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SHIMODA Naohiko
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Shimoda's Writings
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shimoda-text · 7 months ago
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メニカンのイベント: 「『住宅は、批評する』を批評する」 に行ってきました。
[感想/日誌]2024.12.7 このイベントは「今秋刊行された『住宅は、批評する』の編著者を招いて、本書を読み解くイベント…」とのこと。丁度その本を読み終わっていたのと、会場のplateau booksにもずっと行ってみたかったこと、そして(メニカンって聞いたことあるけど、どんな人たちなんだろう?)という興味もあって行ってきました。 - イベントは、本の編著者(お三方とも東工大出身)に対して、聴衆もおそらく東工大出身の方が多そうな印象で、ディスカッションに垣間見られる東工大らしい(?)矜持に若干あてられる感じが面白かったです。
社会に資するというようなゴールに、どう理論と実践でアプローチしていくか、理論から個別解への演繹的な思考回路が見られたように思って、システムを解析・制御する欲望のようなテックな雰囲気が(個人的に長らく触れていなかったので)新鮮でした。
- 質疑応答の時間、僕はぐるぐると考えがめぐってしまい半ば上の空で聴衆に徹していたのですが、本自体はというと、年代順になっている点がとても効果的で、年代を下るにつれて総論的なものから各論的なものへとフォーカスが移っていく様子がありありと見られて面白いです。
そしてそれは建築家の年齢ではなく年代���そうさせるんだろうなとも感じました。
そのフォーカスの変化は、”社会性”というフィルターを通して見ると「大きな矢印」から「小さな矢印」への変化にも見えるのですが、実はそうではない見方もあるのかもしれない、もしかしたら建築をとりまく言説の土俵が変わっただけの可能性もあるのかなぁ、とか考えていました。
… 住宅に批評性が取り沙汰された背景として、70年前後の「政治の季節」、80年代「ニューアカ」など、建築の外の潮流は無視できないでしょう。それは〈社会〉にリアリティ(実存)が期待できた時代、そして〈社会〉への接続手段として批評が有効だった時代です。
2020年代の現在、もはやそのリアリティの所在は〈社会〉から〈セカイ〉(しかも個々人や界隈の”セカイ”)へ移行したように感じられます。もしかしたら、建築に関する言説にも、そのような土俵の変化が起こっているのかもしれません。
(ちょうど間の、2000年前後に沸き起こる批評性への疑問(イベントでは「批評性論争」と呼ばれていました)は、これらリアリティの所在が移行していく中での反応として、むべなるかな、という感じもします。) …
昨今、にわかに批評や哲学など人文書ブームがきている、というような話をチラ聞きしますので、批評自体の効力は再燃しつつあるのかもしれません。そうした中で建築(住宅)の批評は、そのリアリティの所在を〈セカイ〉に移行したのか。あるいはやはり(狭義の)〈社会〉に接続することでこそ有効なのか。
これからの建築(住宅)の批評はどのように可能か?
といったところに想像が膨らんだ、本・イベントでした。
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shimoda-text · 1 year ago
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シロクマハウスについての6つの文章
-------------------------------------------------- [テキスト] シロクマハウス:たとえば6つの解釈  ■1.住宅としての解釈  ■2.構造からの解釈  ■3.生態的な解釈  ■4.���式への解釈  ■5.コーリン・ロウ風の解釈  ■6.音楽としての解釈
■1.住宅としての解釈
 シロクマハウスの住人は、むかしから慣れ親しんだ実家の土地に新しく家を建て住まうことを決めました。建てた家は、折しもウッドショックや戦争の影響による資材高騰があり、また雪国特有の条例(建物外壁は隣地から1m以上の離れが必要なこと)などから、敷地に対してとてもコンパクトな立方体形状の家となりました。  全体の構成は、一辺が2.3mの立方体を8つ、それぞれ95cmずつ、外側は30cmずつ離して配置した、全体6.15mの立方体を基本としています。この立方体は敷地に収まる最大の容積を根拠に大きさを決めたため、人間のスケールや生活を根拠にしたものではありません。  この立方体を「建築」と仮託して、そこに土地の状況や生活の観点から、〈明るい場所〉〈暗い場所〉〈大きな場所〉〈小さな場所〉を住まい手とともに見極め、想像しながら「暮らし」として意味付けをしていきました。「建築」に「暮らし」を見出していくなかで注意したのが〈リビング〉や〈ダイニング〉などの言葉で使い方と場所を結びつけない、ということでした。明るくて爽やかな場所、大きくてふわっと明るい場所、小さくてしんと暗い場所、などを見つけながら、でも、意味を付けすぎないように、という作業を根気強くつづけました。吹抜けのある大きな場所は朝食を食べてもいいし、一段上がったキッチン横の場所は夕食が合うかもしれない。浴槽のある場所はいちばん明るくて爽やかな場所なので、そこで読書しても気持ちよさそうです。立方体の組み合わせによる単純な「建築」に対して「暮らし」が応答して出来上がったかたちは、とても複雑で多様な場所を生みました。  建物として家は完成しましたが、ここから住まい手自身が愛着をもって意味付けをしていければ、そこは唯一無二の大切な〈わが家〉になっていくでしょう。その意味付けのきっかけは〈他と少し違う外観〉かもしれないし、〈壁の手触り〉かもしれないし、〈台所の音〉や、あるいは〈匂い〉かもしれません。柱梁がむきだしの部分、段々に角がある部分、ざらざらした部分、つるつるした部分など、いま��まだよ��わからないかたちにも、暮らしていくなかでその都度、意味を見出しながら使いこなして〈わが家〉にしていく、そういった主体的な暮らしの準備ができたと思います。
■2.構造からの解釈
 モノの流通が滞り、普通にあったものが手に入らなくなったり、高くなったりしている昨今、建物の材料や作り方を再考する必要性が生じています。このプロジェクトは北海道という土地柄、早くから構造材の四寸(120 mm幅)シリーズが品薄となっていたこともあり、一番手に入りやすくて安価な「三寸五分の正角材(105 mm×105 mm)のみの構造」、そして施工業者を選ばない「最低限の技術レベルでの組み立て」、その結果として「構造にかかるコストを最小にすること」は、今を反映した一つのプロトタイプになりえるのではないかと考えました。  プランは 2.3mを最大スパンとしているため、軸力も小さく柱は105 mm角で問題ありません。ただ、曲げがかかる梁ではそれでは役不足なので、柱を結ぶ大梁の位置では逆V字の斜材を上下の梁材の間に入れることによりトラス効果で床荷重を支持することとしました。  大梁で囲まれた2.3m角の床面は、通常のように一方向に小梁を流すと四周の大梁に均等に力が流れず、その負担分に差が出ます。そこで、力の方向性をなくすこと、スパンを減らすこと、トラスの斜材に直に力を流すこと、の3つの理由から火打ち梁のようにダイヤ型に梁を配置しています。  基本的には木造在来軸組み工法なので、簡易な構造といえます。トラス梁部分は少しイレギュラーですが、斜材端部は梁にその一部を差し込むことで、離れ止めのボルトのみで緊結するというシンプルなものです。このように特別な金物を使わないことは製作および現場施工を容易にし、コストも下げられます。 (文:正木構造研究所:正木健太さん)
■3.生態的な解釈
[ベルクマン・アレンの法則]  「ベルクマンの法則」とは、ドイツの生物学者ベルクマンが発表した法則で、恒温動物について、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体が大きいという法則です。例えば熊は、マレー熊など南方の熊は体が小さく、ホッキョクグマなど北方の熊は体が大きい傾向にあります。また反対に「アレンの法則」とは、恒温動物について、寒冷な地域に生息するものほど耳や尾などの突出部が短くなるというものです。ホッキョクグマの小さな耳はこの法則にのっとっているそうです。  さて、札幌の住宅を眺めると大抵どれも大きく箱型で、かつ、陸屋根というかたちをしています。これは東京などの都心部とは異なる土地事情によって一軒あたりの土地面積が比較的大きいこと、積雪に対しては落雪させずにスノーダクトを用いて雪を処理すること、などの要因が大きく関係していることはすぐに想像できるのですが、ここに「ベルクマン・アレンの法則」が見いだせるのではないかとも思っています。  あらためていまの札幌の住宅を眺めてみると、庇も少なく勾配屋根もあまり見られません。また外壁の凹凸も比較的少ない傾向に見えます。一方、建物全体のボリュームは都内の狭小住宅などに比べると、ひとまわり、ふたまわり、大きいような印象があります。つまり、突出部が小さく、かつ、その表面積に比べて体積が大きい、ホッキョクグマの体のような傾向がなんとなく見えてきます。  「ベルクマン・アレンの法則」は放熱の問題で説明されます。つまり、表面積に比べて体積を大きくすることは、体内の熱生産量に比べて放熱量を小さくする工夫だというのです。シロクマハウスの胴体にあたる立方体は球に次いで表面積の小さなかたちです。シロクマハウスは中心の大きな立方体をメインに、その少し外側に付加断熱を加えた外壁が「毛皮」のように取り巻き、また、生活に必要な玄関や納戸などの非居室が「鼻」や「尻尾」のようにくっついたかたちをしています。  この建物を設計していくなかで、なんとなく通称として仮に呼びはじめ、なんとなくしっくりきている〈シロクマハウス〉という名前は、このような北国の生き物、建物、の立ちあらわれ方を象徴しているようにも思えます。
■4.形式への解釈
[一辺が6.15mの立方体が与えられたとする]  「立方体」というのは公理に非常に近く、証明しようのない、根拠の無い、論理式に近いかたちです。いってしまえば、とても意味の無い、無意味なかたちともいえます。  四角い箱にはおおむね作られる意味があります。中にリンゴを入れるため、あるいは人が上に乗るため、など、いろんな意味のために四角というかたちをつかって箱は作られます。でも、四角というかたち自体に意味をつけることは、実は難しかったりします。四角がなぜ四角なのか、いろいろと意味を付けてみても、それら全部が上滑りしてしまうのが純粋な幾何学のかたちの不思議なところだと思います。むかしから四角いかたちの造形物(モノリス)が、異様な、未来からのものに見えたり、過去世界の遺物に見えたり、別世界のものにみえたりするのは、その純粋幾何学のかたちの無根拠さゆえかもしれません。  一方で、世界のありとあらゆるものをどのように意味付けて解釈するかは私たち人間に任されています。あらゆるものに意味をつけて世界を存在させること、それが私たちの主体性であって自律性でもあります。しばしば建築家によって〈自律的な建築〉とか〈他律的な建築〉とかいった言葉がつかわれますが、それは結局、ある人からはそう見える、というくらいのことなのかもしれません。建築自体の自律性���他律性を考えるのも面白いのですが、人間として主体的によく生きたいという、より根本的なものを目標にすれば、建築を含めたこの世界を意味付ける、人間の自律性の方がはるかに重要なものに思えます。  たとえば住まいをつくろうと考えたとします。たとえば住みたい場所が寒い地域だったとします。そういったなんとなく与条件として意味付けられるものたちと、立方体のような、あからさまに根拠が無くて、意味のよく分からないものを、同列に並べてみましょう。それらをあらためて自ら意味付け、解釈しようとするところに、私たち、設計者や住まい手の主体性や自律性は自覚されて、自分が置かれた環境を積極的に肯定していく人間的な暮らしにつながっていくのではないでしょうか。
■5.コーリン・ロウ風の解釈
[理想的ヴィラの数学]  「この住宅は立体の表象であるという観念が実現されるとき、ヴェルギリウスの夢という意図も果たされるのである。ここには絶対的なるものと偶然的なるもの、抽象と自然の衝突があり、理想世界とあまりに人間的な現実の急務とのギャップが悲哀に満ちて示されている。」 コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄、松永安光訳、彰国社、1981年)より。
 この住宅は、前後に付加された勾配屋根のヴォリュームを除けば、基本的なヴォリュームは 1 対 1 対 1 の立方体である。平面の構成は、中央の柱間を 1 とすると、前から後へおよそ 1/3 対 1+√2 対 1 対 1+√2 対 1/3 の比で進む。この比の構成は左右方向についても、また垂直方向についても徹底して保たれている。中央部のスパンに対して中間部のスパンが白銀比に近似している点は日本的比例の美学というよりは偶然的なものであろうが、その膨張した中間部のスパンに対して外周部のスパンが極端に圧縮されることによって、関心は中央から中間部へと移されることになる。3軸に同じ比が徹底されることによって中間部には 1+√2 の立方体が8つ現れており、それぞれの中心に重心が等しく置かれていることが暗示される。この住宅では3軸のシンメトリー 構成の中で、中央部への集中でもなく、周縁への離散でもなく、中間部において複数の中心の遍在というものが強調される。  この3軸が等しくシンメトリーな構成の中で、なおも上下左右を等しく相対化しようという試みに、床や壁、柱や梁といった構造も参加する。中央右手では吹抜けに面して2層をまたぐ壁面が垂直性を強調する一方、2層目左では同じ大きさの床面が水平性を強調している。柱や梁は同じ太さで縦横に現れ、重力の存在を示唆するのは二段梁の間を繋ぐ山形の方杖のみである。こうして通常、重力に基づいて積み上げられる壁・柱の垂直性や床の水平性は、ここでは解体��れ、立方体の6面すべてに均等な重要性が割り当てられることになるのである。均等に重力を与えられた6面は、離散することなく幾何学的配置にその中心を留め全体を構成する。  このように集中的なヒエラルキーを排しつつも離散を避けようとするどっちつかずの態度は、恐らく、多様な中心の遍在を認めるリゾーム的世界観によるものであろう。多様化した社会において、ある建物を住宅たらしめるのは行為として表現される暮らしそのものであり、慣習に拠る美を持ち込み、継承し、再生産し続ける「文字以前の文字(プロ・グラム)」である。一方、この住宅の理論は一種のポストモダンであり、過去の客観的美学=数学的規範を持ち込みつつ、それによって過去の構築を相対化し、集中と離散の二項対立を脱構築しようとする分裂的な試みである。そしてプロ・グラムと衝突するこの理論こそ、普遍的な生き生きとした力を喚起する幾何学なのである。
■6.音楽としての解釈
[マイルス・デイビス]  「非常にわかりやすい、見え見えなぐらいな部分と、全く意味不明の謎の部分というのが、丁度半分半分混じっていく、というのが、マイルス・デイビスの音楽であり、人となりであり、パッションであり、あらゆる彼の行動規範に張り付いているアンビバレンスです。」ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔さんはマイルス・デイビスをこのように解説しました。  マイルスによって完成された「モード・ジャズ」は、それまでのコード進行によるモダン・ジャズとは異なり、「モード」と呼ばれる音階内でのアドリブを特徴とするものなのだそうです。それまでのジャズの歴史でどんどん複雑化していたコード進行を極端に単純化したうえで、モードによってより自由な演奏を可能にしました。モードとは、西洋音楽の音階とは異なる音階、日本のヨナ抜き音階や、琉球音階、インドネシアのガムラン音階など、土着的で民族的なものを指し、マイルスはカリンバのアフリカ的な音階に出会ってモード・ジャズを完成させたともいわれます。おおむね7つの音で構成されるモードと、それを用いたモード・ジャズについて、菊池成孔さんは「少ない音、7つだけの音で自由に演奏しろと言われた場合はですね、自由度が高すぎてサウンドの審美眼とかセンスが露骨に出るので、非常に難しい、」と解説します。  シロクマハウスも、もしかするとそのモード・ジャズ、あるいはマイルス・デイビスのように解釈することができるかもしれません。シロクマハウスは、8つの立方体の間に95cm幅のスリットをたてよこ水平に入れるという「非常にわかりやすい見え見え」な構成ですが、その構成の根拠は恣意的かつ薄弱で「意味不明」でもあります。一方で、暮らしによって立ちあらわれている壁や窓や棚などの部分は、意味としては「見え見え」ですが、複雑で過剰なその全体のかたちは「意味不明」でもあります。  つまりシロクマハウスは、あからさまに単純な構成���〈コード〉とし、北海道という土地や社会などの〈モード〉のなかで、設計者の恣意性や手癖・住まい手の趣味や暮らしによる〈アドリブ〉が行われる、そんなモード・ジャズ、という見方ができるかもしれません。そしてそれは、意味とあらわれのアンビバレンスが振動するようなグルーヴを生んでいくのかもしれません。
-------------------------------------------------- [Text] Six Interpretations of the house “Polar bear”, for example      1. Interpretation as a HOUSE      2. Interpretation from STRUCTURAL engineering      3. Interpretation from ECOLOGICAL point of view      4. Interpretation in terms of FORM      5. Interpretation in the style of Colin Rowe      6. Interpretation as MUSIC
1. Interpretation as a HOUSE
     The owner of this house decided to build a new house on a site in Hokkaido, which he had grown accustomed to living in since long ago. The house was built in a very compact cube form concerning the site, due to the rising cost of materials caused by the wood shock and the war, as well as a regulation unique to snow country (the building envelope must be at least 1 m away from the neighboring site). The overall composition is based on eight cubes of 2.3 meters on each side, 95 cm apart on each side, and 30 cm apart on the outside, for an overall cube of 6.15 meters. The size of this cube was defined based on the maximum volume that could fit on the site and is not based on human scale or traditional modules.      We considered this cube as "Architecture," and together with the owner and his family, we discovered and imagined "bright places," "dark places," "big places," "small places", etc. in terms of local conditions and lifestyles, and gave meaning to them as "living". In trying to give "Architecture" a meaning of "living," we were careful to avoid using generic terms such as "living room" or "dining room" to link behavior with place. We patiently continued our exploration, finding bright and breezy places, large and softly bright places, small and dark places, etc., without adding too much meaning to them. The large area with the atrium could be used for breakfast, and the area next to the kitchen, one step up, might suit dinner. The bathtub area is the brightest and most refreshing place, so it would be pleasant to read a book there. The resulting house, in which "living" responds to the plain "Architecture" of overlapping cubes, has generated a complex and diverse place.      The house as a building has been completed. However, the attachment of the owner and his family and the meaning they give to the house will make it a unique "home." The trigger for this attachment may be "the somewhat strange facade," "the hand feeling of the walls," "the sound of the kitchen," or even "the smells." The owner and his family are now ready to live with a sense of agency, finding meaning in forms that are not yet understandable, such as exposed pillars and beams, several intricate corners, rough and smooth surfaces, and so on, and using them to make the house his "home" while living in the house. 
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2. Interpretation from STRUCTURAL engineering
     Recently, the distribution of goods tends to be stagnant, and what used to be commonplace has become unavailable or expensive, making it necessary to reconsider building materials and construction methods. Because of the location of this project in Hokkaido, where the 120 mm width series of structural timbers were in short supply from early on, we thought that "structure using only 105 mm x 105 mm structural timbers," which is the most accessible and inexpensive, and "construction at the minimum technical level" that does not require special contractors, and thus "minimizing the cost of the structure" could be a prototype that reflects the social situation of the present day.      The maximum span of the columns is 2.3 m, so the axial force is small, and 105 mm square columns are sufficient. However, this is not enough for beams that are subject to bending, so an inverted V-shaped diagonal timber was placed between the upper and lower beam members at the position of the girder connecting the columns to support the floor load with a truss effect. The 2.3m square floor is surrounded by girders, if the beams are placed in one direction as usual, the force will not flow evenly to the girders on all four sides, resulting in a difference in the amount of load. Therefore, the beams are placed in a diamond shape like a corner brace for three reasons: to nullify the direction of force, to shorten the span, and to flow the force directly to the truss members.     It can be said this is a simple structure because it is essentially a Japanese conventional post and beam structural system. The truss section is a bit irregular, but they are simply tied together by inserting a portion of the truss member into the beams and bolting them together. Thus, the absence of special hardware facilitates fabrication and construction, as well as lowers costs. (Translation by the author with some changes from the original text by the structural engineer)
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3. Interpretation from ECOLOGICAL point of view
[Bergmann's and Allen's rules] “Bergmann's rule” is an ecogeographical rule that states that within a broadly distributed taxonomic clade, populations and species of larger size are found in colder environments, while populations and species of smaller size are found in warmer regions. For example, bears living in the southern areas, such as Sun bears, tend to be smaller, while bears living in the northern areas, such as Polar bears, tend to be larger. Conversely, "Allen's rule " refers to the fact that animals that live in colder regions tend to have shorter ears, tails, and other protruding parts than those that live in warmer regions. Polar bears' small ears are said to be following this rule.      When we look at houses in Hokkaido today, we can see that they are generally large, box-shaped, and have flat roofs. The reasons for this can be easily imagined to be that the area of land per house is relatively larger than in urban areas such as Tokyo, and snow ducts are used to deal with snow accumulation instead of letting it fall. And in these points, I suspect we can find " Bergmann's and Allen's rule " as well. Looking again at the houses in Hokkaido today, there are not many eaves, and pitched roofs are not seen very often. The exterior walls also tend to be relatively less uneven. On the other hand, the overall volume of the building seems to be larger than those of narrow houses in Tokyo. These facts suggest that the tendency of the polar bear's body to have a small protrusion and a large volume compared to its surface area seems to be somewhat common to the features of these houses.      The "Bergmann's and Allen's rules" are explained by the issue of heat dissipation. In other words, increasing volume compared to surface area is a device to reduces the amount of heat dissipated compared to the amount of heat produced in the body. The shape of the body of this house is a cube, which is the second smallest geometric form in surface area after a sphere. This house consists of a large cube in the center, with exterior walls with additional insulation surrounding it like "fur," and non-habitable rooms necessary for daily life, such as an entrance and a storage room, attached to it like a "nose" and a "tail”.      The name of this house, "Polar bear," which became somewhat comfortably familiar to us as we began to call it tentatively in the process of designing this house, seems to symbolize the appearance of this kind of northern creature and building.
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4. Interpretation in terms of FORM
[Suppose you are given a cube with a side of 6.15m.] The "cube" is very close to an axiom, a form that can never be proven, that has no ground, and that is very close to a logical formula. In other words, it is a very nonsense and meaningless form.      A square box usually has a meaning. Boxes are made in the shape of a square for various purposes, such as to put an apple inside, or for a person to ride on top. However, it is difficult to assign meaning to the square shape itself. The mysterious thing about the form of pure geometry is that even if you try to attach various meanings to why a square is a square, all of these meanings will slip over and over. A square-shaped object (monolith) often looks strange, like something from the future, a leftover from the past, or another world, perhaps because of the groundlessness of its pure geometrical form.      Meanwhile, it is up to us as human beings to make meanings and interpretations of everything and anything in the world. To create meanings for everything and bring the world into existence, that is our agency and our autonomy. Sometimes, architects use terms such as "autonomous architecture" or " heteronomous architecture," but it may just be that this is how it seems from their point of view. It is interesting to consider such autonomy and heteronomy of architecture, but if we focus on the more fundamental subject that we as human beings want to live well, the autonomy of human beings that makes sense of this world, including architecture, seems to be much more important.      For example, suppose you are thinking of building a house. Suppose, for example, that you want to live in a cold climate. Let's put such things that we can somehow make sense of as given conditions and things like cubes, which have no obvious basis and whose meanings we are not sure of, in the same line. In trying to redefine and interpret the meaning of these things, we, the designers and homeowners, become aware of our agency and autonomy, and this may lead to a humane lifestyle in which we actively affirm the environment in which we are placed.
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5. Interpretation in the style of Colin Rowe
[The Mathematics of the Ideal Villa] ... and the realization of an idea which is represented by the house as a cube could also be presumed to lend itself very readily to the purposes of Virgilian dreaming. For here is set up the conflict between the absolute and the contingent, the abstract and the natural; and the gap between ideal world and the too human exigencies of realization here receives its most pathetic presentation. …  (Colin Rowe. 1947. The Mathematics of the Ideal Villa. AR)
     The basic volume of this house is a 1:1:1 cube, except for the pitched roof volumes added to the front and rear. The configuration of the plane proceeds from front to back in a ratio of approximately 1⁄3 to 1 + √2 to 1 + √2 to 1⁄3, with 1 between the central columns. This ratio configuration is thoroughly maintained for horizontal as well as vertical directions. The fact that the middle span approximates the silver ratio to the center span may be more by chance than Japanese proportional aesthetics, but the extreme compression of the outer span relative to the expanded middle span transfers interest from the center to the middle. Also, the same ratio is thoroughly applied to the three axes, so that eight cubes of 1+√2 appear in the middle part, implying that gravity is equally placed in the center of each cube. In this house, the three-axis symmetrical configuration emphasizes the omnipresence of multiple centers in the middle, rather than their concentration in the center or their dispersion to the periphery.      In this symmetrical configuration with equal symmetry of the three axes, the structural elements such as floors, walls, columns, and beams also participate in the attempt to relativize the top, bottom, left, and right equally. On the right side of the center, the verticality is emphasized by the wall surface that spans the first and second floors of the atrium, while on the left side of the second floor, the horizontality is emphasized by a floor surface the same size as that wall surface. Columns and beams appear horizontally and vertically with the same thickness, and the only suggestion of the existence of vertical forces is the triangular truss members connecting the upper and lower beams. Thus, the verticality of the walls and columns and the horizontality of the floor, which are usually constructed by gravity-based stacking, are here deconstructed, and equal importance is assigned to all six sides of the cube. The six equally gravitated sides, which are not discrete, keep their centers in a geometric placement and make up wholeness.      This ambivalent attitude of avoiding discretization while eliminating centralized hierarchies is probably due to a rhizomatic worldview that recognizes the omnipresence of diverse centers. In a diversified society, what makes a building a house is the life itself, which is expressed as an action, and the "pro-gram" that continuously reproduces, inherits, and brings in customary beauty. Meanwhile, the theory of this house is a kind of postmodernism, a schismatic attempt to bring in the objective aesthetics of the past = mathematical norms, but thereby relativize the construction of the past and deconstruct the dichotomy between concentration and dispersion. And this theory that conflicts with the pro-gram and evokes our universal life force is geometry.
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6. Interpretation as MUSIC
[Miles Davis] “The ambivalence that characterizes Miles Davis' music, persona, and passions, and that accompanies all of his codes of conduct, is a half-and-half mixture of the very straightforward and obvious, and the completely mysterious and unintelligible.” (Translation by the author) Commentary on Miles Davis by jazz musician Naruyoshi Kikuchi.
     “Modal jazz," perfected by Miles, is said to be characterized by improvisation within a scale called a "mode," unlike modern jazz, which was based on chord progressions. And it allowed for more flexible playing through modes, taking chord progressions that had become increasingly complex in the history of jazz up until then, and simplifying them radically. Mode refers to scales that are different from those of Western music, indigenous and folkloric, such as the Japanese "yona nuki" scale, Okinawan scale, and Indonesian gamelan scale, and Miles is said to have perfected modal jazz when he discovered the African scale of the kalimba. Naruyoshi Kikuchi explains that modes, which are generally composed of seven notes, and modal jazz, which uses these modes, are "very difficult to play if you are asked to play freely with only seven notes because the degree of freedom is too high and the aesthetics and sense of the sound come out obviously.” (Translation by the author)       This house could also possibly be interpreted as modal jazz or even Miles Davis. This house has a "very straightforward and obvious" configuration of 95cm-wide slits horizontally and vertically between eight cubes, but the rationale for this configuration is arbitrary, weak, and "unintelligible" as well. On the other hand, the walls, windows, shelves, and other parts that respond to the daily life are "straightforward" in terms of meaning, but their complex and excessive overall form is "unintelligible.      Therefore, this house could be seen as a "modal jazz" in which a straightforwardly simple configuration is the "code," and the architect's arbitrariness, his/her habits, and the residents' tastes and lifestyles are "improvised" within the "mode" of the region and society of Hokkaido. And this may give rise to a "groove” in which the ambivalence between signification and manifestation vibrates.
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shimoda-text · 2 years ago
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ドーナツの穴はドーナツでできている
言葉ではない物をつくるために言葉を尽くす方法 ほぼ日誌:小さな手仕事と住宅設計を経ての振り返り。
 ここしばらく小品をつくることに勤しんでいたのですが、そうするとほとんど、文章を書くということが疎かになってしまいました。ですので、その反省を少~しだけ込めて、いま書けることを書いておきます。  というのも実際に手で物をつくっていると、その過程や対象というものが、あまりにも自明で、なにか文章にしたり言語化したりするまでもないというか、それは野暮というか、だいたいそんな感覚がじわじわとしみこんでくるからです。もちろん多少コンセプチュアルな物はつくる直前までにいろいろと言葉で練るのですが、そういった物でもいざつくる段になると必ず、目とか手とか素材とか、なにかしらと齟齬が起きて、言葉とはまた違うやりかたで物ができあがっていくことになります。(そしてできあがった物を見て、なかなか良いなフムフム、と完成の区切りをつけたりします。)ここでだいたい困るのが、何か���前めいたものを付けようとするときです。つくる前にどれだけ言葉を練っていても、いったん言葉を離れたところでできあがった物なので、当初考えていた名前ではしっくりこず、できあがってから再び言葉で解釈するという、ある意味二度手間が起こります。というか、どうやらその二度手間をするためにわざわざ手と実際の素材でつくっているらしいのです。
 このあたりのこと(解釈する→つくる→再解釈する)を特に意識するようになったのは、ずっと取り組んでいた住宅の設計がきっかけでした。  建物を設計していると、「そもそもテーブルってどんなものだっけ?」とか、「どういう状態がリビングなんだっけ?」とか、そういう“そもそも”の話をすることが多くあります。こと住宅に関しては「どんな家でも住人が愛着をもって住みこなしていれば良い家になる!」と思っている節もあって、このときは「そもそも住宅を住みこなすモチベーションってどこから来るんだっけ?」という”そもそも”を考えることになりました。  たまに、道で良い石ころを見つけます。とても良い石ころです。持って帰って、綺麗に洗って、部屋の良い場所にかっこよくディスプレイします。そこで、もしかしたらこういう習慣も、住みこなしと同じ根っこを持っているのかな、という直感を持ったとき、わたしたちの身のまわりの物にはもともと意味とか根拠なんてものは無くて、そこに意味を与えて解釈しているのは自分たち主体なんだということが腑に落ちました。飛躍して、意味のない世界に意味や言葉を与えるのが人間の主体性ではないか、(ソシュール的にいえば、シニフィエとシニフィアンは恣意的に結びついているらしいのですが、その恣意的な力が人間の生き生きとした活力の源なのではないか)という見立てに行き着きました。
 住宅の話に戻って、このときはまず、できるだけ無根拠なカタチを設定することにしました。そして、住まいとしてそのカタチをどう使えるか・つくれるかを探り(解釈)、図面を引いて(つくる)、どう見えるか・つくれるかを探り(解釈)、そして建て(つくる)、またどう使えるか・言葉にできるかを探る(解釈)、というように、〈つくる〉と〈解釈〉の反復横飛びを意識的に繰り返すことにしました。(この反復横跳びは、建築設計をしている人には、何をいまさら当たり前のことを、と言われるかもしれませんが、)  結果、スタートを無根拠なカタチにしたことで、どこまで解釈してもよくわからない物ができたように思います。そのつど物と言葉を往復していたので、言葉だけで見ると一貫性の無い部分もあります。でもそういった物だから、これからもそのつどの解釈を受けとめる=主体性を持続させる=住みこなしの準備ができたように思います。これが、このとき住宅という〈物〉をつくるときにやった〈言葉〉(=解釈)の使い方でした。
 言葉を尽くして言葉にできない部分を探しながら物をつくる方法です。できあがった建物はあくまで物で、言葉ではないし、言葉ではあらわせないけれど、言葉でできているような感じもします。言葉であらわせない物をつくるために言葉を尽くす、そういう方法を意識することになった出来事でした。
 ということで、まだ当面の間���物〉と〈言葉〉とを両輪で続けていくつもりです。
(※当の住宅についての文章はまたあらためて公開しますので、)
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shimoda-text · 2 years ago
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「Enough is enough! 」 (押井守:映画 『スカイ・クロラ』 よりクサナギの台詞)
時事について、その時々で、 とりあえず書かずにはいられなかったこと。まとまらないメモ。 ■冬のメモ ウクライナでの戦争が連日報じられている。bsの番組などでは連日、ロシア軍の次の手や、幹部たちの狙いなど、まるでスポーツ解説かのように(僕から見れば)愉しそうに、予測合戦をしている。誰もがこの戦争に熱狂し、発情している。西側ではロシア憎しのストーリーを大量に生産し、消費し、戦場の悲劇をナラティブに消���可能にし、それにとても発情している。ロシアが嫌いという者、ウクライナがかわいそうという者、陰謀論に熱中する者、悲惨な戦争だという者、みな、この戦争を心の底から存分に愉しんでいる。ように見える。(これ以外の戦争は、消費するためのパッケージング=情報、感情、物語、がなされていないので消費することは難しく、消費できないものは認知すらされ難い。)戦争というのはこんなにも資本主義的なものなのか、あるいは資本主義の側から見るからこんなにも吐き気を誘うような状況なのか、 ■春のメモ 民主主義は各個人の自由意志を前提としているが、必ずしも人民はその課された自由に耐えられるわけではない。むしろ大多数はそこから逃走せざるを得ない。社会主義が賢人の指導者を前提とした理想論であるように、民主主義も超克理想的民衆を前提とした理想論であって、現実には代議制をもって社会主義同様腐敗を免れえないのかもしれない。常に自己批判の体制が保たれていなければならない。しかし衆愚政治をも輝かしい民主主義と受け入れるのであれば日本は素晴らしい民主主義の国だろう。 ■秋のメモ イスラエルでハマスによる市民の惨殺が起きているらしい。そしてそれらは見せつけるかのように画像や映像でイスラエル側に���けられているようだ。しばしば呟かれてるように、彼らは野蛮な快楽殺人者なのか。いや、そもそも野蛮とはなんなのか。きっと、ミイラ盗りはミイラになる。だから、なぜその凄惨な状況を作らなければならなかったかという切実な動機を想像するとき、よりいっそう事態の深刻さに胸を締め付けられる。わざと相手を激昂させるような行動をとる時、それは往々にして、自分の激昂を相手に理解・共感してほしいというモチベーションによるところがほとんどではないか。それは、理性的ではない、気がふれている、などという傍観した正論とは根本的にすれ違う、どうしても代え難い生存欲求にほど近い切実さが起こす事態ではないのか、 ■ 「生きろ」(もののけ姫)と「殺すな」(岡本太郎)。このグローバル化した世界で、つぶさに見れば、誰もが間接的に誰かを殺しながら生きているはずなのだけれど、その自覚から逃れるための物語の供給は潤沢だ。あいつが悪い、こいつが悪い、という論戦は、政治や些細なトピックでも徹底されていて、それはきっと消化に良いからなんだろう。一方、そうならざるをえなかった世界の考察だとか、その世界を構成する主体としての自分の反省だとかは、消化に悪いことこの上ない。「生きろ」と言いつつ生きるダブルスタンダードよりも、「殺すな」と言いつつ生きることのダブルスタンダードのほうがより直截で辛辣だ。しかし、いや、そして、そのような状態をそのまま丸呑みしておける健康な腹。を保ちたい
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shimoda-text · 2 years ago
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雑記
■  ものをつくっていると、それがなんだかよくわからなくなるタイミングがあります。何度も再解釈を迫られるタイミングです。作品が手を離れてモノになる期間だと思うことにするのですが、繰り返していくうちになんとなくものになっていくような感じがします。わりと立体物でもなんでも「作れるから作る」ということが結構あるなとも思います。こどもの行動原理と一緒かもしれません。やってみてそれがどうなるか、どう見えるか、行動が知識に先行する。反実証主義。 そこからは何に見える? ■  たとえば僕らはウィトルウィウスとイムホテプを〈建築家〉として並べて語ることもできて、彼らと僕らには非対称な関係があります。(時間を過去から未来へという線形で考えるなら)未来は過去に対して対等ではない、という感じの非対称性です。その感じでいけば、現在進行形で過去を生産し続けている僕らも、自分を含めた未来人に非対称に扱われるだろうし、いま現在、主体を保っているということは、過去に対してある種の特権を持っている状態で、その特権を未来に引き渡し続けている状態といえるのかもしれません。ここで開き直ってみればこんな感じ。 五千年の文化にフリーライドしている気分は最高。 ■  「どうしても、泣き叫んででも、分けなくてはいけない状況で分けたことがあるか?」 という話を、一人っ子で育った人と話したことがあります。僕の育ってきた兄弟がいる環境との微妙な違いが見えた話でした。シェアというのは、自分が所有しているものを分け与えるのか、そもそも誰も所有していないものを使わせてもらうのか。どうやらそのあたりに視点の違いがあるみたいです。 ■  なかなか曖昧な「豊かさ」という言葉について、 それは選択肢の多さだと仮定してみます。そして選択肢=他行為可能性は自由の根本でもありえて、自由は投企の主体性を担保するという構図を考えてみます。そういった仮定の上で、たとえば「豊かな空間」とか「豊かな社会」という言葉に出会ったときに、それは自由な行為や解釈が許された=観者側の主体が尊重され得る空間や社会なのか、という視点で見てみると、筆者がどの段階の何を豊かさだと思っているのか浮かび上がってくることがあります。 ■  誰もがとても忙しいので、 文脈や比喩や皮肉を読む暇さえありません。短い一言から瞬時に判断しなければならないし、「よくわからない」という選択肢もない、議論をしている余裕もない、ひたすらに、絶え間なく、そして素早く、情報を消費し続けなければならない。そうした中で、ポストモダン(ハイコンテクスト)の凋落と、表層(シングルテクスト)の横溢はさもありなん。 ■ “アナクロ”というべきところを勢い、”アナログ”といってしまうのは分かるけれど、さらにその対義語として”デジタル”といわれた時には、なんだかこう、、やっぱりそうこなくちゃ!。と。 ■ 猫の額を阿蘇山にする方法がわかった。
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shimoda-text · 2 years ago
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“architectureとは何か?”
この文章は、ARTPLAZAにて行われた「think of Aarata Isozaki」展にあわせて企画された「Arata Isozakiからの問い “architectureとは何か?“」に応募・展示されたものです。
“architectureとは何か?”
 あなたが探究している“architecture”のある側面、そしてわたしが探究しているある側面、それを端的にいえば「“architecture”とは〈言葉〉である」というところではないでしょうか。〈言葉〉とはつまり“概念”のことです。それは物としての“building”より、はるかに持続性のあるものに見えているはずです。
 物としての“building”の瓦解を何度も目の当たりにしてきたわたしたちが、“物”ではなく〈言葉〉にその墨跡を残そうとするのは必然なのかもしれません。すべての物が驚くべき早さで腐朽し変遷する東洋の世界観の中で、“architecture”という〈言葉〉にこそ永続的な持続性と活力を見出すのは、東洋人としての宿命のようでもあります。
 一方、西洋の世界観にも接続できるわたしたちは、〈言葉〉とは共同体共通の了解に世界を区分し・名付け・記述する方法だという言語観を知っています。あるいはその〈言葉〉を獲得することで、それまで身近だった”物”自体が遠いところにいってしまう、というような葛藤も知っています。どんな解釈も言語化も可能な、しかしけっして触れることのできないブラックホールのような現実界と対峙するなかで、それを解釈し続ける人間の営みのほうに目を奪われたのかもしれません。
 ふたたび東洋の世界観に戻って、あらためて“人間”という〈言葉〉を見れば、それが生き“物”としての〈人〉ではなく、関係性の概念としての〈人間(ジンカン)〉を表しているという不思議も腑に落ちるような気がします。
 人間を探究する、つまり、物と人 あるいは 人と人 のあいだに生じる〈間〉を探究するうえで、国際化社会の建築家としてのあなたは”architecture”という〈言葉〉を使って世界を見たのかもしれません。
 そう、いまのところ“architecture”とは、わたしにとって(もしかしたらあなたにとっても?)世界を見る交換レンズの一つであって、同時に、“人間”にあるからこそとても輪郭の曖昧な、不定形の〈言葉〉なんだろうと思います。
------------------------------ This text was displayed at "Question from Arata Isozaki "What is architecture?", which was held in conjunction with the exhibition "think of Aarata Isozaki" at ARTPLAZA. (The original text is in Japanese, and the following is an English translation by the author.)
“What is architecture?”
 One aspect of "architecture" that you are exploring, and one aspect that I am exploring, I think the best way to put it is that "architecture" is a "word". By "word," I mean "concept”. It must look much more sustainable than "building" as a physical object.
 Having faced the collapse of "building" as a physical object many times, it may be inevitable that we try to leave our mark not on "objects" but on "words". In the Eastern worldview, where everything decays and changes at an amazing speed, it seems to be our fate as Orientals to find in the word "architecture" enduring durability and vitality.
 On the other hand, those of us who can connect to the Western worldview know that "language" is a way to divide, name, and describe the world based on the common consent of the community. We are also aware of the conflict that the acquisition of a "language" makes the "objects" that were familiar to us before seem to be far away. In facing the real world, which is like a black hole that can be interpreted and verbalized in any way, but can never be touched, we may have been drawn to the human activity that continues to interpret it.
 Returning again to the Eastern worldview and looking at the word "human beings (人間)” in a new light,  it seems to make sense why it represents not “human (人)” as a creature, but "human beings (人-間)" as a concept of relationship.
 In your exploration of the human beings, or the “MA (間)” that occurs between objects and human, or between people and people, you may have used the word "architecture" to look at the world as an architect in a globalized society.
 And thus, for now, "architecture" is one of the interchangeable lenses through which I (and maybe you too?) see the world, and it is an indefinite "word" with a very vague outline because it is in "human beings”.
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shimoda-text · 3 years ago
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建築において〈映像性〉という言葉によって考えられるようになるかもしれないものごと
0.0
 建築に関する文章の中で〈映像性〉という言葉が散見されるようになったので、少し考えてみます。  〈映像〉だけなら何か建築を撮影した映画でもあるのかな?という感じですが、〈映像“性”〉と言われると途端に、もやもやとよくわからないニュアンスになって、なにか誤魔化されているような、一方で「大体わかるでしょ?」と言われているような、そんな気さえしてくるので。
1.0
 まず、私たちが何の気なしに〈映像〉というものを考える時、最初に頭に浮かぶのはやはり、カメラで撮影された〈動画〉のようなイメージでしょう。ひと昔前であれば、それは映画という体裁をとっていたのかもしれないし、あるいはテレビがその代表として語られた時代もあるでしょう。そして近年において〈動画〉は、インターネット上の動画サービスやSNS上で絶え間なく複製と改変を繰り返す、一種のシミュラークルともいえるものになっています。
1.1  このような近年の動画のありようを下支えしているのは、言うまでもなく各動画プラットフォームですが、それらに共通する特徴のひとつは「おすすめ」のアルゴリズムでしょう。このアルゴリズムは、膨大なユーザの傾向を集計・分析し、���ィルタリングやターゲティングを行うことで、ユーザ個別に適切な動画をおすすめしてくれるものです。この仕組みは、かつての「二本立て同時上映」や「つけっぱなしのテレビ」のように、予期せぬもの(興味のないもの、あるいは不快なもの)に〈出会ってしまう〉というリスクから、親切にも私たちを遠ざけてくれます。  しかし同時に、高度にターゲティングされた〈おすすめ〉の動画たちがトートロジカルに私たちの世界を閉塞させているような、あるいは、なにか不透明なものに囲われて視点の移動が拘束されているような、そんな、本来、動画が持っているであろう自由な視点移動という性質とは程遠いところまで来てしまったような気さえしてきます。(映画『時計じかけのオレンジ』で、主人公アレックスがルドヴィコ療法を受けるシーンを思い浮かべて)
1.2  「物理的に画は動いているのに、感覚的には拘束されている、」というような違和感に対して、コーリン・ロウの「透明性」に関する論文のやり方が参考になりそうです。(コーリン・ロウ『マニエリスムと近代建築』彰国社,1981、の中に「透明性 虚と実」という短い章があるのですが、それです。)  これは〈透明/不透明〉という言葉を整理しなおすような内容で、物性としての〈透明〉さ、から一歩進んで、概念的に「透明というのはどういう状態なのか」というところまで踏み込んだので、〈透明”性”〉というタイトルになっているのでしょう。  建築における〈映像“性”〉を考える上で、このやり方を真似するとなんとなく上手くいきそうな気がします。
2.0
 さて、ロウは前述の論文の中で〈透明性〉というものを「リテラルな透明性」と「フェノメナルな透明性」というものに整理していました。まずはそれらの言葉を、この文章内で使えるように再定義しておきましょう。(ロウの本旨とはズレる部分もあるかもしれませんが、〈映像“性”〉を考えるための道具として簡単に。)
2.1  まず「リテラルな透明性」は、ガラスなどの物性による奥行きの明示を指します。そして、並列概念としての「フェノメナルな透明性」は、知覚による奥行きの暗示を指します。  それまでレンガや石でできていた壁がガラスに置き換わることによって、向こう側の世界が明示的に現れてくること =「リテラルな透明性」。ガラスか壁かに関わらず、向こう側の世界が暗示的に知覚されること =「フェノメナルな透明性」。という塩梅です。  これらはどちらも、あちら(彼岸)とこちら(此岸)を繋ぐ(引用すれば、「空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できる」)という点に着目して、そのような性質・状態を指すものとして、〈透明〉あるいは〈透明”性”〉という言葉を拡張・整理したわけです。
2.2  おまけとして、これを踏まえて前段のような動画環境を振り返ってみると、トートロジカルに世界が閉塞していく様子は、此岸に穴を掘るような、非常に〈不透明〉な状態ということもできます。彼岸と繋がる可能性をとことん減らしていっているようなもの��すから。逆にいえば、動画環境における〈透明性〉とは、彼岸の何か予期せぬものに〈出会ってしまう〉、そういった可能性をもった状態のこととも言えるかもしれません。
3.0
 では、〈映像性〉についても同様に定義してみましょう。  〈透明性〉では、重なりや奥行きについて着目展開されましたが、〈映像性〉では視点の移動というところに着目し、ロウに倣って、リテラル/フェノメナルという二分整理を試してみます。  まずは、カメラで撮影した動画のような、連続的に視点が明示的に動き回る現象を「リテラルな映像性」と呼ぶことにしましょう。また一方、暗示的に知覚される視点の移動を「フェノメナルな映像性」と呼ぶことにします。(ルネサンス絵画が1点透視図法によって静的な画面を構成しているのに対して、例えばキュビスム絵画は同一画面内に多様な視点を封じ込めることによって動的な視点を獲得している、というようなイメージです。)  このように、実空間内での明示的な視点の移動 =「リテラルな映像性」、認識としての暗示的な視点の移動 =「フェノメナルな映像性」、と仮定すると、対象が動くかどうかに関わらず、それぞれの関係性が動的に変化していく様子・状態をまるっと〈映像”性”〉として考えることができるようになってきます。
4.0
 建築においての「映像性」を考えてみると言って書き始めて、ようやくな感じですが、「建築において」という部分を考えはじめます。  〈映像性〉という言葉。それは私たちの建築の捉え方にどのような変化をもたらすでしょうか。
4.1  それが建築である時にはやはり必ず人間が介在します。(これは「人が見ていないとき、月は存在しない」(アインシュタイン=タゴール対話)というような話にも近い気がして異論は多々あるとは思いますが…。)  また、建築はそれ自身動かない(ゲーテ「建築は凍れる音楽」(※諸説あり)という言い方もありますが、)ゆえに、人間主体の動的変化が、人間-建築の関係性の動的変化=〈映像性〉の重要な源泉となってきます。
4.2  さて、人間が物理的に移動するとき、つまり、人間-建築の関係が明示的に変化し続けるとき、これを、建築における「リテラルな映像性」として考えることができるでしょう。  そしてまた、たとえば建築の角に差しかかる時、私たちは、まだ見ぬ彼岸への重層的な想像、認識的な視点のゆらぎ、とともにあります。このようなとき、つまり人間-建築の関係が暗示的に変化し続けるとき、これを建築における「フェノメナルな映像性」と考えることができるのではないでしょうか。
4.3  このように、殊に建築と人間の関係においては、建築が建築であるがゆえに生じる、特有の「リテラルな映像性」と「フェノメナルな映像性」というものがありそうです。
5.0
 先にも書いたように、この人間-建築の関係で重要なのは、この関係性の動的変化=〈映像性〉の源泉が、私たち人間主体の側にあるということです。  そこに着目してもう一度「建築における〈映像性〉」を考えたとき、その関係性の中で〈リテラル〉にも〈フェノメナル〉にも変化しているのは、私たち人間主体そのものであるようにも思えてきました。
5.1  人間と建築の間に成立する環境の中で、それぞれの配置によって成立する〈映像性〉は、単なる視点の移動としてではなく、人間と建築という関係を生成変化させていく相互関係の全体として成立しています。しかしその中でさらに、私たち人間主体そのものも、映像的に揺らぎながら生成変化しているのかもしれません。
5.2  ということで、関係性の動的変化という点に着目して〈映像性〉という言葉を拡張・整理していくと、「建築における〈映像性〉」という言葉は、〈人間と建築の関係に成立する環境を、人間主体が内部身体化しながら、間主観的にその全体を生成変化させていく〉、そんなドラマティックな営みを考察するための象徴的なキーワードとなるかもしれません。
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shimoda-text · 3 years ago
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電気羊と野生の身体
われわれの平和と私たちの戦争
 コロナ禍。まるで戦中のように大騒ぎの日本において、私たちは社会のどこかに対して居心地の悪さを感じていたと思う。「平和な日本で、これほどの非常事態が起きようとは予想もしなかった」という人もいただろう。けれども、私たちが感じていた居心地の悪さは〈非常事態〉という出来事のみに起因するものではないという直感も同時にあった。そしてよくよく考えてみると、どうやら私たちの居心地の悪さはその〈平和〉という言葉で表されるようなものにあるのではないだろうか、という発想に至った。  たとえば〈戦争〉という熟語の対義語は〈平和〉ではなく〈講和〉であるという考え方があるそうだ。講和ということを思えば、コロナ禍の前から、東日本大震災の前から、アメリカ同時多発テロ事件の前から、いや、オウム真理教事件や阪神淡路大震災の前から、私たちにとって日本は常に戦争状態であった。ベトナム戦争、湾岸戦争、あるいは今も継続する経済戦争、情報戦争にしても、その最前線への意識が欠如しているというだけで、私たちは常に戦争をしていたのではないだろうか。そのように考えた時、講和のできないウイルスとの戦争やそれに対する社会の混乱を目の当たりにする中で私たちが感じていた居心地の悪さ、つまり〈平和〉という言葉で表されるような何かを、今ようやく別の言葉にすることができそうだ。  直近では東日本大震災での原発事故で、われわれは〈想定外〉の事態が起こるということを痛いほど実感し、それを教訓にしたと思っていた。けれども実態はそうではなかったのかもしれない。われわれは〈想定外〉の事態が起こることを知った、あるいは思い出すことができたけれども、それに対する覚悟はできていなかったのではないだろうか。  たとえば、想定外の事態が起こるということを教訓にしようと思って、想定外の事態について事前に何か対策を講じたとする。しかし対策ができるという時点で、その事態は想定内の事態ということになってしまう。想定外の事態を教訓にして対策をするということは論理的に矛盾を抱えてしまうのである。もし、想定外の事態について何か教訓を得たのだとしたら、それは想定外の事態に対して、何かしらの覚悟を持つということなのではないだろうか。もちろんコロナは恐ろしいウイルスで、またその影響は計り知れないし、最前線で戦う人びとの功績と労苦は察するに余りあるというということに変わりはない。けれども覚悟を持って「なるほど、こういうことになってしまったか」という姿勢で冷静に事態に臨めることは、「想定外の事態が起きてしまった!」とパニックになるよりはるかに健康的だろうと思う。
幸福な機械と快楽的な身体
 想定外の事態が起こる��とを知っていたにも関わらず、さも「そんなこと知らされていなかった!」というようにパニック然と振る舞ういまのわれわれの社会には、どうしようもなく倒錯があるように思えてしかたがない。  想定外の事態が起こることを知っていたにも関わらず覚悟のできていなかったわれわれは、今に至るまでの現代日本がつくり上げてきた幸福な〈機械〉である。ひたすら想定を繰り返すことで想定外の事態というものを排除し、思考や想像力を閉じることで簡便で安定した幸福を生産してきた。澁澤龍彦(1928〜87年)によって『快楽主義の哲学』(a)が書かれたのは1965年のことだが、この時にはすでに(当時は「レジャー」という言葉でもって)われわれの幸福は規格化され生産/供給されていた。以来、幸福なわれわれは個々人の身体的快楽を顧みずとも、なんの思考もなしに手に入る幸福を享受してきたのである。  一方、想定外の事態が起こることを知っていて覚悟していた人は、その〈身体〉を捨てずに生活していた人である。規格化された幸福とは距離を置いて、自身個別の快楽と真摯に向き合うその身体は、マス消費社会では規格化できない非効率な異物かもしれない。けれどもそれは原始の肉体と接続する生々しい〈生〉のかたちである。今ここで、「時代」や「私たち」を俯瞰しようというのであれば、まずはこの〈身体〉を取り戻さなければならない。さもなければ、なにか想定外のものを見過ごしてしまうだろう。
電気羊と野生の身体
 ここで、規格化された幸福を効率よく摂取する典型的なわれわれに〈電気羊〉という贈り名を与えてみてはどうだろうか。  「電気羊」とは、フィリップ・K・ディック(Phillip Kindred Dick、1928〜82年)によるSF小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(b)に登場する奇妙な造語である。その物語の内容も現代への示唆に富んでいてとても面白いのだけれど、今はその妙に蠱惑的な「電気羊」という造語に着目して想像してみたい。現代のわれわれに〈電気羊〉という贈り名をした時、その〈電気羊〉とは何を意味するだろうか。また〈アンドロイドが見る電気羊の夢〉とはいったいどういうものになるだろうか。  古来、〈羊〉は人に家畜として飼いならされてきた動物である。家畜化の過程でその生存におけるさまざまな可能性を閉じる代わりに、簡便で安定した幸福を享受してきた存在である。野生のヤギのように自由に牧場の外を駆け回ったり、自身の本能に従って生息域を探したりすることはできないが、牧場主にとって利用価値のある限りその生命と食住の保証がなされている。そして〈電気〉は、高度に情報化の進む現代においては、電気信号=コード化された情報を直喩する。この〈羊〉という単語に、この〈電気〉という単語が接続された時、〈電気羊〉という造語は羊がコード化された状態を表す。つまり、〈アンドロイドが見る電気羊の夢〉とは、目を閉じ可能性を閉じることによってもたらされるコード化された効率的な幸福であり、〈電気羊〉は、その目を閉じ可能性を閉じた幸福な機械としてのわれわれを象徴する名となるのである。  またここで〈電気羊〉に対して、野生のヤギのように原始の肉体と接続する身体を〈野生の身体〉と呼ぶことにしよう。われわれは自身を電気羊化することによって、つまり幸福をコード化し、思考や想像力を限定することによって効率的な経済成長を可能にしてきた。電気羊化とは、限定した状況の想定とそれによって安定供給される幸福を生産するシステムであり、経済成長の最盛期に生まれた「一億総中流社会」という言葉に象徴されるように、社会に広く深く浸透したシステムである。しかしヤギのように生きる野生の身体は、それら電気羊化のシステムに参画しようとはしないだろう。野生はその生命を保証されていないゆえに、それらの想定や安定というものを相手にしていても意味がないのである。また、電気羊はその幸福が資本によってコード化されているので資本が不可欠であるが、野生の身体にとって資本と快楽は無関係である。野生の身体は、自身が資本の上で寝たいわけでも資本を食べたいわけでもないことを知っている。コードによらず、目的と手段を生々しく峻別してしまうのが野生の身体である。  野生の身体を持った生き物、たとえば言語を持たない生き物は、目の前の水平面についてそれがテーブルなのかイスなのかというコードを区別することはできないが、そこにある現実や事象を感受して主体的に利用することができる。同じように野生の身体を持った人間は、自身が感受する世界において遠く離れた国の戦争を自身とは無関係と思い込むことはできないし、類似した特徴をもって何かを盲進的に断罪することもできないが、自身と地続きの世界としてその戦争を見ることができるし、個別のものとしてそれぞれの事物を認識することができる。そう、何かコード化されたものによらずにその身体で、あるがままの世界を見てしまうのが野生の身体である。
不可逆な身体
 さて、建築などの文化と感染症を考える上でペストを避けることはできないだろう。ヨーロッパ人口の1/3が命を落としたとも言われる中世ヨーロッパにおけるペストの流行は、当時の経済・社会制度のみならず、文化や思想にも大きな影響を与えたといわれている。後にルネサンスが花開き、思想・哲学方面でもルネ・デカルト(René Descartes、1596〜1650年)に代表される大陸合理論などの近代哲学が芽生えるきっかけとしてペストがあったのは間違いないだろう。  その中世ペストの時代では「メメント・モリ〔memento mori〕」という言葉が流行したそうだ。「死を想え」あるいは「死を忘れるなかれ」という意味のこのラテン語は、もともと古代ローマ軍人が戦勝にあたって、「明日は自分が死ぬ側かもしれない。だからこそ今を楽しもう」という意味で使われていた言葉だという。この「死を想え」という言葉に、まだ野生の身体を持っていた当時の私たちの感覚を感じずにはいられない。古代ローマ軍人が戦争という差し迫った状況で自戒を込めて使ったこの言葉・精神からわれわれは、実質的には常に戦時であるにも関わらず〈平和〉という言葉とともに目を逸らしつづけてきたのではないだろうか。平和であろうとなかろうと、将来の想定も約束もされ得ない世界・時代というのは現代日本でも古代ローマでも同じであるはずなのに。  万物流転・諸行無常のあるがままの現実世界について、かつては深い造詣を持って文化を建て築いていたはずの私たち日本人が、電気羊化を経て、いまや��不変の社会〉という夢に目を奪われているように思えてならない。「コロナ禍からいつ元の生活に戻れるのだろうか」という時の「戻る」という表現に、この夢の特徴を見ることができる。  身体は常に変化している。一時として同一な身体などというものは存在しない。身体は常に酸化し、老いていく。昨日風邪をひいた身体が今日回復していたとしても、それは以前の身体ではなく昨日風邪を経験した身体であるし、鬱病から脱した精神は元の精神に戻ったのではなく、鬱病とのうまい付き合い方を覚えた新しい精神である。そう、身体は歴史や時代と同様に不可逆なのである。そして、そこに「戻る」という表現を用いることの無意味さを、野生の身体は当然知っているだろう。自身では想定できない世界、前提の変更も不可能な世界、そのようなあるがままで、どうしてもそこにあってしまう現実世界に向き合った時に、野生の身体は「死を想え」と呟いたのではないだろうか。  野生の身体を捨てて、電気羊化することで思考・想像力を限定してきたわれわれ、その報酬に幸福を安定供給されてきたわれわれが、コロナのような想定外の事態に恐慌をきたすのは至極当然だったのかもしれない。電源を落とされて夢を見られなくなった電気羊が、あるいは柵が壊れ幸福の安定供給に支障をきたした牧場主が、自身が生きる延びるために野生の身体を取り戻し、改めてその地勢や風土を見ることができるだろうか。
自己批判しないではいられない
 電気羊化、つまり簡便で安定した幸福の生産システムは、あらゆる文化に適用されてきた。もちろんわれわれの建築文化も例外ではない。卵が先か鶏が先か、経済成長期にはいわゆる持ち家政策によって持ち家が増加するとともに住宅のコード化が進んだ。具体的には、「nLDK」などの間取りシステムや「南面至上主義」に象徴されるように、住環境を削足適履にコード化することで、効率的な住宅の資本化と消費を後押しした。また同時に私たちの生き方の面でも、家族という概念や会社・学校などへの帰属意識の更新とコード化を進めた結果、手頃な安心つまりは幸福を生産することに成功した。そしてそれは「庭付き一戸建て」という言葉の浸透に象徴されるように、建物のあり方にも反映されることになった。このように、住環境や生き方のコード化が行われることで、建築の多くが〈電気羊の夢〉へと変貌していったように思われる。建築の電気羊化は、想定され得る〈不変の社会〉の中で幸福を安定供給することを可能にしたけれども、同時にある問題をはらんでしまったのではないだろうか。それは、嘘も方便とばかりに建築を換骨奪胎し、コード化したことによってどうしようもなく生まれる倒錯である。  たとえば、建築雑誌において「繋がる」「開く」という言葉が流行しだしたのはいつ頃からだろうか。もともと内─外などのない世界に、内─外などの概念を築き建てるのが建築の大意だとすれば、設計者が「繋がる」「開く」という言葉に頼り出した時に、電気羊化した現代建築の倒錯があらわになったように思われてしかたない。そもそも建築という行為は、第一義に〈分断〉を図るものではなかっただろうか。日差しが強く多雨なアジア圏において屋根は天と地を隔てるものであるし、寒さの厳しい北国において壁は人間の生存可能な領域を切り取る所作である。柱についても、延々と広がる地球表面に、ある領域を限定する所作であることは、アジア各地に残る鳥居の類型がよく表している。  さて、野生の身体をもって見る時、建築の第一義を無視して建築を語ったりつくったりすることの自己欺瞞に、どうして気づかないふりをしていられるだろうか。いつの時代も未熟で浅慮なわれわれには、いつも自己批判の機会が与えられている。そして野生の身体は自己批判を無意識にも避けることはできない。自己批判しないではいられないのである。
肯定すべきそこにあってしまうもの
 では、「コロナ時代の私たちと建築」を考えた時にあり得べき建築とはどのようなものだろうか。私たちは今〈想定内〉という牧場の中で生きているにしても、その柵が綻んだ部分から〈想定外〉で自由に振る舞う野生の身体を垣間見ている。電気羊の夢の心地よさを知りつつ、野生の身体の快楽を思い出そうとしている。いまやコード化された幸福を否定する必要もない。野生の身体を取り戻した時、電気羊としてのわれわれと野生の身体としての私たち、それぞれの世界があるがまま見えてくるだろう。たとえばある建物を見たり語ったりつくったりする時に、それがコード化された幸福に基づくものなのか、野生の身体の快楽に基づくものなのかが峻別できるだろうし、私たちが何を幸福として消費するのか、何を快楽として楽しむのかを自覚することができるだろう。前者は電気羊としてコードに則った消費者としての視点であり、後者は野生の身体によって世界を感受する生産者としての視点である。そして、生産者として野生の身体をもって建築する時、その建築は〈広さ〉や〈明るさ〉や〈繋がり〉ではなく、〈狭さ〉や〈暗さ〉や〈分断〉というかたちで現れるのではないだろうか。  また野生の身体を取り戻した時、建築における〈オリジナリティ〉の現れ方も異なってくるだろう。電気羊化した社会におけるオリジナリティとは、おおよそコード内における差別化の手法を指し示す傾向があるように思う。電気羊化した社会では、他のものとは違うという差異そのものが価値となり生産すべき幸福となり得るからだ。けれどもここでふと立ち止まって、そもそもオリジナルとはどういうことだろうと考えはじめると、言語も歴史もそれに基づく文化もすべてが先人からの連歌である私たちにとって完全にオリジナルな創作というのは可能なのだろうか、と途方に暮れたりはしないだろうか。そしてその時〈身体〉のみがオリジナルであることに気づきはしないだろうか。たとえばある人が見て感じるリンゴの赤さと、ある人が見て感じるリンゴの赤さはきっと異なるだろう。またある人が経験してきた世界と、ある人が経験してきた世界はきっと異なるだろう。身体とそれに基づく感受性はとても多様なオリジナリティに溢れているのである。そして同時に、身体とはどうしようもなくそこにあってしまう現実であることにも気づくだろう。先に挙げたデカルトが、未だペスト流行の中にあった17世紀のヨーロッパで唱えた命題、「我思う故に我あり〔Cogito ergo sum〕」を短絡するなら、その身体を肯定することはその世界を肯定することである。どうしようもなくそこにあってしまう世界を肯定し、すでにそこにあってしまう世界をどうやって面白く住みこなすか。世界のありようを肯定する野生の身体で建築がなされる時、そのオリジナリティは生産すべき差異としてではなく、どうしてもそこにあってしまうものとして現れるのではないだろうか。
〈建築家〉はもういない
 最後に建築という行為について、あるコード化された概念の集積を〈電気的建築〉、身体��よって要請される概念の創出を〈野生の建築〉と呼び分けてみよう。  電気羊向けの安心で快適な〈電気的建築〉は資本社会が最適化して提供してくれるだろう。いかに太陽光を取り入れるか、いかに限られた面積に効率よく部屋を配置するか、最短の動線はどのようなかたちになるのか、といった最適化のプログラムは資本の蓄積と物量によって高度になりつつある。特に、BIMやパラメトリックデザインなどの技術発展が典型的である。電気羊としてのわれわれを満足させる建築行為は、エンジニアリングとして旧来の建築家以外の技術者が、その物量・情報量・技術的蓄積・最適化のプログラムによって旧来の建築家以上にうまくやってのけることになるだろう。つまり〈電気的建築〉を設計する者の正体は、電気羊の夢を供給する〈技術者〉である。  しかし、電気羊の夢の中にいる限りそのプログラムの前提にある各々の定義や評価軸、用いる変数や定数の設定、それら自体を疑うという作業は難しい。なぜならそれらの作業は野生の身体を持ってなされるものだからである。先に述べたように、効率的に幸福を供給する牧場主としての設計者が建築家である必然性は現代にはないが、もし建築家がオリジナリティをもって〈野生の建築〉を行おうとするのであれば、野生の身体を取り戻すよりない。しかし電気羊化した社会のコードやあるいは定義や公理のようなものを、野生の身体をもって疑い、また世界のあり様を考察する行為は芸術行為そのものではないだろうか。この時〈建築家〉という言葉は自己批判・自己限定されて〈芸術家〉と同義となる。つまり、現代で〈野生の建築〉をする者はもはや〈芸術家〉でしかあり得ないのである。そう、〈建築家〉はもういない。  野生の身体を思い出しつつある〈芸術家〉としての私たちにとって、「コロナ時代の私たちと建築」という関係のみを切迫した問題として見ることはできない。事態はいつの時代も常に切迫しているし、私たちをとりまく世界はいつも、想定外で、不可逆で、どうしようもなくそこにあってしまう現実である。私たちがいつの時代も常に自覚しなければならないのは、われわれが自身に向ける電気羊化の手癖であり、私たちがいつの時代も常に探求しなければならないのは、私たちの野生の身体である。 参考文献 a. 澁澤龍彦『快楽主義の哲学』(光文社、1965年) b. フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房、1969年)
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shimoda-text · 4 years ago
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「新しい」って“良い”ことなの?
 コロナ禍における発信方法の変化に加え、各大学建築学科の卒業設計の提出/講評の時期が重なったからなのだろうけれど、誰かの案に対して各々が発言した何かを目にすることが多くなった。  ここでちょっと気になった(いや、前々から気になってはいたけれど、顕著にその違和感が強くなった)のが、「新しい」ということについての評者の姿勢だった。どうにも多くの人が「新しい」ということを無条件で��良い”ものとして認識していそうなので、少しここに書き留めておきたい。
 結論から言うと「新しい」ということには確かに価値はあるのだけれど、脊髄反射的に“良い”と判断する前に、まずそれを(カッコ)付きで考えた方がよいのではないか、というのが持論だ。
 このことを考えるために、遺伝子と模倣子というものを考えたい。(なぜなら“「古い」ものの方が当然価値があるはずでしょ?”という直感があったからだ。)  まず遺伝子について。生物としての人間を考えた時に、その本性を”遺伝子の容れ物”と考える見方がある。いかに遺伝子を後世まで存続させていくかが生物としての大きなテーマだという見方だ。ダーウィンの進化論的に言えば、その存続のために今まで様々な遺伝的変異が繰り返され、適者生存の法則に従って現在まで存続してきたのが人間という生態学的ニッチだ。遺伝的変異は単なる複製エラーなどではなく、予測不能な未来に向けて存続可能性を高めるひとつの手段と捉えることができる。  遺伝子が生物の遺伝情報とするなら、模倣子は文化の遺伝情報だ。有史以降、文化を獲得した人間は、アリストテレスが“人間=社会的動物(=zoon politikon)”と定義したように、その社会を形成するために多くの情報を伝達/共有してきた。今や人間は模倣子の容れ物でもあるわけで、遺伝子と模倣子の両輪で突き動かされている存在と言えるかもしれない。
 ここでもう一度アリストテレスを引用すると、
  「より長続きするものは短時間しか続かないものよりも、…(中略)…よいものである。」   (『弁論術』:第六章:よいものの定義)
とある。これはなんとなく最初の直感と合致するのだけれども、これを模倣子の存続という視点から見てみたい。
 模倣子は遺伝子と同様の性質を持つので、その存続ということが大きなテーマとなる。適者生存の法則に従えば、現在まで存続している文化はその模倣子が優秀ということなのだろう。当然、現在に至るまでに数えきれない遺伝的変異を繰り返したはずだ。   何かモノを作るという時に、0から1を作り出すということはありえない。それは物質でも文化でも同じだ。建物は突然現れたりはしない。木造であればその木が育った山があり、その木を構成する元素がある。その建物その土地に適した形状を試行錯誤した先人の知恵があり、建築の諸分野を耕してきた歴史がある。  連綿と続くモノ作りの中で、たまにちょっと新しく見えるものが生まれる時があるけれど、それはそれまでの歴史の再解釈だったり改変だったりという、あくまで突然変異的なものだ。これは模倣子における遺伝的変異であって、その存続可能性を高める営為ではあるが、その変異が存続に有利だったかどうか、つまり“良い”変異だったかどうかは歴史の検証を待たなければならない。  このように考えると、「新しい」ということの価値はその場では判断できないはずだ。「新しい」ことの価値は、その文化(模倣子)の存続可能性を高めたか、その文化(模倣子)が存続できているか、という結果論でしか語れないのだから。
 ここまで���踏まえて結論に戻る。「新しい」ということは、模倣子の存続可能性を高める営為という全体の一部として、確かに価値があって“良い”と言えるかもしれない。ただし、その変異が優秀かどうかはその時点では分からない。そういう意味で、「新しい」ということを“良い”と評価する時には(カッコ)付きで、ちょっとためらいつつ判断した方がよいのではないだろうか。
 もし超人的に未来を予測できるのであればこのためらいは不要かもしれない。しかし凡庸な作者(あるいは評者)としての僕らは、その変異した模倣子の存続可能性を高める生存戦略として、それが歴史や文化の中でどのような立ち位置にあるのかくらいは考えておいたほうがよさそうだ。これはその時点でもできることだから。
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2020.04月号
 4月号は「都市住宅2020」特集である。
 巻頭、安藤忠雄の「マンハッタンのペントハウスⅢ」に添えられた特集インタビュー「都市に向き合い続けて」では、安藤忠雄が「都市ゲリラ」を標榜したころの都市への挑戦的な姿勢が、今も氏を突き動かしている様子が表れていた。  終段では「既成の枠組みにとらわれずに、予定調和を突き破っていく建築」「都市空間に摩擦を起こすくらいの生命力のある建築」というように常に挑戦を続ける姿勢がなお表明されている。そしてその姿勢を下支えするものとして、前段で「起業家個人の強烈なエゴが剥き出しに現れている。その何よりも個人の自由を尊び、起業家の挑戦を賛美する精神にこそ、人びとはニューヨークを感じるのでしょう」「結局、命ある建築を社会に産み落とすのは、『何としてもここでつくり、ここに棲むんだ』というクライアントの強い意志なんですよ」と、都市が都市であるための人間のエゴへの考察と活力への期待が示されている。  最後に「ともかく建築家でいる限りは、都市の問題児たる建築を目指したいと思っています」と結ぶように、これからも都市へ挑戦するバイタリティに溢れたインタビュー記事であった。
 青木弘司+AAOAAの「相模原の家」は、様々に個性を持ったボリュームやエレメントが、等価に併置された関係性が面白い住宅だが、特にその解説文が興味深い。第一文から「眼前に広がる事物や現象の総体としての世界は、実に複雑怪奇であり、その構造を理解するのは容易ではない。しかし、理解することを諦めた途端に、人間の生の実感が失われてしまうのではないかと危惧している」というように、経緯や手法の解説からは一歩引いてかなりレンジの広い概念から導入している。続く作品解説では「界壁」と呼ぶには厚すぎるボリュームが「界壁」と呼ばれているし、設計の経緯について解説する段では意識的に構成とそれに対する”違反”を繰り返していることが明かされている。  これら建築にも文章にも共通する、観者を手繰り寄せつつ身をかわすような理不尽さが何を目的としているのか、それは文末に端的に示されていた。「建築を介した世界のフレーミングによって何気ない日常に主体的に価値を見出すことで、この世界を自分たちの手に取り戻すことができるだろう」。周囲の建物や街を読み込んでの建築言語と構成・引用は、それに対する誇張や違反によって顕然と観者にもたらされ、今まで意識に上らなかったものを意識に上げる。ひいては人をして世界に批評的にならしめる。これは自身が批評的であるように努めることよりも高度な目標ではないだろうか。一つの建築から世界を見る広い視野と、それを方法論と共に実践する姿に刺激を受けた。  また、「生きる実感」や「人間の主体性」を主題とする思想に共感すると同時に、それが根本的な問題であるからこそ建築言語ではない面からのアプローチにも可能性が見えた作品である。
 武田清明の「5つの小さな擁壁」もまた批評性に富む文章が印象的であった。「土地」という概念から「大地」という概念への視点の切り替えから始まり、「現代の建築がはらむ均質性」への省察へと発展する論は、最終的に居住者の主体性へと還元されていく。終段で、「『場所』に住んでいる実感を取り戻したい」「地表から生えたような生命感」とあるように、先述の青木弘司+AAOAAとは若干違う「大地」という端緒から、生きるための建築を考えているようだ。残念なのは、おそらくこの「大地」はこの実地に赴かなければ実感できないという点である。建築はそもそも実地に赴かなければ本当のところはよくわからない、というのは当然であるのだけれど、さらに「大地」に関してはなおさらではないだろうか。ぜひとも、その地への旅程も含めて体験してみたい大地と建築である。
 駒田剛司+駒田由香の「slash」は幹線道路と生活道路に挟まれた敷地に建つ2階建の木造住宅であるが、まず平面図と並べて掲載された夜景内観写真に単純に”カッコ良さ”を感じた。照度を落とした室内からは大きな開口部を通してカーディーラーのライトアップされた看板が見えている。そしてそれにオーバーレイするように室内に現しにされた小屋組が反射して写り込んでいる。この幹線道路沿いという環境(や、この対面するカーディーラー)を設計者がどのように解釈してどのように批評しようとしたかは、短��解説文では十分に説明されていないが、二階内部の様々に歪められた遠近法の視覚的操作に対して比較的そっけない外観からは、それらの批評が予感された。  二階の視覚的操作も興味深いのだが、一階子供室中央の微妙な位置に落ちた柱が気になった。設計者文中に「実は最後まで悩んだのが一階の計画であった」とあるように、この柱は二階の構成からの要請によってここに落ちてきているのだろう。作り込まれた二階の概念を一階でも押し通すのか、あるいは一階の要請から二階の妥協点を探すのか、他の方法もあったかとは思われるが、ここでは第三の方法が取られている。すなわち、一階をリノベーション的に構成/表現しているのである。主としての二階を仕上げ、それに対して一階を考える、新築住宅として面白い手法であるし、設計者自身「捻れた関係が…(中略)…生気を強く感じさせる」というように、ここまで主従がはっきりしていながら主の二階のために一階が死ぬことのない新たな関係性だと感じた。  
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2020.03月号
 3月号は「平家のすすめ」特集である。  まずは2月号への座談月評。塚本由晴が「『新建築』の掲載作品は用途も規模もさまざまだから、プログラムの背景やプロジェクトの経緯を説明するだけでも、それなりに読めるストーリーになります。しかし『新建築住宅特集』の掲載作品は基本、住宅だからそういう違いは少ない。だからその作品が何と隣り合わせなのか、何と関係づけられるのかがもっと創作の問題として語られてよいと思います。」「そういう意味で『新建築住宅特集』の発表文章は、ある種の創作として、設計者がしっかり、かつ謙虚に向き合わないといけないと感じています。」と発言している内容は、前回の勝手に月評の内容とも重なり同意する。しかし、一方で平田晃久が先の言を受けて「それはまた、雑誌編集と建築家の文章双方に対する強烈な批評ですね。取り立てて批評性のない個別の『創作』文が漂う誌面はどうなのかと。」と返した上で、「建築家の創作の在りどころは建築作品にあるので、大抵の場合文章としての創作はいらないのではないかと僕は思います。」と自身の姿勢を示している。  建築を考え/つくることが主題の建築家にあっては、建築作品のみがその本質であることは(多少原理主義的であっても)否定のしようがない。作品に宿る思想と歴史が言葉で語らずとも価値を持つこと、それがモノとして残る建築の本来の価値であるとも思う。しかし、殊に建築専門誌への発表文章としては、少なくとも設計者個人の思想や歴史観が語られてよいと思う。建築という実地へ赴かなければその実態が掴めないものをあえて誌面で発表するのだから、写真と図面、経緯の解説では圧倒的に概念が不足するからだ。アメリカ抽象表現主義時代のポロックらとグリンバーグの関係のように、作家と批評家が独立して琢磨する関係性は今の日本建築界には乏しいが、逆に自身の作品を自身が解釈して批評解説できる文化/土壌が日本には既にある。自身が主体的にこれからの文化を形成している自覚があるならば、その文化に真っ向から向き合うことも誠実さではないだろうか。もちろん、塚本由晴が文末に釘を刺すように「しっかり、かつ謙虚に」。
 吉田夏雄の「肥田の家」は、今月号で最も美しい家だと感じた。比較的小さなボリューム内部は、かなり重心の低い家具に対して高い天井が落ち着いている。写真は夕景以外、全て自然光の下撮られているようで、室内の仄暗さが居心地よさそうである。シンプルな木造在来工法に対し、小屋組を見せてそれを主張することもせず天井を張っていて嫌味がない。キッチンは書斎机と横並びに連続していて、仮に「職/住を分けるという発想もなかった」と言われても頷けるくらい、人の生活が一体として捉えられていて全体にも腑に落ちる計画と佇まいとなっていた。  志垣デザイン店の「地の舎」は、牛舎や駅舎などに通ずる字形通りの「舎」という佇まいである。平面図を見るとこの家には記号的な玄関がないことに気づく。「下駄箱」と表記がある小さな一画も建物入口から対角の最も遠いところに位置しており、各室を「アメーバ状に」つなぐ中庭のどこか町家の通り庭のような構成と印象も相まって、おそらくこの家なら「靴なんてどうにでもなる」というようなおおらかな生活像が浮かんでくる。また、おおらかな生活像の一方で、建築としては室外機などの設備機器がしっかりとおさめられている。一点、設計者文中の「周辺に対して開放的に暮らすことができる住宅」という部分の「周辺」がなにを指すのか誌面では読み取れなかった。視覚的/立地的な開放を指すのであれば開口部や擁壁の仕草は逆に内向きに見えて疑問符が残る。敷地内の掘り下げられた部分に限定された「周辺」なのか、あるいは近年の住宅特集に頻出する”家開き”など社会としての周辺を指すのか、などもう少し解説が欲しくなった。  伊藤州平の「日進でのたち方」は、直角三角形の上部ボリュームが印象的な住宅であるが、平面図を見ると主題は平行する複数枚の壁であることがわかる。敷地、生活のシーンを分節する平行壁は、(絶妙に切り替えられる床・壁の仕上げ材/色と相まって)パラパラとずれながら配置されることによって少ない手数で多様な居場所を作っている。直角三角形の上部ボリュームは設計者文中でも指摘されているように「この気積はアイレベルからは見通すことができず、そこに行くこともできない」が、「この気積を介して気配や音などによって変化を感じ取り全体を想像することができる」というように、この建物の背骨として働いているようだ。平行壁というメインの手法に則って手数を減らし整理していくと同時に、建物の上部三角形ボリュームが印象的なアイコンになっていく。平行壁によって奥行きを捨象しつつも、上部ボリュームによって奥行きを作り出していく。このようなどこか矛盾する手つきが興味深く、その矛盾や両義性の間(ま)に着目していくことに可能性を感じた。
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2020.02月号
 2月号は「木の家の歓び」特集である。  どの作品も非常によく考えられており、なるほどと膝を打つような工夫が多く見られて勉強になる号だった。  ・高木正三郎の「TIMERの宿」における、施主の現代生活様式への懐疑を支点とした、オフグリッドへ向かう様々な工夫。・澤秀俊の「飛騨古川 雪またじの屋根」における、雪国の二重屋根構造や、間伐材活用ルートの開拓。・米田雅樹の「本の舟」における、「冬季は中間梁に布天井を描けることで執務部分の気積を小さくして暖気の流出を柔らげる」工夫。・中薗哲也/ナフ・アーキテクト&デザイン+広島大学の「2xハウス」における、SPFツーバイ材を用いた構造システムの考案。・中西正佳の「オセロハウス」における、隣両親家とのまさにオセロ的な住み替えの提案。などなど、それぞれに独自の工夫が解説されている。しかし反面、根本的な設計思想への解説の分量は極端に少ない印象であった。  その中でも、増田信吾+大坪克亘の「2階建ての家」では、「建築のために詐らない」と題して「産業側の論理と建築家側の趣向。考えてみれば、どちらも建築の都合の中に住まわされている。」というように、従来の作るための論理優先でかたちづくられる”家づくり””間取りの作法”への批判がなされている。同テキスト中で主要なキーワードとして「生活」という語が何度も用いられているように、「建築」ではなく「生活」を主軸として建築を見る、産業側の論理にも建築家側の趣向にも寄らないニュートラルな設計思想が垣間見られた。
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2020.01月号
 1月号は「2020年 住宅の行く先」特集である。
 前年総評と青木淳による巻頭論文のバランスが面白い。
 総評では、高橋一平が「世界とはもっと概念的で深さのあるものではなかったか。もしくは僕たち人間は気楽な動物へ変わっていき、文化を失い、哲学を忘れ、技術を消費するだけの運命にあるのか、」というペシミスティックな反語から、「開かれた場であれこれ議論することは、人間の生き方についてみんなで実験をしているようなもので、それぞれに尊厳がある。」と、主体的な人間への期待感を表明している。そしてそれは「だからこそ、建築専門誌において建築を概念で語らないことは、何より卑怯に感じ���。」というように、建築あるいは建築専門誌へと還元されていく。  ここで合わせて参照すると面白いのが、高橋一平が2019年を通して行った、自身の作品解説である。実は、2019年の住宅特集で高橋一平の「河谷家の住宅」は二回掲載されている。一回目は1月号にプロジェクトとして、二回目は12月号に竣工作品としてである。注目すべきはそれぞれに言及している世界のレベル差である。(もちろん12月号は”特集論考”という形であるからその意図も大きく異なるのは当然であるが、ここではあえてその点を無視する。)1月号のテキストでは、どのような事柄を与条件として抽出したか、それに対してどのような価値判断をしたのか、そしてそれにどのような手法で応え、どのような効果を期待するのか。というように、事実を淡々と伝えるに留めている。対して12月号のテキストでは、この勝手に月評でも取り上げたように、概念レベルへの言及が大きな比重を占めてくる。  この対比の強い二つのテキストが、そのまま前出の「だからこそ、建築専門誌において建築を概念で語らないことは、何より卑怯に感じる。」という言に直結しているように感じられ、非常に力強く、印象的であった。
 巻頭論文では、青木淳が「抽象は、先に進むための一輪車に過ぎず、それは具体との両輪があって初めて成り立つ行いなのである。抽象は強力であればあるほどよいが、それに見合った具体がなければどこにも辿り着けず、ただ同じところを回り続けるままだ。」と投げかける。(ここでは両者の用いる”概念”という語と、”抽象”という語は必ずしも一致しないが、)高橋一平が抽象思考の軽視/排斥への危機感を表明したとすれば、青木淳は抽象の力も信頼した上で、その暴走により具体が崩壊することを危惧している。そしてそれは文末、「抽象が見境なく暴走した20世紀のモダニズムの残滓は、今もある。例えば図式をそのまま実体化しようとするメンタリティ。たとえば言語化された現実の課題をそのまま現実として信じてしまう誤謬。たとえば、論理の短絡的実体化という暴力。」という歴史を省察した言葉になって現れる。
 建築に限らず、”分かりやすさ”がかつての”正しさ”に代わる現代世相を見ると、抽象的思考や科学的思考が軽視されることへの危機感は個人的に共感するところではある。一方で、建築の大きな歴史の中で大観して冷静な目で自身を位置付けるような所作にもはっとさせられる。そのような意味でも今号は、総評と巻頭論文のバランスについて興味深く頁をめくった。
 編集後記には「多様な状況をできる限り正確に記録し、議論の場をつくってまいります。」と、新年の決意表明がなされている。”正確に記録”ということがどのような状況を指すのか定かではないが、言説/表現の場が今年もさらに開かれていくことに期待したい。
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2019.12月号
 12月号は「これからの間取り」特集である。  先月の勝手に月評は「開く」などのキーワードに懐疑的な結びをして終わったが、今号の特集タイトルには「住宅を街に開く歓び」という副題が付されている。果たして現代人は街に開きたがっているのか、またそれを歓べるのか。あるいは建築家は「開く」ということをどのように 考えている/考えていくべき なのか。そのようなことを考えながら誌面を開いた。
 高橋一平の「河谷家の住宅」は江戸の街並み残る川越に新築された住宅である。全体の構成は明解で、大きな倉庫の中に、住むことのできる「間」を設えたような構成となっている。特集論考中で高橋一平自身も表現するように、「山車の車庫」「大仏殿」などといった様相で、大きな気積を持った内部空間に大仏のように住宅が鎮座している。「見立て」の手法は何かを設計する場合に手法として便利だが、特に面白いのはその「見立て」が「◯◯っぽく見えるように」という近視眼的目的に基づくものではなく、人間の主体性を喚起する目標に向かって用いられている点である。  特集論考最後の文でも述べられているように、「私たちにとって世界は概念でできているから、見方次第で世界の捉え方も変わる。新たな関心を見つけ、その先を想像し、行動し、再び人間らしくいきられるのではないだろうか。」という人間性の復権こそが最終目標なのだろう。そのような目標に共感するし、またそのための方便として「見立て」という手法を用い、あえてそれを顕示的に表現したことも効果的であった。  建築において「見立て」は「形式」に変換されるが、それは同時に「フェイク」という感覚も生むものである。何かの概念(イデア)を示す為に置き換えられた似せ物。そのような状況に対峙した時に、人はすでにメタ的な視点に立たされている。そのような状況を設計者は「多焦点」と表現しているが、現実を「多焦点」で意識的に見ることこそが、人間がその実存を保存する(=人間の主体性を担保する)端緒となるのではないだろうか。その点において、この建築は一つの建物を地域に新築するという社会性を飛び越え、概念的なレベルでの社会性・奥行きを持った建築ということができるのではないだろうか。  一つ気になった点を挙げるとすれば、手法を墨守するあまり最上階の天井スラブと屋根スラブが二重になっている点が演出的すぎるようにも見えたが、演出的という印象もまた「フェイク」の効果を補強するように働いているように思えた。
 中山英之の「家と道」。中山英之の文章の巧みさには毎回舌を巻くのだが、担当者の解説もまた妙文であることに驚いた。その解説文には「住まい手の所作によって『家』と『道』が現れたり消えたり、一つの建築の可逆的な変化が、その都度、敷地と街との関係を再定義する。…(中略)…伸びたり縮んだりする人や物の距離感や、想像力の広がりを伴った生活が生まれることを期待した。」とある。先述、高橋一平の言を借りて言えば、施主を「多焦点」な状況に誘導するよう設計したということだろうか。  中山英之による特集論考には、「主観的であることと客観的であることは相反する概念ではなく、」「真の不気味さは、…(中略)…むしろごく馴染みのある既知の対象がもたらす心理的な経験にある」という二つの印象的な部分がある。後者は「未視感(=ジャメヴ)」についての言及であり、この作品で用いられた手法についての言及であるが、どちらも事物を「見る」あるいは「解釈する」ということについての考察である。そしてここに、高橋一平と中山英之、共通の問題意識があるように思われた。  思うに二人の共通点は、世界の多様な見方を促し/引いては人間の主体性を復権するために、建築においてメタ的多焦点の状況を作ろうとしている点である。民主的多数決による「普遍性らしきもの」を追究するのではなく、極めて抽象的な思考/あるいは具象的な嗜好を基に「普遍性」を追究する姿勢、主観的なものをとことん掘り下げていった結果一転して表出する普遍性に期待する姿勢は、殊に住宅という個人の建物を、建築に昇華させる上で非常に有効な手法ではないだろうか。  中山英之の作品に話を戻す。今号の論考に限らず、ギャラリー間での展示や著書においても、その表現はとても分かりやすく、ふわっと我々の視点を俯瞰レベルにまで引き上げてしまう。嫌な言い方をすればある種の「あざとさ」も感じるほどのその分かりやすさは、「多焦点」へと人を導き・教化するために、とても注意深く作られているものなのかもしれない。
 岸本和彦の「縮景の杜」は、まずその佇まいに目が留まった。周囲の家と比べても一際コンパクトな建物は、安易に開くことを選択しなかった注意深い開口部の操作によって、ちょこんとした愛らしさと静謐さを持っているように感じた。かなりコンパクトな建物だが、内部にはそれぞれタイトで居心地の良さそうな空間がなんと立体的な回遊動線上に配置されている。よく見てみると玄関は家の中心にあり、まるで普通の家を紐解き・捻って、メビウスの輪のように構成しなおしたかのうようである。小住宅ではあるが大味になることなく濃密に計画されており、全体と部分の関係、構成、各高さ寸法など、じっくりと読み込みたくなる作品であった。
 塩塚隆生の「SuiJinビル」は、2018年11月号掲載の「KUGENUMA-Y」(可児公一/植美雪)と同様に、津波の教訓を率直に反映した住宅である。KUGENUMA-Yは専用住宅であり、表現も比較的簡潔で明解である。対してSuiJinビルは店舗併用住宅であり、様々な要素がより複雑に絡み合うような構成となっている。津波対策という問題を共有する二作品であるが、その間には様々に異なる諸条件や思考の違いによって浮き出てきた違いがある。その点に注目しつつ興味深く読み比べた。
 全体に意欲的な作品が多く掲載されている印象であった今号は、リテラルに「開く」作品もあったが、人間の思考や概念を広げるという意味で「開く」意欲をもった作品も多く掲載されておりとても興味深かった。  「開」という字を用いる熟語に「開発」というものがあるが、これは元々は仏教用語なのだそうである。「他人を悟らせること」「内心に潜んだ仏の心に目覚めさせること」、これを開発(かいほつ)という。住宅を建築という文化・歴史・思想として考える立場では、このような「開き」方に可能性と未来を感じた。
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shimoda-text · 5 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2019.11月号
 11月号は「開かれる軒と窓」特集である。  座談月評については毎度、内藤廣の意見に同意する。  掲載作品については、表紙にもなっている畝森泰行の「東京の住宅」を興味深く読んだ。もともと小さな住宅をさらに小さく見せるようにボリュームを分割し、大波の外壁を用いることでさらに建物全体をより小さく見せている。また特集論考中「住宅は生活するうえでのほんの一部分に過ぎない」というように、間取りは最小限で抑えられている。圧倒的に少ない収納容量や、一見過剰に見えるダイニングの高天井は、池辺陽の「立体最小限住宅」を彷彿とさせるが、銭湯に行くことを好み、将来家を手放すことも視野に入れる施主の、家という建物に縛られない生活観は現代の都市に住まう人間としてある種健全とも思われた。それらを直裁に表現し、住宅という建物に過剰な期待を寄せない建築家の態度は、現代社会や施主に対して実に誠実に見える。  T-Square Design Associatesの「風棲家」は温帯に位置する日本での生活についての考察が現れた住宅である。設計趣旨の最後を「このほとんど屋外のような家で暮らすには、日々生活の知恵が必要であるが、それこそが人間らしい生活ではないかと思っている。」と締めくくっているように、人間がその土地に暮らすということに意義を見ようという姿勢である。高気密/高断熱、人工照明、機械による温熱環境制御というのは、ある見方をすれば土地と生活を切り離す操作であって、人間に対する一切の期待を捨てた姿とも言えるのではないだろうか。その点でこの住宅は人間に対する信頼に溢れている。  江藤健太の「門川の家」は、ローコスト住宅としてのシンプルな間取りの中を貫くヴォイドが特徴的な作品だが、そのヴォイドに対してのブリッジや階段の取り扱いに興味を持った。ヴォイド中に掛けられているブリッジと階段は少しづつ角度を振られている。これによってブリッジや階段というヴォイド内の「異物」は、ヴォイドの形式性を邪魔せずまた強化もせず、程よい距離感を保っていた。  さて、今号で最も気になったのは多くの設計趣旨が「開かれる軒と窓」というキーワードに過剰に応えた内容となっている点である。(そもそも「住宅特集」自体、建築の中の「住宅」という分野にスポットを当てた特集号なのだから、特集/◯◯というような誌面の作り方は辞めたほうがいいと思っているのだが、)他に文字数を割きたい主題があるように思われる作品でも、窓や軒に対して言及していたり、断面図中にあまり意味のない風の流れを表す青い曲線や夏至/春秋分/冬至の日差しの角度が書き込まれていたりする。記入される風の流れはよほど特殊なことをしなければただ窓の位置を示すだけの邪魔な記号であるし、冬至の太陽光が室内全面に当たる様子などは冬の低角度直射光によるグレアをあえて喜んでいるようにも見える。(温熱的に高性能な現代住宅で冬の直射光など、縁側で日向ぼっこができる程度に入るのが丁度いいのではないだろうかと私は考えるのだが)。  編集者からの要請なのか、設計者側の忖度あるいは他に書くことがないのか、いろいろと邪推してしまうが、とにかく住宅特集の各月特集に「開く」「繋ぐ」「関わり」などという語が並ぶ状況は日本住宅史における現在の「教条」や「正しさ」を象徴しており、それら特集のあり方には日本を代表する住宅建築の専門誌としてのリテラシーが問われている。
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shimoda-text · 5 years ago
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Fight Club考(ファイトクラブと実存主義)
 高校生だった頃の私が夢中になった映画の一つが「Fight Club」である。Chuck Palahniukの原作に基づき1999年に映画化された作品であるが、その続編が2016年にコミック化されると聞いて方々探し回っていた。私の知る限り日本での販売は行われていない。半ば諦めかけていた時に立寄ったベルリンの書店でそれは偶然見つかった。  内容に触れると即ネタバレになってしまうので避けるが、映画版Fight clubの正統な続編として挑発的でメタ発言に富む、読み応えのある作品となっている。特に後半から最終章にかけては。ゲーテの格言、”The greatest respect an author can have for his public is never to produce what is expected…” を地で行くような内容となっており、「しまった、またしてやられた、」という小気味よい敗北感を味わえる奇妙な作品であった。
 両作品で一貫して描かれている主題は「実存*¹」の問題である。
 映画版において最後まで名前を明かされない「主人公」は、もう一人の主人公「タイラー」に、”Ikea-boy” (M)などと揶揄されるが、これはハイデガーの云うところの「世人(=Das Man)*²」のことである。タイラーはさらにこうも言う。”We are consumers. We're the by-products of a lifestyle obsession.“(M) 。全てが商品となる資本主義において”by-products” という語を使うことによって、世人もまた消費されていく状況を辛辣に形容している。  ハイデガーの思想の内でもう一つ重要な造語があるのでここであらかじめ確認しておく。「現存在(=Dasein)*³」である。現存在は自身の存在を主体的に認識して生きる者のことで、人間の本来性に目覚めた者のことであり、世人と対比的に語られる存在である。特にハイデガーは人間が死に向かう存在であることを重視しており、自身の死から目を背けて生きる者を世人、自身の死を見つめ翻って主体的に生きようとする者を現存在=人間の本来のあるべき姿として評価する。
 タイラーもまた死を見つめることを重視する。映画版において、タイラーが主人公の手を水酸化ナトリウムで焼くシーンでは、手が焼ける痛みから逃避しようとする主人公に対して、”LOOK at your hand!” (M) ”Come back to the PAIN! Don’t shut this out!” (M) と自身の痛みを見つめるよう恫喝する。さらには”Don’t deal with this the way those DEAD people do. Deal with it the way a LIVING person does!” (M) と迫る。死を見つめて本来の「生きた」人間になれ!と迫っているのである。極め付けは”You have to know that someday you’re gonna die.” (M) とも。
 「メメント・モリ(=Memento mori)*⁴」 という言葉がある。「死を忘るなかれ」とも訳されるが、古代においてその趣旨は「その日を摘め(=Carpe diem)」と解釈されていたようだ。いつ訪れるとも知れない死に怯えるのではなく、あるいは明日訪れるとも分からない未来に希望を持つのではなく、今この瞬間を生きろという実存的な教訓である。タイラーの行動はすべてこの考えに沿っている。  (ちなみにこれら実存の問題は東洋でも体系化されている。しかも、19世紀にキルケゴールが取上げる遥か以前、紀元前1世紀には老荘思想として、また般若心経(ここでは実体は否定されているが)の一部にも世界認識の重要性が、さらには臨済宗/曹洞宗などの禅宗、紀元前5世紀に活躍した釈迦も「今」を生きることを非常に重視していた。人間がどう生きるか、何を目的として生きるかは人類普遍の問題であり哲学の主題とも言えるが、例えばアリストテレスら古代ギリシアの哲学者達が弁論術に力を注いでいた頃、東洋では既に実存主義哲学の大本が体系化されていたとも言えるのではないだろうか。)
 Fight Clubは常にメタ視点を意識させられる作品である。映画のラストシーン直後に挿入される男性器のサブリミナルイメージは、タイラーがまだ生きていること、しかも現実の映画館の映写室に今まさにタイラーがいることの示唆である。自身を主体的に認識し行動していくための手段としては、メタ的に自身を認識するか、あるいは極めて主観的に世界を認識するかという方法があるかと思われるが、Chuck Palahniukはメタ視点を求める。主人公の名が最後まで明かされないのも一般化された主人公と観者の重ね合わせを容易にするためであろう。映画の中でタイラーに啓蒙され、戦いの末に現存在へと目覚める主人公とは観者である我々のことであった。そしてしばしば批判の的とされる男性的で暴力的な表現は、一歩引いてみればシニカルな方便*⁵であるとも捉えることができる。Chuck Palahniukはこの作品を通して世人を啓蒙し現存在へと意識を���けさせようとしているのである。
 さらにコミック版では「模倣子(=meme)*⁶」というものを重要な鍵として文化の有様にも言及している。何度も蘇り様々な人の人格に宿るタイラーはコミック版で模倣子として描かれている。作中の重要な登場人物であるDr. Wrongが”Tyler survives across time by infecting one generation after another.” (C)と発言するように、タイラーはコミック/映画/現実という枠を超えてそこかしこに存在しうるのである。(このようなメタ模倣子としてのキーパーソンの描き方は、漫画:多重人格探偵サイコのLucy Monostone(こちらは明らかにJim Jonesをモデルとしている)の描き方と同様である。)  模倣子は文化の遺伝子である。模倣子は遺伝子同様、複製/伝達/変異という三要素を持ち、突然変異と淘汰によって進化がもたらされる。遺伝子の進化はもちろん「種が高度で幸せな生活を送るため」などといった目的で起こるわけではなく、種がその遺伝子を複製し続けるためだけに起こっているのである*⁷が、模倣子についても同様のことが言えるのではないかと思う。人間の「生物としての役割」が遺伝子の複製と伝達であると考えるとき、人間の特徴を言語の使用と社会の形成とするならば、人間の「人間としての役割」は模倣子の複製と伝達=文化形成である。有史以降、人類は遺伝子と模倣子の両輪駆動に変化したのである。  Chuck Palahniukは人間として現存在としての生き方を重視し、啓蒙、挑発、扇動する。先述したように、有史以降の人類は文化社会を形成する霊長として、模倣子の容れ物として、文化を紡ぐために生きるメタ生命体とでも言うべき一面を獲得した。コミック版はそれらの状況をも自覚し、資本主義の中で世人としてではなく現存在として主体的に生きろというアジテーションである。
 映画版のラストシーンで主人公がタイラーに告げる台詞、”Look at me... My eyes are open.” (M)。これは正覚*⁸の告白である。死への存在としての自己を確認し現存在の本来性に目覚めた*⁹ *¹⁰、ある種の悟りの境地である。
…  そしてこのシーンの後、資本主義の象徴としての超高層ビル群は崩壊しながら、非常に美しく奇妙なハッピーエンドを演出していく。
 この完璧なラストシーンと刺激的な描写、広く深く読込むことのできる知的冗長性は、高校生の頃の私を夢中にさせるに十分すぎる魅力を持っていた。1999年の映画版から17年後、コミック版(=Fight Club 2)の公開である。映画版公開時から大きく変わった世界の様々な問題・論点を、抜かりなくネタにしながら、Chuck Palahniukは再びタイラーを伴って我々を挑発しに来たのである。
追記: このテキストを書き終わって後に発見した! さらなる続編「Fight Club 3」が2020年4月15日に発売されるようだ! https://www.darkhorse.com/Books/3003-734/Fight-Club-3-HC
— 注:映画版の台詞を(M)/コミック版の台詞を(C)として注記している。
*¹|実存:「今のこの現実を一般的な考えとは無関係に主体的に生きること」であり、キルケゴールに始まりハイデガーで広く知られるようになった実存主義哲学の主題。 *²|世人:人間というのは個としての死が必然であるということを自覚せざるを得ない能力を持っており、主体的に生きることが運命付けられている存在であるにもかかわらず、このことを考えずに紛らわして過ごしている人間のこと。 *³|現存在:自己を現にそこ(da)にある(sein)ものとして自覚する存在、すなわち人間的な実存のこと。世界の中で主体的に生きる人間のこと。 *⁴|メメント・モリ:キリスト教では現世の贅沢や功績がいかに虚しいものであるかを象徴するモチーフとして扱われ、古代における趣旨解釈とは大きく異なる。 *⁵|方便:仏教において衆生を仏道に導くために、あくまで手段として用いられる仮の教え。 *⁶|模倣子:遺伝子が生物を形成する情報であるように、模倣子は文化を形成する情報である。遺伝子と同様に類推することができ、遺伝子と相互に影響しながら進化する。 *⁷|このような考え方は「利己的遺伝子の理論」と呼ばれる。 *⁸|正覚:仏教用語。悟り。正しい悟り。真理を悟ること。 *⁹|これは映画冒頭に不眠症で悩んでいた主人公に対する伏線回収でもある。 *¹⁰|ちなみに、一般的に釈迦を意味するブッダ(=Buddha)はサンスクリット語の「目覚める」を意味する動詞budhの過去分詞形だそうだ。
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shimoda-text · 6 years ago
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勝手に月評:新建築住宅特集2019.10月号
 10月号は「若手」特集である。  最も興味深く読んだのは吉岡賞に関する記事である。「30年前には批評家がいて、その批評に建築家が応答する流れがあった。批評家がほとんど見えない今、建築家が自分の建築を批評しているケースがよく見えてきました。…(中略)…建築家がバカなことやって、それに対して批評家が意外と面白いよね、という流れにならなくて、バカなことをバカじゃないよと自分で言わなくてはいけない…」という鈴木了二の指摘、それに対する「誰かから攻撃されないように、周りから突出しすぎないように、愛想笑いをしながら生きる。そんな息苦しく退屈な時代の空気は、建築業界にも流れている。」という長谷川豪の言は、もはや喫緊という言葉では生温いほど差し迫った問題を指摘している。  一方で、受賞コメント中で11回も使用された「自由」(不自由)という言葉に違和感を覚えた。難癖を承知でいうならば人間に自由などというものはないと考えるからだ。自由=おのずから/自由=他からの強制・拘束・支配を受けない状態。という字義通りの理解で言えば、歴史と社会の中で言語活動をする我々にそのような自由などあろうはずもない。もちろん、ここでいわれている「自由」とは受賞者自身が「建築は…(中略)…世界の見方を更新していくものだと思います。」と言い換えているように、現実への視野あるいは視座を広げる可能性や作用のことであることは承知の上である。しかし本誌に限らず散見される「自由な建築」「自由な暮らし」などという言い回しの「自由」(こちらは「自在」に近い)との隔たりは大きく、使用・読解には相応の注意が必要だと感じた。  今号掲載作品の中では、雨宮知彦の「メガシティの小さな躯体1・2」について、受賞コメントにおけるそれとは意味合いが異なるものの、自由/不自由というものに真摯に向き合っている印象を受けた。  現在広く用いられている意味での「自由」の語は、その定着から僅か150年足らずのようである。能天気な「自由」ではなく、喫緊の問題に対する切実な「自由」の追求には大いに賛同するところである。
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