Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
2025年8月12日

「戦後80年」なんておこがましい 作家高村薫さんがみる日本の今(朝日新聞 戦後80年 中野晃)
戦後80年の夏、私たちの現在地はどうなっているのか。「ほんまもん」の言葉をつむぎ続ける作家の高村薫さんをたずねた。
――戦後80年を迎えました。
「戦後」という言葉は80年も経つと意味を持ちませんし、数字を数えることには意味がない気がします。100年なら抽象的な意味はあるかも知れませんが。
――日本が80年間、戦争をしてこなかった証しとはいえませんか。
戦後を戦争をしなかった年月と数えるのは、私はおこがましいんじゃないかという気がします。米国の「核の傘」の下、日本が軍事大国になることを米国も求めず、ひたすら経済発展を追求できた。日本が積極的に平和のために外交で身を削った年月ではないですから。受動的にたまたま戦争をする必要がなかっただけのことです。
過去の15年戦争(1931年の満州事変から45年の敗戦まで)に対して、「侵略戦争ではなかった」という言説がちらちらと頭をもたげ続けてきた80年です。だから戦争をしなかった80年と数えるのは潔くないし、正しくないと思います。
――侵略戦争の総括をしていないということでしょうか。
国として総括したことはないです。アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えたとして反省を述べた(戦後50年の)村山談話でさえ保守層はごちゃごちゃ言っている。国民全体が共有している認識ではありません。日本は戦後と言いつつ、15年戦争を清算しないまま引きずっているような気がします。
――戦争の時代と今は地続きということでしょうか。
日本の政府も国民も、戦争を清算する発想すらなかった。まず天皇の責任を問わなかった。米国は、日本を共産圏に対する橋頭堡(きょうとうほ)にしたいということで、それを認めた。日本人は東条英機(太平洋戦争開戦時の首相)とかに責任を押しつけ、それでなんとなく終わったと思っている。けれども本当に責任を負うべきは、当時の天皇以下、軍人はもちろん大政翼賛に賛同した政治家全般です。彼らは戦後返り咲き、それを国民が許した。戦争をきれいさっぱり水に流したんです。
――植民地朝鮮出身の元徴用工や慰安婦の問題もそうでしょうか。
外交上の解決と国民としての落とし前のつけ方は別です。被害者は納得していないのに、加害者は知らん顔だから解決しない。国民同士、日本国民と韓国・朝鮮の人たちとの和解はいまだにきちんとなされていません。そういう意味でも、戦争をしなかった80年とは、おこがましくて言えません。
――戦争を巡る日本人とアジアの人々の意識の溝は残ったままです。
日本人全体の集合の意識、集合の物語が必要なのです。加害者としての。ドイツはそれをしたが、日本はしなかった。国民一人一人の責任ではないですが、日本人という集合の加害の物語はどこかでつくらなきゃならなかった。日本は敗戦したんだから。音頭をとってきちんと進めるべきなのは政治ですが、やらなかった。それができなかった80年です。
「日本人ファースト」と「非国民」に通底するもの
――日本人の集合といえば、参院選で「日本人ファースト」という言葉がちまたを飛び交いました。
明治時代、日本は脱亜入欧を掲げて富国強兵に走り、早くからアジアを侵略しました。そこには蔑視があったと思います。日本は100年以上、中国、朝鮮をはじめアジアの人々に対して差別的だったし、日本人のゆがんだ優越感は折に触れて出てきます。いまだに東京都知事が関東大震災での朝鮮人虐殺を認めないということがまかり通っています。
日本が傾き、だんだんと貧しくなる中、これまでのような優越感を保てなくなった多くの日本人が不満や鬱屈の矛先を外国人に向けた。それだけのことで思想なんて何もない。
――日本の外国人政策はそもそも寛容だったのでしょうか。
最初から排外主義です。外国人労働者は受け入れるが、移民は認めず、難民申請も認めない。今さら排外主義と言うのもおかしな話で、それではだめだから共生社会をつくりましょうというのが私たちのコンセンサス(合意)だったはずです。今さら外国人政策を選挙の争点にすること自体が間違っています。
――戦時中には「非国民」という言葉がありました。
日本には昔から「村八分」というのがありました。言うことを聞かない者は排斥する。それが戦時下では「非国民」という言葉になり、今は「日本人ファースト」になった。あまり褒められたものではない、私たち日本人が持っている嫌な面です。わんさか押し寄せてくるインバウンドに対する怨嗟がスローガンになった。根拠のないひがみです。
――高村さんは講演でネットの言論の危うさを指摘されています。
冷戦下と比べて世界の枠組みを言葉でとらえ、説明するのが難しくなっています。基軸のない世界で、どこに正義があり、どこに問題があってどう考えたらいいのか。なかなかひと言で語ることはできません。
ですが、ネットの言論は切り取りたいところだけ切り取って単純化する。あれかこれか二項対立で切り取ります。だから広がるんです。
言い換えれば、私たちは複雑な世界をきちんと言葉で捉えるだけの忍耐を持っていない。忍耐がないし、時間もない。難しくて複雑で曖昧(あいまい)な思考に耐えられないんです、私たちの頭が。だから単純な言説にどうしても流されてしまう。
日本社会には産業、経済、少子高齢化と問題がたくさんありますが、全部に目配りをする政治が本当は必要なんです。ただ、それでは有権者の心を捉えることができない。目立つものがないから。
今回の参院選も減税か給付か、単純化して争点にする。選挙はバラマキだと言われますが、日本の経済や財政の現状はバラマキに耐えられないぐらい悪くなっている、と私は考えています。
懸念する「取り返しのつかないミス」
――ネットに慣れ、私たちは複雑な思考をする能力が落ちたのでしょうか。
政治が難しくてよくわからんというのは、昔も今も一緒です。ネット社会になり、SNSは自分たちにわかるような言葉で発信してくれる。
経済や世界の現状も難しくてわからないし、外交も何が正しいのかわからない。そんな私たちに向かってわかりやすい言葉を投げてくれるSNSに飛びついただけのことです。
――ネットの言説が広がり、戦争体験世代が減る中、日本が戦争をする危うさをどうみていますか。
歯止めがなくなっています。防衛に関する認識が国民と政治家、自衛隊で共有されているのか、大いに心もとない。国は敵基地攻��能力をもつミサイル配備を進めようとしていますが、運用はものすごく難しい。
相手国が日本に攻撃を仕掛ける予兆を的確に捉え、撃つかどうかを決断するに足る情報収集力や国家の意思が定まっているとは言えません。外交力も米国に頼って磨いてこなかった。何が起きやすいかといえば、適切ではないタイミングでミサイルを撃ってしまう取り返しのつかないミスです。
――今年も8月15日を迎えます。
「終戦記念日」と言いますが、日本が戦争に負けた日であり、敗戦という事実を改めて認識すべきです。昔から「終戦って何だろう」って気になっていました。敗戦を掲げて初めて、なぜ負ける戦争をしたんだとなる。敗戦って言わなきゃだめなんです。
300万人もの命が失われたことについて、今更ながらですが私たちはもうちょっと考えてもいい。
そんな戦争をなぜしたのか。外交の失敗や軍部の突出、戦争に向かっていく大政翼賛の政治の姿を振り返る。すべて「敗戦」と言ってから始まることです。8月15日は敗戦の日と改めてもいいと思います。
高村 薫 たかむら・かおる 作家。1953年生まれ。「黄金を抱いて翔(と)べ」で90年デビュー。「マークスの山」で93年直木賞受賞。「レディ・ジョーカー」「空海」「土の記」「墳墓記」など著書多数。大阪の北摂に居を構えて多彩な執筆を重ねている。
コメントプラス
平尾剛(スポーツ教育学者・元ラグビー日本代表)【視点】 高村薫さんの記事は欠かさず目を通すようにしていますが、いつもながら示唆に富む言葉ばかりです。すべてを暗記しておきたい内容ですが、そのなかで一つだけ挙げるとすれば以下の箇所です。いまの社会で生きる私たちの傾向を見事に形容していると私は思います。
「言い換えれば、私たちは複雑な世界をきちんと言葉で捉えるだけの忍耐を持っていない。忍耐がないし、時間もない。難しくて複雑で曖昧(あいまい)な思考に耐えられないんです、私たちの頭が。だから単純な言説にどうしても流されてしまう。」
たくさんの方に読んで欲しいのでプレゼントしておきますね。
0 notes
Text
2025年8月6日

1945年8月、京都新聞は「原爆投下」をどう報じていたのか 「原爆ではない」「軍服でやけど防げる」(京都新聞 # 京都戦時新聞)
長崎市への原爆を最初に伝えた実際の京都新聞紙面。隣には「新型爆弾に対する心得」の記事も掲載された
1945年8月6日に広島市、9日に長崎市に人類史上初の原子爆弾が投下された。両市は壊滅し、広島市で14万人、長崎市で7万4千人が亡くなった。そのとき、国家の検閲下にあった京都新聞は、人類史上に残る戦禍をどのように報じていたのか。
広島の原爆投下翌日の7日、京都新聞朝刊に小さな記事が載った。「少数機で広島攻撃」とした記事は、「B29少数機は6日午前8時20分ごろ、広島市に侵入、焼夷弾ならびに爆弾攻撃を行って脱去した。損害目下調査中」とした。
また、別の記事で「汽車下り山陽線方面は三原(編注・広島県三原市)まで」などとした。現代から見れば原爆の影響が推察されるが、戦時中は空襲や災害の発生を伏せ「鉄道の運休」だけを掲載することが多く、広島の状況は何も分からなかっただろう。
京都新聞が、広島の大きな被害を伝えたのは翌8日朝刊。7日の大本営発表を基に、1面トップで「新型爆弾で広島攻撃」「相当の被害」とした。ただ、火災の被害が出たことなどを報じたのみで「原爆」の言葉はない。「当局指導を信頼せよ」との記事も同時に掲載していた。
軍部は、この段階で「原子爆弾」だと把握していた。6日夜、トルーマン米大統領の「原爆を投下した」という声明が発表されたが、大本営は「国民の心理に強い影響を与える」と判断し、7日に「新型爆弾」と発表していた。
9日以降も「新型爆弾」の報道は続いた。東京や大阪の大空襲は翌日の報道だけで、新型爆弾の特別な扱いが際立つ形だ。しかし、当局発表を基にした内容は誤りが多く、被害の矮小化が目立った。
10日には、被爆直後の広島を視察したという軍参謀の「恐れは不要」「火の用心さえすれば火災は起こらない」とした報告を報道した。同じく10日、広島を訪れたという京都府幹部らの「都市を廃虚にするような、いわゆる原子爆弾ではない」との説明を掲載した。
また、「少数敵機にも厳戒を」「軍服でやけどは防げる」などと繰り返し報道し、新型爆弾を想定した退避訓練も伝えた。被爆の実相よりも、市民を安心させて戦意低下を防ぐ情報統制の意図が透ける。
長崎原爆は、投下3日後の12日に「長崎にも新型爆弾」と3行の小さな記事で伝えただけだった。
15日の終戦で、国家の検閲は事実上終了した。同時に、原爆報道は詳しくなり、当時の京都新聞にも壊滅した広島市と長崎市の写真が掲載された。軽傷者が次々に亡くなる「遅発障害」の存在も伝えられた。
しかし、9月中旬に連合国軍総司令部(GHQ)による検閲が始まる。同盟通信や朝日新聞が、記事配信や発行停止の命令を受けた。京都新聞は、9月19日に京都府立医科大の報告として「原子爆弾症」の症状を詳しく掲載した。しかし、それを最後に、原爆被害に関する報道は数年間にわたって姿を消した。

「エノラ・ゲイの悲劇」で踊った高校時代 被爆2世・吉川晃司の覚悟(つむぐ 被爆者3564人アンケート3社合同企画 朝日新聞 聞き手 編集委員・高橋純子)
戦後80年の8月6日を迎えた。広島原爆忌。あの惨状を見た人の多くがこの世を去った。記憶の風化は避けられない。世界中で戦が絶えぬなか、理想は現実の前に肩をすくめがちだ。さて、どうすれば。歌という「武器」で社会と組み合ってきた、被爆2世でもある歌手・俳優の吉川晃司さんに話を聞いた。
東日本大震災で痛感した「ちっぽけな自分」
――原爆ドームの川を挟んだ向かい側、現在の平和記念公園の中に、おじいさまが営んでいた「吉川旅館」があったと。
「長い間ずっと知らなかったんです。父親は、原爆投下後に爆心地付近に入って被爆した『入市被爆者』で、被爆者健康手帳を持っていましたが、実家の話は一切しませんでした。だけど老境に入り、親として伝えておかなければと思ったのかな、20年くらい前からぽつりぽつり話し始めて。『え? 原爆ドームの向かいに住んでたってどういうこと?』『いやいや、あのあたりは戦前、一番の繁華街だったんだ』みたいな」
――デビューから、被爆2世だと公言されるまで結構な間があります。何か葛藤みたいなものがあったのでしょうか。
「言いたくないとか、言わないほうがいいと思ったことはありません。今は、自分に担えることがあるならできる限りのことをしたい、何より言葉にして発信していきたいと考えています。年齢を重ねたことが大きいですが、もうひとつ、東日本大震災の時、津波で集落が流されてしまった映像を見て母親がね、『あの時と同じ景色だ』って言ったんです。それに衝撃を受けました。母親は広島生まれですが、戦時中は家族と東京に住んでいて、東京大空襲に遭ったようです」
「そして自分は震災の1週間後から3週間超、宮城県石巻市にボランティアに入ったのですが、『お医者さんいませんか?』『重機を動かせる方いませんか?』という声が飛び交う中で、歌い手なんて何もできないんだという無力感にさいなまれました。もちろん戦争と災害は違いますが、多くの人々が傷ついたという意味では同じで、そういう時に、このちっぽけな自分ができることはなんだ?と」
――なんでしたか?
「がれきの片付けをしていました。ですが、吉川晃司と知られた時に怒られたんです。君は大勢の人に発信する手段を持っている、その力を使わないでどうするのか、東京に帰ってもっとこの現状を伝えてくれと。そうか、言葉にする、詞に書いてみる、自分にできることはいっぱいあるじゃないか!と」
「それ以前は、言葉にして、自分の意図とは違う形で伝わってしまうのが怖いという気持ちが正直ありました。だけど、エンターテイナーとしてずっと見えを切ってやってきたのに、政治や社会、災害とか戦争とか、そういう問題では沈黙するのかお前は? 矛盾しているんじゃないか?と自問自答した。そして、何か自分が力になれることがあるなら、よし、前に出ようと結論しました」
――なるほど。同じ広島出身で同い年の奥田民生さんと結成した「Ooochie Koochie」のアルバム収録曲「リトルボーイズ」の歌詞に「エノラ・ゲイ」や「兵隊さん」が出てくるのもそういう……。
「〈『エノラ・ゲイの悲劇』を僕は/新天地のディスコで踊った/歌の意味も知らないまま〉――これ、実話なんです。高校生の頃に流行した洋楽で、ノリがいいなと踊っていた。後に曲名を知り、歌詞を調べて驚きました。自分はそんな曲で踊っていたのか、と」
戦争を始めたのは「安全地帯にいる人」
――「エノラ・ゲイ」は広島に原爆投下したB29爆撃機に付けられた名前ですね。それで歌詞は「ただすべてに無知で無邪気で」と続く。どういう経緯でこの曲は生まれたのですか。
「還暦を機に、広島への恩返しをしようと結成したユニットですが、自分は被爆2世と公言していますし、広島の歴史についても避けるべきではないという考えで。奥田くんが作った曲の中に、これだったら自分の思いを乗せられると感じたものがあったから、相談したところ奥田くんも承諾してくれた。だけど詞を書き上げるまでにすごく時間がかかりました。平和への祈り、願いを歌いたい。だからこそ、誰かを責めたり攻撃したりする歌ではいけないと」
「書きながら考えたんです。なぜ機長はエノラ・ゲイという自分の母親の名前を自機に付けたんだろう? 彼は怖かったんじゃないのか? 母親に寄り添っていて欲しかったんじゃないか?と。『エノラ・ゲイの悲劇』の歌詞に『母は今でも息子を誇りに思っているだろうか』とあるのですが、母親はみんな、戦争で活躍なんかしなくていい、生きて帰ってほしいと願っているはずです。そしてあの日の広島の空の下には、同じように母親に見送られて家を出た少年少女が何万人といた。空の上と下でも、一緒なんですよね」
「戦争を始めたのは、安全地帯にいる人、自分は死なない人たちです。征(い)くのは庶民。狂気に囲まれると人間はもろい。死ぬのも殺すのも当たり前だと、集団心理で囲われ身動きがとれなくなってしまう。二度とあってはいけないと思います」
――平和や反戦はバラードで歌い上げられがちな印象ですが、「リトルボーイズ」は奥田民生さんらしいミディアムテンポのロックナンバーです。
「ずっしり重たい思いは伝わりにくい。それを僕は、震災ボランティアを終えて東京に戻ってきた時に実感しました。石巻の現状を、最初はみんな知りたがるのですが、こちらが熱く語ると、だんだん引いていくのがわかるんですよ。本能で、恐怖とか、自分に不利だとか、なんか背負わされそうだと察知すると、パッと体が逃げるんですね。だからエンターテイナーとしては、まっすぐに伝え、届けるためにこそ、過剰に重々しく歌い上げないようにしたいと」
戦後80年に広島で歌う「イマジン」
――世界では戦争が絶えず、日本の政界にも「核兵器は安上がり」という声があります。
「世界中で、きな臭さがどんどん増している。日本が追いかけてきたアメリカもおかしくなっている。そんな中で我々が言えるのはやはり、唯一の被爆国である、ということです」
「小学生時代、ボーイスカウトに入っていたので、8月6日の前には資料館を見学したり、平和記念式典会場の掃除をしたり、当日はご高齢の方々の案内役を務めたりもしました。ただ、だからといって、広島、原爆、平和ということにすごく特別な思いや深い考えを持てたかというと、正直、そんなことはなかった。『ヒロシマ1945』に展示してある写真の中には、子どもの頃に資料館で見てすごく覚えているものがたくさんありましたが、大人になってから見た方が強烈ですね」
「子どもの頃は、怖いなとか、痛そうだなっていうのは感じるけれど、大人になって見ると、これ人間がやってるんだよな? どうしてこんなことになったんだ? なぜ今も戦争が終わらないんだろう?――と。あんなモンスターに多くの命が一度に奪われるなんて二度とあってはいけない」
「核兵器は廃絶する。僕はそれが理想だと思います。もちろん、平和を祈っていれば他国に攻撃されないなんてことはないから、現実的にどうすべきかは国民の総意で決めましょうと。みんなで考えて出した答えなら、己の意見と違っても受け入れられるはずなので」
――ただ、原爆資料館の展示は子どもに刺激が強すぎると、見せるのをちゅうちょする親御さんも最近は多いと聞きます。
「わかります。でも、子どもは、子どもなりに受け止められると思う。『はだしのゲン』だってそうでしょう。歴史の事実にふたをすると、いつまでも現実を直視することができなくなるんじゃないかな。つらくなって途中でやめて、大人になったらもう一度見てみようでもいいし、最後まで見られなかったことが、その子の中で何かいい形になるかもしれないし」
――8月13日、広島・マツダスタジアムでの「ピースナイター」で始球式をし、「イマジン」を歌唱されるんですね。
「1975年に広島カープが初優勝した時、遺影を持って並んでいる方がたくさんいたんです。小学生だった僕は違和感を覚えましたが、今はわかる。市民がお金を集めて作ったカープは復興のシンボルであり、夢だったんだと。遺影を持って並んでいた人たちは、戦争で亡くなった大事な人に、復興を遂げた広島を見せたかったんですよね。だから『イマジン』は、平和な世界になりますようにという願いを込めて歌います。ただ、カープの選手には、気負わず純粋にプレーして欲しいですね」
吉川晃司さん 1965年生まれ。84年に映画「すかんぴんウォーク」と主題歌「モニカ」でデビュー。近年は俳優としても活躍。新ユニット「Ooochie Koochie」が全国ツアー中。
写真展「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」
東京都写真美術館(目黒区)で、8月17日まで。入場料は一般800円、65歳以上500円、大学生以下無料。資料の保存や活用に関わってきた中国、朝日、毎日の3新聞社と中国放送、共同通信社が主催。1945年8月6日の原爆投下直後から各社の写真記者や市民たちが撮影した162点と、映像2点を展示している。
コメントプラス
三牧聖子(同志社大学大学院教授=米国政治外交)【視点】 「なぜ機長はエノラ・ゲイという自分の母親の名前を自機に付けたんだろう?彼は怖かったんじゃないのか?」「母親に寄り添っていて欲しかったんじゃないか?」。日本に原爆を落とした憎く、恐ろしいエノラ・ゲイの搭乗者について、敢えて想像力をめぐらせ、同じ人間であることを確認しようとする。「誰かを責めたり攻撃する歌」では平和を祈る歌にならない、という吉川さんの姿勢がよくあらわれている。
広島に原爆を投下したエノラ・ゲイへのアメリカの眼差しも変わりつつある。長らくアメリカでは、少なくとも公の場ではエノラ・ゲイを賛美することしか許されず、きのこ雲の下で日本の人々はどのような被害を受けたのか、何人が犠牲になったのかを語ることすら困難だった。1995年、ワシントンDCにあるスミソニアン航空博物館でエノラ・ゲイの特別展示が企画されたが、原爆被害についての記述が「反米的」「非愛国的」との批判を呼び、展示は大幅に変更され、館長も辞任した。
しかし近年、アメリカの世論や市民社会は少しずつ、原爆投下の負の側面を直視する方向へと進みつつある。2020年、ニューヨーク・タイムズ紙は、第二次世界大戦のあまり知られていない物語にフォーカスする特集“Beyond the World War II We Know”を企画し、8月6日の記事で、広島への原爆投下ミッションに従事し、その後死ぬまで自らを責め続けたパイロット、クロード・イーザリーを取り上げた。イーザリーはエノラ・ゲイの先導機ストレート・フラッシュに搭乗し、天候を確認する任務を担った。帰国後、英雄視されたが、原爆で殺された広島の人々の幻影に苦悩し、奇行を繰り返したことで、最終的に精神病院に入院させられ、孤独に生涯を終えた。
もっとも原爆投下へ関わったことに苦悩し、精神を病んだイーザリーは、「普通ではない」とみなされ、社会から隔離されたが、罪の意識も感じずに、原爆投下を英雄的な行為とみなし、正当化し続けた社会の方が「普通」だったのだろうか。むしろ社会の方こそ「狂気」であったのではないか。原爆投下から80年、まだまだ問い続けなければならない問いは山積みであるように思う。
板倉龍(科学雑誌Newton編集部長)【視点】 吉川晃司さんと布袋寅泰さんのユニット「COMPLEX」の,能登半島地震の復興支援ライブを昨年5月に東京ドームで観ました。東日本大震災の復興支援として2011年に開催された「日本一心」が,2024年1月におきた能登地震の被災者を支えるために,ふたたび開催されたのです。吉川さんと布袋さんのパフォーマンスはエネルギーにあふれ,東京ドームに集まった観客の心はまさしく一つになりました。集まった12億円が石川県に寄付されたことが朝日新聞の記事になっていました( https://www.asahi.com/articles/AST1P1HRDT1PPJLB005M.html )。広島の原爆忌の今日,災害や平和に対する吉川さんのまっすぐな思いを,この記事で知ることができました。
80年前に広島の青空で炸裂した原子爆弾は,当時の世界最高の科学技術を結集した結果として実現してしまったものです。80年たった今,AI,量子科学,生命科学をはじめ,人類の科学はさらに発展しました。その威力は強力であり,私たちは二度と使い��を誤るわけにはいきません。人類が科学とどう向かい合うべきかを,吉川さんの言葉をかみしめながら,じっくり考えたいと思います。
0 notes
Text
2025年7月18日


1988年の「広島ピースコンサート」で演奏する故・忌野清志郎さん=内藤順司さん撮影
ブルーハーツも清志郎も、広島で歌った8月 平和がいいに決まってる
1987年夏。ザ・ブルーハーツ、尾崎豊、安全地帯――。名だたる日本のロックスターが広島に集った。
平和がいいに決まってる。
そんなスローガンの「広島ピースコンサート」は95年まで続き、集まった2億円超が、ある目的のために寄付された。
第1回の87年は、広島原爆忌の8月6日に合わせ5、6日に広島市西区の広島サンプラザホールで開かれ、20組超の出演者がノーギャラ、交通費・宿泊費も自己負担で参加した。
被爆体験聞いた玉置浩二さん 「死よりもつらい」
5日に登場したザ・ブルーハーツの甲本ヒロトさんは「爆弾が落っこちる時」でこう歌った。
《爆弾が落っこちる時 全ての幸福が終わる いらないものが多すぎる》
翌6日、平和祈念式典で中曽根康弘首相は「世界情勢は依然として厳しく、一部地域における武力紛争など誠に憂慮すべき」と述べた。当時はまだ東西冷戦中で、中東ではイラン・イラク戦争が続いていた。
同日午後からの開演前、出演者たちは被爆者から体験を聞いた。ライブの写真集にはその様子が収められており、彼らの言葉も記されている。
「被爆者の方の話を聴きながら、死よりもつらいことを考えた。平和のために何ができる。他人ごとじゃない、絶対」(安全地帯・玉置浩二さん)
「もっと、個人の日常の中に平和(反戦)という意識が還元されていかなければ」(尾崎豊さん=故人)
チケットは1枚4千円で、会場は両日とも満員。テレビやラジオの放送料に写真集やライブCDの売上も加え、7千万円超の収益があがった。
当時発売された「広島ピースコンサート」のパンフレットなど=2025年3月21日午後4時49分、広島市中区、根本快撮影
音楽評論家の田家秀樹さん(78)は「87年は、当時最先端を走っていた日本のロックミュージシャンが集まった。大手事務所が大同団結したことが、興行的な成功にもつながった」と振り返り、著書でこのコンサートを「伝説」と評している。
88年も8月5、6日に開かれ、米国のアーティスト、キース・ヘリングがポスターのメインビジュアルを提供。2羽の鳥がポスターで踊った。
6日は忌野清志郎さん(故人)が覆面の4人組バンド、ザ・タイマーズで飛び入り参加。忌野さんが反原発を歌った曲などを収めたRCサクセションのアルバム「COVERS」を、レコード会社が発売中止にした騒動の渦中だった。
1988年の「広島ピースコンサート」で演奏する故・忌野清志郎さん(左)=内藤順司さん撮影
撮影したのは広島出身のカメラマン、内藤順司さん(66)。「反骨心むき出しのライブは20代の自分にぴったりでした」。内藤さんは祖父など親族2人を原爆で失っていた。「8月の広島にロックスターが集まって、原爆のことを考えてくれたことが嬉しかった」
9年続いたコンサートの収益と利息の計約2億1700万円は全額、広島市を通じ被爆者らが住む原爆養護ホームの整備基金として寄付された。
コンサートは「政治的」じゃない 南こうせつさん
コンサートのきっかけは南こうせつさん(76)らがその数年前、広島市の原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を訪れたことだった。豊かさを享受する経済大国・日本の片隅で、被爆者らがひしめき合うベッドの上で貧しい暮らしを送っていた。「情けない、何かしないと、と思いましたね」。仲間を募りコンサートの開催にこぎつけた。
舟入むつみ園の様子=1988年夏、内藤順司さん撮影
87年時点では原爆養護ホーム新設の具体的な計画はなかったが、県や市などは92年、最大300人の被爆者が住める市内三つ目のホーム「倉掛のぞみ園」を開いた。基金の約2億円は、のぞみ園の居住者の電動ベッドや車いす入浴装置などの購入にあてられた。今もなお約300万円が残る。
南さんは「むつみ園を見るとね、あの時決断して、コンサートをやって良かったなぁと思いますね。やってなかったら、『平和』とか歌っていても、悔いが残っていたはず」と話す。
記者は南さんへのインタビューの終盤、「ピースコンサートが『政治的』だという感覚はありましたか?」という質問をした。欧米と比べて日本では、音楽が反核や反戦に結びつくと「政治的だ」と敬遠される雰囲気があるように感じるからだ。
歌手の南こうせつさん=2025年3月14日、東京都港区、内田光撮影
例えばフジロックフェスティバルで、原発事故があった2011年に始まった企画「アトミック・カフェ」。80年代の反核・反原発を掲げた音楽イベントを復活させる試みで、ロックバンド「アジアン・カンフー・ジェネレーション」の後藤正文さんや、歌手の加藤登紀子さんも参加した。
だが16年、安全保障法制への抗議運動を率いた「SEALDs」のメンバーを招くと、「音楽を政治に利用するな」との批判がSNS上で巻き起こった。
南さんは私の質問に対してこう即答した。
「政治的と思ったことは一度もありません。戦後を生きてきた僕にとって、平和、反戦、核兵器廃絶は当たり前の感覚なんです」
ウクライナやガザで戦火が続く中で迎えた戦後・被爆80年。あの夏に掲げられた「平和がいいに決まってる」というスローガンがいま、これまでにないほど切実に響く。
0 notes
Text
2025年7月16日

今の憲法にはあるのに?参政党の創憲案で消された私たちの「権利」
参政党の独自憲法構想案で明記されなかった権利や自由
長らく憲法改正が政治課題となる中、参院選が行われている。改憲、護憲、論憲。憲法に対する各政党の立場は異なるが、参院選前の5月に独自の憲法構想案を公表して「創憲」を訴えるのが参政党だ。
その中身を見てみると、現行の日本国憲法では明記されているのに、盛り込まれなかった「権利」がある。今の日本に暮らす私たちにはありながら、なくなったものとは――。
消えた「法の下の平等」
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
日本国憲法14条は、そう記す。これによって定められているのが、誰もが等しく扱われるべきだという「平等権」だ。
たとえば、地方と都市部の人口差によって生じる選挙の「1票の格差」。1人の政治家を選ぶにあたり、有権者の数はなるべく等しくあるべきだという考えは、この条文に基づく。
参政党の独自憲法構想案。日本国憲法では「主権の存する日本国民」(第1条)とされているが、参政党案では「国は、主権を有し」という文言がある
ほかにも、「女性は離婚後100日間、再婚できない」という女性だけに課された民法上の定めが2024年4月に廃止された。これは、法の下の平等に反するという最高裁の判断が15年にあったことがきっかけになった。
このように、男女の性差や生まれた土地によって差別されないという原則も14条が保障する。
ただ、参政党案には、これに該当する条文はなく、法の下の平等という考え方も盛り込まれなかった。6月に党が作った解説本「参政党と創る新しい憲法」(編著者・神谷宗幣党代表)も、その理由には触れていない。
「表現の自由」「職業選択の自由」もなく
同様に、参政党案では書かれていない権利がほかにもある。憲法19~22条には、それが明記されている。
「思想・良心の自由」(19条)
「信教の自由」(20条)
「表現の自由」(21条)
「居住、移転、職業選択、国籍離脱の自由」(22条)
参政党本部=東京都港区で春増翔太撮影
この四つの条文は、それぞれ国民が自由に行使できる権利を定めている。どんな思想を持っても構わず、どんな宗教を信じても構わない。どんな職業を選ぶか、どこに住み、どの国に移るかも自らの判断で決めることができる。
政府による言論統制があった戦前の反省から、権力批判を含む言論の自由が21条には明記され、検閲を認めないとも書かれている。
この四つの条文が示す権利は、参政党の憲法案には見当たらない。
「黙秘権」もなくなって……
また日本国憲法の特徴の一つに、「世界的にも類例を見ないほどに詳細」(日本弁護士連合会)と評される、刑事手続きに関する人権規定がある。31~40条が、これに当たる。
これらは刑事司法における容疑者や被告の権利で、たとえば「裁判を受ける権利」を32条で保障し、36条では拷問を禁じている。
日本国憲法原本(国立公文書館所蔵)=東京都千代田区の同館で2017年4月11日、長谷川直亮撮影
こうした条文が並ぶのは「戦前に人権侵害が多く起こった実態に対する反省の表れ」(参院憲法審査会)とされる。
一方の参政党案では、刑事人権保障を定める条文はない。それにより、裁判を受ける権利のほかに「黙秘権」(38条)も失われている。
神谷氏が編著を担った前述の解説本には「個人の権利が、結局は私益にすぎず」という一節がある。参政党の憲法案は、そんな思想を背景にしている。【春増翔太】
0 notes
Text
2025年5月31日

放送網は守れるか「設備費20年で30億円」、岐路に立つローカル局(朝日新聞 連載:放送100年 5月31日)宮田裕介
ラジオ放送から始まり、今年で100年にわたる放送文化は、全国に張り巡らされた放送網が支えてきた。しかし、テレビ離れも進むなかで設備を維持する負担は重く、特にローカル局の経営を圧迫している。多様性や地域性といった理念は揺らいでいるのか。
角栄時代に芽吹いたローカル局、淘汰は本当に「仕方ない」でいいのか
愛媛県を放送エリアとする日本テレビ系列の南海放送は、1953年にラジオ局として創業。郷土史を掘り起こすラジオドラマに定評があり、テレビ局としても、優れた番組を表彰する日本民間放送連盟賞やギャラクシー賞の常連でもある。

南海放送で地域ニュースを伝えるラジオ番組のDJを務める合田みゆきさん。トークや選曲、機器の操作など、基本的にすべて一人でこなす「ワンマンDJ」のスタイルだ=2025年3月5日、松山市、宮田裕介撮影
しかし、山あいの集落や瀬戸内海の島嶼部にもあまねく放送を届けるためには、大きな負担がかかる。
同社の年間売り上げは50億~55億円規模。一方、地上デジタル放送の親局と中継局合わせて40局を整備するために、必要な設備費は20年ほどで約30億円。1千世帯にも満たない地域をカバーする中継局が10近くある。維持費も年間約2億5千万円かかるという。

瀬戸内海の島にある宮窪中継局。カバーする範囲は1千世帯を切る=愛媛県今治市、南海放送提供
大西康司社長は「愛媛は電波事情が厳しいが、放送の網を絶対に破らせないという使命感は開局から変わっていない」と語る。

南海放送の大西康司社長=2025年3月5日午後2時14分、松山市本町1丁目、宮田裕介撮影
テレビの中継局は、民放とNHKを合わせて約1万2千局ある。しかし、地デジ開始から20年が経過し、設備の更新時期を迎える中で、経営環境は厳しさを増している。日本民間放送連盟(民放連)によると、放送局127局のうち21局が2023年度に赤字を計上した。
逆境下にある近年、放送網をどう維持するかの議論が活発化している。
総務省の有識者会議は、山間部などの小規模な中継局を高速大容量のデータ通信「ブロードバンド」などで代替することを経営の選択肢として認めることが適当だとする報告書を昨年12月、まとめた。
また、NHKは同月に受信料を用いて民放との中継局の共同利用会社を設立。設備の保守・管理を一体でして効率的な運営を目指すという。
元々、国民を戦争に動員する役割を果たした反省から、戦後の放送は多元性、多様性、地域性を大事にするという理念を掲げた。
こうした考えのもと、放送局は中心都市に偏在するのではなく、全国各地に分散。三大都市圏などを除き、放送エリアが県単位となった要因の一つとなり、特定の事業者が多数の放送局を傘下に収めることを禁じる規制「マスメディア集中排除原則」(マス排)にもつながった。

日本テレビ系列の読売テレビ、中京テレビ、福岡放送、札幌テレビの4社による持ち株会社「読売中京FSホールディングス」の看板除幕式に臨んだ丸山公夫会長(左)と石沢顕社長=2025年4月1日、東京都港区、松本紗知撮影
だが、08年に認定放送持ち株会社制度ができ、複数の局を傘下に置けるように、マス排が緩和された。導入の背景の一つには、地上デジタル化に伴う経営圧迫があった。新たな中継局の建設など巨額の設備投資が経営を圧迫するローカル局を、体力のあるキー局が支える仕組みが求められた。
今年になって、日本テレビ系列の規模の大きい北海道、大阪、名古屋、福岡の4社の経営統合があった。「業界再編の号砲」とも言われているが、地域性は損なわれないのか。

東海大学の樋口喜昭教授
東海大学の樋口喜昭教授(メディア史)は「ローカル局の理念と現実との間には、開局当初から乖離が続いてきた」と指摘する。
ローカル局の自主制作比率は1割程度に過ぎず、東京のキー局から番組を購入して放送してきた。さらに、そうした番組を地方で流す放送枠を買い取る形でキー局から支払われる配分金が、ローカル局にとって主要な収入源。番組も収入も依存する構造だ。
一方で60年代以降は、水俣病といった公害や過疎など地域課題への関心が高まり、中央主導の番組編成への反発も起きた。地域の歴史を掘り起こし、住民と向き合う番組づくりも目立つようになったという。
こうしたローカル局の重要性は近年も示されている。樋口さんが例示するのは、東日本大震災の際、東京電力福島第一原発1号機の水素爆発を福島中央テレビが唯一撮影していたことだ。「メディアが多元的だったから、あの映像が世に出た」
樋口さんは、比較的安価なネットへ移行する動きや、番組づくりのソフト面と中継設備などハード面での「分業化の流れも止められない」とみる。
それでも、なおローカル局が発信する意義を強調する。「テレビというメディア自体が地域固有の文化や感性を薄れさせ、均質化を進めてきた。だからこそ、地元の歴史や文化を掘り起こし、それを未来に残していく役割が重要になってくる。分断が進む社会において、地元の日々のニュースや番組を通じて『自分はこの場所にいる』と感じることは本当に大きな意味があるのです」
コメントプラス
マライ・メントライン(よろず物書き業・翻訳家)【視点】 では、視聴者である「地域住民」のニーズの実態はどうなのか、どういうベクトルで動いているのか、という要素がこの問題の開放を考えるためには必要と思われるが、その点だけ記述が欠落している。
興味深いテーマだけにこれは困った。別記事でフォローされることを期待したい。
小西美穂(関西学院大学総合政策学部特別客員教授)【視点】 元テレビ局員として、興味深く読みました。先日、日テレ系4社の経営統合を記念して、札幌・名古屋・大阪・福岡が同時中継で地域紹介をする番組がありました。私は中京テレビのスタジオで拝見しましたが、特に福岡の「惣菜最強スーパー」の中継が印象的でした。13年連続入賞、7度の日本一という実力店の敏腕女性店員さんとのやりとりから、地域ならではの食材、物価の違い、その土地の暮らしや温かさが生き生きと伝わってきました。いまのテレビは、横並びで画一的な番組が溢れているからこそ、地域の固有性を前面に出した番組がとても新鮮に映りました。厳しい経営環境だからこそ、ローカル局は「ここにしかない価値」で差別化を図る必要があります。地域の個性を競い合い、認め合う番組作りこそが、記事が指摘する「自分はこの場所にいる」と感じさせる放送本来の力だと確信しています。
松谷創一郎(ジャーナリスト)【提案】 全国にまんべんなく普及している日本の放送事業は、現在のところ海外で深刻化している「ニュース砂漠」現象とはほど遠い状況にあると捉えられます。たしかに地方テレビ局の経営は厳しく、経営統合も始まりましたが、この状況をどれほど深刻視すべきかには留保が必要かもしれません。
日本の多くの地域では、テレビは民放3~4局とNHKに加え、地元紙と全国紙が報道をカバーしています。6つも7つもの報道機関が存在しているわけです。国土面積を考慮すれば、日本は「ニュース砂漠」が生じにくい環境です。むしろ護送船団方式の放送事業により報道が供給過剰になっているのではないかとすら感じます。
たとえば私が生まれ育った広島では、ひとつの事故が起きた際、NHKと民放4局、さらに地元新聞と全国紙などが警察発表をほぼトレースしたストレートニュースを報じます。その都度警察発表をチェックすることは必要ですが、果たしてそれが4つも5つも必要でしょうか。地方のテレビ番組を見ると、大事故でないかぎりそうした報道内容はだいたい同じでとくに工夫もありません。正直、それに使うヒューマンリソースを他のことに転用したほうが有意義ではないかと考えてしまいます。
今後生じうる再編では、地域単位でのテレビ局の経営統合は十分考えられ、さらにそれは新聞社も含んだかたちになる可能性もあります。
この記事にある島嶼部への放送電波送信が負担になる問題については、現実的には通信で十分にカバーできます。コストも抑えられ、携帯電話が届く場所には配信可能です。正直、そうした地域を放送でカバーすることを放送局存続の大義にしているようで、むしろ早期の通信移行を推進すべきではないでしょうか。もちろん、これを推進すると地方局の存在証明が失われるという懸念はあるのでしょうが。
ただ、重要なのはコンテンツと、それを届けることです。放送インフラは極めて安定した完成されたものですが、無駄が多いのも事実です。護送船団方式で放送事業が守られた結果、コンテンツ、とくに報道がないがしろにされてきたようにも思えます。
現在、地方の視聴者も当然インターネットやYouTubeでさまざまなコンテンツを視聴できる環境にあります。ですので、地域のニュースをより効率的に伝達できる方法もあります。しかし既存インフラの維持議論ばかりが前面に出ており、これはいかにも日本的な発想と言えます。
放送はいずれなくなります。これは避けられない未来で、いずれはすべてABEMAのようなストリーミングになるでしょう。ですので、新たなインフラ整備に向けた議論をより早期に始めるべきではないでしょうか。
そしてこうした現状で足踏みをし続けるなかで、コンテンツ制作会社としての放送局の存在価値が放送事業とともに弱体化していくばかりだと感じます。早期にコンテンツ企業としての価値転換を図らなければおそらく生き残れません。アニメ『名探偵コナン』というドル箱コンテンツを持っている読売テレビは、その余裕もあって再編を主導できた側面もあります。
同時にこの問題のなかでは、NHKの役割が極めて大きいです。今後NHKをどう存立・継続させるか、あるいはさせないかが、実は地方にとってより重要な課題かもしれません。政策学者の西田亮介氏が提案したように、NHKの通信社化も現実的なアイデアとして十分に検討に値します。
なんにせよ、現在のかたちに価値があると主張するよりも、未来志向の積極的な議論を行うべき段階に来ていると考えます。
0 notes
Text
2025年5月22日

止まらぬ物価高の中、大みそかの弁当配布に多くの人が並んだ=2024年12月31日午後6時12分、東京・池袋、長島一浩撮影
日本人の4割超が「食料危機層」 気候変動にも脆弱 東京科学大調査 編集委員・香取啓介
お金がなくて、一日中何も食べないことがあった、十分な食べ物が買えずに体重が減ったことがあった――。過去1年間でこんな経験をしたことがある人が日本の5人に2人以上いることが、東京科学大の調査でわかった。
健康的な食料を十分に継続的に取ることができない「食料危機層」だとしている。食品価格の高騰で、日本でもフードセキュリティーが脅かされているとみられる。
東京科学大が、今年2月、全国の1万人を対象にオンラインで行った世論調査の一環。米農務省のフードセキュリティー調査を参考に、この1年間で「食べ物を買うためのお金が入る前に、食べ物がなくなるのではと心配したことがあった」など、八つの質問をした。「よく当てはまる」「時々当てはまる」などと答えた人を「食料危機の状態にある人」と定義した。
食料危機層は全体で43.8%で、男性が46.3%とやや多かった。また世帯年収が少ない、若年層、非都市部に多く、最終学歴が中学や高校、短大などの人の方が大学や大学院の人よりも危機層の割合が高かったという。地域別では東北、九州で50%超が危機層だった。
調査した研究者「日本でこれほどとは」
調査した藤原武男・未来社会創成研究院長(公衆衛生学)は「食料そのものがないわけではない。日本でこれほど多くの人が経済的理由で食料を買い控えていることに驚いた」と話す。収入に加え、食や健康への優先度が低い、食べ物を売るスーパーや商店に行きにくい、などの要因が考えられるという。
調査はもともと、気候変動に対する意識を調べることが目的だった。分析すると、食料危機層がより気候変動の影響を受け、対策が必要だと考えている実態も浮かび上がった。
「猛暑や暴風雨などの異常気象で健康被害を受けた経験がある」と答えたのは、食料危機がない人は7.5%だったのに対し、食料危機層では18.2%と倍以上になった。気候変動に対する不安も、食料危機層の方が高かった。
全体では37.3%の人が「気候変動対策を熱心に進める政治家がいたら投票する」と答えたが、食料危機層に限ると、割合が43.7%に高まった。
藤原さんは「食料危機層は、社会的に弱い立場にある人たち。気候変動もその層により強い影響を与えていることが示された」と話す。直接的なフードセキュリティー対策だけではなく、気候変動対策を同時に行うことが必要だとしている。
コメントプラス
本田由紀(東京大学大学院教育学研究科教授)【視点】 調査を実施した研究者も驚くほどの高比率である。若年層、非都市部、相対的に最終学歴が低い層で割合が高いという。重要な研究であるが、どのように「食料危機層」を定義しているかを吟味するためには、そのもとになった調査における8つの質問の具体的内容(ワーディング)や回答分布を示すことが不可欠である。
新聞記事には詳細な調査結果や論文、記者発表などへのリンクがついたいない場合が多いが、できればリンクをつけてほしいし、少なくとも検索できるように調査名などを記載しておいてほしい。なお今回は研究者や所属大学名で検索したが、詳細な資料を見つけることができなかった。
小熊英二(歴史社会学者)【視点】 金融広報中央委員会の世論調査における「貯金なし世帯」は二人以上世帯24.7%、単身世帯36.0%(2023年)なので、「食糧危機層」が4割程度というのは、インフレが生じれば起こりうることだとは思う。https://www.shiruporuto.jp/public/document/container/yoron/futari2021-/2023/23bunruif001.html
日本の有業者(自営業部門含む)に占める正規労働者は、1980年代以降は一貫して5割強である。残りの4割強は自営業主・家族従業者・非正規労働者である。正規労働者の5割強も、中小企業の正規労働者ならば、それほど高給ではない。日本はアメリカのような超富裕層はいないが、貧しい人が4割前後はいるという意味で、もともと格差が大きい社会なのである。
この記事の元の調査概要が探せないので、詳細がよくわからない。できればこういう記事を出すときは、資料出典が探せるように調査名(やリンク)を表示してもらえるとありがたい。
雨宮処凛(作家・反貧困活動家)【視点】 コロナ前、50〜60人が並んでいた食品配布の場(並ぶ人の多くが近隣で野宿する方々でした)に、現在、600〜800人が並んでいます。コロナ禍で「住まいはあるが一食でも節約したい層」が増えた結果です。
これは東京・新宿の話ですが、東京・池袋ではやはり炊き出しに600人ほどが並んでいます。コロナ前は150人ほどでした。
約20年、貧困の現場で取材していると、コロナを機に、貧困は一気に中間層を襲った印象があります。
そこに追い討ちをかけるのが、3年にわたる物価高騰。
しかし、この国の人々は貧困に慣れたのか、一時と比較して関心は低いように思えます。
よって、このような調査が行われ、こうして記事になることはありがたいです。
調査はもともと気候変動に関するものだったそうですが、毎年、猛暑の中、熱中症で命を落とす人の一部を占めているのが貧困層です。
エアコンがない、あっても電気代負担を気にして使用を控える人々の命が奪われている現実。夏を前に、国はしっかり対策に取り組んでほしいと記事を読んで改めて思いました。
岩本菜々(NPO法人POSSE代表理事)【視点】 私たちが連携するフードバンクに昨年相談を寄せた相談者のうち、11%が「お金がなくて、2日以上、食事が取れない時があった」と回答していました。こうした相談現場の現状を踏まえると、5人に2人が「食糧危機層」というのは、ありうる結果だと考えます。
「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」などの言葉が世間に衝撃を与えた15年前から、貧困はとめどなく深化して来ました。しかし、その実態は、「孤独死」の増加などにひっそりと現れるだけで、貧困問題として対処されるべき問題として扱われていません。貧困の広がりとその背景を詳しく明らかにする社会調査が必要だと感じます。
2 notes
·
View notes
Text
2025年4月29日

正論のような顔して流れ出す陰謀論 江川紹子さん「放置はまずい」 聞き手・岩本修弥
かつては新聞やテレビなどマスメディアから情報を得るのが主流でしたが、今はSNSを中心に情報を得る人が増えています。SNSには真偽不明だったり発信元が不明確だったりする情報もあり、何げない投稿や拡散で、誰かを傷つけてしまうことも少なくありません。そんなSNS時代に私たちマスメディアに課されている役割とは何か。フリージャーナリストの江川紹子さん(66)と考えました。
――江川さんもX(旧ツイッター)を使って発信していらっしゃいますね。
このところ、SNSを使う機会が減りました。文脈を取り違えて反論してくる人が多くて、くたびれちゃったんですよね。
前は楽しくて、有益な世界だったんですけど。情報が正しいかどうか以前に、好きか嫌いかという感情・感覚的なもので非難してくる人たちがいて。SNSに没入している時にそんな投稿を見ると、みんなが私のことを嫌ってるんじゃないかって陥ってしまうのも、分かります。
それでもやめないのは、惰性ということもありますが、専ら情報源がSNSという学生たちに、マスメディアの出す情報につなげていきたいからです。今、大学の授業で新聞を読ませていますが、自発的に読んでもらうのは難しい。彼らにこのニュースが届くかもしれない。そんな思いがあって、読んでもらいたいニュースにリンクする発信をするなど、とりあえずやめないって感じですかね。
SNSで危ないのは、むしろ中高年
ただ、SNSに関してはとかく若者たちの問題と見られがちですが、今の学生たちはSNSを見るだけで、リアクションをしない子が多いです。意外なことに結構警戒心を持っていて、慎重なんですよ。
危ないのはむしろ中高年の方。テレビや新聞など、マスメディアが出す情報になじんでいた世代が、同じような感覚でSNSの情報と接する人が結構いらっしゃるように思います。新聞は載るまでにいろんな人の手が加わって、事実確認をしているじゃないですか。一方、SNSでは真偽不明、あるいは明らかな虚偽、さらには陰謀論的な情報が、事実と等価値のもののように飛び交っている。にもかかわらず、その情報と同じような感覚で接し、「マスコミが報じない真実」を信じてしまっている。危ないところがありますね。
――SNSが主流になっている今、私たちメディアの役割とは何なのでしょうか。
もちろん物事は毎日動いているわけで、マスメディアが今日出す情報が明日も100%正しいかどうかは分からない。でも、いろんな人の手が加わって、確認して発信している情報なので、精度はかなり高いと言えるでしょう。
マスメディアが報じるファクトを多くの人たちが共有し、それをもとに物事を論じ、よりよい方策を決めていくのが民主主義の基本だと思います。それぞれが信頼度の低い情報をどれだけたくさん積んでも前提が食い違い、話がかみ合わない。報道機関の方には、民主主義社会の土台となる情報を提供しているという自負を持って報道してもらいたいですね。今のマスメディアの人たちはいろんなたたかれ方をしているので、自信喪失に陥っていると思います。
今のマスメディアバッシングは、傾聴に値するものとそうでないものがあって、そうでないものの方が結構多いんですよ。「マスメディアは悪」という、ある種のイデオロギーみたいなものもありますよね。ポジティブな反応が増えるほど、面白い記事や番組が増える傾向にあるので、そんな反応があふれるSNSになるといいんですが、悪意や怒りの方が広がりやすいのが現実です。
陰謀論につなげて発信、カルト性の一つ
――SNSの投稿の中には、陰謀論のようなものもあります。対処法はありますか。
陰謀論の多くは、以前は同好会のような趣味の世界でした。月刊「ムー」のように、楽しく陰謀論を論じていたのが、今は正論のような顔をして、一般社会に流れ出してきていると思います。まるで、かつてカルト団体が人々の心を操作するのに用いたように、「現状の裏には、実はこういうことがあるんだ」「諸悪の根源はここだ」と言い募る。
自分の意見が批判されると、被害者意識を過度に募らせ、陰謀論につなげて発信する人もいます。私はある種、カルト性の一つだと思っています。
そんな陰謀論や明らかな虚偽情報に対し、マスメディアはこれまでまともに相手にせず、見て見ぬふりをしてきました。これからの時代、それはまずいなと思いますね。放置している間に、陰謀論的発想や虚偽が広がっていくからです。面倒でも、専門家の話を交えながら、一つひとつ根拠を示して否定しないと、勝手にフェイクニュースが育っていく感じがします。明らかに事実と違う情報は、プラットフォームの方でもチェックする責任はあるでしょうね。
――私たちメディアも時代とともに変わっていく必要があります。
ジャーナリストの故・青地晨(しん)さんの言葉でものすごく好きな言葉があります。「同じことをみずみずしい感動で言い続けたい」です。
このところ、オウム真理教事件のことで、若い記者の人から取材を受ける機会が増えました。私たち世代が当たり前だと思い、もう語り尽くしているかのように思っていることでも、若手の記者は新鮮な感覚でそれを受け止め、心を動かし、記事を書いてくれます。それを新しい読者が読むわけです。
大事なことというのは、聞き手が感動するからこそ伝わるんですね。聞き手を変えながら言葉をつなぐことで、次の世代にも広がっていくと感じました。
だから、同じ人のところに行って話を聞いて書くことも、決して無駄なことではありません。同じ事柄でも、一言一句同じじゃないですからね。聞きたいことがあって記者になっているんですから、「すでに出ている話だ」とためらい、自らを抑制する必要はないです。新たな目で見て、聞いて、みずみずしい感動とともに、伝え続けることが大事だと思いますね。
――改めて、私たち新聞が期待されていることは何でしょうか。
多くの人たちがSNSで情報を得るようになりました。でも、新聞の方が信頼できるって分かっている人も少なくない。その情報が本当に正しいのか、信頼していいのかを検討する、あるいは考え直す材料を提供することが必要だと思います。ある種のセカンドオピニオンなのかもしれないですけど。調査報道など、元来のマスメディアが担ってきた情報発信は大事で、それにファクトチェック機能が付け加わる、ということです。
1958年生まれ。神奈川新聞記者を経てフリージャーナリスト。神奈川大学特任教授として、カルト問題、ジャーナリズム、メディアリテラシーなどを教える。著書に「『カルト』はすぐ隣に オウムに引き寄せられた若者たち」など。
朝日新聞阪神支局襲撃事件から38年
38年前の5月3日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽姿の男が侵入し、散弾銃を発砲した。小尻知博記者(当時29)が左脇腹を撃たれて死亡。犬飼兵衛記者(同42)は右手の薬指と小指を失った。
報道機関に届いた「赤報隊」を名乗る犯行声明文には「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみ」と記されていた。
警察庁は、のちに判明した東京本社銃撃など一連の事件を「広域重要指定116号事件」として捜査を続けたが、2003年までに全8事件が未解決のまま時効となった。
朝日新聞労働組合は、事件の翌年から「言論の自由を考える5・3集会」を続けてきた。事件を語り継ぐとともに、言論の自由などのテーマについてゲストらとパネルディスカッション形式で語り合ってきた。

コメントプラス
佐倉統(実践女子大学教授=科学技術社会論)【視点】 陰謀論がカルトのようなものだというのは100%賛成だ。世相が不安定になると陰謀論が増えることからも、カルトのように社会の現状に不満や不安を持っている人たちの受け皿になっている側面がうかがえる。新聞などのマスメディアは陰謀論から社会を守る防波堤だ。アメリカではメディアがイデオロギーによって二分してしまい、社会全体の「公器」としての役割を果たせなくなってしまっているが、日本はまだそこまでの惨状は呈していない。既存マスメディアは今が踏ん張りどころ。ネットにもっと進出してネット空間で陰謀論と対峙してほしいと個人的には思っている。主戦場はネットだ。
塚田穂高(文教大学国際学部教授・宗教社会学者)【解説】 江川紹子さんの、陰謀論の滲出を「カルト問題」との関連で捉え、社会的放置を戒める趣旨には深く同意します。その上で、オウム真理教地下鉄サリン事件30年ということもあり、補足を。
「…陰謀論の多くは、以前は同好会のような趣味の世界でした。月刊「ムー」のように、楽しく陰謀論を論じていたのが、今は正論のような顔をして、一般社会に流れ出してきていると思います」
とありますが、(江川さんが知らないはずがないのは大前提ですが)オウム真理教の麻原彰晃の社会的「デビュー」が、当のオカルト雑誌の『ムー』(1985年10月号)・『トワイライトゾーン』(1985年10月号)であったことは、あらためて想起され、記憶に留められなくてはなりません。
もちろん、当該記事でもっとも目立ち、ある程度の人を惹きつけたのは、修行法・超能力開発の部分であり、麻原の「空中浮揚」の写真であったことは確かでしょう。
ただし、『トワイライトゾーン』の方では、すでにデビューの同号に「最終的な理想国を築くために」という麻原への取材記事も6頁にわたり掲載されています。そして、麻原が神から「あなたに、アビラケツノミコトを任じます」との啓示を受け、それは「神軍を率いる光の命」であり「戦いの中心となる者」という意味であること、2006年には核戦争の第一段階は終わっていること、「シャンバラ」という完璧な超能力者たちの国という理想社会を作ること、「ヒヒイロガネ」というパワーを発揮する石を手に入れていることなどが縷々述べられています。同様のことは、『ムー』の同年11月号にもあり、「ヒヒイロカネ」の効力と使い方や、ハルマゲドンを生き残る神仙民族になることなどが記載されています。このように、麻原の記事は、『ムー』には1985年10月号、11月号(2件)、『トワイライトゾーン』には1985年10月号(2件)、12月号、86年2・3・4・6(2件)・10月号、87年1・2・3・4・5・6・7・8・9・12月号、88年1月号に掲載されていました。麻原とオウムの後の諸事件や国家への対抗につながるような宗教観・世界観・終末観・国家社会観などは、かなりの部分がこれらにおいてすでに提出されていました。
これらは、ここでいう「陰謀論」ではなかったのでしょうか。そしてそれらは「同好会のような趣味の世界」であり、「楽しく陰謀論を論じていた」のでしょうか。もちろん、多くの読者にとっては、「奇妙なことを言ったりやったりする人だなあ」と「楽しく」消費されていったのかもしれません。しかし、麻原にとってはそれはそもそも「真剣」であり、同様にそれらを笑い飛ばさず「真剣」に考えた人々がひきつけられ、巻き込まれていったのかもしれません。そういう芽がすでにあったということです。
もちろん、麻原とオウムが実際に諸事件を起こしていくのは、真島事件(88年9月)―田口事件(89年2月)―坂本弁護士一家事件(89年11月)ともう少し後のことではありますが、いずれにせよこの初期麻原・オウムの「陰謀論」をどう考えたらよいか、という点は課題として残っているように思います。「陰謀論は昔はネタとして楽しんでいた」といったようなことが言われる際に、いつも引っかかるのがこのことです。
いずれにしても、そのために、メディアや、専門家や、社会がスルーしないようにすること、というのはあらためて同意します。
杉田菜穂(俳人・大阪公立大学教授=社会政策)【視点】この記事を読んで、辻隆太朗『世界の陰謀論を読み解く』(講談社、2012年)が陰謀論を文化的潮流と捉えていたことを思い出した。陰謀論そのもの、陰謀論を信じる人がいることの背景にある<陰謀論が成り立ちやすい状況>や<陰謀論を支持したくなる気持ち>への社会的な関心が欠かせないこと、陰謀論を信じる人がいることの重みにもっと目を向けるべきことを痛感する記事だ。
0 notes
Text
2025年3月5日

想定外のコメ高騰 中から国を守る「農業」ないがしろにした結果(毎日新聞)
「コメ騒動」と皮肉られる事態を、現場の生産者はどう受け止めているのだろうか。中国山地の山里でコメ専業の農業法人を夫婦で営む本山紘司さん(45)=岡山県鏡野町=に話を聞いた。大学院修了後、農林水産省勤務を経て、故郷に戻り新規就農した。3男3女の父であり、また県議会議員でもあり、岡山でも今や少数派になった専業農家の議員として、地域農業の持続可能性を追求する存在でもある。【聞き手・三枝泰一】
◇シリーズ「令和のコメ騒動」2
――生産者として、この「騒動」をどう見ますか?
◆この1年に収穫量が激しく動いたことはありません。市場の販売価格がこんなになぜ上がったのか、私も知りたい。確かに昨年の今ごろは、その前年が一部の県でやや不良だったこともあり、「今年は農家からの買い上げ価格が上がりそうだ」という情報はありました。肥料など生産資材の値上がりで赤字続きだった農家には、「ようやく報われる」という思いがありました。事実、JAの2024年産米の1俵(60キロ)あたりの買い上げ価格(概算金)は全国で1万6000~1万7000円が中心で、前年より2~4割ほど上がりましたが、卸売業者間の取引価格は4万~5万円にも上がっていると聞きます。高騰は生産者のあずかり知らぬところで発生しているというのが実感です。
――江藤拓農相は備蓄米の放出を発表した記者会見で「主食であるコメがマネーゲームや投機の対象になることは決してよくない」と発言しました。流通過程から消えた約20万トンのコメは、相場の高騰を見込む業者が直接買い集め、抱え込んでいるとも言われています。
◆飼料用にする「くず米」を買い付けにくる業者は以前からいました。正直「善い業者」とはいえない印象です。投機に味をしめて参入した業者がいる可能性は大いにあると思う。「コメはどこかにある」という声をよく聞きますが、裏返すとこれは、国民の主食であるコメの所在をつかむ手段が政府になくなっていることを意味します。食糧管理制度に戻せ、と言っているのではありません。ただ、国民の「主食」であっても価格が低迷していた時には「はなもひっかけなかった」コメを、もうかるとなると平然と投機の対象にするような動きに対しては、生産者として怒りを感じます。それが自由主義経済だ、と言うのであれば、少なくとも主食の稲作、さらには農業を国の施策として守る必要がある。普通の消費者は困っています。高度成長期の入り口のころ、「貧乏人は麦飯を食え」という発言が批判を浴びましたが、今、起こりつつあることは、これと同じ方向にあると思います。
――生産者の一人として、今回の「高騰」は決して望ましいことではないと?
◆正直、「それみたことか」という気持ちもあります。「利益を生まない第1次産業に、経済的存在意義はない」と公言してこられた方々に対してです。昨夏、店頭でコメの品薄が生じた原因の一つは、南海トラフ地震発生への警戒から流通現場で異例の争奪が起きたことだともいわれています。利益最大化のためには需給をタイトに絞った方が効率的でしょうが、一つのきっかけで大混乱が起きるような環境に「主食」をさらすことが政策として妥当なのでしょうか。
中山間地で営農を続ける人間として、農政とは産業政策のみならず、地域社会を維持する社会政策と表裏一体の関係にあると常に言い続けてきました。今回はそれに加えて、国民への安定した食糧供給を守るという重要な役割があることを改めて認識しました。
――一昨年までは米価の低迷と各種コスト増とが相まって、稲作農家は「時給10円」ともいわれました。生産基盤を守るためには適正な価格が必要です。
◆おおむね、水田1ヘクタールの売り上げは約100万円といわれています。ウチの場合、ウクライナ戦争以降の生産資材の高騰を受けた23年は、主食用のコメでみれば100万~200万円の赤字でした。「価格」の受け止めは、経営体の規模によって変わります。兼業農家のように小さいところはJAなど集荷団体に販売を委ねざるを得ません。生産コストが上がっても「販売価格が上がらないから、高くは買い取れない」と言われれば従うしかないのですが、在庫リスクや顧客対応が必要ないことなどで、広い意味で守られてはいます。一方、専業である程度の規模がある経営体は、集荷団体を通さず自分で販路を開拓します。自由度は増しますが、価格交渉が死活問題に直結するので、営業努力を要します。多くの農家にとって、24年産米の買い取り価格は「ようやく一息ついた」というところではないでしょうか。ただ、新たな設備投資意欲を生む水準には至っていないというのが実情だと思います。
――専業農家としての課題は?
◆経営体力をつけて、価格決定力をこちらが持つことです。ぼろもうけをしたいのではありません。コストを適正に反映させた価格で取引がしたいのです。それが、投機の抑制にもつながります。
――コメの増産を目指せ、という意見もあります。
◆現場の実態を知らないのではないでしょうか。農業生産者は減り続けている。生産現場はゼロサム状態にあり、仮に今、主食米を増やすとすれば、何かの栽培を減らさざるを得ない。手っ取り早いのは飼料米を主食米の栽培に戻すことでしょうが、そうなれば家畜生産のコスト増につながりかねません。飼料米はエサを国産にすることで食料自給率を上げるという政策的目標にも関わります。「輸入飼料で代替」などということになれば、本末転倒です。
――「日本を守る条件は二つ。外敵から守る『防衛力』と、中から国を守る『農業』だ」――。学生時代からの持論だそうですね。
◆これは今も変わりませんし、実際に現実のものになりました。21世紀の現在、軍事力で他国の領土を侵略する国家が現れることを想像できたでしょうか。国防も農業も人間の「生存権」に直結する政策です。そしてコメは、日本人の文化そのもの、基底です。
◇もとやま・こうじ 1979年生まれ。2004年岡山大大学院修了(自然科学研究科食料情報システム学専攻)、農水省入省。08年退職し、1・3ヘクタールで就農。11年農業法人「本山精耕園」設立。現在、35ヘクタールを耕す。この間、鏡野町議を経て19年岡山県議当選。現在2期目。
0 notes
Text
2025年3月2日

【おひとりさま老後に備えて】40~50代の「平均貯蓄額」はいくら?「年間手取り収入」からの貯蓄割合は(LIMO)
転職や異動などで慌ただしくなる、年度末のこの時期。職場や仕事内容が変わり、収入に変化が起きやすいこの時期だからこそ考えたいのが、貯蓄についてです。
特におひとりさまは自身で老後資金を貯めねばなりません。老後資金の必要額は将来の年金受給予定額や生活費によっても異なるため、環境が変わりやすいこのタイミングだからこそ改めて見直したいところです。
一方でお金のことは、友人関係だったとしても聞いたり、相談したりしにくいもの。同じ世代がどれぐらいの貯蓄を貯めているのかについて把握できると、自分の状況を確認し、今後の行動についても考えられるでしょう。そこで本記事では参考までに40歳代〜50歳代に焦点をあて、貯蓄額について探っていきます。
【おひとりさま】40歳代~50歳代で貯蓄はいくら貯めてる?
40〜50歳代になると老後が見え始めますし、老後資金は一朝一夕では貯まりませんから、早くからコツコツと貯蓄習慣をつけておきたいところ。
J-FREC 金融経済教育推進機構が公表する「家計の金融行動に関する���論調査(2024年)」より、まずは40歳代〜50歳代・おひとりさま以上世帯の貯蓄(金融資産を保有していない世帯を含む)を確認します※貯蓄額には、日常的な出し入れ・引落しに備えている普通預金残高は含まれません。

年代別の貯蓄額はいくら? 出所:J-FREC 金融経済教育推進機構「家計の金融行動に関する世論調査(2024年)」をもとにLIMO編集部作成
●【40〜50歳代】貯蓄額の平均値 ・40歳代:883万円 ・50歳代:1087万円 ●【40〜50歳代】貯蓄額の中央値 ・40歳代:85万円 ・50歳代:30万円
平均額を見ると40歳代は800万円超、50歳代では1000万円超とまとまった貯蓄をしているおひとりさまが多い印象をうけます。
しかし中央値を見ると、40歳代は85万円、50歳代では30万円と50万円を下回っています。これは個人差が大きいためであり、図表をみると貯蓄ゼロのおひとりさまも3〜4割います。
40〜50歳代おひとりさまのおよそ3人に1人が貯蓄ゼロですが、大切なのは今から少しでもコツコツと貯めていくことでしょう。
【40歳代~50歳代おひとりさま世帯】年間手取り収入から何パーセント貯蓄している?

年齢階層別の平均給与 出所:国税庁「令和5年分 民間給与実態統計調査」
【40~50歳代「男性」の平均年収】
40~44歳:612万円
45~49歳:653万円
50~54歳:689万円
55~59歳:712万円
【40~50歳代「女性」の平均年収】
40~44歳:343万円
45~49歳:343万円
50~54歳:343万円
55~59歳:330万円
では、40歳代〜50歳代おひとりさま世帯が手取り収入からどれくらい貯蓄しているのか、同調査から見ていきましょう(※金融資産保有世帯のうち金融資産に振り分けた世帯)。

年間手取り収入からの預貯金への振り分け割合
●年間手取り収入からの平均貯蓄割合 ・40歳代:12% ・50歳代:13%
上記を見ると、年間手取り収入から12〜13%貯蓄しているとわかります。
図表で詳しく見ると40歳代で最も多いのが「5〜10%未満(27.0%)」、次に「10〜15%未満(15.7%)」。
50歳代では「5〜10%未満(27.8%)」、次に「10〜15%未満(24.1%)」となっています。
たとえば13%とした場合、月収の手取りが20万円なら2万4000円、30万円なら3万9000円になります。
どれくらいの割合の貯蓄が可能かは収入や生活費によっても異なりますが、参考にされるといいでしょう。
貯蓄習慣をつけ、その金額と方法を見直すことが大切
まとまった貯蓄を老後に向けて用意するためには、まず貯蓄習慣をつけることが大切です。
給与から先に貯蓄して、残りで生活する「先取り貯金」であれば安定的に貯まりやすいですから、取り入れるといいでしょう。さまざまなサービスがありますが、一度設定すればあとはほっておいても積み立てを続けてくれるので利用もしやすいです。
先取り貯金はライフイベントにあわせて見直しをすることが大切です。
たとえば転職などで収入が上がったり、引っ越して固定費が下がったりすると貯蓄できる金額が増える場合もありますから、生活や家計収支に変化があった場合は金額を見直す習慣をつけるといいでしょう。
また、先取り貯金は預貯金だけでなく、たとえば新NISA制度を利用して積立投資を行うことも可能です。
積立投資は損をするリスクもありますが、一方でお金も働いてくれるので、自分が働けなくなっても収入を増やすことも可能です。
リスクや制度、投資方法、金融機関、金融商品などを調べ、自身に合ったものを考えるためはじめるまでに時間はかかりますが、一度調べて実際にやってみることで、収入を増やす方法として「資産運用」が自身の選択肢の一つにはなります。
制度を調べたり、実際に金額のシミュレーションをしたりなどして検討するといいでしょう。
収入と支出も見直して、きたる老後への備えを
本記事では40歳代〜50歳代の貯蓄について確認していきました。
平均の貯蓄額より少ない場合、自分はどのように貯蓄のペースを増やしていくか考えてみましょう。
貯蓄習慣をつけることはもちろん、転職で収入を増やす、固定費の見直しで支出を減らすなどをおこない貯蓄額を増やすことも可能です。
現代は60歳以降も働く人が増えており、また働き方も多様になりました。今の40〜50歳代が老後を迎えるころには、さらに多様化されて長く働きやすくなる可能性もあります。長期的にみて仕事について考えるといいでしょう。
また、これを機に将来の年金受給予定額をねんきんネットなどで確認されるといいでしょう。老後の収入の柱である公的年金の目安を知ることで、老後資金計画も立てやすくなります。
働き方にあわせたシミュレーションもできるので、活用されてみてはいかがでしょうか。
参考資料 ・J-FREC 金融経済教育推進機構「家計の金融行動に関する世論調査(2024年)」
0 notes