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Sound Sample Market
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気鋭のアーティストが紡ぐパフォーマンス・ショーケース - A performance showcase of the up-and-coming music artists  
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ss-mkt · 5 years ago
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期待と不安のあいだにあるリズム——“Sound Sample Market vol. 2”について
坪野圭介(アメリカ文学研究・翻訳)
スティーヴン・ミルハウザー(1943— )というアメリカの作家がいる。短篇や中篇を中心に、1970年代から現在まで、多作とはいえなくとも着実に作品を発表してきた小説家だ。多くの作品の主人公は、アニメーション作家、自動人形作家、ナイフ投げ師、奇術師、遊園地のオーナーなど、なんらかの創造主たち。個人的に特に好きなのが、『三つの小さな王国』『木に登る王』という2冊の中篇集で、それぞれに収められた3篇の物語は、主題も形式もばらばらでありながら、どこかに設定や構図のゆるやかなつながりを感じさせる。いずれの中篇においても、芸術家(あるいは芸術家的気質を色濃くもった人物たち)と様々な人工物の描写が、あまりに緻密であるためについには幻想の領域にまでいたるさまが見事に展開する。過剰なまでのディティールの細かさは、いつでも驚異(期待)と恐怖(不安)の緊張関係のなかに読み手を置く——突き詰めることと、逸脱してしまうことは、つねに隣り合わせだからだ。
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ぜんぜん関係のない話からはじめてしまったが、2020年1月11日、Archiship Library & Cafe にて開催された“Sound Sample Market vol. 2”を観ていて漠然と考えたのが、「ミルハウザーの中篇集を読んでいるみたい」ということだった。もちろん、“sound”を軸としたこの公演は、まずは「音楽」として受容できるはずだし、それが通常の音楽形式の枠組みにとらわれない上演であることに注目するならば「演劇」としても解釈できる。いずれにしても、それは一見「小説」とは似ていない。けれども、3つのパフォーマンスが別個におこなわれつつも共通のプロジェクトを編んでいるように見えたこと、音というひとつのメディアを拠り所にしたそれぞれのパフォーマンスの枠組み(=主題)のなかに、演者(=登場人物)の行動を軸に進行していく展開(=プロット)が読み取れたことは、短い作品を束ねた一冊の本の読み心地にとても近く、もうすこし普通のいいかたをするならば、きわめて「物語的」に感じられた。なおかつ、特定の小説家を引き合いに出したのは、提示される「創造物」をめぐる「期待と不安の緊張関係」という、ミルハウザーのような幻想作家に典型的な主題が、3つのパフォーマンスに通奏低音として流れているものに思えたためである。
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と、かなり強引に自分の関心分野に引き寄せてしまったこと��自覚しつつ、「主題」の設定、「登場人物」の行動、「プロット」の展開といった物語分析的な視点から、ごく簡単に正直、山下哲史、佐々木すーじんの3組によるパフォーマンスを振り返ってみたい。
正直のパフォーマンスは、もっとも主題的な洗練を感じさせるものだった。音楽を記録するメディアである磁気テープのパロディとして、日常的な商品である養生テープによって即興的に摩擦音や破裂音を生み出していくというアイディアは、あきらかに音楽・複製芸術・テクノロジーといったものへの固定観念を転倒させるものだ。さらに、ほんらい聴覚的に受容されるものと認識されている音楽を、テープのたえざる増殖によって視覚的に表現している点もおもしろい(そのうえ、ふつう音は出現したそばから消失していくが、テープは消えることなくつねに蓄積されていく)。同時に、養生という日常的な行為も、テープの「無意味」な大量放出によって非日常的な場面に異化されていく。「作業」という彼らが選び取ったジャンル自体が「演奏」へのカウンターとして機能するものであるだろうが、素材や奏法の巧みなアレンジによって、「テープに記録される音楽」と「テープを使用する日常」の両方から少しずつずれた場所へと観る者を誘う仕掛けになっている。
なおかつ重要な点は、そのように主題を張り巡らせたうえで、テープが生み出す様々な音が、正直のふたりのコントロールを離れて鳴りつづけるということだろう。もちろんふたりが使う機械装置や様々なテクニックによって、テープの伸縮や摩擦にはいくつものバリーションが生み出されていく。けれども本質的に、テープは放置されることで増殖し、勝手に予測不能な音を出す。だから、正直のふたりは状況を設定するけれど、責任はもたない。その放任主義の清々しさは、上演中のふたりの飄々とした表情にくっきりとあらわれていた。だからこのパフォーマンスの肝は、周到な主題の設定そのものではなく、おそらくその設定のうえで自律的に運動するテープの奔放さの方にある。
一方、観客にとって、そのことは不安の種にもなる。強力な粘度で機械に巻きつき、壁や机や床に張りついていくテープたち。テープによってじわじわと持ち上げられ回転させられ停止してしまう機械たち。テープが擦れ、機械がときに落下し、物が引っ張られていく様子はどこか苦しげでもあり、一面に広がっていく緑は、まるでしてはいけない落書きのようでもある。だがそのようにして不安が高まったところで、モーターが停止し、テープの増殖が終わり、いくつもの音がゆっくり途切れていくと、まるで複雑なポリリズムを構成していた複数の周期がようやくひとつにそろった瞬間のようなカタルシスが訪れる。動きをとめた無数のテープは、もはや危険の象徴ではなく、楽しいパーティーがお開きになったあとの賑わいに見えてくる。そうして事後的に、それは心地よい音楽として了解されるのだった。
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正直のふたりの涼しげな視線と対照的に、山下哲史の目は熱を帯びていた。レコードというメディアを転倒させて、ターンテーブルそのものを楽器として扱うという発想は正直と近しいともいえるが、そこで「音楽」が成立するか否かは、山下の熱量に観る者が感化されるかにかかっている。もちろん、素手やスプーンでターンテーブルを叩いたり揺すったり擦ったりアンプのハウリングを利用したりといった、多彩な奏法が生み出す音のうねりそのものに独自の音楽性があることはたしかだ。しかし、それはたとえばしばしばノイズミュージックの特徴となるクールな無機質さとはまったく違って、ロックミュージックのような熱い粗暴さを帯びた音楽性である。そこには醒めた距離感よりも没入感が要請される。
だからこそ、メロディーも和音ももたないロックが舞台上に成立しつづけるためには、観る者が山下の身体性に一体化しなければならない。そして実際、舞台を動きまわる彼の肉体は次第に凶暴さを増し、ときに祈りを捧げるような一途さでもって、ときに鬼気迫る激しさでもって音の塊を切り出し、最後までテンションを持続させた。装置や設定がきわめてシンプルであるゆえに生じる、どこかで演者の熱量についていけなくなってしまうのではないかという不安、あるいはプリミティヴな音の出し方がどこかで単調さに陥ってしまうのではないかという不安を、むしろパフォーマンスの振幅として利用しながら、最終的に音楽は続くのだという信頼へと昇華させたのは、ひとえに山下の肉体的な演奏の強度ゆえだろう。
はじめにターンテーブルを楽器にしていると述べたが、つまるところ、楽器は山下の身体だったともいえると思う——ただただ身体に電気を感応させてパワフルな音とリズムを作りだしているのだから。そして、そうであるならば、そのパフォーマンスはこれ以上ないくらい純度の高い音楽だったのだとも思う。
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 佐々木すーじんのパフォーマンスは、観る者にいくつものプロットの分岐を想像させるものだった。背後で微かなノイズ音を再生したうえで、不安定な空き缶のうえに立ち、糸に吊るされた鈴を口にくわえ、床に置いたフレームドラムとその中央にある水を湛えたコップに向かって様々な物を落下させていく。そのとき観客は、周到に演出された静寂と緊張感に包まれながら、演者が缶から落ちる/落ちない、鈴が鳴る/鳴らない、落下物がフレームドラムに/グラスに/床に落ちるという、いくつもの選択肢を想像することになる。そして、バランスを崩して空き缶から落ちてしまうのではないか、鈴が派手に音を立ててしまうのではないか、落下物がドラムにもグラスにも当たらないのではないかという、大中小さまざまな「バッドエンド」のようなものを勝手に想定しては、いっそう不安と緊張を高まらせることになる。反対に、たとえば落下物がコップに落ちてとぷんという心地よい音が鳴るとき、それは単なる水音ではなく、無数の「そうならなかったかもしれない」可能性をかわした先にようやく鳴る音として、いっそう甘美に(やや大げさにいうならば奇跡的に)響くのだ。
 なにより、そのような「ルール」あるいは「物語」を、佐々木がみずから提示したわけ��もないにもかかわらず、淡々とした動きの連続のみによって観る物に勝手に構築させ、かつバランスをとろうと震える身体や張り詰めた表情によって、それがきわめてシリアスで困難な挑戦なのだと了解させてしまう説得力がすばらしかった。
 けれどもパフォーマンスが進むにつれ、もうひとつの不安が湧いてくる——それは、この「挑戦」のゴールはどこにあるのかということだ。何度も落下がつづいた結果、落下物がグラスに落ちるにせよ、フレームドラムに落ちるにせよ、その外側の床に落ちるにせよ、そこで鳴るまったく違う種類の音はいずれも「成功」でも「失敗」でもないのだということに、次第に観客は気づきはじめる。それは不安が安心に変わる過程であると同時に、はじめに想定していた目的の消失でもある。と、おそらく誰もがそう思いいたる頃に、佐々木は空き缶に乗ったままゆっくりと姿勢を変え、脇に置いてあったリュックサックから慎重に最後の落下物を取り出す。そのプロットのひねりはもっとも鮮やかだった——取り出した物はティッシュペーパーだったのである。だから、最後の落下は(ほぼ)まったく音を鳴らさない。ひらひらと舞う白い紙きれは、落下の果てにどんな音が鳴るのかという、このプロジェクトの試みをユーモラスに裏切っているようでもあった。しかしそれでも、観る者はいっそうの集中力を振り絞って、かぎりなく無音に等しい微かな摩擦音を聴き取ろうと、じっと耳を澄ますことになる。こうして連れてこられた光景の異様さこそ、佐々木のパフォーマンスの美しい達成である。
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要素と要素、人と音、環境と音楽、観客と演者とが、ふとつながることへの期待と、ぷつりと途切れてしまうことへの不安。それがわたしにとって、“Sound Sample Market vol. 2”を観ている最中にもっとも意識させられた変数だった。それは、もう一度だけ小説にたとえておくならば、「主題」は見えてくるのか、「登場人物」は事態を切り抜けるのか、「プロット」は最後まで展開するのかという、いっけん見通しの悪い非リアリズム的な物語を読みすすめる際に読者が抱く期待と不安に近いものだ。本を構成する「文字」も、会場を構成する「音」も、あるグルーヴのもとに連なることによって(つまりあるリズムを構成することによって)独自の「作品」になる。つまり、いいかえるとわたしの関心は、各パフォーマンスが独自のフォーマットをもちながら、最終的に広い意味でのリズムを感取させ��ことへ向かっていくように感じられたことへの驚きにもとづくものだった。
はじめからリズムの断片は、別個のサウンドとして、いたるところに散りばめられている——パフォーマーが意識的/無意識的に奏でる音としてだけでなく、観客の咳払い、椅子が擦れる音、珈琲を啜る音、小声での会話、スタッフが歩く音、会場の外の雑音としても。そうしたばらばらのサウンドが、演者のつくる世界観のなかで、ときに事後的にまとまりを作って、心地よいリズムを形成する。そのような決定的な瞬間が、いずれのパフォーマンスにおいても、たしかにやってきた。わたしたちは突如、そこにリズムがあったのだと気づかされる。断片が、接続される。また一瞬のちにはばらばらになるのだとしても。自分もそのリズムの一部なのだと感じる。それはたぶんすこしだけ、救いのようなものであると思う。
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ss-mkt · 5 years ago
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“Sound Sample Market vol.2” Archives
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2020/1/11-12 @Archiship Library & Cafe (Yokohama,Japan)
SHOJIKI 正直
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YAMASHITA Satoshi 山下哲史
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SASAKI Sujin 佐々木すーじん
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Post talks
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Photo KATO Kazuya  Organizers scscs
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ss-mkt · 5 years ago
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深淵を覗くものは、覘かれる、されど除かれない 〜サウンドサンプルマーケットVOL.1〜
文・日夏ユタカ
曇天だった。
2月中旬の、ほどよい冷気に触れながら、馬車道から会場にむかった。 休日のすこし華やいだ雰囲気も漂う。 最寄り駅の関内にくらべ、十数分の遠回りなルートだったが、 開演どころか開場にもすこし、時間が余った。 まだ閉ざされた会場の前を通りすぎ、周辺を散策する。
すると、近くに小さなビール醸造所を発見。 ビアバーも併設されていて、こちらも開店前だったが、良さげな雰囲気を感じとる。 大量生産、大量消費の象徴だったビールだが、 最近はこんなにも小規模で、飲むひとに近づいてくる。 すべてではないけれど、やはり作りたてのビールはおいしくて。 それは音楽や舞台にも似ているかもしれない。 大きな会場で一体感に浸る楽しみだけではない、目の前のひとだけに届く、特別なギフト。 それがすべてではないけれど、なにより大切な時間がそこには、ある。
それでも少し早めに会場にもどると、佐々木すーじんさんが、いつもの人懐っこい笑顔で待ち構えていた。
会場の左右には、天井近くまで届く、大きな本棚。 アート系の洋書がほとんどだ。 ワンドリンクのサービスで、メニューには珍しい中国茶の文字も。 注文すると、茉莉花茶の慎ましい香りが、出入り口の大きなガラスからの柔らかな曇天の外光と混じり合い、 室内の暖かい雰囲気をさらに強める。
席に座るとすぐに、たまたま遭遇した友人が隣の席に座ったので、 お茶を飲みながら、おしゃべりしながら開演を待つことになった。 結果、あとで読むと多くの情報が詰めこまれていた当日パンフレットには、一切、目を通さなかった。 そして上演中に、あるいは終演後に、逆に、それがよかったのかもしれない、とも感じたけれど、 けれどきっと、事前に読めば、またちがった楽しみ方もできたのだろう、とも思う。 そう、いつも正解はない。
いや、正解しかないのかもしれない。
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☆小銭の数をかぞえる
前説では、日本の硬貨(1円玉から500円玉まで6種類)を貼りつけた楽譜が提示された。 なんとなく、それぞれの硬貨を楽譜に従って響かせるような印象を受けたが、 実際には、数字の回数だけ音がなる仕組みだったようだ。 たとえば、1円玉はシンバルが叩かれ、5円玉は音叉のようなもの、500円はスネアが鳴らされる。
最初は、正直にいえば、前説が逆にミスリーディングになって、意図がかなり掴みづらかった。 しかし中盤。スネアの上で突然、スティックが勝手にひとの手を借りずに音を叩きだしたのをみて、 俄然、こちらの集中度が、アガる。 すぐに理解できず、思わず身を乗りだす。 よくみると、スーツケースの上のiPhoneやICレコーダーの振動が、 スーツケースから伸びたノズルを通して伝わっているようだ。 バタフライエフェクトというような、微細な音の伝播。 そこから、わずかな音を捉えようと、こちらの姿勢もさらに前のめりになる。 実際には、ブルートゥースを介して、スネアの中に仕込まれたスピーカーが振動していたようだが、 こちらに届いた効果は同様なものだった。
それは。なんだか将棋とかチェスの対局ようだなあ、との感想。 音楽のを受動的に聴くのではなく、一対一のボードゲームのような感覚がそこにはあった。 ふたりだけの対戦ゲームでは、可能なかぎり相手の予想を裏切り、上回ることが求められる。 だから、相手が指した手の意図がすぐには読めないことも多いのだけれど、 でもそこには、かならず企みやら戦略やらがあるはずで、 相手を信頼することでしか生まれない思考実験でもある。
そんなことを考えながら、音を聴いていた。 結局は、正解には辿りつけないかもしれないけれど、 そうやって思考の深度をふかめることで楽しむ音楽もあるのだなあ、とも思った。 音を楽しむだけではない、音楽の拡張。 あとで、当パンを読んで、そこで考えたことのさまざまが案外と見当ちがいだったことを知るのだけれど、 まあ、それはそれで。 つまりは、けっして正確なコミュニケーションはできていなかったのだけれど、ひたすら脳は興奮した。 小銭による楽譜を演奏中にプロジェクターなどで掲示してくれれば、もっと理解できたのにと思う反面、 この自分勝手な自由度を楽しんだのだ。
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☆脱法ビート
こちらは一切の前説による説明はなかった。
黒いスピーカ−を音響卓にして、やはり会場の中央に陣取る。 そこから繋がるケーブルを通して、周囲にも配されたスピーカーからも音が響いていた。 ちょっと出所のわからない音も、低く震えている。 あとで読んだ当パンによれば、モスキート音による、ある年代以上には聞こえない音域でビートを構築していた模様。 若者のための、ダンス禁止店舗での脱法ダンスミュージックだったという。
たしかにそれは、じぶんには聞こえない音だった。 ��然ながらリズムを感じることもできなかった。 少なくともさそのとき、踊れる音楽だとはまるで思えなかった。 ただなぜか。 たき火の前にいるような暖かさは感じた。
演者のまわりをゆるやかな楕円形に観客が囲んでいた視覚的な効果もあったのだろう。 ほの暗い室内は、たき火で照らされるほどの明るさでもあった。 すると、演者および音響システムに両手をまるで暖をとるかのようにかざしたくなる。 そしてためらいがちに、そっと両の手の平をむける。 もちろんそれは炎とはまるでちがい、期待は裏切られるのだけれど、 空間を覆う波動のやわらかな温もりを感じることができた。
しかもなぜか楽しい。 リズムもないのに。 踊れないのに。
まぼろしのキャンプファイヤーがそこにはあったのだ。
もしかしたら自分はそのとき、炎のまわりで踊る若者たちの幻影を視ていたのかもしれない。 ただし現実には。 リズムはなく。 踊れるわけでもなく。 しかしなぜか楽しい時間が過ぎていった。
ふと、会場の壁面の大きな本棚のうえに設置されたスピーカーに目がいく。 実際のところ、そこから音がでているとは確証はもてないのだけれど、 その方向に音の塊が、音楽が、間違いなくあった。 ああ。これは本から生まれた音だ。 壁面を覆う、たくさんの本たちが震えて、 なにか新しい音楽を生みだそうとしていた。 豊かで暖かい音を。 さまざまな色遣い、筆遣いを秘めた美術書たちが奏でる、音楽を。 会場であるLibrary Cafeだからこその音楽を。
リズムはなかったけれど、こころは踊った。 激しく、そして楽しく。
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☆a440pjt
こちらも前説なしのスタートだった。 急に、空気が重くなる。 無音からのはじまり。 直前に、聞こえない音をたっぷり楽しんだ反動もあったのだろう。 身体よりも視覚が、音を探しはじめる。
まずは、アルミホイルのオブジェ的なモノが床に置かれる。 なんと表現するのが適切なのだろう。 その冷たい金属の感触を伝える正しい言葉は思いつかない。 つぎは、白いロープだっただろうか。 片方の先端は輪が巻かれたまま、やはり床に無造作に投げだされる。 決められた配置のようにも、そのときの思いつきのようにも、どちらとも取れた。 もしも選ばなければならないなら、 最初の『小銭の数をかぞえる』の影響を受け、 その物体は楽譜です、と答えたかもしれない。
今度は、脚立を持ちだしてきた。 そのうえに立ち、ビニールのヒモを天井の空調の風が吹きでる際に貼り付ける。 すると。ゆらり、ゆらりと、そのときはじめて音がはっきりとみえただろうか。 不安なゆらぎが奏でる音楽。 白いロープの輪との重なりで、首つり、を想像する。 しかも、リュックを背負った佐々木すーじんさんの姿は、 真剣な面持ちは、登山を想起させた。 あるいは、樹海に死に場所を探しにいくかのようでもあったか。 もちろん単に、音を探して彷徨っていただけかもしれない。 それは演者だけでなく、観客も、なにかを探していた時間だった。
ちなみに自分は、そのとき、2016年7月26日におこった神奈川県立の津久井やまゆり園での相模原障害者施設殺傷事件を思い浮かべた。 なにより、漂う、強烈な死のイメージを嗅ぎとって。 もちろんそこには、佐々木すーじんさんが介護職にも携わり、近年は福祉作業所である「カプカプ」で働いていることを知っていたという事情はある。 ただし、似たような感想はそんな背景を知らなかった観客のひとりもまた感じていたと、あとで聞く。 実際には、パフォーマー自体にそんな意図はなく、感想を伝えると驚いてさえいたけれど。 意識の底にあるなにかが、自然とあの空間に溢れていた可能性は捨てきれない。
ほどなく。 キッチンタイマーが時を刻み、 逆さにされて吊り下げられたペットボトルから滴る水も、時を告げる。 リュックのなかから次々と広げられる、モノたち。 ああ、ドラえもんだ。 佐々木すーじんさんの左右の頬に、三本ずつ、髭を書き足したくもなる。 しかも、そのユーモラスですらある雰囲気が、逆に、空間に満ちる怖さを増大させる。 会場にモノが散らばることによる安心感の広がりとともに、 不安もまた、静かに蔓延していくのだった。
さらに。ある意味ですこし緩みもした気持ちを閉ざすかのように、 街からの曇天の光がわずかに射しこんでいた、入口の、全面ガラスの壁のスクリーンが降ろされていく。 死の予感が強まる。 そして、夜にも似た暗い室内に、モノたちの微かな音が生命をもつ。 よりリアルに、浮きあがる。 死に、包囲される。
ほんとうは、もっと細かく、さまざまな出来事があったのだけれど、記憶もまた闇に覆われる。 たしか、なにか、聞こえぬ言葉を、拡声器から発していたのが印象に残っている。 それはたとえるなら、こちらから観客として覗いていながら、あちらからも覘かれているような時間。 深淵が酸素と入れ替わるように、会場に充満していた。
拡声器が床に置かれる。 先端が光り、さながら灯台のようにみえたりもした。 裾に広がりのあるフォルムが、岸壁をがっしりと掴んで立つ灯台のようだったのだ。 登山や樹海から、いつしか海に辿りついてもいた。 われわれは海に、誘われていた。 そもそも最初からそうだったのか、それとも抜けだしてきたのか。 もちろん例によって、正解はわからない。 ただ、なんだかその瞬間、ホッとしたのを覚えている。 そこになにか、救いのような音楽があったのだろう。 配置され、積み重ねられたモノたちが発するものが。 ひとによっては生命とも、希望とも呼ぶような音楽が。
それから室内に楽譜のように配され、散らばったモノたちが片付けられていき、 ガラスを覆っていたスクリーンロールが巻き上げられで外光が射しこんでくるとともに、 終演が告げられる。 柔らかで暖かな光。 どこかキャンプファイヤーの残像すら抱えつつ。 おそらくまだ、ずっと曇天だったのだろうけれど、 はじめてみるかのような、あたたかな光。 どんな快晴に劣らない、生まれたてのような眩しさだった。 その輝きは、なにも、だれも、排除することなく、 すべてを除くことなく、会場にあふれだす。 これは、この場所でなければ、この3組のパフォーマンスの連なりでしか生まれない、音楽。
そのとき。 壁面の本たちも、静かに微笑んでいた。
(写真・松本和幸)
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ss-mkt · 6 years ago
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“Sound Sample Market vol.1” Archives
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Feb.11-12.2019
出演 浦裕幸 野口英律 佐々木すーじん Act URA Hiroyuki, NOGUCHI hidenori, SASAKI Sujin
@Archiship Library & Cafe
Logo design ITO Tomoko
Photo MATSUMOTO Kazuyuki
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