#おしゃたか舟神事
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明石 岩屋神社 おしゃたか舟神事・2
岩屋神社は、明石城の産土神
港の沖合で漁船に乗り込む六人衆。1艘に1人で、6艘に別れて乗り込む。別に神職など神社関係者の船があり、7艘(他に報道用の船あり)で西に向かい、林崎松江海水浴場沖合の 「赤石」 が海中にある所で、海上渡御式を行う。海上渡御式の写真が手に入らない。
下の写真は漁船に乗り込むまでを時系列に並べた。「おしゃたか舟神事・1」と別画像だけ��、内容は同じなので説明は省略。説明を見たい場合は下端にリンク有。
舟の横にぶら下げてあるタイヤはこんな風に使うんだね
おしゃたか舟神事の次第は「おしゃたか舟神事・1」を見てね:
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昭和の大修理の際の西岡常一棟梁の言葉をまとめた、「法隆寺を支えた木」をぜひ読んでみてください。 1400年経ったヒノキにかんなをかけると、新品のヒノキと同じ香りがするそうです。 瓦屋根の下地には、杉の樹皮が使用されていますが、これも1000年以上前のものだそうです。 1200年前のヒノキですが、新品のヒノキと同等の強度があるという実験が紹介されていました。 ヒノキは、切り出した後から、結晶化が進行し、強度を増していくそうです。 もっとも強度が上がるのは、切断した約200年後。 すべての結晶化が終わってから、強度の劣化が始まると想定されていますが、 1200年経った、現在、切り出したときと同じ強度にまで強度が低下したのではないか、ということでした。 五重塔は、芯柱が子供がしゃがめるぐらい?浮いているらしく、 西岡常一さんは、「たぶん建築中に腐ってきたから、切断したんじゃないでしょうか?」とおっしゃっていました。 キッチンも御風呂場もなく、冷暖房による結露も発生せず、通気性抜群で、雑草はもちろん、日差しを遮る樹木もないような状況であれば、木材は腐るはずがありません。 法隆寺だけではなく、薬師寺の如来、菩薩、東大寺の仁王像、興福寺の阿修羅像、古くからある仏像などは、細い指先までも、一切腐りません。 それより不思議なのは、弥生時代の遺跡から、地下水につかった状態の杉で作られた舟が残っていたり、古墳時代からきれいな壁画が残っていた高松塚古墳を現代人が発掘し、以前と同じ環境を人工的に作り出したら、大量のカビが発生して、壁画が消えかけてしまったりすることのほうが不思議です。 法隆寺では鉄をたたいて作った釘が現在でも活躍しています。 いったん、外したのですが、同じような釘を作ろうとすると、とてつもない手間がかかるようで、同じものを使用することにしたそうです。 なんでも、鉄を何層にも重ねてたたき、さらに重ねてたたくことによって、木の年輪のように作り、奥までさびが進行しないようになっているそうです。 法隆寺に至るまでにたくさんの寺社仏閣が建てられましたが、いずれも数十年で腐ってしまいました。 山田寺など。 現在でも、木曾のヒノキを使用して、伊勢神宮が作られますが、20年ごとに建て替えています。 原因は、ヒノキの柱を地面に埋める工法を採用しているからです。 法隆寺を含めた古いお寺は、仏様を守りたいという先人たちの知恵の結晶なのでしょう。 最近では、現代人が文明を持ち込むため、たくさんの木造建築が破壊されています。 法隆寺の昭和の大修理では、金堂壁画の絵を模写して、保存しようとしていた人が、寒いからと暖房器具を持ち込んだために火事が発生し、法隆寺の金堂は全焼してしまいました。 金閣寺は、放火によって、全焼してしまいました。 東大寺の南大門は、クレーン車が、通行する際に、クレーンが上がったままになっていることに気づかず、南大門の主要建築材に多大なる破損を与えてしましました。
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週末の朝、まだ夜の残滓が肌にまとわりつくような時間に、僕は車に乗り込んだ。三年目の正直というべきか、もはや恒例となったセミナー撮影のためだ。寝不足で鉛のように重い身体に鞭を打つ。東北道を北上しながら、去年のセミナーを思い出していた。認知症は神様からの贈り物だと語る、どこか浮世離れした雰囲気の先生だった。「死の恐怖から逃れる術として、あるいは老後のささやかな我が儘を受け入れてもらう余白として、認知症は存在する」そんな話に、会場は何度となく頷き共感に包まれた。
「たくさん笑って、たくさん人に触れて、たくさん幸せホルモンを出して生きてください」。その言葉が、助手席に置かれたコーヒーカップの湯気のように、ふわりと脳裏をよぎる。
新しい車に搭載されたクルーズコントロール機能は、まるで有能な秘書のように僕の運転を楽にしてくれる。おかげで、過去の記憶の断片が、思考の海を漂う小舟のように次々と浮かび上がってきた。毎年心待ちにしている朝ラーの暖簾をくぐり、熱い麺をすすり終えると、いよいよ撮影の準備に取り掛かる。今回の講師は、PTSDの専門家だ。

彼の言葉は、まるで精密な外科手術のように、心の奥底に潜む感情の結び目を解きほぐしていくようだった。「悲しみに心が死んでしまうと、あらかじめプログラミングされたアンドロイドのように学習された日常を繰り返すだけになる。哲学的ゾンビのような状態だ。話すべき時、そして話すべき人に触れた時、初めての悲しみは、真の悲しみとして流れ落ちていく」。弱音を吐ける場所が、人には不可欠なのだと彼は語る。福島の地で、放射能の風評被害を恐れて薄っすらとした言論統制が敷かれ、心の傷を語ることが難しい人々の話。一方で、戦争の記憶が深く刻まれた沖縄には、弱音を吐くことを許容する文化があるという。それがどれほど人の心を軽くするか、彼は研究結果を交えながら静かに、しかし力強く訴えかけた。男は年を重ねるごとに弱音を吐けなくなる。そういう仲間を失い、自らもまた、その殻に閉じこもっていく。それはつまり、受容の欠如だ。愚痴をこぼしたところで、「まぁまぁ、それはね、仕方ないじゃん」と、紋切り型の慰めで片付けられる。なるほど、僕が適当な感情を分け合える相手は、いつも決まって女友達だった。その事実に、苦いコーヒーをもう一口、喉に流し込んだ。

母の死を考える。油断するとすぐにその沼に浸ってしまう。
なぜ、これほどまでに、これでよかったと思えないのだろう。母との関係が残した障害は、まるで古い家具についた傷のように、いつまでも僕の心に刻まれている。母が息を引き取ってからというもの、そのことばかりを考えていた。母は苦しみながら死んだ。それに引き換え、義父は「もう悔いを残すことはない」と言い残して逝った。その差ではないか?母との関係のこじれが、永遠に心に深い影を落としている。母の信仰を受け入れることができない以上、仕方のないことだと頭では理解している。それでも、なお、だ。忘れることもできない。許されることもない。ただ、僕がこの世を去る時、娘には「悔いはない、ありがとう」と伝えよう。この、底知れぬ思いだけは、娘に味わわせたくないのだ。
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そのじいさんが亡くなった。 昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。 安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。 そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。 正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。 実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロック��け会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。 母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。 じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。 じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。 寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。 じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。 そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。 その日にはもう私��実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。 そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。 それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。 死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。 最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。 最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。 父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。 父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなた���ことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。 父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。 亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。 ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。 (ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった) そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。 こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだ��カイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。 生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。 生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。 じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。 それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。 ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。 私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。 私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。
実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)参
通巻第8070号
AIは喜怒哀楽を表現できない。人間の霊的な精神の営為を超えることはない
文学の名作は豊かな情感と創造性の霊感がつくりだしたのだ
*************************
わずか五七五の十七文字で、すべてを印象的に表現できる芸術が俳句である。三十一文字に表すのが和歌である。文学の極地といってよい。
どんな新聞や雑誌にも俳句と和歌の欄があり、多くの読者を引きつけている。その魅力の源泉に、私たちはAI時代の創作のあり方を見いだせるのではないか。
「荒海や佐渡によこたう天の川」、「夏草や強者どもが夢の跡」、「無残やな甲の下の蟋蟀」、「旅に病で夢は枯野をかけ巡る」。。。。。
このような芭蕉の俳句を、AIは真似事は出来るだろうが、人の心を打つ名句をひねり出すとは考えにくい。和歌もそうだろう。
『春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天香具山』(持統天皇)
皇族から庶民に至るまで日本人は深い味わいが籠もる歌を詠んだ。歌の伝統はすでにスサノオの出雲八重垣にはじまり、ヤマトタケルの「まほろば」へとうたいつがれた。
しかし人工知能(AI)の開発を米国と凌ぎを削る中国で、ついにAIが書いたSF小説が文学賞を受賞した。衝撃に近い��ュースである。
生成AIで対話を繰り返し、たったの3時間で作品が完成したと『武漢晩報』(12月26日)が報じた。この作品は『機憶(機械の記憶)の地』と題され、実験の失敗で家族の記憶を失った神経工学の専門家が、AIとともに仮想空間「メタバース」を旅して自らの記憶を取り戻そうとする短編。作者は清華大でAIを研究する沈陽教授である。生成AIと66回の対話を重ね、沈教授はこの作品を「江蘇省青年SF作品大賞」に応募した。AIが生成した作品であることを予め知らされていたのは選考委員6人のうち1人だけで、委員3人がこの作品を推薦し
「2等賞」受賞となったとか。
きっと近年中に芥川賞、直木賞、谷崎賞、川端賞のほかに文学界新人賞、群像賞など新人が応募できる文学賞は中止することになるのでは? 考えようによっては、それは恐るべき時代ではないのか。
文学の名作は最初の一行が作家の精神の凝縮として呻吟から産まれるのである。
紫式部『源氏物語』の有名な書き出しはこうである。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」
ライバルは清少納言だった。「春は曙、やうやう白く成り行く山際すこし明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(清少納言『『枕草子』』
「かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経るひとありけり」(道綱母『蜻蛉日記』)
額田女王の和歌の代表作とされるのは、愛媛の港で白村江へ向かおうとする船団の情景を齊明天王の心情に託して詠んだ。
「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕こぎ出いでな」(『万葉集』)。
「昔、男初冠して、平城の京春日の郷に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。」(『伊勢物語』)
▼中世の日本人はかくも情緒にみちていた
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」(『方丈記』)
『平家物語』の書き出しは誰もが知っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏(ひとへ)に風の前の塵におなじ」。
『太平記』の書き出しは「蒙(もう)竊(ひそ)かに古今の変化を探つて、安危の所由を察(み)るに、覆つて外(ほか)なきは天の徳なり」(『太平記』兵藤祐己校注、岩波文庫版)
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」(『徒然草』)
古代から平安時代まで日本の文学は無常観を基盤としている。
江戸時代になると、文章が多彩に変わる。
井原西鶴の『好色一代男』の書き出しは「「本朝遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
上田秋成の『雨月物語』の書き出しはこうだ。
「あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉(もみぢ)見過しがたく、浜千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽(ふじ)の高嶺の煙、浮島がはら、清見が関、大磯小いその浦々」。
近代文学は文体がかわって合理性を帯びてくる。
「木曽路はすべて山の中である」(島崎藤村『夜明け前』)
「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜ぬかした事がある」(夏目漱石『坊っちゃん』)
「石炭をば早はや積み果てつ。中等室の卓つくゑのほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒らなり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌カルタ仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人ひとりのみなれば」(森鴎外『舞姫』)。
描写は絵画的になり実生活の情緒が溢れる。
「国境の長いトンネルをぬけると雪国だった」(川端康成『雪国』)
谷崎潤一郎『細雪』の書き出しは写実的になる。
「『こいさん、頼むわ』。鏡の中で、廊下からうしろへ這入はいって来た妙子を見ると、自分で襟えりを塗りかけていた刷毛はけを渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据みすえながら、『雪子ちゃん下で何してる』と、幸子はきいた」。
「或春の日暮れです。唐の都洛陽の西の門の下に、ばんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました」(芥川龍之介『杜子春』)
▼戦後文学はかなり変質を遂げたが。。。
戦後文学はそれぞれが独自の文体を発揮し始めた。
「朝、食堂でスウプをひとさじ吸って、お母様が『あ』と幽(かす)かな声をお挙げになった」(太宰治『斜陽』)
「その頃も旅をしていた。ある国を出て、別の国に入り、そこの首府の学生町の安い旅館で寝たり起きたりして私はその日その日をすごしていた」(開高健『夏の闇』)
「雪後庵は起伏の多い小石川の高台にあって、幸いに戦災を免れた」(三島由紀夫『宴のあと』)
和歌もかなりの変質を遂げた。
正統派の辞世は
「益荒男が 手挟む太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐えて今日の初霜」(三島由紀夫)
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」(同)
サラダ記念日などのような前衛は例外としても、たとえば寺山修司の和歌は
「マッチ擦る つかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや。」
わずか三十一文字のなかで総てが凝縮されている。そこから想像が拡がっていく。
こうした絶望、空虚、無常を表す人間の微細な感情は、喜怒哀楽のない機械が想像出来るとはとうてい考えられないのである。
AIは人間の霊感、霊的な精神の営みをこえることはない。
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2024年11月7日(木)

今朝はよく冷え込んだ。お昼のニュースでは東京と近畿で<木枯らし1号>が観測され、去年より東京で6日、近畿で4日早いとか。さすがに<立冬>だけのことはある。あわててリビングに出しっぱなしになっていた扇風機を仕舞い、石油ストーブを出して試運転、昨日灯油を買っておいて大正解。しかし、夏が長く秋が���い、高齢者には生きづらい世の中になってきたことだ。

5時起床。
日誌書く。
ツレアイが起きて、洗濯開始。

朝食は、奥川ファームの最後のそば。
洗濯物を干す。
珈琲をいれる。
彼女は昼までの勤務、弁当はなし。
プラごみ、30L*1。
彼女の職場経由で出勤。

順調に到着する。
換気、ラジオ体操第一、お茶。
木曜日1限は<共生社会と人権>、前回の<障がい者>の復習で<発達障がい>について補足の映像を見て貰う。今回のテーマは<同和問題を考える>。近年は大阪の子でも部落問題を知らなくて当たり前、<士農工商>も教えなくなったので、<ケガレ>の概念を中心に解説する。
水曜日の入力課題をチェックする。
早めに退出。

何とか昼前に帰宅。

次男は既にランチを済ませていたので、三男にレタス炒飯。
彼女が帰宅したので、残りものパスタ+🍷。
BSシネマを録画モードで鑑賞する。
「駅 STATION���
高倉健の代表作の一つ。脚本・倉本聰、監督・降旗康男。北海道を舞台に、ある刑事の人生と、宿命的に出会うさまざまな女性たちを描く重厚なドラマ。刑事の三上は、過酷な日々と、射撃のオリンピック代表選手としての重責に耐えかね、妻と幼い子どもに別れを告げる。犯人の妹や、飲み屋を営むおかみ、女性たちの悲しい人生と孤独な三上の人生が交錯し10余年にわたる歳月が過ぎていく…。劇中を流れる八代亜紀の『舟唄』も印象的。 放送日時:11月7日(木)午後1:00~午後3:13 内容時間:2時間13分 〔製作〕田中壽一 〔監督〕降旗康男 〔脚本〕倉本聰 〔撮影〕木村大作 〔音楽〕宇崎竜童 〔出演〕高倉健、倍賞千恵子、いしだあゆみ、烏丸せつこ、古手川祐子、根津甚八 ほか(1981年・日本)〔日本語/カラー/レターボックス・サイズ〕
夢中になって観てしまった。
彼女はあちこち買物、私は扇風機を片付けてストーブを出す。
夕飯前にココに点滴。

昆布締めポーク、厚切りなのでやはり3日は必要。今夜から、サバ缶とタマネギスライスの和え物をみなでいただくことにした。
録画���組視聴。
春風亭一之輔の江戸落語入門 (5)今も昔も変わらない親子の噺
初回放送日:2024年11月5日 春風亭一之輔さんが、ディープな落語の世界にあなたをご招待。落語をぜんぜん知らない人も楽しめる!さらに、NHKに残る名人たちの名演VTRにはマニアも垂ぜん。今回は今も昔も変わらない親子の話。「初天神」は子供が駄々をこねる様子が見どころ。こまっしゃくれたオチに爆笑。「やぶ入り」はじんわりほろり、子を思う親の気持ちに共感する。
久しぶりに米朝のDVDから、「骨つり」「まめだ」。
今夜も風呂前にダウン、布団に吸い込まれる。

買い物に出なかったので、こんな数字。
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天神釣池のはずが…

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
どうも、こんにちは。10月20日(日)は、hrkさんと天神釣池に行くはずだったんですが、6時半頃、自宅を出ようとしたところ、先着したhrkさんから「(駐車場がいっぱいで)第二駐車場です」「例会が入ってるけど奥は空いてるみたいです」「(ガオさんが)まだ家やったら水藻FCに変えます?人大杉」って具合で、水藻FCに変更になりました。僕は、駐車場から車を出すところやったからいいんですが、hrkさんが兵庫県川西市から大阪府貝塚市まで大移動。お疲れ様です(汗)。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
天神釣池は、hrkさんがやめとこうと思うぐらい人が多くて、大きな大会が開催されてたのかな?水藻FCも例会が入っていて旧桟橋にズラッと20人ぐらい並んでいたけど、新桟橋は余裕で入れました。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
さて、準備を始めるか。急に冷え込んで東から爆風が吹いています。風対策に大きくてトップの細い浮子…ってことで、0.6mmソリッドトップの舟水の「両ウドン・グルテン底 極細ソリッド」の15番を使います。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
竹竿は「流れ雲 さつま 皮付」の14尺です。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
8目出しでエサ落ち目盛りを取ったと思うけど、ダンゴ1:グルテン4のグルダンゴで4目出しスタートなので4目盛なじんでますね。凄い爆風で細いトップが斜めになる。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
全然っ釣れねえ…どうしよう(^▽^;)
9時35分、なじむ途中で浮子がズボッと入って、釣れちゃった(汗)って思ったらブルーギルでした。20cmもないけどまあまあ引きました。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
全然釣れへんわ。どうしよう…。hrkさんは、入手した「朴生」の硬式9尺のチョーチン両ダンゴで数枚釣ったかな?

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
10時46分、サワリがあったから誘ったら浮子が「ツン」と入った!乗ったー!つ・い・に���。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
センターバッチリ!ボウズ脱出〜!ホッとしましたw。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
いつも買ってるサンドイッチは「とある事情」で昨日に入手したので賞味期限は今日の11時まで。ちょっと早めのお昼ごはんを食べて午後の釣り。14尺両グルテン床釣りはパッとしないので、グルテン宙釣りに変更します。風は収まってきたかな?竿は13尺の「げてさく」です。浮子は舟水の「PCオールマイティー(期間限定)」の14番。竿の尺より1番手大きめ。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
風は収まってきたし天気はとてもいい。でも激渋ですw。グルテン宙釣りは、カラツンが数回あったけど、グルテンのブレンドを変えたらサッパリになった…。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
両グルテン床釣りに変更したけどたまにサワる程度。途中でグルダンゴに変えたけど釣れない。15時半を過ぎてエサも無くなったのでラスト1投。

2024年10月 水藻フィッシングセンター(貝塚市) iPhone11
最後の1投なんだが、浮子がグーッと入っていった。
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
上がりベラ(歓喜)
ということで、10月20日はヘラブナ2枚、ブルーギル1尾でした。みなさんあまり釣れてなくて、釣る人がたまに釣るって感じ。チョーチンダンゴ→抜きセットとローテーションしたhrkさんはポツポツで10枚近く?かな。例会組の方から「もう来ないw」って聞こえてきたので激渋+例会のプレッシャーで釣れてなかったんかな?ズラッと並んでましたからね。
では、また。
#japan#写真好きな人と繋がりたい#streetphotography#snapshot#osaka#大阪#ファインダー越しの私の世界#釣り好きな人と繋がりたい#ヘラブナ#へら釣り#水藻フィッシングセンター
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販売元に理由を聞いた!「いつ終売したの?」もう食べられない、昭和~平成の名作お菓子��ち - ライブドアニュース
以下引用
「懐かしいな、食べたいな」と思ったお菓子が終売に。それはまるで“孝行したいときに親はなし”的な悲しみだ。気づけば消えていた昭和~平成生まれの名作を、まとめておさらい!
一時、フリマサイトで1箱1000円程度で出品
さよなら、チェルシー。ついにお別れの日が来てしまった。 (中略) 1971年に誕生した 『チェルシー』。♪もひとつチェルシー♪のフレーズが有名なCMソングは小林亜星さんの作曲だ。初代のシモンズからサーカス、八神純子、あみん、PUFFY、CHEMISTRYなど、人気アーティストによって歌い継がれてきた。 生前、小林さんも《すごい年月の間このうたを使っていただいたということは、とっても光栄》と語っていた(明治HPより)。 このCMソングでおなじみとなった『チェルシー』という名前は、3000ものネーミング案の中から選ばれたという。最終候補に残ったもうひとつの名前は『キングスロード』。こちらになっていたら、もっと雄々しいCMソングになっていたかも!? 昭和から令和まで、世代を超えて愛されたチェルシーだが、売り上げの低迷により終売が決定。《こんなことになるなら、もっと買って貢献すればよかった》という後悔の言葉がSNSで飛び交ったが、後の祭りとなってしまった。
��づけば消えていた思い出のお菓子は、ほかにもたくさん。'67年販売スタートの 『森永チョコフレー��』 は、子ども時代の定番おやつだった人も多く 《1箱全部食べて親に怒られたなあ》 《遠足で必ず買ってた》 など懐かしむ声が今も上がっている。販売終了は2019年。スマホ使用時にチョコで手が汚れていると支障が出ることが売り上げ減の一因とも指摘されたが、時代の流れの残酷さよ。
♪ポポロンロンロン ポポロンロン♪と歌いたくなる明治 『ポポロン』 は'76年から'15年に販売されていた。サクッとした一口サイズのシュー生地にチョコクリームが入ったお菓子だ。販売終了が報道されたのは'17年。知らない間に消えていたのだ。
ブルボン広報に『ルーベラ』終売の理由を尋ねると
同時期、『カール』の全国販売終了がニュースになったが、 《カールがなくなるよりポポロンがすでになくなっていたという事実のほうが悲しい》 などの声がSNSを駆けめぐった。 中には《チェルシーは大丈夫か?》とつぶやいていた人も。7年後、まさか現実になってしまうとは!
ロッテ 『霧の浮舟』 も恋しくなるお菓子だ。販売時期は'80年~'05年。その後'13年に完全復活するも'18年に終了となった。エアインチョコレートの草分けで、口の中でシュワッとなる感じが人気を集めた。 《独特の口溶けが忘れられない》 《名前やパッケージがおしゃれで大人な気分だった》 《一回復活したから、また復活してくれないかな~》 などの声が。前回は8年越しの復活だったから、次は'26年にもしかして……!?
コアなファンが多かったのが、ブルボン 『ルーベラ』 。 '72年デビューのバター風味ラングドシャクッキーで、'21年には『ルマンド』『ホワイトロリータ』『バームロール』『チョコリエール』とともに擬人化された美少女キャラのイラストが発表され、“ブルボン5姉妹”と話題を呼んだ。だが'22年に終売。 《探してもないと思っていたら販売終了してた》 《いちばん好きなのに、もうないなんて悲しすぎる》 《知ってたら大人買いしてストックしておいたのに》 と別れを惜しむ声が多くあった。ブルボン広報に終売の理由を尋ねると、 「多くのお客様からご愛顧をたまわり、誠にありがとうございます。半世紀にわたりご好評をいただいてまいりましたが、近年の原材料価格上昇の影響を受け、やむを得ず(販売)休止に至りました」 休止ということは、もしや復活の可能性も!? 「現在は大きさやグレードを高め、さらに満���感のあるラングドシャロール商品として、『贅沢ラングロール』を販売しています」(同・前) 『ルーベラ』ロス勢は、この贅沢ラングロールで涙を乾かそう! また、ほかの4姉妹たちの行く末が心配だが。 「発売50周年を迎えるルマンドをはじめとした袋ビスケット商品群につきましては、これからもみなさまに愛し続けていただけるよう種々の活動に取り組んでまいります」 とのこと。お願いしますね、ブルボン様!!
駄菓子では梅の花本舗 『元祖梅ジャム』 の終売も寂しかった。 《10円玉を握りしめて駄菓子屋に行ってよく買ってた》 と懐古する人も多い。'47年から'17年まで生産されたが、1人で製造していた梅の花本舗の社長が、加齢による体調不良、機械の老朽化、駄菓子屋の減少、売れ行き不振などの原因で廃業を決定。70年の歴史に幕を下ろした。報道時は 《またひとつ昭和が遠くなる》 《後世に引き継がれるべき昭和の遺産だった》 と惜しむ声がネット上にあふれた。
廃業といえば、佐久間製菓の 『サクマ式ドロップス』 も残念。赤色の缶のドロップは1908年の発売開始から100年以上も愛され、スタジオジブリのアニメ映画『火垂るの墓』にも登場した。 だがコロナ禍で売り上げが減少、原材料の高騰などから'23年1月に廃業。このニュースが流れると、ジブリはツイッター(現X)にサクマ式ドロップスの画像を投稿。SNSでは 《中学のころ、ポケットに缶を入れて、タバコみたいな感じでなめてた。カラカラうるさかったけど、当時はそれが粋だと思ってた》 といった声のほか、 《実家でボロボロの缶を発見。貯金箱としてもう30年も使ってるって》 というエモいエピソードが続々。ちなみに、別会社であるサクマ製菓の『サクマドロップス』は、現在も販売中。こちらは緑の缶が目印だ。
原料・資材高騰で20円売価を維持することが困難に
そして、'94年から販売された駄菓子の定番、よっちゃん食品工業の 『らあめんババア』 も'20年に終売。インパクト大のネーミング&パッケージイラストで、誰もが知るラーメンスナックだった。 《今でもときどき夜中に食べたくなる》 《お椀に入れてお湯をかけてラーメンにして食べるの好きだったなあ》 と、恋しがるネット民のため、よっちゃん食品工業に終売の理由を聞くと……。 「原料・資材高騰で20円売価を維持することが困難になったためです。みなさまから大変多くの声をいただき、また社内でも、長年製造していた製品につき惜しむ声も多くありました」(広報、以下同) 同社では、らあめんババアの代替品は検討していないそう。現在買える���社類似商品は『ベビースターラーメン』あたりになるの……? 「そのようになるかと」 ババアのロスはベビースターで埋めときますか! 生まれて消えて、また生まれて。諸行無常の響きありまくるお菓子戦線。今、口にしているお菓子も1年後にはなくなっているかも。そんな悲劇を回避したいなら、やはり買って応援、食べて応援!?
取材・文/今井ひとみ
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20230831
山行記(天狗岳登拝)

西天狗
二ヶ月ぶりの休みに北八ヶ岳の天狗岳へ。
天狗岳は西天狗と東天狗の二つのピークからなる双耳峰である。
二月前に北岳に登って以来仕事以外ではほぼ運動らしいことはしていなかったが足腰、心肺機能ともに衰えは特に感じなかった。登りも大して息は上がらず。最近はどちらかというと長い下りで飽きがくる方が心理面できつく感じる。自分に残された時間をどこかで意識するからかもしれない。

アカヌマベニタケ的な何かをすれ違うおばちゃんたちと交互に撮る。

私の骨は一部でいいから森に撒いてほしい。土から生まれたもんを食ってきた分、土に食われたい。あと海にも。

天狗岳の天狗茸

八ヶ岳の北端、蓼科山。諸星大二郎の国民的恋愛青春漫画『暗黒神話』にて主人公の武の父親が菊池彦によって殺害され、かつ蛇神タケミナカタの神が「アートマン(選ばれし者)」として武に蛇の聖痕を授けた場所でおなじみ。諏訪富士とも呼ぶらしい。

硫黄岳。火山の趣を残す。北側の崖部は爆裂火口とも山体崩壊の後だとも言われる。
彫刻家の舟越桂は学生時代通学途中のバスの窓から山を眺めていて「あの山はあの大きさのまま私の中に入る。」という思いが突然啓示として降りてきたという。それは人間の想像力の大きさは山を超え山をも取り込むということでその実感は舟越の制作を支えた。
かの弘法大師が土佐は室戸岬の岩窟にて虚空蔵菩薩の真言を唱え続ける修行をした際、明けの明星が口の中に飛び込んできて宇宙と一体となり悟りを開いたとされるが、これはその逸話に近い感覚なのではないかと思う。
弘法大師はこの時の体験を「谷響きを惜しまず、明星来影す。」と記している。そしてその時目にしていたものが空と海だったため「空海」と名乗った。
山はでかい。
しかしそのでかさを理解し想像できる我々人間の存在もまた山の如しである。
時に宇宙の果てすらこの身の内に宿す。

向こう左から赤岳、中岳、阿弥陀岳、��笠山。この日の午前中赤岳で84歳の爺さんが滑落して亡くなったらしい。

硫黄の匂いが漂う唐沢鉱泉の源泉溜まり。青い。
この青さを見て温泉入って帰ることに。成分は知らんがこういうものが帯びるエネルギーは浴びときたいお年頃、つまりおっさんになったということである。
唐沢鉱泉、昔ながらの旅館の建物に入って懐かしい気持ち。よくわからんタペストリーに不規則に奥に続く階段と踊り場の剥製たち。ボロというわけではないが昭和の匂いが残っていてつげ義春の漫画の主人公の気分になりきる。
調べたら宿泊代結構いいお値段すんですな。
温泉なんていつ以来か忘れたが少なくともコロナ禍の三年は入っていない訳で知らん爺さんやおっちゃんらの裸を見てゲシュタルト崩壊というか不思議な気持ちに。
湯船から見ると真ん前に洗い場がある舞台のような位置のせいで自然とおっちゃんたちが一心に体を洗う背中が目に入ってくる。人それぞれ色んなルーティンがあるんだなと妙に関心してしまった。
股座の向こう側で人様の金玉の影が揺れている様を見るのもなんかおもろかった。銭湯初めて入った小学生の感想。
今年はこれで4回目の山行。調べたらこれまででのべ70回近く登山してきたことになる。あとは武甲山、蓼科山。静岡方面の海が見える山に一座登れたらといった感じだろうか。
尖石縄文考古館編に続く。
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Título: 熱異常 / Netsu Ijou / Heat abnormal / Calor anormal Música, letra y vídeo: iyowa Traducción al inglés: Spicy Sweets Vídeo original: https://youtu.be/b2NTglk9tvI Letra:
「死んだ変数で繰り返す 数え事が孕んだ熱 どこに送るあてもなく あわれな独り言を記している “Este conteo que siempre resulta en variables muertas está generando calor. Estoy grabando mi penoso monólogo sin tener a nadie a quién mandárselo. 電撃を見紛うような 恐怖が血管の中に混ざる 微粒子の濃い煙の向こうに 黒い鎖鎌がついてきている 消去しても 消去しても 消去しても 消去しても 消去しても 消去しても 消去しても 消去しても 無くならないの Un temor que se asemeja a un calambrazo fluye por mis venas Una hoz y cadenas negras se acercan desde más allá del humo lleno de partículas Sigo eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo y eliminándolo pero simplemente no desaparece とうに潰れていた喉 叫んだ音は既に列を成さないで 安楽椅子の上 腐りきった三日月が笑っている もう すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで なにかが来ている Mi garganta ya se rompió hace mucho tiempo así que mis gritos no suenan bien mientras que una luna creciente decaída sonríe sobre un sillón mientras que algo está algo está algo está algo está algo está algo está algo está algo está girando la esquina 大声で泣いた後 救いの旗に火を放つ人々と コレクションにキスをして 甘んじて棺桶に籠る骸骨が また どうかしてる どうかしてる どうかしてる どうかしてる どうかしてる どうかしてる どうかしてる どうかしてる そう囁いた Las personas que lloraron a moco tendido y que prendieron fuego a sus banderas de salvación y los esqueletos que se resignaron a esconderse en ataúdes tras besar sus constelaciones, una vez más susurraron y susurraron y susurraron y susurraron y susurraron y susurraron y susurraron y susurraron que algo andaba muy mal con ellos. 未来永劫 誰もが 救われる理想郷があったなら そう口を揃えた大人たちが 乗りこんだ舟は爆ぜた 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 彼らを見ている Los adultos que unánimemente anhelaban una Utopía eterna en la que todos podían salvarse montados en una nave, para que esta acabara explotando, mientras que un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro les tenía echado el ojo. 哭いた閃光が目に刺さる お別れの鐘が鳴る 神が成した歴史の 結ぶ答えは砂の味がする 死んだ変数で繰り返す 数え事が孕んだ熱 誰かの澄んだ瞳の 色をした星に問いかけている Una luz brillante quema mis ojos mientras que la campana de las despedidas repica Las respuestas hiladas en historias creadas por dioses saben a arena. Este conteo que siempre resulta en variables muertas está generando calor. Cuestioné al planeta cuyo color se asimilaba al de los ojos quietos de alguien. 拾いきれなくなる悲しみは やがて流れ落ち塩になる 祈り 苦しみ 同情 憐れみにさえ じきに値がつく 今 背を向けても 背を向けても 背を向けても 背を向けても 背を向けても 背を向けても 背を向けても 鮮明に聞こえる悲鳴が Esta tristeza que no puedo reunir por completo eventualmente se convierte en sal que cae por mis mejillas Los rezos, el dolor, la pena e incluso la compasión pronto tendrán precio. No importa cuanto cubra cubra cubra cubra cubra cubra cubra mis oídos todavía puedo oír sus llantos claramente. 幸福を手放す事こそ 美学であると諭す魚が 自意識の海を泳ぐ 垂れ流した血の色が立ちこめる 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 黒い星が 私を見ている Un pez advierte que dejar ir la felicidad es la única forma de tener estética, mientras nada en un mar de autoconsciencia teñido de rojo por la sangre mientras que un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro, un planeta negro me tiene echado el ojo. 死んだ変数で繰り返す 数え事が孕んだ熱 どこに送るあても無く あわれな独り言を記している Este conteo que siempre resulta en variables muertas está generando calor. Estoy grabando mi penoso monólogo sin tener a nadie a quién mandárselo. 泣いた細胞が海に戻る 世迷言がへばりつく 燕が描いた軌跡を なぞるように灰色の雲が来ている Las células miserables vuelven al océano mientras que susurros sin sentido las rodean Las nubes grises se acercan siguiendo el rastro de una golondrina 編んだ名誉で明日を乞う 希望で手が汚れてる あなたの澄んだ瞳の 色をした星に問いかけている La esperanza mancha mis manos mientras que deseo un mañana con toques de su honor Cuestioné al planeta cuyo color se asimilaba al de tus ojos quietos. 手を取り合い 愛し合えたら ついに叶わなかった夢を殺す 思考の成れ果て その中枢には熱異常が起こっている 現実じゃない こんなの 現実じゃない こんなの 現実じゃない こんなの 現実じゃない こんなの 耐えられないの Una vez que nos demos la mano y nos llevemos bien, acabaré matando ese sueño que nunca se cumplió. Una calor anormal ocurre en lo que queda de mi mente No puede ser verdad No puede serlo No puede ser verdad No puede serlo No puede ser verdad No puede serlo Ya no lo aguanto más とうに潰れていた喉 叫んだ音は既に列を成さないで 安楽椅子の上 腐りきった三日月が笑っている もう すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで すぐそこまで なにかが来ている」 Mi garganta ya se rompió hace mucho tiempo así que mis gritos no suenan bien mientras que una luna creciente decaída sonríe sobre un sillón mientras que algo está algo está algo está algo está algo está algo está algo está algo está girando la esquina.”
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お題箱、入れてくださりありがとうございます。お返事が遅くなってしまってごめんなさい。
インプットしたものに興味を持ってくれるって嬉しいなあ。なんですが、直近はそんなにインプットできていないので遡って4月からで上げさせてもらいますね。
読んだ本は…新しく読んだのは瀬尾まいこさんの『傑作はまだ』、原田ひ香さんの『財布は踊る』『古本食堂』、賀十つばささんの『バニラな毎日』阿川佐和子さんの『残るは食欲』、水凪トリさんの『しあわせは食べて寝て待て』ですかね。今は末次由紀さんの『ちはやふる』を再読中です。
おすすめの本ですが…本家様もおすすめしていたフランソワーズ・サガンさんの『悲しみよ こんにちは』や林明子さんの『こんとあき』、私個人からのおすすめは瀬尾まいこさんの3部作『あと少し、もう少し』『君が夏を走らせる』『その扉をたたく音』 、有川浩さんの『塩の街』『空の中』『海の底』、三浦しおんさんの『舟を編む』矢沢あいさんの『天使なんかじゃない』青木琴美さんの『カノジョは嘘を愛しすぎてる』、小山愛子さんの『舞妓さんちのまかないさん』この辺りは何度も読み返すくらい好きでおすすめです。
観た映画は…映画館で『35年目のラブレター』『名探偵コナン 隻眼の残像』を、配信や金曜ロードショーで『名探偵コナン 100万ドルの五稜星』『』ハウルの動く城』『あまろっく』を観させていただきました。今日明日で『国宝』『金子差入店』も拝見する予定です。
おすすめの映画ですが…『天空の城ラピュタ』『風の谷のナウシカ』『魔女の宅急便』『千と千尋の神隠し』『君の名は。』『アニメ版・実写版 美女と野獣』『天気の子』『すずめの戸締まり』『実写版 るろうに剣心シリーズ』『実写版 カノジョは嘘を愛しすぎてる』『実写版 ちはやふる-上の句・下の句・結び-』『日日是好日』『L♡DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。』『夜明けのすべて』は何度も観るくらい好きだしおすすめかなあ。
観た舞台は…語りたいとこなんですが、実はこの春から初夏にかけて舞台を拝見できていなくて。
おすすめの舞台ですが…本当にどの作品もおすすめすぎて絞るのが難しいなあ。あ、『ナイツテイル』おすすめです。この夏、コンサートもあるので今からでもぜひ。って感じですかね(笑)
あとはインプットというか、フォロワーにいる皆様の本家様のラジオもよく聞いてます。
こんな感じで大丈夫でしょうか。
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明石 岩屋神社 おしゃたか舟神事・1
明石港フェリー乗場近くにある、明石城の産土神、岩屋神社で神事の後、前浜から海に飛び込みおしゃたか舟を漕ぎ出す。沖合から漁船に乗り、松江海水浴場沖の赤石付近で海上渡御式を行う
明石漁港から若者6人の 「六人衆」 がおしゃたか舟を漕ぎ出す。時々若くない人もいる。漁協の人みたいだ。
ここから下は時系列。手に入り難いので不鮮明な画像も使ってる。
岩谷神社の本殿での神事。おしゃたか舟のお祓い等を行う。船は六艘のはずなんだけど、余ってるみたい。
おしゃたか舟を漕ぎ出す六人衆、宮司、猿田彦等の祭列が茅の輪をくぐって岩屋神社から出発。
神輿は海岸に到着して漁港に置かれる。
岸壁に揃った六人衆。舟は全長1.5mと書いてあるが、身長とほぼ同じに見える。身長1.5mじゃないやろ
おしゃたか舟を持って飛込むのではない。六人衆は舟を海に投げ込んでから、海に飛び込んで行く。
(左)六人衆は6人だと思うんだけど? 余ってるよ!
(右)船を持って泳ぐ訳じゃなく、「おしゃたか、おしゃたか」と言って前方に投げてはそこまで泳ぐ。
湾の入り口で待っている漁船まで泳ぐ。六人衆は6艘の漁船に1人づつ乗る。やっぱ、舟より人間が多いわ。
「おしゃたか舟神事・2」もあるよ:
色々な情報をまとめたほか、一部は記憶で書いたので正確ではないよー! 写真と情報の一部の出典:兵庫県の歳時記(トップ)> おしゃたか舟神事(岩屋神社) https://satoaruki.web.fc2.com/hyogo/07/osyataka10.html
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20!バースデーイベント@曳舟文化センター
石田ヲタやってた頃に加入し最初は好みじゃなかった(かわいいとは思った)けどKOKORO&KARADAツアーで見て「この子は伸びるぞ」と楽しみにしていた矢先に感染症の流行でまともにツアーもできず2022から条件付き単独公演が復活しそこでほまれにどはまりし(以下省略)
気づけばもう20歳!

2年連続の曳舟、2年連続の雨。つーか今年現場全部雨なんだけどどういうことだ。ほまれが雨女なんじゃなくてほまれのヲタク(自分)がそれなんじゃないかという疑い。仕事先の人にも言われたことある。ごめんねほまたん。

ヲタと絡むコーナーは省略。1部は強運の人、2部はスーツの並びがいじられていた。
セトリ 1.ムカ好き! 2.奇跡の香りダンス 3.スキちゃん! 4.すごく好きなのに…ね/愛され過ぎることはないのよ 5.香水 6.わたしがオバさんになっても(つばきファクトリーver./フル)
ムカ好きソロ歌唱で登場。コール沢山入れられて楽しい。数日前にふと「スキちゃんやってほしいなあ」と思ってたので、イントロ鳴った瞬間に優勝。すごく~は母からのリクエスト。香水は予想通り。
1部の香水は最後ミスったけどフェイクめっちゃ良かった。2部では香水をやりきったのにわたオバでミス。気持ちよく煽ってたらミスったと。
本当に声が良いんだよなあ。バースデーイベントは声をずっと聞いていられるから最高。

ままんちゅからのお手紙は平凡だったけどそれでもじわりと泣けたわ。ただ、たまにほまれが一言挟むのがおかしくて笑ってしまうから泣ききれなかったw
手紙の内容はこんな感じ(覚えている範囲で書く)
3200gくらい、夕方5時10何分かの生まれ。家族の宝物。母は仕事をしていて0歳から保育園へ。寂しい思いをさせた。まわりは男の子が多かったがかわいいものが好きな子に育った。 地元のお祭りで見たダンスステージがきっかけでステージ人生が始まった。色々な舞台や映像に出演した。そしてLOVEオーディションへ。まさか合格するとは思っていなかった。オーディションを受けていることは父には内緒だったので、喧嘩になった。そんな父も今では家族で一番のハロプロファン。 いちごになりたいと言っていたので15期という形で夢を叶えた。 猫をかぶっていた頃が懐かしい。今は素を出し過ぎていて心配になる。加入後の活動は順調とは言えず大変なことも沢山あった。
この手紙に関しては、母が「電話かかってきた!どうしよう!」とご丁寧にほまれに報告してきたらしい。20歳の手紙はお約束なのでわかってはいるけど、だからって直接伝えなくても、普通は黙っておくだろとちょっとキレ気味。
家族と皆さんに育てられてこんなに大きくなりました!
さわごろがはけてから、1人語り。途中で「長くなるけど言わせて」と語り、後ろで流れていたWuCが終わってしまうも、さらに語り続ける。
順風満帆ではなく一難二難くらいはあった。最近はできるだけ長く娘。で活動していくためにどうすべきか考えて行動している。皆さんが理解してくれてありがたい。
みたいな。
前に「首は完治することがないので長くは続けられない」と言ってたのが引っかかっていて、再び頚椎やってしまったから先が短いのかもと懸念していた。だけど大丈夫そうだ。時々休むことはあるかもしれないけど、無理してどうにもならなくなるよりはずっといい。
ほまれ、昔の写真を出してはあんまり変わってないでしょうって何度も仰ってた。確かに基本構造が同じ。同じ人なんだから当然だけど。赤ちゃんの時白鵬って言われてたらしいけど出生時3200g台ならそこまで大柄じゃないかと。たとえ白鵬だとしても、結果的に今のスタイルになるなら笑い話でしかない。
岡村ほまれさん20歳のお誕生日おめでとうございます!明るい未来にかんぱーい!

帰宅してほまれの好きなお肉と中トロで祝賀会。会場でグッズ売ってくれたらもっと盛り上がるんだけど。お見送り会が戻ってきただけでもいいのかもしれないけど。
個別等ほぼ行かないので、2019年6月ぶりのメンバーに直接言葉をかけられる機会だった。ほまれとは初。
顔が小さくて身体が細くて長身でかっこよくて髪さらさらで超かわいい。そんな、神々しい輝きを放つほまれ様を目の当たりにしても、不思議と言葉に詰まるはことなく言いたいことは言えた。ということは、親しみやすさも兼ね備えているというのか!?
岡村ほまれさん。優勝です!
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今日が誕生日の有名人に自分が載ってて嬉しそうにしてたのかわいかったな。自発光してるとか頭に何か載せがちとか、他にも色々。
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「おばけだ」皮膚が垂れ下がった人の群れ 声も涙も出なくなった5歳 初めて語る悲しい過去 #戦争の記憶
5/1(木) 18:06配信
テレビ新広島 80年胸にしまった悲しい過去、今初めて語る
「被爆体験の取材を受けるのは初めてなの」。彼女はそう告げ、重い口を開いた。石橋紀久子さん(85)は、80年前の広島での体験を思い出すと今でも涙が止まらなくなる。だからこれまでずっと黙ってきた。あの日を伝える「原爆ドーム」も見るだけで震えてしまうため、視界に入れないようにしてきた。原爆資料館の展示にも未だ足を踏み入れたことはない。いや、踏み入れることができないというのが正しい表現だ。しかし今、彼女は血液のがんという重い病と闘いながらも、研修を重ね被爆証言者となった。「1回でも多く、一日でも長く証言したい」と言う彼女はなぜ語り始め、何を伝えたいのか…その心のうちを辿る。
80年前 お転婆だった5歳の私

幼いころの石橋さん 写真は3歳時
石橋さんは、4人姉妹の二女として、1940年に生まれた。竹を手に男の子とチャンバラをする、姉妹で唯一のお転婆少女だった。
5歳になった頃、スキップができるようになった。夕飯の時間に披露すると父親が、 「きくちゃんは、スキップがうまいのう」 とほめてくれた。うれしくて食事中もぐるぐるしていると 「いいかげんにしなさい」 と母親の雷が落ち、しゅんとなった。まさかこの出来事が、自分の運命を分けるとは思いもしていなかった。
翌日は1945年8月6日だった。朝起きると、すぐにスキップしたくてたまらなかった。ほめられたスキップを人に見せたかったのだ。
その日は、隣組の「組長」という近所のまとめ役をする母のもとに、班長が3人やってくることになっていた。 「集合時間の午前8時になっても1人が来なくて、『裏のおばちゃんを呼んできて』、と母に頼まれ出かけました」
空を飛ぶ飛行機よりも スキップに夢中だったあの日

石橋さんが描いた8月6日当日の服装
暑い日だった。 昔話の金太郎のような恰好で裏の家へ行き 「早く来てください」 と伝え、帰りもスキップを楽しんだ。
そのとき、飛行機が飛ぶ音がした。隣の製材所の人たちはみな手をおでこにあて、空を見上げた。でも自分だけはスキップに夢中だった。玄関にいた母と近所の人を横目に、部屋の中に入ったときだった。
「ピカっと光って、ドーンですよ。私は飛ばされて、ガラスが飛んできたんです」
スキップが私の命を救った

8月6日 広島で見られたきのこ雲
気が付くとあたりは真っ黒だった。音も何もしない。じっとそのまま敷居の上に立っていた石橋さんに向かって 「きくちゃん、きくちゃん」 と母の呼ぶ声がした。そばに駆け寄ってきたのだ。真っ黒だったまわりが、上の方から順に見えてきた。天井は落ち、屋根に穴が空いていた。母が泣きそうな顔をして目の前にいた。
「頭にはガラスが刺さり、血が流れていたのです。それなのに不思議と痛みというものを何も感じず、気づいていませんでした」 治療をしようにも、柱時計の下にかけてあった救急袋が飛ばされて見当たらない。 「母が頭にかけていた手ぬぐいをとり、拭いてくれました。頭から血が流れ足までしたたり落ちていたのに、痛みを一切感じていないから、冷静に自分の血を見ていたという記憶が今もしっかりと残っています」
玄関にいた母、その膝に座っていた妹や一緒にいた近所の人はみな無事だった。自分だけが怪我をしていた。原爆が落ちたとは分かっていない。今思えば、裸同然の服装だった自分がスキップをしていなかったら、原爆が落ちたときにはまだ外にいて、もっと致命傷を負うところだった。スキップが自分を救ったのだ。 それが爆心地から2.2キロにあたる現在の広島市中区舟入の自宅で、石橋さんが体験した原爆の記憶だ。
「今でも怖い」80年前の恐怖が震えを呼ぶ

「家の前で見た、被爆された人たちが 江波の方へ逃れて行く姿」作:中原雅 所蔵:広島平和記念資料館
怪我をした石橋さんを、隣町の病院まで母親が連れていってくれた。 しかし、とても診てもらえる状態ではなかったため、仕方なく家に戻った。
「1時間経過した頃だったかと思います。先ほどまで誰もいなかった家の近くの土手を、大勢の人がぞろぞろと家の方に向かってやってきたんです」 大やけどをして、皮膚が垂れ下がっている人の群れだった。それを見た石橋さんは、恐ろしくてたまらなかった。
「おばけだ」 と5歳の石橋さんは思っていた。みな手を前に出し、無言だった。黙ったままゆっくりと歩いていくのだった。
「声が出ない」「痛みを感じない」5歳の体に起きていた異変

「父親を捜し歩き落胆した母親と、号泣する家族」作:宮浦悠莉 所蔵:広島平和記念資料館
原爆後、石橋さんは声も涙も出なくなった。ひどい目にあっていたのにだ。 「ガラスが刺さり、血が出た頭の痛みさえも全く感じなかったのです。不思議ですよね」
爆心地から1.6キロの貯金局に勤めていた父親が帰ってきておらず、母親が二日間焼け跡を探しまわったが、1人で戻ってきた。 「その時祖母が『父親は死んだのだ』と口にし、大声で泣きました。それに反応したように、被爆後初めて声が出ました」 泣き叫ぶのと同時に、傷の痛みもその時初めて感じた。 父親は陸軍の船舶部隊に運ばれ、3日間意識が無かったが息を吹き返していた。 「杖をついて帰ってきたときは心底うれしかったです。奇跡だと喜びました」
原爆のことは誰も分かっていなかった。ましてや放射能のことなど知るよしもない。爆心地付近へ子供を探しに行った人たちが帰ってきて、血を吐いて死んでいた。 するとそれを見た人は、水に毒が入れられたに違いないと口にする。
「今、広島の町に何が起こっているのか、とみんな疑心暗鬼になっていました。山口県の親戚の家に疎開していた姉が、家族の安否を気にかけて『ひと目会いたい』と戻ってきたんです。でも、噂を聞いた母が『ここにいてはいけない』と水も飲まさず、怒ってその足で帰したんですよ」
石橋さんもしばらくして、山口に疎開した。その後もついぞ、家で原爆について口にする人は誰もいなかった。
トラウマを心に抱え、口を閉ざしてきた78年

戦後の石橋さん家族 石橋さんは当時6歳
不思議なのは、当時5歳だったのに記憶がとても鮮明なことだ。80年たった今も当時の怖さが込み上げて、震えと涙が止まらない。忘れたくても忘れられない。 「原爆の怖さをずっと抱えて生きてきました。今でも大きな音がすると、まざまざと思いだしてしまうのです。雷の音や光だけでそのときの情景が浮かびます。稲妻がすべてを蘇えらせるのです」
誰にも話さず、自分自身の胸の内におさめて生き続けてきた。保育士として働き、結婚し二人の息子にも恵まれた。退職後は小学校の児童館で子供たちの世話をしてきた。でも家族にも子供たちにも語ってこなかった。原爆について触れたくなかった。思い出すのもつらかったからだ。
自分の背中を押してくれたのは‥後悔を胸に語り続ける

保育士時代の石橋さん
3年前にロシアがウクライナへの侵攻を開始した頃、転機が訪れた。友人と喫茶店でお茶をしていた。 「横にいた若い人たちの会話が漏れてきて…。驚きました」 神奈川県から広島に通っていたその人は、被爆者の話を次世代へつなげる「被爆体験伝承者」になるための勉強をしていた。休みの日を利用して、わざわざ広島に来ているというのだ。
「頭をガツンと殴られたような気分でした。私は原爆を体験したのに、触れないように避けてきた。それなのに第三者が原爆の怖さを語ろうとしている。私は何をしているのだろうと思いました。無言の死を遂げた人が大勢いるのに…。その人たちのことを思うと私は卑怯だと思いました。すごく反省したのです」
その出来事を機に「語ろう」と決め、広島市の「被爆体験証言者」の研修を2年間積み、おととし正式に認定された。
「一日も無駄にせず伝えていく」心に秘めた決意

被爆体験伝承者に語る石橋さん
「戦争はいけない、核は絶対使用してはいけない、それを伝えたいと思っています。核はそのときだけじゃなく、未だにガンになる怖さも抱えている。母もガンで死にました」 石橋さん自身も6年前に「多発性骨髄腫」と診断された。本を読むと、血液のがんだと書いてあった。
「冬は越せないと思い、夏のうちに冬の服も全部捨ててしまった。まさかこんなに長生きするとは思ってもみませんでした。奇跡です」
慢性的な病気に苦しみ、昨夏も貧血で倒れているのを発見され救急車で運ばれた。体調面の不安が続く。しかし、できるだけ多くの人に語り継ぎたいと活動をしている。 「今思えば、子供たちの世話をたくさんしてきました。そのときになぜ伝えておかなかったのか、と悔やんでも悔やみきれません」 だからこそ時間を無駄にはしたくない。 認知症が怖くて、毎日朝と昼に自分の言葉で証言を復唱する。
「一人でも多くの人につなぎたい」
そんな意気込みが多くの人の琴線に触れ、全国から21人が石橋さんの証言を伝承しようと研修を受けている。その熱意に応えようと、石橋さんは記憶をつないでいる。
思いは一つだ。 「もう二度と誰にも経験してほしくない」
※この記事は、TSS(テレビ新広島)とYahoo!ニュースによる共同連携企画です
取材を終えて TSS 石井百恵
被爆80年、これまで語ることのできなかった被爆者が話し始めています。「このままでは死ねない、あの世で亡くなった人に顔を合わせられない」という人もいます。彼らの言葉を次世代にどうつなぐか… 生の声を聞くことができるのは、あとわずかです。
井上智介 認証済み2日前 精神科医/産業医
見解80年間の沈黙。それもまた表現。
トラウマの記憶は、ただの”過去”の出来事ではありません。まさに”現在”の感覚とし甦ってくる。これがフラッシュバックです。
つまり、80年経った”今”も五感で生々しくあの悲惨な状況を感じてしまうのです。その中で、その経験を他者に伝える作業が、どれだけの精神的苦痛を伴うことなのか…。
強烈な恐怖体験の被害者からの、涙する姿、震える声、詰まる言葉。それらの全てが『語っている』という状態です。語るのは、決して被害者から発せられる音だけではありません。
現実的な話では、あと5年10年すれば、被爆体験を語れる人はほとんどいなくなるでしょう。そのなかで、これだけ耐え難い想いをしてでも伝えて下さる石橋さんに、私たちは感謝し、敬意を持ってその語りを受け取り、平和を行動で返さなければならないはずです。
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Thank U
──Nagase Masatoshi






『いきもののきろく』井上淳一監督・永瀬正敏氏舞台挨拶付き上映@フォーラム仙台_20250426
井上淳一監督「いきもののきろく」は2013年に撮られた47分の短篇映画だが、その山場にすばらしいシーンがあった。自然災害によって家族と死別し、著しくコミュニケーション能力を低下させた見知らぬ男女が、瓦礫の片付けをしながら野宿している。そこでまさかの展開があった。ミズモトカナコさんがとても美しく撮られていた。このシーンは本当に必要だったのか?という質問が女性からあったが、私も「まさか」とは思った。もともとこの二人に性的な接点があるとは考えなかったからだ。かつてタイの人身売買を題材に「闇の子供たち」を撮った阪本順治監督はその撮影以後、女性とセックスしていないと語っていた。それを思い出した。闇に家族が沈んだ後に、その廃墟の中で失語状態の男女が彷徨していて、そこでどうして生命力を養うような行為が生まれたのか? 2014年の完成公開から11年を経て日の目をみた作品だが、このシーンがその時間を要請したのではないか。つまり、このシーンを成立させるピュシス(自然)が2025年に存在するコトの顕れなのではないか。11年前にはロゴス的だったモノが。
永瀬正敏氏は〝純粋俳優〟と呼びたくなるほど純然とした佇まいの人物だった。そのお人柄にいたく感動した。普段じぶんの中に眠っている性格、何かモノを落としたりして必死に捜し回って幸運にもそれをみつけた時に誰にともなく感謝したくなる気持ち、そういう大切なモノを持ちつづけている人物だった。��の映画の最後のメッセージが胸に残りつづけている。
「いきもののきろく」のラスト、瓦礫で造った舟に男女が乗り、周囲の人びとに見送られながら航行を始めるシーンはシンプルで力強かった。永瀬氏は俳優業のスケジュールを完全に空けて、今作の舞台挨拶ツアーに飛び回っており、その収入にならない非営利事業と重なった。ヒトが売りつけてくる価値観を買わされる(ワケのわからない現代人を演じる)のは疲れるし、むしろじぶんの価値観を主張しつづけるぐらいの方が疲れない。そんな俳優業の境地に達したのかも知れない。永瀬氏は映画を愛し、映画に愛されているが、映画にまだ愛され足りないと語っていた。庶民を演じる俳優はわれわれ庶民よりも高給取りであり、それに納得がいかないというヒトもいるが、しかしそれは間違いである。かれらは庶民の価値観を買わされているにすぎず、真の意味で私腹を肥やすコトはない。また買わされるだけだ。むしろ私財を投げ打ってでも自由に生きようとする俳優が増える可能性の方が高い。「いきもののきろく」舞台挨拶ツアーはそのサイクルへの無意識の運動という側面もあるかも知れない。〝舞台挨拶俳優〟のカテゴリーでは後輩・井浦新氏が先行している。今作に限らず、永瀬氏の出演する作品にはそのような特徴がある。
前回井上淳一監督が「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」で来仙した時も、椅子の隙間にスマホが嵌り込んで取れなくなり撮影を断念したが、今回も椅子の隙間に財布が嵌り込んでいるのに気づかずに劇場を出てしまい、パンフにサインを貰うのを断念した(最後尾まで並び直すのが面倒だった)。井上監督の熱い思いがそうさせているとしか思えない。監督からは「こんなもんじゃないんだ!」と強く迸るモノがあり、それに影響されるのだろう。質疑応答でも監督の挙動に目が行って相変わらずロクなコトしか思い浮かばなかった。何を原動力にして生きているのかが端からはよく判らないヒトにはヒトを断念させる魔力がある。監督は映画に愛し愛されている。ちなみに雪の降る印象的なカットは監督が映画の神様にお願いして降らせたモノでも人工物でもなく、永瀬正敏氏がそこに居たら大粒で降って来たモノだという。
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つっこさんのアコースティックライブツアーに行ってきました!🥰

限定メニュー、ナポリタンとアルコールドリンクどっちも美味しかった〜🥰


今まで参戦したライブの中でいちばん好きなセトリだったな!とテンション上がりまくってるので、セトリ備忘録。
⬇️セトリ
HONEY?(ホモ・サピエンスver.)
人形(ホモ・サピエンスver.)
ミッシングリンク(ホモ・サピエンスver.)
CRITICAL ERROR
プルチネッラの涙
天の樹
Stone
聲(ホモ・サピエンスver.)
〜休憩〜
ハジケトブゲノム(ホモ・サピエンスver.)
キラーエイプ(ホモ・サピエンスver.)
あふれるほどのやさしさを〜安全運転のうた〜
相対性理論(space ver.)
骨(ホモ・サピエンスver.)
HANDS
音叉
人間失格
ビューティフル・デイズ
〜アンコール���
箱舟
個人的に好きな曲ばっかりで楽しかった本当に。
いくつか曲を聞きながら考えてたことを勝手に綴ります。
3曲ほど、🏝ジャンルでイメソンなんだよな〜〜!!!!というものがあって勝手すぎる長文語りをしています。最後の方にまとめたのでそこだけ見たい方は間は流し見してください。(目印は次絵文字が出てきたら。その曲からです。)
『HONEY?』ホモ・サピエンスver.
頼んだナポリタンの匂いを感じながら聞いてて、なんか昔なつかしの喫茶店でジャズ演奏を恋人と聞いている気分になった。
『ミッシングリンク』ホモ・サピエンスver.
この曲は元からだけど、やっぱ優しさと弱さが好きだなぁと。
今回のアレンジでもっとそれが前面に出てたのがすごく好きだった。
『CRITICAL ERROR』
なんだこのかっこいいイントロ!?!?と思ったらCRITICAL ERRORだった。なかなかライブだと聞かない曲だから嬉しい、、
「リセットを押さないで 覚えていたいよ」の歌詞もともと好きなんだけどすごいスっと入ってきた。
Cメロここしかないっていうので強調されてるのもあるかもなぁと、、
『プルチネッラの涙』
つっこさんの曲に出てくる、一人称が「僕」の弱い少年(憶測)が大好きで、、
個人的には最後の部分がいちばん好きです。さみしい気持ちをひとりで完結させてしまう感じが、、さみしいことを言えない弱さというかね、、
『天の樹』
いやもう圧倒的声量と世界観、、
(『Stone』は長くなるので後ほど)
(『聲』も後ほど。1部最後の曲だったんだけどラストの追い上げが圧巻で、、泣いてる人もいて分かる〜ってなった)
『ハジケトブゲノム』ホモ・サピエンスver.
もともと好きな曲だったんだけど、このアレンジも結構好きでいいな!跳ねてる感じが可愛くて。
こんなにちゃんと歌詞聞いたのはじめてだったかも。すごく可愛い曲だよね、、!
2人で一緒にいたらおもしろくない?っていうニュアンスが最高なので今度ちゃんと歌詞を見て聞いて雰囲気をもっと感じ取りたい。
『相対性理論』space ver.
宇宙科学館のアレンジの方だ〜〜〜!!
原曲からずっとこの曲好きなんだけど最近こっちのバージョンもハマって聞いてたから嬉しい��オシャレなんだよなこのアレンジ。
「願わくば変わらない何者かでいたい」
「君がもたらす幸福と僕が与えてるもの 天秤の針はどっちに傾くだろう イコールだといいな」
あたりの歌詞がとても好きです。
(『骨』も後ほど)
『HANDS』
かっこいいイントロで始まってなんだ〜!?と思った。
「今大地まで返すの」を歌う時の雰囲気が好きというか、わかりますかね(わかるか)
この部分を歌う時すごくはっきり歌詞を言ってるのが好きなんだよね。自分がカラオケで歌ったら最高に気持ちいい部分だろうなっていう。
ていうか、アコースティックライブツアーだと聞いてたんだけど結構しっかりバンドの曲としてやるじゃんっていうのにびっくりした。
『音叉』
二十歳(はたとせ)のアルバムの中から相対性理論も音叉も披露してくれるの嬉しすぎるな、、!相対性理論はバージョンが違うけど!
私は相対性理論派なんだけど、音叉もかなり好きな曲、、もっとちゃんと歌詞見て聞きたいなって思ってる
この曲は終わり方がいい。こんなにラスサビまで突き詰めて突き詰めて、最後は静かに終わるのが好き。
『人間失格』 新曲
曲の感じも好きだが、個人的には披露する前に語っていた話自体が好きだった。
自分はみんなが泣いている場面で泣かない。みんなが泣くならそれでいいじゃん。私はあなたが泣いているところを見ているね。
そう仰っていて、泣いてるところを見てるねっていうのがいいなと思いながら聞いてました。放っておくとかでも慰めるとかでもなく、ただじっと見てるんだろうなって感じが、、こういうのも愛の一種だと思った。
『ビューティフル・デイズ』
この曲はずっと歌詞が好きで、、
「忘れたいものだけ上手に忘れていく」って歌詞に元気貰える。忘れたくないことは覚えていていいよっていうニュアンス、、説明難しいね。
(脱線すると、セラミュの『Everlasting Moonlight』という曲にも「忘れられないことは忘れなくていいし 覚えておけないことは そう 覚えてなくていいんだね」って歌詞があって似たような理由でとても好き。)
遠くで元気にやってますよ〜っていうのをやさしいメロディに乗せた曲で好きだなぁって思う。
『箱舟』
アンコール箱舟だと思わなかった!!!
なんか、相手に対してやれやれと思うところはありつつも私はあなたを愛してるし、あなたを信頼してるという曲だなと感じてる。
あなたと2人なら何があっても大丈夫、着いていくよっていう意思が好き。
あとやっぱいろんな曲のワンフレーズが入ってるあの部分が特別な感じして好きよ。
では、飛ばしたのに戻りましょう。
『Stone』
つっこさんの曲の中で1番好きなんですこの曲が〜〜〜😭💖
しかも生演奏だとめちゃくちゃオシャレになるんですよいつも前奏で泣きそうになる。
この曲はつっこさんが以前「もともとRock(岩)というタイトルだったんだけど、雰囲気違うよなと思って細かく細かく砕いたらStone(石)になった」というようなことを言っていたのが印象的です。
実際この曲、明るい優しい曲調でRockという感じでは無い。その上私が好きなのは、こんな明るい曲調しているのに歌詞はそんなに明るくないというところ。
多分聞くようになって好きになったきっかけもこれだったと思うんですけど、最後の歌詞が「色褪せた石をただ眺めてるだけ」で、流し聞きしてた時にふと最後のこの歌詞が聞こえてそんな曲なの!?と、、
それで、この流し聞きしてるだけじゃ分からない、中身をしっかり見ないと分からないよなという感じが個人的に重なって、私の中のグンちゃんイメソンなんですよね、、、、
私は大前提イバグンが大好きで、曲とか聞く時はイバラキとグンちゃんのことを常に考えているのですが、「この骨を埋めてくれるのは あなたじゃないなら誰がいるだろう」という歌詞だけは、絶対にグンちゃんが高松に対して思っている言葉だろうなと感じる。
どんなにグンちゃんがイバラキのことを好きで生涯を共にしていたとしても、ゆるやかに眠るように人生を終える時、思い浮かぶのは高松のことだと思ってる。
最後の最後まで、なんだか高松が自分の世話をしてくれるんじゃないかと思ってしまうのだろう。
私の中では、南国→英字→CH5という流れがあるので、どこかのタイミングで高松はグンちゃんの元を離れて失踪するんだよね。それで高松の最期を見届けられていないから、もう年齢的にも亡くなっているはずなのにまだ生きてるんじゃないかと思ってしまうのではないかなと。(まぁ実際生きてるんだけど)
なんかそう思うとお別れの言葉って大事、、
寂しい気持ちが残る曲だなって思うのでぜひ聞いてみてね🤲
『聲』ホモ・サピエンスver.
あのぉ、、!この曲はぁ、、、!ルザ高のイメソンでぇ、、、、!!!!
Stoneからの聲の流れ本当に自分の中でヤバくて、、神セトリすぎました😭🙏✨️
最初に高音のピアノの音が響くのが本当に世界観に引き込まれる。
今回のアルバムのライナーノーツでつっこさんが「“細かなことなんて忘れてもいいよ、すべて忘れることなんて絶対ない。”という気持ちで書いた詞だ」と仰っていて、これすごく、ルーザー様を亡くした高松に響く言葉だなと思いました。
同じくライナーノーツで、「亡くした人の事をこれからもずっと覚えています、忘れない。という気持ちをずっと抱えながら生きていて、相手に会いたい気持ちが急激に高まってしまったら死を選ぶ事に繋がる」「想い続ける事のかなしさと、覚えていたいのに忘れてしまう事のかなしさはイコールだと思う」と書かれていて。
高松こういうところあったと思うんですよ、、ルーザー様を追って死にたいと最初は思うことたくさんあっただろうに、だんだんルーザー様の温もりとかを忘れてしまって、結果後追いなんてせずに生きてるってところがすごくこのライナーノーツに重なって(勝手にひとりで)感激してました。
YouTubeにあげてらっしゃる完成視聴会で仰ってたんですが、本当に原曲よりも今回のアレンジがダウナーで、、静かに歌っている1番から、ラストに向けて上がっていくのがすごく鳥肌立つぐらい圧巻でした。最後に壊れていく感じが表現したくてって仰ってたのが本当に伝わってきて素敵でした。
ライブだとつっこさんの最後の追い上げと同時に楽器もどんどん音が大きくなっていって、本当に世界観に引き込まれましたね、、
『骨』ホモ・サピエンスver.
この曲もずっと好きで、、愛する人を亡くしたら?という歌詞とやさしい曲調が。原曲が生かされたやさしいアレンジで素敵です🥲
ライナーノーツで「まだ自分が近くにいる人を誰一人亡くしたことがない状態の時に書いた」と仰っていて、それでこんなに漠然としたやわらかい雰囲気の曲なんだなと。
ずっとこの曲を聞いていて、ふわっと若い頃の高松のイメソンになる気がするなぁとは思っていましたね、、“まだ誰も亡くしたことない”という部分はとても若い頃の高松に当てはまる部分だと思う。
でも、その頃の高松は「もしもあなたが死んで」なんて考えるかなって。若い頃の高松は、終わりがないように思っていそうだなと。
ライナーノーツでは上記に続けて「それでもいつかわたしより先に君たちは逝くのだろうという気持ちで書いた」と綴られているのだけれど、���、こっちはね、グンちゃんの気持ちっぽいなって思う。
もう既に生まれる前から父親を亡くしていて、“まだ誰も亡くしたことない”には当てはまらない(まぁ会ってないという点では半分ぐらいノーカンな気はする)けど、だからこそ高松に対して「もしもあなたが死んで」と考えることは結構あるだろうなと思う。
ライナーノーツや歌詞を読んで、もしかしたら若い頃の高松のイメソンというよりはグンちゃんのイメソンなのかもと思いましたね。でも2人とも結局要素としては絶対にあると思うので2人の曲としてこれからも聞いていくかな。
本当に最高のライブでした〜!🥹💖
やっぱりライブというもの自体が好きだし、つっこさんの曲も歌も本当に大好きだなと毎回行くと思う。
またライブ行きたい〜〜〜!!!
2025.04.21
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