takodance
takodance
TAKO DANCE
2 posts
4月5-7日「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と関連ワークショップのページです。
Don't wanna be here? Send us removal request.
takodance · 1 year ago
Text
木原萌花自己展『タコダンス』評
(2023年5月28日)
評者:石見 舟
 世田谷区祖師ヶ谷大蔵にある建物の最上階にカフェムリウイはある。そこの4×6メートルほどの空間を、40名弱の観客が囲むようにして座る。50分ほどのソロ・ダンス作品が始まる。はたして『タコダンス』という題名の意味は何だろうか。しばらくのあいだはこの問いが評者の頭のなかを占めていた。これは木原の初のソロ作品だというが、『タコダンス』という言葉の響きには初挑戦に対する気負いのようなものは感じられないし、またその裏返しとしてのニヒルさもない。どうやら素朴に『タコダンス』であるらしい。この「タコ」とは、あの海の生き物の「蛸」のことだろう。あるいは、題名に冠せられた「自己展」に対しての「他己」かもしれない。新学期に何度かやらされた、隣の同級生にインタヴューして、その人を紹介するという「他己紹介」の「他己」だ。
 ダンスが始まると、たしかに蛸のような動きが散りばめられているように思われた。腕を大きくしならせて床をなでる動き。あるいは、床にあおむけになって寝そべり、そこからまるで身体に足や正面といった観念がないかのように起き上がろうとするかのような動き。しかしそれが本当に蛸の生態をまねしようとしてなされるものなのか、はっきりとした確証を得ることはできない。しかしひとつ確実に言えるのは、木原はダンスを通して蛸にはなっていないということである。身体に背骨が走っていること、四肢にぬめりがないことは、言うまでもなく人間的特徴であり、木原は���れを否定することはしないし、むしろそれを拠りどころとして踊りを展開していく。クラシック・バレエのムーヴメントが引用されるシークエンスでは木原のつま先が四角く広がり、床を力強くつかむ。流れるようでゆったりとしたバレエのムーヴメントを遂行するダンサーの身体技術を堪能していると、ダンサーが蛸なのかどうかをわざわざ問う必要はなくなってくる。それでも蛸のような動きを見たときの観客の感覚はバレエのシークエンスでも活きている。というのも、蛸のような木原を見下ろしていた観客の視線は、このシークエンスでも自然と床へ注がれ、カフェムリウイの亀裂の入ったコンクリートの床がその視線を受けているのだ。カフェの窓は開け放たれており、路地裏から自転車の通りすぎる音や親子の賑やかな会話が聞こえてくる。木原の動きに集中していた視線と注意は、いつのまにか彼女のいる床へと移っていく。そしてその床は観客の足元にある床でもある。そしてこの建物を包む、よその気配も観客の経験と切り離すことができない。
 これは決して、作品としての踊りが退屈だからついよそ見をした、ということではない。木原のダンスはこうした感覚へと観客を導くものであったのだ。それは例えば、観客席の組み方や照明の工夫からも確認することができる。幼稚園にあるような低い椅子に腰かけて、低い視線からひとりの人間の体の動きを眺め、そしてさらに床へと視線は落ちてゆく。すると照明(松本永)は天井を突き破るかのように、満天の星空を描いてみせる。そうした照明は、暗い空間に小さな光をまばらに配置すれば技術的には可能だ。しかしそれを「星空」と感じさせるためには周到な準備が必要なのだ。照明が満遍なくカフェの内部を照らすものに戻っても、観客のダンスとの接し方は変わらない。観客はダンスを注視すると同時に、そこから逸れることで感じられるような気配に浸っているのである。そして木原のダンスはそうした意識の矛盾をさらに挑発していく。見えない箱を置くようなマイムに続くのは、人の背中に手を置き誘導するようなマイムをしながら観客の目の前を回遊する動きである。まるでその透明人間を観客に披露し、「他己紹介」しているようでもあり、あるいはその反対にその人に観客の顔を見せているようでもある。観客は自分がその人を見る存在であるのか、あるいは見られ、木原によって「他己紹介」されている存在なのか確証を得ることができない。あるいは「蛸」のときと同じように、そもそも木原のマイムから透明人間を作り出すことが正しいことなのか��怪しい。興味深いのは、この箱から透明人間までのシークエンスにただよう「作業感」である。マイムを行っているダンサーの身体技術うんぬんよりも、その身体の脇にある架空のなにものかのイメージがここでは優先されている。それによって、ダンスを見せようとするダンサーの矜持のようなものがふと消えるかのようだ。『タコダンス』という題名から響く気負いのなさと、かといってニヒルでもない感覚は、ダンスにおいても見出すことができた。このソロ作品を見ていると、ダンサーという存在はダンスをしようと気負うことをせずに、ダンスから簡単に解き放たれて自由になれることに気づかされる。そのことにダンスの観客として驚くと同時に嬉しくも思った。
0 notes
takodance · 1 year ago
Text
Tumblr media Tumblr media
0 notes