Perfume goes back to dance basics ahead of Coachella debut
The Japan times 2019年1月10日掲載
PATRICK ST. MICHEL 執筆
訳出元: https://www.japantimes.co.jp/culture/2019/01/10/music/perfume-goes-back-dance-basics-ahead-coachella-debut/#.XDr-UqRcUlT
Perfumeは15年に及ぶそのキャリアの中で、新たなチャンスを掴み続けてきた。この春、エレクトロ・ポップトリオはアジア、北米を含む自身最新のワールドライブツアーを開始するが、真のハイライトはこの旅の終盤、カリフォルニア州インディオのコーチェラ・フェスティバルに於ける、4月の二週末に渡るライブだ。
「私たちにとって大きな挑戦になりますね」「あ~ちゃん」として知られる西脇綾香は、渋谷に所在するアミューズ本社でジャパン・タイムスにそう語った。「タイムテーブル上も厳しいものがあるだろうし、もちろんほとんどの観客は私たちを知らないでしょうから」
この最大級の人気を誇る音楽フェスティバルに、彼女たちJ-Popアーティストが登場するのは初めてのことだが(捉えかたによってはX-JAPANだと思う方もいるだろう)Perfumeはここでは四番手に甘んじている。
この立ち位置を、あ~ちゃん・樫野「かしゆか」有香・大本「のっち」彩乃の3人は、出身地である広島でUKポップをカバーしていたライブ時代から、2000年中期に東京へ拠点を移し、解散の危機を迎えるまでを含む、自身のキャリアの中で充分に演じている。しかしながら、今世紀における日本人アーティストのトップ・グループのひとつとして成長するまでになり、日本国外での根強いファン層を持つ稀な例となった。2019年が始まり、3人組はたゆまず新たな道を-音楽世界の探求を続ける。
何よりも優先されるだろう前述のワールドツアーは、2月の終わりに上海からスタートし、3月始めには台湾を経由、北米へと歩を移すと、4月いっぱいまで続く。アメリカでは3回目の公演であり、その経験を生かした流れだ。
「このワールドツアーが、いちばん新しい(2018年のアルバム)『Future Pop』国内ツアーから続くひと区切りになるし、少しだけスケールを小さくする必要があるんですけど」のっちが答え「私たち、どうやったら海外に同じメッセージとパフォーマンスを届けられるか常に考えてるんです」
過去10年に渡り、日本国内でのPerfumeのライブは、近年ライゾマティクスによって提供されている最先端技術との融合で名高い。あ~ちゃんが語るには、ライブにおいてはこういった未来的な演出がファンに期待されているという。しかし、より狭い海外の会場にこれらの演出を持ち込むのは不可能だと。
「結局は私たちのダンス技術に行き着くんです」あ~ちゃんは言う。12月11日の横浜アリーナ公演を観る限り、それは確かな事だと明らかになった。ソールドアウトしたこのライブの特色は、レーザー、気の利いた映像トリック、そしてシンクロしたCGIの背景ビジュアル(そのうちひとつは今年のNHK紅白歌合戦でのパフォーマンスに似ている)だが、『FUTURE POP』ツアーの焦点は3人のダンスへと移っている。なぜなら、アリーナ級の(演出)技術よりも、これらの技を観客に伝えるほうがはるかに簡単だからだ。
「最初のワールドツアーの間じゅう、日本と海外の観客との、反応の違いを心配していたんです」グループの長年の振付家で、MIKIKOとして良く知られる水野幹子氏は語る。「でも(実際は)ライブがすべての国で好評だったので、とても嬉しかった。特にアメリカの観客ですね。海外での公演だからといって、何かを変える必要はないと確信したんです」
MIKIKOによれば、現在のツアーセットはメンバー自身の身体的な動きに焦点を当てるために、よりシンプルに作られたという。
「私が思うに、彼女たちのライブの本当の楽しさは舞台装置に左右されないことなんです」彼女は言い、「会場の広さに関係なく、あらゆる場所で楽しめるものを作りたいと考えたんですね」
「めっちゃ緊張しますね」彼女たちのダンスへ最大の注目が集まるライブ、その開幕準備の様子を、あ~ちゃんが笑いながら語る。「ただただ練習を積み重ねて。でも二人が一緒にいる限り、なんでも大丈夫だって知ってますから」
特別版のBrutusマガジンが、アミューズ本社のロビーに飾られている。このタレント事務所の40周年を特集したものだ。始めのページには、10代のPerfumeが野外で踊っているように見える写真があり、これはまだ無名のころ、駐車場やアップルストアの片隅で踊っていた時代へと遡るものだ。こういった過去の思い出をたずねた時、3人はライブのために(3曲しか持ち歌がない時代に)3曲の順番を決める長時間のセットリスト会議のことを思い出してくれた。「私たちと一緒にダンスを踊りましょうっていう企画もあって、ベストダンサーにはステッカーをあげたよね」と、のっち。
「長い長いマジックショーもやったんです」かしゆかがくすくす笑いながら思い出す。「あ~ちゃんがマジシャン、のっちが助手で、私がMCでした」
しかし素人マジックの日々は、Perfumeがメインストリームへと踊りだした2007年を機に消え去った。その背後には、長年のプロデューサーである中田ヤスタカの手になる、うなるベースライン、加工されたボーカル、耳に残るサビを含んだ楽曲群の制作がある。3人のダンススキルもまた重要な要素で、シャープで精密な動きに重きを置くことで、バタバタした赤ちゃんアヒルのような振り付けを避け、それらを多用するアイドル音楽の世界から彼女たちを切り離した。
MIKIKOが回想するには、彼女たちがダンスに捧げる情熱は初めて出会った日々から変わらず、それは貴重なことだという。
それがコーチェラで心を掴むための鍵かもしれない。北米ツアーではファンの前でライブを行い、そのファンの一部がカリフォルニアの砂漠へ飛び出すとしてもだ。コーチェラの観客の大多数はPerfumeが何者なのか知らないだろうが、彼女たちはその大観衆に立ち向かうことになるだろう。
メンバー自身もこの挑戦を認識しており、それを克服する方法を考え始めているところだ。
「日本語の挨拶から始めるのはインパクトがあると思いますか?」かしゆかが付け加えながら「観客の注意を引きたいんですよね。どうしたらいいと思います?」咳払いしてから私が答えたのは-外国の言葉はうまく響かないでしょう、単に音楽的に聞こえてしまうかも、だった。あ~ちゃんが身を乗り出し「たぶん大声で騒いで叫んだらええんとちゃう。何かしら爪痕が残るじゃろ?」
「自分たちのパフォーマンスや音楽をカッコいいと思ってますし、私たちをよく知らないアメリカの観客にもきっと伝わるはずです」あ~ちゃんは続けながら「コーチェラに出演できるなんて思いもしなかったし、夢はもう叶ってます!私たちはただベストを尽くして、それを最大限に生かしたいですね」
こういったやりとりのすべてが、国内での成功に安住することなく、Perfume自身がチャレンジを続けている事を思い起こさせる。
成功は音楽活動だけに留まらない。Perfumeはまた、エンターテイメント業界の別の分野にも進出しており、それは過去にはバラエティ番組の司会だったりもするのだが-目下の挑戦は衣服のブランドラインを擁する「Perfume Closet」であり、動画SNSのTikTokへの参加だ。
「変化を恐れずに、もっとたくさんの活動をしたいんです。ソロ活動も同じくらい」あ~ちゃんが言う。この話題が、メンバー各自が次にやりたい活動についての会話を促した。
かしゆかはCasa BRUTUS誌に日本の工芸品を扱う連載を持っているが「日本の伝統工芸を扱うお店を開きたいな。本当にいま一番興味があることだから。今なら海外で日本のいろいろなものを紹介できるポジションや機会を持ってるし、日本の素晴らしいものを知ってもらいたいですね」
のっちは将来的に自分の趣味を共有したいと言い(「わたしひとりっ子なので、なんでもひとりでやりがちなんですよね。興味のある事を誰かに知ってもらおうなんて思わなかったし」)
そこへ- あ~ちゃん最大のチャレンジでもあるペットのポポちゃんが、インタビュー中盤にグルーミングの予約から帰って来ると- 室内はkawaii混乱になった。
「犬のお洋服を作りたいかな」他のメンバーがポポちゃんと遊ぶあいだ、あ~ちゃんが答える。
「たくさん洋服を買うんですけど、それをワンちゃん用にリメイクしたい。でも、あくまで個人的になんですけど」
Perfumeには少なくともあとひとつ、活動上のマイルストーンの兆しがある。
「2020年にオリンピックが東京にやってきますよね。エンターテイメント業界全体がその一部になろうと準備を始めていますから」あ~ちゃんは続けて「もちろん私たちもそこに参加したいと思っています。技術を向上させて最高のパフォーマンスを続けていければ、それも可能なはずです」それが3人のもうひとつの挑戦なのだ。
春の北米ツアーはPerfumeにとって3度目の大陸横断となる。以前のツアーでは、3人組はアメリカのファースト・フードを楽しみ、ピクサースタジオを訪問し、大型スーパーに駆け込んだ。
今回のツアーオフで何が楽しみかを聞いてみると
かしゆか「食事!(笑)でも新しい公演場所、例えばダラスとかシアトルで何が有名なのか知らないからなあ。どんな場所に行っても、地元の名物が好きなんですよね...ピザみたいな(笑)その他なら、いつも3人でお買い物するのが楽しいですね」
あ~ちゃん「ナイアガラの滝!滝が大好き!」
なぜそんなに滝が好きなんですか?
あ~ちゃん「匂いからして違う。まわりの空気感もぜんぜん違うし、滝に近づくと気温もさがるし。それって凄いでしょ!」
のっち「五大湖!学生時代、湖の名前を答えるテストがあって、ぜんぶ記憶したから」
あ~ちゃん「あ~、それいいよね」
のっち「本物がどうなってるのか見たいなあ」
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日本の美しい魂を、とりもどす
日本国憲法・占領典範無効確認と、大日本帝国憲法・明治皇室典範現存宣言で、「至高の権威」「万民の父母」天皇に立憲君主としての大権をお返しする
「『南京大虐殺』の虚構」の完全証明 ①東京裁判と「南京安全区国際委員会」そして南京の人口
東京裁判の記録と1937年当時の同時代一次資料で、「『南京虐殺』など無かった」と証明できるにも拘らず、左翼反日プロパガンダを公式に排すべき立場にあるはずの文科省、外務省が、未だに「南京虐殺が在ったのは事実。問題は被害者の人数だけ」と思い込んでいる。日本の知識階層のエリートであるはずの彼らが、「南京事件」など代表的な反日プロパガンダの学術的な検証を放棄している。だが、そこを指摘できない政府の不勉強は不問に付して良いのか?
2016年度教科書検定に於ける「南京事件」「慰安婦問題」「中国人強制労働」「関東大震災時の朝鮮人虐殺」で「政府の主張反映」(朝日新聞2016年3月19日)とは各々「被害者の人数は諸説ある」「法的に解決済み」「各国との条約で解決済み」「虐殺数・数千人は通説がない→数百人~数千人」___。これでは全く「東京裁判史観」の域を出ていない。
朝日新聞は「多様な見方 触れる必要」といいながら、「日本は完全に無実」という観点は全く欠落している。両論併記どころか、「『日本は無実』という説もある」とすら言及しない。「日本無罪論」の存在すら認められていない。これが公正な報道と言えるのか?
反日親中の牙城である朝日新聞はともかくとしても、「戦後レジーム脱却」のホープである安倍晋三首相を擁する政府自民党が、東京裁判史観を脱していない…日本悪玉史観で70年間教育された国民ではない、「戦後レジーム」を打破する内閣が、自分達が戦っている真の敵=プロパガンダについて無知とは、どういうことだろうか?
戦後70年の安倍談話にかなりの影響を与えた「21世紀構想懇談会」の座長代理、北岡伸一国際大学学長は談話発表前に、公然と「日本が中国を侵略したのは事実」「安倍首相にも談話で『侵略』と言って欲しい」といっていた。その5年前の「日中共同歴史研究」の頃、彼は次のように語っていた。
「日本に侵略を否定する声が大きいうちは、中国は、日本は反省していないと主張し続けることができる。」
「中国や韓国の歴史記述が過度にナショナリスティックになっていることは、よく知られたことである。(中略)しかし、日本のなかで侵略や虐殺の事実そのものを否認しているために、そこにふみこむことさえできなくなっている。道義的な優位性を失っているからである。」
(「共同歴史研究 『侵略』認め、日中攻守逆転」 2010年4月18日付読売新聞)
「侵略や虐殺の事実そのものを否認すること」で、日本が『道義的優位性』を失っている、と北岡氏はいっている。日本人は侵略者であるだけでなく、それを絶対に認めようとしない、反省しようとしない、道義的劣等民族である、と言っているのだ。日本国憲法・前文の絶対的信奉者とお見受けする。
だが、日本が自身にかけられた冤罪を無実と証明することと、中国や韓国の自国の歴史への自己欺瞞と捏造を批判することを同列に扱ってはならない。
完全に東京裁判史観を信じ切っていて思考停止し、それへの反論は一切耳に入らないのか、東大で法学博士となったにも拘らず本当に東京裁判の実相について無知なのか、それとも本当は真実を知っていながらハニートラップにでもかかって脅されている故批判ができないのか、それは知らない。
だが、東京裁判の速記録を実際に読めば、東京裁判が実は「日本の戦争犯罪」など何ひとつ証明していないことが、誰にでも解る。
東京裁判は「『南京大虐殺』など起こっていたはずがない」という証拠を無視した
以下は、所謂「Nanking Atrocities=南京の暴虐」についての東京裁判における審議の一幕である。
MR. LEVIN: Mr. Brooks calls [sic] my attention to the fact that in another portion of the affidavit is contained the statement that 300,000 were killed in Nanking, and as I understand it the total population of Nanking is only 200,000.
THE PRESIDENT: Well, you may have evidence of that, but you cannot get it in at this stage. ”
p.4,551, “The Tokyo Major War Crimes Trial: the Transcripts of the Court Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East” Edited by R. John Pritchard
ウェッブ裁判長はそれに対し「貴方はその証拠を持っているかもしれませんが、現段階でその提出はできません」と退けた。(裁判長は「現段階で」といったが、その後この件は二度と言及されなかったことは言うまでもない。)
「南京の人口20万人」説は日本人被告側弁護人ブルックスとレヴィンの希望的観測等では勿論なく、「南京虐殺があった」と言っている当の中国側資料にその典拠がある。
その資料とは、南京陥落時に南京に残り「南京安全区国際委員会」を組織して「難民救援」を行った米国人宣教師やドイツ・ジーメンス南京市所のジョン・ラ―べ国際委員会会長等が作成、日本大使館を通して日本軍当局と折衝するため提出した文書や書簡をまとめた『Documents of the Nanking Safety Zone=南京安全区[木當(一字)=とう]案』(Edited by Hsu Shuhsi, 1938年刊)、及びラ―べ等国際委員会メンバーの残した日記や手紙など(『Eyewitnesses to Massacre』『The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe』)である。
The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998), Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999), Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)
「難民救援」に括弧をつけたのは、南京国際委員会が、難民救済を建前にしながらその実、中国国民党・蒋介石軍を利する反日宣伝活動に従事していたからである。事実、『南京安全区とう案』は、南京から後退し重慶に置かれた国民党政府の外事評議会の援助を受けながら、国民党顧問の徐淑希によって編集されている。
南京の人口「20万人」は日本軍の南京占領2週間で「25万人」に増加していた
その「南京安全区とう案」が、「南京に残った200,000人の難民」と繰り返し何度も言及するということは、1938年当時の国民党政府が「南京陥落時の南京の人口は200,000人」と認識していたことになる。
現在の中国共産党政府が最も重用する「『南京虐殺』の同時代一次資料」は、「偶然にも」日本の歴史教科書執筆者や文科省教科書検定官と同じく、「ジョン・ラ―べの日記」であるが、実はここにも「南京の人口200,000万人」が何度も言及されている。その最も重要な言及が、日本軍の南京到達の2週間前に当たる1937年11月28日の記述である。
“Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city.” (p.39, The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe)
「警察長官の王固磐は、『20万人の中国人が未だ南京市内に居住している』と、繰り返し宣言している」と、反日宣伝活動・中国国民党軍後方支援を行っていた、ヒトラーに嫌われていた(隠れ親ソ派?)ナチス党員ジョン・ラ―ベが証言しているのだ。
しかも、この「20万人」という数字は、「虐殺」などあったなら当然減っていくはずなのに、実際は5万人も増加している。南京陥落から2週間が過ぎたクリスマスの頃には、『安全区とう案』や「国際委員会メンバーの日記・手紙」に言及される南京の人口は、「25万人」になっていくのである。
中国人難民には、南京市内と城外を自由に行き来できる証明書「良民証」が交付された
これは、陥落時に南京城内の安全区に逃げ込んだ中国軍の敗残兵を、正真正銘の中国市民と区別するため、日本軍が発行した「良民証」が、中国軍に拉致されて兵隊にさせられていた農夫たち(拉夫)や大部分の反抗的でない元兵士にも与えられたからであった。「良民証」の発行は、日本軍当局と中国人難民の代表の立会いの下で中国語で行われ、難民たちは若い女性も含め、これを貰う為に登録所へ殺到した。
Friday, December 31. Registration took place this morning—not of 260 college women, but of about 1,000 refugee women between ages of 17 and 30. By 9 o’clock they were lined up in front of Central Building and given a discourse—first by the Japanese military official, and then by Mr. Jan Yung-gwang—both in Chinese. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.368)
“During the afternoon there was not a great deal to do at the office. Trucks were interfered with because coolies could not work until registered and I suppose the same will be true today. But after people once pass the bugbear of registration they feel much relieved. So far reports of any large numbers being taken off as soldiers, about 20 from the Middle School [MS].Fitch was told yesterday that even soldiers would be pardoned if they had families here to guarantee them and those who had not, would be taken for work corps, not shot.But the officer that took the 20 from the MS said they were to be shot. We certainly hope that will be kept to a minimum.” (Lewis S.C. Smythe, Sunday December 26, 1937, Eyewitnesses to Massacre, p.276)
「『南京虐殺』から中国人を救った南京の女神」とまでもてはやされている、国際委員会のメンバーで金陵女子学院教師の宣教師、ミニー・ヴォートリンは「今朝、良民証登録が行われた。260人の女子学院の女性たちでなく、1,000人もの難民の中国人女性たちが、朝の9時には既に学院中央棟の前に並んでおり、日本軍将校とジャン・ユングァン氏の中国語の講和を聞いた。」と日記に書いた。
「良民証登録の『bugbear=根拠のない恐れ』をやり過ごして、一旦良民証を手に入れると、人々は非常に安心した。」「(市民服に着替えた便衣兵=元)兵士ですら、ここ(安全区)に家族がいて身元を保障するならば免罪されるし、もし家族がいなくとも、射殺されるのでなく、労働部隊へ廻されるのだ、と(同僚の国際委員会メンバー)フィッチは聞かされた。」と同じく国際委員会のルイス・スマイスは自分の日記に書いた。
同じ文章中に「中等学校(Middle School)から20人の中国軍兵士が連行された…連行した将校によれば、彼らは射殺されるという。」とあるが、これは「例外的に」反抗的、敵対的敗残兵であったのだろう。この件が国際委員会にも納得されていたらしいのは、最後の一文に「我々国際委員会はそのこと(良民証を与えられず、銃殺刑にされる敗残兵がいること)が最小限にとどめられるよう強く希望する」とあるのみで、「安全区とう案」に日本軍への抗議として記録されることは無かったという事実で解る。
中国軍は国際法違反の「便衣兵」となって難民キャンプに潜伏していた
南京陥落直前の1937年12月12日夜。(1)南京防衛軍司令官唐生智は形勢絶対不利を見てとり、さっさと敵前逃亡した。(2)置き去りにされパニック状態になった中国軍は、武器を捨て、兵隊服を脱ぎ捨て、予め携帯していた「便衣服=市民服」に着替え、中国人非交戦者の為の安全区に、市民を装って入り込んだ。(3)彼らは「敗残兵と市民とを分ける能力のない」安全区国際委員会の目と鼻の先で、安全区内に潜伏し、武器を隠匿し、(4)機会を捉えて略奪、放火、強姦や殺人などを同胞である中国人難民に対して犯し、これを日本軍のせいにしようと企んでいた。
中国国民党軍のこれらの行動は完全な国際法違反であった。
1907年 ハーグ陸戦法規 第一章 交戦者の資格
第1条: 戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される。
(1) 部下の責任を負う指揮官が存在すること。
(2) 遠方から識別可能な固有の徽章を着用していること。
(3) 公然と兵器を携帯していること。
(4) その動作において、戦争法規を遵守していること。
これを証明する記事が1938年1月4日のニューヨーク・タイムズに掲載された。
「元中国軍将校らが米国人の難民キャンプに:大佐とその部下達 南京での犯罪を日本軍のせいにしていたと白状」「南京に留まって国際難民救済委員会を結成していた米国人大学教授達には非常に不面目なことに、彼ら自身の難民キャンプに敗軍の将校とその6人の部下を匿っていたことが発覚。」「しかも、あろうことかその大佐を、難民キャンプの幹部に据えていた。」「彼らは南京防衛戦で退却の際、軍服を捨て去り、大学構内に潜伏していた。」「彼らは、日本軍の掃討部隊に、建物内に隠匿した6丁のライフルと5丁の回転式拳銃、砲台から外した機関銃と弾薬を発見された後、自分たちの真の身元を白状した。」「これらの元中国軍将兵たちは、南京で略奪を働いたこと、そして或る夜、難民キャンプから女の子達を暗闇に引き摺り込み、翌日この暴行を日本軍のせいにしたことを、米国人をはじめとする外国人の面前で告白した」「この元将兵たちは逮捕された。そして軍法会議にかけられ、おそらくは処刑されることであろう。」(拙訳:筆者)
New York Times 4 JAN 1938
南京安全区国際委員会は中国国民党のプロパガンダ工作に携わっていた
この米国人宣教師らは、「知らずに」元中国軍将兵を難民キャンプに匿っていたのではない。東京裁判で証言したシャール・ベイツや『南京の日本軍暴行記録』を書いたルイス・スマイスは、国際プロパガンダ工作の為に国民党に雇われていたことが国民党極秘文書から明らかになっているし、南京YMCAのフィッチは「南京放送で国民党のプロパガンダを流している」と、当時中共軍と行動を共にしていたコミンテルン・スパイの米国人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーも自著に書いていた。ベイツとミニー・ヴォートリンは「秘密裏に」国民党・蒋介石からヒスイ勲章を貰っている。
現中国共産党政府が「南京虐殺の生き証人」と持ち上げるジョン・ラ―べもまた、南京陥落直前の12月12日から、30,000ドルと引き換えに国民党軍将校「ラン」と「チャウ」の2人を自宅に匿い(『ラ―ベ日記』p.64)、翌年1938年2月23日にドイツへ帰国する為南京を離れる際には、やはり自宅に匿っていた「フアン空軍大佐」を自分の使用人と偽って帯同し、日本軍の警戒を潜り抜け、上海まで脱出させることに協力(同上p.202)している。
国際委員会の面々は、全員が程度の差こそあれ、反日的であった。日本軍は中国人難民による「自治委員会」を設立して、中国人自身の手による南京復興を奨励援助していたが、中国での布教活動がいまひとつ成功しておらず、本国からの助成金途絶の危機に直面していた米国人宣教師たちにとって、日本軍は「南京で難民を救済した」という「実績・手柄」を横取りする邪魔な存在であった。
南京の中国人は日本軍を慕っていた
南京を占領した日本軍の主力は、陥落後2週間で、重慶方面へ退却する中国軍を追跡し南京を後にした。残された1600人ほどで、南京市内の警備とインフラ復旧工事、遺棄された中国軍の分も含めた戦死体の埋葬・供養が行われ、南京の平和は急速に回復した。
Jan. 1, 1938—8:45 P.M. New Year’s Day Well, today has been the noisiest unhappy New Year I ever saw. Firecrackers began early this morning. But the barber was an hour late for his eight o’clock appointment and apologized by saying that he had to go out to fire firecrackers for the Japanese! Well, anyway the children had a grand time firing the crackers given out by the Japanese! (Lewis S.C. Smythe, Eyewitnesses to Massacre, p.284)
優しく礼儀正しい日本軍将兵から肉の塊を貰ったり、飾り付けをしたりして「穏やかなクリスマス」を過ごした国際委員会の宣教師たちは、正月には「日本軍からもらった爆竹を鳴らして、朝から非常に楽しい時を過ごした子供達」を目撃した。「今まで見たこともない騒々しい『嬉しくないお正月』だった」と書いたスマイスは、国民党のプロパガンダ要員としては、「敵」であるはずの日本軍と仲良くやっている南京市民の姿に素直によろこべなかったのであろう。
1937年12月20日林特派員撮影。『支那事変画報』第11集;昭和13年(1938年)1月27日発行
1937年12月20日林特派員撮影。『アサヒグラフ』昭和13年(1938年)1月19日号。
1937年12月20日林特派員撮影。『アサヒグラフ』諸王わ13年(1938年)1月19日号。
「南京で起こっている略奪・強姦・放火は中国軍の仕業で、日本軍ではない」と中国人
前述のニューヨーク・タイムズ1938年1月4日付記事のあと、1月9日の日記に、国際委員会のマッカラムは「いまや日本人は、安全区で努力している我々の信用を落とそうとしている。我々国際委員会が言ってきたこと(筆者注:日本軍の「悪行」を言い立てる「南京安全区とう案」のこと)を不当だと思わせようと、可哀想な中国人達を脅しているのだ」と書いた。
“Now the Japanese are trying to discredit our efforts in the Safety Zone. They threaten and intimidate the poor Chinese into repudiating what we have said.
Some of the Chinese are even ready to prove that the looting, raping and burning was done by the Chinese and not the Japanese.
I feel sometimes that we have been dealing with maniacs and idiots…” (James A. McCallum, Eyewitnesses to Massacre, p.238)
「何人かの中国人は、『略奪・強姦・放火は中国軍がやったのであって、日本軍ではない』と証明する準備がある、とまで言っている」「時々、我々(外国人)は狂人や白痴を相手にしているのかと思うことがある…」(拙訳:筆者)
だが、中国人達は日本軍に脅されてこのようなことを言っているのではない。そして、国際委員会のメンバーが反日プロパガンダを拡散していると知っていたのは中国人だけではなかった。
マギー牧師は、「南京での日本軍の『残虐行為』の話は虚偽であり、本当の犯人は中国軍である」という手紙をタイムズ紙に複数回書き送っていた、ニューヨークのマッキム牧師宛てに、長い抗議の手紙を書いていた。
“Dear Mr. McKim, It has been brought to my attention that you have been writing letters to the Times saying that the stories of Japanese atrocities in Nanking were false.
[…] If I had not seen with my own eyes the things that I have seen I could not have believed that such things could have had happened in the modern world.” (John G. Magee, A Letter to The Rev. J. C. McKim, April 2nd, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.198)
「もし私が自分のこの目で見たのでなければ、こんな(日本軍の犯したようなおそろしい)ことが現代のこの世の中に起こるとは信じられたはずはありません」などとマギーはマッキム師を非難したが、聖職者にあるまじきことながら、マギーは嘘をついていた。
南京の外国人達は、「虐殺」どころか一件の「殺人」も目撃していなかった
東京裁判で、『南京安全区とう案』の444件の事件報告を2日がかりで朗読したマギー牧師は、被告側弁護人ブルックス大尉に「今おっしゃった『殺人行為』のうち、何件をご自身で目撃されましたか?」と聞かれて答えた。
“I thought I made that clear in my testimony.
I only personally witnessed the killing of one man.” (p.3,929, Pritchard前掲書)
「私の証言の中で明確に申し上げたつもりでしたが…一人の男が殺されたのを、自身で目撃したのみです。」と、マギーは証言した。しかも、これは「殺人」ではなく、「誰何され逃げ出した怪しい男が警備兵に撃たれた」という話であった。マギーは「一昨日の話」として1937年12月19日の日記に書き残していた。
“Just day before yesterday we saw poor wretch killed very near the house where we are living. So many of Chinese are timid and when challenged foolishly start to run. This is what happened to that man. The actual killing we did not see as it took place just around the corner of a bamboo fence from where we could see.” (John G. Magee, Sunday-December 19, Eyewitnesses to Massacre, p.171)
「多くの中国人は臆病で、誰何されると愚かにも逃げ出してしまう。それがこの男に起こったことだ」とマギーは書くが、難民たちは日本軍に感謝し、慕いこそすれ、日本軍を恐れたりはしていなかった。そもそも、日本軍の方でも難民を「怪しい奴」とみて誰何することもなかったであろう。
しかも、この件には落ちがあり、誰何されて逃げた男は、国際委員会の面々の視界を外れた竹の塀の向こう側へ逃げたところで撃たれたので、「我々(国際委員会)は殺害自体は目撃しなかった」(同上、p.171)のであった。
実際には見なかったことを「見た」と、マギー牧師は東京裁判で証言したことになる。
真っ当な裁判であれば、これは「偽証」になるはずであったが、東京裁判には偽証罪の適用は無かった。
国際委員会が自分たちの目で本当に目撃した日本軍による「殺害」はただ1件、そしてそれは「合法的な処刑」であった
『南京安全区とう案』ケース185、国際委員会のクルーガーとハッツが1938年1月9日に目撃した「市民服の男」=便衣兵の銃殺である。
“ 185. On the morning of January 9, Mr. Kroeger and Mr. Hatz saw a Japanese officer and soldier executing a poor man in civilian clothes in a pond inside the Safety Zone on Shansi Road, just east of the Sino-British Boxer Indemnity Building.
The man was standing in the pond up to his waist in water on which the ice was broken and was wobbling around when Mr. Kroeger and Hatz arrived.
The officer gave an order and the soldier lay down behind a sandbag and fired a rifle at the man and hit him in one shoulder. He fired again and missed the man. The third shot killed him. (Kroeger, Hatz)
Note: We have no right to protest about legitimate executions by the Japanese army, but this certainly was carried out in an inefficient and brutal way. Furthermore, it brings up a matter we have mentioned many times in private conversation with the Japanese Embassy men: this killing of people in ponds within the Zone has spoiled and thereby seriously curtailed the reserve water supply for the people in the Zone. This is very serious in this long dry spell and with the city water coming so slowly.” (p.78, “Documents on the Rape of Nanking” edited by Timothy Brook)
「我々には、日本軍の合法的処刑に抗議する権限は無いが」と前置きして、射撃手が経験不足からか2度も急所を外し、3度目でやっと件の男を射殺した事、氷の張った冷たい池の中での銃殺刑であったこと等を「要領が悪く残酷なやり方」と批判し、「安全区内の池での射殺は、飲み水を汚染し、安全区の人々への給水の深刻な制限につながる」と非難している。
『南京安全区とう案』に載っている444件の「事件」は185番を除いて全てが「伝聞」、しかもその殆どは検証していない「また聞き」であった
Number 8
Cases of Disorder by Japanese Soldiers in the Safety Zone
Filed, December 16, 1937
Note: These are only sample cases we have had time to check upon more carefully. Many more have been reported to our workers.
[Cases number 1 to 15]
The above cases have been checked upon by foreign members of our Committee or Staff.
respectfully submitted,/ Lewis S. C. Smythe/ Secretary
(pp.9~11, Documents on the Rape of Nanking, edited by Timothy Brook)
南京国際委員会会長のジョン・ラ―べや同会セクレタリーのルイス・スマイスが日本大使館やアメリカ大使館との折衝等の為に書いた69通の手紙や覚書のうちの1通の、本文ではなく注意書きとして小さな字で���かれているものである。
「これらは、我々がきちんと裏付けを取る時間をとれた唯15件の事件報告である。更に多くの事件報告が、我々のスタッフに届けられている」と始まって、「上記の事件報告は、我々国際委員会のメンバー或いは事務員によって裏付けされている。」で終わっている。また、1938年1月31日の手紙「Number 56」にも、「以下にあげる事件(番号210から219)だけが、我々が事件当事者から直接聞くことの出来た事件である。(最初の2件は、以前の事件をタイプライターで清書する際に、見落としていたものである)」とスマイスが書いている。
The following cases are only the ones we have been able to get first hand reports of: (The first two are cases overlooked in typing up previous reports.) (p.116, Documents on the Rape of Nanking)
これらの注意書きは何を意味するのだろうか?その答えは、当時外交官補として在南京日本大使館に勤務し、国際委員会からの手紙にも数回その名が宛先として登場する、福田篤泰氏の証言によって明らかになる。
当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で10歳くらいの少女が5人の日本兵に強姦されている」あるいは「80歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。
「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。
また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。
(福田篤泰『一億人の昭和史』1979年版)
要するに、国際委員会の「事件報告」というのは、国際委員会の事務所に「中国人」が持ってきた「報告」を、検証もせずにタイプしてまとめているだけのものだった。
「南京安全区国際委員会報告書」は国民党プロパガンダであった
「報告者」の「中国人」が、国際委員会同様、中国国民党のプロパガンダ部隊か、その息のかかった人間であることはほぼ間違いない。
実のところ南京には、「米宣教師・国民党軍宣伝部隊」対「日本軍・中国人難民」の構図があった。
シャルフェンベルク・ドイツ大使館一等書記官が、1938年2月10日に書いた覚書がこの間の事情をよく説明している。
Memorandum of Chancellor Scharffenberg for the Embassy in Hankow
[……]
On 5 February, all officials were again invited to a tea [by the Japanese Embassy], as guests of garrison commander Major General Amaya.
We conversed very amiably for a good while, [then] Amaya…gave a speech…. His thesis was: Everything would have gone far better in Nanking without any Westerners. The Chinese had crept in under the Westerners’ coattails and by trusting in our intervention, had dared to defy the Japanese. In Yangchow…everything had fallen into place wonderfully after a few days, and commercial life had scarcely been interrupted.
The high point of of his speech was: “Please don’t interfere in my dealings with the Chinese!” [……]
The Safety Committee has long been a thorn in the side of the Japanese, but since 4 February a large number of Chinese have in fact left the camps and found shelter somewhere in the city. In my view, Herr Rabe as its chairman has indeed achieved extraordinary things, but he has let himself be lulled far too much by the Americans and is helping promote American interests and missionaries who are out to catch souls en gros.
Rabe realises as much himself, and is trying to get Japanese permission to go to Shanghai, but he is still actively trying to counter the bloody excesses of Japanese looters, which have unfortunately increased of late. To my mind, this should not concern us Germans, particularly since one can clearly see that the Chinese, once left to depend solely on the Japanese, immediately fraternize. And as for all these excesses, one hears only one side of it, after all.
「(3日のディナー・パーティーに続いて)2月5日にも、全大使館職員が(日本大使館に)茶会に呼ばれた。」「しばらく談笑したあと、天谷少将がスピーチをした。」「彼の論旨は、『南京に西洋人が一人もいなければ、もっとずっと物事は上手くいったはずだ。中国人は西洋人達のコートの裾に隠れながら、いざとなれば西洋人が助けてくれると踏んで、平気で日本人を侮った。揚州では、陥落数日後に全ては収まるところに収まった。商業活動にも殆ど支障はなかった。』ということだった。」
「要は『日本軍と中国人との問題に口を挟まないでくれ!』といいたかったのだろう。」
シャルフェンべルクは続ける。「国際委員会はずっと日本人の咽喉に刺さった棘だった。が、2月4日には大部分の中国人難民は帰宅するか、南京市内のどこかに別の棲み家を見つけた。(筆者注:日本軍の指導により、難民の安全区は1938年2月4日で解散。中国軍の清野作戦・拉夫(農夫を誘拐して兵隊にする)のせいで家を焼かれ、主人を失った女性には日本軍から見舞金が支給され、殆どの難民は帰宅した。そして貰った「良民証」を見せれば、郊外で作った農作物等を売りに、自由に南京城内へ入ることができた。)ラ―ベ氏は立派な仕事をしたと思う。だが、彼は寧ろ自ら進んでアメリカ人達にたらし込まれ、アメリカの国益と、大量に信徒を得ようとやっきになっている米宣教師達の利益を追求する手助けをしている。」
「ラ―ベ氏は自分でも気付いている。そして(筆者注:ドイツへ帰国の為に)上海への渡航許可を日本当局に申請しているが、一方で、最近また増加している日本軍の略奪・残虐行為への対応に、今尚積極的に取り組んでいる。正直に言って、我々ドイツ人が心配することではないと思う。何故なら、誰にでも明らかなことだが、中国人は日本人だけを頼らねばならないと見るや、一瞬にして日本人と親しくなってしまった。そして、これら全ての「残虐行為」についていえば、誰かさん(ラ―ベ氏)は結局のところ片方(中国人)の話だけを聞いているのだから。」
外国人宣教師達も国際委員会の宣伝活動を非難していた
シャルフ��ンべルクだけではない、同じ宣教師仲間の外国人達も国際委員会の「国民党宣伝活動」を批判していた。
The chief officer of the Embassy [of Japan] formally referred to me as “anti-Japanese” ……. Some of the foreign group here have continually besought me (and to a lesser extent Smythe and Mills)—Fitch also when he was here—to cease the thorough reporting and protesting and indirect publicity, lest all missionaries be excluded from Nanking. (Miner Searle Bates, letter to Timperly, March 3, 1938, Eyewitnesses to Massacre, p.31)
「日本大使館の主席官吏は、公に私を指して“反日”と呼びました。(中略)ここ南京にいる外国人グループのうちの何人かは、私に向かって(回数は少ないがスマイスやミルズにも)___そしてフィッチがいる時には彼にも___詳細な報告、抗議、間接的な宣伝を止めてくれ、と頻繁に嘆願するのです。(私達のせいで)全ての宣教師が南京から追い出されることを怖がっているのです。」
これはベイツが、ハロルド・ティンパーリーに宛てて書いた手紙である。ティンパーリーは、国民党が外国人を使った国際プロパガンダ工作の一環として出版させた『What War Means: Japanese Terror in China=戦争とは何か:中国における日本の暴虐』の著者で、ベイツとスマイスは上海を拠点とするティンパーリーに日本軍の情報、南京の状況を書き送って、英語による国際的な反日プロパガンダの発信に携わっていた。
ティンパーリーや、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダ―ディンなどの、上海にいる反日外国人記者により、英語で発信される「日本の残虐行為」に騙された人々が「残虐非道の日本を懲らしめろ!」という「国際世論」を形成し、その「国際世論」に騙された、或いは騙されたふりをした人々が、「『南京虐殺』があったのは事実」などといって思考停止し、大元の「日本の残虐行為」という嘘を「(第3者である外国人による客観的な)虐殺の証拠だ」といって、人々にも思考停止を強要している。それが今、世界規模で起こっている事である。
だが、南京の真実は「中国人の言うことだけ」を聞いていてはわからないのだ。その中国人が本当の「良民」なのか、プロパガンダ工作員なのかを見極めなければ。とはいうものの、これまで挙げてきた3冊の本「The Good German of Nanking: The Diaries of John Rabe (Edited by Erwin Wickert, 1998)」「 Documents on the Rape of Nanking (Edited by Timothy Brook, 1999)」「Eyewitnesses to Massacre: American Missionaries Bear Witness to Japanese Atrocities in Nanjing (2001)」を精読するだけでも、南京攻略戦、南京陥落時とその後の様子は、映画を見るように鮮やかに見えてくる。肝心なのは、まず先入観を捨てることだ。
国際委員会は日本軍が安全区を砲撃しなかったことを感謝していた
Letter to Japanese Commander of Nanking
December 14, 1937
Honorable Sir,
We come to thank you for the fine way your artillery spared the Safety Zone and to establish contact with you for future plans for care of Chinese civilians in the Zone.
(p.1, Documents on the Rape of Nanking)
『南京安全区とう案』は、その最初の書簡、南京陥落翌日の、日本軍総司令官への手紙で、日本軍が南京攻略時に安全区を避けて砲撃を加えた「立派なやり方」と、そして、「中国人を殺したこと」ではなく「安全区にいる中国人非戦闘員の為の福祉についてこれからの計画を立てる為、[日本軍]との連絡の手段が確立されたこと」に感謝している。
これまで見てきたように、この後、国際委員会は444件もの(自分たちで目撃したのでない、検証もしていない)「事件」報告をしてゆくのだが、それと並行して、「安全区にいる(常に数の変わらない)20万人(後に25万人)の中国人」の為に食糧(主に米)等を国際委員会が販売するため日本軍に融通してくれるよう要請する手紙を、繰り返し出している。
難民の世話は、既に日本軍がきちんとやっていた。1938年1月1日には難民たちの代表である紅卍字会を主体とする「中国人自治会」が日本軍の協力で発足し、同2月4日には早くも「安全区」を解散できるまでに南京復興は進んでいた。それを横から「手柄」だけさらおうとしていたのが国際委員会であり、その上日本軍について「あらぬことないこと」出鱈目ばかりを言い募ってくる厚い面の皮には、如何に「紳士的な日本軍将校(複数の国際委員会の外国人による評)」でも、少なからぬ苛立ちを覚えたことであろう。
陥落後3カ月で日本人婦女子も南京に帰還。南京の人口、陥落1年後には40万人に
南京の人口は、日本軍が南京に到達する以前の11月28日に警察長官・王固磐が発表した「20万人」から,12月24日から始まった「良民証」の発行により「25万人」に増加し、日本軍による戦場整理・インフラ復旧で市外に避難していた人々も帰還し始める。1938年3月31日までには600人の女性・子供を含む日本人居留民も戻ってきた。そして、1938年11月には、「南京の人口40万人」と、反日宣伝でヒスイ勲章も貰った国民党顧問のベイツが書くまでになる。
At this time of writing [march 31, 1938], we are connected by train, bus and merchant boat with Shanghai and it is said that 600 Japanese civilians including women and children are now here. (Minnie Vautrin, Eyewitnesses to Massacre, p.345)
Nanking’s population has now come up to practically 400,000 (as compared with 250,000 in the Safety Zone period and just 1,000,000 before the war). Recent additions are largely refugees from the country, some of whom went there from the city in search of safety, but have now used or been deprived of all their money (and often of their clothes) in the precarious hinterland of guerrilas and punitive raids. (Miner Searle Bates, Eyewitnesses to Massacre, p.44)
ベイツは書く。「最近の帰還者は主に市外への避難者だ。(戦場となる)南京市から安全を求めて避難したにも拘らず、匪賊が過酷な取り立てを行う不安定な僻地で、お金を(そして多くの場合は着る物も)使い切ってしまったのだ。」
★中国の民衆が恐れていたのは、規律正しい日本軍でなく、寧ろ略奪する匪賊であり、戦時には撤退する中国兵の焦土作戦(三光作戦=全て焼き、奪い、殺し尽くす)であった。
★日本軍の占領は、各地で歓迎されていた。
★南京は、陥落数日後には既に、大通りに難民による「泥棒市」が立って賑やかに混雑していた。(お人好しの日本兵がそのお客だった)
★難民は安全区に集中して居住しており、その安全区は日本軍が警備しているので匪賊の跋扈する城外よりも、遙かに安全だった。
★安全区内での危険の全ては、難民に化けて敵対行動を続け、難民を襲ってその罪を日本軍になすりつけていた、便衣の敗残兵によるものであった。
★その敗残兵が陥落時に安全区に入り込むのを黙認・或いは積極的に匿って安全区に(或る者達はなんと「武器格納庫」のある建物に)入れたのは、国際委員会の外国人達だった。
★東京裁判は中国人と、この国際委員会の外国人の言うことをろくに検証もせず、反対尋問による疑問点は全て無視して「南京虐殺」はあったことにした。
だが、東京裁判は松井石根大将が「『南京虐殺』を命令した事、認可したこと、許可した事」を証明できなかった。
松井大将は、「訴因54:残虐行為の命令・認可または許可」では不起訴になり、「訴因55:戦時国際法の徹底遵守・違反行為の防止義務の無視」、つまり「部下の監督不行届き」の罪で死刑になったのである。(他の訴因1、27、29、31、32、35、36;それぞれ「共同謀議」「中華民国・アメリカ合衆国・英連邦・オランダ・ソ連邦(張鼓峰事件・ノモンハン事件)に対する戦争の開始」も全て不起訴)
日本人が東京裁判史観から抜けきれないのは、東京裁判の実相を知らないからに他ならない。
「『南京大虐殺』が『中虐殺』だろうが『小虐殺』だろうが、『あった』ことには変わりない。」「証拠は山ほどある」と言う人は、本稿で挙げた一次資料を精読した経験がないのだろう。あれば恥ずかしくてそんなことは言えないはずである。
これらの本の序文、或いは裏表紙の「お勧めの言葉」などには、決まって「この本の中に『南京虐殺』の真実がある!」と書いてあるのは、実は「『南京虐殺』などなかった」という真実でしかないのだが、おそらく学者もジャーナリストも反日活動家も、「『南京虐殺』があった」という本が出ている、というそのことを以て「『南京虐殺』の証拠」としているのに違いない。序文や裏表紙だけを読んで中身も読んだ気になっているのだろう。
「戦後レジームからの脱却」を掲げる安倍晋三首相と自民党政府にお願いしたい。
日本の大学の法学部には、必ず国際法(平時・戦時)学科をおき、「東京裁判」「GHQ占領政策」研究室を設ける。
法学部のある大学には必ずその図書館にR. John Pritchardの「 The Tokyo major war crimes trial: the transcripts of the court proceedings of the International Military Tribunal for the Far East」全124巻(速記録114巻とガイド10巻) を所蔵させる。
「国際宣伝戦」についても大学に学部が欲しいところだが、少なくとも「東京裁判」「GHQ占領政策」とともに講座を設け、社会人も勉強し直せる体制をつくる。
学会もメディアも東京裁判史観で飽和している現状のままでは、いつまでたっても、国民はなぜ外国人がひそかに日本人を軽蔑しているのかが解らない。「一億総前科者」であるという事実を知らない。
彼らの日本人蔑視の理由をまず知る。そして、理論武装して反論する。論破する。
そして、連合国の誤謬を指摘する。徹底討論する。それで初めて、先の大戦の、本当の反省ができる。
「南京大虐殺」の嘘で、日本国民と中国の民衆との本当の友好が、破壊されている。
日中友好は、日中戦争で、日本軍が、もう成し遂げていた。そのことに気づくのが、「戦後レジーム」からの、本当の脱却の第一歩なのだと思う。
上海における天長節祝賀式場 1939年4月29日 『支那事変画報』昭和14年4月7日~5月3日
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TUFS Cinema 南アジア映画特集③『わな おじいちゃんへの手紙』 【解説補遺版】
日時:2017年6月10日
於:東京外国語大学 アゴラ・グローバル プロメテウス・ホール
解説:安宅直子(編集者、インド映画研究)
トピックス
1.マラヤーラム映画とケーララ州について
2.芸術映画と大衆映画
3.「ジキルとハイド」ジャヤラージ監督
4.物語の舞台①:クッタナード
5.物語の舞台②:シヴァカーシ
6.『窓ぎわのトットちゃん』とインドにおける日本文学
7.ケーララ・クリスチャンの世界
8.チェーホフとケーララにおけるロシア趣味
付『わな おじいちゃんへの手紙』資料集
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1.マラヤーラム映画とケーララ州について
TUFS Cinemaでマラヤーラム語映画が上映されるのは初めてであるようなので、ここでマラヤーラム語映画についてアウトラインをお話しします。
マラヤーラム語は、インド南端のアラビア海に面した西側、ケーララ州で話される言葉で、州の公用語です。ケーララ州の面積は約38,800平方キロメートル、人口は約3千300万、東京都の1.7倍ほどの面積に、東京都の2.4倍ほどの人が住んでいることになります。州人口の96%がマラヤーラム語を母語としており、また、識字率は94%とインドではかなり高率です。映画の市場として考えると、3千300万人という数はかなり小さいほうですが、マラヤーラム語映画は一般に低予算ながらも毎年100本以上の長編劇映画が製作されています。
後で詳しく述べますが芸術映画のジャンルでも伝統的に有名で、日本でもこれまでに30本以上が映画祭で上映されています。
マラヤーラム語はドラヴィダ語族に属し、お隣のタミルナードゥ州の公用語であるタミル語から分かれて成立したものです。タミル語の西部方言の上に北インドのサンスクリット語の音と膨大な語彙が流入して今日の形になりました。タミル語とサンスクリット語、両言語のすべての音を持っています。
マラヤーラム語による最古の碑文で残っているものは10世紀のものですが、話し言葉においてはタミル語はさらに後代までケーララに残っていた可能性があるそうです。タミル語とマラヤーラム語は他のドラヴィダ諸語と比べても非常に共通した部分が多く、かなり近しい間柄にありますが、同時に非対称性も持っています。
簡単に言うと、タミル語を母語としてさらにマラヤーラム語を解する人よりも、マラヤーラム語を母語としながらタミル語も解する人の方が比率において圧倒的に多いということです。
なぜタミル語のことを話すかというと、マラヤーラム語映画の中では、しばしばタミル語が字幕も吹き替えもなしで出てくるからです。後で述べますが、本作でもタミル語が話されている場面がありました。ケーララ州では、お隣のタミルナードゥ州で作られるタミル語映画も大人気で、基本的に字幕も吹き替えもなしで上映されますが、逆はあまりありません。
話をマラヤーラム語に戻しますと、ケーララ州は前に述べた94%という高い識字率から、出版・印刷物によるジャーナリズムが盛んであるという点で特異です。マラヤーラム語の日刊紙ではMalayala ManoramaとMathrubhumiの二強がそれぞれ140万部前後の公称部数を誇っており、これは全国的に見てヒンディー語紙、英字紙に続くもので、どちらもベストテン入りとなっています。
書籍の出版でも、マラヤーラム語の出版タイトル数は、ヒンディー語や英語を含む出版界全体の中で、2004年の統計では第七位につけています。人口比を考えれば、かなり出版が盛んな言語圏と考えていいと思います。
映画中で『窓ぎわのトットちゃん』のマラヤーラム語訳の書籍が登場するのが印象的でしたが、マラヤーラム語出版の中では、外国文学の翻訳は無視できない割合を占めています。外国語文学翻訳出版の点数や言語別内訳については残念ながら参照できる資料が見つかりませんでした。しかし、通販サイトなどでの外国文学のラインナップを見ると、19世紀のロシア文学が目につくように思われます。またシェイクスピアの人気も見逃せません。
2.芸術映画と大衆映画
こうした、高識字率の活字王国という背景も踏まえると、マラヤーラム語映画界が、いわゆる芸術映画を世に送り出すことで有名ということも、薄っすらと理解できるように思います。念のためですが、ここで「芸術映画」というジャンルについて簡単に述べておきます。
インド映画の中の芸術映画というのは、くっきりとした大ジャンルで、商業映画と対をなしています。インドの商業映画に特徴的な歌や踊りがないもの、そして社会問題を取り上げるもの、という説明がよく見られますが、一番の特徴は作品公開の場です。
芸術映画は、国内外の映画祭への出品を主目的に、低予算・非スターキャストで作られることが多いです。出品先の映画祭で大賞を獲得したりした場合は、例外的に商業映画館で封切られることもありますが、一般には劇場公開への道はかなり険しいです。芸術映画は、映画祭サークルとでも呼ぶべきインテリによって作られ、その閉じたインテリ・サークルの中だけで消費されるという傾向がはっきりとあるのです。映画祭サークルには、一般商業映画を低IQで無責任な逃避主義と見下して、存在そのものを無視する人々もいます。
3.「ジキルとハイド」ジャヤラージ監督
そんな中で、本作の監督であるジャヤラージ氏は大変ユニークなキャリアを持っています。芸術映画と商業映画の両方の世界を行ったり来たりして、芸術映画では多数の賞を獲得し、商業映画でも時にヒットを飛ばすという、珍しい映像作家なのです。インタビューでその二股の理由を問われて、「どちらのジャンルにも情熱を持っている。とはいえ、商業映画を撮っている時の方が、よりプレッシャーを感じる。母数の多い観客を楽しませることの方が、より予測不可能で、また失敗したときの痛手も大きいからだ」という意味のことを言っています。これは、インド映画のユニークな一面を突いている、非常に興味深い発言です。映像作家にとって、ハイブラウな芸術映画の方が、低リスクであり、小さなサークルの中で心地よく製作活動できるというのです。
ちなみにこの『わな』は、芸術映画ではありますが、2015年に限定的ではあるものの、一般劇場公開がされたようです。もとより劇場での興行収入は期待できず、ムンバイ、ケーララ、ベルリン、ヴァンクーヴァーといった国内外の映画祭で上映されることによりその名前が記憶されることとなった作品です。
ジャヤラージ監督の作品、私も全作を見ているわけではないのですが、芸術映画・商業映画の両方に、非常に左翼的なメッセージを込めたものが散見されます。特に興味深いのは2000年代に公開された商業映画、“4 The People”、“By The People”、“Of The People”という三部作です。
これは、政治家や官僚などエリートの世界にはびこる腐敗を一掃するために、大学生4人が 4 The People という名のウェブサイトを立ち上げて市民からの告発を募り、非があると判断した相手を処刑(告訴ではなく、自分たちの手で処刑するのです)していくというストーリーです。世直しとウェブサイト、学生の義賊、などという斬新さがウケて大ヒットとなりました。ここには、議会制民主主義の枠内での社会主義ではなく、階級の敵を殲滅するという極左の思想が透けて見えます。ただし、ジャヤラージ監督が左翼というか極左思想の信奉者であるかどうかははっきりしていません。
ともあれ、こうした左翼的な主張のこもった作品群がある程度受け入れられる素地があることは言えると思います。何と言ってもケーララ州は、1957年に世界で初めて、暴力革命ではなく合法的な選挙によって、共産党が州レベルで政権を獲ったところです。また1967年に西ベンガル州で起きた、毛沢東主義者による武装蜂起に端を発して全国に飛び火したナクサライト武力闘争も、1970年代中ごろぐらいまで残っていました。現在でもケーララの町ではこんなものを見かけることがあります。
4.物語の舞台①:クッタナード
ここで『わな』本編の舞台となる二つの土地について簡単に述べたいと思います。
作中の台詞にも何度か出てくるクッタナードとは、南北に細長いケーララ州の真ん中からやや南の部分にあたる地方で、「ケーララのライスボウル」の異名を持つほど稲作が盛んです。クッタナードは、狭い意味では、アーラップラ(アレッピー)の南に位置する地区(Taluka)の名前です。幾つかの巨大な湖と、それらを結んで毛細血管のように走る川や水路、そして海抜0メートルまたはそれ以下の田圃から成る水郷地帯で、一般にバックウォーターと呼ばれています。
バックウォーターは、潮の満ち引きに応じて海水が逆流してくる汽水域と、内陸の淡水域とが混じっていますが、堰を作って汽水を淡水に変えるなど、人間の手も多く加わっている自然景観です。のべ900kmにも上るという無数の水路は道路と同じ役割を果たしており、水上バス・自家用ボート・観光用のハウスボートなどが行きかっています。バックウォーターは、クッタナードだけではなく、ケーララ北部にもあるのですが、クッタナードが最大級で、観光プロモーションにも真っ先に登場するようなケーララの自然景観の代名詞となっています。
この地域の主要産業は稲作ですが、他にゴムの栽培、ココナツ・ファイバー生産、漁業、観光業が盛んです。作中に登場する鴨の養殖でも知られており、鴨を追う光景はこの地方の風物詩であり、クッタナード・ダック・ローストというのは名物料理の一つとなっています。
その養殖の規模は様々で、稲作農家が副業として数十羽を飼うレベルから、何万羽も飼う専業の飼育家まで様々です。クッタナードは豊かな自然に恵まれた地域であり、劇中の両親が借金苦から自殺してしまった少年の悲劇は、地域全体の構造的な問題というよりは、個人的な不運であるようにも思われます。しかし、統計を見てみると、ケーララ州の農民の自殺の数は2014年の統計では全インドで7位という不名誉な記録を持っています。そして、ケーララだけでなくインド全体に言えることですが、不幸に見舞われた子どものためのセーフティネットが十分ではないということが分かります。
5.物語の舞台②:シヴァカーシ
少年が事実上の人身売買で連れていかれた先は、作中では明示されていませんが、この場面では周りの人々がタミル語を話しており、これがお隣のタミルナードゥ州中部のシヴァカーシであることはほぼ間違いありません。シヴァカーシについては、『ミニ・ジャパンの子供たち』というタイトルのドキュメンタリー映画がつくられ、日本の映画祭でも上映されました。1990年に撮られたこの映画によれば、シヴァカーシは火薬産業の全インド的な中心で、全国のマッチの70%、花火の90%を生産しています。内陸の小さな町であるにも拘わらず、産業が盛んであることを称えて、インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーが「ミニ・ジャパン」と呼んだそうです。
しかし同時にシヴァカーシは世界でも最大級の児童労働(14歳以下)の集中地域として悪名を轟かせています。シヴァカーシで住民登録されている人口は7万人ちょっと、周辺地域からの通いも含め火薬産業に従事しているのは10万人ほど、最もひどい時期にはそのうちの半分近くが4歳から14歳の児童だったといいます。
これらの子供たちは、ほとんどが低カースト、特にアウトカーストの困窮家庭の出身で、いくばくかの現金が親に払われるのと引き換えにシヴァカーシの工場に集められて集団生活を送り、一日10時間以上の単純労働に従事させられているといいます。学校には通わせてもらえないケースがほとんどです。あるいは近郊の村から工場に通う子供たちも、毎日朝の3時に起こされて、周旋業者のバスに詰め込まれて通勤し、やはり10時間越えの労働をしています。恒常的な違法労働の状況があり、さらに一定の確率で起こる悲惨な爆発・火災事故で犠牲になるのも、多くは子供たちです。また、半数以上を占める女児には性的な搾取もあるといわれています。
このような惨状は、人権監視機関やNGOによって、幾度となく告発されてきましたが、根本的な解決には至っていません。前に述べたような事故が起きて子供が犠牲になると、一時的な査察が入るものの、町の商工会議所、同業者組合、行政機関などが、火薬産業を担う特定のカーストによって占められているため、業界にとって身を切るような改革はなされてこなかったというのです。それでもここ数年で、法制度や取り締まりの強化によって、映画に登場したようなタコ部屋は減ってきたといいます。ただし、その代わりに子供に自宅で同等の作業をさせ、その責任を親に負わせるというスタイルの児童労働が増えているという報告もあります。
6.『窓ぎわのトットちゃん』とインドにおける日本文学
両親の死によって学校に行く生活から引き離され、お祖父さんと一緒に鴨を追い、ある種の児童労働に従事するようになった少年に対し、仲良しの友達のお母さんが手を差し伸べようとしたものの、児童労働を強要していると非難されるのを恐れる友達のお父さんによってその道が絶たれ、最悪の境遇に陥ってしまうというのがこの作品のアイロニーです。その中で、唯一の救いは少年が文字を読み書きできるという点です。
劇中に登場する『窓ぎわのトットちゃん』は1981年に日本で出版され、大ベストセラーとなり、世界の35言語に翻訳されたといいます。インドでは ヒンディー語、マラヤーラム語を含む9言語への翻訳出版が確認されており、もちろ��英訳も流通しているはずです。マラヤーラム語版は1990年代に英語版からの重訳として初版が世に出て、それ以降15版を重ねているそうです。
ご存知のように原著は、太平洋戦争開戦前夜の東京にあったトモエ学園という学校に入学した著者の黒柳徹子の幼少期の思い出、特に個性と創造性を重んじる同学園の教育について、童話のような語り口で描いたノンフィクションです。普通に考えると、これは教育についてなにがしか考えている大人のための読み物で、作中の少年が読んで面白いものなのかとも考えてしまいます。さらに、少年が憧れながらも拒まれてしまう村の小学校というのが、トットちゃんの中で描かれる自由な教育とは、ほぼ正反対のものであるというのもさらにアイロニーとしてあります。
なぜこのシーンに『窓ぎわのトットちゃん』が登場したのか、少年はこの本を全部読み通したのか、そうならばこの本に対して何を思ったのか。実はこれが本作の最大の謎であるように思われます。
7.ケーララ・クリスチャンの世界
ティンクから借りた『窓ぎわのトットちゃん』をクッタッパーイがクリスマスの飾りであるクレーシュ(creche)にそっと置くシーン、冒頭で「クリスマスが近づいている」と手紙でお爺ちゃんに訴えるナレーション、お爺ちゃんが竹を伐ってベツレヘムの星を作るエピソードなどから、クッタッパーイもティンクもどちらもがキリスト教徒であることが分かります。ただし二人の間には経済格差以外の隔たりもあるように思われます。
ケーララ州はキリスト教徒の人口比率が高いことでも特異で、州人口の約19%がキリスト教徒で、5人に1人がキリスト教徒ということになります。クッタナードを含む州の中南部は、クリスチャン・ベルトとも呼ばれており、とりわけキリスト教色の強い地域です。ティンクの本名はトーマス・クルヴィッラといいますが、クルヴィッラという姓は「シリアン・クリスチャン」に多いものです。シリアン・クリスチャンというのは、伝説ではAD52年にイエスの十二使徒のひとり、聖トーマスがケーララに布教に来た折に改宗した人々の子孫ということになっています。比較的社会の上層部にいる人が多いのです。ティンクのお父さんは、おそらく地主であり、さらに先祖伝来の家をホームステイと称する高級民宿にして、外国人客を受け入れて商売をしている人であるようです。
このお父さんは、息子のティンクがクッタッパーイと付き合うことに非常な嫌悪感を示します。ここから先は全くの推測でしかないのですが、クッタッパーイは、19世紀から20世紀にかけてやってきた米英系のプロテスタント・ミショナリーによって改宗した低カーストのヒンドゥー教徒の末裔である可能性があります。
シリアン・クリスチャンと改宗後の歴史の浅いクリスチャンの間には圧倒的な社会階層の断絶があります。この二つの集団間では普通結婚は行われません。お爺さんは自分のことを「流浪の民」と言っていますが、おそらくお爺さんには決まった住所がないのだと思います。このせいでクッタッパーイは学校に行けないのです。
8.チェーホフとケーララにおけるロシア趣味
最後に、この作品がストーリーラインを借りてきて翻案したといわれているチェーホフの短編について。原作の『ワーニカ』は日本語訳で簡単に読むことができます。中央公論社版ですと僅か4ページの掌小説です。発表されたのは1886年で、小説は同時代を舞台にしていると思われます。舞台はモスクワで、裕福な家の屋敷で働く9歳の見習い奉公人のワーニカが、家の人々が寝静まった夜中にこっそりと田舎の祖父にあてた手紙を書くという設定です。その手紙の中で、現在の少年が置かれている酷使と折檻の日々、それから少年が懐かしむ田舎の暮らしとが、明らかになっていくという構造です。小説のネタバレとなってしまって申し訳ないのですが、この短編の最後で、少年は手紙を投函するのですが、彼は手紙には宛先の住所というものがなければ届かないのを知らないし、切手が貼られていなければ郵送されないということも知らないというのが暗示されます。
今日の映画『わな』では、少年の手紙がおじいちゃんに届くのか(劇中では何度か郵便配達人が登場しています)、大変に気になります。先に申し上げた『トットちゃん』の件と並んで答えがほしいところですが、こうしたエピソードに答えを提示しないまま終わるというのが、芸術映画の芸術映画たるところであるのでしょう。
話は『ワーニカ』に戻りますが、ケーララに限らずインドではロシア語文学が大変に愛好されてきました。1947年の独立以降、ジャワハルラール・ネルー首相のもとで親ソ連的な外交政策がとられてきたことが一番の理由です。ロシア・ソ連文学のインド諸語への翻訳の最盛期は1980年代だったといいます。もちろん英訳本の流通も同時期に盛んだったはずです。その後1990年代に入り、ソ連崩壊とインドの自由主義経済政策への転換以降、ロシア語文学の出版は退潮を続け、現在に至っています。
前に申し上げたように、1957年に共産党が州の政権を獲ったケーララでは、政治に引きずられる形でのロシア文学愛好が顕著で、州の共産党直営の出版社から、ロシア語文学のマラヤーラム語翻訳が継続的に刊行され続けました。特に愛好されてきたのは、ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフ、ゴーリキーなどの19世紀後半から20世紀前半の作家たちで、おおざっぱに言えば日本の読書界でのロシア語文学愛好と相似しています。ケーララでは、左翼的な傾向を持つ人々の間でのロシアの影響は、さらに文学愛好を超えたところまで達していました。ロシア語起源の名前の採用です。例えば、男性のファーストネームとして「レーニン」というのは現在でも珍しいものではありません。クッタナードから内陸に入ったコーッタヤムという都市の近郊にはモスコーという名の村があります。2005年、この村を舞台にして、ロシア語起源の名前を持った人大集合というイベントが行われたりもしました。
話が脇にずれましたが、このような背景を持つケーララで、メッセージを盛り込む器として、19世紀のロシア文学が用いられたというのは、すんなりと納得できることなのです。
本日上映のこの作品、メッセージ自体は非常に明快であるため、周辺にまつわることをお話しました。
『わな おじいちゃんへの手紙』資料集
■マラヤーラム語について―ドラヴィダ四言語の枝分かれについて
東京大学文学部人文社会系研究科、インド語インド文学研究室(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/indlit/index.html)にて公開のPDF「南インド文学史年表」
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/indlit/tamil/data/nenpyo.pdf
■インドの出版事情
国立国会図書館:アジア情報室通報 第8巻第2号(2010年6月)
インドの出版事情と図書館―出張報告
https://rnavi.ndl.go.jp/asia/entry/bulletin8-2-1.php
インドのオーディット・ビューロー
http://www.auditbureau.org/index.html
■インドにおける日本文学の翻訳状況
P. A. George著 East Asian Literatures - An Interface with India
2006年、Northern Book Centre刊
■ジャヤラージ監督について
2017年9月公開予定の娯楽大作『Veeram』公式サイト
http://movieveeram.com/
監督の公式サイト(ただし更新停滞中)
http://www.jayaraj.com/index.html
■クッタナードとバックウォーターについて
The Greatbackwaters ケーララ州政府観光局による特設サイト
http://www.greatbackwaters.com/
Rahul K Sukumaran, Below zero - Traversing the agricultural heritage system of Kuttanad, Archiprix Ahmedabad 2017サイトより、クッタナードの海抜ゼロメートル地帯の図解
http://www.archiprix.org/2017/qview/?id=3811
J. Tamizhkumaran, S.V.N. Rao, K. Natchimuthu, Nomadic duck rearing in and around Puducherry region - an explorative study 鴨飼育の実際について(タミルナードゥ州での事例)
https://www.researchgate.net/publication/299241691_Nomadic_duck_rearing_in_and_around_Puducherry_region_-_an_explorative_study
■農民の自殺について
2014年のインド全国の農民の自殺件数の統計、内務省の犯罪統計局公式サイト(http://ncrb.gov.in/)から
http://ncrb.nic.in/StatPublications/ADSI/ADSI2014/chapter-2A%20farmer%20suicides.pdf
ケーララ州の農民の自殺についてのレポート、州政府経済統計部2009年のデータ
http://www.ecostat.kerala.gov.in/index.php/reports/109.html
※農民の自殺をテーマとした作品では、Peepli [Live](ヒンディー語、2010年)が有名
http://www.akpfilms.com/peeplilive/
■「ミニジャパン」シヴァカーシ市について
シヴァカーシ市の非公式ポータルサイト
http://www.kuttyjapan.com/
児童労働に関するレポートの一例
S. Dorairaj, Danger Zone, Frontline誌 Vol. 26 - Issue 18, 29 Sep. 11, 2009 http://www.frontline.in/static/html/fl2618/stories/20090911261803300.htm
Smitu Kothari, Sivakasi: Exploiting the young, India Today誌 January 15, 1983
http://indiatoday.intoday.in/story/sivakasi-houses-worlds-largest-concentration-of-child-labour-in-its-industrial-units/1/371283.html
■児童労働をテーマまたはモチーフにした映画作品
1.『スタンリーのお弁当箱』(Stanley Ka Dabba)、2011年、ヒンディー語
http://stanley-cinema.com/
2.『Kadhal Kondain』2003年、タミル語
3.『事件番号18/9』(Vazhakku Enn 18/9)、2012年、タミル語
4.『Kerala Cafe』2009年、マラヤーラム語
5.『ミニ・ジャパンの子供たち』(Kutty Japanin Kuzhandaigal)1990年、タミル語
※シヴァカーシの火薬産業における児童労働を取材したドキュメンタリー
http://www.yidff.jp/library/loans/loans91.html
■ケーララ・クリスチャンの世界
K. C. Zacharia著 The Syrian Christians of Kerala 2006年 Orient Longman刊
川島耕司 インド・ケーララ州のキリスト教 その多様性とアラビア海交易
https://www.wako.ac.jp/organization/research/tozai/touzai_b04.html
■ケーララ州中部の村モスコーにロシア名前を持つ人々が集合したイベント
Stalin and Lenins reunite in India, BBC News South Asia 2005.11.01
http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4374826.stm
To `Moscow,' with love, The Hindu 2005.10.23
http://www.thehindu.com/2005/10/23/stories/2005102311390400.htm
(了)
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