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野口の練習
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sinspost · 5 years ago
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ジャズピアニストのセロニアス・モンクの「underground」というアルバム
ジャズピアニストのセロニアス・モンクの「underground」というアルバムのジャケットには、まずは地下室らしき暗い部屋、ホコリっぽいアップライトピアノ、ワインが何本かと、飲みかけのワインとグラスが鍵盤の端っこに、座ってピアノを引きながらタバコを吸い、独特のモンク帽を被っている人物はセロニアス・モンクだろう。とても長い銃を持っている。左前には果物とグラスに飲み物(ピアノに置かれているワインの色とは違う)、手榴弾、傍聴機(?)、左後ろには敵、しかもある程度高官ぽい歳の取り方をしたおじさんが制服を着て縛られている。後ろにはナチス��旗が垂れ下がっている。一番後ろに女性がモンクの三分の一ぐらいの銃を持ちながらこっちを見ている。入り口の扉はチューリップ(?)のステンドグラスがはめ込まれている。
このアルバムがモンクの最後のオリジナルアルバムということになるらしい。ジャケットとしては、やはりナチス的な何かのレジスタンス、抵抗運動を、いささか子っぽい形ではあるが、表現しているのだろう。このアルバムの三曲目、「Raise Four」では、ピアノのテーマの部分が同じフレーズを繰り返すというもの。周りがちゃんとしているだけにとても不思議に聞こえるし、駄々っ子みたいにも聞こえるし、笑けてしまうというか。そういえばモンクが、モンクのためのビックバンドを従えて演奏してるレコードでも、モンクはビックバンドのビックバンドらしい演奏から変にあぶれるようなピアノを弾いていた。ビックバンドの演奏を均整の取れた、と言っていいのかはわからないけれど、少なくともみんなで目指すハーモーニみたいなのはあるとして、モンクは自由に、というよりも、その場につい紛れ込んじゃってどうしよう、でも鳴らしとくしかない、みたいな風に弾いていた。とんでもない場所に着て、場違いな感じ、それがとてもおもしろい。
つい先月、先々月ぐらいまで、確実に存在したと思われる、唐田えりかという女優がいる。彼女がすごいなと思ったのは、『寝ても覚めても』ももちろんすごいが、何とってもソニー損保のCMだろう。透明感、透明感と言われているが、あれは透明感というものではない。CMでキャストが、エキストラからおそらくスタッフまで、CMの枠組みをキッチリと作っているのだが、その中で唐田さんのふるまい、声のトーン、表情のテンションが全然違い、ものすごく浮きまくっているように見える。一番すごいのは、人々に元気と勇気を与え続けている女性ハーモニーボーカルグループ、Little Glee Monsterと共演したCMだ。全力投球でハモり、自分にこの仕事を与えてくれてありがとうございます、私たちめちゃくちゃ頑張ってますよ!ということがものすごく伝わってくる音楽をバックに、唐田さんは「(保険料は)はしるぶんだけ!」とすごく自由に、というよりも、CMのやる気に満ちた現場の雰囲気に飲まれることなく、自分のやりたいテンションを維持しながらやりたいことをやっている。もしかして何も考えてないのか?と思った時もあるが、多分そんなことはない。これは、モンクに通じる何かなのではないか?まさかレジスタンスとか、そんなこと��考えている訳ではないだろうが…。
ともかく、モンクの場合、ある種場違いな自分のピアノを何らかのレジスタンスとして捉えていったのだろうか。周りの雰囲気を受け取らず、別に無茶苦茶をするつもりもないが、弾かないと��ろは弾かず、ボイコットする時はし、発展させない時は発展させず、周りにちょっかいをかけるように変な音を加えて変なハーモニーにしたり、弾くときはアホみたいに、過剰なほど弾くなど。このような身振り、振る舞いをモンクは最終的に「underground」にした。
そもそもの話だが、音楽に歴史があるとして、連綿と続くものがあるとして、技術的なことや組織的なものや派閥やジャンルが形成されているとして、それは別に悪いことではなく、そういうものがないと、メチャクチャだとお互いのコミュニケーション自体がとれずに、バベルの塔の伝説のように、全ての人が別々の言葉をしゃべりだすと機能不全になってしまう、その反面、全ての人はどうしても別々の言葉をしゃべるしかないようなものでもあるのだが。とにかく、同じ語彙、同じ枠組み、同じパフォーマンスを共有して何かを構築していくという人間の営為において、音楽はかなり手っ取り早い方だし、そこには何かしらの熟練さがある人が優位であることは間違いない。優位というのは、意識的なコミュニケーションのカードが多くなる、という程度の話だが。といっても、そこで僕は、何か人には自分の中でこれは言わなければいけない、ということがあるということを言いたいわけではない。「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」問題が発生する時とはどんな時だろう。例えば、職場で、パソコンでの文字起こしを生業にしている人が、昨今の色々な事情で、会社に来れない時、「テレワークが可能なのは原理的に可能なのはわかるが、あなたはアルバイトなので、テレワークではなく、休んでくれ」と上司に言われた時、何とかテレワークをさせるように他の上司に働きかける行動、これは「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」という状況に当てはまると思う。仕事に関すること、生活に関すること、人権に関すること、何か存亡に関することに、「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」ことが起こる。これを音楽に敷衍させると、自分の中のエゴみたいなものと同一視されてしまうことがあるが、ちょっと違う、ということを見極めないと、音楽の中でうまくコミュニケーションができないことがあるかもしれない。この中で僕が、「うまくコミュニケーションができない」というのは、例えば、誰か一人ものすごい仕切り屋がいて、プレイヤーに色々指示を出しまくり、他のプレイヤーからの発言はしづらい雰囲気を醸し出す、とか、そういう状況も含まれる。つまり、各々が別の言語をしゃべらざるを得ない性質があるのと、「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」という状態には、あまり相関関係がない、ということだ。
みんなと何か一つの枠組みを持った曲をとりあえずやってみて、それぞれのメンバーの気持ちや体調や環境を反映させた身振りとしての音を聴きながら、それに反応して乗っかって行き、ドライブする時にはドライブし、音を出す必要がない時は待ち、できた間を尊重し、動き出したらそれに乗ってみたり、でもあえて全然違うことをしてみたり、友達の家に泊まったら朝になってて、車で駅まで送ってくれる、まさにその車に乗っている時に、空を見上げるとものすごくいい天気でものすごくいい青空、このまま三浦半島の城ヶ崎まで行きたいな。「あ、行きます⤴️?」本当ですか?本当に三浦大根ばかりが一面を覆っていたその三浦の丘を越えると、岩礁がどこまでも海に突き出している城ヶ島にたどり着き、10メートルはある岩礁には波のためのスロープがあり、そこをガンガン登ってきて僕たちの足元で弾けるその波の動きは、テレビで見た火山の溶岩の動きと全く同じで、私たちは地球(ガイヤ)に住んでいる、というのを確信したし、そこの漁港の前の定食屋で食べたマグロ定食がものすごい厚切りでびっくりするほどおいしかった。友達の分は僕が払って、それをここまでの交通費ということにした。win-win。
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sinspost · 5 years ago
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パラクシュ
ヒーヒーヒー、フーフー、チェケ、S・N、人民に話しかける。出会った人、中のいい人、もう会わ��い人、もうなかなか会わない人、もうなかなか会わないけどなんかいいなあと思ってた人、なんかいいなあと思ってたけどもう連絡が取れない人、なんかいいなあと思いながら一緒になれない人、それでもうすでに会えないリミットが迫り、もう会わない人、いつの日か会える人、に話しかける。生きる/意味とは?
生きる=意味?ご飯を食べる、メシを食う、メシを食うためのシステムとしてこの世では最大の効率でメシ代を稼ぐことができる、工場というものがあり、オールフォワンワンフォーオールワンチーム、それぞれが部品となり手となり足となり、工場の総体を実現してるワンワンチームフォーオールオールオール徹夜でオールしてラジオ聞いて、昔は試験今は文字起こしのバイト、昼間は会社フォーオール。
生きる=意味なし?生きることを受け止める時にメシを食うためにシステムを介する必要もなく昔はなかったじゃないかということを、はるか昔のそれこそ原始の時代の、オノ持ってなんがデカいもの追ってた時の私たちのことを想定してみて、それは特別なことでも特段何も、そもそも昔とかじゃなくてもその昔のカラダが今もここにあっておのおのに実はあってそのカラダの声聞いてるとそこに昔とかじゃなく今、その昔だと思ってたものがあって例えば声も出るし望むなら歌を歌ったり端的にダッシュしたりできることに意味もなく、意味もなく楽しく、カラダがカラダだけとして一つのイキイキのセンターを形成してる、システムという意味論から抜け落ちたセルフエンジョイトメントが逆に今は人を蝕み今はマスクをしなければ死ぬらしい。
生きる(スラッシュ)意味、生きると意味は切り離して考える、ことが今はできず、そしてこれからも意味に取り憑かれ生きる、という傾向が、益々、迫っているような、生きるための行動パターンが、何者かと結託し、「来るならば ひとりの人間が来るならば、 ひとりの人間がこの世に来るならば、今日、 太祖の 光の髭をたくわえてーかれはおそらく、 かれはこの 時代について 語ろうとして、かれはおそらく ただ訳のわからぬことを呟き 呟くだろう 絶え-、絶え- ずず。 (「パラクシュパラクシュ」)」。
https://twitter.com/i/status/1156736746756816896
何者でもなく、何者でもいられず、何者でもいられないことの中を漂いながら、そのことに誇りを持ち、誰のいうことも聞かず、ただカラダのことに従い、それは魂的な何かに通じるものをキャッチし続け、そこから世界を見る、何者でもなく、なんの意味もなく、意味は勝手であるし、本は読んだそばから忘れてしまう、読めてないんです、読んだことないんです、読んでいることの充実しかなくて、内容はいいんです、なんで内容を説明しなくてはいけないんですか?今はマスクをしなければ死ぬらしい。「『友達』という最後のシャブを奪われて」、か。ヒーヒー。
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sinspost · 5 years ago
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近頃は頭が重く
近頃は頭が重く、コーヒーを飲むが、しばらくするとボーッとしていき、異質な成分が体の中を回っていき、それが精��に影響していく、危険な薬の回り方というのは、まさに体の中を物理的にその成分が回っている、水を飲めば胃の中に水の中に溜まることがわかる、とものすごく辛い担々麺を食べた後にそんな経験をすることがあるが、それと同じように物理的に体の中で何者かが回り、何らかの作用をする、それを今コーヒーで感じている。
 むしろ何か仕事がある日の方が体はスッキリしていて、休みの日はとりあえず古書市に行き、本当に何も予定がないと、その流れでレコードを見て、パトロールというわけにもいかず、何かを買わない訳にも行かず、何かとんでもない、本当にやらなければいけないことがあるような気がしているのだけれど、それにはいつまでも、いつまでも手をつけられず、自分がなくなり、敬愛すべきカメラマンの影響からか、自分を装置として世界を入れていくという生き方への憧れからか、エゴがないということをある種実践していこうと思って生きていた末に自分がなくなり、自分がどういう人なのかわからなくなり、自分がどういう人なのかわからない人は他人のこともわからない、と言ってる人がいるよ、と友達にわざわざ教えてもらい、その友達の友達は大抵ポパイやブルータスなどを読み、あるいは出演したりして、さぞかし自分のことを知っているし、ガンガン売り込みして、さぞかし充実した暮らしをしているのだろう。一体誰がそんなことを言ってるんだろうか。古本屋の軒先で、均一の雑誌を見ながら、ポパイをめくり、なるほど、京都という街はこうなっているのかと、とても勉強になり、勉強している場合ではなく、この中にもしかしたら自分のこと、この場合つまり私のことを知ってる人がいると思うと、こいつか、こいつか、と疑ってみたりして時間が経つ。休日の過ごし方がわからない。
 大学に入ってから思想や批評に興味を持ち、憧れがありながら、作品をあんなに貪欲に鑑賞することもできず、金も時間も気力もなく、なかなかそういうことができずにいます。でも大事なのは文体だよ、どういう言葉を書くかなんだよ、誰でもできるような文章を書くのはつまらない。何をテーマに書いていようが、生きた言葉じゃないと、文章を書く意義がないでしょ。めちゃくちゃでも、ちゃんと生きていて、そこに文体がある、っていう文章を読みたい。ああ、そうなんですか、それでいいんですか!なんだかすごくやる気が出てきました!…それでまぁとりあえずなんでも書いてみる、というところも一つありまして、書き散らかして、瞬発力や対応力をつけて、こう見えてこの文章にもハサミを入れて、この間バンドの練習をしにスタジオに入ったらいきなりシーケンサーが入って、僕はドラムなんだけれど、いきなりもうすでにリズムが用意されていて、人力のバンドがそうなるともうガラッと変わって、どうしようか、と個々で対応を迫られたのだが、そこでの対応は今までの生活についての知恵や受けつないだ自分の中の文明���なものが身体に染み込んで、気持ちがいい方向に向かい、なんとかなった、むしろリズムキープしなくていいので楽だな、と思うようにまでなった。
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sinspost · 5 years ago
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何が原因なのか
何が原因なのか、仕事などの都合なのか、ライフスタイルの何かなのか、まぁしかし自分の怠惰なだけなのか、寝ることがとても好きなのか、何もせず、何にせよ文章を書くにせよ、新しい曲を作るにせよ、絵や写真を撮影して新しい新境地を開拓するにせよ、何もせずに、とりあえずコツコツと、自分のできることを、砂場に石を重ねていくようなことでも、チラシの裏の落書きでも、何かあった時にそれを素材にして何かをデッチ上げる、というようなことを、それこそジョイスだとかはそういうことをやってきて、とにかく立派なことをして来たんだろう。何かしらになる必要はないし、何もできなくてもいいのだが、「色々ごちゃごちゃ言ってるみたいですけどあなたの影響は全く受けていないし、それならこのそこで寝ている乞食の方が受けてるし、何ならめちゃくちゃメールのやり取りもしてまして、何ならめちゃくちゃいい感じなんですけども、これは踏み込むべきですか、どうでしょうか?」大都会に出て年々みすぼらしくなり、白髪も増え、仕事柄なのか顔にも野性味が溢れていく、だがそれでもオシャレを欠かさず、靴はこだわりの何かの靴しか履かず、他にもこだわりがあるらしく、金遣いは荒く、意味もなくセカンドハウスを持ち、相乗効果でどちらの家もみすぼらしくなり、なんなら別の地方都市にも家を持ち、沈没していくようにも一見見えるその彼は実際会ってみると実に余裕があるので、裏では色々ハラハラしたりはするのだが、目の前にして何もいう気にならない。同じ乞食でもやはり活力か。引越しをすることは活力の源か。場所を変え、仕事を変え、各地を飛び回り、自分を常に新鮮な状態にすることは活力か。最近毎日コツコツ系の、例えば全く喋ることができないどこかの喫茶店の従業員(渋谷のライオンではない)の日記とかを読んでいたり、小説と称した引用と感想まみれの作家のメモみたいなものを「カフカ的な瞬発性のあるテキスト」として提示したものを読んでいたりして、それはそれで雑で、雑に作るということが続けるコツなんだな、生きてるコツなんだな、雑に書き散らす、ということにしておいて、結果的に量産されるテクストというのが、結果的に息遣いに繋がっていくんだな、なんだかふてぶてしいな、ふてぶてしいけど毎日書くということ��リズムになってるな、しかしこんなふてぶてしくて恥ずかしくなる時はないのかな、それを超えたところで書いてるのかな。例えば様々な問題で世間を騒がせている悪名高き不良の巣窟であるライブハウスで例えばバンドの演奏をする時、楽器の色々なギミック(?)、僕��場合特にドラムを演奏している時に、ハイハットの音色を変えたり、スネアの音色を変えたり、小賢しい色々なギミックを使ったりすることがあるんだけども、そういうのって、自分が思うより2、3倍大げさにやらないと、録音を聞いた時、全くそのギミックが聞こえない。意図が実現せず、何てことなく音が流れていく、なんてことがあり、やっぱりこういうのっていうのは、大げさにやった方が、パフォーマティブにやった方が、もちろん自分の中の確信的な部分から出していることではあるのだけれど、自分の中の確信的な音の世界は自分の心臓の音の鼓動みたいなようなもので、めちゃくちゃ鼓動を感じるのは大切なんだろうけど、そこから、それを大事にするために「自分の感覚ではこれぐらいの音の大きさで…」というのが、バンドになると意外と邪魔になったりして、やっぱり集団でやるというのはコミュニケーションみたいなところもあるので、ある程度は自分の中では恥ずかしい感じの音ぐらいでやってる方が、結果的に意図が実現したりする(一人の演奏だったり、即興演奏になるとこの限りではないのかも)。毎日コツコツ系の、あえてとっちらかった、校正も半ば諦めたような雑な文章というのが、色々生活もあり、色々制約もある中で、むしろその場で最善を尽くせるという、しかも毎日続けることもできるという、そういう文体として現れている。それでいて結果的に、日常も本も色々取り込んだ複雑な文章として、ヒダのある文章になっている。とっちらかった文章が複雑なヒダを持つっていうのは、例えば半分ボケてる、本当は多分トボけてるような、小島信夫などを読んでる僕としては、やっぱりそういうこともあるか、と思うんだけど、それが普段のコツコツの、日記をつける、忙しい中で日記を続けるためのスキルと連動しているというのは意外だったけど、考えてみたら当たり前か。というのも、僕もとっちらかった文体で書いたりすることもあるけれど、それは締め切りなどがあり、締め切りという観念を自己催眠に使い、書くという、イタコみたいなことをしていたのであり、書いてる時はおもしろく、謎に予言的なこともあり、深層心理もそれは出てるんだろうし、なるほどシュルレアリスムの自動筆記というのは占いみたいな要素もあるんだろうな、という洞察も生む、このような書き方は身体的な負担もあり、日常的にやるのは健康になんとなく悪いんじゃないかな、夢日記みたいで、まぁ求められればやるけど、みたいなことを思っていたんだけど、とっちらかりの文章を、日々文章を続けるためのある種の知恵というかスキルとして書く、ということならば、それの方がいいかもしれない。
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sinspost · 6 years ago
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伝説的雑誌を見つけました
 いざ休みとなると、起きられないことも多いのですが、今日は9時半に起きて、まぁ、遅めではありますが、今日は近くで古本の即売会がありまして、チャリでいける距離にありまして、行ってきまして、雑誌を買いに行きました。
 ・『海』1984年4月号
 誰が言ったのか、『海』という伝説的な雑誌がある、ということで、最近東京にすみ始めて、古書の即売会に言ってみると、たまにある、10回に1度は見る、なかなか起きれなくて、古書会に行くことも減ってはいますが、今回『海』がたくさん並んでいました。
 ロベルト・ヴァルザーの特集が巻末にある号が『海』1984年4月号になっております。これを買いました。『海』というのは、カルロス=フエンテスの評論『セルバンテスまたは読みの批判』なんかを一挙掲載していたりするることがあり、ああ、なるほどこれは伝説かもしれない、と思ったりします。これも昔買いました。
 そのことを思い出すと、今、ヴァルザーの特集が巻末に入っている『海』も実はこの部屋に元々あるのではないかな、という気もしてきて、部屋をひっくり返して、服を畳んで適当に大きな袋に入れるけれども、部屋はきれいになるけれども、なかなか見つからない。
 でも、まぁ、ダブったとしても、ヴァルザーはなかなか知られていないスイスの作家で、友達に何か誕生日にでもあげればいいのか、こんな古い、しかも雑誌をあげて喜んでくれるのか、どうか、と思いながら買いました。
 思い出しながら思い出したんだけど、昔ドイツから帰ってきた絵描きがいて、巨大な絵を書きながら僕は当時始めて食べる鳥刺しを友達の家で振舞ってくれくれて、すごく感激したんだけれど、その人がどこかで僕の文章を読んだみたいなんだけれど、「すごく下手だな!」って言って喜んでくれて、ニヤニヤしてた。今もその人がくれた絵を持っているけど、玄関の外に置いています。
 誰しも何かしらのスタイルを選びとっていて、お前の人生はどこかでお前がこうなりたいと思った人生しか歩めず、こういう書き方をしたきっかけというか、エンジンがどこかにあるはずで、僕はもう、あまり覚えてないけれど、書くことで、書き方のきっかけなど、つかめればね。
 その『海』では、ある作家の『月光(がっこう)』っていう本の書評で「再生」っていう小説を取り上げていて、ある作家っていうのは、ぶっちゃけ、小島信夫ではあるんだけれど、書評が載っていて、まずそれを読んじゃった。雑誌というのは、狙った特集の他に、思わぬコンテンツがあるから、面白いよね。例えば、僕の友達の翻訳が載る、っていう雑誌を買ったら、石原慎太郎のインタビューがあったから、友達の翻訳を読む緊張からか、まずそっちを読みました。��もしろかったです。
 それで、その『海』では、「『歴史』=『物語』を凡庸化することによって不意の『事件』の出現を待ち続ける姿勢が徹底して貫かれている。書くことを何者かの再現であると考えることーーー 凡庸化への意思が本書にみなぎっている。」と書いてありました。「『再生』においては、森田草平の弟子であったらしい安藤芳流という人物の草平文学館でおこなわれたらしい談話のテープを紙上に再生しようとする。この談話自体が支離滅裂で一般的には退屈と呼ばれるような代物なのだが、ところが小島氏はそれを更に支離滅裂にしてしまう。すなわち、テープの声調を紙上で再現するために、いたるところにバーレンを挿入して、そこに(ここのところ強く発言)(かなり長い間)(不明)(本人の笑い)…と言った言葉を無数に書き込むのである。」僕も普段文字起こしをしながら生計を立てているので、ああ、この人も文字起こしをされていて…意外…と思いました。小説の中に文字起こしが入るのがイカすよね。まぁ…本当に文字起こししたのかな…文字起こしの雰囲気というか、文字起こしの作業をすることによって醸される文章の生理みたいなものを小説として導入したのか、そういうこともしそう。
 ところで、こうやって文字を写しているうちに、僕のパソコンがすこぶる調子が良くなって、僕がキーボードを打つ速度と同時に文字が出るようになりました!最近OSを更新してから、文字をスピードが遅くなったり、内臓のFANがグルグル回って熱くなっている音が聞こえてきたり、大丈夫か?最近アイフォン に買い換えて、毎日使っているんですけど、Bluetoothというものが使えるようになり、普段使いしていると、自分のノートパソコンとつながり、自分のノートパソコンの名前が〇〇~13と書いていたので、2013年の時に買ったパソコンだったんだな、だから今となっては多少の時代遅れもあるし、普段仕事場で使っている最新式のパソコンは早いし、ほら現にまた文字はかなり遅れて表示されてきてるけど、あ、大丈夫なんだな、と思い、その時はホッとしましたけど、やっぱりダメでした。「私は、読者には面倒だと知りながら、括弧の中に、ただの文字ではない、小説の場合の文字とは違うということを示そうと、註というか、解説というか、そういうものを入れた。それから、傍点を打ったりした。これは、もちろん強くストレスを置いて読まなければならない、ということを示すつもりだった。はじめ私はストレスを置くことを示すために、その部分はカタカナ書きにするなどと気楽なことをいった覚えがあるけれども、途中であきらめてしまい、そこへ、ストレスを置く意図とは別に、片仮名書きの言葉が入ってきた。」ちょっと飽きてきた、ってことですか…。
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sinspost · 7 years ago
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ハード
ハードディスクが終わったかと思ってたらなんとか大丈夫みたいで、俺の音源や俺の友達の音源の友達がなくなったかと思ったらなんか大丈夫だったらみたいで、よかった。ついでにパソコンに保存させてもらって一回ちゃんと聞いてみたらやっぱりよく、よくもないんだけど、しっかり��イデアが生きていて、そこにしかない、ブレないものがあるというか、今がどこかブレ続けて、それでなんとか生きていけた、そうやって生きてきた、そうやって生きてきた時に、ブレない俺ら、俺たちがそこにまだなんか居て、それを目の当たりにして、なかなか怖い。怖いけど、こういうものは大事にしたいね。やっぱり最初に音楽やったとか、小説書いたとか、最初にやっぱ音楽がどうしても好きで、サークルに入ったとか、転学したとか、そういう思いっていうのは、そう思ってた時の事は裏切らないように、頑張っていきたいなって思いますよ。そういう音を聞きました。まぁ、それにしても、基本的にやる気のない音源で困るというか、そういうものばかりで、やる気のないことを、やる気をやる風にやり、やる気のないということを蔓延させる、という野望があって、そういうことを考えていたのを思い出しました。ウーン…。
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sinspost · 8 years ago
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2017/09
9月22日
魔の山勤務。
古本は
小沼純一の『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」』
『ローザ・ルクセンブルク選集』
ヤノーホ『カフカとの対話』
コルビジェ
加藤郁乎『俳の山なみ』
中井久夫編訳『現代ギリシャ詩選』
ユンガー『時代の壁ぎわ』など。ユンガーはこの前『砂時計の書』が面白かった。ここ何年か反近代に思いを馳せている。
など。
家に帰ってずっとウィキペディアでオーストリアの政治を眺める。ドイツ��東西に別れたのに、なぜオーストリアは大丈夫だったのか、など。ウィーンも分割統治されていたみたいだけど、オーストリアには結構粘りずよくて食えない人物が交渉に当たっていたみたい。その他、収容所のことなど。こんな時間になる。母から行政書士の資格をとったら、と言われる。本を送ってくれるみたい。友達がメガネと結婚して一戸建てに住んでいると聞く。おめでとう。ずっとソファーに座っていたら、日記を書くことを思いつく。
9月23日
昨日買ったユンガーの本に線引きがびっしりでショック。ヘルダーリンの全集3にも線引きを発見した。手塚さんのヘルダーリンの評伝の、晩年の、精神がおかしくなったとされる時代のところを読んだりした。Pallaksch ,Pallaksch と、はいかいいえかどちらの意味でもあるような言葉を作ってよく使っていた。これはツェランの詩にも出てくる。
昨日は鼻血が出てずっとぼーっとしていた。今日もその延長。ライブに誘われたので行く。毛玉のライブ、やっと観れた。二年越しのファン。想像よりずっとかわいい顔をしていた。キレもすごい。
9月25日
浅田彰『20世紀文化の臨界』
バロウズはビートから距離とってた変な老人、コクトーは後期ストラヴィンスキーのように反復と虚無からくるものがテーマ、ジュネは最後の20年は政治にかかわり、最後にパレスチナについての大著作って亡くなった、など初耳多くてびっくり。コクトー『占領下日記』も気になる。
机は部屋を広くするために壁にくっつけざるを得ない。風水は悪くなるが、北向きになんとなく体を向かわせることができる。しかし低い。
追悼文を書くことになってるみたいだけど、そもそも死んだ時にたまたま行った追悼会でみんなでタロットしてたのも、全共闘かコミューンみたいに一人ずつ追悼の念を表明するのも、たまたま友人に会い、「この店で飲もや」とその友達の行きつけのママのおねえちゃんの売り上げ貢献のために大量の追悼の人々を連れて行かされダシに使わされ、その店が閉まると、友達の店に向かわされ、冷房が聞いていなく、むしろ暖房きいてるんじゃないか、というぐらいの不快感から多田くんだけ連れて外の川辺で一休みした。その後友達とはオムライスを食べに行った。その時、午前6時。
昨日は素晴らしいライブだった。山登る約束をした。どこか行かないと煮詰まっている。
9月26日
なぜか引き入れられる、というのは気分のいいものではない。後輩も金返してくれないし、明日金払わないと水道代が止まる。
終始クサクサしながらストックホルムの社長のインタビューの文字起こしをする。なかなか面白かった。「私がチェンジ、チェンジと何回も言うのは…。」
浅田彰『20世紀文化の臨界』
キーファーってどんな感じだろう。作品がデカすぎてわらけてくる感じの人らしい。画像検索ではなかなか雰囲気が出ないが、これらが途方もなくデカいんだな、と横にいる人の小ささが分かる写真を見て、確かにこれはアホでしかないかも。なるほど。だからといって、相田みつおを僕に評価させようとするのはやめろ。あれは筆の先から言葉の選びまで媚びることしかしてなくて正直怖くなる。それに比べてキーファーはアホでおもしろい。
ピナバウシェって、岡崎さんの講義で見た人だっけ?この章だけほぼついていけない。ダンスは知らないこと多いな。
家に帰ったらシオラン『オマージュの試み』があった。この本は欲しかった。シオランの身近な人々を描写していく、というもので、シオランが人物を書いたら面白いだろうな、と思っていた。『歯医者の祈祷書』は占領下フランスの話らしい。そうだったのか…。占領下フランスがここ2年ぐらいの興味の源。
『オマージュの試み』ではフィッツジェラルドの『崩壊』が出てくるらしい。昔読んだなぁ、と思って本棚見てみるとなんと出てきた。なん年前に買った本だろう。シオランの訳者はあとがきでフィツジェラルドに厳しい。
9月28日
魔の山
なぜか知らないけれどものすごくだるい。昨日ドイツの養命酒として知られるイエガーマイスターを飲んだせいなのか、ずっとトロサーモンの動画を見ていたせいなのかわからない。
浜松町の写真のギャラリー。とても絵画的な写真を見た。旅の写真。福井の写真はとても暗い中波が密かに写っている。日本海の夜ってこんな感じだった。インドネシアの大河の水の波もきれいだった。どうも水に惹かれる傾向にあるらしい。埠頭の奥にはフジテレビが見えた。じゃああれがレインボーブリッチか。弁当を食べていると鳩が僕の周りを2周した。
モンゴル帝国の歴史。ペルシア人や契丹上がりの漢人など、ユーラシアン制覇したら規模が違う。国号「元」の事情も、モンゴルの国号を中国の慣例っぽく翻訳したものだった、など。
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sinspost · 8 years ago
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向こう(橋)
 この場所はスーって風が抜けて、不思議な感覚…。こういう日ならクーラーはいらないし、お腹を出してたら冷えそう。冷たいものばかり食べても、お腹壊しそう。むしろ熱いインスタント味噌汁でもいい、熱々の、しかし物質感のある液体を体の中に入れると、体の中というのは、口から食道、胃、腸、肛門まで管でして、人間の体は脳や心臓以前にあきらかにこの管からできている、その管に液体が通り、温まっていくのがわかる。チューバのような複雑な管楽器が、うまく空気を管の中に通すことと一緒で、管の中は繊細であろう。通り道を作ってあげることがコツだろう。夏は拾い食いのような感覚で野菜を買っては生でかじり、2リットルの麦茶を飲んでは買いしてるけど、夏の日差しの中ではあんまり持たないのでいつも自然とちょっとお腹壊し気味で必然的に去年よりも夏バテといえば夏バテに近いが、年々夏に対する感受性が強くなってきて、私は夏が好きだ。にわかにレコードオタクみたいになって、お金が増えた、給料が増えた、都会に出ることによって、役に立つのか立たないのかよくわからない変な仕事をしていても給料は増えたと思っていても生活はちっとも楽にはならず、部屋はレコードで埋まり、だってレコードの音っていいんだもん、実際回ってるし、そこに針を落としたらそこから実際音がなっているのをアンプリファイしてる仕組みだから、これは鳴ってる、モノが鳴る音だよ!って、ホント、僕は大学生の時は学校終わったら家に帰って山本精一率いる羅針盤かアルノルト・シェーンベルクの浄夜を聞きながらひたすら寝てた、寝すぎて二日経っていた、菓子屋のピーナッツチョコを食べながら寝てたから全然餓死感っていうか、飢餓感はなかったんだけど、さすがに三日目はやばい、三連休ずっと寝てた、ってなってさすがにカレー食べに行こうと外に出ると今まで見たことのないような大雪でホント、浄められていた、あの時とは聞く音源は違うけど、同じのもあるけど、レコードなんで、出会いが大事なので、思わぬものに出会ったりするので、この人がこれ!?なって、全部あの頃とりあえず興味のある、自分の箱みたいなものの情報は網羅している気になっても、びっくりするものがあるっていうのは、やっぱりどの世界にもあるじゃないですか、そういう世界に行きまして、具体的には100円で買ったモダンジャズカルテットのジョン=ルイスの『情景』っていうレコードを買って、大したことないだろう、と思って針を落としてみると、やっぱり素敵なもので、そっから、とりあえずレコードの棚を4箱買ったけどすぐ埋まって金がない。仕事が、今住んでる場所よりも一段と都会にあるのでレコ屋があり、出会う時にはめちゃくちゃ出会うので買っちゃう。グルダのやってるジャズとか、ウェーベルン全集とかね。CDやデータで聞いてた時には、これがあるのは知っていたけど、こんなもの、どうやらめちゃくちゃプレミア付いているみたいだし、どうせだいぶ後々になって聞けるかどうか、っていうその後々に僕たちは差しかかっているみたい。レコードを聞くようになって、音楽自体にまた興味が湧いてきて、よし、昔のものを掘り返してみよう、って思って昔のものは壊れたハードディスクの中に結構入っている、その音楽をイヤホンジャックに繋いで聞こうとすると、イヤホンジャックが壊れていてものすごくショックを受けた。僕は最近取材をするようになって、イヤホンで人の話を聞いてそれを文字起こしをするのが好きで、今日もそれをしようとしたのだけどできなくて、仕方ないから昔戯れに、オーディオインターフェースからUSBに接続して、そのフェースからアンプに繋いで音を出したっけ、それをやってみよう、と思って、ハードオフでクズみたいな一番かっこよくて導線もそれなりに便利な長さだったりする、そういうのを100円で買って聞いてみるとめちゃくちゃ音が良くて、もしかしたらレコードよりも良いかもしれなくて、今はマイルスの『オンザコーナー』を、データで聞き直しています。今聞いてるのはなんとビル・エヴァンスで、レコードでも買ったことがないんだけど、当時美大生だった女の子が、絵しか知らないから音楽は、��落た音楽はビル・エヴァンスしかなかったんだけど、かろうじてビル・エヴァンスだけは知っていて、とりあえずビル・エヴァンスだけはかけておこうってビル・エヴァンスをかけてくれて丁寧にお茶までいただいた。今日の仕事は120号ぐらいの立派な絵を3枚ぐらい保管庫へ届けるっていう仕事だったんだけど、別に絵心があるわけでもないけれど、美大生に対するなんとなくの憧れはあって、賢い大学のサークルに入って美大生の方の人々とつるみ、借りパクしたキーボードを貸したらパクられたまま東北の方に行ってしまったあの人は今どうしてるんだろう?…去る者は追わず、か。いつのまにか、訳も分からず去っていく人に対しては、去っていくその方法に対する評価なんかをした方がいいんだろうか?『自死という生き方』という本にまとめられた草稿を出して自殺していった須原一秀っていう人がいるらしく、でも概説を読んだだけだけど、どうも、ねえ、そもそも例に出している三島由紀夫も伊丹十三も、伊丹十三は黒沢清の映画で見たことがあって、それはそれでいいといえばいいんだけど、やっぱり僕はそんなにピンと来ないし、概要を知れば知るほど度量の狭さの典型みたいな人のように思えて僕はまだ追っかけていないのだけれど、僕が追いかけてる小島信夫が、彼が死んだときにその知らせを聞いて、「ハタ迷惑な!」って言ったみたいだけど、人はみんな唐突に死ぬとしてもそんな風に周到に死ぬ人は少なくて普通は何かしら事故のようにして死んでいく。空の青みを見続けて、梅雨がどんより立ち込めて雨がにっちもさっちもいかないような状態で布団にうずくまっていて、青臭い話かもしれないけど、カミュの『異邦人』のムルソーは「太陽が眩しかったから」人を殺すこともあるし、今ふと思い出したのは、ゴダールの『気狂いピエロ』のラストシーンで、かなりきれいな海辺で男がダイナマイトを巻きつけて座ってタバコの火をつけようとしたら引火してしまって、「ヤバいヤバい」っていってる内に爆発する、とかいう、ズーッと例えが高校生から大学生の背伸びした趣味みたいになっているけど、それはそういうもんで、免許を取り立ての友達が、「俺は今、2時だけど、今から、明日仕事だから自分の町まで帰らなくてはいけない。しかし俺は眠い。俺は一人ではもしかしたら死ぬかもしれない。おまえは明日何もないだろ。今日のことはお前が呼び出したようなところもあるんだから、助手席に乗って一緒についていてくれないか。」まぁ、仕方がない。まぁ、僕も乗ってて気づいたんだけれど、深夜のドライブっていうのは僕は結構好きで、あの独特の高揚感は、自分がどこまでもグングン行くのを夜が受け止めてくれるような気になるからか。僕自身、高速道路に、自分の運転で乗ったことがあって、教習所を抜け出してなんだけど、教官が「これちょっと横にハンドル切ったら、死ぬなぁ」って、今運転してるこの人も同じことを言って、めっちゃ嬉しそうな顔してる。世の中には持ってかれる人と持ってかれない人がいて、持ってかれる人は完全に持ってかれて、意味もなく消えてしまうこともある。気象とかで。やっぱり僕は実存とかエゴとか計画っていうのは嘘で、どちらかというと空間とか他者に親和性の強いであろう風水を信じるようになってきて、それが僕が例えば即興を考える上での今時点での回答に繋がっているところもあるんだけど、例えば、そういう即興のパフォーマンスの中で、ナルシシズムをどう扱うかについてある後輩と会話したことがある…んだけど、ラインの会話だったので消えてしまって、向こうも死んでしまったので、正確なことは何も言えないんだけれど、ナルシシズムを発揮する、ナルシシズムをうまくコントロールしてそれを技術にする、という千葉雅也っぽい話から、それは例えば即興の大御所、灰野敬二さんでも山本精一さんでもいいんですが、何かに没入する、音に没入する、音そのものになる、っていうのは、まず姿勢というか、構えから入って、次第にほんまものというか、シャレにならないところに行ってしまい、でも最終的に自分の身体の中に帰ってくる、というまでが、例えばナルシシズムの技術によって、つまりそれは心の操縦というようなちょっと胡散臭い話にまでなってしまうかもしれないけれど、パフォーマンスをする時にはどうしてもナルシシズム的な没入がないと、それは確かにナルシシズムでも、本物らしい音にはならない、まぁ、本物でなくてもいいんだけど、人間の活動というのは特にそういうものでもないし、でも、何かパフォーマンスをやる時にはそういうことが必要なんじゃないの、っていう話を振った記憶があり、あっちはシュールレアリスムの行為論で一席ぶっていた記憶がある。何を言っていたのかあんまり覚えていないが、パンジャマン・ペレというシュールレアリスムの人の中でも一番徹底してめちゃくちゃで、だからこそ未だに強度の強い、謎の残る、日本だと俳人の永田耕衣さんに通づるところのある散文書きがいるのだが、ペレもある種憑依によって書いているところもあるんだろうが、この本も手元になくて引用することができない。
 本当はあんまり関係ないっちゃ関係ないのかもしれないが、永田耕衣の俳句を引く。
 老懶や過剰ざくらもひざまづく
 老放尿抛物線の花見かな
 南無初湯即佚老は睾丸祭
 『耕衣造語俳句鈔』では、最初の句は「過剰ざくら」、真ん中の句は「老放尿」、最後の句は「睾丸祭」という、耕衣独自の造語である。老懶はロウランと読み、「年老いて物事をすることがおっくうであること」を意味する。佚老は「世を遁れた老人」というような意味であるが、全体的に、この意味不明さが意味不明なまま妙な説得力を持って、なんか分かってしまうところがペレと共通する気がして、ますます関係のない話をすると、最近AORのようなしっかりとした電気リズム隊の上でフニャフニャしている���ていうのがやばいんじゃないか、と思っていて、チェット・ベイカーの『キャンディ』というアルバムはすごくいい。高速道路を高速で走り抜けて、何も起こらないフラットな風で実はものすごく何事かが進行している様は孤独なところがあるが、そういう孤独が僕は大好きで、助手席に乗ることは特に悪い気はしない。そういう時のBGMはもちろんAOR。例えばモダンジャズの、ドルフィーをかけて運転している人の助手席に乗ったことがあるが、小さな車体でめちゃくちゃな速度で運転するものだから、車が浮くかと思った。次に会った時は内田光子のフランツ・リストをかけながら運転していて、それはそれで細い神経に触れる、過激なものだったが、それを貸してくれたそいつの不倫相手に俺はコートを取られ、君の羽織ってるものは僕のコートだから返してくれと言っても聞く耳を持たない。酔ってるんだな。「これはやっぱり、どう考えても…ぼくのコートだわ。しっかり目が覚めれば、分かるだろう。これは僕のコートだからね?今、君は酔ってるから、分かってないのかもしれないけれど、これは僕の、新品のコートで、確実に、僕のコートなんで、君のやっていることは泥棒だからね?こればっかりは、僕のコートなんです。本当に。いいね?」剥ぎ取ったらやっぱすごい顔しだしたけど、そんな顔されても困る。これは僕の、しかも新品のコートで、泥棒されては困る。酔っ払っていようがこれは立派な泥棒で、人のものを着たまま返さないというのは、どんな理由があってもあってはいけない。それは立派な泥棒なのだ。僕も泥棒せずに、ちゃんと正統な手続きを踏んで、レコードを買っている。俺はそれで万年金がなくても、幸せなんだ。泥棒は良くない。でも、今度蚤の市でレコード売ります。さすがに。8月19日(土)、20日(日)は東京の大井競馬場で、待ってます。青い空がどこまでも伸びて、梅雨の時期が嘘みたいに晴れ、今年の梅雨の時期の雨はずっと降り続き、もってかれた人もいれば、もってかれなかった人もいる。そのような危ういバランスで、そもそも僕たちは生きているんだな、とこの頃よく思うし、不安定さの危険さを思うともう手放しで、「不安定さゆえに良い」っていうことも言えないかもしれない。憑依をいくら方法論として構築しても、いつも帰ってこれるとは限らないのだ。橋を渡った先、門の外を踏み出すといつも分からない。
岡田さんは素足に草履をはいて、モンペ姿でどんどん歩いて行き立ち止まると、私どもをあつめて指さした。
「ここに日光橋、月光(がっこう)橋というのがあるでしょう。写真の場所はここです」
 小川が流れ、ささやかな石の橋が二つあった。
「こんな名のついた橋はどこかで見たことがあるでしょう。正月の元旦に天香さんが白装束で笠をかぶり草履をはき杖をついてこの二つの橋を渡られるのを、一同が見送ることになっています。これが終わってから初めて新年となるのです」
「病気になられてからは、中断しているのでしょう」
と婦人記者がきいた。
「そうですね。でもポツポツこの正月には、なされると思います。そのとき、天香さんは、お別れのあいさつをなさり、『それでは皆さん、私はこれから行くから』とおっしゃるのです。すると、われわれは『いってお出でなさいませ』といいます。それで天香さんは杖をついて橋を二つお渡りになります。それから、『皆さん私は帰ってきました』とおっしゃる。そうすると、われわれは、『よくお帰り下さいました』と申すのです」(中略)
「実はさっきの石橋をお渡りになる儀式のことですが。あれはただの儀式というわけではないのです。天香さんは、旅立ちをなされてそのまま行ってしまわれるかもしれないのです。われわれは毎回緊張してそのつもりになっているのですから、そこのところが肝腎なのです。」
「行っておしまいになるというのは、どういうことですか、タトエ話ですか」
「タトエ話?」
「お出かけになってそして、お帰りになるということは、タトエ話だということはよく分かりますが、そのままお戻りにならぬ、ということは、どういうことですか」
「どういうことって? その通りのことです」
と岡田さんはケゲンな顔つきをした。
「よく分かりました」
と私は言った。
(小島信夫「月光」)
 私はその頃、家内が入院していて、誰でも一生に一度か二度経験することを経験しつつあった。それでくどくなるけれども、雑踏の往来を歩きながら、やたらに声をかけたくなるようなことに類する気持をいだいていた。私は一燈園の訪問をモデルにして、こんなふうに小説にすることを思いついた。ここでは、天香さんに当る老齢である上に十分に病気から恢復していない教祖の独白のかたちをとることになっていた。私は彼が、日光、月光の石橋を渡って、ひそかに放浪の旅に出ようとして、杖をついて高速道路を渡るか、あるいはそのあたりのところまでやってくるというふうに書いた。もちろん、これは独白であるから、歩きながら眼にうつるものを口にするのである。彼は、岡田氏が語ったように、彼がほんとに旅に出て野垂死にしたり、もう一度赤子のように泣くことの期待をもっているべきだということを、自分がいい、同志たち、外からの私のような訪問者にも語るということを心得ている。それは元旦の儀式である。それは再生の儀式である。それは昔からある農耕の儀式を取り入れたものであるけれども、彼はある年のくれ、成功した。「新しき村」を出てふいに旅に出る。一燈園の西田天香は、それから五、六年生きられて園内で同志にとりかこまれて大往生をとげた。私は今では、「十字街頭」のようにすべきではなくて、ほんとうの天香さんのようにあるべきではないかと思うようにもなっている。しかし、西田天香のような経歴の人が、自分の口から、「帰ってこないかもしれないよ」とか、「帰ってこないことがあることが建前である」と、この儀式を開始するに当たっていったとしたら、ほんとうに、いつかは、ふいいに、夜陰にまぎれて姿を消すか、あるいは、みんなが見守っているなかを、二つの石橋を渡り終えるか、あるいは渡る��とをせずに、真直ぐにあの夫妻の銅像の立っている広場をつききって出かけようとしたこともあったのではないかと思う。
 そのとき、同志たちは、とめようとするであろう、しかし、どこまでもとめつづけることが果たして出来るであろうか。また彼らは、あとをつけて、彼が倒れたり、あるいは何かその身に異変が起こったとき、救急車をよんで連れもどすことをすることが許されるであろうか。
(同上)
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sinspost · 10 years ago
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スケジュール
◯シャラポア野口
3/6 (日)
京都吉田東通り(岡崎、京大や平安神宮の裏あたり) タコとケンタロー
江沢野々海くんとやります。7時ぐらいから、投げ銭。五、六年ぐらいの付き合いだけれど、初めてやりますね。どうしたんだろう。心境の変化?とりあえず、変わることはいいことだ!僕は嬉しいです〜!
☆関東ツアー☆☆☆ほんま楽しみっす〜〜
3/12(土)
「”シャラポア野口とジョギング振興委員会” 関東ツアー初日」
「ゴールデンタウンミーティング」
共演:アニス&ラカンカ (mmm+見汐麻衣)、井手健介、トンチ <DJ> illojillo
開場:18:00 / 開演:18:30 ■料金:予約 2,000円+1drink (500円) / 当日 2,500円+1drink (500円) 【ツアー2日目 (3/13 幡ヶ谷 FORESTLIMIT) の500円引き券付】
3/13(日)
「”シャラポア野口とジョギング振興委員会” 関東ツアー」
「ノーブフト」 at 幡ヶ谷FORESTLIMIT 開場・開演: 18:30 料金:予約 2,300円+1d 当日 2,500円+1d 【学生・22歳以下 500円引(要身分証)】 live: シャラポア野口とジョギング振興委員会 KIRIHITO 秋山徹次+中尾勘二+山本達久 DJ: illojillo
マジですかこれ。みなさん普通にファンなのでびっくりします。精一さんに「修行やな」っていわれました。受験前に勉強せずにめちゃくちゃ引きこもって寝てたことを思い出しました。前後10~14日まで東京で古本とか買いに行こうと思うので誰か飲みに行きましょう!!
3/20
京都浄土寺 軽食みなみ
☆隔月シャラとん企画☆(屯風のとん平さんと企画しています。)
屯風亭とん平
悶亭乳尊
童亭独歩
シャラポアソロ
7時から投げ銭やります!なんと豪華な…。童亭さんは学生チャンピョンとか!悶亭乳尊は言わずもがなですよね!当日はありちゃんの弁当もあるみたいなので、ぜひご飯を!
◯風の又サニー
3/21(月祝) 
『ゆすらごの大パノラマ』 
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 京都 紫明会館 3F
出演
風の又サニー
トンチトリオ
ゆうき (オオルタイチ+ウタモ)
シャラズルタラリ(ゑでぃ+まぁこん+元山ツトム)
Gofishトリオ
MOON FACE BOYS (トリオ編成)
前売3000円/当日3500円(中学生以下:前売1500円/当日2000円) 
13:00開場/14:00開演
出店:喫茶ゆすらご、33珈琲
ご予約、お問合せ:喫茶ゆすらご 迄
TEL:075-201-9461moyashirecords [at] yahoo co jp
今年のハイライトきましたよね。これですよ!おもしろい!楽しい楽しい!頑張るよ〜〜!!みんなで飲みましょう!
そして、この日は、風の又サニーのセカンドアルバムの先行発売の日になるそうです!やった〜〜!!数秘術でいうと今年は2016で2+0+1+6つまり9の数字、つまり今年は急激にまとめの年っぽく何かいっぱいまとまるって今日喫茶店で聞きました!僕は黙って白い濁り酒をあおりました!
その他いろん���展開があるかも…!三月の後半もなんかやりますー!
あと雑誌とか…。今年はがんばります!いい人がこんなにいるから、雑誌とか、ほんとできる!がんばる!いくいく!
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sinspost · 10 years ago
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(去年の大晦日のこと)
御機嫌よう!年の瀬で、いろいろまとめに入るように思いが巡らされてしまう…。今年は元旦から、気を引き締めなければ、どう転ぶかわからない、ひどい年になるかもわからないし…大きな波が来るからね。……鴨川でインディアンのようなテントを建ててライブイベントをしようと思った…。瓦解する寸前のバンドで僕は出たんだが、それがうるさかったらしい、警察が来た。警察が来たと思えばヒップホッパーが来た。「なんかすっごくバビってるんですけれど、大丈夫ですか?」…って。…バビロンってのは警察のことらしい。面白いね。テントの布を今度は橋の下にかけて会場は橋の下の河川敷に移った…。大晦日になんでこんな寒い思いをしなければいけない…しかし育ちがいい学生上がりのグループと地元のヒップホッパーが一緒になって何事かが進行していった…。ドラムを石だらけの河原に設置して、火を焚く奴もいた。暖かかったが、どういう状況なのかわからない…。しまいには灯油を飲んでしまう奴が出る始末……。そんときにいきなり背後から抱きしめられた、「私、結婚するの!」へぇ!僕が5歳ぐらいから付き合いのある友達と結婚するというので、しかしよくわからない…。何もかもいっぺんに来すぎるんだ…。とりあえず電話をかけてみた。「どういうことだ?おまえら、付き合ってもいないだろ?」「……愛というのは秘密を抱えることなんだよ…」ほぉ。素晴らしいじゃないか。焚き火にあたり、もらってきた妙に塩辛い30センチほどある魚を煮込みながら思ったね!来年はこのままではいけない…波に飲まれてしまう…すべてやめちまって、新規まき直し…。
ってのが去年の大晦日で、今なんかいい感じで来てるので、よかった。来年も宜しくお願いします。
☆☆☆スケジュール
ジョギング振興委員会/シャラポア野口
◯12月26日(土)
ソロ 「一乗寺・失われた時間と百年の孤独」
星直樹(ロック自身)と出ます。投げ銭
この日はオープンは6時ぐらいかもしれないけれど、僕が来れるのが9時半とかなので、宜しくお願いします。
◯1月4日(月)
ジョギング振興委員会 「喫茶ゆすらご」
BRAZILさんと出ます。
18:00 open / 19:00 start1000円+1ドリンク
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ものすごくありがたい話だ。新年をこんな感じで迎えられるのがとても嬉しくて仕方がない。稲田さんには本年度いろいろお世話になりました。録音に、ライブのお誘いに…。遅刻したり、もろもろ、迷惑をかけましたが、明石のおいしい玉子焼(明石焼のことを明石ではそう呼ぶ)、ほんとうにおいしかったです。
◯1月24日(日)
ソロ「浄土寺喫茶みなみ」
屯風亭とん平さんと出ます。
とん平さんにはほんとによくしてくださってます。とんとんって僕みたいなんとイベントやらしてもらって嬉しいっすマジで。みんな空けといてよ〜。
<<来年の三月、東京行きます!>>やった〜!!
☆「すごい楽しみなお知らせ」☆
風の又サニー
◯12月24日(今日)
「梅田ハードレイン」(南森町のほうが近い)
ぐっとくるー
星のクズさまたち
福生 と出ます。
メンツがほとんど京都です。というか本日です。イブにライブすることが多い。5年ぐらい前にやってた、僕はノイズうんうん出しながら、他の人はミニマルにずんずんやって、最晩年は一曲15分、30分あったこともあったな、っていうハードな説教バンド(ノルマとかにめっちゃ怒ってた)、「ジャップカサイ」をやっていた時も、なんかイブに呼ばれたことがある。神戸のヘラバラウンジはステージの下が電灯で白く光る。すごくいいと思う。ドラムの男の子はそのまま夜の街へ消えていった…。来年はもうちょっと絡もうな。
◯12月30日
「京都丸太町ネガポジ」
初期のアンドヤング
ムーズムズ
とやります。光栄です。
◯12月31日
浄土寺の喫茶みなみで年越しふるまい鍋パーティをするみたいです。去年から今年にかけての年越しの反省をしてこの形になりました。年越し男、哲夫。
また、来年は風の又サニー、アルバム出します。今回は普通にレーベルから出します。すっごく嬉しい。僥倖。アルバム名は『風の魔人が来る』でほんとにいいのかな?いろいろ面白いです。録音は稲田誠さん、ジャケットはカネコユリナくんにとってもらって嬉しい。
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来年は新譜でることだし、ツアーがんがんしましょう、ということで意見がまとまってます。四月以降になるのかな?お待ちください。
文筆の活動
雑誌「アバズレ」絶��発売中です。600円。
東京はいろんなところで売ってるみたいですね。京都だと、十万トンアローントコ、浄土寺喫茶みなみ、恵文社一乗寺店で買えます。恵文社は残り2冊。もちろん僕からも買えます。ライブで売ります。東京の爆発寸前の空間の記事からおもしろいエッセーまで、普通にいい雑誌です。普通に面白いです。これからこういうのは重要になってくると思います。僕の小説も割と評判がいいです。なんか言ってください。
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雑誌「しんきろう」新しい号が出ます。
そこにまた小説を書いています。今回は一万四千字程度。登場人物の名前がたくさん出てくるので新機軸な感じがします。一般には、来年1月17日の恵文社一乗寺店の「恵文社文芸部」で、雑誌初お目見えすると思います。この日僕もいますので、是非声かけてください。もちろん、僕に言ってくれたら直接売ります。
来年はこれらとは別で、何個か雑誌を作るかもしれません。楽しみです。
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sinspost · 10 years ago
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なんでもないバッハ
 (いろいろ整理していると、昔書いた文章が出てきた。いろんな意味で、弔いの意味を込めて、投稿します。)
 私は京都に住んでいる。友達と待ち合わせる時は賀茂川と高野川の合流地点にある公園を利用することがある。公園と言っても河川敷である。川沿いにずーっと伸びている。その河川敷ではたくさんの人が音楽を練習する。トランペット、トロンボーン、スネア…、大きな音がなりそうなものだが、全然気にならない。川が音を吸収してくれているのだろうか。私が待ち合わせの合流地点に到着する時、友達のsさんはヴァイオリンでJ.S.バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾いたり、アイリッシュなフレーズを弾いていたりしていた。
友達を待つ間に弾くバッハとはどのようなものだろう。さりげないバッハ。なんでもないバッハ。
例えばこのようなバッハはどうだろうか。
グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう(「グレン・グールドふたたび」高橋悠治http://www.suigyu.com/sg0807.html#082015年1月9日閲覧)
 ピアノとピアノに向き合う自分とを想像してみる。音を出すことは、自分が音と関わることだ。つまり、自分が出す音は自分が音を出す態度、姿勢と関わり、その結果生まれるものだ。
 もちろん曲に左右されるようになるだろう。ショパンを聞くとその場が物語を醸し出してドラマが一本撮れる。ショパンの曲には人を感情に向かわせるような演劇性があるしそれでいい。バッハはどちらかというとこのような演劇性はなく、もっと客観的な、コンピューターのプログラムに近いのだろう。そのような性質をキャッチしたグールドは今までのものをアップデートするような形で、演奏の解凍度を上げ、それを録音にした。
 ここで起こっていることはなんだろう。自分と音とはどのような関係性でいられるのか。ショパンの音と自分では、自分が音に激情や悲しみを託すようなものだろうか。そのような時、主体は音の前で演技をしている。これも一つの表現である。グールドがキャッチしたバッハはどうだろうか。一音一音が一つのビットであり、それの総体として一幅の絵を出現させる、といったものであろうか。手振りではなく、算出。ここにおいて一つの客観的で普遍的なものが現れる。ここで自分とピアノは一つの計算機となって音楽の中に入り込む。
 ワーグナーやリストは恋愛がハデだった。それは音楽の演劇性とも通じるだろう。これらの人は音を演技に使い、時に誘惑させる。音を身振りとして使うのだ。時に自分のナルシシズムを発揮したり。音は時折自己演出の手段になる。そのような音は人に物語としての説得力を与える。時には人を支配してしまうこともあるだろう。実際にワーグナーはナチスで民族意識の高揚のために利用されたりもした。第二次大戦後、人間はなぜこんなことをしてしまうのか、などといった人間の実存の危機、文明への危機の中でグールドの登場は、やはり何かだったのだろう。音を手段ではなく、音そのもの、曲そのものになるというやり方は、演奏を通して一つの倫理を示しているのかもしれない。それはまるで、カントの定言命法のような。
すべての理性的存在者は、自分や他人を単に手段として扱ってはならず、 つねに同時に目的自体として扱わねばならない
 グールドの音への取り組みは、一音一音と対峙し、全体の目的へと奉仕させるものであった。ワーグナーが持続音などで音を効果的で演出的に使うのとは対照的だろう。ワーグナーは観客を積極的に度肝を抜かすのに対してグールドは曲を曲そのものとして純化させようとしている。音を手段ではなく目的自体として扱っている。グールド自身がが音自体になりそうなぐらいに。
 このような演奏家の出現は戦後の反省を経てそれでも表象活動をする、という人にとっての一つの清涼剤になったことは想像に難くない。そのようにして音と自分だけの世界の中で演奏したグールドのその様は異様である。よくモグラのようにと言われるが、もう本当にピアノと自分としか存在していないようであり、他者とコミュニケーションを取ろうとする気配が一切ない。身振りはピアノに対してしかアピールしていないので、少し滑稽であり、そこが魅力的ともいえる。これはもしかしたらギーク的なチャーミングなのか。
 *
 曲が一つの世界であり、それを全うさせるために音が一音一音あるとする。その音たちがそれぞれ良好な関係であれば一つの世界としての曲は完成されるとする。そのようなものとしてグールドは考え、その世界に倫理を打ち立て、音を純化させようとした。しかしその倫理はあまりにも曲のことで完結するあまり、曲の外のことに耐えられないように見える。音と音との関係をフルに生かそうとする姿勢だけでは、どこかミジメではないだろうか。実際グールドは絶頂期にライブを一切やめ、録音物だけに専念することになる。一つの世界を全うさせるエンジニアとしての活動がここから始まるのである。
 音を十全に管理することで一つの世界を作るという発想がある他に、こういう考え方もある。
 音のはやさを求めてゆく。からだの速度を上げてゆけばゆくほど、どんどん弦のスピードは遅くなってゆく。身体の限界ということではなく、いつだって音のはやさに、ヒトは追いつくことができない。音を出した瞬間、音自身、猛スピードで全方位をめざすわけで、そのことに、ヒトは当面呆然として、一寸の躊躇が生じる。フライングすれすれの音のスタート・ダッシュに対し、こちら側は何か強力な埋め合わせが必要となる。(「Improvised Music from Japan / 10-CD boxed set
山本精一コメント」http://www.japanimprov.com/boxset/commentsj/yamamoto.html 2015年1月9日閲覧)
 その場で出た、出てしまった音はもはや取り返しがつかない。その取り返しがつかない音について、自分はどのような態度、どのような姿勢で望むか。ここにもう一つの倫理を見ることができる。
 しかし本稿では、音と自分との斬り合いではなく、あの川辺で聞いたなんでもないバッハのことを考えたい。川辺のバッハは猛スピードで全方位をめざす、という風ではなくて、もっとさりげないものであった。もちろん「捉えようのない猛スピードの音」ととらえることもできるだろうけれど、それはどちらかというとミュージシャン同士の即興演奏のやり合い、あるいは観客とのやり合いに対する戦術から生まれた音の考え方のような気がする。
 あのなんでもないバッハ、川によく馴染んで、それでいてその人の営み、人生を感ようと思えば感じさせられるような、なんでもないバッハ、まるで手癖のような…。
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sinspost · 10 years ago
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光を眺めていると暖かい気がしてきて眺めつついつでも対応できるように身構えている。眺めようと思えばいつまでも眺められるものだが、眺めてみると目が痛くて耐えられない。照明なら、どのような形でも、だ。目にとって照明はつらい。直に脳に光が入り込むのは、病気のせいだろうか。いくぶんましになってきたような気もするが、この時間になると立つ気力がなくなる。虚脱感にぼうぜんとして座っていると、たくさんの照明を見ることになる。均等に並んだぼんぼりはキレいだ。ここはどういうところと言うのだろう。ぼんぼりをつないでいるのは灰色でネズミ色みたいな鉄筋で、思ったよりインダストリアル感が出ていて、その独特の心なさがクールだ。クールではあるが、モコモコしている風でもあり、それがお茶目というよりもアスベストを連想させて、昔のテレビを思い出す。昔はよくニュースに怒っていた。9・11とかびっくりした。イラク戦争では学校で大騒ぎになった。戦争は昼からスタートした。自分の学校では昼からの開戦だった。卓球部だった私はまともに部員として扱われないグループだったので、生徒会に立候補して会計になってオリンピックの体操をリアルタイムで見た。こうやって駆け足で中学校の思い出を振り返り、これがとりあえずの中学生の全てだ。しかし、基本的には照明は店を照らし、暖色系のいい感じの店をつくってくれるよう働き、その感じに僕は感動することもできる。
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sinspost · 10 years ago
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風邪がつらい。
風邪がつらい。今もすでに立てなくなろうとしている。友達が敷布団を奪った夜の翌日からの風邪だが、今日ここにきてひどくなっている。8時になる。幸いお客様はあまりいず、今日は祝日だったので、とてもたくさんの人々がいて、クレジットだけで七万こえてきているけれど、ここにきてお客さんはいない。どうしたのか。明日のことだろうか。明日は普通の日なのだ。昨日が人多かったのも、今日の日が祝日だったからなんだなぁと納得…。 
もうこんな日はやめたほうがいい。フラフラしてきたからだ。フラフラすると心も狭くなる。病人は心細く、不安を抱え生きている。そんなことは、そういう立場にならないとわからないなんて…。僕も忘れていたが、病気はよくない。本当に…。一刻も早く治すべきだ。病気であれば。病気になるとろくなことがない。これは本当だ。仕事にも支障が出る。頼まれた小説が二本あるのだけれどホントあせる。あせっても仕方ないことだ、病気はツラい…。店が店に見えず、人間が人間に見えにくい。照明がいつもよりキレいで不思議。この感覚を頼って何かをしたい。本当に幻想的でいい店だな。火事が多いけど…。
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sinspost · 10 years ago
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スケジュール(秋)
秋ですね。
風の又サニー東京スリーデイズ
1日目、10月23日(金)神保町視聴室
開場:18:30 / 開演:19:00 ■料金:予約 2,300円 (1ドリンク, スナック込)
「風の又サニー東京ツアー1日目」 
出演:風の又サニー (from京都)、ケバブジョンソン、臍藤シンタと葱のばらん、フジワラサトシ
2日目 10月24日(土) 世田谷カトリック教会
「風街ルルド」 12:00-17:30
 ¥2000/¥2500(内500円は南相馬市へ教会を通じて寄付になります) 
act クマに鈴 辻睦詞と中央電化ドクター 入江陽 scscs 風の又サニー(京都) オマールエビ
3日目 10月25日(日) 八丁堀七針
19:00/19:30 2000円 風の又サニー, 三村京子, 斉藤友秋
総決算的なツアーで身震いがします。宜しくお願いします。
ジョギング(俺と昆布さんのバンド)
11月7日(土)塚本エレバティ(大阪)
OPEN / START16:30/17:00 
ADV / DOOR前売当日共通\1500
『シャウトピアvol.3』zettaiレコ発記念
zettai / ザ・ルチャドールズ / モンゴリアンダイナマイツ / ザ・プレジデンツ / デマンダ / vivakappa / シャラポア野口 / 渡辺浩二
zettaiというのはすごい。おめでとうございます。
11月15日(日) 下鴨ユーゲ
中止になったみたいです
11月23日(月・祝) 木屋町アバンギルド
「にんげんのふりをする #6」
OPEN 19:00 / START 19:30 door.1500 yen + 1drink
quaeru yoji & his ghost band 折坂悠太 シャラポア野口とジョギング振興委員会
風の又サニーの今後
11月24日(火)大阪 北浜 雲州堂
《出演》
yoji & his ghost band(5人)
風の又サニー
カーテンズ
折坂悠太
投げ銭ライブ
12月30日 御所の近く ネガポジ
ムーズムズ、初期のアンドヤング
OPEN 18:00 / START 19:00
adv.1800 yen
door.2000 yen
すごい!楽しみです。
その他
11月14日 出町 いわゆるナミイタアレー地区
第二回シャラズケ(シャラポア野口とおちゃずけくん(占い師、呪い師))
ご飯を出します。
歌います。
お話を聞きます。 (シャラ袋という専用の袋に投げ銭)
cd売ってます。買ってください。
ジョギングのcdが出ました。一個800円。すごくよくとってもらいました。いつになくよくとってもらいました。セルフライナーも充実。ジャケットもいい。(検索してください。)
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sinspost · 10 years ago
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シャラポア通信2「作業的地平」(2015.8.6)
 そろそろ何か論考めいたものを書きたい。漠然としたテーマは決まっていて、「作業的地平」ということと、「限られた手持ち」、そしてその行動を発揮する「空間」の中のことについて書きたい。この中で何事が起こっているのか。
久しぶりに行った喫茶店にてマスターと喋った。「木造の楽器、例えばバイオリン族なんかは、女性の体のラインを模倣しているとして、男性を模倣して作られているのはチューバなんだな。」木造の楽器とチューバが絡み合っている絵があるということをなんとなく記憶に入れていたら、後日若い人たちがやっているバンド練習に参加した後、「マグリット展見に行きません?」と声をかけられたので行ってみた。
マグリットは、哲学的な作家と言われている。確かに枠を描き込んで内と外を表してみたり、体のパーツを入れ替えてみたり、いろいろやっていて、いろいろやっているという印象を受けた。題名も「ヘーゲルの休暇」だったり、「真理の探究」だったり、立派な哲学的なタイトルをつけていてそれはもう立派だった。傘の上にコップが乗っていて、背景がえんじ色だった。ある絵は窓から見える、道の向こう側の窓のある家を描いたもので、そのタイトルが「弁証法礼賛」だったので笑える。
こうしてさまざまな意図を持ってきて、人を驚かそうとしているようであるが、言葉、記号の操作感が強く、空虚さを感じる作品も多かった。ところで、絵を通じて「何かやっている」後ろには、青空があった。こうして展覧会として見てみるとやたらに青空を描いている人だということがわかる。違う操作を使い一生懸命「何かやっている」後ろで、何回も反復される青空は、ほとんど変わることがなく、きれいだと思う。マグリットは青空を描く作家だ。「何かやっている」空虚感が青空を引き立てて、とてもいい。青空はぽっかり空いていて、何もない。スカッとした。夏らしいと思う。
図書館に行くと、風濤社の叢書(シリーズ)「シュルレアリスムの本棚」が揃っていた(まだ四冊しか出ていないが)のでびっくりした。こういう新しいのも置くのね。友達が前勧めてくれたバンジャマン・ペレの短編集『サン=ジェルマン大通り一二五番地で』をやっと読めるのか、と思い、嬉しかった。
隣家の大時計が十一時半を知らせていた。何台かのタクシーがすました顔で通り過ぎ、ヒトコブラクダはまだ全員帰宅してはいない。遠くには潜水服を着た共和国大統領の姿があり、並んで歩くギリシャ王は、読み書きを教えたくなるほど年若く見えた。一人の若い高級娼婦(ヘタイラ)が彼らのあとにつきしたがって、かいがいしく世話をしている。雨と降る手袋が、十一月のすっぱい風にあおられていた。
すごい。何も繋がらないし、何も意味がない描写に見える。ただただ、言葉が言葉を呼んでいる風景がある。時計が鳴ったら、道端のタクシーが見えて、道を見たら帰宅を考えるものかもしれない。人が出てくるとしたら偉い人だろうし、偉い人には偉い人がついているものだ。その人が若かったら、読み書きを教えたくなるだろうし、それは比喩にも使える。なるほど。
解説もおもしろい。
もっとも純粋なシュルレアリストとして神話化され記号化されもしたペレに対し、その「実像」を取り戻してやればよいのだろうか。そう考えたとき、私たちはふと戸惑わざるを得ない。(略)そもそも「実像」という言葉が、なぜかペレには著しくそぐわないからだ。ある人物の「実像」が問題にされるとき、彼/彼女の思惑に抗して抱き続けた内面の真実といったものが要求されがちだが、どういうわけかペレの「内面」はきわめて想像することが難しい。伝記的な情報があまりにも少ないのも事実だがそれだけでなく、ペレ自身の振る舞いに、内面の再構築を拒む何かがあるようだ。それは彼が固く心を閉ざしているという意味ではなく、むしろまったく逆に、自らの内面など彼にとってはどうでもよかったのではないかという印象を抱かせるからである。
自分の無意識を探り、心の中を深く掘っていくのがシュルレアリスムだと思っていたが、この人は投げやりである。言葉をその場でこねるだけこねて、出す。潔い。この人がこの本を書いた時のことが手紙の中に書いてあって、それも引用されていたが、「頼まれたから書いただけ」「楽しくない」「仕事をこなそう」「朝の九時から午後一時のあいだに書いた」など、そんなことが書いてあって、やっぱりこの人も作業的地平にいる人だ、と思って嬉しくなる。
文章というのは、必要に迫られて、でっち上げるものだとしたら、その強いられるものを使ってその場をうまく乗り切った結果が、新しい自由���生む。言葉は今までの人類の歴史が積み上げてきた概念の集積であり、言葉をつかって知識や知恵、経験にたどり着くという、意味の行き交う交通の場所でもある。それは今までの積み重ねなので、自分が生まれる前から、否応なくあるものであり、ある程度粗いものであり、その言葉を使って考えたり指示したり行動したりしなければいけないという意味では暴力的でもあるのだが、その強制力とうまく付き合って乗り切ってみる、そうして書かれた文章はやはり生き生きしている。こうして書かれたものを「作業的地平」と呼んでみる。予告までに。
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sinspost · 10 years ago
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シャラポア通信(2015.7.27)
恐ろしく梅雨がダルかった。湿度と、湿度以上に、出かけるたびに土砂降りが始まるという、今までにない梅雨となった、出かける仕事をしているからかもしれない。
梅雨が長かったので、セミも鳴かず、7月の中旬まで来たのだが、ある日急に鳴き出して、気温も上がった。
夏である。夏は夏でどうしようもない季節で、高橋悠治が今年の夏を「仏教の創造神話を思い出す」という言い方をツイッターでしていた。理不尽で、生命の危機を感じるぐらい大きな季節だと思うが、今年はなんとなく夏の気持ちがわかるような気がする。しばらく、何もやる気がおきず、梅雨のせいだと思っていたら、本当に梅雨のせいだったのかもしれず、季節の中で夏が来たら、人は「夏が来やがったなぁ〜!」とつい威勢をあげてしまう、この夏独特の浮かれ具合に今年は乗ることができるような気がする。その割に自分のスケジュールは例年に比べ地味な気がするが…。
今年の梅雨前に山小屋へ働きに行った女の子に占ってもらったところ、僕は秋からが勝負らしい。なるほど、今年の夏は少し準備というか、力たくわえるためのイベントが多かったような気がする。僕の力たくわえる感じと夏の威勢が、今年は合うらしい。
準備というのは、僕が今年の五月あたりに作ったCDが細々としかるべきところに広まったり、風の又サニーがレコーディングしたり、本日休演がものすごく練習したりする感じをそう表現している。そのような水面下の動きがいくつかあり、今後のことは予想がつかないが、それぞれがどうなっていくのか、とても楽しみである、という状況である。正直、どうなるか読めないが、何事かが起こる。てつおさんの新しい店「みなみ」にしても、そういう年頃だとはいえやたら結婚したり妊娠したりする人が多い、ということもある。みんなが一に結婚したり妊娠したりしていることについて、そういうものだ、と思わないで、もっと真に受けて欲しい。今年はすごい。その証拠に、去年は相対的に、つまらなかった。
ブログというのは、このような形で、近状報告に使えばよかったのだ。一度人称を溶かしてみたいと考え、友達が東京にいく時のことという、ある程度切実なことを、主語や話者をぼかして書いてみたら、あるパーティの席で「感動したけど文章がヘタなのでもっと君は本を読んだほうがいい」と言われた。こういうことを書くと、コミュニケーションのドツボにはまるというか、真に受けてもらえるか不安ではあるのだけれど、基本的に僕は小島信夫の「何も確かなものはないがとりあえず書き、書くという行為をすることでまた取っ掛かりができる性質」に依っている。そうして書かれた文章が、人間の、常識的な生活だったり、やりとりだったりから出現したものだったら、いい文章だと思う。こういうことを言うのは吉田健一で、今年やっと吉田健一を読めるようになった。そういう意味でも今年は面白い。小島信夫と並ぶぐらい、面白いんだもん。
というわけで、人称をしっかりとし、あるべきことを時系列で並べ、SOVをはっきりさせることこそが文章であるとするならば、僕がよく書きたがるものは文章ではないのかもしれない。保坂和志さんは、どこかの講演で、「僕だとか、小島信夫さんだとかを読んで、好きな人は、どこかで頭脳破壊されていて、申し訳ないところもあるけれど、」なんて、そんなことを言っていたのが随分前なんで定かでもないのだけど覚えている。言葉と人間との関わりを考えていくと、意味を通すための言葉が使えなくて、「言葉」そのものだったり、「人間が言葉を使うこと」そのものだったり、「手紙」そのものだったり、「人間が手紙を書いて宛先に住んでいる人にこの手紙を届けること」そのもののことだったりを見てしまうし、そのことで言葉を紡いでいくから、言葉が豊かになるにつれ、どんどん文章は広がって、ヘタになってしまう。僕は随分、頭が悪くなったし、頭が悪くなったように見える。
昨日は、古武術の技術を基本とした体の操作法のワークショップを主催させてもらった。講師は申(しん)さんという、かなり本格的に古武術をしている人で、先生とは仕事場で出会った。申さんは、椅子に座り、自分のひざの上に手を置き、「私の手の上に君の手を乗せ、それで全体重を私の上にかけてください」と言ったので、その通りにした。かなりガチガチで動かないぐらい体重をかけたつもりだったが、スッっと手がほどかれた。「これは脱力の操作をしています」と言われた。僕は高校時代マンドリン部だったので、トレモロの練習をたくさんしたけれどうまくいかない。先輩にはよく「脱力しろ」とよく言われ、脱力がうまくいけば、トレモロはできた。それ以来僕の中では脱力は一つのキーワードになっている。そういうことだったので、この説明はピンときた。体を使って生きて、何かをしている以上、体のことを徹底的に考えている古武術は、体を使うあらゆることにすべてつながっていんだ、と思った。
もう一つ、操作という言葉。僕は今まで武術という発想がなかった。勝負をして勝つだとか、気合い、というような言葉は、指し示す言葉の内容や方向がざっくりしすぎていて、言葉として機能不全を起こしていると思っているからだ。武術が取るそのような言葉のオルタナティブとして、「操作」という、一見ドライな言葉を使っているという意思が見えた。つまり、この武術は、自分が誰よりも強くなるための秘儀であり、そのために修行をする、というストーリーとは全く無縁のものに感じられた。誰でもが普段の生活で使えるものとしての武術。そこに修行を経た達人の特権性を誇示しているところは何もない。実際申さんはニコニコして、なんでもないことのように実践してくれた。僕の体はなんでもないように吹っ飛んだ。
昨日は岡崎のいきいきセンターで2時間、講習をしていただいた。非常に有意義なものとなった。スワイショウという、体幹をつかって手を揺らすトレーニングをした。手の力で手を揺らすのではなく、体全体で手を揺らす。その感覚を持つことで、体をフルに使って手を操作する感覚を得ることができる。どこでも、簡単にできるが、奥が深い稽古だった。また、正座を5分間した。一方の足の上に足を重ね、ひざに拳一個半分の隙間をあけて正座をすることで、体が伸び、お尻から頭までつながる感覚を得ることができるトレーニングである。体を操作する上で、武術なので例えがパンチになるが、一つのパンチをするにも、手だけを使って体の他の部分がバラバラであれば、力任せにパンチを打つだけになってしまい、無理が生じる。これが、体幹を使って、足から頭まで、すべてで打ったらどうなるだろう。
このワークショップは、また定期的にやらせてもらうと思うので、興味があれば、ぜひ来てみてください。
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sinspost · 10 years ago
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今後の活動スケジュール
細かいことのやる気がせず、部屋も多少散らかっているように、こうしてタンブラーにスケジュールを乗せて、人様に宣伝や報告をするのを怠っていたので、いけない。
小説、また書きました。タイトルは「山をめぐって」
恵文社の男店員、保田くんが中心に発行している文芸誌、『しんきろう』に載っています。よければ、ぜひ。
Tumblr media
シャラポア野口はアルバムCDをつくりました。一枚500円。
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新しい傾向なので、正直おもしろいです。サウンドクラウドで試聴できます。
↓↓↓
https://soundcloud.com/noguchi-2
○シャラポア野口として
 8月19日(水) 京都 ネガポジ
三好真弘
お砂糖(象の背)
Mr.69
シャラポア野口(ソロ?)
OPEN 18:30 / START 19:30 ノーチャージ
 8月23日(日) 京都 ゆすらご
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NObLUE (from 浜松)
ふくらはぎばたけ (from 福井)
てくらがり (from 神戸)
ジョギング振興委員会 (シャラポア野口 + 久野昆布)
17:00 open/18:00 start 1500円 + 1ドリンク
気合い入ります。宜しくお願いします。
○風の又サニーとして
 8月20日(木) 京都 ソクラテス
「CITY KARAS2015」
Daniel Malinsky from U.S.A
福生
風の又サニー
色霊
賢いユリシーズ
open 18:30 start 19:00 adv/door 1,500yen+1drink
 9月19日(土) 京都 ゆすらご
トンチトリオ
風の又サニー
ほか詳細未定
トンチさんはよくてつおちゃんの店(みなみ)でかかってます。
風の又サニーは今、レコーディング中です。おもしろくて、気張らない。普段の時の流れの延長線上のような、無理のないものができそうです。
○本日休演として
 8月9日(日) 大阪 難波ベアーズ
<三☆音☆感>
ゑでぃまぁこん
DESTROY OHNO MONSTERS
本日休演
18:30/19:00     2000/2300
楽しみです。
本日休演は練習が研究室みたいなバンドで、鍛えられます。
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