Tumgik
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皇極天皇の四年(六四五年)六月十二日、宮中の天皇の面前で暗殺事件が起きた。殺されたのは、当時権勢を恣(ほしいまま)にしていた蘇我入鹿(そがのいるか)。 … そして十四日には、皇極天皇が生前譲位して、弟の軽皇子(かるのみこ)が即位する。孝徳天皇である。 なお、これが『日本書紀』の記載するところによれば、史上はじめての天皇の生前譲位であった。… … そして六月十九日には、大化という元号が制定され即日施行される。 もしこれが史実とすれば、蘇我入鹿暗殺の企てと同時に、ひそかに元号案が練られていたとでも考えざるをえない。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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(明治43年)当時、南北朝については、両統並存という厳然たる歴史的事実をふまえ、「南北朝時代」という表現のもと、どちらか一方だけが正統という書き方はせずに(国定の国史教科書で)教えられていた。この価値中立的なやりかたに対して、抗議して政府の方針を糾弾したのは、ジャーナリズムと野党勢力だった。 … 国家・政府が常に悪いことをするという単純な認識は勧善懲悪主義という点で、朱子学・水戸学の大義名分論と同質・同水準にすぎない。真に恐るべきは悪は、私たち自身の中に、しかも善かれと思ってふるまう行為の中にこそ潜んでいるのだ。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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日本で、家のなかに仏壇を設けて祖先の位牌を置く風習は、江戸時代に始まるとされている。… 今でもつづくこの宗教儀礼は、釈迦自身の説教には無く、東アジア仏教が布教上の理由で儒教から取り入れたものにすぎない(加地伸行『儒教とは何か』、中央公論社、一九九〇年)。 そもそも、位牌自体、中国に仏教が伝わってから、儒教でかたしろに使う木製の板(神主(しんしゅ))を模して発明されたものだった。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
折り合いを付けられなかった(つけなかった)事例
最終的には中国・朝鮮もこれ(キリスト教)を弾圧したのだが、その弾圧のきっかけになった事件は、祖先祭祀をめぐる典礼問題であったことは注目すべきである。
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四親廟制によれば、王朝の開祖は先祖四代を祀る廟を建てることになっていた。これと三昭三穆とはどう整合性を持つのだろうか。 文献学的には、王制篇、礼器篇(「三昭三穆」)と、喪服小記篇(「四廟」)とで、内容的な相互関連など最初から存在しないとするのが正解である。 … しかしながら、儒教の経学者たちにとってはそうはいかなかった。両者は同じ一つの制度についての二様の表現であるから、相反するものではないはずだというのが、彼らの前提だった。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
四親「現在の皇帝から見て四代前の祖先」
三昭三穆「現在の天子から遡って六代」
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更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。 The practice in the Imperial Family has been that the death of the Emperor called for events of heavy mourning, continuing every day for two months, followed by funeral events which continue for one year. These various events occur simultaneously with events related to the new era, placing a very heavy strain on those involved in the events, in particular, the family left behind. It occurs to me from time to time to wonder whether it is possible to prevent such a situation.
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
Message from His Majesty The Emperor
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薄葬は、一般に死者を厚く葬ることをよしとする儒教の教えに反するようだが、始皇帝や漢の武帝のような巨大墓造営に国力・民力を消耗することは仁政ではないとする、儒教の理念にかなっている。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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ともあれ、この架空の話柄(堤中納言物語の虫めづる姫君)から傍証されるのは、平安時代に藤原摂関家の姫君皇后たちが、蚕棚の世話などするはずがない、ということである。 ところが、明治政府は皇后にそうしてもらいたいと考えた。その前例を『日本書紀』や『万葉集』に求め、新例としてではなく旧慣復興という口実にしたのである。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
堤中納言物語
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(参議院予算委会における八紘一宇発言)これは、特定宗教の教説を国政の場にもちこんだものではなかろうか。 この発言を批判したいわゆる有識者たちが、もっぱら「戦前の危険な思想の表明」というレベルの問題で片付けようとしたことに、私は強い違和感を覚える。 そうではない、これは特定宗教の教説であるところに問題が存するのだ、と。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
第189回国会 参議院予算委員会(平成27年3月16日)
そこで、今日、皆様方に御紹介したいのが、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、天の下覆いて家となさむとおっしゃったことに由来する言葉です。
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私には特定宗教の教義を誹謗中傷する意図は毛頭ない。ならばなぜこのような本を書いたのか。それは、教義と史実とをしっかり区別するためである。少なくとも、その宗教を信じていない者が、教義を押し付けられて生活せざるをえないようになってしまうことは、避けたいのだ。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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したがって、聖書の中でどうしても納得しかねるような、神聖だとはとても言い難いように感じられるような部分があった場合、…、歴史的な制約や習慣だとして我慢するなり、アレゴリー的な解釈に走って字義どおりの意味を乗り越えようとするなり、…、さまざまな方策がとられてきた。しかし、キリスト教会の内部にあって、そうした部分を聖書から正式に除去してしまおうという試みは、これまでも成功しなかったし、これからも不可能だろう。… このように聖書は、キリスト教において、単に神聖であるという意味のみならず、一般社会における憲法や法律のような役割も帯びている。それを全体として守ること、全体として承認することによってはじめて、教会という組織が成立するのである。
筒井賢治「グノーシス」
同内容
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(9世紀から10世紀にかけて行われた日本紀講において)たとえばある時の講義の場で、こんな質疑応答があった。神代のイザナギ・イザナミの最初の結婚で、「不具の子」であるヒルコが生まれた時に、「太占(ふとまに)」という占いが行われた。それはいかなる占いかという質問に、博士は「鹿の肩骨」を使った占い(鹿卜(ろくぼく))と答えた。すると別の質問者が、山海草木は二神の結婚によって生まれたとあるが、ここではまだ動物は生まれてたとは書かれていない。どうして動物が生まれていないのに、「鹿」の肩骨が手に入るのか…。
斎藤英喜「読み替えられた日本神話」
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そもそも漢字がまだ大陸から伝来していない時代の(それ以前の問題として、まだその頃には日本列島以外の国土の存在が、高天原の神々には知られていなかった頃の)天照大神が、どうやって漢字で「天壌無窮」と発言したのか、不思議ではある。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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戦国時代の例についであげられているのは、豊臣秀吉が仁徳天皇陵でしばしば猟を行ったこと(『堺鑑』)… 仁徳天皇陵は、古来ずっと陵墓と伝承されてきた場所なので、秀吉もここが山陵であることを知っていたはずだ。つまり、彼は確信犯的にここで狩猟を行ったのである。 … ただし、豊臣秀吉の不敬行為もあながち責めることはできない。彼の時代には、陵墓に対して敬意をいだくという観念自体が無くなっていたからだ。
小島毅「天皇と儒教思想~伝統はいかに創られたのか?~」
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失恋したからケーキのやけ食いか くだらない 典型的なスイーツ女子の… スイーツに謝れ
ケーキ王子の名推理 第1話 ショートケーキ
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takenspc · 8 years
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天皇は日本の「元首以上の地位」、精神のよりどころ……これが明治天皇制でした。そんな天皇が一切の国務をとりしきるのが、このシステムの建て前だったのです。 しかし、近代日本で天皇がすべてのことを事細かに決定することはありませんでした。重要事項についてはほとんどなく、天皇は政治の一線から一歩引いていた存在でした。天皇に政治的責任を負わせない配慮も、そこにはありました。
3/4 明治天皇制はなぜ崩壊したのか [社会ニュース] All About
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takenspc · 8 years
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すなわち、明治の建国当時の日本においては、西欧の立憲君主国にみられるような、君主の絶対的支配というものは存在していませんでしたし、存在しない君主権力を制限する(議会などの)人民の政治参加というものも存在しようがありませんでした。 ともに上からこさえあげた、現実には存在しないも同然の、君主主義と立憲主義を、どうすれば「融合」することができるのでしょうか。
明月堂書店 – 天皇について(14)明治憲法における天皇親政の欺瞞 たけもとのぶひろ【第65回】– 月刊極北
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takenspc · 8 years
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白の休憩舎は、団体(20~30名程度)の休憩所として御手洗いと併用で設置された。周辺に桜も多いことから、お花見スポットとして人気を博していたが、老朽化のため現在は立ち入り禁止となっている。
代々木公園丘の広場
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