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夜半
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短編と日記など
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seisauid · 10 days ago
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嘔吐
 リリさんは両手でもったグラスを傾けた。うつむいた睫毛はくろぐろとして、冴え冴えと寒い夜闇にたたずむイトスギの葉みたいだった。蛍光灯の白色の明かりがリリさんの鼻梁を照らして、その細面が寂しく浮かび上がる。頬から首にかけて、夕焼けの下に曝されたようにうす赤く染まっている。
「お酒飲むのって、久しぶり。」
リリさんはその首を傾けて、薄い唇をわずかゆがめた。唇はばら色に濡れ光る。これを蹂躙できる男がいるのだと思うと、かすかな怒りが胸中でちらつくのを感じた。ただ純粋にリリさんが傷つけられることにたいする怒りなどではなく、ただわたしもしたくてできないことを他人が当然のようにおこなっていることに怒っているのだと思う。
「わたしは昨日ぶりです。」
「毎日飲むの?」
「はい。眠るため、忘れるため、祝うため、毎日いろいろな理由があります。」
リリさんはグラスを置いて、その小さな口を覆い隠すようにして笑った。薬指の指輪が安っぽい光を反射した。リリさんの爪は揃って丸く整えられていて、いかにも清潔だけれども艶のない素爪である。指輪にすべて奪われてしまったみたいだと思った。
「酒飲みみたい。若い娘の台詞とは思えないなあ。」
「そう歳も変わらないくせに。」
「二十代の五つって大きいでしょう。」
リリさんは世界に空いた穴みたいな、真っ黒い瞳を細めた。たおやかな黒髪がするりと肩をすべって、それに合わせて反射光が動くのがまぶしかった。
「わたしのこと、子どもだと思ってますか。」
「んー。妹みたいに、思ってるかな。」
「男の人のいうそれは、狙っているという意味だと聞きますが。」
「わたしは女だからねえ。」
リリさんは目を伏せて笑った。睫毛の先がなだらかな曲線を描く頬をやさしくなぞった。リリさんの笑い方はいつだってごく静かで、声を立てるにしても内緒話をしているようなささやかさだった。わたしといてそう面白くないからかもしれないけれど、それにしたってリリさんはおとなしい人だと思う。
「告白だったらいいのに。」
「男の人でも告白じゃないでしょう。それに、知ってるでしょ。わたしが結婚してるの。」
リリさんは左手薬指の指輪を撫ぜた。愛らしくてしかたがない子どもを叱るような口ぶりだった。そんな、あなたが愛するに値するようないい男じゃないでしょう。悪口を言いそうになったけれど、リリさんに嫌われると思ったのでやめた。わたしだってリリさんに愛されるべき人間でないことはわかっている。いや、でも、だめな男がいいならば、だめな女だっていいじゃないですか。リリさんと出会うのが遅かったことはわたしの過失だと思うけれど、それ以外はわたしの手の届く範囲の外にあるものだ。
「結婚してなければ、ありえたんですか。」
「わたし、男の人が好きだしなあ。」
リリさんは眉を下げた。わたしはリリさんと酒を飲むたびこの手のことをいって困らせている気がする。そう酔っているわけではないのだけれど、普段から言いたくてしかたのないことだから、酔っているという大義名分を振りかざしているだけである。気が大きくなるのは悪い癖だ。
「女の人と付き合ったことあるんですか。」
「ないけど。」
「じゃあ、���からないじゃないですか。」
「……としても、もう結婚しているわけなんだから、どうしようもないよ。」
この話、おわり。リリさんはキッパリと口を閉ざした。
 わたしが本気なのはわかっていると思う。酔っぱらいの告白なんて面倒なものである。だけれど、リリさんはわたしが誘うと来てくれるものだから、憎からず思われているものだと思いこんでずるずるとリリさんをあいまいに口説き続けている。リリさんが折れないことは知っているけれど、いつか起こりうる気の迷いに期待している。残り少ないグラスの中身を飲み干す。
「ねえ、もううちお酒ないんですよ。散歩がてら買いに行きませんか。」
リリさんは静かにグラスに口をつけて、天を向く。華奢な喉仏を上下させた。なんだか彼女のお骨拾いをする人びとが無性に羨ましくなった。
「夜の散歩って大好き。」
リリさんは途端立ち上がった。目を細めるしぐさが妙に色っぽくていやになった。リリさんの瞳は夜の海みたいで、吸い寄せられるままに身を投げてみたいと思った。衣擦れを聞きながら、凪いだ浜辺にいるみたいに錯覚した。肌寒くて、静かで、わたしの部屋の匂いがする。
「ほんとうに、夜外に出るなんて久しぶり。覚えてる? わたしがさ、友達と飲みにいってた日、うちの人が怒って入れてくれなくて、マユちゃんが泊めてくれたよね。」
「そりゃあ、覚えてますよ。鼻血だしてるおとなって初めて見ました。」
「あは、あの人、ああだから。」
リリさんはへらへら笑った。むなしい気持になった。リリさんは自分のことを大切にするのがへたな人だ。わたしだって結局のところ、リリさんを大切にはできないのだけれど、リリさんの自分自身への態度が悲しかった。諦めながら生きてきたのだろう。この人は幸せになるに値する人間なのに。殴られたリリさんの顔を思い出した。細い鼻柱が腫れていたっけ。困り笑いを浮かべて、崩れた化粧のままに隣室のドアの前にたたずんでいた。痩せた頼りない肩に、青黒くひかる髪がうちかかっていかにも寒々しかった。わたしのものにしたいと思って、声をかけて、わたしの部屋へと引きずり込んだ。
「……まあでも、ラッキーでしたよ。あの夜、楽しかったし。」
「わたしも。」
「わたしと暮らしたらずっと楽しいですよ。」
「そうだね。」
リリさんの目は切れ長で、不思議な荘厳さをもってひかった。わたしが触れてよいものとは到底思えなかった。もちろん、ほかの誰だって。夜風に冷やされたのか、くたびれたTシャツの深い襟ぐりから覗く首筋は、常通りの白さを取り戻しつつあった。
骨上げ箸で、もう菜箸でもいい、乱暴につかんでやりたいような気持がした。
 コンビニの白い灯りはすべてを安っぽくみせる。下品なロゴをでかでかとあしら��た缶チューハイと、ジャックダニエルの小瓶をカゴに入れた。わたしはリリさんといるせいではしゃいでいるらしい。一人ならば安くて強くて多い酒しか買わない。炭酸水、氷……とコンビニの棚の間をふたりしてうろうろ歩き回る。スナック菓子も放り込む。がさがさと下品な音が鳴る。こういうときは飲みきれないくらい、食べきれないくらい買うのがよい。リリさんはエクレアと日本酒と赤ワインの小瓶を入れる。買い物かごの中で瓶がぶつかって高い音を立てるのが無性に愉快だった。
 リリさんと会うときの会計は交代制にしていて、今日はわたしの番のはずだったし、だからわたしにしては高いものを買おうとしたのに、リリさんは払わせてと言った。断っても妙に食い下がってくるものだから、しかたなしにリリさんに財布を出させた。スウェットのポケットから古ぼけた財布が取りだされるのを見ながら、買い替えたらいいのにと思った。わたしがプレゼントしたっていいのだけれど、リリさんは固辞する。無駄遣いをしたと思われても、ほかの男からのプレゼントと思われても、彼女の夫を怒らせる理由たりえるからだろう。
「マユちゃんは、恋人とかつくんないの。モテそうじゃない。」
リリさんはこともなげに問う。
「この通り、面倒なんで、わたしって。だめですよ。モテません、まるで。」
リリさんは自覚あるんだとかすかな笑い声を立てた。リリさんはきれいな顔立ちをした人だけれど、笑うと年端もいかない少女みたいに幼くみえた。無垢に開かれた口はしかし華奢な手に覆い隠されて、乳色の歯は窺えなかった。
「自覚あるんだ。」
「あ、ひどい。わたしのこと、面倒なんだ。」
「否定はしないけど。かわいいと思うよ。」
拗ねてみせると、リリさんは聞き分けのない子どもをあやすように、やわらかく眉を下げた。頭蓋のまるみに沿ってゆるやかにカーブを描いた眉は、細すぎも太すぎもせず、ただなにか清潔だった。化粧品はなにをつかっているのかと問うと、わたしも手に取ったことがあるような安物だというから驚く。これでも昔は好きなブランドとかあったんだけど。リリさんは遠くを眺めるようなまなざしで言っていた。ただ後悔の色は微塵もみえず、望郷の念じみた純粋ななつかしみがそこにはあった。なんだか���べてが妬ましかった。
「かわいいだけ、受け取っておきますね。」
わたしたちは帰ってから夜更けまで飲んだ。普段リリさんはうちの人が怒るからといって早々に帰っていくものだから、めずらしいことである。今日だって、リリさんの帰ったあとの、狭いくせにがらんと寂しくみえるつまらない部屋で、わたしは一人飲みなおすのかと思っていた。
「大丈夫ですか。怒られない?」
「大丈夫。ねえ、それも開けていい?」
ワインの小瓶をさして言う。リリさんは日本酒をわたしにも勧めたけれど、気分でなかったため断っていたら、リリさんはほとんど一人で二合空けていた。アルコールに強い人ではなくて、普段は度数の低いチューハイを一、二本飲んで十分といった調子だ。
「あの、そんなに飲めたんですね。」
「んー……飲めるというか、そうね、飲めるんだけど。」
リリさんはあいまいに微笑した。わずか持ち上げられた口角にはしかし、もの悲しい影が落ちていた。
「マユちゃんは、時間大丈夫なの。」
「べつに。あしたもなにもないです。」
「ないことないでしょう。……まあ、ならよかった。じゃあね、付き合ってね。飲みたい気分なの。」
リリさんはグラスに頬ずりするようにしてわたしを見つめた。媚びたしぐさが似合わなくて、妙に下品で痛ましくさえみえる。下目蓋がやわらかい曲線を描いて、静かに持ち上げられた。瞳は据わっていて、怖いくらいにきれいである。ずるいんだから、と小さく呟いて、わたしは自分のグラスに口をつける。
 リリさんと空が白むまで飲んで、しゃべって、そしてリリさんはベッドで、わたしはソファで眠った。同じベッドで眠らないのは、リリさんとの数少ない線引きである。好きと表明している以上、隣で眠るなんて言い出したら、二度と来てくれなくなるかもしれない。ただ、そんなことを言う男の部屋にはそも入るはずがないのだから、わたしは信頼されているやら舐められているやら、リリさんと一緒にいられることがうれしくて、それがひどく悔しかった。おのずと眉根が寄せられると、ぐわんと脈打つような頭痛が起きて、くたびれたソファの硬い座面に頬を寄せた。リリさんの白い腕が毛布とシーツの隙間からぬっと伸ばされて、カーテンの隙間がぴっちりと閉ざされた。腕を静かに振り下ろすと、リリさんはそれぎり身じろぎひとつしなかった。
 ベランダに出ると、陽射しがちょうど真上から降り注いだ。洗濯物を干しっぱなしだったことに気づいて、ため息をついた。使い古してばさばさのタオルが硬く乾いている。リリさんが音もなくこちらへ歩いてきていたらしくて、わたしの後頭部のあたりからかすれた声がお天気だねと言った。いかにも寝過ごした休日と言ったようすの、のどかな声色だった。
「ああ、コーヒー飲みますか。」
「んー……アイスがいい。」
甘えた声色にだらしなくゆるみそうになる口元を隠して、わたしは室内に戻った。電気ケトルの電源を入れて、インスタントコーヒーの瓶を取り出す。氷は常備するような豊かな生活を送っていないのだけれど、ゆうべ買ったものが残っているはずだ。真っ白に晴れた静かな昼の中で、電気ケトルはやけにうるさい。不ぞろいなグラスを二つ出して、白い水垢のようなものを認めたためなんともないふりをして水洗いした。味気ないインスタントコーヒーを濃く溶いて、グラスに昨日の残りの氷をおとして、水道水を注ぐ。氷が悲鳴を上げながら割れ、互いにぶつかり合う。どうにも乱暴な気持になる。
 リリさんにコーヒーを渡すと、口をつけたのち、
「微妙!」
と笑った。
 リリさんは昼前ごろに帰って行った。
 玄関口に立つリリさんは、陽射しをやわらかく遮って、もやがかったグレーの陰影の中にいた。ほとんど徹夜明けみたいな状態のくせに、肌はまっさらで、ひたすらに清潔だった。古ぼけて伸びた服がそれをいっ��う際立てるのだけれど、リリさんが着飾ったらどんなにきれいだろう。
「長居してごめんね。」
「いーえ、全然。住んでくれても構わないくらいです。」
「またあ。マユちゃんって、同棲とかできない人でしょう。」
「やだな、これでも前は同棲してましたよ。そりゃもうべったりで。」
リリさんは思案するような顔をして、
「たのしかった?」
と訊いた。なんだか不思議にあどけない響きを帯びていたものだから、わたしはやや目を瞠ってしまった。リリさんの瞳は静かな夜闇みたいに、ただわたしの眼前にあった。リリさんと見つめ合っていると、自らの輪郭すらあやふやになるような、不安定さが感ぜられることがあった。
「まあ、そりゃあ。好きな人とはずっと一緒にいたいものですよ。」
わたしは目をそらした。リリさんはため息を漏らした。気づくとリリさんの目はいかにもしとやかに伏せられて、睫毛が肉の薄い頬のうえでめいめいにうなだれていた。かと思うと、リリさんは途端明るい声を出した。
「うふふ。そうだよね。そうだった。」
逡巡するように唇を閉ざして、しかし決意したように静かに息を吸った。
「わたし、マユちゃんといると、わたしのことを好きな人がいるって思い出せて、楽しかったよ。」
「なんですか、急に。」
「ほんとのことなんだもの。」
リリさんはひとりで納得したように小さく幾度かうなずいた。髪がふるふると揺れて、肩口でたわむ。薄いデコルテに暗く影が落ちて、どうにも心許なげにみえた。年上だのにリリさんを少女みたいに思うことがある。わたしにとってリリさんは聖母のように清らかで、壊れかけの人形みたいに寂しげで、売女のように卑しく、姉のように慕わしかった。
 つまるところ恋であった。
「うれしいですよ。リリさんがわたしといて、少しでも気分がいいなら。」
「ごめんね。そんな卑屈っぽくならないで。」
「本心ですよ。それに、リリさんこそ。」
リリさんは大きく二度、まばたきをした。リリさんの目には光が入らないで、もとよりの黒さも相まってひどく暗くみえた。白目は透けるほどに白くて、わずかな充血もよく目だつ。わたしに抱きしめられることをリリさんが望めばいいのにと思った。
「リリさんを好きな人はずっと、ちゃんといるでしょうに。」
リリさんの眉とまなじりが引き下がって、悲しみかよろこびか、どちらの発露かわからなかった。唇は他人行儀なほどきれいに笑んでいる。わたしは嘆息した。ただ、この人はわたしを傷つけえないということだけが確かだった。リリさんの、世界に一人取り残されているみたいな、哀れっぽさが好きだった。
「じゃあ、今日はありがとう。」
リリさんは胸元で小さく手を振った。指はしゃんと伸ばされて、そして薬指で指輪が鈍くひかった。
 いつからか隣の部屋が静かになった。気づいたらもぬけの殻だった。
 ポストに貼られた投函禁止のテープで、��うやくわたしは現実を受け入れざるを得なくなった。リリさんの夫はその機嫌を身振りでよく表す男らしく、苛立たしげな物音が響いていたものだから、しばらくぶりの静かな夜におやとうれしくなったものだけれど、男が外泊しているだけかと思っていた。リリさんはあまり大きな音を立てることがない人だから、あの部屋にひとりでいるものだと思った。男のいない生活は穏やかだろうとひそかに安堵していた。
 リリさんにメッセージを送ってみたけれど、待てども既読がつくことはなかった。これまでの履歴を遡っても会う日程を確認するていどのやりとりばかりで、わたしとリリさんのこれまですべてがまぼろしみたいな心地がした。リリさんの声を思い出せなくなったことに驚いた。動画も写真もいっさい残っていないものだから、わたしの中でリリさんはただ、憧れとしていっそう美しく、おぼろげな像を結び続けていた。くだらない風景に理想化されたリリさんを重ねて目を瞑る。
 騒々しい住民が減って、アパートは静かになった。いや、静かになったとはいえ、安い家賃に似つかわしいような安っぽい住民ばかりである。そう変わりはしない。かれらが立てる音すべてが不愉快である。金も展望もないけれど、次の更新のときに引っ越そうと思った。アイスコーヒーを飲んだ。氷がないものだから、アイスというよりぬるんだコーヒーにすぎず、微妙どころか不味かった。喉に張り付くような不快感を覚えて、ほとんどを流しに捨ててしまった。夕方ごろから頭痛で寝込んだ。
 夜更けごろに目が覚めて、自棄のように酒を飲んだ。赤ワインの瓶に直に口をつけた。所詮安酒なのだけれど、台無しにしてやったというような不思議な爽快感があった。飲みきったころに吐いた。ちっともうまくない。嘔吐物は真っ赤でグロテスクだった。
 エクレアを買おうと思ってふらふらと家を出た。夜風は冷たくて、足音はわたしのものだけで、泣きそうな気持がした。空気が乾き始めたせいかもしれない。変わらず白く明るいコンビニに入ると、エクレアはおかれていなかった。陳列されている商品は様変わりして、あの日の再現はできそうにない。ショートケーキを買って、帰路にパックを開けて乱暴に食べた。もらったプラスティックのフォークは側溝に捨てた。指についたクリームを舐めた。帰ってまた吐いた。そして、メッセージアプリでリリさんをブロックした。
 二か月ほどして、本格的に冬が訪れて、私の最寄りの隣駅で飛び込みがあったと聞いた。なんとなくリリさんのことを考えて、忘れようと思った。
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seisauid · 2 years ago
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雨の娘
 閑はうすい唇に笑みを浮かべて、わたしのてのひらが彼女の首筋を包み込むのをみつめている。わたしは手に力を込めて、頸動脈を押しつぶすように、彼女のほっそりとした未成熟な首を絞める。閑の顔は、カーテンのすきまから差し込むあざやかな夕陽のせいか妙に赤く染まっていて、ぼうっとした表��も相まってどこか官能すら湛えている。わたしは頭の隅で自分がひどく恐ろしいことをしていると自覚しながら、同時にいまのわたしたちがなにか途方もなく美しいものに感じられて、永遠にこうしていられたらよいとも思っていた。わたしは彼女の瞳から目を離せずに、じいっと、彼女のおおきな、凪いだ黒目を覗き込んでいる。そのなかには焦燥と興奮の入り混じった表情の自分が写り込んでいて、殺人犯はこういった表情で人を殺すのかもしれないとなんとなしに考える。事実わたしは殺人行為の只中におり、これからただしく殺人者となるわけだけれど。ぼんやりとした、熱に浮かされたように現実味を欠いた心地のままに、とくとくと脈を打つ閑の首を絞め続けると、じきに彼女は意識をなくした。それからしばらくして、わたしは彼女の首筋からゆっくりと手を離す。脈はとうになくなっていた。触れた肌はやわらかく、まだ温度も生きている人間のそれであるけれども、静かに、着実に彼女の身体は熱を失っていった。人の死を目にしたのは、また自分が人を死に至らしめたのは、わたしのそう長くない人生の中で初めてのことであったけれども、思いのほか衝撃はなく、すべてが作り事であるかのような不可思議な浮遊感だけがあった。
 わたしはしばらく座り込んで閑の肢体を眺めていたけれど、空が群青色から濃紺に変わったころにようやくけだるい身体を起こした。まずい水道水をひとくち飲んで、閑が生前にわたしに告げたとおり、彼女の身体を処分し始める。閑の身体は冷たく青白く、一条の月光の下でこの世のものと思えぬうつくしさだった。わたしは閑のふくらかな頬を撫ぜると、ひらいたままであった瞼をおろした。そうすると、先ほどまでは生々しさも目だったけれど、もう彼女は一体の人形であるように思われた。素朴ではあるが整った顔立ちをしている閑は、こうして目を閉じているといかにも柔和だ。
 ずっとわたしはこんな人形を欲していたのだろう。否、わたしの欲していたものは、正しく閑自身であった。うつくしい少女であればなんでもよかったというわけではけっしてない。わたしは長く望んでいたものと出会えたことに今更のように気が付いて、それをすぐに手放さなくてはならないというわかりきったことが悲しかった。閑の身体をずっと手元において、��臭騒ぎでも引き起こす無思考さがあったら却ってよかったのかもしれない。閑の指示があったことも大きいけれど、ろくに物事を考えることもできない出来損ないのくせ、衝動に任せた行動もできやしない中途半端な理性が疎ましかった。
 わたしは幾度目とも知れぬ溜息を吐きながら、閑の身体をゴミ袋に詰め込み、あらかじめ借りておいたレンタカーに載せる。使い古したバックパックに軍手と水筒、昼間に閑のつくってくれた弁当を詰め込むと自分も車に乗り込み、そのまま田舎へと車を走らせた。田舎には祖父の所有する山があり、そこにはめったに人が立ち入らない。閑にその話をしたら、そこに自分を埋めろと彼女は言ったのだった。
高速道路を飛ばして、田舎にたどり着いた頃にはすっかり陽も昇りきっていた。麓に車を止めると、ゴミ袋を抱えてわたしは山を登る。山というのは名前だけで、丘といっても差し支えないくらい低く、傾斜もゆるやかなものだ。ただ木々は鬱蒼として、昼間も光を通さない。季節も時間も問わず、陰気な雰囲気のところだ。重い荷物を持っていることもあって、十数分で中腹あたりに着くと、わたしはビニール越しに、閑の華奢な身体を意識して抱き締めた。生きているころにこうしてみたら、閑は応えてくれただろうか。きっと応えてくれたに違いない。虚しいおこないだとわたしは独りごちた。そしてビニール袋の口をひらいて、閑の硬直した指に自らのそれをして絡めてみた。これも、初めて試みることだった。わたしは思春期の少女みたいに胸を高鳴らせて、閑の指先の、爪のかたちまでもを覚えきってしまおうと自らの指でなぞる。冷たい肌はこれまでのどの彼女よりもうつくしく、いとおしく思われた。しばらくわたしは陶然とその行為に耽っていたけれど、ふと我に返り閑の身体をおろして、急ぎやわらかく湿った土を掘り始めた。用がないから立ち入るものはすくないけれど、わたしがしているように、足を踏み入れることは誰にだって可能なのだ。ふかくふかく、わたしのからだも埋めてしまえるくらいの穴ができると、閑のなきがらを袋から出して、その底に横たえた。閑のまっさらな頬には気づくと一匹の羽虫が止まっており、それがわたしにはひどく痛ましく思われた。それだから、いまだ名残惜しさもありはしたのだけれど、すぐに彼女の身体に土を被せて、すべてわたしの視界から消してしまった。
 わたしはゴミ袋にスコップと軍手を突っ込み、車に戻った。運転席に座って閑のつくった弁当を口にしながら、こういうときの食事というのはふつう味のしないものじゃあないか、いつも通りに美味しいのはわたしが薄情であるせいか、などと考えていた。
 弁当箱を空にしてから、わたしは閑への手向けに、花でもあったらよいと考えた。彼女に似合う花がいい。わたしの実家というのは面積だけがとりえのふるぼけた平屋で、むだに広い庭には母の趣味でとりどりの花の植えられた花壇がある。この時期には朧な記憶によると背丈の低い向日葵が暑さに萎れていたと思う。わたしが名前を知る花はそれくらいしかなかったはずだ。特に興味もなかったから忘れているだけかもしれない。ともかく、実家に行けば何かある事は確かであるはずだ。しかしながら、母はわたしがそれを触るとうるさいため、かといって花屋に行くほどの甲斐性もないわたしは、車から出てすぐに見つかった山百合の一本を手折った。それを助手席の、バックパックの上に投げ出すと、白い大輪は、狭い車内をあまい芳香で満たした。シートに花粉がついたらどうしようとか、そんな懸念が頭を過ったけれど、わたしはすぐに実家へと車を発進させた。思いつきで行動してしまったけれど、花の始末なんて、わたしにはまるでわからない。
 庭に車を停め、あざやかで目に眩しい花々を横目に実家の玄関の引き戸を開ける。いまだに鍵をかける習慣を持たないのどかな田舎町だ。両親は日に焼けた赤黒い顔でわたしを迎えた。
「あら! 突然帰ってきてどうしたの? 久しぶり、あんたちゃんとやってるの? 少し痩せた? もう、連絡してくれたら何か用意したのに。」
矢継ぎ早の母の言葉にわたしはたじろいで、うなずいて目をそらした。口調は変わらないけれど、垢じみて皺の増えた顔は、記憶のなかにいる両親のそれとちがっていた。いかにも田舎の老夫婦といった風貌がなにかいたたまれない気持ちを呼び起こすので、わたしは出会い頭から逃げ出したくなってしまった。一晩泊めてもらったら帰ると告げると、両親は二人して似通って残念そうな顔をして、母はそうとだけ言い、父は黙ってうなずいた。子を理解しているとでも言いたいのか、それとも単純に知りたくないのか、近況が尋ねられないことに安心すると同時になにか悲しかったし、ろくでなしの、不孝者の娘にも会いたがるものかとひどく申し訳ない気持ちになった。きっかけは閑でしかなくて、わたしは今でも両親に会いたいだなんて微塵も望んでいないし、むしろ彼らと対面しているのがひどく気まずくて、今すぐにでもこの場を去って、疲れた体で自室まで高速道路を飛ばして帰りたいと思っている。途中で居眠り運転でもして事故をおこしたっていい。地獄を薄めたような日々をいちにちいちにち生きていく苦痛よりも、事故に遭って死ぬ際に感じる苦痛のほうが、ずっと少ないだろう。
 結局わたしは実家で一泊して、それから翌日の夜近くにようやく、閑と暮らした、狭くて暗い、じめじめした部屋に帰った。実家での食事は味がしなくて、いわゆるおふくろの味なんかよりもただわたしは閑の手料理が恋しかった。それが親不孝の明確な証左であるような気がして、閑の不在もあいまってわたしはただ悲しかった。しかし瞳は乾ききっていて、涙の一粒も溢れることはなく、一人がすっかり寂しくなったせんべい布団に転がって、ただうす汚れた天井と、オレンジ色にぼうっと光る豆球を眺めていた。
 閑というのは、わたしの部屋で居候をしていた少女の名である。ついぞその出自について知ることはなかったけれども、初めて会った時の閑は、どこかの中学校の制服を着ていたようだった。艶のある、肌滑りのよい素材でできたカッターシャツには、胸元に校章であろうもようが臙脂いろの糸で縫い取られており、縫製もよいものだったから、おそらくどこかの私立中学校のものだろう。それから察するに、それなりの家柄の出だとわたしは思っていた。その娘が、わたしのようなろくでなしの万年フリーターのもとにいて、捜索願も出されないのは不思議なことではあるけれども。ただ閑についてわたしが正確に言えることというのは、彼女がひどく従順で、物分かりのいい少女であったということ、それだけである。閑に自身のことを問おうとすると、常ならば回る口はぴったりと閉じられ、あの長い睫毛を伏せてあいまいな笑みを浮かべるだけだった。
 わたしと閑が出会ったのは、ある肌寒い、雨の日のことであった。
 閑はその重たそうな睫毛に雨水を溜めて、雨の街角に佇んでいた。どこかで雨宿りでもすればいいのに、わざわざ雨天の下、亡霊のように棒立ちになっている。シャツは濡れそぼち、ぴったりとはりついて細い身体のラインを透かしている。黒髪は艶を増し、首筋から背中のなかほどまでを覆い隠す。わたしはその俯いた横顔に、なにか引き寄せられるように、傘を差しだしたのだった。
「こんなところで、なにしてるの。」
閑は掠れたわたしの声に顔を上げると、ゆっくりと瞬きをした。雨粒が睫毛からぽろりと頬に落ちて、泣いているようでもあった。わたしはほんの少し動揺する。閑の瞳はまっくろで、底の見えない水面みたいだった。
「えっと……。」
「答えられないようなこと?」
閑はなにか躊躇うようなそぶりを見せて、ようやくこくりと小さく頷いた。
「風邪ひくよ。」
閑のいまだまるさを残した頬は青褪めたように白くて、近くにいるだけでこちらまで冷気に浸されるような心地がした。唇はラベンダーいろをしていて、場違いにきれいな子供だと思った。
「そうですね。」
閑は眉を下げた。ちょうど迷子になった子供みたいな、途方に暮れたような表情だ。
「うちで雨宿りしてく? 近いんだけど。」
わたしはそう言った自分に少なからず驚いていた。雨に濡れる子供にも犬猫にも、関心を示したことなんてないはずだった。声をかけること自体想定外なのに、お世辞にもきれいとは言えない自分の室に、他人、しかも子供を通すなんてことを考えるのは、常のわたしのするところではない。
「いいんですか?」
「もちろん。」
「……よろしくお願いします。」
閑はすこし震えた細いソプラノでそう言った。掴んだ手は想像以上に冷たくて、生きていることが不思議に思われるくらいだった。第二次性徴を目前にして、まだ閑の身体は肉付きが薄く潔癖なまでの華奢さだった。
 自室に帰り、すぐ給湯器のスイッチをいれた。玄関の三和土で、室内に立ち入る���とを躊躇う閑の背を押して、とりあえずタオルを渡す。しとどに濡れた髪から、制服から、水滴が滴り落ち、閑の足跡には水の道ができていた。閑は申し訳なさそうな顔をして、そうっと体を拭い始めた。
「……そういえば、名前、なんていうの。」
閑は手を止めて、こちらに視線を寄越す。睫毛は雨水のせいか自前のものかわからないが依然として濡れ光って重たげである。
「閑です。閑と、いいます。」
閑が薄い唇をひらいてそう言った。
「閑。」
「はい。長閑の閑で、シズカです。」
「そう。」
わたしは重たく息を吐いた。閑、と口の中で呟いてみる。初めて口にしたそれはまるでずっと前から呼びなれた名前であるかのように、奇妙にしっくりと舌に馴染んだ。
給湯器が機械的な合成音声で風呂が沸いた旨を知らせると、わたしは閑を脱衣所へ追いやった。白くすべらかな、つくりものみたいにつめたい肌がわたしをおかしくしかねないと思ったこともある。むろん、その冷えた身体が、かわいそうであったからでもあるけれど。
「タオルはそこにある。脱いだ服はカゴの中にいれといて。服は抽斗にあるから適当なの着て。……あ、あとそのシャツ、洗濯機じゃだめなやつ?」
「ありがとうございます。えーと、それ、私がやるので大丈夫です。」
「いやだって……遅くなるよ、帰るの。わたしは構わないけど。」
はい、と扉越しに、漏れるように声を聞いた。閑はそれきり黙り込んで、やがて風呂場の扉の開く音がした。シャワーの水音を聞きながら、なにかいけないことに足を踏み入れているという確信が、あいまいながら濃く胸の奥でわだかまっているのを感じていた。結局のところわたしは病気で、わたしの直面する現実だって病んでいるに相違なかった。
 閑はわたしのスウェットを着て風呂場から出てきた。襟ぐりが彼女には深いらしく、鎖骨の窪みがよくみえた。さきほどよりは血色もよく、はりつく濡れ髪の隙から覗く耳は、出来の良い、端正な白磁にうすく紅を刷いたようだった。わたしはひそかに嘆息した。
「お風呂、ありがとうございました。」
「うん。髪、乾かさないと風邪ひくよ。」
わたしは閑を座らせて、ドライヤーを持ち出した。閑の髪は子供特有のやわらかさと細さを色濃く残している。わたしとおなじシャンプーを使っているはずが、彼女の髪は妙にかぐわしく感じられた。
「私、自分でやります。」
「いいから。閑ちゃん、帰り道わかるの。」
「呼び捨てで構いません。」
「えーと、じゃあ……閑。迷子だったの?」
閑は口ごもって、迷子ではありませんとだけ口にした。閑はそう饒舌なほうではなかったものの、訊かれたことに関しては明瞭に答える少女だった。たぶん育ちがよいのだろう。だけれど、わたしに出会う前のことにかんして、彼女はひどく歯切れが悪く、口を閉ざしてしまうことが多かった。
「じゃあ、帰ればよかったのに。寒かったでしょ。」
そういうと閑は黙り込んで、俯いた。視線のゆくえを探ると、それは机の上で組まれたいかにも繊細で神経質そうな指先に向けられていた。桜の花弁のような色あいの爪は、そろって深爪ぎみに切られている。そして彼女はおずおずと口を開いた。
「あの。お願いがあるんですけど。」
「うん?」
「ここに、私を置いていただけませんか?」
閑は振り返って、上目遣いにわたしを見上げてそう言った。閑の瞳には蛍光灯の白さが映り込んで、そのせいか、そもそも彼女自身が光っているのか、わたしにはわからないことだけれど不思議に眩しかった。
 わたしと閑との同居が始まったのはそれからのことで、それはじつに穏やかに、わたしが彼女の首を絞めた日まで続いていたものだった。時間にしておよそ二年、その間に閑の身体は徐々にその幼さのなかから脱して、成熟した女性へと近づき始めていた。わたしはそれに少なからず安堵して、同時に失望を覚えてもいた。おとなの女は、趣味ではなかったからだ。わたしの女の好みはきっと特殊で、世間様からは石を投げられるようなものだろう。恋情を、あるいは性欲を抱くわけではないと自分では認識しているが、それが何であるかだなんてわかったものではない。ともかくわたしは目にする対象として少女を好んだ。かつそれが動かない、生きていないものであったらなお好ましく思う。わたしが自分の、少女に対する感情にたいしてあいまいな自認しか持たないのは、わたしにとって彼女らの接点を持つ機会がなかったためであり、またわたしが臆病で行動力に欠ける人間であったためだ。
 わたしが閑を殺すに至ったのは、ひとえに閑がわたしを唆したためであった。
「閑。わたしがなんで閑に声をかけたか、わかる? あの日。雨の。」
深夜バイトから帰宅して、わたしはてきとうにシャワーを浴び、薄っぺらな布団に腰を下ろした。閑は眠りが浅いらしく、わたしが帰るたびに目を覚ますのだけれど、今夜は布団に身を横たえたまま、寝ぼけたようなとろんとした瞳をうすくひらいて、わたしをみつめたままに黙りこくっている。
「考えてみたらね、わたし、ずっと閑くらいの年頃の女の子が好きで。それだから、あんたと暮らしているんだと思う。」
「そうですか。」
ようやく口を開いたと思ったら、返ってきたのはたった五文字の、静かな声だった。寝起きのそれは、いくらかぞんざいなふうに響く。
「どういうことか、わかってる?」
「わかってますよ。きっとぜんぶ、最初から。」
閑はねむたげにゆっくりと瞬きをする。それが当然の、周知の事実であるかのように、彼女はわたしの推し隠していた欲望を肯定した。すくなくともわたしにとっては、否、きっと彼女にとってもそうだった。
「すべてわかったうえでのことです。ね、早く寝ましょう。」
閑は凪いだ瞳でわたしを見据えて、布団を軽く持ち上げた。強い口調ではけっしてないけれども、なにか強制力をもった不思議な声色だった。彼女の瞳は据わって、底光りする。
「それはつまり……、わたしのことを、許すと言っているの。」
わたしは閑の隣に収まって、彼女から顔を背けてそう言った。口に出してみると、思いのほかみじめな色を帯びていて、わたしはすこし後悔した。ろくなことを言えない、できもしない人間は、じっと黙り込んでなにもせずにいるに限る。きっとわたしのおこなうことはすべて間違いだった。
「お姉さんが望むのなら、私もきっとそう望みます。」
閑はおやすみなさいと言った。静かな声だった。その声が妙になまなましく、耳元で発されたもののように感ぜられて、わたしはわずか息を止めた。しかしそれからすぐに眠りに落ちて、目が覚めたら、太陽は昇りきって、西の空への道を辿り始めたころのことだった。
 閑はめずらしく、わたしの隣でねむりこんだままだった。つとめて静かに、わたしが布団から身を起こすと、背中に声が投げかけられた。寝起きとは思えないような、昨夜のぼんやりとした声とは似ても似つかない、はっきりとした声だった。
「お姉さん。」
「……起きてたの。」
「私、来月の今日で十五になるんです。」
「そう。」
ケーキでも買う? とわたしはしいて明るい声を出してみたけれど、閑の思いつめたようなまなざしに口を閉ざす。
「それで、何が言いたいの。」
「……お姉さんに、私を殺してほしいんです。」
閑はすこしの逡巡ののち、きっぱりとした口調でそう言った。彼女の言葉はいつもどおりのやわらかな声色で、わたしに請うかたちをとっていたけれど、その実わたしに決定権はなく、きっとそれはきまりきったことだった。わたしは当然たじろいだけれど、実際そんな予感はずっと、閑に出会ってから胸の奥底で、ときたま危険信号のように瞬いては消えを繰り返していた。きっとわたしは閑を殺す。彼女に出会った際の危機感は、わたしがそんな確信をもっていたからだろう。
 わたしは何かに突き動かされるように頷いた。無力だった。そういう意味でなくたんに同居人として、また一人格として彼女を好いていたのにと落胆のような感情を覚えたけれども、同時にうつくしい形をした少女全般に抱く、何らかの執着のような感情を抱いていたことも確かであった。わたしは彼女を殺すことができるということに、確かに興奮を覚えていた。彼女に許された、否請われたということを、免罪符のように心中に掲げながら、それになにか酔っていたのだと思う。
 閑はわたしの首肯を受けて身を起こした。ごはんにしましょうかと、いつもどおりに控えめな、やさしい笑みを浮かべる。
 食事を終えてから、閑は自身を殺すうえでの計画について話し始めた。できれば道具のたぐいは使わないで、素手がいい。それならば首を絞めてしまうのが手っ取り早いと思う。閑はそんなことを言った。彼女は存外ロマンチストなのかもしれなかった。彼女はいまだ十四の少女なのだと、今更のように気がついた。閑は見目こそ少女そのものだったけれど、年頃らしい、幼い言動をとることがあまりない娘だった。わたしはわかったとだけ短く告げる。少女の死に直接触れることの出来る手法は、きっとわたし自身の望みでもあった。
「ありがとうございます。」
閑はすべてを見透かすように、またうれしそうににっこりと笑った。十四の少女の浮かべるそれにしてはきれいすぎるような、完璧な笑顔だった。わたしはなにもできないで、食卓の前に座り込んでいる。
「閑。」
「はい。」
「わたしは、閑が……、」
わたしは口を開いてから、いうべき言葉を探していた。というよりも、彼女に言いたかったことは閑と名を呼んだ時点で煙のようにかすんでしまい、立ち消えてしまったようだった。好きだとでも言おうとしたのだろうか。わたしの閑に対する感情はきっとそれだけで収まるようなきれいなものではない。かといって代わりの言葉を見つけることもできず、何を言っても嘘になってしまうような気がした。わたしは不誠実な人間だから、いまさら嘘を重ねることに何の躊躇いもないのだけれど、閑を前にするとなぜか言葉に詰まってしまうこと��多かった。
「閑は、死にたかったの。」
暫く考え込んで、ようやく絞り出したのはそんな一言だった。責めるような響きさえ帯びている。
「お姉さんの手で、死にたかったんです。」
閑はわたしの目を見つめてそう言い切った。薄暗い室内で、閑の瞳だけはきらきらとひかってみえた。
「私が好きですか。」
閑は何でもないことのようにそう訊いた。わたしが気圧されてこくりとうなずくと、彼女はそうですかと笑みを浮かべる。今度はやわらかな声色だった。
「私はお姉さんに好かれたいんです。お姉さんは、おとなの女はお嫌いでしょう。……あと���殺したいんでしょう? 私の死んだところが見たいんじゃないですか。お姉さんが望むのなら、私はすべて叶えたいんです。」
「なんで、そこまでするの。」
わたしの声は情けなく震えた。十四の少女に翻弄されきっていた。場の支配権を握るのは間違いなく閑であった。わたしは彼女のことを好ましく思っていたけれど、同時にいつだって彼女にたいしてなんらかの恐れを抱いていたような気もする。
「そういうものだからです。私にはこれしか、生き方がない。」
閑は諦めたように、唇だけを笑みのかたちにした。すこしゆがんだ表情もきれいで、わたしはなにか悲しかった。
 その夜、寝床でも閑は子供に寝物語を聞かせるみたいなやさしい口調で、それまでしていた彼女自身の死の話をした。わたしがとろとろと眠りにつきかけるたび、閑はくすりと笑って、ひそやかな、囁くような声でいいですよと言った。それを何度か繰り返したのちに、最後にわたしが感覚したのは、閑の小さな手がわたしの頭上に伸ばされて、わたしなんかの頭を、なにか繊細なものに触れるような手つきで撫ぜているところだった。
 翌日はなにもする気になれなくて、結局アルバイトも無断欠勤し、一日中閑とすごした。閑はきまじめな顔つきをして、自分の身体の処遇を考えているらしかった。
「わたしの身体はどうしましょう。通報などされたら堪りませんし……。心当たりはありませんか。」
「それなら、故郷の山はどう。おじいちゃんの所有なんだけど。おじいちゃんはだいぶ前から臥せっているから、誰も入らないはず。きっと都合がいい。……わたしとしては、ずっとそばに置けるのがいちばんなんだけど。」
「それは、うれしいことですけど。お姉さんが捕まるのは私としても本意でありません。私のことを覚えていてくれだされば、私はそれでいいんです。」
ではそこに、埋めてくださいね。閑はそう言って微笑んだ。
「……わたしは、閑がいなくなったあと、どうやって生きていったらいいのかわからない。」
「それは告白ですか。」
閑は息だけで笑って、なにか台詞でも読み上げるような口調でそう言った。わたしが閑に迫ったら彼女は受け入れるだろうし、そういった感情を抱いていたほうがまだ健全で、ことは単純だっただろう。
「そんなの、わたしがするわけ…………。」
わたしは泣きそうだった。こんなときに泣けるほど感受性の高い人間だったら、また���れを表現できる人間だったのなら、もう少しは上手く、真っ当に生きられたのかもしれないと思った。そうしたらきっとわたしは閑を必要としなかったし、彼女との同居は正しく保護で、それが終わるのは閑が保護者の元に帰る決断をしたためだっただろう。乾いた瞳に尽きかけの目薬を点して、わたしはひとつ、深い溜息を吐いた。後悔ばかりをしている。わたしの行動はぜんぶまちがいだ。この現状もいずれ後悔することは自明であるけれども、それを変化させる努力をわたしはせず、ただ将来を、現在を、過去を、すべて嘆きながら惰性で生きていくらしかった。
 それから閑の望み通り、閑の誕生日前夜にわたしは彼女の首を絞めた。とくとくと脈打っていた動脈は動きを止め、もとよりおとなしいほうであった閑は完全に、なにひとつ音を発さなくなった。土の下に埋められた彼女の身体はいまごろ腐って、かつての美貌は見る影もなくなっているのだろう。わたしがそれを見届けないのはひどくずるいことに思われて、なにか罪悪感に襲われた。そんなことは閑の望むところでないということを、わたしは知っていたけれど、それでも自責の念はわたしを苛むことをけっしてやめなかった。
わたしはいつまでも、そうやって鬱々としたくらしを続けていくかと思われた。そもそもが陰気な人間であるし、そう長くは続かないけれど塞ぎ込むのはそうめずらしいことではない。わたしが定職につけないことには、わたしが能無しであるというのはむろんのことであるけれども、そういった情緒の不安定さも少なからず関係していたと思う。以前よりも睡眠も食事も減って、生活は荒んでいく一方だった。わたしは奇妙な冷静さで、こうしてずっと、飽きずに落ち込むことができたのかと自分自身に感心してもいた。とうに花としての時期を終えた山百合も、わたしを苛む一因として、一人の部屋で、腐臭を放ち続けていた。
 だいぶ頻度を減らしたアルバイト帰りのことで、ひどい雨降りの朝だった。わたしはビニール傘を差して、ふらふらとした足取りで家路を辿っていた。活動量が極端に減っていたわたしは、数時間の立ち仕事でも疲労困憊であった。息苦しい浅い呼吸の合間に、はあ、と重たい溜息が自然と口から漏れる。途端、なにか冷たいものが、手持無沙汰にだらりと下されていた左腕に巻き付いてきた。雨水に濡れ光る。青褪めたように白い両の手だ。この手の持ち主はかなり華奢なのだろう、手自体も小さいけれど、それ以上に細く、よわよわしさが際立っている。しかし。突然腕をつかまれるのはなぜだろう。わたしはようやくその疑問にたどり着いて、緩慢な動作で後ろを振り返った。ここいらは治安が悪くはないはずだけれど、けっして良いとはいえないから、貧困児のひったくりでもおきるのだろうか。よりにもよってわたし選ぶだなんて、運のないやつ。わたしは深爪ぎみの、淡いピンク色をした指先に強い既視感と、同時になにか出所の知れない恐怖感を覚えながら、それをようやく視界にとらえる。
「お姉さん。」
少女だった。彼女は、囁くような声量でそう言った。それだけで、わたしの身体は悪寒からか強い喜びからかぶるぶると打ち震え、自分の吐く息の熱さに、現実味を持って気が付いた。少女の額には濡れた黒髪がはりついて、しかしその表情は、じゅうぶんすぎるほどによく窺える。長い、密に生えた睫毛の奥の、凪いだ水面のような瞳が、静かにわたしを見据えている。
「お久しぶりです。私です、閑です。覚えていますか。」
彼女はわたしが出会った当初の閑であった。わたしは言葉も発せずにそのほそい身体を力任せに抱き締めると、閑がくすりと笑い、空気の動く気配がした。生きている彼女を抱き締めるのは初めてのことであって、これが動くのか、熱をもっているのかということに不思議に感動した。そのままの体勢で閑はわたしの背をやさしい手つきで撫ぜると、おさない子供に言い含めるように言った。
「お姉さんがこうしたかっただなんて知りませんでした。ずいぶん情熱的なんですね? 人目につきますよ、帰りましょう。」
わたしは早口に謝って、閑の胴にまわした腕を離すと、閑を傘の内にいれた。そうして傘をもっていない左手で、閑の手をしっかりと握りしめる。冷たいけれど、たしかに彼女はここに存在していて、呼吸をして、その声でわたしを呼び、わたしの抱擁を甘受する。そしてきっと、これからもう一度彼女はわたしの手によってわたしの望むものになる。わたしの脳味噌はとうに茹だって使い物にならず、これからの閑とのふたたびの生活と、閑のあの静謐な冷えた身体にもういちど触れることだけを思い浮かべていた。ひとつ傘の中だけが世界で、雨音に紛れて雑踏は遠い。ひそやかな声は反響して、すこしの身じろぎによりおこる湿気た空気の揺れも、皮膚には鋭敏に感じられる。わたしの手をぎゅうと握り返す閑の指先は、全き少女の繊細さで、わたしの血流を止めるほど、つめたく強く、わたしの指に絡みつく。
2019
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seisauid · 5 years ago
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ポルノグラフ
 スマートフォンの画面をつうと指でなぞる。寒風に苛まれた指先に、液晶はほのかにあたたかい。常と変わらず、知人らのくだらない愚痴で構成されたタイムラインをさかのぼる。退屈な日常のなかで、ひとつビビッドな画像が目についた。
 薄暗くて画質の悪い写真だ。しかしながら、その映されたものはハッキリと分かる。暗がりの中でぬらりと、爬虫類の腹のように艶めいて光る青じろい肌だ。青光りするほどの見事な黒髪を敷いているから、いっそう白じろとしてみえる。身体が仰反るかたちになっているから、肋がそのかたちのままに肉を隆起させている。若々しさの漲った胸元と、その顔を隠すように持ち上げられた手はピースサインをつくっている。長く伸ばされた、しかしその先はまるく整えられた女爪だ。白……あるいはシルバーだろう。わずかな光を反射して光る。そのピースサインのしたで、小作りだがまるみを帯びた鼻がやや潰れている。ふっくらとした唇はいかにも好色そうに弧を描いていた。まだらな珊瑚いろをして、そのまわりまで朱い。情事の残滓だろう。唇の右下に、ちいさなほくろがある。目元こそ窺い知れないが、それでもその顔だちはあまりにあらわだった。彼女を見たことのある人間はすぐそれが彼女だとわかるだろう。わたしはだまって液晶をなぞる。いや。彼女の写真はタイムラインを流れていく。
 つう、指はしかしもう一度、先ほどとは逆向きに滑らされる。彼女の裸体がもういちど液晶に映し出される。写真を、保存。タップ。栄養状態のわるさを反映した白く乾いた素爪が、音もなく動くのを無責任に眺めている。
  漸く教室に着いて、空いた席に着く。授業開始前の教室は騒がしい。わたしはルーズリーフとペンケースを机上に取り出す。不意に声をかけられる。
「おはよう。ここ、大丈夫?」
写真の女だった。
 ながい黒髪をゆるやかに巻いて、胸元へと垂らしている。きょうは深紅に塗られた唇が動くたび、それに合わせて唇右下のほくろも動いた。
「あ、うん。おはよ。」
 日に当たったことが一度もないのだと言わんばかりの真白い頬が、わたしの左隣にならぶ。卵型の顔には先ほど見た写真のままの鼻と口が配置されている。唇は血のように赤く、ぬめぬめと輝いている。やや分厚いそれは彼女の皮膚の内側の、肉の熱さを思わせた。まぶたも睫毛も重たげで、ややねむたげな目をしているけれども、しかし印象が強いのは、その瞳のくろさと、大きさのせいだろう。黒目がちな目は、どこにその視線を向けているのかが分かりにくく、すこし不気味ですらあった。
「なあに、こっち見て。」
「なんでもないよ。」
そう言うや否や、教員が緩慢な足取りで教室へと入ってくる。初老の、ひどい猫背の男だ。教育など本意ではないのだろう、いかにも気のなさげな彼は、授業内容も試験問題も数年はおなじものを使いまわしていると聞く。すでに試験の過去問題が出回っているものだから、授業中の学生は大抵が上の空だったりいわゆる内職をしたりしている。わたしも彼の単調な話に頬杖をつく。ふと隣に目をやると、彼女のシルバーの爪が、ルーズリーフの下でスマートフォンの画面をなぞるのが見えた。肉づきが悪いわけではないけれど、苦労を知らないからそうなのだと見える、節のないすんなりとした細さの手だ。不まじめなしぐさすらどこか品があるように感じられる。
「どうしたの。」
ひそめられた彼女の声が耳朶をくすぐった。悲鳴が出そうになる。蒸気にあたったみたいに頭がぼうっと熱くなる。ちいさくかぶりを振る。
 その瞬間にスマートフォンが震えた。わたしは反射的に画面に指を滑らせて、ロックを解除する。そこで表示されたのは、彼女の写真である。その白い裸身は惜しげもなく曝け出されている。彼女はその腕のむこうから、レンズをとおしてわたしを眺めている。彼女はわたしの左隣から、その視界にわたしのスマートフォンの画面を収めながら、わたしを眺めている。
 ふうん。
 彼女は得心がいったように小さく息を吐いて、再度「どうしたの。」と言った。もはや問いではないのだとわたしは思った。その口調は尻上がりで、質問の体をなしてはいるけれど、彼女はわたしが「どうした」のかを、きっと完全にわかっていたし、それを隠す素振りも微塵もなかった。それは確認だった。
 深紅の唇のふくらみ、その中心部に蛍光灯の白い光が溜まっている。
  授業終了のチャイムが鳴るやいなや、彼女はわたしの手を引いた。教員が何やら喋っている気がするけれど、彼女の声ばかりがわたしの頭を占めている。
「お昼、いっしょに食べよ。」
耳元をぬるく空気が動く。彼女の表情が、動きが、吐息が、言葉が、不可思議な強制力をもっていた。きっとわたしがそう望んでいるからなのだろう。すぐに振り解ける。若い女の細腕である。わたしは返答のつもりになさけない声を出して首肯する。彼女はにっこりと笑った。唇はその皺が伸ばされて、紅い静かな湖みたいだった。
 昼休みの学生食堂は混みあっていて、彼女はわたしの隣に座った。申し訳ていどにネギが乗せられただけの、一番安価なかけそばを頼むと、彼女もおなじくそれを頼んだ。彼女は何も言わないで、静かにそばを啜っていた。器を褐色のつゆのみにすると、彼女は
「学食でかけ���ばって、初めて食べた。」
と言って笑った。笑いかたは思いのほか子供らしく、細められて目はほとんどが睫毛と瞳によってくろく塗りつぶされたようになった。歯並びがきれいなのがなんだか無性に腹立たしかった。歯並びのきれいな人間というのは、それにかんして遺伝的にすぐれているか、歯列矯正のできる経済力のある家庭に生まれたかだと思っている。だからだろう。一本残らず抜き去ってしまって、手を差し込む妄想なんかをした。一番先に彼女の口腔にはいるのは中指である。それは、彼女の胎内と同じにじっとりと濡れて温かい。唾液が指に絡みつく。わたしの手は徐々に彼女に飲み込まれていく。誘引されるように、その喉の奥へ。彼女はえずくけれども、噛みつく歯をもたない。咳き込むように喉が動く。苦しそうな息をする。彼女の瞳は淫靡にひかって、わたしを映す。幾度目かの咳き込みにあわせて、粘っこい唾液が彼女のちいさな顎を伝っていく。
「レズなの?」
唐突な問いにわたしは咳き込んだ。
「……、え、っと、あんまり、そういうの、わかんなくて。」
ええと。なるべくわたしの思うところを正しく表現できるように、言葉を探す。その場しのぎに適当なことを言っても、それが彼女にはわかられてしまう気がしたからだ。彼女は頬杖をついて、わたしの言葉を待っている。
「そもそも恋ってなんなのか、わかんなくって……。」
ようやく口に出されたそれだけの言葉に、彼女はふむと息を吐く。
「だけれど欲情はする。そういうこと?」
直截的な物言いにわたしは当惑して、目を逸らして、食堂のメニューなんかをながめて、しかしながら、逃れようもないことを知って、観念したようにうなずいた。彼女はいかにも好色そうな微笑を浮かべている。いや、それはわたしが彼女に欲情しているからそう見えているのかもしれなかった。
「こんや、さっきの教室で待ってるね。」
するりと、彼女の手がわたしの手を撫ぜた。思っていたとおりに、湿ったようになめらかな質感をした、冷たい肌であった。爪先から指をたどり、指の股、てのひら。その指先で、ごくかるく、愛撫するようにわたしに触れる。
「21時。」
そう言うが早いか、彼女はお盆を下げると、友人らしき女に声をかけて去っていく。わたしはひとり取り残されて、器の底にちぎれた麺の影をみつめている。
  21時ともなると、構内はしいんと静まり返っている。サークルも解散して、その場を部員の私室や飲食店に移している時間である。わたしは夢遊病者のように、ふらりとその重たい扉を開ける。ぎい。静けさのなかにやけに響く音だ。扉の隙間から、こちらを振り向く彼女の背が覗く。薄い鞄を長机において、その隣に彼女も腰かけている。昼間と同じに、白い薄手のニットにペールブルーのタイトスカートを合わせている。薄い黒ストッキングの下には、やわらかそうな脚がみえる。彼女はこちらを向いて、小さく手を振った。
「来てくれたんだ。」
化粧したてのように、完璧に塗られた唇がうごく。グロスが閉まり切らない扉の隙間から差し込んだ街灯のひかりを反射してひかった。
「あんまりに強引だったから、無視されるかもって思ってたの。」
「ほんとうに?」
「ちょっとだけ。」
彼女はわたしの腕に自らのそれを絡ませると、わたしが開けたばかりの扉を再度開ける。ぬるく澱んだ室内から、澄んだ夜気がつめたく感ぜられる。彼女の手も、はっとするくらいには冷えていた。わたしのほうが外気に浸っていたはずなのに、目が覚めるくらいだ。彼女はぐるりとその視線をわたしのほうに向けると、
「変温動物みたいって、よく言われるの。」
と言った。
「どこに行くの?」
「いいところ。」
  行きついた先は小さなアパートだった。二階建ての、学生街では目立たないつくりの建物だ。周りの建物と区別がつかないから、ここに自分ひとりでは来られないだろうと思った。彼女は鞄の外ポケットから鍵を出すと、がちゃりと二階の一室の鍵を開けた。鍵はキーホルダーもなにもつけられていない。よく失くさないと思ったけれど、どうやら所有物が少ない性質の人間らしい。鞄のなかもそうだけれど、室内もごく片付いている。というよりもはや、生活感がないほどであった。小さな冷蔵庫と、白い丸テーブル、カバーの掛けられたおおきなハンガーラック、整えられたベッド。使っていないからそうだと見える、きれいなキッチンにはグラスやマグがいくつか、空き瓶、白いプレート皿のうえにペティナイフが置いてある。食品棚が置かれるであろうところに鎮座しているのは靴棚である。
 彼女は室になだれ込むが早いか、わたしにキスをする。その肌の冷たさに反して熱い舌が、わたしの唇を開かせる。慣れたしぐさで、わたしの舌を彼女のそれでなぞった。撫ぜた。甘くてぬるりと粘度の高い、熱い唾液だった。思考のとまった脳が、彼女は桜桃のヘタを舌で結べるんだろうなとか、くだらないことを考えていた。とろみのある液体がかき混ぜられるような音がするのを聞いている。
 期待したままのことが起こっているくせに、わたしはなにか狼狽していて、頭のどこかが現実逃避みたいに冷えてのろのろと動いている。しかしじきにそれも、どき��きとうるさい鼓動に浸食されて、溶かされて、なにもわからなくなっていく。
 「……あなたって、男の人が好きなんだと思ってた。」
「どういう意味?」
彼女のねむたげな瞳がわたしを捉える。すっかり乱れたシーツのうえでその黒髪が波打っている。すっかり汗もかわいた肌はひんやりとして、しかし濡れたような光輝はそこを去らずいる。
「いや、言葉通りの。えと……その。なんというか……。」
「ビッチ、っていいたいの?」
強調するようにゆっくりとうごく。やや色の落ちた、深紅と肉色のまだらの唇のあわいから覗くのは、別のいきものみたいにぬらぬらとうごいていた舌だ。砂糖菓子の歯だ。彼女のうちがわ、肉と骨である。
「そんなつもりじゃ、」
彼女は瞬いて、こちらをじいっと見つめた。重たげな一重まぶたの下で、俯いた睫毛がすこし充血した目に影を落としている。瞳は瞳孔のおおきさがわからないほどに全体が黒い。彼女にとってはただ意味もなく目をひらいているだけでも、わたしにはなにか意味深に感じられて、わたしは彼女が恐ろしかった。
いいのよ。吐息とともに彼女はそう言った。
「ばかな人が好きなのよ。無自覚に他人を消費できる人、結構好きなの。」
彼女はにっこりと笑う。肉厚な唇がきれいに引き伸ばされて、三日月みたいだった。
 彼女は枕元からわたしのスマートフォンを取り上げて、わたしの指を持ち上げると指紋認証センサに押し付ける。カメラアプリを起動する。そして、それをわたしの手に押し付けた。
「罪悪感なんて、もつ必要ないんだから。」
彼女は掛布を落として、その身体をあらわにする。真珠いろの乳房が、重力にしたがってこぼれそうだ。わたの詰まった腹、早春の野のような恥丘、やわらかいが弾力のある腿、ほっそりとした脛、器用にくるくると動く足。彼女はわたしの頭をおさえて、もういちどキスをした。そのどれもが、わたしの頭をくらくらと麻痺させる。
「ねえ、きれいに撮ってね。」
スマートフォンの画面越しに、彼女はこちらをじいっと見つめている。
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seisauid · 5 years ago
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 地下鉄の車内には不似合いな真白い裸足を認めて、私はおやと瞬きをした。古ぼけて黒ずんだ塩化ビニルの床にならぶ靴のなかに、ひとつやわらかそうな剥き出しの足がぽつんと投げ出されていた。肌はごく白く、生気を感じさせないほどである。しかしながら湯上りのそれのようにひどくやわらかそうで、同時に清潔そうなのであった。ととのえられた五本の、小づくりの爪は淡いピンクいろをし、その爪の端や、指の股は白く、土汚れひとつ見あたらない。空の靴が近くに見受けられないから、おそらく彼女は裸足のままにここに来たのであろうけれど、それまでの道程を思わせぬほどにただ清らかであった。彼女は腹を割いて臓腑を検めても、流れ出る血は湧水の如く、すべてがすべて清浄であるように思われた。
 私はそうっと視線を上げる。腱の浮く、ほっそりとした足首からは、おなじく肉付きの良くない、不健康な白さをした脛が続く。そして肉感に欠くか細い腿だ。脛とたいして太さが変わらない。私は彼女から目を離せずに、食い入るようにその真白い肌を見つめていた。もうわかりきっていた。彼女は一糸纏わぬ裸体であった。
 彼女の肢体はほっそりとして、無駄���肉はいっさいついていないようであるけれども、貧相という言葉より浮かぶのは、ただ、華奢ということだった。すべてのパーツは小作りながら、精巧な人形のようにひどく整ったかたちをしていたからだろう。彼女が服を着ていないのは、その身体を隠す必要がないから隠さないのだとでも言いたげであった。その身を誇示するようでこそないけれど、彼女の振る舞いは、ごく当然のことをしているように、平然としていた。
 雨滴を載せたいかにも重たそうな睫毛はその瞳をなかばほど覆い隠して、しかしそのおおきな瞳は視線のむけられる先はとおくからもよく見えた。彼女の瞳は、その向かいに座る乗客の肩越しに、車窓を捕らえていたのだった。むろん地下鉄の車窓が風景を映すわけもなく、ただくろぐろと重たい闇があるばかりだ。私もつられるようにそこに目をやっても、やはり興味の惹かれるようなものはなにもありやしないのだった。彼女もなにか意思をもっているようでもなかったし、きっとただ退屈なだけなのだろう。その空洞のように静かな瞳が、窓ガラスに反射して、私を見つめているみたいだった。
 にわかに少女は、物憂げにその視線を上げた。睫毛に溜まった滴がぽろりと頬を伝って涙のように落ちる。滴は彼女の白いデコルテに落ちると、音もなくかたちを変えて、その胸元をきらきらと光らせるちいさな紗となった。彼女の瞳に駅名の表示が映り込むと、彼女は音もなく立ち上がった。濡れて束になった髪がゆるやかに揺れる。
 少女は私に一瞥をくれると、すぐに目を伏せて、足早に雑踏のなかへと消えていった。彼女の座っていた、空のシートは濡れそぼっている。
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seisauid · 5 years ago
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チカの首
 初めて会ったチカは、ながい髪の隙間からみえる、象牙いろをした細長い首筋にあきらかな圧迫痕をつけていた。彼女の華奢な首がどう掴まれていたのかありありとわかるくらいに、はっきりと真っ赤なものだ。わたしがそれに目をやっていると、チカはわたしの手を導いて、彼女の首に触れさせた。わたしにわかったことというのは、その痕はわたしの指のとどく範囲よりも幾分おおきく広がっていたものだったから、きっと彼女の首を絞めたのはわたしより大柄な人間なのだろうということだけだった。わたしはその痕にかんしてチカに訊くこともできないでいたから、今になってもわたしの知ることはそれのみである。チカの首筋はすらりと美しく伸び、それをつつむ肌は肉感的なやわらかさは欠くもののなめらかそうに光るものだから、触れたくなるのも、ひいては絞めたくなるのも無理はない。その痕の理由はついぞわからないままであったけれど、それがどんなものであったとして、わたしは納得してしまう気がしている。  チカというのは、わたしと半同棲めいたものをしていた女のことである。  期間にしておよそ一年。チカが現れたのは昨年の夏だった。チカは首筋に圧迫痕をつけてわたしの前に現れて、ちがう圧迫痕のためにわたしの前から去っていった。彼女が死んだあとにようやく知った本名は、近谷歩というらしい。わたしがファーストネームだと思って呼んでいたチカというのは、ただ苗字から二音をとったあだ名であったらしい。アユム。呼ぶことを許されなかった名を唇に乗せて、しかしわたしはそれをずっと声に出せずにいる。わたしにとってはチカだった。チカは自分のことを語ることを好まなかったし、わたしも知る必要はないと思っていた。否、たぶん思おうとしていた。わたしは執着心の強い人間であるから、近しい人間のことはおそらくすべて知りたいのだけれど、当然それが叶うはずもなく、特段知りたくないというふりをする癖が身についていた。だからわたしがチカにチカ自身のことを訊くことはなかったし、きっとチカはその距離感を気に入っていたのだと思う。そもそもチカはけっしてわたしの、あるいは人間ひとりのものになることはなくて、ふらついた野良猫みたいな女であったから、訊いても意味などないのだろうという予感もあった。後に聞くところによると、寝床にしていたところはわたしの部屋のほかに幾つかあったらしい。チカの現れる日は気まぐれだった。わたしの思っていた通り、チカにとってわたしは複数いるうちの一人にすぎなかった。わたしにとってチカは一人だった。  チカがわたしの何であったのか、いまだにわたしはよくわかっていない。半同棲するくらいなのだから、わたしたちは恋人であったのか、わたしがチカに恋をしていたかと問われると、そんなことはないと答えるほかないだろう。すくなくとも恋人であったかという点においては、わたしは明確に否定できる。たしかに、いわゆる恋人がするとされるような、接吻だとか、抱擁だとか、その手の身体接触がわたしとチカのあいだにあったことは事実である。だけれどそれは恋情に基づいた行為ではなくて、お互いにすることに抵抗がなかったからしたというだけのことである。おそらくチカは、友人はすくないが恋人は尽きない���イプの女であった。だからきっと、恋人以外の人間との距離感や、過ごし方が一般のそれとずれていたのだろう。それに中てられてわたしもそのような行為に及んだだけであったはずだ。わたしも、好みのきれいな女に触れられるのは、けっしていやではなかったから。  チカは何の連絡もなく唐突にわたしの部屋のインターホンを鳴らしては、食事と寝所と、ことによるとひとの体温を求めに来た。チカは猫みたいにわたしの部屋に滑り込んで、わたしの腕のなかで無防備にねむった。チカは妙な色気をもって他人の加虐心を煽っては、そんなことなにも覚えにございませんとばかりに童女じみた幼気なふるまいをした。しかしながらわたしを誘う手や首、頬、眼差しの熱さは童女だなんてかわいらしいものでなく、たしかに成熟した女のそれであった。チカは十七、八くらいともみえる頼りなげな容姿をして、自由な言動は十五の少女、その手練手管は年増女のそれのようだった。結局チカの実年齢をわたしは知らなかったのだけれど。何歳でもあって何歳でもないような、つかみどころを欠いた女だった。いま思えばそんな妖しい、身元も知れぬ女を一時的とはいえ部屋におくわたしも相当な酔狂人であった。チカと同じくらいに、わたしも破滅を望んでいたのかもしれない。  わたしはチカに大事がおこったことにまったく気がついていなかった。ずっと姿を目にしないと思えば一月ぶりに、昨日の続きみたいにわたしの部屋を訪れることがチカにはしばしばあった。そういう奔放な女だった。だから常通りにほかの部屋を渡り歩いているのか、なにか用事でもあるのか、あるいはとうとうわたしに飽いたのかとぼんやり考えていた。わたしは恋人みたいにチカに会いたいだなんて思うことはなかった。ただ、狭い部屋をただよう一抹のもの寂しさが、あたりを静まり返らせていたのみだった。チカと出会うまでは存在しなかった、あるいは知覚されなかった空白がわたしの身体を巣食っていたようだった。チカに会いたいだなんて思わなかったのは、わたしはチカ以外で埋めえないそれを埋めるすべとして、チカに会うということがわたしの念頭に浮かぶということがなかったからであるだろうし、またわたしがチカの連絡先を知らなかったせいもあるだろう。正確にいうと電話番号だけ、チカが走り書いたメモをいまだもっているのだけれど、その番号にかけて彼女が出ることはほとんどなかったし、まれに出た際もまともな返答はされなかったので、それは連絡先として機能していなかった。それはただチカの筆跡をのこすものとして、わたしの部屋の抽斗のなかにしまわれている。  わたしが二月ほど、チカの帰りを待ちながらそれをなかば諦めているうちに、チカは死んでいた。聞くところによると扼殺らしかった。詳細はわたしの知るところでないけれど、おおきく無骨な男のてのひらで、あのほそい、しなやかな首は絞められたそうだ。美しいチカは害されたのだ。わたしの感じたあの鼓動は失われた。けれど、そんなことは問題ではない。チカの美しさは、わたしのチカへの好意は、生の中にあったわけではない。それに、チカは明言こそしなかったけれど、どうせ死にたがっていたにきまっている。あの如何わしい白い項はわたしの殺意をたしかに誘ったし、殺意や劣情をふくんだ眼差しを彼女は甘受した。糖蜜のようなねばつく甘さの微笑だった。だけれど、彼女はわたしに殺されたいわけではなく、たんに誰でもよい何者かに殺されたいだけだということがわかっていたから、わたしは彼女に手を出すことはしなかった。否、わかったうえで、わたしはチカを殺すことを欲していたけれども、できなかった。チカを殺したかった。チカをわたしひとりのものにしたかった。だけれど、人を殺すことは怖かった。くだらない理由だ。殺人という行為じたいも、法律も、世間も、なにもかもがわたしは恐ろしい。それはいまだってそうだった。けっして殺そうとなんてしなかったくせに、チカはいずれわたしが殺すのだと思い込んでいた。愚かだった。チカの姿を、彼女の首筋を目にしたら、きっと誰もが彼女を殺したくなるに違いない。チカはそういった、あやうい魅力をもった女だった。きっと死んだチカは、どんな女優よりも、どんな芸術作品よりも、どんな自然物よりも美しい。だからわたしはそれが惜しかった。わたしの手のうちで、呼吸をやめて静まり返ったチカが見たかった。チカの冷たい身体の重さを感じたかった。チカを殺すのは、わたしがよかった。今更どうしようもないことだけれど、どうしようもないだけに強く純粋にそんなことを考える。  チカはいまだわたしの夢に現れる。漂白されたように白い、ほっそりとした肢体がわたしの身体に凭れかかっている。ほそい身体をしているけれども、たしかに血肉のつまった人間の質量だ。室温とおなじ温さで、すこしひんやりと感じられる。チカの首筋には、ちょうどわたしの手と同じくらいのおおきさをした圧迫痕がある。わたしの両の手がチカの首筋を掴んでいる。チカは悩ましげな、艶美な表情をしている。瞳孔の散大。ミルクチョコレート色をしていた瞳は夜闇のように黒くみえる。瞼は撫ぜると容易に閉じられた。改めて睫毛の長い女だ。害されるために生まれたいきもの。わたしはチカの瞼に口づけて、そして頬、鼻、唇へと自らの唇をたどらせていった。動かなくなったチカはいとおしい。ことによると、生前からわたしはチカにたいしてそのような感情を抱いていたのかもしれない。死体となったチカがあまりにいとおしく感ぜられるから生じた勘違いかもしれないけれど。ともかくいえることとして、わたしは死んだチカのことを愛している。美しい女だ。運命の。もう一度、チカの唇に自らのそれを合わせた。冷たくて、いくぶん乾いている。やわらかさは以前のままだ。わたしは自らの頬の紅潮と、高鳴る鼓動にとうに気が付いている。ひどく興奮していた。きっと欲情だ。欲情は恋���ろうか。チカではない。チカの死に激しい劣情を催している。愛している。睦言みたいに、もう音を拾わない耳殻に幾度となくそう囁いた。愛の何たるかを知らない人間の口にする愛なんてぜんぶまやかしにきまっている。耳朶を噛んだ。皮膚は無味だ。幾度もひとに触れさせておきながら、いまだ水みたいにまっさらな肌をしている。純潔な少女みたいに。わたしはチカをぎゅうと、きつくきつく抱き締める。愛情表現というよりも、もはや暴力みたいに腕に力を籠める。わたしはチカに暴力を振るいたかったのかもしれない。唇を、頬を、首筋を、肩口を、腕を、手首を、唇でなぞって、噛みついた。わたしの噛んだ跡が癒えることはないのだろう。チカはわたしの腕の中で黙り込んだまま、わたしの荒い息遣いだけが響いている。  むなしい朝だ。目を覚ますときまって悲しい。チカと生活することも、チカを殺すことも、もうありえぬ夢である。殺意だなんて、チカにしか向けたことがないから、どう処理したらいいのかまったくわからなかった。対象を失った殺意はわたしの手の内で膨張してゆく一方だった。チカを殺したいという欲望だけがわたしのてのひらに残っていて、ときたま自分の首を絞める。わたしの絞めたい、触れたい首はこれではないのにだ。いまだに街中でチカと似た女をさがす。いずれこの手はひとを殺すだろう。誰でもよいから殺されたかったチカを殺したかったてのひらは、チカの代替として誰でもよい誰かを殺すのだ。その姿にチカを重ねながら、髪のながい、生白い色をした女をきっとわたしは殺すのだ。そうしてその屍体に、わたしはチカの屍体への安っぽい愛をいかにも熱っぽく囁くのだろう。そんな予感をもちながら、わたしは今日も変わらずうだつの上がらない生活を続けている。チカの着ていた部屋着は、チカの使っていた食器は、わたしの部屋に依然としてのこされたままにある。またチカを迎える準備は、いつだってできている。
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seisauid · 5 years ago
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月光
 月光は白い色をしている。生活のうちに薄汚れはじめたレースのカーテンを透かして、しかし真白い光は彼女のしみひとつない頬をより白く照らし出す。ぴったりと閉じられた濃い睫毛のしたに、くらく影が落ちている。つくりものみたいな、爬虫類の腹みたいな、人間じみない質感の肌だ。その頬はひんやりとして、わたしのてのひらに吸いつくようだった。平温およそ三十六度五分。彼女曰く。眠る人間の体温は概して平温よりはひくい。だけれど、たしかに生きている人間の体温の範疇にある。わたしは努めてそうっと、彼女の頬を撫ぜる。そうして自分の手のうごくままに、彼女の唇に指を這わせた。生気のない肌色をしているくせに、紅も引かないでみごとなまでの朱唇である。彼女は鑑賞用にうまれたいきものだったのかもしれない。そうして、わたしの指は彼女のやわらかな唇からとがった顎をたどり、首筋に至る。ほそい首だった。両手でつかんで、ゆるく力を籠める。しかしすぐに離してしまった。眠る無抵抗な人間の首を絞めるだなんて、むろんのこと褒められたおこないではないからだ。 「殺さないの。」 出し抜けに彼女の声をきいて、わたしは反射的にちいさく謝った。彼女の頭のほうに目をやると、彼女のくろぐろとしておおきな瞳はぱっちりとひらかれていた。 「ごめんなさいじゃあなくって。どういう気持ちなの。私が憎い? 愛しい? それともなにか、ほかのことを考えていた?」 辰砂の唇がうごく。いかにも清潔そうな白い光をうけて、濡れ光るそれはいやに煽情的だ。彼女はわたしの手を取って、もういちど、彼女の首筋にあてがった。冷たいてのひらだった。首筋はすこし温んでいて、血のめぐる感触がする。 「ああそれとも、キスがしたかった?」 「えっ、」 「唇、撫でたでしょう。」 彼女はその体勢のままに、笑みを浮かべてみせる。私、キスしたいとか、そういう感覚、よくわからないんだけど。そう続けた。あなたがしたいのならばしてもよいというポーズだ。彼女はいつもそうで、わたしを暗に誘惑する。否、わたしが勝手に誘惑されているだけなのだ。彼女はそういうものとして、ただここに存しているだけなのだから。 「……ただ、ええと、その、あんまり、きれいだったから。」 「そう?」 彼女はわたしの手の甲を、手首を、するりと撫ぜる。わたしとおなじ種の��きものとは考えられないくらいになめらかな肌をしている。そんなことを考えていると、急に手首に力を籠められて、ぎゅうと引っ張られる。そうして、耳元でささやかれた。彼女の息が、うなじをくすぐる。産毛が逆立つのを肌で感じた。 「ねえ、したいでしょ。」 わたしは気圧されたように、こくんと頷いた。ほんとうは彼女に口づけたかったし、彼女の首を絞めたかった。許されるのならば命まで奪ってしまって、わたしだけのものにしたかった。実際するとなると怖気づくのだろうけど、わたしがそのような願望をもっていたことは確かであった。  わたしは身を起して、彼女の唇に自らのそれをあわせた。唇は先程指先で触れたとおりにしっとりと濡れてやわらかかった。それが鋭敏な唇で感ぜられるものだから、わたしの心臓は思春期の少女みたいに早鐘を打って、くらくらとめまいがするほどだった。 「殺したいのならば、殺してしまってもいいのに。」 唇を離してから、彼女はそう言った。呟くような声も、静けさと月光ばかりに満ちた狭いワンルームにはよく響く。彼女の浮かべるのは、妙に婀娜っぽくて、それでいてごくごく凪いだ、おだやかな微笑だった。あたりを照らす月光が、眩しいほどに感じられた。  わたしは彼女の首筋に手をやる。薄い皮膚に、青く血管が透けている。脈を打っている。心なしか、先ほどよりも早まっている。彼女の黒い瞳はわたしを見据えている。わたしは彼女の首筋を両の手で包み込んで、しかし、やはりすぐに力なくてのひらを離した。彼女の潔癖なまでに白い首筋には、なんの痕跡ものこっていない。わたしは目を逸らして、何事もなかったみたいに口をひらいた。 「眠ろう、まだ夜だし。」 彼女はだまって首肯する。ふたりとも、もう一度ブランケットにくるまりなおして、目を閉じる。わたしはきっと、彼女をわたしひとりのものにする機会を永遠に失ったのだろう。そんな確信をもちながら、わたしは彼女の隣でまるくなる。きっと、後悔と安堵だった。これまでとかわらずに、彼女はずっとうつくしく自由なものとして、わたしは何者でもないただの女としてあり続けるのだろう。聞こえ始めたやすらかな寝息は、わたしの呼吸と合わさることなく、わたしはひとりきり夜の明けるのを待っている。
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seisauid · 5 years ago
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サヤカ
 佐倉が死んでもう二年経つ。  佐倉というのはわたしのクラスメートだった故人の名前だ。ファーストネームは清い花と書いてサヤカと読む。当時のわたしは彼女のことをサヤと呼んでいたと記憶している。しかし、もう会わずに二年も経って、距離感を見失った彼女を馴れ馴れしく愛称で呼ぶのも申し訳ないような気がして、またなによりまぎれもないわたし自身がそうしたくないために、わたしは他のクラスメートがそうしていたように、彼女のことを佐倉と呼ぶ。そうすることにする。佐倉は制服であった古典的なセーラー服を校則どおりに着用し、長い黒髪を左右に振り分けてきっちりと編んだ、よく言えば真面目で、悪く言えば目立たない類の生徒であった。  わたしと佐倉はたぶん、友人だったと思う。つねの友人がそうであるように、わたしたちは友人であるだなんて確認はおこなわれない。だから、今思い返してみて、本人に確認をとることもできない状態で、わたしは彼女のことを友人と断言することはできない。かつてのクラスメートであるばかりで、ほかになんの関係もない。それどころか、佐倉が生きていたとしたら、きっとわたしのことを憎んでいるし、わたしはわたしで彼女に対してなんらかのわだかまりを抱いているところが現状である。  佐倉の葬儀の日のことを覚えている。参列者の殆どがセーラー服と詰襟の学生服姿で、それに紛れるおとなたちは痛ましげな表情をしていた。夭折はかれらにとってはひどいことであるらしかった。生徒たちはまだ慣れぬ葬儀に緊張したようななにか現実味を欠いたような面持ちをして、ぎこちなく目だけを動かして周囲を窺っていた。  棺の窓から覗いた佐倉の死に顔は穏やかだった。死化粧のせいもあるだろう。そういえば佐倉が落ちた後の水面は、四十キログラムていどの肉塊が落ちたぶんの飛沫が上がって以降、ごく静かなものだった。発見も早かったらしく、噂に聞く水死体の醜さとは無縁だった。わたしはみずからが棺のなかにいないことに安堵し、同時にすこしだけ、わたしもこんな、きれいな死に方ができたのならよかったかもしれないとなんとなしに考えた。すべて今更どうしようもないことだった。  うら若い少女の自殺は、さびれた地域社会で噂の的となった。佐倉のことが新聞に出ていただなんて、普段読みもしないそれを引っ張り出してクラスメートたちは頻りに囁きあっていた。教室のなかはひそやかな声が重なって潮騒のように、あるいは葉ずれのようによく響いて、佐倉の机のうえにおかれた白菊の花だけが沈黙を保っていた。佐倉の机は教室の中央後列あたりにあったものだから、あかるい陽射しも当たらないで、外の活気からもはなれて、陰気な静けさの内にあった。 わたしは佐倉の机に近づかないで、自分の席で黙り込んでいた。クラスメートや教師らはそれをわたしが友人の死に落ち込んでいるのだと思い込んでいるらしかった。わたしは何も知らないかれらが羨ましかった。妬ましいほどだった。佐倉について訊くような無神経な生徒はいなかったけれど、もしいたならば、わたしはひどくはねのけてしまったかもしれない。  わたしはただ恐ろしかった。単純に佐倉の不在が、あんなに簡単そうに投げられた佐倉の身体が、佐倉の手を冷淡に離した自らの手が、自己保身を一番に考えるわたしが、わたしを恨んでいるであろう佐倉のことが。わたしはおそらく、佐倉と自分にまつわるすべてに恐怖していた。  あの日佐倉を殺したのはわたしだった。実際に佐倉が死んだのは彼女自身の意思と行動によるものだったが、彼女を死に至らしめたのはわたしだった。わたしが彼女を唆した。わたしが死のうだなんて軽々しい気持ちで囁いた。十四の、いまだ無邪気に死に惹かれる思春期の少女だったわたしは、好奇心とごく淡い希死念慮のために、仲の良かった佐倉に声をかけてみたのだった。 「ね、サヤ。あのさ。死のうよ、ふたりでさ。」 「いいよ。」 死んじゃおっか。佐倉はわたしの浮ついた言葉に、いかにも平静そうなようすで頷いた。それがあまりに当たり前の、予想できた言葉に対するようであったから、わたしは少なからず動揺した。 「え、あ、ほんと? どうしよっか、なんか……ほら、えっと、死に方、とか?」 「二人なら、そうだな……。入水とか? いかにも心中ですみたいな、そんな感じ。良くない?」 佐倉は笑いながらそんなことを言った。佐倉のまなざしは常どおりわたしに向けられたままで、なにか逃げ場を失ったような焦燥の中、わたしはそうだねとか、へたな相槌を打った。佐倉は控えめな少女だったけれど、その日ばかりはやたら積極的に、夢みたいなふわふわした口調のままになかば強引なほどの調子で話を進めていたように記憶している。わたしが彼女に流されて、及び腰になっていたせいでもあるかもしれない。  佐倉とはその週の金曜二十一時、波止場で会う約束をした。わたしはどきどきと胸を鳴らしながら帰宅し、時間が止まるのを願って暮らしたのだけれど、果たして金曜はやってきた。そしてそこで、佐倉がわたしと手を繋いで不気味に暗い海面に身を投げようとしたところで、わたしがその手を解いたのだった。佐倉の表情を確認する間もなく、彼女の肢体は海水のうちに飲み込まれていった。その際に立った波紋が静まってしまってからは、何事もなかったかのような、ごく静かな夜凪だった。わたしは走り帰宅した。課題として出されていた、くだらない漢字の書き取りなんかを片づけて、普段よりはやめに床に就いた。普段より神経が過敏になっていたらしく、母の帰宅で目を覚ましたけれど、わたしはもう一度目を閉じて眠り直した。常と変わらぬ静かな夜であったから、全部夢であるかもしれない、あってほしいとわたしは祈りながら目を瞑った。  翌日、佐倉の机上の花を見て、わたしは昨夜のことは事実であったのだと、認めざるを得なくなった。  それから、わたしは佐倉の件には黙り込んで中学校を卒業すると、それきり、遠方の高校に進学して、今の今まで逃げていたのだった。中学校の知人と連絡をとることはほとんどなくて、佐倉のことは忘れたみたいに過ごしていた。けっして楽しい高校生活ではないけれど、人を殺したという罪悪感からも、友人が死んだという悲しみからも、きっと遠のいていたはずだ。だけれど、佐倉はずっと、わたしの心中で重責として残り続けていた。  今夜またわたしが波止場に立っているのは、わたしの心から佐倉という重荷を取り払おうという試みのためだった。もう時効だろうという思いもたしかにあった。まだ佐倉が死んでから、たったの二年しか経っていやしないのに。  夜凪だった。わたしのサンダル履きの足音ですら高く響いて感じられるほどに静かな夜だった。ごくまれに涼しい風が吹く程度で、それ以外はわたし以外のすべてが死んでしまったみたいな静けさだった。  ごめんね、ごめんなさい。佐倉、……サヤ。わたしは凪いだ海面に向かって呟いた。佐倉がこんなところにいないことはわかっている。だけれど、わたしが佐倉に謝罪するためには、この波止場に来る必要があった。これはきわめて自己中心的なけじめだった。佐倉に謝ったことにして、自分の気持ちの整理をつけて、佐倉を忘れてしまおうという。佐倉はもう生きてはおらず、彼女にたいして何をすることもできない以上、彼女にという名目でおこなうことすべては自分のためのおこないだ。  今ならきっと、わたしは佐倉とふたりで死にきれるのだと思う。中学生当時のわたしにはまだ朧ながら希望があったし、死ぬべき理由なんて明確には存在しなかった。だから死ねなかった。わたしはいまだ死ぬのが怖かった。だけれど今なら、二人でならば、きっと死ねるはずなのだ。今のわたしはほんとうに死にたいと思っている。だけれど、もうわたしは一人ぼっちで、一人で自殺をする度胸なんてわたし��は備わっていないのだった。わたしの行為が佐倉への取り返しのつかない、ひどい背信行為だったことくらいわかっている。けれど、もう一度彼女がわたしと死んでくれたのならばといまだに思わずにはいられない。  わたしは海面を見つめている。日にちは違えどちょうど二十一時ごろのはずだ。あの日とおなじ、静まり返った水面はわたしを映していた。水鏡のわたしは思いのほか思い詰めたような表情をしている。はたから見れば入水を試みる自殺志願者にすら見えるだろう。自殺願望、あるいは希死念慮がないわけではない。だけれどわたしはひどく後ろ向きだ。きっと、わたしが佐倉みたいに死ぬことができる日は来ないのだろう。ぐずぐずと生き続けていくにきまっている。わたしはそんなことを考える。しゃがみこんで、海水に指を浸してみる。水面は指のぶんだけ凹み、すぐにそのうえにも海水が寄せて、指にはその重みが感覚された。  もう帰ってしまおう、そう思って立ち上がろうとした途端、わたしの背中はぐいと押された。わたしの目には、世界はスローモーションで捉えられて、奇妙に穏やかだ。波の冷たさを脚に、胴に、腕に感じる。咄嗟に抱いたのは恐怖よりむしろ、結局のところここに帰るのかという安心感だった。冷えていく身体と対照的に、ひどく安らかな、あたたかな心持ちだった。飛沫はほの白い月光を反射して、清潔に、花火みたいに光る。サヤ。サヤでしょう。わたしの視界はゆらゆらと揺れる。万華鏡だ。きっとこれは、あの日のサヤとおなじ視界だった。相変わらずにサヤは優しい、気立ての良い娘だ。自分と比べて悲しくなるくらい。わたしはただ、空を見つめる。夜闇にちらと窺えたのは、闇を透かすほどに白い、たおやかな少女の手だった。
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seisauid · 5 years ago
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傷の味
 谷原はわたしの中学からのひとつ下の後輩だった。ひょろりと細長い体型をしていて、軽薄というか、生意気なふうな喋り方をする。きっとわたしのことを先輩だと思っていないのだろう。先輩だなんてらしくないし、むしろ谷原の態度は好ましかった。谷原はわたしとおなじ吹奏楽部の部員であって、吹奏楽部がわたしたちの通う中学校で唯一の文化部であったからという所属理由を同じくした、無気力な生徒だったから、そこそこに馬が合った。  その谷原と会うのは、わたしが高校を卒業して以来のことだった。  鄙びた駅舎のベンチに座る。わたしの通う大学は遠方にあり、不精のせいもあるけれど、帰省するのは盂蘭盆が初めてのことだった。帰省するだなんて、大人になったみたいですこし期待感をもっていたのだけれど、なんともないことだと知った。 「来たよ」 わたしは谷原にそれだけ、メッセージを送る。履歴を見ると七月ぶりだった。谷原からは、すぐに「すこし待ってください」と返ってきた。谷原はわたしと会話する際は人を小馬鹿にしたようなタメ口をきくけれど、文面では敬語をつかう。わたしは既読を返事に代え、メッセージアプリを閉じる。いくらか地域のイベントなどのビラの貼られた駅舎を眺めている。  踏切の警報音が聞こえてくると、数人の高校生がぱらぱらと降りてきた。 「先輩〜、久しぶり。」 谷原は右手を上げて、高校指定の革靴を鳴らしてわたしのほうへと歩み寄ってきた。涼しげな半袖の夏服を着た生徒らの中で、谷原は一人長袖を着込んでいる。暑くない? と尋ねると、彼女はあいまいに頷いた。 「暑いのに待たせてごめんね。夏期講習でさ、ほんと最悪。結局寝ちゃったし。」 谷原はへらへらと笑って、わたしを先導する形で駅舎を出た。先月に、夏休みに帰省する旨を話すと、中学生時分に入り浸っていた彼女の部屋で、会おうと谷原は言ったのだった。  蝉の声がうるさかった。入道雲のかたちも、空の青さも、蝉の声色も、どこでも夏は夏だった。谷原は緩慢な仕草で首筋の汗を拭っていた。袖口はおろし、ボタンまできっちりと締めているのに、襟元はだらしなく寛げられている。わたしは彼女が自傷でもしているのだろうということにとうに勘づいていた。谷原はもともと、いわゆるメンヘラ傾向のある少女だったからだ。  アパートの前に着くと、谷原はリュックをおろし、鍵を取り出した。中学生時分と変わらない、星型のキーホルダーがついている。じゃっかん傷が増えたかもしれない。 「先輩、入って。」 「お邪魔します。」 想像通り部屋は無人で、がらんとした室内にはわたしのそう大きくない声もよく響いた。谷原は変わらない生活をしているらしかった。わたしが谷原の家に入り浸っていた当時から、谷原の両親は共働きで、有能で仕事好きらしくつねに忙しげで、家に居着かないひとだった。こどものある家庭にしては殺風景で、置いてあるものも少ない。棚にはうっすらと埃が層をつくっていたし、観葉植物は枯れかけていた。手入れの行き届いていない家、目の届いていないこどもという印象は変わらないものだった。  谷原の私室も、机の上に赤本が増えたくらいでそう変化のないものだった。中堅私大のものがいくつかと、わたしの通う大学のものがおいてある。けなげなものだと思ったら、それを察したのか「どこでもよかったから、なん��なく頭に浮かんで挙げたら、なんか志望校みたいになってただけ。」と谷原は言った。谷原は空調をつけて、冷蔵庫から麦茶を出してくる。 「先輩、大学どう?」 谷原は麦茶をグラスに注ぎながら、興味なさげにそう訊いた。実際興味がないのだろう。 「まあ、ふつう。特に面白いこともないけど、高三よりは楽だよ。」 谷原はふうんと言って、グラスをわたしの前に置いた。その手つきが乱暴なものだから、数滴テーブルに麦茶がこぼれた。谷原はそれを気にも留めず、わたしの表情を窺うような目つきをして口を開いた。 「先輩、見たい?」 「は?」 出し抜けな台詞にわたしはただ呆けていた。何を? そう問うと、谷原は自らの左の袖口を示した。焦れたような手つきで、ボタンをはずす。ごく近いものだから、わずかな衣ずれも鮮明に聞こえる。わたしは声も発せないで、ただそれを見つめている。 「見たいでしょ。秘密なんだよ。」 谷原は袖口を捲り上げる。彼女の手首の白さには、幾筋もの傷跡が走っていた。まだ新しいらしく、赤黒い色をした筋もある。谷原はそれをわたしに見せつけるようにして、わたしの反応を待っているようだった。 「どうしたの?」 「反応わるー。切ったの。」 「いや、そうだろうけど。なんで?」 谷原は考え込むようなそぶりを見せる。麦茶を一口飲んで、うーんと言った。 「ストレス? かなあ。」 正直わかんないんだ。まあでも、いいでしょ。陳腐な理由。半袖、着れないけどね。谷原はそう続けた。なんでもないような口調だったから、きっとなんでもないことなのだろう。わたしは谷原と特別親しいわけではない、ただの先輩であるに過ぎないから、彼女のことなんてなにひとつわからない。わたしが彼女の傷跡を見て感じたものは、ショックでも痛ましさでもないことだけは、わかりきっていた。それはきっと高揚だった。あるいは興奮。 「ねえ、キスしていい?」 わたしは谷原の答えを待たずに、彼女の手を引っ掴んで、傷だらけの手首に口づけた。唇に、谷原の自分でつくった傷の凸凹を感じる。汗ばんで湿った皮膚は、ほんのすこし、人間の体液らしい塩辛い味がする。谷原は生きている。 「先輩、答える前にしてるし……。つーか、そこかよ。悪趣味。」 谷原は露骨に顔をしかめる。 「唇ならよかったの?」 「まさか。あたしら、そういうんじゃないじゃん。」 「そだね。わたし、谷原のことべつに好きじゃないし。」 「ひでえ言い草。」 谷原は拗ねたように右手で頬杖をついてそっぽを向く。短い茶髪が伸びた爪にかかっている。不健康的な、筋の目立つ白い爪だ。わたしは彼女の左手を掴んだまま、つとめてやさしい手つきで傷跡を撫でた。傷口がわずか開きかけたらしく、赤く血が滲んでいる。 「恋の話ね? でも、リストカット、超いい。そそる。」 「身体目当てかよ……。」 谷原は嘆息する。呆れたような口調だ。この傷フェチ、変態。とかるく罵るように言う。 「谷原さ、死ぬならわたしとにしてね。」 わたしがそう言うと、谷原は呼ぶから絶対来てよと小声で言った。なんとなくこどもじみた口調で、微笑ましささえあった。わたしは谷原がかわいかった。わたしは傷ついている谷原のことは、結構好きなのかもしれない。すくなくとも、唇にだって、きっとキスできるくらいには。まるく整えられた爪にするどい刃を重ねて、わたしはもう一度、谷原の手首をゆっくりとなぞってみる。
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seisauid · 5 years ago
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墜落
 根尾ちゃんは、猫ではなかった。  わたしが高校生だったころの話だ。たしか二年一組で、わたしと根尾ちゃんが同じクラスだったのは後にも先にもその年だけだった。わたしは幽霊部員ばかりの美術部に所属していて、根尾ちゃんは帰宅部だった。わたしたちは特段仲がいいわけではなかったけれど、それはわたしがもともと社交的な生徒ではなかったのと、根尾ちゃんが人をあまり寄せ付けない生徒であったためだった。わたしはむしろ孤高に見える根尾ちゃんに一種憧れのような感情を抱いていたし、根尾ちゃんはよく放課後に、美術室に遊びに来た。根尾ちゃんの目的はけっしてわたしではない。ここは夕陽のはいりぐあいがいいのというのが彼女の言だった。その言葉どおり、彼女はよく晴れた日にしかやってこなかったし、わたしと会話をすることも殆どなかったし、めずらしくほかの部員のいる日は何も言わないで部屋を出て行ってしまった。わたしはそれに対して懐かない猫が自分にだけ懐いているみたいな、密かな優越感をもっていた。根尾ちゃんに自分だけが許されていると思った。実際のところ根尾ちゃんは、きっと誰のことも許していやしなかったのだろうし、わたしはそのことをわかっていたはずなのだけれど。  美術室は校舎の西端にあって、移動教室時の評判はすこぶる悪かった。作品の制作や鑑賞を好まない生徒が多かったからでもあるだろう。つねに人気が少なくて、ぽつねんとした、置き去りにされたような雰囲気の教室だった。美術教師は個性的といえば聞こえがよいけれどどちらかというと陰気そうな、気味のわるい人間であったから、美術の授業中でさえも教室は静かだった。その教室前の廊下の、西側の扉からは、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下へと、錆びた鉄製の階段が伸びていた。非常階段らしいのだけれど、ちょうど下駄箱にほど近いところに降りるものだから、少しの移動も億劫がって、こっそりと使う生徒もしはしばいた。生徒たちの間でなかば慣習化していたから、それを見かけた教師もあまり怒らなかった。根尾ちゃんもその階段をよくつかう生徒の一人で、階段を降りてゆくいかにも身軽そうな後ろ姿をわたしはよく覚えている。  その日も夕陽はきれいだった。根尾ちゃんの髪は鏡面みたいに夕陽のオレンジ色を映した。部活の終わる時間は混みあうから、根尾ちゃんはきまって部活終了のチャイムのなる少し前を見計らって教室を出る。わたしも筆をとめて、立ち上がって根尾ちゃんの背中を追った。華奢な、野生の動物みたいにまるまった背中はわたしのことに気づいたようだけれど、根尾ちゃんは何も言わないで、ぎいと外階段へ繋がる扉を開けた。そして足を踏み出した。根尾ちゃんは足音を立てない。わたしは息を潜めて駆け寄って、両手で根尾ちゃんを突き飛ばした。初めてさわった根尾ちゃんの背中は、骨の感触はたしかにあるのだけれど、思ったとおりにやわらかかった。根尾ちゃんの身体は宙に浮いて、そのまま地をめがけて落ちていった。根尾ちゃんの黒髪と、制服のプリーツスカートがふわふわと宙を漂って、わたしのずっと想像していたとおりに幻想的な光景だった。しかしそれもすぐにおわって、根尾ちゃんの身体は、渡り廊下をはずれてコンクリートの地面に叩きつけられた。くぐもった悲鳴がきこえた。根尾ちゃんの血は赤かった。根尾ちゃんは、猫みたいに身軽に空中で翻って、足から着地することはできなかったみたいだった。根尾ちゃんは頭から地面とキスをした。根尾ちゃんはただ猫みたいというだけで、ただの人間らしかった。根尾ちゃんは、猫ではなかった。  根尾ちゃんは状況を把握できていないみたいで、ただただ目を見開いている。荒い息をする。根尾ちゃんはいつもすました顔をしていたから、人間らしい、あるいは生き物らしい顔を見たのは、おそらくそれが初めてのことだった。根尾ちゃんは獣みたいな、言葉にならない掠れた声を漏らす。わたしは失望した。くだらないことだった。根尾ちゃんの長い髪は地面にひろがっていた。  わたしは美術室に戻ると、絵筆とバケツを片づけた。バケツのなかの濁った水は夕陽を受けてうす赤く、重たそうに波打って、ちょうど血みたいだと思った。これが全部根尾ちゃんの血であったのならよかったかもしれない。人間の身体から出る血は思いのほか少なかった。落ちた高さの問題かもしれない。それはすこし少し残念だった。根尾ちゃんはただの人間だったけれど、それでもわたしは彼女の見目もたしかに好ましく思っていた。きっと赤はよく映える。わたしが根尾ちゃんにいちばんに望んでいたのは、落ちたのでなく降りたのだとでもいうような、何事もなかったような反応ではあったのだけれど。そんなことを考えながら、わたしはいつも通りに美術室に鍵をかけ、帰宅した。 「こんにちはー。根尾ちゃん、元気?」 わたしは病室にはいる。返答がないことなんて知っている。根尾ちゃんはわたしのことなんてどうだっていい。すべてが根尾ちゃんの閉じた世界にはいっさい関係のないことだ。以前の根尾ちゃんは気分さえよければ返事をしてくれることもあったのだけれど、もう根尾ちゃんはなにも喋らない。根尾ちゃんはもう何も考えていないからだ。根尾ちゃんは白痴みたいに黙り込んで、ぼうっとどこかをみつめながら、白い寝台に身を横たえている。根尾ちゃんはうごかない。根尾ちゃんは人だった。だけれど、いまの根尾ちゃんは感情なんかなくなったみたいで、よく眠る、昼間の陽だまりのなかの猫みたいにやすらかだ。  根尾ちゃんは、猫ではなかった。  でもそれもすべて、もう遠い過去のことである。
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seisauid · 5 years ago
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破滅の色を知る
 ゆいさんは、わたしたちの途切れ途切れのボソボソした会話に一切はいらないで、いかにもつまらなそうな顔つきで車窓を眺めている。車内は締め切られて、風はなく、澱んだ空気が充満している。わざわざ目張りなんかして、一酸化炭素なんか発生させずとも、わたしたちを殺し得るくらいに空気が悪い。そのなかで、ゆいさんの黒髪のボブカットは車の揺れに合わせて涼しげに揺れる。よく手入れがされているのだろう、艶のある髪だ。きっと手触りも良いのだろう。わたしは自分の癖毛に手をやりながら、小声でゆいさんに声をかける。 「ゆいさんって、わたしと同い年でしたよね。」 彼女はこちらに一瞥をくれると、うんとだけ言って頷いた。女性にしてはすこしひくめの、ハスキーな声をしたひとだ。ゆいというハンドルネームを使っているこのひとは、わたしとおなじ高校三年生らしい。SNS上で話をしていた時も思っていたけれど、こうしてゆいさん自身を前にしてもわたしと同い年にはとてもみえなかった。悪い意味でなく、彼女がいやにあやしく、艶っぽくさえあったからだ。たんにわたしが子供すぎるだけなのかもしれない。わたしは自分の膝の上で手をひろげ、短い指と、まるい爪を見ながらそんなことを考えた。  幾度か話しかけようとしてみたけれど、結局ゆいさんは車中では殆ど黙り込んだままだった。周りも自殺しようだなんて考える連中なのだから、ゆいさんのそんな調子を特段気に掛けるわけでもなく、しかし沈黙は怖いらしくて依然として低い調子で会話は続いていた。  サービスエリアの駐車場に車を駐めると、同乗者たちは散り散りに車を降りて行く。休憩ということらしかった。暢気なものだと思いながらわたしも遅れて車を降りようとドアを半分あけると、手首を掴まれた。ゆいさんだった。鍵かけといてくださいね、そう言いかけたところで、手首を掴む手には力が籠められ、わたしの身体は彼女に引き寄せられる。口づけられた。 「どうしてこんなこと、」 頬が紅潮していくのが自分でよくわかった。頬から耳、首筋、唇、すべてが熱い。辛いものでも食べたときみたいだ。開けたドアから流れ込んでくる熱気のせいだろうか。そんなわたしとは対照的に、ゆいさんは澄ました顔をしている。白い頬は白いまま、温度を感じさせない。 「みうさん、あたしに気があるんでしょう?」 きれいにカールされた睫毛の下で、ゆいさんの黒い瞳がきらきらとひかっていた。黒曜みたいだ。破断面は貝殻状、破片はするどく、わたしを傷つける。皮膚を裂いて、肉に刺さって、身体じゅうに血のめぐっていたのを、神経の通っていたのを、わたしに思い出させるのだろう。ゆいさんのまなざしは、わたしを見透かすまなざしだ。おまえの絶望も、劣情も、なにもかもすべてわかっているのだとでも言いたげな。 「……なんで。」 「あたしのこと見てたでしょ。やらしーんだ。こういう女が好きなの? 悪趣味。」 「いや、その、ええと……。ゆいさんに言われたくないです……。」 わたしはひどくたじろいだ。きっと目は泳いでいるのだろう。必死に言葉を探して、薄っぺらな反論を返す。ゆいさんは悠然と笑みを浮かべたままだ。やはりわたしはおろかで、不覚にも見惚れてしまう。ああだめだ。きっとこのひとはわたしを破滅させる。だけれどわたしは自殺オフなんかに参加するような人間であって、ずっと長いこと破滅を待ち望んでいる。だからきっと、ゆいさんはわたしの望むものをわたしにくれるのだろう。それはきっと、このまま練炭なんかを焚いてよく知りもしない人間と死んでしまうよりも、ずっとたくさんの甘い苦痛をわたしに与えながら。 「そうかな。まあ、でもさ、みうさんが少しでもあたしのこと好きなら、それに付け込んじゃおうと思って。だからキスしてみたんだけど。」 どうだった? ゆいさんはそう言って小首をかしげる。黒髪がまるく曲線を描いてゆいさんの華奢な肩口におちる。あかるい陽射しの下でゆいさんの浮いた鎖骨は白く、その窪みは真っ黒で、ひとつづきの肌のうえで強いコントラストを描いていた。きっちりと紅の引かれた唇が笑みのかたちをとる。かわいらしいしぐさも様になるのが悔しかった。ゆいさんは腹立たしいくらいに一挙手一投足が絵になる女だった。 「……それって、どういう意味ですか。」 「あたしはみうさんみたいな娘が好きなの。うじうじしてて、すぐ傷ついて、かわいい。あたしのせいで傷ついてくれたらいいなって思ってたよ。会ってみたら、見た目も好みだったし。」 「あたしみたいな娘ですか?」 「みうさん。」 ゆいさんは、わたしの目を覗き込んでそう言った。睫毛の生えかたも虹彩のかたちも映り込む間抜けたわたしの姿も、はっきりと見て取れた。わたしは目を逸らす。もとより理性的にものを考えることなんかできやしない出来損ないの頭が、ゆいさんと対面していると茹ってさらにだめになってしまいそうだった。 「……わたしは、ゆいさんが好きだった娘に似ていたから、見てて。いや、……要するに、そう、たぶん、ゆいさんがタイプだったからなんですけど。」 それは事実だった。わたしがハンドルネームとしてつかっていた“みう”というのは、わたしの好きだったクラスメートの名前だった。彼女は髪を背中までながく伸ばしていたけれど、気だるげな伏し目がちの目元も、細く通った鼻筋も、その下できゅっと結ばれた、やや厚めだが小ぶりの真赤い唇も、ゆいさんと似通っていた。わたしは彼女をその顔だちのために好いたわけではないけれど、彼女の顔を盗み見るのは好きだったし、ゆいさんにも一目で惹かれてしまったのは事実であったので、きっとその手の顔立ちをわたしは好むのだろう。 「ずるい言い方するんだ。あたしはすきって言ったのに。」 「言ってませんよ。」 「好きだよ、みうさん。」 ゆいさんは平静な口調でそう言った。瞳は変わらずに射し込む陽光を反射しながら、不思議にひかっている。その光がわたしの目を刺すから、わたしは眩しくて痛かった。わたしみたいな人間は責め立てられているようでさえある、純粋なかがやきだ。わたしは苦し紛れに、目を逸らして口を開く。 「惚れっぽいんですね。」 「みうさんだけだよ。みうさんもあたしのこと、好きでしょ?」 「ずるい人。」 「それは肯定?」 からかうような微笑だった。わたしがとうにゆいさんのことを好きになってしまっていることくらい、彼女はもうわかりきっているのだろう。この短時間で、なんてことのない接触で、しかしもう後戻りなんかできやしないくらい。わたしとゆいさんの歩くことのできる道はきっと暗い道だけだ。街灯も人影もひとつもない、うら寂しい細い道。しかも袋小路。どこにもたどり着けやしないまま、わたしたちは行き止まりでおわるのだ。 「……好きに捉えてください。」 わたしが観念して言うと、ゆいさんはわかったと笑う。ゆいさんの立てるのは、ごくひそやかな笑い声だった。そして、ゆいさんはもう一度わたしにキスをした。彼女の手はわたしの髪を撫ぜ、するりとやさしい手つきで頭蓋をたどって頬を撫ぜる。白くて細長い指だ。この暑さのなかで嘘のように冷たい。ゆいさんはどこもかしこもきれいで、生きているものではないみたいだった。そのなめらかな皮膚を切りひらいても熱い血なんかこぼれないように思われた。白磁のなかみは空洞で、血液も肉も骨も、なにもかも存在しない。ゆいさんはわたしの頭を抱き締めて、逃げちゃおっか、そう囁いた。わたしはゆいさんの鼓動を聞いた。ゆいさんの胸元は暖かく、やわらかだった。 「あたしらなんかいなくたって気にしないよ。あいつら勝手に死ぬでしょ。それか、やめちゃうかもね、死ぬの。」 ね、二人で死の。あたしたち、二人だけで。ゆいさんは、いまだひらいたままのドアの外、もう同乗者らの後ろ姿も見えなくなったサービスエリアのたてものを眺めながらそう言った。呟くような、すべてがもうどうでもよいみたいな、ごく凪いだ口調だった。 「……あのひとたちはよくっても、わたしたち、どうするんですか?」 「ダムがあるよ、このへん。知ってる? 水面がさ、キレーな水色してるんだよ。見に行くだけでもどう? よかったら死ねばいいし、いやだったらみうさんがなんか提案してよ。」 わたしの渋々といった調子の首肯にゆいさんは満足げな顔をした。わたしたちは鍵をあけたままに車を降りて、乱暴に扉を閉めた。外へ歩き出していく。ゆいさんは慣れたようすでタクシーに乗り込んだ。運転手に目的地を告げると、シートに座ってわたしの手を握る。ゆいさんの指はわたしの手をやさしく、同時に官能的な手つきでするりと撫ぜた。  車中でゆいさんはわたしにダイレクトメッセージを送ってきた。口頭でいって運転手に聞かれると面倒ごとがおこるような会話が発生しうることを考慮してのことだろう。入水の話なんか、かたちだけでも止められるにきまっている。それと、わたしはほんの少しの期待もあった。他人に聞かせるに忍びない、甘やかな会話でも発生するのかもしれないと思って。ふわふわと非現実的で、地に足のつかない気分だった。わたしは少なからず、浮かれていたのかもしれなかった。結局のところ、わたしは女好きのろくでなしにすぎないのだ。 「みうさん、あたしと死にたい?」 「死にたいですよ」 「死にたいとかじゃなくて、あたしと」 「死ぬのならば、ゆいさんとがいいと思ってます」 そう送ると、ゆいさんはほんのすこし微笑んでわたしの頭を撫ぜた。そうして、わたしの耳元に唇を寄せて、「あたしもみうさんと死にたいよ。」と囁いた。ゆいさんの声色と吐息はわたしの耳から首筋にかけての産毛を逆立てる。ああこの人の声がわたしは好きなのだと気づいた。わたしは跳ねる鼓動を抑えて、ゆいさんの頬にキスをする。おそらく化粧品だろう、ゆいさんの頬は甘い香りがした。  そこからはふたり、スマートフォンなんか手から離して、おさない少女めいた耳元での囁きあいをわたしたちは繰り返していた。十七歳、わたしたちはいまだ少女の範疇にあるはずだけれど、しかしおとなになるようにせっつかれているさなかにあった。わたしはずっと少女でいたいだけで、少女のうちにおなじ少女と死にたかったのかもしれなかった。おとなになりゆく自身に終止符を打ちたかったのかもしれない。いまだ少女であった。わたしたちは、どんなことをしても許されてよいはずの、うら若い少女ふたりきりだった。 「そういえばさ、ちゃんと言ってほしいな。」 「ちゃんと?」 「好き、って。」 ゆいさんはわざとわたしの耳元に息を吹きかけるようにしてそう言った。 「好きですよ。」 ゆいさんが。わたしも負けじとゆいさんの白い耳殻に囁きかける。耳朶に口づけて、唇でそうっと食んだ。ゆいさんは声を潜めてくすぐったそうに笑っていた。わたしはそのまま頬にキスをして、そしてゆいさんの唇にも口づけた。いまだ繋がれたままの手に力がこもるのが分かった。唇を離すと、ゆいさんはわたしの唇を指先でぬぐった。嫣然とした笑みを浮かべる。ゆいさんの目は、細められるとくろぐろと濃い睫毛と瞳の色で、その表情を窺わせない。美しくて不気味だ。美しいものが不気味なのかもしれない。わたしにとっての美というのはきっとゆいさんのことだから、どちらもきっと正しいことだろう。すくなくともわたしにとっては。 「いちおう人前なのに、積極的だね。」 「あ、」 ゆいさんはいたずらっぽく笑む。そんなにしたかった? とわたしの髪を、その白い指がすくい上げる。 「……好きだから、キスしたくもなりますよ。おかしい?」 わたしはゆいさんの肩口に頭を凭れさせる。きっとゆいさんはわたしが望めばすべて許してくれるし、すべて与えてくれるだろう。そう思ってしまったら、もうわたしの選ぶ行動はひとつしかなかった。ゆいさんはどうせわたしのすべてを暴くのだから、わたしからつまびらかにしたってなにも変わらない。ゆいさんにならば、身体を正中線で切り裂いて、うごめく内臓を見せたって構わない。 「ううん。」 ゆいさんは微笑む。 「好きだよ、キス。好きなだけ、好きにして。」  ふたりタクシーから降りる。あたりは人気がなく、湖面の水色と繁茂した緑ばかりが目についた。陽射しの下でゆいさんは美しい。そのどこか病んだ、影のある美貌は白く照らされてもけっしてあかるく見えることはなくて、ゆいさんはゆいさんとして美しいままだった。 「いいでしょ。」 「……はい。」 ぼうっとしたままに頷いた。わたしはゆいさんにしか興味がなかった。もうどんなところで、どんなむごい死に方をしようとどうだってよかった。ゆいさんはどこにいようと美しいからだ。ゆいさんがわたしの望みをすべて叶えてくれるように、わたしもゆいさんにとってそうでありたいと思った。ゆいさんがここで死にたいのならば、わたしもここで死にたいのだ。ゆいさんほ���正しい人はきっといない。 「ちょっと、ぐるっと見てこよっか。」 「はい。」 ゆいさんはわたしの手を引いて、ダム湖のまわりにめぐらされた道を歩いていく。木々が熱風に揺れていて、葉ずれの音と水音、蝉の声が頭蓋の内で反響するようだった。頭のなかは騒がしく、暑さのためかゆいさんのためか、鼓動もやたらにうるさかった。気が触れてしまいそうだった。否、もとよりわたしは正気などではなかったのだろう。きっとぜんぶ決まっていたことだった。なにも変わったことなどないのだろうと、妙な確信をもってわたしはそんなことを考えていた。  わたしたちの散策が湖上の橋にさしかかったとき、ゆいさんはふいに足を止めた。一方の手でわたしの手を握ったまま、その半身を欄干に凭れさせる。黒髪がぱらりと円を描いたままに空へおちる。彼女の身体の行き先を示すみたいだ。ゆいさんの身体は橋の下へとおちていって、水底へ、水はゆいさんの呼吸をとめて、死に至らしめて、そして、そして。ゆいさんの身体は水を吸って、融けて、おぞましいひとつの水死体になるのだろう。わたしはそれをけっして目にすることはない。これは安堵だった。美しいゆいさんしか記憶に残らないわたしは、ひどく幸せで、満たされていると思った。  ゆいさんはわたしの瞳を覗き込んで、あかい唇をひらく。 「ねえ、どうする?」 わたしはゆいさんの隣へと歩み寄って、死のうと言った。ゆいさんはこれまで、わたしが彼女の姿を目にした数時間のなかで、いやきっと彼女の生きてきた十七年間とわたしの与り知らぬ秒数たちのなかで、一番美しい微笑をみせた。風を受けてあかく燃えるろうそくの炎のようだった。女は死に際が一番美しい。ゆいさんの唇の赤は、血で、炎で、破滅のすべての色だった。キスをすると、わたしの唇にも、彼女のもつ、彼女そのものである破滅がうつった。  ふたりで欄干の上にすわる。風はわたしたちの髪を揺らす。ゆいさんの匂いをわたしのもとに届ける。わたし、幸せですよ。わたしはゆいさんの手を握る力を強くして、そう言った。頬に口づける。くだらない人生が終わることよりも、ゆいさんと今共にいられて、共に死ねることがさいわいであった。 「あたしも。」 キスをした。唇までゆいさんは甘い。美しいひとだ。唇を離してから、どちらからともなくふらり立ち上がった。  わたしは目を瞑る。ゆいさんのほそい指が、わたしの指に絡みつく感触だけが確かだった。
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seisauid · 5 years ago
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孕む
 千里は人の腹を撫ぜるのが好きな少女だった。あたたかくって、やわくって、いかにも命という感じがするでしょう? というのが彼女の言である。彼女はなかに赤子がはいっているかのようにいとおしげに、わたしのがらんどうの腹をさするのであった。それは千里がいないときにも自然と自らの腹をさするくせがつくくらいに、慣れたおこないとなっていた。千里はわたしの腹のなかに存在しえぬものでなく、たんにわたしひとりを慈しんでいるのだろうけれども、わたしは彼女の笑顔の奥底にうすら寒いものを感じないでもなかった。彼女はわたしの腹を撫ぜながら、その目を弓なりに細めて微笑した。いまだ齢十四にして、細められた、その濃い睫毛のあいだから覗く瞳は、いかにも老練そうな光を湛えているようにも思われた。  千里とわたしがただならぬ関係になったのは、中学一年のころであって、当時わたしたちはまだ十三歳であった。  千里はいまとかわらずに、その豊かな栗毛を頭の後頭部でひとつに結わえていた。そのころとくらべて、上背はじゃっかん伸びたらしい。わたしたちはいまだ成長期の只中にある。そのほかにはさしたる変化はない。まるく秀でた額も、下がり気味に生え揃った眉も、色素の薄いたれ目も、すっきりと通った鼻梁も、やや肉厚だが小ぶりな唇も。おとなに近づくなかで、わずかずつの変化はあるはずだけれど、ほとんど出会った当初の千里のまま、愛らしい少女のままである。  千里とわたしの接点といったらクラスメートであることくらいで、そのほかになにか部活だとか委員会だとか、はたまた家が近所だとか、そういったかかわりがあったわけではない。千里は放課後の教室にわたしを呼び出すと、「好きです。付き合ってください。ひとめぼれなんです。」ともじもじとその両の手を握り合わせていた。たぶんそれまでにわたしたちが言葉を交わしたのは片手で数えられるくらいのことで、しかも内容もごく事務的なものであったはずだ。一目惚れというならば見目なのであろうけれど、千里のほうがわたしよりも余程整った顔だちをしていると思う。彼女がわたしのどこを好んだのか理解ができなかったけれども、好きというのならば好きなのだろう。わたしはやや当惑しつつ、友達からならば、そう言った。  それからわたしが千里に絆されるのは早かった。千里の表情はくるくると変わって、彼女の思うところを如実にわたしに伝えた。千里の声はよく耳に馴染んだし、彼女のする話も快いものだった。彼女をいちど好ましいと思ってしまえば付き合おうと思うまでにそう時間はかからなかった。なにせいまだ恋の一つも知らない中学一年生であった。千里のことはたしかに好ましいとは思っていたけれど、それが友人にむける好意の範疇を出ていたかと問われると答えに苦しむだろう。それはなかば興味本位ですらあった。 「ねえ、千里。こないだのね、返事、いまさらなんだけど。」 わたしがそう切り出すと、途端千里は目を逸らして、どぎまぎとした表情をつくった。彼女の抱く期待と不安がありありと感ぜられた。その鼈甲いろをした瞳はちらちらとひかってわたしのほうを窺う。そんなことをする気はないけれど、千里はからかい甲斐のある少女だと思った。 「付き合ってみよっか。」 千里は肩を跳ねさせて、わたしの瞳を覗き込んだ。こくこくと激しく首肯すると、わたしをぎゅうと強く抱きしめる。夢みたい、夢みたい。彼女はわたしの身体に縋りついて、呟くようにそう言った。陶然とした、なにか酔ったような口調だった。千里はその白い顔を真っ赤にして、 「ねえ、好き。好きだよ。大好き、愛してる!」 と、わたしの耳元でちいさく叫んだ。  それからわたしと千里のしたことというのは、抱擁と唇をあわせるだけのキス、手を繋ぐこと、デート、添い寝、それに腹を撫ぜることくらいであった。わたしたちはお互いが初めての恋人であって、性知識も保健体育で習ったそれていどしか持ち合わせていなかった。しかも女性同士である。なにをしたらよいのかわからないのも当然であるし、なにかすべきだ、あるいはしたいという欲求もすくなくともわたしは持ち合わせていなかった。千里は基本的にはごく正直でわかりやすい娘であったから、彼女がその手の欲をもっていたらわたしはきっと気づいただろう。わたしたちの恋は肉欲をともなわない、ごく幼いものだったはずである。  わたしが肉体を意識したのは、千里がわたしの腹を撫ぜるときくらいのものであった。  千里のてのひらはちいさくて、すべすべとして暖かかった。その手がわたしの腹のうえを這いまわるのだ。千里のてのひらはわたしの腹を、臓物の容れものとしてのみある腹を、いずれ子の容れものとなりうる腹を、やわらかな手つきでさするのだ。容易に壊れうるなにかに触れているみたいに、臆病ささえふくんだやさしい手だ。わたしの腹を見つめるまなざしもどこか不安げでさえあった。千里はなぜそんなにも幸せそうに、同時に怯えてわたしの腹をさわるのだろうと、わたしはずっと考えていた。なにか恐ろしいのならばやめてしまえばいい。しかしながら千里の表情があまりにそれだけで満たされているように思われたので、それにかんしてわたしはなにひとつとして問うことはできないでいた。そのときだけ、千里は愛らしい少女ではなくて、なにか恐ろしいものとしてのみわたしの前に立ち現れていた。わたしはじっと黙り込んで、ただその瞳が不思議に神妙にひかるのを、目を伏せながら時たま窺うばかりであった。  わたしたちが子を成すような行為に及んだことはむろんのことなかった。そもわたしたちは女性どうしであったから、生殖を目的とした接触はできようもないわけではあるけれど。だけれども、わたしの腹が、千里と交際を始めた日から徐々に徐々に、ふくらみ始めたことは事実である。白い、筋肉も脂肪もあまりつかない、未成熟な薄っぺらな腹は、おなじくほそい身体のなかでそこだけ不自然にぼこりと盛り上がった。それは千里がわたしの腹を撫ぜるごとに、その大きさを徐々に増していくように思われた。それは太ったにしては不自然なふくらみかたであった。人に勧められて医者にかかってみても、何事もないようだと言われるのみだった。わたしは健康そのものであるらしかった。得心いかないながらも何も言えないままに部屋に帰り、わたしはみずからの腹をさすってみた。 「元気でしょう? 大丈夫、なにも気にすることないよ。」 千里もわたしの隣へすわって、わたしの腹を撫ぜる。気づかわしげに、わたしをやさしく抱き締める。千里の腕のなかにおさまりながら、そのふくらみは、質量は、依然としてそこにあるのだった。  しかしながら、人びとのわたしに向ける視線が心配から不審に変わる以前に、そのふくらみは消えたのだった。  ある朝のことだった。  わたしのふくらんで、セーラー服の裾を持ち上げていた腹は急にしぼみきり、もとの平坦さを取り戻した。そしてわたしの脚のあいだ、シーツはずぶぬれになっていた。その中央でひとつ、てらてらと濡れ光る肌色をした肉塊がひくひくと、おぞましく鼓動のみをしている。こんなものでも生きているらしかった。わたしはそう感じると恐ろしく、どうすることもできないでただそれを眺めていた。隣で千里が目を覚ますと、きれいな笑みを浮かべてそれを撫ぜた。その手つきはひどくいとおしげで、ゆうべにもわたしの腹を撫ぜたそれとまったくおなじものなのであった。  千里はその肉塊を抱き上げた。あたまと胴の区別すらつかない、ただ人間の皮膚のようなものに覆われたそれに頬ずりをする。肉だ。肉という以外の形容をわたしは知らない。わたしがこれまでに目にしたどのいきものにも当てはまらない形状をしている。千里がそれに触れるたびに、彼女の白い頬に、首筋に、わたしの血液か羊水か、粘度のたかい濁った液体がべっとりと付着する。千里はそれを気にも留めないで、ごく穏やかで、幸せそうな微笑をこちらに向けた。花が綻ぶどころか、盛りをすぎてなかば腐臭のようなあまったるい匂いを放つ、指先でごくやさしく触れただけで花弁から蕊からすべてほろほろとくずれる花のような、蕩けるような微笑であった。 「ありがとう。あたしたちの子だよ。」  千里の笑顔とおなじく、むせかえるほどに甘い芳香で満ちた温室のような声色でもって放たれた言葉と重なって聞こえたそれは、きっと赤子の泣き声だった。
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seisauid · 5 years ago
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白砂
 バスタブは白色をして、蛍光灯の光をぴかぴかと眩しく反射する。浴室はぜんたいが白いものだから、掃除の行き届かなさがよく目だつ。床に生えた黴のうす赤さをスポンジで拭いながら、わたしは溜息を吐く。これでも彼女がここに住まい始めてからはきれいになったほうだ。彼女はきっときれい好きで、生活感だなんて言葉はそぐわない。彼女に似あうのはドールハウス。彼女が生きるためでなくて見られるための存在であるのと同様に、彼女の住まう部屋は生活するためでなくて彼女の背景として見られるためにあるべきだ。ねえ、そうだよね。わたしはスポンジを置いて、バスタブに肘をついて彼女に話しかける。ばらいろをした唇は、ほうと吐息でも漏れそうなぐあいにうすくひらかれたまま、意味ありげな沈黙を続けている。  帰宅は十七時過ぎだった。すでに空はうす赤い色をして、風はひんやりと涼しい。寒いくらいだ。もの寂しげな秋の夕暮れであった。わたしは玄関の扉を開けて、靴を脱ぐ。扉に鍵。ドアチェーンはかけない。わたしはきっと、何かが起こるのをずっと待っている。何かというのはほんとうに何だってよくって、それが犯罪被害であっても構わない。それだけのために、わたしはあえて無防備に過ごす。夕食はあと。とりあえずシャワーを浴びようと浴室の扉をひらく。ああタオルをわすれている。着替えはあとでもよいけれど。そんなぼんやりとした思考は、なかに視線をやった瞬間に吹き飛んだ。  浴槽のなかに女がいる。  癖のある栗毛を胸元まで伸ばした女だ。浴槽のなかで、座るような姿勢をとっている。両腕は身体に沿っておろされて、両脚はゆるやかに曲げられている。顔はややうつむきがちだ。目蓋は閉ざされて、濃い睫毛とふくらかな涙堂が静かにまるい頬に影をつくっている。うすく開かれた唇はやや薄めで、皺がなく艶艶と清潔である。やわらかなばらのいろをとる。肌は蒼白で、蛍光灯の安っぽい光の似あわない高価な絹のようだ。身体つきは全体的にやや細身ではあるが、女性らしく均整がとれている。骨や筋の浮く箇所も、貧相さはいっさい感じさせない。きっと骨のかたちまで整っているのだ。浮き出した首の筋や、鎖骨、肘関節、尺骨、骨盤、膝蓋骨、すべてつぶさに見てとれるの��、彼女が一糸まとわぬ裸体であったからだ。 「何ですか。」 わたしはしばし彼女に見惚れて、そして、ようやく声をかける。もしかしてねむっているのだろうか。他人の家の浴室で、全裸で、家主が帰ってきても動じない。動じないどころでなく、かすかな身じろぎひとつしない。意識のある人間であれば、そんな行動をとられるはずがなかった。彼女がよほどの変人である可能性も否定はできないけれども。 「あの……。ここ、わたしの部屋だと思うんですけど。」 彼女は静かであった。幾度呼びかけようと、そのながい睫毛のわずかにふるえることすらない。うすい腹も、もの言いたげな唇も、いっさい動かない。静かすぎる、とわたしはややに思い至る。彼女は生きている? わたしは死人をハッキリと見たことがないから、彼女の肌のいろの青さが、死人のそれであるか生来のものであるか、あるいは熱心な化粧の産物であるかの判別がつかなかった。けれども、それはたしかに白すぎるような気がする。あのやわらかそうな肌の下に、たしかに血は通っているのだろうか。すみません、と小さな声で断って、わたしは彼女の頬に手を触れる。わたしのもった予感どおりに、ひんやりとつめたい肌であった。  彼女は身動きひとつしないで、わたしのてのひらを甘受している。わたしは彼女の首筋に手をやって、脈をさぐる。ない。顔の前に手をやる。呼気はない。すべて当然のことであった。彼女は生きていないらしかった。  わたしはしばらく茫然と立ち尽くしてから、通報、とスマートフォンを取りにもどる。帰ったら浴室に裸の女性がいて、おそらく死んでいて、それで、ええと。荒唐無稽な話である。わたしがなんらかの聴取を受けるのは、疑いをかけられるのは、間違いのないことであろう。だるい。真っ先にそう思った。この女とわたしとのあいだのことにかんして、そのような野暮なことがおこってたまるか。それに、自分から何かを起こすのはわたしのするところのことではない。わたしはあくまでじいっと黙り込んで、何かが起こるのを待っているだけ。電話をかけるなんて行動はとりたくなかった。そうだ。確かに何かは起こって、わたしはそれにたいして、ずうっと受動的に流されて、そのなかでしたいと思ったわずかなことだけして生きていけばよい。そうするべきである。  美しい女である。美しい女は好きだ。女好きということはないけれども、確かにわたしは面食いのきらいがあって、美人に見惚れて恋人に怒られたこともしばしばあった。美しい女というものに人格を期待しているわけではないから、意識の有無なんてどうだってよく、ただそれを自分が所有できるというのは喜ばしいことでもあった。いずれその肉体が腐り落ちることだけが気がかりだったけれど、通報でもされて捕まるのならばそうなってしまうとよい。そうなるものだったのだと思うだけのことである。もとよりシャワーばかりで浴槽なんてたいして使わないのだし、それが埋まっていても問題はない。おそらく死体を濡らすのはあまりよくないから、彼女を覆うことのできるものくらいは買ってこないといけないだろうけれど。  その日のうちにわたしはホームセンターに足を延ばして、透明のビニールシートを買った。ふだん重い腰が驚くほど軽かった。彼女に湯を浴びせないよう注意してシートに覆われた彼女は、繭のなかの蛹のようだった。彼女は羽化して何になる? きっと腐りゆくだけだ。彼女の腕は繭をやぶるほどの力をもたない。だから? だから。秋口の涼しさのなか、彼女の身体にはいまだ何の変化もおこっていない。彼女が呼吸をするのを止めてからどのくらい経つのだろう。できるだけ長いこと保つとよいけれど。わたしはそんなことを考えながら、換気扇のスイッチをいれた。  ドアチェーンはかけてある。彼女のいるあいだ、しばらくは、ほかになにも起こる必要はない。  それが、もう二月ほどまえのことである。  彼女は、いまだわたしの部屋に現れた当初といっさい変わりがない。いくら気温が低いとはいえ、彼女の身体は腐敗の兆しをいっさい見せず、だからといって生きているようすはなく、変わらず清潔でまっさらな、かすかに石鹸の匂いのみのする肌をしている。わたしはそれを訝しみながら、同時にうれしく感じてもいた。これが腐り落ちるのは大きな損失である。ただ、わたしが彼女に飽いたさいの諸々の始末を考えるとひどく憂鬱だった。幼い頃に買い与えられた人形のように、ぬいぐるみのように、簡単に打ち捨てるわけにはいかないからだ。いまだわたしは彼女を好きだけれど、すべてはいずれ終わることだ。彼女が腐ってしまえば、わたしと彼女の生活はわたしが彼女を好ましく思ったまま終わっただろうに、わたしの彼女への情が冷めてからしか終わりえない。それが悲しいことに思われた。彼女をずっと好きなままでいたかった。  美人は三日で飽きるとはいうけれど、わたしは彼女を見つめることにいまだ飽かないでいる。彼女の顔だちは、身体つきは、見つめるごとに同じに安らかな表情でもってわたしを迎え、しかしわたしに異なった印象を与え続けるのだった。鏡面が静かであるように、彼女もまた静かであって、わたしの室の、わたしの、光も陰も、すべての混濁をも映し出すのである。ともすればわたしは永遠に彼女を好いて、ふたりきりで生きていけるのではないだろうか。そんな予感さえするほどに、わたしは彼女に入れ込んでいる。しかしながら、すべては一時のことである。わたしはみずからの唇を彼女のそれを近づける。口紅だろうか、青褪めた顔のなかでひとつふしぎに血のいろを残した唇の、やわらかさとつめたさを夢想する。 わたしが彼女から離れた途端にインターホンが鳴った。わたしは渋々浴室の扉を閉め、はあいと返事をする。鍵をあけ、扉をあけると、ドアチェーン越しに友人が立っている。玄関口に流れ込むのは冷気、それと彼女の熱い呼気である。酒の匂いがする。わたしはため息をついた。 「どうしたの。」 「いれてよう、さむいんだって。」 わたしがドアチェーンをはずすや否や、彼女はブーツを脱ぎ捨てて強引に部屋へとはいりこむ。健康そうにまるい顔は赤らんで、口調は普段よりいっそう間延びした調子である。すっかり出来上がっているようすだった。 「泊めてよ、いいでしょう。」 彼女はそう言いながら、コートを脱いで炬燵に潜り込む。図々しい女だ。なんでもない顔で他人に踏み込んでくる。寒かったあ、などと漏らす。こうなった彼女はなにを言おうと帰ろうとしないだろう。 「ベッドはわたしがつかうからね。」 「えー。」 彼女はもぞもぞと炬燵布団にその肩を埋めた。健康的な肉のつきかたをしているけれども、華奢な骨格を感じさせるせまい、頼りなげな肩であった。襟ぐりから覗くデコルテはうす赤いいろをしている。まさしくこの白い皮膚の下には赤い血が通っているのだろう、あたたかないろだ。  彼女はしばらくそうしてじっとしていたけれど、にわかに立ち上がった。 「あ、化粧落とさなきゃ。シャワー借りるね、」 そう言うが早いか、止める間もなく彼女はがらりと浴室の扉をあける。折れ戸の開きぐあいにあわせて、浴槽が見える。膝頭と、そこから続く脛と腿が覗く。心ぼそく思われるほどに白い。栗いろをしたまるい頭が覗く。彼女の身体は、うす暗がりのなかでじいっと、その奥に光を溜めているみたいにほの明るい。  彼女は途端静止した。乱れた髪がおくれて背におちる。厚手のニットの下、身体のラインはその殆どが隠されているけれど、あれはきっと肩甲骨のあたりだ。薄い皮膚を隆起させるもの。翼ではない。 「カンナ……?」 静かな声であった。酔いを窺わせない、つねの彼女よりもずっとひそやかな声色をしていた。彼女の肩口のわずか震えるのを、わたしはたしかに見た。彼女の後姿は、少女そのものだった。  沈黙であった。寒々しいくらいの静けさだった。彼女はわたしを振り返って、 「なんでカンナがここにいるの。」 と訊いた。早口に発されたそれは、小さいがキッパリとした声だった。わたしを糾弾するような響きをしている。予想外の反応にわたしは狼狽して、カンナ? と訊き返すのがやっとのことであった。 「なんでカンナがあんたのとこにいるの。」 「カンナって名前なの?」 「……名前も知らないの。」 彼女は呆れた調子でそう言った。その口ぶりは幾分か冷たげだ。先程までの機嫌のよさはすっかり立ち消えて、ただその肌が赤さを残すのみである。 「秋ごろ、部屋に帰ったら、いたの。」 「は?」 「……ほんとうだよ。帰って、シャワー浴びようと思って、浴室あけたら、いた。」 彼女は訝しげにわたしを睨みつけた。ていねいにカールされた睫毛に囲われた瞳は据わって、冷たげに光を反射する。わたしの姿が映り込む。カラーコンタクトを着けているのだろう、瞳のうえに貼りつくようにして動かない模様が不気味だった。 「警察とかに、連絡したの。」 わたしはかぶりを振る。 「ううん。誰にも言ってない。」 「なんで? ヤバいでしょ、これ、絶対。」 「ヤバいと思うけど。」 けどじゃあないんだよ、と彼女はわたしを咎めるような目つきをした。意図して表情をつくらずとも朗らかなふうに映る彼女の顔は、いかにも不機嫌そうにゆがめられている。このカンナという女は彼女にとってなにか重大な存在なのだろうか。わたしはおそるおそる口を開く。 「……カンナ、さん、って、誰。」 「あたしの元カノ。」 彼女の視線は浴槽のなか、カンナに向けられていた。淡いいろに塗られ、整えられたまるい爪がゆっくりと、カンナのすべらかな肌に触れる。細い指は顎をたどって、頬をなぞる。 「今でも好きなの?」 口をついて出た問いにわたしは後悔した。わたしが撤回しようと口をひらくまえに、どう思う? と彼女は自嘲ぎみに笑った。卑屈そうな横顔だった。好きでもない女に、こんなに傷ついたような顔をして、こんなにやさしい触れかたをする女がいるものかと思った。ともすれば泣きそうなくらいの声をして、彼女はまだ酔いが醒めていないのだと言った。彼女の言動の不安定さを見るに、それも間違いではないように思われた。  グラス一杯の水を出すと、彼女は黙ってそれを飲んだ。血色のよい喉がうごくのを見た。彼女は流しで顔を洗ってから、炬燵布団に潜り込んで目を瞑ってしまった。洗われた頬はさらに赤さを増したようで、目を閉ざした幼い顔は、熱で寝込む子供のような印象を与えた。  翌朝早くに目が覚めた。わずかひらかれたカーテンの隙間から見えたのは、冬らしい、明るい白さをした曇りの朝だった。目を覚ましたのか、彼女も炬燵から這い���した。 「おはよう。ごめん、起こした?」 「あなたが殺したんじゃないんだよね。カンナがここにいるのは、カンナの意思じゃないんだよね。」 彼女はわたしの言葉を無視して、寝起きとは思えぬ明瞭な口調でそう言った。そのまなざしがあまりに真剣で、今朝の空気みたいに冷たく澄んで、わたしは恐ろしい気持ちがした。そのまっさらな素肌のうえ、目尻だけがアイラインの残滓か、濁って黒い。  わたしが首肯すると、彼女は安心したような顔をした。 「また、会いに来るから。」 そう言って、彼女はマスクをつけてコートを着こむ。金にちかい、あかるい茶髪が彼女の背でかわらず乱れていた。ひらかれた玄関の扉から、あいまいな色調をした外の景色がみえる。彼女は億劫そうにブーツに足を収めると、足を踏み出す。彼女の足音は、なにかを拒絶するみたいにきびしい響きかたをした。 「じゃあ。」 彼女が行ってしまったあと、わたしはしばらく呆けていた。ようやく扉を閉め、鍵を閉める。この部屋は、わたしと彼女、否カンナ、二人だけのものではなくなってしまったらしかった。ため息を吐く。破壊であった。もう、なにが起ころうとよいような気がした。  それから彼女は事あるごとにわたしの部屋を訪れた。帰路を共にする機会が増えた。帰路では明朗な常の彼女であり、しかし部屋に着いた途端に毎度しいんと黙り込んだ。浴室に踏み入る彼女の背は、つねにこちらへの完全な無関心を示しているように思われた。この人はカンナが好きなのだと実感した。彼女のことを殊更美しいと感じたことはなかったけれど、カンナと対峙する彼女の真摯な、彼女の外の世界に何ひとつ期待をしていないような、ごく凪いだ横顔はひどく美しかった。美しいカンナがそうさせるのかもしれなかった。  彼女は浴室ではきまってカンナと二人きりになりたがるから、カンナにかんして、否ほかのことにかんしても、話を聞けるのは浴室を出てからであった。その日はわたしの部屋で二人夕食をとって、酒を飲んだ。 「どんなひとだったの。」 「……魔性、かな。」 彼女は空になった皿を見つめてそう言う。彼女の瞳には皿の白さが映りこんでいる。 「見ればわかるでしょ。とびっきりの美人。自由で、奔放で、ひとところに留め置けない。人をたらしこむのが巧い。無自覚。ずるい女。あの子といるとみんな傷つく。そのくせ、傷つきやすくて、脆くって、そんで……、」 彼女は両のてのひらでその顔を覆った。その手はちいさくて、ややまるいつくりをしている。同じく小作りな爪はそろってくすんだピンクいろに塗られている。つややかに、蛍光灯の光を反射する。彼女の声は高く震えていた。涙声だと思った。 「カンナが死んじゃってよかった。」  それから彼女は、わたしから顔を逸らすように席を立ち、ふたりぶんの皿を下げた。キッチンからする水音を、わたしは何か不安な、痛ましい気持ちで聞いていた。  彼女はそれから居室には帰って来ず、浴室に篭っているらしかった。わたしがそちらへ向かうと、彼女はカンナの頤をつかんで、その唇に口づけるところだった。わたしは息を呑んで引き返そうとする。途端、カンナは泥になって、排水溝に吸い込まれていく。彼女はするすると、水みたいに流れる、肌理のこまかな白泥であった。彼女はカンナの前で、項垂れて座り込んでいる。そのていねいに巻かれた髪の隙間から嗚咽が漏れ聞こえた。彼女がてのひらで浴槽の底を流れゆく白泥を掬おうとしては、その指の隙間からすべて溢れていった。程なくしてカンナであった白泥は完全に流れ去り、浴槽にのこるのは人ひとりぶんにしては覚束ない量の骨片のみであった。それは真白いいろをして、ライチの果肉のように透き通ってみずみずしく光る。  わたしが近づいて、骨片を指先で拾い上げると、それはてのひらのうえでほろほろとくずれて砂になった。海岸に敷き詰められているような白砂であった。わたしはそれをすべて小瓶に詰め込んだ。小瓶ふたつを満たすと、浴槽のなかはすっかり空になっていた。わたしが彼女に小瓶のひとつを渡すと、彼女は栓を抜いて一息に飲み干した。咳き込む顔は真っ青で、頬は濡れ光り、涙の跡が幾筋も窺えた。わたしはその背中に触れられもしないで、ひどく悲しい、同時にひどく満たされた気持ちで眺めていた。安らかだった。わたしがカンナを壊してしまうことも、彼女に飽くことももうないのだと思った。思ったとおりに、骨になっても彼女は美しかった。小瓶は蛍光灯の光を眩しく反射して、きらきらとひかる。白砂は光を吸い込んで、穏やかな明るさのなかにいる。
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seisauid · 5 years ago
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ミルクティ
「別れようと思うの。」 それは彼女の決まり文句だった。  頬杖をつく彼女のまるい、砂糖菓子みたいな質感をした頬を、立ち上がる湯気がさらにやさしくぼかす。マグカップを満たすミルクティは、彼女の髪と同じいろだ。あたたかな空間のなかで、しかし彼女の声はひとつ冷えていた。 「でもさ、そのひとのこと、好きなんでしょう。」 彼女を慰めようとするわたしの声色はなんとなく惨めで情けない。彼女のことは好きだけれど、ずっと好きだけれど、彼女とかかわることはわたしにとって自傷的で、ばかげたおこないだと思った。 「好きだよ。たぶん、好き。」 「たぶん?」 「好きとかね、嫌いとか、ほんとうのところはぜんぜんわかんないから。」 睫毛のしたで、彼女の瞳はおそらく炬燵の天板をみつめている。わたしのことなんか目にいれないで。わたしのことを見てほしいだなんて考えるのは、わたしがどうにも愚かだからだ。彼女は結局、なにひとつわたしのものにならないのだから、一時の視線くらいくれてもよいじゃあないか。 「でも、おそらく、好きではあるんでしょう。」 「だけどね、つらいんだもん。」 彼女はそう言ったきり黙り込む。 「……わたしなら、そんなこと考えさせないのに。」 それは溜息みたいに漏れた。常から思っていたことだった。我ながらフィクションめいた台詞に、わたしは目を逸らす。気恥ずかしさがさっと顔を熱くするのを感じた。彼女はゆっくりと瞬きをして、わたしのほうに視線をむける。見定めるみたいな、なかばわたしのことを蔑んでいるみたいな目つきだ。瞳は卑屈げにひかる。きっと彼女はじぶんのことを好む人間のことを、多かれ少なかれ蔑まずには生きていけないのだろう。むかしから、己を肯定することのへたなひとだった。 「そんなこと言う人ほんとにいるんだ。……あのね。全部むだなんだよ。あたしね、あたしが死ぬまできっと満足しないよ。もしかりにあなたが私の恋人になって、あたしがあなたを殺しても、あなたがそれを受けいれても、きっと、ずっと満たされないの。」 「じゃあ、わたしが殺してあげる。」 咄嗟に放ったわたしのことばに、彼女はきょとんと、その目をまるくした。にわかに彼女のまなざしは、無垢な童女めいた無防備な色を帯びる。ようやく彼女の瞳がわたしを正面にとらえた。その唇がうごかされると、白い、飴細工みたいな歯の隙間から、赤い舌が覗いた。タルトのうえのラズベリーみたいに艶艶としている。 「あたしを?」 わたしは首肯した。彼女はじいっと、その空洞みたいな黒い瞳でわたしを見つめている。 「できるの?」 挑戦的な目つきだ。彼女はわたしのことを信用なんかしていないのだろう。感情を吐き出す相手として、なにを言っても自分を嫌うことがなく、その内容をほかに漏らすことがなく、また嫌われても構わないと思っているから、選ばれているだけのことだ。彼女はわたしを友人とすら思ってくれていやしない。事実、彼女がわたしに連絡を寄越すのは、きまって彼女が愚痴をいいたいときだけだった。 「できるよ。」 わたしは彼女の瞳を覗き込む。彼女の瞳に映り込むわたしは、いかにも切実そうな表情を浮かべていた。彼女の言葉を待たないでわたしは続ける。 「わたしね、あなたが思うよりもずっと、あなたのことが好きだよ。あなたのためならば、なんだってできる。」 彼女は狼狽えたように、視線を逸らす。ねえ。わたしが身を乗り出すと、彼女はその身を退ける。その唇は言うべき言葉を探してなかばひらかれ、しかし何も言えないで、視線だけが明確にわたしを捉えなおしていた。 「見せてあげようか。」 わたしは彼女の首筋に手を触れる。彼女はわたしの手に触れる。怯えたような、よわよわしい手つきだ。そういえば、彼女の手に触れられることは初めてだった。こんな状況でもわたしはそれがうれしかった。こんなにもうれしいことならば、一度くらいむりやりにでも手を繋いでしまえばよかったと思った。身体は思うままに動いて、わたしの手は、彼女の指に自らのそれを絡める。かぼそい指先は冷えている。 「わたしのこと、信じてね。きっと、信じてよ。あなたはわたしのことを信じて死んだの。」 彼女の、きれいに整えられてつるりとした爪をなぞる。ピンクベージュ。甲虫みたいに冷ややかで硬い。 「それでね、わたしのこと、すこしだけでも、好きになってね。」 わたしは彼女の手を離して、首へと手を添え直す。手に力を籠める。細い首筋を掴むのは容易いことだ。彼女の白い、梔子の花弁みたいにやわらかい、しっとりと濡れたような肌は、見る間に紅潮していく。その頬から、顔ぜんたい、耳、首筋、肩口。内側から、赤い炎が燃えて、そのひかりに照らされるようだ。ね、やだ、ねえ、ほんとに、くるしい、たすけて。喘鳴の隙間に、言葉と、それになりそこないの声が漏れる。彼女は幼子のようにかぶりを振る。喉から鳴る音も、彼女の表情も、なべて苦痛に濁っていて、しかし彼女は可愛かった。髪が華奢な肩のうえで乱れる。わたしの片手でも自由ならば、直してあげられるのに。 「好きだよ。」 彼女はものも言わず、ただつよく首を振る。うん、あなたがわたしのことなんか好きじゃないことは、十分すぎるくらいに知っているよ。わたしはうなずく。見開かれたその目は涙にうるむ。マスカラが目許で黒く滲む。彼女はじぶんの化粧にはおそらくこだわりをもっているから、わたしが直すのは嫌がるだろう。そも彼女は、わたしに触れられることじたい疎ましがる節があった。しかしながら、化粧崩れのままに放置するよりはましだろう。そんなことを考えながら、腕に力をいれて、身を捩る彼女を押さえつける。体重をかける。彼女の生きているさまがかわいそう��、同時にひどく煽情的だった。昼下がりの情事。人を死に至らしめながら、想起するものは生そのものであった。早く死ななくてはならない。彼女の衰弱を手のうちに感じながら、その顔だちを眺めている。レースのカーテンに透過された太陽光が、彼女の苦悶をやわらかく照らしていた。テーブルの上で、ミルクティは静かに冷えていく。
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seisauid · 5 years ago
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梔子
 梔子の鉢植えを庭に植え替えた。春もなかばを迎えるころのことだった。  地面に敷き詰められた桜の花弁は、ちょうど見たばかりの彼女の遺灰みたいに、うすく濁ったピンクいろをしていた。ゆうべの雨のせいで花は散ってしまったらしく、木々は葉をのこすのみである。やわらかで薄い花弁は、雨水を吸いこんで地面の窪みに溜まる。踏みつけると、花々はぐちゃりと泥を踏むようなやわらかい感触とともに、靴を汚す。いずれ泥になる。わたしはなるべく水溜りを避けながら、春先の街並みを歩いた。頬を撫ぜる風は大分やわらいで、ほの甘い花の匂いを孕む。春はみだらだ。春霞が立ってあたりを白くぼやかせるのは、そこに隠すべきものがあるからに相違ないのだ。猫は恋。人間は? そういえば人間というものは発情期が常であって、春というよりもむしろ人間のほうがずっとみだらであった。わたしは呼吸をととのえながら、彼女の遺灰をふくんだ頬を静かに押さえる。肉のないからだは清潔だった。肉のあったころはどうであったにしろ。過ぎたものは、褪せたものは、どれも美しい。それをわたしの唾液がとろとろとふやかして、いきものらしくよごしていく。  玄関のドアノブは硬く冷えている。金属はいつだって拒絶的だ。室内にはいると、わずかに温い空気が滞留していた。彼女のつかっていた香水の匂いがわずかにのこっていた。うす甘い。わたしはベランダに置いたままの鉢植えを両手で抱え上げた。土というのは重いのほかずっしりと重たい。それを庭まで運び出して、くろぐろとしてやわらかな土のなかに指をさし入れると、表面にくらべてあたたかく、いきものみたいに湿っている。爪と肉の隙間に砂粒のはいる感触が気持ち悪い。わたしは注意深くその根を掘りだして、庭土に植え替える。この手のことは彼女の趣味であって、わたしが手を出すことはいっさいなかったからこれでよいのかなだなんて、ぼんやりとその葉に目をやっていた。梔子は常緑樹であって、つやつやとした葉は寒風のなかをじいっと耐え忍ぶ。彼女がこれを見たら怒るだろうか、素人目になんとかそれらしく見えるように移し終えると、わたしはその根元に屈みこんだ。口をひらく。どろりと、彼女の遺灰で白濁した唾液が地面に垂れ落ちていく。すべて吐き出し終えると、わたしは部屋にもどる。いつの間にやら指先の皮膚がわずか切れていて、土の黒と、指先の白に、一抹の赤が混じる。問題のないごく軽微な傷だのにひどく鮮やかだ。  初夏のことであった。庭はあまい香に満ちて、梔子の白い花弁は夜闇の黒さに浸されている。彼女の遺灰に育てられた梔子がようやく咲いたのだった。ひらいたばかりの花は、いまだ清楚な姿をして、しかし甘い香りでわたしを誘う。わたしはその一花に、引き寄せられるように接吻した。やわらかな、肌に吸いつくように濡れた花弁に唇が触れる。馥郁とした香に噎せかえりながら、わたしは自らの唇が笑みをかたちづくるのを感じた。ほう、と溜息を吐いた。  彼女の唾液の味であった。
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seisauid · 5 years ago
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 ん、とぶっきらぼうに差し出された彼女の拳から、わたしのてのひらに、ころんと転がりおちてきたのは、真っ白い彼女の乳歯だった。 「ここの歯。……みえる?」 わたしがなんで? と訊く前に、彼女はおおきく口をひらいて、その歯のかつてあったところを指し示した。白い人差し指が、唾液にひかる肉色の口内によく映える。行儀よくならんだ歯列のなかで、彼女のひとさしゆびの先にある空間だけがぽっかりと空いている。 「歯の抜けたあとの歯茎の、肉のかんじ、自分で触るとなんかきもち悪くない?」 彼女は口をとじてからそう言った。わたしは躊躇いながら、肯定とも否定ともつかない声を出す。たしかにそうだったかもしれない。もう覚えていないけれど。わたしの歯はおそらくすべてもう生え変わってしまったはずである。永久歯はすこしいびつに、わたしの口の中で生えそろっている。 「触ってみる?」 彼女はわたしのあいまいな返答が気に入らなかったのかそう続ける。言うが早いか、彼女はわたしの、彼女の歯を載せていないほうの指をつかんで、彼女の口内へと導く。やわらかな唇にわずか触れてから、わたしの指先のはいりこんだ彼女の口のなかはひどく熱く感ぜられた。つるりとして硬質な、しかしながら唾液をまとってあたたかな歯に触れる。唾液はわたしの指にまとわりつく。どぎまぎとする。なにか、いけないことをしているような気分だった。歯茎に触れる。肉だった。繋がっていたものを失った、浮ついた肉がわたしの指先を甘受する。その奥には新しい歯がたしかに収まっている。 「ね?」 彼女はわたしの指を離す。わたしは彼女の口にわずかのあいだのみ収まっていた、その指を立てたままぼうっと見つめていた。ぬらぬらと濡れ光って、西日を反射する。ただの、水より粘度がたかいていどのただの液体であるのに、妙に妖しい光にみえた。わたしはどきどきと胸を鳴らしながら、首肯した。 「……だけど、でも、ええと。なんで?」 わたしはようやく、言い淀みながら最初に浮かんだ疑問を彼女にぶつけた。 「なにが?」 「歯。」 彼女は不思議そうな顔をした。瞳の表面で、わたしの姿がそのまるさにあわせてゆがんでいた。一見黒い瞳は、よくみるとごく暗い焦げ茶いろをしている。ダークチョコレート。わたしにはまだ苦い。 「ん。それ、あげる。」 彼女はなんでもないことみたいにそう言う。さも当然のことであるみたいに。 「だから、なんで、」 「要らないなら、捨てていーよ。」 じゃあ。彼女はそう言ったきり踵を返して、下駄箱のほうへいかにも身軽そうな足取りで歩いていく。真っ赤なランドセルは終わりつつある昼の光のなかであかくあかく、わたしの瞳を刺すようだった。わたしは彼女の乳歯を隠すみたいに握りしめて、いまだ濡れたままの人差し指をみつめている。てのひらのなかで、歯の根のするどさを感じながら、彼女に噛みつかれているみたいに錯覚した。  というのが、彼女と、その歯にかんしてわたしのもっている記憶である。  彼女はわたしとおなじ中学校に入学して、しかしながら当時よりもずっと疎遠になってしまった。彼女は利発的で、かわいらしい顔立ちをしていた一方で、わたしは冴えなくて目だたない一生徒であったからだ。おそらく住まう世界というものが違ったのだ。生徒数が増えれば、一緒にすごす人間の選択肢も増えるわけで、わたしみたいなくだらない人間とつるむ必要もなくなったのだろうと思う。わたしにだってわたしと似た気質の友人がいたし、特段気にすることもなかった。だけれど、彼女の歯だけは、いっとうきれいなハンカチにくるまれて、わたしの机の抽斗の奥底でたしかに眠っている。たまに取り出して眺めてみると、心許ないほどの小ささをしている。彼女とのかかわりはそれきりで、しかしながら、たしかにわたしのなかで質量をもったものであった。彼女とこれほどに関わることはもうないのだと思っていた。 発端は、人物画のコンクールに出品しないかという、美術教師の言であった。  わたしは美術部に所属してい��。部の規模は小さくて、部員も不まじめなものだから、ろくな活動がされていなくて、放課後の美術室というのはもっぱら部員らの溜まり場となっていて、絵を描く姿がみられることなんてまれなくらいであった。そのなかで、わたしはすこしばかり絵が上手かった。中学生にしてはという枕詞がはずれることはけっしてないていどの、ごくささやかなものである。そうして、すこしだけ気が小さくて、まじめなほうだった。それだから、生徒による絵が必要とされるたびに教師らに声をかけられた。面倒に思う反面、体よく押し付けられているだけだというのに、わたしの絵が認められているみたいな優越感に浸ってもいた。そのなかのひとつで、今回は人物画のコンクールに出す絵が必要なのだという話だった。サイズは六つ切りで画材は不問、かならず人物がメインに描かれていること。条件はそれだけだった。頼める? 美術教師は、彼女より背の低いわたしの顔を覗き込むようにしてそう問うた。ぶあつい眼鏡ごしに輪郭がゆがんでいる。 「はい。」 わたしは首肯する。わたしの描きたい人。わかりきったことだった。学校でかわいらしいと評判で、わたしの世界ではいっとううつくしい。人物といわれた時点で、わたしの頭にはもう彼女のことしかなかったのだった。彼女に断られたらなんてことは考えてすらいなかった。  帰りしなに彼女の家へと赴いた。久方ぶりのことだった。インターホンを押すと、やや間をおいて気だるそうに彼女が出てきた。まだ帰ったばかりらしく制服姿で、つねは耳の下でふたつに結わえた栗毛が、すこし結び癖をつけたまま肩口に広がっている。おろされた髪が肩の曲線に沿ってゆるやかに曲がり、そのまるみに西日が反射して金いろに光っている。わたしは嘆息してその光景を眺めていた。完成されていると感じた。 「なに?」 「あっ、ええと。あのね。わたし、人物画のコンクールの絵をたのまれて。でね、モデル、やってくれないかなって。」 無言のわたしを訝しがったのか、彼女のなかば苛立ったような問いかけにわたしは我に返った。つっかえながら要件を伝えると、彼女はん、とだけ頷いた。 「それだけのためにうち来たの?」 彼女の瞳も金いろに輝いていた。とおいとおい太陽の燃える炎をうけて、彼女の瞳まで燃えているみたいだった。太陽は実際のところ燃えているわけではないらしいけれど。彼女の瞳に映り込んですべてはゆがむ。彼女にくらべたらどれもこれもちっとも美しくなんかなくて、正しくなんかないから。彼女だけが唯一この地面にひとり直立していて、光を全身にうけて生きていく、正しいいきものだから。 「……そうだけど。」 だから、彼女といるのはけっして心地よくなんかなくって、むしろいつだって苦しかった。心臓は激しく拍動し、血が全身へとめぐる。つねならば冷えたゆびさきもあしさきも、すべてぽっぽとあつくなる。すべて彼女のため、彼女のための鼓動で、彼女のための生だ。 「ふうん。」 彼女はわたしを見定めるように見つめたまま、そう頷いた。唇がわずか動く。彼女の一端が、わたしのための、わたしのものになる。 「じゃあ、あしたの放課後に美術準備室で、いい?」 「うん。」 じゃあ、またね。わたしは顔を熱くしたままに踵を返す。夕陽のなかで誰にもわからない。夕陽はすべてを赤い上等な紗で覆って、それのすぎてしまったのちは夜闇がひっそりとあたりを浸す。すべては暗がりのなか。魑魅魍魎と、そして、彼女に魅せられた如何わしいわたしだけがとぼとぼと歩いている。  久方ぶりに彼女のことを考えながら床に就いた。夢のなかで、彼女の口のなかはただただびろうどのように艶めいた深紅に満ち満ちており、きらきらと一本一本の白くひかる歯は一本も存在しなかった。ふとわたしが自分のてのひらに視線を落とすとと、そこには真珠のごとき歯が実に二十八、きちんと収まっているのだった。彼女はそのひとつを可憐なゆびさきでつまみ上げると、懐から取り出した鑢で器用にまあるく磨き上げて、削られた粉をふうと唇をまるめて吹いた。彼女の手の内にのこるまるいそれはまさしく真珠であって、彼女はそれを自らの首筋にあてがって満足げに頷いた。  美術室が部員らの溜まり場になっているから、作業につかわれているのはもっぱら準備室のほうだった。美術準備室の鍵は必要なときだけ必要な生徒に貸し出される。いま、放課後の美術準備室はわたしと彼女のものだった。翳りはじめるやわらかな日差しのなかで、彼女とわたしは押し黙って相対している。挑戦的なまでに何の工夫もない、少女がこちらをまっすぐに見つめる構図。ただ、わたしの対面に座った彼女を描いているだけだ。窓辺を背にして、薄らと影を纏わせた顔は妖しくほの白い。わたしがどれだけ絵がうまくたって、彼女の一欠片も表現できやしないのだろうと思った。その諦念で心はひどく静かで、わたしは透き通って、ただ手だけが画用紙のうえを滑っているような心地だった。紙上でも現実にも、彼女はわたしを見つめている。ダークチョコレート。ほろ苦さに指を伸ばす。食む。表面はつるりと硬く、わたしの唇をわずかへこませる。舌に触れると、その熱さで、唾液で、とろりと蕩ける。  放課後は無言のまま美術準備室に集まって、無言、部活動の終了時間を示す校内放送が流れる頃にようやく一言二言言葉を交わして席を立つ。それがわたしたちの日課のようになっていた。彼女の絵はもう完成間近だった。これが終われば彼女と過ごす時間がなくなるという寂しさよりも、わたしはなかば取り憑かれたように、これを完成させるということばかりを考えていた。    わたしは抽斗をあけて、彼女の乳歯を取り出した。いまだ制服で、髪も結ったまま、夕暮れの薄あかりのなかだった。久方ぶりに触れた彼女の歯は変わらず乾いて小さく軽く、しかし鮮烈に在りし日の光景をわたしに思い出させた。わたしはそれを密閉袋にいれると、うえからその場にあった彫刻刀の柄で叩いた。経年の劣化もあろうけれど、幼子の歯というのは簡単に粉々になってしまった。ていねいにていねいに、こまかくこまかく潰し続けると、わたしは粉になったそれを豆皿にあけた。日本画に使われる岩絵具というものは、膠で溶くことではじめて絵具としての体をなす。わたしの描いているものは日本画ではない。お金がかかるからといって、小学生時分に買ってもらった水彩絵具と、美術部の備品にあったアクリル絵具ていどしかわたしは使ったことがない。これはなかば賭けみたいなものだった。だけれど、ふしぎにうまくいくという確信にわたしは満ちていたのである。豆皿に膠液をすこしずつ出してゆく。いちばん小さいサイズのものを買ったから、もとよりそう入っていない。ゆっくりとそれを混ぜ合わせてゆくと、彼女の歯は、白い絵具になったのだった。  わたしは持ち帰った絵を取り出す。あとすこし。足りないのは、ほんの少しの、彼女を照らすあわい光輝だけである。絵具を筆にとって、慎重におく。むろんただの水彩紙に、なじみがよいはずがなかった。しかしながら、色のつかないことはない。彼女の肌の白さ、瞳にたたえる光、髪の艶。ごくわずかな筆運びが、永遠みたいに長かった。それを終えると、わたしは宿題もやらずに昏昏とねむった。    明くる日の放課後に、わたしはいちばんに彼女に絵を見せた。彼女はそのながい睫毛を伏せて、しげしげと画紙をみつめた。ずいぶん長いこと、彼女は絵の前に佇んでいた。そうして、ようやく顔を上げると、その目を細めて、婉然と微笑んだ。睫毛の濃さと黒目の大きさがよく見えた。昼と夕暮れのあわいの薄あかりは、彼女の身体のうえでぼんやりと静かだった。
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seisauid · 5 years ago
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手紙
 初めてお便りします。一年間も一緒にいたのに、あなたに宛てて手紙を書くのは初めてのことです。こんなに畏まるのも、変な感じがします。もうすっかり寒くって、街路樹も骨ばかりのさびしい街並みです。でも枝ばかりの木々にも雪は白く積もるし、いずれ春が来て、また新芽が綻んで、街は緑に満ちるのです。春は花と草のにおい。そうして夏、なつかしい過去のまぼろしを、すべて陽炎のせいにします。頭を茹らすような蒸し暑さのせいにします。秋も冬も、春だって、正気でない言い訳を探せばいくらだって見つかります。全て世はこともなし、なにもかも問題なく、平穏、過ぎていくばかりです。わたしは取り残されるばかりだと思っているけれど、あなたにとってはわたしも、過ぎていくものでしたか。あなたはひとりきりですか。あなたがわたしのせいで孤独を感じていたら、少しうれしく思います。わたしはあなたのせいでさびしくて仕方がないのです。いや、これは話を盛りすぎたかな。あなたのせいもあって、がきっと正しいです。それはきっと、あなただけじゃなくて、わたしがこれまで好きになったひととものと、わたしの生来もつ気質と、すべてのせいですから。
 記名はしていないのだけど、わたしが誰かわかりますか。いや、わからなくていいんです。わかんないでしょう。うそです、ほんとはきっと、あなたならわかるんだろうなあと思っています。あなたのこれまでの恋人のなかで、こんなに字の汚い人間はわたしくらいだろうって、変な確信をしているのです。悪筆でしょう。ちゃんと読めているのでしょうか、これでもていねいに書いているつもりなのだけど。あなたにとって、この手紙を一字も読めなかったほうが、却っていいことかもしれません。こんなことをして、気持ち悪いと思うでしょう。こんな手紙、意味なんて、価値なんて、なにひとつないのだから、破り捨ててしまって構いません。未練がましい元恋人とか、最悪でしょう。ごめんね。もう好きな人はできましたか。恋人はいますか。やはりわたしはどうしてもあなたのことが気にかかってしまいます。わたしにはまた恋人ができました。わたしと同い年で、あなたとは似つかない、別種のかわいさをもったひとです。だけれどあなたとおなじに長い髪をしていて、彼女の髪を撫でるたびにあなたのことを思い出します。髪もあなたとおなじ色なんです。彼女のことはたしかに好きなはずだけれど、彼女をとおしていまだにあなたを鮮烈に思い出してしまいますし、わたしが彼女にむけているものが恋愛感情であるかはよくわかっていません。不誠実だと思いますか。これは弁解ですけれど(あなたの付き合っていたひとはほんとうに言い訳がましい人間ですね。ごめんなさい。)、彼女にはあなたのことも、ちゃあんとすべて言ってしまってあるのです。罪悪感に蝕まれて、ある夜にすべてを吐いてしまったのです。覚えていますか。三日月の夜です。あなたに告白をした、あの日みたいな、冴え冴えと白い、つめたい光をした三日月の夜でした。彼女の部屋のカーテンはラベンダーいろで、合わせのところがほの白く発光していたのを、あなたの部屋の窓辺とちがうのだと眺めていたのを、ハッキリと覚えています。
 わたしはあなたに恋をしていたのか��結局のところ別れるまでわかりませんでしたし、いや、別れたいまでもわかっているわけではないのです。わたしは永遠に、恋の何たるかを明確につかむことなんてできないのでしょう。ただ、今思うのがわたしは自覚していたよりずっと、あなたのことが好きだったのだということなのです。あなたのことはたしかに好きで、好きだからこそ別れを切り出したのですけれど。わかってくれますか。自分勝手なことを言っていることはわかっています。これはあなたには言ったことのないことですけれど、あなたなんか死んでしまったらいいとずうっと思っていました。あなたがわたしのことを好きなままで死んでしまったら、あなたはずっとわたしのものです。違いますか? わたしはそう思い込んでいて、いまもきっとそのままです。だから要するに、わたしがあなたと別れたのは、このままいるとあなたのことを殺してしまうと思ったからです。あなたは好きな人の首を絞めたくなったことがありますか? このひとが死んでしまえばと思ったことがありますか? ないのならば、わたしの言うことをあなたが理解できることはないでしょう。わたしたちはまったく別種の人間であったと、それだけの話です。理解しあえなくたって好きでいることはできるので、わたしのあなたへの好意にはなにひとつ変わりありません。断っておきますけれど、わたしは特段嗜虐趣味をもっているわけではありません。あなたが憎いわけでもありません。ああでも、これが憎悪でないということはできませんね。あなたが愛しくて、どうじにひどく憎いのです。でも、わたしはあなたの苦しむすがたを見ると、きっとじぶんまで苦しくなるのです。いや、どうかしら。あなたならば、かわいく思うこともあり得てしまうのかもしれません。ごめんなさい、わたしはわたしのことなんかなにひとつわからないのです。しかしながら、能動的に傷つけたいと思っているわけではけっしてないのです。
 つまるところこれは、あなたのことをいまだに好きである元恋人からの、弁解の手紙なわけです。いや、弁解というより、ただ書き出さないと気が狂うと思ったから書いたまでです。そんなものを送り付けられてあなたはさぞや迷惑していることでしょう。書いたまま死蔵しないで、あるいは破り捨てないで、あなたに送りなんかしたのは、あなたに許してもらいたかったためかもしれません。いいえ、違うな。許してもらわなくても構いません。許すことが忘れることであるならば、許してもらわないほうがよいとさえ、いまだに思っています。きっと、わたしの思っていたところをあなたに知ってもらいたかったのです。愛想を尽かされて別れたというほうがましでしたか。ごめんなさい。あなたには見せないように努力していたつもりなのですけど、わたしは自分勝手で臆病者で、そのくせそんな自分に酔っている、どうしようもない人間なのです。だけれど、たしかにわたしはあなたのことが好きでした。これは本当に。あなたとあなたの好きな人が、どうか幸せでありますように。それと、あなたがわたしのことをずっと忘れないで、すこしだけ、さびしく在り続けますように。
 それでは、どうかお元気で。
 私はそう綴られた便箋をもとの通りに畳みなおして、封筒へと仕舞いこんだ。元恋人への、おそらく最後の手紙であるわりに字は乱雑でととのわず、畳まれた便箋の端と端は合っていなかった。それを見て私が一番に思ったのは彼女らしいということであった。
「殺しに来てよ」
 私はそれだけルーズリーフに書き殴って、ライターで火を点けた。彼女のものだ。彼女が煙草を喫むときに使って、私の部屋に置いていったもの。廉価なライターはなくすたびに簡単に買い替えられて、部屋に溜まっていく一方だった。どうせ彼女は私を殺しには来ない。手紙にもあるとおり、彼女は臆病者なのだ。ひどい女だと思った。どうしようもないやつ。私はこのどうしようもない女を受け入れる女が、私以外にもいるという事実を憎んだ。女を籠絡することの得意な女だ。飄々とした立ち居振る舞いと華はないが整った顔だち、思いのほかに不器用なしぐさ。私のような、ある種の人間にとってはどうにも気にかかってしまう女だった。だから、すべて無意識のうちにまた私と同じにばかな女を誑かしたのだろう。ばか。もっと賢くなれ。こんな女を好きになるな。こんな女、どうせおまえを不幸にしかしないのだから。私は見も知らぬ女に毒づきながら、送りつけられた手紙をゆびさきで撫ぜた。かすかに柔軟剤の香りがした。私の使っているものとはちがう、きっとなにか花の香りだった。しかしそれもすぐに、有機物の燃える匂いにかき消された。
 彼女からの手紙は抽斗の奥ふかくに仕舞った。記憶の奥底に封じ込められないそれを、せめて物理的には仕舞いこめたようにするためにだ。手紙のなかで、彼女は散々自身を未練がましいと形容していたけれど、私も同様であった。きっと私のほうがむしろ粘着質である。彼女は私のことなんかすぐに忘れて、いまの恋人のこともすぐに忘れて、そうして結局のところひとりで生きていくのだろう。憎いと思った。
 彼女が私を殺してしまったならば、彼女の記憶のなかで、あるいは経歴のなかで、一生消えることのない傷になっただろう。私は彼女を、実際はどうあれ、女を捨てることにたいした感慨も抱かない人間であると評していたけれども、さすがに一人の人間を殺すともなると、相応の罪悪感情はもつはずである。それは否が応にも私のことを思い出させるはずだ。彼女が私を殺すことで独占しようとしたように、私も彼女に殺されることで彼女の一部を独占できたと思う。殺したいと手紙を送り付けるくらいならば、どうして彼女は私を殺してはくれなかったのだろう。私を害する機会はいくらでもあったはずである。実行もできないのならば口にすべきでない。私みたいに黙り込んでいろ。 
 私はみずからの首筋に手をあてがってみる。皮膚のしたのやわらかな隆起は血管である。いまだあたたかいそれは、ハッキリとわたしのてのひらのなかで脈打っている。憎い体温、憎い脈動であった。すべてなくなってくれたらいい。彼女が私のものでないならば、私も彼女のものでありたくなかった。生きているかぎり、私は彼女を忘れることなんかできやしなくて、永遠に捕らわれつづけるような予感がしている。せめて彼女といるうちに、彼女の眼前で自殺でもしてやるのだった。意気地なしの負け惜しみである。ぎゅうと手に力をこめてみると、ごく軽微な頭痛と、唇に血の集まる感覚だけがあった。それだけである。
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