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差別とはなんだろう。
バカにする自由。揶揄する自由はある。でも「面会することを禁じる」のは別次元。
ライブハウスで生きてきた人間からすると、「ある属性の人は入ってくるな」と言うことは、音楽の思想の死活問題になると感じる。(ただ、実際はチケット代によって入場を区切っている。高額チケットのライブに貧乏人は実質入れない。では僕らは?とも思う。もちろん、そこまで「平等」にするのがいいかというと、それはまた別問題だろう)
Xでは「トランスヘイト本」、その刊行中止が話題だ。
表現の自由は大切だ。刊行中止は、なにかが行き過ぎてると感じる。
上記の前者と後者のちがいはなにか? 私の次元と公の次元もあるし、人権をどうとらえるかの問題もある。なにをもって「差別」と言うか。また、「ゼロ差別」というのもありえないだろう。世界には大小さまざまな差別がある。その濃淡のなかで生きている。声を上げる差別もあれば、無視し素通りされている差別もある。
個々の事例、それぞれに考えるしかない。しかし一貫性も求められる。難しい時代だよなあ。とりあえず、どんどん「真面目」になっていって、くずれた、ふにゃふにゃの表情をつくれなくなるのはまずい。「自分を低くすること」これが肝心。そんなことも思い出そうや。
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死と追悼
チバユウスケ氏が亡くなった。 ショックな人が多いだろう。
55才は、若い。
————————————————————
人は、誰が亡くなったときに悲しみ、誰が亡くなったときに悲しまないのか。 その差異が、最期、気にかかるようになるだろうか。
・追悼の選別 ・死者の記憶可能性
政治的に、追悼が選別されることもある。イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナ、かつての日本と米英など、「どの国の死者を弔い、どの国の死者を弔わない」か。
・自国の死者は弔う。敵国の死者は弔わない。
「有名になりたい」という欲望の根源は、「死後も記憶されたい」という不安的な希���であろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ぬるい、ぬくい 愛の海のなか
もぐる/もぐっている/もぐっていた、ので
おおきなくちびる 、 傷つかない なめらかさ
三次元ではわかりあえなかったが、四次元ではどうか。
ここは、溶け合っていて、危険な場所になる。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
いまノンパブリックな場所というのがあるか。 ネットの中にも、SNSのようにパブリックな場所もあれば、こうしたブログのように、パーソナルなスペースとして使えるところもある。
暴力や性は、パブリックの場所で表出するに適さない。 被害や加害もしかり。 いまは、被害の言葉をパブリックで流通させるのが受け入れられている時代である。
そうした中、ノンパブリックな表現は後退する。場所性が入れ替えられている。
◆
お前を殺す、と 何度も言いつのった口 ひんまがって口のなかに口が入る
耳が顔の横についてるので ぼくきみのことばよくきこえない 自分の声 骨だけふるえだけきこえてわかって
軽くなって軽うくなって あの死 この死 死と死をドライブして 生と死のあわいも茫漠としたら みんな幽霊に近い 生気のない生者と 死なない死者
◇
ブログの時代の自意識と、SNSの時代の自意識は異なるだろう。 交換可能な実存に浸りながら、創作に向かった時期と。 すべてが明るく軽くなるSNS。
◆
構造だけがあって にんげんが そのなかに入らなくなったら マシュマロ のように にんげんはマシュマロのようになる にんげんは、自他が溶けていく しかし 構造だけは強固で 以前よりも それだから 構造と構造は区別され 構造のなかのにんげんは溶けている 言葉は 現実をひっかかない こんにち そうした自覚のみ もつ もつことから再スタートする
◇
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日本
山を用意してくれた、川を用意してくれた、コンクリートを、男たちを、母を、古い制度を、図書館の小さな緊張を、いざこざのあとの素早い忘却を、揺れた大地を、波打つグラウンドを、照りつけてうだるような太陽を、橋の下に見える道路の車列を、ライブハウスの脇の駐車場での会話を、全て出会った笑顔はみな、与えてくれたのは日本、日本、日本
払うのが必ず苦しい額の税金を、足元のぐらついた安定しない街を、精神の連続しなかった理由の忘却を、探求する意志を根こぎにされた弱さを、ピーナッツのオブジェがむなしい駅前を、人形のような顔の女の子が歩く道を、深く潜るほどに孤独になる浅い海を、与えてくれたのは日本、日本、日本
グーグル翻訳で満足しうる言語を、まことに信頼できる友を安っぽくするツールを、外注で身を立てる寄る辺なさに慣れた心を、言いやすいことだけを言って言いづらいことを飲み込んだ苦さを、瞬間にとどくメッセージが瞬間に忘れられる空虚さを、なすすべなく受け身で流されるまま生きていくあきらめを、与えてくれたのは日本、日本、日本
自信を、喪失を、敗北を、勇気を、痛みを、弱さを、強さを、忘却を、夏の空が青くすみわたって体にそそぐ陽射し、汗とともに記憶された祖母の背中を、セミの声と混ざり合う16ビットのBGM、カルピスのうすめた味、ファンタの炭酸が刺激する舌のしびれ、すべての舞台はこの 日本、日本、日本
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戦争
「こないだのやつだろ? あいつ」「またやってきたんだぜ」「学習しねえよなあ。まるで馬鹿だよなあ」、戦争
「生まれてもないときのことはわからないよ」「好きだねえ、趣味なんだねえ」ただ浮ついている自分の心の拠り所をもとめ探して見つかった、戦争
耳が聞こえない人に大声でしゃべりかけないといけないけどそんなことはしたくない、ただただ無視するようにそっぽを向いた、戦争
悪意があるから悪いんじゃなくて悪意がなくても悪いことはあると、知りながらも相手の嫌なことをやってしまう、戦争
それは仕方ない人間だもの、周りは簡単な慰めの言葉しか用意しないからと遠ざけて孤独になり不安をこじらせる、戦争
見つけたここにルール違反がいる、見つけたこれで物が書ける、見つけたこれで相対化できる、戦争
かわいそうな人、橋から落ちた人、禁酒期間中に酒を飲んだ人、誰からも擁護されない人、教え子からも教育委員会からも見放された、戦争
去年自分がしたことはわかりません、なぜあんなこと言ったのか、今年はまっすぐな心に従います、それで新聞もネットも絶賛してくれた、戦争
味わったことのないことを描くなんてできないよ、倫理高くこだわりぬいて、みんな悲劇を利用しはじめた、史実に基づいて再生産するは、戦争
バーチャルな間接性でまるでゲームだった、銃で撃たれているのに血も出ていなかった、三発撃って倒れ込んで微動だにしなくなる塹壕の兵士、戦争
ビデオゲームで戦争する、レイプする、人殺しする、強盗する、車を盗む、自殺する、大金を使う、地球を破壊する、宇宙を滅ぼす、戦争
手も使いたくないな、口も動かしたくないな、指先もおっくうだな、考えるのも野暮ったいな、なにもせずともあらかじめ自動的に見繕って、戦争
「あなたがしていることはハラスメントです」「あなたはとんでもない傲慢な人です」そうだろうぼくは傲慢なハラスメントだ、では君は? 戦争
「あなたはそうやってすぐ問い返す」「まずは私の質問に答えなさい」ぼくは加害者だ、ぼくは悪人だ、ぼくはつねに悪いんだ、戦争
ほんとうのことを言ってぶち壊してしまいたい、通りに出て叫びながらナイフを振り回したい、そんなことはできない我慢して、びびりながら生きる、戦争
五十六才で孤独死した、その男はぼくによく似ていた、共感するものが移り変わってきた、いっそこのままやけくそで、それがわかるような、戦争
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あなただけが知っている
あなただけが知っている ぼくの曇った目、痛み、背中のはり、ねじれた絶望 それら全てを抱え込んで抜けていく髪の毛 あなただけが知っている 過去に折れ曲がったことの恨み、1999年の恨み おばあちゃんのやさしさに応えられなかった恨み こびりついた不和がこすってもとれない体の恨み あなただけが知っている 鏡にうつった顔を笑顔にしたときの拍子抜けの気持ち ぎりぎりの思い詰めた夜が朝の元気を得たときの心もとない気持ち 過去のすべてを切り取って明暗を色分けするときのその都度の気持ち あなただけが知っている あなただけが知っている 戦争がはじまった、期待して、心のどこかが、高ぶってしまう 誰かを非難して、その声はしかし押し留めて、密かに披瀝してやっつけあう 自分が上からも下からも指弾されない、まっさらな悪意と透徹した正しさを、保存している継承者だと信じて その信じたものにやがて裏切られる あなただけが知っている あなただけが知っている 黄色い顔をして訪ね��きた同僚に、「誰だかわからなかった」と冷たい視線をかえして 金だけ損を食わないように調整してくれと、頼み込むのは感情のない計算だけになるとき あなただけが知っている あなただけが知っている ぼくがどれだけ冷たい人間か あたたかいスープを与えるのはどれだけ限定された人であるか 自分自身の名誉がかからないときにどれだけ簡単に首を切れるか あなただけが知っている ぼくが切り捨てたすべての虫の遺体を アースジェットで殺したその虫たちが分解された土を 水分が雲になりその雲から落ちてきた雨にぬれたぼくの髪の毛を あなただけが知っている そうしてあなたはもういない ここにあなたはもういない ぼくはあなたを求めて これからもず��と最後の旅をつづけるだろう 最後の旅が終わったらきっと会いに来てください この約束をあなたは知っている あなただけがぼくの全てを知っている あなただけが 知っている あなただけ
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結局ここも放置気味になっているけど、「サイレン」というサイトを来年新たに立ち上げるため、いまとりかかってます。そこを拠点に来年はやっていく予定。おっす!
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ちかごろ
1 コロナ禍がまた緊張してきた。どうしよう。うろたえるわ。なぜうろたえるかといえば、また「この状況をどう考えたらいいかな」と、真面目モードのスイッチが入るからだ。 〈自由の価値〉とはなんなのか。コロナ禍初期を除いて、それが考える中心テーマになっている。コロナ禍初期の2月から3月は、その点をとても甘く考えていた。〈自由の価値〉はあまりにも当たり前すぎる価値だったので、非常事態を煽られたとき、簡単にその価値を手放してしまえた。 しかし、一度手放したその価値はなかなか戻ってこない……。
2 またうろたえる。でも、もううろたえてばかりはいられない。「やってられねえ」、そろそろ腹の虫が訴えはじめる。コンナヨノナカ、ツキアッテルヒツヨウ、ナイヨ。そうかなあ、とか弱気になってみる。まっすぐ一本、筋の通った態度、憧れるけれど、自分自身で矛盾し、迷い、蛇行した線を自分は知っている。
3 たまにテレビを見てても(うちにはテレビがないので頻繁には見れない)、ネットで流れ続ける言葉を追っていても、この感染症に対してクリアカット(明快)な結論を提示すること、あるいは提示「しようとすること」それ自体がなんだか何かの〝罠〟って感じがするんだな。そんなことをしようとしたり、実際ちょっとしてみたり、すればするほど「やってられねえ」と腹の虫さんが言いたげになられる。ちょっと、はやいとこ、おさまってほしいわ。
4 ……と、こんな感じでいま思うところをちょいと書いてみた。このところSNSも更新していないし、ブログ等も放置なので「沼田謙二朗」という存在が消え去っている。しめしめ。そしていなくなればいい。せいせいするわ〜〜って自分をいじってても仕方ないので、しっかり見解というか考えてることくらいは表示していきたいっす。自分用のノートはずっととってるんだけどね。アウトプットってやつがぼくにはいつも……抵抗多き事なのか、単なる怠惰か、両方かもしれんが、そろそろちゃんとやってきたいぞ。
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ライブ。あと分かりづらい考え中の文章
9月17日は新松戸FIREBIRDでライブでした。みんな目が生きててよかったなー。や、やってるうちにさらに生きてくるんですね。一日のあいだに。それがリアルコミュニケーションやってよかった、です。
もちろんコロナ禍以降、ライブの意味や価値について考えています。これは不要不急だ、あれは必要だ、それを決められるのは、その人自身であるべき。そうではなく、制度や社会によって決められてしまうというのは、とても危ういことのはずで。
そうですね。生産性ですね。有用性で判断されます。 生産性、ないです。ぼくらにはないです。したがって、ぼくらは不要不急です。
そうなる。そうなった。問題は、「不要不急だ」といってくるのが、政府でもワイドショーでもなく、身近なところからだった、ということだ。
ライブハウスって、なに?
そもそも「ライブハウス」というのは和製英語。この日本語(疑似英語)には、培ってきた意味がある。 その意味は、コロナ禍で生き延びているのだろうか。
一部から「不要不急を自己証明した」なんて揶揄もされていた。文化のはなしだ。文化セクターが、自粛を積極的にえらぶこと。その是非。もっと議論されるべきだった。 議論すること。これがむずかしい。正しいとか間違いとかの前に、まず論点を共有しないとどうしようもない。
ライブハウスとはなんだろうか。 ライブハウスのライブ。自分でふりかえって考えると、ぼくはそこに特権的な価値を見出していたようだった。 たとえば、フェスティバルとはちがっていた。「ライブハウス」は、なにに近いか。
誤解を恐れずいえば、ぼくにとってライブハウスは、教会やお寺、宗教セクターの性格にちかいなにかをもっている。 つまり、生産性の場所ではない。
ーーー
そこらへんのことを今回考え続けている。 話題を冒頭に戻す。 きょう、ライブハウスでライブをした。 「生産性」という視点からみれば無だ。
でもほんとうに重要なのは、その先にある。 生産性がなくても必要なものはある。 不要不急か、必要かは、ひとりひとりが決めることだ。
ーーー
で、そういうことをいくらいっても、抽象的だね。 具体的にはなに?ということになる。 そして具体的には、いくら儲けが出るか、ということになる。
「儲けの出る文化」と「儲けの出ない文化」なら、「儲けの出る文化���がいいにきまってる。 はんたいに、「儲けの出ない文化」とは、その分の稼ぎをなにかに依存している、ということでもある。
自立、ということも様々だ。労働対価を別で得て、文化活動は持ち出しでやっている人は数多くいる。
ここでぼくが問いたいのは、 「ライブの価値とはなにか?」 ということである。
そして 「ライブハウスはライブの価値を守る存在なのか?否か?」 ということでもある。
後者については個々のライブハウスが考えることだから置いておく。
ライブの価値とは。 一義的に儲けが出る/出ないではない。 人が集まること自体が価値だ。
ーーー
「理念」や「思想」……「哲学」といってもいい、それらはとても大切なものだ。 ほんとは、そっち(理念や思想)でしか、保たれていないものがあったのではないのか。
現実の社会のなかに、別の価値観の場所がある。それが、日本における「ライブハウス」の価値じゃないのかなー
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コロナとライブハウス
ライブハウスを考えたい。それは、このコロナ禍で、「ライブハウスってなんだったんだろう」という問いが自分のなかでふくらんでしまったからである。 ライブハウスで育ってきた。少なくとも、たくさんの時間を過ごした。「育ってきた」といっていいのだと思う。僕は、いざよく考えてみたら、妙にライブハウスに居続けてきた人間であるかもしれない。 もともと「ライブハウスが大好きだ!」という人間ではなかったのである。それなのに、居続けてきた。演者として、出演するために。��もそれだけじゃない。僕にとって、ライブハウスという場所はいったいなんだったのだろう。そこを考えたい。いま、そのことを考えなきゃいけない……。
ややこしいことを書いた。とにかく、僕はいま、なんか書きたいのだ。結局、自分の味わった時間を記録し、とらえかえした結果をあらわにすることでしか、前進しないなにかが横たわっているからである。
1.コロナ禍のライブ コロナ禍の2020年2月から3月。僕にとってもっとも「迷いや悩み」が深かった時期である。この時期、僕は「ライブをしていいかどうか」を真剣に検討せざるをえなかった。「感染リスク」という概念と向き合い、「自分のライブはそもそも人(客)も少ないし移動はだいたい車だからリスクはそれほどないだろう」と自虐のつもりでもなく考え、けっきょく予定していたライブはキャンセルすることなくやることができた。 あの時期に「自粛したほうが正しいのでは」と選択が揺れそうになったことは何度かあった。結果的にはやれてよかったのだが、「医療崩壊」ということが現場の悲鳴として、また半ば脅し文句のようにもいわれていたなかで、自分の選択が絶対的に正しいといいきることも考えることもできなかった。
この時期に、僕の中にはまだ「過剰自粛のスパイラルが蔓延することの方が怖い」という実感は薄かったように思う(つまり、後にそう思うようになるのだが)。「命が大事」という前提が、ひとまずの絶対善としてあって、多様な生の条件を考える想像力におよばなかった。
多様な生の条件とは、たとえば「今年の花見が人生最期の桜になるかもしれない末期がん患者」のような人のことである。そういう人たちのことを、僕たちは考えただろうか。というか、想像しただろうか。「甲子園を目指す球児」にしても、一度きりしかない機会というものが、人にはあって、感染症対策といっても、そうした貴重なものとの天秤でしか実施しえないものだったのだ。(僕自身、このあたりの論点は哲学者の東浩紀氏の発信を受けるまで意識できなかった。) なにがいいたいかというと、つまり「自由を抑圧する処置というものがもつ暴力性は、たしかにあったよな」ということを覚えておく必要があるのだ。僕たちがやったことは、ほんとうに「いたしかたない」といえるものだったのかどうかも、よくわからない。それどころか、僕は、とてつもない間違いだったという結論にならざるをえないのではないかと思っている。
話を戻そう。3月。このころ、ヨーロッパが大変なことになっていた。「日本もすぐにああなるぞ」と、いろいろな人がいっていた。そして、ヨーロッパ各国の政府は、感染症対策のための強権を発動させていた。自由は制限されたし、人々もそんなに反発しなかった。人がいっぱい死んでいた。遺体の埋葬が追いつかない、というニュースが流れていた。日本はオリンピックをどうするかで紛糾していた。 「命を守る」ためにできることをする。不要不急、という言葉が出てきた。ライブは不要不急だった。
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数の力なんすけど、それ力っすよ
⛄ なんかひっかかるぞ。それでいいのだ。それがなくちゃいけない。でも"それ"がない。なにも"ひっかかってない"のだ。
そりゃよくないだろう。うん、よくない。よくないやい。 む。よくなくっても、しるかい。ふん。やるっきゃねえのさ。〝よくない、とわかっていても、やらなきゃいけないことはある〟のだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
⭐️ キャンセルカルチャーを超えていくには、どうしたらいいのか。付け焼き刃の反論では駄目だろうとハナから諦めているかもしれない。 アートとか、文学とか、批評とか、そう呼ばれていたものの「力」ってもの。様々な違和感、いやなエナジーを、芸術の持続性にもっていくしかないのだろう。 ……そういえば「文学の力」とかいう言い方もきかなくなったな。
((ん、なんでそんなこと考えてるかって? そうねえ……やっぱいやだよね。おかしいだろう。人として重要ななにかが抜け落ちているって感じに見えるんだ。まあ世の中のいろいろね……。))
==========
🌜 首相の健康面とか、Amazon解約だとか、(一部の)人々の反応こそ僕には恐怖だ。 先日の某女帝本も読んでみたけど、ツッコミを入れなきゃいけない点はみんなが言っているのとは違う点にあるとおもった。子宮筋腫のくだりとか、どうかとおもった。 で、あの都知事選の前、冷静なツッコミを入れていたのはいわゆる「リベラル勢」ではなく三浦瑠麗氏であった。コロナ禍以降の三浦氏の情報発信はとても有益に受け取っていた。そこでこの騒動なので……なんというか、率直に悲しい。
「悲しい」とかいうナイーブな表明はなんの意味もない。そんな甘ったれた言明で意見を付け加えられると思っていられる無神経さが加害者(ヘイター)の証左だ。
おおそうか。 つまり、三浦氏はヘイトというわけで確定なのか。 その確定の自信、名指しして動じない信念こそ褒められるべきもの。 三浦氏は加害者。 君は被害者(の擁護をする正義側)。 僕は加害者を擁護しようとする悪人。
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🐼 三浦氏が問題視されている発言は主に二つ。 「徴兵制」と「北朝鮮スリーパーセル」発言だ。 前者は「安全保障」に関連した提言であり、批判したいなら同様に言説で対抗すべきだろう。(と思うんだけど、そうじゃないのだろうか。そして徴兵制についてはみんなそんなに詳しいのかな……。) 後者はワイドドショーでの発言で、朝鮮籍の(あるいはそこにルーツを持つ)人々への差別を煽っている、という批判がなされた。 僕も当時そう感じた記憶がある。根拠が聞き手にはよくわからず、不用意だなと。当時も彼女はそれについて釈明しない、という態度を貫いていたように思う。
三浦氏には「日本では安全保障の問題を(特に女性が)語ることがタブーだ。そこを変えたい」という考えがあるんだと思う。その点は僕も共感もできる、というか、個人的にはいままで全然考えていなかったこと自体への問いかけだと受け止めている。
いずれにせよ、発言それ自体は最近のものではないので、今回いきなりこうなって少し驚いた。「ヘイトは許さないのだ」といっても、スリーパーセル発言のあとも三浦氏はテレビやメディアで活躍しているので、なぜAmazonのときだけ「許さなく」なるのか、と言えなくもない。(CMというものが特権的な意味をもっているのだろう)
今回の問題は「解約運動をハッシュタグの数の力で盛り上げている」ものだとおもう。 三浦氏への批判と、彼女をCMに起用した企業への批判がイコールで結びつき、具体的なサービスを解約しようという運動になり、そしてそれに異を唱える人もまた「差別の加担者」として弾劾していくというモーメントは、実際はあまりに凡庸で幾度となく反復している集団心理の発露にすぎないのではないか。 そうやって醸成された空気、個人に対する印象、風評というものは、とても大きいものであるはずだ。 個人の人生、家族、人間関係、仕事先、すべてに影響がおよんでくる。
「自分がおもう正しい未来」へと向かいたいとき、この〝やり方〟はフェアなのか。 そもそも「反論」する機会すらも与えられずに、SNS上でアングルがあっという間に形成される。 こんな社会こそ怖いとおもう。
三浦氏はいいことも言っている。(偉そうな書き方でスミマセン) たとえば、先日は朝生で「感染症のリスクの想定を間違えたら間違えたと認めるべき。そして国民も"間違いを認めること"を許さないといけない」と述べていた。「責任追及」ばかりが先に立ってしまいがちなこの社会で、こうした寛容の考え方はとても大事で、なくてはならないものだとおもえた。 人間はいいことも言うし、よくないことも言う。 「この人物と協同するものはみな否定する」という捉え方は、かなり究極のものだ。 よっぽどの理由がないかぎり、そのように個人を排除することこそ「差別」や「偏見」と呼ばれるものであったはずだ。 ツイッターで声を上げている人々は、どれだけその重みを感じているだろうか。 本人だけでなく、周囲の人々も非難される流れをつくり出す。 そういう言説の力を自覚しているのだろうか。 ハッシュタグの運動(連帯)というものは「軽い」と��もう。軽いからこそ誰でも気軽に参加でき、賛同でき、拡散できる。
SNS上では数こそ正義なのだ。
どうしようもないとおもう。
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🌲 ……追記…… こういうことを「はっきり」書かないほうがいいかもしれない。敵味方の構図をけっきょくつくることになるから。
でもそうとばかりいってられない状況もある。 同時に、友敵理論の限界、というか弊害もあるのも自明だ。 だから「アート」が必要、ということになるけど、そんなに「役に立つ」もんでもないはずで、不要不急、その価値を忘れずにいたい、ってなもんですね。
シンプルにいえば「そこまでするほどのもんなのか」と「それやる意味あんのか」と「お前がそんなに偉いのか」という言葉をいえば足りたかもしれない。
言論というのはかなりはじめから限界があって、その限界を意識していたいし、なにより自分自身の限界、無知、能力というものもある。それにしても、誰も何も言わなすぎだとおもうんですよね。
😣 😖 😲
……追記2…… (音楽だ〜芸術だ〜表現だ〜とかで抽象的に煙に巻く、みたいなことばっかりやってるのもどうかという思い) (その点では僕も「政治に目覚めた」バンドマンと近い……) (とはいえ、やっぱりここでこういう文章書いてるだけじゃだめなんすよね。このところ創作でも新しい手応えがあったりしてて。理想はシームレスに開拓していきたい。とにかく考えながらやっていくしかないですね。)
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観客
「みんな観客に縛られている。 政治家もメディアも文化人もミュージシャンも。 そんで期待を裏切ったら〝支持率〟を下げるのだ。」
なっるほどねえ。そいつはどうも。 では自由でいるためには観客がいないほうがよろしいかな? と、いうのも間違っている。 最初で最後の観客は、自分自身なのだ。
……うむ。 都知事などは観客使いがうまいようです。 「今度の政策、俺は右っていったんだけど観客は左がいいといってる。あらどうしよう。」 というようなときに、さも最初っから「左がいい」と考えていたかのように柔軟に路線変更。大々的にプレゼンするのだ。 それでオッケー。みんな幸せ。 (と、いうようにそのときはかんじる)
で、それって誠実なの? しらんがな。 でも「自分という観客」を限りなくゼロにできるとすれば、それは人間というよりAIに近づいたなにか……なのかもしれない。
〝誠実さ〟などを求めるのは「自分」なのだ。 そんなもんは、うっちゃっておけ。
さて、それでも。 こちらが信じるところの正しさと観客の意見が合わないとき。 そうしたら、ほんとうは、対話するしかない。 それが正しいっていう、そういえる理由を説明するしかない。
対話、しますか? そんな場所なんてあるか? そんな回路がありうるだろうか。 なんだかとても冷えきってしまった。 時間がかかるんだ。 「わからないものがわかる」ようになるまでは。 この舞台は、時間の使い方をまちがえている。
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あえたら
こんなにさびしかったんだ ふうん 悲惨だね でも自業自得だろう 自主選択だ ああ自由ってすばらしいね なんでもゆるされるようだから 空を飛んでも 空から落ちても そこには血だまりの容量だけがある 実感できたかな? そうだね乗りたかった ジェットコースター まちながら えっと遊園地にいるんだ こんなにせわしく 君には物語はない だから後にはつづかない ぷっつんきれて それが自由だろ
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ただの数字
うるせえんだよ 毎日毎日このやろう もうやめてよ いやなんだよ ききたくないんだよ わるかった あやまるから なんとかしてくれないか やめてください かんべんして おいただの数字だろ しってるんだよ でもこっちにはこないでくれよ だめだよわるかった うけいれるなにかはわからないけど 反対側になんかある おれたちそっちいく でも「たち」っていえるほど仲間いないな きづいたらひとりだ ひとりで でもさみしいなあ 数字の音をきくよ ああ俺も数字になるかなあ ひとりという数字はたくさんあるよ ひからびて
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詩としての言葉
ぼくは生きている 死者は見ていない ここにはなんでもある でも心だけがたりない あの空間にいえばいうほどのみこまれてゆく ぼくはぼくにのみこまれる それがいやならば あすこは去るしかない んじゃまあ 自分に語りかける すると答えだす あいまいに軽率に それがぼくなのだ わかりきっている わりきっている でもひきずるのだ たちきりたい ついてくるものよ さようならがうまくできない ぼくはあいさつをなくした さよなら でもつたわらなかった おちた
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音楽面での近況
このところ作品をカタチにしようと構想している。 普通の「音源」じゃおもしろくない。なにより現実をひっかかない。 …そういう想念にとらわれて(?)なんとかアクチュアルかつ普遍的な手法にたどりつきたい。そう考え悩みつつ構想。
具体的に。音楽の「ことば」は限定的に使われてきていて、広がりをもっともちたい。けれどあらゆる言葉をむやみに使用しても定着しない。 漫談みたいな言葉の使い方はできる。肉声言語。 あとはテーマ性。なにより、自分の実存や考え、いまの時代などなどちゃんと対応したい。つまり、音楽が対応できない面が目立つ。コロナ禍でもこぼれおちた実存や現実に音楽は対応できていない。できていると思っているのはSNS全体主義を信じている連中だけだ。既存のフォーマットではだめだ。ここのところはずっと僕が悩んできたところ。
ラップやポエトリーの興隆も注目してきたけれど、まだ、批評的視座にとぼしく感ぜられる。批評は大事なのだ。コロナ禍の経験からもそういえる。あれを繰り返させない文化的抑止力(?)が必要。では、批評の言葉を音楽のなかに取り込むことは可能か? メロディやリズム、「音符」にあてはめないで自然発話で歌えること。
文学方面の方法論は参考になるだろう。「井戸」は大事だ。「物語」の時間的持続性がないことがいまの時代のどうしようもなさをつくってしまっているともいえる。すべてが結果主義で過程がない。インスタ用にデモで記念写真(すぐ帰る)とかどうなってるよ。それはいいとして、物語の質が重要なんだ。「SNSの物語」(SNS上の自己演出)は貧弱すぎるんだ。人間認識として、人生経験として、時間をあじわう質の問題として。…ちょっと乱暴だけどそういいたい。
「大言壮語」になって未完では元も子もない。ここはがんばってやりきるしかない。これに集中したい。
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地球コロニー
地球コロニーにぼくら住んでる ほんとうにくそみたいなつまらなさだ …とかいってると、暗黙の足で蹴られた ぼくは差別されている、とおもった けれど「差別」は差別としてみとめられない そうした言語は独占されている ぼくがなにをいっても無なのだ 世界はやさしいふりをして おそろしいパワーゲームに支配され甘えてる ほんとうに甘ったれてる いやんなるよまったく …とかいってると、ぼくは暗殺の対象になっていた そうといっても、実際に暗殺されるわけではない 奴らは命はとらない むしろ絶対に死なせてくれない 自殺だけは憐れんでくれるが 社会的に抹殺された死体がころがってる ああはなりたくない みんなそうおもってる だから逃げている なのにたたかってるような口ぶりをする ほんとうにみすぼらしいとおもう でもそんなこといってもいじめられるだけだ 奴らに正当性をあたえてはならない 奴らはつねに正当なのだ 正当性を独占しているのだ だれが正当性のヘゲモニーをにぎるか、というゲームなのだ ぼくはそのゲームからおりる とて���そんなことやってられない ぼくにはもっと大事なものがある すっかり思い出せなくなっているが もうずっと忘れていたが きっとそれはまだある あるはずだ こんなゲームより大事なものが じゃなければ、もう、生きているかいはない そうかもしれない でも ぼくには無理だ ぼくは無だ 有になることをあきらめるしかない 無をつきつめて無になりきる 有のふりをして生きたふりをするより、そのほうがまだ 死んだ ふりができるようなきがするから
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感想 めだか
愚痴愚痴
🔴ホリデー おまえはなにがしたいの? 黒人差別に反対するのは当たり前のことじゃん。なんで難癖つけたがるのか、わからないよ。
🔵ヌマケン 難癖か……。そう受け取られるとしても、難癖つけたいのさ。こないだまで別の次元にいて、いきなりこんな次元にきて、声を上げることが意味なんだ、といって他人に脅迫してくるからだ。ぼくは、こういうやり方には反対だ。
🔴ホリデー 抽象的でよくわからないな。具体的に、「人種差別に反対だ」という声を上げることの、なにがだめなんだい。それがいえないってのは、あなたが人種差別主義者か、自分の特権を失いたくないか、どっちかじゃないの?
🔵ヌマケン 冗談じゃないよ。なんだってそんな次元の物言いを簡単にできるんだ。だいたい人種差別主義って、なんなんだい。ぼくがいま差別反対に声を上げなければ、人種差別主義者に認定されるってのは、いったいどういう理路を通ってそうなるのかい。ぼくが特権とかいうものをもっているかいないか、なんで君にわかるんだい。そして特権をもっているということを信じたとして、なんで声を上げなければ失うことを恐れてるといえるのかい。 あまりにも乱暴で、脅迫的で、人間性にたいする挑戦をしてるように感じるよ。君たちは、まったくでたらめだ。なにが特権だ、ふざけるな。君たちにいったいなにがわかるんだ。そんなこといわれる筋合い、まるでないじゃないか。
🔴ホリデー おいおい、怒らないでくださいよ、ちょっと。まあ、問題はアメリカの黒人差別の問題じゃないか。警官が黒人を殺したんだ。こんなこと、許されるわけないだろう? だったらいまこの時に連帯の声を上げる、なんの不思議もないよ。 それに特権というのはさ、俺たちはそんな差別を受けないだろう? じゃあ恵まれてるじゃないか。日本人で、苦労しないで生きてこれてるんだよ。だから、自分たちは、差別されている人たちにたいして、この差別をなくすために、声を上げるべきなんだ。責任だよ、それは。わからないのかな、こんな単純なことが。
🔵ヌマケン 君のようなすっとこどっこいが偉そうに他人に説教するような時代が来てしまったことが、ぼくは不愉快でならないんだよ。 警官が不正義をはたらいていることに抗議したいならすればいい。黒人差別に反対なら反対すればいい。そのことと、君が偉そうに他人に説教する権利があるかどうかは別問題だ。もちろん、他人に説教したいならする自由が君にはある。ただぼくは、それに反発する。君のような者に、なにが正しくてなにが正しくないかを押し付けられるいわれはまったくない。 ぼくは日本人だ。日本人であることを自分で選んだわけでも選ばなかったわけでもなく、生まれたときからなにも考えずにただ日本で生まれ、育った。それが相対的に、幸福であったということもいえばいえるだろう。ではその「相対性」というのは、なんだ? 君たちは「黒人差別」が問題だという。そういう問題があることは事実だとおもう。そしてこの問題に、自分から積極的に関わらない者がいることも、当然の事実である。 さて問題は、君たちが、この「黒人差別という問題」に関わろうとしない、声を上げようとしない者は、”差別の共犯だ”といっている点にある。君たちは、いったいいつから、神様ほどの権威を手にしたんだろう? いつから、もの言わぬ他人に対して、「差別の共犯」という”罪業”を宣言できる司祭階級に成り上がったのだろう? 冤罪をでっちあげる者は罪人である。沈黙を許さないという君たちのやりかたは、ほんとうはなんの正当性もない。SNSで急拡散し、世界でいっせいに”連帯”を表明しはじめ、そしてひと月前にはそんなことひとことも云ってなかったくせして「黒人差別に反対」「沈黙は共犯」だのといってのける。最初の犠牲者が不幸であったかどうか、警官が悪であるかないかが問題なのではない。君たちの、あまりに軽薄で、あまりに性急な運動、拡散、そしてひとりひとり声を上げ、沈黙を許さないという”圧力”のメカニズムは、全体主義やファシズムと瓜二つの裏っ返しである。君たちに、他人の沈黙を判定し、差別感情の有無を断定するような”特権”など存在しない。
🔴ホリデー おまえになにがわかるんだよ。おまえだってなにも知らない、わからない野郎だろう? 偉そうなのはそっちのほうじゃん。つまんないなあ。
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