#「気になる本」 先日のこと。 駅の階段を 本を読みながら降りている 小学生の女の子がいました。 4〜5年生くらいでしょうか。 階段はそれなりに長く 本を読みながら降りるのは
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katoyoko · 1 year ago
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tomtanka · 5 years ago
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(横書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるから��。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も読者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、日が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を落とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長��音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を��ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからないラフな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸���海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じ���か、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考え��くないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問してくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま���れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四だけだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼくらはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう���少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間が置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしまったということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チ���シがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞」だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「���お」
*
引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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kerosposts · 8 years ago
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20170211 CARAT LAND渡韓(1)
いや~短かった(いきなり)。
忘れないうちに私の3回目の渡韓について書こうと思う。
SEVENTEENにとっても私にとっても初のファンミーティング(ペンミ)のCARAT LANDの内容はキリがないしまだアウトプットする準備が(心の)できていないので、また今度として、滞在とかフライトとかについてぽちぽち。
今回も時系列でいきます。
0210
横浜駅で東京土産ひよ子を買い、京急使って23:30ごろに羽田空港国際線ターミナルに到着。荷物はペンラやeチケット、暇な時に読む文庫本、化粧品などの入ったリュックと次の日の着替え、最低限の洗面用具が入ったバッグ(以下参照…こんな大きさ)程度で、預け荷物もなく比較的身軽な感じ。
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フライトはpeach 1009便の羽田1:55発仁川4:35着。4:35着といってもどうせもたもたして5:00ごろにはなるだろうし始発前だけど時間をつぶす方法はいくらでもあると思ってこの時間にした。
ウェブチェックインを済ませていたし預け荷物もなかったので、カウンターに行って最終チェックインをした後すぐ手荷物検査場を通って出発ゲート近くへ。
羽田の国際線出国エリアって真夜中でも賑やかなんですね!?印象的だな。
https://twitter.com/ker018kero44/status/830086734297788418
免税店で香水をちょこちょこっと見たものの面倒になって出発ゲート近くへ行って待機。30分以上あったので椅子に横になって携帯いじったり、持ってきた本を読んだり。モーゲンソーなかなか読み終わらない。
0211
ほぼ定刻でpeach出発。3-3の座席で、自分は窓際。横2人は友人同士らしく、韓国に遊びに行くっぽい女性二人組だった。真夜中だったせいか、最近夜更かししすぎて3時回らないと眠れなかったせいか、身動きが取れなかったせいか分からないけれど全然眠れず。足の位置や組み方や座り方を散々変えて、1時間ほど寝た。
peachは初めてだったんだけど、これが日本の格安航空かという感じ。自分の座った区域には女性のフライトアテンダント2名体制で、二人とも従来の航空会社の(暗黙の?)制約から解き放たれたような外見だった(悪い意味でなく)。髪もワックスかけられたお団子にせずくしで梳かして結んだ髪型だったり、化粧もナチュラルメイクだったり、棒のように細くあるべきだという重圧もないみたいだった。そういう方々がサービスしてくれるものだから、なんだか飛行機に乗っているのではなく、ファミレスやどこかの店員さんがサービスしてくれているみたいだった。何度も言いますが悪い意味ではないです。ただフライトアテンダントは往々にしてバレリーナのような外見の百貨店が好きそうなお姉さんたちなのだという先入観があったので不思議に思った。
放送が少し…雑だった。別に気にならない人は気にならないのかもしれない。日⇔韓便なんてだいたい英語が分かる人よりも日韓語両方が分かる人の方が多かったりするし。日本語で放送した後、10分ほどたってから同じ内容を韓国語と英語で放送するみたいな。英語しか分からなさそうな乗客もいたので、不安に思っただろうなあと。何も言わなかったけど。
5:00ごろ
仁川到着。飛行機が到着口求めてさまよったりなんだかんだで5:00。 とりあえずolleh wi-fiを拾って(韓国KTで契約している携帯なのでollehが使える)、語学堂の台湾人の友人に連絡し、 昼を一緒に食べる約束をとりつける(強引に)。便予約したときは仁川で少し休めるかなと思って取ったんだけど、前日の混み具合をツイッターで見ていたのでペンラ戦争に参戦すべく直で鉄道に向かう。ペンラ可愛いんだよ。戦闘能力高めです
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空港鉄道で金浦空港駅まで行き9号線に乗換する(いちばん速い)つもりが、金浦空港駅の手前で寝落ち、寝過ごし。ホンデ駅で起き、仕方ないので降りて2号線に乗り換えて堂山(タンサン)駅へ。ここで9号線に乗り換えて総合運動場駅まで一直線(30分ほどのロス)。
7:00ごろ
総合運動場駅に着き、7番出口を出て、まっすぐ進み、右に曲がると「CARAT LAND」の文字が(それっぽそうな女の子について行った…その節はお世話になりました)。本当にドーム運動場のような会場で、「세븐틴 캐럿」と書かれたバルーンがひとつぽつんと浮いてた(なんで~)。↓の横断幕が垂れていて、思わず頬が緩む。
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奥に進んでいくと、メンバーひとりひとりが等身大に映し出されたパネルや米俵ゾーン、公演開始3時間前から利用可と書かれた荷物置き場(後でここに荷物預けようとしたらキャリーないとだめって言われちゃって…かなしい)、メロンチケット引き換え場所があった(メロンチケットインターナショナルで購入した人はeチケットしか出ないので、eチケット印刷したものとパスポートを見せて、ここで現物のチケットと引き換え。在韓のファンはチケットが直接家まで郵送されるらしい)。
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これは物販の後、昼過ぎに撮った写真。
https://twitter.com/ker01_7/status/830262111766929408
もう少し奥まで進むと、ツイッターで見かけたような物販列らしき白いテントがあった。「MD」と書かれていたのでここだ、とおじさんの立っている最後尾らしきところに進もうとすると、あっちから並んでと指さされる。言われるがままに進むと、坂に沿って長蛇の列があった。ざっと200人…もっとかな…はいた。仕方ないので坂をのぼって最後尾を探す。みんな暇らしくこちらを見てくる。いやあ見ないで…///かわいい同年代に見つめられたら照れちゃうでしょ…/// 目をそらしながら歩いた。最後尾には簡易シートとカイロを持ったお��ちゃんがいて、おばちゃんが5列に並んでというのではーいと並ぶ。2列前にメイク、顔つき、髪、服、どれをとっても明らかに日本人のキャリー持った女性2人組がブルーシート広げてさながら花見のような態勢で座っていた。彼女たちは100均で買ったであろう小さな折り畳み椅子を持ってきていて、石畳に直で座ることによって熱が奪われていくのを危惧したらしい。頭いいな。同じ飛行機に乗ってた人っぽい、と思いながら、話しかける理由もないのでおもむろに石畳に腰掛け、となりの韓国人ティーンエイジャーのお話に耳を傾けながら(盗み聞きしたいとかじゃないんだよおじさん怪しい人じゃないよ)、持ってきた本を読む。
1時間ほど経ったころ、物販がまだ始まっていないのに列が動き出す。テント増設とか列の移動でもしたのかな。坂道の下の方まで進み、9:30ごろにはテントの中へ。風を少しでも凌げるのはありがたかったけれど、昇り始めた陽の光が全く差さず逆に寒かったような。
服装はでかフーディー、ユニクロのブロックテックパンツ、ムスタン、スニーカーといういでたち。秋田だとこれでばっちり防寒なんだけれども、ソウルだと俺の魂が冷える(頭痛い…)。我ながらこの服装でカイロ1つ、5時間は頑張ったなあと思った。ブロックテックパンツの下に起毛タイツ穿いてくるべきだったし、靴は絶対スポーツ用の軽いスニーカー(これいいんだよお、Reebok classicのエアーなんとかってやつなんだけど、超軽量で、持ち運びも履き心地も最高。デザインもシンプルで、糸が切れやすいのが難点だけど手放せない…)ではなく、風を遮るいかつめのブーツにすればよかった(買おう買おうと思って気に入るのがなくて買わなかった結果…もっと本気出して探せばよかった)。後から他の日本人参加者のレポを読んだらカイロ4個6個持って行ったと書いてあって、ど~~~~りで寒いわけだと。わし頑張った。でかフーディーが膝まであるなかなかにあたたかいものだったので、体育座りして膝をフーディーで包み、寝たり(どこでも寝られる)本読んだり……とにかく暇だった。本も熱中してぱらぱら捲るような小説ではなく、一文一文文脈まで汲み取り吸収するタイプの学術本だったので、エネルギー切れの頭では読み進める気が失せてしまっていた。何回あくびをしたことか。いつも朝に食べるバナナを思い出す…ああバナナ食べたい…そうじゃん日本から持ってきたんじゃん…バナナを取り出す。衝撃と圧迫でだいぶ黒くなっていた。食べる。本物のゴリラだな。
11:00ごろ
そうして11:00が近くなって、座っていた人たちが立ち上がり始める。わたしはどうせ11:00ぴったりには動いたりし��いと思っていたので、ダルいしそのまま縮こまっていたのだけれど、何となく立ち上がる。列は任意のブロックで動いて行った。ひとブロック動かしたら、少し時間を空けて後のブロックを動かすみたいな。スタッフさんたちもこの人数なので叫んだり怒ったり。そりゃそうですよね、ブロックで動かしてるんだからそのブロックで並んでいる列のまま動かしたいだろうに、動いているときに先に先に行こうとみんな小走りなんだもの。뛰지마세요ォォって何回聞いたか。床にも段ボールやコーラのペットボトル、お菓子の袋、チキンの箱、おにぎり、新聞紙、色々なゴミが散乱してて呆れたのを覚えてる。韓国人ですら휴지(ごみ)...ってあきれ顔で言ってたけど、徹夜組はそんなことを考える余裕のない戦士だったんだろうな。真相は闇です。並びながら時折前の方の列から「ああ~(残念)」とか「えーー!!」とかが聞こえてきて、ポスターやフォトカードが売り切れたことを知る。一番はやく売り切れたのは2色タンブラーだった。昨日Twitterで誰かが「ダイソーで同じタンブラー買えるで」みたいなことを言っていたけれど、そういう問題じゃないのよねきっと。わたしたちはグッズにお金を出して、幸せをもらって、あの子たちの利益にしてもらいたいわけですよ。なんせチケット、ファンクラブ会員は一人30,000ウォン(概3,000円)ですし。タンブラーのお色可愛いし。
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テントを抜けても少しまだ並ぶところがあって、大あくびと少し進むのを繰り返しながら先へ。20台くらい縦に設置されていた会計レジの前に来ると、係りの人がチケットないしeチケット(PC画面のコピー)を確認。前日に前方列に並んだ代行や別日参加者がペンラを買い占めてしまって参加者がペンラを買えないという事態があったので、この日はチケット確認後購入可だった。絶対そういうことあるだろうから、多くペンラだけでも用意しておくか、初めからチケット確認の上購入っていう形式にしておけばよかったのに…とは思うものの、初日の反省で2日目に反映されるのはなかなか嬉しかった。
こうしてレジの前へ。ウォヌフォトカード(ホシペンだけど)とパーカー購入を考えていたんだけれど、寒さにやられて買う気が失せていたのでペンラだけ買って終了。電池買います?と言われたけどあらかじめ単4電池を3つ持参していたので買わなかった。
やっとペンラが買えたので、少し会場のまわりを見渡しつつ、総合運動場駅へ戻る。ホシと写真撮りたかったけれど、お顔を近くで見るだけでスタイルのいい脚チラ見しただけで泣きそうになったのでやめる。うわあこれから会えるのか、5時間待ってペンラ買った甲斐あったな、とか考えながら。メンタルやられまくってた。駅に着いて、公衆トイレへ。ノーメイクにマスク(鼻を守ってた)だったので化粧しようと思ったのだけれど、化粧台もないし疲れていたのでとりあえず友人に連絡して2号線ソウル大入口駅へ向かう。我ながら厚顔無恥な外見だったと思う…思い出したくなさすぎて思い出せない。
13:30ごろ
ソウル大入口駅について、契約のデータ通信容量がないのでwifiを求めてHollys coffeeでコーヒーを飲みながらwifiに接続し、メイクをしようと努めるものの友人が到着してしまい断念。外見はそうでもないんだけど結構パーティーパーソンで、前日の夜も総合運動場駅近くのクラブで夜明かししたらしい。あちらもノーメイクで、だいぶ疲れた顔していた。とりあえずお土産を渡し、近くのプルコギ店へ。牛肉と豚肉のセットを頼み、ゆっくり食して14:30。おいしかった。
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何する?という話になり、江南のセンイル広告を見て小さいショルダーバッグを買うと決めていたので、強引に三成(サムソン)駅まで友人を連れまわす。17:00開演だったので、ショルダーバッグを買った後友人と別れ、トイレでなけなしの化粧をし、センイル広告の写真をささっと撮り、総合運動場駅まで。全部の荷物持って。重かった。
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https://twitter.com/ker01_7/status/830442826907410433
16:30
チケットを交換。荷物を預けようとしたら断られてしまったので、駅に戻ってロッカーを探すのも面倒だなと、そのまま会場入りした。2階席のサイドだったんだけれど肉眼で見える距離だった。ディノちの誕生日を狙って取ったチケットだったので、席に置かれていた2枚の公式スローガンに内心にやにやしながら着席。大きな方のかばんは椅子の下に置き、リュックはペンラ買ったときの袋に入れて、ショルダーバッグと一緒に1列前の席(つまり少し段のある)の後ろに置いた。足元すっきりして快適だった。ペンラに電池を挿入。開演。
続く
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kuborie · 7 years ago
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リアル・日本で一番悪い奴ら。北海道警察銃器対策課と函館税関は「泳がせ捜査」と称し、覚醒剤130キロ、大麻2トンを「密輸」。主導したのは、100丁以上の拳銃を押収し、「銃対のエース」と讃えられた稲葉圭昭警部だった。覚醒剤使用で逮捕後、8年の刑期を終えてシャバに出た稲葉は、自らの罪と組織ぐるみで行なわれた違法捜査の数々を告白、事件の風化に抗っている。
稲葉圭昭は1953年10月、北海道沙流郡門別町(現日高町)に生まれる。営林署に勤めていた父親は転勤が多く、稲葉家はその後、瀬棚町(現せたな町)、室蘭市、厚沢部町など、道内を点々とする。稲葉は父親に3歳から柔道を仕込まれ、成長とともに腕を上げ、そのことが警察への道を切り拓いていく。
──柔道に打ち込んでいた少年時代の話からお聞きしたいのですが。
倶知安中学に2年生で転校して柔道部に入りました。倶知安は羊蹄山の麓にある小さな町です。2年の3学期の終わりに札幌へ昇段試験を受けに行��、5人抜きをやって初段を取りました。それを見ていた道警の師範が、「俺も倶知安出身だ。お前、高校決めたのか?」と聞くんです。決めてないと答えると「じゃ、北海行け」。すぐに北海高校の先生に会わせてもらって決まっちゃった。
──北海高校は柔道の名門校ですね。そこで稲葉さんは番長だったとか。
みんなが言ってただけです。
──高校は札幌市内ですから盛り場を遊び歩いたのでは?
1年から3年のインターハイが終わるまでは、朝昼晩ずっと稽古で遊ぶ暇なんてないんです。当時は先生がやってる道場の寮に寝泊まりしてました。朝4時半からバスの時間の直前まで稽古して、朝飯をかっこんでバス停に走る。1時間近く車中で揺られ、学校に着くと授業中ぐっすり寝て、3時に授業が終わると道場に直行、すぐに稽古です。6時に終わってバスで帰って夕飯食ったら9時過ぎまで稽古。毎日、気持ち悪くなるほど柔道に打ち込みました。ほとんど休みはなく、たまに先生の許しが出ると日曜日に映画を観に行ったぐらいです。
──1953年生まれの稲葉さんの高校時代は69年から71年ですね。柔道から解放された日曜日にどんな映画を観ましたか?
高倉健や菅原文太の任侠映画です。あのころは東映の映画館で3本立てをやってました。でも、3本いっぺんに観ちゃうとグチャグチャになってわけわかんなくなるんだよね。洋画は観た記憶がないです。
──補導歴があるそうですね。
インターハイが終わって遊びを覚えたてのころでした。喧嘩や恐喝、万引きなんかが大好きでね、いつも友達とスリルを味わってました。いまは男女共学の進学校で簡単には入れないそうですが、当時はメチャクチャな男子校でした。街を流しては喧嘩ばかり。補導されたときは札幌駅で、なんで喧嘩になったのかは忘れたけど相手の高校生を脅かして殴って、「お前ら、ナメんなよ」って言って帰ろうとしたら大人に声をかけられた。「ちょっと待ちなさい」と。悪いことにそれが私服の鉄道公安官で補導されちゃった。後日、札幌中央署に呼び出されて取り調べです。
──そのころ、将来どんな仕事に就きたいと思ってましたか?
警察官にはなりたくなかった。補導されてるし、ぜったい嫌でした。教員免許を取って柔道の指導者になろうかと、うっすら考えていたぐらい。柔道の特待生で東洋大学に入って教職課程は取りました。でも、教育実習の費用が3000円かかるのがわかって、カネないし、面倒くさくなってやめちゃった。
──しがらみもあって柔道の特別採用で道警に入ります。なりたくなかった警察官になってみていかがでしたか?
1976年4月に入り、10月にすすきの交番に配置されてすぐのころ、���輩と警邏(けいら)に出ると、すすきの交差点の真ん中に穴が開いてたんです。北海道は雪の影響で、よく道路が陥没します。「稲葉、参報出しとけ」と先輩に言われました。参考報告というA4サイズの用紙に状況説明と補修工事を依頼する文を書いて交通課に提出し、翌日に同じ場所を通ったらもう直ってた。警察ってスッゲエなぁ?と感動しました。当時は、22歳の兄ちゃんでしたから無理ないですよね。
警察官になった翌年の1977年4月、稲葉は柔道特別訓練隊員として道警本部警備部機動隊に配属される。78年に道警が全国柔剣道大会で優勝したのを期に柔道を引退し、79年8月に道警本部刑事部機動捜査隊に異動。機捜でエス(情報提供者)を使った捜査手法を叩き込まれ、一癖も二癖もあるエスたちとの「信頼関係」を築いていく。84年4月に巡査部長に昇任し、札幌中央署刑事第二課暴力犯係主任、88年4月より北見署刑事課暴力犯係主任。90年4月に警部補に昇任し、旭川中央署刑事課暴力犯係主任となる。
──機捜の任務はどういったものですか?
札幌市内の夜間の捜査態勢を強化し、殺人や強盗などの重要突発事件に対応するために組織されました。札幌市内には7つ警察署がありますが、どの署も泊まりの刑事が少なかった。当時、一番多い札幌中央署でも7人ほど、小さい署だとせいぜい3人。それじゃ事件があっても対応できないから機捜ができたんだけど、課せられたノルマを達成するための点数稼ぎをするような方向にズレていったんです。
──罪状と逮捕した相手によって点数が決まっていたそうですね。稲葉さんの著書『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』には、〈覚醒剤の所持で逮捕すると、一〇点。それが五グラム以上だとプラス五点〉などと実例が挙げられていて、設定の細かさに驚きました。2人組で捜査するため、ペアで月30点以上挙げるのがノルマになっていて、達成できないと罰則もあったとか。
俺が機捜に行ったときにはすでにそうなっていて、「稲葉、110番じゃメシ食えんぞ」と直属の上司に言われたんです。「とにかくエスを作れ。稲葉さんという役所(警察署)にエスが電話をかけてくるようになったら、お前もやっと一人前だ」と。そのころは上司に言われたことをスポンジのように吸収して即実行してました。
──ヤクザや水商売関係者たちに名刺を配りまくります。『恥さらし』を映画化した『日本で一番悪い奴ら』でも面白く描かれていました。
あの名刺は、知り合いのヤクザのアイデアなんです。俺はそいつから兄貴と呼ばれてました。「兄貴、俺はヤクザ辞める。印刷屋に勤めるから名刺作ってくれ」と言うので「好きなの作ってこい」と言ったら、いろんなのを次から次へと持ってきた。ステッカーになってたから、すすきののパチンコ屋やサウナ、スナックなんかにベタベタ貼って。みんな欲しがったんですよ。
──魔除けのお札みたいですね。
そうそう。サウナの横に公衆電話がダーッと並んでいて、そこにも貼りまくりました。
──『恥さらし』に〈私はエスを作るために、まずは指名手配犯の被疑者を追って、聞き込みを繰り返し、その指名手配犯の知り合いとはほぼ全員と接触しました。〉と書かれています。なぜ、彼らとの接触がエス作りに?がるのですか?
人を覚えないことには始まらないから。指名手配犯を捜すには、いろんな人間に会わないといけない。その一人ひとりから枝分かれした人の?がりもあって、すべてが人脈になる。ひとりを追えば、それだけ人を覚えられるんです。
──エスになる人とならない人をどうやって見分けるんですか?
簡単に言うと、友達を作る感じ。なんとなく気が合うというか。最初からこいつをエスにしようと思って近づくことはなかったですね。何か情報くれたらいいな、ぐらいの気持ちです。
──エスから情報を取るときはどんな気持ちですか?
相手次第、ケースバイケースです。例えば、ヤクザの抗争事件が起きたときの情報は末端の組員ではわからないから、必然的に幹部クラス以上が相手になるじゃないですか。組織内でのエスの地位によっても、気持ちや心構えは変わってきます。また、必要な情報に応じてエスは異なります。マル暴だったらシャブの情報だって取らなきゃなんないし。少し話はズレますけど覚醒剤の場合は、山口組、稲川、住吉、極東のように組織が異なっても全部?がってるんです。ある組織の奴が別の組織に平気でブツを流しちゃう。
──組長から末端の組員まで全員が、稲葉さんのエスだった組があったそうですね。
いまでも何人か付き合いがあるけど、ほとんど堅気になりました。ジンギスカン屋の親父とか。
──生活保護で暮らす覚醒剤常用者のおばあさんのエスもいた。映画でも印象的なシーンでした。
俺が若いころの話だから、たぶんもう亡くなってますね。出会いはガサをかけたときで、座布団の下にシャブを隠してた。「ババァ、どけよ」と言っても動かないので無理矢理どかしたら出てきた。それからよく電話をかけてくるようになって、指名手配のヤクザの居場所なんかを教えてくれました。映画観たら思い出して懐かしかったです。
──機捜の次はマル暴刑事になります。1991年に稲葉さんが旭川で捜査したヤクザの射殺事件について話していただけますか。
旭川のある組織が山口組の傘下になったんです。それがきっかけで、その組織の総長と最大派閥の組長が対立し、「総長が組長のタマを取る」という噂まで聞こえてくるようになった。でも、まさか俺たちの耳に入ってるのにやらねぇだろ、と高を括っていたら本当にやった。組事���所の2階で定例会をやっている最中に発砲事件が発生し、組長は窓から飛び降りたけど着地したときに骨折、さらに上から撃たれて重傷を負った。俺が組事務所に着いたときには、ひとりの幹部が頭を撃たれて死んでいた。 銃を用意した組員を指名手配し、逃亡を助けた組員を犯人隠避で逮捕したけど、実行犯は捕まらなかった。 発生から1年ほどたったころ、実行犯の内妻が月に一度、札幌に行っているという情報が入って、調べると東区のあたりで高速を降りているのがわかった。電話の設置場所から潜伏先のアパートが判明し、向かいの一軒家を借りて捜査員ふたりに張り込ませた。それで1カ月後に踏み込んで逮捕したんです。 その後、総長を逮捕したけど、共謀共同正犯で起訴することはできなかった。それでも、いままで大先輩たちが誰も捕まえられなかったヤクザの大物を初めて逮捕できて、誇らしく思いました。苦労しましたよ。小技を使わない、きれいな、本当の刑事の仕事でした。……あれが最後だったな。
1993年、警察庁は全国の警察に銃器対策室を設置させる。その背景には90年の長崎市長銃撃事件、92年の金丸信自民党副総裁銃撃事件など、銃器を使った重大事件の発生があった。稲葉は、道警本部防犯部保安課銃器対策室(96年より生活安全部銃器対策課)の銃器犯罪第二係長となる。従来の地道な捜査手法では押収実績を上げられないことに焦った銃器対策室幹部は、所有者不明の拳銃(クビなし拳銃)の押収を認め、手段を選ばず数を稼ぐよう捜査員に指示。稲葉はエスから入手した拳銃を、コインロッカーに入れて匿名で通報したり、自首減免規定を悪用して所有者ではない人物に話をつけて自首させたり、自作自演や捏造を繰り返しながら拳銃押収のスコアを上げていく。
──上司から「クビなしでいい」と言われたとき、稲葉さんのなかに反発はありませんでしたか?
クビなしってのは捜査官としては邪道でプライドが許さなかったんですが、「とにかく出せ! 手段は問わない」的な波が押し寄せていましたから。そんなときに上から「クビなしでも構わない」と言われたら文字通り渡りに船でした。さっそくエスたちに電話して、「クビなしでもいいらしいぞ」と言って持ってこさせました。
──成果を出して出世したかったからですか?
それはないですね。警察社会は昇任試験に受からなければいくら仕事で実績を残しても偉くはなれません。叩き上げの素晴らしい刑事でも仕事を何にも知らない勉強一筋の幹部の指示命令には、それが間違っていても逆らえないんです。
──稲葉さんは銃が好きですか?
好きですよ。あれ見てください(部屋の本棚に銃の専門誌『Gun』のバックナンバーが並んでいる)。刑務所にいるとき読んでたんです。なかでは本読��しかやることないんだもん。
──パキスタン人のマリックがエスになったとき、ロシア人マフィアから入手した拳銃を稲葉さんに渡します。その拳銃について、『恥さらし』にはマニアックな記述があります。〈拳銃を確認しに行くと、ドイツ製で二十二口径の回転式八連発銃でした。他の拳銃よりも細い弾丸を使う珍しい銃です。〉と。
珍しいですよ。初めて見ました。アルミニウスというメーカーの22口径で、通常の回転式拳銃は弾倉に5発か6発入るのが、あれは8発。サイズはちょっと大きい。あの拳銃はマリックに持たせて自首させたけど、もったいないよね。
──マリックはどんな人ですか? 当時は小樽で中古車販売業を営んでいたそうですが。
約束はちゃんと守ります。凄くいい奴です。行方がわからなくなってたんだけど、今年になって連絡があったんですよ。いまは栃木で解体業をやってるそうです。息子たちを日本に呼んで仕事を手伝わせて、家も買って真面目にやってる。夏に車で札幌まで来てくれました。
──久しぶりに会ってどうでしたか?
嬉しかったぁ。大通公園で抱き合っちゃいましたよ。
──どんな話をしましたか?
死んだ(渡邉)司の話とか。
──渡邉司も稲葉さんのエスでしたが、のちに稲葉さんの銃対課時代の元上司、方川東城夫を脅迫します。「違法捜査をバラしてやる」と。
あれは警察も悪い。俺は情報が欲しくてエスを利用しているという気持ちが常にありました。ズルいのよ。そういう生活してると自分のズルさに……負けちゃうよね。押し潰されそうになるときがある。良心の呵責っていうの? なんて説明したらいいかわからないけど……正直には生きてないですよね。
──渡邉司はどんな人でしたか?
エスの仕事は一生懸命やってましたよ。でも、司は警察を利用してた。それはお互い様だけど……。常にカネがない奴で、いつも「ビッグになりたい」と言ってました。拳銃や覚醒剤、大麻はもちろん、ブランド物の時計や財布のコピー商品を売ったり、いろんなことをやってました。でも、俺が知らないところで何やってるか、さっぱりわからない。俺は自分のエスから家の場所を聞かないようにしてたから、奴がどこに住んでるのかも知らなかったし。ほかからガサが入ったときにチクったと思われるのが嫌でね。
──稲葉さんは渡邉司をほかのエスより大事にしていた感じがします。
よく動いたからね。指示したらすぐに実行しましたよ。俺のまわりの評判はあまり良くなかったけど。
1995年の國松孝次警察庁長官狙撃事件ののち、警察の銃器捜査はさらにエスカレートしていった。銃刀法が改正され、コントロールド・デリバリー(泳がせ捜査)と拳銃の譲り受けが立法化。泳がせ捜査やおとり捜査の過程で密売組織から合法的に拳銃を購入することができるようになった。 稲葉はエスの石上に拳銃を大量に押収できるネタはないかと相談。元ヤクザの石上は��人である関東のヤクザに「拳銃を売ってくれ」と持ちかけ、ヤクザは1丁あたり40万円で石上の話に乗る。その取引を端緒にして密売ルートを洗うという捜査方針が道警銃対課で固まり、警察庁も了承して警察庁登録50号事件に指定、道警と警視庁と千葉県警の合同捜査が行なわれることとなった。稲葉は石上の若い衆のヤクザに扮し、石上とふたりでヤクザに直接会って拳銃を購入する。1996年8月、稲葉にとって初めての潜入捜査だった。
──警察官であることを隠して取引相手のヤクザに会ったときの気分はいかがでしたか? バレたら殺されるかもしれないですよね。
ビビりますよ、本当に。おっかないでしょ。現場は浅草のビューホテルでした。あんまり思い出したくないです。いまでもザワザワっとくる。ザワザワくるような経験は何回もあるけど、あのときが一番です。
──潜入が一番なら、ほかにザワザワきた経験は?
拳銃を暴発させたのが、おっかなかったですね。提出用と密売用の拳銃を。1回はひとりのとき、あとの1回は司と向かい合って座っているときだった。自動式拳銃は弾倉を抜いても薬室に1発残ります。弾が残ってるのはわかってたんだけど、スライドを引いた俺の手が滑ったんです。バンと弾が出て、危うく司を殺すところだった。司は真っ青な顔してました。
──思い出したくない話で恐縮ですが、潜入捜査の話をもう少しだけ。相手のヤクザに稲葉さんの素性が割れないよう、石上からヤクザの挨拶や言葉遣いの特訓を受けたそうですね。具体的にはどんな。
ひとつ覚えているのは、「面倒みてくださいと言わなきゃダメだぞ」と言われて、「なんでそんなこと言わなきゃなんねぇんだ」と言い争いになった。けっきょく言わなかったけど。ふだん使わない言葉って、急に使えない。無理ですよ。
──ホテルの部屋でのヤクザとの拳銃の取引は、映画では綾野剛が稲葉さん、中村獅童が石上を演じ、緊迫した状況を再現していました。
潜入のことは思い出したくないですね。拳銃をたくさん挙げるには究極の捜査手法だと思いますが。
順調にみえた交渉は、相手のヤクザが稲葉の体の一部に注目したため、一触即発の状況となる。柔道経験の長かった稲葉の耳は畳や相手の柔道着で擦られ、カリフラワー状に変形していた。「お前、柔道をやっていただろ。サツにしか、そんな耳の奴はいない」とヤクザは疑い、稲葉の耳元に拳銃を突きつけ、撃鉄を起こした。「こいつはレスリングをやっていたんだ」と制止した石上の機転で稲葉は殺されずにすんだが、2回の取引で計8丁の拳銃を購入しただけで、それ以上の成果に?がることなく、命がけの潜入捜査は幕引きとなった。 2000年、石上は稲葉に拳銃の大量摘発の計画を持ちかける。香港マフィアが違法薬物を密輸するのをわざと3回見逃して油断させ、4回目に拳銃を200丁密輸したところを荷受人の中国人もろとも摘発。道警銃対課と函館税関はその計画に乗って合同捜査を開始する��、4月に覚醒剤130キロを石狩湾新港から入れた直後に石上が失踪。そして、覚醒剤の密輸を香港マフィアから聞いた関東のヤクザから稲葉に問い合わせの連絡が入る。稲葉はそのヤクザを石上の共犯者だと思い込んでいたが、そうではなかった。ヤクザは、「石上にやらせたのなら俺にも──」と、今度は大麻2トンの密輸を見逃すよう要求。その代わり拳銃は用意できると言う。
──大麻の密輸の片棒を担ぐことを求められたとき、断ろうと思いませんでしたか?
上司に報告したら、「ヤクザに会って断ってこい」と言われたんだよね。いまさら何ビビってんだ、と思った。仕方ないから東京でヤクザに会って、「エラい奴らはやめろと言ってるんだけど、関係ないからやっちまえ」と言ったんです。
──大麻2トンですよ。ビビって当然じゃないですか。
いや、ビビるとかビビらないとかのレベルは完全に超えちゃってる。東京から帰って、「言っときましたよ」と上司には?の報告をしました。ところがそれから何カ月たっても大麻が入ってこない。「どうなってんのよ」とヤクザに連絡したら8月に入ってきた。上司に「断れって言ったじゃねぇか」と凄く怒られたけど、「来ちゃったもんはしょうがないじゃないですか」と開き直った(笑)。「どうするの?(大麻を摘発したら覚醒剤を)130キロ入れたの喋られるよ」と逆に脅しをかけて。もうイケイケですよ。恐いもんナシ。
──しかし、けっきょく肝心の拳銃は、関東のヤクザのルートからではなく、稲葉さんがストックしていたマカロフを出します。覚醒剤と大麻の「密輸」に税関まで巻き込んでしまっているから、やるしかなかった。
「どうしても20丁ないとダメか?」と税関の奴に聞いたら「ダメです」と言うから。司をアジトに呼び、その数のマカロフをバッグに詰めて、「明日の朝、ロシア船に置いてこい。そして税関に電話しろ。奴らに花を持たせる。そのあとで道警に電話しろ」と言った。それで司がロシア人とふたりで小樽港に停泊している貨物船に侵入し拳銃を置いてきたんです。
──この2001年4月の小樽港でのマカロフ20丁(および実包73発、サイレンサー1個)の押収をマスコミは大々的に報じ、現在も税関や海上保安庁のホームページに載っていますが、実際は組織ぐるみのヤラセだったということですね。
銃対課のエラい奴にはすべての段取りを報告して、「今日、20丁あがりますから」と言っておいた。そしたら、もともと銃対課では俺の直属の上司で、そのとき警備部外事課にいた中村(均)まで、「俺も乗せてくれと」と言ってきた。外事課は外国人犯罪者を取り締まる部署ですから。
──イッチョカミですね。
最初の段階から中村にも「シャブ130キロ入れて、そのあと道具(拳銃)入れたいんだよね」と伝えてあった。中村は「いいんじゃねぇか、どうせ入ってくるんだからよ」と言っていた。
──最初に入ってきたその130キロの覚醒剤の話を少し聞かせてください。
1キロずつ小分けされた覚醒剤が130袋あった。半分の65キロを石上が車に積んで、俺の知り合いを運転手にして東京へ走った。残りは俺が預かることになり、ズタ袋に詰めたら3つぐらいになって、ひとりで担げると思ったけど重くて歩けないの。ふつうの65キロと覚醒剤の65キロって違う気がしたよ。置いてけないし、ふらふらになりながら車に積んでアジトまで運んだ。それから俺が1キロ抜いて(笑)、残りは後日、石上が持っていった。
──1キロのうち100グラムを稲葉さんが所持、残りはエスたちに分配したそうですね。稲葉さんはこの100グラムの覚醒剤が、組織ぐるみで違法捜査が行なわれたことの物証になると考えていたと『恥知らず』に書かれています。
参加した皆さんの足枷しようと思ったけど、ならなかったんだよね。
──石上はその後どうなったんですか?
北海道にいるらしいよ。
──会いたいと思わないですか?
思わないね。奴は覚醒剤130キロの代金8000万を香港マフィアに払ってなかった。カネの回収に来た香港の連中に、その半金の4000万を俺が持ち逃げしたと言い訳をしたらしい。俺が刑務所に入って間もないころ、弁護士が面会に来てそう言うから、「そんな馬鹿な話あるわけないじゃないですか。先生、付け馬みたいなマネやめてくださいよ」と怒ったんです。石上が、香港マフィアと?がっている別のエスを連れて弁護士の事務所に行ってカネを要求したそうだけど、奴らが言うことを弁護士が鵜呑みにしたことも腹立たしかった。
2000年4月に石狩湾新港から陸揚げされた130キロの覚醒剤のうちの900グラムは稲葉のエスたちが密売。その後も稲葉は刑事の立場を利用して覚醒剤や大麻の密売に積極的に加担していく。かつてはカネに困っているエスがいれば自らカードローンで数百万の借金をして貸してやるなどしていた稲葉だったが、密売に関与しだして以降は、その売り上げをエスたちとの交際費のほか、複数あるアジトの家賃、高級車やバイクの購入資金に充てるようになった。
──売る側の立場になったわけですが、当時の覚醒剤は品質が安定していましたか? 効き目というか。
入ってくるその時々によって違いました。ゴジラってのがあったな。
──ゴジラ?
打つと、ボワァーッと熱くなるんだけどそれで終わり。熱くなる感じがゴジラっぽいからそう呼ばれたシャブがあった。
──初めて聞きました。
買っちゃうと、効かなくても返品できないんです。「今度はちゃんとしたの入れてよ」と言うしかない。効かないシャブは捨てずにとっておいて、次にちゃんとしたのが入ったときに混ぜて売ればいい。でも、化学物質だからおかしな反応して溶けることがあるんだよね。ベッチャベチャになっちゃって大損したことがありますよ。
──大麻は体に合わなかったそうですね。
やってみたけど合わないね。
──ウズベキスタン産の上物をゲットしたと書かれていました。
あれはスッゴイ効きましたよ。一服で床になっちゃったもん。ひとりだったから助けを呼ぼうとしたけど、電話もできなかった。ロシア人マフィアがいつもお土産に、黒いゴミ袋いっぱい入ったのを持ってきてくれたんだよね。そのウズベキスタン産の大麻を桶に開けて、上からハシシをおろし金で削ってまぶし、さらにブランデーを噴きかけて匂いづけして売��。ハシシは缶詰にした状態で入ってきました。
──そのブレンドするやり方は誰が考えたんですか?
自分で。そうやって生乾き状態のまま、50グラムや100グラムごとに袋に詰めて売りました。
──幾らで売ったんですか?
俺は窓口にならないでエスに売らせてたから覚えてないけど、いい小遣いになったんだよね。元はタダだから。小樽の飲み屋の連中が買いにきてたみたい。
──面白いことやってたんですね。
香港マフィアから2トン入ってきた大麻は、LPレコードの直径、厚さ5センチほどに圧縮されてました。1枚が1キロで、ビニールで密封された状態で2000枚あった。北海道は大麻がたくさん穫れるから俺たちもやろうとして、刑務所の溶接工場にいた奴に大麻専用の圧縮機を作らせたんだけど全然ダメだった。香港マフィアの大麻はおそらくタイかカンボジア産で、あっちは国家事業のようにやってるのでかなわない。粘り気がある大麻を強くプレスしてあるんだよね。それをペンチでむしってパイプに詰めて吸う。ある会社の社長に1キロ170万で売ったことがある。「高くない?」って言われたけど、「いやいやいや、こっちは危険をおかしてるんだから」って。当時、業者間ではキロ40万ぐらいでした。俺、酒は飲まないけど、一度ハッパ吸ってビール飲んだら、喉から食道を通って胃に流れていくのがわかったもんね。旨いなって! ……ちょっとは真面目な話もしませんか(笑)。
稲葉は2001年4月、警部に昇任、道警本部生活安全部生活安全特別捜査隊に異動となる。第3班の班長として、銃器や薬物に関する捜査をするのが主な任務だった。ところがそのころ、渡邉司が稲葉の銃対課時代の上司で小樽署の副署長になっていた方川東城夫を脅迫。脅しのネタは当時の銃対課の数々の違法捜査だった。稲葉はエスの暴走の責任を取らされ、仕事を干されてしまう。そして01年11月から覚醒剤を使用する。
──最初は炙りだったそうですが、気持ちよかったですか?
うん、最初はね。スカーッと、曇り空が急に青空になったような。なんにも恐いものないぞ、という感じになるじゃないですか。その後、司に注射してもらったけど、注射は炙りと比べ物にならないぐらい凄い。「全然違うな、おい」って言ったのを覚えてます。でも、続けてると体がどろんどろんになるんだよね。
──日常的に覚醒剤を打つようになり、渡邉司をはじめとするエスたちとも疎遠になっていきました。そのころは水に溶いた覚醒剤を注射器で吸い上げて打つのではなく、注射器に覚醒剤をそのまま入れて針を血管に刺し、逆流した血で溶かして打ったこともあるそうですね。
そうそう。知り合いから聞いたのを思い出してやってみたんだけど、すぐに血が固まって針の穴から出ていかないんだよね。ダメだった。
2002年7月5日に渡邉司が覚醒剤を所持したまま札幌北署に出頭し逮捕。その後、渡邉は札幌地裁の勾留尋問で稲葉の覚醒剤の密売と使用を告発する。7月10日、稲葉は覚醒剤の使用罪で逮捕(その後、3件の容疑で再逮捕)。そ���て渡邉は8月29日、札幌拘置所で自殺する。
──稲葉さんのアジトへのガサで92.92グラムの覚醒剤が発見されました。石狩湾新港から130キロ入れた覚醒剤の一部ですね。違法な泳がせ捜査の参加者全員の足枷にするつもりで残していた。
そう。あのブツがそうです。付き合ってた女に「おい、お前預かれや」と言って、ずっと持たせてた。女はアジトのカーテンを欲しがってたから、「やるから取りに来いや。そのときブツ持ってこい」と言ったら夜中に来た。カーテンを渡してブツを受け取ったその翌日に捕まっちゃった。覚醒剤をやりだして半年ほどたったころ、エスのひとりに言われたんです。「親父、シャブやめるときはパクられるときだからね」と。そっか……と思ったけど、本当だったね。言ってくれたエスは、俺が刑務所から帰った翌年に肝硬変で死にました。
──覚醒剤使用と、覚醒剤や拳銃の不法所持では、罪悪感がまるで違ったようですね。
恥じてました。取り調べで覚醒剤の小さい所持(単純所持)と大きい所持(営利目的所持)、拳銃の所持はすぐに認めているんです。だけど、使用だけはなかなか認められなかった。認めても詳しい状況は言えなくて、?をついたり──。
──『恥知らず』には〈取調官が呆れるようなことも言いました。「注射器を持っていたら、犬が突進してきて刺さったんです」〉と書かれています。
変なことばっかり言ってたよね。認めたくないんじゃなくて……後悔の現れじゃないでしょうか。覚醒剤やってる奴らを俺は機捜のころからずっと捕まえてきました。その経験が跳ね返ってきている。奴らと同じだと認めたくなかった。でも、1回やってしまったらやめられない。当時は目のまえに売るほどあったわけだから(笑)。「こんだけあんのによ、やらねぇ手はねぇだろ」と冗談で言ってたけど、ほんとにやめられなかった。いまはもうやってないよ。
──次の著書『警察と暴力団 癒着の構造』で稲葉さんは、稲葉事件を扱った2冊のノンフィクションに事実と異なる記述があると批判しています。例えば、稲葉さんの体に残った覚醒剤の注射の痕についての警察官の証言部分に関し、〈確かに注射針を刺した直後には小さな穴ができていたが、基本的にはすぐなくなった。(中略)私の周りで覚醒剤をしていた者たちを見ていてもそうなのだが、シャブダコは1回できてしまうと、その後、消えることはない。だから、彼らが書いたことが本当なら、それは今でも私の腕にあるはずだ。〉と。
(腕をまくって)きれいな腕でしょ。これは拘置所で自殺に失敗したときの傷。
──ズボンのジッパーの金具で手首をえぐったそうですね。
「何やってんだ、この野郎!」って看守に怒られちゃった。次は首を吊ろうとした。舎房のタオル掛けに上着を掛けて首に巻いたんだけど、体重をかけるとタオル掛けが折れてしまった。自殺防止のためにタオル掛けには切れ目が入っていて簡単に折れるようになっていたんです。自殺未遂で2回も保護房に入れられました。保護房は首を吊れないように天井が凄く高かった。窓がなく、灯りは裸電球だけ。トイレと水飲み場は床にくっついてる。メシを入れる穴がひとつあって、そこに看守の覗き窓がある。保護房では、ずっと寝ていました。そのうちシャブが切れてふつうの精神状態に戻ると、裁判で役所のこと(銃対課ぐるみの違法捜査のこと)を喋っていいのかどうか、凄く葛藤があった。
──拘置所で、信頼していた上司が迎えにきてくれると信じていたそうですね。
横になっていても何か音がするたびに、「あっ、次席が迎えにきてくれた」と思って飛び起きてた。まだシャブが効いてたし、おかしかったんだろうな。本気で思ってたんだよ。次席というのは、俺がいた当時、銃対課の次席だった渡辺(英雄)のことです。なぜそう思ったかというと、捕まるまえに「ちょっとメシ食いに行こうか」と会いにきたから。あとでわかったんだけど、エラい奴に言われて様子を見にきたんだね。拳銃であれだけヤバいことをやったのに、まさか裏切られるとは思わなかった。裏切りという言葉が適切かどうかわからないけど……。あの人らはどんなことして俺に拳銃出させたの? 腹は立たないけど、悲しいね、凄く。あの人らは俺より歳上だから道警を退職しているけど、生きてはいる。でも、沈黙を守ってる。言えない理由はわかるけど、あんだけ拳銃の違法捜査をおんなじ気持ちでやっててさ……。いまさらどうしてほしいってのはないよ。ないけども……ちょっと嫌だね。
──稲葉さんは公判で、銃器捜査での自らの違法行為とそれに関わった上司の名前を出していきます。勇気ある告発だと思いますが、十分ではなかったかもしれません。事実、道警は関係者を、減給、戒告、訓戒、注意などの軽い処分で幕引きしてしまいます。
どうせ誰も信用しないだろうし、他人のせいにしていると思われると考えて、闘いはシャバに出てからと決めました。それで親や女房や子供のことに折り合いつけて、千葉刑務所に行ったんです。人間はいざとなったら折り合いを付けられるんですよ。8年間服役して、帰ったときは両親とも健在でした。親父は3年まえに死にましたが。
──2016年3月、札幌地裁は道警銃対課が97年に行なったおとり捜査に関して「重大な違法があるのは明らか」と断定、再審が決定しました。稲葉さんたち銃対課がマリックや渡邉司らエスを使ってロシア人船員アンドレイ・ノボショーロフに拳銃と中古車の交換を持ちかけ、罠にかけて逮捕した事件です。
アンドレイには本当に申し訳ないことをしたけど、せめて再審が決まってよかった。逮捕の日、「ロシア人が拳銃を持って小樽港に来ました」と俺が銃対課の課長補佐(中村均)に情報を上げると、課長(小林隆一)、次席(渡辺英雄)、指導官(方川東城夫)、課長補佐(中村均)らが道警本部に集まって捜査会議を開き、「アンドレイを船の外におびき出し、マリックを逃がしてから現行犯逮捕する」という捜査方針が出た。それを聞いて俺は、「そんなことできるわけないじゃない。逮捕されたロシア人が黙っていませんよ」と悪態をついた���結果的にはその通りやってしまうんだが……。事件から7年後の2004年、俺は服役していた千葉刑務所から、自分の共犯として、彼ら4人を札幌地検に偽証と有印私文書偽造で告発したんです。とっくに指導官の方川さんは自殺してるんだけど……。出所後、弁護士事務所に彼らの検事調書を見にいきました。課長の調書を読むと、全部、方川さんのせいにしている。
──稲葉さん逮捕の21日後の2002年7月31日、方川東城夫元銃対課指導官は札幌市内の公園のトイレで首を吊ります。稲葉さんの事件に関し、道警本部で監察官の取り調べを受けているなかでの自殺でした。死人に口なしです。
おかしいでしょ。遺族もいるんだよ。「方川が指揮をしてやった。俺は知らない」だなんて。4人で捜査会議を開いて、どうするかが決まってるわけ。課長の指示なしではやらない。方川さんは気が弱いんだから、独断でやるわけがない。なのに「俺は知らない」と言う。なんで正直に言えねぇんだよ。それが一番悔しいね。ヤクザじゃあるまいし、死人に口なしなんてさ、あり得ないでしょう。
──稲葉さんはいま、どうやって生計を立てているんですか?
八百屋と探偵です。探偵はやりたくなかったんだけど、友達に探偵を紹介してくれと頼まれて、他人を紹介するなら自分でやったほうがいいと思って始めました。下の息子とふたりでやってます。
──どんな依頼が多いですか?
浮気調査や素行調査、家出人捜し、ストーカー対策とか、いろいろです。
──22歳の稲葉さんは、道路の穴を発見の翌日に書類1枚で塞いでしまう警察の力に感動しました。63歳になったいまは警察をどう思ってますか?
なきゃないで困るし、あっても困るときがある。昔は警察に身を守ってもらったけど、いまは警察から身を守る時代になってきているんじゃないですか。警察官による盗撮や猥褻行為──。このまえ道警でもあったけど、俺が昔やってたのと同じように、調書を偽造して挙げたり。いつ犯人にされるかわからない。 それに道警はいくつか未決事件を抱えているようだけど、捕まえられんのか? と思うよ。昔と比べて警察力は落ちてるから。 警察を恨んでいるわけじゃない。悪いことやったのは俺だし。道警から憎まれてはいないと思うけど、とっぽいサツが俺の車のなかにシャブをポンと投げ入れたら……なんて考えたりもする。気をつけろよ、と忠告されたこともあるし。最初の本を出す直前、いろんなことがありました。家のまえに乗用車が1台やってきて、助手席の男がこちらをカメラで撮った。オマワリだよね。頭にきて尾行したら、車は道警本部に入っていった。向かいの駐車場で張り込みをしていたこともある。婦警っぽい女がうちの八百屋に大根を買いにきたことも。
──これまでの人生を振り返ってどう思いますか?
24歳で刑事になってから犯した違法捜査は数え切れません。道警にいたころは時々苦い記憶が甦って、そのつど「このツケはいつ払うんだろう?」と自問自答していました。「何もかも誰にも知られずに定年を迎えて退職金をいただいて���食わぬ顔して暮らすんだろうか?」と。でも、いまはそんな気持ちはありません。素っ裸にされて何もかも暴露され、秘密もない。こんな気持ちが楽な暮らしはありませんよ。組織の犠牲になったと決めつけて、俺のことを被害者扱いする人がいるけど、それは違うんだよ。『日本で一番悪い奴ら』の白石和彌監督に会ったとき、「稲葉さん、ぜったい楽しんでたね」って言われました。考えたことなかったけど、言われてみたら、楽しんでたのかな。
──映画、面白かったですね。
面白かったぁ。5回ぐらい観に行った奴いますよ。ポン中だった知り合いが観たら、またやりたくなったって。ヤバいよね。俺が出てたのわかりました?
──えっ、出てたんですか?
綾野剛さんが市電に乗ってるシーンを覚えてますか? サングラスかけて隣にいます。原作にほぼ忠実に撮ってましたね。俺は映画みたいに役所(警察署)ではセックスはしなかったけど(笑)。道警にいたときは、あんな感じで楽しく過ごさせてもらいました。悪いことやったりね。
稲葉圭昭 1953年生まれ。76年に北海道警察に採用され、機動隊に柔道特別訓練隊員として配置される。道警本部機動捜査隊、札幌中央署刑事第2課、北見署刑事課、旭川中央署刑事第2課を経て、93年、道警本部防犯部保安課銃器対策室(のちの生活安全部銃器対策課)に異動。警察庁登録50号事件やロシア人船員おとり捜査、石狩湾新港泳がせ捜査など、数々の違法捜査に関与。捜査費捻出のため、自ら覚醒剤を密売。2002年、覚醒剤使用で逮捕され、懲戒免職。覚せい剤取締法違反、銃刀法違反の罪で懲役9年を宣告される。11年9月、刑期満了。著書に『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』、『警察と暴力団 癒着の構造』がある。『恥さらし』は、「日本で一番悪い奴ら」のタイトルで映画化(監督:白石和彌)され、稲葉をモデルとした主人公の諸星要一を綾野剛が演じる。現在は札幌市内で、いなば探偵事務所を営んでいる。
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carpaccione · 8 years ago
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武藤大祐のダンス批評
『旬刊 音楽舞踊新聞』(2005年4月11日号、No.2660)
レニ・バッソ 『ゴーストリー・ラウンド』
(2005年2月18~19日 パークタワーホール)
 レニ・バッソ(振付・演出、北村明子)はこれまで、機械仕掛けのような幾何学的システムによる作品構成を様式として確立してきたカンパニーである。二年半振りの新作もタイトルの通り「円」が主題だが、しかし今回は意味の���素(「ゴースト」)が明示的に盛り込まれ、構造のみならずイメージの広がりをも提示しようとする新たな模索が感じられた。
 冒頭、舞台中央に白い粉で丸い形が作られ、その上空にスモークが浮かんでたゆたっている。耳障りなノイズが聞こえ、いかにも「幽霊」に相応しい不穏な雰囲気が醸し出される中、ぽつりぽつりと白い長スカートのダンサーたちが現れ、緩慢な摺り足でその円を横切っていく。すると次第に、床上には放射状に広がる八本の線と、元の円の外側を囲む同心円が現われる。三間四方を九つに分ける空間分節、および摺り足――能を参照しつつ、動きの痕跡によって空間の構造を視覚化する導入部は見事といえるだろう。
 こうして立ち上がった図形の中に散ったダンサーたちが、互いに遠く離れたまま気配によって静かな動きを同期させたりしながら、徐々に空気を温め、作品を離陸させていく。ソロ、あるいはデュオやトリオの素早い組換え、集団での無秩序。
 部位をキュッと引っ込めるように縮めて体の中に震動の波を作り、それを増幅させて外の空間を掻いていく動き、急激に加速/減速しながら予測不能なブレた軌跡を描く腕の振りなど、日本では珍しく高い身体能力を踏まえた体系的なムーヴメント造形を見せる北村は、確かに作家的と呼ぶべき資質を備えている。本人のソロでは独特の身体性もが加わって、自在に繰り出される針のような鋭いストロークが目を奪う。
 しかし他方、作品構成の甘さはやはりこのカンパニーの弱点であり続けている。中央の円形空間でソロが踊られ、また円いヴィデオ映像(目、光の輪など)が床面投射されたりするものの、粉で描かれた図形は早々に消え去り、セノグラフィーはさほど発展を見ないまま曖昧に崩れていってしまう。振付における旋回モティーフなど「円」の主題を随所に見出したり、様々な解釈を介して「ゴースト」の記号的表象をあれこれ詮索したり、そうした細部の絵解きをいくら積み上げてみても、作品全体を貫く動機のようなものが見えてこない。
 挑発的な照明や音響、ホリゾントの抽象的な映像とそこに重なるダンサーの大小のシルエット、電子音と生音が奇妙に混在した粟津裕介の音楽、あるいは(レニ・バッソらしからぬ)寸劇めいたシークエンス、こうした多種多様な道具立てに、「コンテンポラリーダンス」なるステレオタイプへの素朴な依存を感じる。舞台上の一切について、なぜそれがそこに必要なのかという根本の問いがあってほしいと思う。
(18日所見)
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『旬刊 音楽舞踊新聞』(2005年7月21日号、No.2669)
井手茂太 『井手孤独【idesolo】』
(2005年5月26~29日 シアタートラム)
 イデビアン・クルーの振付家による初のソロ。カンパニー作品ではごく稀にしか出演しない井手の踊りは一部で高く評価されてきたが、ソロ作品(要所要所に脇役は登場するものの)の発表には誰もが驚いたに違いない。
 客席の前半分を取り外して畳のようなシートを敷き詰め、赤い帯で中央を囲んだ、柔道の試合場そっくりの空間が舞台。奥にはなぜかグラン���ピアノがある。観客の一部は畳の上に上がり、三方から囲むように座る。
 冒頭、スーツ姿の井手がこっそり袖から現われ、無音の中、後ろ向きのまま体を小さく動かして徐々にリズムを発生させていく。そこへ突然ビートのある音楽が大音量で鳴り響くと、井手は音楽にノるどころかむしろビクッと驚いて退場してしまう。やがて再び現われ、体の内側を探るように動き出す。今度は布団を叩きながら騒々しく野次を飛ばす主婦が客席隅に出現し、やはり井手は萎縮して引っ込んでしまう…。体の中から生まれてくる壊れやすいリズムが何度も乱暴に踏み荒らされる。人前で踊ることへの躊躇いが、ある種の求道者的なストイシズムとデリカシーの誇示とない交ぜになって、観客に静粛を求めつつ期待を煽る導入だ。
 仕切り直しを挟むと、スーツを着たまま日本髪のカツラを付けた井手が電気炊飯器を提げて立っている。背後で巨大な掛け軸がスルスルと落ち、「俺」の一字が屹立。赤い帯状のエリアの上で、空手や、軍隊のような匍匐前進、そして颯爽としたモデル歩き。真っ赤な照明と賑やかなジャズやラテン音楽で下拵えが整うと、漸く踊りが始まった。
 小太りな体型でありながら、短い手足がしなやかに宙を泳ぐ独特の動き。脚が二本では足りないとでもいわんばかりに素早く縦横に繰り出されるステップが下半身を前へ前へと追い立て、上半身は柔らかい螺旋を描く腕に導かれて後ろ斜め上方へ昇って行く。回る関節と絶妙なリズム感覚によって、奔放に四分五裂する体が一つのエコノミーの系として生成される。
 ダンサーへの振付では決して十分に発揮されない、自由自在な井手の筆法はまさに圧巻だったが、しかし���れも長くは続かない。スポーツウェアや柔道着に着替え、焼き芋売りの声を動きでなぞったり、女性二人を従えて『ベルサイユのばら』の主題歌を歌ったりしながら、小劇場演劇風のユーモアとダンスシーンの小さな山が継起する散漫な構成は、いつものイデビアンそのままである。
 あられもなく踊ってしまうことへのシニシズム、あるいは羞恥、そうしたものを井手はダンスによってではなく、様式化されたキャラクターの演技を介して観客と共有しようとする。その手法は少なからず硬直しており、ファンの内輪受け以上の射程を孕んでいるようには思えなかった。結局一度も弾かれない舞台奥のピアノが全てを象徴するような、徒に欲求不満の募る作品というほかない。
(26日所見)
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『MOMM』(2009年2月号)〔=朝鮮語訳〕
無意味の偽装 ――アジア的身体とアメリカ
 私はおもに東京を拠点にして、比較的新しい世代のダンスを見ているのだが、ここ数年、そのごく一部を除いて、急速に関心を失っている。90年代に火がついた日本の「コンテンポラリーダンス」の勢いが、2000年代半ばをピークに衰えてきたというのは、多くの観客、評論家やアーティスト、プロデューサーたちにも共通の認識といっていいように思う。
 日本のダンスの歴史は、「舞踏」によって一度大きな切断が起こったわけだが、「コンテンポラリーダンス」も、それより前のダンスとは歴史的につながっていない。80年代後半からの異常な好景気を背景にヨーロッパから盛んに輸入された新しいダンス(バウシュやガロッタなど)が引き金となって、新しい振付家やグループが現れ、また観客も増加してきたのである(伊藤キム、珍しいキノコ舞踊団、コンドルズなど。ただし勅使川原三郎はやや前の世代に属する)。したがって彼ら彼女らの活動を公的に支えるような基盤は今もほとんどない。振付家やダンサーたちは芸術大学や国立振付センターのような場所で養成されているわけではないし、また、それなりに名前を知られるようになったとしても、それで生活の基盤が得られるわけではない。むしろ彼ら彼女らは良くも悪くも「インディペンデント」であり、だからこそ可能になる表現の自由や実験性、小回りの利く機動性を武器にして、「公的」に価値づけられた文化(バレエやモダンダンス、日本舞踊など)とは違ったオルタナティヴなシーンを形成してきたのだというべきだろう。
 2000年代に入ると、この傾向はさらに鮮明になる。とりわけ先鋭的なダンスは、客席数100人以下の小さなスペースから次々と現れるようになった(もちろん不況の長期化も大きな影響を及ぼしている)。これらのダンスは、「私的」��いし「個人的」な性格を強く帯びている。大きな舞台を使った、グループによる視覚的に派手なダンスではなく、小さな空間で行われる、見た目のインパクトよりも身体感覚の繊細さに訴えるようなダンスは、踊り手(ソロの場合、たいていは振付家自身)の個人的な動機や、欲求、論理に基づいて作り上げられている。例えば手塚夏子は、自分の体の極端に細かい部分(例えば足の指や小鼻の痙攣、両肩の力の抜け具合の微妙な差、などといった)にまで観客の注意を引きつけながら、緊張感とユーモアに満ちたダンスを踊ってみせる。ほうほう堂という女性の二人組は、脱力した体と「日常の動き(ordinary movement)」を組み立てて、ちょうどジャドソン教会派のように、日常生活のテンションとあくまでも地続きなものとしてのダンスを作り出す。もともと「公的」な文化の土壌から出発したわけではないコンテンポラリーダンスが、こうした極度に「私的」な方向へ向かうのは、それなりに理に適っているともいえるだろう。しかしこれを持続させていくのはもちろん、非常に難しい。2000年代後半以降、実験的な振付家の数は目に見えて減少し、シーン全体が地盤沈下を起こしてしまった。
 とはいえ、草の根的に発達してきたコンテンポラリーダンスが徐々に社会的な認知を獲得するにつれ、そこに「公的」な価値付けが施されるようにもなって来ている。例えば、ポップカルチャーないしサブカルチャーとしての「商業化」(その典型例は、TVにも出るようになったコンドルズである)。あるいは道徳的なコミュニティダンスや、振付家のアウトリーチ活動などによる「公共化」。しかし私は、こうした展開に対しては、ある種の決定的な違和感を覚えてしまう。アーティスト個々人の、アーティストとしての衝動や欲望が、何か別の大きな価値に絡めとられているように思えてならないのである。
 「公的」な裏付けを持たない表現としてのコンテンポラリーダンスの「私的」な性質ゆえに、資本であれ、公共善(?)であれ、何か大きなものに、創造的なダンス本来の自由さ、過激さが乗っ取られ、飼い馴らされてしまう。その時、もとは誰に頼まれたわけでもない「私的」な表現へのそもそものモティヴェーションはいったいどこへ行ってしまうわけだろう。つまりは「なぜ私はダンスを欲望するのか」という問いが必要なのだし、しかもその欲望を、既存の社会制度と調和させることではなく、むしろ個人的ではあっても社会的に意味のある能動的な「発言」へと鍛え上げていくことが必要なのではないか。
 昨年11月から12月にかけて、東京の国立近代美術館で「沖縄・プリズム 1872-2008」と題する展覧会が開かれた。展覧会の詳細は省くが、もとは独立国だった「沖縄」と「日本」の関係は日本の帝国主義の歴史の上で幾重にもねじれており、現在は日本の米軍基地の75%が沖縄に集中しているという事実にふれておけばここでは足りるだろう。
 この展覧会で、私は、山城知佳子(1976-)というアーティストの最新作『アーサ女』に強い共感を抱いた。大きなスクリーンのヴィデオ映像と、数点の写真で構成されるインスタレーションである。ヴィデオカメラは、激しい波に揺られながら、八割方は海の水面下の濁りや泡を映し出している。しかし時おり水面上に浮上すると、空や島、そして基地らしきものの一部が見える。かと思うとまた泡、そして一瞬、魚の群れ。水の色が変わり、また浮上すると別の場所の空と陸。こんな調子でしばらくすると海上保安庁のボートが別のボートを停めて問い質している様子がチラチラと見えてくるのである。
 スクリーンの脇に並んだ写真には、「アーサ女」が映っている。「アーサ」は海藻の一種で、それが女の口元にまとわりついている。ヴィデオの画面は、この山城本人が扮する、現実とも非現実ともつかない「アーサ女」の、海からの視線なのだ。波に揉まれる女の荒い呼吸音が大音量で轟き、見る者にも強烈な息苦しさを分け与える。ここには、人々の目から隠されているもの(=米軍基地の真実)を「見る」こと、行為としての「見る」ことが、身体的なレヴェルで強烈に造形化されているのである。東京には、「見る」ことに対する、ここまで強い動機は存在していない。そこでは、人々の目は次から次へと、望んでもいない余計なもの(商品、情報、イメージ)によって占拠されてしまうからだ。「ついに純粋な一方通行の段階に達したコミュニケーション」、「そこでは人々は、すでに行われてしまっている決定に静かに見とれるだけである」(ギー・ドゥボール)。
 山城は映像作品だけでなくライヴのパフォーマンスも行っていて、年末に沖縄で上演があると知り、私は早速出かけた。東京から沖縄までは、飛行機で二時間半ほどだ。
 山城知佳子と、ミュージシャンでもある首里フジコを中心とするユニット「ラマンオキナワ」の新作パフォーマンスは、『オキナワキャンプ』という題で、12月27日、沖縄県立美術館の中庭で上演された。メタファーや暗示が多用され、ダンスとも演劇ともつかないこの作品では、“camp”のイメージが幾層にも重ねられている。それは「難民」としての沖縄の現状を示すと同時に、米軍基地(camp)そのものであり、また女性としてジェンダー化された「沖縄」が強いられている危険な「野宿」の象徴でもある。
 私はこの上演を沖縄の観客にまじって見たわけだが、すぐには理解できない部分も多かった。中盤、半袖のアロハシャツを着た男たちが乱入して来る場面も、それが沖縄をエキゾチックな「南の島」として売り込むことに余念のない県の役人たちを表していることなどは、後で説明を聞くまでわからなかった。しかしそれでも、��こにはアーティストが表現を行う明確な「動機」があり、また観客はそれを見ることに「意味」を見出していて、ある共有された現実をめぐる多様な意見やヴィジョンが交わされる場としてパフォーマンスが機能している様子に立ち会えただけで私には十分だった。
 なぜなら、東京のコンテンポラリーダンスに「意味」が欠けているのはなぜかということが、少なくともその一面が、説明される気がしたからだ。つまりは在日米軍基地の75%が沖縄に集中し、大部分の日本人はまさしくその恩恵によって政治的緊張を免れた経済的繁栄を謳歌しているに過ぎないがゆえに、東京のダンスには表現することの動機も意味も、75%、失われているのではないか、ということである。だとすれば、東京においてダンスが本質的に「無意味」に思われ、それゆえに「商業化」されたり「公共化」されたりすることで外側からの価値付けを受けてしまっているのも、実は、ダンスが本当に「無意味」だからなどでは決してなく、むしろ途方もなく大きな「意味」が見事に隠蔽されていることの徴に過ぎないことになる。すなわち、アジアにおけるアメリカの政治的覇権というものが、隠れているのである。
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『MOMM』(2009年4月号)〔=朝鮮語訳〕
「現実」に抵抗するコレオグラフィー ――川崎歩と手塚夏子
 何年か前、インドネシアである会合に出席した際、現地の若い振付家が自分の作品を説明しながらこう話していた――「私のダンスは何かを表現したりメッセージを伝えようとはしていません。私はただ身体的な体験を観客と共有したいんです」。日本でよく聞くのとまったく同じ言い回しがインドネシアでも聞かれたのは印象に残った。かつてアメリカの表現主義的なモダンダンスが身振りによって「意味」を伝達しようと考えていたのに対し、意味ではなくフィジカルな「体験」そのものが重要だというのは、コンテンポラリーダンスではもはや世界的な常套句なのかも知れない。しかしそこで会場にいたある劇団の演出家が口を挟んだ。「わかりますが、でも、なぜあなたは自分の身体的な体験を共有“したい”と思うんでしょうね?」。彼は、多くの振付家が無意識に前提としている価値観そのもの(イデオロギー)をあえて捉え直し、より深く問題化してみてはどうかと主張するのである。振付家は返答に窮していた。
 以来、私は東京でコンテンポラリーダンスを見ていてこの出来事をたびたび思い出す。多くのダンサーや振付家、あるいは批評家たちの間では、「根源的な衝動に突き動かされる」とか��難しい理屈で考えるのをやめて本能を剥き出しにする」などといったロマン的なレトリックがいまだ有効と考えられているようだが、むしろそうした無意識的な価値観や情動的なリアリティから距離を取り、意識や身体の深層を掘り返そうとする一部の高度に知的な作家たちの存在がますます際立ったものになりつつあるように思うのである。今回は、私が興味を惹かれる二人のコンセプチュアルな振付家を取り上げてみたい。
 京都を拠点にしている川崎歩(1976- )は、振付家であると同時に実験的な映像作家で���ある。私が衝撃を受けたのは2007年に『ためいけ』という作品を東京で見た時のことだ。お伽話の登場人物のような、奇妙な衣装をつけた5人のパフォーマーと1人のミュージシャンが、非常に漠然とした(具体的なストーリーは読み取れない)身振りの劇を繰り広げ、そこにR&Bとユーモラスな歌詞を組み合わせた、風変わりで魅力的な歌が重ねられるのだが、歌詞に現れる具体的な地名などによって作品の舞台がどうやら大阪の南部であるらしいことがわかる。「**駅、改札降りて左側」「大和川、汚い川で日本一」――こんな調子で描写されると、実際に知らない土地ながらも一種の親しみをもって想像することができる。ところがそこに、古代からこの地に伝わる伝説や歴史的なエピソードなどが織り込まれて来る。二上山の麓には古墳が多く残っており、6~7世紀には奈良の朝廷と海を結ぶ交通の要所でもあったし、現実とも虚構ともつかない言い伝えも数々ある。こうして過去と現在とが一つの空間内で重ね合わされ、すると不思議な扮装をしたパフォーマーたちの種々雑多な身振りもまた、何かとらえどころのない、しかし具体的な物語を展開しているように見えてくる。いかにも平凡な日常世界と、そこからかけ離れた遠い歴史や神話の世界が、あたかも地続きのようになって浮かび上がって来るのだ。
 特定の土地やその歴史に材を取るというアプローチ自体が非常に珍しく、興味深く思われるが、なぜこの場所が選ばれたかといえば、それは川崎の個人的な経験に由来している。彼は子供の頃この土地に住んでいて、普段から見慣れていながら注意を払ったことのない周辺の事物に改めて焦点を合わせてみたというのである。いわばそれは、彼にとって自明な日常世界ではなく、むしろそれを裏で支えていた歴史の「古層」、また普段はなかなか意識されない「無意識」の領域を抉り出す作業ともいいかえられるだろう。こうした関心の向け替えによって、ありふれた個人の私的で等身大の生と、大きな歴史的世界の間に通路が開かれる。そして、舞台でパフォーマンスする身体は、これら両極のスケールに属する異質なイメージを多層的に担うことになる。いわばドキュメンタリーともフィクションともつかない、現実と虚構の狭間に浮かぶような身体表現の新しい領域を、川崎歩は開拓しつつあるのである。
 他方、東京を中心に、主にソロで活動している手塚夏子(1970- )は、パントマイムから出発しつつ、近年は『私的解剖実験』というパフォーマンスのシリーズを展開してきた。これは自分の身体の極度に小さな一部分、例えば「右膝の裏」「歯茎と歯の境目」などといった任意の部位に意識を集中することで、自分の体から一種のストレス性の(?)反射運動を引き出すというアイディアに基づくもので、このシリーズを通じて手塚はひたすら身体のディテールに注目し、文字通り「ミクロ」な考察を積み重ねた。ところが、『私的解剖実験』がいわば身体を内側から「解剖」し、分解し尽くそうとするものだったとすれば、この2月と3月に上演された新作『プライベートトレース2009』は一転して外側から観察された身体を素材としている。
 この作品で手塚は、わずか十数秒間のホームヴィデオに映し出された自分と、夫の動きのスロー再生を、きわめて精密に再現し、反復してみせる。映像そのものが観客の目に触れることはないが、音声のみが流され、どうやら二人は幼い息子とともにいるらしいことがわかる。そして夫が「しんどいよ」と、手塚が「だいじょぶ誰も見てないって」という言葉を発しながら体や顔を動かすさまを、ひたすら手塚がスローモーションで反復するのだが、観客はその意味や文脈を抜きにしたまま動きのミクロな細部を長時間に渡って注視させられる。それは異様な体験である。現実にはほんの一瞬の、些細な挙措が、執拗な反復と「トレース」によって、見たこともないような明瞭なフォルムとして刻々立ち現れてくるのである。
 私はこの作品を見ていて、さらに別の奇妙な感覚に襲われもした。ヴィデオカメラに捉えられた細部をひたすら再現/注視する時間が延々と引き伸ばされるにつれ、いつしかそうした細部の果てしなさ、汲み尽し難さというものが実感されてくるのである。カメラには一切が映っており、それはどこまで分解しようとも決して分解し尽くすことなどできない。つまり細部は無限なのであり、無限の細部をまるごと捉えているヴィデオカメラは、あたかも人間を包み込む神の眼差しに似た何かであるようにさえ思われてくる。テクノロジーと身体がこれほど豊かな出会いを果たしているパフォーマンスを、私は他に多く知らない。
 川崎歩にしても、手塚夏子にしても、一般的に「ダンス」とよばれる領域からは大きく逸脱しているが、しかし二人に共通しているのは、われわれが通常見ている現実の表層をはぎ取り、常識的な世界観を覆そうとする批評的アプローチに他ならないだろう。そこには因襲的な期待や欲求をほどよく満たそうとすることとは全く別次元の、コンテンポラリーな芸術だけが有する衝撃力があるのだ。
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『MOMM』(2009年11月号)〔=朝鮮語訳〕
NYはムスリムの声を聴くことができるか ――市場原理主義・芸術・他者
 さる六月前半の十日間、NYでは「ムスリムの声――芸術と思想(Muslim Voices: Arts & Ideas)」と題した大規模なフェスティヴァルが開かれた。セネガルのミュージシャン、ユッスー・ンドゥール(Youssou N'Dour)のライヴを皮切りに、アフリカからアジアまで広域に渡る演劇、音楽、映画、美術、文芸などを紹介するこのイヴェントが、2001年9月11日のあの事件を動機とするものであることは間違いない。しかしその掉尾を飾るのが、インドネシアを代表する前衛振付家、サルドノ・W・クスモ(Sardono W. Kusumo, 1945- )のダンス作品『ディポヌゴロ(Diponegoro)』(6月13~14日、アジア・ソサエティ)だと聞いて、即座に納得する人がどれだけいるだろうか。あまり認識されていないことではあるが、インドネシアこそ世界で最も多くのイスラム教徒が住む国に他ならない。つまりこの上演自体が、とかく「イスラム」といえば「中東」のイメージを連想してしまいがちな、人々のステレオタイプに抗する社会的「パフォーマンス」として意図されたものでもあるのだ。
 この作品は、十九世紀のジャワでオランダ統治に対する叛乱を起こし、捕縛された後に追放されたディポヌゴロ王子(1785~1855)の史実を舞踊劇化したもので、1995年に初演された。インドネシア国外での上演はこれが初である。
 今回の上演では五人のダンサーの他に、ガムランの演奏が伴う。彼ら彼女らはそれぞれ特定の役柄を演じつつ、ペゴン(pegon, アラビア文字を用いたジャワ語)の韻文で書かれたディポヌゴロの自伝からの抜粋を朗唱する。ジャワ古典舞踊の語彙を基にした舞踊と、演技、さらに歌唱までを同時にこなす演者たちの多才さはサルドノの舞台ならではといえるだろう。全体を通してひとまとまりの「物語」が演じられるというよりは、既に自らの悲劇的な命運を悟ったディポヌゴロの内面的な葛藤が五つの場面(断章)によって照らし出される構成になっており、視覚的・音楽的に組み立てられたイメージの積み重ねを通して、9・11以後の現代にもそのまま通じる「西洋とその他者」というテーマが浮き彫りにされる。
 サルドノの作品の特徴として、一見、互いにかけ離れた異質なモティーフが壮大なスケールの歴史観と世界観のもとに結びつけられ、意表を突く新鮮な視点を提示するという手法が挙げられる。この作品も例外ではない。そもそもディポヌゴロのテクスト自体が、主観的な語りと史実の描写、そして神話的イメージを絡み合わせて書かれているのだが、舞台でも、伝説上の存在である「南海の女王」ロロ・キドゥル(Roro Kidul)や、オランダ植民政府の総督などといった多様な登場人物が次々に姿を現す。冒頭と結末ではモーツァルトの「レクイエム」が悲劇的なムードをかき立てる一方、それに挟まれた本編は全てジャワのガムランである。また舞台の前面には紗幕が降ろされ、そこにはディポヌゴロ捕縛を描いた西洋風の歴史画が転写されており、演技は終始その背後で行われる。照明の操作で、紗幕の向こう側に広がる舞台が照らされたり、紗幕の歴史画が照らされたりするのである(ちなみにこの歴史画は、当時のジャワの画家ラデン・サレー(Raden Saleh)による作品(1857年)で、現在サルドノはこの画家をめぐるドキュメンタリーとフィクションが交錯する新作映画を制作中である)。このように、特定の政治的立場や美意識にとらわれず、複数の異質なコンテクストを編み合わせるようにして作られた『ディポヌゴロ』の舞台には、多くの要素が凝縮されていて、観客が何か単一の解釈に留まることを許さない。見る者にショックを与えるわけではないが、非常に穏やかな仕方で思考を挑発してくるのである。
 ところが、翌週火曜のNYタイムズに掲載された公演評はちょっとした議論の火種となった。同紙の主席ダンス批評家、アラステア・マコーレーは、「ムスリムの声」フェスティヴァルでモーツァルトの「レクイエム」を聞かされるなど場違いも甚だしく、またあまりに陳腐であると切り出した後、作品内に作品を理解するための手掛かりが少な過ぎること、音楽や歌唱が滑らかな連続性を欠き、また単調さゆえに訴求力がなかったことなどを列挙し、わずかに一部のダンス・シーンなどを称賛して若干のバランスをとってみせた上で、こう結んでいた。「イスラム文化には、もっと他に見せるべきものがいくらでもあるだろう」(Alastair Macaulay, “The Prince Who Freed Java From the Dutch: Sardono Dance Theater,” New York Times, June 16, 2009)。
 これに対し、少なくとも一部の人々の間では激しい反発が起こった。特にアジアの諸文化に通じた人々の間では、マコーレーの姿勢は自らの無知を棚に上げた「西洋中心主義」「オリエンタリズム」だと非難する声もあった。あるアジア文化支援団体の責任者はマコーレーに直接コメントを送った。非公式にインターネット上を流通したその文面によれば、そもそも「オランダからジャワを解放した王子」などという記事タイトルからして途轍もない誤りで(王子は捕えられ、反乱は失敗したのである)、歌詞の英訳などは全てパンフレットに掲載されていたことを考えれば、むしろ彼がいかに作品を不当に軽視したかを証している。モーツァルトの「レクイエム」とジャワのガムランとの関係はまさにヨーロッパの植民地主義と当時のジャワの関係のアナロジーなのであり、さらに「レクイエム」がディポヌゴロの生きた時代に書かれた音楽であることを踏まえるなら、これを単なる舞台演出上の陳腐な紋切型として片付けることなどできない。上演前にはサルドノ自身によるレクチャーも開かれていたのだし、これを聞いていれば作品を理解する上で大きな助けになっただろう。非西洋の芸術を論じるには、通常必要とされる以上の努力を惜しんではならないということを、権威と責任ある大新聞の批評家ならば認識すべきだ――。
 上演そのものは確かに多くの予備知識を要求するものであり、決して誰にもでわかりやすいというものではなかったかも知れない。しかし何よりここには、「芸術」という装置が異文化間を架橋できる、といった素朴な普遍主義的信念の臨界が露呈しているといわねばならない。マコーレーは「この作品の中に、何かをきちんと説明している部分が一体どれだけあっただろうか」とも批判している。これは、芸術作品とはそれ自体でひとまず自己完結しており、あくまでも内在的な(immanent)解釈を前提とするものだという認識の表明に他ならない。ならば、パンフレットにきちんと目を通してレクチャーにも出席すれば異文化の芸術はよりよく理解できるのだと主張してみたところで、こうしたロマン主義風の「内在主義」の美学的信仰と和解することは期待できないだろう。
 だがおそらくマコーレーは単に無自覚的な西洋中心主義者ではない。そうではなく、むしろ確信犯的に、NYの舞台芸術「市場」における御意見番の役に徹しようとしている。例えば「世界中からやって来る振付家たちのおかげで、最近のNYではダンス作品で『レクイエム』を流すのなどはもうありきたりのパターンになってしまっている。サルドノ��は気の毒だったが、そうなのだ」というくだりはどうだろう。マンネリズムを嫌い、絶えず刺激を求める新し物好きのシアターゴアー、つまりは「消費者」の立場に自己同一化した言い回しである。インドネシアであろうが、イスラムであろうが、そんなことは結局のところ関係ない、一つの作品として「買う」に値するか否か、つまりは商品価値が全てだという、いわば資本主義の論理が、ロマン主義風の美学的態度を後から支えていることが見てとれる。
 しかし、これこそまさに、20世紀を通じて芸術が直面し続けて来た問題、そして9・11以降のわれわれにとってはますます切実なものとなっている問題ではないだろうか。「ムスリムの声」フェスティヴァルや、サルドノの『ディポヌゴロ』が対象化しようとしていたのも、まさしくこの、文化的差異をもやすやすと黙殺しようとしてしまうグローバルな市場原理主義(Market fundamentalism)と美学の暴力に他ならない。サルドノの『ディポヌゴロ』と、NYタイムズの反応が、われわれに示唆するものはあまりにも大きい。
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『MOMM』(2010年4月号)〔=朝鮮語訳〕
複数のヒップホップ
 かつて世界中の近代国家がバレエを輸入し、今ではあらゆる国に国立バレエ団が存在するが、いまそれ以上の勢いで世界中に広まっているのがヒップホップであることには異論がないだろう。もっとも、両者の伝播のプロセスには様々な違いがある。特に、バレエには正統を受け継ぐ「中心」(パリ、ロシア、あるいはデンマーク?)が存在するのに対し、もともとアフリカ系アメリカ人によるディアスポラ的な文化であったヒップホップにはもはや「中心」も「正統」もない、という点は大きい。様々な国で世界大会が開かれており、もちろん韓国やフランスはヒップホップが最も盛んな国に数えられる。
 こうした状況に呼応して、世界各地のコンテンポラリーダンスにもヒップホップが大きな影響を与えていることは周知の通りだ。しかも、グローバル化したヒップホップ・シーンでは世界中のダンサーが一定の価値観を共有し、同じ評価軸の上で「バトル」を展開しているのに対し、コンテンポラリーダンスの文脈では振付家一人一人がヒップホップに様々な解釈を加え、多様な価値観を作品で提示している。ここに、いわゆる「ストリートダンス」とは違った「アート」としての面白さがある。
 おそらくこの分野で今、最もよく知られているのはブラジルのブルーノ・ベルトラオ(Bruno Beltrao, 1979- )だろう。リオデジャネイロでストリートダンスを学び、やがてコンテンポラリーダンスへと進んだ彼の作品は、ヒップホップ特有の動きの語彙や考え方を分析して再構築することで成り立っている。デビュー作『From Popping to Pop or Vice-versa』(2001年)は、ポッピンの断続的な動きで「歩く」「屈む」などの日常動作を見せたり、ダンスを音楽のリズムから故意に外したり、よく知られたテクニックやフレーズを一般的なストリートダンスの文法や自然なエネルギーの流れから切り離して組み立て直すなど、実験性に溢れた新鮮な作品だった。あるダンスの様式ないし文法を一つの抽象的な動きの「構造」として捉え、細かな諸要素に解体して行く発想は、ちょうどウィリアム・フォーサイスがバレエに対して行った「脱構築」を思わせる。世界中で話題になった『H2』(2005年)では、ベルトラオはこの方向をさらに大規模に推し進め、恐ろしく複雑に入り組んだヒップホップを生み出すことに成功した。
 ヒップホップに抽象的ないし幾何学的な操作を加えて、いわばポストモダン化するのがベルトラオなら、他方、インドネシアには全く異質な振付家がいる。
 ジェコ・シオンポ(Jecko Siompo, 1976- )はインドネシアの中でも最東端のパプア州出身で、同地の民族舞踊や、人々の特徴的な日常動作に、ヒップホップをかけ合わせて独自の振付言語を編み出した。パプアは深い熱帯雨林が残り、狩猟で生活している人々も多く住む地域だが、彼が首都ジャカルタの大学でダンスを学び始めた時、街の中で若者たちが形成していたストリートダンス・シーンに触れ、ヒップホップとパプア民族舞踊との類似に気付いたのだという。その振付は、動物の動きを模倣した奇抜なポーズを起点にしつつ、体の一部分だけを動かす突発的で短いストローク、細かく激しい重心移動と目まぐるしいステップ、上下動の少ない水平的な空間の使い方などが特徴で、デュオからグループ作品までレパートリーは幅広い。
 しかし興味深いのは、振付そのものの斬新さばかりではない。ベルトラオが「構造」や「脱構築」のような抽象的論理に依拠することで、欧米を中心としたダンス市場で活躍しているのとは対照的に、ジェコは自らの暮らす地域の文化とヒップホップを出会わせて新しいダンスを作り出している、という点に注目しよう。それはいわゆる「文化の画一化」としてのグローバリゼーションと拮抗し得る、「多様性の擁護」としてのローカリゼーションの実践だ。事実、ジェコ独特の「アニマル・ヒップホップ」はワークショップを通じて広まり、ジャカルタでは彼の周囲に若いストリートダンサーのサークルが生まれている。公演の際には、彼らが出演者のうちの重要な一角を占めるのである。
 ところで昨年10月、私はソウルの SIDance Festival での Across Hiphop と題されたプログラムを見た。おそらく韓国の特徴として、ストリートダンスのシーンと、大学で教えられている「アート」としてのダンスの間の垣根が低いということが挙げられるのではないだろうか。ヒップホップの技術と、モダンダンスやコンテンポラリーダンスの技術を兼ね備えたダンサーや振付家が育っている一方、観客層の面でも両方の文脈が入り混じっているように見受けられた。その意味で特に印象深かったのは、Dance Company Medius の『Amusement of Ancients』という作品で、古代の壁画から抜け出してきた兵士たちのコミカルなダンスは、技術的にはポッピンでありながら、舞台正面に対して横向きに保たれた平面的な体勢は明らかにニジンスキーの『牧神の午後』を踏まえていた(演出 LEE Kwang-seok、振付 LEE Woo-jae)。ストリート・カルチャーとアカデミズムのこういう軽やかな融合は、おそらく韓国独特の現象であるように思う。
 少なくとも、日本では考えられない。この国でもヒップホップは盛んだが、韓国のような水準のダンスの大学教育は存在しないし、ポッピンとニジンスキーを同時に使いこなす振付家など想像することもできない。
 とはいえ、ヒップホップをコンテンポラリーダンスの文脈で積極的に活用する振付家たちは日本にもいる。その中で最も注目されるのが KENTARO!!(1980- )で、彼もベルトラオと同様、そもそもはストリートダンスを踊るダンサーだった。
 彼の作品は、ソロにせよグループにせよ、一般的なヒップホップの価値観に異を唱えているように見える。すなわち、得てしてヒップホップのダンサーは肉体的な力を誇示したり、超絶技巧を競い合う傾向があるのに対し、KENTARO!! のダンスはそうした「力」や「強さ」を核に持つ価値観とは違うところにヒップホップの本質を探るのだ。今年1月に上演されたグループ作品『長い夜のS.N.F.』では、その狙いが今まで以上にはっきりと成功していたように思う。男女7人のダンサーのうち KENTARO!! 自身を除けばヒップホップの専門技術に秀でたダンサーはいない。強靭な肉体も、見る者を圧倒する大技も登場しない。それでもこの作品には紛れもないヒップホップらしさがある。それは、ダンサーの体と音楽のリズムの関わり方の問題であり、具体的にいえば、音と音の間で絶えず伸びたり縮んだりするグルーヴに、体幹から起こされる深いうねりとバネによって同期していくことだ。そもそもヒップホップとは「尻が弾む」という意味であって、必ずしも「力」や「強さ」を意味するわけではない。音楽のグルーヴをダンサーが体のバネで受け留め、「弾み」さえすれば、どんな動きであろうがそのままヒップホップたり得るのであり、見る者の意表を突くフォーメーション展開、細かく入り組んだ振付、そしてダンサー同士の活き活きとした交感によって舞台空間が丸ごとグルーヴ感で波打つようなこの作品には、ダンスの楽しさが純粋な形で満ち溢れていた。
 このようなヒップホップの解釈は、おそらくアメリカや韓国、インドネシアではなかなか想像しにくいのではないだろうか。経済の面でも、社会生活の面でも、より強い力を求めていこうとする競争の原理を、良くも悪くも、近年の日本人は放棄しつつあるようだが、ヒップホップに対する KENTARO!! の解釈の仕方には、そうした「強さ」に代わる価値観を求めようとする思想性を確かに感じる。
 以上、ヒップホップに着目していくつかの例を辿ってみた。今やヒップホップには実に多様な解釈を受け容れる余地があり、現に多様な試みがなされている。一つのダンスがこれほど広範囲に普及したことは人類史上かつてないが、それだけに地域ごと��環境を反映したり、思想の受け皿ともなって、今後も様々に変奏され続けていくことだろう。ベルトラオが語るように、ヒップホップにはまだ探索されていない可能性の領域がたくさんあるに違いない。
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『MOMM』(2010年8月号)〔=朝鮮語訳〕
大野一雄――生と死のダンス
 1906年10月27日に生まれた大野一雄は、2010年6月1日、103歳の長寿を全うしてこの世を去った。71歳で本格的なデビューを迎え、90歳を過ぎてもなお国際的に活躍し続けたこの高齢の舞踊家は、最後まで法外な存在だった。
【芸術と生】  スイスの映画監督ダニエル・シュミットの短編映画『KAZUO OHNO』の終盤に、大野一雄が自宅の居間で踊るところを撮影したシーンがある。大野の数ある映像記録の中で、わたしはこの部分が最も好きだ。バックに流れるのはレクォーナ・キューバン・ボーイズの演奏する『アマポーラ』。大野はリラックスした普段着姿で、指で形を作りながら肩をすくめ、優しい目で何かをいとおしむように両腕で空間を抱き込んだり、歓喜と狂気の入り混じった表情を浮かべながら肘で鋭く宙を裂く。一見脈絡のない動きが、加速と減速を細かく繰り返す独特のリズムで連ねられていく。飾り気のない、それでいて強い情感と確かな即興技術を伴った踊りだ。何度見ても不思議な感動を覚える。見た目の美醜や、運動能力の度合などとは関係のない、ダンスそのものの魅力、踊るという行為の豊かさを噛みしめさせてくれるからだ。
 ところでこの映像には、踊る大野を、台所で食事の支度をしながら見つめる夫人の姿も映っている。その佇まいの微笑ましい平凡さと、大野の踊りの素晴らしさのギャップは強い印象をもたらす。あたかもこれは、夫妻にとってはありふれた日常の一場面にすぎないかのようだ。いや実際にそうなのだろう。舞台の上だろうが、自宅の居間だろうが、大野の踊りは変わらない。しばしば公の場で、言葉で何かを述べる代りに踊ってみせるということがあったし、絵画を見て感動のあまり踊り始めてしまうこともあった。彼の踊りはいつも、表現への意志によって作り出されるというより、衝動から生まれる。時には稽古場で、生徒たちをそっちのけにして自ら踊りに没頭してしまう。また大野は舞台が終わると観客のアンコールに応えて一曲踊ることを常としていたが、聞くところでは作品自体よりむしろこのアンコールで踊るのを一番の楽しみにしていたともいう。
 大野においては、舞台上で何かを演じることと、彼自身の個人的な生を生きることの間に明確な境界線などなかったのではないか。舞台と日常が、ダンスという媒介によって見分けがたく連続していた。だから彼の公演においても、一個人としての大野の存在と、大野の作り出す作品世界とをはっきり区別することは難しくなる。観客はしばしば、自分が「芸術」を体験しているのか、それとも大野一雄という「人」に向き合っているのか、わからなくなってしまうほどなのだ。
【大野と舞踏】  一般的には、土方巽と並んで日本の前衛舞踊である「舞踏」の創始者として大野一雄の名は知られている。とりわけ日本国外では、フランスを中心に世界的な名声を得た大野の方が、「舞踏」と強く結び付けられがちである(土方は生涯ただの一度も国外に出なかった)。しかし1949年にデビューした大野の踊りについて、われわれはそのごく一部を知っているに過ぎない。
 そもそも大野とダンスを結びつけたのはごく実際的な動機だった。彼は学校教員として体育の授業を担当していたが、ある転任先の学校のカリキュラムにダンスが含まれていたため、自らもダンスを習得する必要が生じたのである。はじめ彼は石井漠のスタジオに通うが、1934年のハラルト・ク���イツベルク(Harald Kreutzberg)の来日公演に衝撃を受けると、翌々年にはドイツでマリー・ヴィグマン(Mary Wigman)のもとで学んだ江口隆哉と宮操子のスタジオに移った。やがて第二次世界大戦で従軍するが、戦後間もなく帰国。1949年に自身のスタジオを開設するとともに、いよいよ最初の公演を開く。
 日本のモダンダンスがドイツ表現主義舞踊(Ausdruckstanz)の影響を強く受けていることは周知の通りだが、当時の写真を見る限り、初期の大野一雄の作風が他の振付家とどう異なっていたのかははっきりしない。この時代の日本のモダンダンスは、詩的なテーマと、奇抜な衣装や舞台美術が全般的な特徴であり、大野に限らず多くの振付家たちが前衛的な活動を展開していた。
 もちろん土方巽もこうした文脈の中にいた。二人は1956年に個人的に知り合うが、土方は以前から大野の舞台をよく見ており、強い衝撃を受けていたという。土方が大野の踊りを「劇薬のダンス」と表現したことはよく知られている。大野のダンスに触発されることがなければ、土方の「暗黒舞踏」はなかったのである。
 1959年には、大野の公演を土方が手伝うようになり、他方ではホモセクシュアリティを題材にした土方の作品『禁色』によって「暗黒舞踏」の幕が開けられた。「暗黒舞踏」は当時の前衛的なモダンダンスさえも超え、近代的なダンスの価値観そのものを荒々しく問い直す反社会的な芸術運動として過熱していった。この時期、大野は自分の作品を発表する他、土方の作品のいくつかにも出演している。
 しかし土方の代表作の一つである『土方巽と日本人――肉体の叛乱』が発表された1968年を境に、大野はしばらく舞台を離れてしまう。そして映画作家の長野千秋とともに、『O氏の肖像』(1969年)、『O氏の曼荼羅』(1971年)、『O氏の死者の書』(1973年)と題する映画三部作の制作に打ち込んだ。この作業は大野にとって重要な模索の経験となったようだ。劇場の舞台とは異なり、具体的な物質性に満ちた自然環境の中での、湖や埃、家屋、動物や植物などとの濃密な交感を通じて、大野の想像力は大きく押し広げられたのだろう。
 1977年、土方の演出による『ラ・アルヘンチーナ頌』で大野は本格的に舞台に復帰する。この公演は大きな成功を収め、大野一雄の表現は「舞踏」として広く認知されることになった。71歳での驚くべき開花である。ラ・アルヘンチーナ(La Argentina、本名はアントニア・メルセ(Antonia Merce))は20世紀前半に活躍したスペイン舞踊家で、大野は彼女の踊りを1929年に東京で見て感激したという。その記憶がどういうわけか半世紀後に突如甦り、彼女に捧げるダンスを踊ることになった。『ラ・アルヘンチーナ頌』は、今日のわれわれが知っている、即興を中心にした大野のスタイルを多彩に展開した作品である。バッハの曲とともに静かな立ち姿を見せ続けたり、アルゼンチン・タンゴとともに大きな腕の身振りやマイム、旋回運動などを奔放につなげていく踊りは、とても71歳とは思えないほどのしなやかさと強靭さを兼ね備えている。動きの語彙だけでなく、衣装や音楽の組み合わせによるイメージの表現まで、この作品によって大野一雄は明らかに独自の表現を確立したといっていいだろう。
 以後の活躍についてはいうまでもない。1980年にフランスのナンシー国際演劇祭に参加し、現地の観客によって熱狂的に迎えられてから、大野の名声は世界的に高まっていった。ヨーロッパ、アメリカ、南米、そして1993年には香港とソウルでも公演を行った。多くの観客に支えられ、また横浜のスタジオには世界中から生徒が集まるようになった。
 大野が万全な体調で踊り続けたのは、2000年頃までである。しかし腰を痛め、アルツハイマー症の診断を受けてからも、しばしば観客の前に登場した。そして生と死の境目がほとんど消えてしまう段階に至るまで、大野一雄は踊り続けた。
【生と死のダンス】  長大な大野の経歴をこのように見てくると、自覚的に「舞踏」の芸術と思想を社会にぶつけていった土方に比べ、はるかに個人的な衝動と偶発事による波乱の連続という印象が強い。大野は偉大な芸術家として独自のスタイルを編み出し、いくつもの名作を残した、というより、大野が自分の生を生きた痕跡がそのままいくつものダンスという形で歴史に刻まれている、という言い方の方が相応しいように感じられる。やはり大野一雄という一個人の「生」と、彼の「作品」とを区別することは難しいのである。
 そして「生」こそは、大野のダンスが常に固執した主題でもあった。もちろんあらゆるダンスは生のエネルギーの凝縮であるし、どんな踊り手もそのダンスに個人的な生のありようをにじませるだろう。けれども大野の場合は、単に生命の力を目いっぱい味わって享楽するというのとはまったく違っていた。むしろ生命という現象の全体を丸ごとつかもうとするダンス、つまり、「生きている」という現在の事実の中で完結するのではなく、その現在の生を可能にしている条件にまで肉薄しようとするダンスだった。
 その証拠に、大野のダンスはいつも「過去」と深い関わりをもっている。ラ・アルヘンチーナは遠い過去から彼のダンスを支えてくれる根源的なミューズであった。また1990年代に入ってからの大野は自分を産んでくれた母親に捧げるダンスをよく踊った。いわば大野のダンスは、自分の生命のみではなく、自分に生命を与えてくれている過去の生命(=死者)をも含み込もうとするものなのだ。だから大野のダンスは、生命の力をほとばしらせつつ、常に「死」のイメージによっても彩られていた。そしてそれはもちろん大野自身の死を先取りしたものでもある。こうして生と死は、大野のダンスの中で、一つの大きなサイクルとなって循環するのである。
 ごく親密で個人的なムードを漂わせていながら、壮大な生命のドラマを直観させる、それが大野一雄のダンスだった。その大野が死者となった今、後にはわれわれの生が残されているばかりだ。
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『MOMM』(2009年6月号)〔=朝鮮語訳〕
「舞踏」以後の日本に「ジャドソン」は蘇生するか? ――スティーヴ・パクストンと土方巽
 この五月、スティーヴ・パクストンが実に34年ぶりの来日を果たした。一か月あまりに渡って数都市に滞在し、ワークショップやデモンストレーション、そして一夜限りの公演『Night Stand』(リサ・ネルソンとの即興デュオ作品)を行い、とりわけ研究者やダンサーの間では一つの大きな「事件」となった。
 パクストンといえばもちろんコンタクト・インプロヴィゼーション(CI)の創始者として、その名を知らない者はいない存在だが、CIの後も身体とその動きをめぐって探求は続けられて来た。今回はベルギーで昨年発表されたDVD-ROM『背骨のためのマテリアル(Material for the Spine)』を携えての来日である。筆者はワークショップを少し見学することができたが、CI的な要素を部分的には引き継ぎつつも、むしろ個人個人の身体感覚、運動感覚を解剖学的な視点から掘り下げていくようなワークだった。もちろん、DVDを見れば、パクストンが展開しているミクロで繊細な分析には誰もが驚かされるだろう。例えば、手の指を一本ずつ動かしながら、その筋覚を腕、肩、背中、そして腰の辺りにまで遡って、エネルギーの流れが、中指を動かす時と薬指を動かす時ではどう違うかを確かめる、などといったエクササイズには、静かな興奮を禁じ得ないはずだ。どれだけテクノロジーが発達しても、今なお広大な「闇」の世界であり続ける身体の内部を、パクストンは一歩一歩確かめながら探索しているようである。
 ところで、パクストンをはじめとする、いわゆる「ジャドソン教会派」あるいは「ポストモダンダンス」について、近年日本では急速に関心が高まっている。逆にいえばこれまでほとんど関心を払われていなかったということであり、少なくともその理由の一つには、60~70年代のアメリカで「ポストモダンダンス」が展開されたのとほぼ同じ時期に、日本では「舞踏」が起こっていたという事実があげられるかも知れない。1970年代に一部の評論家などがジャドソン教会派を取り上げた時期もあったが、大半は非論理的で感覚的な、あるいは過剰に観念的な解釈に基づく紹介であり、NYのアヴァンギャルドの理論やコンセプト、そして歴史的コンテクストなどはほとんど咀嚼されないまま、むしろ舞踏の圧倒的な存在感の陰に隠れてしまっていたのである。
 ところが2006年3月、トリシャ・ブラウンのカンパニーが、これまた18年ぶりに来日して新旧の代表作を上演すると、同時に初期作品を集めたDVDの日本語版が発売され、ドローイング作品の展覧会も開かれるなど、ちょっとした盛り上がりが起きた。今も若いダンサーたちがNYのブラウンのスタジオへ学びに出かけているほど、一部に強いインパクトをもたらしたようなのだが、筆者自身は残念ながらこの公演を見逃している。というのも、ちょうどこの時期、筆者は念願のNYに滞在して、毎日のようにリンカーンセンターのライブラリーに通いながらジャドソン教会派のことを調べていたからなのである。そして4月からは田中泯が発行しているフリーペーパーで「ポストモダンダンス」に関する連載を始めた。12月には日本の舞踊学会で「ポストモダンダンス特集」が組まれた。それまではほとんど忘却されていた60~70年代のアメリカの前衛が、突然注目すべきトピックとして浮上してきたのであり、その延長上に今回のパクストン招聘があることは間違いない。ちなみに、次はデボラ・ヘイが来日するという噂も聞こえている。
 もちろん、これは単なる気まぐれな流行ではない。また、90年代以降のヨーロッパにおけるジャドソン再評価(ジェローム・ベル、グザヴィエ・ル・ロワ、ボリス・シャルマッツ、アラン・ビュファールなど、いわゆる「コンセプチュアルな振付家」たちによるそれ)に追随しているわけでもない(そうした事実は日本ではほとんど知られていない)。そうではなく、2000年代に入ってからの日本の先鋭的なダンスが、どういうわけか、ジャドソン教会派のそれにあまりにも近似して来ているという事情があるのだ。
 一例を挙げよう。会社員風の服装をした男と女が向かい合って、無内容で取り留めのないおしゃべりをしながら、普段われわれが無意識にしているような意味のない仕草や身振りを延々と持続する。一見するとダンスらしいところは何もないが、言葉や身振りが反復され、リズム感をはらみ、さらにはヴァリエーションや、二人の動きの同期とズレなどに至るまでが、こと細かく「振り付け」られていることが見えてくる。背景に流れる音楽はマーラー。ロマン主義の交響曲の壮大なスケール感と、舞台上の二人の身振りの瑣末さがアイロニカルに対比されているのである。この作品(『クーラー』、2004年)を作った岡田利規は、おそらくイヴォンヌ・レイナーの『We Shall Run』(1963年)のことなど知らなかったに違いない。もし知っていたとすれば、もう少し違った選択をしたはずだろうから。ジャドソン教会で上演されたレイナーの『We Shall Run』といえば、数人のダンサーが、あらかじめ決められた複雑なコースに基づきながら、ひたすらジョギングをするという、典型的な「日常の身体(ordinary body)」「日常動作(daily movement)」による作品であり、しかもその背景にはベルリオーズの『幻想交響曲』がかかっていた。『幻想交響曲』とはすなわち「誇大妄想」「スペクタクル」の代名詞に他ならず、つまりここでもまた、そうしたものの対極にある「等身大」の「日常」がアイロニカルに表現されていたのだ。
 岡田のみならず、ほうほう堂、身体表現サークル、神村恵など、「日常の身体」「日常動作」から出発して、「等身大」のダンスを作る作家の傾向は今もある程度持続しており、近年の日本のダンスにおける最も興味深い成果がこの領域に多く見出されるのは事実である。しかし、なぜ今、「日常性」や「等身大」といったテーマが扱われるのか、という問いに答えるのは難しい。80年代後半、空前の好景気を迎えた日本で流行したような大がかりなスペクタクルに人々が倦んでしまったから、という答え方もできるが、他方では90年代以降の長い不況によって日本人が上昇志向を断念せざるを得なくなったから、というやや意地悪な解釈もある。あるいはかつてジャドソン教会派が謳った「民主主義」の理念が、グローバリゼーションの時代における「マルチチュード」のイメージとして回帰しているというべきだろうか?
 しかし、そこで気になるのは舞踏の行方である。突如として数十年前のアメリカの「ポストモダンダンス」が現在の日本のダンスとシンクロしてしまう一方、舞踏の影はますます薄まっている。形骸化した、表層的なスタイルとしての舞踏だけが生き延びており、一種の「永続革命」ともいうべき理念を掲げた土方巽の後を継ぐような存在はいない。
 かつてスティーヴ・パクストンが、「立つ」「歩く」などといった動作を、人間ならば誰にでも可能な動き、すなわちあらゆるダンスを可能ならしめる基盤と見なし、訓練を受けていない人々がただ「歩く」さまを舞台に乗せようとしていた頃、土方巽は「立てない」ダンスを構想していた。「世界の踊りは全部そうなんですけどまず立つわけですよ。ところが私は立てないんですよ、立とうとして、お前は床に立っているけど、それは床じゃないだろうといわれると、突然足元から崩れていく、ですから一から始まらないで、永久に一に到達しないような、動きの起源というものに触れさせるとか、そういうこともやってますよ」(69年のインタヴューより)。パクストンにとって「立つ」こと、「歩く」ことが、全ての動きの起点としてあったとすれば、土方は「一」から出発するのではなしに、あくまでも「零」と「一」の間に無限の可能性を見ようとしていた。「一」とは、すなわち「立つ」ことだとすれば、ここには、アメリカ流の民主主義=「人間」主義(ヒューマニズム)と、それを拒絶する強力な反植民地主義とのコントラストを見てとることができるだろう。ジャドソン教会派を特徴づけるのは、幻想を追い払い、ありのままの即物的な現実を「肯定」するところから出発する姿勢である。もちろん「ありのままの即物的な現実」など存在しないが(ジャドソン教会派は、その民主主義的理念にも関わらず、WASPの階級的共同体であった)、肯定すべきと考えられたものを肯定するのがアメリカの流儀である。それに対し、土方の思想は徹頭徹尾、「否定」を動力源としている。自分が立っている床という即物的な事実でさえ、単に受け入れることを拒みさえすれば、その「現実」としての自明性は覆える。そこに身体というもののアナーキーな力がある。
 日本にはもう土方のような「抵抗」のダンスはない。そしてあたかも偶然の符合のようにして回帰してきた「ジャドソン」と「日常の身体」。その意味するところは何だろうか。ダンスにおける革新的「マルチチュード」が、ジャドソン教会派の実験精神を蘇らせつつあるのか。それとも一種の「マクドナルド化」のような現象であり、単に日本が経済大国としての立場を失いつつあることの兆候に過ぎないのか。今はまだ、多様な解釈が許されるだろう。
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『MOMM』(2011年12月号)〔=朝鮮語訳〕
日常の喪失――ハイネ・アヴダル、篠崎由紀子『横浜借景 Borrowed Landscape - Yokohama』
 10月末、国内外のダンサーや振付家が中心となって『横浜借景 Borrowed Landscape - Yokohama』というサイトスペ��フィック作品が上演された。会場は、横浜の住宅展示場にあるモデル住宅の一つで、観客は一回に15人しか入れない。
 ベルギーに拠点を置くハイネ・アヴダル(Heine Avdal)と篠崎由紀子は、今年��月にも横浜で『Field Works-office』という作品を上演している。この時の会場はオフィスビルの一室で、実際に通常業務が行なわれている中で展開されるインスタレーション・パフォーマンスだった。筆者は見ることができなかったのだが、通常勤務中の社員たちとパフォーマーが入り混じり、観客はわずか数名のみというこの「フィールドワーク」はいかにも刺激的なアイディアである。それに対し、今回の『横浜借景』は実際に人が住んでいる住宅ではない。家具や日用品を使いながら日常と虚構の境界で戯れるようなパフォーマンスなのだろう、との予測は容易に立つが、やはり住宅展示場のモデル住宅という点に物足りなさを感じる。本当に誰かが生活している家を使うことは難しかったのだろうか。――しかし実際に会場に着いてみると、まったく違う感情が湧き起こってきた。
 住宅展示場は駅から徒歩10分ほどのところで、殺風景な商業ビルなどに隣接した敷地に、意匠を凝らしたモデル住宅が居並ぶ。開演前に、家々を眺めながら少し歩き回ってみた。レンガ造りの壁に巨大なガラスが大胆にはめ込まれていたり、モダンな間取りに贅沢な和室が組み合わされていたり、お洒落なカフェのようなテラスが設けてあったり、一軒一軒のデザインはほとんど無邪気ともいえるほどの、「理想の住まい」への夢と憧れに満ちている。モデル住宅とは、予算や周辺環境などによって妥協を強いられる実際の建築とは異なり、住まいに対する人々の希望や欲望を極端なまでに凝縮して見せるものなのだ。
 しかしこうした「理想的な」家々の輝かしく誇らしげですらある佇まいが、不毛な絵空事として感じられてしまったとしても、それは決して筆者の主観ではないだろう。3月11日のあの震災を経験し、そして今なお原発事故の脅威にさらされ続けているわれわれは、こうした無邪気な「理想」の展示を前にして、虚しさを覚えずにはいられない。安心して住まうことのできる「家」などという場所のイメージを、われわれはもう持てなくなっているのである。あの日から半年以上が経ち、ようやく余震は終息しつつあるものの、土壌や食物の放射能汚染が広がっているニュースは毎日報じられ、不安はいや増すばかりだというのに、被災地を除けばあたかも元の日常生活が取り戻されたかのような錯覚さえ生み出されている。政府やマスメディアによる巧妙な演出がいかに効果的に働いているとはいっても、こんな状況下で「理想の住まい」などというものに本気になれる人はいないはずである。これこそが、われわれの直面している現実なのだ。
 会場となる住宅の広々とした玄関に足を踏み入れると、部屋や廊下のあちこちに人がいて、凍りついたように停まっている。テーブルで乾杯をしている男女、ソファで新聞を読む男、台所で料理をしている女、など。カチコチという時計の音だけが響いている。いくつもの部屋の中を見て回っていると、やがて料理をする音や、話し声などが少しずつ聞こえ始め、パフォーマーたちもゆっくり動き出す。階段をゆっくり降りてくる男、窓の外をのぞき込む女、トイレに入ってうずくまる男。静まり返ってはいるが、生活音が建物の中のあちこちに置かれているらしいスピーカーから時折聞こえてくる。観客はパフォーマーたちの動きを追ったり、音の聞こえてくる方へ移動したりしつつ、部屋や廊下などの空間を味わい、無言の人々が演じる日常生活の断片を見る。少女のようなワンピースを着たダンサーは子供部屋で一心不乱にお絵かきをしている。スーツ姿の男が赤ん坊の人形をもって来て、半屋外に作り付けられた贅沢なジャグジーで体を洗ってやる。台所で料理をしていた女はベッドルームに移動して、どういうわけか顔を手で覆いながら徐々に激しく暴れ始め、錯乱状態に陥って部屋の隅にうずくまる。テラスで他愛もない口喧嘩をし始める男女は、自分のセリフを、紙で作ったマンガの吹き出しのようなものを自分で頭上に掲げることによって示す。
 パフォーマーたちの演技は、一見すると日常動作に近いが、しばしばマンガ的に誇張された無言の身振りでもあり、生々しいリアルさと芝居がかった虚構性の絶妙なあわいにある。そしてそれは、建物自体に充満する作り物めいた「日常」の雰囲気とも見事に呼応している。つまりモデル住宅が、現実の住居というよりもむしろ住居に対するわれわれのイメージや欲望を凝縮して映し出してみせるシミュラークルであるように、彼ら彼女らの演技もまた、瑣末な日常を生々しくリアルに提示するのではなく、日常生活についてわれわれがどのようなイメージを抱き、どのような欲望を抱いているかを凝縮して提示するシミュラークルに他ならないのである。
 やがてテラスに隣接したバーで音楽がかかると、全員がそこに集まってきて、踊ったり、酒を飲んでふざけ合ったり、のパーティーが始まる。ひとしきりの騒ぎが終わると、パフォーマーたちは一人ずつ階段を降りて去っていくのだが、観客もそれを追って階下に移動すると、そこにはもう誰もいない。リビングも台所も風呂場ももぬけの殻で、ただ空虚な時間が流れ続けているばかりだ。しかし室内には、人々の気配が残っているように感じられる。もういなくなってしまった人々の痕跡、記憶、そしてそれを包み込むようにして支える「家」という空間だけが、静かに持続している。それは不意を突くようにして訪れた、メランコリックな光景だった。津波によって消えた町、あるいはゴーストタウンになってしまった福島の町の中に佇んでいるような、あるいはまた、被災地から遠く離れたわれわれの日常生活の根底が突如として剥き出しになって現れたような、そんな瞬間だった。
 アヴダルと篠崎の『横浜借景』は、われわれの日常的な生のありよう、すなわち今まで(3月11日まで)当たり前のように過ごして来た日々の営みがどのようなものであったか、そして「日常」なるものに対してわれわれが漠然と抱いてきた安心感と依存とを、はっきりと対象化して見せてくれた。当分の間、われわれが安心して過ごすことのできる「日常」などは訪れないだろう。物理的条件ばかりではない。むしろ「日常」をめぐるわれわれのイメージや欲望をこそ、変えなければならないし、その可能性は今まさに開かれているのだ。
――――― 『横浜借景 Borrowed Landscape - Yokohama』 2011年10月28日~11月1日 会場/横浜ホームコレクション内「ハウゼ」モデルホーム コンセプト・演出/ハイネ・アヴダル、篠崎由紀子 テキスト/岡田利規 音響デザイン/ファブリス・モワネ 振付・出演/ハイネ・アヴダル、篠崎由紀子、小浜正寛、神村恵、社本多加、川口隆夫、長内裕美
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tohoku-youth-orchestra · 8 years ago
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1月の合同練習@福島県伊達市
1月28日の土曜日の朝8時台に降り立った初めての駅のプラットホームには残雪が残り、小雪が舞う、ここは伊達駅。福島駅から東北本線に乗り換え北へ二駅来たところです。
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駅の階段を楽器を担いで降りる団員に混じって白いスーツケースを手にしていらっしゃるのは指揮の栁澤敏男さんです。東欧を本拠地に旅の多い日々を送っていらっしゃるだけにスーツケースは目立つ色を選ばれたのか、などと考えているうちに今度はバスに乗り換えです。
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仙台からの乗車組に合流して揺られること約10分、今月の練習会場の伊達市ふるさと会館に到着しました。
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雪の中にあってもやはり白いスーツケースは目立つということが検証できます。
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間違えて着付け教室に行った団員がいるとは思えないのですが、今日は試験や補講が多いらしく、いつもより30人ほど少ないメンバーでの練習です。
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伊藤ひかりさんがコンマス席に座ってチューニング。本日の参加の団員全容はこちら。
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午前中には郡山公演を主催していただく地元の新聞、福島民報社の事業部の方がお見えになり打ち合わせをしました。
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TYOの美術担当、長嶋りかこ先生による洗練の技が溢れたチラシであります。チケットの一般発売は2月4日(土)からなのです。みなさまのご来場をお待ちしているのであります。福島民報では新聞広告も用意されていて、その原稿案ですね。
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福島民報創刊125周年記念事業だったとは! 福島、東北のみならず日本全国からのご来場をお待ちしています(ちなみに東京公演は前日の3月25日(土)です ) 。 そうこうしているうちに昼休み。いつもながらあちこちで輪ができているランチのひと時を圧縮して一枚の写真にしてみました。
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わたくしども事務局はというと、伊達市が実家の大学生、トロンボーンの大波さくらさんの強い推薦により地元のお店のお弁当をいただきました。
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いやぁ、これが美味しかった。わたくし、今までの人生においてトンカツ弁当を幾多となく食べておりますが、これは記憶に残る味です。冷えていて美味しいですから、こんど機会があったらお店に揚げたてアツアツを食べに伺いたいものです。 以上、今回の伊達市観光情報でした。
午後は3月の演奏会のメイン楽曲であるマーラーの交響曲第1番を集中的に。
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通しで演奏しても50分から1時間かかる大曲ですからあっという間に時間が過ぎていきます。途中の休憩の合間にも3月までの団員有志による自主的演奏会の確認をみんなでしていました。こちらは今週末の福島県いわき市でのミニコンサート、大学生による手作りのチラシになっています。出身の市町村名まで入れたのはいいアイデアだ!
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2月4日の土曜日、お近くの方も遠方の方もお時間とご興味が合えば、ぜひいわき市の商業施設ラトブまで足をお運びください。 そんなこんなでこの日の練習時間もあっという間に過ぎ、お迎えのバスがやってきました。
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しかし、今月1月の練習は東北ユースオーケストラ合同練習会史上初の試み、本番が迫って来たから二日連続練習を導入しました。そのため栁澤敏男さん、われわれ事務局は福島市泊となるため、夜は福島の地元大学生メンバーを誘って名物の円盤餃子を食べに行きました。
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前にも行ったことのある餃子の専門店「川鳥」のディープに焼きあがった香ばしい逸品であります。このお店には水餃子もありまして、氷点下の福島の夜には腹に沁みいる滋味でした。
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今回の土日連続合宿で懸案になったのは、福島、宮城の団員は連日通いでいいとして、岩手の団員はどうしたものか問題でした。この悩ましさをあっけなく解決したのは気負いの無い善意でした。福島事務局の「東北ユースオーケストラの母」、元FTV(福島テレビ)でジュニアオケをまとめてきた���塚真理さんには「家に何人かだったら泊まれますけど」とお申し出いてだき、また伊達市のトンカツ屋を推薦してくれた、今は東京でスペイン語を専攻する大学生の大波さくらさんからは「うちの実家でよかったら」と民泊(無料)に手を挙げてくれました。わたくしどもが福島市内で餃子祭りをしていた頃、伊達市の健康ランド「カッパ王国」ではこんな光景になっていたそうです。
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楽しそうだなあ。餃子も美味しかったけど、自分もカッパになりたかった。岩手の高校生の遠藤くん以外は全員メガネだね。
さて日付が変わって29日の日曜日、まずはパートリーダーのミーティングから今日の練習メニューについての確認からスタートです。
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真俯瞰ショット過ぎましたね。
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トランペットのトップ中村祐登くんが指揮の栁澤敏男さんから指示を受けた、マーラーの交響曲第一番演奏にあたってのパートの足し引きを伝達します。
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二日目は参加者も増えました。
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栁澤さんも本番まで二ヶ月を切ってきたせいか、指導に気合が入ってきました。なんでも「去年の夏から練習をはじめたマーラーは難しい曲だけども、だいぶん子供たちの体に入ってきました。しかし、意外と今回取り組む民謡が難しい。坂本さんの曲も藤倉大さんの東北民謡の編曲もさすがだなあという、子供が演奏するには”立派な楽譜”なんですよ」とのこと。たとえば、今回の演奏会では監督の坂本龍一さん作曲の沖縄民謡に沿ったアレンジの楽曲を古謝美佐子さん率いる、うないぐみが三線を弾き歌い披露する『弥勒世果報(みるくゆがふ』という曲があるのですが、各パートの「音がぶつかる」オーケストラ譜面になっているそうです。せっかくなので原曲のPVを貼っておきます。
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そして、この日練習した打楽器と木管楽器だけのさわりの部分も貼っておきます。
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このパートだけでも何とも心地よい響きです。ぜひ本番での演奏を楽しみにしていただければと思います。
二日目の昼は、あえて「これまで話したことの無い団員のことを知ろう」という趣旨で、誕生月ごとに集まって食べることにしました。では、どんどん紹介していきます。まずは8月生まれ。
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9月生まれ!
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9の手文字が行き渡ってないそ。ひとりピースしてると2月生まれに間違われるよ、パーカッションの中学生堤くん!
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ん?! ここは2月なんだか、3月なんだか、4月?
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おー、ここはわかりやすい10月ですね。しかし、ファゴット持ちながら昼食を食べた人はこの日の地球上でも西村さんだけだと思うよ。次もわかりやすい小道具をとともにランチしてね。
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はい、1月生まれ。坂本龍一監督も今日来られていたらこのチームだったねー。
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5月生まれはハンドパワーみたいでいいね(たとえが古いね、歳のせいだ、ごめん!)。
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おや、7月生まれは派閥的な団結感があるね。
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えーっと、4月なのか8月なのか、わかりません。 そんな誕生月ランチもそこそこに練習をはじめる人たちがいました。3月の演奏会でロビーコンサートを行うチームですね。金管四重奏!
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そして、これはなんと称していいのか。
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弦楽四重奏にファゴット? さっきファゴットを持ちながらランチしていた西村さんがボーカルで弦4人がコーラスの編成と受け止めればいいのでしょうか。演奏会当日が楽しみですね。                                                                                           
そして事務局控え室に行ってみたら、昨晩団員を受け入れていただいた大塚さんがいらっしゃいました。「昨日の夜はどうでした?」 「いやぁー、女の子3人みんなおとなしいのよ。でも311の時にどうしてたかって話になってね。わたしたちも大変だったけど、もっと大変な体験をした子がいるのよー」
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「東北ユースの母」大塚さんから間接的に聞く、今年度から入団した気仙沼の中学生女子の話に驚きました。「えーっ、淡々と打楽器を叩いている、あの子が?!」 気仙沼と言えば、震災後に日本酒酒造の角星さんの仕事をしたり、友達が気仙沼ニッティングの社長になったり、地元の自家焙煎珈琲店アンカーコーヒーの小野寺社長とはなぜか東京でばったり会ったり、何かと個人的にご縁のある土地でしたので、「午後の休憩時間に話を聞いてみます」とホールに戻ったら、いました。
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TYO随一のひょうきん娘であるヴァイオリン鈴木南美さんときゃっきゃと笑っていた三浦瑞穂さんを発見しました。「大塚さんから話を聞きましたよ。休憩時間にインタビューしていいかな? もし話をする��がつらくなったら途中で止めてもいいから」「大丈夫です」
ちょっと見えにくいかもしれませんが、鈴木さんが頭に乗せていたのは、みかんでした。
あらためて上の写真の右側が気仙沼出身の三浦瑞穂さん、打楽器担当の中学三年生です。
311の時はどうしてましたか? 体験を聞かせてくれますか?
「当 時は小学三年生で9歳でした。ちょうど午後の2時46分は習字教室に行く直前でした。家には祖父母と三人でいました。父と母、母の妹の伯母は外に働きに出 ていて、妹と弟は保育園に行っていました。突然大きな揺れが来て、これは危ないと思って祖父母と玄関の外に飛び出しました。家の中で食器が割れる音がすご くて、瓦も落ちてきて、家の壁もひびが入り、“家が壊れる”と叫んだのを覚えています。祖父が慌てて妹と弟を迎えに行き、家に入れないので祖母と車の中で 待機していました。車内でワンセグのテレビ放送で仙台空港の様子を見て、最初はこれは夢だと思いました。祖父は戻ってきてからも自治会長なので外に出てい たのですが、慌ててわたしたちの車にやって来て、“黒い壁が迫って来ているので逃げなさい”と言いました。急いで国道の向こうの高台まで祖母を引っ張りな がら逃げました。高台から家の海側にあった本家の屋根が流されていくのを眺めていました。結果的に、わたしたちの家の隣は床上浸水、その隣の家から海側の 家はすべて流されてしまいました。 市内で働いていた父と母と無事合流でき、近くの中学校の体育館に避難しましたがぎゅうぎゅう詰めで身動きが取れ ないほどでした。強い余震が続く中、備蓄されたいた食べ物が無く、その日はひとり一枚のビスケットが配られただけでした。学校によっては、それがクッキー だったり、竹輪だったりしたようです。次の日から地区ごとに校舎に移りました。同じ地区に住んでいた同級生には弟がいて、わたしの妹と弟と同じ保育園に 通っていたので、よく知っていました。弟の泰河(たいが)くんは3日後におじいちゃんおばあちゃんと車ごと流されているところを発見されました。同級生の お母さんが遺体安置所から帰ってきて“ 泰河が亡くなった~”と泣き叫んでいらっしゃいました。 家には1週間後に行きましたが、余震が怖く、山側の父の実家に避難して。電気が復旧した1か月後に家に戻りました。」
それは大変な経験をしたね・・・。そのひどい体験で人生観というのかな、世の中に対する考え方とか、生き方とか、変わりましたか?
「関 東大震災とか教科書の中だけの話と思っていました。しかし、地区によっては全員が亡くなって、壊滅して、解散した地区があります。こんなことが本当にある んだなあと実感しました。妹も保育園に通う同級生を2人亡くしています。その一人は家の中で中学生のお姉ちゃんだけが生き残りました。知り合いはいっぱい 亡くなりました。わたしも習字教室に早く行っていたら今生きていないです。妹弟、おじいちゃんも危ないところでした。自分より辛い人がたくさんいる。その ことをよく思います。わたしたちは、まだよかった。だから、自分だけのために生きているのではないと思うようになりました。この先がまだまだある子も亡く なった。生かされたなりのことをしなくちゃいけない」
わたくしは言葉に詰まりしました。三浦さんの話をキーボードに打つ今も画面が霞んでおります。やっと言えた質問は、 これからこのオーケストラで何をしたいですか?                                                     
「震災を体験した自分たちも元気にしていることを、音楽を通じて発信していきたいです」
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最後に担当の打楽器を持ってもらって写真を撮りました。三浦瑞穂さん、つらい思い出話を聞かせてくれてありがとうございました。
練習のホールに戻ると、柳澤さんが「マーラーの第一番を通しで合奏」と言うではないですか。第一楽章の最初のほうに鳴り響くトランペットが葬送の中の希望の音に聞こえ、涙腺の故障を堪えきれず、たまらずホールを出てしまいました。
すると、マーラーは降り番で休憩している4人組がいました。小学生の福澄くんは殊勝なことに文庫本を読んでいるではありませんか。邪魔して悪いけど、おじさんには気分転換が必要だ。記念撮影だ!
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(もっと練習して、来年はマーラーだろうが、シュトックハウゼンだろうが、乗り番になろうね)
さ て、今回の練習で栁沢さんが最も熱心に指導されたのが、みんなの地元3県の民謡を現代音楽家の藤倉大さんが編曲された 『ThreeTohokuSongs』でした。そもそもみんな聴いたことが無いのですね。南部よしゃれ、大漁唄い込み、相馬盆唄。しかも、演奏の途中に民 謡ならではの掛け声を入れなくてはなりません。そこで、降り番の人たちに掛け声専門部隊を結成してもらうことになりました。
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その名も「チーム・チョイサー」。南部よしゃれの掛け声から取りました。チーム・チョイサーの今後の活躍をご期待ください。
そして、今回の練習では今年の311の石巻での演奏会に参加する有志をトランペットの中村くんが募っていました。その熱い思いに応えたのは18名の団員(この時にいなかった人も含む)です。
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よい演奏となることを期待しています。そして演奏会場となる復興住宅の集会場に贈呈する記念写真と額縁の費用が必要ということで、中村くんとヴィオラの服部さんの呼びかけにより、小学生にもやさしい一口10円から集めたところ、
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当初の目標額3,000円を超える、12,030円が集まりました。プチクラウドファンディング成功じゃないですか。よかったよかった。
そして、二日間の練習中にホールに張り出していたのがこの紙でした。
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昨年の12月にTYOカルテットが出演させていただいた、 吉永小百合さんと坂本龍一監督によるチャリティーコンサート『平和のために~詩と音楽と花と』 が、NHKワールドとNHKBSプレミアムで放送されることになりました。その場に居合わせたわたくしは深く感動いたしました。この機会にぜひお見逃し、録画逃しありませんよう。
そんなことで、初の1泊2日練習も無事終了し、上りの東北新幹線に乗り込んだわたくしは疲れているのに、感情が高ぶっているせいか眠気が訪れず、今回持参した3冊の本から最も難解なものを選び、読み始めました。現代を生きるフランスの哲学者カンタン・メイヤスー『有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論』です。思弁的実在論を展開するわたくしと歳がさほど変わらないカンタンな割には難解な書物の著者は、カント以来の西欧哲学の200年の歴史に真っ向から挑戦をしかけている勇敢な人です。 さっき聞いたばかりの気仙沼の三浦さんの話とあまりに符合するので思わずページをめくる手を止めました。
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「いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる」
三浦さんの言葉をもう一度。 「生かされたなりのことをしなくちゃいけない。                                                      震災を体験した自分たちも元気にしていることを、音楽を通じて発信していきたいです」
演奏会まであと2か月を切りました。チケットの一般販売は2月4日の土曜日からです。
引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をよろしくお願いいたします 。
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tomtanka · 5 years ago
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『足の踏み場、象の墓場』全首評③(縦書き引用ver.)
我妻俊樹「窓を叱れ」『足の踏み場、象の墓場』の全首評
中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから
叱れと言われたら、これはもう、一時的にわずかな理性を取り戻してでも、説明せざるを得ない。 叱るのと怒鳴るのは、全然違う。声を張りあげて自分の感情をぶつけるのが怒鳴るだとしたら、叱るのには、もっと理路整然とした秩序が必要になる。叱ることによって、これまでの状況が変化することが求められるからだ。だから、叱る者には、全てを把握するための客観的な視点が必要だ。感情や状況にまつわる現状を、説明という器に乗せて、差し出すために。 叱れ、という命令は、私が理性を取り戻すだけのパワーを持っている。 なぜかというと、これまでの連作に登場したどの歌にもタイトルにもなかった、「命令」が初めて登場するからだ。 ささやかな願望・曖昧な提案・誰に対しても伝えたい感想と感嘆・シチュエーションに対する忠実な状況説明。 上記の4つがこれまでの歌やタイトルの8割を占めている構成要素だった(残りの2割が何なのか、それを説明するほど愚かなことはない)。 ところが、「叱れ」という命令は、誰の誰に対するどのような命令であれ、この歌集の中で異質さを放っている。 その理由は、作者も読者も知りようがないが、個人的に推測するに、それは、この連作が何かに対峙している唯一の連作であり(何かに投影・何かから投影している連作はあるが、もちろん対峙するのとはわけが違う)、そして、この連作の最初の1首目に、中里さんが登場するからである。 中里さんとは誰か。 それを探るためには、残念ながら何かを連れて来なくてはならない。ただ、直接連れて来るのはよそう。 覚えている人は、「世話する光」を思い出してほしい。 私は、この歌集は、ビーカーに水を注ぎながら、ひたすら目盛りを数える歌集だと思っているが、このビーカーに水を注いでいる人こそ、まさしく中里さんなのである。 ビーカーに水を注ぐ速さを調整できるのは、中里さんしかいない。 中里さんの設定した、アパートの耐用年数は百年だ。今まで私はこのアパートに十六年住んでいたが、この築二十五年のアパートは、今度は百年しか持たないだろう。夕暮れをこんなに身近に感じることは、これまでなかった。あったとしても、それは時間の経過を感じるだけのことで、日が暮れるという感傷に浸っているに過ぎなかった。 誰がアパートを塗り替えてくれと頼んだのか。依頼主は誰か。 「そういうのを感傷と呼ぶんだよ」
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
スイスにようこそ! 客車から降り、石炭の匂いを感じながら、私は停車場の短い階段から野草の生い茂る草はらへと下った。駅舎までは多少、距離があった。改札で銀色の箱に切符を落とし、石畳のロータリーに出たところで、その男は大声でそう言ったのだ。 「スイスにようこそ!」 けたたましい警笛と、シリンジやポンプの作動音、蒸気の噴出される細長い音の後、機関車は走り出した。その男は、もう一度、「スイスにようこそ!」と叫んだ。 その男は、ホテルから私を迎えに来ていた。 その男は、ボタン穴の部分に白い花が刺繍された、キルト地の赤いチョッキを着ていた。民族衣装なのだろう。滑稽に見えた。 「スイスにようこそ!」 私が声を発さないせいか、その男はいつまでも叫び続けていた。
思いましょう 世界は果てが滝なのに減らないくらい海に降る雨
わずかな言い換えが、同一性をより担保してくれる。違いではなく、同じであるということに価値があり、光の当たり方が違うという指摘をすることに、この世界の意味があるのだ。 何も変えてはいけないし、そもそも何も変わっていない。 だから、ため息のような破調をため息だと断定するような、理性に支配された言葉や深読みの数々に、どうか、果てしない嫌悪を。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
空き地の真ん中にあるブランコを漕いでいる人はいなかった。しかし、そのブランコはもう2時間以上、揺れ続けていた。風が吹いたり、地震が起こったりしたのだろうか。犯人は誰だろう? ぼくはそんなことを考えながら、空き地から出て行った。夕映えでまぶしい道にも、もちろん誰もいない。
眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ
さっきまでスパゲッティが乗っていた皿だろうか。陶器が割れる音がした。いつ聞いても嫌な気持ちがする。盛り付けにどれだけ時間をかけたか知っているのだろうか。拳大の麺を掴んだトングを円の中心に垂直に下ろし、3°ずつ反時計回りで円を広げていく。麺が尽きたら、今度は尽きた箇所からもっとも近い皿の縁から、時計回りに同じことを繰り返す。規定量の麺がなくなるまで、それを反復し、最後に外・内の間隙に向かってミートソースをかけていくと、もっとも美しい、写真映えするミートソーススパゲッティのできあがり。 それを奴は台無しにしたのだ。 客に謝る声がした。愛想がなく、声が大きいのにこもって聞き取りにくい。 やがて奴が戻ってきた。こんな奴しかバイトに来ない。 怒りがこみ上げてきた。
鰐というリングネームの女から真っ赤な屋根裏を貢がれる
忘れもしない10月15日、三銃士マドモアゼル・リンダとの決戦。 私は地面へと頭から叩き落とされた。筋骨隆々の大女リンダは、背負い投げの途中で掴んでいた両手を離し、私は右側頭部にゴギュという音を聞き、次の瞬間には病院のベッドに横たわっていた。4日間、眠っていたらしい。脳だ。硬膜に、血が溜まってしまった。もう復帰できないだろう。リンダとの再戦では、今度こそ殺されるに違いない。 退院してからも、私の脳裏からゴギュという音は消えなかった。
バス停を並ぶものだと気づくのはいずれ人ばかりではあるまい
カラスの襲撃がはじまった。 毎朝、5時35分発のバスに乗るための列がある。そこで餡パンを食べる男子高校生が、その襲撃がはじまる原因だった。 その列には、イヤホンのつながったMDプレーヤーを持つ会社員らしき男、バスに乗ってからすればいいのになぜか待ち時間でチークを塗るOL、文庫本を読む一見して職業のわからないラフな出で立ちの中年男性が並んでいることが多かった。曜日によって数人増減する日もあった。 カラスは滑空した勢いで餡パンを盗ることもあれば、バス停の近くまでひょこひょこ歩いてきて、飛び上がる弾みに文庫本を掠めとることもあった。日によって、何を盗るのかまちまちで、規則性はなかった。 しだいに、そのバス停の5時35分発の利用者は減った。私の部屋はバス停の真裏の2階にあったが、観察するに、それまでの利用者は35分の前後のバスに変えたようだった。35分発の前は27分発で、後ろは少し間隔が空き、52分発だった。 カラスは35分発のバスに固執していたので、前後のバスの利用者を狙うことはなかった。 私はだんだん、そのバス停の35分発のバス列に並んでみたくなった。バスに乗らない生活が続いていたが、意を決して餡パンを食べながらそのバス列に並んだ。 並んだといっても、その日、私以外に並んでいる人はいなかった。 カラスが飛んできた。私の背後から近づいてきて、しばらくじっとしていたが、やがて朝焼けの空へと飛び去っていった。 私はバスに乗り、駅に向かった。駅に人はまばらで、なんだか楽しい気分になった。 どこに行こうかな。
拾った本雨で洗ってきた人と朝までつづく旅行計画
歩けば歩くほど、傘が遠のいていった。空き地の中央に突き刺さっている、一本の傘。半透明のビニール傘で、コンビニのテープが持ち手に付いたままだ。 誰もいないのに、傘がゆっくりと開いていった。時が止まる前の、緩慢な動き。 パラボラアンテナのように宇宙へと開いて、雨を受け止めている。 これから先、もうどこにも旅に行くことはできない。そう思うのに、時間は必要なかった。 朝は消滅した。
消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
自転車で行くには、あまりにも近過ぎた。ペダルを4回漕げば、そこに輪ゴムがある。わかっているのに、絶対に輪ゴムをひき殺してしまう。輪ゴムの断末魔が響きわたる。うんざりだ。
ブルーシートに「瀬戸内海」とペンで書け恋人よ 毛玉まみれの肩よ
瀬戸内海は本州と四国に挟まれ、九州と淡路島によって蓋をされている。こう定義したとき、瀬戸内海を狭いと感じるか、広いと感じるかは、人それぞれだろう。レトリックの差だ。 ただ、そもそもレトリックが生じるには、瀬戸内海に行ったことがあるか・ないか、が関わってくる。 私は瀬戸内海に行ったことがないから、レトリックが有効だ。 瀬戸内海=ブルーシートに座って、花見の場所取りをしていると、茂みからタヌキが顔を出した。私が瀬戸内海にいるので、タヌキが瀬戸内海に侵入することはなかった。 オオカミが来た時のことを考えて、もっと大きく書いておこう。 「おーい。オオカミが来たぞう」
牛乳を誰かが飲んだあとに来る 煙草をきみはねだる目をする
「おーい。牛乳が来たぞう」 「煙草、吸うかい?」 「これで無事に牛になれます」 「あいつは有名な牛なんだよ」 「知らなかったな」
月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる
TEL「お電話ありがとうございます。ピザッチです」 わたしたち「注文お願いします」 TEL「承ります」 わたしたち「ピザッチの熟成ベーコン ダブルチーズスペシャルで」 TEL「レコードですね」 わたしたち「はい?」 TEL「月光ですね。お届け先を伺ってもよろしいでしょうか」
忘れてた米屋がレンズの片隅でつぶれてるのを見たという旅
夢なのか、旅なのか、映画なのか。 確かなのは、私が1眼レフを構えて、海辺のトタン屋根の小屋にレンズを向けていることだけだ。窓ガラスは割れ、部屋の中には砂が溜まっていた。防風林の木々の間から、風が流れ込んでくる。夢なのか。気がつくと、私は望遠鏡を覗き、宇宙の小さな米を見ている。星の中の、家の中の、米櫃の中の、一粒の米。われわれには、今目に見えているものが、米なのか、星なのか、区別することができない。
顔のなかに三叉路のある絵を描いた凧が墜ちても届けにいくわ
しかし、雲が突然、光を発した。本来見えていたはずの太陽をかすめている、飛行機の排気ガスの軌跡を柄のようにぶらさげた白いかたまりは、ゆっくりとひしゃげた。 私の頭の中と、想像の君の頭の中と、想像の中里さんの頭の中は、どれも凧が真っ青な空の中を落下する映像だけで占められていて、落下地点のことを決して想像することはなかった。つまり、野原で寝転んでいる中里さんの顔に向かって凧が落ちていき、中里さんの顔を凧の布が覆い尽くしたとは、誰も知らなかったのだ。 三者三様に、拾いに行く途中で迷子になり、誰も帰って来なかった。
マサチューセッツ工科大学卒業後 ほんとうの自由にたどり着けるだろう
何も考えたくないという時の「何も」こそが「自由」であり、何もかも達成したという時の「何も」が「ほんとうの」だ。バカ田大学は実在しない大学で、マサチューセッツ工科大学は「ほんとうの」大学だ。
五時がこんなに明るいのならもう勇気は失くしたままでいいんじゃないか
卒業おめでとう。五次会へようこそ。
東京タワーを映す鏡にあらわれて口紅を引きなおすくちびる
自分がどこにいるのか思い出せない、いや、自分がどこにいるのかわからない。東京タワーが映っているということは東京都内のはずだが、もしかするとテレビの中の東京タワーを映した鏡かもしれず、その証拠に東京タワーはゆらゆらしているが、しかしそれはタバコの煙のせいかもしれないし、もしかするとスモッグか黄砂か霧かもしれないし、くちびるは口紅を加えてはっきりするということは、つまり鏡の中の口は自分の口で、くちびるは自分の口のくちびるで、ようするに自分が鏡の目の前にいるということ以外に確かなことはないと思ったが、塗っている自分の指と指は本当に自分の指なのか、「指?」、指ではないだろう、ここはトイレだからテレビはないはずだ、東京タワーは小さいし、自分は口紅を塗っている自分だ。
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
わたしと、マイケル・ジャクソン。この森はすべてうれしい。
こどもたちは窓のかたちを浴びていて質問してくるようすがない
遠い空を凧が浮かんでいたので、空について詳しくないぼくらには、それがいかに巨大か、近づいてくるまで分からなかった。 凧は風にあおられぐらつき、山の峰に触れた時、周囲の木々と凧の大きさの違いに、ぼくらは驚いた。 もっと遠くに浮かんでいると思っていた。 いや、あれは飛んでいたんだ。 あれは大人かな。 子供じゃないかな。子供が五人、凧の対角線に沿って張り付いている。 貼り付いている、の間違いじゃないかな。彼らは死んでいるよ。 五角形のそれが草原へと着陸した。ずどん、と。 ぼくらはそれに向かって駆け出した。
こうもりはいつでも影でぼくたちは悩みがないかわりに早く死ぬ
もぐらとこうもりは、ぼくたちにとって黒いかたまりだった。猫がもぐらを咥えて夕方の軒下にやってくると聞いたことがあったけど、中里さんはそれをぼくたちに見せてはくれなかった。 ただ、一度、ぼくはその死体を見たことがある。中里さんがどこかに埋めたもぐらを掘り起こしてきたのだ。でも、それは真っ黒に塗りたくられていて、まるで影が空中に浮かんでいるみたいだった。ぼくはそれを手に取った。これがもぐらだとは思えなかった。いや、思おうとする前にもぐらは、ぼくの手からその黒いかたまりをかすめ取り、夕闇の暗がりへと消えていったのだった。 ぼくが幼少期に死について考えたのはそのたった一回だったが、長い時間が経ってから思い出すと、ぼくはつねに死について考えていて、それはぼくたちにとっての共通のテーマだったが、今、捏造した記憶かもしれない。こうもりが、車庫の屋根裏から羽ばたき、ぼくの顔を覆った。苦しくなることが、ぼくはいま溺れているのか、どこで。
けむりにも目鼻がある春の或る日のくだものかごに混ぜた地球儀
バナナと梨とリンゴと葡萄がかごに混ざっていて、実はどれかが地球儀でーす、というクイズ。 正解は、バナナ。よく見てごらん。ほら、剥いてみて。
電球を抜く手つきしてシャツの中おめでとうってどこか思った
エルヴィス・プレスリーは振動を発明し、マイケル・ジャクソンは手つきを発明した。 アンチ・グラヴィティは、特許によって成立しており、靴と床の構造によって無重力を再現していた。なぜ、バスター・キートンやチャップリンとは「違う」のか。 「おめでとう」と言えるのは、マイケルだけだから?
その鍵は今から四つかぞえたら夢からさめた私が開ける
なぜ、五や三とは違うのか。 「おめでとう」と言えるのは、四だけだから?
全世界 というとき世界が見おろせる星にかかっている羊雲
トートロジーに照らして考えたとき、全世界とは三角形であり、同時に正四面体でもある。つまり、三角形は四個あり、同時に十六個あるとも言える。 私は羊雲すら把握することができている。
部屋に見えるほど寒々と白旗をひろげなさいって誰に言われた?
凧は裏側の三角形に墜落した。ぼくらはそれを見ることができなかった。羊雲が青空に広がっていた。
犬がそれを尊ぶ「セックスアピールって要するにおっぱいだろ?」という目で
マイケルのそっくりさん「おめでとう」
たくさんになって心は鳥たちの動いたあとの光が照らす
「いらっしゃい」
新聞が花をつつんで置いてある よみがえるなんて久しぶり
長年考えていたのだが、と話をはじめることができれば、この話に説得力や教訓、哲学的な示唆があるのではないか、と耳を傾けてくれる人々が増えるのだとは思うのだが、実際はほんのついさっき考え出したことについて話をしたいと思う。しかし、これからずっと考えつづけていくに違いない事柄についてだ。 いや、私は長年、ずっと考えつづけていたのかもしれない。それを、ついさっき考えはじめた、と韜晦混じりに話している可能性もある。と、話を続けることしかできない。つまり、私には、いつ考えはじめたのか、全く分からないのだ。 いったい、新聞と何の関係があるのかと思うだろう。だが、話には順序がある。 まず、私が話したいのは、まさしく、わたしが陥ったある狂気についてである。 おそらく、世界中どんな場所にも、狂人と呼ばれる人間が必ず1人はいるはずだ。どういった人間かというと、たとえば、あからさまに口調がおかしかったり、あるいは身振りが不審な人間が狂人と呼ばれるのではなく、常識という土台はあるにも拘らず、その常識が生み出すはずの思考が常識とはかけ離れてしまう・少しずれてしまう人間のことだろう。 だが、何が狂人たらしめるのかというと、実際は時代時代の常識から見た「狂気」であり、大部分は、その人間��置かれた状況や環境に対する理解の欠如や、差別意識によるものなのではないか、とも思うが、しかし、土台の上の常識がずれるということについては、多くの人間は狂気と人間(狂人)を峻別し、その上で狂気に見舞われた人間を「狂人」と見做しているのではないだろうか。 ケースバイケースだ。こんなところで結論がでるような話ではなく、そもそも「土台」という考え方が、非常に差別的にちがいない。ただ、私が何を言いたいのかというと、この「土台の上」ではなく、まさに「土台」の部分で、私は狂気に飲み込まれてしまったということだ。 話を始めよう。 私はかつて、池袋で新聞少年だったことがある。しかし、それはほんの2週間でおわってしまった。当時の家庭環境からすれば、私は働きつづけなければならなかったのだが、体力はもちろん、幼稚さゆえの逃避癖から、楽で薄暗い方へと身を沈めてしまった。逃げたのだ。打ちっぱなしの床に、やけに赤いヒーターしかない作業所が苦痛だった。2階から聞こえる怒声が、ただ耳の内側に響き、昼の数時間の睡眠や不規則な生活が、だらだらと続くのに絶望した。 それはともかく、私は2週間の短い経験だったが、新聞、と呼ばれると、広告チラシと新聞を一括りで連想するようになってしまった。私にとって、新聞とは新聞紙のことではなく、チラシがハンバーガーのように挟まっていてこその、「新聞」だ、と言えば少しは分かりやすいだろうか。 そして十六年後、私はあるアパートに住んでいた。チラシを捨てることができず、十六年分のチラシが部屋にはあり、話とは関係ないが、毎日、ダブルチーズバーガーを食べていた。 私が陥った狂気について語ろうと思うが、前置きに比べてずいぶん短くなると思う。なぜかといえば、これは私が現在直面している狂気であり、私は正常と異常、時間の長短の区別がもはや付かなくなっているからだ。ようするに、私は説明することができないに違いない。 話とはこうだ。私はある日、部屋の壁中にチラシを貼る男を夢想した。それは私だったのかもしれないし、今、私がチラシを壁に貼っているのかもしれない。 「新聞が花をつつんで置いてある」 私は「新聞」に包まれている。 私は置かれている。 私は自分が花だとは言わない。しかし、「よみがえるなんて久しぶり」とは。 私が、自分が狂気に陥ったと考える理由は下句にある。 私は甦っただろうか。「久しぶり」には、世界に対する癒しが含まれている。 癒しは、包まれているのか。包まれていないのか。 文字が塗りたくられた円錐は、床に転がっている。 円錐の先に窓がある。 窓から、光が射し込んだ。窓にもチラシを貼っていたが、紙が薄かったので、窓は光っていた。 「よお」
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引用はすべて、我妻俊樹「窓を叱れ」(『足の踏み場、象の墓場』、短歌同人誌『率』10号 誌上歌集、2016年)より。
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