を捉え直してみると、病院に居るはずなのに敵襲に怯えたり、死んだ戦友の幻覚に悩まされる兵士や、明確に言語化はされてないがさまざまな身体の機能障害(とりわけ四肢の痙攣や目・耳の機能障害など軍事行動に関連する部位の障害が多かった)を呈する兵士など、彼らの心身に刻み込まれた「戦場」の痕跡が存在した。これらの事例に加えて、第Ⅱ部第四章の神奈川県や山形県の精神病院入院患者の事例もあわせて考えると、「戦場」という空間から離れ、「戦時」という時間が終わってもなお残る傷を生み出す-そして「戦後」もしくは「新たな戦前」になるかもしれない時代を生きる私たちもまた、その傷とともに生きている-ものとして戦争を捉え直すことが必要なのではないだろうか。[p306-307]
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伊藤亜人『北朝鮮人民の生活』
伊藤亜人『北朝鮮人民の生活』
第1章 住民と社会統合
「人民」と「主体」[p40を参照]
成分と三大階級[p43-]
三大階層のうち核心階層は、北朝鮮社会の体制を維持する統治階層であって全人口の約三〇パーセントを占めるとされ、その中でもキム・イルソン、キム・ジョンイル、キム・ジョンウンとその家族・親族および約二〇万と推算される高級幹部たちが全人口の一パーセントを占めるという。残りの二八〜二九%に革命遺家族(反日闘争犠牲者の遺家族)、愛国烈士遺家族(朝鮮戦争時の非戦闘員犠牲者の遺家族)、革命インテリ(日本の植民地支配からの独立後に北朝鮮で養成されたインテリ)、朝鮮戦争当時の犠牲者家族、朝鮮戦争の戦死者家族、栄誉家族(朝鮮戦争時の傷痍軍人)、後方家族(人民軍現役幹部将校の家族)、そして労働者・苦悩・貧農出身の党員で党および行政機関の中下級幹部などがこれに属すといわれる。[p44]
障害者の扱い
→平壌市内に居住する身体障害者および精神病者に対しても原則として家族たちも含めて
地方に強制移住させる政策がとられ、事実上低い身分として扱われる。[p52]
手記:朝鮮戦争のときに避難する馬車から落ちた事故で腰が曲がるという障害をおった女性は、人口調節のたびごとに真っ先にその名前が上がった。[p54]
第2章 社会主義化
今日、正統的・古典的な「中央集権的司令経済体制」を守る社会は、北朝鮮とキューバ以外には見られない。[p74]
在日帰国者がもたらした財物は、市場での闇売買や親戚間の贈与を通して非公式的に社会に流通。[p78]
第3章 組織生活
テノリ:相互扶助そして社会規範に縛られず遊ぶ場の存在[p84]
公的な制度・組織としては、党(朝鮮労働党)およびその傘下の外郭団体、生産組織および行政的な管理組織、住民の職場以外の活動を指導管理する地域行政の末端組織として人民班がある。このほか一般住民とは別に住民統制の機関として治安と警察を担う安全部と、政治的情報と監視機関として国家保衛部がある。また軍事組織として人民軍と、その除隊軍人に依る赤衛隊があり、教育制度としての各種学校がある。[p87]
総和の意味[p128]
:批判の内容の是非よりも組織員の集団主義を演出し、その理念を共有する儀式的な場となっている。
第4章 産業政策
第5章 協同農場
第6章 住民に対する供給体系
軍人に対する食糧をはじめ全ての物品は国家から供給されるが、国家から供給される物以外に、支援物資と言う名のもとに、当初は住民が自主的に献納したとされるが、後には国家に対する忠誠の証として推奨され半強制化されるようになった。協同農場においても収穫の中から最優先的に軍が持ち去るのが当然のこととされている。これは供給と言うよりは、強奪と言ってもよい。収穫ばかりでなく軍による強奪は家畜や燃料にも及ぶ。[p220]
第7章 自力更生と副業活動
国家の供給に頼らず自己資金・資材を用いて機関や企業と交渉し、必要な物資を得るという方法は、本来計画経済の体制においては、計画外と見なされ原則として許されなかったが、自力更生・自体解決という名の下に容認されるようになる。[p261]
手記:
北朝鮮では軍人たちに盗まれれば、「人民軍を支援した」といってそれ以上取り合ってくれないのが現実だ。[p271]
鉄製品の日用品を扱う鉄工場では、副産物の鉄板で十能(炭火を運道具)や匙や箸を作り、家庭で必要な送風具(プング)や鉄製の臼(チョング)などを作って商店に出す。また、羅南名誉軍人工場では樹脂日用品を作っており、ここに廃ビニールを集めて持って行けば「八・三」で作ったビニール製品のバケツ、盥状の器(ソレ器)、パガジ(瓢箪の形をした器)など必要な製品と交換してくれた。この方式は、国家の生産計画に依らず、国家に納める金額の計画だけ達成すればよい。[p284]
第8章 私用耕作地
第9章 市場(チャンマダン)・商い・交換
市場で注文すればどんなものでもなんだかんだで手に入った。[p335]
このように一九九〇年代に入って市場は規模の点でも、また取引物資の面でも大きく発展を遂げ、「苦難の行軍」の時期には、従来闇取引とされていた違法な商いがほぼ公然と行われるに至った。国家計画経済以外の私的経済活動を厳しく規制することで維持してきた社会主義流通体制は、住民の実生活において実質的に底辺からなし崩し的に破綻したといってよい。[p346]
第10章 タノモシ
人民軍隊は習慣的な盗賊である。[p417]
韓国でもかつて軍人の盗みは一種の余興のようになっていて、面白がり競い合って物を盗んできてはそれを能力や手柄のように自慢したり称賛したりしたという。軍の規律が緩んだ結果と言うよりは、軍という特権的かつ実力社会に見られた習俗のようなものなのだろうか。[p419]
人民軍兵士による盗み、略奪および強盗行為もあちこちで見られる。一九八〇年代までの人民軍兵士による盗賊形態は、飢餓を遁れるための脱営軍人たちによる個別行動が大部分だったが、一九九〇年代に入ると、人民軍の服務生活自体が盗賊や強盗に変わった。[p420]
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森千香子『排除と抵抗の郊外 フランス<移民>集住地域の形成と変容』
森千香子『排除と抵抗の郊外 フランス<移民>集住地域の形成と変容』
序章 フランス主流社会とマイノリティの亀裂を問う
1章 フランス郊外研究の視座 空間と結びついたマイノリティの差別と排除
2章 多様化する郊外とマイノリティ
1 「移民」と「郊外」の関係を整理する
2 郊外をめぐる複数の空間的アプローチ
3「移民」と居住の多様化 中産階級の台頭
4「移民」カテゴリー内部における分極化の進行 郊外非民地区の状況の悪化と時間的変化
北アフリカ・アブサハラ出身者が社会住宅に集中している状況[p43]
→「移民」と国民では入居を許可される社会住宅が同一ではない。
:老朽化が進み、辺鄙な場所にある社会住宅に低所得の「移民」が集中(1980~90)[p44-45]
5 「郊外問題地区」の類型化とセーヌ・サン・ドニ県の事例
パリ都市圏の5分類[p47]
第3章 排除空間の形成と国家の役割 フランス的例外か?
1 「マイノリティ集住地区」としての郊外はどのように形成されたのか
2工業地帯の郊外
19世紀後半、「流刑地」としてのパリ郊外の形成[p58]
→「排除空間」であると同時に「対抗社会」としても台頭=「赤い砦」[p65]
3団地の郊外
第二次世界大戦後、高層団地が大量の住宅を供給するために大量に建設される。
→「未来の住宅」としての高層団地、郊外というイメージ
※ 1970年代後半にかつて「未来の住宅」とされた郊外は、「非人間的」と断罪されるようになる。[p70,p76]
4移民の郊外
団地の大量建設期と旧植民地からの労働者大量動員の時期は重なる。=戦後復興および高度経済成長を移民労働者が支える。[p77-78]
アルジェリア、モロッコ、チェンジニア(フランスの旧植民地)からの労働者募集
→1973年のオイルショックを機に西諸国は低成長の時代へ&生産拠点が海外に移転。
こうしたなか、政府はこれまでの移民労働力動員政策の大幅な見直しをはかる。1974年に新規移民の受け入れ停止を決定する一方、正規資格で滞在する移民労働者には帰国奨励政策を敷き、さらに正規の滞在資格を持たない労働者とその家族には「強制退去」など強圧的な政策を講じた。
だが一連の政策は、フランス国内に滞在する移民と家族の危機感を強め、かえってその「定住化」を促す結果となった。実際、「帰国奨励制度」を利用したのはイタリア、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国出身移民であり、政策が対象としていた旧植民地出身者はフランスにとどまった。[p79]
移民の生活空間/居住空間-移民寮に入れなかった人の場合、トタン板でつくられた掘っ建て小屋でつくられたバラック集落、ビドンヴィル[p82]
ミシェル・ピアルーが指摘するように、一連の移民向け建設計画では「移民だけの空間」という「ゲットー」を作ることに主眼がおかれ、他のフランス人と同じ空間で居住させるという発想は皆無だった。このような旧植民地出身移民向けの住宅政策を検討するかぎり、政府は移民の社会統合をはかるどころか、むしろフランス人から遠ざけ、隔離するような住宅政策をとっていたという仮説は支持できると思われる。[p87]
→1960年代半ばにビドンヴィルの解体が決定され、政府は近隣の団地を再入居先候補と位置付けて住民と交渉を行うも、各自治体の団地管理会社は受け入れ反対の姿勢を固持。それに対し、政府が命令で管理住宅の3割をビドンヴィル出身者をはじめとする「劣悪な住環境に置かれた者」の受け入れにあてることが義務化され、団地への移民の集住が進む。
※ 北アフリカ、サブサハラアフリカ出身の貧しい労働者が住民の大半を占めるようになる。[p87-89]
第4章 「赤い郊外」の変容と都市政策の展開
1 問題設定
2「都市政策」の誕生と展開
3脱工業化のインパクトと「赤い郊外」の変容
1984年共産党機関紙『ユマニテ』に「自治体生き残り戦略」として「産業廃墟」の再活用が提案される。[p112]
→情報サービス産業の誘致、サッカースタジアムの建設
※ 地域の「イメージアップ」が重視される[p113-116]
4市政と住民をつなぐ新たな媒介の模索
5「都市問題」という解読格子の誕生と定着
6階級問題から「都市問題」へ 「赤い郊外」における解読格子の変化
第5章 再生事業と住民コミュニティへの影響
1 地域社会の底上げか、下層マイノリティの排除か?
2「ソーシャル・ミックス」の評価
移民集住地区に「フランス人中級階級」を呼び込み、エスニシティ面で住民構成を変化させようとする意図[p152]
→「移民」の受け入れ拒否とその論理
:「これ以上非ヨーロッパ系が増えるとソーシャル・ミックスが損なわれ、ゲットー化してしまうため」[p155]
3住民はどこへ行ったのか?
移転住民の聞き取り
:再生事業で立退きの対象となる世帯に対しては、家賃の値上げはないことが条件とされていたにもかかわらず、実際には管理費があがったり、同家賃の物件の条件が悪かったためより家賃の高い住宅への入居を受け入れざるをえないなどの事態が発生[p164]
4 「ミックス」の実情と課題
地域社会に企業が生まれても、地域住民は雇用されることなく、また社員と住民は隔離されたまま[p181]
→企業だけでなく、ショッピングセンターも建設される。
:以前までは地域社会で慣習的に行われていた駐車などの公共空間の使用法が新住民たちの苦情によって禁止され、結果として「路上での交流」が禁止されるようになる。[p187]
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平田周「第二次世界大戦後フランスにおける資本蓄積のプロセツの変化―アンリ・ルフェーブルにおける日常生活と都市の主題の交錯点」
平田周「第二次世界大戦後フランスにおける資本蓄積のプロセツの変化―アンリ・ルフェーブルにおける日常生活と都市の主題の交錯点」
序 問題の所在
ルフェーブルが「都市」と「日常生活」という二つの主題に取る組んだ時期[p17]
:「栄光の30年」と呼ばれるフランスにおける高度経済成長期/アルジェリア戦争と1968
年5月の運動と重なる。
第一章 ルフェーブルにおける日常生活の二つの定義
ルフェーブルは、シュルレアリスムのように政治と芸術を横断する、ギー・ドゥボールらアンテルナショナル・シチュアシオニストと再び協働関係を持つ中で、日常生活という主題を共有する。[p18]
「日常生活は、すべての活動と深い関係をもち、それらを差異およびそれらの出会いの場所であり、絆であり、共通の土壌である。人間的なものを、そして、各々の人間存在を一つの全体に作り上げるのは、諸々の関係の総体(ensemble)が具体化し、構成される日常生活においてである。」(ルフェーブル)[p19]
→・諸個人の諸活動の結びつきが意図するかしないかにかかわらず、浮かびあげる場とし
ての日常生活
・日常生活は、主体と客体、自然と社会とを分かつ線が曖昧=両義的なものとして現わ
れる領域であり、人間が切り離すことのできない環境
※ 純粋な思想では定義しえない不定形の巨大な塊
→生産物としての日常生活[p20]
:日常生活は、私たちの活動の「質料」であり、それゆえ私たちはそれを自らの欲求によ
って変形することができる。しかし日常生活は、単に人間主体に従属する客体としてで
かえではなく、たえず新たな自然や環境、質料として生産されることによって、私たち
を拘束するものとして現われる。それゆえ、日常生活は、生産と疎外の、あるいは疎外
と脱疎外の弁証法が展開される場となる。
第二章 日常生活の組織化のプロセス
日常生活を特徴づけるもの:「発展の不均等性」[p23]
→労働者階級の家庭で、子どもの出産を抑制してでもクレジットで洗濯機、テレビ、自動
車を買うという新たな社会的欲求が見出されたり、さまざまなものが溢れながらも住宅
などに関する生活条件が悪化していくという矛盾
※ 不均等発展の概念は、技術の日常生活への浸透過程が均質な全体としてではなく、不均等=不平等に展開していくことを指し示している。つまり、不均等発展は支配・従属関係を形成するプロセスを明らかにする。[p23]
→不均等発展概念の日常生活への適用[p24]
:非蓄積プロセス&循環的時間=農業を主とする前資本主義的な単純再生産プロセス
⇔蓄積的プロセス&直線的時間=本源的蓄積を通して工業を主とする拡大再生産が行われるプロセス
日常生活の時間は、蓄積と非蓄積という相反するプロセスによって組織されている。しかし、日常生活が、蓄積プロセスと結びついた技術によって「植民地化」されるならば、日常生活は、その時間のプロセスにおいても、蓄積プロセスに従属させられた@剥奪された〜私的な(privee)生活」となる。それゆえ、ルフェーブルとドゥボールのテクストにおいて、問題は、いわば「歴史の目的(fin)」として措定された蓄積プロセスから日常死活を解放することである。[p23]
・街路における契機と状況
:私的空間の集まりの集積としての公的空間=日常性が凝縮された場所=街路[p24]
→自動車やそれに準ずる交通システムが構築されることによって、日常性は拡散してしま
う。[p25]
※ 近代都市において、「交通管理」は「不穏」分子から社会を防衛するために街路を動的境界線とする。つまり近代都市の街路とは、政治的「領土の不安定性」が現われる一つの空間である。[p25]
第三章 空間の生産とその政治
植民地に依拠した経済から国土への投資に依拠した経済への転換は、本国—植民地国の関係から国内における中心—周辺関係への資本蓄積の場の移行を示している。[p28]
歴史的文脈―前近代から近代への移行
:工場建設のための空間への投機[p29]
→交通や衛生という都市機能を向上させる一方、都市改造のための土地の収用、都市改造
後の地価の高騰などによってそれまでそこに住んでいた住民が退去させられる。
Ex)オスマンのパリ改造は、1848年2月革命の舞台であった都市の入り組んだ路地裏を一
掃し、軍隊が通りやすくなるための巨大な道路を建設し、その結果、秩序の不安要因で
ある労働者階級の住居をパリ郊外へと移転させた。[p29]
→最も裕福な階級がパリの中心を占め、以前にはそこに住むことができた人びとも家賃が
高騰したために立ち退くことを余儀なくされる。[p29]
クリスティン・ロス『高速自動車と清潔な身体:脱植民地化と文化の再秩序化』
→1954年から1974年のパリの都市改造を「第二のオスマン化」として捉える。
オスマンの時代の鉄道とは異なり、戦後のフランスにおいては、速度の機能は中間階層による車の所有とそのインフラストラクチャーの整備を通して、実現される。そして、標準的な住宅とそのなかに収められる数々のもの(テレビやモダン・キッチン、洗濯機やバスタブ、石鹸やシャンプー)は、清潔さの規範を作り出し、それを通じて、家族性が規定されることになる。個人の車の所有が促進される「車社会化(motorization)」と洗濯機などの商品に象徴される家庭における「清潔さ」の規範化。フランス国内における人や物の流れの加速化と都市における衛生主義の高まりは、植民地に依拠した政治経済体制から、「家庭生活(domesticity)」をコントロールする、新しい「国内の(domestic)」政治経済体制への移行を物語っていると、ロスは主張する。[p30]
→・戦後、パリの中心が再編成される一方で、郊外には新たな産業化のための労働力とし
て用いられるアルジェリア移民のための集合居住地である巨大な団地が建設される。
[p30]
・自動車は移動する機能を他者との接触よりも優先させ、車の形態とその速度が生み出
す仕切りのなかに自らの身体を閉じ込める。衛生主義は他者が出す音や匂いを不快な
ものとして感じさせ、諸個人を他者との共同の場での活動よりも、他者と隔てられた
自らの家へと退却させる。さらに衛生主義は清潔さと「不浄」の対立にしたがって、
人びとの振る舞いを定め、ホームレス排除に見られるような「治安」行為を生み出す。
[p30]
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中村隆之『カリブ—世界論 植民地主義に抗う複数の場所と歴史』
中村隆之『カリブ—世界論 植民地主義に抗う複数の場所と歴史』
第一章 植民地と海外県、その断絶と連続
グリッサン―「統一性は海底にある」[p29]
→プランテーション文化圏としてのブラジル—カリブ海一帯
:・そこでは集団の歌が日々の苛酷な労働を緩和し、夜には太鼓の音にあわせた歌と踊り
が繰り広げられ、人びとは語り部の話を聞いた。この空間で生みだされた歌や夜話が
大農園の解体以降、各地で発展する民衆文化の基盤となった。[p43]
・森は逃亡する奴隷たちの潜伏場所であり住処であった。逃亡奴隷社会も形成され、ブ
ラジル、ジャマイカ、スリナム、ペルーの各地では逃亡奴隷の子孫がいまもなお独自
の社会体を構成している。[p44]
C.L.Rジェイムス―「奴隷貿易と奴隷制がフランス革命の経済的基盤であった」[p60]
→・次第に奴隷は進んで働くことなどない=奴隷制は生産的でないという議論が登場[p62]
ex)アダム・スミス
→・サン=ドマングにおける蜂起[p64]
→・奴隷制の復活(ナポレオン���政期)/再び廃止
※ 砂糖の国際価格が1820年代以降暴落したため、植民地の砂糖よりも大量で安価なブラジル産、キューバ産の砂糖を求めるようになる。[p67]
→・1848年の奴隷制廃止―人道主義者ヴィクトール・シェルシェール
※ 「文明」の布教者としてのフランス「共和国」が「野蛮な」奴隷制を廃止するという「文明化の使命」が基盤。[p69]
第二章 政治の同化、文化の異化
・ムラートとシェルシェール主義者の台頭[p82-83]
・再びプランテーション労働に戻る「解放者/放浪者」たち[p85-86]
・『正当防衛』グループ(1932年ごろ)
:・「有色ブルジョア」のフランス文化同化主義的態度を批判。
・マルクス主義とシュルレアリズムに思想的文脈を持つ。(「正当防衛」はブルドンの冊
子の名前に由来)
・セゼールなどがメンバー→ネグリチュード運動、『帰郷ノート』へ
※ 1931年にはパリ国際植民地博覧会が開催されている。[p106-108]
→・戦時下、亡命途中のブルドンとセゼールの邂逅[p131-132]
ex)ブルドン『マルティニック、蛇を魅惑する島』
1945年10月セゼールが共産党候補として立候補し国民議会議員に選出される。
:マルティニックを植民地から県に引き上げるようようとする。[p139]
第三章 脱植民地化運動の時代
フランス植民地主義のアフリカの活用
:セネガル狙撃兵(WWI〜脱植民地戦争ヘの動員)[p154,157]
ネグリチュードにおける反同化主義路線の継承
:・『プレザンス・アフリケーヌ』(1947)
・1945〜1948年の間にセゼールら黒人詩人の詩集出版が相次ぐ[p166]
cf.サルトル「黒いオルフェ」
→・セゼールの「転向」:共産党からの離脱(1956.10)=「県化」がもたらす「同化」を批
判[p183]
・第二期『プレザンス・アフリケーヌ』、サルトルなどフランス知識人らが名を連ねてい
た後援会の欄が消える。
→反植民地主義路線を強化[p186]
cf.1955アジア・アフリカ会議 atインドネシアのバンドン
1956第1回黒人作家芸術家会議
1954~1961アルジェリア戦争
「独立の時代」へ[p218]
:1960年、「アフリカの年」(17国が独立し、そのうち14国がフランスからの独立)
第四章 「成功した植民地支配」
内植民地化
:・「第三世界は郊外にはじまる」(サルトル)[p267]
フランスは一九四五年から戦後の経済復興に取り組み、以後、一九七五年にかけて高度経済成長を遂げたといわれる。経済学者ジャン・フラスティエが「栄光の三〇年」と呼んだこの期間、フランスは深刻な労働力不足に見舞われ、一九五〇年代にはイタリア、スペインから、一九六〇年代にはポルトガル、独立アルジェリアをはじめとするマグレブ諸国から移民労働者を大量に受け入れるようになる。注目したいのはこの移民受け入れの時期が脱植民地期と重なっているということである。ここにはおそらく相関関係があるだろう。フランスの高度経済成長を下支えする労働力が植民地あるいは旧植民地出身者によって担われてきたとすれば、植民地放棄という植民地政策の転換は、国外における新植民地主義だけでなく、「内植民地(=国内植民地)」の獲得のうちにも見られるのではないか。さらに内植民地化は、消費社会の到来とも結びつきながら展開していったのではないか。[p268]
→・1960年代はじめ、海外県において人口増加問題が浮上するなか、フランス政府は「海
外県移民局」を設置し、人口増加問題の解消を名目に島民のなかから希望者を募り、
片道切符を支給してフランス本土へ海外県民を集団的に移住させる機会をつくった。
(島には働き口を失った農民やもともと職のない若者たちで溢れていた。)[p274]
・1960年代以降マルティニックへの自動車の輸入台数が5万5000を超える一方、移住
する者は2500人程度だった。[p277]
※「消費文化」のマルティニックへの輸出
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シルヴィア/フェデリーチ『キャリバンと魔女』(2)
第2章 労働の蓄積と女性の価値の切り下げ―「資本主義への移行」における「差異」の構築
・はじめに
ヨーロッパ支配階級の危機こそ、資本主義の発明へのきっかけ [p96-97]
⇒本源的蓄積は、<労働者階級内の差異と分断の蓄積>でもあり、それによって「人種」と年齢のみならずジェンダーのうえに築かれたヒエラルキーが階級支配と近代プロレタリアート形成の本質的構成要素となった。 [p100]
・ヨーロッパにおける資本主義的蓄積と労働の蓄積
重要なことは、資本家階級は、出現した当初の三世紀の間は奴隷制や他の強制的な労働形態を支配的な労働関係として押しつける傾向があったが、労働者の抵抗と労働が枯渇する危険性のみがそうした傾向を制限するものだったということである。 [p102]
▶︎16、17世紀には土地の私有化と社会的諸関係の商品化によって貧困の拡大、死亡率の上昇、そして新生資本主義経済を脅かすほどの激しい形態が蔓延。[p106]
・ヨーロッパにおける土地の私有化、欠乏の生産、再生産と生産の分離
労働者階級の貧困化は戦争と土地の私有化からはじめった。[p102]
ex)共有地
:小農や小作人の再生産にかかせないもの
→・牛を養うための牧草地
・材木を確保し野生の木いちごとハーブを摘むための森、採石場、養魚池、みんなで
集まるための空き地の使用権
⇒農民の連帯と社会性を育む物質的基盤
※特に女性にとっては、生活手段・自律性・社会性を男性以上に共有地に依拠していた。
→そのような共有地を16世紀の文学は、怠惰と無規律の根源として描く。
土地が私有化され、個人の労働契約が集団的な労働協約に取って代わると、農業労働における協力が失われただけではすまなかった。農民の人びとの間の経済格差が深まり、あばら屋と牛一頭以外何ものもなく、「曲がったひざと帽子を手に」仕事を請いに行くほか選択肢がない貧しいスクウォッターが増えた。社会的結果は瓦解した。家族は分解し、若者たちは増えつつあった放浪者や渡りの労働者―まもなくこの時期の社会問題となる―に仲間入りするために村を離れ、年配の者たちは自力で何とか生きていくために残った。[p114]
資本主義以前のヨーロッパで主流であったサブシステム経済が崩壊するとともに、生産と再生産の統合―使用するための生産にもとづく社会の特徴であった―は瓦解した。これらの活動は、それぞれ異なる社会的諸関係をもたらし、性的に差異化された。新たな貨幣体制では、市場のための生産のみが価値を創造する活動と定義されたのに対し、労働者の再生産は経済的観点からは無価値なものとして考えられるようになり、労働とさえみなされなくなった。再生産労働は雇い主のためや家の外で行われる場合は、最低の歩合であったとしても賃金を支払われつづけた。しかし、家庭内で行われる場合、労働力の再生産は女性にとっての生まれついての天職として神秘化され、「女の労働」とレッテルを貼られて、その経済的重要性と資本蓄積における役割は隠蔽された。さらに、女性は賃金を死は割れる多くの職から締め出され、賃金のために働いても平均的な男性の賃金に比べればわずかな額しか得られなかった。[p121]
→労働力の再生産から商品生産を分離することによって、不払い労働を非生産労働化し、そこに女性をあてはめていった。[p122]
・価格革命とヨーロッパ労働者階級の窮乏
価格革命―「インフラ」現象
:農業生産物の輸出入を促進させた国内市場と国際市場の発展、および価格が高騰したときに売り出すために商人が商品を買いだめしたために起こった。[p124]
⇒食糧の高騰
食糧暴動を引き起こし、それを率いたのはたいてい女性であった。[p130]
※ 女性は男性よりも金銭・雇用の機会を得ることが少なかったため、安い食物に頼りがちで、価格高騰のときに一番被害を被る存在だった。[p132]
・労働力の再生産への国家の介入―貧民救済と労働者階級の犯罪化
土地の私有化と共有地を生垣で囲うことによって遂行された物理的な囲い込みの過程は、労働者の再生産の場が開放高地から家庭内へ、共同体から家族へ、公共空間(共有地、教会)から私的空間へと転換する、社会的な囲い込みによって増幅されたのである。[p137]
→公的扶助の導入:労働力の再生産と規律を監督する最高責任者としての国家の構築[p138]
・人口減少、経済危機、女性の規律化
人口危機と経済危機―ピークとしての1620年代〜30年代[p142]
⇒・人口危機を解決するために、子どもを悪魔の生け贄にしていると女性を告発しながら
同時に産児制限や出産を目的としない性行為を悪魔化した。[p146]
・産婆の周縁化、真の「生命の与え手」としての男性医師[p148]
だが、「資本主義的生産様式に特有の人口法則」とマルクスが定義するこの原動力は、出産が純粋に生物学的な過程であるか、経済的変化に対し自動的に対応する活動である場合、そして資本と国家が「女性が子づくりにたいしてストライキを起こす」ことを心配しなくてもよい場合に限り、一般化できる。[p152]
・女性労働の価値の引き下げ
避妊の犯罪化は、こうした避妊についての代々受け継がれてきた知識を女性から奪った[p153]
女性の労働の価値切り下げに影響を及ぼした重要な要因は、職人たちが女性を職場から排除する組織的活動であったといえる。これは、商人資本家が経費の安い女性を雇おうとするのに対抗して、職人たちを守るために開始したとみられる。[p160]
→公共の場や市場で働こうとする女性は、性的に積極的で気性が激しいとか、「売女」「魔女」のように表わされた。[p162]
・女性―新たなコモンズ、失われた土地の代用品
この新たな社会的—性的契約に従って、プロレタリア女性は男性労働者にとって、囲い込みによって失われた土地の代用品となった―それは、最も基本的な再生産手段であり、だれもが意のままに利用できる者であった。(・・・)それというのも、ひとたび女性の活動が非—労働であると定義されるや、女性の労働は空気や水と同じ暗い誰もが使用可能な天然資源に見えるようになったからである。[p163]
→資本主義体制においては、女性の労働は市場領域の外におかれ、天然資源とみなされたために、女性自身がコモンズとなってしまった。[p164]
・賃金の家父長制
労働者階級の男性に女性に対する権力を与えたのは、賃金からの女性の排除という手段であった。[p165]
EX)女性が働いても賃金は男性の名義で支払いが登録される。[p166]
・女性の調教、女らしさと男らしさの再定義―ヨーロッパにおける未開人としての女
・植民地化、グローバリゼーション、女性
プランテーション制度
:資本家階級の諸関係の範型となった労働管理、輸出志向型生産、経済統合と労働の国際分業といったモデルをつくった。[p178]
→・ヨーロッパにおける労働力を生産するために必要な商品の原価を切り下げ、「進んだ」
資本主義諸国のためにアジア、アフリカ、ラテンアメリカの労働者を「安物」「消費財」
の供給者として使用するというやり方で奴隷労働者と賃金労働者を結びつける世界規
模の組み立てライン工程をつくりあげた。
・宗主国における賃金が、奴隷労働者によって生産される商品が市場に出回り、奴隷労
働による生産の価値が換金されるための媒介手段となった。
※ 18世紀後期までには植民地アメリカは「奴隷がいる社会」から「奴隷型社会」へと移行し、アフリカ人と白人の間に連帯が育まれる可能性は激減した。[p186]
・<植民地における人種・階級>から<植民地における性・人種・階級>へ
宗教裁判側からは「理性の欠けた」人びととして同一視されたが、ルース・ベハールが描くこの多彩な女性の世界は、植民地の境界と皮膚の色による境界を超えた同盟についての明らかな事例である。女性たちは共通する経験と、再生産の自己管理に有用で、性差別との闘いを助ける伝統的な知と実践を共有したいという関心により、この同盟を築くことができた。[p190]
・資本主義と性差別分業
本源的蓄積とは、何よりも労働者を互いから、そして自分自身からさえ疎外される、差異、不平等、ヒエラルキー、分断の蓄積であった。
このように、資本にかかわる点では、男性労働者はこの過程に加担することがほとんどであった。彼らは、女性、子ども、そして資本家階級が植民地化された人びとの価値の切り下げ、規律化することによって、資本をめぐる自分たちの権力を維持しようとしてきたのである。[p203]
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シルヴィア/フェデリーチ『キャリバンと魔女』⑴
シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』
序章
本書の課題
:封建制から資本主義への「移行」を女性、身体、本源的蓄積という視点から再検討すること[p14]
その動機[p12-13]
⑴男性労働者階級の歴史から切り離された「女性史」というくくりを避けつつ、資本主義の発展をフェミニストの視点から再考したい。
「キャリバンと魔女」
キャリバン:世界のプロレタリアートの省庁であり、資本主義の論理に対抗する抵抗の領域・手段としてのプロレタリアートの身体の象徴
⑵資本主義的諸関係が新たに地球規模で拡大するにつれ、ふつうは資本主義の誕生に結びつけられている一連の現象が世界規模で回帰してくることを考えたい。
Ex)「囲い込み」、労働者の窮乏化、ディアスポラ的移動と移民労働者に対する迫害
すなわち、資本主義社会において、「女らしさ」なるものが、労働力の生産という本質を生物学的宿命の装いの下に隠した労働役割として構築されてきたのだとすれば、「女性の歴史」とは「階級の歴史」であり、問われるべきはその特殊な概念を生みだした性別分業は果たして克服されたか否かということだ。[p20]
『キャリバンと魔女』は資本主義社会における身体と女性の関係は、工場と男性賃金労働者の関係と同じであることを示している。つまり、女性の身体は国家と男性によって領有され、再生産と労働の蓄積の手段として機能するよう強いられてきたのであって、それは搾取と抵抗の主要な場ということである。したがって、身体がそのあらゆる側面―母性、出産、セクシュアリティ―においてフェミニズム理論と女性の歴史のなかで得てきた重要性は、見当はずれではなかった。[p22-23]
第1章 世界中で待ち望まれた衝撃―中世ヨーロッパの社会運動と政治危機
・はじめに
資本主義は、封建的領主、大商人、司教、そして教皇による、自分たちの力をついには揺るがし、実際に「世界中に大きな衝撃」をもたらした一世紀にわたる社会的対立に対する応答であり、反封建闘争から出てきた可能性―それが実現すれば、世界中どこでも資本主義的諸関係が進展するときの特徴である生命と自然環境の甚大な破壊をまぬがれたかもしれない―を打ち砕く反革命運動であった。[p30]
▶︎資本主義は、革命のために通過しないとならない段階ではなく、旧体制における支配階級と民衆との間の闘争のなかから生まれた「反革命」という視点
・階級関係としての農奴制
農奴制の出現とその文脈[p32-33]
:反乱を阻止し、奴隷が逃亡奴隷の共同体へ逃亡するのを防ぐために、領主が奴隷に対し
て一区画の土地をもつ権利と家族を有する権利を与える必要があった。奴隷制が完全に
廃止されない一方、全農民層を従属状態におきながら、かつての奴隷の状態と自由な農
業労働者のそれとを均質化する新たな階級関係が発展したため、「農民」と「農奴」は9
世紀から11世紀の3世紀もの間、同様の意味をもっていた。
農奴制のメカニズム[p33]
:封建制のもとでは、農奴は領主の法に従属してはいたが、その法に違反した場合は「慣
習的」合意に基づいて裁かれ、次第に農奴たちが中心となる陪審制度にもとづいて裁か
れるようになった。
農奴制の意味[p34]
:農奴が再生産の手段に直接アクセスする権利を与えられたこと、つまり、領主の土地で
なすべき労働と引き換えに、農奴は一区画の土地を受け取ったこと。
封建制下の村では、物の生産と労働力の再生産の間に何ら社会的区別がなかった。家族の生計に役立たない労働などなかったのだ。子どもの養育、料理、洗濯、糸紡ぎ、ハーブ園の管理に加え、女性は農場でも働いた。家庭内での女性の働きは低く評価されることはなく、後に貨幣経済において家事労働がまっとうな労働とみなされなくなったときそうなるように、男性とは異なる社会的諸関係に組み入れられることもなかった。
また、中世社会では集団的な諸関係が家族のそれよりも強く、女性農奴が行っていた仕事のほとんどが(洗濯、糸紡ぎ、収穫、共有地での家畜の番)が他の女性たちと協力して行われていたことを考えるならば、性別分業は孤立とは程遠いものであり、むしろ女性にとっての力の源泉であり、自分たちを保護するものであったということが理解できる。[p37-38]
▶︎封建制のもとでは、物を生産する労働と労働力の再生産(ex家事労働)との間に優劣はなかった。
・共有地をめぐる闘争[p38-44]
多様な闘争の形態―「慣習」の解釈、減税闘争、労働の拒否
・解放と社会的分断
封建制内部での階級闘争のひとつの帰着点―賦役労働の「金納化」[p45-46]
それにより封建的関係はより契約的な原理に置き換えられた。このきわめて重大な進展とともに農奴制は事実上終焉したのだが、多くの労働者の「勝利」が結局元利の要求を部分的に満たすものでしかなかったように、金納化もまた社会的分断の手段として機能し、封建農村を分裂させ、闘争の目標を取り込んでしまった。[p45]
→・広い土地を持ち、お金を稼げる裕福な農民にとっては労働者を雇えるチャンス
・多くの貧しい農民は、わずかな土地さえも失い、負債を抱えることになった。
その帰結[p46-47]
・農村地域において社会的分断が深まり、農民の一部はプロレタリア化を経験した。
・農民は自分たちのためにする労働と領主のためにする労働との違いを区別することがで
きなくなったため、どれほど搾取されているか、その度合いを生産者自身が判断するこ
とがより困難になった。
・金納化により自由の身になった借地人が他の労働者を雇い搾取することが可能となり、
資本家的借地農業者が出現した。
女性への影響
・女性の財産と収入の権利はさらに制限された。
→農村からの/都市への離脱
⇒その結果、中世社会において最も闘争的な人たちが集う都市の中心で生きることができ、女性は新たな社会的自律性を獲得した。
だが、いまや女性は一人で生きるか、あるいは家長として自分の子どもと暮らすことができ、他の女性と住居をともにして新たな共同体を形成することもできたため、都市では男性の監督への従属は弱まった。女性は通常、都市社会の最貧困層であったが、後には男性の仕事としてみなされるようになる多くの職業にやがて就くことができるようになった。[p49-50]
・千年王国運動と異端運動
千年王国運動は組織的な体系や計画を欠いた自然発生的なものだった。たいていある特定の出来事やカリスマ的人物が運動を駆り立てたが、武力に直面するやいなやすぐさま崩壊した。それとは対照的に、異端運動は新たな社会を創造しようとする意識的な試みだった。[p54]
→異端運動の内実[p55]
:より崇高な真理を人々に訴えかけることで教会と世俗の権威に意義を唱えながら、魂の再生と社会的正義を求めた。社会的ヒエラルキー、私有財産、富の蓄積を非難し、普遍的な言葉を使って解放という課題を提起しつつ、社会についての新しい革命的な考え方を人々の間に広めた。
⇒教会に対して異議を唱えるということは、封建権力のイデオロギー的支柱であり、ヨーロッパ最大の土地所有者であり、農民が搾取されていることに対して最も大きな責めを負う制度のひとつに真っ向から立ち向うことだった。[p56]
言いかえれば、実際に性と再生産にかかわる異端者の規範には中世における産児制限の実践の痕跡があると考えられるということだ。これにより、一四世紀末に深刻な人口危機と労働力不足に直面し、人口増加が大きな社会的関心を集めた時期に、なぜ異端と再生産にかかわる犯罪、特に「男色」、間引き、胎児が結びつけられるようになったかが説明される。これは再生産についての異端の教義が人口動態に決定的な影響を与えたことを示しているのではなく、むしろ、少なくとも二世紀の間、イタリア、フランス、ドイツで、(「男色」、すなわちアナルセックスを含む)避妊の形態なら何でも異端と結びつけられるような政治状況が生じたことを意味している。性についての異端の教義が正統派におよぼした脅威は、結婚とセクシュアリティの管理を通して皇帝からもっとも貧しい農民まで一人残らず監視と規律の支配下に置こうとした教会側の企てという文脈においても検討されなければならない。[p62]
▶︎例えば、カタリ派は産児増加に反対しつつ、女性を重要な位置に位置づけたうえで、性交禁制などを実施したりはしなかった。
・セクシュアリティの政治化
ホモセクシュアリティ=反自然表象の登場[p65]
→12世紀にはセクシュアリティを国家の問題として扱うようになっていた。だからこそ、異端者による非正統的な性の選択も反権威主義の立場にたち、聖職者の支配から離脱しようとしている行為としてみなされるようになった。[p65]
・女性と異端信仰
▶︎異端運動のなかでは女性には高い地位が与えられた。[p65]
▶︎避妊薬は「不妊の薬」、魔術と呼ばれるようになり、女性こそがその薬や魔術を使うものであ��(=魔女)と考えられるようになっていった。[p68]
▶︎異端者=女性という表象
→15世紀初めまでには異端信仰に対する迫害から魔女狩りへ移行が起こる。[p69]
※ 大衆的な異端信仰は、もともと下層階級の現象であり、こうした人々に対して異端は平等を説き、予示的・黙示録的な預言とともに抵抗精神を醸成した。[p70]
・都市の闘争
異端運動は農民と都市労働者をつないでもいた。[p72]
理由:・中世には都市と地方の間に緊密な関係が存在していた。都市に住む人々は、より
よい生活を求めて都市へ移動もしくは逃亡したかつての農奴であり、技能を磨き
つつ、収穫期には耕作もしていた。
・所領持ちの貴族階級と都市の商人が同化し、ひとつの権力機構として機能するよ
うになったため、農民と都市労働者は同じ政治支配層に従属させられていること
から共闘するようになった。
・ペストと労働の危機
中世の闘争の重大な転機:ペスト(人口の30%から40%が死ぬ)[p78-79]
→労働人口の大量喪失によって労働力が極度に不足し、労働コストが決定的に高まり、封
建支配の足かせを壊そうという人々の決断を強固にした。
※人口が激減した結果土地がありあまるようになると、いまや農民は自由に移動し耕作す
るための新しい土地を見つけることができたため、領主の脅迫はまったく深刻な影響を
もたなくなった。
農民は「支払うことを拒否した」。また、農民は「もう慣習には従わない」と宣言し、領主の居宅の修理や溝の掃除、逃亡農奴の追跡を指示する領主の命令を無視した。[p80]
⇒労働力不足によって賃金が上昇
このことがヨーロッパのプロレタリアートにもたらした意味とは、一九世紀になるまでは前例のない生活水準への到達だけではなく、農奴制の崩壊であった。一四世紀の終わりまでに、実質的に土地への束縛はなくなった。あらゆるところで多額の報酬でのみ仕事を引き受ける自由な耕作者―土地保権者や借地権者―が農奴に代わって出現した。[p85]
・性—政治、国家の出現、そして反革命
15世紀の終わりまでに反革命の動きが社会生活・政治生活のあらゆる段階で進行[p85]
→・若い男性労働者を取り込むために、彼らに対して女性を性的に自由にする権利を与え、
階級的反感をプロレタリア女性に対する反感へと転換しようとする。
Ex)未婚のプロレタリア女性を強姦しても軽いお仕置き以上の罰を受けることはない。
⇒反封建闘争を通して獲得された階級的連帯が、こうした国家に後押しされた貧しい女性への強姦により蝕まれた。[p86]
主人からも奴隷からも同じく傲慢にもてあそばれたプロレタリア女性にとっては、その代価ははかりしれなかった。一度強姦されれば、再び元の社会的地位を得ることは容易ではなかった。評判が貶められれば、街を離れるか娼婦になるかしなければなかっただろう。だが、被害をこうむったのはこうした強姦された女性たちだけではなかった。強姦の合法化は、階級に関係なくすべての女性を貶める猛烈なミソジニーの風潮をつくりだした。それは、女性に行使される暴力に対する人びとの感覚を鈍らせ、同時期にはじまる魔女狩りの下準備となった。[p88]
→・売春の制度化=貴族階級だけではなく労働者階級も売春ができるようにする。[p88]
・教会もそれを追認[p89]
⇒反封建闘争のなかで権力を脅かされた貴族、教会、ブルジョアジーのプロレタリアに対する攻撃[p90]
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エレン・メイクシンス・ウッド『資本主義の起源』
エレン・メイクシンス・ウッド『資本主義の起源』
第一章 商業化モデルとその遺産
・商業化モデル
言い換えると商業化モデルは、資本主義に独自の命法や、資本主義において市場が機能する独自のあり方や、市場への参加を人々に強制し、労働生産性の向上による「効率的」生産を生産者に強制するその独自の運動法則―競争原理、利潤最大化、資本蓄積の諸法則―などを、まったく認めなかったのである。その結果当然、このモデルの信奉者は、これらの特殊的運動法則を規定している独自の社会的所有関係や独自の搾取様式についても、それを説明する必要性を認めないことになる。
それどころか、商業化モデルにおいては、資本主義の発生を説明する必要は少しもなかったのである。資本主義は、人間性や人間の合理性のまさに中核に存在していたわけではないとしても、少なくとも萌芽的状態においては歴史の夜明けから存在していた。これが商業化モデルの想定であった。この想定によれば、人々は機械が与えられればつねに資本主義的合理性のルールに従って行動し、利潤を追求しつつ、その中で労働生産性を向上させる方法を模索してきた。それゆえ歴史は実質的には、若干の重大な中断があったにせよ、生産諸力の発展によって支えられた経済成長の道を資本主義の発展法則に従って前進してきた。もし成熟した資本主義経済の発生がなんらかの説明を必要としたとすれば、その説明とは、資本主義の自然な発展の前に立ちはだかった障害物が何であり、それらの障害物がどのような過程で取り除かれたのかを確定する作業のことであった。[p27]
※ 商業化モデルにおいては、市場は選択の場であり、「取引し、交易し、交換する」(アダム・スミス)場として定式化される。
・注目すべき例外―カール・ポラニー
ポラニーに従えば、近代の「市場社会」においてのみ、はっきりとした「経済的」動機や、非経済的関係とは区別された独特な経済制度と経済関係が存在する。価格メカニズムに駆り立てられる市場の自己調整的システムのなかで、人間と自然は―労働と土地という形で―擬制的にではあるが商品として扱われるため、社会それ自体が市場の「付属物」となる。市場経済は市場社会の中でしか存在できない、つまり経済が社会関係に埋め込まれるのではなくて、社会関係が経済に埋め込まれている。[p34]
[ポランニー批判]
以上の議論からは見えてこないのが、社会諸関係の根底的な転換がいかにして産業化に先行して起きたのかという認識である。生産諸力の変革は、所有関係の転換と、労働生産性の向上という歴史上ユニークな必要性を生みだした搾取形態の変化とを前提としていた。それは競争、蓄積、利潤の最大化という資本主義的命法の出現を前提していた。たんにポラニーの議論が本末転倒であると非難するために、こう言ったわけではない。より根本的な問題は次の点である。彼の考える因果関係の順序では、資本主義的な市場そのものを特殊な社会的形態とみなすことができないということである。資本主義市場に特殊な命法―蓄積と労働生産性を迫る圧力―は、特殊な社会関係の産物としてではなく、少なくともヨーロッパでは、多少なりとも不可避的に見える技術の改良の結果として論じられている。[p38-39]
メモ:ポランニー=産業革命の結果、資本主義が発展
批判:産業革命の前提にあるのは、資本主義的命法(競争、蓄積、利潤の最大化)の
定立と搾取関係の変化、所有関係の変化であるはず。
第二章 マルクス主義の論争
・移行論争
ドッブ/ヒルトン/スウィージーの移行論争から学べるもの[p50]
:・都市と交易は本来必ずし封建制度に敵対しているわけではないこと
・資本主義への「原動力」は封建制の基本的所有関係の中に見出すべきであること
・領主と農民の階級闘争が移行過程の中心にあったこと
※ スウィージが他の二人に比してさらに一歩踏み出している点
:封建制度の解体では資本主義の勃興を十分に説明することはできないと捉えた点。[p50]
・ペリー・アンダーソンの絶対主義と資本主義についての議論
ペリーアンダーソンの絶対主義議論の要約
絶対主義国家は本質的に封建的である。なぜならそれは、封建領主の権力を経済的搾取から分離させた、封建領主の政治的・法的強制力の上方移転と中央集権化を表しているからである。別の言い方をすると、絶対主義国家は搾取の二つの契機を分離した。一方での剰余の搾取という過程と他方でのそれを支える強制力である。以後その二つは、別々の領域に属することになる。経済と政治の封建的融合は、資本主義の特徴である分離に道をゆずりはじめた。そしてこの分離によって「経済」がその内的論理に従って自由に発展することができた。[p56-57]
アンダーソンによる封建制概念[p54-55]
→封建制度とは、「経済と政治の有機的結合体」と定義される生産様式である。
条件的所有のヒエラルキー的な連鎖を伴う「細分化された主権の連鎖」
→封建的貢租の貨幣地代への転化と商品経済の成長によって、農民階級に対する政治的経済的抑圧の力は弱体化し、分会に危機に陥る。
※ 弱体化をとめ、再度権力を高めるために、各封建領主が政治的・法的な強制力を上方移転させた結果、絶対主義国家が出現した。[p55]
⇒アンダーソンの議論は、外からの圧力が封建制を解体させ、資本主義を解放させたという商業化モデルとの類似してしまっている。
ブレナーが指摘するように、イングランドの特殊性の少なからぬ部分は、他の生産中心地が中世においても輸出の好景気を経験したが、近代初期のイングランドだけが、海外市場の衰退という状況のなかでも産業の成長を持続しえたという事実にある。言い換えれば、国際的な貿易のネットワークの内部ではあるが、資本主義はたしかに一国資本主義だったのである。[p60]
第三章 マルクス主義の代替理論
移行論争において説明もされず、取り組みもなされずに残ったものがあるとすれば、それは、どのような状況下で、またいかにして、生産者が市場命法に従属するようになったのかという問題であった。常に前提とされていたのは、市場機会の実現を妨げる障害が除去されれば、それで資本主義は出現するのだという考え方だったようである。だがマルクス主義者の間で継続している論争のその後の展開は、封建制度から資本主義への移行を資本主義以前の社会の中に資本主義的原理を遡及的に読みこむことをせずに、つまり説明すべき事柄を説明ぬきで前提することなしに説明するために努力することによって、移行論争の前提を受け止めた。[p64]
・ブレナー論争
ブレナーにおける封建制下での階級闘争の意味
ドップやヒルトンの議論と同様に、彼の議論でも階級闘争が重要な役割を演じる。しかしブレナーの場合、それは資本主義に向かう内的衝動の解放という問題ではない。そうではなくて、領主と農民とがイングランド特有のある特殊的条件下において互いに階級的衝突を繰り返し、自己を現状のまま再生産しているうちに、資本主義のダイナミズムを知らず知らずのうちに発動させたのだということである。その意図せざる結果として、生産者が市場の命法に従属するという状況が生まれたのである。それゆえブレナーは、旧モデルや、それが孕む説明すべき事柄を説明ぬきで前提するという傾向とはまったくかけ離れた立場に立っていた。[p67]
イングランドの特殊状況(ブレナーの議論)[p68]
・借地農の地代:市況に応じて決められる。⇒市場のために生産を行う必要性
・地主:経済外的権力を持っていなかったため、借地農の生産性に依存をし剰余を高める
必要があった。
ブレナーは明らかにドッブとヒルトンの影響を受けているが、彼の議論とドッブやヒルトンの議論との違いは、今や明らかである。彼の議論において効果的に用いられる原理は、強制あるいは命法であり、機会ではない。例えば、小商品生産者や独立自営農民がここで主要な役割を果たしているとしても、それは機会の担い手としてではなくて、命法のしもべとしてなのである。独立自営農民はまさに競争の圧力に屈服した資本家的借地農の典型であったし、いったん農業資本主義の生産性をめぐる競争が経済的な生き残りのための条件を設定しさえすれば、農地所有者でさえそのような圧力を免れることはできないであろう。地主が地代を借地農の利潤に依存させたことにより、地主も借地農も市場での成功に依存するようになった。地主も借地農も、農業の「改良」、つまり革新的な土地利用や技術による生産性の向上に利害関係をもつようになった。そうした土地利用や技術の一環としてしばしば囲い込みが行なわれた―賃労働の搾取の強化は言うまでもないことだった。[p69]
→ブレナーの議論を基礎付けるもの
マルクスの資本主義的生産様式以前の生産様式に関する議論[p72]
:資本主義以前の社会は剰余を搾取する「経済外的」形態を特徴としており、それは政治的、法律的、軍事的な権力手段や、「政治的に構成された所有」によって実現される。
→ブレナーが明確にしたこと
・直接生産者は、たとえ生産手段を保有している場合でさえ、市場以外の場で自己を再生
産する手段を入手する方途を奪われることがありえた、そしてこのような条件こそ直接
生産者を市場の要求に従属させた。[p77]
プロレタリアートの大量発生は、この過程の始まりではなく終わりであった。経済的行為者が市場に依存するようになったのはプロレタリア化の結果ではなく原因であった[p78]
※ 労働人口の大規模なプロレタリア化より以前に、市場命法が直接生産者に押しつけられた。[p84]
思い出していただきたいのだが、ブレナーは新しい「再生産規則」の出現を説明しようとしていた。彼は、自立的な成長を促すダイナミズムと労働生産性の向上を求める不断の要請とが、所有関係の転換を前提としていたことを明らかにした。この所有関係の転換は、主要な経済的行為者―地主と農民―の自己再生産をひたすら可能にするために、労働生産性の向上を引き起こした。例えば、イングランドとフランスの違いといっても、第一に、それぞれの技術力の違いとはほとんど関係がなかった。両国の違いは、地主と農民の関係が担う性格の違いにある。前者の場合は労働生産性の増大を必要としていたが、後者の場合は必要としなかった。生産力に革命を起こす体系的な推進力は、原因というより結果であった。[p86-87]
トムソンによる産業化の説明は、同じ認識を背景にしている。彼の目的は、特殊資本主義的な搾取様式の結果を明らかにすることである。産業資本主義への移行期におけるそうした結果の中には、労働強化と労働規律の強化とが含まれていた。搾取を強化する推進力を生み出したのは、蒸気機関や工場制度の出現ではなくて、生産性と利潤とを増大させようとする資本主義的所有関係に固有の要請であった。そうした資本主義的命法は、労働の新しい形態にだけではなく、その伝統的な形態にも押しつけられた。つまり工場の職工だけではなく、産業化以前の生産にまだ従事していた職人にも押しつけられたのである。[p87]
それゆえ、『イギリス労働者階級の形成』以後のトムソンがなぜ一八三〇年代以降の時代にふみこんで産業化の十分な説明を行うのではなく、十八世紀へと逆にさかのぼって行ったのかと疑問を呈したペリー・アンダーソンのような人々に対しては、次のように答えることができる。トムソンが説明しようとしていたのは、社会形態としての資本主義の確立であって、「産業化」と呼ばれるある中立的な技術過程ではない。彼はとくに十八世紀に関心をもっていたが、それは、所有関係の資本主義的転換が固まりつつある時期だったからであり、その転換がこれまでになく意識的で明白な新しい資本主義的イデオロギーの表現を伴って出現しつつある時期だったからである。それはまた、新しい経済原理がまだ支配的なイデオロギーとして完全に形成されてはいない時期でもあった。このイデオロギーこそ市場の政治経済学であり、それが資本主義に対して最もラディカルに反対する人々の一部にさえ間もなく浸透することになったのである。[p88]
人々が慣れ親しんできた市場とは、慣習や共同体的な規制や生存権にかんする期待などによってある程度まで支配された原理に従って、他人に買ってもらうために商品を売る物理的な場所であった。市場取引の透明性が、「自己規制的な」市場という謎、価格メカニズム、あらゆる共同体的な価値の利潤命法への従属によって置き換えられるにつれ、今や市場は共同体的な規制を超えた一つのメカニズムと化していった。[p89]
ヨーロッパ中心主義に対するより挑戦的な批判として、資本主義の発展に果たしたヨーロッパ帝国主義の役割を西欧の多くの歴史家が無視してきたという指摘がある。しかしそのような議論が真に効果を発揮するためには、伝統的な形態の植民地主義が資本主義的帝国主義へと転換した際のきわめて特殊な条件を、そのような議論が十分考慮に入れる場合に限られる。そしてこのことが意味することは、社会的所有関係がまずもって資本主義的形態をとることになったきわめて特殊な条件を認識することである。[p92]
第四章 資本主義の農業的起源
・農業資本主義
何千年もの間、人類は土地を耕すことによってその物質的要求を充たしてきた。そしておそらく人類が農業に従事していた期間とほぼ同じくらいの期間は、人類は土地の耕作者と他人の労働成果の領有者との間に階級的に分断されていた。この領有者と生産者との分断は多くの形態をとったが、その共通の特徴は、直接生産者が概して農民であったということである。この農民生産者は、生産手段とくに土地を保有していた。資本主義以前の社会がすべてそうであったように、この生産者は自己の再生産のための手段を直接手に入れることができた。このことは、生産者の剰余労働が搾取者によって領有される場合には、それがマルクスの言う「経済外的」手段によって―つまり地主や国家が彼らの上位の力である軍事的、司法的、政治的権力を特権的に利用しつつ行使する直接的な強制手段によって―行われたことを意味した。[p109]
※ 資本主義においてのみ、支配的な領有様式が法律上は自由な直接生産者の所有剥奪に基づいており、彼らの剰余労働が純粋に「経済的」手段によって領有される。[p101]
イングランド農業の特殊性[p107-110]
地主—貴族側
・イングランドの支配階級は、中央集権的な君主制と連合し国家の一部となっていたため、
主権の細分化を経験したことがない。
・国家が支配階級のために秩序の道具と財産の防衛を行っていた一方、貴族は自立的な「経
済外的」権力や「政治的に構成された所有」の権限を持っていない。
・イングランドの土地は異常に集中されており、大地主は並外れて大きな部分の土地を持
っていたため、「経済外的」権力の不足分を地主が「経済的」権力で補うことができた。
→大部分の土地が借地農によって耕される。
借地農側
・生産性を向上させるように強制する市場の命法に対して従属するようになった。
・地代は慣習や法律によらず、市況によって定められた。
・借地農は消費者を求めて市場で競争するだけではなく、土地を利用するために市場で競
争せざるをえなかった。
・他にも潜在的な借地農が同じ借地権をめぐって競争していたため、経済的地代を払うた
めには、借地農は高い費用効果で生産しなければならず、失敗すれば所有剥奪の罰を受
けた。
→借地保有権の保障は、現行地代の支払い能力に依存していたため、生産が競争力を失えば、すぐに土地を失うはめになった。
※ 商品生産の成長を刺激したのは、固定的な地代ではなく、市場の命法に対応した変動的な地代だった。(イングランドの地代は、市場対応の変動制だった。)
⇒競争的な国民的市場は、資本主義および市場社会の結果、発達した。
=統一された競争的な国民的市場の発展は、搾取様式と国家の本質における変化を反映[p113]
・資本家的所有の発生と「改良」の倫理
・囲い込み
・ロックの所有理論
資本主義以前の社会における伝統的な支配階級は、従属する農民から地代を受動的に領有していたのであって、けっして自分が「生産者」だと考えていなかったであろう。「生産的」と呼びうる種類の領有は、資本主義にしかないものである。その含意は、財産が顕示的消費のためにではなく投資と利潤の増大のために、能動的に使用されることである。富は、不労所得で生活する貴族のように、たんに強制力を使用して直接生産者から搾り取ることによってではなく、また資本主義以前の商人のように、安く買って高く売ることによってでもなく、労働生産性(労働単位ごとの産出高)を向上させることによって獲得される。[p123]
▶︎以前の社会では、共同的な慣習においては生産性そのものを増大させることが他者の権利
を排除する理由となり、退けられていた。[p125]
・階級闘争
フランスの場合
国家とその官職が肥大化し、農民がつねに増大する租税負担にさらされる中で、農民は、地代に飢えた地主による破滅から身を守るため、君主制に保護を求めなければならなかった。だがその結果として彼らは、租税に飢えた国家によって搾取されなければならなかった。[p127]
農民の慣習的権利の要求に反対する地主権力の主張によって資本主義は促進された[p129]
第五章 農業資本主義から産業資本主義へ―その概略
・農業資本主義はほんとうに資本主義だったのか
競争的な圧力とそれに伴う新しい「運動法則」がまずもって依存したのは、プロレタリアート大衆の存在ではなくて、市場に依存する借地農生産者の存在であった。[p137]
・商業、帝国、産業
マルクス主義の歴史家が説得力をもって論証してきたように、それに対する多くの反論とは逆に、ヨーロッパ帝国主義の罪である奴隷制度は、産業資本主義の発展に大きく貢献した。しかしここでもまた、私たちは次のことを心に留めておく必要がある。イギリスだけが植民地の奴隷を搾取したわけではなく、それ以外のところでは奴隷制度は異なる結果をもたらしたことである。ヨーロッパの他の主要な強国―フランス、スペイン、ポルトガル―は、奴隷制度から、またタバコのような中毒性の物質の交易(そしてそれが生きた人間の売買を勢いづけたと言われている)から巨大な富を蓄積した。しかしここでもまた、イギリスにおいてのみ、この富が産業資本に転化された―そしてここでも再び、競争的生産、資本の蓄積、自立的な成長という一連の命法を発動させることによってイギリス経済の論理をすでに転換していた新しい資本主義的ダイナミズムの有無に違いが現れる。[p145]
▶︎大量の非農業労働力を維持できるだけの生産的な農業部門がなかったならば、世界最初の産業資本主義は出現しなかった。[p146]
→・イングランドの農業資本主義がなかったら、賃金のために自分の労働力を売らざるを
えない所有の剥奪された大衆は存在しなかった。
※ 産業化に先行して新たな社会的所有関係に基づく資本主義的ダイナミズムが存在していた。[p148]
⇒市場社会は、産業化の結果ではなく根本原因であった。[p148]
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K・テーヴェライト『男たちの妄想 Ⅰ』
K・テーヴェライト『男たちの妄想 Ⅰ』
男としての自意識は、女性との実際の関係にではなく、ドイツの状態に依存しているのである。[p55-56]
―ドイツ民族、祖国
―故郷、郷里の村や町
―制服
―他の男たち(同僚、上官、部下)
―部隊、教区民、種族による血縁共同体
―武器、狩り、戦い
―動物、特に馬
動物をのぞけば、左に掲げられた一連の対象はどれもが、前の節でリピドーの可能的対象としての女性を前にした防衛運動との関連ですでに目についたものである。
つまりこれら男性たちは、対象関係から自分たちを護ってくれるものを愛している、と言い立てているのである。[p97-98]
エロチックな女とは逆立ちした自然の具象化である。この考えにはファシズムの人種観念との近接が感じられる。[p124]
母親にして看護婦(妹)、そして伯爵夫人が一体となった存在。これこそ非—娼婦たる「善き」女性の聖なる三位一体に他ならない。それは去勢するのではなく、庇護する。ペニスを持たず、そもそも性を有することがない。その肉体は「白いエプロンにすっぽりとくるまれ、青白い顔はロシア風の看護帽の細いレースの白でくっきりと縁取りされている」。[p148]
母と息子の間の性的ならびに非—性的な関係という虚構は、母の脱官能化―というよりはほとんど脱生命化と言えるだろう―と息子の負傷から成り立っている。そのことにより近親相姦への不快な理想は覆い隠される。母親はすでに天使と同列におかれ、息子は傷を負っている(去勢されている)。両者は性を欠き、助けを必要とするのだ。[p155]
われわれは今や、これらの男性の心的安全回路において「白い看護婦」にいかに並外れた役割が割り振られているかを知る。あらゆる性的な、危険な女性性の忌避は彼女に具体化される。彼女は姉妹に対する近親相姦の禁忌の存続を保証するとともに、超感覚的/庇護的な母親像との結びつきに後ろ盾を与えるである。[p191]
野戦病院はこうした恋愛(もしくは愛とは無関係の状況)を空想するにはもってこいの場所だった。傷病兵は病室に一人だけで寝かされているということはほとんどなかったし、傷のためにほとんどの場合、性的な方面で何かを試みようにもできない。兵士は介護の対象であり、性的主体としては格下げされている。病院においては患者であることは多くの場合、禁治産宣告をされるに等しい。野戦病院となればなおさらである。男は法の庇護のない子どもと同じ状況に退化させられる。[p195]
看護婦は患者すべてのものだ。その存在は他の人々が皆苦しんでいるときに咲き誇る仮象の花である。[p198]
つまり白い看護婦は歴史的にいっても、ブルジョア女性の女性的身体への断念を具現している。彼女らは死んだ肉体である。要求も掲げず、セクシャリティー(ペニス)を所有せず、母親/妹という両極を統一し、両者の危険な誘惑をみずからの内部に葬り去っている。それは男たちが脅かされていることを感じないために必要とする、虚構の身体なのだ。[p205]
母/姉妹像に合致しない女性に対するテロルは根本的は正当防衛である。[p267]
「血塗れの塊」の近くは観察の主体と客体という、はっきりと区分された関係の中で行なわれるわけではない。「わたし」が「そこにあるもの」を見る、というような知覚の様態ではない。知覚はむしろあたかもヴェールを通すかのように行なわれる。見られたものと幻覚したものを区別することはむずかしい。犠牲者は「血塗れの塊」としてその境界とともに「客体」としての特徴を失う。同様の事態がここでは知覚の主体の側にも起こる。主体もまた一種の融解状態にあるからだ。殺す側が殺される側と同様に境界を失って合一状態に至り、幻覚的な知覚が主流を占めることで男性がトランス状態に移行する―この状態こそ攻撃が本当に目指すものであるかに見える。[p296]
資本主義的生産関係と並んで、生命を破壊する現実を生産するある種の(家父長的)男女関係が、ファシズムに関する考察の中心におかれうる[p329]
それから流動が始まる。それは内部でも、外部でも起こり、興奮させもするし、脅かしもする。洪水は身近で起こればそれだけ一層危険な兆候を帯びる。だからこそドイツ国内の流れ、ことに内戦の間の奔流はとりわけ危険なものだった。しかしもっと危険なのはみずからの内部の奔流である。[p341]
つまり洪水は自分自身の内部か、それとも身辺のごく近くにあるのだ。この男たちは、現下の、あるいは切迫した洪水をいずれも直接自分自身に、自分の身体に関連づけているように見える。流れが荒れ狂う現場とは、常にみずからの身体でもあるのだ。[p342]
洪水を突き詰めていくと、もしかすると血に行き着くかもしれない(ひょっとしたら「赤い洪水」そのものがひっくるめて血の流れかもしれない)。血の流れは戦争、内戦、内部の流れ、内部での闘争、誕生、メンスといった観念と結びついて現れる。いずれの場合にも、血が流れることが期待されているのだ。[p348]
兵士的男性の内部から突発しかねない「洪水」と「溶岩」への不安がそれである。いかなる場合にもこの不安感だけはまとめに受けとめなければならないし、それがどこから来るかを問うべきだ。[p374]
しかしわれわれの興味を引くのはコード化のもう一つの形態である。それは太古にさかのぼる、おそらく最も古い形態で、ヨーロッパのブルジョア社会が徐々に勝利をおさめて獲得した形態に至るまでにすでに多くの変化を経験している。それは家父長制的男女関係におかれた女性が歴史の経過の中で被った機能の変化である。家父長制において女性の生産力は男性による生産、すなわち公的・社会的生産への関与から事実上排除されている。この生産力はどこにいってしまったのだろうか。その一部は男性のための直接的隷属労働に費やされてしまったのかもしれない。しかしぼくは、女性の生産力がそれですっかり吸い尽くされてしまったとか、ボルネマンの言うように、女性の機能が男性用の携帯用発電所となることで使い果たされてしまうとは考えない。女性はこうした直接的なやり方でだけ搾取され、利用されて来たのではない。むしろ女性たちは、もっとひどい役を負わされた。すなわち彼女らはみずからが吸収の役割を引き受けさせられ、それもそのときどきの被支配階級の男性の生産力を吸いとる機能をもって支配者に奉仕してきたのだ。[p402]
実際、みずからの歴史を人工的に再生産し、それを活性化することができることは、資本主義の最大の強みの一つである。過去の歴史に属する葛藤であっても、資本主義はそれを、非同時性(時間的なずれ)と歴史の技術的な複製可能性を対置されることで活性化できる。資本主義的な生産様式が、自己の影響の及ぶさまざまな領土で、それらの葛藤が回帰する条件をふたたび生み出しうる限り、過去の階級間の紛争であれ、過去の両性間の関係であれ、完全に死に絶えるものでも、その意味を失うものでもない。[p529]
泥にしろ粘液にしろ、洪水がすでに幾分か浸食を始め、防塁が脆くなった箇所に生じるものだ。
粥状のものは脅威のさらなる高まりを意味しているようにみえる。これに対抗するにはまさに「ヒトラー」を必要とするか、もしくはそこに巻きこまれる前に自殺することだ(ユンガー)。ここにこそ問題が潜む。つまり、泥濘、粘液、粥状のものに対処するのに武器をとることは自殺を意味する。なぜならこれらの敵は自分自身の身体内部にあるからで、そこではみずからの防衛も崩れ始めているからだ。
このようにして「洪水」において、政治上の敵と「女」という敵性の原理があらわになる。そして両者は兵士的男性の決壊した無意識の具体化として流れを形作るのである。[p597]
人間による人間の支配が始まって以来、身体は自分自身のことを知ってはならないという、この禁忌、身体に課されたこの戒律の上に、人間の被抑圧性が再生産されてきた。[p613]
下着(洗濯物)の白が主婦の領域であると共に、生の痕跡をたえず消し去ろうとするために産業の作り出す妄想である[p678]
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引きさらう奔流の力の粗暴を言う者はいる/だが、流れをここまで圧迫した河床のことは/誰も粗暴とは言わない。
ブレヒト
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デヴィッド・グレーバー『負債論』(5)
第八章 「信用」対「地金」―そして歴史のサイクル
貨幣、負債、信用の歴史の再検討
・硬貨鋳造―中国、インド、エーゲで同時的に独立して開始[p322]
※ 奴隷制が消失はじめた時代に貨幣は引き揚げられ、あらゆる場所で信用システムへの回帰が起こる。
・サイクルにおける戦争という契機
金銀の硬貨は、あるひとつの顕著な特性によって信用協定と区別される。盗むことができるということだ。定義上、負債とは信頼関係でありさらに記録でもある。それに対し、金や銀を売り物と引き換えに受け取るうえで必要なのは、尺度の正確さ、金属の質、そしてほかのだれかが受領する意志をもつ見込みであって、それ以上の信頼は不要である。[p322-323]
第九章 枢軸時代(前八〇〇―後六〇〇)
「枢軸時代」(カール・ヤスパース)
:・世界の主要な哲学的潮流すべてのみならず、ゾロアスター教、予言者的ユダヤ教、仏
教、ジャイナ教、ヒンドゥー教、儒教、道教、キリスト教、そしてイスラム教という
今日の主要な宗教すべての誕生を目の当たりにした時代[p337]
・金、銀、銅が神殿や富裕層の邸宅から取り出され、普通の人々の手に渡り、日常的取
引で使用されはじめる。=「脱宝物化」[p339]
もちろん、なにゆえ国家がそれを領導したのか、わたしたちはすでにみた。市場の存在が国家にとってきわめて好都合だったからである。たんに大規模な常備軍への支給がそれによって簡便になるからだけではなかった。以後、国家発行の硬貨のみを報酬、礼金、税金として受け入れると布告することによって、国家は、後背地にすでに存在していたおびただしい社会的通貨を圧倒し、統一的な国内市場のようなものを確立することができたのである。[p341]
・地中海世界
「軍事=鋳貨=奴隷制複合体」[p344]
:兵士に貨幣を支払い、貨幣を産出するために戦争捕虜・奴隷を使う。
※戦利品から造出された鋳貨は、危機の原因ではなく、解決策として使用された。[p346]
・インド
戦争から生まれた市場経済が政府によって乗っ取られ、通貨が拡大。
:政府は穀倉庫、工房、商館、倉庫、牢獄を計画的に設置し、有給の役人を配置
→あらゆる生産物を市場で売り出し、兵士や役人に支払われた銀貨を集める→再び王室の国庫に戻す⇒日常生活の貨幣化[p350]
※ アショーカ王の改革[p352]
→市場を推進したが、民間商人には懐疑的でむしろ競争相手と見なす。日常的取引における現金の使用が増加するどころか、全く反対の事態が引き起こされた。
・中国
分裂した政治情勢、訓練を受けた職業的軍隊の勃興、主にその支払いのための鋳貨の創出[p353]
・唯物論1 利潤の追求
枢軸時代のはじまりには何があったのか?
:隣人さえも赤の他人のごとく扱うことを可能にした、戦争から生まれた非人格的な市場の出現[p356]
→戦争状況における現金取引:継続的な人格的関係をつくることに関心を持つことはなく、
計算によって取引が進行していく。
⇒このような思考こそが、「利益」や「優位性」についての思考を可能にする。
人間が本当に追求しているものは、いついかなるときもそれ[利益、優位性]である、と。あたかも戦争の暴力や非人格的な市場のおかげで、それ[自己本位な利益]以外のことも気にかけているふりをしなくてすむようになったとでもいわんばかりである。[p357]
・唯物論2 実体
世界の構成原理を説明する議論の登場=貨幣の登場
あらゆるものに変容しうる何ものか=貨幣
⇒硬貨は金属塊であり、金属塊以上の何かという二重性[p366]
つまり、どのような唯物論哲学においてもそうであるように、ここで問われているのは、形式[形相]と内容および実体と形状の対立である。創造者/製作者の頭のなかにある観念、記号、紋章あるいはモデルと、物質の物理的特性のあいだの衝突なのである。観念、記号、紋章、モデルは、この物質に刻印され、物質上に構築され、物質に押しつけられ、物質を介して現実のものとなるというわけである。硬貨の到来とともに、それはさらに抽象度の高い水準に到達した。紋章はもはや、ある人間の頭のなかのモデルとみなすことは不可能であり、むしろ集団的同意の刻印となるからである。[p368]
→しかし、この集団的力能は、共同体外部に出てしまえば、効力を失い、硬貨は単なる貴金属の塊へと変貌してしまう。[p368-369]
少なくとも、彼岸的な宗教は、根本的なべつの世界を垣間みさせてくれた。それらはしばしば、この世界における別世界を創造すること、なんらかの解放空間を創造することを人びとに可能にしたのだ。[p373]
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デヴィッド・グレーバー『負債論』(4)
第六章 性と死のゲーム
わたしたちが負債社会を形成してしまったのは、まさに戦争と征服と奴隷制の遺産が完全に消え去っていないゆえである。遺産はまだそこにある。わたしたちが最も慣れ親しんでいる諸観念、すなわち名誉や所有、そして自由のうちにさえ、その遺産は宿っている。わたしたちはもはや、その遺産を直視することができないだけなのだ。[p248]
▶︎植民地化、資本主義化という問い。
▶︎負債社会の基盤には奴隷制があり、それは現代社会にも遺産として残っている。
⇒奴隷制は、人をその人たらしめている相互関係や共有された歴史、集合的責任の織物から人間を切り離し、交換可能なものにする過程の論理的帰結にすぎず、そうした関係性の解体のとる究極の形態である。[p247]
※ 貨幣の起源を理解しようとするならば、人々がお互いを通貨として使っていたという事実が重要[p196]
×「原始貨幣」
:「原始貨幣」と呼ばれる通貨は、何かの売り買いに使われるのではなく、人々の間の関係を形成し、維持し、または再組織するために使用されるもの
=「社会的通貨」/「人間経済」(「社会的通貨」を使用する経済)[p198]
※ 「人間経済」と商業経済(市場経済)が接触する地点に重要な転換点がある。[p246]
・ 不適切な代替物としての貨幣
花嫁代償
このことが示唆しているのは、人間経済の論理において、真鍮棒や鯨の歯やタカラガイはもとより、牛(cattle)さえも人間の等価物とみなすのは不条理であるということである。ある人間の等価物であるとみなしうるのは、もうひとりの人間のみである。結婚において問題になっているのが、たんなるひとつの人間の生よりも価値あるもの、すなわち新しい生を生みだす能力をも有するひとつの人間の生であることを考慮するなら、なおのことそうなのである。(中略)通貨は負債を清算するためでなく、通貨によって清算不可能である負債の存在を承認するために贈られる。[p203]
▶︎「血讐」も同様。貨幣が負債をぬぐい去ることはできない。[p205]
※ 通貨と人間は、交換不可能という原理の存在
※ 人間経済においては、それぞれの人格は唯一のものであり、比類なき価値をもつ。それぞれが他者との諸関係のただひとつの結合中枢だからである。[p240]
ある意味で、これらの議論は「原初的負債」を想起させる。それによれば、貨幣は、わたしたちに生命を与えたものへの絶対的負債の承認からあらわれるのだから。異なっているのは、そのような負債が個人と社会あるいは宇宙のあいだにあるとイメージされるのではなく、ここでは二者のあいだの関係のネットワークとして捉えられているという点である。このような諸社会では、だれもがだれかに絶対的な負債をもつという関係にある。これは、だれもが「社会」に負っている[借りがある]というのとは違っている。もし、ここに「社会」についてのなんらかの観念があるとすれば―それははっきりとしていない―社会とはわたしたちの負債そのものなのである。[p208]
・血債(レレ族)
人質(ボーン)のゲームの要点[p213-214]
⑴「生債」=取引されているのは、きわめて具体的なひとの生命
⑵何ものも人間の生命には代替不可能=「賠償は、ひとつの生命にはひとつの生命を、ひとにはひとをという等価性の原理に基礎をおいていた。」
⑶「人間の生命」は、「女性の生命」、より正確には「若い女性の生命」を、つまり妊娠し、子どもを産むことのできる人間を意味していたこと=子どもたちを人質にできる
→男性による女性の統制を確保する巨大装置、債権者になることができるのは男性のみ
※ 奴隷は戦争捕虜であり、異邦人であったのに対して、人質であることは、一つならず二つの家族から面倒をみてもらうことを意味していたため、奴隷制と人質制度はまったく別物であった。
いいかえると、人間の売り買いが問題になるのは暴力が計算に組み込まれたときのみなのだ。強制力を行使して、現実の人間関係を特徴づける選好、責務、期待、責任の織り成す、はてしのない迷宮を断ち切ることのできる権能はまた、レレ族のすべての経済的関係を規制する第一のルールをも乗り超えることを可能にした。その第一のルールとは、人間の生命はただもうひとつの人間の生命とのみ交換できるのであって、物理的対象物とは決して交換できない、というものである。意味深なことに、ここで支払われた対価―一〇〇枚の布あるいはそれと等価のカムウッドの棒―はまた、奴隷一人の値段でもあった。すでに述べたように、奴隷とは戦争捕虜である。[p219]
▶暴力によって「人間の生命は人間の生命としか等価でありえない」という原則が崩れ、人間の生命が一定の貨幣数と等価なものと見なされるようになる。
・ 人肉負債(ティブ族)
人間経済における貨幣
貨幣はほとんど常に、第一に人間を装飾するために使われる物品からあらわれている。飾り玉、貝殻、羽根、犬や鯨の歯、そして金や銀は、こうした使用法でよく知られている。これらのものは、人びとを飾りより美しくみせる以外にはなんの役にも立たない。ティブ族の真鍮棒は例外にみえるが実際にはそうでない。それらはおもに装身具をつくる素材つぉいて使われるか、単純に環状にねじり、踊りのさいに装着されたものだ。例外(たとえば牛)も存在するが、概して、政府それに次いで市場が介入したときはじめて、麦やチーズ、タバコや塩が、通貨としてあらわれたのである。[p220-221]
▶︎人間を装飾するもの=貨幣
▶︎「実用品」は、市場が介入したときにはじめて通貨として立ち現れる。
→奴隷という存在
:相互の義務と負債のネットワークから切り離された存在であったがゆえに、売り買い可能であった。[p221]
ここには、おそらく一般的原理がある。人間経済において、なにかを売ることができるようにするには、まずそれを文脈から切り離す必要があるのだ。奴隷とはまさしくそれである。すなわち、奴隷とはじぶんたちを育てあげた共同体から剥奪された人びとのことである。新しい共同体にとってはよそ者であるから、奴隷には母と父もどのような親族もいない。だからこそ彼女たちは売り買いもできたし、殺害することさえできた。なぜなら、彼女たちの保持していた唯一の関係は、みずからの所有者たちとの関係だったからである。異邦人の共同体を襲撃しその女性を誘拐することができるレレ族の村落の機能、それこそが女性を貨幣によって取引することのできた、おなじレレ族の村落の権能にとっての鍵だったようにみえる―レレ族の場合、それがいかに限定された範囲のものであったにしても。つまるところ、奴隷女性の親類たちはそれほど遠くにいるわけではなく[たとえば近代の奴隷貿易などとは異なり]、説明を求めにたずねてくることも確実にできたであろう。最終的には、だれもが納得できる解決策をみつけねばならなかったのである。[p222]
▶︎ある人間を交換の対象にするには、その人が存在する文脈からその人を剥奪することが必要。つまり、その人をその人たらしめている諸関係の網の目から剥ぎ取り、その人を足したり引いたりすることが可能な一般的価値に転化させ、負債を測定する手段として利用することが、暴力を背景にしたかたちで必要とされる。[p241]
・ 奴隷売買
ヨーロッパ人の出現と人質制度の変容
→債務者が貸し付けを受ける担保として家族の成員を差し出し、人質たちは債権者の世帯の従僕となり、畑を耕し家事をするようになる。つまり、個々の人間が担保となり、その労働が実質的な利子の代わりとなった。人質は奴隷ではない、奴隷のように家族から切り離されているわけではない。しかし、正確に言えば自由でもないという状況に置かれるようになった。=人質制度の負債懲役制度化[p230]
背景:アポロ連合の出現、罰則と売買
※奴隷売買の最盛期においては、人質と奴隷の区別がほとんど消失した。[p234]
注目すべきことに、Akiga Saiによれば、ティブ族のあいだではこれが奴隷制の起源であった。すなわち、負債の支払いを拒んだ者と同一のリネージ[出自集団]から人質をとることである。たとえば債務者が支払いを拒みつづけるとする。彼ら[債権者たち]は人質をしばらく拘束しつづける。そして最終的にべつの国に売り飛ばす。「これが奴隷制の起源である」。[p678-679]
奴隷売買の表現する暴力は、もちろん、規模をまったく異にしている。わたしたちがここで問題にしているのは、大量殺戮の規模の破壊であり、世界史的な視点でいえばアメリカ大陸における文明の破壊あるいはホロコーストといった出来事に匹敵するものなのだ。どのような意味においても、その被害者たちを非難することはできない。ひたすら以下のような状況を想像してみるといい。突然、わたしたちの社会に、無敵の軍事技術によって武装したとてつもなく豊かで理解不能なモラルの体系をもった宇宙人があらわれ、人間の労働者をつれてくれば一人あたり一〇〇万ドル支払うと、にべもなく告知する。こうした状況を利用して儲けにありつこうとする悪辣な者は少なくとも一握りは常にいるものだ―そしてほんの一握りで事足りるのである。[p246]
▶︎資本主義化、負債社会化、植民地化の原点としてのホロコースト、市場社会の到来
補遺
デュモンによれば真に平等主義的な社会とは近代社会だけであり、近代社会は当初より平等主義的社会でしかありえないとすらいえる。というのも近代社会の究極の価値は個人主義であり、各個人はなによりも彼ないし彼女がかけがえのない存在であるかぎりで価値ある存在である。それゆえだれかがだれかよりも本質的に優越しているという発想のための基盤が存在しえないのである。しかし、いかなる「西洋個人主義」の教理がまったく存在しなくとも、おなじ帰結をみることはできるのである。「個人主義」という概念総体が真剣に再考される必要がある。[p680]
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デヴィッド・グレーバー『負債論』(3)
第五章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論
負債の歴史を語ること、それは、必然的に、市場の言語がどのようにして人間の生活のあらゆる側面に浸透するようになったのかを再構成することでもある。[p134]
・ コミュニズム
コミュニズム=「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人にはその必要に応じて[与えられ
る]」という原理に基づいて機能するあらゆる人間関係[p142]
→
実のところ、「コミュニズム」は、魔術的ユートピアのようなものではないし、生産手段の所有ともなんの関係もない。それは、いま現在のうちに存在しているなにかであり、程度の差こそあれあらゆる人間社会に存在するものなのだ。ただしこれまでに、あらゆるものごとがそのような[コミュニズム的]やりかたで組織されたことはないし、どのようにしてそれが可能なのかも想像することはむずかしい。しかし、わたしたちはみな、かなり多くの時間をコミュニストのようにふるまってすごしている。とはいえ、一貫してコミュニストのようにのみふるまう者はいない。この単一の原理によって組織されたひとつの社会という意味での「コミュニズム社会」が存在することは、決してありえない。だが、あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれているのだ。(中略)たった二人の人間の交流であってさえも、わたしたちはある種のコミュニズムの現前に立ち会っているといえるのだ。[p143]
▶︎真剣に何かを達成したいのであれば、最も効率的な方法は能力にしたがって任務を分配
し、それを遂行するために必要なものを与え合うこと
▶︎「ほとんどの資本主義企業がその内側ではコミュニズム的に操業していることこそ、資本
主義のスキャンダルのひとつ」[p144]
▶︎トップダウンの指揮系統は効率的とはいえず、民主主義の原理に基づいた協働こそが効率
性をもたらす
→「実に、コミュニズムこそが、あらゆる人間の社交性[社会的交通可能性](sociability)の基盤なのだ。コミュニズムこそ、社会を可能にするものなのである。[p144]
・基盤的コミュニズム」[p146]
:たがいを敵とみなさない関係性において、必要性が十分に認められ、またコストが妥当と考えられるなら、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の原理が適用されてしかるべきであるという了解
・個人主義的コミュニズム[p150]
:さまざまな強度と度合いにおいて「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」の原理にもとづき形成される一対一の関係
※ 3つポイント[p150-153]
⑴互酬性ではない、つまり双方の側で平等なのは、相手があなたのために同じことをする
であろうという知識であり、相手が必ずそうするはずだという知識ではない。
⑵「歓待の法」ex)ヨーロッパと中東で共通のよく知られた原理にあっては、パンと塩を分
かち合う人びとは決してたがいを傷つけあってはならない、食物、ないし、公認の典型
的食物を共有した人々は、どれほど一発即発の関係にあっても傷つけ合うことは禁止さ
れる。
⑶コミュニズムを財産所有権の問題ではなく、モラリティの原理として考えはじめると、
この種のモラリティが商業さえもふくむあらゆるやりとりのうちで、ほぼ正常に機能し
ていることが明らかになってくる。
メモ
⑴:負債は、「遅延性」を利子というかたちで貨幣に還元する。
⑵:人間関係に食べ物(モノ)の関係性が先行しており、それによって人間関係形成され
る。
交換
※ コミュニズムは、交換にも互酬性にも基礎を置いていない。[p154]
→・交換とは等価性にまつわるすべてである。相対する双方が、それぞれ与えたぶんだけ
受けとるといったやりとりのプロセスである。[p154]
・競争の要素が内在している。[p155]
・どちらも収支決算/損得計算をおこなっていること、常に関係全体が解消され、双方
がいつでも終止符を打つことができるという自覚が存在[p155]。⇄だからこそ、隣人に
対して人は負債を返済しないことを望む[p157]
・取引が実行されるためには、最小限でも、何らかの信頼の要素がなくてはならない。
[p155]
交換において取引される対象は等価とみなされる。それゆえ、そこにひそむふくみから、[交換にあたる]人びととも等価であるとみなされる。少なくとも、贈り物にお返しされたり、金銭の持ち主が交替する瞬間にあっては、そして、それ以上の負債や義務が存在せず、両者がそれぞれ等しく自由に立ち去ることができるときには、そうである。逆にみれば、このことは自律を内包しているということである。等価と自律―どちらの原理も君主との相性は悪い。王が一般的にいかなるたぐいのものであれ交換を嫌うのはそのためである。だが、この潜在的な解消可能性と究極的な等価性という全般的な見通しの内部で、際限のない[交換の]変種、はてしのないゲームの可能性がみいだされるのである。[p162]
ヒエラルキー
・先例の論理で機能する傾向にある。[p164]
・アイデンティティと密接に関連
すなわち、アイデンティティの論理は、常に、そしてどこでも、ヒエラルキーの論理と密接にからみあっているということである。本性によって区分された人びとについて、つまり、根本的に異質である種々の人間存在なるものについてひとが意識するようになるのは、ある人���が他の人間よりも上位に位置づけられるとき、または王や高僧、建国の父などとの関係にしたがってすべての人びとがランクづけられるときに、はじめてなのである。カーストや人種のイデオロギーはその極端な例にすぎない。ある集団が、じぶんを他集団よりも上位や下位に位置づけて、通常の公正な取引の基準が適用されなくなるようになったとき、いっそうそれは生じているのである。[p167]
・慣習化=ある行為が反復されると、慣習となり、その結果、慣習は行為者の本質的性格
を決定するようになる。[p168]
だれかに感謝するということは、そのだれかがそのように[感謝のもととなるように]ふるまうことがなかったかもしれない、ということでもある。それゆえ、そのだれかがそのようにふるまうことを選択したということが、義務と負債の感覚を―したがって劣位を―生みだしてしまうのである。[p174]
負債とは完遂にいたらぬ交換にすぎないのである。[p184]
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ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
ある表象(説教家とか教育者とか、文化の普及者たちが社会経済的な昇進の規範として教えこむもの)が存在し流通しているからといって、それを使用している者たちにとってその表象がいったい何であるかということは少しもわかっていない。そうした表象の製造者ではないが実際にそれを使っている人びとがどのようにそれに手をくわえているか、それを分析する仕事がのこっている。それをあきらかにしてはじめて、イメージの生産とそのイメージを使用するプロセスとのあいだにどのような隔たりがあり類似があるのかを理解することができるだろう。
われわれの研究は、生産と消費とのこうした隔たりを中心にしている。[p15]
こうした「もののやりかた」は、幾千もの実践をつくりなしており、そうした実践をとおして使用者たちは社会文化的な生産の技術によって組織されている空間をふたたびわがものにしようとするのである。それらが提起する問題は、フーコーがあつかった問題と似てもいるし、またその逆でもある。似ているというのは、数々のテクノロジーの構造の内部に宿って繁殖し、日常性の「細部」にかかわる多数の「戦術」を駆使してその構造の働きかたをそらしてしまうような、なかば微生物にも似たもろもろの操作を明るみにだすことが問題だからである。また、逆だというのは、秩序の暴力がいかにして規律化のテクノロジーに変化してゆくかをあきらかにするのはもはや問題ではなく、さまざまな集団や個人が、これからも「監視」の編み目のなかにとらわれつづけながら、そこで発揮する想像性、そこここに散りばり、戦術的で、プリコラージュにたけたその創造性がいったいいかなる隠密形態をとっているのか、それをほりおこすことが問題だからだ。消費者たちが発揮するこうした策略と手続きは、ついには反規律の網の目を形成していく。[p18]
もっと一般的にいって、押しつけられたシステムをある一定のやりかたで利用することは、既成事実という歴史の掟に抵抗し、それを正当化する教義に抵抗することである。他者が樹立した秩序をあるやりかたで実践すれば、その秩序の空間は再配分されてしまう。少なくともそこには、対等でない諸力が作戦をめぐらすゲームが創りだされ、さらには、ユートピア的な道をめざすゲームが創りだされてゆく。そこにこそ、「民衆」文化の暗闇があらわれているであろう―同化にはむかうあの黒い沼が。こうした民衆文化のなかで「知恵」(sabedoria)とよばれるものは、詐術(trampolinagem 大芸人の軽業と、トランポリンtrampolimの上で跳びはねるその芸当にひっかけたかけ言葉)のことであり、「悪だくみ」(trapacaria社会契約のさまざまな条項をうまく利用したりごまかしたりするペテン)のことである。他者のゲームすなわち他人によって設定された空間のなかで戯れ/その裡をかく無数の手法が、細く長くねばりづよい抵抗をつづける集団の活動の特徴をなしており、かれらは、自分のものをもてないから、やむなく既成の諸力と表象の織りなす網の目をかいくぐってゆかなければならない。「なんとかやってゆかなければ」ならないのである。[p71-72]
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