2024年4月4日
(耕論)教育勅語という亡霊 長谷川亮一さん、林恒子さん、佐久間邦彦さん(朝日新聞 連載:耕論 4月3日)2024年4月4日に追記
広島市長が市の職員研修で教育勅語を引用していた。しばしば政治家から擁護発言が出るのはなぜか。戦後、国会で失効を決議したにもかかわらず亡霊のように漂う教育勅語を考える。
■「天皇」切り離しはできぬ 長谷川亮一さん(歴史学者)
戦後、しばしば教育勅語を擁護する発言が物議を醸してきました。政治家や財界人など発言者はさまざまですが、擁護の仕方はワンパターンで、要は「中身はすばらしい」です。広島市長の発言にも、「またか」とあきれます。
いうまでもなく、教育勅語は戦前の忠君愛国主義の教育を生んだものであり、天皇のために道徳的であれ、いい国民であれと説いています。それなのに擁護する人たちは、歴史的文脈や天皇の存在を切り離して、「父母ニ孝ニ」や「夫婦相和シ」などの徳目だけを取り出して評価します。「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」、つまり「永遠に続く天皇の運命に命を捧げなさい」という目的が消されているのです。
教育勅語から天皇を消し去れば、もはや「教育勅語」ではありません。教育勅語は「明治天皇の言葉である」ことが大前提で、それが正しさを保証しました。「教育勅語」を語るのであれば天皇は不可分の存在ですし、親孝行などを説きたいのなら教育勅語である必要はありません。
1970年代に本格化した右派による教育勅語復活運動が、今なお続く擁護の声の背景にあると考えています。運動が広めたのが、教育勅語のさまざまな「口語訳」です。「天壌無窮ノ―」の箇所をすっぽり飛ばしたり、「天皇」を「国」にすり替えたりした上で、まるで平和を説いているかのように装う「誤訳」もありました。今なお「中身はいい」という人たちが頻繁に現れることを考えれば、運動はある意味「成功」したと言えるでしょう。
評価する人たちが天皇を切り離すのは、「国体を守れ」などと言っても人々に支持されないと分かっていることの裏返しでもあります。政治家による擁護発言でも全て肯定はせず、「問題はあったけれど」など必ず留保をつける。
それなのに、なぜ教育勅語を語らずにいられないのか。「これしかない」に尽きるでしょう。日本独自の、広く知られる唯一の道徳律が教育勅語なんです。「これしかない」けれど原文は直せない。だから、解釈し直そうという欲望が生まれるのです。
教育勅語を擁護するのであれば、「日本社会を戦前に戻したい」ともはっきり言うべきです。そうであれば、私は評価はしませんが、理解はします。さまざまな文脈を切り離して「中身はいい」と言えると考えるのは、無知に他なりません。(聞き手・田中聡子)
はせがわりょういち 1977年生まれ。立教大学日本学研究所研究員。専門は日本近現代史。著書に「教育勅語の戦後」「『皇国史観』という問題」。
■子ども、素直に染まる怖さ 林恒子さん(元高校教員)
私が現在の小学校にあたる国民学校に入学したのは1942年です。学校教育は戦争と共にあり、その象徴の一つが教育勅語です。
教育勅語は「畏れ多い」存在でした。入学式や「旗日」に、モーニングを着た校長が教頭からうやうやしく捧げられた勅語を広げて奉読する。子どもたちは直立不動で、頭を下げてじっと聞く。書き写す「謹書」も一生懸命やりました。
今でも印象に残っているのは、学校の2階の廊下の壁一面に掲げられた教育勅語の「絵解き」です。十数枚あったでしょうか。徳目などを描いた日本画が、一枚ずつ額に入れられて並んでいました。「内容も分からずに覚えた」と振り返る人もいますが、私はあの日本画を見て自分なりに意味を理解していました。
一方で、違和感も抱いていました。「我カ皇祖皇宗国ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ」の絵解きには「天孫降臨」が描かれていました。天照大神が地上に送った神々が雲の上に乗っている。「雲は水蒸気なのに、あんなにたくさんの神様が乗れるだろうか」と疑問を抱いたものです。「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵(したが)ヒ」は、選挙の投票風景なのですが、男しかいない。「日本は天照大神の国なのに、どうして女の人は投票できないんだろう」と思ったことは、我ながらいささか感心します。
当時の私に「天皇のために」という思いを抱かせたものは、教育勅語だけではありませんでした。学校には天皇の写真が掲げられ、修身の教科書を開くときは頭を下げる。天皇の写真が載った新聞を、先生が「汚したり踏んだりしたらいけない」と、写真だけを切り取っていたこともありました。「まじめな良い子」だった私は、そんな雰囲気を吸収したのです。
そこには、子どもだからこその怖さがあります。よく聞き取れない玉音放送を聞いては「しっかりせよ!」という励ましの言葉と受け取り、敗戦を知った後もしばらくは「いつか復讐の時が来る」と闘志を燃やす「軍国少女」に、私は意図せずともなっていました。子どもは素直に染まってしまうのです。
戦後、民主的な教育が目指された一方、その反動も現在まで存在し続けています。教科書検定や教育基本法の改定などを通じて、戦前の教育への揺り戻しがじわじわと進んでいる。そして教育勅語を「中身はいい」と「つまみ食い」する政治家。「バカヤロウ」と言いたいです。(聞き手・田中聡子)
はやしつねこ 1935年生まれ。北海道の高校教員として平和教育に取り組み、退職後も講演や執筆活動。編著に「平和と平等を求めて」。
■広島らしからぬ動き、心配 佐久間邦彦さん(広島県原爆被害者団体協議会理事長)
「国際平和文化都市」を掲げる広島市で職員研修に教育勅語が使われたことに大変、衝撃を受けました。私たち被爆者団体は松井一実市長に強く抗議しました。
教育勅語は、親孝行や兄弟、夫婦仲良く、などと述べますが、明治天皇が、当時「臣民」と呼んだ国民に向けたものです。そもそも天皇が家庭のことに介入するのはおかしい。それぞれの家族で判断すればいいことです。
戦後、国会で教育勅語の排除や失効が決議されたのは当然のことです。主権在民の日本国憲法の精神と相いれないのですから。松井市長はそんな古証文を引っ張り出してきたのです。
私自身は終戦の前年に生まれたので、教育勅語による教育は受けていません。しかし、勅語をよく読めば、天皇のための戦争に国民を動員するのが目的だと分かります。そうした侵略戦争の結果、起きたのが広島、長崎への原爆投下でした。だから、被爆者は怒るのです。市長は、教育勅語を使うことについて撤回しないどころか、市民にきちんと説明もしていません。
第2次安倍政権は2017年、教育勅語について「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定しました。���うした政府のお墨付きがあるからこそ、松井市長は職員研修で堂々と使えるのでしょう。
歴代の広島市長は、保守的な人も少なくありませんが、被爆者の立場を配慮した慎重な行動をしてきました。しかし最近、松井市長のもとではヒロシマらしからぬ動きが起きています。
昨年は、広島市立の小中高校で平和教育に使われている教材が改訂され、漫画「はだしのゲン」が削除されることが明らかになり、論議を呼びました。市教育委員会は「被爆の実相に迫りにくいから」などと述べています。しかし、戦争がいかに悲惨で人々の心を傷つけるものなのか、「ゲン」ほど、いい教材はないと思っています。
また、平和記念公園と米ハワイ州のパールハーバー記念公園との姉妹協定をめぐり、市の局長が市議会で米国の原爆投下の責任について「議論を現時点で棚上げする」と答弁しました。これも納得できません。
生後9カ月で被爆した私も79歳です。被爆体験の風化という言葉は、使いたくありません。ただ、一連の動きに市民から大きな反応が出ないことが心配です。(聞き手・桜井泉)
佐久間邦彦 1944年生まれ。生後9カ月で広島市内の自宅で被爆した。三菱重工広島製作所を退職後、被爆者相談所相談員などをへて現職。
(耕論)「自分の名前」とは 出口顯さん、小国香織さん、高山朝光さん(朝日新聞 連載:耕論 4月4日)2024年4月4日
偽名で何十年も逃げた末、死の間際に本名を明かした容疑者がいた。自分にとって、社会にとって、名前とは何だろう。そして自分の名前を失うこと、名前を取り戻すことの意味とは。
■誕生と死、結びつけるもの 出口顯さん(文化人類学者)
指名手配されながら、半世紀近くも偽名を使って警察から逃げ続けた容疑者が、「最期は桐島聡で死にたい」と語り、名乗り出たと報じられました。
名前は「親からの贈り物」と言われることがあります。何かにちなみ、あやかり、メッセージが込められる。マルセル・モースは人類学の古典「贈与論」で、贈り物を贈られた相手は、同等の返礼をしなければならないという負い目を感じると指摘しました。
名前が贈り物なら、子は親に負い目を感じますが、親に名付けはできません。代わりに、次世代を名付けます。あるいはメッセージを込めようとする。
しかし、偽名で生きた容疑者は、そうした返礼ができなかった。好意を寄せた女性に「幸せにできない」と語ったのも、それを物語っていると感じます。
ただ、名付けをめぐる現在の日本のあり方が普遍的なわけではありません。イヌイットではかつて1人にいくつもの名前があり、ブラジルの先住民には自分が知らない名さえある。名前を口にしてはいけない決まりもあります。
日本の現代の名付けも、明治維新後に始まったものにすぎません。しかし、多くの人は、生まれた時に名付けられた自分の名前が無くなれば、世界が壊れてしまうような感覚を覚えるはずです。生活の中で何度も呼ばれることで、名前が内面化されるからでしょう。
夫婦別姓を求める議論で、自身の家の姓を残すという家父長制的な側面があるにもかかわらず、旧姓にこだわるのは、実務的な不便さだけでないはずです。
容疑者もその感覚から逃れられなかったのではないでしょうか。ただ、それは都市的、あるいは現代的な感覚だとも思うのです。
かつては誕生と死の風景は、土地や家族の結びつきの中にありました。人を名前ではなく、屋号で呼ぶ文化も残っていました。しかし、いまや地域は過疎に直面し、墓じまいも広がる。
結びつきが失われゆく中で、自分自身の誕生と死を結びつけられるものは少ない。生まれた時に与えられた名前はその一つです。
容疑者が偽名で亡くなっていたら、葬儀もなく火葬場に直接送られ無縁仏とされたはずで、時代を体現した死とも言えます。自分を追い続けた権力を出し抜くことにもなった。それをしなかったのは、彼の誕生と死を結びつけるものが、本名しか残されていなかったからなのかもしれません。(聞き手・岡田玄)
出口顯 でぐちあきら 1957年生まれ。放送大学島根学習センター所長、島根大学名誉教授。著書に「名前のアルケオロジー」。近著に「声と文字の人類学」。
■改姓で実感、失われた人権 小国香織さん(「別姓訴訟を支える会」副代表)
桐島聡容疑者が最期に本名を名乗ったと知り、偽名で生きている間は「本当の自分を生きていない」と感じていたのかも、という思いがよぎりました。結婚により改姓した私には、その感覚が分かります。
ラジオのロシア語講座で聞いたなぞなぞがあります。「自分のものなのに、他人が使うのなんだ?」で、答えは「イーミャ(名前)」。私は「半分合ってるけど、半分足りない」と思いました。「名前は個人の識別のためにある」という認識しか感じられなかったからです。
確かにそういう面はありますが、一方で、自分の名前は常に自分と共にあり、一番使っているのは自分です。名前を呼ばれれば返事をし、名乗ったり、名前が書かれたものを受け取ったり。名字も含めて自分の名前であり、自分が使う自分のものでもあるのです。
選択的夫婦別姓を求める訴訟の原告になった時、ニュースを見たある米国人の顧客が応援の言葉をかけてくれて、こう言いました。「It’s your name,not government’s name!(君の名前なんだから、政府の名前じゃないんだから!)」。まさに「my name(私の名前)」の話をしているのが、選択的夫婦別姓です。それなのに日本では「家族のあり方」の議論にされてしまい、「名前を変えたくない」という本質的な部分が十分には理解されていないように感じます。
この感覚は、名前を失ってみないと分からないのかもしれません。「人権は普段は分からないものだけど、皆さんをこの教室に閉じ込めたらすぐに理解できる」。以前、ある法律家が講義でしていた話です。侵害されないと理解しづらいけれど、失ったとたんに分かるのが人権なんだ、と。私はやっぱり、名前は人権だと思います。
かつて夫婦別姓訴訟で原告団長を務めた塚本協子さんは、事実婚を経て、仕方なく夫の名字に変えていました。集会などで話す時の訴えはとてもシンプルで、「塚本協子で生き、塚本協子で死にたい」。そして、2019年に、塚本協子に戻れないまま亡くなってしまいました。
今、新たな訴訟を支援していますが、細かい情報を集め、積み上げている弁護団の作業を見ていると、ここまでやらなければ自分の名前で生きることの意味や失うことの重大さが伝わらないのか――と残念な気持ちになります。(聞き手・田中聡子)
小国香織 おぐにかおり 行政書士。2006年、結婚により夫の名字に改姓。11年に提起された選択的夫婦別姓訴訟で、原告団副団長を務める。
■立ち上がる、戦没者の人生 高山朝光さん(元沖縄県知事公室長)
1992年から沖縄県の「平和の礎(いしじ)」建設を担当しました。礎は「いしずえ」の沖縄の読み方です。鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員されながらも、くしくも生き残った大田昌秀知事の公約で、戦争終結50年の95年に完成させる計画でした。
沖縄戦は、私が10歳のころでした。沖縄本島北部で、撤退する日本軍の後を追って山を逃げ回る中で、多くの遺体を目にしました。どこの誰かなどわかるはずもない、名もなき遺体です。顔さえわからない日本兵の遺体もありました。
遺骨もない遺族もいます。沖縄には各地に慰霊碑があります。そこに刻まれた名前を、遺族が指先でなぞる姿を、私たちは見てきました。まるで本人がそこにいるかのように。
礎には、敵も味方も関係なく沖縄戦の全戦没者名を刻む。その名を永久に残し、沖縄戦を風化させず、平和を世界に発信する――それが目的でした。
問題は戦没者名の確定でした。すでにあった戦没者名簿には欠落があると研究者から指摘を受けました。
名前は尊厳であり、生きた証しです。完成が遅れる心配もありましたが、趣旨を考え、市町村の協力を得て、全戸調査を実施しました。すると、記録されていない犠牲者の情報が県民から次々と寄せられました。
家族全員が死亡したため戦没者の記録にない一家、確かに生まれた姿は見たけれど、混乱の中で戸籍も登録もなく、誰も名前を覚えていない赤ちゃん……。そうした子は「●●の子」として刻まれています。
20万を超す名が刻まれた礎が物語るのは、沖縄戦の激しさです。名前を刻んだ石が平和を願う波のように押し寄せる、その前で毎年、沖縄戦没者追悼式が行われています。
敵だった米兵や、沖縄の住民を殺した日本兵の名も刻まれていますが、県民から反対意見は一つもありませんでした。憎いのは兵士ではなく、戦争だという県民の思いなのでしょう。
戦後が遠くなり、戦争体験者も減っています。礎が物として残っても、その精神が失われないか心配でしたが、心強い動きも始まっています。礎に刻まれた名前を読み上げる、市民有志の取り組みです。
参加した中学生が言いました。「この人たちが、もし生きていたら」。名前を読むことで、一人ひとりの人生が立ち上がり、あったかもしれない現在を想像する。名前には、そんな力もあるのです。(聞き手・岡田玄)
高山朝光 たかやまちょうこう 1935年生まれ。NHK沖縄放送局副局長、沖縄県知事公室長、県政策調整監、那覇市助役などを歴任。沖縄平和の礎の会会長。
男性で国内最高齢の112歳死去 千葉・館山の薗部儀三郎さん(時事通信)2024年4月4日
男性で国内最高齢だった千葉県館山市の薗部儀三郎(そのべ・ぎさぶろう)さんが死去したことが4日、同市や厚生労働省への取材で分かった。112歳だった。死去した日時や死因は公表していない。
薗部さんは1911(明治44)年11月生まれ。2022年11月に広島県の男性が111歳で死去して以降、国内の男性で最高齢だった。
新型コロナ 広島県の新規感染者2%増 8週ぶりわずかに増加 4日発表(テレビ新広島)
新型コロナウイルス。広島県は4日、先週1週間(3月25日~3月31日)に広島県内の定点調査で確認された新規感染者数は417人、定点あたり3.69人と発表しました。
1月29日の週は、去年5月8日に新型コロナが5類に移行して以降、最多となっていましたが、先週は前週と比較すると感染者数は2%増となり、8週ぶりにわずかに増加しました。(前週は410人、定点あたり3.63人)
広島県は、現時点で医療がひっ迫���ている状況にはないが、引き続き手洗いや換気など基本的な感染対策をするよう呼び掛けています。
このほかの感染症ではインフルエンザ、咽頭結膜熱について、県は引き続き警報を発令し��戒を呼び掛けています。
※「5類」移行後、広島県内の感染者数
5月8日~14日 259人 定点あたり2.31人
5月15日~21日 253人 定点あたり2.26人 前週比 横ばい
5月22日~28日 266人 定点あたり2.38人 前週比 横ばい
5月29日~6月4日 344人 定点あたり3.07人 前週比 微増
6月5日~11日 443人 定点あたり3.92人 前週比 微増
6月12日~18日 493人 定点あたり4.36人 前週比 微増
6月19日~25日 532人 定点あたり4.71人 前週比 横ばい
6月26日~7月2日 771人 定点あたり6.88人 前週比 微増
7月3日~9日 1,060人 定点あたり9.46人 前週比 微増
7月10日~16日 1,245人 定点あたり11.12人 前週比 微増
7月17日~23日 1,548人 定点あたり13.82人 前週比 微増
7月24日~30日 1,783人 定点あたり15.92人 前週比 微増
7月31日~8月6日 1,639人 定点あたり14.77人 前週比 横ばい
8月7日~13日 1,302人 定点当たり11.94人 前週比 微減
8月14日~20日 1,601人 定点あたり14.29人 前週比 微増
8月21日~27日 1,633人 定点あたり14.58人 前週比 横ばい
8月28日~9月3日 1,637人 定点あたり14.62人 前週比 横ばい
9月4日~10日 1,697人 定点当たり15.02人 前週比 横ばい
9月18日~24日 1,073人 定点あたり9.58人 前週比 微減
9月25日~10月1日 880人 定点あたり7.79人 前週比 微減
10月2日~8日 535人 定点あたり4.73人 前週比 減少
10月9日~15日 411人 定点あたり3.64人 前週比 微減
10月16日~22日 303人 定点あたり2.71人 前週比 微減
10月23日~10月29日 321人 定点あたり2.84人 前週比 横ばい
10月30日~11月5日 285人 定点あたり2.52人 前週比 微減
11月6日~12日 189人 定点あたり1.67人 前週比 減少
11月13日~19日 194人 定点あたり1.72人 前週比 横ばい
11月20日~26日 300人 定点あたり2.65人 前週比 増加
11月27日~12月3日 306人 定点あたり2.71人 前週比 横ばい
12月4日~10日 313人 定点あたり2.77人 前週比 横ばい
12月11日~17日 356人 定点あたり3.15人 前週比 微増
12月18日~24日 360人 定点あたり3.19人 前週比 横ばい
12月25日~31日 671人 定点あたり5.94人 前週比 増加
1月1日~7日 682人 定点あたり6.04人 前週比 横ばい
1月8日~14日 918人 定点あたり8.21人 前週比 微増
1月15日~21日 1,291人 定点あたり11.42人 前週比 微増
1月22日~28日 1,598人 定点あたり14.14人 前週比 微増
1月29日~2月4日 1,944人 定点あたり17.36人 前週比 微増
2月5日~11日 1,751人 定点あたり15.77人 前週比 微減
2月12日~18日 1,056人 定点当たり9.43人 前週比 微減
2月19日~25日 849人 定点あたり7.51人 前週比 微減
2月26日~3月3日 623人 定点あたり5.51人 前週比 微減
3月4日~10日 593人 定点あたり5.25人 前週比 横ばい
3月11日~17日 538人 定点あたり4.76人 前週比 微減
3月18日~24日 410人 定点あたり3.63人 前週比 微減
3月25日~31日 417人 定点あたり3.69人 前週比 横ばい
※前週との比較
急増減…1:2以上の増減
増減…1:1.5~2の増減
微増減…1:1.1~1.5の増減
横ばい…ほとんど増減なし
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