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siorim · 7 years
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 私は私自身のために文章を書き、シャッターを切る。誰かに評価されることがなくても、いつか消えてしまう私がそのとき見たもの、感じたもの、考えたもの、記憶に残そうとしたものは、かけがえのない宝物だと思う。
 これまでの自分を思い出してみると、こう思えるようになったことに驚く。物心がついたときから自信がなく、自信というものはおとなになれば自然に生まれるものだと信じていたけれど、二十歳になろうとしていたのに全然その気配がなかったので、とりあえず、自分がそのとき生きていたということを記録しようと思って日記をつけはじめたのだった。最初はなにを書けばよいのかわからず、その日にしたことや朝昼晩に食べたものを書いていたけれど、そのうちに考えたこと、感じたことも書くようになった。いまとなっては文章量がとにかく増え、あのときの何倍もの文章を毎日あれこれ書いている。もう自信がないと悩むこともなくなり、そんなことで悩んでいたことを忘れてしまうほどになった。
 写真だってそう。携帯で撮りはじめたけれどそれだけでは飽き足らず、フィルムカメラを手に入れて撮るようになった。ネットを見ていると私よりもうまく撮る人は数えきれないほどいるけれど、それでも私の生活や、恋人や友だちと出かけたことを撮らない理由にはならない。ただ記録するためにシャッターを切る。うまいとか下手とか関係なく。
 こういうふうに思えるようになったのは、やっぱり写真と日記が私を成長させて自信をつけさせてくれたからなのだろう。日々欠かさず文章と写真で記録し続けていることが、過去の私を救済してくれたのだと思う。なんだか大げさに表現している気もするけれど、ほんとうにそう思っているのだ。そして、記録するというのは結構おもしろい。
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siorim · 7 years
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 秋の夜の電車に乗って恋人の家まで行くので、電車の中で読む本を持っていこうと思い、本棚を眺めて手に取った本が江國香織の『流しのしたの骨』だった。私は気に入った本をなんども読むのだけれど、本棚に並んだ本の背表紙に書かれているタイトルを見て、そのときの私の気分にあった本を選ぶようにしている。『流しのしたの骨』はしばらく読んでいなかったから内容はほとんど覚えていなかったけれど、なんとなく今の私にぴったりの本だと思ったので鞄に入れたのだった。空いた電車の長椅子に座って読みはじめてみると、ちょうど十一月のはじめの家族の様子で、思わず腕時計の文字盤についている日付を確認してしまった。私がこの本を読んでいるのは当然だというような気がして、妙に納得してしまった。
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siorim · 8 years
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『Born to be Blue』 
 先月の初めに見た映画。邦訳は『ブルーに生まれて』だけれど、英題は3つもの単語がBから始まっているのに、邦訳はそれを反映していないのが少し残念だと思う。意味はその通りなのだけれど。 
  映画を見るのは苦手だと思っていたけれど、それは誰かと一緒に観に行くことが苦手なだけだということに気付いた。一人で見るのなら全く問題なく映画に集中できる。多分、誰かと一緒だと見終わったあとに感想を言い合ったり次の目的地を決めたりするために口を開かなければならないからだと思う。でも私は今見た人や世界について黙ってじっくりと考えたい。 
 パンフレットとメロンソーダを買って席に着くとすぐに始まった。いつも聞いているジャズのスタンダードが流れる。パンフレットによると、チェット・ベイカー役の俳優さんは半年トランペットの練習をしたそうだ。五年かけてもチェット・ベイカーの音色は出せないと言われたらしいが、六ヶ月でこれまでの音が奏でられるのなら良いと思った。音がなんとなく似ていた気がする。 
  薬物から逃れられないチェットと、そのチェットに寄り添う女性。薬物の密売人と思われる暴漢から襲われて前歯を失うという、トランペッターとして致命的な怪我を負っても、義歯を入れて練習に励み、念願の復帰を果たそうとする。しかし晴れの舞台のその控え室で、それまで絶っていた薬物をまた打ってしまう。予定を合わせて見にきてくれた女性を見つめながら、霧の中から出られない僕を許しておくれと歌うチェット。そのシーンで涙が後から後から溢れてきた。 
  チェットは控え室で、薬物を打つと自信が湧いてくるんだと言っていた。ビル・エヴァンスも薬物から逃れられなかったという。皆の前でパフォーマンスをするときの緊張感は計り知れない。一度、その緊張感や不安を自信に変えてくれるものを武器に、素晴らしいパフォーマンスをして人々から賞賛されてしまったら、その後それなしでは演奏できなくなってしまうのだと思う。自信がなくても、激しく緊張していても、素晴らしい演奏を求められる。その演奏を可能にしてくれるものがあるのだから、打たずにはいられなくなってしまうのだと思う。 
  自分の心と体がボロボロになっても、恋人を悲しませることになっても、満足のいく演奏をするために薬物から逃れられない天才アーティストを見て、涙が止まらなくなってしまった。彼らは比類ない才能を持ちながら、どうしようもないくらい臆病なのかもしれない。
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siorim · 8 years
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 あけましておめでとう。
  昨年は挑戦をテーマに掲げていたけれど、今年は努力を目標にする。様々なことに挑戦し続けること、つまり継続することが大事なのだと思っている。継続は力なり。素敵だなと思う人は、普段はあまり見えないけれどふとした瞬間に努力の跡が見える。私もそんな人になれたら、と思う。
  日付が変わる瞬間は、友人や恋人とカウントダウンをするわけでもなく、また、ジャンプするわけでもなく、地元の神社にお参りに行くために凍った夜道を父と一緒に歩いていた。まさか凍っているとは思っていなかったのだけれど、歩いているときになんだか滑るなあと思って靴底を擦り付けてみると路面が凍結していたのだった。 
 神社で参拝をし、甘酒をもらって、おみくじを引いてみると中吉だった。願い事は早く叶いて喜びあり、と書いてあった。良い年になりそうだと思った。
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siorim · 8 years
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 私が直面している絶望は、すでに誰かが経験したことのある種類の絶望だとわかっていても、どうすればいいのかわからない。
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siorim · 8 years
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 友人のロードスターに乗って熱海へ向かった。 
 あいにく、空はいちめんがつなぎ目のない雲で覆われてはいたが、それでも目の前がひらけて水平線が見えると思わず声が出た。山と海の間隔が狭いためにカーブや起伏が多いバイパスを通っていると、まるで鳥の目線から見ているような気持になる。道路の先には山の斜面に沿って建てられた家々が密集しているのが見えた。
  熱海に着くと、クルーザーがいくつも停泊している海岸を散歩した。すこし風のある日で、船は揺さぶられ、帆の先は空中に複雑な図形を描いている。友人は消波ブロックの上をひょいひょいと歩いていた。 
 海の見える露天風呂に入り、白い遊覧船が橙色の光を窓からもらしながらゆっくりと沖へ出ていくのを眺めていた。船跡が次第にふくらんでいく。湯船のお湯の中で手を揺らすと、輪となった光が幾重にもでき、湯船の外に植えられている木の葉が水面に反射したのがふらふらと揺れた。お風呂からあがって、マッサージ機を試し、夕ご飯を食べに行った。日が沈んで空は明るさを失い、街の光が海につよく反射している。海側がガラス張りになっているお店に入り、夕闇に包まれる海と消波ブロックを歩く茶色の猫を見ながら海鮮丼を食べ、そのあとですこしドライブした。
  熱海の夜景は、ふつう見る夜景のように上から下を眺めたときの平面的なものではなく、ちょっとした高台から近くの山を眺めたときのように立体的に見える。大小さまざまな白い建物に灯された光や、海沿いの道にある街灯の光が立ちのぼってくる。それが海に反射して光の列をいくつも作り、街も海もお互いに何倍にも輝いて魅了する。車で走っていると、変化し続ける夜景が見え、目が離せなかった。これまで見てきた夜景はなんだったのだろう、と積み上げてきたはずの夜景についての認識を改めたくなるような景色だった。
  深夜2時ごろ、ほとんど人が出歩いていない街に出て、缶チューハイを買って海へ行き、友人と海岸を歩いた。漆黒だけれどよくきらめく海、誰もいない海岸、ぽつぽつと光る星々。歩道橋へ上ってゆっくりと話していると、体の中のすべてが入れ替わって、すみずみまで澄んでいくような感じがした。観光地の夜は静かでタクシーすらもほとんど通らない。ホテルが密集している山のほうに目を向けると、部屋の明かりを背景に海を眺めているふたりのシルエットがある。雨が降っていないのに艶やかに照らされている道路を渡った。
  つぎの日の昼間は観光のようなものをして、夜が更けてから東京に向かって車を走らせた。光の玉が次々と現れては後ろに流れる。海沿いの車通りの少なくなったバイパスで、目の前にぽっかりとあかい月が見えた。半月よりは大きい、すこしまるみを帯びた月は、山際から出たばかりで、ずっとむこうの街灯に隠されそうになっていた。月を追いかけていると、空に白い光の線が一瞬のうちに長さを増してあっという間に消えた。火球と呼ばれるそれは、漆黒の空を切り開いたかのようだった。いつか美術館で見た、大きな黒い紙のまん中を三本ほど切り裂いてむこうの白い紙が見えるようになっている作品を思い出した。なんとなく心を惹かれてじっくりと見たのだけれど、あれは火球が見せてくれる空の向こう側を表していたのかもしれない。
  途中で寄り道をして、夜景が美しいこと、また走り屋で有名な峠に向かった。急な山道をためらいなく進み、流れるネオンを施した車とすれ違ったり、あっという間にのぼってくる車に道を譲りながら、展望台にたどり着き、車から降りると、満天の星空と、その星々を落としてかき集めたような街が見えた。その完璧なまでの美しさを湛える景色を何を考えるのでもなしに眺めていると、心のなかが空っぽになっていくのがわかった。そして、できあがったばかりの空洞に光が渦となって吸い込まれていった。一瞬のきらめきさえも見逃したくなくて、流れる時間を追いかけた。
 「美しいものを見てると、哀しくなってきちゃうな」と呟いた。 
 友人は「そう?」と首を傾げた。
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siorim · 8 years
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 ひまわり畑を見にいったり、バーベキューをしたり、夏にしたいことはたくさんあるけれど、蝉の鳴き声は聞きたくない。水たまりを飛び越すみたいに、夏を飛び越えて秋になっちゃえばいいのに。
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siorim · 8 years
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 まだ開花宣言も出ていない、風のつめたい日に重いカーキのコートを着て伊勢丹の屋上に出たら、満開の桜と白い半分の月が西日のなかで輝いていたのは、夢みたいだった。 
 それからほどなくして東京のあらゆる場所に植えられたソメイヨシノが一斉に綻びはじめ、ある日とつぜん満開になり、公園や飲食店が賑わい、花見をする暇もなく春特有の雨でほとんどの花が落とされ、薄桃色の水たまりになった。一年のなかでいちばん見ごたえのある水たまりだった。
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siorim · 8 years
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 東京を見渡せる17階のカウンター席に座って、通りすぎていく車やずっと遠くまで途切れることなく続いていく建物などを眺めていると、この目に入ってくるものすべてがあんなに小さく見える人の作ったものなんだと改めて思えて、その果てしなさに頭が痛くなってくる。私の知らないところ、見えないところ、手の届かないところに世界が隠されている気がする。もしかしたら、もしかしなくても、私はこの世界でひとりぼっちなのかもしれない。
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siorim · 8 years
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 雨と夜の境目から愛をこめて。
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siorim · 8 years
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 夜、満開となった桜の木の下を通りかかったときに、甘く湿った、どこか哀しい香りが、瞬間、匂った。驚いて見上げると、連日の雨で花びらを落とされた桜がすまし顔でぽんぽんと咲いていた。  三月末ごろから店頭に並びはじめる桜味のスイーツや飲みものを試してみるたびに、桜ってこんな甘ったるい味や匂いではないよなあ、イメージと全然違うなあと思って敬遠していたけれど、その匂いを嗅いだことがなかったのは、いつも桜を見るのが昼間だったからだと気づいた。春の夜のひんやりとした空気の中では、ちゃんと似たような甘い匂いがしたのだった。でもその香りは表立っていたり、皆が大騒ぎするようなものではなく、日が十分に沈み、完璧な夜の深いところで聴くビル・エヴァンスのピアノの音色のような、しっとりとして密やかな香りだ。きっと闇と溶け合ってあっという間に霧散してしまうだろう。この匂いをちいさなガラスの瓶に閉じ込めて、首のところを淡いピンクのリボンで結んで、紺色のぴったりとした箱に入れるのを想像してみると、それが正しい在り方のように思えた。
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siorim · 8 years
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 恋人が髪を切ってから家に迎えに来てくれたとき、玄関で抱きしめると、美容室でつけてもらったばかりの整髪料の匂いと、コートにしみ込んだ冬の匂いがした。ほんのりと青く、やわらかく、つめたい外気の匂い。こんなふうに誰かに外の匂いがつくのは、きっと冬だけなのだろうなと思った。三月下旬のその日は、まだ桜はひとつも咲いていなかったけれど、暦の上ではすでに春で、私が冬の匂いをかいだ最後の日になってしまった。
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siorim · 8 years
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 夜の散歩ができない。 
 昼間なら寒い日も暑い日も時間さえあればそこらじゅうを歩き回るのに、夜になってなにもすることがなくても、散歩するのにちょうどいい季節でも、夕方からの用事がすんで街中を少し歩きたいと思っても、散歩などせずにまっすぐ家に帰ってしまう。むしろ日が傾き始める時間帯になると家に帰らなくてはいけないと思う。家でご飯を待っている誰かがいるわけでもないというのに。
  夕方からひとりで長い映画を見たあと、劇場のある13階から下りるエスカレーターからは雨に濡れた新宿が見えた。代々木の電波塔の文字盤の光、遠くの高層ビルの赤く点滅する光、信号待ちをしているタクシーの列になったテールランプの光が目を捉えて離さなかった。月曜日の夜の雨上がりのなかに横たわる新宿はとても静かで、ただ光だけがすべてのものを満たしていた。雨は等しく街を濡らし、ありとあらゆる光を反射させていた。見慣れているはずの新宿なのに、まったく知らない外国の地に放り出されたような気がして、打ちのめされたまま駅まで歩いた。 
 本当は光の中を歩きたかった。人通りが少なくなった新宿を隅から隅まで歩きたかった。歩くたびに道路に反射する光が動いていく様を追いかけていきたかった。でも、できなかった。夜の闇に包まれた街はどこまでも完璧で、私の入る隙なんてなかった。隣に誰かがいれば、その完璧さに目をつぶって、なにも知らないふりをして海のなかを泳ぐ魚のように歩き回れたのかもしれない。しかし現実はそうではなく、私は本やポーチやカメラや携帯電話が入った鞄を持って、絶望して重くなった心を抱えて駅へと急いだ。
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