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shio25ri-blog · 5 years ago
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今日は父の日なので
わたしが、「無償の愛」というものを認識し、感じるようになったのはほんのつい最近のことのように思う。「それ」は、ひとつの象徴としては「家族」だとわたしは思う。そんな家族である父のことを記録として記しておきたくなった。
父はわたしが13歳の冬に病気で死んだ。40歳だった。死ぬには若すぎた。
わたしは12歳のときに両親が離婚して父方に引き取られた身なので、それからわたしの母は父の妹にあたる叔母だ。
私は父のことが大好きだった。父との思い出はたくさんある。記憶に残っているのは、わたしが習っていたバレーボールの特訓を「秘密の特訓」と名付けて体育館を借りてよく練習の相手をしてくれたこと。父はわたしにプロの選手になって欲しかったのだと思う。それから仕事帰りによくCDを買ってきてくれてプレゼントしてくれた。一緒に巨大イカや巨大タコの映画を観たりもした。よく途中で寝てしまうわたしにふとんをかけてくれた。
そんな父にわたしはなにも親孝行ができなかった。まだ13だった。
親を亡くしたときの気持ちというのは、亡くした人にしか絶対にわからない。共有したくない。できるなら、この気持ちは誰にも感じて欲しくない。これから経験するであろう大切な人たちに、感じて欲しくない感情なのだ。わたしは父に、成人して、振袖に身を包んだ姿を見せたかった。一緒にお酒を飲みたかった。働くことのよろこびやむずかしさ、感じたままを伝えたかった。それは叶わなかった。
父が死ぬ前後の記憶をわたしはずっと覚えている。父が入院する前日の夜、わたしは父と大げんかをした。いま思えばなんてことない理由だった。頭に血が上った父は、わたしに包丁を突きつけた。こわくて涙が止まらなかった。姉が必死に止めたのでどうにもならなかった。父は翌日入院した。急な入院だった。部屋に脱いだ服や靴下が散らかっていた。見舞いに行くたびに父は生気を無くしていっていた。誰が見ても明らかにわかるスピードで「死」に向かっていた。医者には余命宣告をされた。そんななかでもわたしは喧嘩をした気まずさで父とうまく話ができなかった。それから間も無くして父は死んだ。死に目には会えなかった。間に合わなかった。父は叔母の誕生日に死んだ。日付が変わってすぐの深夜だった。一生忘れるなと爪痕を残された気分だった。そんなことしなくても絶対に忘れないのに。
父が死んでしまったとき、まだ中学生だったわたしは、物理的にはわかっていても、心の底では父がいなくなってしまったことに気付かないでいる自分がいた。葬式でも決して泣かなかった。人前で泣くことほど惨めなものはないと思った。周りの人に同情など一ミリも求めていなかった。わたしが父のことで涙を流すのは決まって風呂場でだけだった。ひとりになれる。泣いてもすぐにシャワーで流してしまえる。
それから姉とわたしは叔母の家族に混ざって生活をした。叔母夫婦は実の子供と同じようにわたしたちを育ててくれた。わたしは叔母のことも、叔父のことも大好きになった。けれど、その頃のわたしは身勝手に悲劇のヒロインになりきっていたのかもしれない。誰もわたしのことなど心から愛していないのだと思っていた。そういう人生だったのだと思ったりもした。そんな自分が大嫌いだった。
けれど、大人になって、たくさんの人と出会って、仕事をして、何かに没頭したり、達成して喜んだり、嬉しさや悲しさで泣いたり、恋をしたり、傷付いたり、たまに���違った方向に進んだり、反省したりするなかで、わたし自身は変わっていった。それは気付かないでいた無償の愛なるものを家族、友人、そして父からもらったおかげなのだと思うようになった。
父の日のプレゼントは叔父に贈っている。前は薄毛を気にしているようだったので育毛剤を贈っていたが、一向に効果が見られないのでやめた。そのかわり今年はわたしが大好きな美味しいチョコレートを贈った。バレンタインでもないのに、男の人にチョコレートを贈るのは何故だか照れ臭かった。叔父は甘党なのできっと喜んでくれると思う。
父は今日はなにをしているのだろう。病気は治って元気でいるのだろうか。いまでも、日々のなかで父を感じる瞬間が、たまにある。近くにいるのかもしれないと感じることがある。いちばんの愛をくれた父に感謝をしたい。お父さん、ありがとう。
2020/6/21
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