Text
Lineとか、そういうSNS系のサービスは、昔の電話のように「受話器を置いて会話を終了する」という区切りが無い。
たとえると、つながりっぱなしの受話器をずーっと手に持ち続けて、相手が何か喋ったときに応答できるように、何かをしながら常に身構えておくような息苦しさがある。
しかも、単に「受話器を置きづらい」だけでなく、「受話器を置くことがある意味でタブー」化されている。
つまり、こっちが勝手に話が終わったと思って受話器を置くと、なんで受話器置いたのと責められる、これが「既読無視」である。
「会話をやめる」ということが「タブー」化されたために、常に受話器を持ち続けているストレスを、知らぬ���に引き受けてしまっているのだ。
SNSが辛いという人は、まさにそのストレスの渦中にあるために辛さを感じていると言える。
では、それを楽しんでいると感じている、あるいはまったく辛いとは思わない人は、勝手にそうした性質を持つSNSを楽しめばいいかというと、私はそうとは思わない。
というのも、「受話器を置けない」以上、「自分」は常に外に向かっているのであり、外に向かわざるをえないのであり、自らを省みるよりは常に外の動向を気にせざるをえない。
そこには自分の内面へと深く深く沈むような「一人の時間」のための余地がないのであり、「一人の時間」を持つことのできないものは心が貧しくなる。「一人の時間」を持たないものは自分自身と向き合う機会がなくなり、自分自身は「外面のための顔」のみに成り下がり、外面のためだけにいわば「化粧」を施すことばかりに必死になるからだ。
そのため自分の意見は「外面のための意見」であり、自分が受け入れる他人の考えは「外面のための他人の考え」であり、そこには「外面にマッチするかどうか」ということばかりで、内的な議論の余地はないのである。そのような人間は心が貧しいと言わねばならぬだろう。またこうした人間が多くなればこそ、ポピュリズムの蔓延は進行するであろう。
もちろん、SNSを使う者が皆心が貧しいなどといった極論と捉えられはかなわない。SNSと付き合いながら、「一人の時間」が取れている人は、別にSNSはそんな危険なものではないと思うだろう。SNSを通して外に向く時間が多くなり、「一人の時間」を持てなくなった人は、私が述べたことは全くのお節介だと思うに違いないが、しかし一人の人間としては危険なことなのである。
他人と付き合いを持つ時間は非常に重要である。SNSもそういう面では計り知れない利益を我々にもたらしてくれる。ただし、「一人の時間」もまた一人の人間のアイデンティティの形成に大きく寄与する非常に重要なものである。そのことを忘れてはいけない。
・組み込めなかったことのメモ
「一人の時間」はいわば心の睡眠時間で、睡眠をとらずに24時間刺激にさらされることは身体にとって苦痛であるように、心もまた24時間外的接触の刺激にさらされることは苦痛なのである。
外面の化粧にのみ邁進する愚者の典型例が、迷惑行為を自慢するツイート(いわゆるバカッター)で炎上する者たちである。
0 notes
Text
この、歴史のプロセスを比較対象としながら、我々の直面するプロセスについても比較検討を加えるという、価値ある営みを、学術の場のみで独占し、学校の生徒たちからは取り上げるというのは、果たして得策でしょうか。あるいは、こうした営みは学校の生徒たちからは隔離されるべき、生徒たちを混乱させてしまうような毒なのでしょうか。このような営みは難しいもので、生徒たちは避けて通りたいと思っているのでしょうか。あるいは現行の授業時間数では生徒たちにこれだけの営みを課すのは不可能なのでしょうか。
私はそうは思いません。というよりも、そうは思いたくありません。「思いたくない」と言うのは、私がこうした思想で教壇に立ち、私の思想を実現する形で授業をしたことがまだ一度もないからです。私が実際に教壇に立ち授業に向かったとき、私は自分の敗北を知るかもしれません。私の思想はただの理想でしかなかったと。
ただし、全くうまくいかない可能性は低いと思っています。というのも私が本当に学問の領域に身を置く者であるなら、カリキュラムのために学問を犠牲にすることよりも、学問のためにカリキュラムを適切に削ることの方がよっぽど人間にとって糧になるということを甚だしく確信しているからです。
(つづく)
0 notes
Text
まず初めに申し上げておくことは、卵が先か鶏が先か、という類の議論は全く意味が無いということです。なぜならば、卵が先か鶏が先かが決まらずとも、今日も雛が孵り鶏が卵を産むからです。どちらがより先の原因であるかからは全く切り離されて、現実はそのようになっています。卵と鶏の因果関係は未決定ですが、強固な相関関係があるとは言わねばなりません。なぜならば、鶏の卵が無くては鶏は生まれえず、鶏が無くては鶏の卵は生まれえないからです。つまり、この類の問題を考えるときは、両者が互いにどのように影響を与え合っているのかをよく考えることこそ重要なのです。そしてその相関関係がどのようにして持続に結びついているのかも。
ですから、我々が歴史と呼んでいるものは、普通人間の歴史のことでありますが、これを人間が先か歴史が先かと考えることは全く無意味であるということが明らかであると思います。むしろ人間がそこに生を営めば既に歴史も現れてしまっていると考えることは最も賢明です。人間の生という内的プロセスから張り出すようにして歴史が現れているのであり、これは外的な視点から分析可能であるとともに、歴史自体もまた内的プロセスを孕んでいるのであり、さらには歴史という内的プロセスから張り出したものとして人間を外的な視点から分析することもまた可能であります。これはあまりにも当然のことではありますが、しかし、ややもすると人間が歴史を作るとか、我々より先に歴史が存在するとか、そういうことを考えてみたくなります。そのように考えるのは自由ですが、前述のように、歴史と人間がどのように影響を及ぼし合っているのかという視点こそが我々が歴史を学ぶ上での正しい態度でしょう。ただし、先ほどの鶏と卵の例と異なるのは、人間と歴史というものは客観的な二物としてわけ隔てられるものではないという点です。つまり歴史は人間の一部でありますし、また人間は歴史の一部でもあります。論理的に言えばこのことを成り立たせるためには人間と歴史が同一のものでなければなりませんが、実際はそうではありません。我々が集合を考えるときに描くような円ではこの関係を表しえません。歴史と人間を単純に別々のものと考えることができない。ここにも歴史と人間の相関関係を考える際の難しさがあるように思われます。
第二に、歴史の授業となると、ともかくも事実を一本の線として追いがちです。物的な史料のうちに見られないような、目に見えぬその時代の動きを推測することは学術的に研究されることはあっても、これを学校で教える、あるいはともに考えるということは皆無に等しいのです。学校の歴史の授業はいつも、あれこれの戦いが起こったとか、あれこれの政治制度が生まれたとか、あれこれの本や絵画や彫刻や音楽が世に送り出された、などということを転々としながら眺めるだけです。
しかしながら、事実というものは、そこにあったプロセスの影として、プロセスに遅れて確認されるにすぎません。先ほどの例で言えば、卵の中には雛になるまでのプロセスがあるはずですが、そのプロセスを直接見ることはなく、孵った後の雛しか見ることはありません。殻を破って雛が出てくるまでは見かけ上は卵のままです。我々が雛を見るのは、雛になるプロセスがすべて完了した後で、このことはプロセスに遅れて事実を見ることになると言うのに十分でしょう。鶏が卵を生むことに関しても同様です。我々は鶏の内部で卵を生むためのプロセスがすべて完了した後に、やっと卵を目にすることになるのです。
つまり、歴史に関して言えば、我々��歴史は常にプロセスを孕んでいるのであり、そのプロセスの完了形としての事実にのみ目を向けることは、多くのことを見落としてしまうために、得策ではありません。むしろ、事実を通じてその背後にあったはずのプロセスを見ようとすることこそ、最も有意義だと確信を持つことができます。そしてこのプロセスは、物証として現れえないものですから(物証はプロセスの影であるのですから)、ある意味では常に「フィクション」となりえます。客観物によって同定できないものを「フィクション」というならば、この歴史のプロセスはその時代を生きる者以外にとってはまさしく「フィクション」です。しかしながら、この「フィクション」の部分を、現れた事実をもとに、いかに妥当なものとして我々が考えうるかというところに、歴史というものの大きな意味があるでしょう。
歴史というものが、我々になにがしかの示唆や教訓を与えてくれるものだということは、これはまったく疑わしいことではありません。もしも歴史というものが我々と全く独立にあるもので、どんな歴史的な事実も今の我々に及びうるものではないとしたら、歴史を研究することはガラクタ集めと同義になってしまいます(集めて新たなものを作り上げうるという点でガラクタの方がまだマシです)。これについては誰もが反論を抱きうると思います。私自身もその反論者の1人です。
我々が現代において歴史を学ぶのは、我々とのなにがしかの関係においてなのだとしたら、まさにその点においてこそ私は歴史のプロセスを学びたいと思うのです。プロセスに考えを巡らしてこそ、我々は歴史のうちに最大限の示唆を汲み取りうるのです。それはなぜかというに、我々が歴史のプロセスに考えを巡らす時、そこには必ず我々がただ今直面しているプロセスの文脈があります。我々の現状を全く抜きにして、ただ歴史的事実のみからプロセスを考えるということは全く不可能です。このことは、道端に転がっている石を見るだけでも、もしその石について考えるのだとしたらそれを自分の文脈と切り離して考えることは不可能だということから明らかです。あるいは、思考の際には常に文脈が既に現れてしまっていると考えたほうがよいかもしれません。
それゆえ、歴史のプロセスを考えるときには我々が直面しているプロセスの文脈において考えられることになりますが、これこそ最も有意義な効用なのです。つまり、我々にとって既に現れてしまっているがゆえにこれまで立ち止まって考えることのなかった、我々の直面するプロセスについても考えるということになるからです。この、歴史のプロセスを比較対象としながら、我々の直面するプロセスについても比較検討を加えるという作業こそ、歴史の与える示唆というものの正体であるということは明らかではないでしょうか。人間が知覚を得る場合、それが差異についての知覚でしかありえないという発想と同じものです。
とすれば、いくら歴史の事実の面のみを明らかにすることに固執する学者ですら、それはそうして発見された事実をもとにプロセスに考えをめぐらす我々の一助にすぎないと言うのはさすがに言いすぎですが、我々が用いたい事実を歴史の中から発掘してくれる学者と、それをもとにプロセスを考える我々とは共存するものですし、目的の相違しか認められないでしょう。そしてその目的は、これこそが正しい目的だと誰かに強制されるものではないでしょう。ただ実際に歴史学者というものは、歴史のプロセスに新たな展開を見出し、それを学説として提出するからこそ優秀なのだと思いますが。
(つづく)
0 notes
Text
やっぱさ、労働力を売ってるわけだから、自分自身がまず第一に商品であることを忘れちゃうと自分自身という商品を使った交渉はできず、ただ使われるだけの人間になっちゃうよね
己の商品価値を高めよ
0 notes
Text
そうか、三角形を思い浮かべるときに三つの頂点や三本の線や内角の和を直接見てとってるわけではなく、概念を思い浮かべる時にそのものがはっきりとイメージされるわけではなく、それの作動というかオペレーションや手順、手続きのようなものにすり替えて頭の中に立ち現われていると考えているんだ、と考えるんだったら、そこかしこのものを思い浮かべてみてどんなすり替えがはたらいているかをいろいろ確かめてみるのは有効な作業かもしれない
0 notes
Text
ぱっと三角形を思い浮かべたとき、多分それ内角の和が二直角じゃないよね
確かに今三角形を思い浮かべたんだから内角の和は二直角であるはずだし、思い浮かべたものを書いてみれば検証できるかもしれないけど、思い浮かべた瞬間には、思い浮かべるという意味で内角の和なんてそもそも考えてないし、書き出した時点で思い浮かべる瞬間とは隔たりがある
内角の和が二直角というのは現実に線でひかれた時に確認できることであって、三角形を思い浮かべるときに付帯している事実ではないと思う
しかももっと言えば、俺が三角形を思い浮かべるときって、(瞬間から隔たった後から説明的に付け足せば)右下に直角のある直角三角形みたいなものが思い浮かぶんだけれども、斜辺の中間のところが暗い感じの線みたいな現れ方してるだけで、下と右の線もあるかわからないくらいぼんやりしてるし、右下の直角だってちゃんとあるかわからないし、唯一焦点にある斜辺だって頂点が無く両端はフェードアウトしてる
もちろん焦点を斜辺から移してみればいくらでもぼんやりしてるところははっきりするけど、今度は斜辺がぼんやりする
もっとやってみれば、紙の上で見るように三角形を頭の中で見ることはぜんっぜんできなくて、三角形を思い浮かべようとすると、なんか一筋右上に向かう直線的な力のベクトルが「シュッ」ってするだけなんだが
つまり、どんなに頑張っても、全体を捉えようと集中させても、紙で見るような三角形は思い浮かべられない
(これも説明的に付け足せば)そのかわりに左下の始点から右上に向かって、そのまま下に下りて、左の始点に戻るかのような「動き」がちらっと見える
後から振り返った感覚で言えば、大体左下から右上への斜辺が5センチくらい?下へ下した線が2センチくらい?左へ戻った線が4センチくらい?こういうイメージの振り返りは可能、ただし隔たった後にあからさまに整合的に付け加えたにすぎない
誰だよ三角形のイデア見てるとか言ったやつ!!嘘やろ絶対!!そんな三角形のイデアなんて俺には見えんぞ!
それとも俺が全然三角形が見えないだけで、他の人はもっとはっきり黒々と見えてるんだろうか
というかここまで書いてきて思ったけど、たぶん三角形を線で説明しようとしてるのすら整合的な付け足しで、実際は線なんか見えてないよね
隔たりこわ
0 notes
Text
あと「存在」「存在する」という見方ね
これこそ自分が自分の経験において一番容易に感じられる象徴的制度の居心地の悪さかもしれない
なんかもう、「そ・ん・ざ・い」という4音が頭の中をよぎるだけでちょっと違うんじゃないのその記号って感じがする
多分自分が隙間を開いておきたいのはここなんだと思う
0 notes
Text
「この私」から「身体」という見方(あるいは立ち現われ方)がどうしても出てきてしまうところが、「この私」を超え出てしまうものという意味で「超過」なのだろうか
0 notes
Text
というかどうして「この私」から「身体」なんて見方が生まれたんだろう
私に対して身体は常に透明というわけではなく、時には不透明なものとして立ち現れてくるから、ということで言い尽くせているのだろうか
0 notes
Text
{13 × 10 × (2+3)} + {(2 + 2) × (3 + 1+ 15) + 22}って式があったとしたら、演算の規則に従って、
= (13 × 10 × 5) + (4 × 19 + 22)
= 650 + (76 + 22)
= 650 + 98
= 748
というふうに計算することになると思う
かっこの中は先に計算する、足し算より掛け算を優先する、という単純な2つの規則を一つずつ当てはめていくだけ
ぱっと一気に計算できるところはしてしまえばいいけど、一気にできなくても一つずつ手順を踏めば計算できる
英語で文型使って、品詞のこと考えて、句と節考えて、最終的に正しく訳すっていうのはこれに似ているなと思った
品詞や文型を考慮に入れない子は、演算規則を知らないようなものかもと、ふと思った
On the contrary, the boy said to the old man he would love to help him with whatever he wanted but he, actually, did completely nothing.
仮にこんな文があったとすると、
(On + the contrary), the boy × said + (to + the (+) old + man) × [he × (would + love) × {(to + help + him) × (with + {whatever × he × wanted}) + [but × he + actually × did + completely × nothing.
もう思ったことのメモだから、上の例では全然規則になってないけれども、言いたいことはこんな感じで誰でも計算できるようにするために文型やらなにやらにこだわっているような気がする
だから暗算でパパっとできる人にはいらなくなってくる代物だし、ここいちで絶対意味を取り違えたくないときなんかに丁寧にこれで計算すると助かった経験は結構ある
前は、文型云々で文にいろいろ記号等を書きこむのは、図形問題で補助線を引くようなもんだと言っていたけど、今回の演算規則は、同じような目的を別のことで言い換えた感じ
だから昔からもっとも単純な規則に落としたがってたんかなあ
0 notes
Text
自分の中に書けるものがあるから文字に起こせるんじゃなくて、結局文字に起こしたものを見て自分が何考えているかを辿るしかないんだなぁ
この現実態→可能態の順序を、可能態→現実態の順序だと思っちゃうと、結局何も書けないまま日々が過ぎる
だからとりあえず書くだけ書いてみたらええんやで
0 notes