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【愛された記憶】
他人から愛された経験について語りたい。
十五歳の頃のことだ。私は学校から帰宅するところだった。自転車のペダルをこいで、真っ直ぐの坂道を上っていた。傾斜角度は二十五から三十五度くらい。私の帰るべき家は坂の上の方に位置していた。自転車には変速機能があり、私はそれを駆使して、呼吸を乱しながら立ちこぎ続けた。途中で後輪の方から何か良くない音が聞こえた。身体に軽い衝撃として響くような音──その音は何度か聞いたことがあった。変速するときにチェーンが外れてしまったときの音だ。そうなるとペダルをこいでも空回りするだけになる。私は自転車から降りて、チェーンを直そうと、しゃがみこんだ。いつもならば直すことができたのだけれど、その日はなぜか上手くいかなかった。
おそらく私は目立っていたのだろうと思う。私のすぐ近くにはコンビニエンスストアの駐車場があり、後ろを振り返れば市民病院が見えた。何台もの自動車が行き交っていた。誰からも急かされていなかったが、自動車の走行音や遮蔽のない開けた道に立っていたことを微かに意識して私は少し焦っていた。
そのような時に一人の男性が私に話しかけた。男性は私が自転車のチェーンの扱いに困っていた状況をすでに理解していた。戸惑いながらも私が自転車を託すと、男性は一分もかからないうちにチェーンを直してくれた。私は男性に感謝の言葉を告げた。挨拶すらままならない一瞬の出来事だった。男性は反対車線に停めた車に颯爽と戻り去っていった。自動車には街の電器店のデザインが描かれていた。どうやら自動車の信号待ちの間に私の元へ駆け寄って来てくれたようだった。
突然に助け手が現れたと思ったら、すぐにいなくなってしまったので、その場で少し呆然としていたが、私はやがて自転車を押し始めた。せっかく走れるように直してもらったけれど、また同じようになりたくなかったので、自転車に乗りはしなかった。
ふと手のひらに違和感を覚えて、片手を開いてみると、手のひらが黒く汚れていた。何となく気になって腹部に視線を向けると、制服のシャツも汚れていた。手をこまねいている間に触れていたらしかった。
この記憶は正確な部分がほとんどだけれど、不確かで曖昧な部分もある。自分を助けてくれた男性のお顔を私は覚えていない。今の私は男性を思い浮かべるとき、それらしい容姿像を思い描いてしまっている。もう何年も経ってから、当時すぐに電器店に感謝の気持ちを改めて伝えに行くべきだったと気づいた。この経験が長く印象に残っていて、突発的に思い出される。また、当時は気がつかなかったけれど、チェーンに触れた私の手や服が汚れてしまったということは、きっと男性の手のひらも汚れてしまったのではないか。男性の手のひらを実際に見てはいないが、想像の手のひらが私の記憶の中で一つの象徴となっている。お顔もお名前も何���知らない。ただ愛された経験だけ、その記憶だけ残り続けている。もうずっと昔の出来事であるため、どう気持ちを伝えればよいかがわからない。昔は助けてもらった経験を大したことがないと自分の中で考えていた。それを恥ずかしいと思う間もなく、時間は通り過ぎてしまった。それへの心残りがこの記憶の印象や象徴をいつまでも鮮明にしているように感じる。
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【環境音楽】
疲れた身体を横にし、思い悩みがちな頭を枕にのせて、イヤホンを装着し、好きな音楽を聴いている時間が幸福だ。目を閉じて、静かに音楽に意識を向ける。それが心地よい。そして、今の時代に生まれて良かったと思う。現代文明に生まれて良かったことなど普段は考えないけれど、もし異なる時代に生まれていたなら、こうして音楽を個人的に楽しむことなど有り得なかっただろうと想像できるからだ。しかし、その想像を少し深めれば、身の周りの文物を当然のように享受し、生活に欠かせない物として捉えたり、自己の内面を投影して大事にしたりすることは自然で自明なことだろうかと自分自身に問いかけたくなる。その問いは、あらゆる物に言えるけれど、愛着の分だけ音楽に対しては強く思う。
音楽を聴く方法は歴史とともに変化してきた。まず楽器を奏でる奏者や歌手と空間を共有しながら、時に身体が震えるような経験を味わうことができる実演奏が一つ。次いで工業化に伴う、録音や通信技術の発展により、楽器も奏者もない家庭であっても、ラジオを通して、例えば重奏的で華麗な旋律を楽しむことができるようになった。加えて、レコードを初め、カセットテープやCDなど、音楽作品を記録した媒体がやがて普及した。そして情報技術の成長と電脳空間の拡大により、音楽作品のデジタルダウンロードやストリーミングサービスが流行し始めた。それらは人々が音楽作品を手軽に入手したり、手持ちの電子機器で再生したりすることを可能にした。聴き手が自分で好きな音楽を集めたプレイリストを作り出し、時と場所を問わない、より個人的に音楽を楽しむための基礎となっている。また、雑音を排するように耳を塞ぐイヤホンやヘッドホンによって低音がより響くようになり、低音を強調する音楽が増えた。これから、また更に音楽の新しい聴き方が生まれるのか、私には想像がつかないが、もし、そういったことになるなら、とても楽しみだ。
インターネットを介して無数の情報に接することができる私は、様々な音楽に関心を寄せている。この世界には様々な曲調の音楽作品があり、それぞれが私の心の奥底を掘り起こすようにして、何か新たな思いに出会わせてくれる。気分を高揚させ、一歩を踏み出す勇気を与えてくれるもの。神聖な存在を美しく讃え、人の絶望を希望に変えてくれるもの。軍隊の規律を統率し、異なる人間の集合である社会の基調となってくれるもの。歩くにも重たく感じられる身体を軽くし、楽しく踊らせてくれるもの。優雅な社交の背景として、その場の雰囲気を演出してくれるもの。悲しい物語を想起させ、目に映る風景の見え方を変えてくれるもの。
いつでも新しい音楽に接したいと思っているが、しかし様々な所を巡りながらも、その中で心が落ち着く場所を自然と見出だすように、私にも好きな音楽の作風といったものがある。私はピアノの楽曲を頻繁に聴く。超絶技巧や壮大な感情表現よりも、一音の余韻が空気の中に溶け込んでいくように響く、しかし、それでいて感傷的すぎない、ゆったりとした曲調の作品に惹かれる。私がとりわけ好きな作品は録音過程に入る雑音が消去されておらず、粗いのだが、優しく、不思議と懐かしい気持ちにさせてくれるものだ。ピアノの鍵盤が沈み込んだり、ペダルが動いたりする音が作品の一部として構成されていて、それは確かに一つの楽曲として完結しているのだが、旋律を聴かせる作品ではないようにも感じる。
調べると、それは環境音楽と類されているらしい。脱力したり、意識を集中したり、または瞑想するために、特定の場所に流れている環境音などが取り入れられ、静かで穏やかな雰囲気を演出する表現らしい。環境音楽は、森や洞窟、公園、街の雑踏、空港、駅などの環境を音楽作品として聴き手に体験させてくれるという。そう言われてみると、私の好きなピアノ曲も楽曲が何かを表現しているというのではなく、そのピアノ曲の響く環境を示唆しているようだ。
静かなピアノ曲を好んで聴いている私はどうして、そのような音楽に心惹かれてしまうのだろうとふと考える。私は音楽に関して専門的な知識に乏しいため、音楽一般や、その性質などを客観的に語ることができないが、それに何を求め、聴いている間の私に何が起きているのか、楽曲から影響を受ける自己の心境と体験を言葉にしてみたくなった。
ある曲は早朝の森の木漏れ日に照らされたグランドピアノと奏者の姿を思い起こさせ、また別の曲は古く埃っぽい館の一室で鍵が動いているようで、他にもたくさんあるのだが、そのどれもが静謐な空間を表していて、それを守っているというか、大事にしているような感じを聴いていて思った。そこに争いの気配は全くない。しかし脆く、少しの衝撃で壊れてしまいそうな不安定さも同時に儚げな音色は伝えている。音楽を何の気なしに私は享受しているけれども、その分だけ音楽が響く空間とは特別なものなのではないかと考えさせられる、同時にそれを好む私の求めも。
音楽を聴きながら、私が心から求めているものとは、音楽それ自体ではなく、実は、それが響いている環境なのではないか。じっと静かに音楽を聴ける空間や居場所があればよいと思っている。その欲求を確認させてくれるのが、私にとってのピアノ曲であり、そして環境音楽なのだ。聴くという行為ではなく、ピアノの音が流れている空間に身を置き、その音に相応しい環境を体感させてくれる音楽を私は求めているのではないか。
気分の高揚や情熱的な愛、信仰の壮大な昇華、そのような音楽の表現よりも、まず音楽作品を聴くことのできる居場所や空間が欲しい。周囲が音で溢れている環境で音楽作品を聴こうとするとき、人は耳を塞がなければならない。耳を塞がなければ音楽を楽しむことができない場合がある。独立した固有の作品としての音楽を聴くには、音楽よりも、音楽を聴くための静かな環境が必要であり、それはつまり人が個人的に音楽作品を聴くという行為の観点からは、音楽を聴く環境が音楽に先行することを意味する。それは、まるで言葉で記されながらも言葉でない物語のように、その言葉を正確に理解する必要がなく、言葉が表れる物語空間に浸る体験に似ているかもしれないとも私は思う。
いま音楽を聴くことができる環境に感謝の気持ちが芽生える。環境音楽であれ、どのような音楽であれ、音楽を聴いている時間には変わりがないけれど、私の好む音楽は、自らが音楽を聴いていられる境遇を自覚する方向に思考を向けさせてくれる。これまで私には違和感があった。音楽を聴く行為にまつわる違和感だが、音楽がもたらす美しい陶酔に私は心のどこかで馴染めない気持ちを抱えていた。しかし環境音楽は私の違和感を解消する方向を示してくれているように思う。いま私が音楽を一人で気軽に楽しむことができる境遇にあるということの意味、音楽作品を楽しむことよりも先に、その環境にこそ聴かなければならない音楽があるのではないかと私は環境音楽に導かれているような気がしている。
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【幸福な風景】
幸福な風景にあって、今この時に何か大きな災害が起きてしまったら、などと想像する。目の前の物が崩れてしまった現実を呆然と見つめるとき、楽しんでいた笑顔は全く別の表情になり、それまでが幻想であったように思えてしまうだろう。幸福をなぜ享受できていたのか分からなくなってしまい、事が起きるまで笑顔でいたのが愚かであったように感じられる。
災害とは人が意識していない時にこそ起こるものだと聞いたことがある。日頃から危機意識を持ち、その恐怖心に身を置き、様々な面で備えをしているうちには災害が訪れることはない。悲観的な認識や思想を考えて生きていれば、ある日、悲しい出来事が目の前を暗くし、明かりを灯すことも許さないような所に自らを追いやったとしても、それに怯えにくくなる。急な不幸に耐えやすくなり、うちひしがれることがなくなる。
そのように災害にまつわる想像をしながら、私は自分の幸福について考えている。正確には、幸福そのものではなく、幸福を享受する私のあり方に関して自ら問い直していると言った方が私自身の心境に合う表現になるだろうか。幸福を幸福と感じる私がどのような状態にあるのかを確認したいのだ。私にとっての幸福とは何かということを考えることは、そのように感じる私自身の感受性をまず捉えることは避けて通れないと思っている。
もしも、幸福や楽しみを享受することで、それから外れた事を不幸であると感じ、そして、それを自分の心から閉め出そうとするならば、私はそれこそが自らに悲しみを招き寄せると思う。生きていれば、悲しい出来事があって当然であるはずなのに、それを認められなくなる。さらなる幸福に強欲になり、心が貧しくなっていく。悲しい出来事を、それが起きた時に悲しむことも自然であり、命や感情とは人が達観して生きられるものではないと知りつつも、しかし悲しみを無視して幸福にあったり、希望を抱いたりすることが恐ろしい。それを思うと、身体から血の気が引き、一瞬にして目の前の景色の色が失われる。
楽しさや幸福を感じているときにも、それとは異なる音楽が背景に流れていて、終末への道筋を整えるように、静かに、低い音で私の心に響く。その音色を聴こうとしない私は私ではないと不安な気持ちになる。幸福な風景にあって、悲しみや寂しさを奏でる音楽を聴いている時ほど、かけがえのない温もりを身体全体で受け止めることができるように思うのだ。
幸福を、まるで甘い飴玉を舐めるように味わう時には、口を開けて笑顔を見せることが難しい。その飴が口の中で溶けていくのを感じながら、それをいとおしむ私の笑顔は少しぎこちないかもしれない。自分の周囲が笑顔であふれ、明るい光景にあるならば、それを損なうような態度を見せたくないし、人々を暗い気持ちにさせるようなことは望まないけれど、自らが幸福な時ほど私は沈黙し、その終わりや揺らぎ、様々な不安を見つめていないと自分自身を正気と認められない。
しかし悲しい音楽を聴き続けていると、今度は感傷に浸ってしまうように思えて、そういう自分の状態も好ましくない。悲しみを幸福だと感じてしまうならば、それは自分の感情に陶酔している気分に違いない。あくまで悲しみは幸福の影として自己を主張する、日の射す所では決して離れることのない物の影として。
ただ静かに響き続ける悲しい音に耳を澄ませ、幸福や陶酔にあるときほど心を静め、幸福に慣れないようにし、悲しい感情にも浸らない。甘い幸福を引き立てるような音楽が私には必要なのだと思う。そのような音楽が響いている中で生きていると私は実感していたいのだ。
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【穴だらけの器】
時々この世界が矛盾しているように感じられて、激しく混乱する。頭を痛めたり、吐き気を催したりすることもある。何かをするように求められたかと思えば、しないように求められる。対立する言葉たちが一時に自分自身に迫ってくるので、その対応に困り果ててしまう。私はそれらを素直に受け入れようとして、受け止めきれないでいる。
物事には、表にそのままでは現れないような本質があることを私は頭では知っているけれど、それを心で受け止めることは難しいと感じている。誰かが言ったことが、そのままの意味を示しているとは限らないと認めることが人格的な交流の始まりだと思うけれど、それが滞りや波乱なくできることは殆どない。たいてい感情の高まりや小さな争いは避けられない。損なわれてしまった関係は後に回復されることもあるが、そこに心残りがあることは否定できない。そういったことは関係の豊かさを示しているとも捉えられるが、どうして、このようになってしまうのだろうと論理では通らない出来事を嘆きたい思いだ。
もっとも、この世界が矛盾していたとしても、特に不思議なことではない。むしろ初めから終わりまで筋が通った物など、この世にはないだろう。そのようなものはこの世界を超越してしまっている。いま破綻していないように見える物もいつか破綻したり、矛盾を呈したりするときがきっとくるはずだ。だから、私が世界に感じている矛盾や破綻という物は、実は私自身にも原因があるし、ないとは言えない。もっと言えば、それらは私が作り出した問題かもしれない。例えば私が存在しなければ、この世界は矛盾していない──この世界が矛盾しているように感じてしまう基準が私の中にあることを示唆していると考えられる。常識に悩み、その不合理を告発するとき、その常識と考えている事柄は、その人だけの考えで、それに囚われた自分自身のことを露わにしているにすぎないように。
矛盾や破綻、不合理、波乱、混乱、偽善、粗野、欺瞞、虚妄、虚偽、偽証、偽称、横暴、倒錯、逃避、捏造、陰謀、悪意の他者化、責任転嫁、二重思考、二重立場、この世界に思うことは、この世界に属する自分自身のことでしかない。全てとは言わずとも、部分的に重なり合っている。この世界の自然なありさまと私の中にある価値観の基準が部分的に重なるところがあり、それで世界と私を混同したり、取り違えたりしてしまっているのだろう。この世界の中で存在を許されている私が世界と共有できる価値があるのは自然なことだ。全くこの世界から遊離しているはずがない。しかし対して私はこの世界を受け入れる器たりえていないのだ。
何かを受け入れるには、その器は穴だらけ──。私自身でも存在の確認が及ばない穴からこぼれ落ちる物がたくさんある──。にも関わらず、その穴の存在に私が気づいていないため、受け入れているつもりになっている。この世界における私の官能にもっと自覚的であれたらと思う。この世界で何かを直感する私自身を知りたい。何かを受け入れる器でありたいと願うことは私自身の価値観や論理を確かめる行為でなければ意味がない。
不完全なこの世界で矛盾や破綻があるのは当然であると考えることと、その世界の中に属している私自身にそれを許してはならないということ──この世界と私との関係を常に見つめ直すことが必要なのだ。論理の通らないことに出会ったとしても、その矛盾や破綻を否定するのではなく、包み込むような器であるために自分自身を問い続けることが私の感受性にとって正しい方向なのだろうと考えている。それでも対立や葛藤は避けがたいとの結論に終始してしまうならば、そのときにはそれを悔やむという自己の矛盾や破綻を認めるべきなのだろう。
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【愛と裁きの主題】
現在の自分とは異なる境遇や、今この時に現実になりうるとは信じられないような将来について想像することが、これまで私が思索に費やした時間の中で多いものだと最近になって気づきました。もしも私が様々な面において優れた存在だったなら、あるいは決して現在が完全な健康体というわけではありませんが、病に苦しむ境遇だったなら、などと考えることが日々の中でよくあります。また、そうでなくとも日常や創作の中に氾濫する物語に接しては自分と異なる人物を自分のことのように浅くであれ深くであれ考えます。
その想像は自分とはかけ離れた他人のことであり、同時に私自身に関わることとして考えるという得も言われぬ二重性を備えています。そこには常に自らの想像力の甘さが伴うことを前もって指摘せざるを得ません。いかに悲観的な想像といえども、自分がその想像に甘い願望を投影してしまいかねないことを認めなければなりません。もし、その想像を私以外の誰かが覗き見できたならば、楽観的であると見なされてしまうだろうことを私は否定できません。
私はしばしば自分が子を授かったなら、その子とどのような関係になるだろうと考えることがあります。現在の私に子はいません。結婚すらしていなく、また愛を捧げるべき女性を知らない境遇ですが、子のいる生活について考えることがよくあるのです。
街中で幼児を連れた夫婦を見ると、微笑ましく思います。また私が住んでいる近所の家からは幼稚園生ほどと思われる子の声が時おり響いて、その賑やかさが羨ましいです。子の幼い頃が親子一緒に過ごす時間が最も多いだろうことを思うと、家庭を築くという想像をするにおいて、私が子を持ったらと考えることはすなわち、その子が幼い時のことに自然となってしまいます。身の周りの親子の姿に接しながら、結婚や家庭を築くことは素晴らしいと私は考えていて、そのような境遇に恵まれれば、とても幸せであると思います。しかし、幸福そうな一面ばかりを切り取って考えれば、そこには逆に幸福と同じか、それ以上の不安や悲しみも潜んでいるだろうことを私は忘れたくありません。
例えば、私の住んでいる近所の子はとても可愛らしいですが、頻繁に泣き叫んでいて、その喉が枯れるような声は私の胸に響くものがあります。子を自らと対等な人格と捉えるなら、その子は大声を出したいがために出しているというよりは、大声で泣き叫んではいけないことを知りながらも、自分の気持ちを周囲の人にただただ理解してほしいがためにそのようにするのです。その際に泣き叫ぶことを注意したり、強く叱りつけたりする行為はむしろ逆効果であり、その子はさらに声を震わせると思います。私はその様子を眼前にしたことがないのですが、声を耳にしただけで、きっと顔を赤くして、可愛らしく瑞々しい肌に皺を作りながら、大粒の涙を流しているだろうことが容易に想像できるのです。そういうとき私が親だったなら、どのような対応を取ることができるだろうかと考えると、正解が見つかりません。静かにさせるために、もし手を出して、力ずくで黙らせなければならないとしたら、私は家庭など持ちたくないと思ってしまいます。
もしも私が親になったとき、自分の子に対して、どのように叱ればよいのかと子を育てていないのに悩んでいます。子は親である私よりも年少で、知能や身体も未成熟で、一人ではおぼつかないような場面があるかと思います。そういったときに親は子を保護し、正しく健全な方向へと導く務めがありますが、しかし当の私が正しい方向を知っているかというと、そうではありません。子よりも長く生きているからといって、学んでいるからといって、それでも私から教えられるものなど特になく、教え方もよくわかりません。どうしても叱らなければならない場面があったとして、その際に暴力的な叱り方をしてしまい、子のその後の成育において、深い禍根ができてしまったなら、それは恐ろしいことだと考えています。
何も叱らず、優しく接するだけではいけない、それはただ甘やかしているにすぎないとの考えを聞きます。けれど私には、自分にどれだけの権能が備わっているのかと、突き返される時がくることを想像して、怯える気持ちの方が勝っています。率直に言えば、親である私に復讐したいと子が願うかもしれ��いこと、私はそのことが恐ろしいのです。怒っても甘やかしてもいけない、そして何もできない、こうなると、愛されたいと願っているのは子よりも私の方になりますが、子に相応のことをしてあげられる気がないのです。
現実でも創作でも、私は仲良しの親子の愛情物語に耐えられない精神性の持ち主なのですが、実は、そのような物語に強く憧れていて、むしろそれが特別ではなく当然であってほしいと願っている者なのだと思います。愛は裁かないと言いますが、ただ、それを求める分だけ臆病な想像を強めています。もっとも、その臆病な想像も実際の現実に接すれば、楽観的に違いなく、さらに悩ましい課題や新たな想像に向き合わなければならないに違いないのですが。
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【自己分析】
このところ感情が不安定で、まとまった文章を書くことができませんでした。まるで複数の人格が自分の中で対立しているようであり、ある一つの物事を思えば、悲しみや喜び、悔しさや怒りなど様々な感情が呼び起こされて、その収拾がつきません。どうして同じ事に対して、矛盾や破綻に似た思いを抱いてしまうのかと考えると、どうしようもなく疲弊感ばかりが募っていきます。今もまだ状況は大きくは変わりませんが、ゆっくり、ゆっくりと肩の凝りをほぐすように、呼吸を整えながら、言葉を連ねていけたらと考えています。
けれど本当に心が不安定なときには、人はその思いを表現することすら、ままならないと私は感じます。例えば、強い抑鬱を自らに抱えるときには、それを外に吐き出すことが難しいからこそ、抑鬱なのであって、そのことを表現し得たとしても、果たしてそれは本物なのだろうかと疑ってしまいます。自分の文章においては尚更そのように感じます。抑鬱的な人はそれからの癒やしというか、ひとまずの気休めとしての表現を求めるのではないでしょうか。感情が混乱して、取り留めもない今の私もそのようなものだと思います。
いま私が求めていることは何か、何がしたいか、自分の好き嫌い、かつて何に心震える経験をしたか、どのようなことを気にしているのか、どのような人を、どのような顔を思い浮かべているのか、過去に考え尽くしたと思われる事柄であっても、もう一度振り返ってみる、その必要を感じます。具体的には、その一つひとつをノートなどに書き出していって、頁を埋めつくすぐらいにたくさん考えるのです。そしてびっしりと記された、その固有名詞の数々を見ていきます。そうすると自然と自分の感情が落ち着いて、かつ自分がこれから目指すべき、いや目指さざるを得ない方向が見えてくるような気がしてきます。それは、いつかまた揺らいでしまうものに違いないのですが、以前同じように書いたものと見比べてみると、変わっていたり、変わらなかったりする部分を見つけることができて、そのとき私は少しだけ安堵し、思っていることをより突き詰めていきたいという新鮮で素直な関心が改めて得られるように思うのです。
感情を繰り返しても、自分が腐っていくだけだと私は感じます。ただただ同じ感情を繰り返しても、停滞するだけでしかなく、感情が燃え上がっているときとは、その停滞すら冷静に自覚ができていない状態なのだと思います。有耶無耶にしておくことは望ましくないけれど、正面から突破しようとしても中々うまくいかないこともあります。別のことをやっていたら、自然と解決されていることを期待するというのとは少し異なりますが、今の私に足らないものは心の余裕であり、きっと自分の感情を整理していき、そこから一つひとつを素直な気分にしたがって、向き合うことが必要なのです。ある一つの物事に執心するのでなく、物事を捉える視点や自分自身を見直してみるべきなのかもしれません。この文章を書き終わったら、もう一度自分を取り巻く物事について捉え直して、自分自身に翻ってから何もかもを始めたい、そのように思っています。
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