底抜け、底抜け、豚平ぺい⑥
【愛に、愛に、愛に落ちたんだよ、豚平】
※強い暴力、性暴力、差別的な表現を含みます。
乾いた地面にポツリと空いたBB弾ほどの大きさの穴から、途切れることなく這い出してくる蟻のように、耕平の口から同じ言葉が繰り返し溢れていく。
「嘘だ」
首を左右にフリフリ。
「嘘だ」
左足を後ろに下げてフリフリ。
「嘘だ」
右足を後ろに下げてフリフリ。
「嘘だ」
目線はヒロ君から離せずにフリフリ。
「嘘だ」
後ろに下がってフリフリ。
「嘘だ」
耕平が幾らフリフリ後退しても、公園は全く遠ざからない。耕平が後ろに一歩下がれば、公園は一歩耕平に近付く。まるで動作の噛み合わないVR映像。耕平の三半規管はへべれけに酔いどれる。スポンジの上を歩いているかのように耕平はよろめく。倒れないようにするので精一杯だ。
ヒロ君は耕平お気に入りのあのブランコを漕いでいる。
彼の顔はトッピング具材オール乗せ乗せ増し増しピザに似ていたが、肉片が脂や血の糸を伸ばしながらゆっくりと肩や胸に落ちる様も、溶けたチーズに絡まったコーンが落ちる様によく似ていた。
ヒロ君は煩わしそうにそれを手で払う。その所作には「この子はいいとこの子だな」と感じさせる優雅さがあった。生まれてからずっと両親や兄弟姉妹やその他周囲の人々に気にかけられ、愛を受けてきた子供だけが持つ気品だ。ここがイギリスなら彼はイートン校生。ニュー&リングウッドが地を打つ音はスノッブ、スノッブ。
「お前なんか、いるわけがないんだ!」
叫んだ後で耕平はしまったと思ったが、取り返しはつかない。彼は、彼には見えていることをヒロ君に明かしてしまったのだ。
ヒロ君は首をゆっくりと右に傾ける。
「いるわけないなら、いるわけないと言わないだろ? いるから、いるわけないって言うんだよ」
ヒロ君はブランコからピョンと飛び降りる。カチョカバロチーズみたいに巾着型に膨らんで目を覆っていた瞼の肉が千切れて落ち、ヒロ君の目が現れる。耕平を見つめる。その目はフラッシュを焚き間違えた失敗写真のように、黒目の部分が赤く光っている。ヒロ君はものすごく怒っているのだと、耕平は悟る。
「いないんだ! いないんだ! 俺は頭がおかしい! 全部幻覚なんだ!」
耕平は痛むへこみを抑えながら、ヒロ君に背中を向けて走り出す。だが、すぐにまた悲鳴をあげて足を止める。
背を向けたはずの公園が目の前に広がっている。ヒロ君は耕平に向かって歩いてきている。
「存在しないものは、殺されたりしないんだよ、耕平君」
ひっひっひー! と耕平は叫び、また性懲りも無く振り返って逃げようとするが、やはり振り返った先にも公園が広がっていて、ヒロ君はまた近づいてきているのだ。
「僕が死んだのなら、僕はいたってことになる。僕がいないのなら、僕は死んでないってことになる。君、そろそろどっちか選んでくれなきゃ。僕、いつまでもこうやって、いるかいないかの境界にいる気はないんだよ。飽きてきちゃったんだ。どっちかだよ、耕平君。君がこっちに来るか、僕らが行くかだ」
耕平は泣きながら叫ぶ。
「なんなんだ! お前はなんなんだ! 誰なんだ! どうしてなんだよ!」
「僕は君の友達のヒロ君だよ」
「そんな奴はいないんだ!」
「僕がいない世界がいいのかい?」
ヒロ君は右手の指を気取った仕草でパチンと鳴らす。
するとたちまち、日が昇り、夜の公園は昼の公園になり、突然に、子供達が姿を表す。
砂場で遊んでいる子供が、シーソーで遊んでいる子供が、噴水の周りで縄跳びをしている子供が、ベンチに座っている母親たちが、耕平を見つめている。
ここは今の公園だ。
あの殺人事件が起きた後、行政のお力によってクリーンに作り上げられた新生公園。もはや公衆便所の臭いのしない公園。
母親の1人がスマートフォンを取り出して、こそこそとしゃべっているのが聞こえる。
「はい、はい、そうなんです。さっきから挙動不審な男の人が公園に。はい。そうなんです。いますぐパトカーで」云々。
「ほら、耕平君。逃げなくちゃ」
ヒロ君は「駆け足、駆け足!」と耕平を急かした。それでもなお耕平が立ち尽くしていると、「わっ!」と叫んで耕平に向かって走り出した。耕平は絶叫し、走り出す。耕平の声に驚いた子供達が何人か悲鳴をあげ、母親たちが「みんな! こっちに集まって! すぐに警察がくるから!」と怒鳴る。
耕平は走る。走る。
真昼の住宅街を走る。
シャツもジーンズもすぐに汗を吸って皮膚に張り付く。
時折すれ違う通行人が「なんだあれ」という顔で耕平をチラ見する。
「恥ずかしいなぁ、耕平君。君、恥ずかしいよ。すっごい恥ずかしい。こんな状態でずっといるつもりなのかい?」
電柱の側、路地の端、塀の横、垣根の裏に、ヒロ君は現れる。
「こんな状態で生きていくのかい? ヒロ君、もうおじさんなんだよ。もう十分わかってるだろう。自分がどういう人間なのか。もうわかってるんだろう。環境をどんなに変えても、君はどうにもならないって。もう君の頭にある膿は限界を迎えてるんだ。外に出すか、君の頭の中で破裂させるかのどっちかなんだよ。僕、外に出たいなぁ。外に出たいんだよ、耕平君」
前方の郵便ポストの上にヒロ君が立っている。
「それが耕平君のためにもなるんだ。君の望みでもあるんだから」
耕平が郵便ポストから精一杯距離をとって横を走り抜けた時、ヒロ君はまたパチンと指を鳴らした。
急に昼が夜になる。
耕平が走る長い直線の道から人々は消え、家からも灯りが消え、道を照らすのは消えかかっている街灯だけになる。ジジジジと音を立てて、街灯は点滅する。
「ほら、耕平君。止まってないで走って」
すぐ真後ろから声がした。耕平は道を走り出す。声は真後ろに張り付いたまま離れない。
「これは一体なんなんだよ、なんなんだ! お前はなんなんだ!」
耕平は息切れしながら走る。脇腹が引きちぎれそうに痛い。今にも足を止めそうになるが、すぐ後ろにヒロ君がいる。
「僕は、祈りがいのある神だよ」とヒロ君が言う。
「聞く耳を持つ神だ。君のことが大好きな神だ。君を愛している神だよ。祈る者の元に必ず訪れる神だ。ほら、他の神はみんな、大体いつも出かけているか、あるいは君のことがそもそもあんまり好きじゃないんだ。僕は君が好きだし、愛しているから、こうやってあちら側からきたんだよ」
一番側にあった街灯の灯りが消え、耕平は闇に包まれる。闇の中でヒロ君の手が耕平の頭のへこみを突いた。ヒロ君の身長ではどうやっても届くはずがないのに。
「君はいつも祈ってた。『こんな世界いらない。誰かが壊してくれればいいのに』って。百貨店にレモン爆弾を置いて立ち去るように、黒柳徹子に破壊神になってもらいたがるように、いつもゴジラの降臨を願ってる。君の祈りはいつもあまりに一途で、あまりに熱っぽいから、僕は応えてあげることにしたんだよ。ほら、僕ってね、他のと違ってとても善良だし、ロマンチストなんだ。君みたいな子の祈りを聞くと、助けてあげたくなっちゃうんだよ」
「俺はこんなこと望んでない!」
耕平は脇腹を抑えて走り出す。まだ前方に見えている灯りに向かって。
「何言ってるんだい。いつも望んでたじゃないか。何もしないで済むいいわけを。ご都合通りに動く世界を。ブランコを漕ぎながら、君はいつも祈ったろう。素晴らしい世界に行きたいって」
「祈りじゃない! 思っただけだ!」
「耕平君。君は何もわかっちゃないね。なにも十字を切って教会で膝をつくことだけが祈りじゃない。五円玉を木箱に投げ入れて手を叩くことだけが祈りじゃない。ブランコを毎日決まった時間に決まった時間で漕ぎながら、同じことを願うのは、それは立派なウェルメイドの魔法なんだよ。ねぇ、ロマンチックじゃないか? たった1人の願いが、祈りが、世界をぐちゃぐちゃにするんだ。なんて夢のある話だろうね」
「くるなよ! 来ないでくれ!」
「もう来ちゃってるんだよ、耕平君。ねぇ、君のお母さんが言った通りだってことにもうなってるんだよ。君には見えていないだけで、真実はいっぱいあるんだ。僕はブランコで君をレイプして、君は狂気を妊娠した。堕胎なんて絶対に許さない。僕の子だ。ものすごい子だよ。君からでてきて世界をぐちゃぐちゃにするんだ。ねぇ、そういうことにもうなってる。君がそれを望んでる」
「望んでない! 望んでない! 助けて! 誰か!」
「君は悪いものに執着されてズタズタにされて手遅れになりたい。君はゲームオーバーになりたい。君は大きなものに握りつぶされたい。君はものすごく悪くて怖くて強いものに破壊されたい。『あんなに悪くて怖くて強いもの相手じゃ、どうしょうもなかったよね』ってことにしたいんだよ。君はとってもエッチな子だね」
「助けてー! 助けて! 誰か! 誰でもいい! 助けて!」
暗闇でヒロ君が指を鳴らす。全ての灯りが消える。
何も見えなくなる。耕平は黒に塗りつぶされた世界を走る。残念なことに、彼は他に祈る相手を知らない。だっていつも、耕平は今はヒロ君と呼ばれている相手にしか祈ってこなかったから。
他の祈りを知らない。他に神はいない。
「知ってるんだよ、耕平君。会社をクビになった時、君は、本当は最高に気持ちよかったんだ」
闇の中で踏み出した耕平の足は、何も踏まなかった。
「ひっ!」
闇の底が抜けたのだ。耕平は落下する。闇の中���、そのまた深い闇の中へと。
「願いを叶えてあげる。耕平君。何度でも叶えてあげるよ。君の祈りは僕を大きくする。強くする。怖くする。無敵にする。祈って、耕平君。『ああ、こんなに強くて、怖くて、悪いもの相手じゃ、世界が滅んでも仕方ないよね』って。祈ってよ。耕平君。だってもう、わかってるんだから。君、もうぐちゃぐちゃになるしかないんだからさ。そうしたいんだ。君は、そうしたくて、されたくて、たまらないんだよ」
耕平は、ついに、その通りにする。
闇の中を落下しながら、へこみの肉が破れ、そこから何かドロドロしたジャムのようなものが溢れ出してくるのを耕平は感じる。
赤ん坊の泣き声が闇に響く。
「ほら、耕平君。僕らの強くて、怖くて、悪いものがたくさん生まれたよ。これからもたくさん、君は生み続けるよ。あとは強くて、怖くて、悪いものにまかせて、世界がスクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃになるのを、君はそこで見ていてよ。僕はちょっと外に出て、君の願いを叶えてくるよ。とてもロマンチックだろう? だって僕は、神のように君を愛してるから」
耕平は落下し続ける。
もうどうしょうもないということに、彼は泣きながら歓喜している。
ありがとう! ありがとう! 俺はずっと、ずっと、こんな風になりたかったんだ! めちゃくちゃに、ぐちゃぐちゃになりたかったんだよ!
どうや���、彼は狂ったのだ。
パトカーが公園に到着した時にはすでに全て手遅れだった。
後頭部から黒い血を流しながら公園に戻って来た耕平は、「変な人がいるから今日はみんなで帰りましょうね、集まって」と声をかけていた母親たちに向かって猛突進した。
母親たちは悲鳴をあげて耕平を避け、耕平は地面にうつ伏せに倒れた。
母親たちの何人かは自分の子供や、顔みしりの子供の名前を呼び、「走って人がいるところまで逃げなさい!」と命じ、何人かは自分の子供の手を引いて走り出した。そして残った何人かは(飛び抜けて責任感が強く、また、飛び抜けて危機管理能力が低い者たち)、倒れた耕平にじりじりと近寄り、「そのまま動かないで!」「少しでも立ち上がろうとしたり、逃げようとしたりしたら殴るからな!」と怒鳴った。
「スクランブルエッグみたいにぐちゃぐちゃにするんだ」
母親たちは倒れた男の声に顔を強張らせた。
声は耕平の後頭部にできた裂け目から聞こえてきたからだ。しかもその声は、小さな男の子の声だったのだ。
彼女たちは無言のまま顔を見合わせた。その目は「今のは聞き間違いよね?」とお互いに確認する目だった。
裂け目から流れる血がコポコポと泡立ち始める。最初はゆっくりと、やがて沸騰した湯のように激しく。
母親たちは悲鳴をあげ、「もういいよ! 行きましょう! 警察がくるから!」と言って走り出した。
誰か1人でもそこに残っていたのなら、耕平の裂け目から声の主人の小さな指が出てくるのを見れただろう。
その10本の指が内側から裂け目を掴み、押し拡げるのも見れただろう。耕平の頭蓋骨がバキバキと割れていく音も聞こえたはずだ。
十分に広がった裂け目から、子供の両腕がぬるりと肘まで出てくる。続いて頭が。子供は両手を地面につき、「よいしょ」と言って自分で自分の体を引っ張る。胸から腰まで一気に裂け目から抜け出す。腰まで外に出てしまえば、足を出すのは容易だった。
その子供は、男の子は、ヒロ君は、足元に転がる耕平を見下ろす。ヒロ君のお臍から伸びた臍の緒は耕平の裂け目の中へと続いている。
耕平はまだ生きている。これからも生きるだろう。少なくともヒロ君が耕平の願いを叶えるまでは。
パトカーが到着し、警察官が2人、公園に駆け込んで来た。
2人は血だらけで倒れている耕平と、耕平を見下ろしているやはり血だらけで全裸の男の子の後ろ姿を見て「君! 大丈夫かい!?」と叫んだ。
ヒロ君が振り返り、そのピザった顔を見せると、警察官はより甲高い声で「おい、嘘だろ!」と叫んだ。
ヒロ君は例のスノッブな仕草で首を傾げたあと、「嘘じゃなくなったんだよ」と言い、両手で指を鳴らした。
「もう、現実は全部、僕のものだ」
そして、耕平の裂け目から、強くて、怖くて、悪いものが、闇の全てが、外側へと溢れ出した。
よかったね、耕平。
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