Daily notes by Illustrator Chisato Hiyama【WEBSITE】 http://usuratorarisu.jimdo.com/
Don't wanna be here? Send us removal request.
Photo

何者にもならなくていい、という話
この間ふと、とある人の今後について触れる話をした後にその場を離れて、ひとり洗濯物を干していたら、「何者かにならなくてはいけない」という見えない圧力を与えてしまったのではないかと気がついた。
私はつい聞いてしまうんだ「それで、これからどうするんですか」と。
日常のふとした場面で、よく聞いてしまっていると思う。
私と接点のあるひと、特にプロジェクトを一緒に進めようとする人は感じていると思うが、私は未来の予定を決めたがり屋さんだ。
���年先のいやもっと先のことを、結構、詳細に決めてしまおうとする。それは仕事柄、ギャラリーで展示する作家さんの存在が大きかったり、関わっているモノゴトが短絡的ではないものであったり、個人の利益だけに目的がないことであったりするからだと、自分では思っている。
そうして、つい聞いてしまう。
「それで、これからどうするんですか」と。
聞かれた相手によっては、これからの計画があれば話したりして、そしてそこに接点があれば、こんなふうに交わったら楽しそうだね、なんて盛り上がったりする。実現するかどうかは別として、人の未来に私も参加している感覚をもらえてやっぱり嬉しい。
でも、私の問いに困ってしまう人もいる。
「わからないんです」「決まってないんです」
そういうふうになることを私は不思議に、そしてうらやましく思った。
不安じゃないの?そう声にしかけて気が付く。
不安なのは、たぶん私の方だ。
20歳くらいから今日も(現在進行形で)私は本当に、いつも不安だ。
個人事業主だからこそ様々な線引きをしがちであると思うし、計画を立てることばかりしている。そこに実が伴わなかったらどうしようと、その圧力もものす���くある。
余裕がなさそうで、いつもじたばたしているねと、顔を見るごとに母からは言われる始末である。
一番、計画通りにいかないのが子育てだ。たくさん本を読んで、知識も得たはずが、そのどれもがピタリと当てはまらない。
私の体から生まれてきた子どもが、私の分身ではなくて「ひとりの別の人間」であることを受け入れ、また尊重し、できるだけ健やかに生かし、食事や排泄やパンツを履くという行為ひとつとっても、人間は幼少期にこれだけの手がかかるのかと、そして成長するということの意味が、できなかったことができるようになるなんてAIが学習するのとは違い、人間には個体差があり、感情や情緒がそこに大きく影響するなんてことを、身をもって教えてもらっている最中で、個人の自由を重んじて生きてきた私からするとその環境の変化は、いつも不安だった。
子どもが泣くのはどうしてだろうと母に聞いた時、
「それはあんたが不安なのが伝わっているからよ。もう少し、落ち着きなさい。」
仕事をしている姿を見せることが、子どもにとって良いと信じていたが。その行為を分解すると、仕事の達成感や承認欲を満たされている自分が心地よいだけで、それは子育てに参加せずに仕事に没��する旧式の父親像そのものだった。今の私なら1年前の私に、そんなことよりも子どもの目を見て!て言ってあげたい。
ここ数年ずっと悩んでいたことがある。
それは夫とのあまりのキャリア格差についてだ。
どう足掻いたって、彼の歩いてきた道のりや努力に、今更私は追いつけないし、一生無理だと思う。それでも心のどこかで、仕事を思う存分やりたい私は、なんで家事をほとんどを私がするのだろうと不満があった。男女平等だと教育を受けて育ったわりに、結婚・妊娠・出産は女の人にとって自分の都合だけで時間を割くことができないターニングポイントだと思い知らされた。その負のイメージがより私を、できるだけ仕事も家事も育児も頑張らなくちゃ、と縛りつけたりもした。でも、そのどれもがうまくいくほど、私は器用ではなかった。(今では家事をお願いすることができるようになった)
「あきらめなさい」と母は言った。
その言葉を、咀嚼して自分の中に取り込むのに、ものすごく時間がかかってしまった。
ここで「何者になるか」という話に少し戻そうと思う。
私は子どもの頃から集団行動が苦手で、学校はそんなに楽しくなかった。表現をすることで生きていけたらと、小説を書いて応募したり、舞台に参加したりしてみたけど、一番長く今日も続けていられていることが、鉛筆で絵を描くことだ。
そしてずっと私は「ひやまちさと」を生きる、という感覚を持っていた。
肩書きがうまく名乗れないほど、いろんなことをやってしまっているけど、そのどれもが「ひやまちさと」なのだと自信を持って言える。
そんな風だから、時折インタビューを受けたりする機会もあり、そうすると第三者によって「何者か」という私が見えたりするし、またそれを見る人にとって私は「何者かになっている人」に見えるかもしれない。けど、私はずっと私のままだ。
例えば、夫はすごく口数が少なく、何をしている人か知られていないし、本人も語らないけれど、ものすごく面白いことをしている。悔しいけど、私の100倍すごくて、そして澄んだ目をしている。ただインタビューなどは受けないので「何者でもない(というかわからない)人」なんだと思う。
世の中に見えていないところにある、本当の価値みたいなことを突き付けられちゃうのだ。
さて、冒頭に私が話した彼女は初めて会った頃、「探しているんです」と言った。たぶんそれは「何者かになる」「何かに特化した人になる」ようなイメージだったのかもしれない。けれど、時間を経て今の彼女と接していて私が感じているのは、
今日を味わいながら生きている小さな手応えというか、
明日はとりあえず来るけど、風が吹かないうちは無闇にじたばたしない。
なんだか自然の中にある花のような佇まいが、とてもいい。
ここ数年私自身が苦しんでいたいろんなことが、彼女の姿を見ていたら心がほどけるのを感じ、母の言った「あきらめる」をいい形で受け止めることができ、文章に残すことにしました。「あきらめる」の受け取り方を間違えていたころ、子育ては自分を犠牲にするものと思い込んでいた私に、5年かけて息子はたくさんのプレゼントを、そして気が付く機会をくれました。
子どもの頃にみたあの雪の白さの新鮮さを、ちょっと忘れそうになるほど雪の深いこの町で、きみの横で同じ高さで、ほんの少しその時間軸をお借りして、もう一度感じてみたいと思う。(雪の食べ過ぎをおこってごめんね)
今、目の前に何がある?
わたしの心は、どう感じた?
おやすみなさい。
1 note
·
View note
Photo
久しぶりにメニエルの兆候と耳鳴りと 心と体のバランスが崩れかけているのに その声をすくいそこねて、倒れる昨晩。
男女平等だという教育を受けたわりに、 社会はそんなふうにはなっていなかった。 社会は本当に不平等で、結婚をし、子どもを産み、育てることは いまだに女性の方が環境を変えざるをえない現実がある。 そのことに���私はずっと怒り続けているんだ。
外では、そんなに働いて旦那さん大丈夫?なんて言われ(ほっとけ) 内では、ご飯のおかずが少ないんじゃないの?お肉食べさせてる?と言われ(ほっとけ)
仕事も家事も育児も全力で、本当にやだ。 やだといいながら、好きでやってる自分もやだ。
とりあえず気持ちを落ち着かせるために、 私の家事労働をお金に換算してみました。
なかなかの稼ぎ具合です。
気になる人は、ぜひやってみてください。 1mmは気持ちが楽になるかもしれません。
https://www.happy-bears.com/shindan/#completed
0 notes
Photo

びっくりするわー。本当に。
2021年の初めに書いた日記を今、読み返している。
1ミリも、1ミリも、実行できてない笑
----------------------
(あらゆることを反省して)
なので、2021年は3月末の案件をもって、イラストレーションとデザインのお仕事は年間で関わっているお仕事以外はは休業します。(ほんまかいな)町の会議にも参加しません。(ほんまかいな)
----------------------
ってかいたけど、どれも、全然、守ってない!!!!
信じられないなー、自分が。
まあ、いいか。��日の自分と今日の自分は違うからな。
2019年にギャラリーカフェふくを作ってから2年しか経ってないけど、目まぐるしすぎるな。だって、シェアハウスできたし、2店舗目?の「かど」ができちゃったし、次のこと目論んでるし。
なんなん、自分よ笑
今朝、だいぶ片付いた自宅兼店舗の「ふく」で、椅子に座って外を眺めた。
朝がいい。熊鈴をつけた子どもたちが、キラキラと笑いながら登校する。
役場に朝の光が反射して白い、透明な光が届く時間。
この場所をどうするか、まだ何も決めていない。
決めたのは、家族のために一度休む。期限を決めずに休む。
それだけだ。
楽しいと思ってやることが、町やだれかに、少し作用すればいい。
大切なのは、私が幸せで、私が幸せにしたいと思う人たちが、幸せだということ。これは「わたくし」を優先するのとは、ちょっと違う。
もう少し、健やかな感覚で。
誰かの心も体も、借りることはできないし。
私が私の細胞を使って、そしていただいた命を大事にして、全うする。
それだけだ。
明日は、1日中、梨を剥いて、煮る。
0 notes
Text
2021年
いろんなことが重なり、締め切りに間に合っていないことを、お詫びします。
まず、年末は雪が降りすぎました。
実家でみんなに子熊を見てもらっている最中に仕事をしようともくろんでいましたが、あまりに雪がふって、つい「構造設計士と作る大人のかまくら」や、「とりあえず歩いてソリに適した坂を見つけたらソリをしよう」などに張り切りすぎ、次の日は腰痛でしたし、紅白歌合戦も完全に紅組を応援している大泉洋を見てほくほくしていました。近所のお寺から除夜の鐘は密になるのを避けるため中止と言われいまだどこにも参れず、2020年を引きずった感じがあります。しかし、さだまさしがハガキだけ読む生放送にさだまさしが遅刻したのを見て、なんとなく許された感じがして。。。。。
嘘です。申し訳ありません。完全にスケジュールを詰め込みました。
関係各所には、本当に、本当にもう少しお待ちください。。。。。1月中に納めますので!!!!
2020年の目標は「働かない」だと宣言して、結局、月に1回休んだか休んでないかで、しかも��れがタタって何度か倒れたし、ほぼ初対面の人が夜中に廊下で私が倒れてるのを見てホラー!?ってなっていたし。もう健康と家族と地球のためにも休もうと決めた2021年。
「頼まれるのが嬉しい病」なんですよね、要するに。
「頼まれてもいないのに新規事業立ち上げちゃう病」も加わって。
でも、でも、やっぱり思った。
子育てしながら、夫婦しながら、店しながら、イラストとデザインの仕事しながら、シェアハウス立ち上げて、芸術祭運営して、町の会議に参加して、戦闘機の低空飛行問題に声を上げて、って、やっぱりキャパオーバーだった。
なので、2021年は3月末の案件をもって、イラストレーションとデザインのお仕事は年間で関わっているお仕事以外はは休業します。(ほんまかいな)町の会議にも参加しません。(ほんまかいな)
アウトプットが多すぎて、インプットが少ないと、それが出てきたものの質に関わってしまうから怖い、というのがここ数年の口癖だった気がします。
都会には星の数ほどイラストレーターがいて、埋もれていた私でも、鳥取では子どもの頃からお世話になっていた皆さんに、大人になってもお仕事をいただき、導いてもらって本当にありがたかったです。
ほんまに自分ちっさいなー。って思うんです。思うんですけど、そのちっさい自分の中身が薄っぺらくなってしまうのを繕うようになる事だけは絶対いやで。
ちょうどフリーとしてやっていくとはじめて10年経つので。
次の10年のために、充電期間にします。
3月末までのお仕事、全力でふりしぼって取り掛からせていただきますので、どうぞよろしくお願いします。
お店はその分、パワーアップしますのでご期待ください〜!
では引き続き、よろしくお願いします。
ひやまちさと
0 notes
Photo








久しぶりに旅した話
金曜日、お店をしめた後に家族で車で智頭町のゲストハウス「楽之(たのし)」を目指す。
蓮太郎さん(3才)に、どこに行くの?と聞かれて「お山のようなところで、ご飯を食べます」と伝えた。
若桜町からは一度、河原町に出てぐるりとUターンするようにまた山に向かって車を走らせる。だいたい40分くらいだろうか。
現地で先にチェックインをする。
私たちの部屋は、屋根裏部屋のような個室で壁面は木がそのままにあり、木の中に取り込まれたような気がして心地よかった。3人の布団を並べることができ、掘りごたつ式のカウンターはちょうどいい高さで、窓の外に見える蔵の赤い瓦が美しかった。
蓮太郎さんは、早速、でんぐり返しをした。
トイレ・シャワールーム・洗面・お湯が沸かせたりするスペースはドミトリーと共有。
よくゲストハウスにあるドミトリーのタイプではあったれけど、今まで泊まったところの中では広くて、マットが分厚いと思った。ドミトリーを組むのに、柱かなと思うくらい(90角以上あったかな)太い材で組んであった。
共有スペースに入ると、あっと思った。
そこには私が5年前に描いた絵がさりげなく置いてあって。
後でオーナーの方に聞くと、スタッフの方がだいぶ前にここに飾ってくれたそう。
そのスタッフのよしこちゃんは、私の絵を鳥取市内のギャラリーあんどうで個展をした時に、求めてくれた人だった。
その絵はベトナムで暮らしていた時の、思い出をつめた1枚だったので、再開できて本当に嬉しかった。
ああ、そうだ。今日は、若桜町で動き始めた「未来ビジョン」の部会の一つで、宿内に宿を作ることで地域の活性化を目指すグループの視察と懇親会のために来た。
役場の担当者と、グループのメンバーが到着し、食事をしながらの懇親会が始まる。
智頭町は、まちづくりの取り組みを「町」という単位で取り組んでいる先行事例が多くある印象があるが、そういえば具体的には思い浮かばない。
智頭町と聞いて、私が思い浮かべるのは、「森林・石谷家・藍染・タルマーリー・移住者が多い」という具合だ。
楽之がある場所は、石谷家からも近い智頭宿と呼ばれるエリア。
そこに夕暮れ時、温かい明かりがともり、カウンターで1杯飲んでいる人がいた。
ああ、この光景。そうそう、旅の始まりだ。
私の好きな旅は、その土地の暮らしの中にちょっとおじゃまする、そんな感覚が味わえるスタイルだったなあ。なんて思い出す。
この建物が金物屋だったことを、あちこちに散りばめられた痕跡を、少しずつなぞったり、いいカウンターだなあ、と撫でていると、あっ。
カウンターにやってきたのは、見覚えのある男の人で、タルマーリーの渡邊さんだ。前にお会いした時と同じように、気持ちのいいエネルギーがある人。そしてその周りに集まる人たちが、これまた楽しそう。これから次の楽しい企みをするそうで、わくわくする。
懇親会では役場担当者の人に、「役場のいち担当者としてでなく、いち町民としてその線を超えてくることを期待します」ということと「役場の支援イコールお金ではない」ということを強く申し上げて、幻の酒というのをいただき、蓮太郎さんの就寝時間に合わせて部屋に戻った。
早朝、目が覚めてそっと布団から抜け出す。
夜明けが遅くなったなあ、と思いながら白湯を水筒にいれて、宿の入り口をそっと出る。
旅の楽しみは、この早朝にある。
家の台所にちらほら灯りがつき、朝ごはんを準備する気配がする。町の人も散歩などしている。こういう時に、いい小道と出会ったら(だいたい生活のための道だから)町の人に不審がられることなく、小道を歩くことができる。だいたい猫には会う。
街道の名残を残した通りを歩く。ずんずんと歩く。
私の頭の中に少しずつその場所の地図ができる。
宿に戻り、カウンターで本を読む。「アカゲラブックス」さんの選書があり、気に入ったものは購入することができる。蓮太郎さんは昨日、ここで新しい絵本の世界に出会っていた。私が惹かれたのは「林業」「森」「土と内臓」などのジャンルだ。
少しページをめくっていると、藤原さんが朝ごはんの準備に台所へやってきた。
「スモークサーモンと生ハムと、チビちゃんはどっちがいいかな?」と聞いてくれる。
「どっちも好きです」というと「じゃあ、どっちも」と言ってくれた。
昨晩は宴会が2つあって、とても忙しそうだったし、お話しする機会があった藤原さんに聞いてみたいことがあった。藤原さんはパーソナルな話を、初対面の私に自然に話してくれた。そこに旅で出会う人たちとの独特の親しみを感じた。
楽之を作る時、いろんな人が仕事が終わってから関わってくれたこと。
自分が智頭にきた頃の話。
移住者が、地域の人とどう心を通わせるかのヒント。
ほんの少しの時間に、ぎゅっとこの旅の醍醐味が詰まった。
旅は朝が大切だ。
一緒に宿泊したメンバーのひとりと、これからの話をする。
お酒を共に���るのも大切だけど、朝ごはんを共にするのは、もっと大切だと思う。
智頭町の観光案内所に立ち寄ると、見知らぬおじいさんからマッサージにいいよと、桐でできたツボ押しをもらう。おじいさんはもしかしたら、少しボケているのかもしれなくて、観光案内所の人が「〇〇さん呼ぼうか?」などと電話をかけていた。
ボケていても、座ってていい、旅人と話していい、そんな場所になりますようにと願った。
���手で渡されたツボ押しを、コロナのことがあるから、、、と辞退するなんていうのは、私の選択肢にはない。もちろん、そう思う人もいるからあくまで「それぞれ」を忘れずに。
板井原集落という廃村に行った。
あまり綺麗でなかったのと、もう少し何かできないのかなと思った。
タルマーリーに立ち寄り、パンを買う。
大きな田舎パンを抱えて幸せな気持ちのまま、西粟倉へ向かう。
フレル食堂で、さらに幸せになり、
元湯で思いがけない再会があり、
最高の休日だった。
そして、改めて若桜町の素材の良さと、それを表すための技術を私はもう少し磨かねばと思う。
ああ、家族が起き出した声がする。
今日の書き物はここまで。
蓮太郎さんにこの旅がどうたった?と聞くと
「お父さんが、飛行機してくれたのが良かった」と言った。それは大変良かった。
読んでくれて、ありがとう。
0 notes
Photo

健康のためにヨガ教室に通う代わりに、畑を借りた話。
黒い土に、ざくっ、ざくっ、と鍬を立てる。
ときおり石がゴロゴロ出てくる。プラスチックや、紐も出てくる。
5:50
畑に来た。
Fさんが牛糞を撒いておいてくれているし、昨晩の夕立で土は黒く濡れている。
いい匂いだ。
子どものころ、北海道のおばあちゃんの家は隣が牛をしていて。
家の横にある柵に腰かければ、牛に足をペロリと舐められたんだった。
ざくっ、ざくっ。
どんな畝を立てたらいいんだっけ。
周りの畑をお手本にする。みんなそれぞれのやり方があるようで、でもそんなに高くない、平べったい畝の印象。最初は高くして、雨やなんかでだんだん平たくなるんだろうか。
ここは谷中の水が大きな本流に流れ込む川のそばで、鬼ケ城という山城があった場所の裾野にある、崖の下の畑だ。
この夏から、ほんの少し畑を借りている。
太陽が向こうの山からこちらの山を照らし始めた。
雨に濡れた濃い緑の山々が、澄んだ水色の空を背景に輝き始める。
鍬を持つ手が疲れて、腰を伸ばしたくなったら、体を起こして山を眺める。
なんて美しいんだろう。
とりあえず練習だから、と言ってFさんが種を分けてくれた。
にんじんの種だ。
11月までに収穫できそうな予想で、お店のスープランチにも使えそう。
何より、子どもが大好きな野菜なので、ちょっと嬉しい。
畑にいると、無心に慣れていい。
世の中がどんなだか、ちょっと距離が持てる。
目の前の土や虫や自然は、今を生きていることを、そのままの姿で見せてくれる。
これからの新しい事業計画についても、なんだか結局は自分の覚悟なのだから。
アイデアを思いついたり、提言したり、絵を描くことは誰でもできる。
要は手を動かすか、動かさないか。
いつの間にか年相応に、ちょっと及び腰になっていた自分に気がつく。
らしくないな。
0 notes
Photo

わたしの店には、わたしだけの特等席がある。
それは天窓の下の踊り場で、
家中の明かりを消して
月の明るい夜に
半透明なトタン屋根を通して
月光が届くひとり分の床だ
眠れない夜
月が明るいのに気がつき
ココアを片手に月光の下で
家族の寝息
水路の音
山で動き回る生き物の気配などを感じて
ほんの5分か10分
今日、生きていてよかった
ああ、あの人への手紙に返事がまだだと
筆不精を悔いる
心の中では、いつも書いているのだけれど、と言い訳をしながら
ココアで体が温まっているうちに布団にはいろう
おやすみ 世界
0 notes
Text

雨の日の店づくり
お店作りも、いよいよ、である。
取り扱う本や雑貨の仕入れもひと段落し、
あとは店を整えて商品を並べたりするところまで来ている。
ここへ来る人は、初めは誰かと連れ立って来ても、
もし二回目があるならばきっと一人で来ると思う。
今まで、ラーメンも、呑み屋も、海も、山も、ライブも、美術館も、カフェも、どこへ行くにも一人が好きだった店主が作った場所であるから、きっとそうなるのではないだろうか。
私は基本的には店には立たず、
ショップカードを持ってお店の宣伝をして回ったり、
本業をおろそかにしないように仕事をしたり、
ワンオペで2歳児と暮らすために必要な体力を保つために、夜の8時に寝たりすると思う。
たまに、店の裏で草むしりをしたり、お客さんが万が一入らなかったら、ビラを持って町内を歩いたりすると思う。客引きは、断られてもへこたれない(散々、鍛えたと思う)
だから、どこかでチラシやショップカードを受け取った人は、
どうぞよろしくお願いします。
おひとりさまには特に、居心地が良すぎる店を作ってしまいました。
回転率が心配です。
じゃんじゃん、来てください。ハッシュタグの数が、気持ちを表しています笑
gallery cafe ふく
若桜町若桜113
#gallery_cafeふく #fuku_wakasa #ふく #古民家改修 #古民家カフェ #地方移住 #小商い #coffee #珈琲 #鳥取 #若桜町 #tottori #若桜鉄道 #本 #本屋 #雑貨 #カフェランチ #喫茶 #gallery
0 notes
Text
民藝と母の日
web magazine totto の企画する、ツアーに参加してきました。
場所は「湖山池阿弥陀堂」。いつか、いつかと思っていた場所でした。
2歳の息子が一緒でしたので、鳥取民藝美術館常務理事の木谷清人さんのお話を聞けずに、ほぼ阿弥陀堂の森を息子と一緒に木の実拾ったり、木の棒でつつかれたり、フッカフカの落ち葉ですべって笑ったり、してお話が終わる頃に戻っ��、みんなとご飯を食べて、干菓子とアイスコーヒーをいただいて帰ってきた感じです。
それでも、とっても楽しかった。
子どもの頃、美萩野に住んでいて末恒小学校に通っていました。
学校からは日本海が見え、家に帰って遊ぶときは夕日にキラキラひかる湖山池が見え。末恒周辺の、サラサラの砂地と美萩野の小さな森と。すごく面白い世界で暮らしていたなと思います。
今、息子に「民藝がね」って言っても伝わらないと思うというか、伝わらなくてよくて。暮らしの中で大切にしていることが、そこへ繋がっていくんだと、彼が30歳くらいになった時に、はたと考えをめぐらすことができるような、そんなどんぐりの実みたいなのを、あっちゃこっちゃに蒔くことが、私が楽しみながらできる、無理のない子育てだなと思いました。
母親になんてなれっこないと思っていた私が、いつの間にか2歳の息子の母になっていることに、まだ実感がない時もあって。それなのに私は私の母のことを、お母さんは私が生まれる前からお母さんで、私が死ぬまでずっとお母さんでいてくれるんだ、なんて思い込んでいたのですけど。
ある時、私が息子が風邪をひいて、仕事が進められないことが不安だと口にすると。「私はあんたが風邪ばっかり引くから、二歳の時に仕事をやめたんだよ」と言われて、ああ、と思った。きっと続けたかったよね、仕事。それでも3人の子育てがひと段落してから、持っていた力が、それはそれは花開く母を見て、母の個人の輪郭が見えてきた。少し寂しくもあり、誇らしくもあった。母や父のおかげで鳥取で多くの人に助けられて暮らしていけているのだから。
今、私は母や父がいつか蒔いた、たくさんの実や種から育った森の中にいる。そこへは時々、知らない鳥がやってきて実を落としたり、誰かが遊びに来たりする。私も時々は自分の森で取れたキノコとか小さな花なんかつんで、あなたの森に遊びに行ったりもする。
そんな話が絵本にでもできたらいいなと思う、今日でした。
0 notes
Text

大切なお客さま
その人は、自転車に乗って颯爽とやってきた。
「こんにちは〜。きちゃった〜」
1年に1度くらい、どこかの街角でばったりと会うその人が、今日はここをめがけて若桜鉄道に乗ってきてくださった。初夏の山々と同じ、緑のカーディガンといつもの笑顔をたたえて。
「この間、会ったのは県立博物館のロッカーだったですね。」
珈琲をおだしする。「ふく」ではオリジナルブレンドを焙煎してもらっていて、その豆で今日は珈琲を入れてみた。
「好みだわ」とその人は言った。
「Sさんの珈琲が懐かしいわね」
「わたしもです」
しばらく近況を伝え合う中で、彼女はカバンから写真を取り出す。
「これはもう何年前かしらの、ちーちゃん。これは10年前のカージー」
スマートフォンの画面で写真を共有し合うのと、全く違う感動がそこにはあって。
ありありと若かりし日のことを思い出す。
「じゃあ、おまんじゅう屋さんに寄って帰るわね〜また来るわね〜」
そういって、今度は緩やかな下り坂を自転車に乗って漕いでいく。
素敵な時間をいただいた。
店をするのは、しばらくぶりである。
時が満ちたのか、は、わからない。
ただ始まりの歌は聞こえた気がしたから。
また明日。
1 note
·
View note
Text

お店をはじめます、を夜中に告知したにも関わらず、多くの方に関心を持っていただいたみたいで、thank you very much.
家族が寝静まった夜、まだ寒い若桜町では薪ストーブがまだ稼働しています。
そして雨が降っています。
山陰は湿っぽい土地で、晴れの日も少ないのですが。
本と珈琲と音楽があればいい人には、うってつけの土地です。
そして、圧倒的な自然が暮らしのすぐそこにあり
絶えず水の音が聞こえている町です。
みずみずしい広葉樹の若葉が、今か今かと春を待ちわび、ぶわあ、と一気に芽吹きました。
その山々の緑に、山桜がぽつんぽつんとあるの��目に焼き付けています。
ふく、では、ギャラリーのほかに本、装身具、文具なども少々とりあつかう予定です。
この谷の町に暮らして、まだ1年にも満たないのですが。
お店には、私が90歳になっても必要なものだけを置こう。
そう思っています。
そうしてお店で扱わせていただけるものを、またゆっくりご紹介したいと思います。
また明日
1 note
·
View note
Text

お店をはじめることにしました
会う人に少しずつ告白しています。
もったいぶることもないのだけれど、芸術祭や個展やなんやがあり、
お知らせが多すぎる私。。。と思っていましたが。
私だけのことではなく、チームのためにもいろんな人に知ってほしいなと思うので、ここへ綴ります。
ギャラリーカフェ「ふく」を2019年6月に鳥取県の若桜町で始めます。
小さなギャラリーの企画を私が担当し、1ヶ月のうちの半分を関西で活動している「shizuka gohan」さんがカフェ&ランチを担当し、残りの半分を「wakruca」さんが珈琲とお菓子で担当されます。今のところは、この3人がチームです。フリーランスの3人でお店をはじめることになります。
白状しておきますが、こういう形態になったのはshizuka gohanさんの人の良さに私がつけ込んだことから始まります。
まず、5月より私のパートナーが1年間、勉強のために大阪で暮らすことになりました。
2歳の息子と私の2人で暮らす。。。の無理無理!どうしよう。。。そんな時、いつも本当にいい人すぎる(そしてご飯が美味しい)shizukaさんが、
「じゃあここで暮らそうか?」と言ってくれました。神様です。彼女がここで暮らすには、、、そうだ、お店を作ろう!!
ゆくゆくはここでお店をするために選んだ物件でしたので、なんとなくの想像はしていたのですが。
いっそう、現実的になってきました。だって、あと1ヶ月だし笑
そこに、もうひとりのいい人すぎるwakrucaさんを口説きまくって、「ちょっとだけね〜」と言って参加してもらうことになりました。
おかげさまで、なんとかいいお店ができそうです。基本的には私は表にでない予定でいますが、ひょっこりいることもあります。
お店の名前「ふく」は、この場所にもともと住まわれていた方々からの由来と、「ふく」は「���」という漢字を当てます。
この漢字は寄り添う他の文字によって意味の広がりをもちます。
この場所も、shizukaさんwakrucaさん、それからこれから出会ういろんな人々が交差することによって、より豊かになっていきますように。
そんな願いを込めています。
しばらくは子育て優先になり、不定休ということもあるかもしれません。
そしていろんな場面でお力添えをお願いすることもあると思います。
どうぞ、お付き合いをよろしくお願いいたします。
ひやまちさと
1 note
·
View note
Photo


2月16日(土)に、鳥取県立博物館で開催されている企画展「Our collections!」の初日に行ってきました。3月10日(日)まで開催されています。ぜひ、足を運んで���ただきたいと思い、感想を綴ります。
https://www.pref.tottori.lg.jp/ourcollections/
当日は学芸員と作家によるギャラリートークがあり、途中からですが参加できて非常に面白い時間になりました。鳥取県には県立の美術館がありませんでした。そのことを、子どもの頃から通っている私は「美術というのは博物館で見るものだ」という漠然としたイメージがあり、しかも知っている鳥取県内の作家の作品も企画展などで見る機会があり、ものすごく恥ずかしいですが「いつかは私も」と思うほどの近さ、親さがありました。
今回の企画展の趣旨は、これから計画されている「鳥取県立美術館(名称仮)」のコレクションの方向性を示すもので大きく、①「鳥取にゆかりの美術作品」②「新しい収集の方向性を示す国内外のユニークな作品」のゾーンがあったように思います。鳥取県立博物館は名前の通り「博物館」がメインなので鳥取の地学・生物、歴史・民族などの次に美術が来るという、立ち位置の難しい部門だと思います。現在の博物館の開館前の昭和47年前後には21点のコレクションから始まっていて、その多くが寄贈でした。そして現在は約9600点のコレクションがあるそうです。その美術部門が独立し「鳥取県立美術館(名称仮)」が2024年の開館に向けて動き始めています。この企画展はそのことを県民と一緒に歩きながら考えていきたい、という思いが見られました。
が、前述したギャラリートークに参加しなかったら、正直そのことは伝わりにくかったなと思います。トークでは、生の声で学芸員が思いを私たちに訴えるように話しかけてくれたと思います。そして若手の作家も自身の作品について自分の言葉で私たちに向かって、どういう意図や気持ちがあってこの作品を制作したのかを語っています。わかりにくさの一つに、今までの県民が見慣れて来た「絵を観に行く」という行為に「一緒に考えていく」という問いが加わっている為かと思います。「Our collections!」は趣旨自体がこの企画展のもっとも伝えたかったことのように思います。例えば展覧会の入り口の導入部分にある趣旨を、ボードに印刷した文字だけでなく、もっと大きく、壁一面に問いかけるように投影したりだとか、各コーナーに座っているスタッフが「もしよかったら少々解説を」と言ってもいいくらいです。前田寛治をはじめとする①のゾーンから②のゾーンへの移行へは、思った以上に言葉での説明も必要なんじゃないかなと思います。アートや芸術を頭で考えずに、もっと楽しむコツを知れば、より深い理解や楽しみ方に繋がると思うからです。その、親切さ、歩み寄りが必要な時がきているんじゃないかなと思います。
これは企画している「鹿野芸術祭」でも、もっとも大事なことかなと思っています。「芸術っちゃあ、わからんけえなあ」「芸術は教養のある人私たちにしかわからないから」という対立を子どもの頃から見るにつけ「この人たちは、面白いとか楽しいとか思わないんだ」と違和感がありました。そして多くの人が「行ったことないけど、難しそうだし、お金かかりそうだし反対かな(美術館建設について)」という言葉を聞いて、表現活動をする側としては本当に心がくじけそうな時があります。「見にきて!どれだけこの作品を思っているか、伝えさせて!」と心の中で叫んでいます。心の中で思っているだけではダメなので、ありとあらゆる手段で伝えていきたいと思っています。今回の企画展でも鹿野芸術祭でも、全ての作品を好きな訳ではありません。それは、好きとか嫌いとかでなく例えば違和感のようなものを残すことも作品の性質の一つだからです。有名な作品を見にいくだけだったら、都心で開催されている大規模な美術展へ行けばいいと思います。ここで私たちができることは、ここでしかできない発表をしそのことが人の暮らしのどこかに水脈のように静かに流れ、台所で食器洗いをしている時でもいいし、仕事でエクセルとにらめっこしている時でもいい、夜泣きする子どもをあやす時でもいい、ふとよぎり胸に浮かぶことで、自分の人生を楽しんだり大切にしたりしてもらいたいからです。
作品を見て「わからない」と思うことがあれば、「自分は一体何をわからないと思っているのか、何をわかりたいのか」という風に自信の思考を深めることになると思いますし「作品について知りたいのですが、わかる方はおられますか?」という魔法の一言で、きっと作家も学芸員もギャラリストも私も、すっ飛んで、喜んでお話ししたいと思っていると思います。
思いが溢れて長くなりました。ぜひ足を運んでいただきたいです。できれば2月23日のクロストーク「これからの美術館は何をコレクションするのか?」や、3月2日14:00-15:00に学芸員によるギャラリートークがおすすめです。観覧料は一般400円です。
0 notes
Photo

気持ちの立て直し
こだわりを持ちつつ、人に求められることを、どちらもバランスよく取り入れる。
そんな器用なこと、できまシェーン。って思う。デザインには、必要な感覚だと思うので。できれば、8:2ぐらいで収めたいといつも思っている。
で、この度、新しい立ち上げをするにあたり。まだ始まっていないのに、幾つかの忠告や、好奇の視線や、勝手なうわさを聞くにつけ。「mendokuse-」と思う自分がいて。ああ、だから田舎(鳥取)を出たんだった、と思い返したりする。
「この土地のために何かしようとする覚悟はあるか」
「ありまシェーン」
なんども思ったじゃない。土地に縛られない。って。自分が納得いくものを、自分の物差しで、自分の見立てで。そのことが、今日明日、ここに生きている人に届かなくてもいい。
今日とある町のパン屋で、私たちは初めて会うのに芸術や表現や人や暮らしについて、熱く、相手の呼吸を感じながら意見を交わし合ったような。
そんな時間が1年のうちの何回か訪れるような。そんな場所を作るんでしょ。
町のためになるかって。
そんなの、後からついて来ればいい。
ああ目が覚めた。おはよう。
1 note
·
View note
Photo

日々の暮らしのことに追われ、埋もれてしまう心に芽生えた違和感を。これまでは自分のうちの中だけで発生し、モヤモヤしたり憤ったりしたものを、静かな心になるように自ら撫でつけて無かったことにしてきた違和感を。ここに少し記しておこうと思う。
これは日記です。
「それであなたは、夫の収入がなくても暮らしていけるほど稼げているのか」この言葉の「夫」の所を「妻」に置き換えたとしても、受け取る人は「嫌な気持ち、惨めな気持ち」になり、言葉をぐっと堪えるであろう。
私はこの言葉を、なんどもなんども、いろんな人から、様々な場面で受け取ってきた。直接的には口にしなくても先ほどの言葉を念頭に「だから好きな仕事ができるんでしょう」「だから安くして」という値引きにまで使われるので本当に腹ただしく思う。
絵描きの仲間が言った「経済的自立は、精神的自立」という言葉を私はあの夜、抱きしめて帰った。そうだ。その通りだ。そしてそれは、夫の年収を超えることと直結するわけではない、とも記しておこう。彼は彼が選んだ人生の中でその職業に就き、仕事を作り出し、収入を得て暮らしている。そこで道端で私に出会い、一緒になった。当時の私は、イラストレーターになることだけを目標に、作品作りや出版社への持ち込みと並行して、それだけでは暮らしていけないのでフルタイムのアルバイトをしていた。夜の8時に仕事から戻ってアトリエで絵を描き深夜にアパートに戻り、朝6時にまたアトリエに来て、出社の10時に間に合うように作業をした。私は、自分の夢のことだけを考えて生活を組み立てていた所に、彼と出会った。
結婚という道があることを微塵にも想像していなかった私は、今でも結婚制度に違和感を感じている。そのことと彼と家族になったこととは本質が別だ。夫に尽くすことが結婚だとは、1mmも思わない。相手が美味しいと言ってくれたら���しいので食事のおかずを増やす。そのことは「尽くす」こととは別だ。
名は人を支配する。けれど「夫、妻、父、母、など」の名称の方がこの国ではよっぽど人を支配してしまう。「母親なのに、云々かんぬん」がどれだけ多くの人を苦しめるか。そして、意外にも苦しめているのはかつて苦しめられてきた人だという呪縛のようなもの。戸籍上の名前は結婚制度によって変わってしまったのが、今日も非常に悔しい。家を継ぐ、という感覚が1mmもない私にとって、私は私。今日も明日も明後日も「ひやまちさと」なので、もしこの文章に気がついた人がいたならば作家活動をしているときの私はぜひ「ひやま」と呼んでほしい。
また、こうも言われた。「夫がいなかったら、あなたは今のような仕事はできなかったんじゃないですか」確かに、彼は私の知らない世界をたくさん見せてくれた。でもその中で得た人々との出会いや、新しい表現へのきっかけは全て「私の感性によるもの」であるし反対に彼も私と出会うことで彼の地図に無かった海へ漕ぎ出したはずだ。少なくとも私にとって、彼は非常に面白く味わい深く、かけがえのない人だ。
どうしてこの散文を記しておこうと思ったかというと。私はもう少し、自身を深めたいと思っている。それは「沖縄」「原発」「水道民営化」「外国人就労者」「政治」など様々な問題が、他人事として自分の中に存在してしまっている今の私にとってそれぞれ「これが答えだ」なんてことはすぐには言えないかもしれないが、その事象を自分の頭で理解し「私はこう思う」私の心を通してもっと自身のこととして考えたいと思ったからだ。そういう思考をする時間をもつための一歩として私が今一番、違和感を覚えることについて記しておこうと思った。
0 notes
Video
youtube
昨年の鹿野芸術祭で発表した、ひやまちさと× wakrucaの作品「うまれるまえのへや」を谷口一真くんに映像化してもらいました。 自然災害への恐れや疲れ。この機会に乗じて自分の力を増幅させようとする人たちへの、声の届かなさ、へのもどかしさ。将来への悲観的な言葉を多く聞かれます。命とはなんなのか、大げさに語ることはわたしにはできませんが。 つまり、あなたが、ここにいる。 そのことに細胞全部を使って喜んだ日を忘れないでおこうと思って。
0 notes