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「BNE参上」のタグ。街中の至るところで見かけるステッカーだ。インターネットで調べると、国籍不明のストリート・アーティストによるもので、バンコク以外にも日本をはじめいくつかの都市で見られるようだ。その意味やメッセージについては調べるといろいろと見かけるが、本人によるステートメントは見つからず、謎のままである。
意味は理解していないが、バンコクから帰った後に東京でこのステッカーを見かけたことがある。その際、意味を理解しないままグローバルに都市間がひとつの振動で共鳴した感覚を覚えた。
ゴシック体でアルファベットと漢字がミックスされ、世界で誰が見ても意味は理解できないが、共通する振動だけは感じる。グローバル都市の小さな小さな通低音である。バンコクにはバンコクにしか存在しない独自のビートが流れているが、その構成要素を分解すると、東京でもニューヨークでも聴こえる音がある。そういう音に気付けた時、異国であるバンコクにも小さな居場所を感じる。
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バンコクの街を歩いていると、大きな鉢をよく見かける。鉢には、これまた大きな緑が植えられている。大きさは、ちょうどプロダクトデザインとランドスケープの間というか、地面に固定され動かせないわけではないが、1人でそうやすやすと動かすことは出来ない。普遍ではないが確かな日常を形作る構成要素だ。
このスケールのモノを置くことができる空間は、ゆとりがある。せせこましく「適切な都市計画・スケールとヒューマン・スケール」で作られた空間は、歩く空間と車の通る空間の幅が適切に設定され、緑の感覚も一度決められると動かすことはできない。
自分の手の入れられる範囲、建物の敷地内と公共空間の間に大きな鉢を置く。そのゆとりがまず空間にあること、そしてそこに実際に鉢を置くことはパブリックとプライベートの間に介入する試みであり、そこで生活する人が都市の風景を形作ることになる。バンコクにおいては露天が並んだり、勝手に椅子を置い��り、様々な「境界への介入」が溢れているが、その1番シンプルな試みが、この大きな鉢と緑の設置によって生まれるグリーンの景観だろうと感じる。
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ブラックのトラックに荷物が積まれている。トラックからめちゃくちゃかっこいい。ここまでバンコクの街を歩いていると、インダストリアルな、バンコクらしさのないものから異国情緒というか、旅先での風景だなあという雰囲気を味わっている。モノ自体はインターナショナルスタイルでも、そこから連想させる暮らしや都市の動きのようなものが、その空気を連想させるのだろうか。
この辺りでは、こういったインダストリアルな景色ばかりを目で追っている。作業員の男たち(男性しかいない)は黙々と仕事をしている。
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街の至る所に段ボールが積まれている。段ボールの積まれる様は、ビジネスの営みと生活の営みの両方が感じられていい。これ以外にも、モノが積まれる写真を何枚も撮った。
同じパターンの反復はアンディ・ウォーホル的な大量消費社会の表現で、これも確かにそうなんだけど、バンコクの路上にあるとどうしてもアメリカの巨大スーパーマーケットとは違って、手触りとヒューマンスケール感がある。あと、「バンコクの美意識」みたいなものって現地を歩いていても掴みづらいのだけど、「モノを積む」という「整列と反復」は、分かりやすい美意識として、理解しやすい美意識として安心するのかもしれない。
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28. BKK

街を歩いていると、1階を店舗にしている建物なんかはハナから間口をオープンにしているけれど、ちゃんと扉があって閉じている少々小綺麗にしているカフェやホテルを見ると、例に漏れず鉢に入った大きな植栽を入り口に置いている。街中の街路樹なんかを見ても既に緑は溢れているにも関わらず、それにそれに留まる事なく緑を増やしている。これは観光客向けのブランディングなのか、自分達のためにやっているのか?とにかく、大きな葉を付ける植物を大きな鉢に入れるとそれだけで気分がよくなる。自宅でもやりたい。
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27. BKK
街を歩いていると、ダンボールやパンパンに中身が詰まった袋など、モノを積み上げているシーンをよく目にする。倉庫だったり、バックヤード的なシーンが普通に生活道路の一部に存在する。
私はこういう、モノを積んだ様が好きで、よく写真を撮ってしまう。同じ規格の段ボールに書かれているパッケージを見る。そこから生活のシーンを想像する。屋台での時にも感じたけれど、人の手を感じることのない工業的な規格品であるにも関わらず、都市の活動の息遣いを感じる。
人が住む場所、食事をする場所、荷物を収集したり運んだりする場所、商店、さまざまな機能が一つの通りに、ヒューマンスケールに存在している。歩いているだけでバンコクを感じることができて気持ちがいい。
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26. BKK

屋台では大きな鍋が10個近く並び、それぞれ別の料理が同時進行で作られている。作られた料理はトレイに入れられ、歩道に沿って並んでいる。調理と、ディスプレイと、配膳とが一体となったこの1列には生活・文化・経済のすべてが詰まっていて美しい。
トレイも鍋も大きなスプーンも、意匠を見てみると別にローカリティやオリジナリティ、屋台にチューニングされた独自のギミックなんてものは存在しない。どこにでも・・・世界中にある匿名の、インダストリアルデザインでしかありません。それらを用いても、しっかりローカルならではの風景は生まれますね。
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24. BKK:2019.03

タイ風のオムレツとガパオ、ライスを注文する。注文したものはすべて一皿に盛り付けられる理に���ったスタイル。お皿の柄も、どの時代にも、どのエリアでも流行となったことのない様式で、とにかく何かの意思を持って選ばれたことはないであろうピンクの花柄。プラスチックで扱いやすく、おそらく安価で、サイズもちょうどよく、購入時にあったであろう選択肢の中から完全な合理性から選ばれたであろうプロダクトです。この意思の無さ、主張の無さとちょうどよさがいいですよね。
タイは自炊文化が無いそうで、その理由はこの屋台のように安価で出来立ての温かい食事が食べられるからだという。結局のところ食事って、食べたい時に温かい料理にありつけることなのだから、それが叶うことは贅沢です。目の前で大きなフライパンで大量のお惣菜が作られていて、そこから好きなものを選んで、コメと一緒に食べていて得られる感覚は、スーパーやコンビニで出来合いのものを買うのとはやっぱり違うんですよね。
海外旅行先で過ごしていても、地元の人と同じ体験をしたり、同じ場所で時間を過ごしたりすることってあまりなく、結局は観光客向けの体験の範囲の中から出ることは難しかったりする。でも、屋台でご飯を食べている時は違う。観光客もいるし、地元のおじちゃんおばちゃんもいるし、仕事用であろう綺麗なシャツを着たビジネスマンもいる。彼らと同じ時間に同じようなものを食べる。
場所によっては、屋台であっても観光客しかいないような場所もあるけれど、ここは違った。観光地の近くではあるものの、時間が朝早くであったこともあるだろう、地元の人たちのいろんな生活を見ることが出来た。こういう時間を過ごせると、たとえ誰かと交流したりしておらず、側から見ると1人で静かにご飯を食べているだけに見えていても、実際はローカルのあらゆる空気を全身で味わっていて、それはひとつの交流であるわけです。これはとても贅沢なことで、僕はタイに行くと毎度この時間を過ごすことにしている。
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23. BKK: 2019.03

街路にテーブルや椅子が広げられ、テーブルの上には大きな鍋に入れられた惣菜が所狭しと並べられる。バンコクの朝だ。目に入る景色、聞こえる音、鼻孔をくすぐる香り、そのどれもが美しい。
テーブルや椅子を見ると、木製にせよプラスチックにせよステンレスにせよ、そのどれもが安価で使い勝手も良さそうだ。そして、統一感がない。いや、「個別で見るとバラバラの椅子やテーブルが使われているものの、全体を見ると統一感がある」という表現が適切か。このストリートを形作るエレメントは素材も色も異なる。今、ゼロからインテリアデザイン、スペースデザインを行った際には絶対にできない使われ方。
「個別個別で見ると一見統一感がないが、全体の質としては統一感がある」ということについて考える。要は「全体の質」の質を知りたいのだ。統一感を作るエレメントを探してみると、例えばテーブルの高さや大きさなどは揃っているという点に目がついた。その空間が作り上げている行為(料理とその提供)に関わる機能に一定の秩序があれば、他の要素(この場合ではマテリアルや色)はバラバラでも構わない、ということかもしれない。
この景色の美しさを感じるために私はバンコクへ行く。美しさの質には色々あるが、バンコクはそれが多様だ。このストリートが作る美しさもある。大規模商業施設で生まれる美しさの質もある。どちらも感じられる都市が好きだ。
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22. BKK:2019.03

バンコクの街路には生活があっていい…という話はしつつもここは依然として寺社の集まる観光エリアであって、まあなんというかリアルな日常の場とは違う。要は「ここはしっかり作られた、比較的綺麗なエリアですよ」ということですね。静かなのは朝だからという理由もあるが、そうふざけることのできないエリアだから、という理由が大きいだろう。
ゆっくりと歩きながら街路空間を眺めていたが、道路の向こう側を見てみると、お寺の特徴的な頂部と敷地を覆う壁が目に入る。道路標識サインの反対側には『NO DRONE ZONE』と書かれたサインがある。バンコクのドローン規制ルールについて詳しくはないが、それがなんであれ、このエリアは当然のように禁止されている。
語弊を恐れずに言えば、バンコクは基本的にはなんでもできる国だった。伝え聞いていると近年、それが変わってきている印象はあった。久しぶりにバンコクにこの度訪れ、その思いを強くした。『NO DRONE ZONE』はあまりに真っ当なサインだが、バンコクは真っ当な都市では無かった…と言うと、異国からの観光客として、あまりに都合の良いものの見方だが、そんなことを思ったのである。「だからつまらなくなった。ダメだ。」と言っているわけではないですよ。すべてのものは変わっていく。
自分が初めてバンコクに行った時はティーンで、ギリギリスマートフォンもない時代で、とにかくすべてが刺激的だった。そりゃ、高校生の頃の思い出は美化されるものだし、今みたいにリアルタイムに世界が繋がった時代によって失われるローカリティ、生活習慣等を嘆くことも簡単。僕がティーンの頃でさえ、「今みたいにLCCなんて無く、インターネットに情報の少ない時代のバンコクが楽しかった…」という年長者はいたわけだしね。
世界中の人々が観光客となってバンコクに訪れるようになって当然のように都市は変わり、豊かになった。自分もその大いなる波の中の一粒の水滴であって、水滴が波の動きに何かを思うのも奇妙な話なのだ。
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21. BKK:2019.03

フェリーが止まり、対岸へと降りた。日の昇る前の川沿いは真っ暗で生活感がなく、漂う非日常感に浸ることができたが、日が昇り、辿り着いた先を見渡して感じたことは以前からイメージにあったバンコクらしさそのもので、それには安心感があった。安心感から来る異国感。
何がバンコクらしさを形作っているのだろうか?日本に比べて広い歩道、その半分は面する軒先の庇がかかり、道路側のもう半分は青々と茂った街路樹によって木陰が作られている。熱帯のバンコクは年中30度近い温度だが、こういった木陰が心地いい。歩道には屋台が出て、プラスチックの椅子やテーブルが並び、そこではローカルの気候も生活も感じることができる。これがパブリック・スペースだよな、と思う。
朝の街路には生活の始まりがポツポツと溢れていた。基本的には静かな中、かしこまったシャツ(もちろん半袖だ)を着て、髪を整えおそらくオフィスへ向かう青年(どこへ行くのだろう?)。朝食用の屋台では、惣菜がステンレスのトレイに盛り付けられ、スパイスの香りが漂っている。雑貨屋もシャッターを開け、新聞の入ったスタンドを道側へ出していく。この時間にここを歩いている観光客はいない。
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20. BKK: 2019.03

船に乗った。川向こうに渡るだけの目的だが、川を対角線上に渡るわけではなく、なんとなく流れに沿って進んでからグルっと回る。
私が船に乗った乗った平日の朝は観光客などおらず、地元の人たちが通勤に利用しているようだった。料金は30円程度で、5-10分くらいの素っ気無いリバークルーズだ。特に何かアナウンスがあるわけではない。人々も大きな声で話すでもなく、静かに座っている。エンジン音と、前へ進む船が水を切る音が響く。透き通った川ではないとはいえ、高温多湿のバンコクで、日の昇りきらない朝に川の上を進むのは心地いい。風を感じる。船からお寺が視界に入る。バンコクを五感で感じることのできる数十円の体験だった。

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19. BKK: 2019.03

朝日が昇るのを眺めて、静寂のお寺の空気を存分に楽しんだとひと息ついて、川向こうに渡る船に乗りたいと思い船着場に向かった。
船は目の前に見えている川向こうに渡るためのものに過ぎないのだが、30人以上は乗れる目的の割には立派なものだった。また船着場にあたる場所も、屋根の高い木造のオープンな建築だった。古めかしいところはあるが、必要以上に立派なものだと感じた。
必要以上に立派なものには大抵下品さというか、「やりすぎだな」という感想がネガティブな意味で使われがちな印象がある。しかしここでは何故かそうは感じなかった。
その建築は川沿いに向けて通り抜けできるので、ゲートのような役割を果たしている屋根のある屋外空間を作っている。照明はほとんど無く、自然光のみがそこにはある。高い天井の屋根の部分にある窓から日が差し込むのと、ゲートの出入口部分からの光しかないので、結構空間での光にはコントラストがある。道は一直線で、迷うことはない。出口は光で示されているからだ。
この空間構成が船着場のあるべき形なのだと思った。乗り場に迷うことはない。船を待つため、腰かけたり時間を使うために屋根の下にベンチや小さな売店はあるが、それらはあくまでそっけない。ただ高い屋根のデカい空間の下にそれがあればいい。外からの入口か乗り場への出口かどちらかでお金を払うゲートとしての役割を果たす必要があるので、そこは道が一直線になっており、係員からチケットを買う。
最初私は「川向こうに渡るだけなのにデカい船着場だな」と思ったのだが実はそうではなかった。これは船着場としてあるべき空間の形だったのだ。
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18. BKK: 2019.03

タイ、というか東南アジア諸都市に行くと、ふとデザイン精度の高い匿名のインダストリアル・デザインに出会うことがある。今回の旅行では、川沿いの塀の上に何故か置かれていた扇風機がそれだった。
その扇風機は全体のフォルムが綺麗な正方形で、その中に円形にくり抜かれたスペースに羽が収まっている。シルバーの正方形の外型の中に赤い羽という色の取り合わせも謎だが、妙にキマっている。
だいたい扇風機のデザインって羽の下に足があって首を振れたり足元にボタンが付いていて風の強さを選べたりするわけですけど、それは足もないし足元もない。コンセントだけが伸びていて、外だし当然そのコンセントはどこにも刺さっていないのだけど、とにかくそのそっけない様がいい。
こういう東南アジアで時々出会うタフそうでタイムレスなインダストリアルデザインに出会うと嬉しい。ちょっとスノビズムに溢れて気持ち悪い発言になるけれど、柳宗理が民芸品を"発見"した時ってこういう気持ちだったのだろうか、とか思ったりする。
東南アジアで出会うそれっぽいインダストリアルデザインの9割はチープだったりダサいんですよね。たまにこういうものがある。どこで誰が作ってるのか全然分からない。いつか解き明かしたい。
それにしてもなんであんなところに扇風機が置いてあったのだろう。
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17. BKK: 2019.03

敷地内には雰囲気のある荷台が置かれている。古く錆びた荷台のストラクチャー部分に、身体を畳めば大人1人が入れてしまいそうな大きさのブリキのボックスの組み合わせだ。
アメリカのクライムドラマとかだと、もっと縦長のフォルムをしたプラスチック製ボックスに車輪がついていて、そこに人が入ったりといったトリックに使われたりする。あれって動かしているシーンは絵になるんですけど、置いてある時ってそうでもないですよね。
一方コイツは置かれている佇まいも絵になる。ブリキ製のボックスはそれだけでなんともいえないレトロな風情があるし、ケースを閉じるために真ん中に南京錠が付いていたり、その下にはタイ語が書かれたステッカーが貼ってある。メッセー���の内容は分からない。側面のフックには鎖が引っ掛けられている。ヒューマンセンタードなデザインでは一切ない。だからといって使い勝手が悪いというわけでもないだろう。当然、使ったことはないけれど。ラフになんにでも使えそうだ。
直接見たあれには何が入っていたのだろう。ブリキは表面を軽く叩くと安っぽい音がする。叩いても中の様子は当然分からない。南京錠は閉じられている。
ドラマのようなサスペンスの雰囲気はない。ただあまりに自然とそこに佇んでいるため、サスペンスな何か、あるいはそんなに悲劇や物騒な何かで無くても箱を開けたら始まる別の物語がそこにはあって欲しい。
公共空間に口の閉じられた大きな箱が置いてあると、普通は物騒だ。だからアメリカのドラマで出てくるゴミ箱は「これはゴミ箱ですよ」と分かるように機能している。誰もが存在を知っている。そういう記号として認識されているからこそ、その中には例えば捕らえられた人が…といったサスペンスが展開される。
「誰も記号として認識できない謎のデカい箱」が公共空間に置いてあると物騒で、それは当然目立つだろうと思う。ただこのブリキのボックスは目立たない。自然だ。恐怖ではなく、存在を理解したいからでもなく、ただ純粋な興味本位の「中に何が入っているのだろう」と感じる大きな閉じられた箱。そんなものはなかなかない。
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16. BKK: 2019.03

ワット・アルンでは許可のないドローン飛行も禁止されている。日本だと確か「許可されたところ以外は原則禁止」だった気がするのだけど、バンコクは禁止表示のないところはオッケーなんだろうか(そんなことないですよね?)。
まあなんとも現代的…と感じる表示だけど、違和感はないですよね。神聖な場所、大事な公共空間での禁止行為として。また、許可されて飛ばされたドローンで撮影されたこのお寺の写真や映像も見てみたい。
…と思って調べてみたら、そりゃありますね。YouTubeで「wat arun drone」とかで検索したらすぐ出てくる。あまり再生回数は多くはないようだけど、そんなことは関係ない。最高だ。朝昼夕夜とどのシーンもあるけれど、本当にどの表情もいい。こういう建築空間が今大都会に存在しているということそのものも素晴らしいし、それを今までかつて人が見ることのできなかった角度で見つけることができる現代にも感謝したい。
ドローン・フォトグラフィは現代の美そのものだ。ドローン技術そのものは石油のような存在で、使い方によっては美しいものも醜悪なものも生み出すことができる。このワット・アルンの美しい景色を無くすことだって、赤子の手を捻るように簡単なわけだ(最悪な話だけれども)。
今度バンコクに行くときも、今回のように朝日を眺めたい。また、隠れてドローンを飛ばして朝日を見てみたいという思いはある。ドローンを飛ばすなら、人の目の高さで「景色が抜ける場所」を探す必要はないわけだ。どこが美しいのだろう。ドローン写真家は、そうじゃない人にとってはなんでもない場所が、「あそこなら美しい絵が撮れるはず」と輝いて見えたりするのだろうか。
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15. BKK: 2019.03

ワット・アルンに置いてある香炉は、業務用の折り畳み可能なステンレステーブルに置かれている。そのテーブルの両サイドには2つのパラソルがあり、パラソルのちょうど傘の部分にはちょっと気になるメッセージが書かれている。
「Buddha is not for DECORATION」
「Buddha is not for TATTOO」
ヒッピー風のアングロサクソン系観光客へのメッセージなのか、それとも地元の若者に対してなのか、それ以外に伝えたい層がいるのか分からないけれど、こんなところで「バンコクの良心」というか、自由で享楽的な東南アジアの世界的観光都市のあり方そのものに対する苦言を目にして笑ってしまった。
確かにブッダはデコレーションじゃないんだ���ど、「偶像」としてのブッダのイメージの完成度の高さってものすごいんだよね。絵として強いんですよ。穏やかな慈愛の表情で両手を合わせたり掌をこちらに向けたりね。
もしかしたらタトゥーにしてる人も、表層だけのファッションだけでそのイメージを採用しているのでなく、家の中でその彫像と向き合ってマインドフルネス��時間を作っている人と同じ気持ちでタトゥーを見ているのかもしれない。それは分からない。
まあいいじゃんタトゥーにしたって、と思った。

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