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TOM終了のおしらせ
TOM第一期(2018年2月7日から2020年6月26日まで)終了。
次はあるのか?
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『足の踏み場、象の墓場』全首評④
我妻俊樹「大きなテレビの中の湖」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
華氏で読み目盛りから瞳をはなす カタカナ、カタカナ、落ちている蝉
冬のあたたかい日差しが部屋に差し込んできて、わたしは誘い出されるように、蝶のようにふわふわとした気分で、気がつくとある道を歩いていた。靴を履き、玄関の温度計を見るとちょうど100°Fだ。つまり、わたしは30℃の気温の中にいるということだ。数年前までは考えられないことだった。見間違いかと今でも思う。 泥でぬかるんだ緑道を歩きながら、耳にイヤホンをつける。わたしのように物理的な音声デバイスをつけている人は、かなり少なくなった。わたしは目に問題があるが、目に問題がある人でも、レンズ以外に音声を脳に届ける方法もある。ただ高価だ。わたしはまだヴィジュアルとして音楽を聴いたことはなく、ガイドを使う必要もわたしの生活にはなかった。 だから、ヴィジュアルと言われても、まったくピンとこなかった。
はしらない?ウルトラマンの3分が終りかけてる明滅のなか
駅の横のアンダーパスをくぐり、国道へと続く細い坂道を上ると、わたしのいつもの散歩コースがはじまる。公園の手前に、スポーツジムの入った大きな複合施設があるが、そこに他に何が入っているのか看板以上のことは知らなかった。遠くからでも目立つ看板があるのでわたしはそこにスポーツジムがあると知っているが、スポーツジム以外に何があるのか知らないのは、歯磨きをしている女の子が必ず建物の案内板の近くに立っていて、わたしが彼女と会話をするからだ。 わたしは彼女を警戒せず、わたしたちは仲良しだった。わたしたちが女性同士であり同年齢であるということ以上に、わたしたち2人がそれぞれに自己破壊的な衝動や破滅的な願望を抱いているということが、ささいな理由をきっかけとして、わたしたちの距離を近づけたのだ。
忘れっぽいことだけ武器に生きてゆくいつか政治の話もしたいな
操られている、とわたしたちはよく口にした。青く塗装されたアパートが、小川沿いの緑道を抜けたところに建っていた。彼女はそこの2階に住んでいた。なぜあんなところで歯磨きをしているのか訊くと、早朝だからいいじゃ���いかと。誰もいないのだから。 誰もいないとはどういうことかという議論は、わたしたちがここで語ることのできる唯一のことだ。
はだけたらそこから鳩が飛びそうな胸元に陽のあたる寂しさ
タワーマンションに住みたい、と彼女は言った。タワーマンションでプレステをして暮らすのが夢だと。わたしはタワーマンションの近くもよく散歩した。早朝だけでなく、15時の時間が静止したかのような街もよく歩いた。イメージしていたのとは違い、光は均一にどの地面にも差していた。だが鳩は一羽もいなかった。わたしはそこでは操られているとは感じなかったが、彼女の飛び込んでやるよ、という言葉で笑った。
どこまでが駅前なのか徒歩でゆくふたりでたぶん住まない土地を
牛丼屋に入ることに長く抵抗があり、また特に用も必要もなかったが、わたしはある時を境に、まるで病んだかのように入り浸った。そこは散歩のゴールだった。隣の駅まで歩き、牛丼屋で牛丼を食べてから、わたしは電車で帰宅した。その頃のわたしには、駅という認識も、土地という認識もなかった。おそらくその過去は、今という現在をも過去へと飲み込んでしまうだけの力を持っている。
でしょうか雨は帽子の鍔に染みるまえにかがやく脳に模様をなして
散歩の途中の緑道には立て看板があり、その土地の歴史について説明していた。湧水に苦しんだ農民たちと、駅道の整備に勤しんだ武士。わたしは誰が何と言おうと脳を頭の中に所有していて、それはわたしが認識したことをイメージへと昇華しようとするが、その水の光景、林や川は、わたしが見ている今の光景と一切の違いがない。
子供たちもうすぐ初期の城跡をきみは事故車輛と見まちがう
わたしは映画を見て感動することができたが、もしかすると2時間のあいだ、目をつぶっていたのかもしれない。子供の頃、隣の家が空き家だった。わたしはそこからテレビを盗んだことがある。ある日、その家にかつて住んでいた家族は、夜のうちにどこかへ消えてしまった。わたしはある晩、窓を割り、忍び込んで、テレビを秘密基地へと運び込んだ。わたしの弟はわたしのボーイフレンドの友達で、わたしは弟のためにテレビを盗んだ。
おとこの子に相談すれば上手くいく悪が滅びるドラマみたいに
歯磨きの女の子に、わたしはメイクについて説明することができなかった。それは、わたしに説明するという能力が欠如しているからで、わたしはコンシーラーを使うのが下手だった。
(運転を見合わせています)散らかったドレスの中に人がいるのだ
車の前に、落ち葉が積まれている。三角錐に積まれた山は、人の背の高さくらいある。 わたしは駅まで迎えにいかないといけなかった。しかし、落ち葉の山が進路を妨げているので、わたしは車のサンバイザーを下げ、目を瞑った。
淫売のまま老婆になって客をとるたびに平和を訴えるだろう
窓辺の女。顔を上げると、窓のそばに座っている。苛立ちを感じ始めたのはいつだろう。何もかも不愉快だ。見ることをやめた。道はまだ、家には遠い。
振り子しか音をたてない 知恵熱がふたたび知恵をうばう世界で
小さなテレビを一人暮らしのために買ったが、ほとんど見ることはなかった。時計がわりにたまに朝だけつけていた。日が昇る前に、カーテンを開けて空を見るのが好きだったが、街はもう騒がしく、それが少しだけ嫌だった。
枯れ葉にも魂があり粉々ににぎりつぶせるよろこびのこと
熱をおびた落ち葉の山に、ウッドベースのような規則正しい足音が近づいてきた。影がかかり、わたしは振り向いた。蝉の抜け殻のことを、子供の頃は蝉の影と呼んでいた。弟は蝉の抜け殻を集め、庭の隅に積み上げていた。わたしはそれを気持ち悪く思い、弟が昼寝をしているあいだに、ライターで火をつけて燃やした。弟はそんなことは忘れて、また蝉を集めてくる。わたしは少しのあいだ、眠りたいなと思った。テレビを見るのにも、散歩をするのにも飽きたから。
*
引用はすべて、我妻俊樹「大きなテレビの中の湖」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号誌上歌集、2016年)より。
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と三人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語る者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、二物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、かわいそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉は語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期からの経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程���、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では〈明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代以前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/��トリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後」に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれない。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から「まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出は『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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わたしは招かれた客だ
聞くために死角へ回っていく人の視界を包んでプレゼントする
卓球の球は白く、照明も白く、おまけに目が悪くて空振りするまでもない
耳でそれ、おみくじだよって富を富にして運命の抜かれたところ
歯磨きして通り過ぎるのに3秒 蚊に刺されないための修行に3秒
憧れをそっくりで撫でるカモノハシと客が空き地で鍛えた電池と
湿地で鼓膜に逃げられてチャーハンをピラフのように焼く約束
背中ならなくなっていい やる気なら 背中から吸い込まれるように
鍵かけ忘れた部屋に立て篭られると、どうして入れないのかわからなくなる
わたしの骨を削るときではなくてコーヒー豆を挽くときのよう
歴代のペット全部犬、列強と渡り合うのに小鳥を足して
出過ぎた真似でぶら下がるコアラだろう一発で許された謝罪だろう
生まれ変わってしまうなら赤ちゃんだろう わたしは赤ちゃんなのだ
公園でタオルをしぼりだすとき、さかのぼり 指と頬の入れ替わり
電話番号を持たず・タオルを皿に盛る 漢 を繰り返し、与えます
人は変わるのではない増えるのだ デリシャス麦茶を教えてあげよう
フェスティバルを心にも恐竜時代を配ったお水に手伝ってもらって
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すべての可塑的な者たちに告ぐ
本当に大事なものはいつだって名前 それが二つある犬
コンビニはさらに小さなコンビニに分割できる 納得できる
いつも大荷物の人がいつも寒い街の話をするその街の料理
健康食品ってだいたい嘘だからねここは柔らかい印象を与えたいよね
芝生を育てていますと書いてあり入ってはいけないところに射す陽
ドクターペッパーっておいしいの? その時あなたはどのように感じましたか?
長い間工事していて今日もまだ工事していて不便だな 行く
PKでもらった点を守りきる サッポロポテトに途中で飽きる
牛乳をそそげば白い牛乳の中で創世記の冒頭は
自分でも思っていないことを言う それはスポーツにひどく似ている
ビー・プラウド・オブ・セブンプレミアム 暗号のようで単なる信号なのだ
オルガンの音色の音色の冗長な冗長な讃美歌ありがたく
洗練された詐欺の手口が日曜日、河原で野球をする子供たち
YouTubeばかり見てても大丈夫あのハマナスの実落ちるまでは
市民菜園で育つ病気に強い品種 画家の生涯で最も多産な時期に
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(横書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるからだ。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も読者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、日が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を��とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長い音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからないラフな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じるか、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考えたくないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問してくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま溺れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四だけだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼ��らはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう・少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間が置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしまったということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チラシがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞」だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「よお」
*
引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(縦書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるからだ。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も読者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、日が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を落とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長い音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからないラフな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じるか、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考えたくないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問してくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま溺れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四だけだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼくらはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう・少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間が置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしまったということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チラシがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞���だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「よお」
*
引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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『足の踏み場、象の墓場』全首評②
我妻俊樹「貝殻と空き家」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
練習よ小さな町を南から終わらせていくバーゲンセール
「目をずっと閉じているのを望んでいるわけではなかったけれど、きっとある日、ローマの建物は廃墟になるという避けようのない運命を自ら選び取り、時の流れを許したために、そして変わり目がやってきて……」 「よお」 その僧侶が石畳の道をバシャバシャと足音をたてて駆けてきた時、すでにヴェネツィアの街は薄い水面に覆われていて、運河から溢れた水は、靴底で磨かれた石の表面から野犬や驢馬の糞を剥ぎ取り、水は海へと沈んでいった。 足音が聞こえると、黒い暗闇に白い光が浮かび、扉が開いたのだと思った時には、彼は海で覆われた明るい街を走っているのだった。 あみだくじのように複雑に入り組んだ、アドリア海の干潟にできたこの都市は、いつの間にか僧侶のもとで運営されるコロニーに組み込まれ、人々は手の甲の正方形の刺青を僧侶の持ってきた分厚い本の表面にかざして、税金を納めていたのだが、そんな日々もこれで終わった。 その僧侶は、図書館の裏に浮かんでいる無数の本に向かって、一目散に駆け寄った。 しかし、塩水に侵食され、ぼろぼろに腐食したそれらは、もはや僕らの刺青を読み取るだけの能力を有していなかった。 「よお」
橋脚にふれながらゆくこの一年に貝殻と空き家をかぞえあげ
顔が真っ二つに割れてしまうような、眩しすぎる光が差し込んできた。僕が貝殻を叩き割ったのは、まさに光が原因だった。 貝殻は最初は1つだったけど、割れると2つになっていて、それから目の前で無数に分裂していった。僕が貝殻を割っているのか、それとも貝殻が自然と割れていくのか。僕には分からなかったけど、もう目の前は砂浜で、空から砂が降ってきて、砂に自分が埋もれていくよりも、橋脚が砂に埋もれていく方がスピードが早いから、まだまだ手の甲を橋脚にかざすことができる。
秋冬を銀河かかえていた家のないはずのはすかいの煮豆屋
10世紀初頭、僧侶がはじめて辞書を編纂した頃は、秋冬という概念がまだ存在していた。 同じように、その当時、まだ右脳と左脳という概念はなく、半脳という単位で人間の脳は理解されていた。 もう1つの半脳が、口蓋のイデアとして頭蓋の下半分(顎から鼻腔にかけて、といった方が認識しやすいだろうか。ようするに顔のことだ)に存在していて、半脳と半脳は目がトリガーとなって機能しはじめる、という考えだ。 現在、右脳と左脳の集合として考えられている脳は、当時はそれだけでは駆動しない車輪のようなものだと考えられており、舌や歯や鼻が、脳の動力だと考えられていたのだ。 もちろん、とてつもなく馬鹿馬鹿しい話だが、僧侶がいまだに刺青を用いて徴税をおこなっていることから、半脳という概念がしぶとく生きていることが分かるだろう。 本に手をかざさなければ、彼らは僕らのことを何も理解できない。目に見える模様がなければ、僕らは存在しない。
手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
思いっきり橋脚をつかんだら、粉々に砕けた。橋が傾いていくのが、何重にもぼやけて見えた。 火力発電所が歯車を回すために、崖の上の僧院には何千枚もの書類が保管されていて、僧侶たちは毎日、書類を更新するために働いていた。火力発電所の排気ガスが街を水没させることだって、知らなかったはずがないだろう。
叫ぶために息をしている人たちの中にいて 星は死者のお面
誰もが道のことを、ビルとビルの間の水面のことだと認識していた。街が水没してから、それほど長い時間が経っていた。 僧侶たちは疲弊し、夕方だけでなく、夜も眠るようになっていた。経済は停滞しはじめた。ビルとビルの間に橋を架ける計画も、途絶したままだ。
犬に名前がつくまで声を歩いてきて 次々とくちびる、それを呼ぶ
僕は犬だ。人間ではない。
きみは信号よりも黄色い ほんとうさ 夏の日のラジオが庭に誓う
きみは信号だ。人間ではない。
終バスに全部忘れてきたようなかばんの軽さのみをいたわる
子供たちは、かばんからビルを取り出して、歩いている犬を叩きのめしていた。僕が気づいた時には、犬は血だらけになって道に転がっていた。腕で抱えると骨が折れそうだったので、犬をかばんに入れて、担架のようにして家まで運んだ。犬は肉が抉れ、やせ細っていたから、びっくりするほど軽かった。
人生にたくさん石がちらばった駐車場あるだけ信じようね
犬の断末魔が、食堂まで聞こえた。見に行かなくても死んだのだと分かった。 埋めてやらなくては。
あんなにいた子供たちが一人になって河のほとりと歩いてるきみは
どこにも河がない。水没したからだ。 ビルとビルの間は道だったが、僕らは河だと思って、そこに犬を捨てた。 犬は河に滲んで、何重にもぼやけて見えた。
何も用がない朝陽にかがやいている正義が好きくちぶえを吹いてる
歩いている時が、一番楽しかった。ただ目の前と右と左があって、僧侶のように目が4つあるわけではないから、もちろん後ろは見えなくて、ただ光の中を歩いているだけでよかった。気楽なのは、しゃべらなくていいからだ。口は何も考えない。口は物を見ないからだ。そして、目で口を見ることはできない。だから、ないも同然だ。
あの人は右と左を糊しろで繋げたようで声が好きだわ
「よお」 みなが噂していた。口々に新しい僧院のことを語っていた。 100階建てのそのビルの、50階から上は、全て僧院だ。
高いところから飴玉をわたすのも変わりやすい今日の天気よ
バス停でバスを待っていて、バス停の上の方が光り、それは星ではなくて飴玉だった。 バスがやって来て、飴玉は砕け、夜空に星が瞬いていた。 少年に飴をやろうとポケットを探したが、少年の口は膨らんでいて、ぺっ、と取り出したそれは、もちろん飴だった。
ひこうきは頭の上が好きだから飛ばせてあげる食事のさなかに
少女漫画のように頭の周りを星がぐるぐる回っていて、右目と左目はつながり、大きなバッテンになって、「馬鹿みたい!」
だからわたしは小さな虫をねむらせる葉っぱをゆらす雨のひとつぶ
バッテンがほどけて両目で見た時、それは小さな虫をねむらせる葉っぱをゆらす雨のひとつぶだった。
鳥たちは夜は時計の裏にある鳥の模様に しあわせだった
水のせいで小さな虫は何重にも滲んで見えた。
モデルルームの窓の光があればいい国道とおまえにわかるほど
テラスの籐椅子でうとうとしているのは、紛れもなく僕だった。顔がそっくりで、背丈も同じ。髪のはね方も、Tシャツの縒れたような着こなしも、羽虫が頰に止まったかのようにしかめ面をして欠伸をするのも一緒。 僕はうす暗いキッチンの冷蔵庫に凭れて、陽だまりのなかにいるその僕を見ていた。 シンクにぽたぽたと落ちる水滴のせいかもしれない。僕の足元に、遠くから波紋が伝わって来るのに気がついた。一定の間隔で、水が揺れていた。 クラクションの音が聞こえる。ああ、車が通っているのか。 かつて河だった道の上を、水をかき分けながら、徐行して、だだっ広い駐車場にその車は止まった。
みかんに爪たてるとき甘噛みのけものじみた目よ 喧嘩はよしなよ
その僧侶は、本気で喧嘩をしたことがなかった。もしあったとすれば、その場所に蜜柑はなかったはずだし、炬燵も猫もいなかった。冬ではなかった。もっと冷酷な場所で暮らしていた。 無関心に近い衝動を抱くことが、その僧侶にとっての喧嘩だったが、しかし、それは怒りに似た漠然とした像を描くだけで、決して喧嘩と呼べるものではないだろう。 つまり、あらゆる感情とは無関係な、自分が存在するためのイメージだ。 衝動であるがゆえに、辛うじてその僧侶は「喧嘩はよしなよ」と喋ることができる。 「よお」 雪が降ってきた。窓は一瞬で結露した。 「雪かきをしないとな」
花に花かさねてしまう抽斗を覗き込むとき別れの顔を
そんなつもりはなく、草原に足を踏み入れてしまった。 振り返ると、自分の靴が草原を壊してしまったのがよくわかる。背の高い木々で茂った森の暗みから、僕の足跡が蛇行しながら僕の足元まで続いている。風に吹かれた木の葉で、そのこげ茶色の線がかき消えればいいと思ったが、風はただ足跡の周りの草を揺らすだけで、草原の秩序を微妙に壊すだけだった。 僕も風も、部分的に草原をかき消すことはできる。 しかし、草原が完全に消えることはない。草原が壊れることはなかった。いつか木々が芽吹き、森が何もかも埋め尽くしてし���わなければ。
手袋とお面でできた少年を好きになってもしらないからね
犬を思い浮かべるとき、私の目に浮かぶのはふかふかのセーターだった。 バウバウ。 セーターが猫みたいに背中を丸めて、うねうねと塀の近くを歩いているのが見えた。 死にかけの犬は、埋めてやらなくては。
服に絵を描くんじゃなくて絵に服を描くんだっけ? 朝が身じろぐ
いつまで経っても目が覚めない。カーテンを開けると、朝の光が広がった。 ああ、私は眠っていたのか。 まぶたを手でこすると、水がきらきら光っている。 もう家を出ないと。
*
引用はすべて、我妻俊樹「貝殻と空き家」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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『足の踏み場、象の墓場』全首評①
我妻俊樹「きみが照らされる野草」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
スピードを百まで上げてねむるのよ世話する光とされる光
AIによる自動車の自動運転が実用化されたら、眠りながら運転席につける。現行の日本の道路交通法では、ハンドルから両手を離して走行するのは違法だが、運転手に意識がなくても、AIが代わりに意識を保ってくれれば、問題ない。私の両手が、ハンドルを握ってさえいれば。 アウトバーンのような、首都高のような。 ジェット機のような、F1マシンのような。 私に意識があるのかAIが察知して、なくてもいいと許してくれるなら、ブレーキライトがいらないアウトバーンと、濡れた路面に赤い光がにじみ続ける首都高の、どちらを走りたいだろうか。 どこにいても関係ないから、スピードは一定で、自動車は細長い平行線の中を走り続ける。Google Mapが、道路を表示しつづける限りは。
きみがまぶたに翳らせている遊星の大西洋に似た島々よ
有名なだまし絵「ルビンの壺」。この種のトリックアートは、たとえば、壺に見えるかキスに見えるかで、その人の性格を分類するような、ある種の精神分析に使われているせいで、全く興味がない。目の錯覚に、その人の「人となり」のようなものが顕著に現れるとは思えないし、記号性の高い図像からは、記号性の高い心象しか生まれないと思う。 だから、まぶたの開き具合が目の前の景色を変質させることの方に、よっぽど興味がある。 そして惑星という単語が、「遊星」として短歌的にパラフレーズされた後、どのような模様を描くのかどうかの方が。 鳩が窓ガラスに気がつかずに衝突し、血だらけになって死ぬように、遊星のほの暗い海も、触れてみなければ、それが水だと気づかず、びしょ濡れになってしまうだろう。 陸と海は、遠くから見れば濃淡のわずかな差に過ぎない。そこが本当に足で立つことができる場所かどうかは、パラシュートで着陸してみなければ、分からないのだ。 サン・サルバトル島に上陸したコロンブスのように、もしその島々について、何も知らないのであれば。
バスタブの色おしえあう電話口できみは水からシャツをひろった
何かの境界線にいる、と感じることがこの頃多い。それは、パラフレーズのせいだと思う。 社会性や文学性を暗示する、高度で高尚な比喩ではなく、ただ分かりやすくするためだけに存在する、言い換えのことだ。 自らシャツを拾うことと、水からシャツを拾うことの間に、何の関係もない。 ただ単に、「水から拾いあげた」と言う方が、よっぽど分かりやすいのだ。 拾いあげるのは、どっちみち、きみだから。
ラブホテルのLOVEは森永LOVEのラブ 愛してもらえるまで右手出す
LOVEとラブの差。原価1円のコーラと、ミンチにされた牛肉が生み出す愛に全てが駆逐され、1990年代を生き延びることができなかった、資本主義的なLOVEは、ラブホテルのLOVEとして今も生き続けている。しかし、若いバンドマンが、スタジオの隣にある森永LOVEでバンド仲間と語り合うことは、当然ながらラブホテルではできない。今では、語りのステージが移り変わり、愛は去勢され、もっと洗練されたロゴのある場所でしか、誰もが語ってはいけなくなってしまった。 何円出せば、笑顔が買えるんだ?
目に泡をつけてわたしがけものだといったら星はけものなんだ
耳にはイヤホンもヘッドフォンも、イヤリングもピアスもつけれるが、目につけれるのはコンタクトレンズだけ。眼鏡は、鼻梁にブリッジを乗せ、両耳へとツルで掛けているので、目についているとは言えない。 そういえば、泡というものがあったっけ。 泡をつけて、街に行こう。 街を通り抜け、ヒッチハイクして、森に行こう。 サンドイッチを食べていると、遠くに獣がいる。遠くに星がある。 獣は鳴くけど、星も鳴いてたかな。 まあ、どっちでもいいや。
あの青い高層ビルの天井の数をかぞえてきたらさわって
不治の病におかされた孫息子を救うため、年老いた魔女は幼い兄妹に、幸せを導く青い鳥を見つけてほしいと伝えた。もちろん、見つけてほしいとは、捕まえてきて、そして私に渡してほしい、ということだ。 その鳥は、魔女にとっては既知の「あの鳥」で、兄妹にとっては未知の「あの鳥」だ。 思い出の国にも、未来の国にも、高層ビルが街路樹のように立ち並んでいて、私たちはエレベーターに乗って、操作盤のRに指を触れて、パネルメーターの増えていく数字に目を凝らしながら、そして屋上に立ち尽くすとき、ここは未来でも過去でもなく、もちろん、現在でもなくて……
ひどい目に遭わせに来たというときの夜空なの? シャワーをまぶしがる
スマホの使いすぎで、頚椎の湾曲がなくなってしまった。 ストレートネック。 スコールがやってきて、豪雨が始まった。 ストレートネックの私は、水たまりに生まれる夥しい波紋を見ていた。 スカートの端と、踝と、靴下と、靴。
言うとおりにしたのに動物もポルシェも来ないね明けない夜はないね
信号が青に変わると、タクシーはゆっくり左に曲がる。ドライバーの時給は13ドル。持ち出しは、ガソリン代と車両代、有料道路に入ればもっとだ。これだけ手元に残すためには、12時間走り続けて、12時間眠り、また12時間。繰り返しだ。 料金所を通過し、フリーウェイに入った。目的地はジャクソンビル。10メートル近い木々と、黄色く日焼けした草原が、水色の半球に向かって、限りなく続く。ドライバーの時給は13ドル。持ち出しは、ガソリン代と車両代、有料道路に入ればもっとだ。これだけ手元に残すためには、12時間走り続けて、12時間眠り、また12時間。繰り返しだ。
ふさわしい蛇が這うまでこの廊下はぼくらの道にならないみたい
今、目の前に、確かに廊下が存在する。この廊下をぼくらが歩いた後なのか不明だが、ぼくらがすでに這っている可能性なら極めて高い。なぜなら、ぼくらは蛇だからだ。 ふさわしい蛇とふさわしくない蛇の差は、廊下にある。 あの廊下を這ってきた蛇たちは、この廊下なんて通れない。ぼくらが見ている前で通ったら、道になっちゃうよ。 廊下に立ってなさい。
深夜スーパーの荒廃したレジの光 おぼえてることはあたらしいこと
1992年に西武6000系が生まれたのは、池袋線と有楽町線の相互乗り入れのためだが、これがきっかけで、西武鉄道に青い電車が登場したことになる。 ウォルマートの青と西武6000系の青を関連付けるためには、西友について考えなければならないが、西友とウォルマートの資本提携は2002年で、これはまさしく完全なこじ付けだ。 ウォルマートの青と、西武6000系の青の間に、何の関係もない。 青の一派とでも呼んでおこうと思ったけど、すぐに恥ずかしいことだと気がつきやめた。 こうやって、恥ずかしいことは、忘れてしまうに限る。
椅子だけをかさねた城跡よ 涙はいちばんちかくの星に落ちる
星の登場。クリスマスツリーのことだ。樅の木のてっぺんに、金ぴかの星を突き刺す。飾ったら、電飾を光らせる。 別に、刺さっているのは、ハートマークでもいいな、と思った。 電飾が光っていれば、何が刺さっていても、クリスマスツリーは奇麗だ。
六階の喫茶室には窓がある 花火で地球がかざられてゆく
意地悪なマスターがカーテンを閉じてしまったので、ぼくらは常連客のMからリモコンを奪うしかなかった。テレビ画面に、花火が光り始めた。漆黒の夜空と、民謡のBGMが眠気を誘う。アメリカンコーヒーとカレーを頼んでいたのに、マスターはぼくらを煙たがって、ポテトサラダを出してきた。ポテトサラダには、トマトとレタスとキュウリが飾られていて、喫茶室の雰囲気はとてもメロウだ。
夜の孫 夜の携帯灰皿をさかさまに振るこれがその冬
眠れ、メリーゴーランド のように、トグルスイッチを倒して配電盤に電流が流れ、ギアの軋む音が聞こえると、支柱についた安価なスピーカーから聞こえてくるのは、音が割れたトロイメライで、14匹の白馬が駆けながら、次第に馬はスピードを上げて、私は雨に濡れたベンチの真横に立ってそれを見ているけど、馬の色だけが、きらきら光る赤、緑、黄、白、白が揺らいでいくから、どうりで魔女みたいに安価な杖を振って、真逆に持っていたせいで、泣くことを知らない年齢で、口蓋を壊してしまう。
朝までの最長距離を美しく報告しあう事実をまじえ
雪が降るのは、10月から。 9月も8月も、埃のような雪は舞っていたが、気象庁の職員は事務仕事に追われて、窓の外を見る余裕はなかった。 定規のようなまっすぐな軌道で、凍りついた池の氷面に雪の結晶が付着し、今年の冬が始まった。
みごとな田舎の宝石だよ ぼくたちから月や家が丸見えできみがおしっこしてる
重さ2トンの軍事衛星が、ぼくたちの別荘の裏山に墜落した。 ぼくたちは赤坂の家で、それをテレビ画面を通して知ったが、別に何も感じなかった。 山肌にめり込んだ軍事衛星の、そのパネルのようなものが露出しているのを見て、ふと「何もかも丸見えだな」と思った。
こうなってみると世界はシャツの色ちがいに奇麗なドアがつづくね
明白な帰結点に到着して、自分の歩んだ人生のことを世界だと認識できるほどに傲慢さと経験を積んだのだとしたら、シャツをネット通販で買うのか、それとも下北沢で買うのかが、とても重要な問題だと、とっくに分かっているはずだ。
でたらめなルールで騒いだチェスのあと主人公が���ぬAVを見る
深夜3時の各局の番組表を見ると、テレビショッピングが5局、放送休止が3局、ギアナ高地の自然について、が1局。ザッピングしながら、まったく知識がないチェスについて調べてみたが、興味がないのでまったく頭に入ってこなかった。 チェスに必要な人数と、AVに必要な人数は、どちらが多いのだろうか、でたらめなルールだと。 と思って考えた結果、どちらも主人公が2人いるのだと、答えが出た。
てっぺんが星屑になってる組織とか顔に小径のある阿修羅とか
天体に散らばっている無数の星を、直接見たのは林間学校以外にない。阿修羅像を直接見たのも、修学旅行だけだ。 理系と文系、どちらに進もうか悩んでいると、進路指導の先生が教室に入ってきて、もっと勉強しろと言った。 それはそうだ。今のままだと、どっちも向いてなさそうだから、もっと勉強しないといけないな。
ひとりでは蛇口に蒲公英つめこんで終らせた気でいたんだろうね
呼びかけるためには、何人の人が必要だろうか。今ここには自分一人しかいないけれど、10年経てば10年後の自分がいて、100年後には100年後の自分がいる。1000年後には1000年後の自分がいて、10000年後には10000年後の自分。 だが、呼びかけるためには、やはり複数の人間が必要だ。
テレビの中の驚く顔の中の歯がいいえわたしたちには多すぎる
水たまりに生まれる夥しい波紋を見ていた。
雨雲をうつしつづける手鏡はきみが受けとるまで濡れていく
スカートの端と、踝と、靴下と、靴。
牙に似た植物を胸にしげらせて眠るとわかっていて待つ時報
田舎の正午の時報ほど気持ちの悪いものはこの世にない。鍬を段々畑の硬い土に振り下ろして、サイレンの音が聞こえてきたら、家へと降りていく。 ラジオを聴きながら、縁側に座っておにぎりを頬張り、これが眠気だと気がつくまで、こうして座っていようか。
*
引用はすべて、我妻俊樹「きみが照らされる野草」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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ゲームみたいで楽しい
何の薬か分からない薬が出てきて胃薬ではないかと予想する
脱毛サロンの広告がソーシャルゲームの広告に切り替わりその間はどちらでもないのだ
飛行機がなんで飛ぶのか分からないみたいな話みたいな話
難しい言い訳みたく雨のあとのシラサギの羽すこし汚れて
ミュージカルについてあまり悪く言わなかったことが結果的にプラスに働いた
ゲームとは四角い箱の中だけで矢印のほうつい見てしまう
エチケットが大事であとは大事じゃない 女性の名前のウエハース菓子
あなたはユリの絵を描こうと言って描いた それは素晴らしいことだと思う
それ違う映画と混ざってない? それも映画じゃなくて恐竜じゃない?
プリペイドカードに少し残っててそれがずっと引っかかっているんだ
むにゃむにゃもう食べられないって声がする私がアニメを観ているせいで
世界中の壮観な新しい11の橋という意味の見出しをクリックして Webサイトを見る 英語の
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他人の鳥
人々の胸から鳥が羽ばたいて夕焼けで燃えつきて光った
明らかに加速し出したバスなのに言葉を知っていく僕らの夏
どの人もリュックサックにかすりつつちゃんと他人になって降りていく
知るすべがないこころへの想像のすべてを拒むようにある崖
ゆっくりと感情は果てその胸に微かな鳥の鼓動を聴いた
降り立てば溢れる木陰 そうやって濾されてしまう魂でいい
飛ぶ鳥の自由な影を憐れんで君は広場の明るさを言う
そういえば何も知らない たくさんの柱にすぎない街を歩いた
隣人のような微笑を向けられて静けさだけが本当のこと
見つめ合うたびに僕らは繭として瞳の奥で膨らんでいく
心臓をついばむ鳥は逃げ去って鳥籠をただ撫でる日の暮れ
涸れるまで言葉はよどみなく君を満たし続ける暗渠のように
風景を断ち切るビルのたくさんのドア 僕たちのドア 暗くなる
ベランダで凭れる君はひとときの暮れゆく空の影であること
言いながらひとつひとつは丁寧に剥かれてどこか遠くのナイター
そうだよこれは夢からこぼれ落ちた炎 胸に灯してまた夢を見る
他人の手・他人の耳をぼんやりと眺めていれば幸福だった
〈すべからく崖であること〉傘をさし空が与えるものを思えば
石巣から聞こえる歌は僕たちが知らない鳥の知らない歌だ
束の間の雨に打たれた原っぱの光を宿す樹木をゆする
胸元に古びた地図をつきつけて深いみどりの方へ一緒に
草むらにころがる繭をくわえては崖へと吸い込まれる鳥の絵
空中でゆっくり回転する君の眠りは尽きて、明かりを灯す
鳥の声 見渡すかぎり色彩で、木になることをやめて歩いた
いくつもの舟が水平線に溶け水平線の確かさは増す
夕映えがすべてを包む 名を失くし原寸大の地球で暮らす
哀しみは記憶の果てで燃えあがる崖 ただ燃えるだけの静けさ
ひとつだけ夢に残った偽物の電話に声を吹きこんでいた
冗談のように降る雨 一度だけ振り返ろうと思いつつ泣く
てのひらで小鳥をつつみこんであの夕日に君が放つ 最後に
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線/オルタナティヴ
ボールへところがる風のいくつかの赤青緑、ほら芝生だよ
歩みつつ小鳥が影になっていく公園にあの城があるはず
打楽器をあれから洞窟で待っていた何人も通り過ぎても
さざなみに茶菓子を皿に流されて誰の番なら飲��るのだろう
もう少し斜めに近い尖塔の光が曲がりながらライフル
霧のなかギャングがいないフラッシュの眩みに馬が駆け抜けていく
ライオンをピアノ線から切り離し青ならどんな悲劇なのかな
テーブルに置かれるための本があり一本の木を海に見つけた
ゆるやかな丘にはネオン・兵隊のネガなら昼の路地で会いたい
渓谷に花火は遠いその午後に踏み抜く川のような光だ
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面/コントロール
轍に骨は連想させる力へのカーブが続く海の道へと
窓越しに木々のイメージ咲いていて緑に赤が溶けだしている
夕焼けに落ちていくデジタルの海 左右のずれを汽船が通る
彗星に知ってる人のてのひらを閃きながら泣いているから
どのように霧へと去っていけるのか記憶のような自分になって
ガラスから星に絞って目に映えて でもたそがれに覆われていて
マレーバクばかり歩いている街の影を踏み抜いたら夜になる
雪が降る前に歩いていた砂の道から四季に捻じれていった
漂白にゆらぎつづけるピクセルの山には緑だけが光って
ボサノヴァで引き延ばされた視界まで羊が黒いままやって来る
もういない草原に着いたら海を思い浮かべてどうすればいい
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内容だけのものが動いている
ぷよぷよが上手な人の中にある抽象的なぷよぷよのこと
質問に質問で返してもよいと言われ保険に加入して良かったと思う
マインドフルネスについて調べているあいだにブロッコリーを茹ですぎる 森を想う
疲れてる愛してる疲れてる重なっているケーキ横から見ている
何もしたくない一見ストレートのようだがスプリットという速くて落ちる球
複数のことが同時に起きている 水田沿いに走る県道
花を買って誰かにあげたい わたしは 地下通路で駅とつながっている
コストコで買ったハイチュウ多すぎる 難しいこと考えすぎる
遊んでいるようにしか見えませんが、決して遊んでいるわけではないのです
愛と画像。段ボール箱開けるとき使う力が私から出る
決闘で死んだ作家の小説の書き出しに似た手紙が届く
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レプリカの終わりに
もう木々は腕を夕陽に恵まれてそうだった観覧車を壊す
どの影を交換するの 熱狂でどんな嘘でもつける未来で
居合わせて躊躇はないが理由がほしい 複数の花火が人を待っているなら
まやかしの首筋に怒れそう(きれい?)ここにいることをあなたに告げて
冷やかしを知らない人の流儀は欲深く、足早で構わない。できることは決闘ばかり
ご存じの海は刃に始まった いつまで続く彼ら彼女ら
気高さが望み通りの靴になりあなたにしては大切な翳り
変装と常識でこっそり泣くことは少ない これからも片隅を思い知りながら信じる
つめたさの天使が雨の反駁を 眼鏡をかけるあいだの未練
見せつけて 警句が生きている感じ 思い通りになるようなあこがれ
残酷なスピードだから影がない飛行船にはスペクタクルが
あなたに話す楽しいことで外された違和感だけど読みかけの本
日だまりに座って墜落(どう生きる?)死角に消えた猫のようこそ
恵まれた花火に悪意 委ねても笑いかけてもどしゃ降りのレプリカ
火はなくて凍える海にてのひらを浮かべてきっとすぐ泣けるから
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海辺の一日
(『わがからんどりえ』についての小文)
1
夏病みて海を望まずともかくも夢の名残りの白き帆走る 小中英之
実際に夏の海に出かけていたとしても、秋になれば記憶は夢のようにおぼろげになる。ススキが秋風に揺られているのを自室の窓から眺めつつ海辺の光景を思い起こしても、断片的にしか思い出せないだろう。細部ばかりが肥大し、夏の雰囲気は懐かしさや感傷に取って代わる。
白い帆の下で笑顔を浮かべている若者の藍色の水着、ほどよく日焼けした小麦色の肌。海面に反射する針のような光のなかを、ヨットはゆっくりと横切る。そのワインレッドの塗装の輝き、潮風の匂い、隣にいる人間の耳触りのいい声、夏の日ざし……、もしそれらが存在するのだとしたら、記憶が完全なイメージになるにつれて、今の自分は現実から消える。
もう一度。夢が失われる前に、夏の海辺で駆けまわる。足の裏に砂の熱さを感じながら、光線のまぶしさに思わず目を細め、波しぶきや磯の匂いにほんの少しだけ顔をしかめる。自分の周囲に立ち上がった光景が、現在と、ありえたはずの過去を結びつけ、そして、ヨットが見える。
目覚めた瞬間には、すでに夢は夢の残滓であり、懐かしさへと絶えず変化し続ける。白い帆は水平線に向かって遠ざかり、いつしか見えなくなる。記憶の不完全さが、今の自分の確かさを、より確からしくするはずだ。
だが、自分自身と光景との識別がつかないほど忘却してしまった記憶の、完全なイメージのなかでは、ヨットは永遠に横切り続ける。
空は青く澄み渡り、海はいつまでもきらきらと光り輝く。白い帆が、まるで眼前にあるかのように走っている。入道雲の輪郭がくっきり見える。
それでも、仮にそうだとしても、完全なイメージにも時間はつねに忍び寄ってくる。
これは本当に永遠なのか。心地よい風が吹きこむのは、ほんの一瞬なのではないか。短歌は青春に過ぎないのではないか……
いつまでも、どんなポエジーにも、疑念の影がさす。
だから、ともかくも、白い帆を眺めているのだろう。 2
リラの花ゆれて風あり 聖母の星ステルラ・マリス 生くるかぎりを喪にしたがはむ
花が微かに揺れ、風が吹き過ぎたことにはじめて気がつく。薄紫の花弁が枝々に咲きこぼれている。風を認識するまでのわずかな時間、風とは、リラの花の甘い香り、艶やかな色彩だ。
ところが一字空けの後、花々の芳香も色彩も、すべてが暗闇に塗りつぶされ、星が瞬きはじめる。海の星(ステルラ・マリス)が、暗い心の奥底に灯る。風が星を呼び起こしたのだ……
この一首だけでも十分に幻想的なこの星は、「聖母の星」と題された三首連作の末尾に置かれることで、深い夢幻の底へと沈んでいく。 肉の類食まず睡らむ闇のうち浅き夢にも罪はくるしゑ 幻聴にくわくこう一こゑ哀しみのはてなほ森にひかり溢れて 夢も幻も、人間が見て聴かなければ存在しない。心が生じさせるものだ。しかし、寝室の闇の内側にいる自分の心が、下句の「浅き夢」を夢から妨げる。浅いという認識、感情を反映した心によって、夢幻に意味が混じりこみ、苦しみが持続する。その苦しみは、夢の深みへと降りていくにしたがって、哀しみに移り変わる。さらにその果てに、光あふれる森を生み出す。
罪や哀しみの果てに光があふれ、星が生まれるのだとしたら、「生くるかぎりを喪にしたがはむ」という決意は、星であり花であり、そして風なのだ。
懺悔と決意は、浅い夢では決しておこなわれない。 3
風光るうつつを沢に独活の芽はいまだ未生の神かも知れず
水平線へと消えたヨット。心の底に沈んだ海の星。風、光。
独活の芽は、神なのか? 4
遠景をしぐれいくたび明暗の創きずのごとくに水うごきたり
遠くを見ようとするまなざしの存在。あくまで比喩的な意味合いでのカメラのレンズのような正確さではなく、あくまで比喩的な意味合いでの人間の眼が見る不正確さ。
遠いためにぼやけてしまう風景をイメージによって捉えようと、直喩のなかで動き続けていた水は、幾たびも通り過ぎるという曖昧に繰り返される認識によって、記憶へと変化し、身体を巡り始める。
春夏秋冬、輪廻転生、起床と睡眠のサイクル。眼前の光景が、循環や円環へと捉えなおされている。
明るさはやがて翳りへと移り変わり、夏の野山は冬に向かって褪せていく。夢は覚め、現実が訪れる。
独活の芽が芽吹くとき、それまでの季節は終わる。同時に二つの季節に存在することはできない。
しかし、「白き帆」のような夢に一瞬現れるイメージは、遠い憧れの残滓でありつつ、何度も眠りのなかに舞い戻ってくる日常的な事物でもある。いや、日常的であってほしい、と言った方が適切だろうか。
ともかくも、遠景と近景、現実と夢幻。二つのアンビバレンスな世界を循環させ続けるため、イメージは脆く儚く、おぼろげなのだ。ともかくも、と留保するかぎりは。 5
昼顔のかなた炎えつつ神神の領たりし日といづれかぐはし
昼顔の向こう、ぎらぎらと太陽が照りつける夏の陽光の彼方に、神々が領していたような日々が見える。幻想へのイメージと、イメージへの幻想。紅色の淡い花々が炎えている。
どちらがかぐわしいのだろうか?
氷片にふるるがごとくめざめたり患むこと神にえらばれたるや
*
引用はすべて『小中英之歌集』(二〇〇四年、砂子屋書房)より
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ある草原の消失
道連れの涙の淡い彩りに小鳥は満月を踏んできた
青空が歪んだ夏の哀しみは枯らした静脈も色あせる
眠りたいなら地下室へ行けばいい 愚かさが助走のように必要ならば
どうしても水の淀みの根が張ってわずかな影の痕を揺らした
血の球が粉々になる硝子へと僕らの暗い火を投げ入れて
やすらぎが瞳を閉ざしかろうじて鳥の死がある陽光のなか
草原が舳先になって傾いてそうして雨の音が響いた
遠景の人々はもう木のような倒れることのできない死へと
終わらない光のなかでどれほどの驟雨を浴びた太陽だろう
指させば何もなかった死に際の木々に炎の実が揺れている
ある晴れた午後にフランスパンを買う 川の向こうを覚えていたら
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