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中村恩恵さん 振付家|舞踊家 ー 3 ー 撮影 長島有里枝さん

港
近日、引越しをすることになりました。
50年近い人生の中の18回目の引越しになります。これまで、モナコ、ハーグ、横浜と港のある街で暮らしてきましたが、今回、初めて海から離れて内陸部に住む事になります。
この春ごろから、「港」をメタファーとする新しい活動拠点の設立の思いを温めてきました。舞踊人生は未知の世界を旅する航海の様です。自分の内面のコンパスを頼りに大海原に乗り出せば、そこには様々な冒険があり新しい出会いがあります。順風に吹かれて意気揚々と進む日もあれば、凪いだ風に焦りを募らせる日々もあり、また嵐の大波に揉まれ苦汁を嘗める日もあります。そのような舞踊の旅路の中、これまで幾度となく「港」のような場に立ち寄ってきました。魂を潤す水に浴し、大地に心身を休ませ、そして次の出立ちに臨む勇気をもらってきました。
これからは、こうした「港」のような役割を自分も担って行きたいなと感じ始めたのです。多くの人にとっての母港のような存在となれたらと思うのです。

ちょうど、実生活で海から遠ざかる時に、自分の内面に「港」が宿ったように感じています。プロデュースチームとで協力して
Nakamura Megumi Choreographic Center
と称する拠点を始動する計画です。「港」をメタファー として温めた拠点が、しっかりと大地に根を張り、やがて滋養に満ちた果実を結ぶように育って行くことを願いつつ、新しい住まいを構えていこうと思います。 中村恩恵
ここからは泉イネより
sadogaSHIMARTMISTLETOE 最後の投稿となります。
このサイトを一緒に始めてくれた、佐渡で出会った写真家:僧侶の梶井さんも、 佐渡島に実家のお寺があった編集者の上條桂子さんもますます忙しそうに各地 を飛び回られていて、お二人から最後の投稿を...は、すこ��難しい状況でした。でも、約3年間この場所を通してお二人や、他にもいろんな方々と話ができたこと、ほんとうに感謝しています。
2013年に体調を崩してから、しばらく制作どころではない状態でした。いま大分に居ながら様々な世代の、異なるジャンルの作り手たちと話しながら、ほんとうによくここまで治ったな...というか、あの頃以前よりタフになったと思い返しては、これまでに向き合ってくれた方々の存在一人一人を時々に、大分の道を歩きながら想います。体調を崩してなければ話を聴くこともできず、佐渡や真鶴にも行っていなかったし、大分にも来ていなかった。
いろんな土地で出会えた風景や、その声。
風景は言葉を話さないけれど、ありありと黙って語る。絵描きは妄想することも仕事で、視えないところを想像して描く。荒れた土地、にぎわっていただろう商店街、人気のない離れた場所に無機質な建物。ひとつの地域だけでなく、別の地域にも同じような風景がある。過ぎた時代の物語を知れば、みえてくる風景もまた変わる。土地だけが知っている栄枯盛衰。そしていまを生きる人々の色んな想いや営み。紙に描かなくても、すこしずつつながる線や色。
中村恩恵さんに出会ったのは2010年。それから8年。一緒に絵と言葉のセッ ションをしてから、恩恵さんは振付家・舞踊家として活動の幅を拡げて様々な賞をとられ、ますます立ち位置が離れていくような心地もするけれど、そのことを楽しんでいる自分もいます。私は、間に居たい。定まらないで、間に。
恩恵さんが港になるのなら、私はそこで気ままに吹く風ぐらいがいいかな。風の力で、船や飛行機や鳥や種が移動したり、発電したり。波や木々がざわめいたり、涼んだりもできるような。(ときどき暴風にもなったり)。心動かされる人や場所の間でふらふらと風のように居る。それで、もし少しでもここの文化が潤ったり、アートという名のもとに、未だにここでの作り手、書き手、踊り手…の多くが大変である土壌を耕すことができるのであれば。みんな忙しすぎて手がつけられないところの隙間風でも。
何かをつくることや、他の場所や昔の物事を知っておくことは、生きる力になると願う。
例えば、私が佐渡へ渡るきっかけのひとつ「能」はその昔、同性への寵愛が育んだ伝統文化のひとつであることとか。佐渡で見た古い地図は、電車ができる前、船が移動手段だった時代に日本海側の航路をメインとして描かれたもので、その海はもっと昔はおおきな湖で、南北は大小の島々で大陸と地続きとなり、人類はゆっくり移動していたのだろうこととか。
武器ではない力。なにかを作り、なにかを知る力が、誰かとの豊かな関係を生み出すと願いたい。それは時間がかかるかもしれないし、分かりやすい行為を生み出すことよりさらに骨が折れることかもしれないけれど。願いたい。
ふと、佐渡島の北端に「願」(ねがい)という集落があることを思い出します。
今年の秋、中村恩恵さんと佐渡島を訪れようと話しています。これまでに佐渡へ世阿弥が流されたことや、昔は罪人も多く辿りついた地であったことを話したりしてきた中で、罪とは何か?そんなやりとりもしました。時代の権力者によって流されることもある罪(それぞれの理由による、むずかしいパワーバランス)。それとも、誰かを言葉やちょっとした行為で傷つける罪。人や何かを強く愛する、守ろうとすることで、相手や他の誰か何かを傷つけているかもしれない罪も。生きる間に、誰も傷つけたことのない人なんてたぶんいない。いろんな罪。それに気づいた先の願い。
そんな話も時々してきた今年、佐渡へ...行けるといいなぁ。
そして、その行程を映像作家の佐々木友輔さん、編集者の上條桂子さんとも共有して今年〜来年以降の制作へつなげる企画も温めています。
3年を通して sadogaSHIMARTMISTLETOE を読んでくれた方々へ。長々と、ときに私の主観の多い文を読んでいただき、ありがとうございました。
つづけて、これからの新しい試みへも興味を持っても��えたら幸いです。新たに大分の地から発信する、これまで出会った方々から届く各地の風景shimaRTMISTLETOE は気が向いたときに読んでみてください。
また、佐渡へ行ってみたいと話していたトヨダヒトシさんのインタビューは、恩恵さんとの佐渡行きの過程と一緒に、来年、冊子にまとめられたらと話しています。ここで出会った真鶴出版発行の元に。
みなさんの健康と
その生に敵った制作を願って
sadogaSHIMARTMISTLETOEを終わりにします。
2018.7.23 泉イネ
【中村恩恵】
第17 回ローザンヌ国際バレエコンクールにてプロフェッショナル賞を受賞後渡欧。
フランス・ユース・バレエ、モンテカルロバレエ団等を経て、’91~’99年イリ・キリアン率いるネザーランド・ダンス・シアターに所属。イリ・キリアン、マッツ・エック、オハッド・ナハリン、ナッチョ・デュアットなど現代を代表する振付作家達の創作に携わる。退団後は、オランダを拠点に振り付け活動を展開する。2000年、自作自演ソロ「Dream Window」にてオランダGolden Theater Prizeを受賞。’01年彩の国さいたま芸術劇場にて、キリアン振付「Black Bird」主演、ニムラ舞踊賞受賞。 ’07年日本へ活動の拠点を移す。Noism07委嘱作品「Waltz」にて舞踊批評家協会新人賞受賞。新国立劇場プロデュース作品「Shakespeare THE SONNET」「小さな家」「ベートーベン・ソナタ」等の代表作の他、さまざな場にて実験的なプロダクションを手がける。第61回芸術選奨文部科学大臣賞、第62回横浜文化賞、第31回服部智恵子賞、2018年 春の紫綬褒賞 等の受賞歴を持つ。
現在、新国立劇場バレエ団の2019年ニューイヤーガラ上演「火の鳥」(ストラビンスキー)の振り付けを手がける。

Photo:Yurie Nagashima | 長島有里枝
最後に、快く撮影に応じてくれた長島有里枝さんへ
心よりのお礼を
ありがとうございました
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中村恩恵さん 振付家|ダンサー - 2 - 撮影 長島有里枝さん
去年の3月に、中村恩恵(めぐみ)さん、長島有里枝さんと子育てや制作の話をした時のメモについて、少し時がすぎた昨年末にメールで恩恵さんに質問をしました。今になって恩恵さんが思い起こすことをいくつか選んで答えてもらうことにして。前回の投稿から約1ヶ月過ぎた昨日、二つのメモについて届いたので更新します。

・自分の身体と振り付けた本人の間に隙間ができる
この4月27日に上演するために、とても久しぶりに自作自演のソロを振り付けている。
「Black Tulip」と題した作品だ。
頭の中であれこれと言葉を使って作品のコンセプトを構築し、ストラクチャーを紙に書きつけ、アナライズして解体し、また組み直してはまた壊す。 そんな作業を散々繰り返した後に、一人スタジオの中でじっと静かに、この作品の為に選んだ音楽を聴いてみる。言語化される以前の感覚が体に沸き起こり、やがて動きを紡ぐことに我を忘れて没頭している。やがて一連の動きのモチーフが形作られ反復され、そして振りとして固定化されていく。頭の中の脳内劇場では、既に完成された作品を舞うダンサーの姿が見える。雌豹のように強靭でしなやかでありながら、直線的な硬さを内在させる彼女の踊りに見惚れている自分がいる。ふっと、こんなにインスピレーションを掻き立てるミューズは何処にいるのかと自問する。そして、このソロは自分の為のソロであることを思い出す。今の自分の属性や実力とは遠い存在の彼女を想ってそのギャップにがっかりとする。振付家の自分が、自分以外のダンサーを探したくなる。でも、すぐにダンサーとしての自分の反撃が始まる。先ほどのミューズ以上に魅惑的で、作り手の予想を裏切り続けるスリリングで挑発的なダンサーが体の中からムクムクと立ち上がってくる。振付家の自分が、そんなダンサーとしての自分を振付家の自分が理性で抑え込もうとする。そんな独り相撲に明け暮れて、、、でも出来上がった振り付けは僅か数秒。こんな渾身の戦いを毎日続けたら、やはり最後には鋼の硬さを内に秘めたメスの黒豹のような「彼女」が、ぽっかり空いた傷口から生まれてくるのだろう。
・年齢と身体
年が明けてまた一歳年を取った。春先に定期的な健康診断に行ったところ、思わしくない結果が戻って来た。再検査が必要となり明日からは精密検査を受けに病院に何度も行かねばならない。究極的には人は死に向かって生きているのだと言うことを、改めて思い返す。 命を傾けて一滴の純度の高いエッセンスを滴らせるような、そんな踊りが踊りたい。
3/12 中村恩恵

恩恵さんと出会ってから8年ほど経ちます。最初は子供が月に1-2回バレエ教室へ通っていたので会うことも多かったけれど、恩恵さんが体調を崩されたり、その後に私も体調を崩したりしているうちに、子供バレエのクラスもなくなって、恩恵さんの振り付けの仕事も忙しくなって、しばらく会わない時期もありました。私自身が恩恵さんとの立ち位置の差のようなものを痛感して、気後れすることもあったような気がします。けれど、様々な出来事や時間をそれぞれに経て、こうしてまた誰かを紹介したり、一緒に佐渡島へ行こうと予定をたてることができる。
奢らない。ということを私は恩恵さんから一番学んでいるのかもしれません。
(奢らないことを私が実践できているかは不安…)
ひとつ強烈に記憶に残っていること。「夢の中でも誰かに振り付けをして、起きても同じ振り付けをして踊って、夢と現実の境目がわからない」いつだったか恩恵さんが笑いながらサラリと話していた。その言葉に、あぁこの人はほんとうに、踊る���とが生きることなのだとありありと感じて、しばらく返す言葉がなかった。
変わらないものは何もない。当たり前のようにある自分の身体も、見えないところで細胞は変化して老いをゆっくり歩んでいる。絵描きと違って、身体そのものがメディウムでキャンバスでもある踊る人々は、その変化を直に知っているのだろう。
その昔、佐渡島へ流された世阿弥の『風姿花伝』に綴られる「老体」を思い出す。老いてゆくことは舞えなくなるのではなく、その時にしか表せない花、舞、踊りがあり、それまでの長い過程を味わってきて初めて辿り着くところ。
人は生まれた以上はいつかは死ぬけれど、踊ることはなくならない。太古から今まで、これからも、踊ることは祈りや祝い、願いや望み、哀しみや怒りからも生まれる。身体が手を一振りする、その次に足を一歩引く。その一連の流れだけで身体は踊り始める。その素晴らしさを継承し、繋げている人々がいる限り、踊りは死なない。
恩恵さんに触れると そんなことを想う。
3/13 泉イネ
中村恩恵
第17 回ローザンヌ国際バレエコンクールにてプロフェッショナル賞を受賞後渡欧。 フランス・ユース・バレエ、モンテカルロバレエ団等を経て、’91~’99年イリ・キリアン率いるネザーランド・ダンス・シアターに所属。イリ・キリアン、マッツ・エック、オハッド・ナハリン、ナッチョ・デュアットなど現代を代表する振付作家達の創作に携わる。退団後は、オランダを拠点に振り付け活動を展開する。2000年、自作自演ソロ「Dream Window」にてオランダGolden Theater Prizeを受賞。’01年彩の国さいたま芸術劇場にて、キリアン振付「Black Bird」主演、ニムラ舞踊賞受賞。’07年日本へ活動の拠点を移す。Noism07委嘱作品「Waltz」にて舞踊批評家協会新人賞受賞。 新国立劇場プロデュース作品「Shakespeare THE SONNET」「小さな家」「ベートーベン・ソナタ」等の代表作の他、さまざな場にて実験的なプロダクションを手がける。第61回芸術選奨文部科学大臣賞、第62回横浜文化賞、第31回服部智恵子賞等の受賞歴を持つ。
現在、新国立劇場バレエ団の2019年ニューイヤーガラ上演「火の鳥」(ストラビンスキー)の振り付けを手がける。
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中村恩恵さん 振付家|ダンサー − 1 − 撮影 長島有里枝さん
初めて中村恩恵(めぐみ)さんに会ったのは2010年。能楽師とピアニストとの公演のフライヤー、1枚の紙の上だった。その中性的な表情に魅せられて、名前も、どんな人なのかも知らずに持ち帰り、制作机の前の壁に貼って、ときどき眺めていた。

私が生身の中村恩恵さんに会えたのは2010年の秋だったか、BankARTのスタジオで子供のバレエ教室を開かれていて、そこへ子供と参加したことがきっかけでした。ちょうど私は引越して私生活が大きく変わったあとで、月に数回、子供と一緒に気分転換になればと遠方にあったスタジオを訪れました。作家であることは伝えず、恩恵さんがどんな人なのか知りたくて。そして何度か会ったり話したり身振り手振りを見ていると、自分の作家性がとてもわくわくしていました。一緒に何かしたい。その翌年に絵と身体と言葉のセッションを始めたことから、母親としてだけではなく、作家としてたくさんの刺激と影響を受けています。


話をうかがったのは昨年の3月。私が佐渡島へ行くようになってから、恩恵さんも行ってみたいと言われていたので、sadogaSHIMARTMISTLETOEでいつかご紹介したいと思っていました。ちょうどバレエを習っている長島有里枝さんと3年前から連絡をとるようになって、子育てをしながら制作活動を続けている二人と同じ時間を過ごしたいと思い立ち、忙しいところ半ば強引に撮影をお願いして、対談と散歩が実現することとなりました。有里枝さんも母親と制作、仕事の両立をこなしてきた(sadogaSHIMART 2015年9月にご紹介)私にとって心の支えの一人でもあり、三人で他愛のないことをあれこれ話したいのが一番にあって、いつもの私の思いつきであまり順序を決めず、有里枝さんを困らせてしまったスタートでしたが、お昼を一緒にいただきながら、振り付けのときの女性と男性の動きの違い、身体的にできること/できないことの話などから賑やかに話は広がって、とても楽しい時間となっていきました(と、良いように記憶している私)。



恩恵さんはとてもとても気さくで
子供のような人でありながら
会うたびに何かを勉強していて努力家で
ときどき ふと 神々しい

恩恵さんがバレエを習うようになったきっかけは、なんとイタリアで見たTVの天気予報。幼少の頃、お父さんがバイオリンを作る職人さんでイタリアに住んでいて、子供心に目に焼きついたのは、天気予報のお姉さんの後ろで不思議なパフォーマンスを繰り広げる人。その身体の動きを見て、自分もそんなふうに踊ってみたい、踊れるようになる!と思ったのだと。… それだけ!?不意をつかれてしまったけれど、夢へつづくきっかけとは子供心のそんなことからなのかもしれません。その後バレエを知って、早いうちからバレエ留学のために中学高校時代を過ごし、海外へ渡る。オランダのネザーランド・ダンス・シアターのカンパニーで数年間踊り、一人で踊りの可能性を探したくなってバレエ団を出て、出産し、日本へ戻ってきた。
恩恵さんの自宅から公園や駅へ移動する車の中で、踊ることや振り付けに対して「焦りや不安がない方が怖い」という話や、それでも子供がいると夢ばかりを生きていられず、最近は子どものご飯を食べる量がふえたから仕事ふやしたいとか、あと何年で子離れできるとか、もしかしたら自分の方ができないかも、など… 有里枝さんと3人で創作から現実的な話で張りつめたり、浮いたり、しんみりしたり。
もう一年ぐらい前の記憶は、そんな断片的で印象的な記憶だけが残り、大事な詳細を忘れてしまったところもあって、あらためて恩恵さんにメールで質問をしました。ここからは言葉のメモから、恩恵さんのお返事になります。長くなりそうなので今回は分けて更新する予定です。時間のあるとき、移動するときなどに読んでもらえるとうれしいです。
2018.2.14 泉イネ
オランダでカンパニーから独立して活動しはじめたのはなぜでしたか?
カンパニーでの仕事は大変充実したものでした。一人では決して経験することの出来なかったであろう多くの素晴らしい体験を積むことができ、カンパニーに属している時に私の舞踊人生の基礎が築かれたと思います。 しかし、カンパニーで活動するということは、他者によって整えられた枠組みの中で機能するということです。その枠組みはカンパニーの存続と発展のために作られたものであるため、所属するメンバーの個々のアーティスティックな信条や必要とは相容れない部分も少なくはないのです。30歳を前に、自分で舵をとる生き方に切り替えようと決心しまして独り立ちしました。 バレエ 目的ではなく手段 上からのバトンを引き受ける
毎日、リハーサルがあってもなくても必ずバレエのレッスンを行います。気がつけばもう半世紀近くも毎日毎日稽古を繰り返して来ています。基本訓練を繰り返すことで技術を磨き込んでいるわけですが、それは同時に積み上げて来たものを削ぎ落とすことで自分を素に戻すための時間でもあります。その毎日の基礎の繰り返しの中でハッとする瞬間が訪れることがあります。気づきの感覚と言うのでしょうか、開けることの出来なかった扉の鍵穴にカチリと鍵が嵌る様な感じと言えば良いのでしょうか。驚きと喜びに満ちた瞬間です。この瞬間を共有したくて、私は振り付けたり、舞踊を教えたりしています。しかし、多分、舞踊以外の職業に携わる人もその職業の専門的な工程の中で、驚きに満ちた喜びを味わっているのだと思います。ですから、実は舞踊でなくても良いのです。ただ、私は幼い時から舞踊に自分の人生を捧げて来ましたし、やはりその様に生きてきた先人達からのバトンを手の中に持っているという自覚があります。受け取ったバトンを次のランナーに託すと言うことを、シンプルに謙虚に全���出来たら幸いです。
振付 人間の身体 力学の組み合わせでこんなことができる 筋肉のメモリー
私たち人間は地球という惑星の上で重力に縛られており、また私たちの身体の可動域は様々に限定されています。振り付けの第一の基本は、こうした条件における身体の可能性に精通することです。そのために、自分自身の体に向かい合うことです。 私はデュエット、特に男女2人の踊りを創ることを通じて人間の身体と力学について学ぶことが大きいです。二人で組んで踊る時には、一人では起こすことの出来ない力学が生まれます。とても興味深いのが、一つの完成された動きの中には表には見えてこない反対の方向性が常に宿っているということです。言い換えると、男女のベクトルが同一方向に向かう時に、デュエットの技は失敗するのです。民主主義の社会は多数決の原理で動いている社会ですが、反対意見や少数派の存在が大切な事と似ていると思います。話が逸れましたが、、、 こうしてあげた方が相手が助かるのではと思って気を遣って行うことの多くが、逆に相手に負荷を掛けることになると言うのも練習中にしょっちゅう出会う面白い現象です。勿論、成功例と対話力があってこそ迷惑であったことも判明するのですが。
中村恩恵 Megumi Nakamura
第17 回ローザンヌ国際バレエコンクールにてプロフェッショナル賞を受賞後渡欧。フランス・ユース・バレエ、モンテカルロバレエ団等を経て、’91~’99年イリ・キリアン率いるネザーランド・ダンス・シアターに所属。イリ・キリアン、マッツ・エック、オハッド・ナハリン、ナッチョ・デュアットなど現代を代表する振付作家達の創作に携わる。退団後は、オランダを拠点に振り付け活動を展開する。2000年、自作自演ソロ「Dream Window」にてオランダGolden Theater Prizeを受賞。’01年彩の国さいたま芸術劇場にて、キリアン振付「Black Bird」主演、ニムラ舞踊賞受賞。’07年日本へ活動の拠点を移す。Noism07委嘱作品「Waltz」にて舞踊批評家協会新人賞受賞。新国立劇場プロデュース作品「Shakespeare THE SONNET」「小さな家」「ベートーベン・ソナタ」等の代表作の他、さまざな場にて実験的なプロダクションを手がける。第61回芸術選奨文部科学大臣賞、第62回横浜文化賞、第31回服部智恵子賞等の受賞歴を持つ。
現在、新国立劇場バレエ団の2019年ニューイヤーガラ上演「火の鳥」(ストラビンスキー)の振り付けを手がける。
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今年、佐渡に帰省した時のこと。 祖父の家は寺の跡継ぎがいなくなったこともあり、昨年檀家の人に譲った。寺という公共物ゆえ訪ねることは可能だったが、そこには自分の知っていた祖父の家だった寺とは違うもので、現在人が住んでいるわけでもないので生活感もなく、ただ古い寺になっていた。 今回は初めて夫を連れての帰省だったこともあり、佐渡で行ったことのない場所を訪ねてみようと思い、原生林と杉を見る外海府トレッキング、というのに参加した。新潟大学の演習林であり、事前申し込みをしないと勝手には立ち入れない場所だ。エリアによっては入山数にも制限があるらしい。お盆のまっただ中だったこともあり、ぎりぎりまで催行されるか微妙なところだったが、当日は私と夫、二人組の女性、一人参加の男性、ガイドの計6人での登山となった。噂には聞いていたが、杉は巨大だった。自在に曲がっているのは寒い地方独特の曲がり方で、湿度を含んだ状態で気温が下がるとしなやかな曲がり方になるのだという。雪が比較的少ないことも、杉がこんな成長の仕方をした要因のひとつだそうだ。また、もうひとつ私を興奮させたのは、アサギマダラの集団吸蜜。ヨツバヒヨドリの周囲をふわりふわりと独特なリズムではね舞う様に何度となく出くわし、そのたびに口をあんぐり開けて彼らの行方を追ってしまうのであった。
上條桂子
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橋本聡 SATOSHI HASHIMOTO
橋本聡さん
春と夏の2日間、日が暮れてから夜中まで。
いつもの思索の場を追いました。

以前から名前は知っていたのに接点がなくて、直接話したのは2年ほど前。といっても、すれ違ったぐらいだけれど。
展示やパフォーマンスから想像していた印象とは違って、穏やかな人柄。
全ての展示は観れてはいない。なのに記録だけ見ても感じる、薄ら怖さのようなもの。どこかで見てタイトルだけ知って、ずっと覚えていたのは
「行けない、来てください」( ARCUS / 茨城 2010 )
そのあとも所々の美術館やギャラリー、街中で、記憶に引っかき傷をつくるようなタイトルで行っている展示やパフォーマンス。
「独断と偏見:観客を分けます」(国立新美術館 / 東京 2012)「あなた自身を削ることができます」(2012)「ズボンを交換してください」(2012)
「行けない、来てください」は植物から繋がっていたのだと、今になって分かって小さな衝撃を受けた。なんというか…うすら怖さを自ずと発するニヒリストであると同時に実はロマンティストでもあるのではないか?
花は動けない。その生の変化をずっと見続けられることはない。虫が花粉を運ばなければ次の花も咲かない。人知れず蕾み、咲き、萎み、枯れ、朽ちていく。まるで数多ある制作、作家の数とおなじように。
FLOWER(2008)

人を単調に平然と裏切るようなパフォーマンス。
スっと足元が抜けるような心地。あの感覚はどこから来るのか気になっていた。
待ち合わせは大きな駅。 電車が着くとたくさんの人が改札から吐き出される様を見ながら待ったり、待たせたり。 絵画や彫刻を制作するようなアトリエはない。 いつもは終電近くか、終電も過ぎて店の灯りも消えて、人も疎らになる頃から辺りを歩いたり座ったりしながら様々なことを考えるらしい。

二日間とも、私(他人)がいるから話すときは柔軟だし冗談を言ったり笑いもする。 けれど、いつものように何か気に留まったときなのか…彫刻の、時が無くなるような表情をときどき見かけた。いつもより早めに人々が家路につく時間帯からスタートする思索の場の追跡。
4月は雨の日。
傘を差したり、閉じたりしながら街をうろうろする。いつも一人のところ、私がいるから気を遣って申し訳なさそうだったが、私の方が邪魔をしているようで悪い気がしてきた。私を空気だと思っていつも通り行動してくださいと伝えても、そうもいかず。それでもぎこちなく、よく行く場所を案内しながら話してくれた。

ビルの中の空いてる椅子に座ったり、目的もなく階を上ってエスカレーターを降りる。本屋で立ち読みをする。コンビニで珈琲を買って飲む。物理学や哲学のような思考が少し好きだった子供時代についてや、浪人はせず予備校へ行かず、18歳でBゼミ(※1)へ入り現代美術に触れ始めた話、など。
同い年だから現役時代の受験はどうやら同じ場所にいたらしい。20年ほど前の不思議な遡り。私は現役〜一浪目は私立の美大も受けたが、家の都合で二浪目は芸大しか受けなかった。授業料は私立の半分以下だから。私立に受かっても通いきれそうになかった。これでだめなら道を変えようと覚悟していたのが受かってしまった。今となってはそれが良かったのかどうか。未だに奨学金を返済しながら、ときに返済猶予を申請しながら生き延びている。一方で佐渡へ行ったり、人の話をきいては文章を書いたり。これは制作なんだろうか?仕事と言えるだろうか?返済猶予の理由のひとつになるのだろうか。会ってみたい人に会う、聞きたいことを聞く。見たい風景を見る。趣味と言われればそれまで。ここではアートとか美術、芸術を仕事としていると言うことに、微かな後ろめたさを感じてしまうのは、なぜだろう。そもそも私はその立ち位置がわからなくなると同時に、さまざまな不安が重なって体調を崩し、そこから佐渡へ行き、人に会って文章を書き始めている。
そんな話を橋本さんのこれまでを聞きながら、返したような。 傘を閉じたり開いたりする行為に気を取られて、記憶が霧散している。結局、美大は経済的にある程度余裕がある家じゃないと通えないとか…(もちろん奨学金もらってバイトしながら通っている人もいる)そういう分母数から「ここ」では作家が育つ。そんな話も歩きながら。


誰も乗っていない昇りのエスカレーターで下を向いて座る橋本さん。 エスカレーターが別の乗り物へ一瞬にして変わる。
話しながら夜の駅周りを歩いて分かってきたのは、橋本さんは活動と生活の関係に対して、とても厳密なのだと。「昔ほどでもない」と言っていたけれど。私自身は昔のほうが男性的だったような気がする。制作に対してストイックだった。子育てするようになってから年々ぼやけてきている。
二回目の夏は曇り。
前回撮れなかった風景を撮りたくて、雨の降らない日に。 すこし慣れた追跡のスタート。 いきなりアーティストのCVのあり方について。 秋に行う未来芸術家列伝 Ⅳ の話をバスターミナル眺める橋の上ですこし長めに聞く。一人の若者が歌い始めたのを右の耳から聴きながら。橋本さんの手の動きに見入りながら。一般的に捉えられる時間軸ではない、過去、今、未来の非直線について。もしも、未来も過去のように扱いうるなら。「もうない」過去を「ある(あった)もの」としてCVを作成する在り方に対し「まだない」未来を「あるもの」として10年前よりCVに「未来芸術家列伝Ⅳ」(2017 東京)を既に書き込んできたのだと言う。
…月か星か空へ近づくような思索のはじまり。
私も前々からCVを履���書のように提出するときに感じていた違和感。どんなアーティストでも社会の定型内、時間軸に畏まって収まるしかない書式。橋本さんはそういう、当り前で誰も問いも発さないようなところへ、皮肉とユーモアを添えてアプローチする。
西口を降りて、行き交う人々を眺めたり、交差点からすこし離れたところに立ち止まって様々な職種の人のやりとりを一緒に眺める。通りを一本入ると繁華街。雑居ビルにクラブ、カラオケ、酒屋、昔ながらの喫茶店。艶やかにすこし古めかしく灯るネオンを横目にフラフラと。交差点を眺める、シャッターの閉まった店の前で立ち話。客を勧誘する若者がそれぞれのポイントに数名立っている。
タクシーは寿司の様に並んでいた。 バスはターミナルに定期的に入っては出て行く。たくさんの人を運んで。家へ帰る人の流れに拮抗するかのように、所々位置を変えて黙って観察する。観察とまでいかないのかな、その流れを体感する。缶コーヒー片手に空気のように。

「ここ」で制作すること「アート」に関わること。西欧と非西欧圏。
そんな話を途切れ途切れしながら、道行く人が店に誘われたり、夜の仲間が出会って大声で盛り上がっているのをすれ違う。東口に移動すると新しい建物と、人通りの少なさは対照的。あまり毒気のない地場が逆に無機質で冷たい。ベンチや植木、ライト。可もなく不可もないつくり。学生やサラリーマンが急ぎ足で目の前を通り過ぎてゆく。
うまく立ち振る舞えるビジネスマン的なアーティスト、の話などをそこで少し。

大きなビルを作っているのだろうか。 地下を作っている途中の広い吹き抜けた工事現場を眺める場所に出る。ここで橋本さんの手からレシートみたいな紙くずがスッと離れた。周りのビル風か…下から吹き上げる風で紙がひらひらと舞い始め、遠く見えないところまで飛んでいく。巨大な空虚に小さな紙片が吸い込まれて消えていった。 車を駅から離れた方向へ走らせる。

「制作して…20年ぐらい? やめたいとか、やる気がなくなるとか、なかったんですか?」
「… やめたいとか … しにたいとか あるよね 」
一瞬意識はとまりつつ、私もふつうに受け応える。
「しにたいっていう言葉。たぶん人はよく思い浮かべますよね。本当にしぬ、まではいかずとも。私もしょっちゅうあるし。あぁもう生きるのめんどくさいわ、やめたい。しにたいというか…ふっと音もなく消えたい、かな… 」
疲れて疲れて力が抜け切ったとき。 制作とか絵とか生活とか、子育てとか、生きるとか、過去とか未来とか…どうでもよくなる瞬間はたまにやってくる。そこを偽る気はない。たぶん作家でなくとも、そう気が抜けたことのある母親も多いことだろう。そんな私へ子供はユーモアで切り返し、私を癒すまで成長した。
「泉さんもそういうのありそうだよね。」
「 …ありますよ。でも、あぁそうか、もうしんだようなものなら、生きたいように生きられるかなって思い直す。 」
「ああ、「やめてください」っていうタイトルの展示も発表したことがある。」
「やめてください…」
「制作するのも、働くのも、勉強するのも、、、やめてください。」
すこし考えた。 どういうこと。 ユートピア?
この文を綴りながら「やめてください」橋本聡で検索すると、あからさますぎて思わず吹き出す。こうやって、不意に吹き出せるものを真顔で生み出す人がいる。そのことに理由なくほっとする私は可笑しいだろうか。死ぬこともおやめにならねばならない。
ーーー
みなさま あなたがアーティストなり活動家ならおやめになって頂けないでしょうか。作品もおつくりにならないで下さい。パフォーマンスやら活動云々もおやめ下さい。あなたがキュレーターやらプロデューサーなり批評家なら、美術館勤めはもちろん、企画やら執筆などあらゆる活動をおやめ下さい。言わずもがな、ギャラリストなど運営者なり経営者は商いはもちろん、すぐにスペースも物資も手放して下さい。観客なり参加者の方々、鑑賞なり参加をおやめ下さい、お帰りになるのもおやめ下さい。会社勤めはもちろん、仕事も学業も遊びも一切合切、生活の全てをおやめ下さい。計画を全て中止して下さい。あらゆるものを手放して下さい。生きることも死ぬこともおやめになって下さい。
ーーー

「昔から人間の社会が嫌いだったから、いろんなことをやめてみる」
走る車でそんな言葉があったと思う。
ことばだけで読むと危ない。けれど、二日に渡った会話の隙間に聴いた、橋本さんのこれまでの記憶の破片を繋げると自然と解釈できてくる。
でも。
展示やパフォーマンス…そのカテゴリーが消えゆくところへのスタンスを知ると、書けない。
橋本さんは言葉のもつ意味とか範囲にもよく立ち止まる。だれもが当たり前のようにつかっている単語ひとつひとつを、話している際から電卓を小数点まではじくように、それとも、その文字を鏡で反射させるように。
ーーー
「やめる」あり方として「アート」が「ある」と けれども「ある」ことの矛盾なしい虚構、形骸化があるとも言えるし その仮説の先に実際、「穴」へいたりも 壁のある穴、 壁のない穴
「生きる」のをやめることと「死ぬ」ことはイコールではない。 死ぬこともやめる。
ーーー
理解しようとしなくていい。
たぶん、なんとなくわかればいいのだと思う。




人は、すべてが安定していたら何も作らず何も言わないのかもしれない。満ち足りてキラキラと一生を生きている人なんて恐らくいない。不安のない人なんていない。ただ、作家と呼ばれる人たちは、その不安との対峙は強いと思う。不安が強いのではなく、たぶん、それを乗り越えてきた精神。したたかさ、タフさが強い。それだけの境遇をなんとか消えずにきて今ここにいる、そんな気さえする。そこから自ずと滲み出るように何かを行い現れたものを、後々か、周りにいるだれかがアートと呼ぶのか。呼ばなくてもいい。

すこし広めのまっすぐで長い道へ出ると、信号が先までいくつも見える。
「信号見るの好きなんだよね」
初回のときも行った、離れたところにある広い駐車場に車を停める。 他にはほとんど停まっていない。広い空間。これだけ車がないとアスファルトにかかれた白線も意味はなく、地上絵のように暗い闇に浮遊する。ここも、よく来て考え事をする場所。
暗闇。昼間とはちがう顔の場所。 すべてが反転するような、うまく活きていたかのような日常の物語が 眠りにつく風景。
橋本さんが話すときの手は、どくとくな線を描く。 かくかく動いたかと思うと、ふわっと円を描いたり。


そこから見えるいくつかの建物は、帰ってきた人たちが各々の家に灯りをつけている。同じ窓、同じ造り。同じ単位。
子供のころ、団地住まいだったことを思い出す。
月と水面の話をした。 スピリチュアルにではなく、ロマンティックでもない。 むずかしい話だった。 話に沿ってどくとくに動く手を見ながら 橋本聡はやっぱり厄介であると、このとき悟った。 ここに記したかったのに書ききれず。 いつか展示かパフォーマンスに遭遇するしかない。


よく仰向けになって空を見る。 地球の重力に逆らわず、地面に沿う。 財布をまくらにすると痛くないらしい。 もしかしたら、子供のころからこうして空や天上を見ていたのかな。
空は曇っていたけれど、広い駐車場では視界に建物も自然もなく、グレイのもやもやした色面だけ在る。
距離がわからない。 物理
宇宙
仰向けになると天上が前になる。重力に引き寄せられながら反抗して身体を起こすと、空に対して横が前になる。人はいつも横へ横へ動いて、右往左往して生きている。
そこにいなくても、そこにいる以上の感覚にひきずられること
月の上に居るような

闇夜(空)は宇宙へ近づく回路
距離感のなさ
現実がどれだけ本当なのか
社会の具体的なところへ着地させたいわけではなく
ーーー
一日中動く信号やエスカレーター
つくられた道
決まっていること
1日という単位
24時間…地球という星の運動
その自転公転
昼から夜へ
太陽との距離
重力
曜日…西欧の神によって分けられた七曜日制
一年
水…水素と酸素
文字、言葉、音、音楽…
それらの構成
ーーー
そういうところ かけ離れたところであるようで 当り前に受け入れて、そこに左右され生きている。
そのあたりについて。
いまを生きる人たちが当り前すぎて受け入れすぎて忘れ去っているような事事を思い出させるから怖いのか。
それとも、毎日を忘れそうになるから怖いのか。
私にとっては、子供のころの謎を思い起こさせるような感覚。 子供のように率直に捉えるような視線が、橋本さんの作品にはある。

今年の2月に橋本さんの個展「世界三大丸いもの:太陽、月、目」(青山|目黒)があって、その関連のパフォーマンスのような、なんでもないような時間に参加した。ただ日曜の新宿をうろうろして珈琲を飲みながら喋る、時間。よくある日曜を味わう。「1日は地球という土着的な星の動き(自転)で定められた区分。1年は地球の公転で決められた区分、ルーティン。」チャイラテを飲みながら橋本さんから聞く。日曜を多くの人は休日として過ごす。街でウィンドーショッピングをしたり映画をみたり美術館へ行ったり、知人、友人、恋人、家族と過ごして帰る。その流れをやや冷めた視線で味わう…

説明を本人から聞かないと見過ごしてしまう、あたりまえで見慣れた物や事から、展示やパフォーマンスを行う(おそらくその展示やパフォーマンスという言い方にも違和感はあるのだろう)。その間に、ことばを聞いたり、垣間見て考えてみることで日常がクルッと裏返るようなキッカケ、穴がある。その表れ方が橋本さんの場合、きちんと「ここ」から発信できているのかもしれないな…と、いつ頃だったか思ったのも確か。うまく言えない。

立っている足元をゆるがす
いま、ここにある状況はどこからやってきたのか
その境目は誰が、何が定めるのか
本当か 必然か 偶然か 夢か 幻か
日々の生活の単位から宇宙まで
カテゴリーは確かなようで曖昧
うっかりしていると、あなたの当たり前も奪われる
むやみに近づかないほうがいい
でも
私のこれまでの諦めを知っている橋本さん
橋本さんの「行」を手放しで
好みとは言い切れない私だけれど
こうして二度、フラフラと話や視点を追ってみると
闇夜に目が慣れて
すこしだけ光が見えた

2017/8/15 泉イネ
橋本聡 Satoshi Hashimoto 1977年東京都生まれ。2000年B-Semi Schooling System of Contemporary Art 修了。2004年から翌年まで四谷アート・ステュディウムに在籍。2008年、ニューヨークのISCP(International Studio & Curatorial Program)に参加。個人での活動のほか、An Art User Conference、基礎芸術|Contemporary Art Think-tank、ARTISTS' GUILD など、グループでの活動を積極的に行っている。 主な発表に「行けない、来てください」(ARCUS, 茨城, 2010)、「あなたのコンセプトを私に売って下さい」(インド, 2011)、「独断と偏見:観客を分けます」(国立新美術館, 東京 2012)、「偽名」(「14の夕べ」東京国立近代美術館, 2012)、「私はレオナルド・ダ・ヴィンチでした。魂を売ります。天国を売ります。」(青山|目黒, 東京, 2013)、「国家、骰子、指示、」(Daiwa Foundation, ロンドン, 2014)、「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(東京都現代美術館, 2016)、「全てと他」(LISTE, バーゼル, 2016)、「Fw: 国外(日本 - マレーシア)」(国際空港, 飛行機, マレーシアなど, 2016)、「世界三大丸いもの:太陽、月、目」(青山|目黒, 2017)など。
※ Bゼミ 1967年〜2004年まで横浜にあった現代美術の学習システム。blanclassの前身。
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新潟ー佐渡島 2017/5/28 - 6/1
なり


6月の新潟、佐渡へのみじかい旅は、私の制作に長いこと関わってくれている森ゆにさんのピアノライブが、sadogaSHIMARTMISTLETOEでもご紹介したF/style(新潟)であると知って、あわてて制作やアルバイトの休みを段取りして予定をたてたのでした。いつもはすぐ佐渡に入るのですが、今回は新潟にも一泊しようとF/styleの方にお手ごろおすすめの宿を尋ねたところ、教えていただいのがこのゲストハウス「なり」。ここは去年、同じ時期に上條さん(フリー編集者)、yoyo.さん(料理家)、坂本大三郎さん(山伏、作家)と沼垂を訪れたときに車を停めたパーキングの斜め目の前の古い民家だった。去年はまだ宿になっていなくて、今年の一月に改装を終えてオープンしたばかり。新潟にまだたくさん残る古い長屋を残った資材など活かして丁寧につくり直されたシンプルでオープンな宿。居間のような1Fには近所の知り合いが休みに来ていたり、イベントも開催されたりする。
去年は沼垂テラスの珈琲ラボへyoyo.さんに連れていってもらって、みんなで遅めのお昼をとった。沼垂テラスは昔市場として栄えた商店街を再利用して、いろんな店舗が増えてきている。今回訪れたゲストハウス 「なり」 と本屋さん「BOOKS f3」はそのサテライト的な位置づけで商店街からすこし離れたエリアにある。なりに泊まった翌日の午前中に私は古町の商店街にあるカメラのデンデン社まで歩いていったのだけれど、その間にも商店街(シャッター率はやや高い)はあって、あたらしい古本屋さんもつくり途中だったりして、新潟の街は昔から続いているいいかんじのお店や、新しくできたお店の新旧がいいバランスで動き始めているように感じた。
森ゆにさんのライブを聞いてからバスで新潟駅まで戻る。観光案内で「なり」の場所を聞くと、意外にもすぐ案内のお姉さんが教えてくれた。歩いて20分、新潟駅から右手へテクテク歩いて向かう。そして着いた日の夜にオーナー:大桃理絵さんにゲストハウスを始めるまでのことをうかがうことができた。
大桃さんは新潟出身。新潟から出たくて大学〜社会人まで東京で暮らし、販売職の仕事について数年、このままその仕事を続けることもないなぁと思っていたところ店長になる目標を達成して一度新潟の実家へ戻る。数年、事務職などを経てから、長野にできるゲストハウスのたちあげと運営までを手伝うことになった。まったくの異ジャンル。大学では子供の頃からの本好きが高じて国文学を専攻し、徒然草の無常観がいつも心のどこかにあると言う。なりの入り口の右手には廊下より広い空間がある。古い民家ならではの間。そこにある本棚には大桃さんが読んだ本が並ぶ。泊まりに来たお客さんはきままに本をとって読む姿が目に浮かんだ。


ゲストハウスはお手ごろな価格(一泊3500〜4500円)。いろんな人が泊まりにくるだろうし、予想外のこともたくさん起こるだろう。思わず「怖いと思ったことはないですか?」と聞くと、少しとまってから「自分が心地よい、納得のいく空間をつくっていれば大丈夫」。人と人が出会う場、自分もワクワクできる場を整えておくこと。それさえできていれば大丈夫。沼垂テラスは地域を活性化するために旧市場を再利用していろんな人が集い、お店が少しずつ増えている。その地域へ貢献するという意識よりは、まずは自分が楽しんで生きるため。話していてそんな気持ちが伝わってきて嬉しかった。ひとしきり話し、翌日はなりで働いているスタッフの方々ともお喋りしたりして、「いってらっしゃい」とか「また来るね」なんて近所の友達みたいなやりとりがほのぼのとして、気持ちが落ち着いた。
なり
新潟県新潟市中央区沼垂東2-11-31
http://nuttari-nari.com
BOOKS f3

新潟の駅から「なり」に着くすこし前、本屋らしき店の前を通り過ぎる。荷物が重かったので宿に置いてから来ようと思いながらも、すぐ入りたい衝動で、通り過ぎても首がよじれそうに店内を見る。店構えは前の別のテナントが設えたのだろう、ショーウィンドーの作りをそのまま活かされて牛腸の写真集が並んでる(ここでもう、えッ!?)。店内にはカウンターや椅子が並んであって、白衣のような上着を羽織ったお姉さんが居た。なりへ荷物を置いて、すぐそのお店へ。
BOOKS f3 は写真をメインに扱った本屋さんだった。以前は時計屋さんだったのか、ウィンドウにはシチズンの色あせたポスターが貼られていた。入ると瞽女(ごぜ)をモデルに撮られた写真の展示。会期は翌日が最終日だった。新潟に来た初日、森ゆにさんのピアノを聴いて1日の想像力の活性化は十分だったのに、夕方にこの展示が観られるとは…なんだかドキドキを秘めながら、広くはない本屋の店内をそっとまわる。白衣のような上着を羽織ったお姉さんに話しかけるタイミングを見計らって本をすこしずつ手にとったりしていたのだけれど、カウンターには一人先客の女性、そこへ若めの常連の男性客が二人入ってきて、不意に店主らしきお姉さんへ写真のプレゼンテーションが始まる。一冊ずつ本を手に取りながらも、意識はプレゼンテーションの会話に引き寄せられたり… 何人かほかにも本や展示を見に来たお客さんが入れ替わりお店に入ると人口密度は高まる。そんな、こじんまりとした本屋さんだけれど、とてもいい空気がながれていた。今日はタイミングなさそうだな…諦めて翌日佐渡へ行く前に寄ることにした。


翌日の午前中に古町商店街にあるカメラのデンデン社へ、二年前に北書店の店長:佐藤さんから教えてもらって以来寄っているので顔を出す。「あら、泉さん またいらしたの」なんて店主の伊藤さんとお茶を飲む。新潟も昔からの商店街は大型のショッピングモールができると客足は減って、ビルが改装されたりしているけれど…といったかんじの話から、店内に所せましとあるいろんな国の民芸品から装飾についてお喋りして、BOOKS f3へ。もちろん歩き。広い万代橋を二回渡る。沼垂へ入る横断歩道を渡ると、お店の開店時間ジャストらしく店主がシャッターを開けている姿が見えた。「今日は珈琲いただいていいですか」「もちろんです」昨日寄ったのを覚えてくれていたようで、ようやく3つ並んだ椅子のひとつに座ることができた。
店主は小倉快子(やすこ)さん。もともと写真を自身でも撮っていて写真が好き…というか愛している、少し話すと伝わってくる。なりの大桃さんと同じで新潟生まれ新潟育ち。新潟を出たくて東京の大学で写真を専攻した。何年か東京で働き、一度(それとも何度か)は多くの人が通る悶々とした隙間の時期に、ある雑誌の島特集に載っていたおばあちゃんにどうしても会いたくなって、なんと会いに行ってみた。そのおばあちゃんの笑顔にただただ惹かれたのだ。たぶん、そのときその笑顔を欲していたのだと思う。その地へ行き、おばあちゃんを探し、いろんな繋がりができて数年住む。その地について小倉さん自身も詳しくなり、東京や他の場所から知人友人が訪れるようになると案内を引き受ける。そうこうしているうちに、もともと住んでいた地元の人が自分の生まれ育った地について自信を持って話すことができる、それを目の当たりにして自分へ還ってみると、自分が生まれ育った新潟については何も知らない。徐々に新潟について知りたくなり「帰るか」と新潟へ戻ってきた。そして医学町通りにある北書店の佐藤さんにも相談したりしながら、大好きな写真集を中心に扱う本屋を沼垂ではじめる。
話をうかがった日は5月末。小倉さんに珈琲を入れてもらった日の新潟は晴れていた。晴れ間が多いのはちょうどこの時期だそう。あとは灰色の曇り空が多いらしい。どんよりした空。それが小倉さんの記憶にある新潟。戻ってきて店を開いて一年。雲の厚い灰色い空の日は「ああ、そうそう、この空の色」と眺めながら、一人で本屋を切り盛りする。晴れ間の多い明るい時期に寄れたからだろうか。小倉さんの目がキラキラ��ていて、新潟の一日の滞在をとても清々しくも頼もしい心持ちにしてくれた。
佐渡汽船の時刻を調べてもらってお店を出ようとすると、そのキラキラした目で「次の展示もおすすめです」と小倉さん。ちょうど佐渡から戻ってくる日が初日の河野幸人さんの個展。3日後、その目に引き寄せられて私はちゃっかりこの本屋さんへ戻ってくることに。本のある空間と写真の在り方を活かした展示を観て、写真家の河野さんからもいろんな話を聞いて話して…本当に愉しい旅仕舞いとなった。また来たくなる本屋が新潟に一軒増える。大型も便利でいいのかもしれないけれど、個々の顔が見えるつながりは記憶に残って輪郭がぼやけない。

BOOKS f3
新潟県新潟市中央区沼垂東2丁目1-17
http://booksf3.com/
ガシマシネマ

佐渡行きの予定をたてる少し前、私のsnsをフォローしてくれたので気づいた。佐渡に映画を上映するカフェができるらしい。場所は…相川。気になって二年前に梶井さんから紹介してもらった佐渡在住のIさんに問い合わせると、お友達とのことで仲介していただく。相川は金山のあるエリア。古い町家風の民家の並びと、金山があったのもあり、佐渡奉行跡地も拘置所もある。相川の資料館にはその昔佐渡が金山で栄えた頃の賑わいが描かれた絵や遊女の資料、縄文土器などなど展示されていて、小ぶりな建物ながらも興味深かった記憶。その地区の一角にある民家を改装して、日曜はシネマカフェ、土曜と平日は本が読めるブックカフェがガシマシネマには併設されている。オーナーの堀田さんと連絡がとれて今回の佐渡行きの楽しみのひとつになっていた。
ガシマシネマの看板のある緑色の門をくぐると小ぶりな庭があって、トカゲやカエルが住み着いている(訪れたときは塀をのぼる蛇)。すこし古めの普通の家のつくり。いい感じ。身体のサイズに合っている。ここで映画が見られるとは外観からは想像できない。玄関を上がると右手奥には予想外の大きな昔のカーボン式の映写機が二台(これは飾りとして)。ガシマシネマを始めるころに、ちょうど解体されることになった施設から寄贈されたそう。広い和室ふた間を観客席にして、様々な施設からお手頃に椅子を買い取り並べてある。床の間の方向にスクリーン。左手には庭を眺める縁側がある。そこからの光を遮る暗幕もちゃんとある。いろんな人のいろんな気持ちが集まって出来ている。


珈琲を注文し、キッチンとカフェ・本スペースをつなぐ小窓を挟んで堀田さんと話し始めた。世代はそんなに変わらない、子育てもしているお母さん。福島の生まれ。てきぱきと手際よく珈琲を入れているのが、正面の離れたところに座った私のところから小窓を通して見える。時々話に集中すると止まってメガネをかけ直したりして。溌剌としている堀田さんは高校時代は部活と学校のお勉強しか知らない世間知らずの学生だったと言う(私もそうです)。それが新潟の大学、人文科へ進み文化人類学など学ぶ傍ら、当時話題になった「さらば我が愛」を観てものすごく後悔した。しまった、なんでもっと早く映画に出会っていなかったのかと。高校時代に真面目に勉強している場合ではなかったのだ。それからは新潟のシネ・ウインドでアルバイトをし、学業はそこそこに映画の知識を増やしていく。その頃はとても楽しくていまでも仲間とつなががりがある。映画館でのアルバイトが第二の学校のようになっていた。そして新潟出身の旦那さんに知り合い、6年前に一家で移住してきたのが佐渡。
以前は東京に住んでいたこともある。映画宣伝を請け負う会社に入った後、雑誌編集やホテル、出版社などでパートを経て、BOX〜ポレポレ東中野で働いた。都会の便利さや良い所も知っている。ただ、つい欲張りになってしまって疲れてしまうのと、子どもに自然体験を十分にさせたいと思い始め、都会の生活とはちがう経験をしたくなって、堀田さんは「汗をかきたくなって」佐渡へ来られた。
今は佐渡もそうだけれど他の様々な地に、同じような想いで移住している人が増えている。都会だと高値になる有機や無農薬野菜、保存食をできるだけ自分の手でつくる。一度体調を崩して整え中である身としては、できることなら私もそうしたい。そうやって都会以外へ人が戻るようになれば過疎化はゆるやかに減るのでは?と夢見る。
もともとカフェだったこの物件が空くと聞き、佐渡に住みながらも静かに映画へ募らせていた想いが花開く。映画館のような場所、映画を皆で見ることのできるサービスをつくりたい。都会だけではなく、ここでもできること。未来を担う子供たちも映画の良さに触れることができる。珈琲をいただきながら圧倒されてしまった。スッと都会から抜け出して目の前にいる堀田さん、二児の母。励まさ��る。野暮で素朴な質問をしてしまった、映画を見られる場所をつくることで何をつたえたいのか、映画のどこがよいのか。応えは「映像をつくっている人がいることを意識すること」。映画のストーリーだけでなく、世の中にあふれている映像…CMやニュース、ドラマ…を、その裏でつくっている人がいること。何を伝えようとしているのか、どんな背景があるのか。佐渡で民家を改装し、映画館をつくったその気持ちはとても深かくて強かった。


cafe ガシマシネマ
新潟県佐渡市相川上京町11
http://gashimacinema.info/
この二年。佐渡や新潟、ほかの地へも通ってみて、いろんな人と話すとき。うっすらと感じるものは「対 東京/都会」。私は自分を都会人だとも東京人とも思っていないけれど、ほかの地へいけば東京から来た人になる。あるとき、何かの会話のきっかけで「東京のせいでさ…」と言葉があった。好きで東京に住み着いているわけでもない。長く住んでいるので嫌いでもない。もちろん意思があれば何処にでも住めるだろう。でも今はいろんな理由からそうもいかない。ここに住んでいる以上は「東京のせい」の一端を私も担っているのかもしれない。どこかへ通う、制作をする、物をつくり、買い、捨てる。電車に乗る、展示をする、展示をみる、一日中電気水道ガスを使う、建物を維持管理する、ご飯を食べる、食物は大量に運ばれてくる、捨てられる。
つながってる。綺麗事がいいたいわけじゃない。すぐにはときほぐせない事事。生きている時は限りもあるし、生きてる間はいろいろあっても楽しみたい。何が自分にとって楽しくて、何が自分にできる事なのか。美術や芸術といわれるあたりに付かず離れずに来た者として。まだまだ身一つになったら何もできない。消費するしか術がない。そんなことを、この文を綴りながら改めて想う。
2017/7/23 泉イネ
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机の上からはじまる私的なプロジェクト/佐藤純也さんの制作

「 絵に向かって行き 隙間をすり抜けて見える絵の外側から、何かが立ち上がるのを見届けたいと思っています。」
( 佐藤純也/以下 s.j 「Fiction? - 絵画がひらく世界」 2002 図録より )
佐藤さんのアトリエを訪れてから2ヶ月が過ぎて、そのときのことを思い出しながら、いくつか佐藤さんへメールで質問をしながら、そして結局は新潟へ向かうまでに間に合わず、今は佐渡汽船の中で文を書いています。外に見える海と空と自分との間に窓ガラス1枚が境としてある当たり前の不思議の横で。
そういえば…2002年に一緒に参加したグループ展「Fiction?」(東京都現代美術館)のカタログを家の本棚から引っ張り出してきて、佐藤さんの仕事・制作を再び見直したりもしました。一度のインタビューだけでは佐藤さんの仕事は書ききれない…なんて思いながら、すこしずつカタログと昨年statmentsで観た作品と、アトリエで聞いた話やメモなどを思い出したり、メールの回答を読み直したりしていると…なるほど、なんとなくわかってきて感覚的には納得してはじめているところです。そしてやっぱり文字で説明しきれない一抹の不安もありながら。
佐藤さんは同い年。グループ展を担当した当時は美術館の学芸員だった平野千枝子さんと一緒にアトリエへおじゃますると、ちょっとした同窓会みたい。それは佐藤さんの人を和ませる雰囲気もあったかもしれません。snsのアイコンが何よりいいのだけれど、去年15年ぶりにギャラリーで再会したときは「和やかないいおじ……お兄さんになったなぁ」でした。作品や制作過程の話をうかがいながら、単純に好きな作家をあげてもらうとロバート・ラウシェンバーグがすぐ出てきて、その理由はほほえんでいるポートレートがすごくよかったから。「苦痛の果てじゃない制作」(s.j)。自分達と同時代に生きていた作家で美術を更新していく存在が苦痛の果てにいるわけではない、その顔。アーティストや芸術家というと、様々な問題を抱えて苦労しながら制作をつづける、早く亡くなる、そんな人が多いからかもしれない。長く続けてくると、そう亡くなっていった友人知人が身近にいたからかもしれない。もちろん苦痛やネガティブと捉えられること、社会の様々なひずみ、そこから Art が生まれたり受け皿となることは大切だと思う。けれども佐藤さんが求めたラウシェンバーグの在り方、そういう方向もたくさんあっていいはず。その想いにはどこか安堵した。

微笑んでいないけれど若い頃のラウシェンバーグ
話を遡って、なぜこのsadogaSHIMAのサイトで続けて作家のインタビューをしているかというと、秋冬は佐渡へ渡る機会がなかったのと、身近な世代の作家の話をきくことで私が数年前から患ってきたアート蜃気楼(と免疫疾患の持病。どちらも治りつつあるのですが)のリハビリみたいな作業として、まずは自分のためにしてきました。あと、一緒に始めてくれた梶井さんや上條さんが忙しすぎて書けなかったのもあり。自分のために話を聞いてみたい作家の言葉。それが現代アートの環境だけではなく、佐渡や他の地で出会った人、私が子育て中に出会った人、現代アートに興味がない方々や他のジャンルで活動されている方へ、すこしでもわかりやすく伝えられるといいなぁと。専門的に語るのは誰か他の方がきちんと書いてくれたら良いわけで、私の個人的な感想や主観になるのは仕方がないとして、風通しをよくしたい願いもあって続けてきま��た。
佐藤さんの作品は2002年のグループ展以降はなかなか観るタイミングがなく、昨年のstatmentsでのグループショウで久しぶりに拝見。当時の印象とだいぶ異なる仕事(制作)になっていて驚いて、どんな変遷を経てこの制作にたどり着いたのか、これまでの経過の話を聞いてみたくなって今回のアトリエ訪問につながった次第です。
それにしても10年以上の時間を経ているアトリエにはたくさんの作品がありました。去年の展示で気になったのはキャンバスを日焼けさせた絵でした。
外的な要因(s.j)

たくさん見せてもらった作品は、ある時期を境に絵のつくりを「自分」ではなく「外」に決めてもらう試みに変わってきているようでした。それは先に紹介した大槻さんの「震災のために制作していない」にもつながるのかもしれませんが、やはりあの出来事は人々の暮らしや意識、作家の制作まで大なり小なり影響を及ぼしているのだとこのインタビューを続けてきて感じます。それと、絵を描く人が概ね通ることなのかもしれません。前回紹介した木下さんもそうでした。一人の人間の主観でコントロールするイメージを絵にするのではない、別の絵の在り方を試みること。私が気になった日焼けの作品もその一環の試みの中にある。佐藤さんから返ってきた言葉。
日焼け
ひと夏の間、窓際に絵をかける。海に出て日焼けをして夏の思い出をつくるように、絵にひと夏の日差しを浴びさせる。水着のシルエットの形にキャンバスの一部を隠して、オイル(ペインティング)を塗って壁にかける。夏の終わりに壁から外してそこで制作の時間は終了。夏をすぎて日焼けの跡も薄く跡を消しかけた頃、過ごした時間はどこかにしまわれていた、そんな遠い記憶も思い返したり。周りの誰も私が海に行ったなんてことも忘れても、記憶の中に過ぎた夏の経験は私に残っている。 絵に使われる言葉で「絵肌」ってありますよね。そんなことも頭によぎったり。(s.j)

描くことを自分の気持ちや好み、イメージからではなく「外」「外部」「環境」に決めてもらう試みの作品は日焼け以外にもたくさんありました。水からお湯に沸騰するまで、沸騰したら絵を描くのをやめるシリーズや、ジャガイモを並べて数日間観察し、芽が出たら描くのをやめるシリーズ。絵の具をチューブからキャンバス上に出し切ったら描き終えるシリーズに、日が暮れる時間を一定観察して一番星がでた瞬間を描くシリーズ。これでもか!というぐらい、いつも何気なくある自然現象に身ではなく絵を委ねる。しかもひとつずつ検証的に何枚も。目前にあるたくさんの「外」に影響をうけた絵を見ながら、なんだかクラクラしてくるというか、絵ってなんだ?絵ができるとか、絵を描くことを改めて考え直す。イメージとは何?とも考え直す…なのかな。
十数年前のグループ展のカタログをまた見直す。あのときは感じ取れなかった佐藤さんの試み。絵の中だけで完結するのではなく、絵がキャンバスの上にあり、壁にかけられ、すこし離れて観る自分と身体の間…そのとりまく環境。自分と作品の間にある空気や距離、立っている位置や聞こえている音を意識しだすきっかけとしてキャンバスがあって、イメージがあって、またイメージの外を想像して…ということへ還っていくような。。。ぐるぐるめぐる。



佐渡島に来てから二日目の夜になりました。東京へ戻るまでに更新目標。話は飛んで、今日は佐渡島の南は小佐渡にある岩首集落の棚田を再訪しました。その棚田の保存に生を投じている大石さんという「じじい」さんにいろんな話をうかがったり里山を案内してもらいながら、どこかで佐藤さんの制作と照らし合わせたりもしていました。棚田の風景はとても綺麗です。そしてこのきれいな風景、目前にひろがる景色のみえない裏側には、里山の環境をなんとかまもってきた方々の何代にもつづく長い時間と労力と、社会、歴史や自然の変遷との対峙があります。風景とそれを見ている自分と、すぐ目にはみえてこない想像力を働かせないと分からないことごと。

棚田は斜面を活かして田んぼがつくられ、その風景をつくっています。斜面の上にはダムなどなく、田に水を張るには周りにある里山…落葉広葉樹林の土の下に貯えられる水が不可欠で、そのバランスを維持して成り立つ農業。その里山を守るには何百年ほど前からの時代の変化も影響していて、社会の様々な(ときに理不尽な)要請と折り合いをつけたり、選択を余儀なくされたりしてきた過程があります。いま棚田の上からみえるひとつの風景=「絵」までの間に、いまを生きている私の輪郭と、私の輪郭の外にある環境の制約の積み重なりのようなもの、それを感じとることと同じ感覚を佐藤さんの絵の試みを想ったときにふと体得できた気がします。

マクロ・ミクロ
全体と部分。0と1。樹木と山。個人と社会。惑星と宇宙。
間をたゆたうことで認識を揺れ動かす。 見えなさを抱える。 自分の背中を自分自身では見返すことができないこと。常に全てが見通せているような不遜さより、もしかしたら見過ごしていることがあると考えることは、より多くのことにたどり気づけるような手段な気がします。インターネットやデジタルな環境がもたらしたことに対して考えるすべとして。(s.j)
アトリエで見せてもらった中に、お金をモチーフにした制作がありました。ある時期、1日の終わりにお財布に残った小銭を裏キャンバスにトレース(転写)する。これもイメージを描くのではなく、必然的にその日のこった物としての「お金」が絵の状態を決めていく。

タイトル「cash flow」
貨幣としての形は同じだけれども細胞の新陳代謝のように、日々違うものが入り、流れ出ていく。
キャンバスの裏側に描かれているのは財布の中の表から見えない場所にあるというイメージです。 貨幣の本質はある種の概念であり、トレースされた輪郭に形を残した姿も概念的なイメージではないでしょうか。(s.j)


佐藤さんの試みてきた絵へのアプローチを見ていると、循環し流れつづける事象と、その間に媒介物のようにいる「私」が立ち現れてくる。この海や川をモチーフにした制作もそう。
海、川の循環。水分としては同じですけど場所が変わることで変化してゆく。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。鴨長明「方丈記」 鴨長明の生きた時代は戦乱と自然の厄災に見舞われた時でした。日常的に飛び込んでくるテロのニュース、頻繁に起こる自然災害、今起こっていることが遠く離れた時代ともシンクロしている。そんなことも頭の隅にあります。 (s.j)

物事がゆるやかに、ときに急激に変化すること。当たり前だと捉えていたことが当たり前でなくなったとき、他人の気持ちがわからなくなったとき。人は動揺したりショックを受けて、なかなか修復できずに時間はもどかしく過ぎていく。佐藤さんはその変化の隙間にある瞬間瞬間を、ショックをうけないようなことでも「なんで?」と問いを発して絵にしようとしている。その細やかな検証をすることで「分かり合えなさ」(s.j)が分かり合えるかもしれない可能性を求めて。絵を描くことは想い描くこと。見えていることから見えていないことまでを想像すること。机の上からはじまる一個人の試みは決して空論ではなく、分かり合えるかもしれないことを諦めない最初の一歩なのではないか。試みを続けていけば、切ない一瞬がくるかもしれないし、嬉しさを超える一瞬がくるのかもしれない。
小学生の頃に考古学者になりたいなと思っていました。具体的にどうその職業になるかとか、そんなことに及ぶまででなく、空を見上げて飛ぶ鳥に「あんな風に空を飛んでみたい」というぐらいの気持ちでしょうか。きっかけはハインリヒ・シュリーマンの偉人伝にいたく心動かされたことだったと覚えています。シュリーマンが子どもの頃に読んだホメロスの『イーリアス』の中にあるトロイア(トロイの木馬で有名な)の話を信じ、のちに発掘してその存在を確かめたというお話。気がついたら考古学から美術の道に歩みを変えていたわけですが、考古学者が昔に向かって時間を掘り進めていき、美術のこれからを作るということは未来に向かって掘り進めていくような作業かもしれません。ベクトルは違えど共にまだ今ここに見えていないものを見つけようとすることでは同じような気もします。(s.j)
佐渡島からの帰りのフェリー。あと少し。アトリエで佐藤さんの最近の制作は?とたずねると、出て来たのは木箱。フタを開けるとSNSアカウントの動物アイコンをモチーフに描かれた、たくさんの小さな立方体。積み木のようにコンパクトに並んでいる。

人間が作ってきた膨大なモノたちは地表の隅々までに点在し、それは幾多の出来事や時間の経過があったとしても「どうしようもなく世の中に残っていく」のではないだろうか。そう考えた時にまた「イメージを取り戻す」ことが出来ると思うようになりました。いま進行しているシリーズの一つはこの時代のポートレートを描きたいというのがまずあって、そこから展開しています。人が持つ人間性は人ではないもの「動物」に投影されることはままあり。また、動物化する人間という視点でもあります。互いの言葉を聞き合えない居心地の悪さが目につくこのご時世ということも含めて。( s.j )
「分かり合えなさ」 これまでインタビューと称して話をしてきて、いろんな方々から何度か聞いたことがある。分かり合えない。自分以外の人と。好きな人と。どうしても苦手な人と。親と。子どもと。近所の人と。遠くの人と。好みが違う人と。。。分かり合えなくていいじゃない。わかってくれる人、同じような感覚の人たち同士とうまくやっていけば。そう思う。そう思うけれど。それでよければ世界は穏やかなはずなのに。なんでこんなにも不安で、争って、未来がみえなくなるような状況になっているのだろうか。佐藤さんが描いたSNSの動物アカウントが寄せ集められてパカっと蓋を閉められ、一つの箱のなかに収納される。動物はそれぞれの(人によってつくられた)イメージを身にまとい、ほかの動物と群れをなすことはない。絵本にでてくる動物のように、とりやサル、たぬきにキツネ、ゾウやきりんが話したり遊んだりすることもない。現実ではほとんど弱肉強食の世界で、食うか、喰われるか。それは自然なことではあるけれど、動物のように住み分けされたSNSのアカウントは人間で、本来なら分かり合えるはず、という願いがあるのか違うのか。つぶやきは断面。断片。それだけで判断するのは難しい。SNSの使い方もそれぞれに異なる。佐藤さんが蓋を閉めた木箱へ、これからも淡々と採集されていくアカウントの動物イメージは仲良く箱に収まれるのか。そんなことを想う。

新潟から東京に戻ってきた。バスに乗るまで新潟で出会った人たちと喋っていたのが嘘のような、早朝の人もまばらな新宿駅。佐渡や新潟で再会した人、初めて会った人たちとの会話を昨日見た夢のように思い出す。それは旅先で日常ではないから、いつもは距離があるから、あんなふうに短い時間でもいろいろ話し合えたりするのかもしれない。もしかしたら最初で最後かもしれない切なさもあるから話せるのかもしれない。でも、日常だって本当はそうなんじゃないの。毎日がずっと続いても、日々、何かは少しずつ変化している。ジャガイモの芽がのびたり、昼が夜に変わったり、水から湯気へ変わったりするように、一人の身体のなかでも血管や筋肉が衰えたり、病の芽が大きくなったりしている。昨日会った人が明日倒れるかもしれない。それは自分でもあるかもしれない。
調和ということを人は想定するけれど、現実は不均衡で、非対称的なバランスに世界は満ち溢れている。調和を希求しつつ、そこにはたどり着くことの難しさ、その逡巡や葛藤のはざまに、人間的な営みがあるように思えます。(s.j)
この数年、自分の住む場所以外の地へ少しずつ通った。といっても数えるほどしか訪れていないけれど、それでも余所者として入っていくと見えてくることもある。その地に住まう方々の日常と関係性。そこへ余所者は無責任に何も言えることはないし何もできない。私はただ絵描きとして、心に焼き付いた風景は絵として残ってほしいと願う。いいなと思う言葉やまなざしをもつ人にはまた会いに行きたい。時々だから成り立つもので都合がいいかもしれないけれど、可能性を開いておくには時にちゃらんぽらんのほうがいい気もする。かえって自分の日常でも同じだけれど、すべての人とうまくやっていくのは難しい。人の感情、記憶、考え方…絡み合って毎日は続いていく。思い通りにはならない他人の感情。自分の感情も。事実はどちらにも正しく折り合わない。そのまま年月が過ぎたり、大人数になると手はつけがたい。話合えない。仕方がないですむこともあれば争いにもなる。人間的な営み。調和できなさ。良くも悪くも動く感情。
キャンバスを日光で日焼けさせ、物理的な事実を定着させる。裏キャンバスへその日の財布に残った事実=小銭をトレースして刻印する。湯気が沸騰する瞬間、ジャガイモの芽がでる瞬間=事実で絵を描き終える………感情ではなくひたすらに事象を観察して絵を委ねたのは、目に見えない人々の感情に左右されるのではなく、できるだけ客観的な出来事を捉えることで未来を豊かにするための手がかりを知るためだったのかもしれない。絵を描く人はたぶん間にいる。絵を描くことは間にいるのだと思う。イメージと絵の間。想像と現実、過去と未来の間。後ろと前、空間と時間、次元の間。分かり合えなさと、分かり合えたらいいのに、の間。
東京に戻ってきてバタバタと休みなしの連日。忙しくさせられている。そこから抜け出せないから分かりあう機会も減るよね、なんて思いながら最後に佐藤さんのハチドリの制作を。ネジはすこしずつ緩むけど「いつまでもルーキー」と笑っていたさとじゅんさん。そう、悲観していたら細胞や生は縮んでしまう。ラウシェンバーグのように美術を更新しつづけてほしい。
生まれる前、死後。その間にある生としての時間。(s.j)
ハチドリの制作
キャンバスを袋のように形をつくっている作品です。キャンバスにはハチドリのシルエットがきり抜かれています。切り取られた形の奥にはキャンバスの裏側、絵の裏が見えます。ちなみにハチドリは日本にはいなくて、南米などに生息している、名前の通りハチのように小さい鳥のことです。 ペイントされている色は日の沈む手前の空の色で、夕刻から夜に移り変わる瞬間のような時間を色に置き換えています。 なんでハチドリなのか?由来としてはある映画をきっかけとしてその形を選んでいます。それはアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「21グラム」という映画で、その映画についての詳細は見てもらうとしまして(笑)。そのタイトルの21グラムの由来となっているのが人間が死んだときに21グラムの体重が軽くなる。それでその軽くなった21グラムが人間の魂の質量なんだという。 私たちの前にある生。私たちの後に続く生。今ここにある私たちの生きる時間は暮れ行く前の間に刻々と色をかえる夕暮れの時間にも似ているのではないでしょうか。(s.j)

佐藤純也
1977年宮城県生まれ 。2000年多摩美術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。主な展覧会に 2002「MOTアニュアルFiction?―絵画が開く世界」(東京都現代美術館/東京・2002)、「ten」(青山|目黒/東京・2010)、「VOCA展 2011」(上野の森美術館/東京・2011)、2015 「The Wanderer」( Museum of Contemporary Art/ブカレスト、ルーマニア・2014)、「Artist Recommendation vol.2 路傍の絵画」(アートラボはしもと/神奈川・2015)、「 After the summertime」 (statements/東京・2016)、「Spring Fever」(駒込倉庫/東京・2017)
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木下令子さんの制作

今年の2月、梅が咲き始めた頃。 木下さんやいろんな年代の作家が集まっているアトリエ一帯へ。去年、佐渡島のジャンマルクさん夫妻が営むビストロから取り寄せたbioワインを一本持って、梅見と称したアトリエ訪問。小佐渡(佐渡島の南側)岩首の棚田に世阿弥の彼岸ボートを建てた寺田佳央さんも一緒に食べ物を持ち寄って。
2015年に佐渡島を訪れた翌年、このtumblerの投稿にて紹介したミルク倉庫で初めて木下令子さんに会いました。島や旅に興味を持っている人だと今井俊介さんからの紹介。その時は初対面だったのもあって、あまり詳しく話せず間が空いてしまったけれど、ようやく一年後にアトリエを訪れてゆっくり話をする機会につながりました。


驚いたのは、木下さんは美術大学の受験で三浪していたときに始めたアルバイト先で、佐渡島出身の方に出会っていたこと。木下さんは美大受験のために地元九州から単身東京へ。三浪目のはじめは予備校へは行かず、初めて花屋でアルバイトをしながらその先をゆっくり考えることになる。そんな時に出会ったのが佐渡から来た方で、お世話になって仲良くなったとのこと。だからこのtumblerサイトに興味を持ってくれていた。 もともと旅好きで色んな島を訪れたことがあった。幼い頃の話を聞くと、お父さんが車や旅が好きで、家族みんなで旅行をしていたことが大人になっても身体感覚として馴染んでいることが言葉の端々から窺える。美大へ入ってからも東京を拠点に様々な地へふらりと旅たつ。そんな自身を舟のようだと言う。旅の目的地へ着くまでの道のり、交通手段などゆっくりあれこれと選ぶことが好き。その過程を想像することが楽しいのだと。

アトリエには大きな窓がある。光がたくさん入る空間。陽射しの移ろいを眺められる場所。このアトリエへ移ってきてから制作が大分変わって、環境からの影響を紙・平面の上へ取り込むようになった。ここ数年取り組んでいるのは、写真の印画紙を支持体にしてエアガンでスプレー彩色しながら、自然感光して日々変化していく色との対話。紙にできた皺やかすかな折り目などが色の粒子の溜まり場となり、光とともに色層を成していく。色が言葉で表せない深みや陰影は、その変化にかかった時間や印画紙の記憶からにじみ表れてくる。 絵の具の色だけではなく、自然の光と時間の作用を「色」として取り込んでいる、とても興味深い試み。この光や影、色との対話は、ある瞬間まで作品として完成するかしないか分からない。ある瞬間は自分の色・意思だけではない、自然の光と印画紙のやり取り、それまでの経過すべてが揃ったときに無言でそっと挙手するような一瞬。

絵を描くということは、そもそも不可能な夢や希望を孕んでいる。見えたもの、見えないものをそこに留めたい。時間さえも。この地上にある限り、そこに留まって変わらない物はなにもないのに。自分でさえ生まれている以上はいつか死ぬ。描いてどうする、留めてどうする、残してどうする、という諦めをどこかに秘めながら、絵を描く人は描くことを問いながら大真面目に描き続けているように、私は思う。だから惹かれる。仲間として?…そう、たぶん仲間として。
木下さんのアトリエにあるたくさんの紙片は、壁が長い年月、壁自身の表面を通りすぎていく陽を受け止めながら少しずつ日焼けして肌の色となるように、自ずから生きて内側から描いているように見えた。そこへ人・木下さんがやってきて、そっと息を加えるような、そんな出会いと作業の繰り返しが積み重なっている。不可能な夢に果敢に挑むというよりは、不可能を受け入れはじめた自然と人との新しい関係のような。諦めを受け入れることで、より絵の可能性が拡がっているような。蒸気のような空気が、あちこちに散らばっている紙片から光合成のように生じているような気がした。

その制作に取りかかるまでは、自分で全て決めていく作業が多かった。予備校では受験に受かるために、様々な技法を試みてはある程度の完成度へもっていく。言い換えれば、ある程度見せられる作品が描けるようになる。それはもちろん、予備校の先生が生徒のもっている質を見極めて引き出してくれたり、自分でも悩んで内面にあるものを自覚して質を高めていくので「嘘」ではない。けれども、いちど完成度をたかめてしまうと、美大へ入ってから燃え尽きて(巷では燃え尽き系と言うらしい?)絵を描くことをやめてしまったり、そこに依存して抜けられなかったり、またそこから抜け出そうとかなりの時間と格闘することになる。
木下さんはかなりトンがった生徒だったみたい。目の前にいるホワンとした印象の女性とは大分ちがう過去がある。私は二浪で木下さんは三浪。美大では現役~3、4浪と年齢の異なる人がいるのは当然で、(私の学年には30代の社会人も居た)同じ一年生といえども歳を重ねている分「私は先生の言いなりにはならない」みたいな意識もどこかにあったりする…ような気がする。木下さんもそれまでに習得した絵の描き方とは違うこと、美大に入ったことでキャンバスから解放されてゼロから自分の表したいことを探そうと、パフォーマンスなど異なるジャンルのカリキュラムをとりながら別の美大へもぐったり旅に出たり…アクティブにもがいていた軌跡を聞くと、私も自分の学生時代を思い出しているようで懐かしくなった。思い返すとかなり恥ずかしい、生意気で無謀なことをやらかしていた時代。けれどもそういうもがきや失敗、恥ずかしいことがなければ、今も無い。それは多分、美大に入らなくても誰もが経験すること。
過去の作品ファイルを見せてもらうと最近の印画紙の仕事とは異なり、糸や空間を使ったインスタレーションが多い。今とは見え方は違っていても、自然環境や風景を取り込んで一体になりたい感覚は繋がっているように思う。そういう感覚……ものすごく大雑把に言うと「女性性」なのではないかとも感じる。大きなもの、母のようなもの、日常や旅の行程の全体…… そういう所と切り離さない感覚。女だから女性性というわけではなくて、性差に関係なく一人の人間の中にある女性性。糸の話を聞くと、子供のころ自宅でお母さんが裁縫の仕事をされていたとのことで、身近なモチーフだったのだと納得。
ある時期までの制作は、自分で決めていないと不安だったという話があったような。自分が主体であって、表すことすべて操作して行っている感覚。それは旅の行程を把握して決めておく安心感にも通じるのかな?なんて思う。その一方で、旅には予想外の出来事が多い。それを受け入れられるようになってきたのが、最近の仕事(制作)になってきているのかな?とも感じる。


木下さんのアトリエ訪問から時間がすぎて、個展会場でまたゆっくり話をすることができた。アトリエで観た作品たちがフレームに入って壁に居る。アトリエの時とは少し違う顔。息をして休んでいるような表情から、永遠の休みか、ここではないどこかへ旅立ってしまったような顔。けれども離れて行った寂しさは無く、色や皺の陰影が自信をもってそこに留まっているような。
アトリエで見せてもらった、展示空間でも目立たないところに掛けられていた木の作品。木の輪切りに写真が投影されたもの。木そのものの年輪や色、形の上へ柵のようなイメージがプリントされ、時とともに樹液がにじみ出ている。学生の頃に試みた作品。物そのものの記憶と自分が出会う接点をとても大切にする原点のような作品。出会わなければほとんどが知らない存在である中、自分と出会ってしまったものとの偶然と必然を愛おしむような、ある種の果てない欲のような感覚がギュっとそこに集まっている。

「ほんとうに悲しいことは語れない」と木下さんは言う。語れないけれど作品には滲み出る。ほんとうは語りたいのかもしれない。作品の色味や陰影が代わりに語っている。受験の頃の絵から始まって、トンがった学生時代の空間の制作や旅、そこからまた印画紙の平面へ戻ってきた昨今の仕事。その過程には様々な予想外の感情の起伏がある。印画紙の、言葉で言い得ない色の移ろいを見ていると、なんとなく、また印画紙から蒸気がうっすらと立ち上がり、平面から拡散していくようにも見えた。
描くこと。作ること。
色んな方々の制作について話を伺ってくると、年月を重ねることが大切なのだと気づかされる。最初は若さや力任せで進めても、習得した技術がどんなに素敵でも、それだけでずっと同じには続かない。生活や自分の身体、それをとりまく環境、社会との関わりで、自分自身も変化していく。その変化の横には他者の存在があって、好きになったり嫌いになったり、悩んだり、喜んだり、泣いたり、消え入りたくなったり、希望を探したりしながら心の皺を刻んでいく。その皺の濃淡が制作へ還っていく。描くこと、作ること、表すこと、語ることの距離は、年月とともにより密接につながっていく。
つくることは誰より本人が救われるものであってほしい。生きるために息をするのと同じぐらいになったとき、それが他の誰かにも伝わっていく。作品はその間で、いつだって静かにウトウトしながら、窓を開けられるのを待っている。
2017.4.18 泉イネ
木下令子
1982 熊本生まれ 2009 武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了 2012 ホルベインスカラシップ奨学性
【個展】 2017 「ゆるやかな仕掛け」switch point / 東京 2016 「 2015 「 日のなかの点」清須市はるひ美術館 / 愛知 2014 「折りを手繰れば、」Artist Residenc ProjectVol.11 H&R ROPPONGI / 東京 2014「 浮きの下の魚」新藤君平企画 Gallery Barco / 東京
【グループ展】 2017 spring fever 駒込倉庫 /東京 2013 「ダイ チュウ ショー -最近の抽象- 」府中市美術館市民ギャラリー / 東京
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大槻英世さんの制作

もう 愉しめない人たちがいるということを 知っておくだけでいい。
震災のために制作していない。
そう、大槻さんが言ったか、それとも見せてもらったノートに書いてあったか。話を聞かせてもらった日、そろそろ帰る時間が近づいた頃の私の脳の記録。この日、面と向かって大槻さんと話すまで、私は大槻さんとは立ち話しかしたことがなかった。数年前に体調が安定してきたのと、アート蜃気楼を治そうと色んな展示やイベントへ出かけるようにしていて、横浜にあるブランクラスでの何名かの絵描きトークイベントを聞きに行ったときに初めて大槻さんの絵に興味を持った、ぐらいでした。
その後も機会を逃して個展も拝見できず。Twitter上で流れる展示の絵を見て、話を聞いてみたいなーと思っていたところ、sadogaSHIMAに載せたhyslomについての投稿お知らせを「いいね」してくれたタイミングがあって(単純です)ちょうど同時期に仙台へ行かれているようだったので、インタビューさせてほしいと連絡をとりました。

マスキングテープは絵具を塗る時などに色がはみ出ないようにしたり、物を仮に留めるためのテープで、半透明で様々な幅のものがある。いわば脇役テープ。さいきんはおしゃれな柄のテープが一般的な雑貨として売られているけれど、美大では絵画科からデザイン、工芸、建築…たぶんみんなが使うのはクリーム色か青、黄色のシンプルなテープ。私は二浪目の予備校時代にその半透明の直線の重なりや連なりの綺麗さに一時はまって、それだけで絵を描いていたりした。(その後、その技や作業だけに拘って絵心を失い気味になってしまい、予備校の先生からストップがかかって止めた次第)だからそのテープの醸し出す魅力はよく分かっていたので、大槻さんが試みている絵には人知れず興味がありました。
アトリエ兼自宅へお邪魔すると、学生時代に戻ったような感覚。「こんなかんじの先輩いたいた」と思いながら入ると、本棚と、奥には制作部屋。壁にはところ狭しと色取り取りの小さなエスキース的な作品がバランスをとっていて心地よい。ちゃんと制作している人の壁。


自分の目にとまるものや気になるものを端的にパッと見てもわかるのは、具体的な風景や物のなかにある幾可学的な形からエスキースが展開していそうなこと。表れるものが抽象的でもモチーフは具象。その時はふとロスコやモンドリアンの初期、抽象を描く前の地下鉄や百合をモチーフにした絵を思い浮かべ、翌日には福田平八郎の屋根や水面を思い浮かべた。
冒頭から抽象や具象の単語が出ると、大槻さん「そのカテゴライズの無駄さ」。少しずつ話をうかがうと初期の作品ファイルがでてきて、空と電線のモチーフにたどり着く。

子供の頃、電線がどこまでつづくのかと友達と辿って遊んでいたそうだ。空を見上げると電線がある。空の面を見ようとしても前景には線がある。電線をみると後景には空がある。その目線と見える次元の時間差。往来。
線に惹かれるようになったのはそんなきっかけが事の始まりか、はたまた、地元宮城で保健の先生をしていたお婆ちゃんが新聞のガリ版印刷をするためにひいていた定規の直線が原体験か。本棚を横にしてお茶を飲みながら、絵が好きだった子供時代の話、宮城の話にも遡っていく。
私と同じだったのは、幼少の頃から絵が好きで教室に通っていたこと。私もそうなのだけれど、子供の頃から絵を描いてる人は単純に描く喜びを知っている。描くことが楽しい。モチーフはなんだって良かったりすることもある(というとやや語弊もあるけれど)。楽しんで描いた結果に絵となっている、のがいちばん嬉しい。けれども「ここ」までくると、純粋に絵を描くのは情報がありすぎて、描く喜びをどこに見出すのかが難しい。
私と違ったのは現役で美大に入っていること。予備校に通わず、高校まで通っていた地元の画塾でとったいくつもの受賞歴で推薦入学されている。予備校、浪人時代に現代アートの情報に触れる機会が多い中、大槻さんは現代美術や現代絵画には触れてこなかったから、美大で抽象表現を知って衝撃だったそうだ。

たくさんの画布端が出てきた。「これ(画布の試作)は自分が死んでから発見されればいい」なんて冗談を言われてたので、ここでお披露目。そこにはマスキングによって描かれた、マスキングテープのような線がたくさん並んでいる。一見すると「マスキングテープがたくさん貼られている」ように塗られている。
昔、カマキリやクワガタを描いたように描けばいい。だって描くのが楽しいから。マスキングテープが貼ってあるように描くことも、それと同じ。
大槻さんが立ってマスキングテープを取り出して少しちぎる。「マスキングテープってさ…」と言いながら止まる。私は思わず先走って「半透明で美しいですよね」と言ってしまったような気がする。この会話はピンとこない人も多いかもしれない。何のどこが美しいんだと。高級な美しさじゃない。安価で、ちょっとした脇役で使われれば捨てられる、そんなテープの美しさ。何かを押さえるのに貼ったときの、地の色が透けてみえるマットな美しさ。日常の縁の下の力持ち、とは言いすぎか。ほんとうにささやかなというか、意識しなければ気にもとめられない物。大槻さんが何て言おうとしたのかは定かではないけれど。そういう役割のものに惹かれているようでもあった。
大槻さんがマスキングテープを絵の具で描くのは、マスキングテープの生を絵の具の生に置き換えることで時間の軸を遅延させ、その対象を描くことでその物やイメージの命を延ばす。マスキングテープはセロハンテープなどと同じく劣化し黄変する。永続性はない。絵の具ももちろんないけれど、何世紀かは持つ。


本棚の斜め上に、女子が喜びそうな小振りな布にカタカナの字をマスキングテープで貼ったようなタイプの作品。それについて聞くと、他にもたくさんのタイプがでてくる。カタカナシリーズのためのプランノートも。ほかにもノートは数冊あって、どれも異なる制作のために書き込まれている。(ノートの記録もすごい)
カタカナは絵から遠い意味のない形として。壁に柄模様の布をマスキングで四隅を留めてみたとき、その布に描くモチーフとして選ばれた。四隅を貼っているのは本当のマスキングテープ。意味のないカタカナは偽物(描かれた)マスキングテープ。パッとみると嘘も本当もわからない。そこには虚実の遊び心が展開している。布も額に入らず、木枠にも張られない。さりげない「布裂」のまま。飾らない、気取らない飾り。
このカタカナの制作が2010年の頃だと聞いて、その翌年の話に移っていった。それを私から聞いたのは、私自身、その頃をきっかけに自分の制作が他者と関わったり、身体性を意識したり、移動するようになったから。ただ、私は大槻さんが実際にその日その地に居たことを知らなかったからで、先に知っていたらもう少し遠慮したのかもしれない。前情報がなさすぎるのも恐ろしい。
話が予想外に進んだり、止まったり戻ったりするにつれ、聞いてはいけなかったような気も所々でした。相変わらず私は足らない。後ろめたさを感じながらも大槻さんが「制作と震災を直接ブリッジさせたくない」と言うのを聞きながらも「ゆりあげ」シリーズの作品を見ると、底でつながっているように見えた。作品が物語る。


セルリアンブルーより明るい。マリンブルーとかピーコックブルー? マスキングテープは使っていても、それまでの遊び心はここにない。マスキングの痕跡さえほとんどわからない。漆のように鈍く澄んでいて吸い込まれる。あの頃、何も手につかなくなる作家もいたけれど、敢えていつもどおりに変わらず制作する作家もいた。私はどちらかといえば手につかなくなるわけではなく、何かしようとしていた。大槻さんもそうだった。ただ、作業をすること、手をとめるよりは動かしておくための制作のように見受けられた。何も考えず。前景も後景もない。漆のような表面にはうっすらと、ゆらゆらと自分が映り込む。誰かは分からない影ぐらいに。
閖上:ゆりあげは大槻さんの実家からすこし離れた場所で、子供のころ釣りや泳ぎに行くといえば閖上の海。小中学校の先生が住んでいたから遊びに行ったり、五十集(いさば)と呼ばれるおばさんが魚の入った籠を背負って閖上から実家まで売りにきていて、焼きガレイが美味しかったこと… 地名の由来など、話は尽きない。
大槻さんは3月10日にちょうど宮城の実家へ戻っていたそうだ。それまで発表しては置き場のなくなった作品たちを実家に送りつけていて、いい加減どうにか整理するよう両親から言われてしぶしぶ戻ったというか、今にしてみれば、自分が産んだ作品たちに呼ばれて戻ったというか。私も含め、多くの作家によくある話。
そして3月11日がきて、3月12日は海へ向かった。人を探しに。
私にはこれまで直接経験した人が身近にいなかったから、初めて直接そこに居た人から話を聞いている空気に触れた。ボツボツと断片的に大槻さんが話す言葉から、いろんな風景が見えてくる。絵描きはよく風景で記憶するし、風景を妄想しやすい。
…灯が消えて、屋上から空を見上げたお母さんが「星がきれいよ」と言う。こんな時に何言ってんだと見上げると、悔しいぐらいにきれいだった。日付が人生の中で刻印される。うれしい日ではない。それでも当たり前のように翌日の朝、太陽は昇る。何事もなかったかのような自然。容赦ない。「自然って…クソだな」ってたしか大槻さん言ってたよね。
私は取材といってもプロではないから録音はしない。作家として制作のことをできるだけ素に聞きたい。話したときの記憶、見た物、メモ、感じたことからあとで文字にする。この時は動揺があってメモが幾分飛んでいた。紙には
「不安をひっくるめた制作」と対に「優しさだけを残して」と9Bの濃い鉛筆で走るように書き留め、その上に「仙台」「同級生」。そのすこし上のほうには「信じることを疑う」「それを描く」…
まとめるのは難しい。大槻さんもその時は言葉にならないようなことを、時々止まりながらなんとか言葉にしてくれようとしていた。「ゆりあげ」。このシリーズはもう手がけることはない。そうだろうか、そうなんだろうか。


その後…だから、最近。それからしばらく年月がすぎて、どんな制作をされているのかが気になってきて再びアトリエにいくと、たくさんプロトタイプのような作品がまた出てくる、出てくる。この仕事量にはほんとうに恐れ入るというか、反省してしまう。そしてなんだか漠然とくやしい。世の中にはいい作家がたくさんいる。



ギフトバッグを支持体に、これまでの仕事と同じようにマスキングでドローイング。そこからバッグそのものを破いて様々な形へ展開、そこへまたマスキングを貼ったり、剥がしたり、その痕跡とまた会話をしてコンポジションしていくような仕事へ移っている。四角四面の地から解放されて、色と形の自由度を得てきている。その形が人のような姿に見えるのは、大槻さんが続けている武術による身体の痕跡か、否か。人の顔を描くと、いつも(鏡で)見ている自分の顔に似てしまうのと同じように見なれている姿の型になってくるのかな、なんて思う。
このギフトバッグも言ってみれば脇役。誰かに贈り物をする気持ちやプレゼント=主役に対して一時添えられるぐらいの脇役。そして、そのために大量に作られて日常にある。たくさんの日常(にあるもの)が解体され、その解体したところから対話が連なり、また途切れて折り返し、違う方向へ行ったり対話し直したり。そうこうしながら新しい姿が現れてくる。
一貫していた。表面的には変わっても制作は一貫している。震災のために制作してるんじゃない。けれども、絵がすきだった幼少時代からこれまでの話を聞いてから最近のギフトバッグの制作を見ると、一貫していてるけれど 2010年より前とは明らかに違う。と、私には受け取れた。ちょっとしたものやことをモチーフにああでもないこうでもないと熱中する。その軽やかさの裏側にこの数年で沈殿したことごとからの上澄みが、表面へ作用する。
会いたかった同級生。
優しさだけを残して去っていった人 たち を知っていること。それだけでいい。この制作をする理由が今たしかにここにあって。
自然は容赦ない。なにがあっても明日も太陽は昇る。月も星も美しい。
作家は誰になにを言われずともその制作欲に動かされて描き続ける。
大槻さんの言葉を借りよう。
自然がクソならば、作家だってクソだ。
同じように容赦なく在ればいい。
2017.2.25 泉イネ

大槻英世
1975年宮城県生まれ。1998年東京造形大学造形学部美術学科卒業。主な展覧会に『Horizons』(児玉画廊|白金・2016)、『冬の絵〜Frozen Transience』(ギャラリーターンアラウンド・2015)、『仮止め、ディプティック、その他』(アルマスギャラリー・2014)、『大槻英世展』(シーソーギャラリー・2014)、『VOCA展』(上野の森美術館・2014)、『ダイチュウショー 最近の抽象』(府中市美術館、LOOP HOLE・2013)
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ヒスロムのこと








ヒスロムについて、泉イネさんから何か書いてほしいと頼まれたので、���昨年の夏大阪でヒスロムに出会ったときのことを書きます。
初めて知ったのは前回書かれていた神田でのイベントで、パフォーマンスの中身だけじゃなくヒスロムの3人それぞれのこともとても好きになった。初めて会った人とすぐに仲よくなることができるときその理由は何なのか。ヒスロムは身体がとても美しかった。
翌月の8月、関西から熊野にかけて旅行する予定だった。大阪で何日か滞在したあと、その後1週間かけてゆっくり新宮を中心にまわる。どこに行くかはその日に決めればいい一人旅だったけれど、大阪最後の日のつもりだった夜にヒスロムと再会して、結局そのまま1週間近く一緒にいた。彼らの家に泊めてもらい、明日はここ、明日はここ、とヒスロムがいつも通っている山や鳩小屋、海、湖とあちこち連れて行ってもらった。何日も続けて会い、一緒に移動を繰り返していて知ることがある。移動のスピード、留まる時間、休むタイミング、体の強さ、ゴミの捨て方。
ヒスロムは何にでも時間をかける。 考えることにも話し合うことにも、何かを決めることにも。移動の前に腰を上げるのにも時間をかける。急いでいるのを見ることがない。3人とも寝ていられるならばいつまでも寝ている。
時間をかけて身体で確かめる。その遅さによって、時間のかけ方によって、歴史と言われるもの、時間的にも空間的にも遠くへ届くことができる。岩や木に向かって身体をきちんと酷使する。それが当然なんだろうと思う。なんの縁もないかような岩も木もそれだけのものだ。それがとても頼もしい。
vimeo
2015.8.10
明け方前に起きて自転車で鳩小屋のあるビルに向かう。ビルの屋上に上っていくと千羽ちかい鳩の羽音と鳴声が重なりあった音が響いてくる。真っ暗な小屋の中で、星野くんはたくさんの鳩の中からその日訓練に連れて行く鳩を一羽ずつ選び出していく。夏は暑くならないうちに、遠く離れた場所から鳩を放し巣へ帰らせる。ケージを詰め込んで車を走らせる。少し進むと車はぐるりと廻ってまた同じビルの前に戻ってきた。星野くんはヒスロムの倉庫になっているそのビルの一階に入っていくと「大事なものを忘れた」とシュノーケルをふたつ持って出てきた。1時間ほど北に向かって走り、夜が明けたサービスエリアの駐車場で鳩の2/3を放つ。こんなところでこんなにたくさん放していいのかと思う。車の間を鳩が飛び交って、黒い点になったりきらきら光る点になったり、旋回しながら遠ざかっていく。訓練を積んだ鳩ほど旋回の時間が短くて、すぐに家の方向を見つけて飛んでく、と教えてくれた。ベテランの鳩をさらに遠くから飛ばすため琵琶湖へ向かう。たくさん話をする。波打ち際で鳩を飛ばしたあと2人で泳ぐ。湖で泳ぐのが初めてだったから塩辛くないことに驚いた。
昼過ぎに鳩小屋に戻り、とっくのとうに帰ってきていた鳩を数える。予想よりたくさんの鳩が帰ってきていたらしく星野くんは喜んでいた。一度に何百羽も飛ばす訓練でもすべての鳩が帰ってこれる訳ではない。家を見つけられなかった鳩は野生としては生きていけないらしい。どんなに長く訓練を積んだ鳩も、信じられないほど高い値打ちのついた血統の鳩も。鳩たちに餌と水、消化のための石の粒を与える。小屋の中は血統ごとに部屋がいくつも分かれている。星野くんは動きまわる鳩たちをじっと眺めて、1羽ずつ状態を確認していく。1羽、足を怪我している鳩を見つけ、外に連れ出して傷口を洗った。




ビルの屋上の隅にポリバケツがあって、星野くんはその中に死んだ鳩を埋めていた。ここの仕事を手伝いだす前までの決まりのようにゴミとして捨てることはしないで、ここでできた土で鳩のための木を育てられたらいいかもしれないと言っていた。



2017.2.1 斎藤玲児
hyslom / ヒスロム
加藤至、星野文紀、吉田祐からなるアーティスト・コレクティブ。2009年から現在まで、山から都市に移り変わる場所を定期的に探険する事で得た経験や疑問、人やモノとの遭遇を表現の根底に置きプロジェクトを行う。遊びを通して風景、土地を知る行為「フィールドプレイ」を行い、映像・パフォーマンス・彫刻作品などを制作。青森県立美術館「青森EARTHアウトリーチ 立ち上がる風景:new documentary for'atopic site’」プロジェク���(−2017/3/31)、2018年 せんだいメディアテークでの展覧会にむけて地域の調査、制作を継続中 http://www.smt.jp/projects/study/
斎藤玲児
映像作家。1987年東京生まれ。主な展示に「#18-4」switch point(2016年) 「もうひとつの選択 Alternative Choice」 横浜市民ギャラリーあざみ野(2015年)http://reijisaito.com/
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hyslom

ヒスロム。関西を拠点に活動する3人のグループ。
彼らを知ったのは一昨年だったか、キュレーターの遠藤水城さんが嬉しそうに「やばい」人たちだと言ってたのを覚えていて、去年の夏、神田でイベントがあると聞きつけて友人と観に行きました。ちょうどその頃、このtumblerにて写真家の長島有里枝さんを紹介した投稿で、すこしだけhyslomも触れたので覚えてくれている方もいらっしゃるかもしれません。
すぐ紹介できたら良かったのですが、彼らの本質というか… 良さや危うさを私自身が書ききれないし、文章にすると違って伝わってしまうような気もして、しばらく触れられないでいました。その変わり、次回投稿予定の斎藤玲児さんは彼らと繋がっていて、今年の10月に久々に彼らと遭遇できたのも、斎藤さんが「hyslom東京にきてるよー」と教えてくれたから。
いつかタイミングが合えば佐渡島へ行けるといいね、なんて、アバウトな約束をしているのも私の勝手なイメージで、佐渡の(とくに大佐渡?いや、まだ見ぬ縄文杉もいいのかもしれない)自然の豊かな荒さと人の営みの共存が、彼らの何かと通じるような、もしかしたら…ちがうような。そういう段階。
その「何か」はきっと文章では書ききれないので、ひとまず、去年観た神田でのイベントをざっくりとご紹介します。

去年の夏も暑い頃。
予約して現地へ行ってみると、神田らしさが残るエリアの一棟、入り口はどこか迷いながらみつけた手書きの案内。手書き感がわざとらしくなく、思わず気が抜けて笑う。冒頭から飾らない。白い壁のギャラリー展示より、古いビルの方がいいだろうと探して一棟を安く借りたそうだ。少しカビと埃の混ざった懐かしい匂いが建物の奥からしてきて、昨今の綺麗すぎる建築に慣れてしまった私は入るのを一瞬ためってから、いやいや大丈夫、と案内の通りに進む。
上の階には既に観に来た人やhyslom、遠藤さんなどなど、見知った面々もたくさん居てほっとする。薄暗い室内の所々には、関西にある自分たちの作業場から3tトラックで運んできたという大きな丸太や鉄板。それは彼らと時間や行為を共に過ごしてきた物物。神田の古ビルは冷房はもちろん効かず、開け放たれた窓の外からは車の走る音や機械、人々の気配音が時々のぼってくる。そこで、まずはhyslomのこれまでの活動のスライド上映。

本当にざっくり言うと、彼らは関西の、自然と都市の境にある「場所」で遊んでいた。それはどこにでもよくあることなのかもしれないが、この時の上映と、そのあと数回、彼らのイベントで通底するものを感じたのは、その遊びが思いの外、一瞬間違うと危険なこと、遊びによって生じる形態や形象の美しさや面白さが意識されているところで、時にシリアス、時に滑稽に、際どいバランスを保っていること。最初は「どれどれ」と蒸し暑い中見ていた上映も理解するにつれて、窓の外からの音も消えて、暑さも彼らの遊びの中にひきこむ効果になっていた。
彼らの遊びは主に自然と繋がっている。けれども大自然ではなく、自然と人工の関わるところにある自然。そこに生じている事物、ふだん誰にも気づかれずに変わったり消えてしまうような事事を、子供がするようにつぶさに観察したり、触ったり、動かしたり、入り込んだりして遊ぶ。なんだか、上映と説明を見聞きしていると、遠い昔、自分たちが行ったかもしれない遊びを思い出しているかのような…白昼夢に陥ってしまった。

休憩のあとに始まったのは、3tトラックで運んできた丸太との戯れ。この丸太は、彼らが遊んでいる場所に埋まっていた木。遊んでいた場所にあったから故の愛着ではなく、もっと深い想いがあるのだろう、その木の生きた永さとか、切られるしかない木の定などを「植物なんだから仕方がないじゃない」と割り切らない。その木への敬意のようなものが、無言で行われつづける丸太との遊びに込められている。
重そうな木を持ち上げたり、転がしたり、グラグラと乗ったり、積み木のように重ねたり…パフォーマンスはたぶん決まった振り付けはなくて、三人と木々、それぞれの行為が絡み合って動いていく。バラバラのようで、なにが起こるかを互いに察知しながら、楽しんでいる。そして楽しんでいるのだけれど、身体は極限まで酷使されている。酷使しないと、その木への敬意には及ばないから。人と自然と分けるのではなく、人も自然の一部になるような、そんな戯れ。

これは、祭の初まりだと思った。 どこにもない彼らの祭。とても個人的で、この場限りのもの。
親だったら、骨折しちゃうじゃないの、そんな危ないことやめときなさい、と、つい言いたくなるかもしれない。でも、彼らは子供じゃないし、危ないことはわかっている。分かっていて本気で行う。子供みたいなことを子供以上に本気で行っている。
私は長いこと関東育ちで引越しも何度かしたので、故郷といえる場所がない。その「無さ」は今や嫌ではないけれど、故郷のようなものに憧れもある。祭とか、継承されている文化とか…その土地と自分が根付くようなものへ。だから、彼らの上映やパフォーマンスを見ていて、日常にあるなんでもないような環境を自分たちの目で見て、触って、確かめて、ひとつづつ遊びつくすことで、今の自分が生きる環境へ自分から繋がっていくような行為には、どこか共感するものがあると同時に、彼らのようにはできない私は羨ましさを覚えた。
変わっていく風景や物事を、当たり前のようにやり過ごすのではなく、ふとした視点を大切に、身一つから繋がって、くだらない行為や動作からも本気で身体を確かめるような。とてもささやかな単位だけれど、確かな祭がそこにあって。最初は楽しみながら観ていた観客も、次第に無言で見入り、見守っていた。

向き合った物を操作したり消化するのではなく、彼らは気になったら同化して入り込んでゆく。時間をかけて。自然と人意の隙間にある矛盾へ、身を忍ばせる。
その果てのない遊びの楽観と、危うさ。
2016.11.29 泉イネ
hyslom / ヒスロム
加藤至、星野文紀、吉田祐からなるアーティスト・コレクティブ。 2009年から現在まで、山から都市に移り変わる場所を定期的に探険する事で得た経験や疑問、人やモノとの遭遇を表現の根底に置きプロジェクトを行う。遊びを通して風景、土地を知る行為「フィールドプレイ」を行い、映像・パフォーマンス・彫刻作品などを制作。「第6回ACCサウンドパフォーマンス道場」(2012)優秀賞受賞。青森県立美術館「青森EARTHアウトリーチ 立ち上がる風景:new documentary for'atopic site'プロジェクトに参加中(−2017/3/31)
撮影:内堀義之
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真鶴半島
島ではないけれど半島と書く。 出会った來住(きし)さんとの会話から「なるほど…」と思った。 sadogaSHIMA ART MISTLETOEで紹介することができる。

梶井さんに何か佐渡島について書いてもらえないか問い合わせたものの、芸術祭の後でまだまだ忙しそうでムリ。岩首の棚田に世阿弥の彼岸ボートをつくったかおさんもしばらくムリ。sadogaSHIMA ART MISTLETOEは 休むような感覚ではじめたからムリは禁物…。去年、このtumblerに「いつか紹介したい」と書いたhyslomについて、映像作家の斎藤玲児さんに書いてもらう予定も先に延びて、そしたら私が去年見た神田でのhyslomの出来事を思い起こして書こうかな…と思っていたところ、ふと真鶴へ行ってみた。
このtumblerを一緒にはじめた上條桂子さんに書いていただいたwebsite「雛形」インタビューを読んだとき、ほかの記事でふと目に止まったのが真鶴だった。なんとなく地名が良いのと、以前読んだ本の印象もかすかに残っていて。行ってみようと思い立つ。 東京から2時間前後。佐渡島よりは近い。小田原駅は何度か降りたことがあるけれど、真鶴で降りたのは初めて。「雛形」に載っていた「蛸の枕」と「真鶴出版」へ連絡をすると、蛸の枕の山田さんと真鶴出版の來住さんからお返事をいただけたので会うことができた。 (詳しくはこちら載っているので興味のある方は読んでみてください→)
蛸の枕 https://www.hinagata-mag.com/comehere/10363
真鶴出版 https://www.hinagata-mag.com/comehere/9387
東海道線から降りた駅の前には小さなロータリーがあって、駅の背中側にはなだらかな山、駅前を下っていく先方には、見えないけれど海の気配がする。駅ビルもないし派手な看板もない。どこか遠くで見たことあるような「駅前」。すこし歩くと、高いマンションは少なく、港へ向かう勾配に、いくつもの家の屋根が織りなす風景が見えてくる。町の「美の基準」という条例によって町並みは守られている。それも雛形の記事で読んで興味をそそられていた。



蛸の枕の山田さんには別の用事もあって、佐渡島のインタビューを読んでいただいていたのもあり、子育ての話から自分の想ってきたことなど、お互いに話は尽きない。元旅館をカフェにして、空き部屋を手芸や他のイベントで使ったり、京都にあるホホホ座(編集企画グループ)の「部屋ホホホ座」がなぜか常設されている。ここで本が売られるかもしれないし売られないかもしれない。なぞの遊び心。和室には本はないけれど、部屋ホホホ座の雰囲気がいくつかのインテリアと共に醸し出されていた。「なんかいいでしょう」と山田さんの話すそのニュアンスが、私もなんかすごくいいように思えて仕方がなくて、カウンターに座って話しながら、なんども部屋ホホホ座の扉を眺めた。そして、柔らかい印象をうける山田さんのエプロン姿とは反対に、自分の感覚で判断するしなやかな強さのようなものが垣間見えた。



真鶴出版の來住さんと川口さんは一年半前に移住。それまでは都心や東南アジアで働いていて、人とのつながりで真鶴へやってきた。そこから町役場の方とも繋がって、できる範囲での出版と宿を始める。背伸びしていないのに、なんだか粋に感じて頼もしいような羨ましいような。すこし來住さんと一緒にあるくだけで、町の人たちとほとんど知り合いのような雰囲気があった。(これは佐渡島で梶井さんに案内してもらった時も同じ感覚)
二人と町役場と内外の写真家やクリエイターが一緒に始められた、商店街にある「くらしかる真鶴」の「みんなの家」も延長線上にあるようで、作家が2週間のお試し暮らしできたり、移住を検討する人への窓口にもなっている。私が寄った時は、真鶴の海の生態についてのスライドショーや、料理家の方よる真鶴の干物をつかった料理会が開かれていた。いろんな世代の人々が犬の散歩がてら(なぜか柴犬や大型犬が多い)立ち寄って行く。



佐渡島よりギュっと狭い。隣接する小田原や熱海のように大きくないし、開発もされなかった(無理な開発をさせないために「美の基準」が生み出された。美の基準の本を開くと、読みにくい細かい字が箇条書きでつまっているのではなく、子どもも読めてしまいそうな、けれども時に抽象的でふしぎな感じのする大きめな字と図で書かれていた)。港にある干物屋さんが言っていたように、なにか目的がなければ入ってこない所。それ故なのか、町並みを守る「美の基準」も維持されて、顔の見える範囲の動きができるのかもしれない。なんとなく知ってるけれど、の程よい距離感もある。
私は昔から大人数が苦手だったので、把握できる規模、領域というのはとても大切な気がしている。多すぎたり、広すぎたりすると、わからないところは諦めてしまったり麻痺することがある。切り捨てるというか、無視してしまうというか。。余白とはちがう。私自身、都市で生活するのに手一杯で、いくつもの無視や麻痺を今もしている。
來住さんや川口さん、蛸の枕の山田さん、みんなの家で会った山本さんたちと、そんなことをそれぞれと話すことができて、楽しくも心が落ち着く時間だった。

佐渡島の岩首棚田で作品を設置したかおさんも、以前から真鶴で素潜りしていたと知って、今度は一緒に行ってみたくなった。真鶴半島は豊かなお林と海がある。三ツ石にまつわる昔話や源頼朝の話などもちらほら聞いて、なんだかソワソワしてくる。この文を書いている間にも、かおさんと連絡を早速とり始めた。
2016.10.25 泉いね
蛸の枕
http://takonomakura.octopus-pillow.com/top/
真鶴出版
http://manapub.com

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空気の澄んだ日には この海の向こうに月山がみえるそうだ。 僕の家は月山の中腹にある。 遠いと思っていた佐渡の島だけれども じつは目でみえる距離にあるお隣さんだった。 今度、良く晴れた日には月山に登ろう。 きっとみえていたけどみえなかった佐渡がみえるかもしれない。
山伏 坂本大三郎
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また 今年も佐渡島へ寄ってきた。 去年は、病み上がりから楽に動けるようになった頃に、それまでの環境を変えたくて… というより変わらなければならない気がして、学生時代の能部の記憶を頼りに一人で訪れた。アートレジデンスが用意されているのでもなく、芸術祭があるところでもない。そういうところへ行きたかった。アートと呼ばれるものから離れたかったのかもしれない。
今回は画家や振付家、編集者、料理家、山伏…いろんな人たちと佐渡島で合流。佐渡市は東京都23区の1.4倍と広い島で、移動するのには時間がかかる。23区より広いけれど電車もモノレールもない。バスはあるけれど周遊するならほとんど車。そして、車の中から眺める風景は、海、山、空、寺社、古い町並み、動物(今回はキジに優雅に威嚇された)と飽きないが、3日間の滞在では有名無名の目的地をいくつか巡れるか否か。あっという間に時が過ぎてしまう。
様々な経験を経てきた40前後のいい大人が集まったこの短い旅は、あんまり大人に見えないような(?)けれども騒がしいわけでもなく、それぞれの見方があって楽しい行程だった。


すこし矛盾を孕んでいるのは、佐渡島では芸術祭が始まろうとしている。私は去年、たぶんその「芸術」から離れたくて訪れたのに、このtumblerに寄稿してくれた寺田さんや神村さんが参加されるのもあって、少しだけ関わっている。でも、今年は準備段階で全てが手探り状態のようで、そんなに大した力もない自分に出来そうなこともない。梶井さんとの仲介役ぐらい。
このtumblerサイトを始めたとき、私は「できるだけ何もしない」と書いた。それは作家が何か意図的に佐渡島で何かをしなくてよくて、ただ行って、見て、帰ってくるだけで十分なことがそこにはあると感じたから。佐渡島が過去から経てきた変遷、南北からの海流や気候によって自然環境が豊かな漁業と農業、今も昔も同じく、現地に長く住む人と新しく移り住む人によって少しずつ変わっていく関係性。それは別に、現代美術や今を生きる自分とまったく切り離されたことではなく、全体でみれば所々につながっていると思う���
歴史に詳しくないけれど、流罪の島という一側面から見れば、悪くないであろう流罪となった人たち(悪い人たちも流されたわけだが、時勢によっては結果悪くないこともある)がそこで余生を過ごした、島自身はその悲哀を受け入れ寄り添いつつも、金山によって計らずも栄え、幕府直轄の奉行所もでき、その奉行によって能舞台も一気に増え、また金がとれなくなると衰退していく。島が、なんて身勝手な人間よ、と言っていそうな気がした。

滞在初日の夜、佐渡島でBioワインをつくろうとしているジャンさんのビストロから代行を頼むと、運転した年配のおじさんがつぶやいていた。「昔は観光客も多くて…」 車から見える暗い森と車道。ときどき視界が開けると、群青と濃紺の間に水平線が見える。都心のように明るすぎる定間隔の灯りはない。これならお化けの話が生まれてもおかしくない。
すこし芸術から心が離れていたとしても、いろんな作家の視点、知性、観察や想像する力は素晴らしいことだけは見失っていない。だから、できるだけ何もしなくていいけれど、様々なジャンルの人が訪れられたらいいのにと、心から思っている。
去年、モリトさんと話したときも最初から私は作家として参加せず、できることは手伝うとお伝えした。

この数年、どうも芸術という言葉が馴染めない。自分の中でも外でも、いろんな問題がないまぜになって、金魚すくいで金魚が永遠にすくえないような… 鏡に映る私の右目は左目に、左目は右目になるのはなぜ… みたいな感覚のまま、素直にそこへ向き合えない。ずっと無理をしてきたところが無意識のうちに積み重なったのか、年とともに病となって現れ、疑うことなく、ただ憧れていたものや自分のそれまでの選択を洗い直す、そんな時期を漂っている。
「これしかない」と突き進むのは時に大切だけれど、それが、できない無理をしていたりすると、何より自分の身体へ返ってくる。無意識はちゃんと分かっていて、緊張している意思とのズレが身体を蝕むのだ。倒れたら、辺りを見直して、再び歩くしかない。
そんな今でも、できることは手伝おうと思ったのは、佐渡島だけではないのだろうが、現地で出会った方々の「衰退をどうにか止めたい」想いは切実に垣間見えてしまったからだ。それぞれの立ち位置があり、それぞれの想いがある。行って目に写ったのは、都市でいろいろ自問自答はあっても、なんとか暮らせている反対側では、様々なことが知らないまま消え入りそうになっていること。それは、私一人の芸術うんぬんに拘っていてはあっという間に消えていくのが明らかで、何もしないよりは、という消極的な選択で関わらせてもらっている。
それが良いのか悪いのか。不安もたくさんあるけれど、良くなることを願って。
泉イネ 2016.7.13

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yoyo.さん 料理家
偶然にも自分が佐渡に行こうと思っていたタイミングが上條さん、イネさんらの旅と重なることが発覚したのが5月の終わり。
6月の2週目に旅に同行させていただくことになった。
新潟港を出発した船が着いた両津から、まず向かったのは今回の宿泊先である宿坊、弘仁寺。 少し迷いながら、同行者の左ハンドルのベンツ(中古でゆずってもらったそうでゆったり広い車内)を一時間ほど走らせ、たどり着いた。 羽茂地区の細い山道を登ったところにある、ひっそりとしたお寺だ。

photo: yoyo.
すでに勝手のわかるイネさんに導かれるまま、広い庭を横切り一番奥の建物に着くと、 聴こえてきたのは意外にも子供たちの弾くピアノの音。 私たちの泊まる棟は「宿坊」の名前にそぐわず、西洋式の、なんともいい時代感の建物だった。
子供達にピアノを教える手をとめ、お茶にしようと、迎えてくれたお母さん。 一緒に庭のミント何種類かと、小さないちごなどを摘んでお茶にした。 それを飲むと、スーッとして移動の疲れがすこし和らいだ。

photo: yoyo.
自由に使っていいキッチンで食事の準備をしつつ、お母さんのお話を断片的にきいた。 東京は小石川育ちなこと、かつてここに逗留したカナダ人と一緒にこの建物を改装したことetc… それでやっと、想像した「宿坊」というものと、ここの様子のギャップがすこしずつ埋まってきた。
まあいずれにしても、心地よさが極まりないのだ。 お母さんがつくる、こののびのびした空間の。

photo: yoyo.
今回弘仁寺には2泊お世話になった。 梶井さんにあちこち案内していただき、山伏の痕跡のこる笹川集落や羽茂まつりの薪能も堪能し、 楽しい時間はアッという間に去った。 途中道連れの仲間も増え、大勢7名で一斉に弘仁寺を去るときに お母さんは言った。
「わたしも一緒にいきたいわ!」
旅人を迎えては皆、去っていく。 何度も経験していても、この瞬間やはり、寂しいんだな、、、。
と思った瞬間に聞こえてきたのがこの言葉。
「ベンツに乗って、冥土にいくのが夢なの〜♡」
お母さん、さいこうだな。
またこの宿に泊まりに、佐渡に来たいと思った。
yoyo. 料理家 2016.6.21

photo: ine
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佐渡では春の訪れとともに水平線が霞む程の黄砂が飛来する。先日も、3、4日の取材から戻り車のフロントガラスを見ると、黄砂が薄らと積もっていた。黄砂の発生元である大陸に想いを馳せつつ洗車をしていたら、かつてハルビンで暮らした日々を思い出した。
五島記念文化財団からの助成によりハルビンに滞在したのは、2009~2012年のこと。助成終了後も含めると10回ほど通っただろうか。1回の滞在は1か月ほどで、定宿をハルビンの下町に置き、そこで知り合った人たちを頼りに郊外の農村にも足を運んだ。 中国の東北地方に位置するハルビンは、中国13億人の人口のうち、1000万人が暮らす大都市だ。なぜハルビンを選んだのか。それはライフワークとして10年以上前から続けていた佐渡や日本各地の限界集落でのお年寄りへの聞き取りが関係している。彼らに取材すると必ずといっていいほど戦後都会へ出稼ぎに行ったときの話や、彼らの息子たちが金の卵と称されて都会へ出ていった話を聞かされる。しかし、1976年生まれの私にとって実感を伴わず、これからも取材を続けていくには、現在、その只中にあるハルビンの空気を感じるべきだと思ったからである。
冬のハルビンは激しく冷え込む。最も寒いときにはマイナス30℃を下回る。佐渡島とは比べ物にならないその寒さには震え上がったが、下町や農村で暮らす地元の人たちは、実に逞しく生きていた。その頃ハルビンはまさに日本の高度経済成長の頃のように地下鉄敷設工事の真っ只中で、私が暮らしていた下町もまたその建設区域となっていた。田舎からやってきた多くの出稼ぎ労働者たちが、昼夜を問わず足場の悪い危険な現場で働いていた。東京五輪前の日本もこんな感じだったのだろうか。佐渡島からも多くの人たちが東京へ向かい、同じように地下鉄工事に従事されていた方もおられる。ハルビンではそんな出稼ぎ労働者とつながりがある、内モンゴル自治区の片田舎を訪問したこともあった。田舎には両親共働きで親戚や知人のもとに預けられたこども達も多く、早く旧正月に両親に会いたいと言っていた表情が忘れられない。 ハルビンの下町では、文化大革命を経験したお年寄りからも話をお聞きした。紅衛兵が一軒一軒のお宅を回り鉄製品の供出を迫った際には、要領のいい人間はうまく隠し通したと話していた。以前、戦時中の供出を経験した佐渡のお年寄りの中にも、同じ話をしている方がおり、古今東西、どこにでもしたたかに生きる人間はいるものだと思ったりもした。 下町での暮らしは、地下鉄工事による開発とともに終焉を向かえた。開発地区に指定された住民は家の購入の際に受けられる安価な優待券を貰う変わりに、街を去らねばならなくなった。彼らは今どうしているだろう。下町の取り壊し工事が始まったのは、黄砂が吹き始める、そんな春の日の事だった。
20160514 梶井照陰

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佐渡島も桜の季節となりました
本日から、インドに取材に向かわれた梶井さんより、また投稿のお願いをされましたので、書かせていただきます。 芸術祭の実行員会が去る3月15日に、佐和田地区のGuest Villa on the 美一で行われ、芸術祭の名称が「さ��の島銀河芸術祭」と変更決定いたしました。 また、開催期間を、2016 年 8 月 26 日( 金) 〜10 月10 日( 月・祝)の予定で行われることも暫定的ですが決定いたしました。 それから、申請していた各種助成金は全て選外で、もちろん行政からの補助金なども実績がないということで承認を得られません。 来月からクラウドファンディングで協賛金を募らせていただきますが、こちらも、どのくらい集まるか不透明で...まずは予算ゼロ。何もないところから始めていくことになりそうです。 は!椹木野衣著の「なんにもないところから芸術がはじまる」を思い出しました。 そんな中、昨日のYahoo!ニュースで、気になる記事があったので、リンクさせていただきます。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/iidaichishi/20160409-00056399/ 開催予定日まで時間がないですが、出来るところから佐渡でしかできない芸術祭にしていこうと思っています。
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