Hydrangea
綾子主ほのぼの日常編
黒い森を抜けたあと、の続き
春の終わりに、出会ったばかりの僕たちが共同生活を始めてしばらく経った。
今ではもう梅雨の季節で毎日雨が降ったり止んだり、じめじめとしたお天気が続く。樹さんに頼んで乾燥機買ってもらえて良かった。
樹さんは割と子煩悩というか叔父馬鹿なところがあって、甥っ子の快適な生活のためなら金と労力は惜しまないと豪語する。
僕としてはそんなに甘やかしちゃ駄目だよとブレーキ役のパターンが多くなってるんだけど、多紀を甘やかしたいのは正直とてもよく分かるので結局甘々な僕たちを多紀本人が諌めてくるという構図。
多紀はこの春から転校して近所の小学校2年生になった。
最初は内気なのもあってポツンとしていたようだけど、僕らと暮らすようになってから笑顔も増えて友達も出来たらしい。お勉強も頑張っていると連絡帳にも書いてあった。
僕は表向き、樹さんたちの遠縁ということにしてもらっている。みんな苗字がバラバラでも辻褄が合うように。ごく普通のママとパパがいる家庭ではないと、多紀が変な噂を立てられないように外面は良くしておくに越したことはない。
同級生のママさんやPTA、ご近所付き合いまで僕が一手に引き受けているけど、若い女の子たちとの会話とはまた違ったスキルが要求されるので、慣れるまで大変だ。
実のところ僕は2009年どころかもっと先の未来のことまで知っているので、2000年代初頭に生きる人たちと話しているとジェネレーションギャップみたいな気分になっちゃうことがよくある。うっかりSDGsが、とか言わないようにしないと。
でも皆さん基本的に良い人たちだ。近所には緑も多い公園があり、曜日によって種類の変わる安売りセールのスーパーと、閑静な住宅街で広々とした居住スペース。子供を育てる生活環境としては今のところ何の問題もなく満足している。
最初にこの環境を整えてくれていた樹さんには頭が上がらない。
多紀の父方の親戚連中に随分とご立腹の様子で、その頃の多紀を見たらそれは無理もないだろうなと推測する。
親戚たらい回しの放置されっぱなし、愛情のお水を貰えずに干涸びて。そんな環境で育ったら他人に期待しなくなるのは当たり前だ。
巌戸台に越してきたばかりの、舞い散る桜も空の青も、綺麗なものを何も映していないような君の灰色に霞んだ瞳を思い出す。
どうでもいいなんて言わせない。そのために僕らは家族になったんだ。
そろそろ多紀が学校から帰ってくる時間だ。
僕は樹さんと多紀が選んでくれた黒のデニム生地のエプロンを締め直して、おやつ作りに取り掛かる。
蒸し暑くなってきたからゼリーとか涼しげなのも良いなあ、なんて考えながら定番のホットケーキだ。休日の朝ご飯にはじゃがいもをすり下ろしたパンケーキが好評だったけど、今回はおやつなのでメープルシロップとバターを多めに。
「ただいまー」
焼き上がったいいタイミングで玄関のドアが開いた。
「おかえり。今日も楽しかった?」
「うん。今度ね、遠足があるみたい。おべんと作ってくれる?」
「へえ!いいねえ〜頑張ってお弁当さん作っちゃうよ」
おやつがあるから手洗ってね、と言うと多紀は素直にランドセルを置いて洗面所に向かった。
冷たい牛乳と一緒にホットケーキを並べると、戻ってきた彼が「いいにおい」と顔をふんわり綻ばせる。もう、うちの子すっごく可愛い。
僕の分は最初に焼いた、あんまり上手い焼き色にならなかった1枚でカフェオレと。やっぱり皆で選びに行ったランチョンマットは色違いの豚さんだ。
「ジュジュの分ある?」
「あるよ、ちゃんと作ってあるから大丈夫」
ジュジュとは樹さんのことだ。音読みで、じゅ。
教えてもらった時は微笑ましいなと思ったけど、最初に言い始めたのは樹さんのお姉さんなんだそうだ。つまり多紀の亡くなったお母さん。
ひと回り近く歳の離れたしっかり者のお姉さんだったそうで、もう姉というより母親が2人いるみたいだったと樹さんが溜息を吐いていた。
「ジュジュ今日も帰り遅いのかなあ。おしごと大変なのかな」
「夏休み取れるように今から頑張ってるんだって。お祖父ちゃんち行くんだもんね」
「うん!」
学校が夏休みになって樹さんも纏まった休みが取れたら、実家のお祖父さんとお祖母さんに会いに行こうと計画している。
長閑な田舎に遊びに行く夏休み、なんて絵日記が捗る子供らしいイベントだ。
多紀は小さい頃に会っただけで記憶も曖昧だけど、電話ではよく話しているので2人に早く会いたいと毎日とても待ち遠しそうだ。
こんな時に、そういえば向こうの多紀もお爺さんお婆さんが好きだったな、なんて考えたりする。文吉さんにクリームパンをポケットに捩じ込まれたと満更でもなさそうに僕に半分くれたことがあって、くすりと思い出し笑いが漏れた。
とても懐かしいし君に会いたいなとは思うけど、その彼を堂々と迎えに行くために此処に来たんだ。ホットケーキを咀嚼して感傷的になってしまった気分を振り払った。
遠足はどこに行くの?お弁当は何食べたい?などと話しながら夕飯を2人で済ませ、お風呂上がりに水分補給していると樹さんがようやく帰宅した。
「あー、つっかれた…」
「ジュジュ、おかえり」
疲労と空腹でよろけている叔父さんを玄関まで多紀がお出迎えする。手には飲みかけの乳酸菌飲料が入ったコップだ。
「ただいま〜。良いもん飲んでるな。ひと口くれよ」
「ええ〜。ひとくちって言ってジュジュいっぱい飲むんだもん」
「この前は喉乾いてて、つい。悪かったよ。それとジュジュじゃなくてたつきって呼べ」
パジャマ姿の甥っ子をハグして謝りながらも文句を言う。
こうしていると本当に雰囲気が似ている叔父と甥だなと思う。樹さんのほうが少し癖っ毛で毛先が跳ねているけど、2人とも青みがかった艶やかな黒髪だ。僕も黒髪だけど、色味が違う。
樹さんはよく見るとアメジストみたいな瞳の色をしていて、仕事中は外しているけど左の耳にピアス穴がある。
多紀と違うところといえば、叔父さんの方が男の色気があるところかな。多紀はもっと中性的だし。
これで大手企業にお勤めなんて、かなりモテるんだろうなあ…とぼんやり思うけど今のところお付き合いしている恋人さんはいなそうだ。普段はできる限り早く帰宅するし、仕事と甥っ子に全振りしている。
そんな叔父さんに渋々ながらも結局自分の飲み物をひと口あげている多紀は偉いなあ、と家族の考え事をしながら樹さんのご飯の支度をした。
「玄関の紫陽花、綺麗だな。買ってきたのか?」
シューズボックスの上に置いた花瓶を見たのだろう、ネクタイを外しながら樹さんが訊いてくる。
「ご近所の榊さんのお庭にたくさん咲いたからって、お裾分けしてもらったんだ」
色とりどり、形も豊富な紫陽花をお世話するの上手ですねって正直に感想を述べたら、少し切ってあげると品の良い老婦人が花束にしてくれた。
バラや百合みたいな派手さはないけど、今の時期しか嗅げない匂い。梅雨も悪くないなって思えて結構好きなんだ。
ドライフラワーにしても綺麗なのよ、とその人は笑っていた。
「ぼくもあじさい好きだよ。雨の雫が似合うよね。あっ、でも遠足の日は晴れて欲しいなあ」
「遠足があるのか。そりゃ雨じゃちょっと残念だもんな」
席に座って、いただきますとお箸を手に取りながら樹さんが頷く。
「近くなったらてるてる坊主作ろうね。すごく大きいのと、小さいのたくさん作るのどっちがいい?」
「小さいのいっぱい!」
「ふふ。布の端切れもいっぱいあるからカラフルなの作ろう」
そんな話をしているともう夜の9時を回っていた。いけない、多紀の寝る時間だ。
「歯磨いて寝る準備出来た?じゃあ昨日の続きから少し絵本読もうか」
「うん、歯みがいた。ばっちり!」
「樹さん、食べ終わったら食器は水につけておいて。お疲れなんだから早くお風呂入って寝てね」
「ふぁい」
夕飯のチキンソテーとおやつのホットケーキを頬張りながら樹さんが返事をする。
「たつきもおやすみなさーい」
「ん、おやすみ」
挨拶のあと子供部屋へと入る。樹さんが用意した多紀の部屋は愛に溢れていて、子供用らしく可愛いパステル色で揃えられた壁紙やラグ、家具と小物に至るまで趣味がいい。おもちゃも温かみのある木が多く使われていて、こういうのお値段結構するんだろうなと思う。
多紀をベッドで待っていたのは小さめのクマちゃん。樹さんが買ってくれたぬいぐるみで、キャメル色の毛並みに水色のリボンを首に巻いている。
多紀はいつも枕元で座っているクマちゃんと、その下に畳んであった柔らかく肌触りのいい木綿のタオルケットを抱きしめる。
青と黄色のチェック柄で、両親と住んでいた昔から愛用している所謂セキュリティブランケットだ。
それらに囲まれてふかふかのお布団に入り、少し絵本を読み聞かせるとすぐに多紀はうとうとし始める。
以前までは寝つきが悪かったようなので、精神的に安定してきたなら何よりだ。
しっかり眠ったのを確認して掛け布団を整えて、僕はキッチンへと戻った。丁度お風呂上がりの樹さんがタオルで髪の毛を拭きながらテレビのリモコンを操作している。
僕が温かいほうじ茶を淹れてテレビ前のテーブルに置くと、「お、ありがと」と笑ってひと口啜った。
樹さんは家ではお茶とコーヒーばかりだ。仕事の付き合い程度にはお酒を飲むけど、プライベートまで飲むほど好きでもないそうだ。
僕もお酒は飲めないのでちょっと親近感。もう半月くらいすると、多紀と一緒に漬けた梅ジュースが飲み頃になるから楽しみなんだ。
「多紀は今日も元気だったか?」
「うん。ジュジュの分のホットケーキはあるの?って心配してた」
「ははっ。無かったら半分くれる気かな」
多分ね、と相槌を打ったら樹さんはしみじみと優しいなあと呟いた。
「さてと。俺もメールチェックして早めに寝るかな。ごちそーさま」
「お疲れさま。おやすみなさい」
樹さんが自室に入る足音を聞きながら残りの洗い物を片付けて、自分も休む。
当然ここでも毎晩影時間はある。多紀が象徴化しないのはもちろんだけど、樹さんもペルソナ使いだからか、それとも適性の問題か、普通に棺桶にならずに寝ている。それでも影時間のことは認識していない。
一応シャドウが2人に悪さをしないように、いつ多紀が影時間に目覚めてパニックを起こしても対処できるように周囲の気配を見守っているつもりだけど、現時点ではそんな心配もいらないようだった。
遠足は今週末の金曜日。天気予報では雨の確率は50%といったところで、今日帰ってきたら多紀と一緒にてるてる坊主を作ろうと約束していた。
本日のおやつはいちごババロアが冷蔵庫に冷えている。お湯と牛乳で作れるもので簡単で美味しい。
布団乾燥機を稼働させながら夕飯の下拵えまで終わったところで、多紀がまだ帰ってこないことに首を傾げた。
奥様方が小学生にも子供用PHSを持たせようか、まだ早いか話題に上がっていたのを思い出す。いざという時に連絡がつく安心感は重要だ。
小雨の降る窓の外を眺め、エントランスまで様子を見に行こうかとヤキモキしていたら多紀が帰ってきた。
「ただいまー」
「あっおかえり。ちょっと遅かったね?何かあったの」
「うん。リサちゃんちでね、子犬が生まれたって聞いたから触らせてもらいにいったの」
レインコートを脱いで傘立ての横にある壁のフックに引っ掛けながら、多紀が早口で説明してくれる。
ふわふわの触り心地を思い出したのか「これぐらいでね、茶色くて」と両手で抱える真似をしながら、かわいかった〜なんて笑うから、心配していた僕のほうまで笑顔になる。
中型犬より大きめの体で、毛が長くフサフサした母犬だと言っていたので数ヶ月もすれば子犬もすぐに大���くなるんだろう。
「りょーじも今度いっしょに見に行こう?」
「うん、僕も出来れば抱っこしてみたいな」
おやつの後にお裁縫道具と端切れを出してきて、てるてる坊主作りに取り掛かった。
そのまま吊るすと頭の重さでひっくり返っちゃうからどうしようか、と2人で相談して体の部分に重りを仕込めばいいんじゃない?という結論に至った。
多紀にビー玉を提供してもらって、いくつか綿と一緒に袋詰めして端切れを縫い合わせたマントの中に仕込んだら、顔を描いて首にリボンを取り付ける。
「ジュジュと、りょーじと、ぼくと、じいじとばあばね」
5体のカラフルなパッチワークてるてるが出来上がり、カーテンレールに並んで吊るされた様子はなかなか可愛い。
「これで金曜日は晴れるね」
「うん!」
「樹さんが帰ってきたら見てもらおう」
「どれがジュジュか分かるかなあ��
「きっと分かるよ、多紀がみんなの顔描いたんだもん」
多紀とは逆に、今日は少し早く帰宅した樹さんが感心したようにカーテンレールを眺める。
「へえ。随分イケメンに描いてくれたな」
「だってジュジュいけめんでしょ」
「望月だってイケメンだろうけど。タレ目と吊り目の違いか?」
樹さんのてるてる坊主はキリッとした印象で、ピアスも忘れずに描かれている。僕の顔はぐりぐりした目の横にホクロが描いてある。ちゃんと黄色いマフラーも多紀が首に巻いてくれた。
久しぶりに皆揃って夕飯を食べながらリサちゃんちの子犬の話になった。
「多紀は犬が好きか。うちの実家にも白い雑種の、ももがいるぞ。覚えてるか?」
「…いぬ?お鼻がピンクの子?ジュジュが撮った写真があった」
「そうそう。もう今年10歳だからおばあちゃんだけどな。まだまだ元気だって聞いてるから夏休みに会えるよ」
「うん。ぼくのこと覚えてるといいな」
「ももちゃんかあ。僕も仲良くなれるかな」
野生の本能なのか、動物全般に僕はあんまり好かれない。そもそも近くに寄り付かないし、威嚇される時もある。怯えさせないようにしたいんだけど。
僕と眼を合わせられるコロマルくんの度胸はすごかったなあ、なんて記憶の中の白い犬を思い浮かべた。
「飼いたいなら…うちでも飼えるんだぞ。ここのマンション中型犬までなら大丈夫だし。猫だっていいけど」
「えっ。…ええと、そっか。でも、もうちょっとちゃんと考えてみる…」
多紀は最初に分かりやすく目を輝かせたけれど、ぐっと踏み止まって大人みたいな対応をした。確かに命を預かる責任が生じることだ。
「ああ。よく考えて、どんなことが必要か勉強しておこう。そうすればきっと出会うのに相応しい時に会えるよ。こういうのも縁だからな」
叔父さんに頭を撫でられて、多紀は嬉しそうに頷いた。
ついに遠足当日。朝のお天気は薄曇りで、念の為の折り畳み傘だけで済みそう。
お弁当は前日から練習してみたけど微妙なヒーホーくんキャラ弁。まだこの時代には100円ショップを探してもそれほど種類豊富なお弁当グッズが売ってないので、ちょっと苦戦した。
海苔とスライスチーズでフロストの顔を作り、体はミニハンバーグ。彩り重視で卵焼きにウィンナー、ブロッコリーとミニトマト。仕上げに保冷剤代わりの、冷凍にした小さいゼリーを添えて。
小さめのおにぎりを2つ入れたら準備完了だ。出来栄えは食べる時のお楽しみね、と多紀には言ってある。
おやつは多紀の好きなお菓子と水筒には麦茶。これだけで小さな体には結構な荷物だ。
「忘れ物はないかな?」
「えーと、うん。みんな入ってる」
「よしよし。じゃあ気をつけていってらっしゃい」
「うん。いってきます」
多紀が靴を履いていると洗面所から樹さんが慌てて玄関までやって来た。
「待て。俺にいってきますのチューは?」
「チューなんていつもしてないよ」
呆れながら多紀は膝をついて屈んだ樹さんにハグをしてあげる。ぽんぽん、とリュックを背負った背中を叩いて樹さんが「楽しんでこいよ」と笑った。
笑い返して頷いた多紀を送り出すと樹さんが身支度に戻る。僕は彼にトーストとコーヒーを用意して、後はお弁当の残りおかずで朝ごはんとする。
「てるてる坊主のご利益があったな」
「そうだね。帰りまで保てばいいけど」
照ってはいないが朝から土砂降り、なんてことにならないだけ御の字だ。
たくさん作った分の効果があったのかな。
金曜日はお肉セールの日。豚コマと鶏挽肉を買ったスーパーの帰り道に「望月くん」と声を掛けられた。声がした生垣の方を見ると、先日の紫陽花の老婦人が手招きしている。
「榊さん。こんにちは、先日は綺麗な紫陽花ありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして。それでね、今日も良かったらなんだけど」
今度はやや小さく、もこもことした可愛い白色の紫陽花をくれた。
「紫陽花の花言葉は移り気なんて言われるけど、てまりの種類には家族や団欒なんていうのもあるの。白い紫陽花は寛容とか一途な愛情。色や形で様々な花言葉があるのも魅力ね」
「そうなんですね…家族か。うちにぴったりです」
「でしょう?それとね、これはお裾分けなんだけど。ちょっと時期はズレちゃったけど美味しいものは変わらないわ」
渡された紙袋の中を見ると柏餅だ。葉っぱが緑のと茶色いのがあって、中身の餡が違うのだそうだ。こし餡と味噌餡。どっちも美味しそう。
「わあ、今年の端午の節句はもう終わっちゃってて、お祝いできなかったので嬉しいです。ありがとうございます」
「よく行く和菓子屋さんのなんだけど、まだ柏餅売ってたから買って来ちゃった。多紀ちゃんによろしくね」
ぺこり、とお辞儀し合ってまた歩き出す。我が家はみんな甘いもの好きだから、洋菓子和菓子関係なく喜ぶ。
空を見上げると雲は厚いものの、まだ雨は降らなそうだ。多紀が遠足から帰ってきたら柏餅でおやつにしよう、なんて考えながら家路を急いだ。
貰った白い紫陽花は壁際のキッチンカウンターに飾った。花瓶も可愛らしく小ぶりな桜色にして、部屋も明るくなったようで見ていると和む。
「ただいまー」
玄関が開く音のあと、すぐ元気な声が続いた。
「おかえり。遠足どうだった?」
「楽しかったけど、ちょっとバス酔っちゃった」
「あれ。酔い止め効かなかったかな」
「帰りは平気だったよ」
「そっか。良かった」
話しながら多紀がリュックからゴソゴソと取り出したのは空のお弁当箱と水筒。それからやっぱり全部空になったお菓子袋。
「おべんと、ごちそうさまでした。みんながねー、すごいってほめてくれた」
「おお!ひとまず安心したけど、個人的にはクオリティがいまいちなので…次に頑張るね」
「そなの?上手だし、おいしかったよ」
「…うちの子って、なんて良い子なんだろ」
首を傾げる愛くるしさにぎゅーっと抱き締めると「わかったわかった」と腕をぽんぽん叩いてあしらわれる。さっさと抜け出した多紀は手を洗いに行ってしまった。
真似してるのか無自覚か、仕種が叔父さんに似てきたなあ。
「お皿のね、絵付けたいけんしてきた。焼いてから学校に送ってくれるんだって」
「へー!なに描いたの?」
「ひみつ!」
笑いながらリビングへ入って、てるてる坊主に「雨ふらなかったよ、ありがとう」なんてお礼を言ってる。それから白い紫陽花に気づいて顔を近づけた。
「あれ?新しいのだ。きれいだね」
「さっき買い物帰りに榊さんに会ってね、また貰ったの。それと多紀にって柏餅も貰ったよ」
「かしわもち!こどもの日に食べるやつだ」
「みんなで住み始めたの大型連休過ぎてたから、お祝いしそびれてたよね。お祝いといえばお誕生日も!来年は盛大にやろう。ケーキ作っちゃおう」
「うん。その前に2人のたんじょうびだと思うけど…ジュジュは夏生まれだって言ってた。りょーじは?」
「僕?うーん僕は…秋生まれかなあ?」
正直、誕生日も歳もよく分からない。どこから数えたらいいのかも曖昧だ。
強いて言うなら、君にファルロスとしてお別れを言った朝の、次の日なのかなと思っている。そこから今の僕が形成された。もう随分昔のことみたいだけど。
「じゃあ、きせつが変わるたびにお祝いできるね。ケーキぼくも手伝う!」
にこにこ笑った多紀が、はたと思い出したように紫陽花を見上げた。
「あじさいのおばあちゃんにお礼したいな」
「そうだね。一緒にお菓子か何か作って持って行こう。ケーキの予行練習でもいいよ」
またひとつ、数日先、1年後までの約束と楽しみが増えた。こんなことの積み重ねで幸せが作られていくんだろうな。
柏餅は、こし餡と味噌餡どっちにする?と訊いたら迷うことなく「どっちも!」と答えるところは子供らしいというより多紀らしい、と笑ってしまったけど。
「ジュジュに半分ずつあげるの。どっちも食べたいでしょ」
「そうだねえ。樹さんも両方食べたかったーってなるよねえ」
樹さんがまた喜んじゃうなあ、と子供特有の猫っ毛でサラサラの髪の毛を撫でた。
柏餅を食べながら、教わった紫陽花の花言葉について話し合う。多紀は興味を持った様子で、今度学校の図書館でお花の図鑑を借りてくると言っていた。
まんまるで、人の心を和ませる。そんな世界一の団欒が作っていけたら良いなあ。
ささやかで壮大なことを願いながらエプロンを付け、夕食の準備に取り掛かった。
このお話の時代考証というか、どこまで詳細にやったらいいのか悩みまして、結論。
ファンタジーミレニアムにすることにしました。この時代にまだそれ無いじゃない…?
とか色々挙げればキリがないのと、この望月さんは全部体験はしていなくとも
令和まで知識として知ってるという未来人っぽさを醸し出してもらおう!という…。
チートなハウスキーパーというより所帯染みた専業主夫になってますが
子主さんにいろんな体験をさせてあげたいものです。
叔父さんはマキちゃんと友達以上恋人未満のいい感じになってて欲しい
もうお前ら早く付き合っちゃえよ!(願望)
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黒い森を抜けたあと
Schwarzwaldの続きの話。
綾子主+叔父さん出会い編。
あの子と初めて会ったのは、それほど昔でもないような気がする。
10歳余りも歳の離れた姉が遠くに嫁いで行ってからはあまり帰省する機会もなく、その子供である彼と会ったこともない。生まれたばかりの時送られてきたメールの画像と、親から伝え聞くことぐらいで。
なので自分自身もまだ中学生の子供だった俺と、その小さな甥っ子との関係はまるで遠い親戚のようにしか感じられず、冷たいのかもしれないが愛着もなくさほど可愛いとも思えなかった。
けれど写真を見れば顔立ちは整っている。濃い藍色掛かった黒髪に、大きな瞳。無邪気に笑う様は確かに愛らしいと言えるだろう。母親が俺の小さい頃にそっくりだとしきりに話すので、少々聞き飽きた。
それから数年して、多忙らしい姉夫婦の都合がつき泊まりがけで実家に来ることになった。もちろん甥っ子も一緒に。うちの両親はそれは大喜びだった。
初めて見るその子が玄関で俺を見上げると、隣にいた姉のスカートをぎゅっと握り、隠れるような仕種をした。けれど小さな声で「こんにちわ」と挨拶をする。視線はずっと俺に向けられたままなので、自分も「いらっしゃい」と返事をした。
皆で飯を食いながら雑談してる間、甥っ子は落ち着きなく歩きまわるかと思えば大人しいもので、やや内気ではあるが賢そうに見える。
早生まれで春には3歳だというその子が、俺のことを少し遠くからずっと興味ありげに見ているので、手招きをすると近寄ってきて横にぺたりと座った。
「…おじさん?」
「そうだけど…叔父さんっていう歳じゃない」
「いくつ?」
「17歳」
お互いぽつりぽつり、と呟くような会話を続けて、その子は「ふうん…」と納得したのかどうか分からない相槌を打った。
「…言ったら、おこる?」
「別に怒らないけど…名前で呼んでくれた方がいいかな」
藤堂樹、と名前を告げたその時に「たつ、きー」と復唱した笑顔が、なんとも可愛く見えた。
それから暫くして俺は例の事件に見舞われるんだけど、それはまた別の話。
甥っ子とそんな会話をしてからまた4、5年経った頃。
姉夫婦がムーンライトブリッジで大きな事故に巻き込まれて亡くなった、と知らせが来た。
家族一緒に乗車していた甥っ子は運良く生き残り、それでもまだ意識が戻らないらしい。
遠方に住む両親からも頼まれて、実家を出て独り暮らしの俺がその子の入院している病院へと赴いた。
小さい体には大きすぎる白いベッド。細い腕に繋がれた点滴のチューブが痛々しい。擦り傷程度で大きな怪我はしていないようだが、脳傷害などなければいいと様子を見ながら近くの椅子に座る。
姉夫婦の葬儀は何やら父方の家と勤め先が旧家だか大企業らしく、全て任せてくれと言われた。
少々強引なやり方で準備が進められ、一方的な言い草にこちらの両親も俺も唖然としたものだ。
いきなり家族が亡くなって気持ちも何も全く整理できていないが、ポツンと取り残されたような甥っ子の傍に居てやりたかった。
数日眠ったままでやっと目覚めた甥っ子に現実を伝えるのは憚られたが、聡明なこの子に大人の都合で黙っている方が可哀想だ。親はもういないんだと、独りになってしまったんだと告げた。
流石にすぐに理解できないらしく、惚けたように俺を見返したけれど。
「…だいじょうぶ、ひとりじゃない。おぼえてればデスが…来てくれる」
まだ夢の中にいるような顔で呟いた。
慌ただしく葬儀や事後処理が終わって、甥っ子のことも父方の家が面倒見ると頑なに言うので1年程会う事はなかった。
連絡先は伝えておいたので、たまに近況を聞くようにはしていたのだが、どうも違和感を感じて詳しく聞き出すと親戚中をたらい回しのような扱いを受けているらしい。
義兄はまともな人だったが、その親族は世間体ばかり気にして金は持っているくせに子供の面倒は見たくないというクズどもだな、と冷静にキレた俺はすぐさま甥っ子を引き取ることにする。
元々愛想がないだの馴れないだの文句ばかりで手に余る状態だった親戚連中は、猫の子を譲るよりも呆気なく、二つ返事で甥っ子を手放した。
ちゃんとした手続きを踏めば俺にだって血の繋がった甥っ子を養育する権利くらいある。問題なのは俺が南条系列の外資系商社に入ったばかりで、これから出張も転勤も増えて海外にも行くかもしれないということだ。
その時はこっちに連れてくればいいよと両親は言うが、毎回それでは結局たらい回しの環境と変わらないんじゃないか…今までが劣悪な環境だったので住む所くらいは落ち着けてやりたい。
信頼のおける人を雇って見てもらうしかないか、とそんなことを考えていた時。
おとなしく公園の砂場で遊ぶ多紀を見守りながら少し離れたベンチに座っていた俺に、いきなり声が掛けられた。
「茅野多紀くんの保護者の方ですか?」
その青年…まだ少年の名残が見られるかもしれない。けれど整った容貌と額を出した黒い髪と、不気味とも言える輝きをした青い眼を持つ独特の雰囲気��人物が俺に近づいてきた。
そして到底信じられないようなことを言う。俺は高校時代の経験から奇想天外なことにも多少慣れている気でいたが、それ以上に規格外のことに巻き込まれたのだと悟った。
「多紀を僕に育てさせてください。彼の傍にいたいんです」
未来から来た、甥っ子の縁者だと言うその人物は礼儀正しく頭を下げた。
望月綾時と名乗るその未来人、と呼ぶのが適切なのかまだよく分からないが、今現在の時間軸とは別のところからやってきたのだという。
多紀に会うためだけに。多紀の子供時代を救うために。
普通だったらこんな胡散臭いことを言う輩には警察に叩き出す一択だろう。
だが砂場から戻ってきた多紀が、彼を見つけた途端走り出してその長い脚に飛びついたのだ。
「……デス!デスだよね、ぼく覚えてるよ、思い出した。ちゃんと思い出したよ」
「…ふふ。覚えていてくれたの?ありがとう。でも今はデスじゃなくて綾時だよ」
「りょじ?」
「綾時」
「りょーじ」
「そうそう。やっと会えた。もっと早く会いたかったんだけど、思ったより手間取っちゃって。ごめんね。もう独りにしないからね」
「うん」
話しながらしゃがんで目線を合わせたその様子を見て、俺は細かいことは理解出来ないが分かってしまった。
甥っ子を見る望月の蕩けるような顔。慈しみを込めた視線と、大事そうに頭を撫でる手。
そして多紀の、初対面どころか全幅の信頼を勝ち取っている様子は叔父の俺以上なのではないか。
「…まだ胡散臭いのは抜けないが、多紀を一緒に育ててくれるなら有り難い。こいつも懐いているようだし」
「りょじとたつきといっしょに住めるの?みんなで?ほんと?」
多紀が興奮したように頬を上気させて喜んだ。甥っ子のこんな顔を見たのはいつぐらいぶりだろう。
「ああ。…でも不審な真似したらどうなるか覚えとけよ」
「…あ、誓って裏切ったりしないけどペルソナは出さないで。お手柔らかにお願いします」
立ち上がった望月は、にこやかに笑いながら顔の近くまで挙げた両手のひらを向けて見せた。ペルソナ能力のことまで分かっているようだ。やっぱり胡散臭い。
こうして俺と甥っ子と、保育士兼ハウスキーパー望月の共同生活が始まった。
俺と望月の手を左右で繋ぎながら、真ん中に挟まれた多紀が楽しげに歩く。公園から自宅まではそれほど離れていない。
「デスの時となんか違うね、りょーじ」
「うん?まあね、日常的にはこうだよ」
「またまほう使ったりするの?」
「使えるけど…叔父さん以外には内緒ね、じゃないと一緒にいられなくなっちゃう」
「えっそれはやだ!」
帰る道すがら内緒話のように仲良く話す2人を見て思い出した。
病院で目が覚めた甥っ子が言っていた言葉。覚えていればデスが来てくれる。
この子はそれをよすがに、これまで耐えてきたのだろう。
家に着いて2杯分のコーヒーを淹れ、多紀にはリンゴジュースを出してソファに座るとようやく落ち着いて話ができる。
自己紹介と連絡先を兼ねて名刺を渡すと、望月は両手で受け取ってまじまじと眺めた。
「藤堂…たつきさん、って読むんだ。多紀と似てるね?」
「うん。まぎ、らわしい?からたまにジュジュって呼んでる」
「こら。それはやめろって」
嗜めると多紀はきゃはは、と小さく笑った。
「じゅじゅ?」
「樹ってじゅ、って読むんでしょ?だからジュジュ」
「はは、それは良いね」
今まで必要以上に大人しく表情もあまり変わらないでいた甥っ子が、本来の明るさを覗かせてよく喋る。正直カウンセリングにも通わないといけないのではと思っていた俺はそっと胸を撫で下ろした。
「一度実家にも顔見せに行かないとなあ」
「じいじとばあばのとこ?行きたい!」
多紀を引き取るまでの経緯は電話で話してあったが、やはり孫の顔が見たいだろうし。
「多紀の御祖父母と…うわー緊張するなあ。手土産どうしよう」
「そんな身構えることないだろ。でも親に育児同居するって言うからには、お前の能力は説明しておかないとな」
能力、と呟いて瞬きをした望月は、考え込むように泣き黒子の近くを指でなぞる。
「特に資格は持ってないけど一通り学んできたよ。多紀を育てるために必要なこと。家事育児、運転免許…はまたこっちでも取るとして、家庭教師も経験済み」
「ぼくもね、目玉やきできるよ。おせんたくものもたためるし、1人でお風呂にも入れる!」
甥っ子も張り合うように手を挙げた。実際この子は自分のことは出来てしまうので手が掛からない。
「おっ、すごいな〜。でもこれからお風呂は僕と入ろうね。洗ってあげる」
「ぼくもりょうじ洗ってあげる」
「ありがとう。お休みの日はどこか遊びに行こうね。楽しみだなあ」
夕飯時も入浴もそんな調子で終始はしゃぎっぱなしだった多紀は、流石に疲れて歯を磨く頃には半分夢の中だ。
「もう寝ちゃったね。ベッド連れて行くよ」
慣れた手つきで望月が力の抜けた幼子を腕に抱き抱え、子供部屋に向かう。
「ああ。それが済んだらお前の素性を詳しく聞かせてもらおうか」
「…あー、やっぱりそうだよね…」
彼は観念したように苦笑すると、ちょっと待ってて、と言い置いて廊下へ消えた。
明日の天気予報を見ながら茶を啜っていると望月が戻ってくる。
ソファではなく床に正座すると真顔で見上げてくるので、俺も居住いを正した。
「…薄々勘づいているかもしれないけど、僕は人間じゃない」
「……まあ、最初に話しかけられた時にそうだろうとは思ったよ」
「どこまで話せば良いのか、話して良いのかも不確かだけど…貴方は多紀の保護者でペルソナ使いだ。尤もそのペルソナも、僕たちの定義とは少し違う」
碧眼を伏せて僅かに躊躇したような彼は、眉を顰めて語り出す。
「僕は多紀の…今もあの子の中に封印されているものが育って人間の性質を得た、その成れの果てだ」
「…封印?」
「そう。あのムーンライトブリッジで」
望月は自分のことをシャドウというものが凝縮し、ある目的のために作られた死神だと言った。
それはやや自虐的で、生まれた経緯や誰が封印したのかなど詳しいことは語られなかったが、甥っ子に対して強い負い目が滲み出ている。
「…大体は分かったが、今ここにお前が居るということはデスが2体いることになるんじゃないか?」
「…まだこちらの僕は完全体ではないけどね…いずれそうなる。事象に歪みが出るのは避けられないから、僕はその前に多紀の記憶を少々弄ってから元の世界に戻るよ。育った彼があの地へ帰るまでに」
「帰る?って巌戸台にか。それは確定してるのか?」
「そうだね。2009年の春、何度繰り返しても同じだ。違うのは彼の…選び取った結末だけ」
まるでループする世界を幾度も見てきたような言い草だった。
「でも、僕がここで干渉する意味が少しでもあれば良い。宿主である彼の心身に与える悪影響を最小限に出来るかもしれないし、ペルソナは心の力だ。僕らが確かに愛情を持って育てることで、彼の選択や能力…この世界での未来まで変えられるかも」
「…多紀もペルソナを使うようになるってことか」
「ああ。それも稀有なワイルドの力だ。君たちは相性の良いペルソナを付け替えたり出来るけど、僕たちの理では基本1人に一体のペルソナしか扱えない。数百の仮面を使い分ける彼は…特別なんだよ」
特別、と口にする望月は痛みを感じたかのように顔を歪めた。誇らしげでもなんでもない、多紀が選ばれてしまったのは自分のせいだとでも言うように。
「…訊いてもいいか?お前はどうしてそこまで必死になって多紀を救おうとする?そもそも何でこっちの世界に来たり戻ったりできるんだ」
「えっ、ええと…それは大切な人だし迷惑も掛けたし。あっシャドウはね、時間を操れるからだよ」
それまでと打って変わって、しどろもどろに答えた望月はまだ何か隠しているらしい。まあ言いたくないなら構わないが。
選び取った結末とやらの果てに、甥っ子は一体どうなるのだろう。
その運命をどうにかして変えたくて、望月は此処にやってきた。それは間違いなさそうだ。
「2009年か…その頃にはあのチビもでかくなってるんだろうな」
「ふふ。もっと身長は欲しかったみたいだけど、すごく綺麗で格好いいよ。やっぱり血が繋がってるからかな、貴方に雰囲気が似てる」
「…俺?まあ小さい頃にもそっくりだとか母親に言われてたけどな」
「飄々としてるところとか話し��とか、リーダーらしく落ち着いた思慮深さも似てるよ」
他にも優しかったり土壇場の度胸があったり美味しそうにご飯を食べるところなど、枚挙に遑が無い。放っておくと朝になってしまう。
「…お前さあ、多紀に惚れてるだろ」
「っえ!?いや、惚れ…あの、もちろん好きだけどその、僕は小さい多紀にはただ可愛いなーってだけだよ」
「当たり前だろ。こっちの甥っ子に手出したら切り刻んでやるからな」
「何もしません!っていうかだからそんな趣味も性癖もないから!!」
「どうだかな。中学ぐらいになったら色気付いてくるだろうし誘惑がないとは言えないだろ」
気分は箱入り娘の父親のつもりで半眼になり睥睨すると、望月は面白いぐらいに狼狽えた。
「なっ…なんでそんな意地悪…!怖いこと言わないでよ僕は!育児に来たの!」
「ははっ、お前もそうやってると人間みたいだな。まあいい、お前はそっちの世界の多紀に惚れてるんだろ」
「…うん。僕がこうして存在するのは全て多紀のおかげだ。その彼に報いたい」
真面目な顔に戻って、望月が正座した膝の上で拳を握った。
「了解した。多紀のために協力してやる。お前も全力で守れよ…と言いたいが、これから何年もあるのに張り詰めてたら誰も楽しくないだろ。取り敢えず甥っ子の日常を幸せで満たしてやってくれ」
「それはもちろん。僕も家族ってものに憧れてたんだ、だから仲間に入れてもらえて嬉しいよ」
よろしくお願いします、と笑って差し出された手に笑い返し、握手をした。
こうして男ばかりの甥っ子家族計画が始動したわけだが、望月が人心掌握術かの如く同級生の父兄に評判が良いのも、キャラ弁まで作れる家事スキルが完璧なのも、人外が垣間見え薄らとした畏れを感じることも、俺が知るのはまだ先の話。
今まで萌えのままに綾子主を描いたり書いたりしてきたんですが
どうして2人が一緒に生活しているのかをよく考えてみると中々にヘビーな理由と細かい設定がいるな…とは昔から思ってました。
うちは異聞録主が叔父さん設定なので今になってそこを深掘りしてみた感じです
異聞録主は藤堂姓にしたいお年頃。南条と桐条の関係もちょっと匂わせられるよねっていう魂胆ですが当時から異聞録であんまり創作したこともないので手探りです。
自力でタイムトラベル出来ちゃうチート綾時は便利だな(笑)
これからは本当にほのぼの日常パートが書けそうなので、張り切ってそのうち。
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アポトーシス
11月下旬の日曜日
太陽コミュMAXに出会う綾時と神木さん
青天の中に浮かぶ薄雲。今日も良い秋晴れだ。
僕はここ最近、長鳴神社に足を運んでいる。遠くからでもよく見える御神木を目当てに。
それに修学旅行で参拝した神社仏閣を思い出す静かな…厳かっていうのか、そんな空気を感じられるから。
日曜日の昼下がりに来るのは初めてで、夕方の景色とはまた違う、青空と枯れ葉の随分落ちかけた大木を見上げて嘆息した。
その御神木の根本近く、併設された公園に置かれたベンチに座る人影がある。
初めて見る人だ。線の細い、今にも消えそうな色素の薄い髪と肌の、痩せた男性。僕よりもいくつか年上だろうか。
ストライプのシャツ一枚で俯く様子に、晴れているとはいえ晩秋に寒くないんだろうかと、自分の服装を棚に上げて思ったりした。
僕の視線に気づいたのか、その人が顔を上げる。目が合って、なんと挨拶しようかと考える間も無く向こうから先に声を掛けられた。
「君は…僕のこと、迎えに来たのかい?」
「え?」
よく分からない問いに聞き返すけれど、初対面のはずなのにまるでよく見知った者に向けたように彼は話を続ける。
「生憎だけど、もう少しだけ猶予が欲しい…彼を待っているんだ。それが果たされたら思い残すことはないよ」
「…誰かを待ってるんですか?」
白い人は組んだ脚に視線を落として力無く笑った。
「そう…このベンチの隣に座ってくれる人さ。忙しい身らしく毎週会えるわけではないけれど、来て欲しいと願えば彼は叶えてくれる。だから今日もきっと逢える」
彼は使い込まれたノートを持っていた。ボロボロとも表現できるそのノートを大事そうに膝に置いて、その人を思い出したらしく幸せそうに口元を綻ばせる。
「もう秋か…それも過ぎて冬になろうとしているね。彼に会ったのは暑さの厳しい夏…いや、初めて会ったのは5月頃だったか。生命力に溢れた女の子が引き合わせてくれた」
半年余りの思い出を反芻しているのだろう、その人は遠くを見つめて呟いた。
「人生の最後に、彼に巡り合わせてくれた神というものに感謝しているよ…君にも、ね」
「え、僕?ですか」
「君からは彼とよく似た匂いがする。きっと深い縁があるんだろう」
そこで初めて、僕は彼の待ち人が誰なのか具体的な人物像が浮かんだ。
もしかしたら木漏れ日のベンチに座るのは、僕もよく知るあの人なのかもしれない。
口数は少なく表情もあまり変わらないけれど、人脈と懐の広さ深さは窺える。
それはこの街に越してきて日が浅い自分でさえも知っていることだ。
「僕の物語が…彼に、ひいては君に、何か残せると…いいな。それが生きた証へと繋がれば」
弱々しくも揺るぎなく僕を見つめる白い人は、預言めいたことを投げかけてくる。
「そうすれば死ぬ意味さえも見つかる気がするんだ」
寂しさを滲ませながらも満足そうに頷く。僕は何かに胸を鷲掴みにされたように苦しくなって、マフラーごとシャツの胸元をギュッと握り締めた。
人の生き死には、流れる水や風のように当たり前のもの。確かに前はそう思っていたのに、大事な人が出来たら見方が変わる。
何かを思い出しかけて喘ぐ僕の後ろから、よく知った声が投げられた。
「…綾時?珍しい組み合わせだな。神木さんと知り合い?」
「あ、」
カサカサと落ち葉を踏みしめながら予想通りに彼が来た。白い人の待ち人が。神木と呼ばれた彼が嬉しそうに答える。
「君を待っている間に少し相手して貰っていたんだ。やっぱり君の知人だったね」
「同じクラスの転校生同士のよしみで」
先程の浮世離れした空気から親しげな世間話に変わった。
「…あの、茅野くんも来たし僕はこれで失礼します」
振り向いた彼の意外そうな視線に曖昧に笑って別れを告げ、石段を降りた。
神木さんは何か大事なことを果たそうと彼を待っていたんだろう。これ以上の邪魔は出来ない。
階段を降りきった横の電柱に花束が置かれている。以前から気付いていたけど、誰かがいつも新しい花を供えているんだろう。
この場所も誰かの大事な人の、大切な思い出が在るところ。死してなお誰かの記憶に残り、未来に影響を与える。
「僕も、そんなふうに…」
僕の死が誰かにとって意味のある、何かに繋がるものであればいい。
そうすれば自分が今ここに存在する理由も、この世界のことをもっと知りたいと願う理由も解る気がして。
大事な人たちの平凡な幸せをずっと見ていたい。そのためにこの命を使えるなら言うことはないのに。
陽の��いてきた空を仰いで、もうすぐ来る冬に想いを馳せつつ歩き出した。
「僕も最期は、君の傍にいたいな」
その希みを、彼は叶えてくれるような気がした。
P3Rありがとう。
神木さんからのメールの言葉はどれも沁みました。
綾時と神木さんのお話は無印当時からずっと書いてみたいと思っていたもので
今回やっと書けるような気がしたので10年ぶりくらいに書いてみた次第です。
環境とか心境の変化などでやめてしまった創作ですがリロードをきっかけに少しずつ形に出来ればと。
昔出来ていたものが今は出来ない、と嘆くのは簡単すぎますが
今だから出来ること、も沢山ある気がして。
変わってしまったことと変わらないことを楽しみたいです。
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匣と隔たり
2009年発行の合同誌作品の加筆修正版・再録。
後日談綾主。
それまでは、ゆらゆらとした深い微睡みの中にいた。
まるで水底に眠る深海魚のように。
ふと思い出した呼吸と共に意識が鮮明に水面へ浮かび上がる。
そのイメージとは反対に、膝を抱えた僕は〈そこ〉から落ちた。
すぐに落下の衝撃が来るだろうと身構えた僕の体は羽根のように、もしくは無重力の軽さで、ふわりと地面へ腰を下ろした。
寝惚けてそのまま暫らく呆然とした後、床に手をついてみる。冷たく滑らかな木材の硬い手触り。腕を動かすと薄い布地に触れた。ラグだろうかと一瞬思ったけれど、それにしては滑々して触り心地がいいし、それほど広く大きくはない。
詳細を確かめ触っていくと自分の肌に当たる。ならばこれは僕の着ている服なのだ。長めの裾に、ちぐはぐな少し足りない袖。穿いている同じ素材のパンツも脛辺りで、やはり僕の脚には少し短い。
(…サイズは合ってるのかな?)
足、腹、胸から首へと次第に手を上げていく。乱れた前髪を掻き分け顔まで辿りついて初めて、服とは違う手触りの布が巻かれていることに気づいた。
両眼を覆うそれは、僕が自分でやったものだ。ということだけは分かっている。けれど何故巻いたのか、肝心の理由は思い出せなかった。
不思議と解く気にはならない。解いてはいけないものだと知っているから…だろうか。
膝をついて腰を真っ直ぐにしてから両腕を上げて伸びをした。ひどくゆっくりとした動作で立ち上がる。
この部屋を包む、淋しいほどの静謐さ。後ろを振り返ると、今まで自分の寝床だったものが浮かんでいる気配を感じた。
僕はそれをまた手で触れて、少しざらざらしてふわふわなのにしっかり固い、その卵の丸い形と感触をぐるりと回って確認した。側面に割れたのか大きめの穴が開いているけれど、壊れたわけではなさそうだ。
ちょっと安心して息を吐き出す。この〈ベッド〉は馴染んだ匂いがして寝心地が良くて、とても落ち着く。
同様にこの部屋の雰囲気と暗さは、寝るには丁度いい。横には窓があるのか、布越しにも分かる柔らかな明かりが差し込んでいた。それは燦々とした太陽光ではない。きっとこの静けさに相応しい夜なのだろう。心地よい月光を浴びながら考える。
…眠りにつく前、誰かに『おやすみ』と言われたような気がするんだ。その人は僕が眠るまで手をつないでくれていた。その温かさを憶えている。
だけど今の僕は、独りだ。その人の気配は近くにない。そもそも、その人って…
「…誰だったかな」
久しぶりに出した声は喉に痞えて、少しだけ掠れた。それでも発音と言葉は忘れていなかった。
首を捻って記憶を探って、やはり朧げにしか思い出せない僕は、卵型の寝台に背を向けて歩き出す。視界は見えないままだけれど、この部屋には卵以外に危険でぶつかりそうな家具なんて無いことを知っていた。
〈忘れている〉ことと、確かな根拠もなく〈知っている〉ことが乱雑に混ざって自分の記憶なのに掴み処がない。
(だったら知ってることから挙げていけば、整理されて思い出せるかも?)と、僕は安易に考えた。
「ここは僕の部屋で、ええと…僕、僕の名前は…」
名前。自分を定義付けるもの。固有名詞。ぼく、は…
「なんだろう…」
名案に思えた連想は早くも躓いて、思わず前に進む足も止まる。それはただひとつだけのような、いくつもあったような…変な感覚だ。
「まさか僕、前世の記憶とかあるのかな… っ痛!」
冗談半分に呟いてまた歩き出そうとしたら、鈍い音がして額をぶつけた。目の前にあるらしき壁…行き止まり?
触ってみると、それは壁ではなく大きな扉なのだということが分かった。両開きの真ん中が隙間なくしっかりと閉じられている。まるで何かを封じるように。
不審に思った僕は両手で堅固な取っ手を掴み、押したり引いたりした。外から鍵が掛っているらしいその扉は重く、揺さぶられ僅かに音を立てるだけ。
「誰か、誰もいないの?開けてっ…!」
他にどうしたらいいか分からず衝動に任せ拳を握り、分厚い板を一度叩く。
「だめだよ。綾時」
ふいに、柔らかく落ち着いた声がした。扉の向こうから聞こえてくるらしい。それなのに、僕の耳へと鮮明に届いた。
「っ…だれ? りょうじ、って…それは僕のこと?」
「……そう。望月綾時。仮初めかも知れないけれど、大事な…名前だ」
声の主は僕の問いかけに答えた。自分の他にも誰かがいて、しかも名前を、思い出せなかった名前を呼んでくれた。
「…もちづき…りょうじ」
小さく繰り返してみる。これが僕の、名前。
望月、望月くん、リョージ、綾時…聞いた覚えのあるいくつもの声の谺。確かにそう呼ばれていた気が…する。
嬉しくなって扉越しの彼にお礼を言った。ついでに質問を重ねて。
「君は?君の名前は…なんていうのかな」
「知らなくて、いいよ」
「それは良くないよ。名前を知らなきゃ呼べない」
お互いの名前を知るのは友達の第一歩でしょ?と平然と述べる僕に、彼は躊躇しつつ答えた。
「…多紀、だったと思う」
「自分の名前なのに自信がないのかい?…って、忘れてた僕が言えないけどさ」
「もう長い間必要なかったんだ。呼ばれることもないから」
「ふうん…?じゃあこれからは僕が多紀って呼んであげるね」
「…………」
少しは喜んで貰えるかと思ったのに、突然ふつりと彼が黙り込む。怪訝に思って僕はもう一度名前を呼ぶ。すると小さく「…好きにすれば」と聞こえた。
「ねえ、もしかして君なのかな?僕には大事な人がいたはずなんだけど、よく覚えてなくて…その他にも色々なことを忘れてるみたいなんだ。でも何を忘れてるんだろう?」
「…さあ、俺に訊かれても」
「あ、ごめんね…でも残念だな、忘れちゃったなんて」
「そうだな。でも、忘れてもいいこと…だったのかもしれない」
「忘れてもいいことなんてあるの?」
訊き返すと、また沈黙が返ってきた。どうも落ち着かない空気。なにかもっとうまく話を続けなければ、という焦燥感に駆られる。
「多紀も、ずっと独りぼっち?名前を呼んでくれる人がいなかったって」
「うん」
「寂しかった?」
「どう…だろう。よく分からない」
多紀のまるで人ごとの口調に、僕は首を捻った。
「分からないって?君も僕みたいに眠ってたのかな」
「いや、ずっと…起きていたよ。俺は」
ずっとなんて、寂しくなかったとしても退屈を覚えるんじゃないか。自分がもし眠れず、傍に誰もいなかったら…と考えた。その孤独と僕はどう相対しただろう。
「ねえ。この扉そっちから鍵閉めてあるんでしょ?開けてくれないかな。そうすれば、お互い独りじゃないよ」
「開けられない」
きっぱりと拒否した彼に反論する間も与えられず、一方的に「もう寝ろ」と言われた。
「え。ちょっと、多紀?」
それからは、いくら呼んでも返事は無い。僕は憤りに深い溜息を吐いて、仕方なく元いた場所へと引き返した。
軽く床を蹴るだけで僕の体は宙に浮き上がり、卵の中にストンと入る。また膝を抱えて眠ろうとしたけれど神経が小さくざわざわと昂って、あの深海には戻れなかった。
■
とても、とても久しぶりだった。彼の声を聞いたのは。
永遠に続くのではないかと思った独りきりの時間。甘い匂いに誘われる虫の如く、彼を求めてやってくる双頭の獣を追い払う。それだけの毎日。
…毎日、なんて時間の概念も既に無意味だ。一度だけ、どうしたのか寮の皆がやってきて獣を倒してくれたという出来事がある。それぞれ吹っ切れた顔をしていて、詳しいことは知らないが少しだけ安心した。
暫くは獣も静かになって助かったけれど…あれからどのぐらい経ったのかさえ、とっくに数えるのをやめてしまった。
今の環境に順応しているのは良いことだと納得していた。下手に感情が残っていても、どうしようもないのだから。
それなのに綾時の声を一言聞いただけで、慣れたと思っていた自分の感情が、思い出すこともやめていた今までの記憶が溢れた。
「まったく余計なことして…それなのに あいつは忘れてるし」
自分だけが思い出す、話の通じない遣る瀬なさと歯痒さ。ファルロスもあの時こんな気持ちだったのかもしれない。…いや、もっと悲しかっただろうな。
だけど、忘れているならそれで良い。ただ穏やかに眠ってほしいだけなんだ。
外はどんなに嵐でも、その部屋は真夜中の静けさを保つ。俺がそう在るように創った小匣。
俺にこんな力をくれたのは、この選択の道標を指してくれたのは きっとお前だから。
■
部屋の暗さは先程と変わらず、夜は続いている。朝を告げる小鳥の囀りは聞こえない。
僕はまた扉の前に立ち、固く閉ざされたそれを撫でた。シンプルな細工が施されてるようで、指先でそのかたちをなぞる。
この扉…分寮の玄関に少しだけ似てるかもしれない。あんな硝子は嵌まっていないし、こんなに広い横幅もなかったけれど、この取っ手の握り心地に覚えがある。
立ち止まってお別れを言ったあの日に、自分で閉めた扉。
(………あれ?分寮の玄関って なんだろう)
「…ねえ。」
顔を近づけて小さく呼び掛けた。暫くして「どうした?」と返ってくる。折角知り合えたのに、もう話してくれないのかと落胆していた僕の口は自然と綻んだ。
「こんにちは…こんばんは、かな。開けてくれるかい?」
「駄目だって言ったろ。こっちには怖い怪物が出るんだ」
「怪物って…、なに?そんなの多紀が危ないよ。君こそ中に…」
「俺はいいの。この為に俺がいるんだから。それにお前が」
彼が不自然にそこで台詞を切った。数秒待っていても続かない。
「…僕が、なに?」
「別に。何も心配しなくていいから、お前は静かにその部屋で寝てればいい」
「でも、君に会いたいよ。触ってみたい」
欲を言えばこの眼を覆う布を解いて、君の顔を見てみたい。どんなふうに笑うのか、仕草や瞳の色なんかを。残念ながらそれは出来ないから、せめて掌の温度や髪の触感を知りたい。
「…だめだよ」
取り付く島もなかった彼の声に、少しだけ哀愁が滲んだ。やっぱり何か知っているんだ、僕のことを。そこまで隠す理由は…なんだろう。
「眠れなかったから、色々考えてみたんだけど。どうして君は僕の名前知ってたの?」
「どうしてだと思う?」
「あ。そういう言い方ずっるいなー」
その時初めて、多紀の楽しそうな笑い声が「ふっ」と漏れるのを聞いた。僕もどれぐらいぶりなのだろう声を上げて、短く笑った。
今度は彼のことを思いつく限り訊いてみる。基準が僕には良く分からなかったけれど、答えられる質問には素直に、思い出しながらのように話してくれた。
例えば得意な料理のこと。昔飼っていた犬のこと。好きな音楽のこと。どんな曲?と訊くとアカペラで歌ってくれる。それはとても伸びやかな綺麗な声で、もっと歌ってとせがむ僕に、多紀はいつまでも優しい旋律を奏でた。
扉に背を預けて床に座りながら僕は目隠しの下で瞼を閉じる。断片的な、脳裏に浮かぶ景色。
あの人の胸元で揺れるイヤフォン。市松模様のベッド。黒板がよく見える席。花のように色とりどりの女の子たち。散らかっているところが機能的な親友の部屋。鮮やかな紅葉と青空。ムーンライトブリッジから見た、あの巨大な満月。
「………、」
自分はこの部屋しか知らないと思っていたけれど、確かに外の世界を知っている。こんなに明るい場所や沢山の人たちを、知ってる。
では何故、僕はここに独りで眠っていたのだろう?隔離でもされているのだろうか。なにか…伝染する病気だから出てはいけないと言われるの?
「僕が…外に出たら、もしかして迷惑?怪物がいるなんて嘘じゃないの」
歌声がふつりと止んだ。意外なほど言い淀む弱々しい声が続く。
「違う、そうじゃ…なくて」
「じゃあ どうして出てはいけないのかな。教えて」
僕の尋問する声は固く響いた。この部屋に不満があるわけじゃない。特別ここから出たいわけでもない。
けれど、頑なに駄目だと隠されると余計に出たくなる気持ちは…心が乱れ震えるのは止められないと思う。
「…また今度。起きたら話すから、今日はもう寝ろよ」
「本当、に?…だけど眠れないんだ。寝すぎて不眠症にでもなっちゃったのかな」
向こう側でなにやら笑い呆れ果てた気配がする。でもそんな態度とは裏腹に響いたのは、穏やかな声の余韻。
「なら羊を1000匹数えて、それでも眠れなかったらまた来いよ。話してやるから」
1000匹って多すぎない?と愚痴っぽく思った反面、『それなら10000匹』なんて意地悪を言われる前に、僕はおやすみなさいと挨拶をして扉を離れた。
■
俺も現金なもので、どんなに今まで思い出さなくても話していれば懐かしさも湧いてくる。
記憶の抜け落ちた綾時は、まるで一緒に学校へ通っていた頃みたいに無邪気で明るい。俺のことを質問攻めしてくるのが、知り合ったばかりのようで可笑しかった。
それに答えるのと同時に、自分でもだんだん鮮明に思い出してくる。
適当に作って持って行った弁当を綾時に試食させたら、まるでシェフみたいだと大袈裟に褒め称えられた。
コロマルとはあまり相性が良くないらしく、寮に遊びに来た綾時を威嚇するコロとアイギス両方を俺が宥めていた気がする。
耳に掛けたイヤフォンを片方盗られて、悪気なく自分の耳に装着���た彼が「あ、これ僕も好きだな」と笑う顔が印象的だった。
訊かれているのは俺自身のことなのに、答えながら真っ先に思い出されるのは綾時のことばかりで。他の友人知人とも当然思い出はあるはずが、あまりの偏り具合に一体何を如実に物語っているかを…途中まで考えてやめた。
あの時の曲を歌うと、彼は聴き覚えがあるのか気に入ったらしく何度も強請られる。在り来たりな恋の歌だけど、大切な友人に宛てたようにも聞こえる詩。
暫く黙って聴いていた綾時も、流石に今の状況に思うところあったのだろう。容易くは引き下がらない意志の窺がえる口調で再度訊いてきた。
これ以上隠していても、おかしな方に誤解するだけなのは予想がつく。それなら話してやろうと思った。だけど俺にも心構えというか…話すことを整理する時間が欲しい。羊を数えろなんて子供騙しみたいだけれど、彼はその素直さで、或いは物分かりのよさで承諾した。
それからちっとも考えが纏まらないうちに、微塵の空気も読まないあの獣が黄色い砂埃を立てて地の底からやって来る。
「久方ぶりの逢瀬ってものを邪魔したら…どうなると思う」
迷惑な客人を出迎えるため気だるげに立ち上がりつつ、抑揚なく言ってみた。
■
卵の中で羊を500匹まで数えたかどうか、それぐらいの時間が経った。
遠くから…あの扉の方から、叩きつけるような音と振動。ぎちぎちと軋む金属音と、くぐもった獣の咆哮。
(なに?今の…)
轟く雷鳴のような衝撃にびくりと反射的に体を震わせて上体を起こし、気付いた。…まさか 怪物、が。
「っ…多紀!」
宙に浮かんだ卵から大きく跳躍した僕は、その勢いのまま駆け出した。速度を緩めるのが間に合わずに、否そんなもの初めからしようともせずに扉へ体当たりして僕の足は止まる。
「多紀っ…逃げて、開けてよ!こっちに来るんだ」
「…俺はだいじょうぶ、だから…開けたら駄目だ。お前こそ、戻れ」
「いやだ!」
彼が、僕にとって初めてかもしれない友達が危険に晒されている。君に何かあったら…。
(何かって、なに。)
どうして、こんな時に自分は何も出来ない?どうして僕は。
恐怖と焦燥に無我夢中で扉をこじ開けようと力を込めた。するとほんの数センチ、数ミリかもしれない。扉が歪んだだけとも言えるが、確かに開いたように感じた。あちら側の強烈な光が、布に覆われているはずの眼を灼くように射したから。
それと同時に獣の臭いと気配が、紅い二対の視線がたったそれだけの細い隙間から自分を捉えたのが解かった。瞬時に本能的な怖気と吐き気で体が凍りつく。
「開けるなって…言っただろ馬鹿!」
多紀が切羽詰まった声と共に、すぐさま扉を乱暴に閉めた。僕は返事もろくに出来ないまま、その場にずるずると蹲って口を押さえる。
なんだろう、あれは。一体何故こんなに気持ちが悪いのか。纏わりつくあの視線。僕を見つけて歓喜した。
どくどくと心臓が速く脈を打つ。自分は知っているはずだ。間違いなく僕に触れようとした、あの怪物を。そして門番たる彼の役割は…。
「…あ」
そのとき僕の記憶を塞ぐ何かの留め金が外れた。堰を切って勢いよく流れ出す。
眠る前あの人が言った。「きっとお前は次に俺を見たら、泣くか怒るかだろうから…絶対に見ないでくれ」と。
どうしてだろうと不思議には思ったけれど。僕がというより、僕に見られたら君が悲しいのかな、と直感したんだ。だから決して見ないと約束した。そのために自ら視界を覆った、それだけのこと。
けれど長い長い眠りの中で、わざと忘れようとしたのか、自然と忘れてしまったのか、もう区別がつかない。
「…ぅじ、…綾時!平気か?」
いつの間にか、辺りは元の静寂に戻っていた。扉の向こうから彼の気遣う声がする。
「ああ… うん。君こそ大丈夫?怪我はない?」
「怪我?全然。もう怪物も大人しくなったから」
「でも、また何度でも来るよね。僕を知るために」
死というものが、何なのか。恐れと同時に甘く惑わす事象に興味を持って手を伸ばす、そういう意識の塊。
ふと黙り込んだ多紀が、遅れて小さく僕を呼ぶ。
「綾時、」
「ごめん ね…」
こんな言葉、いくら重ねても何の役にも立たないのかもしれない。
君の姿は見えないけれど、君が何をしてくれているかは分かってしまった。
僕のために。…皆の、生ける全ての者のために。
もう迷いのない手が後頭部の堅い結び目を解く。顔を幾重にも巻いている布に指を引っ掛けて、静かに取り払った。
うっすらと瞼を開ける。初めに見えたのは布を持つ自分の手。それから視線を上げて、自分の身長の数倍もある高さの黒い扉が。瞬きを数回してみる。幽かにぼやけていた輪郭がはっきりして、周囲の様子を捉えた。
黒を主とした色調の部屋。横の壁にはレトロな窓枠が嵌まった大きな窓。その向こうに見える澄んだ空に、浮かぶ満月。上を見るとプラネタリウムみたいに星が天井一面に輝いていた。割れて少々歪になった卵は、蛍のように淡く発光して控えめに存在を主張している。
どうしてこの部屋がこんなに落ち着くのか、今なら分かる。ここは彼の中だ。僕を小さくも広大な場所に匿ってくれた。
「ごめん、…ありがとう」
嬉しくて悲しい。温まると同時に申し訳なさに胸が詰まって、約束を守りたいのに…君に、逢いたいよ。
こんなに相反する感情がいくつも一緒に湧いてきて…人はこんなときどうする?
(嬉しくても悲しくても、涙が出てくる生き物は)
どちらかをはっきりとは選べなくても、どこかで折り合いをつけるしかないのかな。
生きるとは選択すること。…彼もそうやって、いま此処に居るのだろう。
■
ほんの僅かだとしても、封印の扉に隙間が開くとは思わなかった。
流石ニュクス、人外の馬鹿力恐るべし。俺は少しだけ冷や汗を掻いていた額を拭い、盛大に息を吐く。
目敏いのか鼻が利くのか、獣がしっかりと綾時を認識して腕を伸ばした時は本当に血の気が引いた。同時に激昂して瞬く間にその黒い腕を切り落としていた。
手っ取り早く獣を片づけると綾時の口調が、声に込められた雰囲気が変わっていて…記憶が戻ってしまったのだと悟る。
…お前が謝ることなんてない。俺はお前との契約通りに自分の選択に責任を持って、自分で答えを見つけて決めた。それだけなんだから。
そんなこと言っても彼が納得しないのは分かる。だけど俺だって、純粋にお綺麗な自己犠牲の精神ばかりじゃない。この役目は他の誰でもない、俺にしか出来ないってこと。それが誇らしくも嬉しいと、笑って言えるよ。羨ましいだろって誰かに言い触らしたくなるぐらい。
「なあ、綾時」
「え?」
「俺って、割と欲深だったんだな」
「…そうなの?」
突然ぽつりと言った俺の言葉に、彼はいまいちその意を得ないようで曖昧に返事をする。
「それを言うなら僕だってかなり欲深いよ。自己中心的で…今だって」
綾時が囁くような含み笑いと共に続けた。
「この状況を身勝手に捉えれば 未来永劫、君を手に入れたんだって幸せに浸れる」
「………」
同じこと考えてた、というのは教えないことにした。
■
扉を背凭れに、膝を抱えて座り込む。体温は感じなくても、多紀も同じように背中合わせになっているのかと何となく考えた。
「多紀の内側は、静かで綺麗だね」
「…は?」
長い沈黙のあとで僕が発した呟きに、彼が少々拍子抜けの声を出した。
「昔と変わらず…いや、もっと綺麗になった。真冬みたいに冴えた空気に、濃く暗いけれど濁らず、奥深く素敵な彩りの世界」
僕はゆっくりと視線を移動して、高い天井を見上げた。星座なんて詳しくないし読めないけれど、美しく散りばめられた星明りに目を細める。
「何が…言いたいんだ」
憮然と照れが混ざった彼の声。こういう時の君は、きっとこんな表情をしてる。直に見たいものの見られないから想像した。
「君の宇宙は素晴らしいね、ってこと」
「……この物件に満足だってこと?」
「フフ。まあね、それでもいいよ。記憶が戻ってこうして部屋の様子が見えるようになったら、一層良く分かる」
「え。目が見えなかったのか?」
「ううん、ちょっとね 見えなくしてたんだ。大丈夫」
相手が見えないままで会話することも、なかなか趣があるかもしれない。電話とはまた違う、扉ひとつ隔てた向こう側の君の様子を、気配と音と、声で感じる。
例えば今なら、呆れたように溜息を吐いていたのが僕の視力を心配して声が堅くなった。大丈夫と答えたら意味を測りかねながらも安心したのか、また小さく息を吐いた。そんな些細なことに気づくのが楽しい。…もしかすると、僕の方も同じように相手から分析されている確率は高いかな。
「せっかく俺が獣退治してるのに、お前に病気とかされたら洒落にならない」
僕も病気に罹るのだろうか。今でも?けれど君の気持ちは伝わってきたから、顔を伏せつつも笑った。
「本当に…、ありがとう」
「…言っておくけど。これは別に、お前だけのためじゃない」
「うん、分かってるよ」
これが君の、命の答えを導いた選択の結果なんだろう。それは誰にも文句を言う権利はないし、正否もない。
「でもね、僕としては君に日常へ戻って欲しかったな」
「…ちゃんと戻った」
「すぐ帰ってきちゃったじゃないか。僕なんか暫くほっといたって良かったのに」
それこそ50年や100年、彼の人生が大往生に終わる頃でも十分待てたと思う。
「その間あんな奴にべたべた触られても良いのか?アイツ短絡思考だからどんなことされるか分からないぞ」
「えっ、まあ 過度のスキンシップは…ちょっと遠慮したいけど」
「舐め回されてヨダレだらけならまだしも、喰われるかもしれない」
獣のあぎとに咀嚼される自分を想像するのは、いくら僕でもあまり楽しいものじゃない。仕方なく考えるのは、出来れば少しでも上品に残さず食べてほしいなってことぐらい。
「うーん、食べても美味しくないよって伝えておいて…」
「無理だな。話せばわかる奴ならこんな苦労しない」
「あぁ…御尤もです」
肩を落として苦笑する。自分だって、君と話が通じるようになったのは奇跡みたいなものなんだから。
僕を脅してちょっぴり楽しんでる様子だった多紀が、不意打ちで声音を変えた。
「お前に触れていいのは 俺だけだろ」
「…うん」
彼からこんなことをダイレクトに言われるのには慣れてないので、内心戸惑いつつ頷く。
胸がじんわり温かくなって嬉しかったり、君に触れて良いのだって僕だけなのに触れられない事実が寂しかったり。そんな感情が少々遅れて付いてくる。
「それに」
多紀が、どうしようもなくなって両手を握りしめた僕に構わず続けた。
「あんな姿をしていても、負の感情でも…お前は人間の全てを愛しく思うだろうから」
「………」
さっきは何も考える前に、嫌悪と寒気と恐れすら感じたけれど…それでも僕は、あれを完全には拒否できない。清らかさも醜さも混在して人となる。僕の隣人とも言える、愛すべき愚かな人たち。封印されていなければ、いつか手を差し伸べてしまう。考えてみれば…そうかもしれない。
「…つまり嫉妬ですか?」
「違います」
冗談混じりに言ったら間髪入れず清々しいほど即答されたのが可笑しくて、声を立てずに笑った。
「そこで反対に肯定すれば、本当に違うんだって素直に信じられるのに」
「なんでだよ」
「君は嘘つきだから」
「…お前に言われたく ない」
嘘つきで天邪鬼。僕らはよくよく似た者同士ということだろう。不貞腐れた彼の言い方がまた可笑しくて、今度はお腹を抱えてくつくつと笑った。
■
大抵の女の子にとても有効で実績のあった、歯が浮くような〈たらし語スキル〉は健在らしい。
俺の内面、つまり精神的な部分を褒めてくれたらしいことは分かるが…なにやら聞いてると素っ裸で何もかもを白日のもとに晒されてるかのように恥ずかしい。
(いや、扉に架けられているアレは同じようなものだけど。それとこれとは、別だ)
まるであの綺麗な碧眼で自分の全身をまじまじと眺められているようで、膝と腕でがっちり覆い隠す勢いで自身を掻き抱いた。
(…見えてるわけ、ないのに)
綾時は目を見えなくしていた、と言った。自分でだろうか。俺が見るなと言ったことを律儀に実行したのなら、少し悪いことをした。
俺は…見られたくなかったのかな。自分がこんなことになってるのを、あいつに見られるのが後ろめたい気持ち。それが僅かながらもあったのだろうか。
見られたら、きっと綾時は泣きながら『どうしてそこまでするの?』と俺を責めるだろうと思った。
その言葉が俺に向けられないとしても、彼に少なからず自責の念が残るだろうことを。
けれど見たわけではないにしろ、こうして事情が分かってしまって綾時から受け取ったのは、想像していたような衝動に任せた激しい感情ではなく。初めの混乱を見事立て直した後の、凪のように落ち着いた静かな尊重と容認だった。
何のことはなく、俺は綾時を侮っていたと同じだ。謝ろうかと思ったのに、口をついて出るのは反対にどうしようもなく可愛げのないことばかりで。自分なりに頑張ってはみたものの、惨敗。
「…嘘つきの言うことは、信じられないか?」
そんな有り様だったので、自分の低い伝達力でどれ���け伝わっているのかが大いに不安な俺は、まず最初におずおずと基本を訊いてみる。どんなに伝達力が高くても、狼少年は信じてもらえないのだ。
「え、どうして?」
綾時は意外だったのか声を高めに訊き返す。
「だっ…だってそうだろ、言ってることが本当かどうかも分からないなんて、」
「…どうして」
今度は低く、とても穏やかに同じことを。それから事件解決時の探偵の如き滑らかさで、最後の答えを彼の口が紡いだ。
「君が嘘つきだって見破ってる時点で、僕は君の言ってることの真偽が大体判ってる…ということだと自惚れつつ思うけど」
「…………あ、……なに?」
つまり、話を戻せば先程の嫉妬云々を知らぬ間に肯定したことになる。
自分が彼の術中に情けなくも嵌まっていることを、再確認した瞬間だった。
■
僕の唱えた嘘つき論に納得させられた多紀が、もうひとつの何かに気づいて羞恥に駆られたらしい呟きを漏らしたとき。
どうしようもなく彼を抱きしめたい衝動に駆られたけれど、それは叶わない。
…諦めるな、望月綾時。なにも直接の触れ合いだけが想いを告げる術ではない。世の中には遠距離恋愛という素晴らしい文化もあるのだ。…なんかちょっと違う気もするけど。
「そうだ、ちょっと待っててね」
(扉を開けなくても言葉以外にコミュニケーション出来る方法を探せばいいんだ)
僕は急いで部屋を引き返して、卵のもっと奥、カーテンで仕切られて物置みたいになっている場所を物色した。ここまではあまり月の光も差し込まないので、カーテンを開けておかないとほぼ真っ暗になってしまう。
毛布や地球儀、古いチェス盤、替えの黒いシルクで出来たパジャマ(今着ているのと同じものだ)…結構なんでも揃ってる。もしかしたら僕が欲しいと思ったものはある程度都合よく出てくるのかもしれない。生活必需品とか。
机の引き出しから、薄くてしっかりした紙の束とパステルの24色セットを探し出してきて、扉まで足取り軽く戻った。
「ただいま!いいもの見つけた」
「…いいもの?」
「もうしばらくお待ちください~」
棒読みで告げてから、床に紙を広げてパステルで絵を描き始める。暗くてちょっと不便だけど月明かりはあるし、元から夜目が利くから十分見えた。
風に揺れて輝く青。滑らかな象牙色の肌。24色程度じゃ色を塗り重ねたって、ちっとも本物通りには描けないけれど。記憶に残っている君を精一杯紙に写した。
両手を盛大に汚しつつ描き終わって、自分でよく眺めてから扉の下に滑らせると紙は引っかかりもせずに向こう側へと送られる。…あ、この方法で文通が出来るかも。
「どうかな?」
彼からの反応は長い間無かった。差し入れた紙に気づいてないのかと、もう少し待つ。そのうち気に入らなかった、或いはいつもの『どうでもいい』発動かと不安になって、恐る恐る名前を呼んだ。
「…た、多紀…?あの、そんなにダメなら描き直す?」
「………もっと いろんなもの、描いて。らくがきでいいから思い出せるだけ、ぜんぶ」
その声は堪えようとしたのか所々震えていて、今にも泣きそうだった。もう泣いているのかもしれない。僕はそれに気付かないふりをした。
「うん。次はなにがいい?」
この部屋の床や壁や星降る天井にまで 全部。
僕らが眩しい時を過ごした中で知り合った、僕が記憶してるもの、君の大事なもので埋め尽くしたいと思った。もう忘れないように。忘れても思い出せるように。
袖振り合うも多生の縁、なんて昔の人は素敵な言葉を考えたよね。
■
そういえば、俺も美術部だったな。
綾時が描いて寄越した1枚の絵を見て、ふと思い出した。お世辞にも熱心な部員とは言えなかったけれど、どことなく普通の教室とは違う、凛としたあの部屋の雰囲気が好きだった。
少々美化され過ぎてる感の、紙に描かれた自分へ視線を落とす。ドライパステルの淡い色を幾度もぼかし重ねた、透明感のある青。
思えば、俺の身近に不思議と縁のある青。地平まで続く海の色。晴れ渡る空の色。青い部屋とエレベーターガールに、綾時とアイギスの瞳。
塔の頂上で相対した死の具現、その背に生えた黒い翼を彩る毛細血管のように蔓延った亀裂。燐火の青白い光を連想させて、不気味に綺麗だった。
(しかし何で色鉛筆でもクレヨンでもなくパステル…?こんなところに定着剤なんてないよな、勿体無いけど)
このままでは紙に塗ったパステルが掠れたり剥がれ落ちてしまう。そう何気なく考えたあとに気付いた。定着剤を掛ける、つまりこれを保存したいと思ったんだ。それはこの1枚に確かな愛着と未練が、あるということ。
そんな感情は俺の中から、とうの昔に融けてなくなったと思っていた。だけど本当は。
(ほんとうは みんな 手放したくなかった)
ペルソナ使いは、自分自身のほんとうから逃げられない。…お前の言った通りだ。
それでも、違う何かを掴むにはそれまで手中にあったものを放さないといけない。何もかも同時に抱えるなんて無理だということを、知っている。
だから選んだ結果はこれで良かったんだと思える、それも本当。本当だけど…残った記憶をこれからも慈しんで大事にしても良いんだと、許された気がした。
あちら側に殆ど全てを置いてきた、だからってどうでもよくなったわけじゃない。ずっと変わらずに想ってる。
綾時から次に描くものを求められたので、少しの思案の後に呟いた。
「…じゃあ、とりあえず順平で」
「オーダー テレッテッテー」
■
僕が下手なりに次々と思い出したものから量産していると、それまで考え事でもしていたのか無言だった彼が「欲しいものあるんだけど、いいか」と控えめに言った。
「うん?なにかな」
「………はね」
蚊の鳴くような消え入りそうな声で、それでも確かに羽根と聞こえた。
「羽根?って どんな?羽根ペンとかならあるかも…探してこようか」
用途が分からないまま立ち上がりかけた僕を、多紀が慌てて引き止める。
「違ッ…そうじゃなくて、…お前の」
「……ぼくの?」
僕の羽根って、腰周辺から4枚も生える長くてでかくて正直邪魔以外の何物でもない、あれだろうか。
「1本でいいんだ、わざわざ抜かなくても…生え変わったりしたときで」
「え、そんなの全然構わないけど…出るかな」
久しぶりすぎて翼の出し方忘れました、なんて言ったら彼はがっかりするだろう。
こんな言い難そうに、気を使ってまで欲してる僕の羽根。どうしてそんなこと思ってくれたのかは謎だけど。
「…ん」
背中の方に意識を集中して、僅かに呼吸を止める。みしり、と痛みのない軽い衝撃が走った。
「は、 ぁ」
息を吐いた途端に、始めは多少骨が引っ掛かりつつも4枚の翼全てが無事に生え揃った。流石に目一杯広げると、この部屋の横幅でも窮屈そうなので下げておく。
その中の(どれも同じに見えるけれど)一番汚れてない見栄えのしそうな羽根を選んで引き抜いた。それを絵を描いた紙と同じように扉の下へと滑らせる。
「これでいいかい?」
「…うん。ありがとう」
彼の声は惚れ惚れと溜息を洩らす賛美者のそれに聞こえた。
「すごく、綺麗だ」
僕は照れてみたらいいのか『君の方が綺麗だよ』とお決まりの台詞を吐けばいいのか、スマートにお礼を言ったらいいのか即判断できずに、ぽかんと目の前の扉を見つめている。そしてリアクションとしては完全にタイミングを外した頃に、ただひっそりと微笑んだ。
パステルを持つ手は止めず、その後も僕らはあらゆる話をする。基本は在りし日の思い出。最初に出会ったときのことや、お互いが知らない逸話、今だから言えるちょっとした謝罪。締め括りには、これからのこと。
「多紀が僕を護ってくれているように、君をいつか解放してくれる…そんな人が現れたら、いいな」
「…心当たりは、なくもない」
「うん…彼女ならやってくれるかも、ね」
途方もない夢を語りながら、都合が良すぎる部分に目を瞑り半分本気で思う。願わくば、彼の魂が任から解かれて休めますように。
僕はこのまま眠っているから、独りでも平気。この部屋の扉は頑丈に作ってあるし、怪物がどんなに惑わそうとしても開けなければいいんだ。目が覚めても眠ったふりをすれば大丈夫。それに孤独も案外悪くないよ。お願いをひとつ言わせて貰うなら、君がたまに僕のことを思い出してくれるだけでいい。
その希望という名の空想は、一時僕の心を優しく包んで憩わせた。
…もし 自分を差し出せば彼が自由になるなんて、そんな単純で簡単なことだったら…どんなに良かっただろう。
「そろそろ本当に寝ろよ。お前が夜更かししてるから、あいつだって興奮して何度も覗きに来るんだぞ」
話と絵のネタも尽きてきた頃、多紀が冗談めいた口調ながらも諫めてきた。
「そうだね、君の面倒事が割増しするね…って、もうしてた?」
「話してる途中で2回ぐらい。まあ全然来なくても、それはそれで暇だけどな」
なんと2回も。返事が遅れがちだなと思ったぐらいで気付かなかったと言ったら、曰く飛び道具と遠距離攻撃は楽で良いとか。…なにをしたんだろう。
「本当にお疲れ様。それじゃ、また目が覚めて眠れないときに歌を聞かせてよ」
「いいけど、お前もう1曲とか言ってずるずる寝ない魂胆だろ」
「そんなことないよ。子守唄で安眠快眠したいだけ」
当然アンコールは一度ならず要求するけどね。他の曲とかも聴けると嬉しいな。…僕ってやっぱり欲深だろうか。
僕は最後に黒い扉へ顔を近づけて、見えないのを良いことに優しく唇で触れた。
「おやすみ」
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彼の羽根は、鷹や鷲と同様に大きく風格があり、青み掛かった鴉の濡れ羽色。発光ダイオードのように煌めく折れそうに細やかな枯れ枝の模様。上に掲げて光に透かすと、まるで金属の光沢で輝いた。
それを指で壊れないように摘まんで撫でる。床に広げられた何枚もの思い出の欠片を眺めながら、軋んだ胸から細く溜息を吐き出した。
(馬鹿だな、そこまで幻想を語るなら完璧に、自分も一緒に戻るぐらい言えばいいのに)
もっと彼のことが聞きたかった。俺のことばっかりじゃなくて綾時が何を考えているのか、あのとき本当は何を見て、何を思っていたかを。
どんなに辛く寂しくても、きっと今も笑ってるんだ、お前はいつだってそう。
嘘つきなのはお前だろ。優しい嘘を、微笑みながら心を込めて大切につく。なのに自分の肝心なことは嘘でも言わない。
(言葉にしてしまったら、虚しさが増すだけなのを知っているからだろうか)
気休めと慰め。どちらに受け取るかは人それぞれだし、その時々の気分でも変わる。正しい回答なんて分からない。
…俺に出来るのは、この扉を護ること、歌ってやること。それに…気付いてないふりで傍にいること、なのかな。
どんなに俺がこちら側の住人になったとしても、きっと彼の孤独を理解できないだろうから。綾時だって理解して貰いたいとも思ってないだろう。
それでも俺は…お前と、共に在るよ。
扉の中心、繋ぎ目に唇を寄せて口づけを返す。
「おやすみ、良い夢を」
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