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かわいがっていた金熊ハムスター「亜輝英」(あきひで)二歳三か月でした。かえでの朝顔、もう最後の花かな、咲いていたので入れてあげました。プランター葬です。少し前に詠んで結社誌の会員の短歌に入れて提出した歌。 ハムスターは二歳でシニア亜輝英は舌で薬の滴を受ける https://www.instagram.com/p/CGw5S3RLPBR/?igshid=1fqj61zhu93mq
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190502
西宮北口でまず乗り換えなあかん火星に攻めこむときも
/谷じゃこ 『ヒット・エンド・パレード』
おもしろい歌だというのは間違いない。乗り換えという生活のルーチンから火星侵攻につながる展開。突飛でとても好きな歌だ。しかし僕にはこの歌が妙にリアルに感じられるので、ちょっと考えをまとめようと思う。
西宮北口駅といえばそこまで大きくはないものの、神戸線や今津線の乗り換えがある駅で、きっと主体はそのへんの一路線しかない駅の最寄りに住んでいる。だから大阪に出ようにも京都に行こうにも、西宮北口を経由する生活がしみついているのだろう。
その、「どこへ行くにしても」のルーチンに気づいて、たとえ火星を攻めようとも同じだと主張するレトリックはとても効果的だ。しかし、火星に攻めるという事態が発生するのであれば、なんでもありなわけで自宅から宇宙に飛んでいってもいいのでは?などと感じたりもする。
変な話、火星を持ち出された時点で、路線を経由する必要は、ない。
それでも経由するのがこの歌の面白さであり、妙にリアルなところなんだと思う。きっと主体にとって火星侵攻のシナリオはリアルなのだ。ロケットのあるところを想定して、そこまでの通勤めいた道のりまで想像している。だから乗り換えがいる。
この歌から感じる宇宙侵攻用の基地は、都合よく自宅の近くにあってはくれない。それは主体の想像力の裁量であるはずなのに。そしてそれが、主体の最寄りに対する認識の裏付けなのだ。そこに生活のリアルな実感がある。だから乗り換えて火星に行く発想が生まれるし、想像の世界なのに火星侵攻に妙なリアリティがあるのだろう。
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190511
おめでとう免許更新センターで出会うすべての秋生まれたち
/大葉れい(Twitter)
作者ご本人のTwitter上の発表を確認したため孫引きではないものの、初出は別かもしれません。ご了承ください。
発見の歌として巧みであることは確かだ。運転免許の更新は、その人の誕生日の一ヶ月先が期限なわけで、だいたいそれが迫ったときに更新に行くことを考えるとそこに揃っている人の誕生日はおおよそ一ヶ月から二ヶ月の間で固まっていることになる。
「秋生まれ」という捉えかたは範囲として適切で、かつ主体もそこに含まれているのだろう。更新センターに集う大勢を共通項でくくる連帯感が読んでいて心地よい。
そういう発見も歌の良さなのだけれど、それを「おめでとう」という感慨で飾っているところにも注目するべきだろう。誕生日おめでとう、と読むことはできるが、おそらく誕生日そのものは過ぎてしまっているひとも多いはずだ。
ここにあるのはきっともっと広い祝福なのだと思う。生そのものへの祝福だったり、免許があたらしくなった祝福だったり、生まれ月が近いという共時性に気づいた主体が、そのこと自体に心が動き祝福の言葉をかけているようだ。
読み手としては、主体の描写でたくさんの名無しの他人を想起させられるのだが、そのすべてに親近感を覚えさせられ祝われるのを目の当たりにさせられ、うれしさがおすそ分けされてしまう。
また「秋」という季節は主体の属性により交換可能だとは思うが、結果秋だったことで、なんとなくあたたかいイメージも増幅されているようだ。
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190516
花束を下向きにして持つことをきみに教へたのは誰ですか
/有村桔梗 『夢のあとに après un rêve』
一読してとても好きな歌だと感じつつ、結句の意外性に驚きながら表現自体の意外性の薄さも感じて戸惑った。そのあたりも歌の魅力なのかもしれない。
上句で示される、花束を下向きにして持つ「悪さ」というか、行儀もそうなんだけど束に対してよくないようなそれ。単純にそのマナーを指摘するものとして、下句が機能することは可能だ。
けれどこの歌からはやはり、そう持ってしまう「きみ」の心情が滲み出てくる。花束は基本的にはお祝いの象徴だ。追悼にも使えるが、その場合の花には敬意が払われるだろう。もちろんお祝いでもらった花も同様だけれど、きっと僕たちはそういう場合でないお祝いの例を知っている。
花束はもらった。しかしその心中に宿る複雑なもの。結果として下向きになってしまう花束。それを受けての下句の心情であろう。
となると「きみ」にそうさせているのは「誰」という特定の人なのだろうか。ひょっとすると環境だったり、色んな背景だったりするのかもしれない。きみに教えたのは「なんですか」と訊くのが適切なような。そう、上句の情景を受けてなお「誰」と誰何するところにこの歌の面白さを覚えた。
あるいは主体は歌の背景をより深く理解していて、この場合は「誰」がいるのかを知っているのかもしれない。主体と「きみ」にはそう遠くない心のつながりを感じる。
いずれにせよ「何」よりも「誰」は限定的な表現だ。その切り込み方が、想像の余地を広げてくれる。そこにひとつのドラマがある。
※追記※公開後、昔は花束を下に向けて持つものだったと教えていただいた。言わずもがな僕の読みはその発想にない。だからこそ人前でそう持つことの背景を想像していた。僕は世代の割に無知すぎる気もするが(ちょっと上文が恥ずかしくなってきた、残すけど)、これからこの歌はどう読まれやすくなっていくのだろう。
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190528
本州のかたちで眠る泣きながら(太平洋の側が背中ね)
/nu_ko(ウェブサイト「うたの日」)
一般的に僕は、上句と下句で同じようなことを言っている短歌があまり好きではない。好きではないというか、別に下句いらんやんと思ったりしてしまう。なんだかその態度を反省させられるような一首だ。
「本州のかたちで眠る」のである。そんなに想像は難しくないと思う。なんかこう、バナナみたいなかたちだ。本州。細かい半島とかは気にしなくていい。本州だから。なんとなく反ってたら本州っぽくなる。
そんなの、太平洋の側が背中に決まっているだろう。日本海側が背中だったら海老反りみたいな格好だ。泣きながら眠れるわけがない。そういうわけで、この歌の下句は、まあなくてもいい。少なくともその情報は上句で推察できる。
なのに。そのはずなのに。この下句を受けて、「ああそっか」と思ってしまった僕がいた。当たり前のはずなのに。
これはきっと、僕が日本列島に持っているイメージのせいだ。山陰山陽という表現がある。日本海側が「陰」だ(これ、まあまあ失礼だよね?)。なんとなく僕は日本列島があれば、日本海側が裏のような、つまりは背中のような感覚を持ってしまっている。ぶっちゃけそういう人が多いと確信もある。
この、なんとなくの感覚があれば下句の指摘は大事なのだけれど、体勢の比喩として読むなら指摘はいらないのだ。このぶつかり合いがあって、でも文章上はあたらしい情報を提供することなく、下句は存在する。
「あっそうか」と「そらそうやろ」が混在して心に湧き上がってしまう歌ということだろうか。そりゃ心に残るのも仕方ない。
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190606
側溝の蓋を這ってたミミズなら乾いていたよちょうど正午に
/深水きいろ(ネットプリント『境界』)
観察の歌というのは観察される対象ももちろんながら、それを観察している主体がいて、歌によっては観察している主体自身のことを言っているケースがあると思う。
この歌もそうで、たしかにミミズが干からびている景にはそれだけでポエジーが宿っているのだけど、ミミズの観察のしかたをきちんと語っていて、そこにやばさがある。
やばいというのはやっぱり「ちょうど」の部分で、とりあえず主体はちょうど正午にミミズを見ている。ミミズの死の時間を記録するのって不可能ではないし、なんとなく正午だなっていうのはわかるかもだけど、「ちょうど」にはどこかこわい正確さがある。
また、上句で側溝の蓋を這っている、つまり生前のミミズも描写できているので、それなりきに長いこと、主体はこのミミズを観察している。死んでしまったミミズだ、おそらく這った距離はそんなにない。観察範囲は狭い。そこを、どこかから正午にかけて、ずっとかは不明だけれど、見ていたのだ。
ただ、この意外とシビアな視線はやはり歌として成立しうるもので、むしろ観察の歌としてはアリな気もしてくる。しかしこの歌は「乾いていたよ」のような語りかけがあって、この観察を、つまりミミズが「こう干からびた」のを「こう観察した」ことの、言いたさが見て取れる。
それはどこか、生前のミミズまでは共有していた人への語りかけのように聞こえる。読み手として、そういう気持ちでこれを聞いてみると、私は正午まで見てましたけどね、という含みまで聞こえてきそうだ。
この主体が語りかけている人は、正午にいったいなにをしていたのだろう。怖い。
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190705
キライってきみにフラれた同盟ですピーマン、煙草、ぼく、月曜日
/芍薬(ウェブサイト「うたの日」)
下句の羅列構造が印象的な歌で、こういうとき、やっぱりなにを最後に持ってくるかというのは大事ではないかと思う。そこで「ぼく」じゃないんだ、という外された感覚と、いや「ぼく」だったらそれはありがちな感情の力点だったのだろうという思いがある。
「きみにフラれた同盟」というポップな書き方が、多少地に足の着いてないものの例示を許可しているようだ。そこからピーマン、煙草と、キライな人が多そうなものがあがっていく。
次いでの「ぼく」は、同盟が「きみにフラれた」なのだからある意味いて当然なのだけれど、先の二つを受けているのでああそうだったね、という感覚になる。現実味が増している。そこにきて大トリの月曜日に意外性がある。
月曜日がキライな気持ちはわかる。僕も社会人であるし。しかしこの、もはや時間概念をフラれた同盟にしてしまうのか、と感じたところでひとつ気づく。そうか、この4つは「きみ」が「避けられる順」なのだ。
ピーマンは「きみ」の努力次第でかなり避けられるだろう。煙草もそうだがピーマンに比べると我慢する機会もありそうだ。「ぼく」は、「ぼく」次第なので「きみ」はコントロールしきれない。極め付けの月曜日は���逃れようがない。
羅列があがっていけばいくほど、「きみ」がフって会わない難易度があがっていく。それを月曜日の選択はしめせているし、そんな中で真ん中に置かれた、真なる意味でフラれた「ぼく」がいる。この羅列を作っているのは「ぼく」なのであり、そういう流れの中に自らを位置づけて、このことを消化しようとしているのをひしひしと感じる。
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190903
あ、しぬ。と気軽に言っちゃうきみがすき。すこしみらいで許されていて
/初谷むい 『花は泡、そこにいたって会いたいよ』
すこしみらいで許されていて~~~!!言いたーい!!って気分になった。言いたくないですか?
すこしみらいで許されていてというのは、今は許されていないといえるだろう。だから未来で許されてほしいのはわかる。そんな世界にならないかな。でも、それが「すこし」未来なのだ。これは、許されてほしい事柄が「簡単に死ぬって言っちゃうこと」だからだろう。
死ぬって言うことが許されていない世の中では、いまもない。けれど、TPOを持ち出せば不適切になってしまう場合もある世の中であることも確かだ。そんなとき、それがいつでも許される未来だったらいいのにな。でも、「しぬ」って言っちゃうから。遠い未来だとしんじゃうかもしれないから。の、「すこしみらい」なのではないかと感じる。
「近未来」という言葉もある中であえてひらがなの「すこしみらい」という表現を選択したのは、それが主体の思い描く世界線の延長であるかのようだ。そもそも上句で、こんな「きみ」を主体は許している。だから今主体が願うのは、世界の「きみ」に対する許容。そんな「きみ」には「すこし」の先で報われていなければならないはかなさがある。
この、どこかはかない感じと、歌のことばの軽さ。そもそも「しぬ」って言っちゃうのは「気軽に」ということでまた軽い。厳密にいえば「あ、しぬ。」だ。それこそ思い付いたような。ぽっとでてしまう言葉。ここに並べられた言葉は、意味じゃなくて、質がどれも相当に軽い。
軽さにつながるはかなさがあるからこそ、歌の祈りは切実になる。あまり深刻なことを言ってないはずなのに、「でもそうしなきゃ」「きみ」は消えてしまうんじゃないだろうか。そういうあやうさを含ませたまま、楽しげにかたられる歌の世界がいとしい。
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190915
たぶん私裏返しのまま生きていて君が触れてるのがおもて面 /小池佑(フリーペーパー『TAOSU』)
性愛の歌を、あるいは性愛の歌として読んでいく歌を、ここでとりあげたのははじめてかもしれない。これは僕の好みの問題というよりは、性格上のものなんだろう。自分でもほとんど書かないし。ということで、その練習もかねて。
歌を読んでまず思い浮かべたのが、裏返しに干されている靴下だった。それに手を突っ込んで、元に戻そうとする瞬間。セックスの挿入行為で、そことそれ以外を中/外で対比する歌はよくあるが、裏表でとらえるのは珍しい。しかし、それが行為の「今」「表が」「あらわれた」様をよくとらえている。
普段人に見せているのが裏で、君に触れさせているのが表という把握の面白さは、なんとなく認識としてある「裏面の雑なイメージ」を呼ぶことだと思う。日頃他人に見せることがない、というのもそうだし、そもそもだからこそ、雑な。それはそのまま、主体の他者に対する投影の把握だと思う。
人体において中と外は両立しそうだが、裏と表はしなさそうだ。中も外も見せることはできそうだが、裏と表はできなさそう。この主体が他者に表を開示するとき、それはもう、ぐわっ、と裏返らなければだめだ。そういう状況で「生きていて」と語ってしまう主体。
ただそれはセックスの最中の今の気づきなのだろう。日頃裏で生きているという認識があるというよりは、今、こうだから、「たぶん」そうだと思ったのである。この刹那的な気づきはやはり官能詠として秀逸だと思うし、そこが表なのかよーっていう生生しさも感じられる。
語り口じたいは、とてもフラットだ。理性的な把握を見せている、ともすればぼんやり物思いにふけっているかのようなテンション。しかしやはりこの歌は、前述のような心情でないと生まれえない歌なのだと思う。
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191102
左手のないサボテンのこんにちはまたはさよならまたはたすけて /中牧正太(ウェブサイト「うたの日」)
なんとなく、穂村弘の「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」を思い出すのは、サボテン⇔サバンナのアナロジーと、かけ��いの畳みかけ方がポジティブ→ネガティブになっていくからだろう。とはいえ思い出すだけで、この歌にはこの歌の魅力がある。
「左手のない」を読んでいきたい。右手はあるようだ。L字型の、九十度曲がって上を向いていそうなやつ。左手があるとするならば、こっちは九十度曲がって下を向いているのかもしれない。とりあえずないから、片手をあげているように見える。
まずそこから主体が最初に思ったのは、「こんにちは」になる。たしかに。こんにちは、というよりは「よっ」って感じ。そのあとに、いやいやそれ以外にも読めるでしょ、と提示してくる。「さよなら」というより「じゃっ」って感じだけど、たしかにさよなら。
そのあとの「たすけて」に意表を衝かれる。さきのこんにちは、さよならはまだ軽い感じがあるのだが、一気に切迫する。そうかそれもあったか、と思う。そして、この主体ははじめから、「たすけて」を読み取っていたんじゃないかと想像させられる。
この歌は、こんにちは→さよなら→たすけて、の順に主体が読み取った、ような気がしない。そういう意識の流れは見られない。むしろなんで「たすけて」を読み取っているのかというと、それが「左手のない」なんだなっていう帰着へとつながっていく。サボテンをみて「左手のない」って把握する主体は、「こんにちは・さよなら」より「たすけて」を視るだろう。
だからこの歌は、ものすごく主体が「語り倒している」歌だと思う。こんなサボテンは「たすけて」なのだ。その前に、枕として「こんにちは・さよなら」を置くけれど、それは後付け。それくらい、「たすけて」を分かってほしいんじゃないか、と思う。
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191130-1
雨はゆめのどこから降るか紫陽花をゆめの端から湿らせて朝 /荻原裕幸(『短歌ホリック』第5号)
夢ってものの受動/能動の不思議な感覚をかなり正確にとらえた歌だと思う。僕の把握とどんぴしゃなことを言ってもらえた、みたいな。だって夢って制御できないようだけど、作り出しているのは自分でしょ。そんな受動/能動。
夢があって、雨が降っている。それはどこから降るか?空だろう。そこに不思議さがあるのは、夢は自分で作り上げた劇場のようなものだから。きっと主体の夢という劇場は、雨は登場しても雨の降ってくる先はつくられてない。RPGの世界の、作られた部分だけが夢、ってこと。
その「作られてない世界」があるんじゃないかという不思議さは、それを「作った」能動性から雨だけなぜか「制御できていない」受動性を感じているものだろう。それが夢の変なところだと思う。その切り取りがまず面白い。
下句。これも夢の劇場、箱感がある。「ゆめの端」だ。夢には端がある。それは時間的な端ではなくて、空間的な端。紫陽花があって、それは「端から」湿らせていく。「湿らせて」。あくまで主体が。雨によって。濡れる紫陽花はある程度主体の支配下にある。
そういう不思議さはよくわかり、「朝」と締められると、この不思議さを主体は夢を見ながら感じていたのかな、と読める。その感じもすごく共感する。自分の設定した領域がすごく夢にあって、その外は謎のまま目覚めてしまう。
夢ってそういうものだとは思うけど、改めてそれを教えてくれたような気になってくる。「ゆめ」と開かれているのもそういう不思議さを持っているからだろう。漢字にすると一般名詞の説明できる夢になりそうだ。そうじゃなくて、よくわかんない「ゆめ」なのだ。
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191130-12
ひこうき雲のびてゆく空わたくしは理想のラーメンを想い描く /北山あさひ(『くわしんふう』より)
短歌的主体の「わたくし」って四音必要なときにあらわれることもあるけれど、基本的には折り目正しい発話になるじゃない。そこに「理想のラーメン」といわれてしまうと理想のラーメンが折り目正しくなって笑ってしまう。
全体的な韻律に負荷がなく、のびやかに歌を読める。のびやか、のイメージは歌にも繰り返される。ひこうき雲が伸びてゆくさま。そこから理想のラーメンに発想が飛んでいるのは、ラーメンの麺をお箸でみょーんと伸ばしているあれにつながっているはずだ。
さて冒頭に言及した「わたくし」であるけれど、正直なくても通じる歌だと思う。通じるというのは、自明に「わたくし(主体)」であることが通じるという意味だ。そこにあえて入れられてしまうと、やっぱり「ほかの人は知らんけど」というニュアンスを読み取ってしまう。
だれか一緒に見ている人がいる、という読みもできるが、もっと広く、ひこうき雲を見ている人は「わたくし」のみであるが、それは「わたくし」が観測できる範囲の話であって、誰かこの雲を見たらそれぞれ思うことはあるのだろう、でも「わたくしは理想のラーメンを想い描く」。
その意味で、理想のラーメンを想い描くのがちょっと変であることは、主体もわかっている気がする。わかったうえでやる。想い「描く」というのはひこうきが雲を描いているのとパラレルだ。その重ね合わせはあるのだろう。
のびやかな軌道を描くひこうきを前に、のびやかな軌道を描きたくなる主体。ラーメンの軌道がのびやかになるかどうかはさておいて、それでも「理想」のラーメンなのだから、主体の好きにできるし、これを読んだ読み手の好きにしていいことなのである。
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191130-13
ここで泣きやめば相手に主導権握られるなぁ、って、脳の考え /小坂井大輔(『短歌ホリック』第6号)
ヤバい人じゃん。メタな歌というか、メタのメタな歌だなって感じ。メタのメタまでしっかり読み手に開示してしまうから、この人ヤバいなとなってしまう。いや、もちろんこの人の状況もヤバいのかもしれないけど。
ここで泣き止めば相手に主導権握られる、という、状況自体には大いに共感できる。涙も交渉の一つだ。たぶん相手はすごく言葉巧みに泣き止ませようとしているのだろう。しかしそのハードルをクリアしたら、言葉巧みな相手だから、論理の話になってしまう。泣いている間だったら、感情の話だから、とりあえず泣いているほうに主導権がある。
と、いうのを、主体がわかっているのである。わかったうえで、泣いている。現在進行形で。ここにひとつめのメタがある。これ考えてて、泣き顔なんですよ?怖すぎでしょ。
しかし事態はそこに留まらなくて、「脳の考え」なのである。「私の考え」じゃない。今のは、脳ですと。こう書くと、脳のさらに統括部門として、私がいる気がする。これがふたつめのメタだ。
つまり、主体は泣きながら、冷静にここで泣き止むわけにはいかないと考えてしまっていて、それが「脳の考え」だから「もうちょっといける余地」みたいなのを持っている。「私」に、まだ余裕がある。泣き顔で。
たぶんこの先、自分が泣き止んだとして相手がどんな言葉をかけてくるだろうとか、そもそも手を変えるべきだろうかとか、そういうことを、「私」の「脳」は思えてしまうのだ。「って、脳の考え」って俯瞰しながら。その間もとりあえず、泣き顔で。
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200115
ずいぶんと先の話をするんだねその手作りの手相を見せて
/戸田響子(『かばん』2019年12月号)
「その手作りの手相」がひたすらによくて、結構読み筋はぶれると思われつつ、どうとってもそのよさがかかってくるんじゃないだろうかと思えるようなよさなので、色々読んでいきたい。
そもそも下句の「見せて」が倒置なのか(手相を見せて先の話をする、ということだ)、呼びかけなのかは確定できない。個人的には前者だと思う。後者であれば、「手作りの手相」をまだ見ていないことになるが、上句の感慨は手相を既に見たように感じられる。
とはいえ両方で解釈はされうるだろう。また、「手作りの手相」が具体的にどんな手作りなのかという点もある。手のシワを無理やり作ったのか、そもそも書いたのか、手相の本のようなものを手作りしたのか。
いずれで読んだとしても、たしかに手相をもって「先の話をする」ということは共感できるつながりだし、その先の話が「ずいぶんと先」なのに対して手相が「手作り」だからこそギャップが生まれる。面白い。
そして付記するなら、いやこれこそが本質かもしれないが、「その」がとてもよい確定を歌にもたらしているのではないだろうか。「その」とかいたら確定する。手作りの手相が、実際にある。
ともすれば大げさといえる表現は、話を盛ってないかという邪推が入るのは、短歌の場合でも同じだと考える。それを打ち消す確定。そこではじめて、手作り��ゃないと先の話がしづらいのかな、というリアルな推測もできるようになる歌だ。
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200205
屋上で一人見上げた月なのにそんなに光ることないだろう /泳二(「みんなすっすす」より)
わーわかる、と一読思ってしまって、これは結構多くのひとがわーわかるって思うんじゃないかという謎の感覚があるわりには、なんでわかるんだ?となってしまったので、そのあたりを言葉にしていってみようと思う。
わかる、つまり共感の部分は下句「そんなに光ることないだろう」にある。光が当たるというのはある種の自己肯定でもあるから、肯定感がないと光で照らさないでくれ、という気持ちになる。それがあるから、今の主体はそういう気持ちなんだなと察して、そこに共感する、のだろう。
しかし、月に対してこう言うのは不自然でもある。雲の加減や満月度によって差はあるから、そういう状態としてちょうどいい状態でいてくれ、という願い、ならリアルさもあるけれど、けっこう理不尽な要求だとは思う。月がしゃべれるなら無理ですって言いそうな。
ただ、読み手からしたら光量の要望に対する「わかりみ」が、この要望の「無理み」を凌駕してしまっているので、いや人によるか、その凌駕を感じた読み手にハマる歌なのかもしれない。言い分の「無理み」すら楽しくなるような。
この主体が月をわざわざ屋上に一人で見に行っているというのも面白い。ここまでであれば、主体が月に求めるものはさまざまだろう。むしろ、思いっきり光っていてほしい人だっているかもしれない。あ、そう感じるのか、がまずあって、でもわかるな、になると一気に面白くなる。
しかも、歌の中では月がめちゃくちゃに光っているのである。それを読み手は、歌の主体を通してメタに見る。それだけ月と、物理的ではないにせよ距離がある。こんなに光っている月との距離感としては、とても心地いい。
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200306
跳びあがり摑んだ枝はやわらかく あきらめ方がよくわからない /江戸雪『百合オイル』
歌会に行って一字あけの歌を出せばその効果やらが問われてしまうものだけれど、そういう意味では、一見、なくてもわかる歌だとは思う。テンポ的な意味合いでは、別にあるからリズムがよくなるような字空けではなくて、でも好きな字空けだ。
「やわらかく」と言い差しているので、下句の心情に上句がしっかりリンクしているものと感じられる。「やわらかく」が意外なのだろうから、枝は固いと思ったはず。跳びあがって摑む枝に固さを予想するとき、どこか、それを足がかりならぬ手掛かりにしようとする気持ちをおぼえる。
摑んだ枝を起点にぶらさがったり、木を登って行ったり、僕は後者で読んだけれども、そういう、枝なる小さなものに手を伸ばす必死さというのがあって、でもそれはうまくいかないのだ。そういう体験って、この描写を比喩的に読んで思い当たるふしがある。
これに対して、あきらめ方がよくわからないというのは、どこか前向きだ。何度でも枝に手を伸ばしてしまいそうな。かといって、そうするしかない、という後ろ向きさもどこか感じる。上句のようなことを繰り返してしまう自分がある。
この、上句から下句への移りというものは、一字空けがなくても読めるとは思うんだけど、あるからこそ、どこか、枝を掴めずに落ちてしまい、しりもちなんかをついて、立ち上がるような、そんな「間」を感じることができる。
実際、その間があるほうが、主体に共感できる気がするのである。下句の心情に至るまでに、す��しの整理を必要とするような。僕はこの空白をそう読んだし、漫画のコマとコマの間の、描いてないけど当然の行動、みたいな効果だと思っている。
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200415-R19
追い越せず浴衣姿の若者に付いて歩いた保護者のように /和田晴美(「うたつかい」第33号)
なんというか、そこ、、、!みたいな、かゆいところに手が届いたみたいな、かゆいところを言語化してるわけではないんだけど、そのかゆいところを見せることには成功しているような、そういう歌って毎日でも書きたくなっちゃう。
他人の後ろを家族のふりしてついて歩く、ということに詩情がある。詩情というか、含みがある。その含みを、明言はせずに、ものすごく範囲付けで来ているんじゃないかと思う。見えない立方体を見せてくれている感じ。
結句「保護者のように」で、主体の年齢がなんとなくわかる。若者の保護者と外形的にみられるくらい。「浴衣姿」で、人ごみの感じがわかる。縁日なのか、花火大会の行列なのか、そういう「密」な空間を感じる。でも他人。
「追い越せず」が二重に効いているとも思う。まずは単純に、追い越せないから後ろを歩くんだ、という理解。人ごみなのか歩く速さなのか、追い越せない。それは歌の関係性とよく当てはまっていて、とても好ましい。
一方で、離されてもいない。抜けないが、距離の開きはない。若者より速くはないが、遅くもない。それを「追い越せず」で示せている。これは、ついて歩きたいからあえて遅く歩いている、という読みを丁寧に排除しているともいえる。
この、おそらく環境が整えてくれたほほえましさのような。それはもっぱら保護者のようなほほえましさなんだけれど、この歌で主体の目線になってあり続ける「若者」の距離感が、主体の感じたとおりに読めちゃうんじゃなかろうか。
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