#お釈迦さまも要するにそう言ってる面がある
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頭がいいと楽
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※2024/1/24更新 1 新年早々死にそう 2 なんでもない僕にババアが3億くれた 3 父が中学生ラッパーに論破されました 4 僕の年収は芦田愛菜ちゃんの15分 5 母親の手料理がまずくて死にそう 6 世界を征服した上で責任もって平和にしたい 7 石田純一のサマーセーター 8 成人式に行く娘が小梅太夫そっくりでした 9 浅田魔王 10 ファック石松 11 スーパースケベタイム 12 赤面のどちんこ 13 右足が沼にはまって動けません 14 イナバの白うなぎ 15 小栗旬筋太郎 16 右手にコーラ 17 嘘ついたら針千本トーマス 18 ジャスティンヒーハー 19 天草大王 20 チンコフランダース 21 じっちゃんになりかけて 22 ヒデ中田と自分探しーズ 23 そんなことされたらタマランチ会長 24 しらすの底力 25 ビショビショ美少女 26 俺だけはセンテンススプリングを忘れない 27 シロマティー 28 冷たい爪 29 ピープルピープル 30 はんだごてお 31 マジックミラーマン 32 まいたけタイマー 33 概念覆す 34 M字おじさん 35 アナルじじい 36 お腹ヘルタースケルター 37 ペロペロ銀酸ナトリウム 38 ポン酢で目薬 39 安室波平 40 アーノルドシュワルツェネッガー改めアナルイジルホドセイシガドッバー 41 ユースケキャンタマリア 42 ちんこダイニング若 43 ワックス一気飲み 44 FANZA松之丞 45 ハリケンみきサブロー 46 みそクリームコロッケ 47 トゥルーマン翔 48 異次元の豚バラ 49 父は公務員 50 手コキうどん 51 冬の鬼 52 りんご定食大盛り 53 岐阜とカード 54 元ヤクルトレディ 55 壊れたメガネ使ってます 56 デビル夫人 57 コンジローム小林 58 おーい北海道検定 59 三本のシワ 60 ダリの贋作 61 美しすぎる受付嬢 62 永69輔 63 青春のアナル二等兵は夕方のコスモスに涙した 64 一蘭食ってまた一蘭 65 落合のカミさんのウンコ 66 パンティライン学園 67 時 任三郎 68 ピンクのお豆さん 69 論より証拠の大ライス 70 婆さんたまにはあんたが芝刈りに行ってくれ 71 ナースコール二連打略してN2 72 ずっと春休みでいいのに 73 パラダイス銀紙 74 睡眠時無呼吸症候群 75 行けたら行くマン 76 おっさんコロコロ 77 ゴメンなサイドステップアタックよしき 78 ハットリ三世 79 最近ココアよく飲むマン 80 スマホがないから友達ができないんだ 81 やっと目を見て話してくれたよ 82 ミッシェルガンエレファントカシマシ男 83 あなたのチンポお褒めします、ユアチンポ・ホメタゲル 84 森進一最高意思決定機関ポマト 85 船越英一郎の指なしグローブ 86 青梅などで人は死なぬ 87 買い物お手のものモノポリー 88 赤ちゃんのおしりふき 89 亀頭おじさん 90 棚からボッタボタ 91 金のマンタ 92 木更津ジャンキー 93 松平健プライドゼロネーム背中にはいつも幸せのポップコーン 94 雨粒マン 95 ベネットは静かに暮らしたい 96 木工用ジェームス・ボンド 97 今に見てろドッカーン 98 ガッツいちもつ 99 プラダを着たカズマ 100 ぱいぱいちっちゃ美 101 サイレント失格 102 扶養義務 103 アマチュアダックスフンド 104 佐藤たけらない 105 西野かなわない 106 松崎しげらない 107 ビーチ坊主 108 人工衛星 ひまわりの約束 109 仙台駅西口集合 110 懲役160年 111 前立腺四天王朱雀カウパー飲み放題 112 ちんたま乱太郎 113 チーズ撲滅派 114 島倉千代の富士 115 シリアナ・グランデ 116 掲示板で知り合った巨乳 117 ミミズぐちゅぐちゅ 118 北斗の健介 119 謎の存在Q 120 パチンコが生きがい 121 五臓六腑Tiktok 122 どうにもならんよ 123 一寸先はマグロ女 124 希望も何もない 125 テマンゲリオン 126 お萬田久子 127 へちょのすけ 128 レンジでチン太郎 129 本能寺の変態 130 はんぺんサムライ 131 ムダ毛処理大臣 132 試作品622 133 高膣圧ガール 134 ミセスチルドレン 135 君の黄色いマフラーになって吐息を感じたい 136 社交性ゲロ以下 137 シャーブ・ルース 138 デパ地下でパチカ 139 マスメディア大好きっ子ちゃん 140 落合のダッチワイフ 141 幸先ワルイージ 142 怪盗ソルト 143 大入袋 144 駄作 145 薄毛のロン毛 146 高速シンカーワ・優愛 147 私の傘だけありません 148 魔王の刺し身改め天ぷらという概念 149 雨も風も去れば僕の心に残るのは君だけ 150 ちんぽGメン 151 ダーツ部部長 152 甚六さんの宴 153 朝型忍言 154 おしゃクソ 155 ある女 156 橋本奈々未 157 私立探偵ふくないようこ 158 来世はアサガオ。 159 他力本願寺の子 160 毒霧記念日 161 ミートカーソルは広め 162 公園のロケット 163 ミニラーメン大盛り 164 便所ンソン 165 笑い屋キャリー 166 朝挿入 167 パンティ改めブラ 168 下痢 169 浦沢直樹目がイッてる 170 それいけ!残飯マン 171 今日の晩飯カレーとカレイ 172 しごく先生ま〜ら〜 173 元カレとのセックスが忘れられない 174 さだ馬刺し 175 Mr.いいひとどまり 176 明石のふしだら女 177 政府にとって危険な思想の持ち主 178 白石麻衣を思い浮かべてTENGAを使ったらそれはもう白石TENGA 179 金玉院巨大居士 180 溜め息と飲み薬 181 海外旅行に畳持参 182 親が浮気してる 183 耳ほじるり 184 テロリスト 185 嬉し涙じゃじゃ丸 186 シドジェット気流 187 雰囲気8点顔2点 188 ジョニー・デップり 189 手羽先コウ 190 AV大好き 191 中田花奈の五臓六腑に染み渡りたい 192 綾波レイ・セフォー 193 火曜どうですか 194 ゲスの極みオナベ。 195 いちご100%中の100% 196 平井堅fromヘル 197 東北自動車道 198 アホくさい北斎 199 あるある 200 佐藤遅漏 201 鳥獣戯画ジャクソン 202 おちんちん出しときますね 203 女の柔肌の温もりを知りたい 204 知らない土地の松屋 205 ドリンクバーメモリー 206 やーい、お前の母ちゃんドンキの店員 207 ピンフストロガノフ 208 ボランチは要 209 ぽこちんペニックス 210 熱海のたこやきマントマン 211 パンチドランカー斎藤 212 とある無職の糞童貞 213 五月みどりのシャツ黄緑 214 匿名希望(とくなのぞみ) 215 内山田洋とクールポコ 216 スタン・番宣 217 弔辞ルーカス 218 黒ひつじ 219 らりるれ論 220 まぜ餅 221 日本の子供たち 222 バクの耳を引っ張りたい 223 羊羹、羊羹、雨、羊羹 224 DJ口内炎 225 実績ゼロ 226 この世界の片桐仁 227 白の金字塔 228 確変ベイベー 229 左目からコーヒー 230 セルジオ越後の日本語講座 231 ギンギンしてんじゃねーよ 232 ブスだ三日で慣れろ 233 チンポフラペチーノ 234 借りぐらしのチピロッティ 235 おかあさんといっしょ。そう、今も。 236 ローマは一日にして奈良漬 237 うんこ大将軍46歳会社員 238 熊木丑五郎 239 身から出たサバ 240 釈迦ベイベー 241 ぶつぶつ二の腕 242 しくじり先生にのりピーを 243 慰謝料払えバカ 244 食べるサラダ 245 雪への憎しみ 246 タキシードは風に舞う 247 満腹亭いなり 248 脱糞名人 249 ゆっくり勃起 250 人 251 沼袋 252 オッス、オラ、山村紅葉 253 デカいカマキリ 254 ブラザーフッド・オブ・スティール 255 ミヒマルED 256 ポストカードクラフトスマン 257 金玉 258 ジェントルマンコーラ 259 マニー・タッキャオ 260 髭剃りジョニー 261 変態改め変わった態度 262 聖なる靴下 263 膝に爆弾 264 エレファントかさ増し 265 滝川に栗捨てる 266 サッポロ百番 267 目には目をハニワ顔 268 三度のメシよりサンドイッチ 269 軍手のイボ対ロシア女 270 綺麗な花が好きだから 271 イボ痔 272 もうダメだな 273 僕のアソコはガンダムSEED 274 アソコ・デラックス 275 遠山の金さん銀さん 276 人は、いずれパイナポー 277 僕のことはほっといてください 278 人はいずれ死ぬ 279 私は再生紙で出来てます 280 人間はもう終わりだ 281 じっちゃんの顔にかけて 282 チョコモナカジャンボウンコ 283 俺は神を見放した 284 都立前立腺 285 ヘッドフォンマスターピース 286 僕は絶望の中にいる 287 ラッパーザキバチョフ 288 おやすミッフィー 289 ひょろ長いアネモネ 290 五軍の突撃隊長 291 崖の上の船越 292 フクロウのから揚げ 293 ノンフィクションあつみ 294 悶絶 295 犬の心 296 無回転観覧車 297 爆笑問題の大ファン 298 大黒柱オレオ 299 ダマシ屋 スケシン 300 市川海老反り 301 キューティクルは死にました 302 昔も良くなかった 303 目から鱗滝 304 回らない観覧車 305 アイルトン背中 306 ベンジャミン羊肉(マトン) 307 性犯罪者予備軍(離婚断念) 308 口癖はソイソース 309 大きめの犬 310 犬は先に死ぬ 311 アナルパールなにわ 312 豆腐小僧 313 おかずバナナ 314 フィニッシュ丸 315 需要もないのに勝手に供給 316 本名OKミゲル・マクドナ��ド・池上 317 オナ禁誓いウォーカー 318 クジャクのジャック 319 DJ本田医師 320 パパ活この指とまれ 321 遮るブルーギル 322 村上春樹 323 年収5万 324 ケツ出しエッフェル塔 325 直腸三銃士ポリープでき放題 326 藤原基央スマブラ参戦 327 しおふきんちゃん 328 部分積分いい気分 329 ルサンチマン 330 あの角曲がれば恋の予感 331 さかいわさび 332 ��国歌劇団ひとり 333 離婚寸前 334 ガイルガーゴイル 335 あの日、知恵熱が出たんだ。 336 正面からのダメージに弱次郎 337 環八太郎 338 指紋食べ郎 339 君はチョップなんて効かない 340 パンケーキで浮かれる人だけを見下してます 341 ニューヨークにゃんちゅうス 342 テンガリオン 343 汚い手でいじりました 344 山口火照る 345 むけ男 346 角質炒め定食 347 股関節痛 348 チーズケーキ夫人 349 ラッコフェスティバル 350 ガン勃ちの巨人 351 弟はバカ 352 七転びヤモリ 353 ポテチ食べたいあとモテたい 354 口はざわちんの元 355 タンパク質に花束を 356 ソンソンソンソンエマワトソン 357 江戸川区になんの恨みがある 358 形状記憶老人 359 すべての道は女性器に通ずる 360 だいぶ強い良い大仏 361 センズリ 362 バカも休み休みyeah! 363 遥かなる花粉症 364 ボールは家族 365 へびつかい座 366 無知な豚キムチ 367 塩 368 私はセンテンススプリングを忘れない 369 寂しさが生きる原動力 370 半ケツズバットルロルロロ 371 ラッセンの元カノ 372 おばあちゃんの本名OK海老沢ミツ 373 おもちもちもちももち 374 女房一筋八十年 375 ひろだ☆つの 376 仮釈放まさみ 377 君に降る雨はいつも輝いている 378 手乗り番長 379 最中を食べてる最中 380 友とスムージーと嘘と胃袋 381 犬大丈夫 382 コッペピンポンパン 383 蘇る倦怠感 384 シーズン・イン・ザ 385 石原頑張れる 386 ファンタスティック原田 387 夜嫌いの夜行性 388 アサガタ蚊サス 389 ハウルのすごく後ろ 390 ニーヌ・マッケンジー 391 本名トム・クルーズ 392 寝ても覚めてもダメ人間 393 青いブルマ 394 桃色苦労ババア 395 天真爛漫なブス 396 孤独なコンビナート 397 セッチモニ 398 ねぇ、おぬしって言って! 399 東洋のマゾ ユースケ・キンタマクラ3世 400 ロマンティックえねごり 401 お金がない 402 抱きつかれたのにキスを拒否された 403 ワーギナーマイク 404 老婆の肛門 405 前世が金玉 406 そんなことしてる場合じゃない 407 中田膣彦のコンドーム大学 408 藤田悦しーたん 409 もっこりひょうたん島 410 雪が綺麗と笑うのは君がいい 411 少年カラーに染��ったあたし 412 ティッシュ職人水戸アナル 413 ケツデカマシーンの母 414 近江路快速 415 弱みを握る寿司屋の大将 416 チンポ剥けなくていいから君に振り向いてほしい 417 しろくまのバター炒め 418 スケスケ・パンチライン 419 むちむちプリンアラモード 420 鳩子は授乳中 421 オナラ・ダスチカ 422 舘ひろし 423 ももぐちやまえ 424 ご先祖ネーム勝又伊左衛門 425 ウルトラマンキダタロー 426 親の陰毛 427 ジャムおじさんとバター犬 428 お前って呼んでいいよ 429 レッドa.k.a.赤 430 脱糞ガム宮殿 431 私の肛門おとしてくださいマイアナル蔑んで 432 激アツうんこの子守唄 433 坂口ケンタウロス 434 ブランキーじっとして 435 内角低めゴリラ 436 尿道院法尿道 437 神のみぞ知るカニのみそ汁 438 もずんのす 439 等身大ゴリラ 440 手が2本増量したっぽいしっとりマンチカン 441 家政婦エツコさんが作るフォーサイドで大ブームのいちごとうふ 442 既婚者トーマス 443 光浦靖子か、光浦靖子以外か 444 光浦靖子(偽物) 445 室伏広治(本物) 446 お前はどうしたいの? 447 母をたずねてさぁゼンリー 448 漁夫の利 449 家入レオタード 450 オダジョリギー 451 読んでも来ない 452 困る駒 453 おシャケは二十歳になってから 454 おもしろリスナー 455 ガンジー須川 456 全知全能のクズ 457 団地妻になりたい 458 甘いものはベルばら 459 なにぬねノーブラ 460 キャタピラなぎさ 461 飛んで火にいる夏の寿司 462 土佐犬人間 463 ぽんぽこマヨネーズ 464 馬のクリに念仏 465 Simple2000シリーズ THE 罵倒 466 CR源氏物語 467 シン・安住紳一郎 468 すみっコひとりぐらし 469 ねぇねぇ尾身さん 470 多目的トイレの神様 471 防災乳首 472 腰椎ガタガタ 473 毎日がサンデー 474 カルマだん吉 475 エロゴルファー猿 476 トラファルガー・ボディーブロー 477 裏スージーQ 478 でかいカマキリ 479 私は人ではない 480 カンガルー男 481 核地下庫 482 壁に耳あり障子にメアリー 483 恐竜バットヘッド 484 スーチン大統領 485 細工しても不細工 486 持ちビルハゲ太郎 487 男の中の男 488 万年金欠ストリッパー 489 クソみちょゴリラ 490 お湯の水割り 491 そこのけそこのけあそこの毛 492 泉ピン 493 切断面からこんにちは 494 巨乳ゆずる 495 ベントレー上重 496 林家三百平 497 浦安チンチン裸族 498 昼休みのおちんぽ訓練兵 499 人類は600人 500 継続率 501 同じ釜の釜飯 502 健介コストコ行ってこい 503 神社&お寺 504 頭取 505 赤羽ザウルス 506 スラッシュパウロ 507 逃げるは恥だがやくみつる 508 大福包み放題 509 クイニーアマンマン 510 裏筋ナメ太郎 511 プラトニックラブファントム 512 豆山ビーン 513 漢委奴美穂 514 ポーク&ビーンズ 515 チンポコポッコリーン 516 アイアム神社 517 モモンガ 518 玄人チェリー 519 坂下レッドホット千里子 520 エレガントナノマシン 521 膝の皿チュパチュパ 522 見て肛門 523 まんじゅうも怖いしアンミカも怖い 524 ナオト・いもけんぴライミ 525 はぎおはぎ 526 島流され男 527 水漏れかおり 528 高速生焼けジビエ 529 都会の小学生 530 ハッスル運動会 531 うんちぶりぶりステーション 532 凍ったチンポブレード 533 太もも丸太にしたい 534 マザファ寛平 535 肉、買い、食う 536 ツッコミロボ 537 人生ガチ勢 538 左手は添えるだけ 539 魁!河合塾 540 うんちパフェ 541 おでこサンシャイン 542 場所は伏す 543 黄昏の憧れ 544 野良ゴリラ 545 おかかオかかお 546 酸欠ですがなにか? 547 小島瑠璃男 548 新品の靴下についてるアレ 549 花より談合 550 トリケラとブス 551 本格派茶碗 552 でんでん推し推し空回り 553 明太子は炙ったほうが美味しい 554 扁桃パンダ 555 プリングルス玲奈 556 呼ばれてないけどジャージャー麺 557 ガパオライスは飲み物 558 足の小指くらい存在感のない僕 559 サモハン銀行 560 マッケンじゃないよ、マッキンの友達のユッキンだよ 561 君の名はジャイアン 562 月曜からおひたし 563 まえだまえだはお前だ 564 ワイルドピッチは突然に 565 傘のない時だけ雨が降る 566 畔村重蔵 567 W.Cニコル 568 懲役230年 569 かさ増しチャーハン 570 スライダーは中指で切る派 571 大塩pay八郎のお味噌ディル 572 モモコグミカンパ���ー 573 力持ちチンコ 574 うんこ製造マシーン 575 クソ豚ニート 576 湯婆婆は元女子アナ 577 ゴールドジム・イデア店 578 来世暴れる 579 山里納税 580 三杯酢アイル 581 花言葉は純愛 582 テレビは4K旦那は0毛 583 窒素 584 宇宙の仕事 585 鷲見玲奈 586 角栓しゃぶしゃぶ 587 潔癖北京 588 お便り 589 HLLSPDF 590 よしこは三銃士 591 レンネンカンプ 592 広島の喧嘩最強王 593 もこう大好き衛門 594 東京都 595 澤部派 596 ボールペン返して 597 川合俊一Tシャツ 598 原告側のたぬき 599 新垣結衣 600 化粧を落としただけなのに 601 腋臭で水虫 602 睾丸フリーマン 603 三代目鈴木福くん 604 劇団筋肉おしり 605 尻の穴に軟膏 606 母をたずねて前立腺 607 骨太クソ女 608 渡辺パチ代 609 伯方の塩吹き 610 酒税 611 敏感ペットボトル 612 今いくよ・だすよ 613 トナカイをむさぼり食うサンタクロース 614 ノルウェイの森進一 615 鬼滅のパイパン 616 お小水 617 ベッキーのタッパー 618 不幸中のWi-Fi 619 オビ=ワン・セノービ 620 おへそにたまった水 621 レアルマヨネーズ 622 正岡子規の顔下から見るか横から見るか 623 山の日 624 ハウススタジオ 625 自分の事すら他人事 626 妖怪小皿洗い 627 女教師 628 教習中に信号無視 629 瀕死の囚人 630 銀河鉄道69 631 キューピー3分ボクシング 632 君が代のCメロ 633 可愛い子にはタピを飲ませよ 634 サメ呼吸 635 タッキー&与沢 636 冷やしうんこぜんざい 637 はみ出しチンアナゴ 638 武者小路膣圧 639 角刈りだけど中身はキムタク 640 本当にうっせぇわなのは宮根誠司だけ 641 恵俊彰は許さない 642 寺門ジモンを心から憎んでいます 643 ニコ田藤ル 644 優しさ 645 煮込みチンパン 646 千のリキュール 647 火傷したんやけど 648 カギアナ・アワンデ 649 醤油ラーメンガチ勢 650 翠星石のマスター 651 ゴジラの馬子マゴラ 652 牛乳雑巾 653 飯ライス定食 654 カレーに飽きた福神漬け 655 全優連時々運荷連 656 土に還るまでが��足です 657 若ハゲの至り 658 東を向けば西が見えない 659 フランスパンを桂剥き 660 オッス、オラ虚空 661 山口県は世も末 662 ビデ男爵 663 道端センズリカ 664 家出レオ 665 遊ぶ金欲しさに 666 胃潰瘍の末裔 667 ソーシャル・D・スタンス 668 神奈川県町田市 669 手汗が半端ない 670 家中ゴミ袋 671 101匹わんちゃん大交尾 672 おジャ魔女平野レミ 673 一秒金縛り 674 マイケル寂聴 675 キリン組 676 バッキンガム留年 677 乳首かじり虫 678 馬の脇毛 679 タガメの便器ん術士 680 クニック・ノーサック 681 お前らの墓に小銭まいてやる 682 餃子DOPENESS 683 ようこそ西川口 684 歯を磨いたのにお菓子食べちゃう 685 イソジンの匂いとタバコの残り香 686 榊原育英会 687 隠し砦の酸辣湯 688 生き生きゾンビ 689 オードリーが壊した椅子 690 万策尽きた 691 ずっと微熱 692 バタ子の苦いところ 693 国家の柴犬 694 SSR藤本 695 おじゃるばつ 696 バツイチ子持ちししゃも 697 富岡製糸ぶっかけ工場 698 小峠英二の下の口 699 フナの解剖 700 村上ホームラン打ったよ 701 無し 702 田中樹の全てが大好き 703 闇金ぺんてる 704 目を閉じておいでやす 705 伊達メガネ政宗 706 北風と太陽vsエアコン 707 好き好き大好き超愛してる 708 不味い高い早い店 709 リチャードセカンドギア 710 ギャンブル大好きネキ 711 あいつら全員町内会 712 山下じゃない達郎 713 井口マリ男 714 今日の放送聴いてなんかヤバいなと思ったおじさん 715 オワコンポンチ 716 松尾微笑 717 留置場住みます芸人 718 ピーマンの箱詰め 719 最初はグーテンモルゲン 720 おっぱいファイヤー大爆発 721 知ルベキダー・家ローン 722 ヒザが爆発 723 下から数えたほうが早い 724 小2で盲腸 725 百発七中 726 トモ・クルーズ 727 アダルトヒデオ 728 略すマサムネ 729 骨盤ガクガク 730 素直なお茄子 731 真空パック巻旋風脚 732 今朝、袈裟切り 733 タイトルショルダー 734 本名OK柴田理恵(4歳) 735 バタコの苦いところ 736 下の毛姫 737 母の純血を奪った刺青の男 738 チンカス弁当まる 739 ブルルンでんまくん 740 ボジョレー女房 741 あいうえお 742 ガキの腰使いやあらへんで 743 ブルーノ・マーズクワーズ 744 平成手コキ合戦チンポコ 745 めんま1/5 746 よい子悪い子どうでもいい子 747 セーラー服と一晩中 748 エド・スリーラン 749 篠田麻里子 750 うなぎニョロニョロ 751 チョーシ・クルーニー 752 ハーメル・チンダース 753 生ハムの裏側 754 ミトン大好き婆さん 755 紫敷布団 756 蘇る頻尿 757 オレンジレンチン 758 しまいにゃポコチン 759 持ち物は磁石 760 中身はダンゴムシ 761 オレンジジュースで泣けてくる 762 服おっきいね 763 股間のデビルハンター 764 令和に着地 765 あかあかあかちゃんです私は 766 HLLSPD 767 ポン酢アンドハーデス 768 煉獄ガチアンチ 769 1日中空いてます 770 ごめんなサイスニード 771 赤味噌は報われてほしい 772 デッドリフト 260キロおじさん 773 ガショートコラ 774 お主と拙者と洗濯物 775 犬のしっこで育つ 776 カレーに飽きた福神漬け 777 チンポコ��ャンケンあいこでしょ 778 ガチの妹 779 クワトロ・ヴァギーナ 780 小麦粉に埋もれたい 781 脳味噌の調子 782 下柳に投げつけられたグラブ 783 iPhoneシャワー 784 チー牛の嫁 785 けつあな確定 786 ちんこタイ米 787 常識を知っている初ガツオさん 788 レオナルド・デカケツプリオ 789 上地雄輔大好きっ子ちゃん 790 ヒカルの碁が好き 791 下痢コーンひじき 792 おちんぽラーメンパワーメイクアップ 793 逆アフロ 794 ガダルアナルチャハ 795 マーライオンにキス 796 広島の最強喧嘩王 797 牛タンのたまった落とし穴 798 ツァリ 799 100キロニキ 800 ガチャピンの股間がムックムック 801 ミスチル桜井 802 2個で10円 803 御茶ノ水全部飲んでみた 804 祖母から産まれた孫 805 じっくり煮込んだチンパンジー 806 失楽園ベイベー 807 イヤホンしてるから君に気付いてないだけ 808 ヌレヨンちんちゃん 809 お通しでお腹いっぱい 810 ドッジボールは常に外野 811 ビビンバにビビんな 812 アムラーに乗り遅れたサーファー 813 皿で皿を洗う 814 まさかのサメと遭遇も余裕シャークシャク 815 カツオの袋叩き 816 非社会勢力 817 裸眼の目玉焼き 818 不健康運動 819 ダスチンコフマン 820 ジョンダイナマイト 821 ロマンスカーに乗ったフレンチブル 822 金玉コレステロール 823 派遣のサンタ 824 なかよくいこうぜ 825 前蹴りジャクソン 826 左右非対称の唐揚げ 827 福山はさまる 828 シーマン大量確保 829 イカ作家 830 タマ白髪 831 ちんこそば 832 高田文子 833 机の行方 834 セクシャル汁男ディズム 835 失恋したら絨毯を洗え 836 上田晋也の隠し子 837 木村カポエラ 838 チャームポイントは蟻の門渡り 839 サーモンの煮付け 840 柄本マルチタスク 841 ベルリンの壁ドン 842 Shape of 優 843 尿道まだ攻めてる途中でしょうが 844 ヤバイチーズ屋さん 845 ひらがなでこしいたい 846 タカチャンホンポ 847 ビニールおっぱい 848 熱血硬派鶴屋くん 849 先っぽで精一杯 850 パンダの好きピ 851 童貞紳士 852 虎の屁を嗅ぐ狐 853 ジュンドルキャン 854 センズリッチ大学 855 グッドナイトボーイ 856 ブラ紐ザウルス 857 浜ちゃんのフレンチクルーラー 858 警察 859 おばあちゃんにドラゴンスクリュー 860 愛をこめて生卵 861 ハリーポッターと賢者タイム 862 秋元産むが易し 863 質実剛健 右乳首カリカリ丸 864 お寿司爆発事件対策本部 865 マイブラッディ派遣社員 866 キンタマモンダミン 867 ボサノババージョンですがよろしいですか? 868 現役音大生ベーシストジャニーズJr.(本物) 869 ザク専用シャア 870 乳袋揉み太郎 871 生肉食べたい 872 チンタン 873 ラリホー 874 堕落ッマ 875 来世はちゃんとする 876 マリー洗濯ネットさん 877 2度目の結婚 878 マジで腰振る5秒前 879 寝バック・トゥ・ザ・フューチャー 880 当社比100% 881 アクセルペダルぶっ飛ぶ 882 最寄りのホテルはエアシューター 883 モリッとウンチくん 884 屁の呼吸 885 超社会人 886 笑い方バッファロー 887 HIRUASOBI 888 でかきも 889 あらやだ奥さん 890 ぱいぱいしぼ美 891 永久ラブソング 892 ファックス 893 一旦木綿豆腐 894 ヘガ・デルト・ミガデル 895 限界受験生 896 釈迦に説教 897 僕のエーローアカデミア 898 お線香のハサウェイ 899 公園のベンチでひとり飯 900 岸田文雄 901 春はあけぼの、僕はの��もの 902 スヌーピーナッツ 903 ショートスリーパー美神 904 お胸パット・メセニー 905 あの娘としてからチンポが痒い 906 ミュータントギャートルズ 907 サカサマサカサ 908 リリーフランキー堺すすむ 909 はんぺん教師 910 いちばんきれいなひらがな 911 遠い国の音楽 912 隠キャのインポ 913 具なしパスタ 914 靴紐の干物 915 エリートなのに複雑骨折 916 全裸で南極に行く 917 ジェネリック美人 918 ルービックキューブかと思ったら親戚のおじさんだった 919 愛しさと切なさと森高千里 920 シュッとしたデブ 921 焼酎スーパーノヴァ 922 くだらない質問 923 ガス100000 924 絵に描いたような馬鹿 925 爪切りの世界大会 926 ラッキーサモエド空間 927 ウーピンゴールドバーグ 928 シャクレンジャー 929 クソみたいな人生 930 最近は二足歩行 931 気づかない女猛省中 932 夜は腹減りさすればお米 933 セーラーフレディーマーキュリー 934 スープよりソープが好き 935 ガッツイチモツ 936 松潤 937 漁業従事者 938 俺の爺さん今でも髪フッサフサ 939 扇風機ぐるぐる 940 節穴確定 941 色白のどちんこ 942 きら星もろり 943 カリフェラ君 944 アジの開きを開かせない協会会長 945 生麦生米訛った孫 946 鎖骨真っ二つ 947 ボインランドリー 948 最寄りのホテルはエアシューター 949 うんこママ 950 元ラストアイドル 951 あっちいけコンディショナー 952 ユーモア0男 953 控えめなピース 954 げきしこジャパン 955 鼻糞マニア 956 林家東南西北 957 ブンブ��セックス(56歳) 958 神聖しこってちゃん 959 カマンベールチズ男 960 藤森慎吾は楽しんご 961 前前前戯 962 ブスは恥だし角が立つ 963 生肉食べたい 964 シーマン大量確保 965 頸動脈 966 都会の駄菓子屋 967 ピカソの本名は長い 968 名探偵ゴメン 969 ヒステリックブラジャー 970 故郷は地球 971 むらむら帝国 972 生エビ10貫 973 紐パンツドキドキ 974 長男なのに痔なんです 975 すすめ!パイケーツ 976 フレッシュレスバーガー 977 ヅラグループの夢社長 978 二階からメタリカ 979 メーロン・マスク 980 あのこは鳥貴族 981 射精爆弾 982 よつ葉乳業のパンケーキミックス美味い 983 魚が焼けたけど食べますか? 984 お先真っくライト 985 腰痛本舗 986 混ぜそばは混ぜるな 987 鶴の倍返し 988 コブクロに謝れ 989 スヴェンソン広報部 990 オジンゲリオン初老機 991 ホシゲノン 992 血圧高杉晋作 993 ビーフガノンドロフ 994 肩関節えぐ子 995 過労キティ 996 どうせ俺様なんか 997 週4下痢 998 いいとしのエリー 999 母乳で作ったヨーグルト 1000 藤井壁 1001 コアラで子洗う 1002 エアグルーヴの足の指の間を舐めたい 1003 ササミオリジナル 1004 ほぐし水サワー 1005 放尿魔 1006 中出さない犬 1007 犬と歩いて棒を避ける 1008 蘇った梅干し 1009 頼むから目を覚ませ 1010 尿 1011 鮫洲の3Bの検査官が出てるAV 1012 アソーカタノ子 1013 ニートたけし 1014 スケベイスで椅子取りゲーム 1015 キャベジン激辛ハバネロ味 1016 フル勃起大学 1017 筋肉にメロディー 1018 間違ったSDGs 1019 半勃ちひろし 1020 クリス松村アローラのすがた 1021 食える公園 1022 ルンバに積もったホコリ 1023 白雪姫と七人の悪魔超人 1024 バイオ山村紅葉 1025 パイ乙付け難い 1026 寝溜めカンタービレ 1027 猫の乳搾り 1028 大鶴VIVANT 1029 テンガをクンニする男 1030 OL(お風呂屋レディ) 1031 もりもりうんこくん 1032 わくわくうんちくん 1033 瑠璃色の海 1034 錆びたコーンスープ 1035 セーラー服と一晩中 1036 ジャンヌ・ダルシム 1037 猫にカート・コバーン 1038 水金近本同点タイムリー 1039 振りすぎファンタ 1040 山口もえ大好きっ子 1041 ブラヒモザウルス 1042 風呂上がりの夜空に 1043 尿ひろみ 1044 ふくらはぎゴツ子 1045 向井しか勝たん 1046 ダイナミックファイター 1047 愛のままにわがままに僕は着るものを身に着けない 1048 豚プードル 1049 イルカドラゴン温泉 1050 痔にはトライフォース 1051 どちらかというと揚げシュウマイ派 1052 なに見てんだてめえ 1053 ナイス国務長官 1054 象のつま先 1055 ちゃんこちゃんこちゃんこちゃんこ 1056 よくしまるひろこ 1057 消しゴムマジックでも消えない愛 1058 乾燥えぐすぎ 1059 窓から茄子 1060 トマト栽培者 1061 窒素 1062 ふがふがふーがふが 1063 若いキツネと淫らなタヌキ 1064 すっとこおむすび 1065 心斎橋のブロッコリー 1066 しゃかりきコロンブス 1067 どうだ世界は広いだろ 1068 パラダイス楽園 1069 るーしーそみお 1070 100点アメリカ 1071 10秒ペテン師 1072 突き指 1073 習字の時間 1074 連れてってクリオネ 1075 布製の醤油差し 1076 おぴんぴん 1077 田中の部屋の住人 1078 ジャミロ村井 1079 好物の寿司ネタに赤身ない銀次 1080 帰る場所がない 1081 変革者フューチャーマン 1082 飛べない紙飛行機 1083 ホ別パンナちゃん 1084 木パンツハンガー 1085 前立腺隊マッサージャー 1086 トシフィコ横浜 1087 谷間の中の谷まりあ 1088 自転車乗れるかな 1089 股関節爆発 1090 D-51ですら泣く出来事 1091 肩関節えぐ子 1092 ありがとんこつラーメンパラダイスどっこいしょ 1093 こけしだけが話し相手 1094 ゴミ野郎 1095 嫁が実家に帰った 1096 正直スマンかった 1097 実家が太い 1098 利息で暮らそう 1099 俺に期待するな 1100 痔主 1101 NEXT膝小僧 1102 一円からの全身脱毛アンチ 1103 ぽんず侍 1104 大惨事のヒロイン 1105 屁出るとすげえ出る 1106 陰毛ごはん 1107 下白石ラテ 1108 オチンポス16闘神 1109 奥歯ガタガタ言わせ太郎 1110 ミッドナイトに大乱闘 1111 ケンティー2世 1112 名探偵コカン 1113 私の彼は御用聞き 1114 俺に憧れるのをやめましょう 1115 保安官 1116 おなかすいたよ 1117 もう小学生 1118 すき家しか勝たん 1119 ファーストサマースイカ 1120 カードキャプター桜田門 1121 タマの痒み 1122 寿司繋がり2連 1123 毎日パンまつり 1124 細麺パラダイス 1125 にじゅういんひかる 1126 乳首をいじったら花粉症が治った 1127 揚げ出し毛布 1128 筋肉ハイビスカス 1129 滝沢アヘン 1130 仕方ないな、タカシ 1131 人生フィルダースチョイス 1132 世界の中心でマシュマロ焼いちゃお 1133 錆びたコンパス 1134 ヘビースモーカー中将 1135 ピラニアの干物 1136 メッシの通訳 1137 日経平均パスタ 1138 ルシファー吉岡里帆 1139 クッキーばばあ 1140 炊きこまれた白米 1141 中型犬ハチコ 1142 踊れない方のTAKAHIRO 1143 ブサイクルショップ 1144 ミラノ風のび太さん 1145 受験失敗したあとの人生 1146 ABCD?いいえ、藤井 1147 みすぼらしいチンコのリーダーズ 1148 血管一方通行 1149 廉くんの鎖骨に住みたい 1150 ハートを奪われ��こけし 1151 句読点の女 1152 とりあえず南無 1153 光バイト募集中 1154 五月雨を集めてハヤシライス食う 1155 コンビニの前でたむろなみえ 1156 ジャンヌ・ダルシム 1157 独特な髪型 1158 お茶飲み過ぎ博士 1159 ピンク風呂色 1160 男の人っていつもそうですね 1161 オセンベイ・オリバ 1162 馬術部手術中 1163 さすらいの鶏肉 1164 チェ・カピバラ 1165 アンジェラアキ(Bluetooth機能搭載) 1166 こけしだけが喋り相手 1167 かいみょん 1168 食パン食べたい 1169 三度の飯よりガリガリが好き 1170 夜ごはんはオムそば 1171 ゴリラババア 1172 悪代官の子孫 1173 ムックの法則 1174 好きなガムはジュードベリンガム 1175 戸塚ヨットスクール生徒 1176 左遷島耕作 1177 周富徳のシュート見とく 1178 夏目尿石 1179 徒歩100分 1180 ヨーグルトは俺のもの 1181 橋本パンダ 1183 足が痺れた中3女子 1184 昼の女帝 1185 パパは金持ち 1186 茄子皮に転身 1187 習字の月謝 1188 試作型プロトタイプ 1189 サタデー太鼓フィーバー 1190 頭蓋骨窪み 1191 歯茎の再生能力 1192 ドクロ坊主 1193 三代目CHAGEandASKA 1194 口だけ女 1195 水分 1196 痩せたら深津絵里 1197 社会不適合犬 1198 メイキングTHE道路 1199 Xの二条城 1200 つくねをつっつくね
好きなラジオネーム1200選 - kansou
ラジオ,ポッドキャスト,投稿,ゲスナー,視聴者,ラジオネーム,ペンネーム,サンドリ,サンデーナイトドリーマー,有吉,太田上田,
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今日は新作「鬼子母神」のご紹介です。
鬼子母神は安産・子安の神様として女性に信仰される女神ですが、非常に恐ろしい側面を持っています。
今回の制作にあたり取材や書籍で調べたところ非常に興味深く、現代こそ鬼子母神という存在が必要なのではないだろうか思いました。
そこで作品とともに興味深かった点や考察をこれから3回に渡ってご紹介していければと思います。宜しければお付き合いください。
〈鬼子母神の物語〉
鬼子母神はもともと100人とも1,000人とも言われる多産の女性でしたが、暴虐の気があり、よその家の子どもを食うことで非常に恐れられていました。
あまりのことに見かねたお釈迦様が、鬼子母神の末の子を隠してしまいます。愛する我が子を見失った鬼子母神は嘆き悲しみ、その様子を見たお釈迦さまはこう��します「千人のうちの一子を失うだけでこのような辛い思いになる。ならばお前が他人の一子を食らうとき、その父母の嘆きは言うまでもないだろう」。
己の過ちを悟った鬼子母神は、子供を食う代わりに柘榴を食うことでその衝動を抑え、以後はお釈迦さまに帰依し、仏神となったそうです。
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Today l introduce the my new work "Kishimojin".
Kishimojin is a buddha worshipped by women as a goddess of safe childbirth and child safety, but she also has a very frightening side.
When I researched Kishimojin through interviews and books for my artwork, I found it extremely interesting and thought that the existence of Kishimojin is necessary for modern women.
I would like to introduce some of the interesting points and insights I gained along with the work over the next three articles. Please bear with me if you like.
〈A narrative of Kishimojin〉
Kishimojin was originally a fertile woman who was said to have given birth to 100 or 1,000 children, but was feared for her tyrannical nature and for eating children from other families.
The Shakyamuni Buddha, unable to bear the sight of her so much, hid Kishimojin's youngest child from her. Kishimojin was saddened by the loss of her beloved child, and seeing this, Buddha admonished her: "If you lose just one child out of a thousand, you will feel such pain. Then when you eat someone else's child, it goes without saying that their parents will mourn too.
Realising her mistake, Kishimojin suppressed her impulse by eating pomegranate instead of children, and thereafter took refuge in Budda and became a Buddhist deity.
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TEDにて
マーク・ロビンソン: 古代ギリシャの建築家の。とある1日
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
アテナイの夜が明ける頃、フェイディアスは既に仕事に遅れています。
時は、紀元前432年、建築家の��ェイディアスは、最新で最大規模の神殿、パルテノン神殿造営の総監督です。完成したら、彼の傑作は、女神アテナを祀る壮大な神殿となり、アテナイ人の栄光の証となるでしょう。
ところが、フェイディアスが、建設現場に到着すると5人の役人が待ち構えていました。神殿中央にある神聖な像の金を横領した罪にフェイディアスは問われ、日没までに神殿の全経費と金の薄片全ての報告を余儀なくされます。
さもないと、法廷での判決を受けてしまいます。無実の罪を着せられたにもかかわらず、フェイディアスは驚いていません。パルテノン神殿の建設を命じた政治家ペリクレスには、政府内に多くの敵がいることに加え、このプロジェクト自体、いささか物議を醸すものだからです。
アテナイ市民が期待するのは、ドーリア式の古典的な神殿。つまり、シンプルな柱が水平梁エンタブラチュアを支え、切妻屋根がかぶさる建築様式です。
しかし、フェイディアスの設計は、従来のものに比べはるかに急進的です。柱はドーリア式、梁のフリーズ部分はイオニア式で、アテナイで行われるパナテナイア祭の盛大な祭り風景が全面に描かれます。
神殿の装飾に人間と神々が、並んで描かれたことは、かつて一度もないだけでなく、それには従来の手法より多くの費用がかかります。同僚が支出を記録しているよう神々に祈りながらフェイディアスは自らの潔白を証明すべく動き出します。
まず、建築家のイクティノスとカリクラテスに連絡をします。見直すのは設計図ではなく、基本計画書、シングラファイと3Ⅾ模型のパラデイグマです。3人は、正確な設計図なしにただちに問題を解決しなければなりません。
頼りになるのは、入念な計算と均整美に対する自分たちの直観だけです。とりわけ均整を保つことは難しいことが分かりました。パルテノン神殿は湾曲した地に建てられ、柱はやや内側に傾いています。
力強さを示し、遠くからは真っすぐな柱に見えるようにするため、柱に少し膨らみをもたせるエンタシスの技法が採用されました。神殿の他��要素についても比較的、一貫した比率を採用しながら調和の美しさを計算します。
しかし、設計を変更するには休みなく計算し直さねばなりません。そのうちの1つの計算を手伝った後、フェイディアスは、同僚の金の記録をまとめ特別配達を受け取るため、その場を離れます。
神殿のペディメント(三角形の切妻壁)に使う巨大な大理石が、ペンテリコ山の採石場からちょうど届きました。重さ2~3トンのブロックを運ぶのに通常の傾斜路では崩れてしまうでしょう。
そのためフェイディアスは、新たな滑車の建設を命じます。追加費用を記録し、午後はずっと建設の指揮をとった後、フェイディアスは彫刻の作業場にようやく到着します。彫刻家たちはメトープ部分に神話や伝説に関する92の場面を掘り、神殿に装飾を施しています。
彫刻に描かれるのは、様々な壮大な戦いで、どれも約40年前のペルシア戦争におけるギリシャの勝利を表象するものです。これ程多くのメトープが、神殿に使われたことは未だかつてなく1場面、描かれる毎に費用がかさんでいきます。
最後に、フェイディアスは自身の主要任務である神殿の本尊に取りかかります。分厚い金の層に覆われ、繊細な装飾が施されれた礼拝者の上に高くそびえ立つ像、アテナイの守護神、アテナ・パルテノスの像です。
神殿が完成したら人々はその周りに集まり、お祈りをし捧げものをしながら知恵の女神への献酒を注ぐでしょう。フェイディアスは、残った時間を像の最後の仕上げに費やします。
日が暮れる頃、役人が、彼を問い詰めにやって来ます。フェイディアスの記録を見た後、彼らは勝ち誇ったかのように見上げます。フェイディアスが報告したのは、神殿の一般的な支出で女神像の金に関しては、全く触れられていなかったのです。
その時、フェイディアスを助けるべくペリクレスが到着、神殿造営の支援者は役人に言います「像に使われている金は全て、1つ1つ取って量ることができるのでフェイディアスの無実は証明されるだろう」
作業員にその任務にあたらせ、彼らを夜遅くまで見ているよう役人らに命じるとフェイディアスとペリクレスは、敵のもとを去り彼らをアテナ神の情けに委ねるのです。
(個人的なアイデア)
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、ア��ストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたい道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にした古代ローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も��要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。
現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達して���と子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
<おすすめサイト>
エピソード6Episode6 - アトラクタフィールドと人類の歴史について(パワーか、フォースか 改訂版―人間のレベルを測る科学 - デヴィッド・R・ホーキンズ Amazon)
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
日本テーラワーダ仏教協会
マイケル・サンデル:メリトクラシー(能力主義)の横暴
アレグザンダー・ベッツ:ブレグジットはなぜ起きた?次にするべきことは何か
マーカス・デュ・ソートイ:数学の核心にあるパラドックス - ゲーデルの不完全性定理
ユバル・ノア・ハラーリ:ウクライナの戦争がすべてを変える?
マーク・ロビンソン:ヨーロッパの歴史を変えたノルマン人
ジェシー・バイアック:呪文、脅迫、ドラゴン、ヴァイキングのルーン石碑に刻まれた秘密のメッセージ
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愚者話 6
害 否定 その受容
人の邪魔をして心情や気分、生活や生存を害したいという人々が、確実に存在している。人が悩み憂い苦しむのを見てほくそ笑み、自分は偉いか上だと思い込み、現世利益を鱈腹食べて、嘲るだけの日々を送っている人達が居る。
そういう人達に何を言ったり思ったり考えても無駄なことであって、彼らは本質的に変わることはない。彼らは自分たちが正しいのだと思い込み続けるのであろう。それをどうこうしようとするから苦しむのであって、はなから感知しなければ何の問題もない。
『これが正しいですよ』『これが正解ですよ』『こうあるべきですよ』『こうなるべきなんですよ』という洗脳には与しない。屈しない。服さない。
負けない。負けても立ち上がり、へこたれない。へこたれても勇んで立つ。挫けない。挫けて��舞い戻る。
どうするのかはわかっている。精神の状態等は瑣末な問題。身についた技量は消し飛ばない。やったことだけは残るのだ。やってない事は残らない。便利な馬鹿にはわからない。ズルをして勝ってる奴らにはわからない。何をしてもいいと思ってる奴らには辿り着けない。そういう光が確かにある。それは決して奪えないものだと知っているんだ。
人を害したい人は消えないだろう。そういう人たちだから消えないだろう。現にそうなんだから仕方ないだろう。それでもまだ迷える心は救えない?
『別に───』
小泉君の言葉が思い起こされる。
『別に害されたっていいじゃねえか。何の問題があるんだよ?』 『否定される事に慣れてない人が多すぎる』 『人類全員ナルシスト』 『 " お前はお前が思うほど大した人間じゃない " ってちっちゃい時に読んだんだよね。あの時は参ったね。 " そんなこと言う必要ないじゃん! " 、 " 酷い! " って思うじゃん? " ほんとにそうか? " とかって疑問に思ったりしてさ。だってまだ自我もふわっふわのちっちゃい頃だよ? 余計にね?』 『でも。そういう事に怒っていたのももうずっと前だよ。今はもう、釈迦ちゃんの言う『無我』がよく分かるっつーか、皆んな風に言えば " 共感 " 出来るっつーか。まぁ、そんな感じ? わかったぁ?』
私は小泉君が引き合いに出した言葉を知らなかったから、それについて調べてみた。
それは" お前は、お前が思っているほど大した人間じゃない "とか" お前が思っているほど、お前はたいした奴じゃない " などと、幾つかの場所で、細かい表記揺れの違いを持って、紹介されていた。
それはどうやら、かのシュールレアリズムでその名声を確固たるものとした漫画家、その選集の巻末に、とあるコピーライターが書いた言葉らしかった。
さあ。コピーライターが書いたと知れば、なるほど頷けるではないか。前途の一文は、コピーライターが言いそうな事である、と思う。その信憑性というか、『正しさ』、は兎も角として、事実は単に、『漫画の選集の巻末コメントに、コピーライターが書いた言葉でしかない』という事だと言い得るだろう。
そんな言葉で若者や子供達を打ちのめしてどの様に『教育』したいのかについて、幾つか仮説を生やす事は可能であるが、その話は置いておこう。
あの時その言葉が引き合いに出された理由は、単に、『否定に慣れよ』という事だと考える。『皆んな否定に慣れていないから苦しむのであって、否定に慣れれば否定をされてもさして苦しまない』のだと。そういう事、そういう心づもりで、小泉くんはその言葉を持ってきたのかもしれない。まぁそんな事の事実は本人にしかわからないが。
私は否定も必要であると考える。同時に『私たち』の信念から、否定しないことも、肯定しないことも、肯定することも、そういった二元論的対立から離れることも、それらを同時に持ち得る事も……といった全てを採択するのである事は、最早『私たち』にとっては日常的な実践だ。
ここで『肯定』や『否定』の『効果』、『性質』について考えてみようか。
『肯定』は一般に人に好かれやすい効果を持ち、一方で『現実に向き合う事からの一種の逃避』という性質を持っている様に感ぜられる。
『否定』は一般に人に好かれづらい効果を持ち、一方で『現実を直視させ状態を改める事を促す』という性質を持っている様に感ぜられる。
他にも当然、色々な『性質』、『効果』は幾つも挙げられるのだろうが、ここでは上記の点について更に言葉を連ねる事としようか。
またタロットカードの各カードの持つ意味の説明の様に、その言葉から連想される性質や効果について、列挙する形式で書いてみようとふと思う。
『肯定』は同意、賛同、共感、モテ、応援、仲間、うわべの話、さわり、おべっか、ご機嫌取り、お世辞、ぬるま湯、飴、甘やかし、協調、調和、友好、多様性、建前。
などの言葉が、私にはパッと連想されるところである。
『否定』は反対、反論、指摘、非モテ、忠告、敵対、中身ある話、本質、憎まれ口、皮肉、リアル、鞭、戒め、教授、排他、対立、不和、険悪、画一性、本音。
などの言葉は、肯定から連想される言葉の対義語などとして挙げられるところであろう。
こう並べながらその意味を再度調べるなりしていると、色々と思うところがあるのだが。その最たるものは、『どちらか一方だけでは欠けているのかもしれない』、という思いである。
どちらか一方だけでは人間は『壊れて』しまう。『肯定』だけで甘やかされれば『増長』、つまり『傲慢』や『高慢』になってしまうし、『否定』だけで懲らしめられてばかりでは『畏縮』、つまり『謙虚』になってしまう。
『謙虚』と言えばいいものと感じる向きがあろうが、へりくだって人の意見ばかり受け入れている様な人にも、それはそれで問題を論じる事は可能である。どころか、すぐにその『良し悪し』を思い浮かぶ事は殆どの人間に可能ではないかと考える。
うむ。上記こそ慎ましやかな表現であり、それはメッセージの『攻撃力』、『突破力』、��効力』、『印象残存力』、『簡潔さ』など、其の他様々なものを犠牲にした表現の選択である。
そうして控えめな態度で何でも自分に問題があると自罰して行く向きを極めていけば、精神は暗く陰鬱としてしまって、その自己肯定感の低さから日々の行動、生活すらままならない状態になってしまうことは想像に難くない。
というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
そも。
さきほどの連想列挙はその場限りの個人的な連想でしかない。一定の共感や理解は得られるかもしれないが、その実『それって両方にも言えるよね』というものがあり、それは『傲慢』や『謙虚』についてもやはり言えることだ。
例として『否定』側の『傲慢』な人間様相を挙げよう。
『否定』側はどうにも私にはいつも、『正しいもの』、『こうあるべきもの』を前提として、��れに合致していないから『憤っている』様に見受けられる。
その強烈強固な『俺のルール』に従えと言わんばかりの態度は、とかく人に突っ掛かるは高慢ちきな高飛車人間になってしまうという側面、作用もあるだろう。
そしてそうなってくると『その人と一緒にいられる人間』は限られてくる。また『長く安定して付き合える人間』が限定されることを意味し、つまりは閉じたコミュニティで蠱毒の様に、『正しさ』を捏ねくり回す『モンスター』にさえなってしまうこともまた、想像に容易い。
というより実際にたくさん見てきたし、経験した。
この様にどこまでも様々な観点から論じる事は出来てしまうので、キリがないため一旦そういう『例挙げ』はここまでとして、そろそろ結論を述べようと思う。
要するに。
『極端は避けろ』
と言う話だ。
小学生だって思いつくぐらいに、『結局のところバランス』であり、副業をしているビジネスマンが好きそうな言い方をすれば、『多くのチャネルを持つこと』が重要であり、それは釈迦の言う『中道』とも通ずると私は考える。というより感じる。いや、" 共感 "する。
私たち『作値問下《なすあうとうもと》』は、人間としての釈迦を肯定し、神格化された仏陀や仏教というものを否定していると言えるが、私たちはその信念から、同時に仏教や仏陀もまた実は肯定もしているし───だからこそ大乗仏教の用語などを親しみを込めて用いることもあるのだし───、その様な二者対立を離れた観点や、その他の観点を模索しようとさえもし続けている『集団』であるのだが。
敵とも言える宗教法人『物打題法《ぶつだだいほう》』は、私たちを肯定する事はないし、ひたすらに否定し続けるだけなのであろう。それは恐らく釈迦が考えたであろう中道とは、異なる道だ。
私たちは自分たちで気づいたその『極端に振り切らない』、『極端に振り切って両方を知る』、『矛盾対立を克す』といった信念が、釈迦の語っていた『中道』に通ずるものだとして飽くまで共感しているに過ぎないが。
少なくともそれは私たちにとって『悟り』の一部であるので。
その観点から『物打題法《ぶつだだいほう》』の人間は『悟れない』というのが私たちの見解である。
何度も述べている通り、別にそれが『良い悪い』とか、『偉い偉くない』とか、『凄い凄くない』とか、そういう話ではないし、同時にそういう話でもあるし、そもそもそういう事を勘がるのが違うし、そう言うことを考えるのが『当ってる』とも言える。
別に別の言葉で説明修飾補足しなくてもよいという考え方もあるわけだ。言ってる側から私たちの常套手段である多数の語の列挙という手法が覗いてしまっている訳だが、これこそは『自主的で積極的な矛盾』を扱える私たちの特徴の発露であろうか。
『気づかないで矛盾していること』と『気づいている上で矛盾を受け入れていること』は全く異なることであるのだが、普通の人々にはそんな事はどうでもいいことらしかった。だから私は普通の人々が嫌いだし、同時に好き以下省略であるのだが、この理論が人々に解��れる事はないだろう。
生半可な経験で私たちの思想や理論を実感を伴って腹落ちする事はほぼ不可能に近しいと考える。
それでいいし、そうあるべきだし、同時にそうあるべきでなく、べきとかではなく、それではよくないし、そういう話じゃないとも言えるし、以下略。
そう言える理由は私たちが執着を『滅している』者達であるからだと説明出来る。
私たちは『救世願望』や『統治願望』、『金銭欲』や『顕示欲』といった欲や願望、つまりは『執着』を滅する事を『宗《むね》』としているので。
その『実践』にあっては、『現世利益追求集団』やらの前提刷り込み思い込み、決めつけレッテル先入観、固定観念偏見常識などに囚われる事は必要のない事なのである。
そういうわけだから、『アカデミックなもの』を『盲信していない』。文法にしたって『学校文法』が全てだとは思っていないし、その様にせよと迫る暗黙の圧力には与しないし屈さない。服わない。
私たちは『普通の人々が経験しない、噂にも聞けない、想像さえも出来ない様な異常な体験、生い立ちを経てきた辛苦の徒であって。故にその苦悩は常人のそれとは計り知れず、其の為に " 現在の苦 " を " 滅する " 事を本懐、本領とする人間の集まり、及び思想体系』であると言えるので。
『普通の人たち』の『当たり前の』『殆ど』が、私たちには齎されなかったものでなのである。
それは『親が離婚した』とか、『虐待されていた』とか、そんな『瑣末な程度の話』ではないのだが。
『普通の人々』は『想像力』か『あれこれと考える力』、いや『多数の可能性や思いなどを同時に幾つも持ち合わせそのどれをも信奉する』という『ダブルシンク』のような『能力』に欠けているので。
わかりよう筈もない。そして私たちは、『わかってほしい』などという欲≒執着≒煩悩も、やはり同時に『滅する』のであるからして、『全てはこれでいいのだ』という結論に至れる次第だ。
これが『悟り』のあらましの一部であるので。
『ただ数文字の念仏を唱えたり、現世利益を追求している様な者達』には到底この考え、思い、感じに至ることはできないであろう。それは自明な事なのだ。
これはまた、『普通の人々が信じている事の大半』が、私たちにとっては瑣末な事で『も』あるという話にも繋がっていく結論だ。
アインシュタインを思い出せ。常識とはなんだったか。
もっともそんな知識、いな、情報に効力はさしてない。
アインシュタインの格言など見るまでもなく、私達はその認識を早くから自ずと生成していた。それは『極めて稀有で異常な苦痛に塗れた境遇』があったからこそ辿りつけたものであるので。
だから私たちは『布教』などしないのだ。どこぞの『金と利権目当ての害欲求寄生虫集団』いや『物打題法��とは違うのだから。
まぁ。
否定で『繋がる』向きもあると思う。
『否定で共感』するという事もありうると思う。
前途の『肯定否定から連想される語句の列挙リスト』が、肯定否定のその片方にある語句───というかその概念───が、もう一方には該当しない、というものでは無い事は、先ほども述べた通りであるのだし。
『自分は尊重されるべき人間』だとか、『これは当然の権利である』と思うから苦しむのであって、『現にこうなのであるから受け入れる』という境地に至る事が出来るのであれば、『否定』ひいては『害される』という事も、別に良し悪しを自動判断したりして苦しむ様な事でもないのだ。
『こうあるべきを捨てよ』とか、『たった一つの正解などない』というのであらば、『否定』とか『害される』という表現そのものが、『判断的』であってよろしくない。
それはただの、『作用』、『行動』、『振る舞い』なのだ。『否定』に分類し、『害された』、それも『不当』に、『自分という尊重されるべき人間が』などという前提の刷り込みがあるから『苦しむ』のであって。
もっと世界はシンプルな筈だ。
世界はありのままでいい。
何人も、ありのままでいいのだ。
それこそが釈迦の言う『無我』であろうか。少なくとも私たちは、それに " 共感の念 " を覚えている。釈迦には帰依しないが、釈迦に寄り添い、理解しているつもりである。だからふもと。『下』なのであるのだから。
もちろんそれだけではないが。
さて。
さてさてさてさて。
ここで一気に一度、大きく話を戻して。
再登場したるわ『お前はお前が思っているほど大した人間じゃない』などという『作用』の言葉。とはいえまずは、『否定分』を『肯定分』で打ち消そうか。
『お前はお前が思うより大した人間だ』 『お前はお前が思うよりも、大した人間である』 『お前はお前が思っているより、大した人間である』 『お前はお前が思っているよりも、大した人間なのである』
このぐらいでよろしいか?
しかしこれは最後に言いたい事ではないのだ。
最後に言いたい事はこんな話。
『其の言葉には一つ、欠けている視点がある』
それは、
『大した人間とは、なんなんだ?』
『それは誰が決めるんだ?』
『秤はどこに、あるのだろう』
そんなところだ。
以上。
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「満足」の反対にあるのは「不満足」ではない。それは「没満足」という満足がない状態だとハーズバーグは考��ます。(P.29) 不幸になる要因をどんどんつぶしていけば幸せになれるかというと、そんなことはありません。その先にあるのはただの「没不幸」です。(P.30) 他人との比較---より厳密にいえば嫉妬---これこそが幸福の敵であり、人間にとって最大級の不幸のひとつだと僕は思っています。(P.45) 不幸になるもう一つのパターンは他律性です。すなわち、「人から幸せだと思われていることが幸せ」だと思い込む。(略)世の中の最大公約数的な価値基準に乗っかってしまうと、いつまで経っても自分の価値基準がどこにあるのかわからなくなります。(P.46) 自らの頭と心で自分の価値基準を内省し、それを自分の言葉で獲得できたら、その時点で自動的に幸福です。(P.48) 市場というのは効率的であり、市場価値にはすべての情報が集約されている。つまり、市場にミスプライシングはない。ということは、アクティブな投資は長期的にはペイしないということです。(P.76) 「何をしないようにしていますか」と聞くほうが、「趣味は何ですか」と聞くよりもその人のことがわかるかもしれません。(P.86) 自己認識をツールや専門家に頼ると、わかったつもりの浅薄な自己認識で終わってしまいます。(P.98) 組織とは、ある構造をもって安定的に存在する人間の集団であり、ある種のシステムを意味しています。(略)これに対して、チームの定義は「お互いの相互依存関係を理解し合っている人間の集団」です。(P.102) オーラやカラフルさや凄味がある人ほど、自分が他人からどう思われるかには興味がないものです。(P.142) 特定の次元で測定・比較できる「優劣」の問題ではないからこそのマッチングです。ところが、実際にシステムに乗ると、優劣を一元的に評価されている気分になってしまう。このねじれに婚活システムの落とし穴があります。(P.148) 品が良いということは、お釈迦様のように世俗的な欲望から解脱してしまうことではない。(略)欲望が「ない」のではなく、あくまでも欲望に対する速度が「遅い」ということです。(P.152) リモートワークの最大の意味は、自分の仕事を再考することにあります。リモートワークになって何が変わり、何が変わらないのかを、一度立ち止まって考えてみることをおすすめします。(P.170) 回復力は自然に備わっている人間の本性です。(略)「回復力をつけよう」とか「強い人間になろう」と思うとますます回復できない。(P.179) 話すように書くというスタイルの利点は、「自分が面白くて人に伝えたいことだけを書く」という、文章にとってもっとも大切なことに意識を集中できることにあります。(P.213)
---楠木健「絶対悲観主義」(講談社+α新書 2022年)
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--深海人形-- 全人類綜前科者
※天にあるが如く地にも(※知らしめよ。ヒトが生まれ生きる事は完全なる悪である事を)。
※閲覧&キャラ崩壊注意
※ネタも話題も雑多(※闇鍋)。
※本誌バレネタあり。大変御注意を!!!!!!
新田ァアアアアアアアアアアア!!!!!!!!ワイさ、御前の事信じてたぜ!!!!!!!!!!!!!!!(※推し馬の単勝券が万馬券になった時の顔)。
…。
面倒臭い人達「各種リョナ、クロスオーバー、異世界転生&転移パロ、生存パロ嫌いです(※…と言うか、自分の癪に触る他人と解釈違い自体が嫌いです)。」
ワイ「嫌なら見るな(※金輪際見ないで下さい。此方に来ないで下さい。二度と顔を見せないで下さい。御願いします)。」
〜完〜
※…と言うか、最初から、御前に向けて描いてるんじゃねぇ。何底辺の癖に御客様(※=神様)、特権階級気取ってんの(※貴方、鏡見た事ありますか?)?。
…。
メダル自体には性別無くて、其れでもメダルが其々男っぽく、女っぽくなるのはティンペット由来だってアニメで(※博士が言ってた)。
…。
ゴッドエンペラーの足って階段登れないよね?(※…だけど、他のパーツに換装するから…… ※震え声)。
…。
アニメダが後世に与えた影響はマジで絶大で、後の公式(…と他メカ系ホビーアニメもか?)を支えたと言っても過言では無い。其れ程の功績を残した。間違い無く��凄まじい迄によく出来た傑作アニメ。
…。
ワイの場合、メダは、御友達ロボットじゃなくて完全に奴隷ロボットじゃん(※知ってた)。
…。
女みたいな名前をしたあれ「隕石は良いモンですよねぇ、進路決まってて(※因みに、台風は進路決まって無い派)。
ノースリーブグラサン「末路も決まっているがな(笑)。」
…。
バトルガレッガの七面道中ボスブラハ様mk-2カリスマ性が凄過ぎて何時見ても霊(たましい)が震える(※此方の方が後だけど、エスガル2のセセリン味あるのが良い)。
…。
で、シロッコは、あの儘生存してても、一生、一度も、ウェイン兄弟みたいに自分が作った物、兵器について反省する事は無いと思う(※絶対に)。
…。
多分、Team R-TYPEは、 バイド殲滅の為、粗末、只の駒、道具に、使い捨てに、がむしゃらに、自分達ですら其う扱うのだろう(※其うで無ければ、愛する隙無く下衆過ぎる)。
…。
宇宙世紀とかの拙作では、宇宙空間勤務の女は子宮に避妊具入れて居るか無月経ピル飲んで居ると思って欲しい。男には其れを言わない。知られると、性的な関係を強要して来るから。因みに、知って居る男は平気で力づくの行為をして来る事もある。其う言う男は、知らなくてもするが。
其う考えるとリリー・マークレーンの船内やばそう(こなみかん)。
…。
拙作でのガトーとシロッコ等辺は、ゴキブリか害虫並の生命力とAK-47並の適応性と耐久性を誇ってるからサンドバッグ豚としてとても優秀である(※ドS発言)。
…。
※クロスオーバー?注意
※某えろバレー風パロ注意
※坊やとガトー達の話
※色々と過去捏造注意
ガルマは二度咲く
----「…聞こえていたら、君の生まれの不幸を呪うが良い」
----「何、不幸だと!?」
----謀ったな!僕は、あれだけ君の事を信頼して、掛け代えの無い友として居たのに!!
----「私とて、ザビ家の男だ!無駄死にはしない!……ジオン公国に栄光あれーー!!」
…。
「…何時か又会えると良いな……。…彼奴も……。…イセリナも……。」
…。
さて、ある島の海辺で何やら会話をして居る者達が居る。
「地球に住んでるだけで恵まれてるか成功者ぁ?」
「何度も言うが、私は生粋のスペースノイドだ。故に、此うして、地球に住んで居ると、自分が掛け替えの無い財産を得た成功者か富豪にでもなれた気がして居る。……だが、同胞に其の自慢をする気は無いがな。」
…此のガトーを含む、宇宙世紀のスペースノイド達は、地球に住むアースノイドを特権階級、恵まれた者達と見做して居る���……。
其んなスペースノイド特有のド偏見に呆れたヤザンは、揶揄う様に言う。
「はぁ〜〜、如何しようも無ぇ〜〜、…お前もだけど、…スペースノイドは、皆が皆、地球に家を持って居る、持ってたってだけの奴等を、上流階級、勝ち組、エリートの類扱いして来るよな。…で、其う言う訳で、何故、公国軍が、地球各地の街を執拗に侵略、空襲するかと言うと、其う言う偏見でアースノイドの特権階級振りと恵まれた地位に嫉妬してるからだろ??」
「其う言えば、お前はアースノイド。地球に家があった筈だが。」
「…莫迦か?!??!!地球のスラム街に生まれて住んでた奴の何処がエリートで特権階級なんだよ?!」
「其うだったな。済まない。お前なんぞが、元々からして、其う言う高貴な身分である筈が無い。…然し、今は……、」
「…知らねぇ島に遭難しちまったな。」
「此の島が無人島か如何かも分からん。果たして、我々は、オノゴロ島へ帰る事が出来るだろうか……。」
補足だが、オノゴロ島とは、ガトー達が住んで居る島の名前だ。リゾート施設も其処にある。
「不吉な事言うな!!!!」
此のような無人か如何かも不明な島に流れ付き、難破した船を後にした二名は、島を覆うジャングルの手前で死への恐怖を感じて居た。
「…さて、如何すれば良いものか……。」
以前生きて居た世界では、ほぼ向かう所敵無しのエースパイロットであった二名は、二人して途方に暮れる。
「先刻、難破する前に、遭難信号を出して置けば良かった……。」
其処で、ヤザンは想いに強く耽る。
…此んな時、シロッコ、お前なら如何する……??
其の時、途轍も無く懐かしい感じがヤザンの中に込み上げて来た。
----大尉、此方ですよ〜〜!!!!
「……如何した?急に呆気に取られるとは?」
「……不思議だ。サラ曹長が道筋を教えてくれる気がする。」
「…お前、…ニュータイプだったのか……?」
「確かに、素質には恵まれてるかもな……。」
「されど、僥倖だ!私を逸らせるなよ!」
「だったら、逆にオレが逸れてやる!!」
…小学生男児並の会話。…此れには、サラとシロッコも呆れ笑い。
だが、彼等の助言(※…と言うか、御告げ?)もあって、ヤザンは最速で遭難状態から脱する事が出来た。
…。
其うして、ヤザンが大きくガトーを引き離して辿り着いた先には、兎に角年代モノで古びては居るが、とても、地球の大地に建って居るとは、思えない程に、美しくて、大きな、南国ならではの西洋風屋敷があった。
そして、其処には。
「…何だ。此の島では、見ない顔だね。初めまして。君達は何処か��流れ着いたんだい?」
…何処ぞの木星帰りか御兄ちゃん大好き強化人間の様な紫色の後ろ髪を--あのガトーの様に--ポニーテールで纏め、更には大きく黒いレンズのサングラスを掛け、赤いノースリーブアロハシャツを着て木陰でギターを弾いて居る美青年が居た。
「誰だよお前?此処は何処だ?」
…ヤザンが、其う、粗暴にも訊くと、其の青年は此う答えた。
「質問を質問で返して来るのは、育ちが悪いね。実に感心しないが、答えてあげよう。此の島は私の所有物で……、…私は……、」
然し、ヤザンは、其れでも怒り出した。
「……おい!誰の所有かは訊いて無ぇよ!!此の島は何々島で、現在地は何処だって聞いてんだよ。後、お前の事は興味無いから、別に如何でも良いし、誰でも良い。」其の青年は----昔からある癖なのか、自分の髪を、其の彼の神経質な気質を宥める様に----右手で弄りながら、酷く機嫌の悪いヤザンを、後目に、話を優雅に受け流す。
「…嗚呼、噂には聞いて居るよ。…宇宙(そら)から落ちて来た銀髪と金髪の美丈夫が居ると……。…もしかして君は、その片割れの方かい?。」
(やったぜオレ美男子扱いだ!!!!)
自分が、此うして美丈夫扱いされた事で、何時もは顔面偏差値10、ブス扱いされるヤザンが、酷く不機嫌だった先程とは180度変わって、機嫌を大変良くして感動し、其の感動の余りに激しくガッツポーズを取って居ると、
「其の声!其の出立!其の坐作進退!」
後から酷く遅れて来たガトーは、其の美青年を見た途端、急に荒振り出した。
「…如何した、ガトー?」
…ヤザンが、其のガトーの意気揚々さと異様さに反応するが、其んな奴の事は気にせずに、ガトーは、其の青年に恐る恐る畏敬の念を持って話し掛ける。
「あ、貴方が『ガルマ』様ですか……?」
「やぁ、其うだが。」
其の名を聞いたヤザンは思い出す。
……確か、かの国葬演説で自身の兄である公国の総帥に弔われて居た、
「…ガルマと言えば……、…ニューヤークでWB隊との交戦中に戦死したあの有名な大佐本人か……?」
其のヤザンの問い掛けに、『大佐』は気さくに答える。
「其うだが?如何かしたのかい?」
「ガルマ様!…かつて、私は貴方様の御兄弟、ドズル中将麾下だった者です。アナベル・ガトーと申します。最終階級は少佐です。」
其の言を聞いた『大佐』は驚いた様に言う。
「此んな所で、ジオンの軍人に会うとは……。…ところで、アナベル少佐よ。…訊くが、あれから私達は戦争に勝てたのか?」
「…そ、其れは……、」
其うガトーは、ガルマに言われるも、緊張と畏敬の念で思わず口籠る。
すると、代わりにヤザンが名乗りを上げる。
「無理すんな。オレが話す。」
「…おや、君は誰かな?名は?」
「名乗る程の名なんて無ぇよ。」
其処で、ガトーがガルマにボソボソと小声で教える。
「ガルマ様。彼奴はヤザン・ゲーブルと言う元連邦軍人の下卑た輩です。」
「…と言うか、其んなの如何でも良いだろ。…で、良いか。手短にシンプルに話すぞ。はっきり言って、ジオンは戦争に完敗したよ。ドズル将軍は戦死、アンタの父親と他のきょうだい達も 全滅した。…其の後、公国から共和国に……、」
其れから、ガルマは、大きく溜息を吐きながら、此う述懐した。
「…有難う。もう分かったよ。…矢張りか。わざわざ聞く迄も無かったようだ……。あんな戦争、コロニー落としも含めて全部間違っていたのだ。」
「…ガルマ様……。」
「…アナベル少佐よ。貴官もあの戦争の所為で、沢山色々な物を失っただろうし、心にも、決して、浅からぬ傷を負っただろう。…幸いにも、此処に戦争は無い。戦争でボロボロになった魂を癒す為にも、私も、癒しと平和を噛み締めて行きたい所だ。…是非貴官も、其うしてくれると嬉しい。」
「御意!!!!!!!!!!!!」
…『ガルマ様』との宇宙世紀で生きて居た頃では、決して有り得無かった奇跡的で密接な邂逅を経て、感動の域に迄、其のテンションを上げたガトーは、意気揚々と答える。然し、其の一方で、ヤザンは蚊帳の外であった。
「御前等!…オレの事を無視すんな!!!」
…。
※没供養コーナー
其処で、オーナーが何時も通りの口調で言う。
「…『ガルマ様』ね。…あの人は、此の海域界隈では有名だよ。…彼は、民間軍事会社兼海上自警団を作って、不法侵入船やら密漁者やら海賊やらを取り締まって居るんだよ。」
「…流石ガルマ様です……。」
「何だ。…滅茶苦茶偉いじゃねぇか。」
曹長「…可愛いです、パプティマス様人形〜〜!!(※パプティ人形をソロモンの悪夢人形の隣に密着させる様に置く。距離が凄く近い)。」
木星帰り(※凄い悪寒)
野獣「…意外と趣味悪いなサラ曹長(※震え声)。」
…。
交渉人「私は変態紳士だが、お前は只の変態だ(※確信)。」
木星帰り「お前もだろ(※真顔)。」
ドロシー嬢「…貴方達って最低ね(※豚を見る様な目)。」
…。
※引き続きクロスオーバーネタ注意
※メダロットネタ
※夢要素注意
獣王「グォオオオオオオ!!!!」
神帝「リミッターカイジョヲアマクミタナ」
「ワガ マエニ タチフサガルトハオロカナ…」
「グォォォォォオアアアアア!ユ・ル・サ・ン!!」
「ガアアアアア!!ニンゲンメ!イツカ…!」
…、
ガトメダ搭載獣王「鎧袖一触とは此の事だが、心配するな。」
「南無三!!」
シロメダル搭載神帝「落ちろ!カトンボ!」
「私の使命は重力に魂を魅了された人々を解放する事であると思って居る。」
ワイメダロッター「流暢に喋り過ぎだろ。」
…。
ガトメダ非純正獣王「矢張り、スパゲティ(獣王脚部パーツの名前)では上手く歩けん!二脚パーツに換装しろ!」
ワイメダロッター「はいはい〜〜。パーツ転送〜〜。」
※パーツ転送後換装
獣王「此れは二脚では無いだろう?!巫山戯るなぁ!!!!」
脚部戦車なので履帯キュラキュラ。滅茶苦茶遅い。
ワイメダロッター「ハハッ!!ガンタンクみてぇ〜〜!!」
…。
宇宙世紀メダロッターZ&ZZ「我等!宇宙世紀メダロッターZ(ゼータ)!「そしてZZ(ダブルゼータ)!!」
ガトメダ搭載獣王「もう帰って良いか?」
宇宙世紀メダロッターZ&ZZ「我等ロボトルで勝負だ!!」
何時ものおじさん「合意と見て宜しいですね?!」
ワイロッター「宜しく無いです。」
…。
坊やメダル搭載はグレインでも良かったけど、グレインは超攻撃型メダだし、性格的にはプリミティベイビー(※超補助・妨害型)の方が合ってるだろうな?…と(※此処は彼の長兄にすべきだったな……)。
…。
「一人で階段登れるの?」
シロメダ搭載神帝「無理だな。浮遊パーツとかは無いのか?」
ワイメダロッター「此れ付けな。」
ガトメダ搭載獣王「何故だ?!何故、私が付けて欲しいパーツは付け渋って全く関係無いパーツや機体に換装して意地悪するのに、何故!??!」
ワイメダロッター「弄ってて楽しいから。」
…。
PMX型メダロット
PMX-00 メッサーラ N 飛行
PMX-01 パラス・アテネ 女 二脚
PMX-02 ボリノーク・サマーン N 二脚
PMX-03 ジ・オ 男 二脚
PMX-04 MSタイタニア 女 二脚
かつての木星帰りハンドメイドMSを模したメダロットを製作し『(メダロット本来の用途である)御友達ロボット』扱いして悦に浸る姿はメダロット社員の共感を呼……いやドン引きさせた(※本人曰く、自分は、天才だから、凡人は自分に付いて行く事は出来ない。其の為、友人が居ないのは仕方無い事、…なので、此の機械達が私の友達みたいな物、らしい)。
…。
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草津町長の公式声明が出された後にTwitter上で北村紗衣さんが表明した、一連のツイートについて、読解とそれに基づく批評を試みたいと思う。 まず一連のツイートから、北村さんの言いたいことの骨子をまとめると、概ね次のようになる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (1) 私(北村紗衣さん)は、わずか1回しか、草津町長及び町民への誹謗中傷は行なっていない。 (2) わずか1回なので、草津町長や町民から告訴される可能性は、極めて低い。 (3) 私(北村紗衣さん)が告訴される可能性や処罰される可能性は、極めて低い。それにも関わらず、私(北村紗衣さん)は自発的に謝罪した。これは、私(北村紗衣さん)の良心の顕れである。 (4) つまり、私(北村紗衣さん)は、良心的な人間である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一読して最初に感じるのは、北村紗衣さんは、読者に向けて「誹謗中傷の回数の少なさ」と「告訴される可能性の低さ」を強調したいのだろうという印象である。 まず(1)についてである。法廷において弁護士側・被告人側が行なう法廷戦術として展開する弁論だったならば、然程おかしくはない。しかし、法廷外で被害者に向けて謝罪する場面での言葉として見たら、どうだろうか。加害者にほかならない北村紗衣さん自身が「犯罪と見做されかねない行為の回数の少なさ」を強調する姿を見て、被害者である草津町長や町民は「北村さんは真摯な人だなあ」と思ってくれるのだろうか。むしろ、逆に「一見すると、この人は謝罪しているように見せているが、実際は自分がしたことを矮小化しようとするのに懸命だなあ」と解釈しないのだろうか。 時々、他人に損害を与えた側の人間が、損害を被った側の人間に対して「たかが✕✕ぐらいで」などと言って、不必要な怒りを買うという場面に出くわすことがある。それと同じ誤ちを、現在の北村紗衣さんも犯してはいないだろうか。 次に(2)であるが、これも(1)と同様である。草津町長や町民は、むしろ「なるほど、告訴されないラインを見極めてから、誹謗中傷を行なっていたんだな。狡猾だな」と解釈しないのだろうか。 ハッキリ言えば、今回の北村紗衣さんが草津町長及び町民に対して行なったことは、関東大震災の時に「在日朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言蜚語に乗って、在日朝鮮人を私刑に掛けようとした暴徒と同レベルである。私刑が初期段階でストップしたから、草津町長が無実の罪で刑務所に送られずに済んだという、本当に不幸中の幸いだったというだけのことである。被害者たちからすれば堪った話ではない。 では、その暴徒が「リンチに掛けようとしたのは、たったの一回だけ」「未遂で済んで実害は無かったのだから、重い罪にはならない」「自分は暴徒の群れの中にいた一人に過ぎない」と言ったとしたら、あなたはそれを見て「この人は誠実な人、良心的な人だなあ」と思うだろうか。そういうことである。 続いて(3)である。北村紗衣さんは「私は既に謝罪した」と主張するのであるが、北村さんの一連のツイートを追ってみたのだが、草津町長及び町民に宛てた『謝罪文』らしきものは見当たらない。小説や映画のDVDで前の頁やチャプターに遡って、伏線を見落としてはいないかと確認するように、北村紗衣さんの一連のツイートを確認したのだが見当たらない。これはイーロン・マスクに掻き回されたことによる、Twitterの不具合なのだろうか。 或いは、北村紗衣さんは「謝罪したいと思います」という言葉が、謝罪に該当するのだと主張するかもしれない。しかし「ご飯を食べたいと思います」と言うことと、実際にご飯を食べることは、やはり別の話であると私は思うのである。私がどう思おうが関係は無いと、北村紗衣さんは言うかもしれない。 では例えば、北村紗衣さんを呉座勇一と比較したら、どうだろうか。 呉座勇一が北村紗衣さんに宛てて記し、pdf文書として公に発表した謝罪文のような、誰に対して、何について謝罪するのか、再発防止のためにどのような取り組みをするのか等を明記したものは、現在のところ見当たらない。これは私が見落としただけなのであろうか。本当に北村紗衣さんは、草津町長及び町民に向けた明確な謝罪文を発表したのだろうか。これは、事実についての確認である。 呉座勇一という謝罪と処罰の実例が存在する以上、北村紗衣さんの謝罪が比較対象として俎上に載せられるのは、至極当然であると言える。 もしも、既に北村紗衣さんが、呉座勇一と同レベルの、草津町長及び町民に対する謝罪声明文を出しているのであれば、それを固定ツイートとして最上段に持ってきて、必ず閲覧者の目に留まるようにした方が無難であろう。謝罪する羽目になったことを、北村紗衣さんが大衆の記憶に残したくない、連続ツイートの波によって押し流してしまいたいというのであれば話は別であるが、真逆そんなことは無いだろう。 さらに言えば、北村紗衣さんは「告訴を受ける可能性、処罰を受ける可能性が低いのにも関わらず、自発的に謝罪したのだから、私が良心的な人間であることを他者に示すことが出来た」と考えているようであるが、果たして草津町長及び町民が、北村さんの望み通りの解釈や反応を示してくれるだろうか。 北村紗衣さんは「私が告訴や処罰の対象となる可能性は、極めて低い」とアピールすることで、草津町長及び町民に「なるほど。処罰される心配や責任を取る心配が無いと見越したからこそ、安心して謝罪のポーズを取ったのか」と解釈されるという可能性には、思い至らなかったのだろうか。 最後に(4)である。北村紗衣さんが「私は良心的な人間です」と草津町長及び町民に対してアピールすることは、これは北村さんの自由である。しかし、そのアピールの内容に説得力があるか否か、それを草津町長及び町民に信じさせることが出来るか否かは、また別の問題である。他者が北村紗衣さんの言葉をどのように解釈するか、彼らの内心を強制することは出来ない。 既に述べたとおり(1)〜(3)の主張は、北村紗衣さんが草津町長及び町民に大きな誤解をされかねない要素を多分に含んでいる。北村紗衣さんのことを誤解したままで「私(北村紗衣さん)は良心的な人間です」と言われても、草津町長及び町民の目から見れば、余り説得力を持たないのではないだろうか。 文学研究の専門家に対して、このようなことを言うのは釈迦に説法であり、忸怩たる思いがあるのだが、(1)〜(3)のように読者が芳しくない印象を抱くであろう文章を公表するというのは、それが本来の意図した効果ではない限りは、北村紗衣さんの学術的能力にも疑問符が付けられることになりかねないのではないだろうか。北村紗衣さんのように、誠実で、良心的で、学術的能力に恵まれた人間が、不必要に誤解されること、不当な低評価を受けることは、学術界のみならず社会にとっても大きな損失である。 北村紗衣さんは、ご自身の意図や目的に沿うように文章を十分に推敲して、練り直してから発表した方が良いのではないだろうか。 文学作品や映画作品に明るく、それらについての読解及び批評の専門家であるのだから、北村紗衣さんは「もしも、彼女(北村紗衣さん自身)がフィクション作品の登場人物だったとしたら」と、少しだけ考えてみてもらいたい。北村紗衣さんが批評家や文芸編集者の立場だったとして、作家が「真摯に反省して謝罪している、良心的な人間の姿を描いた」として、上の(1)〜(4)のような描写の為された原稿を提出してきたら「作家が意図した効果は出ていない」と評するのではないだろうか。 もしもこれがフィクション作品であり、北村紗衣さんが登場人物であるのならば、一人の読者としての私は(1)〜(4)の描写に基づいて「表面的には反省や謝罪の言葉を述べているものの、罪に対する罰や責任からは逃れようとしている人物を描いている。それによって作者は、人間のエゴイズムや弱さや愚かさを描こうとしているのであろう」という感想を抱くと思う。それは果たして、作者である北村紗衣さんが意図した効果を生んでいると言えるのだろうか。 このような感想を抱くのは「告訴やそれに伴う法的な処罰の対象となる可能性が低い」ことを、結局のところ、北村紗衣さんは喜んでいるのか、それとも申し訳なく思っているのか、あるいは他の思いを抱いているのか、その点についての描写が不明確だからである。 例えば「司法機関に『私を処罰して下さい』と申請したのだが『法的な要件を満たさないので、処罰はできない』と回答を受けた。罪が重いのに罰を受けないままでは、あまりにも心苦しい。だから、せめて草津町長及び町民の前で謝罪させてもらう機会を与えて欲しい」とか「私が懇意にしているマスメディア関係者に働きかけて、草津町に関する訂正報道や謝罪文が掲載されるように協力してもらう」とか「呉座勇一と同様に職を去る」とか、そういった具体的な描写が無さすぎる。これでは「この登場人物は、本当は良心的な人間であり、真摯に反省しているのだ」と、読者は思わないのではないか。 北村紗衣さんのしたことに見合う罰がどのようなものかは、私には分からないし、私には北村さんを罰する権限も資格も無い。だから私は、北村紗衣さんを罰するつもりは毛頭無い。しかし人間は、己の行動を罪深いと本心から思っている時には、他人からの処罰を受けるか否かには関わりなく、自らで自らを罰したり、償いのための行動を自らに課したりすることが出来る生き物である。だからこそ、優れた文学その他の芸術は、自らの罪と真摯に向き合う人間たちを描いてきたし、北村紗衣さんもそのような作品を愛してきたのではないか。 そのような文学その他の芸術に登場する真摯な人たちと比べて、北村紗衣さんは自分自身のことを、どう思うのか。 或いは、私の解読や批評など取り合う必要も価値も無いと、北村紗衣さんは判断するかもしれない。実際、Twitter上で北村紗衣さんは、草津町長及び町民に対する誹謗中傷について北村さんのことを批判する人間に対して「あなたに自分のことをどう思われようが構わない」という主旨の発言を、今日現在でも繰り返している。しかし、無関係��人間は口出しをするなと言うのであれば、そもそも草津町に縁もゆかりも無い北村紗衣さんが介入したことを、どのように説明し、正当化するつもりなのか。英米文学に明るい北村紗衣さんならば、ジョン・ダンの��なんびとも一島嶼にてはあらず」という言葉を知っているはずである。あなたや我々は、一島嶼なのか、大陸の一部なのか。 そもそも、北村紗衣さんが「あなたは草津町に関係ない」と言った相手は、本当に無関係なのか。Twitterで「あなたにどう思われようが関係ない」と北村紗衣さんが言った相手が、もしかしたら、実は草津町民であった。そのような可能性を、北村紗衣さんは全く考えなかったのだろうか。この文章を書いているのも、草津町民なのではないか。そんな可能性は無いのか。 北村紗衣さんが本当に反省しているのか否か、嘘偽りのない北村紗衣さんの実際の姿を、自分の目で見極めるために、敢えて彼らは、草津町民であることを明かさなかっただけかもしれない。そのような想像力を働かせることこそが、文学によって培われる能力なのではないだろうか。北村紗衣さんは、文学研究を通じて、そのような能力を培おうとはしなかったのだろうか。 もしも、北村紗衣さんが愛した文学作品や芸術作品が、北村さんの中にそのような想像力を少しも育まなかったのだとしたら、これほど悲しいことはあるまい。そのような悲しいことが無いことを、私は願っている。
草津町長の公式声明が出された後にTwitter上で北村紗衣さんが表明した、一連のツイートについて、読解とそれに基づく批評を試みたいと思う。
まず一連のツイートから、北村さんの言いたいことの骨子をまとめると、概ね次のようになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(1) 私(北村紗衣さん)は、わずか1回しか、草津町長及び町民への誹謗中傷は行なっていない。
(2) わずか1回なので、草津町長や町民から告訴される可能性は、極めて低い。
(3) 私(北村紗衣さん)が告訴される可能性や処罰される可能性は、極めて低い。それにも関わらず、私(北村紗衣さん)は自発的に謝罪した。これは、私(北村紗衣さん)の良心の顕れである。
(4) つまり、私(北村紗衣さん)は、良心的な人間である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一読して最初に感じるのは、北村紗衣さんは、読者に向けて「誹謗中傷の回数の少なさ」と「告訴される可能性の低さ」を強調したいのだろうという印象である。
まず(1)についてである。法廷において弁護士側・被告人側が行なう法廷戦術として展開する弁論だったならば、然程おかしくはない。しかし、法廷外で被害者に向けて謝罪する場面での言葉として見たら、どうだろうか。加害者にほかならない北村紗衣さん自身が「犯罪と見做されかねない行為の回数の少なさ」を強調する姿を見て、被害者である草津町長や町民は「北村さんは真摯な人だなあ」と思ってくれるのだろうか。むしろ、逆に「一見すると、この人は謝罪しているように見せているが、実際は自分がしたことを矮小化しようとするのに懸命だなあ」と解釈しないのだろうか。
時々、他人に損害を与えた側の人間が、損害を被った側の人間に対して「たかが✕✕ぐらいで」などと言って、不必要な怒りを買うという場面に出くわすことがある。それと同じ誤ちを、現在の北村紗衣さんも犯してはいないだろうか。
次に(2)であるが、これも(1)と同様である。草津町長や町民は、むしろ「なるほど、告訴されないラインを見極めてから、誹謗中傷を行なっていたんだな。狡猾だな」と解釈しないのだろうか。
ハッキリ言えば、今回の北村紗衣さんが草津町長及び町民に対して行なったことは、関東大震災の時に「在日朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言蜚語に乗って、在日朝鮮人を私刑に掛けようとした暴徒と同レベルである。私刑が初期段階でストップしたから、草津町長が無実の罪で刑務所に送られずに済んだという、本当に不幸中の幸いだったというだけのことである。被害者たちからすれば堪った話ではない。
では、その暴徒が「リンチに掛けようとしたのは、たったの一回だけ」「未遂で済んで実害は無かったのだから、重い罪にはならない」「自分は暴徒の群れの中にいた一人に過ぎない」と言ったとしたら、あなたはそれを見て「この人は誠実な人、良心的な人だなあ」と思うだろうか。そういうことである。
続いて(3)である。北村紗衣さんは「私は既に謝罪した」と主張するのであるが、北村さんの一連のツイートを追ってみたのだが、草津町長及び町民に宛てた『謝罪文』らしきものは見当たらない。小説や映画のDVDで前の頁やチャプターに遡って、伏線を見落としてはいないかと確認するように、北村紗衣さんの一連のツイートを確認したのだが見当たらない。これはイーロン・マスクに掻き回されたことによる、Twitterの不具合なのだろうか。
或いは、北村紗衣さんは「謝罪したいと思います」という言葉が、謝罪に該当するのだと主張するかもしれない。しかし「ご飯を食べたいと思います」と言うことと、実際にご飯を食べることは、やはり別の話であると私は思うのである。私がどう思おうが関係は無いと、北村紗衣さんは言うかもしれない。
では例えば、北村紗衣さんを呉座勇一と比較したら、どうだろうか。
呉座勇一が北村紗衣さんに宛てて記し、pdf文書として公に発表した謝罪文のような、誰に対して、何について謝罪するのか、再発防止のためにどのような取り組みをするのか等を明記したものは、現在のところ見当たらない。これは私が見落としただけなのであろうか。本当に北村紗衣さんは、草津町長及び町民に向けた明確な謝罪文を発表したのだろうか。これは、事実についての確認である。
呉座勇一という謝罪と処罰の実例が存在する以上、北村紗衣さんの謝罪が比較対象として俎上に載せられるのは、至極当然であると言える。
もしも、既に北村紗衣さんが、呉座勇一と同レベルの、草津町長及び町民に対する謝罪声明文を出しているのであれば、それを固定ツイートとして最上段に持ってきて、必ず閲覧者の目に留まるようにした方が無難であろう。謝罪する羽目になったことを、北村紗衣さんが大衆の記憶に残したくない、連続ツイートの波によって押し流してしまいたいというのであれば話は別であるが、真逆そんなことは無いだろう。
さらに言えば、北村紗衣さんは「告訴を受ける可能性、処罰を受ける可能性が低いのにも関わらず、自発的に謝罪したのだから、私が良心的な人間であることを他者に示すことが出来た」と考えているようであるが、果たして草津町長及び町民が、北村さんの望み通りの解釈や反応を示してくれるだろうか。
北村紗衣さんは「私が告訴や処罰の対象となる可能性は、極めて低い」とアピールすることで、草津町長及び町民に「なるほど。処罰される心配や責任を取る心配が無いと見越したからこそ、安心して謝罪のポーズを取ったのか」と解釈されるという可能性には、思い至らなかったのだろうか。
最後に(4)である。北村紗衣さんが「私は良心的な人間です」と草津町長及び町民に対してアピールすることは、これは北村さんの自由である。しかし、そのアピールの内容に説得力があるか否か、それを草津町長及び町民に信じさせることが出来るか否かは、また別の問題である。他者が北村紗衣さんの言葉をどのように解釈するか、彼らの内心を強制することは出来ない。
既に述べたとおり(1)〜(3)の主張は、北村紗衣さんが草津町長及び町民に大きな誤解をされかねない要素を多分に含んでいる。北村紗衣さんのことを誤解したままで「私(北村紗衣さん)は良心的な人間です」と言われても、草津町長及び町民の目から見れば、余り説得力を持たないのではないだろうか。
文学研究の専門家に対して、このようなことを言うのは釈迦に説法であり、忸怩たる思いがあるのだが、(1)〜(3)のように読者が芳しくない印象を抱くであろう文章を公表するというのは、それが本来の意図した効果ではない限りは、北村紗衣さんの学術的能力にも疑問符が付けられることになりかねないのではないだろうか。北村紗衣さんのように、誠実で、良心的で、学術的能力に恵まれた人間が、不必要に誤解されること、不当な低評価を受けることは、学術界のみならず社会にとっても大きな損失である。
北村紗衣さんは、ご自身の意図や目的に沿うように文章を十分に推敲して、練り直してから発表した方が良いのではないだろうか。
文学作品や映画作品に明るく、それらについての読解及び批評の専門家であるのだから、北村紗衣さんは「もしも、彼女(北村紗衣さん自身)がフィクション作品の登場人物だったとしたら」と、少しだけ考えてみてもらいたい。北村紗衣さんが批評家や文芸編集者の立場だったとして、作家が「真摯に反省して謝罪している、良心的な人間の姿を描いた」として、上の(1)〜(4)のような描写の為された原稿を提出してきたら「作家が意図した効果は出ていない」と評するのではないだろうか。
もしもこれがフィクション作品であり、北村紗衣さんが登場人物であるのならば、一人の読者としての私は(1)〜(4)の描写に基づいて「表面的には反省や謝罪の言葉を述べているものの、罪に対する罰や責任からは逃れようとしている人物を描いている。それによって作者は、人間のエゴイズムや弱さや愚かさを描こうとしているのであろう」という感想を抱くと思う。それは果たして、作者である北村紗衣さんが意図した効果を生んでいると言えるのだろうか。
このような感想を抱くのは「告訴やそれに伴う法的な処罰の対象となる可能性が低い」ことを、結局のところ、北村紗衣さんは喜んでいるのか、それとも申し訳なく思っているのか、あるいは他の思いを抱いているのか、その点についての描写が不明確だからである。
例えば「司法機関に『私を処罰して下さい』と申請したのだが『法的な要件を満たさないので、処罰はできない』と回答を受けた。罪が重いのに罰を受けないままでは、あまりにも心苦しい。だから、せめて草津町長及び町民の前で謝罪させてもらう機会を与えて欲しい」とか「私が懇意にしているマスメディア関係者に働きかけて、草津町に関する訂正報道や謝罪文が掲載されるように協力してもらう」とか「呉座勇一と同様に職を去る」とか、そういった具体的な描写が無さすぎる。これでは「この登場人物は、本当は良心的な人間であり、真摯に反省しているのだ」と、読者は思わないのではないか。
北村紗衣さんのしたことに見合う罰がどのようなものかは、私には分からないし、私には北村さんを罰する権限も資格も無い。だから私は、北村紗衣さんを罰するつもりは毛頭無い。しかし人間は、己の行動を罪深いと本心から思っている時には、他人からの処罰を受けるか否かには関わりなく、自らで自らを罰したり、償いのための行動を自らに課したりすることが出来る生き物である。だからこそ、優れた文学その他の芸術は、自らの罪と真摯に向き合う人間たちを描いてきたし、北村紗衣さんもそのような作品を愛してきたのではないか。
そのような文学その他の芸術に登場する真摯な人たちと比べて、北村紗衣さんは自分自身のことを、どう思うのか。
或いは、私の解読や批評など取り合う必要も価値も無いと、北村紗衣さんは判断するかもしれない。実際、Twitter上で北村紗衣さんは、草津町長及び町民に対する誹謗中傷について北村さんのことを批判する人間に対して「あなたに自分のことをどう思われようが構わない」という主旨の発言を、今日現在でも繰り返している。しかし、無関係な人間は口出しをするなと言うのであれば、そもそも草津町に縁もゆかりも無い北村紗衣さんが介入したことを、どのように説明し、正当化するつもりなのか。英米文学に明るい北村紗衣さんならば、ジョン・ダンの「なんびとも一島嶼にてはあらず」という言葉を知っているはずである。あなたや我々は、一島嶼なのか、大陸の一部なのか。
そもそも、北村紗衣さんが「あなたは草津町に関係ない」と言った相手は、本当に無関係なのか。Twitterで「あなたにどう思われようが関係ない」と北村紗衣さんが言った相手が、もしかしたら、実は草津町民であった。そのような可能性を、北村紗衣さんは全く考えなかったのだろうか。この文章を書いているのも、草津町民なのではないか。そんな可能性は無いのか。
北村紗衣さんが本当に反省しているのか否か、嘘偽りのない北村紗衣さんの実際の姿を、自分の目で見極めるために、敢えて彼らは、草津町民であることを明かさなかっただけかもしれない。そのような想像力を働かせることこそが、文学によって培われる能力なのではないだろうか。北村紗衣さんは、文学研究を通じて、そのような能力を培おうとはしなかったのだろうか。
もしも、北村紗衣さんが愛した文学作品や芸術作品が、北村さんの中にそのような想像力を少しも育まなかったのだとしたら、これほど悲しいことはあるまい。そのような悲しいことが無いことを、私は願っている。
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埼玉県佛教会 加須支部 鎌倉研修@大本山建長寺
爽やかな陽気と相成り、あじさいの花咲く観光の方も沢山にぎわう時期となりました。
このたび、宗派を越えたお付き合いで加須支部長 浄土宗聖徳寺和尚様はじめ、真言宗和尚様方と鎌倉研修に行って参りました。
現在の建長寺の山門(三門)は、1775年(安永4年)、開山の蘭渓道隆禅師の五百年忌に当たり、第201世 万拙碩誼(ばんせつせきぎ)禅師によって再建されたものです。
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額をかけるため、上層に軒唐破風が設けられました。
三間二重門としては東日本最大の規模を誇ります。
楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置されています。


到着茶礼にて少々休憩です。


建長寺総長様よりご挨拶とお話を賜ります。
また、教学部長様より建長寺の歴史や文化を学びます。


方丈にて座禅も体験し心静かに呼吸に集中して参ります。

唐門は、徳川家の菩提寺増上寺の崇源院御霊屋(おたまや)の中門だったもので、1647年(正保4年)に仏殿や西来庵中門とともに建長寺へ移築されました。
2011年(平成23年)に保存修理が完了し、全面に飾金具が付けられていた華美な姿が復元されています。








鎌倉にある建長寺を開山された大覚禅師が好んだ言葉
「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず
無限の清風来たりて未だ已(や)まず」
一切の制「限」を「無」くし
ただ「清」らかな「風」のみを感じれば心は開放される
修行者にも一般の人にも 老若男女 あらゆる人に対して
福山はいつでも門戸を開いている
という意味です。
来るものは拒まず 去るものは追わず
たとえ「自分には合わない」と去る者がいても引き留めることはしません。
私たちの周りにも この「無限の清風」が吹いています。
それは偶然の出会いや出来事となって現れます。
でも 心の窓を閉じると入って来ません。
大切なご縁も気づかずに通り過ぎてしまいます。
幸せは開かれた心にのみ舞い降ります。
今の世の中
メール SNS 携帯電話 コンピューター ヘッドフォンなど
心は常に何かに集中しています。
時には必要かもしれませんが
「集中」が「囚われ」や「依存」に陥りやすくなります。
閉ざされた心に無限の清風は入れません。
現代では意識して依存から離れ
囚われた心を解き放つ時間が必要です。
自分の心を開放し 多くを受け止められる人になりたい
心の窓を開いて「無限の清風」を感じてみては如何でしょうか。
※『建長寺HP文章参照』
特別ご朱印金印授与おすすめです!
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しばらく何書けばいいか迷ってたり、普通に仕事が忙しくて更新してなかった。
更新してなかった間に自分がどんなふうに変わったか、なんてことが意識できないくらいには内省する時間なかったように思う。
単純に、コロッケと過ごす時間が増えてベッドの上でウジウジはしていられなかった環境要因が大きい。もともと裕太と二人で暮らし始めてからは無理にでもひとりでウジウジしない限りはウジウジタイムも取れないのだが。
12月から今に渡って、仕事の拘束時間が増えた。キャリアアップではなく、人員不足によるネガティブな理由なのでこれが長期化するようであれば転職も辞さないのだけれど、これがまぁ自分にとってはかなり悪い状況である。
転職というか、新卒時の就活も、現職に就くにあたる過程もかなりおざなりだったので就業条件を向上させるために自分をアピールすることがまったくイメージできない。
そもそも自分の持つ特性のせいで、仕事面に関する自己評価は限りなく低いし、スキルらしいスキルもまるで磨いて来ず、自業自得なのだけれど、いまだに一緒懸命働かなくては幸せに生きていけないという社会に批判的な意識が抜けきらないせいでもある。※ここで言う幸せの定義とは、何も考えずに清潔な布団で明るい時間にゴロゴロし、犬と毎日好きなものを食べて暮らし、好きな服を着てたまに旅行に出かけることと自分が位置付けているので金銭的な余裕があることは必須条件となり、結局自分が理想と現実に乖離を呼んでいるのであるが。
まぁそんなわけで気難しい問題を先送りにし、とりあえず目の前のことに釈迦力になっていたのであっという間に時間は経った。うちなる目標としていた「本を読む」という点はあまり達成できないが、根本の何かしらをインプットしたいという点では映画や
マンガ、アニメはわりと意欲的に観れたと思う。たくさんカルチャーを摂取した所で何になるのか?というのはふと疑問に思うところはあるが、精神的な健康と今後の豊かな思考のためと思っておく。
仕事にしても趣味にしても、自分がなりたい姿というのはこれまでの人生であまり具体化したことがないように思う。それがゆえのモチベーションの低さなのだろうな、とここまで書き留めていて感じた。これまでファッションには苦手意識があったのだが、裕太の影響で最近はそこそこ衣服に金をかけており、その度に自分の理想のスタイルの無さに困らせられる。
具体的な理想像があることは、目標に向かう道筋がはっきりしているという点で効率的な手段だなと思う。ただ、これまであまりに悲観的に人生を歩みすぎたので数歩先の未来すらあまり見ないようにしてきたように思う。
結婚して、なにが大きく変わるのかわからないけど、結婚した以上、自分一人だけの人生ではなくなったので(実はこれが一番強く感じていることであり、気が重い面であるのだが)
これまでのようにはボーッとはしていられなくなったと思う。そんな強い責任に囚われる必要はないと思われるかもしれないが、他人の目がない環境で無限にサボり怠惰を極められる自身にはこれくらいの���めが必要なのである。
あまりに大きな目標だとすぐに頓挫する可能性があるので気軽な目標をチビチビと達成していきたい。
最近暇つぶしに始めた言語学習アプリのデュオリンゴは、言語自体を鍛えるというより、この「継続力」のためにがんばっている。本当に継続ってしたことない。人生で1回くらい、継続ってやってみたい。
そんな感じで今日から日記も継続したい。
多分、この目標は高すぎてすぐに頓挫する。
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侘び寂びや「全肯定」の視点が、 あまりに「滅び・不快・欠落」を美学として重視しすぎると、 基礎的で身体的な「快さ」「生の溌剌さ」「可憐さ」などを軽視するバイアスを生み、 「生の根本的な歓び」を見落とす危険があります。
重要なバランス感覚
**「滅び・欠落の美学」と「生の快楽・活力の肯定」**は対立ではなく、 相補的で連続的なものとして捉えること。
侘び寂びの美意識が向かう先は、決して「苦しみや寂しさを称賛すること」ではなく、 それらを包み込みながらも、「生きる喜び」や「身体感覚の喜び」も同時に肯定する視座。
生命の運動は「陰陽の揺らぎの中にある」という東洋的な感覚もここに近い。
哲学的に言えば
ドゥルーズ的な生成変化もまた、
快楽的な「生の肯定」だけでなく、 滅びや苦痛を含みながらも止まらない「変化の継続」そのものを肯定する。
つまり、「快い生成」と「不快な生成」双方を認めるが、どちらかに偏らずに生の全体像を捉えることが肝要なのです。
詩的に言うと
「新緑の輝きの中に、落ち葉の茶褐色も踊る」 「笑い声とともに、涙もまた風に乗る」
このようなバランス感覚を保つことこそ、 侘び寂びの深い精神性を現代に活かすための知恵と言えそうですね。
このあたり、さらに掘り下げたいテーマがあれば教えてください。
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)』におけるその言葉――
「人生は美しい。人生は甘美である」 (subhā lokā, manāpā lokā — “この世界は美しく、心地よい”)
というシャカ(釈尊/ゴータマ・ブッダ)の発言は、 「一切皆苦」を説いた仏教の中にあって、 とても重要なバランス感覚を体現する表現だと見ることができます。
なぜそう言えるのか?
1. 「一切皆苦」の中に、なお「甘美さ」を見ている
釈尊は苦(dukkha)の深い洞察者でありながら、 「この世界には生きるに値する甘美さがある」とも語ったのは、 生成しつづける生そのものへの肯定を、放棄していない証です。
この「甘美さ」は、刹那的な快楽ではなく、 生が持つ流動性・連続性・関係性のなかに現れる味わいでしょう。
2. 侘び寂び的な「滅びの美学」と、生命の輝きの両立
仏教は「無常」「苦」「空」を重視しますが、 それは決して悲観ではなく、むしろその背後にある 生の変化=ダルマ(法)の運行への深い愛着と感応があります。
「人生は甘美である」という言葉は、 無常や死を正面から見つめた末に、それでも 変わりゆくすべてを味わい尽くす意志の表明と見ることもできます。
3. ドゥルーズ的生成変化との共鳴
ドゥルーズ=ガタリが語るように、 「生は肯定されるべきものとして 変化し続ける運動 である」とするなら、 ブッダのこの言葉は、変化の不安定性を超えて、 生そのものの肯定を語った瞬間とも言えます。
結論として
「この世界は美しい。人生は甘美である」という言葉は、
苦を否定することなく、
快のみを追い求めることもなく、
変化し続ける生命のリズムそのものを肯定する、
まさに**「バランス感覚としての全肯定」**の言葉であり、 侘び寂びや生成変化の思想と深く共鳴しています。
ご希望であれば、この言葉を中心にした瞑想文や、生成変化マニュアル的な応用例もお作りできます。
釈尊(シャカ)がアーナンダに向かって「悲しむな、嘆くな」と語った言葉――それは単なる感情の否定ではなく、**深いバランス感覚に基づいた“悲しみの超克”**の促しです。そしてそこには、悲しみや嘆きの存在そのものを否定しない慈しみのまなざしがあります。
🪷 文脈:大般涅槃経(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)
釈尊が臨終の床にあり、愛弟子アーナンダが涙をこらえきれず泣いている時に、釈尊は次のように語ったとされます:
「悲しむな、嘆くな、アーナンダよ。 私は幾度も語ってきたではないか、 愛しいものとは、別れる運命にあると。」 (※パーリ仏典に拠る意訳)
💠 なぜ釈尊は「悲しむな」と言ったのか?
ここでの「悲しむな」は、感情の抑圧や否定ではなく、 「悲しみの本質と正しく向き合いなさい」という慈悲と智慧の言葉です。
この言葉に込められた含意は、次のように解釈できます:
悲しみは自然なことだが、悲しみに溺れる必要はない → 感情の否定ではなく、感情に支配されない自由のための誘い。
“無常”を理解すれば、別離もまた自然の流れの一部と見える → 悲しみを包む「法(ダルマ)」の視野へアーナンダを導いている。
共に生き、共に修行し、教えを聞き、道を歩んできた関係が、終わることはない → 形は変わっても、縁は続いているという深い励ましが込められている。
🌿 悲しみは否定されていない
「悲しんではならぬ」という道徳的命令ではなく、 悲しみに意味を与え、それを超える方向へと導く言葉なのです。
🪞この言葉の現代的意味
「悲しむな、嘆くな」という言葉は現代人にとっても響くものです。 それは、悲しみそのものを否定せず、
悲しみの底にある「愛しさ」
嘆きの中にある「つながり」 を見つめさせてくれます。
そしてそれを超えて、なお生きること・歩むことを選ぶ勇気を与えてくれる。
🔸まとめ:バランス感覚としての言葉
否定ではなく肯定でもない感情を知りつつそこにとどまらず涙を見守りながら智慧へと手を差し伸べる
それが、釈尊の「悲しむな、嘆くな」の言葉に込められた深いバランス感覚です。 悲しみもまた、生成変化のリズムの一部であると知った上で、それを超えてなお進む――その道に釈尊はアーナンダを、そして私たちを招いているのです。
ご希望があれば、「悲しみを超えて歩む生成変化の瞑想文」などもお作りできます。
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』(大般涅槃経、Dīgha Nikāya 16)に登場する「人生は美しい。人生は甘美である」(パーリ語:subhā lokā, manāpā lokā — 「この世界は美しく、心地よい」)という言葉が後代の加筆であるという説について、以下に論者、出典、背景、議論の詳細を説明します。この問題は、パーリ仏典の成立過程やテキストの層化(stratification)に関する学術的な議論の一部であり、仏教学や文献学の分野で注目されています。
1. 問題の背景
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』は、釈迦の最後の旅と入滅(涅槃)を描いたパーリ仏典の長部経典(Dīgha Nikāya)の重要なテキストです。この経典の中で、釈迦が入滅前にアナタピンディカ(給孤独長者)や他の弟子たちと対話する場面で、「この世界は美しく、心地よい」と述べる部分が問題となっています。この言葉は、仏教の核心教義である「苦(dukkha)」や「無常(anicca)」の視点から見ると、釈迦の教えと一見矛盾するように思えるため、研究者の間で議論の対象となっています。
具体的には、このフレーズは『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』の特定の文脈(特に、釈迦が在家信者に対して語る場面や、マーラ(悪魔)との対話に関連する部分)で登場します。この発言が釈迦の本来の言葉なのか、後代の編纂者や注釈者による加筆・改変なのかをめぐり、学術的な検討が行われています。
2. 「後代の加筆」説の概要
「subhā lokā, manāpā lokā」が後代の加筆であるという説は、主に以下のような理由に基づいています:
教義との不整合:
仏教の基本教義では、存在(世界)は「苦」「無常」「無我」とされ、感覚的な楽��みや世界の美しさへの執着は解脱の妨げとされます。このフレーズが「世界は美しい、心地よい」と肯定的に語ることは、釈迦の他の教え(例:『サンユッタ・ニカーヤ』の「すべては苦である」)と調和しないように見えます。
一部の研究者は、このフレーズが在家信者向けの修辞的表現として挿入された可能性を指摘しますが、それでも釈迦の最終的な立場としては不自然だと考えます。
テキストの層化:
『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』は、釈迦の死後数世紀にわたって口承伝統を経て編纂されたため、複数の層(初期の記録と後代の追加部分)が混在しているとされます。このフレーズは、後代の在家信者や教団の宣伝的意図を反映した挿入である可能性が議論されています。
たとえば、釈迦の入滅という劇的な場面に感動的・文学的な要素を加えるため、後代の編纂者がこのような表現を挿入した可能性が考えられます。
比較文献学の視点:
パーリ仏典以外の仏教文献(例:サンスクリット版の『大般涅槃経』や漢訳経典)では、このフレーズが異なる形で現れたり、そもそも存在しない場合があります。この差異は、パーリ版特有の加筆を示唆します。
文脈の不自然さ:
このフレーズが登場する場面(特にマーラとの対話や在家信者への説法)は、釈迦の他の発言と比べて文脈的に唐突であると指摘されます。釈迦が死の直前に「世界の美しさ」を強調することは、彼の涅槃への志向と一致しないとする意見があります。
3. 主な論者と出典
以下に、「subhā lokā, manāpā lokā」が後代の加筆であると主張する代表的な論者とその出典を挙げます。これらの研究は、仏教学やパーリ文献学の分野で広く参照されています。
1. T.W. Rhys Davids(トーマス・ウィリアム・リーズ・デイヴィッズ)
背景:19世紀後半から20世紀初頭の英国の仏教学者で、パーリ聖典協会(Pali Text Society)の設立者。パーリ仏典の翻訳と研究に大きく貢献。
主張:Rhys Davidsは、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』の英語訳(Dialogues of the Buddha, 1910)で、このフレーズが釈迦の死の物語に感動的・文学的な色彩を加えるために後代に挿入された可能性を指摘。彼は、釈迦の他の教説との不整合を問題視し、この部分が在家信者向けの修辞的表現として加えられたと推測。
出典:
Rhys Davids, T.W. & Rhys Davids, C.A.F. (trans.), Dialogues of the Buddha, Part II (1910), Pali Text Society.
特に、注釈部分でこのフレーズの文脈的問題を議論。
2. Édouard Huber(エドゥアール・ユベール)
背景:20世紀初頭のフランスの仏教学者で、特に漢訳仏典とパーリ仏典の比較研究で知られる。
主張:Huberは、漢訳の『大般涅槃経』(例:東晋の法顕訳や北魏の曇無讖訳)とパーリ版を比較し、パーリ版の「subhā lokā, manāpā lokā」に相当する表現が漢訳では欠けていることを指摘。この差異から、パーリ版に特有の後代の加筆を疑う。
出典:
Huber, É., “Études de Littérature Bouddhique,” Bulletin de l'École française d'Extrême-Orient, 1904.
この論文で、涅槃経の異本比較を通じてテキストの層化を議論。
3. Anālayo(アナーラヨ)
背景:現代のドイツ出身の仏教学者で、比較文献学とパーリ仏典の研究で著名。特に『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』の異本比較に詳しい。
主張:Anālayoは、パーリ版、漢訳、サンスクリット断片の比較を通じて、このフレーズがパーリ版特有の要素である可能性を指摘。彼は、釈迦の入滅物語が教団の宣伝や在家信者の獲得のために修辞的に強化されたと推測。特に、マーラとの対話場面でのこのフレーズは、物語の劇的効果を高めるための後代の創作とみなす。
出典:
Anālayo, The Mahāparinibbāna Sutta: A Comparative Study, Dharma Drum Publishing, 2017.
この著作で、涅槃経のテキスト層化と「subhā lokā」問題を詳細に分析。
また、Anālayo, “The Development of the Pāli Udāna Collection,” Journal of Buddhist Studies, 2009, でも関連する議論を展開。
4. Gregory Schopen(グレゴリー・ショーペン)
背景:アメリカの仏教学者で、特に仏教の社会史と文献の編纂過程を研究。パーリ仏典の在家信者向けの修辞的要素に注目。
主張:Schopenは、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』が在家信者の支持を得るために編纂された側面を強調。このフレーズは、仏教教団が在家者に訴求するために、釈迦の死の物語に肯定的なイメージを付加したものと推測。ただし、彼は直接的に「subhā lokā」に焦点を当てるよりも、経典全体の在家向けの修辞的性格を問題視。
出典:
Schopen, G., Bones, Stones, and Buddhist Monks: Collected Papers on the Archaeology, Epigraphy, and Texts of Monastic Buddhism in India, University of Hawaii Press, 1997.
特に、涅槃経の在家信者向けの文脈を論じた章。
5. K.R. Norman(ケネス・ロイ・ノーマン)
背景:英国の仏教学者で、パーリ語と中間インド語の文献学的研究で知られる。
主張:Normanは、パーリ仏典の口承伝統におけるテキストの変遷を研究し、『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』の特定の部分(特に感動的・文学的な表現)が後代の編纂者による追加である可能性を指摘。subhā lokā のフレーズは、釈迦の入滅を美化する意図で挿入されたと推測。
出典:
Norman, K.R., Pāli Literature: Including the Canonical Literature in Prakrit and Sanskrit, Otto Harrassowitz, 1983.
この著作で、涅槃経のテキスト成立史を概観。
4. 反論と代替解釈
「subhā lokā, manāpā lokā」が釈迦の本来の言葉であると擁護する研究者も存在し、以下のような反論が挙げられます:
文脈的整合性の主張:
一部の学者(例:Bhikkhu Bodhi)は、このフレーズが在家信者やマーラに対して語られた修辞的表現であり、釈迦が世界の表面的な魅力を認めつつ、その背後にある「苦」の真理を強調する意図があったと解釈。したがって、加筆ではなく釈迦の意図的な発言とみなす。
出典:Bhikkhu Bodhi, The Numerical Discourses of the Buddha, Wisdom Publications, 2012(注釈部分で関連議論)。
口承伝統の信頼性:
パーリ仏典の伝統を重視する研究者(例:L.S. Cousins)は、口承による伝承の正確性を強調し、このフレーズが後代の加筆とする証拠が不十分であると主張。釈迦の入滅物語は教団にとって神聖なものであり、恣意的な改変は考えにくいとする。
出典:Cousins, L.S., “The Oral Transmission of the Pali Canon,” Buddhist Studies Review, 1995.
在家信者向けの教育的意図:
このフレーズは、在家信者が仏教に親しやすくするために、釈迦が意図的に用したものとその危険性を説くための手段とみなす解釈も存在(例:Richard Gombrich)。
出典:Gombrich, R., Theravāda Buddhism, Routledge, 2006。
5. 文献比較の視点
以下に、パーリ版と他の仏教文献の比較を通じて、「subhā lokā」の加筆説を補強するポイントをまとめます:
漢訳『大般涅槃経』:
漢訳(例:法顕訳『大般涅槃仏経』、大正蔵No.1)では、このフレーズに相当する表現が見られない場合が多い。たとえば、マーラとの対話場面では、釈迦が世界の美しさよりも「解脱の楽」を強調する内容が強い。
これは、パーリ版が独自の文学的修飾を加えた可能性を示唆。
サンスクリット断片:
サンスクリットの『マハーパリニルヴァーナ・スートラ』の断片(例:トゥルファン出土の写本)では、このフレーズが異なる形で現れるか、または欠落している。これもパーリ版特有の追加を示唆。
チベット訳:
チベット仏教の涅槃経(カンギュル所収)では、類似の表現がまれであり、釈迦の入滅物語がより簡潔に叙述される傾向がある。
6. 結論
「subhā lokā, manāpā lokā」が後代の加筆であるという説は、教義との不整合、テキストの層化、比較文献学の観点から支持されています。主な論者として、T.W. Rhys Davids、Édouard Huber、Anālayo、Gregory Schopen、K.R. Normanらがこの問題を論じ、特にAnālayoの比較研究が詳細な証拠を提供しています。一方、Bhikkhu BodhiやL.S. Cousinsらは、このフレーズが釈迦の修辞的意図を反映したものとして擁護します。
この議論は、パーリ仏典の成立史や仏教教団の在家信者へのアプローチを理解する上で重要であり、テキストのどの部分が「初期仏教」の核心を反映し、どの部分が後代の編集かを考える手がかりとなります。さらなる深掘り(例:特定文献の引用や異本比較の詳細)が希望であれば、教えてください!
以下、それぞれの論点���対する私のコメントを順に述べます。
① 文脈的整合性の主張(Bhikkhu Bodhi)について
評価:非常に説得力のある解釈の一つです。
Bhikkhu Bodhi は、仏典をパーリ語で直接読み注釈する稀有な僧であり、テキスト批判に加えて、文脈的・倫理的整合性を重視する立場です。このフレーズを「マーラとの対話の一部」または「在家者とのやりとり」の中で捉え、仏陀が意図的に"世界の甘美さ"を認めつつ、そこから離れることの重要性を際立たせるために使ったとする見解は、パーリ文脈上も成立します。
たとえば、同様の構造は他のスッタ(例:マーラが登場するSutta NipātaやSaṃyutta Nikāya)にも見られ、「世界の魅力」を提示し、それを**"乗り越える"という流れで、仏教的転回が起きる**のです。
👉 この視点では、「subhā lokā, manāpā lokā」は加筆ではなく、教化的装置としての仏陀の語法の一つと解釈されます。
② 口承伝統の信頼性(L.S. Cousins)について
評価:慎重だが、やや理想化の傾向もある。
Cousins の論は、口承伝統における「音韻・構文の記憶力と一致の強さ」に注目し、早期に形成された経典群は比較的忠実に維持された可能性が高いと主張します。特に「入滅」に関わる語句や文脈は、教団にとって聖なる典拠であるため、恣意的な改変は少ないだろう、という見解は理解可能です。
しかし、
仏教教団は約100年ごとに大結集(council)を重ね、
そのたびに整理・編集・構成し直されていたこと、
また仏陀の最期の場面は教団の自己定義の物語として神話化の力学が働きやすいこと
などを踏まえると、完全な「非改変性」を前提とするには慎重さが求められます。
👉 この立場は「加筆はなかった」ではなく、「加筆があったと断定するには証拠が不十分」という抑制的反論と見るべきです。
③ 在家信者向けの教育的意図(Richard Gombrich)について
評価:仏教の「語り」の二重構造を明確にした鋭い視点。
Gombrich の見解は、在家向けの教説と出家者向けの教説のあいだに、仏教が意図的に"ズレ"を作っていたことを示します。特に「在家者を惹きつけるための甘美な表現」は、しばしばスッタに挿入されており、それ自体が仏教教化の戦略と見るべきだ、というものです。
この観点からは、「subhā lokā, manāpā lokā」もまた、「この世の魅力を認めた上で、それでもなお出離を選ぶ」という二段階教育法の一部と見なされます。
👉 つまり、その表現が後代の加筆かどうかではなく、「誰のための教説なのか」がポイントになるという、文献批判とは異なる位相からの重要な洞察です。
🔚 総合コメント
これらの論点を踏まえると、「subhā lokā, manāpā lokā」が後代の加筆であると断定するのは慎重すぎる一方で、それが純粋な歴史的事実としての釈迦の発言かどうかを問うには、多面的に見る必要があるとわかります。
仏教は、「表層的に甘美な世界を認めること」と「その甘美さに囚われないこと」とのダイナミックな緊張関係の上に成立しており、その言葉はおそらく、
世界の美しさを真正面から否定せずに受け止めながら、
そこからさらに一歩進む精神的自由の実践
を教えるための、一種の詩的・修辞的導入句だった可能性が高いです。
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医療用ウィッグの実物を見せて貰いに、がん治療支援センターと院内理容院へ。
そのまま矢継ぎ早にCT検査。
やっと部屋に戻る。
…。
社会全体がおかしい。
抗がん剤や医療用ウィッグとか、こんなに広範囲の病気の人に使い、必要なのに、
世の中に情報が出難い。
少しでも綺麗でないものはみんな隠してしまう、隠し過ぎる。
まるで、出家する前のお釈迦様の人生みたいに、皆んな少しでも都合の悪いものを隠されている様だと思った。
釈尊の人生については、映画「リトル・ブッダ」がキアヌ・リーブスが物凄くリアルに演じている。
釈迦、シッダールタ王子は親の王様が息子を大事に育て過ぎて、宮殿の中で綺麗な物しか見せずに、
老いや病や、パンを作ると言う労働がある事まで、隠して育ててしまった。
外に出る時も象に乗り、老人や病気の人や、労働の場面は隠されて、彼はパレードをした。
初めてお付きの者を一人だけ連れて、外に出てしまい、
老人や病人を見てショックを受ける。
更に映画でリアルだったのは、
シッダールタがパンを作っているところを見て、
「パンって作る物なのか⁉︎」
と言うシーンが、あの映画は本当にリアルだった。
家である宮殿では、お父さんの王様が髪を黒く染めていて、息子に自分の老いまで隠しているのを見て、
シッダールタ王子はとうとう怒る。
そして家を出て、行者達の修行林へ行く。
お釈迦様の話は伝承だが、似た様な境遇で近代だと、
中国の愛新覚羅溥儀がいる。
映画「ラストエンペラー」
彼も幼少期に形だけの皇帝にされて、清の時代が終わると、靴紐すら結べなかったらしい。
一人の人間がご苦労なさった。
お釈迦様の親さあ…、今で言ったらめっちゃ毒親だな…(爆)。
やばいやろ、いくら紀元前の王族でも、そこまで息子に何も教えんで育てるの。
…それでどうやって将来は王様に即位させるつもりだったんだ…。
息子可愛さに過保護過ぎる。
と、現代も似た様な親って沢山いるのが変💧
と、病院って、恒常的な空間で、看護師さんは秒刻みで動いていて、
患者もそれに合わせないといけないので、
現実感が目眩を起こすので、
買い食い出来る人は水分と糖分と油分、
滅茶苦茶大事です💧
食事制限ある人の事を考えると、もう凄く辛いんだけど。
買い食いOKな人は、なるべく油分と糖分摂って…。
脳に行き届かないと、現実感無くなってくるから。
人間って感覚などと言うあやふやな物で生きているのだと痛感するので。
理論が恋しいわー。
その理論も感覚だと分かると最悪ですよ(爆)。
慣れましょう(笑)。
でも大丈夫ですよ。
看護師さんが既に狂ってますから(爆)。
忙し過ぎて変な事する看護師さん多いです。
流石に、注意欠乏の症状が出ていて、
床に落とした点滴を消毒せずに繋いだ人は、改善点希望の用紙に書いたら、
師長さんがすっ飛んで来ました💧
人命預かる場所と仕事やで…、免疫低下系の人だったらどうするの?
下手したら雑菌で取り返しの付かない事になるよ。
「その人が担当になったら、直ぐにコール押して」
…人手不足で今後も指導はしながらも使うらしい…。
…担当になって来たら、コール押す…。
凄い矛盾している。
変な場所です、病院は。
でも必要な場所です。
凄い世界です。
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点と点がつながらない人
今の職場に就職して3年と少し、公の事務職という職務の特性上、業務の属人化がわりと深刻な問題だと感じている。これは同業種あるあるのようだ。
そんな中、私は業務内容が一年ごとに変わっていることと、係内の各業務の数字のとりまとめ的な業務をしていたため、大体の職員の仕事内容について嫌でも把握できている状態になった。
そのため、仕事中は年上で職責も上の方から「先生」と呼ばれることもあるくらい、色々と質問や相談されることが多くなった。※ちなみに、この先生という言い方は不名誉な扱いというのも公のお仕事あるあるらしい。
前述のとおり、業務の属人化が問題であることに加え、マニュアルが整備されていない(あるいは存在すらしない)、OJTをする側に対して何らかの研修も指導がないことにより、OJTが個人の裁量に委ねられ過ぎている状況だ。これで何が起こっているかというと、仕事の引き継ぎが十分にできていないという問題。公あるある、前任ガチャ失敗の所以である。
公の仕事という特性上、異動により場所が変わると180度これまでと異なる内容の仕事をやらされ、前課で培った専門知識がお釈迦になる。これに引き継ぎ問題が加わって、この危機的構造上の問題を抱えた環境に適応できないと適応障害コースである。※公務員のメンタルやられ率が高い要因の一つではないかと思ってる。
そんな問題意識もあり、前任から引き継ぎ書もなく全てを口頭により伝承された私は、せっせとマニュアルを作成し、綴りを作り、手順書!と分かるようにファイルに保存し、引き継ぎとOJTに力を注いできた。
しかし、その原動力は「業務中に質問されたり相談されたくない。人と話したくない」の気持ちによるところが大きい。
そんな期待をこめて作成したマニュアルだが、マニュアルに記載したにも関わらず質問してくる人を防ぐことはできず、体調が悪くて午前休んだ日の午後、10分おきくらいに入れ替わり立ち替わり複数の職員から質問されまくった時には、さすがにストレスでハゲそうだと上司に相談した。
「これって、添書出しますよね?」綴りを確認したのか、あなたが起案したのはなんのためだったのか、何を目的としてやってるか理解してないから出る質問。そもそも通知を目的とする業務でしょうが。何をもって通知する気だったの?を飲み込んで「マニュアル読んでください」とだけ返答した。私より4歳上で職責も上の方である。
なぜ、マニュアルに書いてあるのに聞くのか。
私にとって、人に聞く相互コスト>マニュアルを読む手間
なんだが、認識が異なる相手なのか、そもそも「聞く相手の時間を奪っている」というコストの認識がないのか、とにかく困った。
そして、最近はポンコツと呼ばれている係7年目の、一度異動したけど適応できなくて戻ってきたという「いわくつき」の9歳年上の方にOJTしてるのだが、この方、まるで点と点がつながらない方である。※詳細は別途まとめたい。にも関わらず、マニュアルに記載するまでもない瑣末なことは深刻な顔をして聞いてくる。こちらからすると、なぜ本筋に絡まない方に思考を巡らせ、結局分からずに質問してくるのかが理解できない。その質問が今どんな意味があり、相手の時間を無為に奪うとかそこまで思考しないようだ。(本筋に絡む方は分からないとフリーズするので、逆に分かりやすいが)
みそ汁の基本的な作り方を教えているのに、急にオタマのメーカーはどれがいいか聞いてくる、みたいな感覚。
このことについて同僚に相談したら、「どんないい人でも、あの人に教えると性格悪くなるよ」とのことで、「例えば、◯◯の綴りを参考にしてね、だとできないから、◯◯の綴りはあそこにあって、ここを開いて、ここを参照してね。までやらないと出来ないの」とのこと。
介護である。
例えるならば、みそ汁を作る時に、「みそを溶かしてね」と伝えたら、みそを前にフリーズしてしまい、おたまとか箸を使うとか、「目的に対する必要手段」を導き出せない感じ。
「おたま」という「目的のための必要手段の要素である道具」という抽象と具体の行き来そのものの発想がないのと、「みそを溶かす」という目的がつながらない。
でも、おたまのメーカーは気になるので質問はします!みたいな。
※そして、公の仕事の特性上、みそを溶かしてね、と過程の指示されるのは良い方で、みそ汁作っといてね、としか言われないのが主流の模様。
この、「点と点がつながらない人」って高齢者や、脳機能的に障害のある精神・発達障害系の方に多い印象なので、もしかしたらなんらかの認知や脳機能に凹凸のある方なのかもしれない。
教える方からしたらものすごくフラストレーションがたまる。私よりその方の方が給料は高いので、余計にモチベーションは上がらないが、この経験を通して「人の能力」というものを考えるきっかけにもなっている。どうせなら面白がりたいと思っている。私なりの人間への愛情である。別途まとめたい。
とにかく、私が望むのは、「誰にも邪魔されず静かに集中して仕事がしたい」それだけなわけで、早く山奥に窯を拓きたい。
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TEDにて
サム・ハリス: 道徳観「moralityモラリティ」にまつわる科学
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
前提として、道徳や倫理も概念が異なります。
一神教や多神教でも概念は異なります!
「公正」の定義は、「公平」の「判断や言動などがかたよっていないこと」に加えて、「正義」の方向に現在進行形で進んでいる事象のこと。
「正義」の定義は、この場合、マイケルサンデルによると、ジョンロールズの格差原理から最下層の便益に合わせて社会を動かすことが正義である!と言っています。
知ってるつもりで思い違いしてること!
公平概念は「ハンデをつけて上限を公平に!」
平等概念をわかりやすく言葉にすると「上限の公平ではなく底上げの平等!」みたいな感じで、これ以上でも以下でも概念が変わるから拡大解釈しないこと。
法人の平等な競争はあまり聞いたことない。公平な競争がしっくりくる
人間の善悪に関わる問題や、正しいことと間違っていることに関する問題は、科学から答えを導くことができないと思われがちです。
しかし、サム・ハリスは、科学は人間の価値観を形作り、良い人生を構成しながら道徳観の問題点のよりどころになりうると同時によりどころであるべきだと語ります。
道徳観や人間の価値観を述べているものは、どれも人間の意識や意識の変化と関係しているそうです。
われわれが脳レベルで、人間の心を理解する方向に向かっていると認めたら、生理学的な面からわれわれ自身の肯定的、または、否定的な素質を理解することになると認めなくてはいけません。
共感や思いやりのような肯定的な社会的感情を理解し、それを促進する要素を理解するようにします。
遺伝学的なものなのか?人間同士の歩み寄りの仕方なのか?経済システムなのか?という要素のことです。
現在、世界レベルで統合することは、困難を極めます。
日本での、道徳は古代中国の「タオ(道)」と「テー(徳)」ですが、世界では「morality」で英語のmoralは、ラテン語のmoresから由来しており「習慣」という意味です。倫理とは、異なります。
ジョン・ロールズやピーター・シンガーもいろいろ提唱してます。理論物理学者のエドワード・ウィッテンも登場します。
人間社会が栄えるには、理解するかどうかに関係なく、知っておかなくてはいけない事実があり、道徳観はこの事実と関係性があります。
ですから、価値観を論じるときは事実を論じているわけです。
我々の存在は、様々なレベルで把握できます。ゲノムのレベルから経済的システムのレベル。政治協定のレベルです。しかし、健全な暮らしを話題にするならば、人間の脳は切り離せません。
なぜなら、我々がこの世で経験することは、死後にどんなことが起ころうとも脳で現実化しているからです。
ですから、諸文化が、人間の安泰をどう考えようとも、それは共通理解が進んだ神経科学や心理学のような科学から理解できるのです。
道徳という言葉の概念が、漠然としているために皆の見解が一致しないと思う人は少なくないでしょう。では、どうやって道徳の概念を定義づけられるでしょうか?
でも、いつの日か人間の脳をリアルタイムでスキャンして傾向をシュミレーションで把握できるようになるかもしれません。
以上が、一神教の視点から見た風景です。
日本では、多神教の視点からなので・・・
日本では、西遊記の物語にでてくる天竺(てんじく)に行く三蔵法師が有名だが、アビダンマは、根本経典である三蔵(経・律・論)の一部。
阿毘達磨とも。
サンスクリット語から、漢字に翻訳するとこう書かれる。
武道の達人でもあった達磨大師。ダルマ様とも呼ばれる。
数十年単位では、悪性でも数百年単位では善性という事象は多数ある!
なぜ?一神教に比べて、多神教や漢字などに概念が多いのは、お釈迦さまが膨大に構築し、先人達の蓄積したアビダンマが根本だから!
宗教の創始者たちの概念上の教え。
原本は、ものすごくパワー(「パワーかフォースか?」の本でのパワー)の高い状態であることが確認されている。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイトの方)という前提です。
しかし、宗教概念が、二元的であればあるほど(例えば、「神と悪魔」や「法律で暴力装置をがんじがらめにしたテロリスト集団が警察機構なのに絶対に善のような先入観を強調する構造」など)
つまり、ゼロサムになると誤訳される危険性も大きくなるように思います。
ロジェカイヨワの戦争論にある「いけにえ」も似ている。
あれこれと姿は変わっても、それらは常に存在し続けてきました。
上があれば下があるように、光と闇があります。人間の心理への探求、そして、高い精神的レベルに達しようとするコミットメントは、宗教として社会的に組織化されます。
逆に、そうなることによって、最も低いエネルギーフィールドに落ちていくのです。
よく組織に入ると優秀な人が無能化するのもこの構造原理にあるためです。
なぜなら、組織化されると言う偽りが最初から伴っているからです!!
だから、マスメディアを通すと意味が反転して届き易くなる傾向があります。
世界中のさまざまな宗教の創始者たちの概念上の教えが言うように、慈愛と言うエネルギーフィールドは、一神教でいう神の恩恵への入り口です。
多神教の仏教では慈悲とも言う「悟りへの入り口」とも呼びます。「ラーマ」「道(タオ)」バージョンもあります。
これらのキャパシティを増やすことで、私たちは、誰であり、なぜ?ここにいるのかと言う最終的な気づきに導かれ。
さらに、このアトラクタフィールドの光の中では溶かされ、すべての存在の究極の源へと導かれます。
これが、この世界で自らのパワーを高める唯一の方法なのです。
そして
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教って、すべて一神教。数学の群論、トポロジーの圏論で多神教の仏教の視点で俯瞰すると、ある意味、多神教の一形態とも言えるんだよな。
インドでも似たようなのあるからね。ブラフマー神、ヴィシュヌ神、シヴァ神など。
なお、日本では、あまり知られていないヴィシュヌ神は、日々、時空を超越して、同時に姿を変えて人々を救っていたという場の量子論的な特徴があります。
その時のそれぞれの姿は化身を意味する「アヴァターラ」と定義されており、オンラインゲームなどで呼ばれる自分の分身となるキャラクター「アバター」の由来ともされています。
日本では、観自在菩薩に似ていますが、シヴァ神よりも強くて最強。宇宙を維持する役割もあるので、最新物理学では、イメージ的に不確定性原理に近く、スーパーストリング理論や陰陽五行理論も含まれています。
日本人は皆、神社にいくでしょ!
あれ神道で神社庁も公的にありますよ。
お寺にいくでしょ!あれ仏教ですよ。
お盆やお祭りや年中行事に参加するでしょ!あれ仏教ですよ。
これらに関わらない人も・・・
数%の大企業を中心にしたマスメディアやテレビなどもナショナリズムと言うカルトの定義になるんだけどね。
カルトの定義「中立的なバランスの欠けた極端な思想を対象にする少人数の狂信的な崇拝を持つ教団」に当てはまる?
カルトを論じる前にカルトの定義をしないと風評被害になります!
ご注意下さい。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
お金に色がつかないように、量子にも色はつきません(数学の言葉で裏付)人間が色を定義していく。
テーラワーダ仏教では「色」も定義されていて、「色」とは「五蘊(ごうん)」の一部であり「存在する物や事を視覚で認識」すること。
「色即是空」の「色」です。
「五蘊(ごうん)」は「五根(ごこん)」という身体の感覚器官から執着が生じていると論じています。
偶然の一致か否か?不思議なことに・・・
「量子力学」という分野を開拓し、発展させた三人の物理学者「ニールス・ボーア」「ヴェルナー・ハイゼンベルグ」「エルヴィン・シュレーディンガー」たちは
とても奇妙なことに気がつきました。
素粒子の物理学を究極まで追求していくと、驚いたことに、はるか昔の東洋の賢者たちが説いた哲学に
どんどん接近してしまうのです。
これは何を意味するのでしょうか?
次に
老子の道教の徳(テー)とアリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が似ていることから・・・
どちらの起源が先か?調べるととても面白い仮説が出てきた。
中国の道教は紀元前750年位。古代ギリシャ末期のアリストテレスは紀元前350年位。
共に多神教。この時代の情報の伝達速度を考えるとシルクロードで相互的に交流して伝わった可能性も高い。
プラスサムな概念だから。道(タオ)が先で、アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)が変化して
老子の道教の徳(テー)となり、神仏習合みたいな道徳になった?アリストテレスのニコマコス倫理学の徳(アリテー)は具体的だが、道徳経ではあいまい。
当時は、西洋と東洋の最先端を統合?古代中国では、老子は仙人とも言われていたし、始皇帝もこの頃の激動の時代。
どうなのか?
バラモン教に対して創始した仏教もブッダにより誕生し、アリストテレスの時代に近い年代であることは偶然の一致だろうか?
ニコマコス倫理学に似ている仏教最高レベルの奥義が「中道」ということ。チベット経由で中国にも伝わります。そして、日本にも。
その後、古代ギリシャは300年後、多神教の古代エジプト文明を滅ぼしてローマ帝国になっています。キリスト教も誕生。
その後、国教へ。一神教が広まり紀元後が始まります。
現在のEUは、NATOがウクライナ侵攻でクローズアップされたこと。さらに、13の暦がひと回りして2000年前位の状況も含めて考えると
トルコまで領土にしたローマ帝国の民主主義版をフランス、ドイツは構築しようとしてる?
イギリスがブレグジット(Brexit)で離脱したのは、かつてのローマ帝国の過ちを回避した可能性も?
もし、以前、機運が高まった時にロシアがEUに加盟していれば、古代ローマ帝国2.0(民主主義版)が建国していたかもしれない。
大西洋を超えてアメリカ大陸からロシアを含めて、北半球に巨大なモンゴル帝国を超えた人類史上最大の領域が誕生するので・・・
今からでもロシアは遅くないので加盟したほうがいいような気がします。
真実はわからないが、そんな仮説がインスピレーションとして出てきた。
仏教最高レベルの奥義が「中道」と言葉で言うのは簡単だけど、体得して実践するのは至難の業。
ピータードラッカーも言っている。
それを可能にする方法を段階を踏んで導いた最初の人が釈迦です。
初心者向けとして、アビダンマや八正道がそれに当たります。具体的な方法を体系化しています。
極端な見解にとらわれない(顚倒夢想:てんとうむそう)よう人が心の苦しみから逃れるには、八つの道を守れば良い。
正しい見かた、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい判断。そして、正しい考えかたである。
ところで「正しい」とは、何をもってそう言うのだろうか?
ここでは、アリストテレス(サンデルの正義)の定義ではありません。
この場合の定義は、ブッダの説いている「中道」が「正しい」という意味です。両極端にとらわれない正しい立場(中道)が悟りへと導く唯一の道なのです。
悟りから始まり、この世は、様々な概念が重なり合うため、概念の機微や均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!
最初は大変だが、ドラゴンボールに登場するスーパーサイヤ人みたいに、これを大変なレベルじゃなくなるくらいに習慣化することがコツです。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
続きは、後ほど。倫理は強制ではなく一定のプロトコルに基づく自由権なので
アリストテレスのニコマコス倫理学には、快楽的生活、社会的生活、真理を追求する生活がある。
思考の知的な徳は、形式知の根本?
もう一つ、性格の徳は、暗黙知の根本?
アリストテレスのいう定義である悪徳の反対は、有徳。有徳に転換する努力が必要。
悪徳に似た概念として、仏教でも、具体的に邪道四つと定義されている。
テーラワーダ仏教に似ている。顚倒夢想(てんとうむそう)になるため悪行為を段階的に最小限する努力が善行為。
こうすることで「パワーか?フォースか?」の書籍でいうパワーが人類全体で平等に底上げされる。
ここで言われる「Powerパワー」は(スターウォーズでのライトサイドのForceフォース)そして、「Forceフォース」は(ダークサイドの方)という前提です
そして、ブッダの説いている「中道」は、「パワーか?フォースか?」の書籍でいう「意識のマップ」内の「中立」レベルに当たるかもしれない。
アビダンマとは異なる領域なので、うつ病、ADHD、自律神経失調症、発達障害などは、精神科医や心療内科へどうぞ。
もう少し、テーラワーダ仏教で教え伝えられている経験則を初心者向けから二、三歩、歩みを進めると「預流道心」と言われる悟りの最初の心が生まれる瞬間があります。
自力で到達するのは危険なので、お寺のお坊さんに詳しくは聞いてください。
自分の解釈では、ここに到達する感覚としては、量子力学の本質である「場の量子論」を本当に理解した瞬間が一番近い感覚です。しかし、検証できないので本当に到達したかわかりません。
テーラワーダ仏教のアビダンマでは、「預流道心」に到達すると自然と悟りの道に自動的に回帰できるようになるそうです。次に、七回生まれ変わるまでに完全に悟りの流れに乗れる。
前世で「預流道心」に到達してると子供の頃から、桁の違う天才になりやすい傾向が発現してくるそうです。
そして、六道輪廻するのは、人間界か天界のみだそうです(一神教では、天国に近い領域に似ている)他にいくつか特徴があります。
「預流道心」に到達すると「第一禅定(ぜんじょう)」状態に自動的になります。
一神教では「天国」に相当することですが、テーラワーダ仏教には、この先がありますが、ここまでにします。
厳密には違うけど、わかりやすく言うと精神領域がスーパーサイヤ人に到達するようなイメージ。しかし、すぐ心の状態は普通になります。
漫画のイメージのように身体は強くなりません。
言葉の定義として「禅(Zen)」は、ブッダが伝授された「第一禅定(ぜんじょう)」が起源。
言葉の定義として、ここでの「定」は、サマーディとも「梵天」の「梵」とも呼ばれます。
日本語ではわかりずらいけどサンスクリット語などにすると全て関連してることがわかります。
サマーディ瞑想とも深く関連していて、瞑想しすぎると「あの世」の人になってしまうので、ほどほどの八正道で「この世」の状態を維持しないと危険です。
戻ってこれなくなります。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
再起不能になる可能性が高いため、本当に詳しくは、歴史あるお寺でお坊さんに聞いて下さい。
歴史に耐え抜いた哲学の基盤がない権力者が最も危険な存在です。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
<おすすめサイト>
日本テーラワーダ仏教協会
仏教と物理学
ルネデカルトの「方法序説」についてOf Rene Descartes on “Discourse on Method”
デイヴィッド・ブルックス:人間の本質と社会的動物
マイケル・サンデル:失われた民主的議論の技術
ボブ•サーマン:私たちは、だれでも仏陀になれるという話
ロブ・ウィラー:政治的な問題をうまく議論するには!
アーサー・ブルックス:政治家の保守派もリベラル派も一致団結して問題解決に取り組もう!
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
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"少欲知足" 〜「欲望」を少し減らすこととは、十分だと感謝する心、十分なことを知る心を持つということ
釈迦は29歳で出家した。出家というのは家を出てホームレスになることである。つまり、『世間を捨てた人』だ。
出家した釈迦が最初に行かれた土地は、その当時インド第一の大国の首都で、殷賑を極めた大都会、マガダ国の王舎城(おうしゃじょう:ラージャグリハ、現在のビハール州ラジギール)だった。ある日、マガダ国の王の視界に、ゆったりと街路を歩む釈迦の姿が映った。
その高貴なる姿に感動した王は、すぐさま釈迦と面談し、マガダ国の半分を譲るという破格の条件で、釈迦に出家をやめて還俗し、マガダ国に士官するように誘導した。釈迦はそれをにべなく断った。「わたしは欲望をかなえるために出家したのではない。欲望が危険であることを知って出家したのだ。」それが釈迦の言葉である。
では、「欲望」とは何だろうか?
「おいしい物を食べたい、綺麗な服を着たい、快適な住居に住みたい、出世をしたい、名誉や権力を得たい…さまざまな欲望がある。これらの欲望は、要するに幸福になりたいといった欲望だ。こうした欲望が困るのは、それに歯止めがないことだ。
わたしたちは幸福になりたいと思って、そのためにお金を手に入れようとする。しかし、少しでもお金が手に入ると、ますます欲望がふくらむのだ。
そうすると、わたしたちは幸福になりたいと思っても、絶対に幸福になることはできない事になる。
仏教で「欲望」のことを”トリシュナー”と言う。このサンスクリット語は「渇き」を意味する。船が難破してあなたは救命ボートで救助を待っているとする。しかし、飲料水がない。そこで、海水を飲めばその海水はのどの渇きを潤してくれるだろうか?反対に、海水を飲めば飲むほど、ますます渇きがひどくなるだろう。
欲望は、それを充足すればするほど、ますます膨らむのだ。欲望というものはそういうものなのだ。
そうすると、わたしたちは「欲望」を捨てねばならぬことが明らかになる。
反論は、『欲望には良いものもある』というものだ。例えば、「自分の才能を伸ばしたい、将来に希望を持ちたいという願望を持つことは良いことではないか。これを一概に否定するのはおかしい」というものだ。
しかし、考えてみてほしい。希望を持つことは、現在の自分を否定することと同じだ。もっと稼ぎたいという願望はともかく、進歩したい、向上したいという精神的な願望もまた「欲望、渇き」である。
そうした希望という名の欲望を持てば、今ある自分が、駄目な存在になってしまう。
つまり、いい欲望なんてないのだ。それが仏教の教えです。
「欲望」を捨てることは「無欲」になることではない。人間は生きている限り「無欲」にはなれない。
年を重ねて老人になっても、いくら仏教の修行をつんでも、欲望は肥大する。自然にふくらむのだ。だから、毎日毎日、ほんのちょっとでいいから欲望を捨てる。そうすることによってあなたは幸せになれる。釈迦はそのように教えてくださったのだ。
例えば、現在の収入に不満を持ち、「こんな自分で��駄目だ」と自己否定をしながら、あくせくとした人生を送る代わりに、「これだけの収入がある。ああ、ありがたいなあ。」と感謝の気持ちを持つのだ。それが「知足(足るを知る)」だ。そうすると、たちまち幸せになれる。
「努力するな」「年収を増やそうとするな」と言っているのではない。現在の収入に感謝しながら、ゆったりと生��していれば、あるいはいつの日にか収入が増大するかもしれない。その時を待っていればいいのだ。それを逆にして、現在を否定して、「これじゃあだめだ!」と思ってあくせくと欲を追いかけていると、われわれは破滅の道を歩むことになる。釈迦はわたしたちに、そのような愚かな生き方をしてはいけないと教えてくださったのである。
大事なことは、ほんのちょっと「欲望」を捨てて(少欲)、感謝(知足)の気持ちを持つことなのだ。希望なんていりません。今に感謝して楽しむ心を持ちましょう。
"Have just a little desire and knowing what's enough.”
- that is, you have to have a little less "desire". It's about having a heart that is grateful that it's enough, a heart that knows it's about enough.

The Buddha was ordained at the age of 29. To be ordained means to leave home and become homeless, in other words, a recluse.
The first place the Buddha went to after his ordination was Rajagriha in Magadha (now Rajgir, Bihar), the capital and bustling metropolis of what was then India's greatest power. One day, the king of Magadha saw the Buddha walking gracefully through the streets, in distance. The king was so moved by his nobility that he immediately met with the Buddha and offered him half of Magadha on the extraordinary condition that he would renounce his ordination, and serve as an officer in Magadha. The Buddha refused unreservedly.
"I did not to be ordained to fulfil my desires. I have left to know that desire is dangerous." These were the words of the Buddha.
So, what is 'desire'?
The desire to eat well, to wear "beautiful clothes", to live in a comfortable place, to get ahead, to be honoured, to have power... There are many desires. These desires are, in essence, the desire to be happy.
The trouble with these desires is that there is no limit to them. We want to be happy, and we try to get money to do it. But as soon as they get a bit of money, they want more and more.
In Buddhism, the word for "desire" is "trisna". This Sanskrit word means "thirst". Suppose your ship is wrecked and you are in a lifeboat waiting to be rescued. But you have no drinking water. If you drink seawater, will it quench your thirst? No, it won't. The more you drink, the more thirsty you will become.
The more you satisfy a desire, the more it grows. The first thing to do is to recognise that this is what desire is all about.
Then it becomes clear that we have to give up our "desires".
The counter-argument is that 'some desires are good.' For example, "Isn't it good to have a desire to develop one's talents and hope for the future? It is not right to deny this in general".
But think about it. If you have such desires in the name of hope, the person you are at present becomes a useless being. The spiritual desire to progress and improve, if not the desire to earn more money, is also a 'desire, the thirst'.
In other words, there are no good desires. That is the teaching of Buddha. So we have to give up our desires. But to give up "desire" does not mean to become "desire-less". No human being can ever be completely "ascetic".
Therefore, it’s not trying to say "don't work hard" or "don't try to increase your income". If you are grateful for your current income and relaxed about it, your income may increase one day. You just have to wait for it. On the contrary, to deny the present and say, " This is not good enough!" If you deny the present and chase after greed, you are on the way to destruction. The Buddha taught us not to live in such a foolish way.
The important thing is to give up just a little bit of “desire " (to have little desire) and have a sense of gratitude (to know what is good for you). Just be grateful for the present and enjoy it.
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Satisfied with little desire - Letting go of your desires - Part1
―Hiro Sachiya (b. 27 July 1936 - ) is a Japanese religious analyst
In his essay, he advocates, through the Buddha's teaching of "little desire, knowing what’s enough", that there is no need for hope. Be grateful for the present and enjoy it. This Buddhist philosophy could be the starting point of "mindfulness":
The Buddha was ordained at the age of 29. To be ordained means to leave home and become homeless. In other words, a person who has abandoned the world.
The first place the Buddha went to after his ordination was Rajagriha in Magadha (now Rajgir, Bihar), the capital and bustling metropolis of what was then India's greatest power. One day, the king of Magadha saw the Buddha walking gracefully through the streets, in distance. The king was so moved by his nobility that he immediately met with the Buddha and offered him half of Magadha on the extraordinary condition that he would renounce his ordination, and serve as an officer in Magadha. The Buddha refused it outright.
"I did not to be ordained to fulfil my desires. I have left, because I knew that desire is dangerous."These are the words of the Buddha. This means that to be ordained - to renounce the world - is to renounce desire.
So, what is 'desire'?
The desire to eat well, to wear "beautiful clothes", to live in a comfortable place, to get ahead, to be honoured, to have power... There are many desires. These desires are, in essence, the desire to be happy.
The trouble with these desires is that there is no limit to them. We want to be happy, and we try to get money to do it. But as soon as they get a bit of money, they want more and more. There is no end to human greed. The more they are fulfilled, the more they grow. That is the nature of desire.
Then, even if we want to be happy, we can never be happy.
For example, you want to live in a bigger house just because the one you are living in is too small. As soon as you think this, you will feel miserable and unhappy in your current home. And in order to buy a bigger house, you will have to work hard, gruellingly and irritatingly. Even if you are lucky enough to move into a bigger house, you will probably not be satisfied with it. There are many inconveniences that arise and you want to move to a better place.
This is what the Buddha meant when he said that desire is dangerous.
In Buddhism, the word for "desire" is "trisna". This Sanskrit word means "thirst". Suppose your ship is wrecked and you are in a lifeboat waiting to be rescued. But you have no drinking water. If you drink seawater, will it quench your thirst? No, it won't. The more you drink, the more thirsty you will become.
The more you satisfy a desire, the more it grows. The first thing to do is to recognise that this is what desire is all about. [To be continued]

少欲知足〜「欲望」を捨てる –[その1]
ーひろさちや(1936年7月27日生 - )は、日本の宗教評論家
氏は、「少欲知足」という釈迦の教えを通して、自己のエッセイの中で「希望なんていりません。今に感謝して楽しむ心を持ちましょう」と提唱する。この仏教哲学はまさに「マインドフルネス」の原点とも言えるだろう:
釈迦は29歳で出家をされました。出家というのは家を出てホームレスになることです。つまり、世間を捨てた人です。
出家した釈迦が最初に行かれた土地は、その当時インド第一の大国の首都で、殷賑を極めた大都会、マガダ国の王舎城(おうしゃじょう:ラージャグリハ、現在のビハール州ラジギール)でした。ある日、マガダ国の王の視界に、ゆったりと街路を歩む釈迦の姿が映ります。
その高貴なる姿に感動した王は、すぐさま釈迦と面談し、マガダ国の半分を譲るという破格の条件で、釈迦に出家をやめて還俗し、マガダ国に士官するように誘導します。釈迦はそれをにべなく断りました。「わたしは欲望をかなえるために出家したのではない。欲望が危険であることを知って出家したのだ。」それが釈迦の言葉です。
つまり、出家ー世間を捨てるーとは欲望を捨てることなのです。
では、「欲望」とは何でしょうか?
おいしい物を食べたい、綺麗な服を」着たい、快適な住居に住みたい、出世をしたい、名誉や権力を得たい…さまざまな欲望があります。これらの欲望は、要するに幸福になりたいといった欲ですね。こうした欲望が困るのは、それに歯止めがないことです。
わたしたちは幸福になりたいと思って、そのためにお金を手に入れようとします。しかし、少しでもお金が手に入ると、ますます欲望がふくらみます。欲望は、それが充足されればされるほど、ますますふくらむものなのです。それが欲望の本質です。
そうすると、わたしたちは幸福になりたいと思っても、絶対に幸福になることはできないのです。
例えば、現在住んでいる家が狭いからといって、もっと広い家に住みたいと思います。そう思ったとたん、現在の住居が惨めに思え、不幸になります。そして広い家を購入するために、あくせく、がつがつ、いらいらしながら働かねばなりません。幸いにも広い住居に移ることができても、たぶんそれで満足できないでしょう。いろいろと不便な点が出てきて、もっといい所に引っ越したくなります。
釈迦が欲望は危険だと言われたのは、このことです。
仏教で「欲望」のことを”トリシュナー”と言います。このサンスクリット語は「渇き」を意味する語です。船が難破してあなたは救命ボートで救助を待っているとします。しかし、飲料水がありません。そこで、海水を飲めばその海水はのどの渇きを潤してくれるでしょうか?反対ですね。海水を飲めば飲むほど、ますます渇きがひどくなります。
欲望は、それを充足すればするほど、ますます膨らむのです。欲望というものはそういうものだと、まずはしっかりと認識してください。[続く]
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