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tinndaisou ¡ 4 years
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#9 ビョン・ドユン
職業 アパレル販売員 1996年韓国光州生まれ。
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"元々イラストレーターになりたかった。元々留学なんか考えてもなかった"
幼い頃からアニメを見るのが大好きだったという彼女。そんな彼女が興味をもったのは、アニメーションの方ではなく、"イラスト"の方だった。地元光州(クァンジュ)の高校卒業後、イラストレーターを志し、江南(カンナム)の芸術大学へ進んだ。
芸大生としての日々を過ごしていたのだが、ある日突然日本にいる叔母から『日本に来てやれば?』と連絡がきた。
「親にも『いい機会だから行きなよ』ってすごい勧められたんですけど、最初はまったくいきたいと思わなかった。慣れるの難しいし、適応なんかできるわけない、皆行ってもぜったい帰ってくるし、お金の無駄って、留学に対してネガティブな考えしかなかったです。
イラストを学ぶ中で、結局は書いたイラストを服にやりたいって思いはどこかにあって。でも服のことなんてなんにも知らない。昔から古着が好きで、韓国で買ったほとんどの古着のタグに日本語が書いてあったんです。自分のファッションは基本古着で、韓国では理解してもらえてなくて、もっと自由に服を着たいのもあったし、他人にチラチラみられるよりこれが普通になりたかった。
韓国がいっているおしゃれは、普通っていう枠が一個あって、そのカテゴリーの中でそれを綺麗に着ること。スタイルがただただ良くてみたいなスタイルまかせがあんまり好きじゃなかったですね。周りから変わってるって言われる意味もわからなかったです。それでイラストを学びにいくためなら嫌だけど、ファッション勉強だったら日本アリかもって。でも親にはアニメ学びに行くって言って日本にきました(笑)。」
こうしてイラストの道からファッションへ大きく舵を切ることとなったのが19歳の冬。
"あの子は頑張って親に買ってもらう 自分は頑張ってゴミを拾う"
そんな彼女が古着を好きになったきっかけは小学校の時だ。同じクラスで同じアパートだった友達から感化されたという。
「その時まだ小学2年とかそのくらいなんだけど、当時からその子はすごいおしゃれで。それを隣でずっと見てて"自分もおしゃれしたい"って思うようになりました。だけど、うちの親がとにかくケチで。小5とかになると周りはナイキとか、普通のバックになってきだすんですけど、自分は小1で買ってもらったピンクのキャラクターのバックのまま、それがほんとに嫌で(笑)。それで安いものならってことで古着。古着っていっても処分するゴミみたいなタダでもらえるやつ。その中から自分の着たい物を探して、選んでました。その子の隣にいたから自分もおしゃれになりたくて服が好きになったけど、入る道は違ったみたい(笑)」
周囲のように買ってもらえない不便の中から知恵をしぼりだし、行き着いた先が古着。冷蔵庫のあるものだけで、旦那の胃袋を満足させる世の主婦のように、"ゴミを組み合わせ次第でいかにおしゃれにコーデするか"、現在の彼女の"ダル着"ファッションはまさしくここで確立された。と同時に、そのスタイルこそ周囲のファッションから離れる元となったそうだ。
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いきなり決定した日本行き。叔母の家のあった川崎の日本語学校へ通い、1年3ヶ月過ごした後文化装飾学院に入学。
「日本にきた時、本屋で『装苑』ていう雑誌をチラッと見てて、この雑誌いいなって思ってたんです。その後たまたまいった文化のオープンキャンパスで、配布された資料の中にその『装苑』が入ってって、"これ文化のなんだ!学校がこんなおしゃれな雑誌だすんだ"って。それで行きたくなりました。日本にきた時は、とりあえず日本語!しか考えてなかったから、目当ての学校があったわけでもないし、文化が有名だとかもまったく知らなかったです。」
かくして、念願のファッションの道のスタートラインに立った彼女。念願だけあって1、2年は服の製作に没頭、学校は無遅刻無欠席とストイック。
そのストイックさは、サボる友達にも説教するほどのものだった。しかし、2年の途中からそんな生活が一変してガラリと変わっていった。
「当時の彼氏と出会ってから、もう休みまくりで(笑)1週間の内3回は休むか遅刻してましたね。自分が叱った友達の中でも、彼氏出来て学校に来なくなった子も居て、その子に『彼氏が全てじゃないから、休む言い訳にならない』て言ってたくらいなのに、自分がまったくいっしょの事をやってました(笑)いままで学業が軸だったのに、恋愛が軸になってました。」
1つ上の当時の彼氏が一足先に卒業。彼氏との時間はもちろん減っていったが、"学校に行かない"のは治らないまま。さらに、彼氏と別れたあともそんな状態はずっと続いた。しかし、この時期こそ彼女のターニングポイントなのだ。
「毎日遊んでました。クラブいったり、飲んだりって要は荒れてました(笑)。ただ、この時期にこれまでの行動範囲が広がって、色んな場に行くようになって。色んなモノを見たり、他分野の人と知り合ったり。夜遊びして家事を手伝わないのが続き、叔母が怒って"出て行け"って言われて、それに反抗して勢いで一人暮らしを始めたのもこの時で、とにかく新しい経験だらけでした。」
就活もせずに遊び呆ける生活に終止符を打ったのは、焦り。さすがにやばいってことで学校の求人表を見に。そこで見たひとつの求人"宇宙人募集"に惹かれた。
「先生に聞いたら、アートもインテリアもある会社くらいしか言われなかったんですけど、なによりその宇宙人募集がおもしろくて。それを一人の友達に話したら、『そこ今うちが1番行きたいところだよ』って言われて、別のアート好きの友達にも話し、ノリみたいな感じで3人で最初話を聞きにいきました。」
その会社とは、海外のファッションを中心に雑貨、インテリア、アートを幅広く手掛けるアシュペーフランス。この春そこにデザイナーとしてではなく、接客他総合職として就職した。服を作ることを夢見て日本にきた彼女がなぜ接客を選んだのだろうか。
「3年生になった時点で服を作ることに興味を失いました。製作前に先生とデザイン相談で話すんだけど、これはこうで、ここはこんな感じの服なんですよって、作る前からすごい楽しかったんですけど…。
それがいつからか"自分が作りたい物を作るため"じゃなくて"課題をやるため"、"早く終わらせないと卒業できないから"ていう風になってきて。そんな気持ちで作っちゃったから、3年生の時作った作品全部嫌いだし、そっからもう楽しくなくなっちゃいました。そんな時ちょうど始めてたバイト「ラグタグ」で接客向いてるかもって思ったんです。今はまったく向いてないと思ってるんですけど(笑)ラグタグで接客する内に、販売員って簡単なことじゃないんだ、ブランドや服の知識をちゃんと伝えることはすごいんだって思いました。自分が勧めた服をお客さんが買ってくれた時はもう幸せで、その瞬間を見れるのはすごい素敵だなって。だから今は服作りは一旦置いといて、次は服の魅力を伝えれるようになりたいですね。」
日本にきて今年で5年目になる。韓国に戻る気はないという彼女が今後日本でしたいことはなんなのだろうか。
「昔から変わらずあるのが、やっぱり古着が好きだから、古着屋。プラスリメイク屋みたいな、カスタムやオーダーもできるよう工房もあるような店をやりたいです。ただ、今は楽しめる場所。ベースはもちろん古着屋なんだけど、夜はバーやったり、DJとか音楽とか色々できるそんな人が集まる空間をつくりたいです。」
ターニングポイントと話したあの時期に自身が身をおいていた空間。それを今度は、自らが他の誰かに与えようとしていた。
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余談
彼女の、高いの基準は2500円
ブックオフで3~4時間ずっと服を見ては試着を繰り返していたほどの堅実古着オタクだ。
photo: Tatsuya Kirita   text: Yuta Watanabe
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#8 野稲 秀
職業 旅人 のいねしゅう 1996年山口生まれ。
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"旅に没頭。とにかく'経験'に注ぎ込んだ学生時代"
小学4年からおよそ10年続けていたサッカーを大学1年の秋、この先自分がプロになることはないという見えすぎた未来から辞めた。
サッカーしかやってこなかった彼が一息つくことなくすぐに手を伸ばしたものは"旅"だった。
「中学生の頃から見ていた"YOUは何しに日本へ"が大好きで、ぼんやりと"海外"というものへの好奇心はありましたね。いままでサッカーという狭い枠の中だけで生きてきたので、もっと広い世界を見たいと思い、それで自ずと旅が頭によぎりました。」
その年の冬、友人とバックパッカーとして訪れた旅人の聖地タイ・カオサンロード。そこで目の当たりにした世界中から集う人々から彼の世界観が大きく変わることになった。
「自分が今までどれだけ狭い世界で生きていたか、自分の知らないだけでこんな世界もあるのかと痛感しましたね。それから"英語"が話せたらいまよりもっと価値観が広がると思い、もともと関心のあった"英語"を身を入れて勉強するようになりました。私生活も大きく変化し、"なにかしたい"そんな衝動からDIYやブログなど新しいことにあれやこれや手をつけ、服を買ったりとかの物質的な事より色んな場所に行ったり、誰かとお酒を飲んで話したりと経験にお金を使うようになりましたね。」
彼が4年間でまわった国は、24カ国。そんな見たことない世界、新しいことに常に飢えていた。
「12月の真冬に河川敷で24時間キャンプするって企画をして、普通にするだけじゃ面白くないんでアプリ使って集まった資金だけで物を買おうってなったんですよ。結果集まった資金は900円。内600円は一緒にやった友達のお母さんで(笑)、まあその時友達残して僕は途中でリタイヤしたんですけど(笑)他北海道で野宿したり、チーム対抗のヒッチハイクで富士山まで競争してそのまま登山とか。今じゃできない学生故の身を削った過酷なバカげたことばっかしてましたね(笑)。」
"見える未来はおもしろくない"
そんな彼がやはり普通に就職なんてすることはなく、卒業後Working Holidayでオーストラリアへ。それはまたしても見えすぎた未来からきたものだった。
「大学を出たら当たり前に就職する。それが普通みたいな日本の文化に違和感を持つようになっていました。そのいわゆる敷かれたレールにのる自分が嫌で、日本での就職は1mmも考えていなかったんですけど、海外ならアリかなって。それで大学4年の夏にカンボジアにインターンシップに参加したところ、案外仕事がめちゃめちゃできて、"あ、おれ企業に入っても絶対やっていける"ていう変に自信がついたんですよ(笑)そうなると、企業にはいった未来がなんとなく想像できて、そこに対しておもしろみがないと思ってしまいました。社会経験がない自分がいうものほんと失礼なんですが(笑)。
なので、ワーホリも就職しない別の選択し中の一つにすぎず、周囲にはゲストハウスを学びにとか、英語をもっと身につけるって言ったいたんですが、実はこれといった理由はなく、"これがしたい"からだけで行きました(笑)」
出発前の東京で遊び呆け、残金5万でオーストラリア・メルボルンの地に足をつけた。旅で学んだなんとかなる精神も打ち砕けるような大きく冷たい壁が彼を待ち受けていた。
「メルボルンに着いて市街でさっそく働き口を探したんですが、1週間が過ぎてもまったく見つからなくて仕方なく市街地をでて、求人のある田舎でファーム生活をすることにしました。
もともとセカンドビザをとるに至って、するつもりではいたんですが、まさかすぐすることになるなんて思ってなかったですね(笑)。しかしこのファームがまあ稼げなくて。いくつか内容はあるんですが、その時期は苗を植える仕事で、1本0.04$(1$=80$換算で日本円にして約4円)で、週約6000本くらい植えるんで、安給料ですよ。なんとかギリギリ生活はできるんです。でも雨の日だと仕事は中止で、酷い時なんか2週間で2回。残金は1000円を切るところまでいったこともありました(笑)
そんな異国の地での超極貧からの脱却は3人の友人との出会い。決断は"旅"で培ったハングリー精神と己の直感だった。
「貧困生活が1ヶ月が過ぎてさすがにヤバさを感じ出した時に、同世代の韓国人3人がはいってきたんですよ。それから2週間が過ぎた頃、ここでの仕事のなさに1人が「メルボルンに向けて明日ここをでよう」って。その話に自分も乗っかりました。完全に勢いでした(笑)1ヶ月前仕事が見つからなかったメルボルンにまた戻るのは大丈夫なのかという不安ありましたよ(笑)ただ"この環境を変えよう""どうにかなる"それに賭けました。」
この決断が功を奏し、見事メルボルンでの仕事を勝ち取り晴れて極貧から脱却した。その彼はいままさに人生何度目かのターニングポイントの最中にいるという。
「失恋したんです(笑)メルボルンで出会った韓国人の女性と。最近まで別のファームで島で生活していたんですけど、周りは海と山の絵に書いたような大自然に固まれたとこで。そんな島でふと「自分って何者なんだろう」って自問自答をし、「自分は何で存在しているのか」考えるようになりました。きっと気持ちがブルーになってたんでしょうね(笑)でもこの時"自分"というものをひたすら考えて、見つめ直した時間で過去の自分とか自分を取り囲う友達であったり、なんだろう"人"との関係を再確認できました。そういった意味でラブアンドピースがやっぱり1番。今そこの形成がされている途中なのかなと思います。」
そう、言葉を選び、より近い言語化しようとゆっくり慎重に喋る様子から彼自身も上手くいい表せない何か大きな変化が彼の中で起こっているのだろう。
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(上/現在17万円で購入した中古の四駆を相棒に、オーストラリア全土を周っているそうだ。下/いかにも潮風を浴びているかに見えるが、この瞬間実は無風だという。)
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余談
ちなみに大学の途中で辞めるまで本気で打ち込んでいたサッカーのポジションはゴールキーパー。あの選��権にも出場していたほどの実力者だ。しかし、直前の試合の凡ミスから大会はスタンド応援だったという苦い思い出も。
photo: Tatsuya Kirita   text: Yuta Watanabe
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#7 仙波 好基
職業 役者 せんば よしき 1996年愛媛生まれ。
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”サラリーマンからアクターへ。そのきっかけは紛れもない"病気"からだった”
2019年春。新卒で某大手会社の元、営業マンとして上京した。大都会東京という華やかな街での仕事に心踊っていた。
「東京の高いビルがズラーっと立ち並んでいるんですよ。その間をスーツ着た自分が颯爽と歩く。おれカッコええなて(笑)ついこの間まで田舎にいたので、その自分がもう別世界にいるみたいな感覚でした(笑)。会社終わりは、上司に連れられて新橋で飲んだり、銀座の高級キャバクラにいったり、ドラマでみたいた現実世界にしばらく高揚してましたね。」
田舎者の誰しもが憧れている"東京"はすこし言い過ぎかもしれないが、彼はなぜ首都東京でサラリーマンをすることになったのだろうか。
「最初はアパレルで就職しようと思ってました。地元の行きつけで仲良くして頂いているセレクトショップていう限定なんですけど(笑)それで、店長に意思を伝えたら「とりあえず就活はしろ」て言われ、親にも就活せずにそこにいくなら大学に行かせた意味がないってありきたりな言葉で反対されました(笑)
じゃあ経済大学なんだからと方向転換した金融系は全落ち、地元で1番大きい会社といういかにも学生らしい理由のみで受けたそこにラッキーで受かる。
「地元か都市ならどこでも良かったです。でも全国どこに配属されるかわからない。そこで都市にしかない部署に希望を出しました。その年の新入社員に、その部署への配属はなかったんですけど、熱意を伝えた結果異例ながらその部署へ入れてもらえることになったんです。それがたまたま東京になったってだけです。」
順風満帆なサラリーマンライフを思い描いたが、社会の壁はそう低くなかった。少ない部署の新卒1年目。当然ながら覚えることは山積みで、次から次へと新しいことを教わる毎日。部署の社員が少ないことから一人立ちは早く、3ヶ月経っても自身の力がついていないことへの不甲斐なさや焦りが徐々に積もっていった。そんな時先輩2人が辞め、さらに仕事量はいっそう増えた。
できない苛立ちから自分で自分をどんどん追い込むようになった。
「9月の記憶がないんです。でもその月の売り上げはトップで。普通そんな売り上げていたら満足感とか達成感みたいなのがあると思うんですけど、それがまったくなくて、どこに行ったとか、だれとなにを喋ったとかも全部抜けていました。その頃からなにやっても上手くいかない物事をマイナスな方に考えるようになっていて、現場のちょっとしたミスで上司に泣きながら電話したり。「あれ、おれってこんな泣くっけって(笑)」次第に自分の違和感に気づくようになりました。ただこの時はまだまさか自分がて感じで、鬱だとか精神病なんてのは考えてもなかったですね。」
仕事量は変わらず、朝から晩まで。そんな生活が続いた11月のある朝急に自宅でもどしたという。体に異変がでてきた中、現場の待ち時間でふと頭に��かんだ"鬱"がきっかけで心療内科へむかった。告げられたのは"適応障害"。
「正直ホッとしましたね。それまで原因がわかってなかった分それが分かったていうので少し救われました。でもすぐに"おれ障害者か"っていうのがのし掛かかってきて。診察後すぐにお世話になっている気さくなお客さんとの時間で、病気のことを打ち明けたんですけど、それをいつも通り笑って聞いてくださって。それで病気を重く受け止めずに済みました。翌日すぐに診断書をもって上司のもとにいって、休職することになったんですが、この時も30分以上ボロボロ泣いてました(笑)。その2週間不眠症で毎日1時間くらいしか寝れてなかったので、やっと休めるていう解放感しかなかったです。ただこの時は会社を辞めるなんかまったく考えてなく、症状が落ち着いたらすぐに復帰する気でした。」
大学を中退して俳優を志すと東京へ出た学生時代の友人を側でみてきて、"俳優"というものへの憧れ、好奇心はうっすらとあり、休職期間にその思いは膨れ上がったという。"やりたいことをやりたい"でも経済面や親へ迷惑の心配から"会社は辞めたくない"の葛藤。なかなか一歩踏み出せないでいた。そんな心境の中、息抜きで大学4年間を過ごした広島へ帰省。大学時代の友人からの一言が決めてとなった。
「ひさびさに大学の頃の仲のいいやつらで集まって飲むことになって、そこで冗談っぽく"役者なるわ"って言ったんです。そしたら1人の友達が"おまえは応援できん"まだ会社も辞めきれてない中途半端な気持ちのまま、なあなあでやるなら仮に有名になっても応援はせん"て。ポロッと言った言葉をすごく真剣に受け止めてくれて。この言葉がすごくささり、この時"じゃあ会社辞めるわ"って返して、この瞬間から本気で俳優を目指そうと覚悟しました。」
現在事務所に所属しながら、レッスンとアルバイトを繰り返す駆け出し俳優さながらの生活。エキストラではあるが、テレビの現場にいく機会も増え、第一線で活躍する俳優の"生の芝居"を目の前に、役者として歩みはじめた日々を奮起しているという。
「小さい事務所なんですけど、とりあえず今の事務所でトップになる。トップになってからが始まりだと思っています。実際会社を辞めて親にレッスン代を借りてまでやりたいことをやっているので中途半端にはやれないし。絶対失敗できないという気持ちをモチベーションに変えています。」
サラリーマン時代に自身を追い込んだ"プレッシャー"、それを今、役者という別のステージで自分自身に与えて鼓舞していた。
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余談
大学へは野球推薦で入学したが、高校時代の理不尽で嫌いだった監督へのちっちゃい反発で硬式野球部には入らず軟式野球部に入ったという可愛らしいエピソードも。
photo: Tatsuya Kirita   text: Yuta Watanabe
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#6 中澤樹生
職業 移動式販売『growth dogs』なかざわたつき 1996年青森生まれ。
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"酔っ払って入った店が決定打となった"
今年7月ホットドックのキッチンカー『growth dogs』が都内に登場する。その立役者となる人物が彼だ。
高校までを地元青森で過ごし、暇さえあれば絵を描いていたという少年時代。芸大に入って絵を勉強するという選択肢などはなく、あくまで趣味の範囲。
大学進学のタイミングで上京。東海大学の電子電気工学学科に進んだ。
「完全に親の言われるがままですね(笑)ただ単に、大学はいっとけよーて親に言われて。父が電気系の仕事をしてたんですけど、それで『東海大学はそういうのすごいから、そこ行っとけ』、『はい』みたいな(笑)」
大学時代はこれといったことはなく毎日ダラダラ過ごしていたそうだが、絵を描くことは続いていた。しかし、この学生時代にみたとある映画こそ彼が現在キッチンカーをするきっかけなのだ。
「大学2年生の時かな、『シェフ~三ツ星フードトラック始めました~』を見たんです。シェフは料理長が店のオーナーと対立してキッチンカーはじめて、んで成功して、店を持つって話で。この時、キッチンカーやりたい、こういう生き方いいな、何か誰かに縛られるより、好きなことしたいなって思いました。」
こうして、なんとなく自身の目標は決まったのだが、大学卒業後はとりあえず就職。カメラでお馴染みのCanonに。会社員としての働いている中で、やはりキッチンカーへの思いを悶々とさせた日々を過ごしていた。
そんな生活も10ヶ月続いたのち今年の1月末に退社。ずっとやりたい思いがあるが、中々一歩踏み出しきれないでいた彼が辞めるに至った経緯とはなにか。
「その日地元の友達と飲んでいたんですよ。3軒目くらいかな、酔っ払ってたまたま入った店で、ここいいな、壁にアートもあっておもしろそう、刺激ありそうだなって。その晩のまだ酒の抜けてないうちにすぐそのお店のアカウントにDMを送りました(笑)それでさっそく面接することになって。これもまたすぐ働くことが決まって。辞めるときなにか1つ後押しになるようなきっかけが欲しかったんで、これで思い切って辞めましたね。」
この店こそ現在も彼が勤める"中目黒lounge"。でも、入ってわずか数ヶ月でキッチンカーを形にするにはずいぶんとスピーディな展開ではないか。
「間違えなくこの店にはいったからこそですね。ここの店長に出会ってなかったら、だいぶ時間はかかっていたと思います。面接のタイミングで、店長にホットドックのキッチンカーやりたいですよねって話したんです。そしたら、店長が今ケータリングの仕事が結構入ってきてるんだけど、俺忙しくてできないから、やってくれる?って。それでやりますってかんじで、入った瞬間からまずクラブ中心にケータリングをずっとやらせて貰うことになって、その先に今のキッチンカーってかんじです。」
他にもいままで副業というよりかは趣味で続けてた絵も、店長が"やったら、やったら"ていう風に言ってくれて、なおかつ仕事もくれてます。」
店長バックアップの元、自身含め大学の友人2人を加えた3人での活動。この2人も元々は会社員だという。そんな2人の加入の仕方もまさに'類は友を呼ぶ'にふさわしい。
「もう普通に、"やる?"って聞いたら"やるー!"て感じでした(笑)」
この2人は同じ会社で、言うならば超大手企業。そのレールからこんなにもポップに外れるってんだから大したものだ。
ここで、1つちょっとした疑問が浮かびあがった。映画シェフでのフードはキューバサンドだが、なぜ彼はホットドックなんだろうか。
「ホットドックが好きだからっていうのもあるんですけど。たどれば、仙台にあるホットドック屋さんがあって、そこの店主の人と共通の友達がいるんです。それで、その人を見てて、'あぁ、やりたいな'ていうのはシェフを見る前から漠然と思っていました。」
早々にキッチンカーが実現することになったが、もちろんその後の展望も、もうすでにあるそうだ。
「キッチンカーにアパレル置こうかなと、あと絵もそうだし、2人の内1人がネオン管アート、もう1人がマーベリングをやってて、それぞれ3人合わせたものをやろっかってなってます。それと、ゆくゆくは船上コックをやりたいですね。お台場とか横浜の沿岸沿いにカフェアンドバーを出す、それが飲食の最終目標です。」
キッチンカー自体、現在も多く目にするようになっているが、既存とはまた異なるアートをミックスさせたハイブリッドなキッチンカーがこれから都内に姿を表す日がすぐそこまで迫っていた。
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余談
彼の描く絵は、モンスターチックな架空のキャラクターで、ゆるさもありとてもキャッチーな仕上がりだ。
なぜ絵を描き始めたかの質問に対して、"気づいたらペンを持ってた"は少々クサイがシビれた。
photo: Tatsuya Kirita   text: Yuta Watanabe
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#5 佐藤 萌
職業 バイヤー さとうもえ 1995年北海道生まれ。
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幼少期、兄弟がいれば上のお下がり、すぐに成長するからと安価な服を親が買ってくる、それは決まってセンスが良いとは言えないもので。どちらにせよ子供の服ってのは、無条件に決められることが一般的だ。そんなことに不満があった子達は少なくないだろう。彼女もその1人だ。
「幼稚園に行く時、毎日お母さんに着ていく服まで決められるのがすごい嫌でした。自分でコレとコレとコレが着たいのがあるのに。小学校に上がっても"安いからコレでいいでしょ"って。」
やっと自分で欲しい服を買えるようになったのは、中学校の時。お小遣いで少しずつ貯めたお金で服屋に足を運んでいた。
「高校の時『mer(メル)』て雑誌を読んでて、当時'森ガール'が流行ってたんです。私自身森ガールがめちゃめちゃ好きな訳じゃなかったけど、若干民族系カワイイって思って。でもそこまでがっつりじゃなくていい、プラス自分要素を入れるとなると古着かなあと。それから古着屋に行くようになりましたね。」
服に対しての興味が���咲きの自分が恥ずかしくなってくるほどに、早い段階からの服への目覚め。きっとこのまま服飾の学校にいったのだろうと安易に予想していたのだが、彼女が高校を卒業して進学した先はなんとホテルマン専門学校だった。
「服飾の専門学校に行くかどうか迷ったんですけど。高校の時、焼肉屋とホテルでバイトしていて、その時、サービスの最高峰ってホテルだなって思ったんです。格式もしっかりしてる中で、言葉遣いはもちろん身なりもちゃんとしてて。それこそ英語を喋ったりとか国際的な面もある。なによりホテル一丸となって、お客様を喜ばせているっていうところでホテルマンカッコイイなって。それで地元の札幌のホテルマンになるための専門学校に行きました。とにかくその時は接客がしたくて、極めたかったんですよ。」
2年間の専門での学業を終えたタイミングで就職先の六本木のホテルに勤めるべく、二十歳のとき上京。
「東京でのオリンピック開催が決まっていて、海外からのお客様と流ちょうに会話する自分を想像したら、かっけくね、それ。って(笑)お母さんは上京に反対してて、地元でもいいんじゃないって言われてたんですけど、一生に一度だし、違ったら帰ればいいやのスタンスで希望を東京にしました。」
六本木ミッドタウンという大都会での仕事、これぞ東京といわんばかりに芸能人や著名人の来店も珍しくなかった。店内のキャパシティも広く、忙しいのは当然だが、もちろんその分やりがいも感じていた。
ところが、ホテルマンとしての生活は上司との人間関係からわずか半年で辞めてしまったそうだ。
「この時付き合ってた彼氏が北海道にいて、もう帰ろっかなて思ったんですけど、あたし何か身につけたかなぁて考えた時に、いや身についてないなって。これで帰って、ほら帰ってきたて思われるのがすごい釈で。じゃあ次、あの時迷ってた服を極めたいって思いました。それなら流行も早くて、古着屋の数も桁違いな東京にいた方いいと思って、残ることにしました。」
若者ばっかりが来る原宿ではなく、昔からあって強そうだということで下北の古着屋でバイトを始めた。ホテルマンを辞めてから古着屋で働くまでのおよそ1年間は当時住んでいた船橋の居酒屋で生計を立てていたという。
こうして古着屋に勤めはじめたのだが、1年半ほど続けた後、ここも辞める。
「服を極めたいって思いはズレてなかったけど、それが古着なのか、正規品なのかっていうところで、んー…て感じで。古着と正規品を扱うショップとでは接客のしかたはまるで違うだろうし、一点物がほとんどの古着とは違った在庫をもつショップで管理とか生地を勉強したいって思うようになりました。」
そこで派遣社員として勤めたのがベイクルーズのSLOBE IENA(スローブ イエナ)。だったのだが、はいりは、やけくそからだと話す。
「青山のsuperA Marketに行った時に、自分の好きなものしかなくて、ココだ!てなりました。人材紹介会社に、まずラグジュアリーとかハイブランドに��い派遣会社に入って、その後スーパーエーに入りたいっていうのを伝えたら、スーパーエーはトゥモローの系列で、そこの熟練者の人たちでも入るのは結構厳しいて言われて。だったら、まずtomorrow landに入って、頑張って移ろうてなったんですけど、その時募集枠が埋まっていて…。それでもうどこでもいいやって思っちゃって(笑)。
その時担当してもらっていた人が昔働いていて、馴染みのあるベイクルーズストアを紹介してもらいました。別に長居もするつもりもないし、アパレル界じゃ給料も良い方でってことで新宿ルミネのスローブに。」
長居は考えてなかったはずのその会社で、半年経ったのち、正社員に。言っている事と裏腹なその行動の理由とは何なのか。
「思っていたとおり接客のアプローチのしかたが違うのでそれに慣れるのは大変だったけど、自分の接客スタイルを見直すことができました。古着屋はラフでガツガツ行かないけど、ここではガツガツいかないと売れないこともある、こんな接客をすればこういう人は買ってくれる、こういう人にはこの接客は合わないんだって。そういうとこをすごい勉強できました。だから、続いた理由は、その接客のおもしろさですね。」
”寄り道したからこそ気づいた ”
約2年間務めたスローブをついにこの春退社した。
「ぶっちゃけ、店の商品の全部が全部めちゃめちゃカワイイと思ってたわけじゃなかったんですよ。店頭に立つ上で、上から下まで自社の商品を着なきゃいけなくて、それが自分の中じゃスーツとか制服みたいな感覚で着てました。もちろん中でもインポートで海外からの自分がカワイイと思う物を着ていてはいたんですけど…。
ふと私服もそっちよりになってしまうのかな、私生活もクローゼットの中も店っぽい服で溢れて、気づいたら大人しくなっているのかな。そう考えるとなんか嫌だなっ思う自分が居ました。前よりずっと古着屋に行くようになってて、やっぱ自分は古着が好きなんだ、人と被らない1点物のヴィンテージが好きなんだって思ったんです。
極められたかってなったら違うんだけど、古着も正規品もひと通りはやったかなって思って。だから古着屋でバイトを始めた時からずっと憧れてた自分の店ってところでいま動いています。」
服を極める道は、まだまだ終わったわけではなかった。きっとこれからがその佳境にはいるんだろう。
「最初はオンラインになるとは思うんですけど、自分の足で海外で買い付けたものに自分の口で届ける。行った私しか分からない、こんな土地で、こんなおばさんの、こういう思いで、みたいなのを服に上乗せして伝えたいですね。
今考えたら、ホテルマンとして働きたかったっていうよりは接客がしたくて、サービスの頂点って何だろうって出した答えがホテルマンなだけで。服に対しての熱量の方が大きかったんだって思います。」
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余談
下北沢での古着屋が、自身の初アパレル業だったそうだ。
memo
現在プレスなどの道具も集めている途中、ウェブサイトの準備を進めているということで、今後の彼女には要チェックだ。
photo: Tatsuya Kirita   text: Yuta Watanabe
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#4 山崎 響
職業 会社員 やまさききょう 1996年広島生まれ。
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きっかけは人それぞれで、ある映画を見てからって人も少なくない。彼も一本の映画がきっかけの1人であることには変わりないのだが、彼の場合ちょっと例外で、特殊だ。
映画好きの父の影響から、幼い頃から親と映画を見るのが日常の当たり前なシーンで。高校3年の時1967年のオーストリア・ウィーンの退廃的な街が舞台の国や宗教が大きく絡んだ作品「愛の嵐」を観たとき、衝撃が走ったという。
「怒りという感情はこんなにも強くて激しいのかと感じました。抑えることのできない感情をもろにだしてしまう人間味のある描写が観ていてすごい面白くて。そういう'人間らしさ'にもっと着目してみてみるようにしたいと思うようになりました。この映画で"自分の欲している感覚"っていうのに気付きました。」
と、のっけからセンセーショナルな言葉が飛び出す。
これを機に、表現や描写の面白さからカルト映画やノーウェーブにどっぷり。18歳の血気盛んな時期に、外で友達と遊ぶことよりも、部屋で興味あることに時間を使うことの方に有意義さを感じていた。
"感覚で生きる"
"4年間のモラトリアムを手に入れるための"今どきの若者の大半がそう考える大学への進学ははなから頭にあったわけではなく、卒業後はすぐに就職するつもりだったという彼。根底にあった自身のコンプレックスへの解消の想いに、父の言葉が後押しになって進学をきめた。
「引きこもりで無駄な事が大嫌いな自分の性格がずっと嫌で、まだ居場所は作れなくても行動力が欲しくて、もっと足掻いてみたくて。そういう自分のコンプレックスの解消したいって想いから知り合いの居ない所に身を投げたくなりました。『軸をもてるようになるから。勉強はしなくてもいいからもうちょっと自分と向き合ってみろ』とそんなに深くまでじゃないですけど、そう父に言われたんです。その言葉もあって進学することにしました。」
大学は祖母の家がある広島市内へ。当時引っ込み思案な性格からすぐに友達ができず、入学したての頃はトイレで昼食を食べるいわゆる'便所飯'をしていたという彼。まあ当然それも時間の経過とともに友達は自然と増えていった。そこでできた友達から彼の感覚は厚みを増していく。
「その頃は、別にだれが何をしてるとかじゃなくて、ただ友達同士が「こういうのもしてみたい」って話す姿を見て、その熱量に押されて自分も気になる事をやろうと思いました。それで、絵を描いてみたり、バイヤーとして活動してみたり、興味のあるところに手をつけるようになっていきました。好きな音楽や映画をファッションに落とし込むようになったのも学生時代で。ある時、『お前が服好きなのは分かるけど、何を着とんかよく分からん』て友達に言われたんです。その時何でこんな格好をしてるんだろうって自分でも分からなくて。ロジカルな頭なのですごく思い悩みました。それまで映画を見る中で、描写は監督の意図であるのは分かっていたんだけど、それは映画の中だけだと思考が固まっていました。
猛烈なパンチラインを受けて、自分の好きな音楽のアーティストや、映画の登場人物はどんな格好をしているのこ、何故その格好なのか、背景はどこにあるのかと観察するようになりました。それからちょっとずつ知識もついて、自分の中のイメージに徐々に落とし込んでいきまし���。これがきっかけでそれまではファッションを周りの為のマナーの様な感覚で捉えていましたが、アイデンティティの一部だと認識するようになりました。」
卒業後、彼が就いたのは、家具業界。ライフスタイルがSNSを通じて大きく表現される昨今で、そこに投稿される写真に映りやすく、また生活の一部である家具に着眼し、その業界へ。これから更に事業展開しようとしているベンチャー企業に身を置き、マーケティング、営業、開発、広報など広くさわっているという。
この春東京で2年目を迎えるそんな彼が上京した理由は"痛み"。
「最先端のものをなるべく最短で触れたかったんです。そこに集まる人の感度は高く、向き合うだけでも間接的な痛みを感じます。傲慢な自分はもっと痛みを知る必要があると感じました。来た理由は、もっと苦しみたかっただけです、『いつか必ずやり返す』とまで思わせるような『怒り』を求めて来ました。父が経営者で情報を凄く大切にする思考の持ち主で、それを見て育って染み付いたものなのか、自分や弟もそんな似たようなとこがありますね。」
環境が人をつくるとはまさしく。彼のいう"感覚"の土台はきっと自身の家庭環境から作られたのだろう。その最先端の地東京での生活を過ごす彼はどんな展望を見据えているのだろうか。
「莫大な情報が転がっている中で、鵜呑みに他人を信じすぎたりするのは良くない。有益な情報を簡単に欲しがるのは楽に経験値が欲しいだけで、そこに『何故』や疑いがなければ騙されるか、持て余すだけだと思っています。あくまでも自分の感性はブラらずに、情報も自分のリズムで取り入れる事。そこのバランス感覚は大切じゃないかなと思っています。
今後の展望とかは、やりたい事や、やってる事は沢山ありますが特に立てていません(笑)やりたい時にやります。ただ自分の欲している感覚をずっと追っていくことに変わりはなく、そこからこれまでの経験や思考を折り混ぜて"自分"を磨いていきたいです。
基本的に誰からも干渉はされたくないですね。もちろんアドバイスとして受け止めますが、自分は自分の感性のまま生きていたい。これはずっと根底にあり続けると思います。」
彼の話したほとんどの言葉にあまり納得のいっていないように見えた。私自身も彼の言う感覚があまり理解できない面もあった。それもそのはず、他人には分かるはずのないものが個々の感覚というもので、それを言葉に置き換えるなんて難しいことだ。
ただ、自分よりすごい人で溢れる中で、自分の感覚を崩さず、ブレずに生きていくことはそんなに簡単なことではない。
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余談
当時小学生がこぞってしていたポケモンを父の許しが出ず買ってもらえなかった彼。少しずつ貯めたお駄賃でソフトもカセットもないのに攻略本だけ買っていたそう。ざっくり分類分けするのならば、変態の類にあたるだろう。
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tinndaisou ¡ 4 years
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#3 田川 圭祐
職業 美容師 たがわけいすけ 1996年秋田生まれ。
代官山のヘアサロン『PELLS』staff
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"足"のスポーツから"手"の職へ
ストリートファッション。ダイナミックなアフロヘア。いかにもコーヒーはホットでブラックといわんばかりないでたちの彼は、アイスコーヒーにミルクとシロップをたっぷり入れ、上京した理由をこう話した。
「'最先端の物を着たい'そっちにいたらそっちの服装になれる、都会のファッションへの憧れが東京に行きたい入りでしたね。それが高校生の時です。」
"東京"というをうっすらと抱きはじめたおんなじ時期に起こったこの出来事で、その文字は色濃くなった。地元秋田由利本荘市というド田舎で育った彼は、小学3年から始めたサッカーに熱中していた。中学最後の試合に出れなかった悔しさを高校サッカーにと意気込んだ矢先、元チームメイトのでっちあげの噂がもとに同世代8人からボコボコにされた。仲が良かっただけにこの行為は彼を人間不信にした。
「今では、そこに別に告げ口としてとか、友達を売って言ったことじゃなく、その場の勢いっていうのは分かるんですけど、やっぱその時は'裏切られた'てのがものすごく大きくかったですね。サッカーへの熱もこれで心折れて(笑)でもそれから、人をちゃんと見ようって、自分のものさしでその人が良い人か悪い人なのか判断するようになりましたね。」
その後もサッカーは腐れながらも続けたそうだが、そのスペースに入り込んできたのが音楽。
「高1の冬かな、友達に突然目の前でウィズカリファーのブラックアンドイエローを流され、その時着ていたTシャツをラップでディスられたんですよ(笑)なにが!?てびっくりで(笑)なんかそれがめっちゃ悔しくて自分もラップをやり始めました。そこから2年半、のめり込みましたね。
高校の最後のほうにラップのイベントに参加しようとしたんですけど、主催者側とちょっといざこざがあって、なくなりました(笑)だから言ってしまえば、秋田での生きづらさから逃げてきたって感じです(笑)誰も自分を知らない0のところからはじめようって。」
こうして、秋田で高校卒業したタイミングで"美容師"を目指して東京へ。中野での美容専門学校に通いだした。
なぜ、美容師なのか。それは純粋無垢な田舎のサッカー小僧が占い師の言葉を真に受けたことが、"美容師"へのきっかけだった。それは小学生の時に遡る。
「僕のいたサッカースクールは高学年になると横浜遠征が毎年の恒例であったんです。2回目の小学5年の時ですね、やっぱり田舎者なんで都会の繁華街にはテンションあがっちゃうもんで(笑)中華街にいった際ノリでみんなで手相占いする流れになったんです。その時の中国人の占い師に'あなた手が大きくて綺麗だから手の職がむいている。美容師かピアノかギターをやりなさい'って言われて。ギターとかピアノは自分がやるのはなんかキモいなと思って、なら美容師か…て。そこからずっと将来は美容師やろうって思いました。」
「フリーターを経て、いま」
高校時代の友人関係間のトラウマから他人に対して閉鎖的だったが、憧れの街東京でその心は次第に開いていったという。
「友達なんか別にいらないくらいの感覚で上京しましたね。でもいざ来てみたらいつの間にか気の許せる友達ができてて、東京やべぇなて(笑)とにかく2年間遊びまくりましたね。」
クラスのテストではカット1位、ワインディング3位、ウェーブも上位で実技だけは優等生だったとか。そんな充実した専門学校生活を過ごした彼は、きっと就活もスムーズだったんだろうと思ったが、そうはいかなかったらしい。
「四社くらい受けて全部落ちました。これ落ちたらもう'秋田帰る'か'就職辞める'って気持ちで受けた一社も落ちて。それで先生に「もう秋田帰りますわー」とか言ってたら、先生の仲良いサロンを紹介してくれてなんとかそこに入れたって感じです。だから、最初はやさぐれてましたね。希望じゃないとこにそこまでのモチベーションはなくて、スキルだけ磨いたら出ようていうスタンスでやってました。1年目で働きながら色々中途を受けたんですよ。けどそれも落ちて、もうここでやるしかないって腹くくりました。」
5人いた同期も早々に辞め、気がつけば1人に。そのサロンで2年半が経った去年の夏あることを機に辞めることに。
「彼女と別れたんですよ(笑)それでふてくされて、もうこの勢いで辞めようって(笑)このままここになあなあで居てもだめだな。とりあえずダメ元でもいいから変化を起こそうと思って、次のサロンも決まってなかったんですけど辞めました。」
それから余儀なくフリーター生活が始まる。家の前の居酒屋と派遣で生計を立てる日々が3ヶ月続いたとき転機が訪れる。
「学生1年目のときから仲良くさせていただいていたサロンがあって、そこのオーナーさんにブランド撮影のためのドライバーを頼まれたんです。快く引き受け、それ終わりに入っていたお客さんのパーマのアシスタントのヘルプも手伝うことになって。そこで「お前ここで働けよ」って言ってくださって。その日ちょうど別のサロンの面接があったんですけど、「もうそこ蹴って、ここで働け」って。それで働くことになったのが今いるPELLSですね。」
現在のサロンで5ヶ月が立ち、"大人"な人と共にする時間が増え、学びの日々だと話す彼は同じ専門学校で出会った友人2人と、もくろんでいる夢があるそうだ。
「美容学校を卒業する時に、それぞれ母校に今後の抱負を書いて送る式たりがあったんだけど、そこに"3人で店を出す"て書いたんです。それは誰が何を書いたかは公表されないもので、その晩いつもの飲み屋で飲んでるとき、そうえばあれ何書いた?て話になって。そしたら3人ともおんなじこと書いていたんです。びっくりでした。それまでなんとなく「それやりたいね」くらいで話してはいたんだけど。正直各々が本気にしてるかどうか分からなかった。そんな中での3人一致に、これはもうやるしかないなって(笑)だからそれ以来ずっと目標にしています。その2人はbarberで、僕は美容師。法律上でこの2つは違う訳で、実現てなると難しいところがあるんですけど、どうにか形にしたいですね。」
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余談
高熱の体で新幹線に乗り込み、東京駅に降り立った彼。
東京生活2日間熱にうなされ、最悪なスタートだったそうだ。
ちなみに彼の高校の制服はブレザー、なんとなく学ランで想像していたので、大変身勝手だが、個人的にすごいショックだった。
photo:Tatsuya Kirita   text:Yuta Watanabe
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tinndaisou ¡ 4 years
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#2 桐田 竜哉
職業 写真家 きりたたつや 1996年広島生まれ。
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"劣悪な家庭環境で育った"
6人兄弟の三男として育った彼。ここだけ聞けば大家族の賑やかでわいわいしたお茶の間を浮かべるが、一家団欒という言葉から程遠い少年時代を過ごしたという。
「小学5年の時両親が別居して。兄弟みんな母方で暮らすことに。当然ながら女で一つで6人の子を育てるのは厳しく、近所の祖母の家でバラバラでご飯を食べることがごく自然となっていました。母がいまの旦那さんと付き合いはじめて、家に帰ってこない日も多く、机に夜飯代の1000円だけがポンと置かれてるのが日常で、洗濯物もコインランドリーで、ビニール袋に山のように詰め込まれた中から靴下をさがして、弟と取り合ったり(笑)家も汚くて、寝室まで靴。犬飼ってて、その辺に糞が散らかり、枕元にもある中で寝ていました(笑)とにかく結構な劣悪な家庭環境でした(笑)。
でもこれが当たり前で、家族が一緒に過ごすとかそういうものに何とも思ってなかったです。たぶんここから歪んだ感性になったんじゃないかと思っています(笑)」
そんな歪んだ感性を象徴した出来事が高校のとき起こった。
「高校1年の時、幼馴染みが事故で亡くなりました。小さい頃から一緒にサッカーをしてきて、高校も同じとこに進んでーー。
葬儀で、まだそいつと出会って1年も経ってない他のみんながボロボロ泣いてたんです。その姿が若くして友達を亡くした'悲劇のヒーロー'を演じているようにしか見えなくて。『あいつの分まで全国いくぞ』とか言った次の日『練習だるい』とか普通に言っている。そういう人の汚い部分が目がついて、そんな見方になっていました。」
他にも、父に奨学金を使われていたことが発覚したり、実の母親に"あんたはもう私の子がない"て言われたりと、彼の口から次々とでるディープなエピソード。なによりもそれをサラッと話す姿に驚いた。
"写真家"の入り口は、社会不適合者としての自覚"
「提出物がまともにできなかったんです(笑)。小・中・高と過ごす中で、やれって言われた簡単なことができない。もちろん好きじゃないものに対してなんですけど。そんな奴が社会に出て、好きでもないことを毎日週5でできるのかって単純に考えた時に、おれには無理だなって(笑)。兄の1人が消防士なんですよ。それを見ていて、これならやりがいもありそうで、休みも多いしいいかなって思っていた時期もあったんですけど、兄に「お前24時間嫌いな人とおらんといけんのんでって言われて、これもちょっと考えるように(笑)」
高校卒業後はテキトーに選んだ地元の大学へ入学。小学生から始めたサッカーを大学でも続けていたが、技術どうこうより監督の好き嫌いでメンバーが決まることに嫌気がさし、本気で打ち込まないままなんとなく続けていたのも大学2年の夏に辞める。
その時期にもともと旅先や遠出した時にしか使わなかったカメラを日常で使うようになる。だが、この時もまだ友達と遊ぶ時に撮る趣味程度なものだった。
「ある時後輩に一緒に人を撮りませんか、と紹介してくれたんです。そこからちょくちょく人を撮るようになって、社会不適合者な自分はアートとかクリエイターの人達のワークスタイルに憧れがあったので、"写真でいこう"ってなりましたね。」
とはなったものの、最初は'生活する'という現実から就職しながら写真を撮り、いずれ写真家1本でいこうと考えていたという。そんな彼の考えも、ある写真家の言葉で一変することになった。
「好きな写真家の1人の東海竹広太さんの"保険かけとる奴の写真は響かん"ていっていたのを見て、確かにそうだな。そんな技術も才能もないような奴が片手間で撮った写真なんか響く訳がない。それで、就職辞めよう。フリーターでいい。そこから一気に"写真で生きる"じゃないけど、写真第一のライフスタイルでいこうって思いました。」
大学の夏休みを利用して写真を撮りに訪れた東京。2週間の滞在で感じた"自身の進歩"をきっかけに上京を決意したものちょうどこの頃。
1年後の大学4年に再び訪れた東京でさらにヒートアップ。こうなると写真への熱が高まるのは当然で、授業にでる日も減り、友達と遊ぶ時も意識は写真で。とにかく写真、写真の思考だったそうだ。
「この時大学に週5でいくってのがすごい苦痛で、そんな時間あったら写真に使いたいって。それで大学を4年の12月に辞めました(笑)」
大学を辞めた後は上京資金を稼ぐため、靴屋で夕方17時から22時、0時から朝6時までタクシーの洗車。この生活を週6とバイト漬けの日々。だが、彼が上京したのは本来予定していたはずの4月ではなく、6月の末だった。
「唯一休みの週1でフラストレーションが爆発して、カメラ買ったり、友達と遊んだりでめちゃくちゃ使ってました(笑)こんだけのお金が貯まったらいこうと決めていたんですけど、その額にいつまでたっても貯まらなくて(笑)こんなんじゃ一生行けれんてことで今いこう!と行ったのが6月でしたね。」
手持ち5万で上京した彼は、友達の家での居候生活でスタートした。
東京での新生活を迎えて9ヶ月が経った今彼はなにを思ってるのだろう。
「良いも悪いも色んなものが見えてきましたね。仕事のもらい方もそうだけど。もちろん作品が評価されて仕事を貰うこともあるけど、やっぱメインはコネというか、人と人とのつながりで仕事を貰うことで。⚠︎そういうのがなんかださいと思う。尖っとるのも多少あるかもしれないけど単純に他の人よりも作品に対して純粋だと思う。
誰が撮ったとか誰の作品とかどうでも良くて、その作品が個人から見て良いか悪いか、ただそれだけでいい。
過去の経験で、人の気持ちなんか100%分かるわけがないと思っているから、共感を求めてもいないし、自分の写真もどう見てもらっても構わない。分かって貰おうとも思ってないし、なんだと思ってもらってもいい。大事にしていることも特にないし、強いてゆうなら嫌いなものは頼まれても撮らない。自分の撮りたいものしか撮らないくらいですかね。
究極、"自分が撮った写真"ていうのが分からなくていい。〇〇の展示会です、じゃなくて作品だけが置いてある。写真家のバックグラウンドってどうしても纏わり付く、それを全部とっぱらった、そんな空間が理想です。」
溢れるようにでてきた言葉を聞いて、写真に対してすごくホットでピュアな人なんだと、強く感じた。"人の汚い部分"裏返せば"人の本質"彼の写真の多くに笑顔がないのは幼少期に自然と植えついた人への見方からなのだろうか。写真というツールでの"自己存在表明"なんだろうか。なんとなく考えてしまったが、きっとどちらも違う。こうやってバックグラウンドから想像することを彼は嫌う。
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余談
写真家=繊細は僕の勝手な偏見なのか、こう見えて彼は舌バカで、とにかく濃いものしか好まない。から揚げ弁当を食べるひとが理解できないらしい。
photo: Mika Fuji   text: Yuta Watanabe
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tinndaisou ¡ 4 years
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#1 中島 弘人
職業 ニート なかしまひろと 1996年広島生まれ。
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ヤンキー漫画の王道キャラのような長髪は自身の尖りからきているのか、そんな彼の尖りはこの受験から始まったのだろうか。
"あいつらよりおもろいことがしたい。劣等感から旅へ出た"
広島県のいわゆる進学校を卒業し、大阪教育大学を第一希望に関西をメインに受験するも、7すべり。まったく望まない県内の底辺大学に入学することになった。
「この時浪人も考えたんですが、いちお在学しながら編入の勉強をしようと入学しました。入学はしたのものの、やっぱり関西や近辺の大学のような思い描いていたザ・大学生といったキャンパスライフとは程遠く、どうにかそいつらよりおもろい事したいなと思っていましたね。」
この"劣等感"から選んだのが、バイク旅。自分と同じく志望大学には行けず、くすぶっていた高校の友人を誘って大学4年間で日本一周と決め、まず1年の夏に九州一周を決行。
「よく旅して世界感が広がったとか、価値観が変わったとかあると思うんですが、僕は悪魔で自身のステータスとしてやっていたので、それはいっさいなかったです(笑)。」
バイク旅だけでは終わらず、同年の冬にはまた別の高校の友人とバックパッカーとしてインドネシア縦断と、学生の自由な時間をひたすらアクティブなことに注ぎ、気がつけば次第に劣等感は優越感へと変わっていった。
「こんなおもろい事しとる学生、周りにはおらんという感じでその頃は周囲を見下していましたね(笑)」
もちろん高校時代の友達としか遊んでいない分友達と言える友達は片手で収まる程度で、そんな時ふといつまでも一匹狼のままじゃいけんなと思うようになり、学内の友達も作るようになりました。」
"ある人の言葉で大きく変わった"
「2年の冬に友達と神戸のセレクトショップの乱痴気に寄った時、当時そこで定員として働いていた鹿毛さんと出会ったんですけど、その同期の難波さんの話をした時に「あいつってカッコエエよなあ」て言ったのを聞いて、この時、ああ、カッコいい人って他人を褒める、素直に他人の良さを認めることができることなんだ」と気づいた。それまでは他人なんか見下してなんぼだと思っていた自分がなんてダサいことなんだと思いましたね(笑)ここから人の見方、人との関わり方が変わりました。見方を変えた中で、今まで自分が周りに恵まれていた事、人と距離をグッと縮めることが強みだと思った。
それから、日本一周とか海外旅を達成したってことなんかじゃなく、よりつながりを意識するようになりました。」
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(上/学生時代にしたバイク旅のゴールの地すすきのでの一枚。下/友人のバイクと愛車のSR400。)
慣れ親しんだ街広島も22年間も住めばそれも窮屈に感じ、より強い刺激を求め、自身の強みを活かすべく東京というステージしか頭になかった。アーバンリサーチの社員として上京。元々就職なんてするつもりはなかった。
「就職する気はなかったんですけど、やっぱりその時期の周りに流されて、髪切って合同説明会にいきました。気持ちがヘアスタイルにでていたのか、周囲にはぜんぜん就活ヘアじゃねえじゃんとツッコまれましたね(笑)そんな髪型で臨んだ合同説明会もその日にやっぱええわってなってスーツもその後一回も着てないです(笑)」
東京に行くことは決まった中で、フリーターでも良かったが、就職して生活に基盤があった方が、最初からスムーズに動けるだろうということで、学生時代していたアパレル業へ。受かったら儲け程度の軽い気持ちで臨み、beams、journal standard 、urban Researchの3社の内urban Researchに運良く決まった。
実は学生時代アルバイトでこのurban Research働いていたこともあったが、わずか半年で辞めてしまっているとのこと。
「おもしろくなかったですね(笑)やっぱり服が好きだからってアパレルで働くのは違いました。よく趣味を仕事にしない方がいいてのは聞くんですが、その通りでした(笑)。って言っても、好きな"服"をツールに人と繋がれたら幸せなことだなっていう思いはずっとあったんで、辞めてから2年間はジーンズファクトリーで勤めました。
こうしてアパレル社員として念願の上京を果たしたが、なんと今年の2月末退社。10ヶ月というお世辞でも長いとは言えない期間で幕を閉じた。聞けば、社員として働く中でやはりどうしても動きづらく、自身の言う強みに特化できるよう身動きを取りやすくするためだそうだ。今現在ニートで1ヶ月過ごしているという。
そんな誰よりも刺激���敏感な彼が次に企んでいることとは何なんだろうか。
「大学時代の早々に、こうなりたい人物像、将来像は見えました。それは自分の店をもつこと。でもそれがアパレルの店なのか、バイクの店なのか、何にも決まってなくて。それが大学の終わりかけに"銭湯"に決まりました。振り返ればバイク旅の1日の終わりは自然とどこかの銭湯をゴールにと目がけていて、そこで見たレトロでカルチャーな空間、その空間に集まる人の"味"の良さに惹かれた。だから今辞めて真っ白という訳じゃないので、まったく不安はないです。ただあくまでも最終は"銭湯"なだけで、そこだけの狭い視野にはまだなりたくないので、おもしろそうなことにはどんどん手をだしていくつもりです。ざっくりではあるんですが、次のアイデアは思いついています。」
やはり何か企んでいた。彼の言い放った直後の少年みたいな笑顔にこっちまでついワクワクしてしまった。
取材中彼が言った中にこんな印象的深い言葉がある。
「今後も多少の尖りは残したい。その方が、おもしろいこととか、刺激に対して貪欲なままで居られる。」
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余談
取材冒頭で発言した「人生の一番の失敗は大学受験で、人生の一番の成功も大学受験だと思っています。」はすこしサブかったので、割愛しました。
photo: Mika Fuji   test: Yuta Watanabe
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