#いつだって私��気持ちや考えを汲み取るのが上手で
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wqslll · 9 days ago
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心のちくっと刺さったとげとげを抜いてくれて、そっと優しく撫でてその傷を癒してくれて…本当に私は貴方が居てくれて良かったと心底思う。素直じゃない私の言葉も本音も貴方にはバレていて。私が「大丈夫だよ」って言う時は8割ぐらいの確率で大丈夫じゃないってのもバレてるらしいです…流石、さとみマスター。毎回私が落ち込んだりてんやわんやしてると、それに気付いてくれてるのか貴方が言葉を引き出してくれるよね。私が誰かに悩みや困ったことを話すのは滅多にないので、今までは大体ひとりで考えて溜め込んで爆発するのがルーティンだったので、私が唯一素直になれる居場所を作ってくれて感謝でしかないの。本当にいつもありがとう。こうやっていつも甘えて頼ってばかりな私を丸ごと受け止めてくれてありがとう。口が悪くて素直じゃなくて甘えんぼで泣き虫でくっつき虫な私を愛してくれてありがとう。どんな私も受け止めてくれる貴方に甘えすぎてないか、偶に不安になるけど、それさえも見透かされてるように「どんなさーちゃんも愛してるよ」と言ってくれる人は貴方以外居ないなあって思う。それと同じくらい、ううん、それ以上に貴方を甘やかしたいし、愛したいし支えたいし頼って欲しいと思う。貴方はしっかり者だから、私じゃ頼りない時もあると思うけど、でも、些細なことでも力になりたいから言ってね。貴方の為ならなんだって出来るよ。暑いし忙しいのに、絶対凄く疲れてるのに真っ先に逢いに来てくれて沢山お話ししてくれて聞いてくれて、傍に居てくれて、本当にありがとう。休める時にしっかり休んで欲しいなあって、無理だけはしないで欲しいなあって思います。もし、逢えない日が続いても今までの貴方がくれた沢山の宝物を宝物箱から取り出して、心をぽかぽかにしたいと思うし、貴方がいつだって「ただいま」って帰って来れる居場所で居たい。私にしてくれているように、素直になれる場所に。これからも傍に居させてね。いつもありがとう。
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P.S こちらの画像について熱く語りたいんですけど、タグ付けだと見づらいと思うので、ここで語ります。(?)この短髪といい色といい最高にどストライクです。手のごつごつした感じも、腕の筋肉質な筋も、腕が長い所も、日に焼けてて薄いピンクのTシャツが似合う所も、ほんっとうに格好良い。この髪型またやって欲しいし、薄いピンクの洋服に合う人って本当にイケメンで爽やかな人しか似合わないと思ってる。つまりは、藤原氏しかいません。顎のシュッとしたところや手で隠れちゃってるけど喉仏とか色気感じる所しか無くて頭抱える。あと、唇が薄いところも好きです。少し掠れた優しくて甘い声も、くっきり二重のおめめも、それでいてたれ目な所も、笑った時のくしゃくしゃな笑顔も、シュッとしたおはなも眉毛も涙袋もとても好きです。いや、もう全部好きです。格好良すぎるでしょ、うちのだーりんっ。
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dosoko · 8 months ago
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あけおめスペシャル 動画!1
2019-01-01 アーカイブ ※動画内解釈は、使用楽曲・本家様の意向と全く関係ありません。
間宮廻と似鳥狛知メインの動画です。 この動画の楽曲は、羽生まゐごさんの阿吽のビーツをお借りしています。
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動画ででてくる花札の役割は二つあります。
🌟一つ目は、本家の1,2,3などのカウントにあわせて、一月、二月など合わせている場面。
🌟二つ目は兆し。良い兆しだと、ポイントの高い札、悪い兆しだと、ポイントの低い札が出てきます。
花札を出した一番の理由は、本家の和風なイメージが大好きなので、そのイメージをこのキャラクター(パーカーや白衣を着た二人)で壊さないためです。
色合いも考えつつ…
強盗学部のまみやと医学部のにたどり。 過去に医学部にいたことがあるまみやは、にたどりと知り合う。
0:10 向き合って手を握るわけじゃなく、お互い正面から見なくても、相手の事がわかるような感じです。 ここが気をつかわない唯一の居場所だから、ただそこに存在できるだけで良い。 もしかしたら手も触れなくても良いくらい深くて静かな関係かもしれない。親密さを表すために手を軽く握っています。
0:19 似鳥の周りの生徒が似鳥から離れていく様子 0:21 花が散ったあと。似鳥はみんなと仲良くしたいよだけれど、うざがられてから回ってばかり。 こうして花(関係)を作ろうとしても、うまく行かないところに、その散らばった花を集めて拾ってくれた人が居た。⇒間宮廻
0:25 似鳥は信じられなかった。自分が誰かの目にとまるなんて思ってもみなかった。 でもそれを正直に間宮に、「上辺だけ?」「��けるそぶり、本当は嘘なんじゃないの?」という言葉を言ってしまったら、今度こそ一人になるかもしれない、それならば、むしろ上辺だけでも良い。だから声に出すのはやめた。⇒間宮廻は人にあまり興味を持たない。これも散らかっていたからくらいの理由で集めて渡しただけ。周りの視線も気にしない。
0:28 似鳥が「あなたに愛されたいと思ったのはどうしてだろう」    別にいままでお返しを求めるなんてことなかったのに、そう思った。思ってしまった    間宮が「愛してたいのはどうして?」    こんな情の薄い俺を愛するのはどうして? 0:33 でも、そんな関係が心地よくて、間宮も人に興味がないけれど、来るもの拒まず去るもの追わずの性格なので何も言わないで一緒にいた。それぞれの孤独を二人の世界が溶かしていた。
0:38 なんとも言えないこのふわふわした関係が落ち着く。 0:42 似鳥:一人で��びしいって、さびしいを感じなくたって大丈夫、私なら間宮くんにもっと教えることができる! 0:47 お互いに、ないところを補完しあって、お互い行くあてもないから、ここにいようよ。 0:55 似鳥は何回か間宮に告白していて、それに対してふわふわした答えしか返って来なくて、でもそれでも、一緒にいれることがただ幸せだから、似鳥はそれでも良くて。    でも、いつかは返事してほしいな。
1:06 似鳥が俺に言うそれ、は、俺を一人にさせないため?自分が一人にならないため? 1:11 間宮くんから私に来る感情はないのに、私の中で完結させたらダメなの? 1:15 啓蒙→無知な人を正しい道に導く。似鳥はもっと、似鳥を大事にしてくれるとこに行かせたい、俺じゃダメだって正したい。こんなに言ってるけどわからない? 1:17 じゃあ、間宮くんの私の告白に対してちゃんとYESなのかNOなのか出して。じゃないと諦めも何もつかないよ。 1:20 確実に近づいて、確実に離れていく距離。間宮が出す答えを、似鳥はうすうす気づいている。 1:24 優柔不断というのがこの、間宮が似鳥に出す答えのこと。 1:29 間宮:もっと早く答えを出していれば、こんなにつらい思いをすることは無かったのにね。 1:31 このふわふわな心地のよい関係に甘えてた。 1:34 お互い少し居すぎちゃったみたいだ。
2:02 似鳥:あなたに捧げたこの気持ち、いつかちゃんと答えにして返してね。できれば、良い、答えを。 2:11 間宮:ずっと何とも言えなかった関係。答えをださないままの場所にいたかったんだけど。
(絵担当のmeは犯罪学園は日常的に人が死んでも当たり前だと思っていて)間宮はまわりの人が死んでも全然なんとも思わなかった。人が死���より自分が死ぬ方が怖いだろ。
って思っていた。けれど、それは今まで大切な人がいなかったからの考えで、親しい人の死を見るのが、自分の死よりもっと怖い。 似鳥とはそれくらいになってしまった。俺は似鳥を守りぬく自信もない、これから先も一緒にいるのがこわい。
2:22 お互い一緒にいる未来は考えてたけど、それは想像にすぎないこともわかってた。この学園の環境だからこそ、この関係は仇となるし枷にもなる。 2:28 ふわりと出会って、ふわりと離れて、これが一番最善じゃないのかなあ 2:35 二人ともわかってたから、また一緒にいたいなんて言うこともなくて 2:37 間宮くんが答えを出さないまま、私が間宮くんの気持ちを汲み取って今回は離れるけど… やっぱりちゃんとした答えがほしかったなあ。 3:00 最後にもう一回だけ、間宮くんから言ってくれないかな。    似鳥がかけよって、間宮の前で花吹雪のようになる演出は、似鳥が消えたとかじゃなくて、似鳥に感化された間宮廻の心情。あれほどなんの感情も持たなかったのに、似鳥と長く過ごしたおかげで色々覚えてしまった。
→といって最後にちゃんと似鳥の告白に対して答えを出す。
ここの縮図が一作目の2:03~2:12 2:51~2:57にあります。
二人が出会って離れるとこまでを書きました。 取り急ぎ書き起こしたので誤字脱字すみません!
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zdlmlq · 2 years ago
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肋骨の間に穴があいたような錯覚をする時、私はそれを穴があいている錯覚だと理解しながら塞ぐために手をあてるのですが、その時に両の胸の膨らみがたいへんに邪魔だと感じます。普段、それができるだけ平坦になる下着を身につけるようにはしていても完全な平坦とは言い難く穴を塞ぐように手のひらをあてようとすれば膨らみを避けるように手の形を作らないといけません。邪魔だなぁ、と思うのはその時と、肋骨にいれたタトゥーをみたいときです。鏡でなくそれを直接見ようとすると膨らみを手で潰し動かさないといけません。邪魔だなぁ、を解決するおおよその予算は70万円程だそうです。邪魔だなぁ、は保険適用外なので、除去するために外科的処置を頼む場合そのくらいになる、というわけです。私の稼ぎからするとそれは邪魔だなぁ、と思う日々のほのかな苦痛を取り除くために払うには高い、と感じる額です。
邪魔だなぁ、は保険適用外ですが、邪魔だなぁ、が積み重なって起きる不安やパニックには保険が適用されることが時々とても不思議です。
死亡保険はとても高額で、一年分の収入額程度の保証であっても月々にけっこうな額が積もります。なんというか、それが補償額を上回る前に死ぬ人が多いのかな、と思わせる額です。
というようなことを考えながら、病院を出て歩いている道でなんでこういうことを考えないで済む人生じゃなかったんだろう、とふと思ったら涙が止まらなくなったのが先日の話です。
マイノリティとは、マジョリティが考えなくていいことを日々考える人びとのことである、というようなことが『タイミングの社会���』という本にあって、ふうん、と思いましたが、一年半ほど前でしょうか、アルコール度数の強いお酒を750mlひと瓶一人で飲み切った日に一度だけ、一日中そういったことを一切考えなかった日があり、それは本当に身軽で、すばらしい体験だったので、私はあれがまたほしい、と思うようになってからしばらく、体を壊してもおかしくないかもしれない量の飲酒を続けるようになりました。でもそのすばらしい体験は繰り返されることがなく、ただ飲酒の習慣だけが残りました。これはとても悪いことなのがわかるので、私は時々一定の期間意識して自分に飲酒を禁じます。
禁じることはわりと簡単です。難しいのはほどほど、ということだと思います。
肋骨の間に穴があいたような錯覚が身体にまわりますと、それはすっかり私の身体から私が離れます。その時に私は身体から私が離れてしまったことを意識するのですが、すかすかとした身体を知覚する私とその身体から離れた私は同じ私であるはずで、それなのに離れていることを感じるのはおかしい、と、私はもう知っていますが、それでも私はそれを感じている私を消すことができません。
上記は書き置いて投稿しなかった文章です。この一週間くらいのことでしょうか。
夢の中、病院の待合室のような空間で青いプラスチックの長椅子に横たわり、私の頭は人の膝にのせられていました。友人で、その人の手を掴みな��らわたしは何度も「あなたとは仲良くなれない」と繰り返していました。「仲良くなれたことは一度もない」「わかりあえる気がしない」「それでも私はあなたのことがこんなにすきなのに」と言いますが言葉はすかすかと実感が伴わず、隅々まで本心なのに発音するたびそれは空間の静けさに吸い取られて消えていきました。その場には他の人もいて、私の言葉をその人たちはいつものひねくれた物言いだと笑っていましたが私の頭を膝にのせたままの人はひどく冷たい声でただそれに同意していました。その頷きだけが私の言わんとすることを汲み取っていて、たぶんわれわれはいつもそうです。互いの言うことを適切に受け取っているのでしょう。私が意図して含めた悪意を言葉の型ではそう響かないように慎重にラッピングしてもバリバリとそれを破いて悪意だけを読み取るし、おそらく私はそうしてくれることを信じている。
起き上がった時、空間の嘘でそれは夢だとすぐにわかりましたがやりとりは現実にあったことでした。たぶんわれわれは今後も平然とした顔で何度も顔を合わせるし、同じようなことを繰り返します。いつか完全に話せなくなるまで。でもたぶん決定的なやりとりをすることはないだろうなと思います。壊れないのは壊れるようなものがそもそもお互いにないからです。壊れるより先にすっかり離れてしまったように思います。なのになぜこんなふうに毒だけが残るのでしょう。この毒は確実にお互いに流れているのにたぶんどのような効果ももたらしません。 
それでも毒であることだけは確かです。
くたびれてピアノを流して何度か眠りました。
その日音楽は必要なかった、とギターを弾いてうたうたかぎくんのことをおぼえていて、私はいまのceroが一番かっこいいと思っているけど、それでも狭い場所で、一人で、ギターだけ持ってマイクを通さずにうたうたかぎくんをみていたあの時はそれが絶対のように思えていたことを思い出せます。
私はそういうことをずっとおぼえていられるんですよ。
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patsatshit · 2 years ago
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今日10/10、待ちに待った『トークサバイバー2』の配信日。昨日は0時に配信開始になるのかと頑張って起きていたけれど、30分経っても追加されてこなかったので「板倉さん、今回も即退場、車で帰宅でお願いします」と笑いの神様にお祈りしてから寝た。
そんなわけで今日は一日中『トークサバイバー2』のことで頭がいっぱいだった。我慢できず休憩時間に1話だけみたのだけど、もう…さいっこうに面白かった!!!お笑いレベルもさらに高くなったし、何よりもセットとか演出がより派手になっていて、映画感が増していた!やっぱりNetflixお金あるから…すごいなぁ。ところ構わず笑っていたから周りにいた人は不審に思っただろうな…。ウンウン。
もともとテレ東でやっていた『NEO決戦バラエティ キングちゃん』の「ドラマチックハートブレイク王」という企画が大好きだったので、「キングちゃん」と同じ佐久間(宣行)プロデューサー×千鳥で似た構成のバラエティ番組をやると聞いた時は「おもしろくないわけがない!」と色めきたった。
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↑伝説の大悟さん大遅刻回(画像@テレ東プラスhttps://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2017/013698.html)
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↑私と同じく『夢で逢えたら』に衝撃を受けたことから全信頼を置いている佐久間P。画像@お笑いナタリーhttps://amp.natalie.mu/owarai/news/418295
実際、シーズン1は全話神回と言っても過言ではないほど満足度が高かったし、まさに令和(いま)のバラエティに求めていた「お笑い純度100%」の番組だと感じた。しかも今回はじろうさんやダイアンユースケ、ランジャタイの国崎さんなど前回に増して豪華だし個人的にも好き度高めな芸人が参戦しているので、2話以降も期待値はうなぎのぼり。1週間で全話観てしまうのはもったいないから2日に1話を2回観ようかな……。
さらに、この番組により私は初めてサブスクリプションに登録することになった。今までも疑惑はあったけれど、他人に見せてもらったりセコい方法で観てみたりしていたのでここにきて正式に加入した。
長らくサブスクに登録して映画を観るという行為に抵抗があり、頑なにディスクや劇場で鑑賞する派としてあらゆる配信コンテンツはスルーしてきた。TSUTAYAに行って何を観るか決める楽しみが好きだったこともあるけれど、映画に限ったことでいえばディスクだと画面の比率や色味の調整がオリジナルのままきちんと反映されているので、監督の撮影の意図やこだわりを知ることができる。あと配信だと字幕も変更・削除されていたり(今の世の中にとって適切な言葉に変換する必要があるから⁇)するので、公開当時の表現で楽しめなかったりもする。特典映像も大事。メイキング映像を見て作品の背景が知れたり、演者と監督の関係が知れたりするので、どんなにつまらない映画でも特典映像を見ればある程度の満足感が得られる。これはまぁ…私個人の意見であって他の人からすればそんなにマジ(な気持ち)で映画観るの?って感じかもしれない。That's Right! そうだよね。それも分かるのだけど、やっぱり作り手側の熱意と気持ちを出来るだけ正確に汲み取りたいと思うし、映画は劇場で観るのが一番という、昔は当たり前だったその嗜み(心がけ)を絶やしてはならないと思っているので、映画は劇場もしくはディスクを借りるか購入して観るものだと考えてきた。今もずっとその思いはある。単純にWi-Fi環境が整っていないと画質が悪くなったりするのも映画の内��どうこう以前の問題でストレスじゃない?とも思う。内容に没頭できなかったとかなら仕方ないけれど、画質が悪くて集中できなかった、は最悪。知るかって話。作り手の方々に失礼。作品が可哀想。
だけど2016年に『ストレンジャー・シングス 未知の世界』『フリークス学園』が立て続けに配信されると心が激しく揺れた。これらは当時…何らかの方法で誰かが動画をあげていたので(このことについて詳しく話したくはない。It’s dangerous.)、登録する必要はなかった。
しかし(逆説の逆説)2018年頃にマーティン・スコセッシがNetflix製作で『アイリッシュマン』というタイトルの映画を撮るという情報をキャッチし、再び気持ちが強く揺らいだ。
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↑デニーロ、アルパチ、レイ・ロマーノ(@imdb)。渋アツ面子
なぜならスコセッシは動画配信サービスに対していくつか懐疑的なコメントを出していたし(レファレンスは忘れたが、恐らくVarietyなどのマスメディア)、かれは時流に乗った映画製作ではなく昔ながらの方法で新たな作品を提供することにこだわっていると思っていたからだ。私はスコセッシの少々厄介な映画愛をすごく…貴重なものとして信頼していたし、作品のオリジナリティを大切にする姿勢を尊重していた。だからスコセッシとネトフリのタッグと聞いて、正直どうして世間のトレンドに乗っかっちゃったわけ?みたいな気持ちになった。だがその後あ��記事でその理由が簡潔にまとめられていた。2019年の日記にメモしているので引用する。「以前からスコセッシは(ロバート)デニーロと共に、ジミー・ホッファにまつわる映画を撮りたいと熱望していたが、膨大な製作資金を用意できる配給会社がなかった。当初は大手のパラマウント社が製作権、配給権を握っていたが、演者のギャラやセットの費用などが膨大にかかり、最終的に配給権を手放した。そこへNetflixが1億ドルもの製作費を提案したことで、映画制作は続行され、結果的に成功を収めた」とのこと。スコセッシほどの監督でも自由に映画を作ることが難しくなっているのか…それほど映画産業は落ち込んでいるのか…?とショックを受けた。スコセッシの意向でネトフリで配信される前にわずかな劇場で2週間限定公開されることが決まった。その時私はスコセッシが「この作品はあくまで劇場で観る映画だ」ということを示したかったのかな、と彼の僅かな抵抗を感じ取った。そしてなぜか悔しさみたいなものが込み上げてきて切なくなった。なお、これを私は2度観に行った。
映画産業の落ち込みと、配信業界の脅威。TSUTAYAは次々に閉店し、時代の移り変わりを感じながら私も変わらなきゃいけないのかな…と思いはじめる。
その後、『アイリッシュマン』の配信開始と共にスピンオフ的な作品が配信されたとの情報をみて、私は一度お試しで登録することを決意した。大げさな言い方だけど、私にとっては一大事だ。だってスコセッシとデニーロ、アル・パチーノとジョー・ペシの4人が同じ画面に映る映像なんかみたいに決まってるでしょう!
お試し期間中、Netflix限定配信のドラマ、例えば『ストレンジャーシングス』の続編だとか『フルハウス』などのひと昔前のドラマを見始めたが、映画は頑なにTSUTAYAとAmazonを利用し続けた。気づいたら時が経過していていよいよサブスク登録かと思われたが、月額料金の問題などあらゆる点を考慮して断念した。
その後、コロナ禍を経て近所のTSUTAYA2店舗とよく行っていたTSUTAYA2店舗が閉店し、決意を固めた。『ハートストッパー』などの話題作や『ストレンジャーシングス』の続編が観たかったし、『相席食堂』などのバラエティが全話みれる��そして佐久間Pの新作『トークサバイバー』なるものが配信されるとの情報も得て、いよいよかとNetflixに登録した、というわけだ。
今やAmazonプライムビデオのお試しにも入っていて、『私たちの青い夏』という学生リアル充実恋愛ドラマにはまったしまったし、『Diego』などの限定配信番組、『千鳥のぼっけぇtv』『シャバダバの空に』『野性爆弾のワールドチャネリング』などの昔のバラエティにも手を出す始末。学生時代ならまだしも今動画地獄にはまったらヤバい。アマプラは見送る予定。
スコセッシ情報を言えば今月20日に新作が公開される。これは劇場公開プラスApple tv+で配信される模様。Apple tv+は『ビースティ・ボーイズ・ストーリー』を観るために数回(なぜか)お試し入会したけれどもさすがにもう無理だろうな。映画館で何度も観よう。
話がいろんな方向に飛んだが、とにかく『トークサバイバー2』がアツい。ネタバレはしたくないので何も書かないけれど、がっかりしないオモシロ番組なので沢山の人に観てほしいなと思います!
https://about.netflix.com/ja/news/last-one-standing-2-cast-trailer
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itokawa-noe · 2 years ago
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「叫び」を執筆した経緯について
私の書いたSF掌編「叫び」が、第3回かぐやSFコンテストにて審査員特別賞を受賞しました。
私にとって、かぐやSFコンテストで最終候補に残ること、もしくはKaguya Planetに作品が掲載されることは、ひとつの大きな目標でした。それを上回る結果に驚きつつ、喜びを噛みしめています。
大賞を受賞された暴力と破滅の運び手さん(「マジック・ボール」推し作品でした!)、読者賞を受賞された牧野大寧さん、おめでとうございます。
他の候補作も素晴らしいものばかりで、この10作で最終レースを走れて幸せでした。『新月2』でまたご一緒できることが、光栄で、恐ろしいです。
***
以下の文章は、「叫び」を執筆した経緯について書いたものです。
いったん送り出した作品については、あまりコメントしないようにしています。作品の陰から糸川という人間が顔を出したところで、ノイズになることはあっても、プラスに作用することはない、余計なことはしゃべらず黙っとこ、という考えです。
今回、例外的にやってみようかな、という気になったのは、過去の二度のかぐやSFコンテストの際に、最終候補作の著者の幾人かが思考の過程をブログなどで明かしてくださったことを思いだしたからでした。それらの文章に、その向こうに覗く生身の人間のすがたに、技術面においても精神面においても、大いに助けられてきた。その一つひとつをふりかえっていたら、自分もなにか書いておきたくなりました。
長くなりますが、よろしければお付き合いください。
ーーー
・テーマ「未来のスポーツ」への率直な感想:
お題発表を受けての率直な感想は「むり」でした。
スポーツは苦手です。興味も、あるかないかで言えば、ありません。
なんとか書けるかもしれないのは、経験のある水泳、持久走、バスケットボール?
あるいは(ここ数年の自分の関心事項のひとつが「人間以外の生き物との共生」なので)動物が関わる流鏑馬、乗馬、競馬、ドッグレースあたりならば、興味が持てるかもしれない。
そんなところからネタ出しをはじめたのですが、良い案が浮かばず、足踏み状態がつづきました。
ちなみに、オリジナルの競技を作ることについては、考えもしませんでした。4,000字の尺のなかにルール説明から競技シーンまでを収めるのは技術的に不可能だと思ったからです。この難題に果敢に挑んだ作品のひとつ「城南小学校運動会午後の部『マルチバース借り物競走』」の読者賞受賞は、嬉しく、気持ちのよいものでした。
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・「かぐやSFコンテスト」という場をふまえて:
「私たちは、”世界の人々に読まれる”という前提でSF小説を書いてもらうこと(略)で、日本のSFを更に前進させていきたいと考えています。」
コンテストのステートメントにあったこの言葉を、私は以下のように解釈しました。
「もしも世界中のひとと対話ができるなら、なにについて話したい?」
わくわくする問いかけです。遠くを見ようとすることで視野が広がり、ふだんの自分には書けないものが書けるような気がしてきます。
伝えたい、とか、訴えたい、とかではなくて、意見を交換し、語りに耳を傾けあい、それぞれの日常に戻ってからも考えつづけたい。そんな、私たちみんなにとって大切な話題ってなんだろう?
ただ、これに拘りすぎると、おそらく作品が押しつけがましくなってしまいます。
あまり意識せず、だけどふんわりと頭の片隅に漂わせておく。そのてい��に留め、モチーフやテーマを探しつづけました。
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・はじめに書こうとした話:
デザインド・アスリート(競技をするために遺伝子操作で作り出された強化人間の意。造語)の女子短距離走選手が、事故によって心身に傷を負う。乗馬療法を受けるために訪れた牧場で、彼女は、今は存在しない競馬という競技のために作られた、サラブレッドという種の馬と出会う。役目を失い絶滅危惧種となったサラブレッドと交流するなかで、その姿に自分自身を重ねるようになり……
という話を考えていました。
ざっと書き、捨てました。
これじゃ、馬が人間を描くための道具になっている。
ーーー
・馬を描くなら馬の話を:
人間を描くための道具として、馬を使いたくない。そう思ったのは、私が日頃から人間中心主義を居心地悪く感じているからです。馬を出すならば馬の話を書こう。そう決めて、最初の案はボツにしました。
でも「今は存在しない競馬という競技」という切り口は、悪くないかも。その世界の競馬は、どうしてなくなったのだろう?
答えを探しつつ調べものをしてゆくうちに、徐々に「叫び」の原型が定まってゆきました。
人間を描くための道具として馬を使いたくないと書きましたが、馬を描いたことで人間の話にもなるのは、大いにありです。
結果的にはそういう話が書けたのではないかと思っており、また、感想のなかにもその部分を汲み取ってくださったものをみかけ、ありがたいなあ……と頭を下げました。
ーーー
・馬をどう描くか:
おおまかな形が定まってからも、考えることは尽きませんでした。
もっとも大きく、かつ根本的な悩みは、「馬と人間の関係」や「馬(をはじめとする動物)の倫理」というテーマの難しさでした。
この複雑で繊細な問題を、資料から得た知識しか持たない自分に扱えるだろうか。馬の関わる産業と文化を、覚悟をもったうえで馬とともに生きている人たちを、ただ雑に批判することになってしまわないだろうか。
また、語るための言葉をもたない相手の声を都合よく捏造して「代弁」するのは、暴力的な行為でもあります。
馬という、おそらく人間とはまったく異なる形をした心をもつ存在を、人間に寄せた形で描くことが、このテーマを扱う上で最適な方法だとも思われない。
にも関わらず書かずにいられなかったのは、改めて資料にあたればあたるほど、前々から気になっていた馬と人間の関係の不均衡性から、いよいよ目を逸らすことができなくなっていったからです。
人間とともに走ることを愛し、競走馬として生きることに幸福を感じる馬も、もちろんいるでしょう。
けれど、かれらの陰ではデビューに至らなか��た馬や引退した馬がモノのように処分されている。その数は、日本だけでも年間七千頭と言われています。競走馬として脚光を浴びた馬であっても、レース中や調教中の怪我が原因で安楽死させられるケースは跡を絶ちません。過酷な日々を通じて身体に蓄積してゆく負担の大きさゆえに、寿命も短くなる傾向にある。
この状況を「そういうもの」として見過ごしていいのか?
私には、そうは思えませんでした。
馬と言語によるコミュニケーションをとることが現実的に不可能である以上、その「声」は想像することしかできません。それは代弁と紙一重の危うい行為であり、どこまでいってもエゴの域を越えられない。それでもなお、そういった試みがまったく存在しないよりは、マシなのではないか。少なくとも私自身は、一度作中で扱った問題に対して無関心でいられなくなる。ひとりの人間を変えることができるのであれば、その物語は、書くに値する。
こういった思考のすえ、「叫び」を書くことに決めました。
「叫び」は、馬と人間の対話の、単にひとつの可能性にすぎません。まだまだ、もっともっと、他の可能性も見てみたいです。作品としても、作品の外でも。この掌編がそのための呼び水となるのであれば、本望です。
ーーー
以上が、私が「叫び」を書くに至った経緯です。
「未来のスポーツ」というお題と真っ向から向きあったというよりは、テーマを足がかりに自分の書きたいものを書いた。それが率直な実感です。
このお題がなければ書けなかったものが書けたし、今の自分にできることを全力でやりきった。その点では満足していました。
でも、これじゃ受賞は無理だな、とも思いました。大賞や読者賞にふさわしいのは、もっと正面から未来のスポーツを描いた作品です。
だったら、「最終候補入り」は?
それならば、ひょっとしたら、あり得るかもしれない。
ふたを開けてみるまではわかりませんが、なんとなく、応募作には人間の競技者を主人公とするものが多いのではないかな、という気がしていました。
もしも最終候補に残った作品がぜんぶ人間の話だったら?
それよりも、9人の人間にまじって馬が1頭走ってる眺めのほうが、なんかよくない?
そんな光景が見たくない?
最終候補作が発表される前の数日は、そんなことをぶつぶつ言って、自分を奮い立たせていました。
が、いざ「叫び」が選ばれたと知ると、やってきたのは驚きでした。
ひとしきり騒いだあとで、じーんとしました。
あれを? 選んでくださったのですか? 未来のスポーツというテーマで? 本当に?
審査員方々の懐の深さに打たれ、清々しい敗北を喫したような、おかしな気分になりました。
それだけで十分に嬉しく、ありがたかったのに。まさか審査員特別賞という賞までいただけるだなんて。
審査員を務められた磯上竜也さん、井上彼方さん、岸谷薄荷さん、佐伯真洋さんは、いずれも作品や活動を通じて一方的に存じ上げている方でした。読み手としてだけではなく、人としても信頼できる方々。優しく誠実であろうとするがゆえの、シビアな目をお持ちの方々。そのようにお見受けしていたため、この4人に作品を読んでもらうのか……と思うと、わくわくするのと同じぐらい、胃が痛くなったものです。
選評を読む際は、緊張しました。
すべて読み終えてから、手紙みたいだ、と思いました。全力で書いた手紙に、全力のお返事をいただいた。そんな感覚です。
尽くしてくださった言葉から、「未来?」と戸惑い「スポーツ?」と疑問符を浮かべつつも、作品の声に耳を澄ませるようにして読んでくださったことが窺い知れ、「叫び」の肩をたたいてやりたくなりました。よかったねえ、こんなに真剣に、大切に読んでもらえて、お前は幸せものだねえ、と。
また、期間中の感想にはレギュレーション違反を避けるために反応できませんでしたが、みつけられたものはすべてスクショを撮り、何度も何度も読み返しています。
審査員のみなさん、読者のみなさん、読んでくださり、感想を言葉にしてくださって、本当にありがとうございました。
受賞はこのうえなく幸せなことです。
が、終わってしまえば、これもまた、ひとつの通過点にすぎません。
『新月』では何を書こうかと、今はそれで頭がいっぱいで、すでに胃がキリキリしはじめています。
ーーー
最後に。
冒頭にも書いたとおり、私にとって、かぐやSFコンテストで最終選考に残ること、もしくはKaguya Planetに作品が掲載されることは、ひとつの大きな目標でした。
Kaguyaにこだわる理由はたくさんあります。
そのうちのひとつが、Kaguyaは物語の力に対して自覚的な人たちが集まる場所だから、です。
SFには未来を引っぱってくる力がある。そのSFのための場を作る人たちと、そこに集う人たちの多くが「誰の足も踏まない」という意識を共有していることに、大きな希望を感じています。
その一員でありつづけられるよう、いっそう精進いたします。間違えることだらけの未熟な人間ですが、これからも見守っていただけますと嬉しいです。
ーーー
〈補足〉
作中にマヌエラという人物が登場します。説明不足で伝わらない部分があったようですが、私は彼女を女性として書きました。(「マヌエラ」は、女性に多くみられる名前だと認識しています)マヌエラとエバは、レズビアンのカップルです。
SFを書く際は、現実の社会にふつうに存在しているのに透明化されがちな人たちを「なんの必然性もなく」登場させるよう心がけています。善良でもなければ悲運を背負わされるわけでもない、ただふつうに生活していてふつうに恋愛をしてふつうに破局したのであろうふつうのカップルとして、二人を描きました。
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manganjiiji · 2 years ago
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沙羅沙羅
肉体が限界を超えて、破壊され、また再生されようとしているため、痛いし、きつい。これこそが労働の喜び。さて、新しい仕事が始まっています。オー。圧倒的。強襲される、という表現でもってあらわしたいくらい、息つく間もない現場で、非常に自分に合っている。こうでないと生きている気がしない。前職を1ヶ月で辞めたが、それはもう逃れ得ないことだったと思う。死んだ気持ちで働くことに意味がない。勤務初日からコロナ(2年半ぶり2回目)で5日間出遅れたが、なんとか最初の1週を越えた。まあ、なんとかなるような気がしている。フリーターとして新しい職場に入っていくのももう10箇所以上をゆうに超えていると思う。新人としての振る舞いだけは自信がある。それ��もだんだん気が抜けてゆるくなってきている、慣れとはすごい。今度の職場はとにかく同僚の数が多い。色んな人がいる。可愛がってくれる人が多い気配を察知してかなり喜色満面(気持ち悪い表現だ)である。歳も歳なので後輩指導に当たることも増えてきた昨今だが、最初は自分が後輩として甘やかされるのでスーパーミラクルご褒美タイムだなと思う。これがおそらく数ヶ月でもう次の後輩に教える立場になる。外見年齢と実年齢に乖離があるため最初はとにかく若者として可愛がられるのだが(8〜10歳程度の誤差がある)、そのうち段々実年齢がばれてくるので、その辺りでやりづらく感じる周りの人も出てくるであろうが、その頃には私も実力でもって先輩たちに並んでいないとな〜と思う。あまり今から考えているのもよくないが。若い人の多い職場であれば、社員側の事情を汲んでそちら側の思考もできるフリーターというのはまあまあ何と言うか、社員と妙な親近感というか連帯感ができる。自分ももうそちら側に行かなくてはと思う。フリーターとしてはこの職場で最後にしたい。体力の問題と持病がなければ、正社員として働く道もあったのかもしれないが、この体と頭ではそれは夢のまた夢でしかないので、ただただ駒として動くことを楽しむに留める。とにかくどんな仕事も嫌がらずに食らいついていくこと。生まれてからそれしかしてこなかった気がする。そもそも別に嫌な仕事というのは私にとっては無い。人の反応を見ていると「面倒くさい仕事」「気が滅入る仕事」「疲れる仕事」というのがあるようなのだが、私は仕事の種類によって忌避感をいだくということはたまたま無いので、何でもできる。優秀という意味の「できる」ではなくて、単にやることができる、着手できる、嫌がらずにできるの意です。駒としてのフリーターにはこの能力がけっこう重宝する。肉体労働も金勘定も接客も単純労働も、どれもこれも特に嫌だと思ったことがない。やればできる。間違えたらやり直す。スピードを求められるのはやや苦手かもと思っていたが、実際のところ、スピードは慣れればあとからついてくるので、あまり気にしなくてもいいのである。そして慣れるまでは急かされても急がなくて良い。そんなことより正確にこなすことが遥かに重要だ。まずもって何事も「正しく」行えない人間は、その後に続く行いもすべて破綻する。
みなさんの長らくの応援とお祈りの甲斐あって、障害年金の申請が通ったとの通知が来ました。これでなんとか生きていけると思います。給付はまだ先のようだけど、とりあえず通ったよということで、心から安堵。ありがとうございます。アルバイトで週4×7時間が限界の身にとって、単純計算で月の収入は最高でも10万程度なので(実際には病欠するためそこまで行かない)、そこに障害年金��加わってくれれば、どうにか、生活(家事)を維持できれば1人で生きていけるかなという感じです。長かった道のりですが、ようやく私も大人としての一歩を踏み出したのかもしれないと思います。
5年分の遡及でどのくらい貰えるのかは分からないけれど、通信制大学で福祉職の資格を取るための勉強をするという夢も現実味を帯びてきました。なんとなく人生の先が拓け、希望が見える。感謝であります。20代から30前半まではとにかく働くことで生き延びようと足掻いたけれども、そしてそれは破綻していたけれども、それでも働くことで生計を立てたいと願って奮起した日々も、それはそれで糧になっていると思います。最初から障害年金をもらいつつ無理のない範囲で働くよりは、1日13時間以上2つの職場で働いて、週休0で、ゲロ吐き散らかしながら筋肉を破壊し続けるという青春をやりたいところまでやったからこそ、今こうして落ち着けているんじゃないかなと思う。
勉強、読書、小説などの趣味は一旦すべて停止し、あんすたを数日おきに叩くに留まっている。とにかく仕事に慣れるまではこの嵐のような(体の痛みに呻く)日々が続くことでしょう。やりたいことは多けれども、実際にやれることは少ない。満足など到底できないが、それでも生きていくより他にない。最近はどうにか熱中症にならずに済む日が続いている。とにかく日中は外に出ない。朝出勤する時も夕退勤する時も、必ず帽子、日傘、サングラス、アクエリアス(2倍薄め)を徹底し、夜寝る時は24℃で毛布をかける。体力が向上すればさらにもう少しましになるはず。ポケモンスリープは2時間ごとの睡眠や、休日の寝ては起きるスタイルにまったく合致できなくて時間が勿体なく感じられてきたので、もう消してしまった。続けて6時間寝ることが絶対にできない体質の人間には、睡眠結果を見てさらに疲労を感じるのでおすすめできない。2時間細切れではなく、6時間続けての睡眠ができたら楽だろうなと思う(その体力がない訳だが)。これは使っている抗うつ薬が強力であることも関係していると思う。薬を減らしたりやめたりできれば、きっと眠れるようにはなると思うが、果たしてそれをして生きていけるのかの自信はない。再発が非常に容易な病気のため、減薬は現実的ではない。もちろん、自分の体のことなので、それでも減薬したいというなら協力するけれど、とは医師に言われている。今のところはまだこの10年続けてきた処方を変える勇気は出ない。まだもう少し生きなければ。次の目標は自炊回数を増やすこと。
2023.7.25
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blue-aotan · 2 years ago
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ハロー(´ー∀ー`)2023.7.8
7月になってしまいましたね!
大雨続きでしたが今の所被害はなく安全に暮らせております。梅雨はまだ明けてないので今後も警戒していきたいところです。
さて、久々に私の愚痴でも聞いていって下さい。
(唐突w
(大体愚痴しか言ってない←
3月末に髪を切り、それから3ヶ月が過ぎて結べる長さまで伸びてきていい加減切りたいところなのですがとあるババーがついこの間
「全然髪伸びてないね!もう切らなくてもいいんじゃない!いいわね!」
とか言ってきたんですよ。しかも別日に同じ事2回も言われてさ←
その度に「いや、伸びましたけど?」「もう結べる長さになったし」って抵抗していた私です←
(どんだけクソババー嫌いなんw
髪伸びたとか伸びてないとか正直どうでもいいのだけどね。他人の髪とか気にしないしどうでもいいよねー。
それがさ!髪結んで行ったらそのババーが
「ついに髪結んだね!伸びたね!」
って言ってきたんですよ。
いやあんたついこの間全然伸びてないやん言っとりましたがな←
何回もしつこく言ってきたやないかい←
これがクソババーの生態なのですよ、奥さん。
何が言いたいの?という気持ちをぐっとこらえ
「ハハハ(・Д・)」
と乾いた笑いをした私です。
クソババーはね、こっちの対応とか言動とかまず気にしてないし聞いてないのよね。
ただ言いたいだけみたいな感じだし、思ってる事吐き出せたらそれでオッケーなんよ。
でも聞いてないし見てないくせに、自分の思い通りにならない態度とか取ったらすぐ怒るんですよ。
いやーー本当に不快な生物ですねぇ。
引き続きヒト科ヒト属クソババーの生態を観察していきたいと思います!!
現場からは以上です!!
話は変わりまして、最近見たドラマや映画のお話。
まず、今更ながらドラマ「JIN」を見ました。職場のババー達がめっちゃ面白いよ!!って言ってたので見たのですがそこまでハマらず…
シーズン2では早く終わらんかな…と思ってたよね←
ただね、昔の人がこのドラマのような感じだったとしたら。
昔の人はなんて意志が強くて、ひたむきなのだろう…って感動しました。
現代って私が考えるに、SNSの普及によるものかはわからないけど誰かの目にどう映るかに重点置いてて映え重視みたいな部分があると思うんですよね。
承認欲求とも言われるけど、そこに自分の意志や個性はあるのだろうか…って疑問を感じてしまうのです。
かと言って少数派の意見も取り上げられやすく、人と違う事をしている人にも称賛を送られる事が増えたようにも思います。良いことではある反面、ただ単に人と違う事を言いたい・したい人も増えたように感じたり結局中身ないなーと思ったりします。
でも昔の人って家の為に!とか他人の目とか関係なく志高い人が多��ったのかなと思ったり(ドラマのキャラしか分からないけどw
誰にどう思われたいからこその言動とかではなく、はっきりとした自分の意志を持っていてそれは人から見られていなくても軸のブレない気高さがあって。
でもそこは決して自分本位ではなく、誰かの為にという思いが芯にあるのです。
綾瀬はるかの片想いが何と美しい事か…片想いなんて言葉じゃ軽すぎて、片愛なんです。
(なんだそれ
なんかもう愛なんですよ。
愛だろ、愛。
(古いわw
「誰かの為に」の精神って、ロードオブザリングで旅の仲間みんなが「フロドのために」って命をかけるその心に通じるものがあるよね
(ロードオブザリング教の信者かな
報われない想いを抱えて生きていくってつらく苦しいけど美しいとも思うし尊い気持ちもあります
(現実では報われたいけど!自分なら茨の道は歩きたくない!笑
あとは「マシニスト」って映画を観ました。
何故かこの映画の鳥のポーズだけが鮮明に脳裏に残ってて、一度も観た事なかったのよね。
主人公のクリスチャンベールがこの役の為に30キロ痩せて挑んだらしいんだけど、まぁーーガリガリ。
まじで別人。
この命の危険を感じる痩せ方、役の為とは言え鑑賞者にも「大丈夫?」って心配されるであろう骨と皮なのである。
そしてこの主人公は1年間も不眠状態にあり、度々寝ようとするんだけど何かしらの邪魔が入ったりして(後々に幻覚ってことがわかるんだけども)眠れないのよね。
最後に眠れない原因・主人公をとりまく周囲の人との関係性・謎の人物など全てが解明されるんだけど。
はっきり言って鬱映画だよねー。
私としては最後これで眠れる…ってなった時に、何とも言えないモヤモヤな気分になったよね。よかったね、とも思えなかったしずっと苦しむべきだとも思ったし故意ではなかったとしても…被害者の方がやっぱり苦しみが深いのではないかと思ってしまうよね。
それと「キャビン」見返して、デトロイトビカムヒューマンのマーカスが出てて
ええ〜!?マーカスイケメン!しかも体鍛えててかっこよ🫶ってなったよね。
そして春ドラマ「あなたがしてくれなくても」
原作が好きで買ってるんだけど、ドラマは最終回が本当に本当に面白くなさすぎて原作とは別物だったから見なくてよかったのでは、、となりました。
原作のね、陽一のクソさが薄れてたしなんか報われちゃってるし。新名さんはドラマではただのストーカーだったし、あんなこだわり強い執着心の塊みたいな男性じゃないんですよね。全然新名さんじゃない!
そして楓も全然楓じゃない…あれはただのみな実😂
主人公がただ一組の夫婦を壊して自分は元サヤエンドみたいなの、私は本当に許せなかった←
1人で生きていくとか言ってたくせに結局陽一やないかい。何それ(・Д・)せめて新名とくっついてよ。じゃないとみな実が1番可哀想←
原作の細やかな描写があってこそのストーリーだと思うのですよ。
あの原作の繊細な心の機微をドラマで描こうとするのはやっぱり無理がありますよね…
とても残念でした。
話題かわりまして。趣味についてですが…
私がもう12年ほど前から推してる2BROさんについて少し語りたい事があります。
私は今年で動画・配信活動10年になるのですが、その趣味��始める前から弟者さんのファンでした。
数年前からか、三浦大知さんとお友達になりよくコラボするのを見かけますが…
三浦大知さんはね、今から12年くらい前に友人が好きでそれに便乗してライブやら握手会やら行ったことがあってその時にとてもいい人柄だなーと思ったのですよね。
で、弟者さんと三浦さんが初コラボした時はよかったのですが、最近のコラボはあまり好きじゃなくて←
三浦さんのゲーム実況スタイルというか、話し方が私はあまり好きじゃないんだな…って思いました。
三浦さんが弟者さん大ファンでお近づきになったみたいだけど、今では当たり前なんだろうけど慣れすぎてて2人でゲームやってるのに三浦さんが舵を取ってる感があって…ちょっと苦手なんですよね😓
私は信者とかではないけれど(自分ではそう思ってるけどw)三浦さん主導になっちゃうコラボならあまり見ないかなーって何かモヤモヤしてしまいます😶‍🌫️
2人の関係性とか周りがあれこれ口出す事じゃないけど。それも感じ方は人それぞれだと思うし。
細かい事を言えば、「あーはいはいはい」とかはいを2度以上言う人があまり好きじゃない←
(これは話し方の好みの問題
失礼って思っちゃうし、上から目線に感じるのは私の価値観・捉え方なのでしょう。
現実でも「はいはい」って言う人結構いるけど、この人達からしたら相手の思いを汲み取ってますよという思いやりの精神もあるのかもしれませんが。
2BROうんぬんより、別の問題でしたね笑
自分はゲーム実況もするけど、ゲーム実況をよく見る人間でもあるので…かと言って色んな人見たいとはならないんだよね。
好き嫌いが激しいので12年も見続けるっていうのはそれだけ私にとってストレスのない配信者で、考え方に共感したりその人そのものへの興味が途切れないって事は人生でそうあるものじゃないと思います。
(私は無名ではあるけど)ゲーム実況者が他のゲーム実況者の事ってあまり言わない方がいいってどことなくそういう節度みたいな部分あるけど。
たまにはね…いいかなと。
「あまり言わないこと」繋がりでお話をもう一つ。
いつか…いつかこの話をしようと思っていたけど、なかなか口にする事ができなくて正直今も話すべきかどうかよくわかっていません。
私が仲良くしてもらっていたトミさんのお話です。
トミさんは私が動画を始める前にオンラインゲームで友達になった人でした。すごく真面目で優しくて、私が失礼な事を言っても笑って許してくれて何よりも私という人間を無条件に肯定してくれる存在でした。
動画ではよく下僕とかぞんざいな扱いで少しポンコツなトミさんにイライラしたり笑
私がやりたい放題してもとにかく穏やかで。
たくさん色んな話をしました。
人生の先輩であり、色んな相談やしょうもない話まで…気づけば約7年くらい経ち私は本当にたくさん元気づけてもらったり励まされたりしていました。
ですが今から4年ほど前のある日、トミさんは私の前から去っていきました。
トミさんを責めたい訳じゃなくて、そういう風に捉えてほしくないのですが
私はその事を酷いとも思っていないし、理由はわからなかったけど…もしかしたら私が何かしでかしたのかもしれないし笑
今となっては自分のせいとも思っても仕方がないというか…トミさんが決めた事だし、その裏には色々理由があったかもしれません。
私はただ、感謝の気持ちの一つすらも言えなかったので。
10周年記念動画にトミさんありがとうって気持ちを込めました。
当時はめちゃくちゃ自分を責めたし、何より辛くてこの話はできませんでしたね。
今はトミさんが地球のどこかで、穏やかに笑って過ごせていたらいいなと思います。
私が何かしでかしていたらそれは本当に申し訳ないけど←
私はずっとトミさんを応援します。
そんなお話でした。
何年もずっと続いてきたものが、この先もずっと続く訳ではありません。
人間関係も考え方も日々変わっていくし、自分が大事にしたくても終わりが突然きたりすることがあります。
自分にとっての大切なものについて、考えさせられながら…自分も大事にしていきたいですね
( ˊᵕˋ )
真面目か!!!
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crydayz · 17 days ago
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250611 OVERLAP #3
うお...2007年時点の私、赤ずきんの絵に
「Little Red Riding Hood with Butterwolf」ってタイトルつけてたんか。今、過去駄文漁ってて判明したので反映した
バターウルフ。バター犬の進化形ってわけね、うーん...全く覚えてなかったが、最高じゃあないか
いつからこういう駄文を書いていたか
遡れば、WEBで人が読める形で公開したのは2006年からだ
当時は一部の知り合いにしか見せていなかったけど
久しぶりにローカルにある旧・裏サイトのログを観て「これは」と思ったものをいくつか載せておく
----------------------- 【ハウル】
ハウルの動く城の呪いの意味が分かった。
歳を取る、のは、 保守的で夢の無い事を考え、思う時なんだ。 つまり、生きる事を、前に進む事をやめて、ここでいいや、 って思う時、人は老人になるという事を云っているんだ。 だから、物語が終わっても、呪いなんか解けるわけない。 あれは、皆が、世界中の皆が等しくかかっている呪いなんだから。 それが、目に見えているか、いないかというだけなんだ。 ただ、彼女はそれが目に映るぶん、幸福だ。 ハウルの為に、積極的に行動すると、容姿は、美しくなる。 「ハウルの為に、美しくありたい」という思いは、 そのまま、前向きな行動に結びつき、必然、姿は美しくなるのだから。 美しくあろうとする心が、容姿と結びついた時、人は本当に美しくなれる。
表面だけ美く、内面は死んだように歳を取っていくなんて、 まさにあの魔女の姿じゃあないか。 本当に悲しいのはそういう事だ。
眠っている時に少女の姿に戻るのは、眠りとは 「夢の世界を生きている時間だから」という事の比喩ではないのか。 白髪まで黒髪に戻っているからそれとは別の理由かも知れないが、 でも、そう考えるのは邪推だろうか。
現実で、ずっと前向きでいようとなると、 もの凄い冒険をしなければいけない時が出てくる。 前向きで積極的な行動は、必然「賭け」が生まれるのだ。 そしてそこを生き延びられるかどうかは「運」も含めたなにかだ。 だけど、運を掴もうという姿勢、集中力は、ハナっから あきらめてる人間には見えない、とんでもないチャンスを 見つけるカギになる。
人は心だ、と。 心のありようが美しさを決めるのだ、と、 あの映画は云っている。 俺はそう捕えた。
2006/12
----------------------- キレジェットラム創膏レポート(グループ展):コンセプト
ハンパなく楽しそうなイメージにする。 連日連夜超満員? ではないにせよ、ああ、俺も、私も、この時間に参加したかった。 同じ時間を過ごしたかった(今度こそ行こう!!)。 行った人は、行ってよかった、そうそう、こんなだった。 ああ、あそこで感じたよりも、今こうして見ると、より、「あの時間が 価値あるものだったことが分かる」こう思わせるのが目的。
ぶっちゃけそんな価値なんかない。 でも、「そう思わせてしまう」よう演出する。 そういう説得力を持たせる。演出の力で、そう思わせる。 記憶を美化させ、そして参加しなかった人達に、興味を、 「うおぉ、凄そう!!」という興味を。 それを抱かせ、RakGadjet、及びキレジェットラム創膏に 注目、執着し、憧れてもらうのが目的。
久しぶりにキレジェットラム創膏のコミュを見たら、 誰も画像上げてない… まったくやる気ないな… 来た人間達の気持ちも、ログを見て感動するであろう人達の ことも、スルーか… 誰もログを作らないとは。 呆れる。 俺はゲストだ。俺がログを作るのは自分のためだ、 自分が使った時間のため、自分が準備にかけたお金のため、 (お金とは、時間と限りなく同義だ。 プロは時間と能力を費やし金に変換しているわけだから) なんとしても価値ある記録、人々にとって価値ある記憶に 変換しなければならない。 だが、参加者誰一人そういう気持ちが無いな… 小さなイベントだからだろうか? どんな下らないことや、どんなささいな事も、感動や、興味、 人生の成功、人々の幸せに繋がるってことが、いまだに理解できて いないのだろうか。ま��、そうなんだろう…
さて、ログを作る上での、必要素材だが。
俺がまとめるログだから、俺が準備、演出、構築したものが メインになるのは当たり前だ。これは、キレジェットラム創膏の 代表としてのログではなく、あくまでゲストJNTサイドのログだからだ。 俺は主催では���い。 トラコ君にはあとでトラコ版ログを公開してもらわないとな。 そうでないと俺が主催ぶって立場奪っているかのように見えてしまう。 なんとしても彼にはログを作ってもらわないと。
雰囲気は、キレジェットラム創膏のパンフだ。 パンフがあったとしたら、どんなだったか? 会場が白かったから、それの真逆の黒だ。 ベースは黒。 あの会場でそのパンフを見たとしたら、凄くコントラストが きいて映えるしな。 また、パンフに会場写真を載せた場合も、同じことがいえる。
曲、お祭りテイストのをトップに置き、まず、 再生してもらう。
「曲 を お 聴 き 下 さ い 。」 &、再生アイコン。 目立つように、でも、品よく、そして、曲の雰囲気 "月がとっても青いから"のテイストと組み合わせて いい感じであり、なおかつ、テクノエッセンスも入れる。 クリッカブルマップでスイッチ部分にリンクを貼る。
展示品:
入り口に設置していたDNA採取装置(ガムテープ) あれをトップに置こう。 再現するため、もう一度作る必要があるな… 髪の毛もくっつけて…(めんどい
あとは、以前考えていたレイアウトの通りに組んで、 完成。
参加者達の顔をドアップで載せる計画は、 マツケイ君が顔出しアウトって云ってたから ボツだ。
mixiに載せる時のログ紹介文章を考えろ:
まず、題。 んー… 「イベントログ」 誰がみるかそんなもん…
祭り、でもないしな。
誰がターゲットか?????
んー… ぶっちゃけ、会場に来た人達や、仲間達のことは どうでもいい。 大事なのは、「あ、実際に展示とかしてるんだーへー」 って、RakGadjetは知っていてもあまり追い掛けていない、 業界の人達に向けたものにするのが、mixiで紹介することの 意義だろう、俺の場合。
と、なると、だ。
題:こんなのやりました。
だな。 うん、こんな事もやってるよ、と。 控えめだが、興味をそそる。
大事なのは俺はゲストって事。 本文にはそこをきっちり。
題:こんなのやりました。
写真: たのしそ~な写真(小さくてもそれがわかる)、3点。
本文:
昨年末 知人トラノシュウ君のグループ展がありました。 JNTもゲスト参加しました。
たった3日の開催期間、狭い空間、そして限り無く準備期間ゼロという 状況のなか、いかに「いい時間」をつくるか。 必死に考え、テンション上げ、練り上げた結果、
「 ム リ 」
という結論が出たのです。
そこで、テーマを決めました。 テーマは「失敗」。
全力で失敗する!! これはオナニーなんだ!!!! この滑りっぷりを見ろ!!!!
その結果僕の展示スペースの床には丸まったティッシュと 食べ散らかしたどんべえが散らかることになったのです。 そういう事です。
それをあたかも楽しかった出来事のように錯覚するような レポートをつくることが、はなっから僕の目的でした。
でもそんな事は忘れて、どうかピュアな気持ちで キレジェットラム創膏 REPORT RakGadjet edt.
どうぞお楽しみ下さい。
☆ こ の あ と す ぐ !
(アドレス)
ってとこか
で、ログなんだが、なんか、見終わったあとの付加価値。 なんか欲しいよね。
2007/02
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絵を描く人間は、 絵の残酷さを知っている。絵の地獄を見ている。 それは、表装の残酷さ、エグさなどでは無い。 そしてそれを経て分かるのだ。 心が真摯で無ければ、あるいは心の歪みに対しても 真剣でなければ、本当にいい絵、本当に厭な絵は 描けないということを。 中途半端はやめてくれ。心の言葉を、 心を研ぎすまして俺にぶつけてくれ。
2007/01
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嫉妬は走る原動力に昇華。 やがてライバルの見た地獄を知り、尊敬を知る。 想像を超えた地獄に、昔描いた理想のビジョンは歪みかける。 幾度となく他人の中に見る過去の自分(あるいは未来の自分)。 その度自分が、かつて嫌悪していた存在そのものへと 変化している事に気付き、築いた技術と理論を捨て去り心を 修復する。
ボロボロになった心のハードディスクに残ったいくつかのプログラムは、「好き」「気持ちいい」「嬉しい」
この要素が守れない世界なんて、いらない。 消去法&俯瞰&客観視&立場逆転の計算を幾度となく繰り返し 残ったものは、それだった。
2007/01
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心の回収作業: あるイラストや、設定を誰かが見て、 イイ、と云ってくれたり、 そのイラストのキャラクター等を摸倣して描いて くれたら、それは、ファンコール。則ち、 好き、という気持ち。
今度はその人のイラストや、コメントの特徴を回収して 絵を描いたり、コメントを返す。 つまり相手の「好き」を受け止め、自分の中にその「好き」を 取り込んだことを体現する。
これが心の回収基本スタンス。
「心の回収」と俺の中では呼んでいるが、 一般的には、「人の心を汲む」となるのであろう。
本当に好きになってもらうためには、とにかく相手の「好き」を 受け止め、自分の中の要素と混ぜ、相手に返す。
これの積み重ねが、好きを作っていく。 嬉しい、を作っていく。 信頼、尊敬、を作っていく。
2007/01
----------------------- 【所感】
うん。まあ基本は変わってないんじゃないすかね
同一人物ですからね、そりゃ。テセ���スシップ循環したとしても
【✓】
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yamanaka-lab · 1 month ago
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2024建築レビュー#4
建築レビュー#4(設計者:Manthey Kura) 発表者 :長谷川 (M1)
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マンタイ・クラという2人組建築家ユニットは、ノルウェー出身のベアテ・ホルムバックと、スウェーデン出身のペール・タムセンによって2004年に設立されました。
両名がその優れた芸術的業績に対し���スウェーデンのプリンス・オイゲン・メダルを授与されています。
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彼らの創作のテーマは、つくること(making)、そしてどのようにつくられるかを探求するということです。
物語(フィクション)を契機とし、素材、言葉、図面といった現実によって構築します。
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“文章の世界では、何が語られたかを知ろうとすれば、言語を共有するほかない。
ところが建築はちがう。
建築の媒体は物質であり、作品の物理的性格が人の直観と身体に働きかけ、知性に訴える。”
Paper Architecture  
― 建物を構築する代わりにフィクションを構築する
プログラムの決定
図面と模型をこしらえ、時に文章を添える
01. Virginia  ―Paper project 
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ヴァージニアシリーズでは、文学上の女性キャラクターを題材にした 4つのプロジェクトで構成されています。
今回はそのうちの2作品を紹介します。
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『母と子のための家』
母と子の絆、保護と支配の間にある曖昧な境界線を扱う。
計画における唯一の法則は、
生来愛し合う2人の関係の複雑さである。
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母と子が最も近づいたところで空間が行き止まり、ベッドが置かれている
2人のベッドは隣り合っているが、厚さ150mmのコンクリート壁で隔てられている
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図と模型、そしてわずかな文章から、様々な物語が想起されます。
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『主婦のための家』
家族の他のメンバーが仕事や学校、幼稚園など、家の外で日々を過ごす一方で、主婦は家に残され、他の人々の生活を通して世界を経験する主婦。
帰属意識は、家庭へのかかわりの深さに依存する。
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折り畳んだ鋼板で作られたこの家は、人間の相互作用によって決まる空間の質を特徴としている。
5 つの部屋があり、家族は 5 人。
各部屋は外に向かって完全に開いており、最大限の光が入る。
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一方で、これらの部屋の間にあるキッチンとリビングルームには窓はない。
したがって、共有スペースに入る光の量は、各居住者が家族に参加する意欲によって決まるのである。
02 Other House(2016) ―Paper project
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ここに、フランス・オルレアンのFRAC(地域圏現代技術基金)に所蔵されている実験建築の画像2点があります。
プロジェクトの中で彼らは、建築の原理(システム)と人間の感情(希望)の2つの視座を与えられ、その視点越しにこれらの画像を考察することになりました。
意味を汲み取り、連想し、インスピレーションを得ていく中で、抽象概念を読み解き、かたちある物質へと変換していきます。それが建築家だと彼らは言います。
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考察を進めていく中で、かたちは、ひとつの構造、ふたりの住まい手、1棟の建物、ふたつの領域、1つの自然 へと向かっていきました。
『Window』
―― のっぺりとしたコンクリートの壁越しに覗く人影は決して向こうを離れない。
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それぞれが坂道を上りながら見える窓は、自分の窓ではない。自分の領域へアクセスする坂を上っているのにも関わらず、相手の窓が見え、そこに相手の人影が見える。
『Table』
――構造の共有。はたして私たちは同じテーブルを囲んでいるのだろうか?
家庭生活は厳密に引かれた線の内側で営まれ、空間が両存在の間をナイフのごとく切り分ける。
軌道に乗せられた私たち、この不安定な存在。
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壁によって両者は切り分けられている。
同じテーブルを囲んでいるとも言えるが、全く別のテーブルでもある。
『Mirror』
―― あなたは通りすがりに私の気配を感じるかしら?
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異なる領域で暮らす両者が、まるで鏡のように、似て非なる互いの存在を認識する。
03. Forvik Ferry Port(2012-2015) ―Actual architecture
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最後に、実際に建つ建築である、フォアウィック・フェリー・ポートに触れたいと思います。
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ノルウェーのフォアウィックにて、既存のドックがフェリーを陸揚げできなくなり、海の向こうの手付かずの海岸に港が移されることになったことから、小さなサービス棟の設計が依頼されました。
旅行者がフェリーを待つ屋内・屋外シェルターとして、待合室や休憩室となっています。
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ランドスケープへの介入を最小限に抑えながらも、この場所独自の介入をし、ランドスケープになじんでいく設計が行われています。
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逆さヴォールトのスチール天井からは、大きな海の生き物や船が連想できます。ヴォールト天井は切妻壁と切妻壁の間にかかり、壁をこえて片持ちになっています。10mmの亜鉛メッキ鋼板の屋根によって、下のガラスがはめられた木枠が安定するようになっています。
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建物は完全に透明で、どの部屋からでも鉄骨屋根と構造要素を見ることができます。
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夜間や冬の暗い時期には、逆さヴォールトを明るく照らすことで、旅人に道を示すみちしるべとなります。(写真左)
右写真の、屋根に合わせて曲線になった壁のように、
彼らは、既製品での実現を難しくするように仕向け、この建築のためだけに部材を設計・生産しました。(=普遍性の拒絶)
地元の職人や施工会社との協働を通じて、“キャラクターをもたらすこと”が、=“フィクションすること”となるのではないでしょうか。
また、彼らがPaper architectureに取り組む理由として、
設計のプロセスを経て物質化していく過程で、プロジェクトを取り巻く現実を一旦目に見えるものとして書き換えるためだと考えます。
Paper architecture:フィクションという、もう一つのパブリック・レルム(不特定多数の人々が認知する空間領域)を対象とした設計→観る人の直観と想像力に働きかける
Building:建てることで「フィクションすること」の可能性を最大限引き出す
両者はどちらも「つくること」であり、一旦フィクションに身を置くことで、実際の建築がつくられるときに建築をたちあげる力が引き出されるのだと感じました。
“建築は、そこに存在する敷地などの条件、必要な用途、機能、目に見えていても認識に至らないものを、そこに「存在するもの」として立ち上がらせる手続きである。” 
そう考えているのではないでしょうか。
参考・引用
https://www.mantheykula.no/
https://www.architonic.com/en/microsite/manthey-kula/5205470#about
「a+u」新建築社,2024年5月
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mizushirosim · 5 months ago
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十七話:誰が大事?
前回の続きです。私による想像妄想ストーリーが含まれております。実際のシムの言動動きとストーリーの行動とリンクしてないところも含まれております!また複数恋愛及び血縁恋愛が含まれておりますのでご注意ください。
ミヅキちゃんは薄々シオンの行動の気付いていました。
気付かないようにしてはいたのですがこうも高頻度に目の前にきてアイとイチャつく姿にその意図を感じない訳ないのです。
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(あれ……ワザとよね)
ミヅキちゃんも嫉妬しない訳でもないのですがアイちゃんは娘でもある為に複雑なのです。もしも彼女が他人だったらおおいに嫉妬したんだろうと感じますがむしろ娘であるがゆえに微笑ましくうつってしまう事もあるのです。
(シオンはきっと私を嫉妬させたいのね……でも……絶対教えてあげないわ。私なりの抵抗なんだから)
今まで強引に誘導されてここまで関係が進んでしまったのだからミヅキちゃんなりの小さな抵抗なのです。
式前にユイちゃんが遊びにきたときもお構いなしです。
「シオン……ママもユイお姉ちゃんもいるのよ……」
「いいから。アイこっちに顔向けて?」
とアイちゃんに迫るシオンくん。そんな状況をミヅキちゃんは目に入れないように目線を外します。
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(これなのよ)
(あぁ~……わかるわ……ママ)
テレパシーかのように目でユイちゃんに訴えるミヅキちゃん。
アイちゃんがこの場を去ったあとにミヅキちゃんが立ち上がれば背後からシオンくんが近づきます。
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(今のはさすがに効いたでしょ)
と思いながらシオンくんはミヅキちゃんの前に行くシオンくん。
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「妬いちゃった?」
聞くんだ……、とシオンくんを見ながら思うユイちゃん。
「いいえ、微笑ましく思うわ。私にとっては二人とも大事な子ども達だもの」
その返答にシオンくんはムッとしてしまいます。
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「子ども扱いされるのイヤだよ俺。……俺が大人だって事その体でも知ってる癖に強情だねミヅキ」
そう言ってシオンくんは無理やりミヅキちゃんの唇を奪います。そばにリオがいようとユイちゃんがいようとお構いなしで。
「……シオ……んっ」
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そんな二人をユイちゃんは訝し気な目線で見つめていました。堂々とミヅキちゃんに深いキスをするシオンくんにユイちゃんは自分の考えが間違っていた事に気付きます。
(これ違うわね……恥ずかしいからなんかじゃないわ。アイを利用してるんだわこの子……。それを本人が気付いていないのが厄介ね…)
二人がキスを終えればすぐさまユイちゃんはシオンくんに釘を刺します。
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「シオン!!ママに焼きもちを妬かせる為にアイを利用するのはやめなさい!!そんな事を続けていると今に後悔する事になるわよ!!」
「……っ!」
ユイちゃんにそう言われてシオンくんは押し黙ってしまいました。
一連の流れを聞いていたリオがミヅキちゃんとシオンくんのそばへとやってきます。
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「利用なんて……してた訳じゃ……」
シオンくんはそんなつもりじゃない、と弱弱しく答えます。けれども自信たっぷりの回答ではありませんでした。
「どう見てもアイを連れてきてはミヅキの前で何度もイチャついてはミヅキの事をチラチラ見てたのは俺も見てるよシオン。アイを愛してるんだろ?そういう時はちゃんと相手の事を見つめてなきゃダメだぞ」
「シオン、アイも大事ならあの子の気持ちも汲み取ってあげなきゃだめよ?もうすぐ式も近いんだしちゃんとアイに謝りなさい」
ミヅキちゃんとリオに論されるシオンくんは素直に謝りました。
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「ごめん…なさい……ミヅキを妬かせたくて俺必死になってた。ミヅキが俺の事で頭いっぱいにしてほしくてアイの事までは考えが及ばなかったよ。アイには後で謝っておくよ」
「そうね。私そういう素直なシオンが好きよ。きっとアイもそう。だから心から謝ればアイも許してくれるわ」
そんなシオンくんとミヅキちゃんのやり取りを見ていたリオ。
リオは薄々シオンが一番大事にしてる人が誰なのかを気付き始めていました。アイの幸せを願うなら怒ってでも分からせた方がいいのかもしれませんがシオンも自分の孫息子なのです。孫息子の幸せも願ってもいるのです。もうすでに彼らは立派な大人なのでリオは成り行きをただ見守る事にするのでした。
一方その頃アイちゃんはというと自宅に置いてあるサンドバッグに拳を打ち込んでいました。
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「ほんっとムカつく!!何なの!!いつもいつも!!わざわざママ達の前でキスしなくてもいいじゃない!!こっちはすっごく恥ずかしいのよ!!もう!!」
と、サンドバッグをまるでシオンくんに見立てるかのように殴っていました。シオンくんだと思って殴っているわけではないですが鬱憤を晴らす為にひたすらアイちゃんは殴っているのでした。
夜、シオンくんはミヅキちゃんを連れて家の近くの公園へと来ていました。シオンくんは落ち込んだ様子で屋台で頼んだアイスをちびちびと食べ、ため息が時折漏れていきます。
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「……俺は……アイの事も大切だよ……。さっき一応アイには謝ったんだ。でも納得いってる感じでもなかった……。一応許してはくれたけど……」
そう言ってシオンくんは再びアイスを口に運びます。冷たさが口に広がりその冷たさが更にアイを思い浮かんでしまうシオンくん。
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「……アイは俺の事……嫌いになってしまったかな……?」
ぽつりとミヅキちゃんに向けてシオンくんは呟きます。ミヅキちゃんは静かに首を振りました。
「大丈夫よ。嫌いになんてなってないわよ。一緒にいてくれてるのがその証拠でしょ?自信持ちなさいシオン」
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「そうだね……。こんな事言いたくないけど俺は……アイに捨てられるよりミヅキに捨てられる方が怖いって思ってる。誰にも言わないでほしいんだけど……俺は……アイに振られたらたぶん追わない。でもミヅキに振られたら追い続ける……どこまでも地の果てだろうと捕まえて閉じ込めてしまう自信がある。そんな自分がいてたまに怖いんだ俺。でもアイの事だってちゃんと愛してるんだ。なのにそんな矛盾した考え持っていて分からなくなる時があるんだ……」
シオンくんの苦しい胸の内を聞いてミヅキちゃんはシオンくんをそっと引き寄せました。
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「大丈夫よ。私はシオンを見捨てたりしない。あなたは私の宝物なの。大事な息子でもあるし、とても大好きな人でもあるわ。アイはあの子が自分で決める事だから私からは大丈夫、とは言えないけれどあなたが信じてあげる事ぐらいは出来るでしょう?何があっても受け止める覚悟ぐらいはしなさい」
「……ママ」
シオンくんはついミヅキちゃんの事をそう呼んでしまいます。ミヅキちゃんの言葉がシオンくんにとってうれしすぎたのです。
「あら久しぶりに呼んでくれたわね。最近ママ呼びがないから少し寂しかったのよ?」
ミヅキちゃんに言われてシオンくんはハッとして訂正します。
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「間違えちゃっただけ。さっきのミヅキの言葉は肝に銘じるよ。あとミヅキは俺の母親なのは間違いないけどさ、もう婚約者なんだから俺はちゃんと名前で愛してる人の名前を呼びたいんだよ。…………それにママ呼びのままだとまるでマザコンみたいになるでしょ。俺はそれは絶対に嫌なの。俺はミヅキと結婚してミヅキと家庭を築いてミヅキと俺の子どもがいつか出来て家族で幸せに暮らしていきたいんだよ。他人なんか俺にはいらないから」
シオンくんの本音にミヅキちゃんは目を細めて微笑みを向けました。
素直にうれしい言葉でもあったのです。ミヅキちゃんも家族みんなが幸せであればそれが一番いいと思っているので同じ気持ちであることがうれしかったのです。
シオンくんはミヅキちゃんを引き寄せて顔を近づければ唇を重ねました。
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「好きだよミヅキ。花嫁姿とても楽しみにしてるから……」
そして当日結婚式を迎えます。
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リオとイオとミヅキちゃんの結婚式の時とは違って参列者も今回はいます。
シオンやアイ、ミヅキの準備を待っている間ゲスト達とともにダンスをしていたらイオに話しかけてきた人物がいました。
とても懐かしい顔です。
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「久しぶりね、イオ。あなたはあの頃と全然変わらないわね。私はこんなに老けちゃった」
「……カサンドラ」
イオは久しぶりに見る顔に驚きつつもあの当時の面影を残したカサンドラを懐かしく思います。
ミヅキちゃんと結婚して以降、イオはカサンドラとは会う事はほぼありませんでした。今回の式にミヅキちゃんが友達のカサンドラをゲストとして呼んだのです。
イオは振り返り、すぐそばにいたミアを紹介します。
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「そこで踊ってる黒髪のドレスの女の子……オレとミヅキ��子なんだ。カサンドラこそあの頃の面影が残ってるからすぐわかったよ。元気だった?」
「そうなの……とても美人な娘さんね。私も今はゴス・カサンドラじゃなくてカラーニ・カサンドラに名前が変わったのよ。マルコムって知ってる?あの人が私の夫」
「カラーニ……?マルコムってランドグラーブのご子息じゃなかった?」
イオの記憶ではランドグラーブ電力という大きな会社の社長の息子だったはずと記憶しています。
カサンドラは「色々あったのよ」とだけ言い詳細は教えてはくれませんでした。
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「それより今日は招待してくれてありがとうね。ミヅキは前は私があなたの元カノだったから遠慮して呼びにくかったみたいだけどあの時も別に気にしてはいなかったのよ。だから今回は呼んでくれてうれしいわ。息子さんの結婚改めておめでとう。結婚相手にはちょっと驚いたけど今じゃ珍しくもないものねあの世へのいいお土産になりそうよ」
「おいおい……縁起でもない事言うなよ……目出度い日なんだから」
カサンドラが老いているだけに笑えない冗談にイオは苦笑いしてしまいます。
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(今元カノって言った?パパに元カノなんていたのね……ママしか付き合った事がないと思ってたわ……)
聞こえてきた言葉にミアちゃんはびっくりです。イオはカサンドラの事については一切家族には話してこなかったので知らないのも当然です。けれども相手も家族持ちで関係も良好そうでそれ以上の事もなさそうなのでミアちゃんは安心します。
イオは参加者名簿の中に”カラーニ・ベラ”と書かれた名前をふと思い出して何気なくカサンドラにカサンドラの母親の旦那さん”ゴス・モティマー”の事を聞いてみた所、母親の夫も”マルコム”だと彼女は言いました。それでなんとなくイオは察します。
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「あぁ……そういう事……あいつえげつないね。ボンボンのやる事は理解できないや……」
と苦言を申すのでした。(ちなみにあくまでもうちのシム世界のデフォシムの状況なので人によってデフォシムの状況は千差万別なのでご了承ください!!)
一方、アイちゃんは鏡の前で嬉しそうに自分の姿を見つめていました。
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「すごい……ドレスってこんなに見違えるものなのね……どう?ママ?」
アイちゃんはくるりと振り返ります。そこには同じくウェデングドレスに身を包んだミヅキちゃんが立って嬉しそうにアイちゃんを見つめていました。
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「すごく綺麗よ。アイ。アイはやっぱりパパに似てるわ。美人ですごく素敵な花嫁よ……私の自慢の娘だわ」
ミヅキちゃんの言葉にアイちゃんはとてもうれしくなります。ミヅキちゃんから見てもアイの微笑んだ表情はどこかリオを思い起こさせるものがあるのです。
アイちゃんも目の前にいるミヅキの姿に惚れ惚れして見つめます。
「ママもすごくかわいい。まるで私がパパ達の結婚式にタイムスリップして潜り込んだみたいに思えちゃうわ!パパ達が新郎の服を着てたらいいのに……」
そう言うアイちゃんにミヅキちゃんは微笑み笑います。
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「そうだったらいいんだけどシオンが嫌がっちゃったからね……仕方ないわ」
「もう……シオンったら……ママに対して失礼だわほんと!再宣誓式だって出来るのに……」
「いいのよ、気にしなくて。再宣誓式はいつでもできるから」
ミヅキちゃんは控室で休んでいましょうか、とアイちゃんに言い��動します。
ミヅキちゃんはアイちゃんの前では言いませんでしたが不安が募っていました。リオとイオが見てる前で愛を誓い合う事が後ろめたく感じてしまうのです。
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(……悪い事……してるみたいな気持ちになってしまうわね……)
そう思っているとシオンくんがこの部屋に入ってきてミヅキちゃんと目が合います。ミヅキちゃんは気まずくてすっと目を反らしてしまいました。
シオンくんはミヅキちゃんの綺麗な姿を上から下まで記憶に留めようとマジマジと見続けます。
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「……すごく綺麗だよ」
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懐かしい言葉にミヅキちゃんは目を伏せてしまいます。あの時と同じ場所で父親と同じ言葉をシオンくんは言ったのです。
「……やっぱりあの人の息子……ね……」
「え?」
「ううん、シオンも素敵よ。アイがとても美人でかわいく仕上がってるから見てあげなさい」
そう言ってミヅキちゃんはシオンくんのそばから離れればすぐアイちゃんがシオンくんの前に駆け寄ってきました。
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「どう!?どう!シオン!!綺麗!?」
「かわいいよアイ。すごくかわいい。アイはミヅキと並んだらとてもよく似てると思うぐらいかわいいよ」
「えー!!……そりゃママに似てるのもうれしいけどそこは綺麗って言ってよ!気が利かないわねー!ママはパパに似て美人って言ってくれたのにー」
ちょっと不満そうなアイちゃんにシオンくんは笑います。
「んーまぁ……まぁそうだね」
シオンくんは晴れ舞台にさすがに余計な事は言わないでおこうと口に出さずに心に留めました。
ミヅキちゃんは二人のやり取りを見ながらシオンくんをよく観察していました。
(同じ言葉は言わないのね……なぜかしら……)
そんな些細な疑問がミヅキちゃんの頭に浮かびましたが深く考える事はしませんでした。
次回に続きます。
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hanuke01 · 6 months ago
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 精神的に調子を崩すことを「病む」と言ったりするが、実際に自分がそういう立場になってみて、病むという言葉は何だかしっくり来ない。そういう実感の問題ならどうでも良いのだが、考えてみるとこの言葉(あるいはこの言葉の使い方)は、現実を不適切に捉えているどころか、少なからず人を傷つけている節もあると思う。
 言葉の起源は良く分からないが、病むという表現はそれなりに配慮がなされた言葉のように思える。第一にそれが「病」であることを認めているし、更に「どこどこを病む」という「部位」も示していない。何かしらの全体的な病状に苦しんでいるというようなニュアンスがこの言葉から汲み取れると思う。
 しかし、実際に世間に蔓延する「病む」という言葉は上のようなニュアンスとは少しずれている気がする。細かいズレなのかもしれないが、やっぱりそのせいでしっくり来ない。もし自分が「病んでたんですね」とか言われたらそいつをぶっとばしたくなると思う。何が違うとかハッキリ言うのは難しいが、とりあえずいくつかの違和感が浮かぶ。
 第一に、病むという言葉は自己責任論的な意味あいを孕みやすい。どの場合もという訳ではないが、病むという言葉を風邪をひくことと同じニュアンスで使っている奴がいる。まあ風邪をひくことにも色々深い意味はあるのだが、そういう奴の論が至る終着点は「これが原因だ」と「対策が出来た」の二つである。
 「病む」人を見ると、人はなぜか原因を特定したがる。結構みんな色々言うが、「兆候」を「原因」と見間違えているだけで、そんなものは原因ではない。もちろん特定の出来事をきっかけとしてバランスが崩れることもあるが、基本的に病というのはもっと複雑なものである。こころの病には、学術的に原因やメカニズムが特定されていないものも多い。傍から見たら単純に見えるかもしれないが、そんなものはそちら側の都合のいい解釈に過ぎない。
 こころや身体のバランスを崩さないための試みはもちろん有効だと思うけど、それと「頑張れば防げた」というのは訳が違う。こころの調子を崩した人に最も言ってはいけないことは「こうしたら防げていた」といった類の言葉だろう。手洗いうがいみたいなノリでこころの不調が防げることもあると思うが、本当に大変な時はそんなノリではない。とてつもない強風が休む暇なく吹き付けて、何度も立ち上がろうとしても上手くいかなくて、メンテナンスとか対策とかいうレベルではない。
 自分は、こころにせよ身体にせよバランスが崩れた状態に陥るのにはある程度の必然性があると思う。バランスが崩れるのもバランスを取る動作のうちであり、転んで立ち上がる時により持続可能的なバランスに自然と乗り換えることになる。こころにせよ身体にせよ都市にせよ国家にせよ、このメカニズムは変わらないと思う。だからこころの調子を崩すということはその人にとって必要なことであり、通るべき道であったと考えている。
 第二に、病むという状態は必ずしも臥せっている状態ではない。この言葉はそういう「もがき」みたいな部分を見えなくしている節があると思う。自分に関しては、「病んでいる」時期には普段以上にエネルギーを使ったし、訳わかんない状態でずっともがいていた。そういう、暗闇のなかにほっぽり出された感じというか、そういう苦しみが捨象され、なんか病気で寝てたみたいな言葉にまとめられてしまうのも気に入らない。
 第三に、というかこれが最大のものだろうけど、病と健常の線引きを堂々と行うその動作に最も違和感を覚える。時間的な線引き(病んでる時期/病んでない時期)と、空間的な線引き(病んでいる人/病んでいない人)どちらも違和感があるとか言う以前に、物事の捉え方として不適切だ。物事がもう少し複雑であることは少し考えれば分かると思う。そんなことをいちいち書きたくない。
 という訳で、言葉というよりその使い方の話だったけど、病むという言葉の気持ち悪さについて多少は言い表せたと思う。大事なのは、人の苦境は他人には分かりっこないということだ。だから簡単に病んだなど何だの軽々しく分かったような表現を使うのは避けよう。「自分にはうまく分からないけど、とても大変な思いをしていることは伝わった」というスタンスが適切だと私は思う。苦しみは分からなくても、苦しんでいることは分かることが出来るので。こころの調子を崩している時は、何かと他人の価値観を内面化して落ち込みがちなので、寛容な価値観を持って生きることはどこかで誰かを救うことに繋がる。
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newyorkdiary7th · 7 months ago
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STILL
DECEMBER 9-10th
地下鉄に乗って図書館を目指す。思えば初めてのことだ。今日はもう本当に霧が濃くて別にわざわざ出かけなくても良いような天候なのだけれど、わたくしはなかなかにテンションが高い朝なので、何はともあれ出かける気分。
地下鉄は結構混んでいて、人間観察が楽しい。そうか、自転車だとこんなに人が密集している環境に身を置く瞬間がほとんどないんだなという事に気がついた。あちらからもこちらからもラテンを語源とした言語が聞こえてきて、その向こうに中国語が聞こえる。と思えばすぐここではリール?携帯電話の画面からの音が大きい。一車両に一人はそういう人を置いておく暗黙のルールでもあるのだろうか?今日も椅子で横になっている男がいる。半袖半ズボンの色白の青年の白黒ストライプのハイソックスが可愛い。彼のスマホの画面が1歳児でも目を見張るほどあっぱれなまでにバキバキに割れている。目の前のグレーヘアーが素敵なおばさまが空を見つめて微笑んでいる。こちらの頬まで緩みそうになって、目を逸らしたけれど、思考が“何か楽しいこと考えているんだろうな~”と働きはじめちゃったのでもう一度様子を見たら、微笑みはもっと大きくなって、クスッとしてから、あ、いけないいけない、と律していらっしゃった。仲の良さそうなイタリア語を話している女の子たちの爪の色、メガネのフレーム。���彩柄のコートが似合うブロンドのお姉さん。今乗り込んできた黒人さんのニット帽に縫われている「supreme new york」のフォントはアメリカドラマ『ユーフォリア』と同じフォントだ。あ、42nd st 着いた。
なんかもう知覚のフィルターが解像度を上げすぎている!!!全部目に止まって、思考に辿り着く。
いけないいけない、余計なこと書いている場合じゃないのです。
12月9日、NY生活で限りなく数少ない夕食の予定。平日は仕事がなぁ~と思ったけれど、食事の相手は私のボスとは15年来の仲だそうなので、ご愛嬌。久しぶりに昼間に仕事した。
昼間は雨が降っていて、止んでくれないとアクセスが悪いな~と思っていたけれど無事に止んだので自転車でいくことができた。ハーレムのカフェに行くことはあったけど、ハーレムにあるレストランは初めて!レストランがある通りを通ったのも初めてで、やっぱり、ハーレムは怖い、という定説が今ひとつピンとこない。NYに来てからずっと同じことを思っていて、ここが怖い場所、という内情はまだまだ私には理解が及ばない見えづらいものがあるのかもしれない、と。ホームレスの方も、ハーレムよりもむしろレキシントン通りの方がたくさんいる。
いかんいかん、また余計な話に文字数を費やしてしまった。
スパニッシュタパスのお店で待ち合わせ。奥様初めまして!
楽しかったなぁ。お二人はもうそれはそれは美食家たちなので、ともかくレストランのおすすめが尽きない。経てきたたくさんの旅の話し、テント泊が嫌なので土の上で寝袋で寝る話し、星空のこと。食前酒でVermouthを嗜む楽しさ~!数えたら3時間半が経っていた。
ぜひまた帰る前に、食事かハイキングに行きましょうという明るい別れの言葉を交わしてみんなでレストランを出た。
今日は異様にあたたくて、夜になっても冷え込みきらず心地良い。 「今日は暖かくて気持ちの良い夜だねぇ」と私。 「ほんとだよ。でも明日は冷えるねきっと」とジムさん。 奥さんがちょこんと毛糸の帽子をかぶって素敵。 「自転車はどこに停めたの?」ジムさん。 「自転車できたの!?」奥さん。 「そうなんだよ、自転車買って乗り回しているんだよ」ジムさん。 「あの辺に停め…」私。 あれ?ない。自転車がない。なんかこう、1秒くらいで、直感がスコーン!と理解した、盗られた、と。でも思考が追いついていなくて、「あれ?ここに停めたはずなんだけど、盗られたっぽい」と言う。みんな結構ワインが染みている脳みそで、「本当に?」「オーノー」「あぁこれ私の鍵だ」これでもかと言うほど見事にワイヤーの鍵がすこやかに切断されて息の根絶えました、という様子で落ちていた。 「まぁでもたったの80バックスだったから」と私。 「still…」と悲しそうなスーザン。 「覚悟はしてたんだよね、いつも店から出てくる時は、まだあるかなってビクビクしてた」 ジムさんが私の無惨な鍵の残骸を拾っていた。「本当にこれがそう?」って。 いやもういい加減私のです、拭いようのない現実ここに爆誕。あたりはとても静かな暗闇だったので、爆誕というふざけた言葉はあまり似つかわしくはないかも。
不思議なくらい、残念な気持ちが少なくて、まぁまぁまぁ、という感じ。あまりにも幸福なムードだったから、自転車が盗まれたという事実を持ってしても、STILL!全然気にならないくらい幸福度が満腹だったのかもしれない。
むしろ二人がオーノー、ってずっと言っててなんかごめんな気分。
「でもちょうど先日計算してたんです、もうすでに、地下鉄を使い続けていたら80ドル超えてたなって」というとスーザンが私の言いかけていた、元は取った、を汲み取って「元は取れたのね~、still…」と悲しそう。
「どこで買ったの?」「Craigslist」アハハハハ
「でもなんだか、本当に今夜が幸福で、だからあんまり残念じゃない」私がもう一度言ったらジムさん、「もう君は本当のニューヨーカーだね!」って。それならそれで嬉しいー!
とりあえずタクシーで帰って、タクシーデビュー!こんな形でイエローキャブデビュー!
翌朝目が覚めて、割と酔っ払ってたんだなとシラフになった実感があった。
とはいえ、自転車を盗まれてしまった、という事実については相変わらずあんまり悲しさや悔しさとかが湧いてこない。なかなか仏なマインドなり。
で、かすみさんから届いたおすすめのクリスマスソングアルバムをかけて、チーズトーストを焼いてコーヒーを淹れ、なんとなくカレーを作りはじめながら、一体どうしてこんなにも悲しさや悔しさが湧いてこないのかについて精神分析を愉しんだ。
これはひょっとして自己防衛反応?ショックを直視していない?んんー全然そんなんじゃなさそうなのよねぇ。
そもそも安かったから。それは間違いない。
あとは昨晩も言ったけど、やっぱりあまりにも楽しい時間を過ごしたところなので、ちょっとの残念なことはあんまり気にならないタイミング。
あとあと、もうあっという間に来週から西海岸に行くので、自転車を倉庫に持っていくつもりだったけど、その面倒が省けたというのもある。1月の残りの20日間については、また考えましょう🚲
ヒマラヤ日記について和己ちゃんから愛溢るる感想文が朝起きたら届いていて、正直そちらが嬉しすぎて自転車盗難被害にかまっていられないというのもある。
そして、ここ数週間自分の中で燻っていた大きな問いが、ジムさんご夫妻という素敵な二人を前にして解決したというか吹っ飛んだので、心のモヤモヤが晴れてとにかく気分が良いから、というのも関係しているなぁ。
ただ一つだけ、とても悲しいことがあって。
それはお世話になったあの自転車にお別れが言えなかったこと。これは昨夜の帰りのタクシーでも感じたし、玉ねぎを炒めながら(!一つ絶対書いておきたかったこと思い出した)もこれだけは悲しいなぁと、じわじわじわじわ悲しみがさざなみを立てている。
別れはいつも突然、みたいな格言あるっけねー。
映画や本が好きで、いろんな感情を見聞きしたつもりでいた。 でも何回繰り返しそう思っても、やっぱり実体験には到底及ばないという思いをまた何百回か目に感じている。お別れの言えなかった別れ、というどこにも放つことの出来ない悲しみについて。
自転車だったからまだこうしてへっちゃらに今日を楽しんでいるけれど、交通事故死はやっぱり計り知れないなぁ、と思考が流れながらマッシュルームを追加した。
さて、玉ねぎなのですが。 NYで買う玉ねぎを切った時の目の痛さはものすごく強烈なのです。NY到着翌日から心底感じているのが、こちらの玉ねぎは日本の玉ねぎよりも涙がすごい出る!今朝、そういえばいつも感じているこのことについてどこにも書いていないなと思ったのでした、精神分析の合間を縫って。
そういう事になりまして、地下鉄に乗って、人間観察が楽しくて、グランドセントラルステーションで感嘆のため息をつきながら人々を見下ろし、何度来ても良い場所だなぁとひとりごちて、そろそろ滑走ばかりしていたタイミングは終わって、地に足つけて過ごすのが良い時期かもね、と信号待ちをして、いつも停める図書館の裏門の前の通りの自転車停めに自分の(だった)自転車が停まっていないという事実を目視しながらふと、なんとなく図書館に直行するのではなくてブライアントパークのクリスマスマーケットをもう何度目かわからないけどまた通ろうかなと寄り道をして、初めて店に入った。これまでは自転車をひいていたから通過するだけでお店には入らなかった、買い物の気分にもならなかったし。そしたらすごく好きなお店に出会っちゃって、音楽と本と食材以外に初めてNYで買い物をした。いつ会えるのか未定中の未定だけどあかりさんにお土産も買った。New York Diaryをこうも楽しませてくれているのは本当にあかりさんのおかげなので。
さてと。
別れは突然にやってくる、という感触がとても強い今のうちに、やるべきことやっておかないと!という気分に漲っている、そんな感じの12月10日(火)昼過ぎでございます。
==========
と、ここまで書いて、投稿しようとしたら図書館のWi-Fiの調子が悪かったので帰宅したらで良いや、と帰路に着く。
正面玄関をいつものように通り過ぎようとして、はたと気がつく。もう自転車を停めてある裏の出入り口に行く必要は無いんだ、と。そうして初めて正面玄関から出た。人が多くて退出のセキュリティに並んだ。裏口では並んだことがなかった。
いつか、とのんびりリストにしている物事を、いつまでもそのままにしないようにしようというモードに入ったので、とりあえず有名と言われているロックフェラーのクリスマスツリーを見て帰ろうと思った。ロックフェラーはいつも自転車で通っている道から一本ずれているので(マンハッタンはほぼ全ての道が一方通行。自転車も車道に合わせて上りか下りで通りが決まる)、行ったことがなかった。
5th Aveは狂ったように混んでいた。そしてたどり着いたクリスマスツリーのセンスの心惹かれ無さにおったまげた。えええー!となった。配色の投入具合間違えていないだろうか???まぁセンスなんてのは人それぞれの価値観だから、きっと私がズレているのでしょう。びっくりしたわぁ、通り抜けるのも一苦労なほどの混雑の向こうにあったカラフルすぎるツリー。
あっけないほど一瞬で寄り道が終わったので、もう少し散歩をする事にした。通りはずっとアップルシナモンの香りがした。歩くのはとてつもなく楽しいという事に気がついた。そのまま5th Aveを上っていると大きな教会があってふらりと入る(St. Thomas Church)。重厚な扉の向こうに、感動的な静けさがあった。ホッとした。通りがどれほどの騒音なのか改めて気がついた。
自転車は車よりも運転に神経を使う。段差が怖いし、信号は守らないし。基本的に運転で視野が集中している。だから、大きい店の看板には気がつくけれど、アパートの入り口の中のロビーの様子までは見えない。ショーウィンドウの様子も、教会の張り紙も、通り過ぎていくだけでしっかり見てはいない。ここにBarbourがあるんだ〜と思って通過するけど、徒歩だとシーズンものの様子まで感じ取れる。ひと月の間、自転車で滑走し続けた挙句の果てに、今度はディテールを目にする楽しさを知った。いつもNYCの景色だなぁ~と走りながら思っていた地下から上がってくる湯煙を、心ゆくまで撮影する。気に入ったシーンを全部撮る。自転車だと、わざわざ止まるほど気に入った時しか撮影はしない。歩くことを底が抜けるほど楽しんでいたら、真っ暗になって、50ストリート全部歩いた。近所にドーナツ屋さん���あることを、もう20回は通ったであろう通りで初めて知った。自転車ではドーナツ屋さんの反対側しか走ったことがなかったのと、店の看板が目立たないので見逃していた。喜び勇んでドーナツを買って帰った。
ソルトレイクシティから帰ってきていたサティアが鴨鍋を作っていた。信じられないわ、色々。鴨鍋って。しかもアメリカで。なにこのいと素晴らしき出汁の香り。春菊なんて買えるんだ!ここはNYだった!自転車を盗まれたという報告をする隙がなくて、鴨鍋の経緯を聞いた。
崇とは、今日なに食べよっか、という話をしてから買い出しに行く。サティアとは完璧なシェアメイトの距離感で、食事はそれぞれ。作っている時にそこにいたら、ちょっと食べてみる?っていう流れが生じる。(私は基本肉を家で食べないのだけれど、サティアはむしろ肉がメイン。週3ステーキライフ)かかかか鴨、、、。好きすぎるけどここで鴨が大好きと言うと くれ!って言ってるみたいだから言わなかった。そしたら出来たからちょっと味見してみてってくれた。途方もなく美味しくておったまげた。無類の鴨好きだと告白したら なんでそれ先に言わないの!って鴨追加でくれた笑
ちょっと鴨鍋が美味しすぎて作り置きカレーを食べるの時間置いたしドーナツ食べるタイミングは先延ばしになった。
ところでチャリ盗まれたって言ったら、「俺だったら相当凹むなー」と言っているのを聞いて、そうか、凹む、という感情とも無縁だなぁと思った。歩きながら、ところで怒りも全然無いんだよなと実感していた。昔自分のロードバイクが盗まれた時は、盗んだ奴に対する怒りがあった。でも今回は全然湧かない。なんかNYってそういうところっていう受け入れ態勢がある、自分の中に。むしろ好奇心が湧いていて、あれ盗んだ人どうしたいんだろう?って気になっている。今もこの街のどこかにあの自転車があるんだなぁ~という感覚が面白い。できれば誰か楽しく乗ってくれる人の元へ辿り着いたら良いなぁ、そんな感じで、12月10日の夜には、もうすっかり別れを受け入れた次第であります。薄情だなぁと思いながら、今はもう街を歩くことの楽しさにかまけている。
とか言って、写真見直してたら切なくなってきた。
バイバイ、サイズが全然合っていなかったアンティークのラレーさん。本当にたくさんのところに連れて行ってもらいました。
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zdlmlq · 2 years ago
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08.13.2023の日記
子どもが帰ってきて、一週間ぶりに顔を合わせました。
どこかへ行く?と尋ねましたが、「雨が降るから」と返されて真っ直ぐ家に帰りました。一週間他の家で生活したことで我が家の異様さを客観視したらしく、着いてしばらくは部屋の片付けを始めたので私も付き合いました。
多くの家には食卓の下にR2-D2のクッキージャーなんて存在しないし、それはスターウォーズがすきかどうかなんて関係なく、そもそも食卓の下に何かが鎮座していることなんてないということをいつからか彼はおぼえていたし、おそらく、私が母親としてあらゆる意味で正しくはないことを(正しい母親、というのもまた辟易する言葉ではありますが)察するようになっていました。
私は別に自分が飲み歩いたり仕事をしたりして家を空けていることや、家族の他に親しい人間がいることに後ろめたさを感じることは一切ないのですが、家にいて、彼の話を聞きながらずっと上の空になっていた時や食事の支度も忘れて本のページを捲り続けたり、或いは考え事に意識が割かれて火にかけていた鍋の中身を丸ごと焦がしてしまうような時とても申し訳なくなります。母親というものはこんなに勝手に、子どもの前で一人になるものではないのでは、と思うことが。
『違国日記』で、槙生はちがう国に行ってしまうたびそれを朝に指摘されつつもそれでも"親ではない"槙生が、朝を引き取ったという前提があるのでそういうものですよね、と頷けるけど、私は何せ子どもの許可もなく彼を産み、共に住む他に選択がありようがない環境に置いているのにかなり近しい状態によくよくなるので、読んでいて胸の辺りがすーっ、と、冷たくなるような感覚になることがままあります。
槙生は、朝を引き取る際に
あなたを愛せるかどうかはわからない
でも
わたしは決してあなたを踏みにじらない
と言っていて、それがずっと印象に残っています。本当か?と何度も思いました。
子どもにとって、何度も踏みにじるようなことをしてしまいながら愛してくれる親と愛さずとも尊重してくれる大人のどちらが必要なのかは、客観的には簡単な問題ですが実際にはかなり複雑な話です。朝の母親は回想から読むにきっと"正しい母親"らしい横暴さで朝をあいしていたし育てていて、朝はその下で(だから、でも、なのに、でもなく)素直に育ちその横暴さへの不満や疑問をおぼえながら成長している中である日突然それを失い、代わって朝を人間として尊重しようと努めて、しかし当たり前に自分のことも人間として尊重してもらうことを求める槙生と暮らすことになるわけです。
正しい母親は大体が横暴、とまでいうと乱暴ですね、尊重しながらあいしてくれる人たちもたくさんいるとは思います、が、朝の母親のような人は全然珍しくはないと思う。その横暴さを子に押し付ける人たちの大抵は、それと同じくらい人として尊重されることを求めずに母親としての自分に一番の重きを置いているように感じます。実際それに慣れていた朝は保護者である前に人として振る舞う槙生に何度も戸惑っていて、その戸惑い方が子どもの同級生と私が話す時にされる反応にかなり近いものがあるので、あの本で、槙生に対して、私はずっと難しい気持ちになっていました。
子どもを尊重するということは難しいです。
相手の意思に重きを置きそれを尊ぶということは相手の判断力をこちらも、相手自身も信じているからこそ成立することのように思います。
本当に幼い子どもの意思を尊重した場合虫歯だらけになったり、毎日同じ服を着るようなことになりかねません。
朝はそれほどまでに幼くはなかったけど、おそらくはまだ尊重よりも肯定や指針が必要な年です。尊ばれるよりも頷かれたかったと思う。すきにしたらいい、ではなくて、すごくいいと思う、と、或いは、違う、こっちの方がいい、と断言するような存在が(たとえその判断が必ずしも正しくはなかったとしても)いるべきだった。
私の話ですが、子どもの進学に関わることで話し合っている時に「子どもの気持ちを聞いてから考えます」と答えた時、先生と呼ばれる人に「こういうのはお母さんが決めることですよ」と返されたことがありちょっと、驚きすぎて泣きそうになったことがありますが、それはたぶん、尊重という聞こえのいい言葉よりも専門知として、あらゆる判断を誰かに代わってする立場としての横暴さを自覚的なのか無自覚になのかはともかく、背負うことになった人には当たり前のことだったんだろうと思います。
それでも私はつい、子どもに判断を委ねます。
それは尊重なんてうつくしい態度ですらなく、彼に対して思考することをサボっているだけでは、とよく思います。
『違国日記』最終巻で笠町くんが自身の人��の関わり方を衛星に喩える場面、槙生に
軌道を逸れて離れてしまうほうが衝突よりも怖いんじゃないか
と話すのですが 私はおそらく、子どもに対しても衝突よりも衛星の距離を望んでいるような気がします。
そんなことができるわけもないし、子どもの頃の私は周りの大人にそんなことを望んでいなかったのに。
最終巻の一つ前、十巻で朝は高校三年生なって子どもでなくなっていく自分がいつまでも槙生のもとにいられる訳ではないことを考え始めていて、それは私が朝と同じくらいの頃に家族ではない誰かと暮らすようになっていた時に思っていたことと重なりました。
大体の子どもは他の選択肢がない代わりに無条件に保護してくれる家族やそれに類似する大人のそばで暮らすけど、私はわりと早い段階でそうでなくなりました。幸い周りに恵まれていたので安全な環境は常にありましたが、そこには私を尊重してくれる人々はいても私に代わって判断をしてくれる人はいなかった。
それは元いた環境に比べて本当に安全で、恵まれていたしそもそもの環境にはそこにくわえて横暴な愛情さえ存在しなかったので(少なくとも当時はそう感じていたし、私の父にあたる人に「この家にあなたを愛する人はいないから」と言われたこともあり、その言葉にはとても説得力がありました)、しあわせを感じなければと思う反面ずっと不安でした。情緒は一切整わずでもその原因はあまりにもわがままで、言葉にするのが恥ずかしかった。そんな贅沢を口にしていい立場ではなかった。こちらが望めばそれを受け入れてくれる人たちがいる幸福ではなくて、尊重なんかではなくて、他に選択肢なんてないような絶対の場所がほしいのに、それがまるで見つからなかった。
朝のような素直さも持っていなかった私は結果その不安をよくない形でしか表せなくてものすごく多くの人たちに嫌な思いをさせたと思います。振り返ると、本当に、頭を抱えるような幼さでした。いくら子どもでも、するべきではなかったことをたくさんしたしちょっと、もう、あんまり思い出したくもない。
その点、朝は「さみしい」を声に出すことができる人だった。
愛せるかはわからない、愛せはしない、と言い続けていた槙生がそれでも最終巻で大きく変わったのはたぶん朝のその素直さが関係しているように思います。誰であっても、ではないと思う。いつまでも自分と比較しますが、私は実の母親にすらあいされない程の子どもだったので、おそらく槙生にあんなことを言ってもらえることはなかった。
槙生は、最後まで朝を尊重しかしていない。横暴な愛情でその選択を狭めるような言葉はずっと使いませんでした。
それでも、槙生と暮らす部屋が朝が望んではじめていることが許される場所からいつでも帰ることのできる場所に変わったことが最終巻では明確にわかります。
いてもいい、だし、いなくてもいい、のままだし、槙生はいてほしいとも口にしていない。
ただ、大切に思っている。
尊重を保ったままで、どこにいってもいい自由を強調した上で、そして自分が至らないままであることも認めた上で"それでも、それでも、それでも"、大切に思っていること。
それだけで朝にとって槙生が帰る場所になる、ということ。
それでもあなたか幸せでいてくれればいい
って言うと幸せでいなきゃいけないみたいだね
ときどき不幸せでもいいよ
ねー!!!
あなたのしあわせを願っている、ということが子に対する呪いになりはしないかとおそろしく思う私は「健康でいて」も「しあわせになって」もうまく言えません。いつも元気でなくてもいいし生き続けていればしあわせな時ばかりではないので、「どんなことになってもできるだけたのしく生きられるようにあって、長生きをして」というよくわからない声のかけ方をするようになっています。こんな言葉では何も言ったことにならないのでは、と日々思っていたのに、朝は、
なんで一言ただ私をあいしてるって言えないんだよ
と返していて、それは、槙生の相変わらずに慎重な言葉選びに苛立ちを含みながらはじめて、あいされていることを実感した声で、こんなまわりくどい言葉でも、汲み取ってくれていて、
私が子どもにかける言葉で果たして彼が汲み取ってくれるのかはよくわかりませんが、
槙生の言葉に子どもの頃の私が、朝の言葉にいまの私がすくいあげられて、もうなんだか、ずっと泣いてしまった。
ことを、子どもが帰ってきて思い出してまた読みました。『違国日記』
ねー本当にいい漫画ですよね。終わったことがとてもさみしいけど、あまりにもすばらしい終わり方だったのでずっとうれしいです。
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rikumatsuzawa · 7 months ago
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2024.11.19
日本人の多くは仏教徒だよね。君は仏教徒か?10日間のスリランカでこの質問を何回されただろう。初めのうちは、無宗教だけど仏教の教えとは身近に生きてきた。と答えていたが聞かれれば聞かれるほど、仏教徒というのは何を意味するのだろうかと考えさせられた。
スリランカの第二都市であるKandyでSadunとSamanに出逢った。スリランカに到着してから土着の人ではないという理由だけで毎日数えきれない人たちからお金を乞われたり、ぼったくろうとされた。2人に最初に声をかけられたときは、またか、と思いながら適当にあしらおうとしていたのだが、少し話をしていると純粋に話したかっただけのようだった。結局その日はKandyを半日案内してもらい、宿まで送ってもらった。翌日からはスリランカを訪れるきっかけとなったGeoffrey Bawaが建てたHeritance Kandalamaに行く予定だと話すと、どうやって行くのかと訊かれた。バスだと答えると、Kandalamaまでの道中には見るべきものがいっぱいある、バスだとそういうところに寄れないからトゥクトゥクで送ってあげるよ、君にとってもきっといい経験になる。と言われた。KandyからKandalamaまでは2時間ほど離れている。バスの方が安いからバスで行くと伝えると、いくら払うかは自分で決めていい、その答えがタダならタダでもいいと言われ、うますぎる話に半信半疑ながらもその誘いに乗ることにした。翌朝8時に宿まで迎えに来てくれて、まずはKandyの中心部から20分ほど離れた小さい村にあるSamanの家に行き、彼の家族とセイロンティとともに団欒した。Kandalamaまでの道中、のどかな田畑と熱帯系の植生の景色が続く小さな村に、ぽつんと仏教寺があった。スリランカ全土には小さい寺院が数千と存在し、その寺院がある村々には100-150の家族が住んでるという。そして一家族が1日ごと順番に僧侶たちの食事を用意すると教えてくれた。自分を犠牲にして人々のために全てを捧げた仏陀、つまり僧侶たちへの感謝の行為であり、これはスリランカで2700年以上続く伝統であるらしい。スリランカに来てから、SadunとSamanだけでなく色々な人からカルマという言葉もよく耳にした。良い行動は良いカルマとして自分に返ってくると。そういえば昨日Kandyを案内してくれたのにも関わらず、お金は一切求められなかった。半日私の行きたいところやしたいことに付き合ってもらった上に、彼らの商売道具でもあるトゥクトゥクで移動していたので、宿に着いたときに私の気持ちのお金を渡した。そのときにも、ありがとう。これはgood moneyだ。私たちは本当にカルマを信じていて、Rikuにもgood karmanがきっとあるし、訪れる。と言っていた。私は村人が僧侶たちのために食事をつくるという伝統の話を聞いたときに、仏教というのはどういうものなのかということを深く理解した。それと同時に2人のことを少しでも疑った自分を恥じた。もちろん仏教徒であっても(スリランカでは約70%が仏教徒である)皆が皆良い人とは限らない。スリランカに来てから、押しの強い客引きや、わざと同情を利用した行為に良い気分がしなかったことも何度も起こり、人にもお金にも敏感になっていた。しかしそのとき私は、清らかなさらさらとした心地よい中で生まれた、心が押しつぶされるような気持ちをどこにもやりようがなく、トゥクトゥクの後部座席に座りながら静かに泣いていた。
景色がいいところで停まったり、昼食を共にしたり、約2100年前にDambullaという都市にある巨大な岩山を掘ってつくられた洞窟の中にある寺院を訪れたり、途中トゥクトゥクを運転させてもらったりしながらホテルに到着した。翌日の予定を訊かれ、5世紀に栄えた王国Sigiriyaの遺跡に行くつもりだと伝えると、10時をすぎると暑くなる(マチュピチュのような遺跡で入り口から頂上までは1時間ほどかかる)から早朝に出発した方がいい、よかったら明日も送ってあげるよ。友達の家が近くにあるから私たちはそこに泊まる。その辺りには原始的な生活をしている小さな村もあって、そこで触れられる体験はRikuもきっと気にいると思う。と言われた。その日彼らとずっと話していて、彼らがどういう人間か理解し、私がどんな人間でどういうものを求めているのかも理解していてくれていたので、今回は迷うことなくお願いした。ホテルで夕食を食べると高いだろうから、また夜迎えにくるから友達の家で一緒に食べないかとも誘われたがGeoffrey Bawa建築を堪能したかったし、連日の移動の疲れと自分の中で消化したいこともあったので、その誘いは断ることにした。
翌日遺跡を訪れた後、Samanの弟の娘が働いているフルーツジュースが美味しいカフェで少し休憩し、人里離れた村へと向かった。トゥクトゥクで行けるところまで行き、そこからは水牛に引かれてジャングルとも森ともつかない景色の中、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつくのを感じながらゆられていた。20分ほど進んだ先には、東南アジアの原風景(スリランカは南アジアだがここだけは少し違っていた)という言葉が似合う景色が広がっており、村人たちが長い年月をかけて歩いてつくった轍が続いていた。横には湖、反対側には家が小さく見える。湖岸には村人が手でつくった小舟が数隻あり、そのうちの一つを��してもらった。風も声もなく、ただ静寂が漂い、平和そのものだった。Sadunがたまに陽が沈んでから友達や家族と飲んだり話したりすると言った瞬間、私はその光景を想像した。今みたいに肌を焼く太陽は姿を隠し、月明かりが湖一面を照らす。もしかしたら夜は虫たちの歌声が聴こえてくるかもしれない。澄んだ静寂は愛する人たちとの会話で掻き消されるが、この平和はそこにあるままだ。これ以上何を求めるのだろうか。水面を覆う蓮の葉で帽子をつくってもらったりもした。昼食をそろそろ食べようかということで湖岸へは私が舟を漕いだ。先ほど遠くに見えていた家に到着すると、まだこの世に生を受けて10ヶ月しか経っていない子どもを腕に抱えながら料理をしている30代ぐらいにみえる夫婦が待っていてくれた。家の柱や壁、台、椅子などは木と土で、屋根はココナッツの葉でつくられていて、窓はない。電気やガスは通っておらず、水も近くの井戸に汲みにいくという。土でできたかまどの前で奥さんが子どもをあやしながら、土鍋で炊いている米の具合を確認していて、旦那さんは裏の庭でとってきたココナッツを割ってウェルカムドリンクをだしてくれた。裏庭で採れた野菜とスパイスでつくった3種類のカレー、ココナッツから抽出した油をつかった湖で釣った魚のフライ、ココナッツの果肉をトマト、スパイス、ライム汁を合わせてすり潰したもの(これが一番美味しかった)、すべて自分たちでつくったもので昼食を振舞ってくれた。お腹いっぱい食べた後には屋根になるココナッツの葉の編み方も教わった。彼らは住処を建てられて、舟の作り方も知っていて、近くでは魚も釣れて、フルーツや野菜の育て方も知っていて、またそれを余すことなく食べて、残った食べられない部分の他のことへの使い道も知っている。もしかしたら”教育”こそ受けていないかもしれないが、彼らは”自然”をよく知っている。
Sadunが言っていた。ここの村では気候が比較的いいので人々は”自然と生きる”伝統文化が残っている。他には酪農や陶磁器、ジュエリーなどその土地の環境に適したそれぞれの伝統が色濃く残っているらしく、お互いの伝統を交換して足りないものを補い合い、支え合いながら伝統を守っている。ここでの生活はシンプルでお金は持ってないが皆、”生きる”ために仕事をして平和に幸せに暮らしているのだと。しかしスリランカでも現代化が急速に進んでおり、今の若者はこの生活を知ることはなく、遠くない未来にはそれらの伝統は消え去るだろうと嘆いていた。Sadunは知識が豊富で、今世界で何が起こっているのか、何が流行りの思想なのかも知っていた。だからこそ彼は、私をここに連れてきたかったのだろう。
これを書いていると2人の顔が見たくなりSadunに電話(Samanは携帯を持っていない)をすると、彼の気持ちのいい笑顔が画面に広がった。内臓が少し悪く、この数日間入院していたと言われ心配したが、今は回復して翌日には退院できると聞いてひとまず安心した。電話中にちょうどSamanがSadunの見舞いにやってきた。本当に仲がいいなとこちらまでほっこりし、最後2人と別れたときのことを思い出した。私が3日間の感謝の気持ちのお金をSadunに渡したとき、Samanに気づかれないようにその3分の1を受け取り、残りをSamanに渡していた。仏教の教えに「自他不ニ」というものがある。Samanが見舞いにやってきたことも、Sadunが自分の取り分を少なくしたことも、彼らが私にしてくれたことも、そのすべてがその教えを体現していた。
私は自分を仏教徒だと思ったことはない。スリランカでの体験をした今、なおさらそう簡単に口にはできない。しかし、今まで以上に仏教の教えとは身近に生きたいと思うようになった。2人に感謝する。
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ambarna2024 · 8 months ago
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241022 スペイン滞在一ヶ月日記 〜お金と仕事とスペイン語〜
バルセロナに到着してから1ヶ月が経ちました。ビザの期間の1/12がもう終わってしまったのか……!!早いです。
語学学校に通い始めたけど、改めてスペイン語むずかしいな〜、って思う。圧倒的にインプットが足りない。
スペイン語を学び始めてから出来るだけインプットしようとしてきたつもりだけど、やっぱり英語と比べると全然足りない。留学時点でも既に10年ぐらい経験してた&日本での生活でも日常的に単語が入ってくる英語と違って、スペイン語のインプットが本当に足りない。わからない・慣れてない単語がまだまだ日常にありすぎる。
カナダに留学した時も、全然自信を持って話せはしなかったけど、ある程度聞き取れはしたし、基礎的な単語は大体知ってた。知らないのはビジネス用語とか政治の用語とかスラングとかだった。カナダ留学の間で、もちろん語彙力も増えたと思うけど、何よりimproveしたのは話す能力とか、「英語を使う力」だったと思っている。単語がわかんなくても、わかる単語をこねくり回して説明する力とかね。
それが今回は、基礎的な語彙もないままスペインにいる。一応来る前にDELE A2は取ったはずなんだけど……でも基礎的な語彙の足りなさというか慣れてなさをとても感じる。「わかる単語をこねくり回して説明する」ことすらできなくて落ち込む。
会話の中で、bringってスペイン語でなんていうんだっけ、とか、antesとdespuésとhastaってどれがどれだっけ?!とか。英語のbeforeやafterは日本語でもビフォーアフター、って使ったりするから、日本でしか生活したことなくても勝手に馴染んでいたけど、スペイン語はそうはいかない。混乱しながらも、とりあえず口をついた単語でどうにかしている感じ。幸いにも意地悪な人にはあまり出会っていなくて、みんな汲み取ろうとしてくれるからなんとかなってる……。ただ、Graciasの発音だけは上手くなった気がしています。
学校は楽しい。先生はスペイン語でしか喋らないけどやるべき事を理解できるようにしてくれるし、同じぐらいスペイン語が話せないクラスメイトたちがいてくれるから、間違えるのも怖くないし頑張ろうって思える。ていうかシンプルに語学学ぶのが好きなんだな自分は、って思ったりもする、大学でも英語やってたし。
あとは通う場所を作るっていうのはとても大事!と思った。週2回だけだけど、ルーティンができたのは生活においてとても良い事だったと思っています。
学校は一旦3ヶ月だけの予定、そこでどれだけ伸ばせるかなあ。11月からのお家もそういえば決まって、そこは多国籍なシェアハウスなんだけど、オーナーがスペイン語しか話せないから、いい訓練になりそうです。
これ私帰るまでにスペイン語話せるようになるのか?って不安もあるけど、カナダは6ヶ月だったところ、スペインは1年間いられるので、まぁ、なんとかなるでしょう。なんとかするためにも勉強をしようね私。単語増やすことと使い方に慣れることが必要だと思っている。
さて、1年間いるためには仕事をしてお金を稼がねばなりません。
どんぶり勘定&ぼかしも込みで金額はぜんぶ"約"だけど、片道チケット15万、エアビー1.5ヶ月滞在で30万、学校6万、その他諸経費も含めると80〜100万円ぐらいは使ってる気がするんだよね、たった1ヶ月で。一ヶ月間でこんなにお金使ったことないかもしれない。円安つらすぎる。1€=¥120ならいいのに!!!
加えて、決めたお部屋はちょっぴり予算オーバーなので、このまま働かないと早めの帰国を余儀なくされてしまう。せっかくヨーロッパにいるので、いるうちに近隣のいろんな国にも行きたいし、毛糸も買いたいしって考えると早く働かないとだなあ。悩んでる場合じゃねえなあ。切羽詰まった気持ちで動こうね〜私ィィ。
とりあえず探すのはパートタイムジョブのつもりだけど、もっとスペイン語ができるようになったらまた仕事探しか起業ビザの手続きをして、スペインでの仕事を見つけて滞在延長(ビザ更新)or日本での仕事が見つかっている状態で帰国、のどっちかにするって決めてる。未来の私、頑張ってくださいね。
前回、「働ける間のことしか考えてなくて、老後のことをこっち来てから考えるようになった。老後も異国���過ごすことは私に可能なのか?」って書いた。母国語の通じない国で老後過ごせる気がしない!って。
まあ、あん時ほんとにビビりすぎてたなとは思う。目にする何もかもに対してビビってた。(笑)
9月中に家が決まらず、思い切って取った丸1ヶ月滞在のエアビーでかなり気持ちは落ち着いて、こっちでの老後もいいかな〜とか思ってみたり、やっぱり不安になったり、気持ちはゆらゆらしている。
で、仕事について考え始めてみたりしながら、「老後」がどうこうより、その手前の「働ける間」のほうについて考え直した。
私アラサー、ここからまだまだ「働ける間」がめっちゃ長いことに気付いたのよね。ずっと健康と仮定しての話ではあるけど、あと30年〜40年ぐらいある。
その30〜40年をどう過ごすかのほうが、いまから老後のこと考えるより大事なんじゃないかな?って。老後のために生きてるんじゃないし。
ここからの30,40年をどう過ごすか、どの場所でどのようにコミュニティを築いていくかで老後の過ごしやすさも変わっていく。だから、働けるうちはスペイン、老後は日本で!ってやるとむしろ生きにくいだろうなとは思う、いくら老人大国の日本であってもね。だからそれはしないつもり。
実際、長く外国に住んでた人が、「もう両親も亡くなって、日本に友達もいないけど、仕事も家も無しの状態で日本に帰らなきゃいけなくなってとても苦労した…」みたいな話を最近Twitterで読んだし。そうなる可能性を考えると怖い〜〜。
自分は○○のプロフェッショナルです!って言えたらまた気持ちとか仕事の探し方が違うのかもしれないけど、今の自分はまだそれも言えない状態というか。もうアラサーだけど。
職歴もあるし「今までやってきたこと」は確かに存在するんだけど、それをこのまま続けたいのか、ライフバランス的に続けていいのか(たぶん続けないほうがよさそう)、キャリアパスを変えるなら何ができる?みたいな悩みがある。
何かのプロフェッショナルだったら仕事探しも簡単、というか逆に、何のプロフェッショナルでもない+現地の人じゃない人間が仕事に就くのは大変だと思う。実際そんな話も聞いたし。
でもキャリアパス変えるにしても変���ないにしても、日本でだって転職は大変だもんね。乗り越えるべき壁はあんまり変わんないかも〜、って気楽に考えてる。こっちだと大変すぎるから日本でやる、って考えはあまりないなぁ今のところ。実際の壁にぶつかったらまた心持ちも変わるのだろうけど、「仕事がない」ことで有名なスペインにおいて生きていくのに、こんな感じで大丈夫なのだろうか。(笑)
日本を出たいと思ったきっかけを思い出すような出来事もこの一ヶ月の間にあって、ああそうだ、帰ったらまたあの中だ、嫌だわ。って思ったのでいまはこちらでの就職にとても意欲がある。なんの仕事か知らないけど、こっちで出会うフランス人はスペイン語ができなくても仕事があるみたいで、うらやまし〜〜!ってずっと思ってる。チクショウ。(笑)
でも母国語のまんま外に出られるって本当にいいなーって思う。羨ましい。スペイン語は中南米でも話されているからそっちからきてる人もたくさんいるみたいだし、語学学校のクラスメイトにイタリア人いるけど、スペイン人はイタリア人が何言ってるか大体わかるってよく言うじゃない?言語が全く一緒じゃなくても、そのレベルで通じる国があるって羨ましいよ。私は、スペイン語が通じなかった時の手段は英語であって、母国語ではないもの。
そういう疎外感?劣等感?みたいなものを感じてもなお、私はまだここにいたいな〜できればずっと居たいな〜って、今のところ思っています。
とりあえずスペイン語を頑張る!今できることはそれしかない。Netflixでスペイン語のドラマ見てます。
あとは、スペイン語ができなくても働けるパートタイムジョブを見つける!できればそこでスペイン語も学べればいいけど多くを求めすぎずにいこう。稼げるだけありがたいんだから。
仕事の悩みも、結局動いてみないことにはわからないからさ。当たって砕けていこう〜。
日々めちゃくちゃのんびりしていますが、志がないわけではなく、私は志を温めて温めた末に、急にパンパン動き出す人間なので、のんびりが必要な時は思う存分のんびりしながら、やるべきことをちゃんとやる生活を目指します。
おわり🧡
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chabatayuka · 9 months ago
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幼い頃に祖父から聞いた、高速道路の建設で受ける動植物への悪影響の話。絶滅危惧種の存続が絶望的だと。 その開発を止められない人間の話。それに絶望している祖父。 人間の行いにうんざりしながら山にこもり、むささびとかもぐらとかツバメとかを観察し続けている伯父。 好きな木の周りの土地を買い取ったり、その木が切られないような仕組みをつくり続けている伯父。
祖父の発言や行いの影響を受け、その次の代として、伯父は山や自然を守るっていうことを自分なりの方法で戦いながらやろうとしているのかもしれない。それでもやっぱり自然は壊されつづけ、温暖化は止められなく、より未来に希望が持てない状況になっていくんだと、その下の世代のわたしは絶望感に苛まれるんだけど、ある人がそんなのは夢だと言う。幻だと。 人間のしていること、そこから起きる環境破壊とか、それらを含めて「自然」だと捉えると 人間のつくるビル群も自��の一部にすぎないから、と、その人たちは言う。それはそうだなとわたしも思う。
人間を「自然の一部」として考えるときと、「人間 VS 自然」と対立項として考えるときとで、出てくる答えが180度違うものになることがあって。「人間 VS 自然」で考えるときはよりよい未来のためにこうしなきゃ、こういう行動を取らなきゃ、みんなにこうしてって言わなきゃ、といったことを思ったり、物事を人間の行動次第で動かせるって思ったりするけど、「人間は自然の一部」だという前提だと、そういうことはなんかちょっと発想自体がズレたことなんだろうって感じる。理想主義がよくないっていう意味ではなくて。人間が自然をコントロールできるという、人間上位の概念の中で捉えてないとそういう発想ができないのだけど、でも人間って自然の一部じゃん?って考えると、そう言えなくなる自分がいる。
たとえば、人間の習性。 一度知ってしまったことは手放せないっていう、歴史が証明するおそろしい人間の習性。飛行機とか原発とか、ゲームとかだってそうだろうし、私だってそうだ。 私の場合、歯科医療における麻酔治療とか、お風呂に入れることとか、水道から水が出ることとか、やわらかい布団とか トイレがぼっとんじゃないということとか。
水道がない時代にタイムスリップしたとして、 毎回大雨のたびにぼっとん便所の水が溢れ出てきて、それを汲み出さなきゃいけない環境にあったら、それは必死で未来の水洗目指して動くと思う。まずは水を引こう!って。私は水道をつくるような動きを頑張っちゃうんじゃないだろうか。 麻酔治療がない世界に行ったら、麻酔ってこんなに便利で楽になるんだよって、作ろうと躍起になると思う。 それを知らない世界の方が圧倒的にサステナブルで、エネルギーを過剰に使わない世界だったと分かっているのに、経験に基づくひとつひとつの「便利」に向かってどうしても動いてしまう気がする。
それらが無い世界は、現代の世界よりも圧倒的にサステナブルだろうと思う。星は綺麗に見えるだろうし、夜は暗い。空気ももっと綺麗だろうし、水の汚染も最低限で済むと思う。
でも自分がそこに行ったら「こっちだよ」「こんなに便利な策があるよ」って現代の便利さをイメージしながら言っちゃうと思うし、映画とかでタイムスリップした人たちみんな「こういうふうにした方がいいよ」って、自分の経験した便利さに向かうような動きをする。
それって翻せば、それがない世界線の方がサステナブルで環境問題が大きくなりすぎないとしても、でもやっぱり自分が知ってしまったひとつひとつの小さな便利さは手放せなくて、どうしてもそっちに向かっちゃうのではないかということなのだろう。 手放せない問題はでかい。
よりよい未来、つまりわたしにとっては、環境問題が解決していく未来だったり、戦争の可能性がより低くなっていく未来の方に私は向かいたいと強く思うけど、その「よりよい未来」の前提としてそもそも「人間」ってものを捉えられているか? どこか人間の性を、ある面では無視しながら、良さげなことを言ってるだけな部分があるのを否定できない。
そういう意味で、 哲学は人間の本性を捉えようとしているから 本質を見つめようとしているから、その都合のいい視点からズレることができて好きなんだと思う。
美術や作品は、人間の性みたいなものが、ひとりの人間から否応なくにじみ出てしまうことがあるから、 世界の捉え方がものすごく違っていて、わたしが気付けないもうひとつの視点がそこにあったりするから わたしは彼らのそういう作品につよく惹かれるんだと思う。
いったいどうしたらいいんだろうっていうのをずっと考えてきたら、ここにきた。 いま私は「哲学をする」にアプローチしたり、作家に焦点を当てて誠実に展示することがとっても大事だこ��だと思っている。
全然はしょれなくて長くなってしまったけど、展示の前に書いておきたかったこと。
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