ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア』感、もしくはクリムトの「農家の庭」感をまとったヤギの五郎。
現実の世界はそんなロマンチックなもんじゃないけどね、どちらも大好きな絵。
草原の中にぽつぽつ咲く大小の花、ここだけ切り取れば世界は何てロマンチック。
陶器市が終わって二日間雨が続いて、じっとしていられなくてカッパを着て庭仕事をしたら身体を冷やしてしまった。
連日の楽しいお喋りで酷使したところへ強風の砂埃を浴び、何年か振りに喉からくる風邪をひいて、ここ数日は体調が絶不調でありました。
喉が痛くても身体がだるくてもヤギと仕事は待ってはくれない。
辛い身体を押して散歩に付き合ってやるとやっぱり嬉しそう。
以前どこかで見かけていたはちみつ大根のレシピを思い出して、普段は買わないでいるはちみつを、半べそかきながら買いに行く。
藁にもすがる思いで作ったそのシロップを喉に通すと、本当に痛みが和らいで感動すら覚える。
自然の力と昔の人間の知恵はすごいね。
大根を作った農家の方々、蜂の方々ありがとう。
今年も我が家のキンリョウヘンは花を咲かせてくれたけど、やってくる蜜蜂が少ない気がして少し心配している。
人間が引き起こしている異常気象が見えないところ、知り得ないところで小さい生き物に影響を及ぼしているんだよな。
我が家の庭は多様性の宝庫です。
草がたくさん生えて虫がたくさんいて、すごく緑が濃くてしっとりしている。
だからブヨも蚊もたくさんいて難儀することもあるけど、小さい生き物が全くいない自然は不自然だ。
陶器市最終日の朝、家の窓にかけている簾にここ一年ほどくっついていたカマキリの卵から、ついにたくさんの子カマキリが生まれていた。
まるでエイリアンが増殖しているみたいで、かなり好き嫌いの分かれそうな見た目だけど、私はその爆発的な生命力の瞬間を見ることができて感動した。
嫌いな方には刺激が強いかもしれないので、この下の写真は注意してください。
子カマキリたちの「ヒャホー!」って声が聞こえそう。
これから我が家の庭で活躍してくれるんだろうけど、てんとう虫と蜂たちは見逃してやってくれよな。
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そうは言っても陶器市なんですよね。
過去を振り返ってる場合じゃないんですよ。
この数ヶ月は試作の子鬼(鬼というには生ぬるい)と化していて、なけなしのアイデアをいっぺんに形にしていました。
小出しにするということができない性格。
当然思い通りにいかないものも多く、それでも次に活かせる結果が得られたのかな。
やらないよりは遥かに。
そんなわけで、新しく完成したもの、試作品、B品などは個人の感覚として結構豊富にご用意があります。
新たな試み、気まぐれの一点ものが多いのはいつものことなのかもしれず、ご期待に沿うものが必ずあるかわからないのに、毎回いらしてくださる方々の気持ちには本当に救われるものがあります。
B品、いわゆる小傷や歪みなどのあるものは、人によっては廃棄されてしまうことも多いんだろうけど、私は極力捨てません。
資源とエネルギーを使って作ったものを、作り手の判断ひとつで産廃にしてしまうのは、あまりに無責任なのではと思ってしまう。
悲しいけど、誰かが見放した陶器は埋め立てゴミにしかならない。
胸が痛い。
どんなに不格好で人様の目に触れさせるのが恥ずかしいと思っても、それはあくまで作り手のエゴなので、手に取りやすい��格によって少しでも長く誰かに使ってもらえるなら、そっちの方がずっといい。
というのは独立当初からの唯一と言ってもいいかもしれない信念です。
というかシンプルにMOTTAINAI。
ここまで書いて、こんな放置気味でいい加減なブログをどれだけの人が読んでくれるのかわからないけど、私の気持ちは成仏されました。
これから庭の植物たちがどんどん劇的な変化をしていくというのに、10日間も手をかけられないなんて、ということでつい陶器市の準備を後回しにして庭仕事をしてしまう。
そしてそんな自分をどこかで許している。
10日間かぁ。
健康第一です。
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数年前に訪れた、弘前のとある神社のお馬さんです。
緑の中に佇んでいてとても好きだなあと思った。
マグリットの絵みたい。
"自分の機嫌は自分でとりたい。
居心地のいい家も優しい夫もかわいい猫も、遠くに暮らす分身のような家族も、友達も陶芸も、皆私を支えてくれるし力をくれる。
それでも、本当の意味で自分を大丈夫にするのは自分しかいない。"
この写真を載せようと思った数年前、そんなことを書いたまま下書きをずっと保存してあった。
当時コロナ禍の真っ只中で、住まいも仕事場も新しい環境に変わったばかりで、自分の居場所がどこにもないような不安に胸が潰されそうな毎日だった。
仕事はあっても心が入っていかなくて、今までやってきたことをなぞるように対応するのが精一杯だった。
これでいいのか、今まで何を楽しいと思ってきたのか、自信がなくなってしまった。
足りないものは何もないはずなのに、何がそんなに不安で心細かったのか、今考えても本当にわからない。
でも気持ちだけが全然元気じゃなかった。
今思えば、私の中の何らかの大きな変化の前の、きっかけを感じ取りはじめたような時期だったのかもしれない。
それからヤギを迎えることになって、翻弄されて、苦悩して、だんだん楽しくなった。
生活を占める割合が仕事しかなくなるような、目まぐるしい時期をなんとか乗り越えて、静かな時間も戻ってきた。
世の中はコロナ禍から脱して、ふと我に返った時に、はっきりと見えるようになったものがあった。
はっきりと見えるようになったというか、もはや自分が、目を逸らすことができなくなっていた。
昔から変わらない自分と、新しい自分が同じ方向を見ている。
やっぱりね、とも思うし、意外だな、とも思う。
だけど今までと決定的に違うのは、目を逸らせない以上、何もせずにはいられないんだよなということが、はっきりわかっている。
空気を感じ取っていたとしても、心の平穏を保つことを優先するなら、それ以上見ないままでいることも選べる。
でも目を逸らし続けることの方が、今の私は辛い。
ちゃんと見た上でどうするか、何ができるかを考えて決めたい。
この写真を撮った頃の自分をひ弱だったなとも思うし、よく耐えたねとも思う。
側からどう見られようと何を思われようと、そんなことくらいじゃ変わりようがないものが、新しく自分の中に構築されてしまった感じ。
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2月に入って今年3回目の雪。
雪の日は結構好き。
雪を言い訳にして1日のタスクを強制的に責任放棄できる感じ。
雪の日の作業部屋も好き。
外が明るくていつにも増して静かで、空想に耽ることを許されるような気がする。
こういう日は動物たちも巣の中でじっとしているんだろう。
人間だって動物だから、一緒に引きこもっていたらいいよ、と言われている気持ち。
家の前の木々の中にはフクロウも住んでいる。
昼間も夜も、いつも決まったリズムと音程で鳴いているのが聞こえる。
山羊の散歩中、頭上でアカゲラが木の幹を嘴でつついている。
数日前の2月とは思えない異様な高温の変な天気の日、山羊の干草を買いに行った帰りにもやもやしながら車を走らせていたら、頭上を白鳥の群れが北へ向かって飛んでいくのを見た。
春がきたと勘違いしてシベリアへ帰ろうとしていたのかな。
変だよね。自然の異常な状態を普通だと思わなければいけない時代なんて。
これからはニューノーマルを受け入れろって言われたって、ねぇ。
その度に自分に言い聞かせる諸行無常。
人生は修行だね。僧だね。
フクロウの姿はまだ見たことがないけど、見えなくていいと思っている。
野生の生き物と人間の間には越えられない一線がちゃんとあった方がいい。
去年の夏にきび砂糖で仕込んだ梅シロップがやっと飲み頃になって喜んでいる。
なかなか飲みやすくならなくて、やっぱり氷砂糖の方が良かったのかなあなんて残念に思っていたからより嬉しい。
氷砂糖よりこっくりして美味しい気がする。次もきび砂糖に決定だ。
今年はどれだけ実がなるかな。(お隣さんちの梅の木だけど)
今年のヒヤシンスはチャイニーズピンクです。
もうずっと良い香り。
ふとしたきっかけで、自分が子供の頃に投げたクラスメイトへの酷い言葉や態度なんかを思い出してちょっと落ち込む。
そういうのはしたりされたり、大体はお互い様だったりすることも多いはずなのに、されたことばかりが記憶に濃く焼き付いて、それが自分のアイデンティティを形作る一部になっているとさえ思っていたりする。
誰かを傷つけてしまった記憶がいくつも急に思い出されて、自分という人間が全てにおいて正解でも完璧でもないことを思い知ることがたまにある。
そんな言い方ひどいよ、と言ってくれた友達や先生には今でも感謝している。
そしてこういうタイミングは自分にとってきっと定期的に必要なんだろう。
でも、ただ、こういう流れは決まって生理の直前にやってくる。
ホルモンに振り回される生き物だということも忘れずにいたい。
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美しい横顔。見惚れてしまう。
我が家のファルコン。ピカソが描いた気持ちがわかる。
こんなに凛々しいのに性格はとぼけてるんだから可笑しいよね。
嘘やずるさのない優しい目。
人間が持つ複雑でややこしいものが存在しない、清々しさと健やかさと素朴さ。
いつだって信頼できるから自分だって飾らないし、無理しないで接することができる。
どんな自分を見せても幻滅されないし、変に勘繰られることもない。
そのまんまの自分でいいんだ。
彼らがそうだから、それ以外である必要性もないから、私も彼らの前では心底リラックスしていられる。
私が動物のことを大好きな理由。
お隣さんの広大な敷地で草を食べることを許してもらってるんだけど、梅の木の下のふさふさに茂っていた竜の髭、山羊たちに食べられてツンツンになってしまった。
ツヤツヤだった竜の髭に申し訳ない気持ち。
根っこまでは食べ尽くさないので、暖かい季節の間にまた生えそろってくれると思うのだけど。
冬の間の青草が少ない時期だけ、お世話になりやす。うっす。
山羊は半分野生みたいな動物で、とはいえ家畜化しやすい性質と、植生を荒らしてしまうことから、日本では野生化せずに人の管理下で共に暮らしてきた。
彼らの生き方を見ていると、犬や猫との暮らしからは見えてこなかった動物の本質が、少しわかってきた気がする。
自然界にあるものだけで生きていけるって、山羊たちを見ていると本当にすごいことだと思ってしまうんだけど、本来はごく当たり前のことであるべきなんだ。
そのためには自然が健康で体力がなくちゃならない。
だけど自然が調子を崩してそれを維持するのが難しくなってきているから、野生動物と人との不幸な接触が増えて、衝突という形で顕在化し始めている。
それはなにも今に始まったことじゃなくて、何十年もかけてじわじわと進行してきた。
まるで癌みたいに。
明治時代に日本にいた狼は、さまざまな人間都合の理由や風評から駆除されて絶滅してしまった。
天敵がいなくなった鹿は数が増え続け、彼らの好む植物は数を減らし、好まぬ植物だけが残り、山の植生は乱れるようになった。
多様性という健康を失った山は体力を保てなくなって、作物が取れなくなったり土砂崩れが起こるようになり、結果、人間の生活を脅かすようになった。
同じことが今、熊たちにも起こっている気がする。
古くからその土地にいる生き物は、かつての狼が大神と名付けられたように、その土地の健康を守っている。
その種が存在することには意味がある。
その意味を深く考えず、言葉を持たない生き物の存在をまるでないものとして、雑菌を消毒するみたいに何も考えずに一掃しようとしている。
自然界にまで人間都合の潔癖を求めようとしている。
去年の熊被害の多さは異常だとしても、大きく取り上げすぎるメディアも罪深い。
スズメバチだって同様に危険だし、件数で言えば熊よりずっと身近なのに。
そのスズメバチだって自然界になくてはならない役割を担っているのに。
狼のいる日本の山を知らない世代である自分が悲しい。
人間の都合しか考えられなくなった人間世界が本当に悲しい。
人間の存在しか許せないのは、人間以外の生き物の存在を意識できない世界をつくってしまったから。
人間に不都合な動物は駆除、虫には殺虫剤、雑草には除草剤、邪魔な木は伐採。
生物の多様性に組み込まれることでしか人間は生きていけないのに、その恩恵を受けて生かされているという認識があまりにない。
人間はどこまで傲慢になってしまったのだろう。
今私はそういう仕組みの社会にいることに強い危機感がある。
健やかなサイクルを失いつつあ���自然の中でこの先何十年も生きなければならない自分たちや、それよりも若い世代はこれからこの地球でどうしていったらいいのか。
自然界の健康をどうしたら守れるかをずっと考え続けている。
野生動物のためだけじゃない。人間のためにも。
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窯焚き中の美しい瞬間。
秋の陶器市が終わりました。
今年は4日間とコンパクトで、身体も楽だし制作の時間が削られずとてもちょうどいいです。
それでもその前からの疲れもあって、今日までろくに使い物にならず、次の展示の品物の整理やヤギの世話や、先日の夜の嵐で荒れた庭のパトロールなんかをして過ごしています。
特に今日はあまりに身体が重く、昼過ぎにソファでうたた寝をしていたら、旅先でカレーコロッケを5つ買って食べる夢を見て、お腹が空いて目が覚めました。
夫が水仕事で雑にコロッケを濡らすのでぷりぷり怒っていたのだけど(夢の中で)、一口頬張るとすごく美味しくて怒りなどあっという間に忘れてしまった。
けどこれはコロッケじゃなくて薄いカレーパンだな?と思って食べていた(夢の中の私が)。
美味しかったな〜、カレーパンみたいなカレーコロッケ。
登り窯の窯詰めが一列分終わった記録の写真。
右端の指がピースに見えてテンション高い人みたいで嫌なんですけど、これは焼成部屋が3つあるうちの2部屋目を示す数字の2です。
私が仲間達と使わせてもらっている登り窯は、一部屋につき2列ずつ棚組みができるので、この分量×6が一度に焼成できます。
一部屋ごと、上下左右でも焼き味が結構異なるので、そのあたりの特徴も考えながら窯詰めをしています。
ともあれ色々が無事に終わって本当によかった。
この後の個展と企画展の分も無事に揃えられることができてほんと一安心。
釉掛け期間中、降っていた雨が上がったのでヤギの世話に外に出たら、見たことないスケールの虹がかかっていて、慌ててカメラを取りに行った。
下がっても下がっても画角に収まらず、写真を撮っているうちにどんどん薄くなって、あっという間に消えてしまった。
はっきりと七色だった。
陶器市が開けて久しぶりの散歩。
青草を食べさせてあげたいけど春と秋はブヨが多くて、なかなかのんびり繫牧させてあげられない。
五郎が耳と肉ぜん(顎下についてる不思議なぶらぶら)ぶるんぶるんの瞬間で笑える。
窯焚きが済んで陶器市の準備中にメモアプリを開いたら、見覚えのないメモが保存されていて驚愕&恐怖。
え?え?? 一体誰がこんなものを...?!
日付はちょうど登り窯の準備期間中のくたくたに疲れていた時期。
きっと何かの手違いでロック画面から起動させて入力までしちゃったんだろうけど...何が起きたらこうなるの?
る、ろ!て.....。こわすぎる.....。
本当に、どなた様も大変お疲れ様です。
しばしゆっくり自愛しましょう。
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大好きなタイワンホトトギス。
花びらが少し青みがかったグラデーションで、一般的なホトトギスよりも小ぶりで華奢。
葉も斑入りでめちゃ可愛い。
さあ、またどんどこ増えとくれ。
今日、首も腰も痛くないのは1ヶ月以上ぶりくらい。
8月からの怒涛の作り作業もようやくひと段落して、やっと明日、登り窯に向けた最後の素焼き。
この後は釉掛け週間に移行する。
昨日あたりから、ちょっと庭いじりしたらあっという間に手がカサカサ。
湿度の影響すごない?
釉掛けなんて考えただけで恐ろしや。
必需品が一瞬で湿布からハンドバームに代わる予感は本物。ダイアモンドだね。
は〜可愛や。今年もポツリポツリと花を咲かせてくれたトケイソウ。
なんでこんな奇才(天才通り越して)的なカラーリングなの。
自然やばない?
こっちは実のなるトケイソウ。つまりパッションフルーツ。
花が可愛いのは言わずもがな(縮れ毛可愛すぎる)、咲くたびに筆でこちょこちょしていたら、一週間でこんな実が育っていた。
結実までの驚くべき速さ。
夏にもたくさん実をつけて、朝のヨーグルトと一緒に美味しくいただいてたんだけど、今年は夏が長かったからか再度実をつけてくれた。
熟すのが楽しみだわぁ。
夕飯の後、疲れ果てて頭ボサボサ放置してふと自分の影を見たらオバQみたいになっていた夏の思い出。
11月は陶器市と個展と企画展を予定しています。
そのほぼ全てを賄えるだけの品物を、今回は登り窯一本で焼成します。
リスキーだけどしょうがない。やるっきゃナイト。(ワードセレクトが今日なぜか古い)
これまでは友人たちと数名で焚いていたんだけど、諸事情あって今回は自分達(with夫)だけ。
これはおよそ間違いなく、私の陶芸人生の正念場な気がする。
こんな毎晩満身創痍でベッドに倒れ込むような嵐の展開になるとは、数年前に予定を入れた当初は考えもしなかった。
慣れた自分の窯でこまめに焼くほうが遥かに楽なのに、それでも登り窯を焚くのは一体なんで?
答えは簡単。
圧倒的に面白いから。
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2、3日ほど、意識的にささやかな夏休みを取りました。
子供の頃、夏休みに観ていた懐かしい映画を急に思い出し、ザ・ツタヤで借りました。
本当は95年制作のが観たかったんだけど、ザ・ツタヤにはなかった。
これを書くためにネットで観れないか調べてみたら、どうやらどうにかすればなんとかなりそう。(遅い)
なんでも即思い通りになる今の時代に、なかなかハードル高いのがいいじゃない。
いいのよ、欲しいと思ったその日の夕方とかその翌日とかに手に入らなくても。
過剰なのよ、提供されるサービスが。
その負荷が見えないところに絶対かかってるんだから。
簡単に手に入るものは簡単にいらなくなるから。
そしてあっという間に忘れるから。
そんな体験がしたいんじゃない。
あ、いけない、また話がそれちゃった。
そこで96年制作の岸田今日子です。
水筒(マイボトルともいう)に氷と豆乳とコーヒーを入れて(アイス豆乳ラテともいう)、傍に置いて鑑賞しました。
最近家の中でも水筒を持ち歩くのが私的大発見かつ大正解です(マイブームともいう)。
氷を作るペースも、冷蔵庫を開ける回数も、豆乳とコーヒーを合わせる手間も劇的に減ったし、マグを持ち運ぶ時にこぼすことも無くなってすごく楽になった。
これまでは仕事場にマグを持って行くときに、そこそこの割合でこぼしては拭いていた(これはせっかちな性格のせいもある)。
肝心な映画はといえば、わくわくし過ぎて序盤で画面を写真に撮ったほどです。
私は大人になってもこれくらいの可愛いホラーが好き。
他にも色々とても最高だった。西田尚美。
この当時、実在する木造校舎なんだそう。今もあるといいな。
小学生の頃、夏休みのひんやりしたリビングで本当によく観たんだ。
95年のやつを。
夏休み、あと1日くらい取って本命の方もちゃんと観よ。
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7月のとある日、新しい暮らしを始めた友人に会いに、高原へ。
写真じゃ伝わりにくいけど、この橋結構高いんだから。
なのにスケスケなんだから。
というか前にもこんな写真撮ってたな。
あれはウールのパンツにスエードのアディダスの冬バージョン。
こっちはリネンのパンツにナイロンのアディダスで夏バージョン。
パンツはどちらも古着、アディダスは夏の方は古着。(靴のことも古着っていう?セカンドハンド?)
アディダスを特別好きだと思ったことはないけど、たまたまこうなった。
ちなみにアディダスはこの2足しか持っていない。
着てたTシャツも古着。
いつものことすぎてわざわざ書くまでもないんだけど、やっぱ古着がずっと好きな人生。
だって、面白さが全然違うんだから。
簡単には運命の服に出会えないんだから。
たまに、「これはっっっ....!!」ていう劇的な出会いがあるからこそ楽しいんだし、だから服を買う機会も当然少ないんだけどさ。
でも、もはや過去の大量生産品が古着になってるんだから、なんだかな、とも思うんだけども。
私が中高生の頃に作られていた服が、今や立派な古着ですものね。
その何億倍が捨てられてるんだろうとも思うけど。
捨てるためにつくるって、バカみたいだよね。
捨てる運命のものにお金を払うのもバカみたい。
服だって家電だって家具だって、一度手に入れたらできれば一生使いたいよね。
壊れたら修理してまた使えるようにしたいよね。
修理できるシステムを整えてる生産企業が世の中全然ないし、なんなら新しい商品買わせるために壊れやすくなってるのももうずっとストレスだよね。
「お客様、買った方がお安いですよ...?」って何度言われたと思う?
新商品の売上の代わりに修理代取ればいいのに。
話がそれちゃった。
この日は高原の森に流れている川に連れてってもらった。
靴下を脱いで足をつけたら氷水みたいに冷たかった。
そんな場所でも、もう近年の夏はエアコン無しでは過ごせなくなっていると聞いた。
私が好きな地球がどんどん変わってしまう。
足元からポコポコと透明な水が沸いていて、その上を葉っぱに乗ったカメムシがくるくる浮かんでいた。
お尻の赤いハサミは何?!初めて見たよ。
陸地に葉ごとそっと置いておきました。
まさか水上の方が良かったなんてことある?
森の中を歩いていたら、ちょっと様子の違う紫陽花を見つけた。
あじさい...だけどこの蕾なんだろうね??
と友人と話していたら、翌日の朝ドラのエンディングで、視聴者の写真と共に「タマアジサイ」と書いてあるのをたまたま見て(タマだけに)、非常にタイムリーな答え合わせができた。
ていうか見たまんまやんか。
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毎日とんでもなく暑いですが、我が家では背筋も凍る真夏のホラー事件が起こっています。
東の窓から差し込む朝日を和らげるために、簾を設置したその数日後のある夜、網戸にしようとガラス戸を開けました。
すると、上から大量の枯草がバサバサと落ちてきました。
驚いて見上げると、その枯草はサッシの隙間にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた模様。
一体誰がこんな嫌がらせを...!
ショックと驚きで一瞬思考が停止。
2階の窓だし、鍵はかかっていた。
この枯草は家の周りにいくらでもあるもの。
鳥?にしては、詰め込まれていた隙間に入るには狭すぎる。
人の仕業じゃないことを祈り、結局その夜は不可解な謎を残したまま枯草を片付けて就寝しました。
その数日後の夜、またしても網戸にするためにガラス戸を開けると、今度は枯草と、大量のバッタの死骸がボトボトボト!!と落ちてきて、これには思わず悲鳴をあげました。
しかもバッタ、まだ少し動いている...。
枯草に加えて、およそ10匹くらいのバッタが、またしてもサッシの隙間にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた模様。
窓枠の下に落ちた山盛りの枯草とバッタ...。
バッタがかわいそうだが、まあおそらくは、バッタを捕食するものの仕業。
ネットで調べてみるとたった一件だけ、似たような事象についての質問があがっていた。(某知恵袋に)
そしてそれについての確実な回答はなかったけれど、「おそらく蜂じゃないですか?」と答えている人がいた。
サッシの隙間をよくよく見てみると、なるほど、土蜂が好きそうなトンネル状の隙間があることが判明。
我が家では夏になると、周囲のいたる所に土蜂が巣を作り始める。
洗濯物干しにしている竹竿の穴や、外箒の竹製の柄の穴、冬のストーブ用に蓄えている薪の断面にある穴などに、蜂がせっせと獲物を抱えて出入りするのを以前から見かけていた。
そしてあらかた詰め終わると、その中でおそらく産卵をして、穴の入り口を土できれいに塞ぐのだ。
そして翌年の初夏ごろになると、物干し竿の下にパラパラになった乾燥した土が落ちていて、(洗濯物を干すときにいつも踏んづけてしまう)「羽化したのだなあ...」なんて思うのだった。
なので。
網戸のしかも内側にそのような場を作られてはお互いにちょっと困るので、かわいそうだけど、その隙間を塞ぐことにした。
大昔に買って使い切らずに取ってあった万能隙間テープを少し切って、サッシに貼り付け穴の入り口を埋める。
これでもう蜂は入ってこれないね、と思ってその夜は就寝。
だがしかし、蜂の方が何枚も上手であり、翌朝再び大量の枯草とバッタに降られたのでありました。
木製のサッシなのでこういう作りなんですな、塞いだ穴のその上にもさらなる隙間があって、(写真は塞ぐ前)蜂はそこに子孫のための十分な食糧と、ふかふかのベッドを仕込んでいたのでした。
そう思うと胸がちくりと痛むのだけど、家の中で羽化されては大変なので、心を鬼にして上部の隙間も埋めました。
そうこうしていると、ちょうどバッタを運んできた蜂と遭遇してしまいました。(決定的瞬間、現行犯逮捕とも言う)
蜂はしばらくのあいだ右往左往して、「ここにあった入り口がない!」的な様子で戸惑っていたけど、いつの間にかいなくなっていました。
どうか新しい場所を見つけられますように、祈っているよ。
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忘れてた何かを思い出したかのように、置き去りにしていた何かを取り戻しに行くように、この2ヶ月間の放置を一気に巻き返すかのごとき怒涛の更新です。
この2ヶ月は地毛がどんどん天然パーマ化していくのをただただ自覚していました。
つい先日我が家に来た友人に、「今日は随分芸術的な髪型してるね」と言われたけど、違う。
今日に始まったことじゃない。
アイロンで伸ばさなければ、実はもうずっとこうなんだ。
これが本当の私なんだ。
芸術的だなんて、言葉を選んでくれてありがとう。
ロクロを引いていて頭を逆さまにしたりしてたから、そのせいもあったと思うけど、今日髪ヤバいよ?って言ってくれてもよかったんだぞ。
そしたら「今日だけじゃないからな!」って返したのに。
湿度が高くなるにつれ私の髪はどんどんパーマがかかり、近所の梅林の梅の実もどんどんたわわにに実っていきました。
その実をありがたく収穫させてもらい、今年も梅シロップを作りました。
梅やブルーベリーなど実のなる木は、一年おきに豊作になるんだそうな。
(うちの庭のジューンベリーは去年豊作だったから今年は寂しかった)
一年休んで力を蓄えて、また来年に備える。
花を咲かせるのってパワーがいるんだな。
一昨年いただいた梅の実は氷砂糖で漬けたけど、今年はきび砂糖にしてみました。
まだ1週間だけど、もうこっくりして美味しそう。
陶器市が終わった後の5月はなんだかすごく長く感じたんだけど、6月はついこの間はじまったと思ったのに、もう終わるんだ。
天気なんかに振り回されたくないと思いながらも、なんとなく心もすっきり晴れない日々が続いて、感情にカビが生えそうだった。
何か文字を打とうと思っても、どこか嘘臭く感じたり、言い訳っぽかったり、わざとらしく思えたりして、何も書けずにいた。
いや別に何も書かんでも誰も困らんのだけど、自分の中にあるものを言語化、視覚化していくこともセラピーに近いと思っている。
このブログも土偶作りに近いってことだ。
身近でもラジオで聞く話題でも、調子を崩している人が多そうだ。
みなさま本当にご自愛を。
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https://www.greenpeace.org/japan/campaigns/story/2023/05/25/63099/
ここ数年の私、まさにこの記事中のみどりさん状態。
以前よりは随分回復したけど、今だって若干そう。
買い物に出るたびげっそりしてしまう。
だけどこれは少しだけ希望を持てるニュースかもしれない。
この問題に限らず、この国に失望し続けているのは変わらない。
いつも思うけど、他国から尻を強打されなきゃ変われないのはいい加減ダサすぎでしょうよ。
こんなダサい国オラもう嫌だ。
だけど自分が辛くなるばかりなのも、他人の行動に目くじらを立てることも絶対に違う。
知りうる限りの社会の状況をできる限り飲み込んだ上で、なるべく健やかなマインドを保ちながら、自分にできる範囲で自分の気持ちに沿う選択をすること、それをずっと心掛けてきた。
一人一人にはそれぞれ平等に選択肢があって、どれだけの深度で物事を考えているかも異なれば、どの分野に興味や関心を向けたいと思うか、その自由もある。
例えば生活が大変な状況にあるときに、抱えている問題以外のことにかまう余裕なんてないじゃない。
話が逸れるけど、少し前に保護猫の譲渡先を探していた時、たまたまとある年配の方に相談してみたことがあった。
戦後に幼少期を過ごしたその人は、動物愛護が当たり前の感覚として浸透している今の世の中に思うことがあるようだった。
そして「自分が子供の頃は、とにかくみんなが生きるのに必死だったから、犬猫なんかに構う余裕はなかったよ」と言っていた。
昔も今も、本当はみんな生きるのに必死なだけなんだよな。
でもそうすると自分のこの辛さは、余裕がある人の贅沢な悩みなのかとも思えてきてしまう。
自分の中に揺るぎない信念はあるのに、個々人のさまざまなパターンも想像してしまうと、突き進みきれない。
向かいたい方向に全力で向かえないのって、こんなにも辛い。
そもそも日本社会が、全力で向かいたい私を受け止めてくれるようなつくりでは全くない。
孤独だ。
どうにもできないこの気持ちを抱え続けるのは想像以上にしんどいことだった。
自分自身が底まで落ちないように、必死で気持ちをコントロールし続けてきた数年間でもあった。
話があちこち逸れたけど、こうして記事になるくらいだから、自分と同じ気持ちの人はたくさんいるんだなぁとほとんど初めて知る。
未来に微かでも希望を持ち続けたいから、柄じゃないけど個人的な想いを私も書いてみる。
愛おしい動植物や大切な人たちが健やかに暮らし続けられるように、この楽園みたいな地球環境を維持したいだけなんだよ、わたしゃ。
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正直あんまり多くの人に手に取ってもらえるものじゃないんだけど、つい作りたくなる女性像。
最近は個人的に土偶と呼んだりしている。
中東の古代の発掘品にはどうにも惹かれるものが多くて、中でも焼き物や石の彫刻には地母神像というのがよくあって、博物館に観に行ったり図録で眺めたりしてはため息をついている。
中には土偶と呼ばれるものも少なくないけど、日本出土のそれと比べて、女性を象っているものが圧倒的に多い気がする。
私はどうにもその丸みを帯びた優しくもたくましいフォルムが好きで、いつまでもいつまでも眺めていたくなってしまう。
両手で包んでこねているうちに、自然に出来上がっていったかたち。
数年前そんなふうにして生まれてから、定期的に作るようになった。
一応陶芸を商売として成り立たせなきゃいけない身としては、そんなに売れないものはしょっちゅう作っても仕方がないところもあるんだけど、これだけはなぜかやめられない。
やめられないし、自然に体が向かう感じがする。
書いていて、もしかしたら、そんなに求められないから作りたくなるのかもしれない、と思った。
ばんばん売れて、きっちり決まった数作らなくちゃいけなくなったら、おそらく途端に嫌になってしまう気がする。
人のための何かになってしまう。
そうだった。自分がどういうものか、書いていて我が身を振り返る。
自然に体が向かうのは、純粋な自分のセラピーになっていると無意識に感じているからで、そういうのこそ、手を動かす上で一番大切にしたいことだったりする。
手を動かしながら無になれたり、頭の中が整っていく感覚だったり、気持ちいいと感じること。
陶芸学生時代の真面目なスケッチの合間のしょうもない落書き。
バーナード・リーチ。
...も、そう言っていたかどうかはよく知らない。
仕事として決められたことにちゃんと対応して、結果を出していくのはもちろん大事。
でも、そのために自分をないがしろにしていたら好きなことを仕事にする意味ないからね。
楽しくなきゃ続かないし、続かなきゃ仕事にならない。
いかに自分を飽きさせないか、そして自分用と仕事用の陶芸のバランスをいかに取るか、学生の頃から今に至るまで、毎日同じことを考えながら陶芸をしている。
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毎年この時期はこうなんだけどさ。
コロナ禍だった頃はこんな慌ただしさでさえ恋しく思ったもんだけどさ。
それにしても、丸一日休みって日が数週間ないだけで、こんなにも疲れが取れない。
とにかく忙しく目まぐるしい。
時間があったらもっと寝たい。
7時間じゃ足りない。9時間くらい毎日寝たい。
画面を見ると重い瞼が痙攣しはじめるので、SNSからも、こんなふうに文を綴ることからも当然遠ざかる。
ネットに流れるよく知りもしない人たちの情報いらないって瞼が言ってるみたい。
もっと山羊たちと庭を駆け回りたい。
山羊たちはたんぽぽの花が大好き。食べても食べても、翌日にはまた一面たんぽぽの花が咲いている。
そして糞は土壌の栄養になる。
なんて、なんて、地球の自然のサイクルに組み込まれた生き物なんだろうと、毎回感動すら覚える。(ほっといたら木々の新芽も食べちゃうのでそれは必死で阻止しているけど)
その生き方を見せてもらえるだけでありがたくて愛おしくて、毎日の地味で埃だらけの世話だってなんだってできる。
庭の植物の成長も、もっともっと眺めていたい。
冬のあいだ土の下でじっと眠っていた彼らの、待ってました!っていう声が聞こえるよう。
聴きたいラジオ番組も毎日たくさんある。
こればかりは仕事中にしか集中して聞けないので、ラジオを聞くために仕事も頑張れる。
ラジオに慣れてしまうと、他のメディアがいかにコントロールされて作られているかがしみじみわかってくる。
一人一人の、あなたの、私の、本音ってどこにある?
本当の気持ちや意見や考えを、さまざまなしがらみによって覆い隠されて、大きな力の管理下で作られたもののハリボテ感。
画面の中の笑顔で唄わされる美しい人たち、本当にその商品いいと思ってる?
花粉や気圧やホルモンにぶんぶん振り回されるし、それでもおよそ穏やかに、けれど高速駆け足で日々は過ぎていく。
忙しい時ほど、頭の中ではさまざまな問題意識や疑問が言語化されていく。
書き出すとキリがない。
大昔にどこかで見た、年配陶芸家の社会や政治への長文愚痴ブログと何が違うのかわからなくなりそう。
だからといって言葉を繰り出すのを恐れていても、何にも、これっぽちも変わらない。
それに日々に忙殺されて何が問題か見えなくなることや、問題を見て見ぬ振りするのは嫌。
そんなこと言ったってしょうがないじゃん、って一般市民の無力さを言い訳に諦めてスカしてるのももっと嫌。
で結局、自分にできる範囲でできることをコツコツやるしかないってところに何度も戻ってくるんだけど。
こんなことを繰り返しながらも、もがいて、行動して、少しでも自分が納得できる生き方を模索していくしかないのかもしれないけど。
人間以外の生き物の潔さが羨ましくなってしまうけど、それでも人間に生まれたことは何かの奇跡だと思って、頑張って生きていきますよ。ちくしょう。
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もう一月も終わるけど、年末年始のこぼれ話。
家族の行事で群馬と栃木の境目の山の中に入ったら、辺り一面銀世界だった。
下界では全く想像していなかったので少し慌てた。
3年前に買って以来全く履く気にならなかった水色のアディダスをなぜだか履いてきてしまった。
携帯の電波もないくねくねの山道で、こんな雪の日にスリップでもしたらと思うとぞっとした。
でも車のタイヤはスタッドレスだったし、夫の安全運転で無事目的地に着いた。
楽しい時間を過ごしたのち、なんとか下界の街まで帰ることができてほっとしたホワイトクリスマス。(懐石料理を食べました。クリスマス無視)
正月は私の実家で姪と母と兄夫婦と上毛かるたをするなど。(妹は読み上げ係で参加)
上毛かるたを兄の妻ちゃん(岡山出身)が縄文かるただと思っていたと言っていて、縄文かるたを想像してわくわくしてしまう。
正月のかるたなんて凧揚げくらいベタだ。
最後の一枚を姪に取らせてあげようという空気だったのに、その空気をもろともしない母が勢いよく勝ち取って高笑いをしていた。
そして一番枚数を取ったのは私だった。悲しきDNA。
元日の朝はお雑煮とおせちをご馳走になったけど、咀嚼時に顎の付け根から耳の中に刺すような痛みが走る。
たぶん顎関節症。
小学6年生の冬、寒い体育館で卒業式の練習をした時に発症してマウスピースを作ったのを思い出す。
寒い部屋の慣れない布団でろくに眠れず、変な疲れが溜まったんだろう。
少し離れたところに住む祖母にも、皆でわらわらと挨拶に行った。
おばあちゃん、元気そうでよかった。
祖母は賑やかにする私たち兄妹とその家族を見て「この人(母)がこんなに作ったんだねぇ」と感慨深そうに呟いた。
その瞬間私の頭の中には、父と母から続く家系図がぼわわわ〜んと浮かんだ。
90歳の祖母はたまに「りっちゃんたちの子供が見たいなぁ」なんていうのだけど、それにはさすがに胸の辺りがきゅーんとしてしまう。
ちょっと酷かなあと思いつつも、何年も前から自分たちには子供は必要ないことをやんわり伝えている。
もしかしたら私も気が変わるかもしれないと、20代の頃からたまに自問自答しているけど、やっぱり必要性を感じないことには向かっていけないよなあと、同じところに帰ってくるばかり。
大切な誰かや何かのためを思ったら、自分の意志を貫き通すことが正しいのか自信がなくなるときもあるけど、それ以上に、産まなくてもいい自由を当たり前のこととして選択できる現代に生まれた私は、恵まれているんだなあと思う。
日本では少子化とか人口減少が問題とされているけど、女であるせいで自分の意志とは無関係にその責任を背負わされるのは、もはや重すぎるよなあと思う。
顎の付け根の強烈な痛みは、益子の自宅に帰った翌日にはすっかり治っていた。
18歳まで暮らした地元は、もう帰るところじゃなくて、出かける場所になったんだなあという実感。
2023年始まって早々、一難去ったと思いきや、三が日の夜にグミを食べていたら奥歯の詰め物が取れてしまって、歯科医院の休み明けまで奥歯に穴があいたまま過ごすことになって、なんて年明けだ!と思った。
正月なので「餅じゃなくてグミで?」と院長に言われ...はしなかったけど、取れた理由など聞かれる間もなくあっという間に治してもらったので、幸先よしということにしよう。
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