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猿の演劇論
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鴻 ��良による挑発と洗脳のための猿の演劇論
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#2「アガンベンの錯乱−監獄から収容所へ、で、その先は・・・」 より
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猿の演劇論特別編@無為フェス/BUoY#2
#2 「アガンベンの錯乱−監獄から収容所へ、で、その先は・・・」
『ホモ・サケル』から、コロナ禍での論考まで哲学者ジョルジョ・アガンベンの思想に寄り添いながら、「収容所の愉楽」とこれからの演劇について考えます。
下記は、講義の概要をまとめたものです。
ー 
今回の講義の「アガンベンの錯乱−監獄から収容所へ、で、その先は・・・」というタイトルは、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンのコロナ禍での発言が問題視されたことからきていると鴻さんは言います。
コロナ禍におけるアガンベンの思想
鴻さんは、杜撰な言い方をすると、前置きしつつ、アガンベンはコロナなんて大したことないのだから、こんなふうに規制をするのはおかしい、こんな規制をされるくらいなら死んだ方がマシだというようなことを書いたのだと説明します。それに対して、とんでもないことを言う思想家だということで、発言が炎上するわけです。アガンベンはそれに応戦しますが、アガンベン批判の方が圧倒的多数でアガンベンの発言がだんだんと消えていく。その問題の発言は2020年2月26日に発表されたものです。その後は、ちょっと言い過ぎたのではないか、とか、考え方は変わりましたか?とか、あの時言った事は間違っていたというふうに言ってくれませんか?と、インタビューを受けたりします。そうした一連のアガンベンの言説が一冊にまとめられたものが、『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』という本になっていて、そのなかでのアガンベンの最後の発言が2020年7月13日です。
鴻さんは、この本が出た時に読み、半信半疑という形でちゃんとした検討はしていなかったと言います。しかし、その後にコロナの感染状況はさらにひどくなり、事態は悪化していく。そうした中で、アガンベンの発言を探したけれども、見つからなかった。アガンベンの専門家に来てもらって話を聞きたいと思っていたけれど、それもできなかった。今回はまだ検討が終わっているわけではないけれど、鴻さんの考えるアガンベンの発言の解釈を話したいと言います。
この本の翻訳者の高桑和巳さんは、タイトルについて、日本語訳を「私たちはどこにいるのか?」としたことに関して、イタリア語原文の「A che punto siamo?」は、私たちは歴史的な展開過程のどの点にいるのか、つまり、展開に対する調査、認識を踏まえ、今こういうところにいるのであれば、その後どこへ展開するのか、それは間違っているのではないか、こうした方が良いのではないのか、という展開過程においてどの地点にいるのか、という意味があると説明しています。つまり、歴史と地理を考え、ある地点を特定し、その場の意味について自覚させられるような事がコロナにおいて起こった、それに対する自覚がないことが問題なのではないか、ということです。アガンベンはコロナによって顕在化してきた出来事は耐えがたいと言っている、ことに鴻さんは共感を持ってこの本を読みました。
そして、今回の講義タイトル「アガンベンの錯乱」は、このことに由来すると言います。この耐えがたい状態、それは、権力が私たちに馴染ませてきた例外状態が通常のあり方になったということをエピデミックが明らかに示したということ。コロナ禍において日本ではニューノーマルという言葉が盛んに使われました。コロナ禍において私たちは新しい日常、ニューノーマルを生きなくてはいけない、それに対して、多くの人たちが「わかりました」という構図になった。2020年から世界で、日本で起きている状態をニューノーマルと呼んだメディアや提案した人の問題ではな��、それを大多数の人たちが受け入れたことに問題があったと鴻さんは言います。
「ニューノーマル」という実験
この異常事態にどう対応するかという提案ならば、それを一緒に考えようということになるけれども、それを異常事態ではなく、ニューノーマルというふうに名付けて大多数の人が受け入れてしまう、そういうことが現実に起こり、これ対して、鴻さんは大きな拒否の態度を取り続ける必要があると思いながら、それが具体的にうまくできないままこの3年が過ぎてしまったと振り返ります。アガンベンも、皆がニューノーマルと言い始めた事はおかしい、それに対して抵抗しなくてはいけない、と書いています。パンデミックによって、世界の移動が禁止される、感染して死亡したものの葬儀の場に立ち会うことができない、こうした事は異常事態だけれど、この蔓延している例外状態がニューノーマルとして認定され、我々が受け入れること、それは、今の世界の監視社会の性格そのものを受け入れていくということが起きているのだ。このことをアガンベンは何度も言っている。この発言において、アガンベンが言っている事はそんなにひどいことではない。より深刻なパンデミックは過去にもあったが、今回のように私たちの移動まで阻止することまで考えた者は今までいなかった。監視と規律、移動の禁止など様々な禁止がこれほど容易にできた社会は今まで存在しなかった。私たちは永続する緊急事態を生きることに、これほどまでに慣れてしまった。自分の生が純全とある生物的なあり方へと縮減され、社会的、政治的な次元のみならず、人間的、情感的な次元の全てを失った。例えば、死者を前にしてそこに供えに行って悲しんではいけない、それを耐え忍ばなければならない。ニューノーマルという言葉を使うことで、そうしたことを受け入れる人たちは、自分たちが人間的、情感的な次元の全てを失ったということに気づいてすらいない。ニューノーマルという言葉が普通に使われることに対する危機意識を表そうともしなかった。そういう事態がどのように展開しているのかというのが、この2020年以降の世界の姿を見るなかで、いろんな形で検証できる。そして、実は、ここで展開されているのはシミュレーションなのではないか。ニューノーマルを実験として考察している人たちがいて、しかし、その人たちが何を考えているのかに対する分析を我々はすることさえしていない、そのために、思想家は思想家としての役割を意図的ではないにしろ、放棄しているに等しいのではないか。
アガンベンの収容所論
この事は、前回のエドワード・サイードの「帝国の愉楽」と似ています。例えば、大英帝国の人たちは、インドの社会システムに対するちゃんとした知識を持っていて、カースト制度を利用する事で最も安易な形で手をかけない形でインド全体を統治できる。それを持続させるために、イギリス人の子供たちにそうした知識を学ばせた。インドで生まれた少年キムは、まずインドで教育され、ある段階で、ロンドンに留学し、再びインドに帰ってきて、ラホールの博物館に滞在し、インドとはどういうところなのかを知る。インドを調査する喜びを感じながら、その喜びとともに統治する能力を身につけていく。これが帝国主義の喜びです。この喜びを知らないで戦っても勝てない。
サイードはパレスチナ人なので、自分たちを支配している帝国主義者、あるいはユダヤ人、について考える。イスラエルという国にユダヤ人を住まわせる事で、欧米が湾岸地区の石油を自在に収奪できるようになる。そのためにイスラエル建国が必要とされているという事は知っておかないといけない。帝国主義の愉楽というものを知る事なくして、植民地の独立運動はあり得ないというのが、サイードの考えです。
では、アガンベンがコロナ禍になぜこのような考えに至ったのか。鴻さんは、アガンベンの考察した20世紀の社会そのものがそう言った方向性を持っていて、このような発言に至った。つまりアガンベンの収容所論と関係があるのではないか、と説明します。
2010年代には、コロナウィルスによるパンデミックなど全く予測できなかった。その頃に書いた『ホモ・サケル』では、私たちが収容所化する世界という例外状態にいる、その危機において私たちは抵抗しなければならないと書いていた。この当時、アガンベンはその例外状態が新しい日常になり、コロナのパンデミックによってそのことが検証されるとは思っていなかっただろうと言います。
アガンベンの代表作『ホモ・サケル』が出版されたのは1995年、その翻訳が日本で出版されたのは2003年です。翻訳に時間がかかった理由はわかりませんが、あまりアガンベンが知られていなかったことがあったのかもしれません。
この収容所論における、収容所とはアウシュビッツ、ソ連の強制労働収容所が2つの重要な参照例です。1995年に近代的なノモスとしての収容所と書いたときに、アガンベンは西洋近代の社会構造の本質は結局アウシュビッツのような場所で展開された収容所に帰結する、我々の社会がそこへ向かって修練していく、そうならないための努力をどのようにすれば良いのかというのが問題であると書いている。そのときは、我々はそういう危険性に包囲されているけれども、それとの抵抗のなかで人間の生は存在していると考えているわけです。
これとほとんど同じようなことが、20年前にあたる1975年にミシェル・フーコーによって書かれています。この年に『監獄の誕生』を書くわけです。近代的なものの生政治的判例としての監獄というような形で書いています。
監獄が誕生するのは、ヨーロッパにおいては、1800年から1850年くらいの間にほぼ全ての国で監獄のシステムが出来上がる。フーコーは、近代社会の本質は監獄にある、その本質は規律訓練であると言う。監視と処罰において規律訓練を生み出し、そして従順な身体を作り上げていくというのが、監獄の役割であり、このシステムは近代社会の決定的なモデルであって、これは教育、労働などの社会システムが監獄のシステムを踏襲する形で世界が確立していく。ここからいかに脱出するのかということが、『監獄の誕生』のテーマ���す。
このフーコーの監獄の誕生に対して、アガンベンが収容所の誕生を『ホモ・サケル』と言う本の中で書いた。
ビオス・ポリティコスを考察する
アウシュビッツが参照例とされる、近代的なノモスとしての収容所。その収容所的な世界観からいかにして脱出するのか、いかにしてそういうシステムを壊し、人間が新しい共同体なり、姿なりを作り出していくのかということが問われている。その事例として、ギリシャのビオス・ポリティコスという言葉をアガンベンは幾度も使います。ビオス・ポリティコスとは、ポリスにおける生き方を意味します。ビオスとは人間の生という意味です。それは、古代ギリシャにおける何らかの新しい人間のより良い生のあり方として取り上げられている。しかし、ギリシャのポリスにおける人間の生のあり方が実際にどうであったのかという事は簡単にはわかりません。それを調べるための1つの非常に重要な事例が演劇です。古代ギリシャの演劇を観ることによって、ビオス・ポリティコスというものがどういうものであったのかがある程度推測できるわけです。
ギリシャ演劇、例えば『アンティゴネ』が初演されたのは、紀元前441年です。アンティゴネが生きていたのは、推定で紀元前1220年頃です。つまり、紀元前441年に上演された演劇の物語は、それから7-800年前くらいに起きたとされる出来事の伝説が芝居になっている。物語として、叙事詩として伝わってきているけれど、テーバイ伝説を聞いている人たちはその場にいたわけではないし、その辺りのことを必ずしも知らないのになぜ聞くことができるのか。それは、800年前の出来事なのに、聞いた人たちがわかるように物語が組み立てられているからです。だから、我々が今ギリシャ演劇を観て何が何だかさっぱりわからないとはならない。元々がある出来事の伝説を800年後の人が聞いている。さらに、2500年後の我々が見ても納得できる。芝居を観て、その時代の人たちの間で何が問題になっているのかがわかる。ポリスの生、ビオス・ポリティコスがどういうものであったのかが分かるのです。アンティゴネを死へと追いやったクレオンのような振舞いをする専制君主に対して、ポリスの民衆たちが何を考えたのか、ということを研究していくと、古代ギリシャのポリスにおける生の形態というのを我々はいろんな形で考察できる。
ビオス・ポリティコスを英語に訳すると、Political lifeです。ナチス・ドイツがユダヤ人を収容所に送っていくその最中に暮らしている人たちのPolitical life、これが1943年のドイツのビオス・ポリティコスであり、スターリン時代のソ連で『収容所群島』で描かれているような実態がビオス・ポリティコスである。ポリス的な生のあり方がどういうふうに展開していったのか、それが歴史というものなのです。
ゾーエー「剥き出しの生」のあり方
一方で、ビオスに対して、ゾーエーがあります。「剥き出しの生」と翻訳されています。ビオス・ポリティコスは、ポリスがあるからこそ可能にしている生の形態です。そうではなく、いわゆる社会的だとか、人間的だとかいうものと関係なく「剥き出しの生」はただ生きているだけです。ここで、もう1つ、「ホモ・サケル」という言葉があります。文字通り訳すると「聖なる存在」。古代ローマにホモ・サケルと呼ばれる人たちがいて、聖なる存在で、人を殺しても殺人罪に問われない、そういう社会規範において例外的な存在がいたのです。アガンベンは、このホモ・サケルを「剥き出しの生」とつなげています。
ところが、今回のパンデミックにおいて、埋葬したい人がいても埋葬をしたいという感情を一切剥奪され埋葬はできないとか、旅行したいと言ってもウィルスを撒き散らすかもしれないから移動してはいけないとか、全てを剥奪されて、いわゆる人間として社会的活動とか、感情的・情緒的な活動を含めた一切が剥奪されてしまった、そうした人間をアガンベンは「剥き出しの生」としている。ここで、鴻さんは、アガンベンのこれまでの主張とズレを感じると話します。
収容所化した世界が、ビオス・ポリティコスの新しい形式の1つだとすると、そのビオスの中に「ただ生きている」よりもひどい形式というものがあって、つまり、悪き生へ負の連鎖の中に入ったときのビオス・ポリティコスに対して、ゾーエーは、いわばそうした社会の価値基準か離脱した存在そのものとして、潜在力を持つものとして考えられると以前は書いていたように思う。ビオスが壊れるとビオスの下に潜在力としての存在のゾーエーがある。ゾーエーは何者でもないけれども、何かになる存在、それに対して、何者かになってしまった、それは不完全で魅力的でもないかもしれないし、あるいは魅力的だったりするかもしれないビオス・ポリティコスをいかに、より良いものにしていくのかということを考える。コロナ禍におけるニューノーマルを受け入れた人たちは、そのことが、ビオス・ポリティコスのあり方を、潜勢的なゾーエーというものから生み出された1つの形式を、さらに悪い方向へ向けていく、世界を収容所化していくそういう形なのだと考えることで、『ホモ・サケル』を読み直すことで、アガンベンの言おうとしている真意を読み解いていく必要があるのではないかと、今鴻さんは考えています。
身振りについてー収容所化する身体への抵抗
また、鴻さんが『ホモ・サケル』を読むきっかけになったのは、2000年に翻訳がでた『人権の彼方に』を先に読んでいたことでした。『人権の彼方に』収められている「身振りについての覚え書き」という章において、アガンベンは、西洋ブルジョワジーは19世紀の終わりから20世紀の初めに身振りを失ったと書きます。要するに、監獄という社会の中で、監視と処罰のシステムの中で、行動を規制され、従順なる身体へと移行していったという考え方からすると、そうした従順な身体は身振りを奪われたと言うのです。しかし、20世紀初頭の演劇ほど身振りを再発見したものはないのです。セリフ劇ではなく空間と身体の動きによって生み出された演劇は19世紀末から20世紀初めに起こるわけです。アガンベンは、続けます。社会的に身振りが失われたそういう人た��の中から抵抗として身振りを蘇らせるような活動をしていた人たちが芸術家であったと言うのです。例えば、ロシア・アバンギャルドの演出家フセヴォロド・メイエルホリドは、コメディアデラルテに学び、舞台上で跳躍するような垂直的な動きを取り入れて空間をダイナミックにしました。20世紀初頭に映画が登場した初期の頃のサイレント映画は身振りによって表現されます。しかし、ロシア・アヴァンギャルドが社会主義リアリズムへと移行していくとき、身振りの演劇がリアリズムの言語的な演劇に回収されていく。そうした動きが世界の収容所化です。一方でさらに、1960年になると、それに抵抗する新たな演劇の動きが出てきます。パリの五月革命なども身振りの復権への動きかもしれないし、その身振りの復権こそが収容所化する身体への抵抗であるとアガンベンは書いています。
20世紀の芸術、その問題性を収容所論から解き明かす
こうしたアガンベンの翻訳を鴻さんが読んでいた2000年から2005年にかけては世界的にも演劇はダイナミックでした。2001年から鴻さんがアフリカ・アジア・南アメリカを転々としながら演劇を観ていました。抵抗の姿勢としての演劇についての考察を唆すような言説が溢れていた。収容所化した空間に対する抵抗としての演劇、人間の新たなるより良き生を目指すためのビジョンについて考えるための事例として収容所についてアガンベンは語っていました。ところが、そう言う戦いそのものが2015年くらいに敗北に終わるのです。サイードの悲しみでは、1993年から2003年の10年間の経緯の中での悲しみがどんどん深くなっていくことを話しました。今のパレスチナの状態を予感しながら、絶望的な文章を『オスロからイラクへ』で綴っています。ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、2007年にポストコロニアル批評は失効したと言います。アガンベンは2020年の前までは、20世紀の非常に重要な核としての収容所という言い方をしながら、しかし、世界の収容所化をいかに防ぐか、これに対する提案をしながら書いています。それが、『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』では、収容所化したということを確認するためのシュミレーションモデルが作られ、それが実行され、実験が終わって、収容所化していたということがわかったと書いているのです。
演劇においては、タデウシュ・カントルが『I shall never return』という作品で収容所的な世界を書いています。この言葉を言って連れて行かれるのはガス室です。自分が殺されることを知っている。明日は仲間か、自分かもしれないと思いながら、この言葉を言って見送る。そういった人たちが、舞台上にいるカントルを前に「どうしてくれるんだ」となどと言うのです。彼らの言葉が耳からこびりついて離れない。カントルはポーランドのクラクフで活動をしていましたが、そこはアウシュビッツから車で1時間ほどの都市です。その場所で生まれて学生時代を過ごし、アウシュビッツのことを思いながら作品を作ってきた。そのときに「Nothing ahead」と頻繁にカントルは口にしていた。「先には何もない」、でもその言葉を呟きながら私の心は明るい軽い気持ちだった、肝心なのは断念しないことだ、とカントルは言っています。アウシュビッツで「私はもう帰らない」と言った、そうして殺された人たちが舞台に死者として出てくるような作品を作り続けていくときに、断念しない。そうした新しい世界像へ向けての死との直面の仕方であるというカントルが言うときに、鴻さんはゾーエーとビオスのことを考えていました。それを文章にしたものが、2006年の現代思想に掲載された『死と身振り』という鴻さんの論考です。アガンベンの『身振りについての覚え書き』を引用しながら書きました。
アガンベンは、以前は収容所について問題にするときは、世界は収容所化に向かっているけれども、そうなってはいけないという警告として書いていました。しかし、コロナ禍で世界は収容所化してしまったと書いた。そこで、アガンベンの錯乱なのです。収容所化してしまったことをアガンベンは許せない。監獄に入れられた人は監獄からの脱出を願う。収容所に入れられた人は収容所からの脱出を願うわけです。ところが、収容所の愉楽から、今や収容所的世界にいることに喜びを感じているという形に移行しているということが、コロナ禍において我々に突きつけられたことなのです。そのことをアガンベンは様々な言い方でした後で消えてしまった。戦い続けているとしたら戦っている姿が見えない。世界の収容所化について、収容所分析をすることは、収容所化への抵抗であった。それが、もうそうなってしまったとい言い方になった。それは嫌だと最初は言ったけれど、そこで諦めて沈黙してしまった。この姿勢は批評家として問題ではないかと鴻さんは感じています。収容所を問題にすることは、それを掘り起こしてくることで人間存在の本質に迫ることであって、受け入れることではない。20世紀の芸術、その歴史を掘り起こそうとするとき、その問題性に迫り、より良い展開を可能にするにはどうすれば良かった��かを考える。存在の意味をゾーエーさえもが思考する。ビオスは良い、ゾーエー(剥き出しの生)は良くないという言い方をする人たちも多いが、ビオスに問題がある場合もある。ビオスがゾーエーを不可能にしている。完全な監禁状態において、スラヴォイ・ジジェクがいうところの「監視と処罰ですか?はい、お願いします。(Surveillance and punishment? Yes Please.)」が、今の収容所の愉楽におけるキャッチフレーズのようであると鴻さんは言います。
『カラマーゾフの兄弟』でイヴァン・カラマーゾフの話す大審問官の伝説では、スペインの広場で治癒能力を持った青年が現れ、病気を治したり、死者を蘇らせたり、様々な奇跡を起こします。それを大審問官が困るから捕まえてこい、という。なぜか? 人々は皆幸せに生きていて、こんなに幸せな世界はないと思いながら従順に暮らしている。それにも関わらず、奇跡を起こすことで、何か違った夢をみたり、夢が実現しなくて今までに感じなかった苦痛を感じて、世界が混乱するかもしれない。そのような存在はいないほうが良いと言う。そうすると、その青年は大審問官のそばに立って、ひざまずいて、口づけをすると静かに立ち去っていく。つまり、収容所の愉楽をかき乱すことはやってはいけません。こうした統治論の1つの例がドストエフスキーによって与えられている。こうしたモデルを色々と知った上でアガンベンのように収容所論というのを厳密に解き明かしていく作業が必要だろうと鴻さんは言います。
フーコーもまた、『監獄の誕生』を1968年のパリ学生反乱の敗北とその反省として書きました。なぜ敗北したのか?それは統治システムの巧妙な仕組みについて考えていなかったのだと言います。近代という構造に対する批判的な分析とそれに対する戦いの方法がなかった。そのことに、68年の敗北の後に気づいた。フーコーは1984年に亡くなります。そこから10年して1995年にアガンベンが『ホモ・サケル』を書きます。
芸術の世界では、ピナ・バウシュもまた収容所的世界を描いています。ピナ・バウシュはゾーリンゲンという小さな街で生まれ育った。そこで生まれ育ったもう1人の有名人はナチス・ドイツのアドルフ・アイヒマンです。そして、自分がダンスの勉強をし始めた1960年にアイヒマン裁判が始まり、その報告記事がニューヨークタイムズに掲載されます。そうした事態の経緯がピナ・バウシュには大きく影響している。1986年に作った『ヴィクトール』という作品は、全体が大きな墓穴になっている。墓穴の底には人がいて終始踊っている。一番上の地面では、スコップで泥を使って墓穴を埋めている。それは死の舞踏であり、アウシュビッツの収容所で生き埋めにされた人たちを表現している。そうした状況でさえも、ゾーエーさえもが、ビオスというものを捨てない、という動きが展開されていく作品です。自伝的な作品『カフェ・ミュラー』では、アウシュビッツのような歴史の最中に投げ込まれて、それについて何も語ることができない少女が舞台に登場します。盲目で、目を瞑ったまま現れ、去っていく中で、幻のように頭に浮かんだ光景が舞台で展開される。この作品ではアウシュビッツの記憶がピナ・バウシュにのしかかっている、しかし、そのような中でも生というものが、いかに可能かが舞台化されている。カントルもピナ・バウシュもアガンベンの収容所論の前にこうした作品を作っている。20世紀の現実を踏まえながら作られた作品を見るときに、アガンベンの収容所論は意味を持ちます。鴻さんが『死と身振り』を2006年に書いた時は、アガンベンを読みながら、世界の収容所化とそれに抗する演劇について議論し、分析することが可能でした。それが現在どうなっているのかということに関して問題が複雑化している、ビオス・ポリティコスとゾーエーに関するアガンベンのポジションについて確認しなければならない、と鴻さんは考えています。
文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 2 years ago
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#1「サイードの悲しみ-『文化と帝国主義』から『オスロからイラクへ』、もしくは現代演劇の逆説。」より
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thetheatretheoryoftheapes · 2 years ago
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猿の演劇論特別編@無為フェス/BUoY#1
#1「サイードの悲しみ-『文化と帝国主義』から『オスロからイラクへ』、もしくは現代演劇の逆説。」 
鴻さんが目撃した20世紀のポストコロニアル演劇、そこに見出された希望とその希望の終焉がどのようにもたらされたのかを、エドワード・サイードの言説とともに読み解いていきます。
下記は、講義の概要をまとめたものです。
ー 
「二〇世紀の終りを前にして」という講義を行なったタデウシュ・カントル、20世紀の初めに誕生した映画に着目し20世紀芸術として考えようとしたセルゲイ・エイゼンシュタインやアンドレイ・タルコフスキー。作品を通して、20世紀の映画や演劇について考えるということが行われたてきた。しかし、21世紀から20年以上を経た今、21世紀という時代について、その芸術論について議論されてきていないのではないか、と鴻さんは問いかけます。
■ 20世紀、戦争と革命の時代の演劇
20世紀、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経験したカントルは『死の教室』において、打ち捨てられた古い学校の教室で老人老婆たちが自分たちの経験について語りながら死の世界、戦争の時代の記憶が蘇ってくるというような作品を作りました。
一方で、20世紀は革命の時代でした。ロシア革命の演劇の代表的な演出家フセヴォロド・メイエルホリド、『冬宮奪取』を作ったニコライ・エヴレイノフ、1960年代にソ連で反体制派芸術家と言われる人たちが集ったタガンカ劇場を創設した演出家ユーリー・リュビーモフ。彼の代表作『世界を揺るがした10日間』は、アメリカのジャーナリストのジョン・リードが1917年10月25日から始まったペテログラードで起きた革命の現実を描いたドキュメンタリーをもとに作られた革命の演劇です。それはタガンカ劇場で繰り返し再演され、鴻さんは1979年に観劇しました。観客が、兵士や革命の戦士に扮した役者に誘導されて劇場に集まり、その群衆がデモ行進をしながら劇場へ移動し、そのまま革命の現場の中に投げ込まれるような構成になっている。ソビエト政権に弾圧されながら、抵抗の姿勢の中で生み出されたこの作品。それを体験して、鴻さんは戦争と革命の時代の演劇がいかに演劇的、芸術的に優れているのかを感じました。また、その系譜にはチェーホフの代表作『かもめ』も加えることができると言います。
そして、鴻さんが演劇を見始めた1974-5年、現代劇を代表する作家であったサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、日本では68年の学生運動の敗北と挫折の後の70年代の虚しさとつなげて語られることが多かった。しかし、ベケットはレジスタンスの闘志であった。フランスがドイツに占領された時に情報員として活動し、ナチスに見つかり逮捕される直前にパリを脱出した。その逃避行が『ゴドーを待ちながら』にも出てくる。日が暮れて夕日が空に赤染まっているという場面、それはナチスドイツに爆撃されたパリが燃えているのを見たことに重なっている。戦争と革命の時代をレジスタンスとして体験した人間が描いた作品が、現代演劇の最も重要な作品となった。
前回の猿の演劇論で「ジャガイモを掘るベケット、石を投げるサイード」を主要なテーマとしてこのような話をした時に、鴻さんは気分としては20世紀にいた、20世紀の人間として20世紀の芸術の魅力について語っていた、と言います。そして、ここ5年くらいで、20世紀を戦争と革命の時代と言うとき、21世紀は革命なき戦争の時代と後世の人たちが呼ぶようになるだろうと考えるようになりました。
■「帝国主義の愉楽」とは
鴻さんが20世紀の気分でいた時に、すでに21世紀について考え意識していた人たちがいました。例えば、ガーヤット���ー・チャクラヴォルティ・スピヴァクは2007年にポストコロニアル批評は終焉したと語りました。1990年頃、ポストコロニアル批評こそが重要だと言い、93年にはいろんな形で議論されていました。それから、15年以上経て、ポストコロニアル批評が失効した、もはや力がない、どうすれば良いのか私にはわからないと。このことから、鴻さんは今回の講義のテーマに「サイードの悲しみ」と付けました。
2003年にエドワード・サイードが亡くなった時には気づかなかったけれど、ここ5年『オスロからイラクへ』を読み返した時に、鴻さんはサイードの悲しみを思うようになりました。この本は、93年以降の一連の出来事を2000年から2003年にかけて書きつづった、本人亡き後に他の人によってまとめられ、2004年に出版されました。
サイードの代表作の1つは1993年に出版された『文化と帝国主義』です。この講義では、その中に出てくる「帝国主義の愉楽」(邦訳では「帝国主義の楽しみ」)という言葉を使いながら、20世紀の戦争と革命の時代、21世紀の革命なき戦争の時代とをつなげ、現代演劇の力と問題性について語りたいと言います。
スピヴァクがポストコロニアル批評を出版した1990年に、サイードはこの本を執筆していました。鴻さんはこの本を1993年にニューヨークの書店で手に取りました。その本を買わなければと思ったのは、そう言う人たちが鴻さんの周りにいたということです。
では、サイードの言う「帝国主義の愉楽」とは何か。それは、大英帝国がインドを植民地にした時、統治し収奪するための管理統治形態として、静かに大人しく従わせる方法を考える知的探究の喜びを表します。管理統治のために、その土地のことを知り、例えば、インドであればカースト制度があるので、そのカーストの上の人間たちに言うことを聞かせれば、全体を統治できる。その上の人たちに貢がせるために、その下の人々を2倍働かせ、そのうちの半分を貰えばいい。国内的には大変になるけれど、外部の人間にとって問題はない。その収奪はどこまで可能なのか微細な部分まで分析し、判断することは、一種の科学技術者の知的探究と似たような喜びがある。そうした喜びを味わいつつ、帝国主義者たちは収奪という犯罪的な行動を可能にしていた。その側面がラドヤード・キプリングの『少年キム』という作品において描かれている。インドで生まれた、インドで統治に関与しているイギリス人がどのような教育システムのもとで、インドについての知識を得るのか、ラホールの民族博物館がそうしたシステムのもとでどのような意味を持つのかまでが極めて細部まで描かれている。サイードは、そういうものが「帝国主義の愉楽」だとしている。帝国主義者は、暴力的に人を支配し楽しむというレベルにあるのではない、そこにはある意味、知的な快楽もあるのだ、それが様々な形でいろんなところで駆使されている、ということが、「帝国主義の愉楽」の章には書かれています。
■ 帝国主義と20世紀の前衛
ここで、鴻さんは、少し脱線しますが、と、寺山修司のミシェル・フーコーへのインタビューについて触れました。寺山がフーコーに会った当時は、ちょうどフーコーが1975年に『監獄の誕生』を出版してから、1977年日本でその翻訳が出版される前年の1976年でした。寺山は1975年2月に翻訳が出版された『狂気の歴史』を読んでフーコーにとても関心を持っていた。そこで、『阿呆船』という作品を作る。日本の60年代の演劇の追い求めた逸脱したはぐれものの世界、河原乞食的な世界像、というのは、開放とつながっている。それは戦争と革命の時代の演劇であった。しかし、寺山とフーコーは、恐らく寺山が『監獄の誕生』を読んでいないことで、全く話が噛み合わない。そのインタビューの最後に、演劇がどこに行けば良いのかという時、日本赤軍やパレスチナのテロリストに共感を持っていた寺山は、そういうテロ行為みたいなものがもつ逸脱性、そこから寺山は市街劇で違法行為をすることが演劇的だと思っていると言う。しかし、フーコーはそこには同意しない。テロリストが恐怖を人に与えること自体が、テロリストの敵に理することであると言う。では、どうすれば良いのか。少なくともテロリストの恐怖によって革命への願望を喚起することはできない、また、欧米各国では革命はもはや大衆によって強く要求されていない。こうフーコーは1976年に語っているのです。そして、今日の知識人の役割は革命というイメージに19世紀に存在したと同格の願望率を回復させることが必要である、そのためには人間関係の新しい形態を発明することが必要だと語っています。残念ながらここで時間が来て2人のインタビューは終わってしまう。けれども、ここでいう「人間関係の新しい形態を発明すること」は、古代ギリシャ演劇が人間のあり方の新しい形態を考えるため、そのビジョンを構想する場所として、テアトローンという場所に人々が集ったという演劇の原型の本質、まさにそれが必要とされている、ということ。その先の話し合いがないけれども、フーコーは、『監獄の誕生』『監視と処罰』という本を書いた直後に寺山に会い、政治的な形態みたいなものに人間が拘束されていくこの近代社会に対していかに抵抗するかということを我々は考えなくてはいけない、ということを言っている。
そして、帝国主義者によって、パレスチナにイスラエルという国が強引に作られ、パレスチナから追放されたパレスチナ人であるサイードは、「帝国主義の愉楽」という言葉を使いながら、帝国主義者たちは軍事力だけでなく、我々の弱点を見透かすような形で支配している、そこには強力な人間としての喜びがある、そのことを知ることによって戦いが可能になると言っている。
サイードの代表作である『オリエンタリズム』では、現存する最古の演劇として『ペルシャ人』について触れられている。そこでは、サラミスの海戦でペルシャが壊滅し、夫を失った嘆き悲しむペルシャの女たちを描いている。その舞台を見るのはギリシャ人です。『トロイアの女たち』も同様です。オリエントの表象は、ヨーロッパに敗北し、屈服した人たちのイメージとして立ち現れ、それを持続させてきた。それが文芸の世界だけでなく、現実世界の実践の中で展開され続けてきた、それがオリエンタリズムという表象の歴史であると書かれています。しかし、それだけでは戦えなかった。帝国主義には、それを実現させるための愉楽があったのだと、この構造をサイードは『文化と帝国主義』で見出した。1993年はポストコロニアル批評の絶頂の頃です。
鴻さんは、1992-93年はニューヨークで演劇の勉強をしていました。ここで、鴻さんが思いつく、当時のニューヨークで観て面白いと思った演劇のリスト(当日資料)から、当時のニューヨークがどのような場所であったのかが見えてきます。
アシュルバニパル・バビッラ(アッシリア人、イラン)がニューヨークの前衛演劇の拠点であるThe Kitchenで上演した『悪魔の弁証法』。レザ・アブドー(イラン)は、エイズで死んでいく人たちの物語『The Law of Remains』を、マンハッタンのホテルの広場で上演しました。ピーター・シューマン(ドイツ)『ブレッド&パペット・シアター・サーカス』では夏に人々が農場に集り巨大サーカスをやりました。同じく前衛の拠点P.S.122で上演したリー・ブルーアー(ルーマニア)。リチャード・フォアマンの『Mind Kings』。セント・マークス・チャーチという教会の一角の劇場で上演しました。日本では巻上公一氏が『Mind Kings』を演出しました。エリザベス・ルコント『パフォーミング・ガラージュ』。ウースターグループの『三人姉妹』ここでヴェルシーニン役をやったロンヴォーターがエイズで数年後に亡くなります。���ンヴォーターが、本人もゲイでありながらゲイを弾圧した弁護士のロイ・コーンと、エイズで亡くなった芸術家のジャック・スミスを演じた『ロイ・コーン/ジャック・スミス』。しばしば来日しているピン・チョン(中国)の『Undesirable Elements』。鴻さんが通っていたリチャード・シェクナーのゼミでは、Living Theaterの『Paradise Now』や60年代の解放した性の神話とつながるような、シェクナーの作品『Dionysus in 69』の映像を見ました。
鴻さんは、このような前衛の人たちが渦巻くようにいたニューヨークで、文化的多様性、外部性の混在を経験しながら、ポストコロニアル批評の話を聞いていました。その時にサイードが『文化と帝国主義』という本を書いて、我々の戦略的な核のなかに、「帝国主義の愉楽」の存在に対する批評的認識が欠けていたことが問題であったのではないか、という本を書いていた。ここには20世紀の二重の問題性というものが隠されていると言います。
鴻さんは、サイードが「帝国主義の愉楽」と書く時に、フーコーの1966年の著書『言葉と物』の最終章が思い浮かんでいたのではないか、と考えます。そこでは、近代ヨーロッパは20世紀に2つのものを作り上げたと言っています。1つはヨーロッパの外の世界について調べることによってヨーロッパの内部の世界の歴史と地理、構造を明らかにする学問、文化人類学です。もう1つは、意識、理性、精神、そういうものの外部について探究し、本質を明らかにしていく精神分析学です。ヨーロッパの外の世界を具体的に調べる、帝国主義が必要としていたことがこれらの発見を可能にしました。『オリエンタリズム』の中に、ナポレオンがエジプトを統治する時に沢山の学者を連れて行き、エジプトを研究させたとあります。それはエジプトロジーという膨大な本にまとめられました。カエサルは『ガリア戦記』でドイツの南部の社会事情についての詳しい調査・研究を記しています。
そして、フランスの演劇人、アルトーは、インドネシアには行っていないけれど、バリ島のガムランなど植民地から連れられてきたものを世界博覧会みたいなもので見て、そこで出会ったものたちを自分の演劇の中に取り込んで行った。それを可能にしたのは、帝国主義です。
鴻さんは、パリ郊外のカルトゥシュリーという弾薬庫跡の劇場で、アリアーヌ・ムヌーシュキンが率いる太陽劇団の『インディアード』を観ました。ガンディを主役としたインド独立運動の物語です。そこでは「パキンスタン」という言葉が叫ばれる。ガンディの願いはインド全体の独立でしたが、大英帝国側は今後のことを考えて分割��て啀み合わせる必要があると思っている。そうした帝国主義者の策略にのってはいけないという意味で「パキスタン」と叫んでいる。その後ろではガムランなどの打楽器が盛り上げています。インド独立運動の魅力と嘆きを、西洋的な演劇ではなく、まさにインドの解放を願うにふさわしいような形で、非西洋的な音楽、打楽器の響きに乗って空間を作り上げ、空間自体が解放的なカルトゥシュリーという弾薬庫跡に出現しているのだと鴻さんは感動して観ました。
しかし、サイードは、それだけでいいのか、と問いかけているのです。それ自体が、少年キムがインドを統治する時の喜びに対応するような形で作られていることを知らないといけないと言っている。我々は、その喜びとともに、搾取と弾圧でない形で常に使うように心がけなければならないし、また、そうじゃない人たちがいることも知っていながら、それと戦わなければならないんだという、戦いの複雑な困難性みたいなものが『文化と帝国主義』の中には書かれている。しかし、困難であるからといって不可能ではない。その問題は言い続ける必要がある、ということで書いたのではないかと鴻さんは考えます。
■ 文化人類学の反転、その演劇的可能性
ここで、逆に支配されている植民地の人たちはどうなのか、インドでは、アフリカでは何が起こっていたのか。鴻さんはハンブルグで演劇祭の仕事をするために、2001年からヨーロッパの外のアジア、アフリカ、南アメリカを訪れるようになりました。最初に行ったのがコートジボワール共和国です。まだ北部が内戦状態で渡航危険度が高い状況の中、アビジャンという都市で、安全に隔離された区画に滞在しながら演劇祭を観ました。
そこで観た『パレオ』という作品は、民主派が勝利した、演劇祭の直前に行われたコートジボアールの大統領選挙を巡る議論を舞台で行うものでした。ギリシャ悲劇のクレオンとアンティゴネの論争みたいなものが繰り広げられる。様々な部族がいて、部族同士が仲違いする。そういう時に自分たちは何を代弁してこういうことをやろうとしているのかという激論が交わされます。その議論の佳境で後方にいたコロスが歌を歌い始めて立ち上がって舞台全体を包み込み始める。その議論が歌にかき消されているような、議論を盛り上げているような時もあるけれど、しばらくすると、そのコロスがさーっと後方に引き下がり、いわゆる対話的な論争が始まる。このコロスはコートジボアールの民族歌舞集団です。役者たちはパリ大学で演劇を勉強して帰ってきた人たちです。
それを観て、パリに行って太陽劇団を観て、真似をしている人たちと言うこともできるけれど、歌舞集団は本物です。太陽劇団の後ろで楽器を演奏している人たちはフランスで育ってインドネシアの楽器の技術を勉強してきた人たちです。
コートジボアールは1960年にフランスから独立しました。コートジボアールの伝統的な歌舞を身につけている人たちが、ヨーロッパの演劇を勉強して、大統領選での民主化を主張するような演劇を作っている。ここで、我々もまた、帝国主義者たちの知識あるいは技術を我々の新しい文化のために使っていくという意味で、反転する文化人類学というものを考える必要があります。
これは、2007年のスピヴァクの嘆きの前、2001年のことです。1990年代のポストコロニアル批評の議論が展開されていた頃に出現してきたのがコートジボアールの現代演劇です。
南アフリカのグラハムタウンフェスティバルでは、ヤエール・ハーバーの『モルーラ(灰)』を観ました。この作品は、アイスキュロスのギリシア悲劇『オレステイア3部作』を素材にしています。モラールとは人を死んだ後に残る灰のことであり、この物語では、オレステスの遺灰をもつ男がエレクトラに見せにくる。そこでは、小柄な黒人女性演じるエレクトラが巨大な白人の女性が演じるクリテムネストラに虐待されている。この遺灰を持った男が実はオレステス本人で、自分の死を偽ってそこへ入り込んでエレクトラを助ける。そして、復讐をするという話になっている。そこでも、その土地の民族舞踊の合唱団が全体を盛り上げている。こうした文化人類学が反転した姿、それが上演されるとき、演劇として物凄い力を持っていると鴻さんは感じました。
一方で、サイードが1993年に『文化と帝国主義』を出版した直後にオスロ合意がなされます。それは、サイードとしては敗北の確定であった。今から考えれば、2カ国独立の道を探るオスロ合意が実現されていれば、パレスチナの土地はここまで奪われはしなかった。しかし、サイードにとってみれば、元々パレスチナ人のものであった土地に、ユダヤ人が後から入ってきた。1つの土地で皆が共存する形を理想に考えたとき、オスロ合意は妥協策でしかなかった。そして、オスロ合意の2年後にその提案の中心にいたラビは暗殺され、合意自体が無視されていき、アラファトも堕落していく、そうしたことを『オスロからイラクへ』で書いています。そして書いている最中に癌で死んでしまう。この敗北していく悲しみがサイードの悲しみです。
■『ルワンダ94』の衝撃、その背後に
このように、完全優位なものに排除されてしまう、そうした敗北がある一方で、植民地から独立を勝ち取ったような形で、その後の植民地はどうなっているのか。その現実は良くなっていないと鴻さんは言います。
そうした植民地独立以降の1994年のルワンダの虐殺事件を描いたのが、ベルギーの演劇集団グルポフによる『ルワンダ94』です。100万人が殺されたと言われ、その後、85万人くらいに修正されたけれども、物凄い数の人間がサトウキビを収穫する時の手斧、マシェットで殺されました。その虐殺ののちに、被害者も加害者もそこで生きていかなければならない。そのために、ルワンダに昔から伝わっているガチャチャという裁判の形で互いに許し、新しいルワンダを作り上げようとなった。
その虐殺事件の生き残りの人たちと、グルポフが一緒になって1998年頃から芝居を作り始めました。実際にその場にいた人たちが舞台に立ち、そこで見たこと経験したことを話し始める。夜の9時に始まり、途中休憩を挟みながら、明け方の5時6時くらいまで上演される。
では、この虐殺がなぜ起きたのか。それはフツ族とツチ族の2つのグループの啀み合いによって起こったものではなかった。それを仕組んだのはベルギー政府であったということがわかってくる。帝国主義の支配の方法で、2つのグループのうちどちらかを優遇する。それを10年毎に転倒させる。そうすると、それまで虐待されていた側は、恨みを返す、その逆にもなる。その構造は植民地支配の中においては変わらない。94年の大虐殺が起こる前に、10万人規模での虐殺は起こっていた。そうしたことをベルギーの演劇人たちも知らなかった。帝国主義の愉楽というものに無知であったけれども、それを知り、衝撃を受けた。
さらに、『ルワンダ94』がアヴィニョンでワークショップの形式で上演された1999年、鴻さんはモントリオールで完成版を観た2002年、それが上演されていた時に、虐殺されたルワンダの人たちの中心になって民族戦線として戦ったポール・カガメという大統領が、隣のコンゴ民主共和国でコンゴ人の虐殺をしていた。国連で働いていた米川雅子さんによると、1998年から5-6年の間に600万人が殺されたということです。他の人で年間5000人が殺されたと書いている人もいて、数に開きがあり真偽は明らかではありませんが。その背景にはレアメタル問題がある。レアメタルを金融資本主義が自由に横流しするためにルワンダを経由しているのです。ルワンダの首都キガリは高層ビルに埋め尽くされて近代未来都市になっている。もしかしたら、それを作るために虐殺したのではないか、フツ族にツチ族を殺させたのは金融資本主義なのではないかとさえ考えると鴻さんは言います。
『ルワンダ94』においてガチャチャは美談です。私たちは和解もしなければならない。そして、虐殺記念日があり虐殺を忘れてはならない、という形で演劇は進んでいく。それ自体は色々と考えられながら作られているのだけれど、しかし、ベルギー人がそうした美談を作らせることによって、さらに巨大な悪が、今後のレアメタルを国際金融資本主義が支配しようとしている、世界はとんでもない方向に向かっていると思える。『ルワンダ94』という作品がルワンダの人たちだけでなく、ベルギーの人たちと一緒に作られ、希望を見せたような形になっている。それを観ながら、何か新しいことをやっていく必要があると感じられる、そのことでさえもが、帝国主義者の手のひらの上で転がされているだけという可能性がある。
こうした複雑な構造に比べて、サイードの悲しみはより直接的です。行き場をなくしたパレスチナ人が完全に忘れ去られてしまうということが現実に起こっている。しかし、25年前、1998年にまだ少し希望を持っていた人たちがいた。それが、つい最近亡くなったテルアビブに生まれ、パリを拠点に活動していたユダヤ人の美術家、ダニ・カラヴァンです。鴻さんは98年にテルアビブの国立美術館での展覧会、「パサージュ97」を観ました。エントランスホールには、逆さになったオリーブの木が天井から吊るされている。葉や枝が広がり光と相まって素晴らしい空間が広がっている。しかし、このオリーブの木はイスラエル兵がブルドーザーでパレスチナ人の家を破壊した時に庭から根こそぎにされたものなのです。また、その展覧会には、床に散らばる無数の石が転がる鏡の壁を持つ部屋がありました。誰でも石を拾って壁に投げて良い。その作品は、「インティファーダの部屋」とあり、その下に「武器を持たない者は石を投げるしかない」と書かれている。サイードもそういう人がいることを知っていたとは思うけれど、実際にはほとんど力がないと絶望して悲しみの中にいた。しかし、テルアビブでそのような芸術活動があり、街頭でもパレスチナ人の自由を求めるデモがあったりする。当時、鴻さんはそういう動きに期待を寄せていたと言います。
サイードの悲しみをもたらした現実がある、そのことは認めないわけにはいかないけれども、その中で、演劇に関わらず、芸術的な活動が問われている。猿の演劇論のような試みを続けていかなくてはいけない、と鴻さんは結びました。
文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 6 years ago
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「猿の演劇論」参加理由と、聴講分への若干の異論、鴻英良さんの過去の論文(「ゲンロン5幽霊的身体」掲載)への異論
才目謙二  1.参加理由 私は「猿の演劇論2018」Part 3の計2回に参加しました。 なぜ最終盤にいたって参加したのか。その動機は、本年(2018年)8月中旬、室伏鴻アーカイブカフェshyで開かれた鴻英良さんと上杉満代さんの対談に接したことに遡ります。 ● 対談は大野一雄さんをめぐって対立するお二人が「激論(?)」するという触れこみでした。 上杉満代さんは1970年代から大野一雄に師事してこられた舞踏家で、さる映画館で大野師の映像上映会を開催されました。 その席で、鴻英良さんが「大野一雄の戦争体験と舞踏に関する疑問」を提出され、それについて上杉さんが反撥されたとのことでした(当上映会には参加せず)。 その内容が興味深いものであったので、続きを思う存分やってほしいとの声も多く、では場所を変え一対一の「対決」をという趣向で、shyでの対談が企画されました。 ● 鴻英良さんは批評雑誌「ゲンロン5 幽霊的身体」に大野一雄論を書いておられます。埴谷雄高が『死靈』で提出した「虚体論」と大野一雄の幽霊的身体を結びつけた論考はきわめて刺激的です。 ただ、鴻さんには疑問がありました。 大野一雄さんは中国とニューギニアに出征され長い軍隊生活を送られました。 年表によるとニューギニア出征は1938年です。終戦にいたる7年もの間、南方の戦地でどのような体験をし、どんな辛酸をなめたか。捕虜となり生還を果たした大野さんが「戦争」を語ることはありませんでした。情報将校として軍の機密を知る立場だったから、それも一因かもしれません。 室伏鴻による大野舞踏と土方巽が創始した暗黒舞踏との違いの指摘など、興味深いセッションが続く中、鴻さんは「大野さんは生涯なぜ苛酷な戦争体験を語らなかったのか。語るのはニューギニアでの牧歌的な生活だけだ。実相はそんな生易しいものではなかったはずである」と語りました。 鴻さんが放った「挑発を含んだ疑問」に上杉さんが乗った形の対談は、しかし、実に奇妙な展開を見せます。 鴻さん「大野さんは『食べるものがなくなったら、海に行って崖の上から手榴弾を投げる。すると、魚がいっぱい浮かんできて獲り放題。隊員や原住民とたらふく食べた…』などと吉増剛造氏との対談で語っている。自らの本当の戦争体験に覆いをかけたまま、牧歌的な(嘘のような)エピソードだけしか語らない舞踏家の踊りとは何だろう? どうしてもこの疑問が残る」。 この疑問には上杉さんも絶句されました。 すかさず鴻さんは「手榴弾を投げて海の底から浮いてきたのは米兵のちぎれた身体(からだ)じゃないのか。そうした光景、戦争の実相の一切を言葉で語ること拒絶し、大野一雄さんは戦争体験のすべてを踊りで表現することに賭けてきたのではないか、私はそう思うのです」と上杉さんに迫りました。 すると上杉さんは「実は、私もそう思うの」と目を輝かせ、賛意を示されました。一転、和やかなムードとなり、大野一雄さんの懐かしい映像などを映写して対談は終わりました。 終了後、「対決になりませんでしたね」と言うと、「あそこでなぜ上杉さんは変わったんだろうね。不思議だ」と鴻さんは首をひねっておられました。 ● 私は、当セミナーの惹句「鴻英良による挑発と洗脳」が気になっていました。「挑発」は分かるが、「洗脳」って何だろう?  ゆくりなくも私は「挑発と洗脳」の現場を目撃してしまったのです。 鴻さんは独自の切り口と鋭利な問題提起により「知的挑発」をされる演劇批評家であることは周知のとおりです。 洗脳はウィキペディアによると、「brainwashing」の直訳であり、「強制力を用いて人の思想や主義を根本的に変えさせること」とされます。 もちろん、鴻さんは強制力を用いることはありません。用いる力は「問題提起力」です。 鴻さんの鋭い問題提起による知的挑発は、たとえ否定の身振りであっても、相手の立場や論旨を対立的に肯定・支持しながら、相互の「立論」を弁証法的に止揚して数段高い次元へと称揚します。これが鴻流の「洗脳」ではないかと思うのです。 「知的挑発」の後に来る「洗脳」、このプロセスに立ち会った者は、深い納得感から一種の浄化作用を覚えます。 その高み(プラトー)に佇む知的爽快感を求めて、「猿の演劇論」への参加にいたりました。 ※補足(主題から離れて) 1)逆にいうと、知的高みを相互に構築するには、上杉満代さんのように「鴻さん、違うわよ」と渾身から批判・否定をする必要があるだろうということである。一方的な挑発だけでは知的高みに登ることはできない。本レクチャーの課題が「鴻さんを批判する文章を提出すること」であるのは当然なのである。 また、「米兵のちぎれた身体」というくだりでは、著書『二十世紀劇場』の「第一章 皮膚の時代」、中でもフランシス・ベーコンの『絵画』に関する叙述などを思い起こさなくてはならないだろう。 2)一糸座の公演、芥正彦演出『アルトー24時』(2014年、東京芸術劇場)の公演において、鴻さんは劇中、客席からジャック・デリダに扮して登場し、デリダのアルトー論『基底材を猛り狂わせる』の一節を舞台に投げ掛けた。それは、ハプニング演出の意図を超えて、アルトーの最期の一日を描く劇(脚本:鈴木創士)に対する鋭利な問題提起と聞こえ、舞台を引き締める効果を得た。 デリダのテクストのどの箇所かは未詳だが、アルトー晩年のデッサン集をめぐるデリダの論旨を敷衍して、鴻さんは画材としての「基底材」から「舞台」ひいては「存在」そのものを猛り狂わせる演劇の可能性を問題提起したように劇場には響いた。私が観たこのシーンにも「挑発と洗脳」があったことを付記したい。 2.セミナー聴講分への異論 Part3戦時中の移動演劇に関するレクチャーに対し、ヴァリアントという意味での異論を提出します。 菅孝行著『戦う演劇人』(而立書房、2007年)P37より引用します。 「(治安維持法違反の名目で一斉検挙された)村山(知義)、久保(栄)、千田(是也)らは表現活動を一切禁止され、誰かの名前を借りなければ演出も執筆も許可されなかった。久保はわずかながら共同生活をしていた女性の経済的な支えを得て、演劇活動や執筆を行わず沈黙を通した。村山や千田は糧を得るために匿名・変名で演出や代筆をもっぱらとする毎日となった。たとえば伊藤熹朔著『移動演劇論』は千田の代筆といわれている。」 戦前から戦後を通じて舞台美術家として活躍した伊藤熹朔が美術系の著述以外で文筆をふるった例は他になく、真偽はさておき、保護観察中の実弟・千田是也が移動演劇に関する著作を代筆したことは十分に推察できます。 左翼系演劇人が保護観察下で被った屈辱は筆舌に尽くしがたいものであったでしょう、加えて自由な演劇活動を禁じられていたにしても、「移動演劇運動」に活路を見出し、糧を得たことは間違いないようです。 千田是也は1944年2月に10人の仲間とともに俳優座を設立。翌45年、「俳優座は移動演劇芙蓉隊を作り、静岡などに出動するようになった」(同上書P37,38)とあるように、戦争末期は、新劇団の多くも組織をあげて積極的に移動演劇活動に取り組むようになりました。 国家による演劇統制(1940年の「国民演劇」構想)、大政翼賛会の国策に沿った国威発揚演劇、そして移動演劇。戦時下において演劇は疲弊することなく、国の��護を享けながら、川村毅や大���吉雄が指摘したようにむしろ「健全」に「強度」を高めていたのではないでしょうか。 私が聴講した鴻レクチャーは、先に「転向」の問題を捉えましたが、「移動演劇」「戦時下の演劇」から「戦中・戦後の転向」の問題へとリンクしていけば、戦後新劇の出発点の問題系に新たな光を当て、今まさに「戦時体制」といえる現代における演劇を考えることができたのではないかと思います。 なお、「戦時中演劇」ないし、「新劇人の戦争協力」についての先行研究は意外なほど少ないようです。鴻さんも「早稲田大学の演劇博物館には移動演劇の資料が手付かずのまま山積みとなっているのを発見した」と仰っていました。 目に止まった中では、「シアターアーツ」第四号「戦争と演劇」特集(1996年)や日比野啓、林廣親(以上、成蹊大学)、山下純照(成城大学)らの共同研究論文「戦時演劇研究-成果と展望」(2009年)がありました。 上演では、青年劇場の『宣伝』(2018年)や川口典成氏が主宰するドナルカ・パッカーンが岸田國士のラジオドラマ『ますらをの伴』の演劇化した試み(2017年)などがあり、戦時下の作品上演も緒についてきたようです。 3.鴻英良さん「ゲンロン5幽霊的身体」掲載論文への異論 「虚体、死体、そして<外>へ-二一世紀のダンスの理念に向けて」と題された論文における異論は、埴谷雄高の出発点ともいえる「自同律の不快」に関するものです。 埴谷雄高と大野一雄の舞踏を「虚体」という概念で結びつけた当論文は画期的なものであります。しかし、議論の前提となる「自同律の不快」の解釈において、鴻さんはその一側面である「自分が自分であることの<名状しがたい>不快」いわゆる実存的な「存在不快」の部分のみに注目します。 「『俺が俺である』と言い切れないのはなぜか。それはそもそも主辞の『俺』が一体なぜであるか定義できていないからである。主辞の『俺』が不明であるのに、それがなんであるかを賓辞によって特定することはできない。にもかかわらずそれを特定してみようとすると、必ず失敗し、俺がなにものであるのか特定できないことによる不快、苛立ち、吐き気、嘔吐、そういったものが起こってくる。それが自同律の不快である。」(「ゲンロン5 P115」) 台北で幼少期を過ごした埴谷雄高が家業のために父が使用人である台湾人を苛酷に扱うことに激しい反撥を覚えたこと、あるいは獄中でのマルクス主義からの転向、そうした実体験も踏まえながら、鴻さんは「自同律の不快」を上記のような定義されています。 晩年、立花隆氏との対談『永遠の相のもとに』(平凡社、1997年)でも、埴谷雄高は「ぼくは自同律の不快というものは、『満たされざる魂』という言葉としても使っているんです」(P139)といっています。 しかし、「自同律の不快」は、第一に「A=A」という同一律、あるいは同一律を含む形式論理学上のトートロジーそのもののへの不快を表明してはいないでしょうか? 「薔薇、屈辱、自同律」という埴谷雄高へのインタビュー(ちなみにこの言葉は『不合理ゆえに吾信ず』の劈頭を飾るものである)ではこう語っています。 「(自同律の不快は)“存在は存在である”といった場合、全存在形式を予覚させず、現在の一存在形式の枠の中へだけ私達を永劫に縛っておくことしか生じないのですが、我々が生まれると同時に、こうとしか考えられず、こうとしか存在し得なく閉じこめられていること自体がぼくにとって“屈辱”であるという意味なんです。」(前掲『永遠の相のもとに』P138脚注を引用) どうして私たちはこのようにしか考えられないのか、このようにしか存在しえないのか、別の思惟形式があるのではないか、別の存在形式があるのではないか。その可能性を根源で縛っているのが、同一律を含むトートロジーなのです。 形式論理学が、この宇宙のどこの惑星においても「真」として成立するとするトートロジーの桎梏を離れるため、埴谷雄高は小説として『死靈』を構想し、異なる思惟形式と存在形式をもつ「青服」を登場させたり、「虚体論」によって存在の転覆を図ろうとしたのではないでしょうか。 私は、「虚体論」の基礎となる「自同律の不快」は、「自分が特定できないことの不快」や「実存的不快」ではなく、同一律に縛られた人間存在から抜け出るために、それこそ「理性の限界」に挑戦しようとする思考の有り様であり、おそらくはゲーデル「不完全性定理」のように理性の外、論理思考の外にある確定できない<思考>こそを問題とし渇仰しているのだと思います。 この<外の思考>こそ、「非人間的な幽霊」であり、「人間的な思考方法をとらない」(『死靈』)身体から離脱していく「虚体の舞踏」なのだと思います。 私は大野一雄『ラ・アルヘンチーナ頌』を転形劇場が練馬に開設したT2スタジオでの再演(1983年)でしか観ていないけれども、「虚焦点のように虚自己へ向かう幻影のような感覚を、目撃者たちの身体に呼び起こすこと」(「ゲンロン5」 P114)を実感した一人であることを付記させていただきます。 以上 
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「世界大戦とレジスタンスの記録」より
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「世界大戦とレジスタンスの���録」より
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#8「世界大戦とレジスタンスの記録」
世界大戦におけるレジスタンスの記録は世界に様々にあります。では、日本の演劇において存在したのか? 戦後新劇や総力戦体制下の移動演劇に焦点に当てながら、日本の演劇人が満州事変から始まる世界大戦の中で何を見、考え、行動していたのかを探りました。 下記は、講義の概要をまとめたものです。 -- 講義では、「ジャガイモを掘るベケット石を投げるサイード」にまず触れました。「ジャガイモを掘るベケット」とは、第二次世界大戦におけるナチスドイツに対するレジスタンスの諜報員であったベケットがパリから逃げる時に、畑のジャガイモを食べながら生き延びたエピソードを指しています。(それが「ゴドーを待ちながら」の原風景となっていると、幾つかのベケット伝に書かれています。)また、「石を投げるサイード」は、パレスチナのインティファーダを指します。圧倒的に不利な状況にあっても侵略行為を犯すインスラエルに石を投げるサイードの姿勢。こうした世界大戦におけるレジスタンスの行為としてのささやかな振る舞いというものが、実は演劇活動とか、あるいはサイードのような思想家としての活動としての根拠になっているのではないか、と鴻さんは考えます。 そしてまた、こうした状況下での作家の姿勢について、戦後日本の新劇復興という活動も視野に入れながら、日本の演劇人について考えたとき、一体どういったことが起こっていたのでしょうか? ◼︎ドイツの、そして日本の戦争責任 鴻さんは、まずドイツの思想家カール・ヤスパースは『我々の戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫)について触れました。その著書の中で、ヤスパースは、「我々」すなわちドイツ人の戦争責任とは何かについて語っています。その中で、戦後の裁判についての言及がこうあります。 -- ……「この裁判は全てのドイツ人にとって、国民的な恥辱である。せめてドイツ人が判事であれば、少なくともドイツ人がドイツ人に裁かれることになるであろうに。」とある論者がいう。
これに対してはこう答えることができる。いわく、「裁判が国民的恥辱なのではなく、裁判を招来したゆえんのもの、[なぜ裁判が行われることになったのか?] すなわち、そのような政府が存在してかくかくの行為をしたという事実こそ、国民的恥辱なのである。国民的恥辱という意識はドイツ人にはどっちみち逃れられないものだが、それが裁判に対しての意識であって、裁判の起こるもととなった原因に対する意識でないとすれば、それは方向を誤っている。 さらにまた��勝国がドイツ人の法廷といったものを構成させるか、あるいはドイツ人を陪審判事に任命したとしても、事情は少しも変わらない。 -- この部分を、ドイツ人を日本人として読み替えた時、それはそのまま東京裁判の話のようだと鴻さんは言います。また、ここで重要なのは、ヤスパースは戦勝国と敗戦国という区別をしている点でもあると指摘します。ヤスパース自身はドイツ人なので敗戦国の人間。この本は敗戦直後1946年にそうしたことを考えながら書かれているものです。 -- 戦勝国が敗戦国の人間による法廷といったものを構成させたり、あるいは、敗戦国の人間を陪審員に任命したとしても、事情は少しも変わらないのではないか。ドイツ人が法廷にいるのは、ドイツ人の自己解放力によるものではなく、戦勝国の恩恵によるものである。してみれば、国民的恥辱に変わりはないはずだ。裁判は、我々が犯罪的な政権から自己を解放したのではなく、連合国に敗北したことによって解放されたという事実から裁判が生じている。こうした状況の中から、戦後が出発しているということをどう認識するのかということが、実は大きな問題なのであるにもかかわらず、この裁判はインチキであるというような、要するに、戦勝国が敗戦国を裁くという絶対的に有利な立場から、法的な機関というものを無視することもできるような形で裁きの無効性を主張するような議論もよく起こるのだけれども問題は自らの力によって敗戦に追いやられた政権を、つまり、その独裁的な権力を倒すことができなかったということが、後々の我々に大きな禍根を残しているのだ。 -- ヤスパースは、世界大戦における戦争責任の問題は、過去に遡り、問題を様々な形で考え直していかなければならないのではないか、という提言を1946年にドイツの人たちに向けてしていた。この本の解説を書いている加藤典洋は、こういうような明瞭な提言というものが、悲しいかな、日本にはなかったと書いていると鴻さんは語ります。 ヤスパース自身は、ナチスの政権下でユダヤ人の妻がいました。ナチス党から離縁を勧告されたとき、それを拒否して大学を去りました。ヤスパースはそうした形で具体的な抵抗を示していたのです。しかし一方で、ヤスパースは殺されることがわかっていながら、それでも抵抗して死んでいくべきであるとは言いませんでした。ではどこまで抵抗するべきなのか? そこに、道徳の問題が絡んでくるとヤスパースは書いてる。そして、そこでは、ある種の抵抗をした人たちと、また多くの抵抗しなかった人たちを含めた、罪の問題をどう考えていけば良いのかという分類がなされている、と鴻さんは解説します。 ◼︎ 満州事変から第2次世界大戦へ、その歴史的局面 ヤスパースは、著書の中で、ナチスの政権が1933年に政権を取ったところで、後戻りのできない状況になっている、そこが一つの転換点だったと分析しています。第一次世界大戦が終わってから15年、新たな戦争を避けるための様々な局面もあったというのです。 例えば、日本軍の満州侵略という暴力行為がなかったなら、それに対する適切な国際的な対応というものがなされていたならば、ナチス的な政権の独裁というものも防げるような方策を考えることができたと書いています。 そのこと自体の検証はできないけれども、世界がどのように動いていくのかということを考察するときに、ドイツの思想家が1946年の敗戦の直後に、ドイツがこういうような状況に向かっていくのを阻止できなかった原因の一つに日本軍の満州侵略を上げていることは興味深いことであると鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、満州事変が世界大戦へ向けた一つの転機であるというような発言をしているのは、ヤスパースだけではないと言います。フランスの思想家シモンヌ・ヴェーユは『フランス支配圏内における植民地の新たな主要件』という論文の中で、帝国主義社会における人間の大きな問題である植民地をどのように扱えば良いのか? と問い、日本について言及しているそうです。 フランスは、ドイツに対するレジスタンスをしながら、しかし、一方で植民地政策を続けていました。この頃、イギリスの植民地は南アフリカからアフリカ大陸を南北縦断するように、フランスの植民地は西アフリカからアフリカ大陸を東西縦断するように、それぞれが植民地展開をしていた。その縦横がぶつかるところで、植民地戦争が起こり、フランスはイギリスに負けたけれども、まだ植民地を持っていたのです。 シモンヌ・ヴェーユは、基本的には、植民地に関しては具体的な方策を考えながら解放を目指すべきであると考えていました。植民地住民は彼ら自身の利益を目指して、彼らの政治的経済的生活に関与すべきである、しかし、実際はそうではない。そうした政策が実際に遂行されるのであれば、あらゆる植民地問題が解決へ向かう。部分的な解放であれ、それによる自由が完全な解放へとつながる可能性がある、と1938年に語っています。 しかしながら、フランスはそうした解放への動きは全くしなかった。こういう状態で、もし日本が今、インドシナを奪おうとしたとき、日本がベトナム人(フランス植民地)を利用することは大いに考えられる。フランスが少しの自由を保障していれば、日本がそれを習うことは難しい。フランスは植民地解放へと動き出すべきであるとシモンヌ・ヴェーユは主張していたと鴻さんは説明します。 このようにシモンヌ・ヴェーユも、1938年に日本がフランス植民地インドシナをフランスから奪い取りに来るだろうことを予測していました。日本は、実際3年後の41年に真珠湾攻撃と合わせて、上陸作戦を開始します。37年盧溝橋事件をきっかけに、日本の中国大陸への具体的な侵略が開始されたとフランスの知識人たちは見ていたのです。 ◼︎ 外の世界がなかった日本 ー 総力戦体制と移動演劇 鴻さんは、1927年にヨシフ・スターリンは、中国革命は3段階で起こるだろうと予測していたと言います。 第1段階は、ブルジョワジーが革命を支持する形で外国帝国主義に対する戦いが開始される。第2段階は、ブルジョワ民主主義革命が起きて、それ以降はブルジョワは革命から離れていたにもかかわらず、農民の革命に対する支持が開始される。第3段階でソビエト的な革命が起こる、こうした将来が必ずやってくるとスターリンは考えたのです。そして、中国では実際に共産革命が起こりました。 また、スターリンは日本についても言及していると鴻さんは引用します。 -- 西欧で我々の敵である者たちは、皆もみ手をしながらこう言っている。中国で革命運動が起こった。これはボルェヴィキ(ソヴィエト)が中国人民を買収したのだと悪口を言っている。これはロシア人が日本人と戦う道へと導くであろうと皆が言っている。こんなことはデタラメである。中国の革命運動は信じられないほどである。我々は帝国主義者どもの束縛から中国を解放し、中国を単一国家にするために戦っている。中国革命に共鳴している。日本もまた、中国の民族運動の力を考慮する必要があることを理解する。 -- このスターリンの日本に関する予測は当たりませんでしたが、しかし、こうした裏には、自分たちの国以外の国がどのようになっているのか、その人たちが何を願い何を考えているのか、もしかしたら事態はこうなるかもしれないということを考えながら、スターリンが記述していることがわかる、戦後、ヤスパースは我々(ドイツ人)の戦争責任を考えていたけれども、日本人はそう言ったことは考えていなかったのか。では何を考えていたのか? と鴻さんは問います。 こうした日本の盲目性に関して、森秀男が「戦中と戦後をまたぐ――『女の一生』の場合――」という論文を書いています。鴻さんたちが、『シアターアーツ』で「戦争と演劇」という特集を組んだ時に、掲載された論文です。 これは、今も繰り返し上演されている文学座の『女性の一生』という作品について書かれたものです。作者である森本薫が『女の一生』を執筆時は��中でした。戦時中に上演されたということは、それは“反戦”演劇ではなかったということです。戦時下で上演された『女の一生』の台本は、戦後の台本とは異なります。初演台本と戦後の改定された台本、そして定本として読まれている台本がそれぞれいろんな形で違っているのです。この初演台本は長いこと簡単には読めませんでした。この経緯についてよく知っている文学座の戌井市郎などに、森秀男さんが話を聞きながら、変更箇所について調べたことがこの論文に書かれているそうです。 『女の一生』が、どのように戦前の演劇から戦後の演劇へと変わったのか? 例えば、主人公のけいが想いを寄せるが、中国へと姿を消す栄二という登場人物は、戦後の改定において、最初は左翼的な人間だったのが、転向して情報員として戦争協力する仕事などをしながら、敗戦後、帰国する、という設定がなされたりしている。 1961年の『女の一生』パンフレットで、森本薫から杉村春子に当てた敗戦前後の私信の抜粋が公開されました。また、当時舞台女優に宛てた森本薫の手紙が残っています。そこでは、森本薫が次のように言っています。 -- 1945年8月3日付 『怒涛』や『女の一生』がダメなのは、描くことだけに力を入れて自分を込めるというか、なんといったらよいかわからんが、ともかく作家自体が芝居の中で求めているものがはっきりしない。あるいはないことだ。 -- 1945年10月11日付の手紙 とにかく皆誰かなんとかしてくれるだろうという他力本願を捨てて本当に一生懸命準備しなければならん。僕は『田園』から『女の一生』までの文学座を省みて、岩田豊雄に逃げられたり、戦争にいじめられたりしながら、我々自身大して自信もなく歩いて来た道は、そう無駄な道ではなかったと思う。我々は我々が到達したところからしか出発できない。しかも我々は率直に楽しめる現代劇から真面目に社会を考える現代演劇への第一歩を踏み出している。僕は色々と取り越し苦労をしているように見えるかもしれないけれども、今回の出発に関して新しい風は左翼演劇からは現れないということを断言する。左翼演劇ではなく、自分たちのやろうとしている演劇から新しい風が吹き始める。 -- 森秀男は、「森本薫は8月15日を境に、戦中と戦後という時代をほとんど苦労なしにまたぐことができたようだ。戦争中、時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉は見当たらない」と書いています。 この時、「時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉」がどういう風に語られるのかについて問題にしているのがヤスパースであり、その道徳的罪であるとか、政治的罪についてを『我々の戦争責任について』で書いている。戦争犯罪を実際に犯すことと、その国の政権が独裁的で侵略戦争をしていからという理由でそれに抵抗で��なかった人間は、戦争犯罪人ではない。ただし、道徳的罪はあるだろうとヤスパースは言っている。そこで、自責の言葉がどういう風に語られるのかが問題である、と鴻さんは展開します。 ◼︎日本戦時下の移動演劇 ー その問題性と魅力 ここで、鴻さんは「だんだん日本の演劇人の戦争中の行動と、それに対する戦後の自責の念のなさという私の批判が始まるのではないかと思う人もいるかもしれないのですが、こういうことを踏まえた上で、私はいま全く違うことを考え始めている。」と、日本の移動演劇の歴史について語り始めます。 例えば、戦時下の演劇が孕む問題性とその魅力が同居するときにどうしたら良いのか?  ー日本では戦中、移動演劇が盛んでした。演劇をより多くの人に見せるために、農村地帯や漁村、山村など様々な場所に展開しました。有名なのは、移動演劇の部隊であった桜隊が1945年8月6日広島にいたということです。その時に、原爆が落とされて、桜隊のメンバーが原爆で亡くなっています。(そのことを巡って、井上ひさしは『紙屋町さくらホテル』という作品を書きました。新国立劇場のこけら落としに執筆され、1997年に上演。鴻さんが劇評を執筆しています。) そして、戦争が終わり、他の移動演劇も敗戦とともに消えていき、なくなってしまいます。 演劇評論家の茨木憲は、『昭和の新劇』という本のなかで、戦後の新劇人たちは、戦時下において自分たちがやってきたことの反省において新劇活動をしなかったということを告発していると鴻さんは参照します。 日本の戦後新劇のはじまりを告げたのは、1945年12月に文学座と俳優座の合同公演として上演された、アントン・チェーホフの『桜の園』でした。1940年に国の一斉検挙があり、新協や新築地の両劇団は国情に適しないから解散するようにと命令された時、当局の推奨を受ける形で存続していた文学座は「国情に適した」劇団だったのでしょう。そして、戦後の合同公演で直ちに、雰囲気劇としてチェーホフを上演したのです。 ここには、森秀男によって詳細に分析された『女の一生』の改ざんの問題における日本の戦後新劇人の自覚のなさと共通するものが見られると鴻さんは考えます。 そして、茨木憲が著者の中で戦時下の空白期と書いているところに、実は移動演劇がありました。 戦時下に移動演劇連盟が作られたのが1941年6月。その後、1943年2月に再編成されます。この移動演劇の活動初期1年半で動員した観客の数は約450万という膨大な数に上ります。農村、山村、漁村、工場、鉱山などを周り国民に観劇の機会を与えることを目的に公演回数は3,500回を数えました。 時は真珠湾攻撃の直前。ビラ広告のキャッチコピーは「米英撃滅 今このとき!」。勇ましい宣誓文が続きます。 -- 我々は文化領域における翼賛運動の一助たる我らの職域を明瞭に自覚する 我々は協力一致の精神と誠実明朗の態度をもって我々の使命に奉仕する -- 移動演劇は、東京毎日新聞などの資本を得つつ、主に公的な資金で運営されていました。入場料は無料です。移動演劇は商業演劇のような単なる娯楽ではなく、教化=教え諭すことで、正しい国民を作っていくことを目的に上演されていたのです。 移動演劇連盟の委員長は、岸田國士。大政翼賛会の文化部長であった岸田國士が個人の資格で委員長になりました。そして、副委員長が伊藤熹朔、事務局長も兼任していました。伊藤熹朔は千田是也の兄です。このように、演劇界の重要人物たちが移動演劇連盟を仕切っていたのです。 伊藤熹朔は、昭和18年に『移動演劇の研究』という本を書いています。移動演劇は、劇場がないような場所でも上演をするので、ときには劇場作りから始めなければならず、巨大な装置は使えないという点から色々な工夫がなされていました。 ここで重要なのは、国民全員が見る体制を作ること、単に楽しむためだけでなく、国民が考える場所を提供することを目的に移動演劇が作られたと書かれていることだと鴻さんは指摘します。 いろいろな場所で上演できるような一種の実験的な試みを展開しつつ、新しい創意工夫のもとに移動しながら演劇を上演していく、こうした移動演劇という新しい様式を作り上げていったと伊藤熹朔は書いています。 鴻さんは、この研究書を読みながらロシア・アヴァンギャルドのアジプロ演劇を想起したそうです。ロシアでは、1918年にボルシェビキのプロパンダ演劇のための劇場が列車となり移動し上演するアジプロ列車というものができました。アジプロ船もありました。 当時の日本ではアジプロ列車についてどの程度知られていたのか不明ですが、移動演劇では、舞台美術家である伊藤熹朔が中心を担って、プロセニアム劇場ではない形の舞台で、どういう演劇を、具体的に作っていくのかが模索されました。 このように、劇場なしでの上演を巡って移動演劇に新しい可能性があると考えた人たちがいて、それが国策で行われました。非常事態において行われていたことが、重要な演劇的な意味合いを持っている可能性があると鴻さんは論じます。 研究書の中で伊藤熹朔は、移動演劇の起源はギリシア演劇の起源にあるテスピスの車輪だと書いています。そうした歴史的な起源にまで遡りながら、伊藤熹朔は自分たちがやっていることは芸術的な革新運動であると思っていた。それを国策演劇であるということで切り捨ててしまうと、その面が見えなくなってしまう。一方で、独裁政権化の軍事政権ファシズムが演劇による総力戦化という中でそういうことが行われていたことは事実です。この2つの歴史的事実をどう繋げて考えていくことができるのか? さらに、植民地主義の抱える矛盾。ソビエト科学アカデミーの中の歴史書シリーズの中に、「植民地に対する侵略と略奪がなければ資本主義の成長はありえない」という一文があります。資本主義がなければ私たちはいないのだけれども、その植民地をいかに解放するのかというシモンヌ・ヴェーユの悩み。 それらの文脈の中に、日本の移動演劇がどう位置付けられるのか? 鴻さんは、日本の植民地主義や戦争責任を巡る議論と移動演劇の活動を参照しながら、それを演劇論として論じるのは非常に困難な作業であるが、そうした探求を進めることこそ演劇研究の役割であると言って講義を終えました。 参考文献: カール・ヤスパース『われわれの戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫、2015年)[ドイツ語原典は、1946年出版、初訳は、1950年桜井書店から『戦争の責罪』として刊行され、その後『責罪論』、『戦争の罪を問う』などのタイトルで幾度も出版されている]。 伊藤喜朔『移動演劇十講』(健文社、1942年) 伊藤喜朔『移動演劇の研究』(電通出版部、1943年) シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』(春秋社、1968年) スターリン『スターリン全集』7、10(大月書店、1952、53年) 文/椙山由香 
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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「 戦時下の日本の演劇人、そして戦後の演劇人」より
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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「 戦時下の日本の演劇人、そして戦後の演劇人」より
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#7「 戦時下の日本の演劇人、そして戦後の演劇人」
鴻さんが「日本を中心に、実際に見ていない歴史的な演劇について語るのは初めてである」という本講議では、これまでのポストコロニアル/ポストインペリアル演劇の流れを戦前〜戦中の日本演劇へと接続し、日本の帝国主義、植民地主義と演劇の関係について考察する第一歩となりました。 下記は、講義内容の概要をまとめたものです。 ■  なぜ戦争は起こったのか? 戦争を起こさないために 戦争と演劇というテーマは、演劇の起源から主要な問題系でした。そして、そのテーマは常に世界戦争と関わりがあったのだと鴻さんは考えます。例えば、ギリシア悲劇「トロイアの女たち」においては、トロイア戦争が当時の世界戦争だったのではないかという観点から鴻さんはこれまで論を展開してきました。講義告知文で幾つかのギリシア演劇のタイトルを参照例として書いた中に、「ヘラクレスの子供たち」がありましたが、実はこの作品は戦争と演劇というテーマにおいてかなり難解な作品であると鴻さんは説明します。 「ヘラクレスの子供たち」は、ヘラクレスの死後、ヘラクレスの子供たちがスパルタを追放になるところから始まります。追放された子供たちが放浪の旅に出て、様々な町を訪ね歩きます。どの町でも、追放された子供たちを暖かく迎え入れようとしますが、すぐにスパルタの使者が現れそれを阻止します。そして、放浪を続け��るを得ない子供たちが最後に辿り着いたのがアテナイでした。そこで、再び現れたスパルタの使者に対し、アテナイの市民は「行き場をなくして困っている子供たちを見捨てて、なぜ正しい国と言えようか」とスパルタの使者の脅しに屈せず、使者を追い返します。そして、その後スパルタとの戦争が始まります。 鴻さんは、この作品をアメリカの演出家ピーター・セラーズの演出で観たそうです。当時、ユーゴスラビアが内戦状態になり、サラエボが爆撃され多くの難民がアドリア海を超えてイタリアに逃げてきていた時でした。そして、イタリアの路上でユーゴスラビアの難民の子供たちが苦しんで困っている時に、ローマの劇場でこの作品が上演されたそうです。舞台には、難民の子供たちも並び、騒然とした中で難民排斥に反対する演説から始まりました。その集会が終わると、その子供たちが観客席の最前列に座り、上演が始まりました。鴻さんは、この作品に感動し、ギリシア演劇の時代から続く演劇の持つ力が今に示されたように感じました。しかし、一方で作品の歴史を読み解くと、実はそう簡単なものではないことがわかりました。 「ヘラクレスの子供たち」の初演は紀元前429年。アテネがスパルタと戦争を始めてから2年後のことです。つまり、古代の世界大戦とも考えられるペロポネソス戦争が展開するその雰囲気の中でこの作品が上演されたことになります。そう考えると、この作品の意図を楽観的に考えることはできません。そこには、戦争と演劇における膨大で複雑な問題系が横たわっているのです。 鴻さんは、日本の演劇の場合も同じことが言えると考えます。鴻さんは、2年前に大野一雄論を書き、埴谷雄高について考えた時に、日本の演劇と戦争について調べました。大野一雄は情報将校として中国に派兵されました。その時に、若い日本軍人が狂ったように中国人を殺していたというようなことを語っています。それからパプアニューギニアに行き、どういう経験をしたのかに関しては固く口をつぐんでいます。自分が人を殺した話はしていません。こうしたことと彼の舞踏はどう関係しているのか? 鴻さんは、そのことについて、論考「虚体、死体、そして〈外〉へ-二一世紀のダンスの理念に向けて」(「ゲンロン5幽霊的身体」2017年)に書いています。 鴻さんは、このことを問題にすることで糾弾したいわけではない、戦争責任や謝罪に収斂するところに問題の解決があるわけではないと考えています。戦争は長い期間展開されています。その中で世界認識というものがどう変化していくのか。そして、最も重要な問題は、戦争はなぜ起こったのか、ということであると言います。 フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、トロイア戦争が始まったのは、トロイアの王子パリスがスパルタの王メネラオスの妻ヘレネーを誘惑し連れ帰ったことが原因ではないだろう、と書いています。では、本当の理由は?一般的には交通の要衝であったトロイアを巡る経済問題であったという説ですが、この説もシモーヌ・ヴェイユは退け、そこにある深い問題に哲学的に迫ります。 今の私たちが、過去の2度の世界大戦はどうして起こったのか、今、再びその続きが始まろうとしているのか、それを防ぐためにはどうしたら良いのか、といったことを考えるときに、戦争の始まる理由がよくわかっていないということが問題なのです。日本の場合、文化人や知識人は戦争についてどう考えていたのか、実はそういうことが、日本の演劇において、これまであまり考えられてこなかったのではないのかと鴻さんは続けます。 ■ 世界大戦と日本演劇、その空白 日本のアングラ演劇を例にすると、鈴木忠志の初期代表作「劇的なるもの」は新劇の物語的な左翼演劇への批評的見地から現れたものです。新劇は、言葉で物語を物語りながら、それが身体化されていない。鈴木忠志たちは身体化された言語を問題にしたのです。「劇的なるものを巡ってⅡ」では、歌舞伎やベケットの「ゴドーを待ちながら」のセリフ、数学者の岡潔の発言などが劇中で発されます。そうした異なる質をもった言語が身体化されて出てくるときに俳優の本質が多様に変化する、その瞬間を作ること���劇的なのだと鈴木忠志は語っています。「劇的なるもの」では、それは個人の身体で起こっていましたが、それが集団という中で起こったときにどうなるのかということを実践したのが、「トロイアの女」でした。「劇的なるもの」を巡って作られた身体を通過して屹立してくる言葉。その方法を集団的に空間化することによって戦後の日本の焼け跡が蘇ってくる。戦争に敗北した日本。その敗北の姿がトロイアに集約して現れてくる。これまで、そうした部分にあまり焦点を当てて語られてこなかったのではないかと鴻さんは考えるのです。 日本のアングラ演劇の演出家鈴木忠志は1939年生まれ、唐十郎は1940年生まれで、どちらも幼少時代に日本の敗戦を迎えました。さらに唐十朗の父親は日本軍の従軍カメラマンとして、大陸に渡りましたが、いつの間にか日本に戻ってきています。その間に何があったのか?こうした歴史的な背景がそれぞれの作品にどのように影響しているのかということを考察するため、鴻さんが参照するのが唐十郎の「ユニコーン物語」です。 1975年に状況劇場がパレスチナの難民キャンプで「風の又三郎」を上演した経験をもとに作られたのが、「ユニコーン物語」でした。そのセリフに「南の島に雪が降る。黒い雪が。」とあります。俳優の大久保鷹が、そのセリフを言うときにイスラエル軍に攻撃されているパレスチナの難民キャンプを思うと語っていたそうです。劇中、このセリフが発された時に、南洋諸島へと地図が広がる。そして、第2幕になると人間の腐乱死体が映し出される。それは日本軍なのか、それともポリネシアの島の殺された人たちなのか。こうしたことから、唐十郎をどう捉え直すことができるのか。 これらに比べて寺山修司の戦争はロマンチックなものとして語られてきましたが、もっと悲惨なものとも言えます。日本が戦争に負けて、青森の三沢米軍基地で働き始めた母親は、おそらく米軍将校に強引に命じられたのでしょう、寺山を親戚の家へ預けて青森から福岡へと拉致されるように移り住みました。寺山は米軍によって母と引き裂かれたのです。子供が大人を襲撃するという寺山修司の処女作であるラジオドラマ「大人狩り」が初めて放送されたのは、その福岡のラジオ放送局でした。そこに見える、米軍へのある種の憎悪。しかし、寺山修司の作品についての議論の中には戦争の話は全くと言っていいほど出てきません。日本人と日本軍が戦地で何をしていたのか、ということとの関係はあまり語られていないのです。太田省吾は、敗戦後、満州から引き揚げた経験を「水の駅」の中に描きました。負けた後の幻影、辛い話はそうした形で作品化されます。 戦前に連なる1920年代、築地小劇場の始まりは、ドイツ留学中に日本の関東大震災のニュースを聞いた土方与志が、日本に戻り小山内薫に会って劇場を作ったところに始まります。土方が、その日本への帰途に列車乗り換えのためにモスクワに1週間滞在した際に偶然観たのが、ロシアアヴァンギャルドの演出家フセヴォロド・メイエルホリドの代表作の1つ「大地は逆立つ」でした。メイエルホリドの作品を観た人間が築地小劇場を立ち上げ、日本とヨーロッパの前衛の関係について考え始めました。同時にソ連の左翼演劇にも影響を受け、そこからプロレタリア演劇の流れが生まれます。他方、1927年にメイエルホリドについての論文を書き、プロレタリア演劇の中心で活動していた演出家の杉本良吉は、1933年以降に政府からの弾圧が厳しくなると地下活動を始めました。そして、1938年にソヴィエトへ亡命しようとします。1938年1月3日早朝、岡田嘉子と一緒にそりに乗って雪原の樺太国境を越えた話はあまりにも有名です。モスクワで演劇を学び、戦争が終わったら日本で演劇活動を再開しようと考えたのです。しかし、ソ連国内に入った時に直ちに拘束され、日本のスパイとして、処刑されてしまいました。このように、日本のプロレタリア演劇は1933-34年から勢いをなくし、1935年くらいから先は活動がほぼなくなってしまいます。 ■ 日本演劇の戦前〜戦後ー三好十郎と転向 今回の講義では、この1935年以降から終戦までの時代に焦点をあてて考えるために、鴻さんは劇作家の三好十郎を例にとりました。三好十郎は、生まれたのが1902年、1922年に20歳、1940年に39歳でした。取り上げた代表作は1937年日中戦争の真っ只中で書かれ、新築地小劇場で初演された「浮標(ブイ)」。戦後1948年に文化座で初演された「その人を知らず」です。 「その人を知らず」を発表した際、この作品は転向演劇であると批判されました。転向とは、鶴見俊輔を発起人とする思想の科学研究会の「共同研究転向」によると、語源はイエスの弟子達を弾圧するサウルが、ある時イエスの啓示にあい、イエスを信じるようになったことにあると言われています。つまり、それが正しいと思っていたことが、そこには幼稚な未熟さがあったために信じていたけれども、より深い知と洞察と世界に対する眼差しによって、新たな世界像を獲得した時に人は転向するということです。そして、転向を誘う人間は極めて優秀な知識人であったり理論家であることが多いと言われています。一方、ただ謝って心を入れ替えているように見せる人たちは偽装転向と定義されます。偽装転向をした人で最も有名な人は昭和天皇であると言われています。昭和天皇は平和主義者であったが、周りが戦争主義者であったから戦争主義者として振る舞っていた、これが偽装転向と言われる理由です。 三好十郎にとって、転向は大きなテーマの一つであったと言えます。「その人を知らず」は、あるキリスト教徒の話です。戦争になったら日本臣民であれば戦争に行くべき、という圧力のなか、このキリスト教徒の青年、片倉友吉は、自分はキリスト教徒なので人を殺すために戦争には行けないという理由で徴兵を拒みます。そのことによって、彼が働く工場の周りの人たちが困ってしまい、彼の弟も仕事を辞めなければならないような事態となります。これを受けて神父も、この時勢だから徴用には応じるようにと説得します。しかし、その説得においても、拷問を受けても主人公は意思を変えません。これを受けて他の��者までも動揺が広がります。 その後、戦争が終わり、戦争機械を作る工場が普通の工場へと変わり、教会にも新たに人が集まってきます。全てが平時の状況に戻ってきたとき、工場には労働組合ができていました。軍需景気が終わり工場でリストラが始まったのです。雇用を巡り労働争議が起こり、その結成大会にどんな圧力をかけられても権力に屈しなかったという理由で友吉がかつぎ出されます。しかし、友吉が演説で語ったことは、労働組合の思惑とは全く違いました。友吉はむしろしどろもどろで、こんなになってみんなに迷惑かけて申し訳なかったのだの、でもエスさまを捨てられなかっただの、まったく論理的でもなく、組合にとってはまったくの役立たずで、すまないとか、しかたなかったとか言うばかりなのでした。こういうみじめったらしい場面を描きながら、「友吉はイエスの教えのために戦ったのであって、労働者のために戦ったわけでもなく、彼の結果的に反権力的な行動は国家権力に逆らう為でもなかった。しかし、今そこにいる人たちは、戦時中国家権力に寄り添っていただけで思想的にも戦っていない。それが突然思想的に熱狂してこのようになるのはおかしい。」三好十郎は、そのようなことを友吉を通して伝えたかったのだろうと鴻さんは指摘します。 三好十郎は、戦争に反対ならば戦時体制に対して抵抗しなければならなかった、それもしなかったのに、戦後になって、自分は戦時体制に反対だったという人たちに対してとても批判的でした。そうした人たちが、日本の戦後社会を作っていくということに厳しい眼差しを向けていたのです。 もう一つの「浮標(ブイ)」では、画家である主人公の妻が死にそうで千葉の寒村で療養をしているというところから始まります。妻の家では妻亡き後の遺産相続についてもめています。主人公の男は、優秀な画家でしたが、ある理由で絵を描くことをやめてしまいました。漫画などを書きながら生計を立て、友人たちからの新進の画家グループへの誘いも断り続けています。妻も夫に絵を描くことを勧めます。しかし、妻の死期が迫り頼み込んでも主人公は絵を描くことができません。そうした中、友人が訪れ、金にもなるし絵を描いてグループに入るよう勧められます。まるで商売のような話に、主人公は激昂し「それは芸術活動ではない」と友人を追い返します。物語の最後、妻は息絶え、主人公の画家も行き場はない状況で幕となります。 この作品は、かつてはプロレタリア演劇に関係し、マルクス主義などにもシンパシーを感じていた三好十郎が、革命の闘士ではなく、妻への複雑な愛情に声を殺して嘆くような主人公を描いているということで、転向演劇の代表作だと言われました。 この主人公のもとを訪れる友人の場面は、グルジアの映画監督テンギズ・アブラゼの「懺悔」を思い出させると鴻さんは言います。「懺悔」では、ある画家の部屋に最高権力者が来て、この才能を自分のために使わないかと誘います。画家は、それを断り、収容所に入れられ拷問の末に殺されるのです。この政治家のモデルはスターリンです。多くの作家を弾圧し殺しているスターリンは、多くの作品を見て、その作品を実に正確に分析して見せ、優秀な作家の能力を自分の体制のために使わないかと誘っていたのです。 「浮標」の主人公も、「懺悔」の画家と同じように、権力になびいて芸術を語るような人たちとは私は付き合わないと主張しています。絵を描けない理由もそこにあります。友人グループが先生と呼ぶ人は、藤田嗣治のようです。戦争画であればお金になる。戦争画を描くことを選んだ画家です。(とはいえ、藤田の代表的な戦争画「アッツ島玉砕」などは、戦争の悲惨を何よりも明瞭に伝えてくるという意味で反戦的に見えるかもしれないから問題は複雑です。この絵が戦意高揚のかなめでもあるような時代はどのような構造に支えられているかなど、極めて複雑な問題がありますが、いまは立ち入れない、別の機会に譲るとのことです。)「浮標」の主人公は、妻の命があと10日となったとき、ようやく絵を描き始めますが、観客からは何を描いているかは見えません。このように、抵抗の姿勢をどう考えるか、ということが、「浮標」の主人公の中に屈折した形で、1940年に作品として描かれています。鴻さんは、三好十郎の描く世界をそのまま受け取れるほどまだ研究ができていないが、と注釈をした上で、総動員体制の時代に絵を描かないという、それを直接的な抵抗の姿とし描いていたらば上演できなかったのではないかと推察します。 日本の第一次世界大戦でのドイツへの宣戦布告は野心的な戦略からでした。ドイツは南太平洋に膨大な植民地を持っていたのです。第一次大戦でドイツが敗北すると、それらが日本の委任統治領となり、山東半島も一時手に入れました。これが、後の中国侵略への足がかりとなるのです。また、アフリカのドイツの植民地はフランス、オランダ、ベルギーなどに割譲されました。第一次大戦後の帝国による植民地の再分割が、第二次世界大戦の原因ともなったのです。こうした大きな意味での戦争について反対であるとは、実は「その人を知らず」の友吉は考えていないのです。世界資本主義という文脈の中から現れた戦争というものに反対しているわけではないのです。そして、「浮標」の主人公は、戦争に奉仕する絵は描かないけれども、なぜ、戦争は賛美されるべきものでないのかまでは語りません。 日本はドイツへ宣戦布告し、ヨーロッパの帝国主義を範として、有能な植民地主義者としての頭角を現しました。植民地とは帝国主義の略奪、侵略と収奪の必然の形態です。それを問題にしようとするのであれば、統治の問題にまで踏み込んで考察をして反対しなければならないと鴻さんは考えます。ギリシア演劇においてはその議論がなされていた、だから、そこを参照しつつ、現代における演劇と戦争というテーマを論じることが必要であると鴻さんは主張するのです。 参考資料: 1. 宍戸恭一『三好十郎との対話』(深夜叢書社、1983年) 2. 山室信一ほか編『現代の起点:第1次世界大戦』(第1巻「世界戦争」)(岩波書店、2014年) 3. 江口朴朗監修『第2次世界大戦』(第7巻「戦争下の南アジア」)(太平出版社、1985年) 4. 尾崎宏次『戦後のある時期』(早川書店、1979年) 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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「神話、歴史、そしてモダニティー/このアジアの片隅で」より
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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「神話、歴史、そしてモダニティー/このアジアの片隅で」より
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#6 「神話、歴史、そしてモダニティー/このアジアの片隅で」
サイードが『文化と帝国主義』で論じた「帝国主義の楽しみ」とは?…鴻さんが、現代インド演劇の歴史を辿りながら、近代/帝国主義の魅惑と戦略を分析。近代/帝国主義を思考し、ポストコロニアル批評の歴史的な意味を問い直す。その営みを今日へとつなげる壮大な試みの一端です。
下記は、講義内容の概要をレポートにまとめたものです。 ■ プロローグ 講義は、南インドのケーララで活動する演出家、シャンカル・ヴェンカテーシュワランが2016年に東大駒場で開催したワークショップについての話から始まりました。 ワークショップの成果として、無言劇のショートピース「雪の駅」が発表されました。上演後、どういった光景を表しているのか? と観客に問われた時、シャンカルは、カシミールの人たちが降る雪を見ながら何を考えるのか、を課題としたと答えました。カシミールは、インドとパキスタンが領有権を争っている紛争地帯です。 鴻さんは、その話を聞きながら、ベケットの「ゴドーを待ちながら」だなと思ったそうです。遠く西の空が赤く燃えているね、といったセリフは、ドイツに占領されたパリが燃えているという情景を想像させます。そこに、レジスタンスの諜報員として活動しながら、パリから逃げてきたベケットの気持ちが反映されていると言います。 その後、ワークショップの打ち上げの席で、鴻さんは、シャンカルから内戦状態にあるスリランカの話を聞きました。スリランカでの戦闘のターゲットは、知的財産が蓄積されている図書館だったそうです。 それはまた、鴻さんに、「サラエボで、ゴドーを待ちながら」という、スーザン・ソンタグの活動を思い出させました。紛争地域であるサラエボでも、図書館が破壊されました。そこは、ヨーロッパで最も重要なアラビア関係、イスラム関係の本が集積されていた場所です。相手は、そういう知的な財産を抹殺し、そこに立ち返ることができないようにさせるのです。 シャンカルは近年、「Criminal Tribes Act」という作品を製作しています。大英帝国の植民地時代に作られた差別法令であるCriminal Tribes Act(犯罪部族法令)が、現在の独立したインドでもまだ残っていて、その法令が別の形で適用されていることを問題化する現代インドについての作品です。 この作品が現代インド演劇の一つの可能性として感じられるという鴻さんは、ここに至るまでのインド演劇の展開をポストコロニアルの視点から振り返ります。 ■植民地独立後の現代インド演劇が担うもの  鴻さんは、2000年代初頭、ニューデリーのデリー大学などを中心として展開されたNational School of Drama が主体になってやっている演劇祭や、バンガロール、チェンナイなど幾つかの演劇祭を訪れています。 そうした中、ニーラム・マンシン・チャウドリーが演出した「��ッチンカタ」を、日本とドイツに招聘するため観に行ったのが、インド北部パンジャブ州の州都であるチャンディーガルという都市でした。 チャンディーガルは、近代建築で有名なスイスの建築家、ル・コルビュジエによってデザインされた人工都市です。もともと、大英帝国統治時代のパンジャブ州の文化的な中心はラホールという古都でした。しかし、インド独立後の分割統治によって、ラホールはイスラム国家であるパキスタン側に入りました。そのためインド側では、チャンディーガルを州都とすべく、ヨーロッパ的な近代都市計画に基づいた都市を作り上げたのです。 チャンディーガルは、帝国主義的な統治のシステムが如実に反映された空間でもあります。整然と碁盤の目上に並ぶ居住区域は、北から南へ上流階級、中流階級、下層民と分かれており、上流階級居住区の上には、議事堂が建設され、さらにその北にロックガーデンというアモルファスな非均質空間があります。 しかし、実際には、下層民の空間の中から、何か腐食するように、人が集まる空間ができてバザール化し、そこに行くとインドらしい景色が広がっている。コルビュジエの描いたモダン都市は、このように腐食されていき、その腐食した空間に本当の町の息吹があると、街を案内しながらチャウドリーさんは鴻さんに語りました。 「キッチンカタ」は、ロックガーデンの野外劇場で演じられました。「キッチンカタ」のカタはインド伝統舞踊カタカリのカタで”物語”という意味です。台所でインドの女性たちは、主人の食事を作りながら、自分の身に起こった差別的な悲しい物語について語っている。ナッカルという非可蝕民として差別されているパンジャブ地方の芸人たちが、そうした台所での悲しい物語を、歌として語り継いでいく。インドのカースト制度の外にいる人たちがインドの現実を舞台で物語ることで、インドの現実が力強く表現されていく作品でした。鴻さんは、この体験を、近代的に装飾されたチャンディーガルという都市の崩壊のプロセスとともに思い出します。 ■『オリエンタリズム』から『文化と帝国主義』へーポストコロニアリズム理論の発展 そして、これを1947年独立以降のインドの一断面としつつ、インドの歴史を辿っていくとき、鴻さんが注目するのが、エドワード・サイード『文化と帝国主義』(1993年)であり、その議論の発端である『オリエンタリズム』(1978年)です。 『オリエンタリズム』では、現存する最古のギリシア演劇とも言われるアイスキュロス作の悲劇「ペルシア人」において、ヨーロッパであるギリシアを勝者として、オリエントのペルシアを敗者として表象していることが、オリエンタリズムの文学的始まりとして論じられています。(後の「トロイアの女」も同様の構図が引き継がれています。) しかし、鴻さんが近年足を運んだギリシアやトルコでの調査を通して、この作品が古代ギリシアで上演された当時、つまり、アンドレ・ボナールのいうアテナイ帝国主義の時代、ギリシア人は、ペルシアやトロイアの実態、またその先の国々のことも熟知、観察した上で作品を書き、観ていたのではないかと考えるようになりました。それは、ソフォクレスと同時代に『歴史』を著したヘロドトスが、サルディス(トルコ)、ペルシア、そしてエジプトまでも旅をしながら実際に見聞きした物語を集めたことからもわかります。鴻さんは、その事実を考え含めることで、勝者=オキシデント、敗者=オリエントの表象を主な問題として扱った『オリエンタリズム』から、より発展的に帝国主義の文化的戦略を論じた『文化と帝国主義』の意味がさらに明確になると考えます。 アテナイを中心に、様々な場所へ植民していくギリシア人たちが、ギリシアの外のことを知っていく。その原型を示すのが、ホメーロスの「オデュッセイア」だと鴻さんは、ボナールに依拠しながら指摘します。ギリシア悲劇よりも数百年前に成立した物語で、場所は特定されていないけれども、オデュッセウスが旅するのは、地中海のアテナイから遠く離れたどこかであるように描かれています。 オデュッセウスは旅の中で、不思議な土地々々を訪れます。有名な場所の一つが、セイレーンの住んでいる土地です。ある岸辺に近づくとセイレーンの歌声が聴こえてくる。あまりに魅力的な歌声に誘われ、その歌声の聴こえる岸辺に上がるとセイレーンたちに食べられてしまう。そのため、船乗りの間では、その歌声が聞こえてきたら、直ちに立ち去るようにと言い伝えられていました。しかし、冒険家のオデュッセウスは何としてもセイレーンの歌を全部聴きたいと考えました。自分を帆柱に縛り付けさせ、漕ぎ手たちには蝋の耳栓をさせて、無事に難関を切り抜けます。 一方、セイレーンたちからみると、自分たちの歌声によって、本来ならば、近づいてくるはずの船が立ち去ってしまった。マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノは、『啓蒙の弁証法』という本の中で、この物語に触れながら、この出来事の後、セイレーンたちの国でパニック状態が起こったに違いない、そのことによって、セイレーンたちの国が崩壊したのではないかと書いています。つまり、これは啓蒙の力によって、啓蒙されていない土地が破壊されていく様子であると考察したのです。旅を通して、オデュッセウスたちは、怪物たちに遭遇し、怪物たちの考える策を、はるかに超えたアイデアで、次々と怪物たちを退治していく。帝国主義者のたちのやるべき任務を描くこと、それが、オデュッセウスの話の核にあるというのです。 このように敵を知恵で攻略しながら啓蒙していくオデュッセウスの姿は、『文化と帝国主義』で分析されている「帝国主義の楽しみ」に通ずるものであると鴻さんは考えます。 ■ 帝国主義の楽しみ:ヨーロッパ近代の統治プロセス 「帝国主義の楽しみ」と題された章で、サイードは、ラドヤード・キップリングの『少年キム』という小説作品を題材として分析しています。 ラドヤード・キプリングは1865年インド生まれのアイルランド人です。6歳でイギリスの学校に行き、17歳でジャーナリストになるためインドに戻ります。24歳からはアメリカ、南アフリカに滞在しつつ、最後はイギリス、イングランドに落ち着き作家活動を開始。1901年に『少年キム』を書き、1907年にノーベル文学賞を受賞します。 『少年キム』の主人公キムもまた、インド生まれのアイルランド人の少年として描かれています。幼くして両親を亡くしたキムは、パンジャブ州のラホールの博物館で、聖なる水を探し求めて旅をするチベット仏教のラマ僧に出会います。その後、ラマ僧とともに、インド各地を放浪するキムは、ロシアと植民地での覇権を争う大英帝国のグレート・ゲームというスパイ組織と関わるようになります。そこで出会うのは、最初に登場するラホール博物館の館長が象徴するように、軍人でありながら医者であったり、スパイでありながら民族誌研究者だったりといった博識な英国人たちです。その中では、1857-58年にインド北部で起きたセポイの乱について、インド人たちの大反乱を大英帝国がいかに鎮圧したのかということが度々語られます。そして、キムは、新米スパイとして着々と任務をこなしながら、さらなる教育を受けるため、聖ザビエル学園に3年通います。その一方、聖なる水を求めるラマ僧を通して、物語は、あたかも現実のインドのように民族誌的に記述されていきます。物語の最後に、ラマ僧は聖なる水を見つけ、キムもスパイとしての重大な使命を全うし、若きスパイ研究員としての前途が示されます。その時、キムは何かをやり終えた後の、自分の身の回りのものの意味が失って見えてくる深い病に陥っていきます。ところが、それは、やがてすぐに、唐突に、啓示的に、キムが自分の世界が再生していくのを感じて終わります。 サイードは、幻滅と失敗が19世紀のヨーロッパ文学の特質であった、ところが、『少年キム』ではそれは回復されたかのようになっていると指摘します。インドでの様々な調査と分析によって描かれたこの物語の中で、優れた英国人は、帝国の統治において、インド人たちに何かを授与していく存在であり、それを阻む陰謀家たちはやっつけられ、それらのプロセスが成就された時に、何か虚しさを感じていたかに見えたキムの眼の前で世界が蘇ってくる。このような描写によって、キプリングが描いた大英帝国のインド統治の姿は全面的に肯定されていきます。しかし、この全面的な肯定は、植民地インドに対する、大英帝国側の都合の良い解釈と描写によって成り立っているのです。サイードは、ここに、このキプリングの『少年キム』が帝国主義文学として持つ力、その有効性があるのだと分析します。 また、このことは、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で分析したようなヨーロッパ的な知の偉大さと関係があると鴻さんは説明します。フーコーは、20世紀は二つの偉大なる知をもたらしたと書いています。一つは、無意識の領野を研究することで意識の構造を明らかにした精神分析学。もう一つは、ヨーロッパの外の世界を調査分析することで、ヨーロッパ文化を構造化した文化人類学。鴻さんは、この二つの知の構造を支えて、生み出したのが帝国主義であり、そして、帝国主義を支えているのは、この知を生み出すプロセスなのだと言います。 キムの才能は徹底的に知的に努力すること。極めて仔細な深い観察という行為によって、その観察の元に、物事をコントロールする方法を見出していくのです。このために、教育システムというものがあります。フーコーの監獄の誕生という��ステムは、人間を規律訓練の枠組みの中に投げ込んで、そして、ある社会システムをいわば有効に機能するために必要な人間を作りあげるためのシステムです。そうした監獄のシステムが、近代教育システムの誕生とともに生み出される中で、教育とか医療というものが、19世紀的なヨーロッパ近代の中核を担うようになりました。 それが実質的に力を持ちうるということを、とりわけ「聖ザビエル学院」というものが、インドの教育システムの中核を為すということをはっきり描いているという意味でも、19世紀ヨーロッパの統治システムの思想を『少年キム』の中に、見出すことができる。ここにおいて、キプリングは、徹底的に優れた帝国主義作家としての相貌を見せているのだと、サイードは書いています。 したがって、問題は、もし仮に大英帝国による統治のシステムに対して、反乱もしくは離脱しようと思う時に、一体何を考えなければいけないのかという点にあります。ただただ帝国主義はダメであるというだけではなく、オリエンタリズム批判を超えた先にしか、帝国主義に対する具体的な戦いというものは始まらないだろうということが『文化と帝国主義』で示されていると鴻さんは読み解きます。 ■ 2000年代のポストコロニアル演劇「マジックアワー」 こうしたポストコロニアル的な視点から、シェイクスピア作品を読み直した演劇作品の一つがインド人アーティスト、アルジュン・ライナの「マジックアワー」(2002年)です。マジックアワー=魔術的な時間というタイトルは、ダンスや演劇の持つ非日常的な空間や陶酔的な時間を指します。フィクションにおける事実の隠蔽や捏造が、それとして何の批判にさらされることもなく通り過ぎていく。シェイクスピア作品におけるマジックアワーというものが孕む帝国主義的な側面を問題化した作品です。 この作品では、インドのカタカリのダンサーであるアルジュン・ライナが、例えば、「真夏の夜の夢」に登場する妖精王のオーベロンとティターニアが、インドの少年を取り合う場面を、インド人がどのように考えるのかといったことを語ります。「真夏の夜の夢」において、植民地は帝国のおもちゃのように扱われているけれど、それを意識もされず帝国主義の楽しみとされることに、私たちは賛同するわけにはいきませんよと、カタカリを踊りながら叙事的に物語っていきます。 また、「テンペスト」では、本国を追われ、南の島を治める元ミラノ大公プロスペロー、妖精のエアリエル、島に住む怪物キャリバンの関係に植民地統治の構造が反映されています。土地の言葉を知らないプロスペローに対し、土地の言葉もプロスペローの言葉も理解するエアリエルは、プロスペローの手下となり、現地人であるキャリバンを監視し、支配します。植民地統治は土地の人々から収奪をする時に、自らが行うのではなく、選ばれた土地の人たちを使って収奪するのです。 シェイクスピアの作品にはそうしたことが描かれている。それに対して、どうするのかということを考え表現する人たちが出てきた。『少年キム』を読んで、優れた英国人が支配はしているけれど、支配をすることによって、インド人は困っているのではなく、助かっているのだという風に描かれている。これに対して、そうですね、と思うのか、それさえなく、冒険譚に喜びを見出すのか。実際のそこに描かれている権力空間から、帝国主義の本質というものを捉え直す作業、自覚化する作業というものに取り組まなければならないと鴻さんは主張します。 ■ ポストコロニアル批評の失効が告げられる時 しかし一方で、近年、ポストコロニアルの有効性を巡る問題も明らかになってきました。大英帝国による帝国主義的な���配と統治によって、約300-350年で作りあげられた帝国を転覆し、そこに新たなものを作り上げようとした時に、どのようなものを作るのか、どのような形での統治のシステムが必要になってくるのか、あるいは何を壊そうとしているのか、そうしたことまで含めてどうするべきなのかというビジョンが、実はポストコロニアル批評の中に欠けていたのではないか。このことを指摘したのが、インド出身の理論家ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクでした。 インドは1947年に分割独立しましたが、約350年にも渡る植民地支配があった中で、大英帝国への政治的、経済的な依存度は高いままでした。独立後のインドでは、多種多様な民族からなる広大なインドを統一する理念は何なのか、ということが問題となりました。そうした中で、スピヴァグをはじめ、植民地からポストコロニアルへと具体的に動き始めた人たちが出てきたのが1970年代、その後、1990年くらいには、ポストコロニアル批評に可能性を感じたアーティストたちが出てきて、「キッチンカタ」や「マジックアワー」という作品を作り始めました。しかし、2010年前後にインドで起こったことは、ヒンドゥーナショナリズムでした。 2007年にスピヴァクが、一橋大学で講演を行いました。その中で、大英帝国の植民地主義と統治の形態というものから脱却したはずのインドが、ヒンドゥーナショナリズムによって、例えば、インドにいるパーシー(ペルシャ人)を迫害、弾圧している。新たなヒンドゥーナショナリズムによる帝国主義的支配といった問題が顕在化してきた時に、ポストコロニアル批評は失効したと、スピヴァクは語り、「ポストコロニアル批評の後には何がきますか?」という問いにも、「わかりません。」と答えました。 この衝撃的な講演は、鴻さんに、もはやどうにもならないような事態が起きているという認識をもたらしました。こうした中で、演劇人はどう応答するのか? こうした状況を打開するための試みのひとつとして、大英帝国時代の部族弾圧法令を取り上げた、シャンカルの「Criminal Tribes Act」といった作品が出現してきたのだと鴻さんは考えています。 ■ それは、抵抗の終焉か?『文化と帝国主義』に立ち返って 本講義では、2000年辺りの現代演劇の動きとして、さらにインドネシア、オーストラリアの作品についても触れました。 鴻さんは、2005-6年にインドネシアのジョグジャカルタでテアトルガラシの「タイムストーン」という作品を観劇しました。動かない時間をテーマに、第一部ではインドネシアの神話的な空間を儀礼的に上演し、第2部では近代的な病院の場面が展開しました。かつて神話的であった社会が、歴史化された社会へと変貌していった。医療的な空間の中に新たな統治形態が示されているように鴻さんには感じられました。 上演後、演出家のユディ・タジュディンに、あなたにとって、重要な演劇テーマはなんですか?と尋ねた時、ユディは「神話、歴史、そして近代」と答えたそうです。インドネシアの場合、オランダによる植民地支配がありました。ヨーロッパによって収奪されつつ、生まれてくる新しいもの。それが、統治の空間としての医療空間でした。フーコーによると、そこでは、人体=ヒューマンボディが、社会的システム=ソーシャルボディのように統治される。インドネシアは、そういう意図的に意識化された知の構造をヨーロッパによって強制的に摂取させられている。しかし、神話というものも消えたわけではない。歴史というものを自覚することで、新たな統治の形態と、近代以前の統治の形式を配置することで、現代のインドネシアをどの方向に向けていくのが良いのかということを考えることが我々にとって重要であり、演劇活動として必要なことだとユディは語っていたそうです。 また、オーストラリアの先住民アボリジニーの問題を扱った作品、ブラック・スワン・シアター・カンパニーの「マムの生涯における輝ける場面」(2001年)(改題されたタイトルは「ナパジ・ナパジ」)は、マラリンガという南オーストラリアの地域で、英国が行った核実験のために土地を追われたり、被害者となったアボリジニーの復権を訴える作品です。また最近では、ふじのくにせかい演劇祭2018で、アボリジニーの俳優ジャック・チャールズが演じる「ジャック・チャールズvs 王冠」という作品が上演されました。作者自身がアボリジニーとしてどういう生涯を生きてきたかということを語り、演じながら、アボリジニーの人たちの主張と権利に関する問題が展開される作品です。 鴻さんは、こうした抵抗の演劇に、強く惹かれながら、しかし、ある意味、神話的な世界であると同時に、歴史における具体的な経験として、自分たちの踊りや歌しか武器がないというのは弱いのではないのかとも感じるようになりました。 『文化と帝国主義』に立ち返ると、帝国主義の統治システムについて批判するだけでは不十分であり、その統治を転覆させた時に、新たな統治の構造、もしくは反統治といったビジョンの提示がどのようになされるのかということが必要になってきます。 あるいは、たとえば、1994年にアパルトヘイトが廃止された南アフリカなどでも、2000年初頭に帝国主義からの解放、独立を経て、問題を解決するための具体的な道のりが示された希望の時代がありました。しかし、2010年頃に新たな問題が噴出し、その方法がうまくいっていなかったことが明らかになってきました。そして、2018年現在は、うまくいかなかった、だから諦めようといった状況にあるのではないか、抵抗の終焉といった状況にあるのではないかと、鴻さんは感じています。 しかし、鴻さんは、もしレジスタンスを放棄するならば、演劇は消えていくと考えます。演劇がビジョンを提示し、実現されなかったビジョンの欠陥について改めて分析し、その挫折を踏まえた上でビジョンを提示していく。演劇が演劇であるために、そのあり方を消さないためにどうすれば良いのか。革命なき戦争の時代の演劇、その新たな展開へどのように踏み出していくのかということが、今まさに問われていると訴えました。 参考文献:
ラディヤード・キップリング『キム:印度の放浪児』(1952年) 文/椙山由香
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thetheatretheoryoftheapes · 7 years ago
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#5 「帝国主義の罠/アパルトヘイトのあとで」より
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#5 「帝国主義の罠/アパルトヘイトのあとで」より
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#5 「帝国主義の罠/アパルトヘイトのあとで」
90年代に力を持っていたポストコロニアル批評を再考し、さまざまな地域の植民地以降から現在までの演劇を巡る困難性と可能性について語ってきた「演劇と帝国主義」。今回は、これまでのエピソードや議論をつなげて大きなマップに位置付けていくような講義となりました。その内容をまとめたレポートになります。後半に向けて、ぜひ一読ください。
■「ルワンダ94」について
講義の最初には、「ルワンダ94」がルワンダで初めて上演された時の記録映像の一部を上映しました。映像は、ルワンダの風景や、虐殺の調査現場の様子なども収めながら、7-8時間かかる上演を90分に再構成したものです。
「ルワンダ94」は、ベルギーの演出家ジャック・デルクヴェルリたちによって、1994-2000年に原型が作られ、2001-02年に完成形態として上演されました。
1994年のルワンダの虐殺では、約80-100万人の人たちが殺されたと言われています。それは、20世紀の虐殺の中でも最大級の事件の一つです。ツチ族とフツ族の部族同士の対立がある中、フツ族の大統領を乗せた飛行機が何者かに撃墜されました。それをきっかけにして、かねてから準備されていた虐殺が行われたのです。
ベルギーのグルポーフという集団が、その出来事に関する舞台のようなものを作ろうと考え、動き始めたのは96年くらいでした。まずは、なぜ、そうしたことが起きたのかを調べ、実際にルワンダに行き、虐殺の現場に行くだけでなく、様々な人たちにもインタビューをしました。
1994年当時、ルワンダはベルギーの国際連盟委任統治領であり、実質上、植民地の様な状況でした。ベルギー領として有名なベルギー領コンゴは貴重な鉱物資源が取れる場所です。そのコンゴを見下ろせる位置にあるルワンダは、コンゴを支配する上で重要な拠点でした。ルワンダはもともとドイツの植民地でしたが、第一次世界大戦後、戦勝国で敗戦国ドイツの植民地分割する際に、最後までルワンダに拘ったベルギーが統治することとなったのです。
ベルギーはルワンダ統治において、ドイツ人のやり方を踏襲しました。ルワンダに住む、ツチとフツ族を仲違いさせる方法です。どちらか一方の部族に、何年間か毎に統治を任せる。統治する側が、統治される側を搾取し、圧力をかける。そうした関係性を続けるなかで、2つの部族の軋轢は深まり、1994年に至るまでも、何度も衝突を続け、その抗争のなかでたくさんの人が死んでいました。
つまり、ルワンダの虐殺は、植民地主義の宗主国の政策の中で作り上げられた関係の中で起きた事件であり、ただの部族抗争ではなかったのです。
この事実は、ベルギーの演劇人にとって重要なことでした。そして、ベルギーの人たちは、その調査を通じて知り合ったルワンダの人たちと、作品を作り始めたのです。
■ ポストコロニアル/ポストインペリアルの視点
ポストコロニアル批評は、植民地の人たちの視点から、多くの場合、植民地の人たちによって展開されていきます。
『ポスト植民地主義の思想』の著者ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、インドは1947年に大英帝国の植民地から制度的には独立したが、その後も実質的な従属関係が続いていたと書いています。インドの精神的、経済的な大英帝国への依存は急にはなくなりませんでした。しかし、70年代終わりくらいから80年代の半ばくらいに精神的にも経済的にも自立の思考が出てきて、ポストコロニアルな思想というものが現実化していき、1980年代に、それに連動していくような表現活動が出てきたと鴻さんは分析します。
スピヴァグは、著作『サバルタンは語ることができるのか?』で、寡婦は夫の火葬の際に、火に飛び込まなければならないサティーという風習を例に、インドの昔ながらの習俗への自己批評とともに、イギリスからの独立も提唱しました。
インドのアーティストであるアルジュン・ライナは、シェイクスピアの「真夏の夜の夢」における、インドの少年を白人の男女が取り合う物語に対する批評をインドの伝統的舞踊カタカリを通して行いました。
このように、ポストコロニアル批評においては、帝国主義者が無意識の中で作り上げたものが、インドでもそのまま浸透してしまうといった流れを転覆するような、批判の思想というものを、インドのアーティストが作り上げるといったことが実際に行われていたと鴻さんは指摘します。
一方、「ルワンダ94」は、素材はルワンダの虐殺であり、それを作っているのは、ベルギーのグルポーフというグループです。宗主国ベルギーの人たちが、この虐殺事件は、ルワンダの犯罪ではなく、ベルギーの犯罪ではないのか? と考えながら、ルワンダの人たちとともに植民地の問題を問題化する。これが、ポストコロニアル批評とは違う、インペリアリズムを内側から植民地の人たちとともに問題化していく、ポストインペリアルのあり方だと鴻さんは考えます。
■ 植民地主義と民主主義、そして社会主義
ロシア革命のあった1917年の前後、1915-20年の間には、象徴派、未来派、シュールレアリズムといった20世紀の特質をなす様々な芸術が生まれました。20世紀がどういう時代になるのかがこの時期に決定づけられたとも言えます。それから100年を経た2018年現在もまた、21世紀がどういう時代となるのかを決定づける時ではないのか? 同じようなことが試されている歴史的瞬間にあるのではないかと鴻さんは考えます。
しかし、残念ながら、2017年のロシア革命100周年、そして、2018年の68年50周年でも、それを巡る言説はパッとしませんでした。例えば、ロシア革命100周年において、2月革命は良かったけれど、10月暴力革命は良くなかった、あれほどの被害を出してしまったことは失敗であり、なければ良かったといった言説が多勢でした。
鴻さんは、こうした状況を20世紀の終わりに、演出家がタデウシュ・カントールは、「マーケットのテロルはコミュニズムのテロルより悪質なものになるに違いない」という言葉において予測していたと指摘します。
鴻さんが、91年の春にカントールの遺作を観るためにポーランド・クラクフを訪れたとき、クラクフの文化を金融資本主義からいかにして守るかをテーマにした国際会議が開かれていました。そこで、鴻さんがハッとさせられたことは、ヨーロッパの偉大なものを3つのうちの一つが「社会主義の理念」であると、閉会式のときにその議長によって語られたことでした。
ロシア革命100年では、社会主義は何であったのかが問われませんでした。21世紀は本当の意味で社会主義の理念が消えるときなのか? 本当の意味で考え抜かれて、社会主義の理念とはこういうものであったと語れる時代になるのか? 21世紀に人類が存続するかどうかとかかわる大きな問題だと鴻さんは捉えています。
■ ポストインペリアルシアターと古代ギリシア演劇
鴻さんは、ポストインペリアルシアターの起源として、ギリシア悲劇を挙げ、その歴史的経緯について仮説を説きました。
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社会主義の理念が示そうとしたものは、近代的な共同体の理念でした。アガンベンの好きな言葉で、ビオス・ポリティコスという言葉があり、それは、直訳すると、ポリティカル・ライフ、ポリス的な生き方という意味です。ポリス的な生き方とは民主主義を確立すること、しかし、実際には奴隷制度もあり、古代ギリシアの民主主義は、不完全な形で作られつつありました。だから、その欠陥を克服するためにも演劇を必要とし、演劇とともにそれを構想したのです。
それは、おおよそ前800-700年の間は、ホメーロスたちの叙事詩によって試みられ、前550-400年の間は、悲劇によって、前450-380年の間は、喜劇によって行われました。ビオスポリティコス(ポリス的な生)をどのようにしたら作り出せるのかという基盤を、���事詩によって予感させ、そして、具体化を悲劇によって展開させ、そして、出来上がったものがうまくいかなかったという反省をコメディアによって行ったのです。
民主主義の実現ために、なんとかしなければならないと思っていた。けれどもどうしたらよいかわからなかった。それをどうにかしなければならないということをずっと考えている人たちがいて、近代世界の登場とともにやっと具体化して、理念として提示されたものの一つが 社会主義の理念でした。
そして、その社会主義の具体的な遂行として、曲がりなりにも初めは成功したとされているのがロシア革命でした。けれども、実際にはスターリン主義になったり、うまくいきませんでした。それは、コメディアの精神によって批判されなければいけないけれど、それを忘却するような形で展開してしまった。
21世紀に社会主義の理念というものがどういう形態として有効なのか、それを演劇とともに考えようとする探求の場としなければ、ギリシア以来の演劇の意味がなくなってしまうと鴻さんは訴えます。
■ 古代から現代へ、植民地主義以降を考える
36年ーこれは、日本が朝鮮半島を併合した1910年から、日本の敗戦により朝鮮が独立する1945年間での月日です。36年も植民地として統治していたことすら忘れていることは大きな問題であるけれども、植民地が終わった後どうなっているのかということにも関心を寄せるべきだと鴻さんは言います。
南アフリカのアパルトヘイトは、1994年に制度としては終わりましたが、ポストアパルトヘイトという問題が浮上しました。
鴻さんは、南アフリカの訪問で、アパルトヘイト以降、黒人の復讐の対象となったPoor White(貧しい白人)の問題を描いたヤエール・ハーバーの『モルーラ(灰)』を観ました。ヤエール・ハーバーは、ドイツナチスから逃れて南アフリカに移住したユダヤ人の子供です。南アフリカにおいて、非黒人であり、白人のなかのマイノリティーでもあるユダヤ人は微妙な立場です。この作品では、アイスキュロスのギリシア悲劇『オレステイア3部作』を素材に、真実和解委員会の裁判形式を使って、復讐を遂げるか、それとも、赦しと和解は可能なのか?を問いかけました。加害者は自分のしたことを正直に喋り、自分のしたことを再現する。被害者の方も自分が何をされたのか、��いうことをしゃべり、相手がやったことを認めることによって許せる場合には許そう。実際にそのことで、過去を水に流すことはできないけれど、復讐はやめよう。それが、ネルソン・マンデラたちが考え出したことであり、それを実際の演劇で、ギリシア悲劇をそのまま使いながら真実和解委員会と合わせて、実際に南アフリカで行われていた虐待や虐殺の形式を踏襲しながら舞台化したのです。
2002年には、こうした和解への努力が行われていました。それがうまくいっているかはわからないけれど、努力することに意義があると思われていた。そういうことをすることにある力があると思われていた。94年から7-8年経った時の解決を探る、そういうような要の所に演劇上演というものがあったと鴻さんは振り返ります。
けれども、文献によると2012年8月16日にマリカーナ鉱山虐殺事件が起こります。マリカーナというイギリスの会社のプラチナ鉱山で、白人の警察が暴力的に黒人労働者のストライキを鎮圧しました。発砲で労働者34名が死亡、70名以上が負傷し、この事件で黒人の労働者の怒りが頂点に達し、同様のストライキが全国に飛び火しました。
この事件で、ポストアパルトヘイトの抱える問題をどうにかしなければいけないという認識は広がったが、どうしたらよいかはわからない。ある種、解決に向かっていたことが、どうにもならないというような錯乱。ある種の闇の中に、南アフリカが入っていきつつありました。
この事件はまた、2010年南アフリカのサッカーのW杯幻想と対になっているとも分析されています。W杯は、南アフリカは良くなったという幻想を掻き立てるために開催されていました。しかし、それによって隠せなかったものがあったのです。
19世紀、20世紀の200年くらいの間に作られた植民地支配の仕組みがあり、真実和解委員会のようなものによって、それを乗り越えるような努力がなされました。しかし、そう簡単にはいかないような歴史の重みが、そこにはありました。2000年前後の真実和解委員会の取り組みは、2012年の事件によって、やはり無駄であったということになるのでしょうか?
ホメーロスの叙事詩は紀元前750年頃に成立しました。紀元前720-700年頃にはギリシア語のアルファベット文字がギリシア本土ばかりでなく、イタリアのエトルリア辺りまで広く使われるようになり、ホメーロスの叙事詩は早ければその時期に初めて文字として記録されたと考えられています。その頃にホメーロスを歌っていたのがホメロダイと言われる人たちで、ギリシア一帯のイオニアやピュロスやクレタ島を旅しながら、ギリシアの商人や船乗り、鍛冶屋、大工などの技術者と言われる人たちに向けて歌っていました。それぞれの地域には、1万人程度の商人、船乗りや技術者たちのコミュニテイが存在していました。アンドレ・ボナールは、ホメーロスの叙事詩は、そうした人たちが聞いて喜ぶように、トロイア戦争の話を作り変えているだろうと書いています。
そうしたコミュニティ中心にアテナイが浮上してきた時に、ギリシア悲劇が出現してきました。最初はホメーロスを聞きながら、戦いの論理、商いの論理、物を作る論理を磨いていた人たちが、自分たちの社会を考えた時、例えば、婚姻制度について考えます。ミケーネ社会のままで良いのか? 母と関係を持って良いのか? 復讐はどうするのか? 殺人に対して、1人殺したならば、死刑ではなく、例えば、6年の懲役といった制度は、これはこの時代にできました。譲歩と許し、その基準を考えるということです。
例えば、アンティゴネーは、兄を葬りたい。しかし、兄は敵軍の将軍である。その当時、敵の大将の死体を相手に渡して葬ることは、降伏を意味しました。だから、埋葬をするわけにはいかない。この作品は、そうした戦争の約束事を変えたら良いじゃないですか、と提案し、一方で、愚かなクレオーンの姿を描くことで、ここに出てくる支配者の様な形では統治ができないということを伝えました。支配者を愚弄する作品ではあったけれど、そうした優れた点が認められ、この作品を上演した直後にソフォクレスが将軍に任命されました。
ホメーロスは、帝国ではなく小国であったトロイアを、あたかも巨大帝国のように描いて、ギリシアなどの小国が連合して勝った物語を歌い上げました。さらに、その小国の共同体の論理というようなものを作り上げていこうとする時に、どうしたら良いのかという事例を、ミケーネ社会の伝説を素材にして、現代劇としてソフォクレスが書いたのだと鴻さんは説明します。
20世紀の終わり、カントールは死の直前に、マーケットのテロルに対して戦う方法というのを考えるのが演劇だとつぶやきました。その時に、ヨーロッパ会議の議長がヨーロッパの偉大なものとして、社会主義の理念を挙げたことは連動していると鴻さんは言います。
ポストアパルトヘイトにおいて、真実和解員会は無駄ではなかった。それは一つの可能性であり、希望であった。しかし、真実和解委員会の機能は崩壊しているようである。とはいえ、そうならば、やめればよかったということではない。
この言説は、ロシア革命100周年の言説と重なります。そうではない、じゃあどうしようか? その視点が、ロシア革命100周年では語られなかった。68年50周年に関しても、問題をそのように提示されなければならない。そして、このように、20世紀を振り返りつつ、21世紀の課題を解決しようとするときに、ギリシアの歴史が参照例になると鴻さんは主張するのです。
古代ギリシャは小さな空間ではない。エジプトのテーバイとオイディプスの王国テーバイはなぜ同じ名前なのか? なぜ、エジプトの守り神であるスフィンクスが、なぞかけでギリシアの人々を困らせるのか? それは、エジプトが周辺の弱小共同体を植民地化し、苦しませていたことの隠喩と考えられます。その植民地とされているテーバイはスフィンクスの謎を解くことで救われます。しかし、またオイディプスの問題によっておかしくなっていきます。そこで、親族関係の問題が問われ、民主制アテナイの親族関係が成立していきました。
こうした関係構造の中に、20世紀と21世紀を位置付ける。ポストアパルトヘイトと真実和解員会を位置付ける。解決の道を逆戻りするような2012年の虐殺事件を乗り越えていくためにはどうしたら良いのか。鴻さんは、そうしたことをこれからも考えていきたいと言います。 参考文献 1.『舞台芸術』第4号、特集「歴史と記憶」、(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター発行、発売月曜社、2003年) 2.スコット・ランキン『ナパジ・ナパジ』(『動乱と演劇:紛争地帯から生まれた演劇 その3』所収、2012年) 3.阿部利洋『紛争後社会と向き合う:南アフリカ真実和解委員会』(京都大学学術出版界、2007年) 文/椙山由香
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