#アジア性風俗研究会
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タイ買春読本 アジア性風俗研究会・編 データハウス
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職業としての売春は、古くから存在する。職業とは、ヒトのみが行う社会的かつ文化的営為であり、富・付加価値の交換により形作られる経済活動の手段としては、売春は人類最古の職業の一つでもある。 現代の売春とは取引契約に基づくものであり、売春の歴史とは売春仲介の歴史でもある[5]。また、売春という職業が成り立つ為には、貨幣経済の浸透と、家父長制や嫁取り婚が成立していないといけない[要出典]。ヨーロッパでは古代ギリシャ以降になる。 古代 →「公娼」を参照 史上初めて管理売春すなわち売春を国家の登録制度のもとに管理し、公認したのはギリシャのソロンといわれ、国家によって女性の奴隷を「購入」し、「ディクテリオン」という売春施設へといれた[6]。ローマ帝国でも売春仲介業者は法的な認可をうけ、届出をするだけでなることができたため、売春は広く行われていた。しかしローマが���リスト教徒の迫害をやめ、それを国教としたことをうけて、売春を禁ずる法が登場する。ユスティニアヌス法典は、売春仲介業者の責任を問い、売春婦たちを「不幸な運命から救いだす」ことをうたう画期的なものであった[7]。 キリスト教が普及するにつれて、売春を含めた性の問題はすべて宗教の領域で扱われるようになる。キリスト教は売春はおろか婚姻生活以外での性交渉を禁止した。一方で国家は売春の禁止と公認を繰り返してきた。公序良俗を保つためであり、税収を確保するためであった。中世に入ってキリスト教の影響はさらに強まり、例えば、シャルルマーニュの勅令は売春の完全な禁止を謳っている。こちらは業者へは少量の罰金刑を課し、売春婦を「みだらな女」として広場で鞭打ちに処すなど重い罰を規定している。 近代 このように近代まで、国家は売春を両義的なものとして扱っていた。登録制度という公認であっても女性を監視し縛り付けるものだとする「廃娼論」が出現するのは20世紀以降のことである[8]。そして「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買取締二關スル國際協定」が1904年に採択され、「醜業ヲ行ハシムル爲ノ婦女賣買禁止二關スル國際條約」が1910年に制定され、1921年に国際連盟によって「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」、1933年に「成年婦女子ノ売買ノ禁止ニ関スル国際条約」がそれぞれ採択された。さらにそれらの協定や条約を統合する形で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が1949年に国際連合によって採択され、1951年に発効した。 現在、フランスの社会史学派、アナール学派の研究によれば、売春は逆にキリスト教によって誕生したと論じている。本来、男女は対等であったが、キリスト教の「弱者である女性は、保護を行う男性の支配を受けなければならない」という教義から家父長制が強力になり、支配される性としての女性が誕生した、という考えである。[要出典] 日本 →詳細は「遊女」を参照 阿部定が最後に勤めた遊廓大正楼(兵庫県丹波篠山市) 万葉集に掲載されている歌の解釈から、この時代から日本でも売春は行われていたと考えられる。ただし、古代の記録に見られる売春は、都周辺に限られており、地方における実態は不明である。日本において職業としての売春が成立するのは、中世後期の室町期以降である。平安時代に至っても、さらには鎌��期においても、妻問婚がメインであり、貨幣経済と男性優位の家父長制や嫁取婚はいまだ浸透していなかった。平安時代と同じく母方の父が優位という執権政治の形態が続いていたことからも明らかである。座や町衆などによる市の支配の確立と、惣領制や嫁取婚が成立するまでは、職業としての売春は広がりを見せなかった。 売春は神道において、巫女によって行われたこともあった[9]。鎌倉時代には巫女を養っていた多くの神社や寺院が破綻し、生活の糧を求めて旅に出る巫女が現れ「歩き巫女」と呼ばれるようになった。巫女は主に宗教的なサービスを提供していたが、売春とも広く関係していた[9]。 安土桃山時代に豊臣秀吉が大坂道頓堀において、遊女を一箇所に集めた遊廓を作って以後、江戸時代でもこうした遊廓を設置した。特に吉原遊廓、島原遊廓、新町遊廓は三大遊廓と呼ばれるほどの隆盛を誇った。ただし、遊廓などではいまだ女性の「神」性視が行われ[独自研究?]、遊廓は非日常の空間であり、世俗の法律が通用しなかった。吉原の監督官としての武士も、武家出身者ではなく忍者出身者が行い、公儀とは距離を置いた[要出典]。江戸幕府は、江戸および関東八州については、公的に売春を認めつつ[注釈 3]、散在する遊女屋を特定地域に集合させ、1617年(元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、吉原遊廓とし、この他の地での売春を禁じた。この禁を破って売春がなされる場所を岡場所といい、その遊女らは、後任の吉原におけるものと異なり、私娼であって取り締まりの対象とされた。私娼は発覚・奉行所などに捕縛されると、新吉原で女郎として3ヵ年の年季奉公が科せられ(公事方御定書[11])、そのような女郎は「奴女郎」と呼ばれ最下級の扱いを受けた。このように、建前上は、吉原以外での売春は禁じられていたが、岡場所は江戸時代を通してところを変えながら存続し続けたし、特に、近郊の品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿など、近郊の宿場町の宿屋では、泊り客に飯盛女と称した私娼の斡旋を行っていた。 1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が施行され、赤線も廃止されソープランドとして残る(神戸福原) 明治維新以後もこのような遊廓は存在していたが、転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、大日本帝国政府はペルー船籍���汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約��無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。 この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止の声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された[12]。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。 また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により、日本の農山漁村から東アジア・東南アジアに渡航し、遊廓で働いた。こうした海外渡航した女性たちは「からゆきさん」と呼ばれた。このように世界への渡航を手配した、女衒として有名な人物に村岡伊平治がいる。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、日本の統治を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊廓は廃止されることになった[注釈 4]。 また、1955年(昭和32年)最高裁判所は、売春を前提とした前借金について『公序良俗に反するものであるとして無効』とする判例を確定させた[13]。さらに、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。 これら赤線地帯にあった店は、その後も小料理屋やトルコ風呂(現:ソープランド)などと名称を変え、管理売春や勧誘・斡旋などの売春助長行為ではなく、個人の自由意志での性行為の場所を提供する、という法令に抵触しない範囲で営業を行っている。なお、トルコ風呂の名称については、トルコ人留学生・ヌスレット・サンジャクリが厚生省(現:厚生労働省)に名称変更の訴えを起こし、名称がソープランドに変わった経緯がある[注釈 5]。 →詳細は「ソープランド § 改名問題」を参照 各国の概況
売春 - Wikipedia
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2025/02/12 BGM: United Future Organization - I LOVE MY BABY my baby loves jazz
���日は休みだった。今朝、いつもどおり英会話関係のZoomミーティングに顔を出しそこであれこれ英語を使ってやり取り。今日のテーマはある調査結果によって、誰かに対して好意を示し親切にすることがその当事者にとってもナイスな感情としてはね返ってくることがわかったという話で(まさに「情けは人のためならず」、もしくは「他力」の美徳と思った)、その調査結果をもとに日本人の心の中にありうる「おもてなし」の心というか「ホスピタリティ」の理想がどう示されているか、示されうるかについて話し合う。たとえばファーストフード店やコンビニエンスストアなどで働くサービス業の人たちの献身的な接客応対について……そこでぼくも悪乗りしてバレンタインデーの話をする。そうしたバレンタインデーもまた、誰かに(女性が女性に対して送る「友チョコ」や、自分自身にあげるチョコもふくめて)優しさを示すことになるのかなあ、という話をしたりする。
それで、そのZoomミーティングが終わったあとどうするかしばし考えた。というのは、ここさいきんこの日記でもあれこれ書いてきためまいはさすがに時間が経ったのと薬が効いたのかどうなのか、いずれにせよ前ほどはしつこくなくなったので、それはそれでありがたいと思う。でも、今日は雪がうっすら降っていたことに加えてなんだか頭のうしろを突かれるような軽い頭痛あり(これを書いているいまはおさまっている。天候不順や自律神経にさわることでなにか、そんなかたちで身体が悲鳴をあげたのかもしれない)、そして外に出てなにか創造的なことというか生産的なことをやろうという気力もなくて、それでけっきょく今日はもう完全休養に徹することに決めた。図書館で若松英輔『岡倉天心「茶の本」を読む』という本を借り、ローソンに行ってそこで弁当を買ったくらいであとはもうひたすら巣ごもりして過ごす。実は今日は町の人権推進課が主催する露の新治氏をはじめとする落語を鑑賞できるのイベントがあって、たのしみにしていたのだけどそれもキャンセルしてしまった。申し訳ありません。
午後、その弁当を食べた後にぼんやりとピーター・ガブリエルなどを聴きつつベッドで横になって、そして若松英輔の本を読み進めていく。思い起こせば去年だったか(たぶん晩春��ことだ)、英語研究会の席で参加者がくだんの岡倉天心の英語の文献『茶の本』を読む機会があった。さすがに岡倉天心の英語は古く手こずったものの、でもそこから見えてきたアジア文化(とくに茶道やその他の文化・風俗)をひろく欧米諸国に知らしめんとする天心の情熱にはこんなぼんくらなぼくであっても鬼気迫るものさえ感じ、感服さえさせられたことを思い出す。爾来、そんな感じで実に国際的な精神(マインド)を持って乱世を生き抜いた知識人たちに興味が湧いてきたりした。これまでそうした日本の知識人たちについてはなさけないことにノーマークだったので、これから読めれば読みたいとも思う。そこから、「いま」を生きている日本人、つまりこの愛すべき小さな島国で生まれ育ったアジア人の身としてどんなふうに世界と向き合うべきなのか考えられたらいいのかな、と思った。まあ、いつもの駄法螺みたいな話になるけれど。
ただ実を言うと、ぼくはこの日記でも書いてきたように根っからのひねくれもの・あまのじゃくなのでだから「1人はみんなのため、みんなは1人のため」的な理想をまったくもって信じられない。「カム・トゥゲザー(トゥゲザーしようぜ)」って言われても「そう言われてもなあ」としか思えないのだった。というのは、たぶんにまさにこのぼくという人間は少年時代や学生時代などにおいていじめられたりおみそにされたりした過去があって、むしろクラスメイトたちはこんなぼくをいじめることでまとまってさえいたようにさえ思うから、そこから「マジョリティ(多数派)はぼくのようなマイノリティ(少数派)をいじめることでこそまとまる」という偏見というか認知のゆがみ・ひずみが生まれたのかなと思うのだ。だから、そんな場ではぼくはまさに人間の皮をかぶったエイリアンだったというかなんというか(発達障害さえ抱えた、それこそ変な要素の「役満」状態というか。いや、麻雀はまったく知らないので用語の使用法を間違っていたらごめんなさい)。
それで、そんなトラウマに満ちた体験があるから自然とそんなふうにして多数派の人たちが「1つになろう」「一丸となって」と息巻いている時、その構図に対して「だが断る」「ほっといてくれ」「薄気味悪い」と思ってしまう性分が生まれたんじゃなかろうか、とも思う。もちろん、今朝方のミーティングの内容のおさらいをすると他人のためにぼくは時に協力的というか奉仕する姿勢を見せる(その「他人のため」がまわりまわって「自分のため」になる逆説めいた真理をもぼくはわがこととして理解できるつもりだ)。でも、それでもここにいるこのぼくがなにか大いなるものと合一を果たし1つになるという構図に対して「ちょっと待った」と言いたくなる気持ちがあることも事実だ。それはなんというか、はなはだ旧いものを引き合いに出してしまって恐縮だがそれこそ『新世紀エヴァンゲリオン』が示した自他の境界が溶けてなんだかわけがわからなくなるグロテスクな光景のようにしか見えない。もしくはそれこそ「八紘一宇」的な夢想でしかないんじゃないかな、とも。
ならば、人と人が溶け合って1つになる境地というか大いなる理想のもとに人が寄せ集まる崇高で宗教的な境地(まさに若松英輔の本が示さんとする境地、とぼくは読む。もちろん若松の本は幾重にも段階を踏み、実にていねいに議論を進めているのでぼくとしてももっと読み込まねばと思う)はどうとらえるべきなのか。それは夢想・妄想なのか。それとも、危険性をふまえてそれでもつながり合うことを目指すべきなのか。とかなんとか考え込んだりしつつ過ごした。ああ、なんだか休めたのかどうなのかよくわからない1日だった。いや、ムダと言えばムダな1日だったようだけど、でもムダに過ごしたからと言って自分をくよくよ責めたりするとますますサボりぐせが顔を出すとも言えるのだから、「終わり良ければ全て良し」「イージーゴーイング」でいいかなとも思った。
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中国で千年村をみつける
2019年中国雲南省調査
9/15-23に中国に調査旅行へ行ってきました。調査は雲南大学との共同で行われました。雲南大学との調査は今年で2年目です。今年は中谷先生を含め4名(中谷、余、蔡���齋藤)が参加しました。雲南省昆明の周辺で詳細な調査を行った3つの村落を含め、7つの村落を訪問しました。 昆明は雲南省の中心都市であり、滇池という大きな湖がつくる平野部分に立地しています。昆明の都市を中心にこの平野部(滇池バーツ*)では大規模な都市開発が現在でもすごい勢いで進められています。今回の調査では都市部の周縁や周辺部の地域で古くから持続していそうな村を調査しました。 *雲南省の総面積の9割以上が山地であり、残りの山間部や川沿いの平地は「バーツ」と呼ばれています。

本日は、研究室を卒業してから現在は行方市で地域おこし協力隊として活動している松木直人さんをお迎えして、調査内容を振り返りました。我々が調査で撮った写真を机の上に並べ、その中から松木さんに興味を持っ��ものを選んでいただき、そこから話を進めていきました。話題は調査で発見したことから始まり、中国と日本の村落の比較、さらには地域を研究する意義とは何か、というテーマにまで発展しました。ここではその様子を対談形式でお伝えします。
雲南での千年村調査とは
蔡(M2)、以下蔡)本日はよろしくお願いします。まずは今回の雲南調査についての概要を簡単に説明いたします。調査対象は雲南省の中心都市昆明というところで、滇池という大きな湖を持っています。 松木さん、以下松木)昆明には空港がありますよね。インド行くときなど乗り換えで使ったことが何回もあります。 齋藤(M1)、以下齋藤)雲南省は西南シルクロードと言われるようなルートが通っていたと言われ、昔から中国と東南アジアやインドへの交通の要衝でした。今でも空路を含め、交通的には重要な場所であるということですね。 蔡)調査目的の重要な一つとしては日本の千年村的手法が中国でも実現可能かどうかを試すことです。今回は滇池東側の呈貢区について古い文献からプロットしました。そして、水系図、地質図などを参照しながら、山、丘、低地という立地の幾つかの調査対象村落を選定しました。松木さん、まずはこのなかの写真から選んでいただき、自由な感想をください。

観光化が進む城子村
雲南省紅河州瀘西県永宁郷城子村

松木)この村は山を切り開いてつくっていますね。村の前の湿地帯の左側では稲作をやってますが、右側は庭園のようなになっておりまるでモンサンミッシェルのようです。なんでこんな状況が生まれたんでしょう。 蔡)この村は城子村という村です。昆明から車で3時間ほど離れた立地で、今回の調査の中では、先ほど述べた調査目的からは性格が違うものです。 齋藤)まず、湿地帯についてですが、かつてはすべて田んぼでした。庭園はなぜ造られたのかというと、この村はもともとはイ族という民族によってつくられた村でしたが、現在は政府による観光地化が進められています。それによって田んぼから庭園に変えられてしまいました。 蔡)つい10年ほど前は田んぼだったようです。 松木)観光地化によってどのような人が来るのでしょうか。 蔡)まだ計画中で完全にパブリックにはなっていません。家もボロボロの状態のものがあるので整備が必要で、リノベーションしてイ族文化体験施設や宿泊所にしようとしています。もとの住人たちは外に追い出されてしまうこともあるようです。 齋藤)建物のでき方はおもしろいです。屋根は陸屋根であり土で固められています。屋根にはパラペットのような仕組みがありました。ちょうど調査の終わりかけたときに雨が降り始めて、雨が日干し煉瓦の壁に直接当たらないようにする工夫も見ることができました。 蔡)観光化されたら、行ってみたいですか? 松木)はい。この写真みたいに家畜がいる風景がドラマチックですね。

齋藤)調査中、斜面のトウモロコシ畑を登っていると、急に奥からロバが現れびっくりしました。今でも斜面に入っていくにはロバなど家畜の力が必要です。 蔡)このあたりの田んぼの土は固いものであったこともあり、耕作���ための牛の働きも重要でした。 松木)機械化以前の世界では家畜の力を借りる必要がありますね。 齋藤)集落の中の道も狭いため車は入れません。荷台付きの二輪車でも切り返しができるポイントがないためか後ろ向きでギリギリ走っていくところを目撃しました。超絶テクニックがないと二輪者でも厳しいのです。 蔡)観光価値はあるが交通が不便な所にあるため、観光客は行きにくい状況にあります。 松木)観光化についてどう捉えるかですが、この場所で稲作の必要性が薄れているとしたら、昔のような生活の様式を維持していくのは難しいでしょう。建物を中心として考えるなら観光化はひとつの道というようにもいえます。大きな経済原理の中で考えると自然なこととかもしれません。
移住するのか?江尾村
雲南省呈貢区斗南街道江尾村

蔡)つづいてはこの写真ですね。 松木)不思議な集まりの様子ですね。青い布を頭に巻いていますね。 蔡)これは昔ながらの風俗です。今でもおばあちゃんたちは布を頭に着けています。この村は滇池のすぐ近くにある江尾村という村です。昔は漁業が盛んだったり、滇池の西側と交易するなど水運が栄えていました。ちなみに西側からは石が運ばれていました。 松木)このお年寄りたちはなぜ���まっているのでしょうか。 蔡)若者が少ないこの村は、やはり残っている人たちが寂しいのではないでしょうか。実は、この村は政府が滇池をまもるために、近年から近くに30階くらいの高層マンションを建てて住民を移住させる計画があります。高層マンションだとそこから農業を行うのは難しくなってしまう。高齢者たちにとっても外に出ることが大変不便になるでしょう。そうすれば、写真のような楽しい集まりも見えなくなってしまうかもしれませんね。また、残った空き家はどういう風に扱われるでしょうか。実は城子村ほどの独特と言えないですが、この村の古い住宅も面白かったですね。 齋藤)はい。日干しレンガの中に貝殻が含まれている壁を見つけました。原料となった泥に貝殻が含まれていたのです。新石器時代の地図を見ると、滇池の水岸線は全体的に現在よりも高い位置にありますが、この村があると思われる場所は湖にはりだす岬のような地形に立地していました。この時代に住んでいた人が貝を捨てでできた貝塚が、後の時代の人によって建築材料の原料の採取地として発見されたのだと考えられます。

松木)貝が含まれていると頑丈になるんでしょうか? 齋藤)その土地のそこにあった土にたまたま貝が含まれていただけかもしれません。そこに積極的な意味があったかどうかはわかりません。 蔡)住人は貝が含まれている方が頑丈なのではないかと言っていましたよ。 松木)私もヴァナキュラーな知恵があるのだと思います。ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』という本で、巨大な貝塚が時を経て発見され、それが石灰の原料の採掘所として有効に使われたという例が紹介されてます。昔の人が廃棄物として集めたものが後の時代の人にとっては恩恵になったという例です。この村ではそのような資源性を発見し、選択的に貝を含んだものを選んだ可能性も充分に考えられるでしょう。
ここは譲れない!斗南村
雲南省呈貢区斗南街道斗南村

蔡)開発と移住の話が出て来ましたので、江尾村と同様の立地の村落であるにも関わらず、違う道を歩いている斗南村もぜひ合わせて紹介したいと思います。江尾村は古い建物が残っているのに対して、斗南村は比較的新しい5階建て程度の建物が並んでいます。すぐ近くには高層ビルが建てられています。この村はすぐ周りが都市化されているのにも関わらず、ここはなぜ高層ビルが建てられないでいるのでしょうか。 松木)地域のコミュニティが強いからでしょうか? 齋藤)その通りだと思います。実はこの村落は我々がこの調査で最初に訪れた場所でした。村落というイメージからすると、新しい建物に変わってしまっているイメージを最初は持ちましたが、ある様子を見てそのイメージが変わりました。この建物は集会所のように使われているのですが、そこで結婚式をやっていました。結婚式ではほぼ村民全員を呼んで、食事をふるまっています。どういう流れか、我々もそこで食事を御馳走になることになりました。建物に入ってみるとその奥には多くの人が食事を楽しんでおり、ものすごい活気でした。これが村の建物の様子は変わっても、コミュニティはしっかりと維持されていると感じた理由です。

蔡)住人のコミュニティが強く地域経営がしっかりと維持されています。 松木)若い人が多いですね。この建物群が出来たくらいに育った世代なのではないでしょうか。日本でも団地が出来て住み始めた最初の世代は境遇が似ているので、つながりが強いというようなことがあったようです。ここでもそのような同時に住み始めたことによる強いつながりがあるかもしれませんね。 蔡)現在の問題で考えると、高層ビルでもこのコミュニティの強さは生まれるかということですね。中国ではこれからは高層ビルが日常になるという考えを持っている人は多いです。近年中国の建築家はこのなかでどのようにコミュニティができるかを考えている人が多いです。また、この村では周辺の土地は買収されてしまったのにも関わらず、他の県の土地を借りて花の栽培が続けられおり、家の一階ではパッケージが行われたりしています。やはり生業が続けられているということが重要だと思います。
復活の刘家营村
雲南省呈貢区吴家営街道刘家营村


蔡)続いては刘家营村ですね。刘家营は昆明の平野部から少し入り込んだ山間部の斜面に立地する村です。すぐ上流側にはダムがあります。実はかつての村は1950年代に建設されたダムの��に沈んでしまっていたのです。ダムに沈没後、各地に移動していた住人たちがやはり昔の集まりを懐かしんで、政府に願望を出しました。政府もちゃんと願望に応えたので、今の村は政府主導の下に、呈貢区の多数の村落の村民たちの協働によって、1960年代に計画的につくられた村落だったのです。 齋藤)確かに新しくつくられた村であるためか、山の中腹というちょっと不自然な立地に在りますよね。このような立地なので大きな開発はできないでしょう。また都市に近いので都市まで通勤することもできます。またその土地での生業としては観賞用の葉っぱが栽培されています。 蔡)8割の人が外へ通勤し、2割の人がこの土地での農業をやっています。夜になると、外で働いている方もちゃんと戻るため、この村は割と元気な感じがしますね。 齋藤)都市との距離という視点が重要ですね。 松木)多数の村落の村民たちの協働によってできたというのが面白いですね。写真ですと際立った特徴はわかりませんが、経済的安定がそれとなく感じられます。世代が降れば山を降りていくのか、都市化して広がっていくのか、これからの動きが気になりますね。
浙江省の高地の村落
浙江省金華市磐安県烏石村・横路村ほか

松木)次に、この別荘が気になりました。 蔡)実は、ここは雲南省ではないですね。おまけとして紹介いたします。 齋藤)我々は雲南をあとにし、上海を経由し、杭州から車で3時間の、浙江省の山奥の地域に向かいました。 蔡)ここは、農村のなかの高級別荘です。ディベロッパーは周りの伝統的な村を修復し、そこを観光価値として高めるだけでなく、その近くに別荘を建てて売るというように、これらを全体的にひとつのブランドとして計画しようとしています。 松木)集落を含めたブランディングというのが日本と大きく異なっており、面白いですね。住んでる側はたまったもんじゃないですが、地域に根付いた暮らしの形をフィクションとしてしか生き残らないものとして受け止め、残す方向を探るというのはとても現代的な価値観な気がします。


蔡)石でできた街並みの村を2つ訪問しました。ここは海でとれた塩を運ぶための道があり、そのために栄えた村落です。 齋藤)黒くて重たい石がびっしりと積まれている風景が印象的でした。石の家のでき方が気になりました。複数の家がまとまって一つの建物にアパートのように集住しています。通りに面する面は石積みの壁ですが、家の内部側は木造がむき出しになっています。なぜこのような形態になったのでしょうか。まず、通りに側のみを石の壁にしているのは防御のためだと考えられます。ひとつなぎにすることで石を積む作業が省略できますし、防御性も上がると思います。 松木)石の積み方に順番があるのがわかりますね。意匠性の高い積み方をしている部分と、無造作に積まれている部分などがあって面白いですね。崩れたりして増築したりした跡が見えます。
さいごに
蔡)この調査では色々な村���住まい方を見ることができました。建物が新しく変わっても、昔ながらの生活を維持しているところもありますし、古い建物を残すために生活様式を維持するのが難しい例などありました。
松木)生活の様式とその土地から生まれている状態は美しく感動的ですが、それがずれていっている。しかし、それがずれていった状態も積極的に捉えて、元地域の住民と外部の人間が共有される価値として定着していくといいです
一同)ありがとうございました!
2019.10.11 at中谷研究室
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覆される常識、日本美術の「独自性」は縮小していた 「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史の研究が進むにつれて、日本美術に関するさまざまな常識が塗り替えられつつある。西洋や中国に目を向けて日本美術を世界の中で位置づけて鑑賞すると、一体なにが見えてくるのか? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。(全2回・前編/JBpress) (※)本稿は『そのとき、西洋では──時代で比べる日本美術と西洋美術』(宮下規久朗著、小学館)の一部を抜粋・編集したものです。 ■ 多くの美術品が現存する幸運な国、日本 日本は各時代にすばらしい美術作品を生み出し、今でもそれらは世界じゅうの人々に親しまれている。しかも、それらの多くが遺(のこ)っている幸運な国である。 隣国の中国や朝鮮半島、あるいはベトナムの場合、相次ぐ戦乱や侵略のため、古い時代のものは遺っていないことが多く、時代によってはきわめて大きな欠落がある。そうした時代の美術は、文献資料やのちの模本から想像するしかない。これに対し外国の侵略をほとんど受けたことのないわが国は、戦災や天災で多少のものが失われたとはいえ、縄文時代以降、各時代の重要な作品のほとんどは現存しており、きちんと美術の流れをたどることができる。世界を見渡すと、そのような幸運な国のほうがめずらしいのである。 明治期に近代国家が成立すると、国家の伝統や歴史を見直す作業の一環として日本美術史というものが構想され、明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に際して日本最初の美術史と目される『稿本日本帝国美術略史』が編集された。以後、日本美術史は何度も書き換えられつつ徐々に精度を増し、部分的に更新され修正されることはあっても、そのストーリーの大枠はおおむね定着しているようにみえる。 ■ 「日本美術の特質」への問いかけ このような日本美術史を通覧し、現存する作品群を見ると、中国や西洋などさまざまな外来の美術に影響され、目まぐるしく変化してきたことがわかるが、同時にその底に流れる一貫した日本美術の特質というものが浮かび上がってくる。 たとえば和と漢、あるいは雅と俗という二面性が併存したかのよう見えるが、両者は複雑に融合していた。そして、中国や西洋の美術という外来文化の影響やそれに対する古来の様式という二項対立だけでは説明できない日本美術の独自性があると思われるのだ。 1925年、大著『サンドロ・ボッティチェルリ』をロンドンで出版して評価され、東西の美術について高い見識をもっていた美術史家の矢代幸雄(やしろ・ゆきお)氏は、著書『日本美術の特質』(1943年)において、日本美術の特質は、「印象性」「装飾性」「象徴性」「感傷性」の4つにあるとした。また、日本美術史の碩学、源豊宗(みなもと・とよむね)氏は、『日本美術の流れ』(1976年)で、西洋美術、中国美術、日本美術を象徴するモティーフをそれぞれ「ヴィーナス」「龍」「秋草」であるとした。日本美術を貫くのは、繊細な秋草の美学だというのである。 日本における中国美術の影響について先駆的な研究を遺した戸田禎佑(とだ・ていすけ)氏は、『日本美術の見方 中国美術との比戦による』(1997年)において、日本美術のもっとも重要な特質は「平面性」にあるとしている。 近年、『日本美術の歴史』(2005年)を書き下ろした辻惟雄(つじ・のぶお)氏は、日本美術の特質を、「かざり」「遊び」「アニミズム」という3つのキーワードで説明しようとした。日本美術にはつねに装飾性が見られ、遊戯性があり、自然崇拝の系譜があるというのである。また、東京大学で辻惟雄氏の後任であり、旺盛な活動を続けている美術史家、河野元昭(こうの・もとあき)氏は論文「日本美術の素性」(2010年)でこうした先学の見解を検証しつつ、日本美術の最大の特質は「シンプリシティー」にあると論じている。いずれの見解も傾聴に値するものであり、的を射ているように思われる。 ■ 縮小する「日本美術の独自性」 18世紀末から20世紀初頭にかけて流行したジャポニスムは、浮世絵を中心とした日本美術の絵画や工芸がフランスなど欧米の美術に作用し、日本美術が欧米の先進的な美術に影響を与えた稀有な現象であった。浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性は、西洋で伝統美術の様式を打破して新たな造形を生み出そうとしていた芸術家にとってタイムリーであったため、大きな刺激を与えることになった。しかし、皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を継承することはほとんどなかったのである。 また、これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら影響を与えたことはまったくなかった��� 12世紀初めの『宣和画譜(せんながふ)』に、徽宗(きそう)皇帝(在位1100~25年)の所蔵する日本の屏風3点について、「金碧(きんぺき)を多用」しているが、「真」に欠けると批判されている。中国や朝鮮の人々にとって、日本美術は中央様式の地方化したものとしか映らなかったのである。 明治以前の日本で、海外で活躍した美術家は知られておらず、中国・元で客死した禅僧画家黙庵(もくあん)やマカオに追放されたキリシタン画家ヤコブ丹羽(にわ)の活動がわずかに推測されるくらいである。 さらに、日本美術の独自性というのは、たまたま日本には中国や朝鮮半島よりも多くの美術作品が遺っているために、そう思われてしまう場合も多いのである。 たとえば、平安時代のやまと絵は、かつては遣唐使廃止による国風文化の産物だとされてきたが、中国美術史の研究が進んだ現在では、やまと絵とされるものの大半は失われた唐宋美術を反映したものであって、その特徴のほとんどは和様化とはいえないということが明らかになっている。截金(きりかね)を多用した繊細で工芸的な平安時代後期の美麗な仏画も、かつては日本化の極みだとされて賞賛されてきたが、じつは、ほとんどが失われた宋代の仏画の技法を模したものであるということもわかってきた。 近年ブームとなった若冲(じゃくちゅう)や蕭白(しょうはく)ら江戸中期の奇想派については、京都の成熟した町衆文化が生み出したものであっても、明(みん)代の奇想派や長崎の来舶清人(らいはくしんじん)の影響によるものも大きいということが指摘されている。 つまり、日本美術の独自性と呼べる要素は、美術史研究の進展とともにどんどん縮小していっているのである。日本美術を正しくとらえようとすれば、その独自性や美質などにこだわらず、東アジア文化圏を中心とする世界の中で位置づけて眺める必要があろう。 宮下 規久朗 JBPRESS 7/8(月) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=2 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190708-00056932-jbpressz-life&p=3 >「独自」とされてきた日本美術の表現は、実は日本特有のものではなかった──? 美術史家の宮下規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)が、 日本美術、西洋美術の見方のまったく新しいフレームワークを提唱する。 笑www この文章読んでいて、宮下 規久朗とかいう美術史の大センセーの、 自虐的なシナ事大主義的な独自性のないアホぶりがわかった。 この程度で大学教授なら、私にでもできそうな簡単なお仕事だなw この時代になっても相も変わらず、日本文化はシナ朝鮮より劣る的な、 或いは独創性はない的な、みたいなシナチョンスタンスの屁理屈を 大学のエラいセンセーがまことしやかに語っているのに笑った。 そもそも、世界のどの時代のどの文化においても、 完全無欠の民族の文化的オリジナル��どというものはない。 シナ文明も大陸の雑多な民族の文化的要素の集合体ではないか。 それを総称してシナ文明だの、エジプト文明だのと称しているだけである。 そしてその文化もまた他の様々な文化的要素と融合して発展し、 同時にまた、他の民族や地域の文化にも影響を与えるのである。 いわば文化文明は相互に影響しあって発展するものである。 それにこの宮下 規久朗とかいう神戸大学のセンセーって、 美術史が専門だそうだが、シナチョンに何か思い入れがあるのか? ちなみにこの宮下 規久朗センセーのツイッターはこんなの・・・ https://twitter.com/kikuroma 現在の大学にはこの手の人士が多いみたいですな・・・ この論評の■ 「日本美術の特質」への問いかけまでは、 いろいろな学者の日本美術の特質の紹介で、それぞれの説にも整合性があり、 またこれらの説のすべてがまた日本美術の特色ともいえるだろう。 問題はその次である・・・ ■ 縮小する「日本美術の独自性」って何なんだ? 宮下センセーの論文に通底しているのは・・・ 日本美術など所詮シナの物真似、 日本美術のオリジナリティなんて、 元々からないも同然なのだから、 特筆評価などする価値すらない、 ・・・ということらしい。
果たしてそうだろうか? >皮肉なことにその後の日本美術は、浮世絵のこうした造形的特徴を 継承することはほとんどなかったのである。 そうだろうか? 私は浮世絵に代表される日本美術はその後の日本人も立派に受け継ぎ、 欧米の美術界に対しても少なからぬ重要な影響を与えつつ、 その後の日本美術にもまた、それを逆輸入してきた経緯があると思う。 「浮世絵の大胆な構図や色彩、平面性」は現代日本画の世界においても、 日本のサブカルチュアを代表する漫画やアニメーションの表現においても、 グラフィックデザインの表現にも立派に受け継がれているではないか。 一応宮下センセーは明治以降の日本美術がジャポニズムと呼ばれ、 西欧の美術工芸界に大きな影響を与えた事は認めていらっしゃるが、 このことだけでも美術史における日本美術の価値は特筆に値する。 浮世絵に代表される日本美術がフランス・パリ万博からジャポニズムとして 全欧州に発信され、印象派(新印象派、後期印象派)やアールヌーヴォーが生まれ、 それがさらに発展してアメリカ現代美術に発展した経緯が美術史の流れである。 ジャポニズムがイズム=主義として表されている思想は無視できない。 それはシノワズリーという東洋趣味の流行とは大きく一線が引かれるべき、 いわば西欧美術思潮の一つのコンセプトでもあったからだ。

セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」 様々な角度から描いたヴィクトワール山の連作は、 北斎の富岳三十六景からインスパイアされたらしい。
ゴーギャン「マハナ・ノ・アトゥア」 この平面的な色面構成的な表現は浮世絵からの影響だ。

クリムト「接吻」
金箔を多用した大きな空間をとり単純化されたフォルム、 これも明らかに障壁画などの影響がうかがえる作品だ。
中でも西欧美術に影響を与えたのは江戸の町人文化だろう。 しかし宮下センセーはこれとてもシナ文化の影響にあるというが、 一部にそれらしきものがあっても、それがすべてではないと思う。 仮にシナの影響があったからといって、それが何だというのだ? シナの各王朝文化だって周辺の民族の様々な影響があったのだ。 先に述べたように、元来何の影響もなく発展した文化文明など皆無である。 北斎、広重、歌麿などの浮世絵師はもちろんのこと、尾形光琳の琳派系絵師、 伊藤若冲や丸山応挙などは現代美術を先取りしたコンセプトが確立していた。 立体造形でいえば安土桃山時代の織部好み陶器などはまさに現代美術だ。 以下に掲載した当時の巨匠たちの作品には、 現代美術の概念を先取りしたような先進性を感じるが、 宮下センセーのいうようなシナの影響下にあったがゆえに、 日本美術の独自性は縮小(ない)しているのだろうか?

尾形光琳「紅白梅図屏風」 川や梅の木を特徴を残して単純化させる意匠概念は、 のちに日本のデザインにも多大な影響を与えている。



伊藤若冲「鳥獣花木図屏風」 この絵は升目描きという、升目ごとに色をいれてモザイク画のように表現した。 現代風にいえばドット画像みたいなもので、このような手法は同時代にはない。 あえていえば新印象派のスーラの点描が近いが、概念が全く違う。

伊藤若冲「鶴図屏風」
墨をつかった白線描の作品。鶴の様々な姿態が単純化されたフォルムと
勢いある線の筆勢がいかされた、ある意味現代の漫画にも通じる作風だ。

丸山応挙「大瀑布図」 この絵は円満院というお寺の住職に贈られたものだが、この寺の庭に滝がなかったので、応挙はこの絵を庭木の枝に掛けて垂らし、下三分の一は地面に寝かせて滝つぼを表した。このような平面絵画を立体的に鑑賞するインスタレーション的手法はこの時代になかった。

丸山応挙「氷図」 湖面に張った氷のヒビを線一本のみで見事にあらわした傑作である。 無駄な要素を一切排除した究極の単純化で凍てつく寒さを表現している。


織部好み茶器 武将古田織部のプロデュースとでもいう「織部好み」の陶器は、「へうげもの」と称され、わざと歪めたフォルムや幾何学模様をあしらった伝統や形式にとらわれない実に現代的な表現だ。 ↑ これら一連の様式もすべて、 シナの模倣だというのか!? 以下はほとんど日本美術を腐すだけの屁理屈。 >これ以前、日本美術は、中国や朝鮮など近隣の国にすら 影響を与えたことはまったくなかった。 当たり前じゃないか(笑) そもそも・・・ 日本は江戸時代に265年も鎖国をしていた国なのだから、 明治以前に日本の文物そのものが諸外国に輸出されることもないし、 あってもごくわずか、だから影響も与えるものではなかった。 こんな事日本の歴史をみれば高校生でもわかる話だ。 しかしだからそれ何だというのだ? いったい宮下センセーは何が言いたいのだ? この人は文化は影響を与えれば、 「エライ」と思っているようである。 だから明治以前の日本美術はシナ朝鮮に影響を与えていないから、 シナ美術の物真似レベルの評価に値しないものといいたいのだ。 宮下センセーの「影響を与える、与えない」にこだわる意図は何なんだ? じゃあ、明治以降の日本美術は先進国の西欧に大いに影響を与えたから、 すご~く特筆大書すべき価値があって、西欧より優れているということか? そうではあるまい。上述したように「文化は相互の影響で発展するものだ。 どちらの文化は優秀とか劣っているという問題ではないのだ。 宮下センセーの御説はまるで朝鮮人が 「これはウリジナルニダ~♪」というのを思い出す。 ルネサンス期の西洋美術も西域のイスラム教文化や遠くは、 インドやシナの様式にも影響を受けてきたことは近年の研究、 特に田中英道東北大学名誉教授の研究で明らかになっている。 しかしルネサンス絵画がその後のシナ絵画に影響を与えなかった事は、 西欧絵画が明朝や清朝の絵画より劣っているという事なのだろうか? 宮下流のコンセプトで見れば、こういう事ではないのか? さらに首をかしげたくなるのはシナと朝鮮を同列に置いて語っている事だ。 朝鮮など千年以上も歴代シナ帝国の属国属領に過ぎなかった植民地だ。 こんな国にオリジナルがあろうはずがなく、自ら小中華と誇った事大主義国だ。 なぜ宮下センセーはシナと朝鮮を同等に置きたがるのだろうか? 所詮は事大主義のシナの劣化コピー版が朝鮮に過ぎないのである。 まさか小中華思想が日本より優れている?というのではあるまいな?
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東条英機の遺言
(全文)
昭和23年12月22日夜、死刑執行(12月23日零時)数時間前
https://blog-imgs-110.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/bde19052ab9af7da95a0fe28debbda80.jpg
開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。
天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。
元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。
今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。
天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。
東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。
今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。
現在の日本を事実��統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。
また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。
こんご日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに3年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。こんごのことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。
日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。
米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。
日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。
私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。
第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。
第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。
米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは���意に反するもので、行うべきではない。
なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。今や戦後3年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。
戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。
青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。
今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。
最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。
教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
以上が昭和23年12月22日夜、死刑執行(12月23日零時)数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が朗読した遺言の摘要である。
『秘録 東京裁判』清瀬一郎著(中央公論新社)
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Various Artists - Folk and Traditional Music of Asia for Children
(The Asia Cultural Centre Japan, 1975-1977)
知への探求は計り知れないもので、先人たちの残し��研究の記録には頭が下がるばかりである。音楽に関してリスペクトすべき多くの先人はいるが、私にとって小泉文夫は第一に想起する存在だ。日本における民族音楽の第一人者であった小泉は民族音楽研究に一生を捧げた。アノニマスな存在への探求はそれ自体骨が折れる行為だ。特に子どもが口ずさんで形成されるわらべ歌という予測不能で実態のないものに関してのリサーチの困難さといったら想像を絶するが、小泉は子供達の行為の観察や言語や風土など様々な現象から音楽の成り立ちを明らかにした。
1974年以降、公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター(以下、ACCU)による"アジア・太平洋地域音楽教材製作事業"の一環としてアジア17カ国のわらべ歌(代表的な伝統音楽や民族音楽の器楽、声楽曲)の保存プロジェクトとしての出版である。レコード3枚と解説書1冊を1箱に収め、3箱が出版された計9枚と3冊の記録は東京藝術大学の小泉文夫らのゼミが参画し、 ACCUの伊藤良二が中心に編纂された。なお1975年から77年にリリースされた3つのシリーズであるが、その性質上ここでは3作品をひとまとめの作品と捉えて論じる。
わらべ歌という性質上、少ない音の中で単調な反復や感情をシンプルに表現したものばかりであるため、触れること自体には難しいことはない。しかし、単一的に聞くこと自体にあまり意味はなさず、並列的に聴き進めていくことで東アジアの中の多種多様な形式、音を比較観察することができる。言語の発音に由来する独特のリズムや、同時に楽器(多くは弦楽器、打楽器、管楽器で占められている)の重要性を感じることができる。同時代の同地域を横断してみれるパッケージは、通して聴いていくうちに物理的距離を飛び越えてしまうようにアジアの共通意識のようなものを高めてくれる。
充実した本作は資料的価値が高く、好事家のコレクションとして埃をかぶってしまうには非常に惜しい作品である。最後にすこし変わった境遇を紹介しておこう。大手レコードレーベルであるキングレコードから出版された中村とうようと小泉文夫が共同監修した民族音楽シリーズなどとは事情が異なり、文化センターのパブリケーションということもあり主に教育・研究機関への補助教材として販売されたが、公刊されて市場に出ることがなかったため現場で活用される機会がほとんどなかったという(1)。ACCUではこれ以外にもアジアの音楽に関する���コードやテープ、書籍を出版しているものの、そのどれもが現在においてもなかなかリーチしづらい状況(2)である。
- note - (1) 福田裕美,加藤富美子 / 1960〜70年代のアジアの伝統芸能との出会い:民俗芸能公演と音楽教育の視点から(東京音楽大学 リポジトリ) (2) 以前、公益財団法人ユネスコ・アジア文化センターに問い合わせた際、販売はしてないが施設内の図書館でいくつかの作品を所蔵しており、事前予約をすれば作品に触れることは可能とのことだった。
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新しい日本へ 共産党ここに期待 神戸女学院大学名誉教授 内田樹さん 2021年9月28日【1面】
論理・知性 「かたくな」に 日本共産党に期待することはいくつかあります。せっかくだから他の人があまり言わなそうなことを書きます。
第一に「論理的であること」「知性的であること」にこだわり続ける政党であること。
今の日本社会は底の抜けたような反知性主義のうちに頽落(たいらく)しています。いくら嘘(うそ)をついても、デタラメを言っても、食言しても、政治家にとってまったくダメージにならないという時代がもう10年近く続いています。
日本共産党だけはこの俗情に結託しないで欲しい。嘘をつくと顔が赤くなる。論理的でない言葉を言おうとすると舌がこわばる。そういう「かたくな」な政党であって欲しい。そういう政党が一つくらいは必要です。
第二に世界史的な存在であること。
離合集散を繰り返す諸政党を見ていると、いったい彼らがどういう綱領的課題を実現したくて政治をしているのかがわからなくなります。
日本共産党はこの100年、コミュニズムの激動の歴史のただ中にあって、日本の特殊な歴史的条件下で、おのれの立ち位置を決定し、言語化し、国民の支持を求めるという困難な事業を担ってきました。
そのおかげもあって日本はマルクス主義研究と実践の蓄積においてアジア第一の「マルクス主義先進国」です。このことの世界史的重要性を忘れるべきではありません。歴史の風雪に耐え続けたこの政党が存在することは日本政治史を俯瞰(ふかん)するためにぜひとも必要だと私は思っています。
とりあえず以上二点を期待します。
(寄稿)
(しんぶん赤旗、2021年9月28日)
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「グロテスク」 の語源は、「洞窟」を意味するイタリア語「grotta」からきている。 西暦64年のローマ大火の後に皇帝ネロが建設を開始した「ドムス アウレア」という宮殿群が放置され地中に埋もれていたのが、15世紀末になって偶然発見された。1480年代あるいは1490年代にトンネルを掘って内部に侵入する試みが始まり、1490年代には画家たちが地下歩廊から各部屋の装飾を見学するようになった。その宮殿の壁面装飾模様をラファエロがバチカン宮殿回廊の内装に取り入れ、 これが地中の「洞窟」で発見された装飾様式であることから「グロテスク装飾」と呼ばれるようになった。ラファエロが復興させ、装飾体系として昇華させたことから「ラファエレスク文様」とも呼んだ。版画を通じて広まり、16世紀ヨーロッパの芸術上のレパートリーとなった。 人、動物、植物などをモチーフとし、自然法則や本来の大きさを無視して人から植物へ、さらには魚、動物へと連続して変化する奇妙な模様ではあるものの、似たような模様は中世にも見られた。ラファエロらルネサンス期の芸術家たちを驚かせたのは、古代ローマ人たちが、幻想的かつ形式ばらない軽快で優美な様式を採用していたということであり、古代ローマの人たちも自分たちと似たような感覚を持っていたのかもしれないということを垣間見ることができたことだった。 「グロテスク」という言葉は時間を遡って語義が拡張され、中世の装飾写本における、余白に装飾模様として描かれたキャラクターなどを指す「ドロルリー」も現代の用語ではグロテスクと呼ばれ、中世ヨーロッパの教会建築の装飾に見られる奇怪な生物の彫刻もグロテスクと呼ばれる。今日ではさらに、風変わりで歪んだ奇怪なことなどを指す総称的な形容詞としても使われる。 文学においては、共感と嫌悪感の双方を抱かせるような人物が「グロテスク」であると通常考えられ、 ヴィクトル ユーゴーの『 ノートルダム ド パリ (ノートルダムの傴僂男)』(1831年)は、文学で最も有名なグロテスクの一つとされる。
時代区分として、中世は、西ローマ帝国が滅亡した476年あたりに始まるとされる。 中世後期、1300年頃のフィレンツェ共和国では、教皇派と皇帝派が争い、教皇派が辛くも勝利するものの、自治政策を掲げる富裕市民層の支持からなる白党(ビアンキ)と、教皇に深く結びつこうとする封建貴族の支持からなる黒党(ネーリ)との内部対立から真っ二つに割れた。当初、白党が政権を握ったものの、翌年の1301年には黒党が政変を起こして実権を握った。白党から選出された三人の統領(プリオーレ)の一人であったダンテ アレギエーリは、フィレンツェ共和国を追放された。流浪をしながら「喜劇」と題した詩を書き続け、それが書き上がった1321年に亡くなった。その詩は後に「神聖喜劇」『神曲』と呼ばれるようになった。
1326年、フィレンツェで大砲が開発される。
ダンテと同じく白党に属しフィレンツェを追放されたセル ペトラッコの息子であるフランチェスコ ペトラルカは、中世にはだいぶん形の崩れていたラテン語を古代ローマの古典的形式になら��て純正化することを考え、各地を旅して古代の写本を研究し、詩作した。これが人文主義の始まりとされ、ペトラルカは人文主義の父と呼ばれる。
1431年、バーゼル公会議が教皇派と公会議派に分裂し、教皇派らはイタリアに移転し、1438年、フェラーラ公会議が開催される。しかし、フェラーラでは財政的な困難や疫病の流行という事態に直面したため、教皇庁の金融を担当していたコジモ デ メディチの申し出を受けて、1439年に公会議はフィレンツェに移転した。こうしてビザンツ皇帝や東方教会の聖職者たちがフィレンツェを訪れた。この公会議開催によってメディチ家は、教皇庁での地位を強化し、フィレンツェ共和国の実質的な統治者となった。 これらの公会議では、主に東方正教会とローマ カトリック教会の再合同について議論された。 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、オスマン帝国からの圧力を受けて、西ヨーロッパ諸国からの支援を求めていた。ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは、東西融和の一環として東西教会の分裂の収集を提案した。 しかし合同の実現は果たせなかった。 1453年、オスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国は滅亡した。 通常、この東ローマ帝国の滅亡をもって中世の終わり、近世の始まりとされる。
コジモが基礎を作った学芸サークルであるプラトンアカデミーには多くの人文主義者が集い、東ローマ帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって伝えられたギリシア語の文献のラテン語への翻訳や研究、討論などが行われた。 この「ネオプラトニズム(新プラトン主義)」と、ルネサンスという時代は、コジモの孫ロレンツォによって最盛期を迎える。そしてフィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。 1481年、プラトンアカデミーに集まった人文主義者の一人であるクリストフォロ ランディーノが『ダンテ『神曲』註解』を出版し、そのための挿絵をボッティチェリがメディチ家により依頼されて描いたと言われる。 ランディーノのこの著作を、ダ ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロらも読んだと言われ、ミケランジェロはダンテに捧げる詩を詠んだ。 彼らは、『神曲』はネオプラトニズムのさきがけで、フィレンツェの文化的アイデンティティの象徴と目した。これは『神曲』をフィレンツェという都市国家の文化的覇権を内外に示すためのアイコンとした、メディチ家による‛国家的事業‛となった。 ロレンツォは、『神曲』で使われたのと同様の俗語、すなわち現在のイタリア語の基となった言葉で詩作もし、フィレンツェで広く歌われたと言われる。 ロレンツォは、各勢力が乱立するイタリアのバランサーとして外交手腕を発揮した。その外交の特徴は勢力均衡と現状の維持だった。彼はフィレンツェの主要な美術家を、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノに積極的に派遣した。これはロレンツォの外交政策の一端だった。これにより、フィレンツェのルネサンス美術は、イタリア中に広まったと言える。 一時的であったとはいえ、イタリア諸国家間の勢力の均衡を保たせることに成功し、フィレンツェのフローリン金貨はヨーロッパの貿易の基準通貨となり、フィレンツェの商業は世界を支配した。
「フィレンツェ」は、古代ローマ時代に花の神フローラの町としてフローレンティアと名付けられたことが語源とされる。直接の起源は紀元前59年、執政官カエサルによって退役軍人への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。そのため、フィレンツェには古来より創世神話として、カエサルがこの市を作ったという伝承があった。 「第二のローマ」、すなわち古代ローマの後継者としての地位とアイデンティティを確立しようという理想は、東ローマ帝国の滅亡によって刺激され、ルネサンス(再興)という名を持って花開き、世界史の転換点を飾った。 ラテン語のエピック『アエネーイス』を書いた古代ローマの詩人ウェルギリウスとともに地獄と煉獄を遍歴したダンテの『神曲』はイタリア語のエピックとなった。
1492年、 ロレンツォが亡くなり、長男のピエロがメディチ家当主となるが、1494年、フランス軍の侵攻にあってその対処を誤り、市民の怒りを買い、メディチ家はフィレンツェを追放される。 その後、かねてからメディチ家による実質的な独裁とフィレンツェの腐敗を激しく批判していたサンマルコ修道院の修道院長サヴォナローラが共和国の政治顧問となり、以降、神権政治が行われる。サヴォナローラは次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世から破門される。 同年、サヴォナローラの支持者たちにより、「虚飾の罪」またはその罪を犯す可能性のあるものとされた化粧品や装飾品、不道徳とみなされる本や美術品などを、 シニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われた。市民生活は殺伐としたものになり、不満も高まっていた。1498年、サンマルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。サヴォナローラは、教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処された。 その後のソデリーニ政権下で1498年に第2書記局長に選出されたマキャヴェッリは、国民軍の創設を計画し実現させたが、国民軍は期待された成果を挙げることなく、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第2書記局長の職を解かれた。1513年、(ロレンツォの次男)ジョヴァンニ デ メディチ新政権下起こったボスコリ事件に加わった容疑で、マキャヴェッリは指名手配され、実際には加担していなかったと言われるが、自ら出頭して逮捕された。一か月後に、 ジョヴァンニが教皇に選出されたことにより、大赦で釈放された。ジョヴァンニは ローマ教皇レオ10世となった後はフィレンツェを弟のジュリアーノ(ロレンツォの三男)に任せた。 1516年に急逝したジュリアーノの後任に 甥のロレンツォ2世(ピエロの長男)が就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられ、 謁見の場で『君主論』が献上されたと言われる。
ミケランジェロの代表作「ダビデ像」は、1504年にフィレンツェの共和制のシンボルとして造られたが、その頃にはルネサンスはフィレンツェを離れていた。
東ローマ帝国の滅亡により、シルクロードの要であったコンスタンティノープルが失われ、その後制限が加えられたことから、ヨーロッパではコンスタンティノープルを経由しないルート開拓として大航海時代が始まった。 ジェノヴァ、ヴェネツィア等の地中海貿易で栄えていた都市国家は、その権益をオスマン帝国に奪われる事になり、一地方都市へと転落して行くこととなる。航海士達の多くは、スペインやポルトガル等のイベリア半島の新興国家に移り、大航海時代に大活躍をする。 ジェノヴァ出身のクリストファーコロンブスが、1492年、スペインの援助を受けて大西洋を航海し、「新大陸」に上陸する。コロンブスは自身が上陸したのはインドだと誤認しており、新大陸を発見したとは認識していなかった。 フィレンツェ共和国のメディチ本家と分家の両方に仕えたヴェスプッチ家のアメリゴ ヴェスプッチは、1497年から1502年まで3度(2度という説もある)にわたってスペイン、ポルトガルの船に同乗して大西洋を横断し、1503年頃、調査の結果をまとめた『新世界』を刊行。 この中で、大西洋を横断した先にあるのはアジアではなく、全く異なる新大陸であることを指摘した。当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は南米大陸についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア、アフリカ、ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではないものの、人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられた。 1507年、南ドイツの地理学者マルティン ヴァルトゼーミュラーがアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』を出版した。その付録の世界地図にアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形からこの新大陸にアメリカという名前が付いた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。
2021年7月 塔と星
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『我ら敬愛してやまない張さんへ』
「一つの民族には、一握りの星を仰ぎ見る人の存在は必要だ。私たちはその一握りの人になりましょう」。「一つやり遂げること」・・・張さんの言葉を永遠と忘れない。モヤモヤする日本社会の中、奔流の旅は夜空に微かに見える天川のようです。
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今回の旅行で、私は毎日の自分の生活の中で足りなかった何か、忘れていた何かが得られるような気がして、以前から参加したかったです。
それが叶って、今、中国に来てみんなと過ごした日々は忘れられない宝物です。汽車の中でのおしゃべりや、草原の中でパオを造った事、みんなで歌を歌っている中で、当初抱いていた不安はすぐになくなりました。草原の中にいて、空を見上げて、私は大地の自然の一部で、地球に生きているのだと実感しました。私の存在は本当に小さく、できることも小さいけれども、確かに生きていて自然の中にいるのだと思いました。
私の夢はガン等の病気の原因を探って、薬や手術法を発見したり、研究したりすることです。その夢に向かって精一杯がんばりたいです。
自分の夢に正直な張さんの姿勢がとても好きです。この旅行に参加できてとても嬉しいし良かったと思いました。
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張さん、貴重な旅をどうもありがとうございました。
50人もの学生を率いていくのは、体力的にも精神的にも大変だったでしょう。お疲れさまです。
バスの中での話も、砂漠の後での話も、いろいろ考えさせられて来て良かったと思います。張さんは「自分自身の幸福の追求」と「他人や社会への貢献」が一致しているところがすごいと思います。自分のしたいことが明確でもあるのだと思います。
正直言って、僕にはまだ具体的に将来やりたいことはありませんが、せっかく生まれてきて一度しかない人生なのだから、本当にやりたいことを見つけてやろうと思っています。とりあえず今何ができるかと言うことから考えていきます。それではお元気で。
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今回の旅行では、張さんに感謝をいくらしても足りません。この旅行の企画から始まり、旅行の手配など細かいことまで、本当にお世話になりました。感謝の言葉はいくら書いても書ききれないので、ここで僕の将来のビジョンを書きたいと思います。
僕は昔からジャンルを問わず音楽が好きで、今も楽器をやっています。今回の旅行でも国境のない音楽の重要さ、楽しさを確認しました。だから、これから就職などでも音楽に触れていくのが夢です。
追伸;電車の中で語った安田君の話や、張さんの彼女の話、楽しかったです。
是非今度、自由が丘を案内してください。
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3週間弱本当にお疲れさまでした。そして本当に謝謝です。
バスの中での張さんのお話は今でも胸に残っています。私は高校生の頃からどうしてもモンゴルに行きたいと思い続けて、この旅行過程にモンゴルが含まれているという理由だけでこのツアーに参加しました。
しかし今振り返ってみると、どこへ旅するかということも重要ですが、誰とどうやって旅するかということの方が、さらに重要だということに気づきました。このツァーで出会えた人は本当にみんなすてきな人たちばかりです。この人たちと出会わせてくれた張さんに感謝します。この長い旅の中で私自身の目も心も洗えた要に思います。あの雄大な草原に負けないくらいの器の大きな人間になろうと思います。
最後に張さん本当にありがとうございました。
またいつか会えることを楽しみにしています。
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今回の旅行で、私は毎日の自分の生活の中で足りなかった何か、忘れていた何かが得られるような気がして、以前から参加したかったです。
それが叶って、今、中国に来てみんなと過ごした日々は忘れられない宝物です。汽車の中でのおしゃべりや、草原の中でパオを造った事、みんなで歌を歌っている中で、当初抱いていた不安はすぐになくなりました。草原の中にいて、空を見上げて、私は大地の自然の一部で、地球に生きているのだと実感しました。私の存在は本当に小さく、できることも小さいけれども、確かに生きていて自然の中にいるのだと思いました。
私の夢はガン等の病気の原因を探って、薬や手術法を発見したり、研究したりすることです。その夢に向かって精一杯がんばりたいです。
自分の夢に正直な張さんの姿勢がとても好きです。この旅行に参加できてとても嬉しいし良かったと思いました。
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今の自分が成長していくためには、いろいろな人に出会うということが何よりも大切なことだということが分かりました。旅をして知り合った人から影響を受けることが私の旅行のテーマです。今回参加して、涙が出るくらいにみんなに会えて嬉しいです。この旅で自分がどんどんいい方向へ成長しているのが分かりました。
すべての人が個性的で味があってすてきだと思います。この旅で人の写真をたくさん撮りました。これからも撮り続けていきたいです。そしてもう一つ、私の作った洋服などをたくさんの人に着てほしいと思です。
張さんも見守っていて下さい。
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『奔流中国ワルツ』
作詞・作曲 :
あなたのリードで 島田もゆれる
芸者ワルツは 思い出ワルツ
船がゆれて 胃袋狂う
酔い止め飲んでも 楽じゃない
来るんじゃなかった 中国大陸
これが苦労のはじめでしょうか
怪しい店が 立ち並ぶ
洒落じゃ済まない ボッタクリ
来るんじゃなかった 奔流中国
これが苦労の続きでしょうか
空に太陽 下したお腹
草原トイレは もう勘弁
来るんじゃなかった 奔流中国
これが私の生き様なのか
朝の日射しに 目も覚める
今じゃ落馬も 怖くない
参加して良かった 奔流中国
これが私の生き甲斐なのさ
贈歌 -草原にて詠める-
行く道は 違えど空は 異ならず 永遠に留むる 我が志
いろいろ大変お世話になりました。お疲れさまです。
僕も張さんの様にビッグになります。
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張さんに会えて本当に良かったです。
考えさせられることが、いろいろありました。
張さんのバスの中での話は、すごく感動しました。
張さんのすごく熱い想いが伝わって、ドキドキしました。
この話を聞いただけでも、この旅行に参加して良かったと、本当に思いました。
何か一つをやりとげること。
言葉では上手く言えないけれども、胸が熱くなりました。
張さんのことは絶対に忘れない。
がんばります。
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音楽は僕のライフワークです。曲を作ることや歌うことは、自分の中のものを自然に出すこと。
だからいい曲を作るためには、常に自分をグレードアップさせなければならない。
それはかなり厳しい世界です。
今回この旅行に参加したのも、曲を作る自分をグレードアップさせるためでした。
そして、その目的は達成されそうです。いや、されたと思う。
これから、どんどんいい曲を作って、プロという厳しい世界で僕の音楽を表現していきますので、期待していてください。
どうもいろいろありがとうございました。
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この11日間、時間を守らない無法者たちの引率は、さぞかし気苦労が絶えなかったことでしょう。本当にお疲れさまでした。
この旅を通して僕らが得たものは3つあります。1つめは広大な大地に暮らす人々の今も昔も変わらない生命力を肌で感じることができたことです。内モンゴルで代々受け継がれている伝統の技や文化を目の当たりにしたとき、上海で街の路地裏に生きる人々のたくましさを見たとき、自分が日本の文化を何も知らないこと、ハングリーさに欠けていることを強く感じました。
2つめは、遙か遠くまで続く大地の雄大さをこの目で確かめることができたことです。地平線に囲まれながら、大草原の真ん中に寝転がって透き通るような一面の青空を眺めていると、自分がこの大地の一部になってしまったように錯覚しました。そして人間は多くの生き物たちに支えられて生きていることを常に心に留めておかなければと思いました。
3つめは、たくさんの新たな友人たちと、張宇という1人の中国人と出会えたことです。僕らはほんの数日前に知り合ったばかりだというのに、いつの間にかこの貴重な旅の思い出を共有するかけがえのない友達になることができました。もう少しすればみんな離ればなれになり、それぞれの生活に戻っていきます。中にはもう2度と会うことのない人がいるかも知れません。たとえ再びみんなが集まる機会があったとしても、この旅で得た感動をもう一度味わうことはできないでしょう。今の僕ら出会ったからこそ、感じ取ることができたものだと思います。もしかしたら、年を取っていく度に記憶もおぼろげになり,いつかは消えてしまうかもしれません。
それでもこの旅を通じて張さんから受け継いだ奔流中国の精神は、必ずや僕らの人生に影響していくはずです。今年の春に偶然奔流中国のポスターが目にとまったことは幸運でした。最後間で僕らをサポートしてくれた旅行会社の方々に感謝します。そして何よりもこの旅を僕に勧めてくれた張さんに感謝します。張さんの夢がいつか実現してくれることを心から祈っています。
張宇よ!荒野を目指せ!
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私はこの旅に参加して本当に心から良かったと本当に思っています。
期待以上というか、参加した理由は、毎日の学生生活に単調を感じ何かしたい、どこかへ行きたいと思ってポスターをみて、これだと思いました。とにかく自然の雄大さを身をもって感じたかったからです。モンゴルは中学生暗いからすごく気になっていたのでだいたいの予想はつきました。
海外ははじめてなので不安で一杯でしたが、周りの人も話すととても気持ちの良い人で希望の旅となりました。よくありがちかもしれませんが、満天の星、安まる風、どれも感動しました。船で向かうときは、まるで冒険に行くようでした。ずーっと波を見て全てを忘れました。海はこんなに広かったのかと改めて思いました。
���上海に着いたら目を見張るものばかりでしたが、本当に心に深く刻まれたのは、やはりモンゴルの草原でした。美しい花や草が風に揺れ、自動車の音もしない、馬の足音と、虫の声だけが聞こえる草原にいると心から日本に帰りたくないと感じました。
馬に乗るのもはじめてだったけど、心地良く、楽しくてまだまだ乗っていたいと思いました。
馬頭琴や歌、踊り全てが忘れていた何かを思い出させてくれた様な気がします。日本では人の目ばかりが気になって、自分の判断で行動していなかったのだということに気づきました。モンゴルではみんなが素直に生きていると感じました。
でもすごいステキな空と大地と馬と生きる人々は、贅沢だと思いました。
張さんのバスの中での話で、張さんはすごいと思います。私は、好きなこと、楽しいこと、やりたいことをやって生きていきたいと思っているだけで単純だし、自分の襲来のこともボワーンとしか浮かんできません。何かやりたいと思っているだけで動かないし動けない、このままでは終わりたくないけど張さんの言葉に勇気づけら玲、私のペ-スでやれること、ちっぽけかもしれないけどがんばっていこうと思います。何かちっぽけでも私なりに生きてみようと思います。私は椎名誠さんが大好きで、ああいう生き方もしてみたいと思います。多摩川で遊びましょう。
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普通の旅行よりもずっと自由な感じで、とても楽しかったです。
張さんにもいろいろ大きな夢があるようですが、私も大学三年で考えることもありました。
この旅行で始めてであった沢山の人と話をしたり、初めての地で様々なものや人を見たりして、私も少し大胆になったと思います。自分のやりたいことはまだたくさんあって、選びきるのはまだ大変そうですが、大胆に未来を行きたいとおもいます。
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このツアーに参加して本当に良かったです。張さんは来年海外に行くようなので、しばらく奔流中国はお休みするようですね。
また再開するときは、声を掛けて下さい。説明会のお手伝いだったら、私がしても迷惑かけない自信があります。
私は今、京都大学農学部の2回生で、将来は大学院に進学して、その後公的機関で研究員になりたいと漠然と考えています。
張さんも志を高く持ち続けてください。ではまた会う日まで。
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旅行が始まるまでは不安と期待で一杯でしたが、今は満足感で一杯です。
この旅行に参加し、多くの人々に出会い、沢山の新しい経験をしたことによって、考えさせられることが多々ありました。
日本に帰ってからも、この旅行で受けた刺激を忘れずに、自分の人生に役立てていきたいです。
またいつか機会があったら、大草原で乗馬をしてみたいです。大きな空、果てしない海、そして広い大地は、私の中に大きな感動と希望とを与えてくれたように思います。
張さんのお話も印象的でした。この旅行を企画するにあたって、大変な事もあったと思いますが、おかげさまで一生の思い出に残るような良い旅をすることが出来ました。
本当にありがとうございました。そして、これからも様々な場面で活躍して下さい。
Live the life you love.
Love the life you live.
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馬が好きな人はみんないい人だと思っています。
今回の旅行の参加者たちも、いい人たちばかりでした。
私もさらに馬が好きになり、ついでにロバも好きになりました。
これからもっと乗馬を練習して張さんぐらい上手くなりたいです。
とりあえずこれが私の今の目標です。
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この旅で感じたことを少し書きたいと思う。
モンゴル人の人、中国人の人、張さん、ゴウさん、みんなからいろいろなことを学んだ。
自分(自民族)ができること、他人(他民族)ができるけれども自分(自民族)に出来ないことがあることを感じた。各民族、各地域の文化が存在することは大切さ、すばらしさを感じた。素晴らしい仲間ができた。これは私の宝である。これからも大切にしていきたい。
モンゴルを見ることができた。例えばモンゴル相撲をしたとき、こっちは遊び半分で気軽にやっていたが、彼らはそうではなく、プライドとか、メンツとかがかかった真剣勝負としてやっていたようで、何かただならぬものを感じた。そして相撲の後の喧嘩のやり方(周りの人が止めなければ、どっちかが大けがをするまでやりそうであった)とその理由。このあたりに“蒼き狼”を垣間見たような気がした。
この旅は本当に素晴らしい。参加できたことを幸せに思う。一生大切にしたい。自分の勝手なわがままであるが、こんな思いを一人でも多くの人に感じてもらいたいので、是非再開してもらいたいと思う。そのときはぜひ誘ってください。
最後になりましたが、本当にご苦労さまでした。私たちには見えない苦労もたくさんあったと思います。ありがとうございました。
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東京で、大学で勉強したり、遊んだりしている毎日は確かにとても楽しいです。でも私は、あの人の多さ、ものの多さ、情報の多さのために時々ものすごく疲れてしまいます。そんなときに部屋に一人でいると、涙がでてきます。それで余計なものなど何もない、ただ純粋に生きる草原の地モンゴルへ行きたいと思いました。
だだっ広い草原で、満天の星空の下でトイレをした自分を大切にしたいです。
夢や将来やりたいことはたくさんあるけれども、焦らず一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。
何もない草原に、ただ響くのは、友の歌声、そして笑い声。
奔流中国があってよかった。
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― 伊藤哉子から張宇大兄への志の高い手紙 (東京農工大学)
張さん、お疲れさまでございました。この旅行は張さんの個性がよく表れ、大変おもしろく本当に様々に思うことがございます。
私は将来モンゴル国に旅行して、命の洗濯をするか、寝る間を惜しんで働いているかのどちらかです。夢は私のかわいい伴侶と、面白おかしく暮らすこと、いつまでも日本人ら
しく慎ましく生きることでございます。
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― 双子の兄の訓平より (多摩美術大学)
・壮大なモンゴルへ
・すばらしい友に
-そして-
・今、モンゴルで一番輝いている張さんへ 乾杯
砂漠での乗馬、張さんと走れて本当に楽しかった。
いつかまた一緒に広野を走りましょう!!
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この旅行中ずっとお世話になりっぱなしでした。ありがとうございました。
個人旅行では味わえない旅の醍醐味も知りました。
日本を離れてみて、大草原の中で改めて客観的に自分を見直しました。
まず第一に思ったのはまだまだ勉強不足で修行が足りないということでした。将来のビジョンは明確でないけれど、今できること、やらねばならないことを考えました。
私はホテルで英語が通じなかったことがショックでした。だからまず語学に力を入れたいと思います。こんな風に旅行したりできるのも大学生活でだけだけれども、勉強できるのも今だけだから。
上手くまとまらないけれども、これが今回私の感じたことです。
本当にありがとうございました。再見!
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昨日はいろいろ、この旅に関する感想や将来の夢、この旅に関する思いなどを聴かせていただき、とても考えさせられ、共感しました。
文化というものは、私も違う方がいいと思います。それは違うものだからこそ魅力的で、こういった旅行に行きたいと思うのです。だから私も日本について自信を持って紹介したり好きだと言えるように、少しずつ勉強しています。万葉集や神道についての本を読んだり、寺や神社を回っています。由来とかも面白いです。自分を好きになるには、自分の住む地域の、そして国の文化を好きになることだと思うのです。
また多趣味になろうと思います。しょっちゅう博物館や美術館に行ってみたりしています。
また心理学にも興味があるので授業でやってみたりしています。
将来に対する明確なビジョンはまだ立てられないけれど、選択の幅が広がっていると信じています。
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日本を出発してからずっと、まるで初めて見る映画を2倍速で見ているようです。
そんな旅の大黒柱である張さん!
バスの中で聞かせてくれた話は、やる気と自信に満ちていました。
旅の柱が太くてしっかりしているからこそ、みんな安心して楽しめるのだなぁと感じました。
星!大草原!馬!羊!大地に生きる!
大きな感動をもってこのことを実感しました。
この感動をもっと多くの人に味わってほしい!そんな気持ちで一杯です。是非またすぐに…。
最後になりましたが、楽しい旅をありがとう。たくさんの思い出をありがとう。
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今回の旅の企画、引率お疲れさまでした。
私も米国留学後、起業したいと考えています。
日中を舞台にしたプロジェクトでいつの日か一緒に仕事ができたらと、思います
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「士、別れて三日、 目して相待つべし」
またお会いする日まで
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僕は大学一年の春からずっと、弁護士になるための勉強をしてきました。そのためサークル活動などが制限されるのもしょっちゅうでした。しかし同じことをずうっとしていると飽きてしまいます。
だから、時折暇をみて小説を書いたりもしましたが、それでもストレスがたまってしまいました。そこで今まででは考えつかないぐらい大きな休みを取って遊んでみたいと思って、この企画に参加しました。
ここはもう別天地でした。青い天と乾いた大地がどこまでも広がり、そして何よりも大勢の仲間ができ、今までの疲れの全てを癒せました。
張さんは本当に無私にこの企画を遂行してくれました。本当にどうもありがとうございました。
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私は今回のツァーに参加して、たくさんの素晴らしい友達に会うことができました。一期一会を大切に、いつも好機はあふれている、と前向きにゆきたいです。張さんに会って、自分の夢を大切に、それに向かってあきらめることなく努力を続ける大切さを改めて知りました。
私の夢は、海の資源を有効に半永遠的に使い続けるための監視機関を作ることです。張さんもいつまでの張さんでいてください。私も私なりにこれからも努力していきたいと思います。
追伸:Bigになってください。
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私はこの旅に参加することができて本当に良かったと思います。旅に出ていろいろ考えてみようと思っていました。そして実際、多くの経験をする中で、考えさせられることが多かった。それだけで十分です。
心に残る旅になりました。
張さんの心の中にも、私という存在が残りますように。そろそろ覚えてください。
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ありがとう張さん
今回の旅で大地の素晴らしさを強く感じました。大地では様々な生命の交わる場所であり、時は緩やかに流れ、生きている実感と生命の強さを感じました。
人間も動物なんだ。謝謝。大地に生きる!
もう一つ感じたのが、人間の交流です。言葉が伝わらないためとて���大変でした。でも何とか言っていることが分かるようになってくるととても嬉しい。生活している場所も環境も言葉も違うのに、心はみんな同じなんだと感じました。
正直言って今回の旅は感激の嵐だった。この旅をきっかけにもっと広い視野を持っていきたいです。本当にありがとう。
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草原にいる時間は短かったです。毎日楽しくて、今この出来事が将来どういう思い出になるか分からないけど、自分の中ですごく大きいと思う。
モンゴルの空が広いだとか星がきれいだとかは、テレビなどで知っていたので想像はついていたけれど、やはり本物の空間にいる自分って特別だと思いました。
この旅を通して出会ったみんなは、張さんも含めてなぜか初めて会った気がしないんです。草原でそういう話をしていたんですよ。人と人との出会いって、偶然じゃなくて似たようなもの同士が引きつけあったり、例えば生まれ変わってもまた会ってしまったりするとか。本当かどうか分からないけどこうやって会えたみんなと、通り過ぎる出会いにしたくないってすごく思います。
張さんはこの前、列車の中で自由が丘を案内してくれるって約束したこと覚えていますか?みんな(あのときのメンバー)はとても楽しみにしています。あまりみんなにばらすと大変なので、秘密にしているくらいなのです。私もすごく楽しみにしているので絶対約束ですよ。
あと、ムサビのテニスコートにも行ってみます。通いつめてくださいね。
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モンゴルに行ってすごく思ったことは、一人で立てるヒトになりたいということ。この旅行に来ている人は皆気持ちのいい人ばかりで、一緒に生活しているとハッとさせられることが多い。それらを吸収して私ももっと大きい人間になりたい。この旅行に来て本当に良かった。
この旅行を計画してくれた張さんに本当に感謝します。
ありがとうございます。
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私は中国語を専攻していますが、将来中国とどう関わっていくか、はっきりと考えていません。私の中国好きは、古代史や文化、芸能、民俗に興味があるという趣味的なものなので、現代の中国の有り様をしっかりつかめたととは思っていません。張さんはビジョンを持って進めと言われました。中国の街では本当に「まだまだこれから」という恐いくらいの熱気を感じました。
中国とモンゴルの何に、またどのように働きかけていこうか、考えてみようと思っています。
モンゴルの地平線を初めて見ました。空が広くて風景が横長でした。中国の熱気とはとは違う、まどろんだような時間の流れを感じました。
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奔流中国という張宇の作品。
無形の作品ながらすでに7000人余の学生たちが、大きな影響を受けました。
もうすぐみんな社会へと散っていきます。
その影響を受けた一員として、大きな流れを起こす7000人となると想います。
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将来のために今、やらなければならないことがあり、
今のために今しかできないこともある。
若すぎてできないことがあり、
何も知らないからこそ、できることもある。
あとから振り返ってみたとき
自分で自分を誇れるように、
そう胸を張って言えるように、
お互いの人生を歩んでいけるといいですね。
本当にありがとうございました。また会う日まで。
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長い旅でしたが、色々と有り難うございました。
草原は期待どおり、それ以上に美しくて、空をできて幸せでした。
私はこれからも心理の分野で、少し心的に弱ってしまったり困難を抱える人の傍に居続けていきたいと思っています。そうしていく時に、今回の旅で感じた、砂や、水や、太陽、月、星、そして人のこと、風景が生きていくのだと思います。張さんも張さんなりの思いを実現させていって下さい。
また、中央アジアに来たいものです。
追伸;腹をこわした日にいただいたメロンとモモは助かりました。謝謝。
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ちょうど出発前に「私は何のために絵を描いているのだろうか」と思い悩んでいました。��れど数々の体験、大陸の持つ様々な顔、個性あふれるみんなに触れたとき、自然にスケッチが出来て、そして喜びを感じている自分を改めて感じることができたのです。
本当に素晴らしく楽しい旅になりました。「参加する事が出来て本当によかった。」それ以上の言葉はないです。この旅行に申し込むとき、乗馬や大草原の匂いだけでなく、“何か”を感じましたが、それは、張さんをはじめ、この旅行に関わってきた人たちの「思い」でした。このような素晴らしい機会を与えてくれたことに感謝しています。
ありがとうございました。
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幼い頃から憧れていたモンゴルの草原で、馬に乗り、酒を飲んで、星空の下で歌を歌いました。それは最高に楽しく、幸せな時間でした。それだけでも意義のあるこの旅で、たくさんの仲間に出会ったことで、私自身を見つめ直す良い機会を得ることが出来ました。もちろん張さんからもたくさんのことを学びました。いつか私も輝いた人間になりたいと思います。張さん、ありがとうございました。
~~~~~~~~~~
私の好きな作家の村上春樹のある文章に、「良い世界の空気は振動しない」という言葉があって、私は時々この言葉を思い出します。
今回の旅を通して、また、この言葉を思い出しました。良い世界には、言葉も音楽もないのだと思います。けれど。それらを目の前にしたとき、本当の言葉と本当の音楽とが自分の中にあふれているのに気づきました。たくさんのすてきな人たちに出会えた自分に自信を持とうと思います。
張さん、これからも健康でいて下さい。
私はずっと何かを創り続ける自分であるようにがんばります。
それでは。
~~~~~~~~~~
私は大学で陸上部に入っています。
中学高校と長距離の選手でしたが、高校2年の時から短距離に変え、今では400mを専門にしています。
陸上競技というのは走り方1つとっても大変奥が深く、どのような走り方が自分に合うかとか、一流選手の走り方をビデオで何度も見たり研究を重ねています。筋力トレーニングに関しても、毎日やるのではなく質と量を考えながら走るのに適した筋肉をつけています。
馬の筋肉をさわると、とても柔らかいものでした。
陸上競技で成功することが、私の人生計画の一つです。
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張宇殿
僕はビデオは撮るのも撮られるのも好きです。今回のモンゴル旅行でも9時間撮りました。大学でも4年間映画を撮り続けるつもりです。いつかどこかで上映される事があれば見てやって下さい。
僕は人と上手く話をすることが苦手です。初対面の人とか、何を話せばいいのか分からない人としゃべるのが苦手です。でも、今回は現地の人も含め、いろんな人と話せました。中国語は筆談できるから、日本人に対しては小心者の僕がこんなに大胆に自分をさらけ出せるなんて…。それはきっと旅の力なのでしょう。
草原を出てから、僕はもぬけの殻です。。何に対しても無感動気味です。東京に戻ってからが心配です。機会あらば、また旅に出たいですが、しばらくは東南アジアを攻めたいです。外モンゴルにも行きたいです。新しい刺激を求めます。次回からは一人で行きます。正直言って、団体行動は苦手です。
皆で歌った「切手のない贈り物」が頭にこびりついて離れません。思わず、口ずさんでしまいます。
いやー、金はちょっと高かったけど、今回の旅は楽しかった。よかった、よかった。
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張さん、僕は今回の旅行で張さん的リーダーシップを観察できて、すごく勉強になりました。僕は、何か特別な適性や、才能などは無いけれど、決めたことについては努力することが出来ます。すごく気長です。その意味で張さんが夢を叶える頃には、僕も結構すごい人間になっているはずです。では、私の好きな詩を送ります。
小さな街 かぞえきれない さみしさがほら見つめてる
小さくかがめて 守らなければ 自分の存在すら見失うよ
誰もかれも 存在ならば いつも認めざるを得ないもの
それでも僕の愛の言葉は何の意味さえもたなくなる
生きてゆくことさえ 人のこころなぐさめられるような
夢もとめていても まのあたりにされるだろう 生存競争の中 夢は
すりかえられてしまう
受け止めよう 自分らしく 生きることの意味を
あるがままに 受けとめながら 月にうつるものすべてを
受けとめよう 本当のこと 口にするきみの月を
誰も傷つけぬ きまぐれのような 優しい嘘すらも愛したい
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何気なく参加した旅ではあったけれども、これから行くであろう旅の中でも指折りの有意義な旅になるはずだ。中国は素晴らしい国だ。大きな国なのに狭狭と店を並べていたり、何のじゃまもない大草原があったり、人に対する態度もミステリアスな感じを受けた。上海の街は未来的な高層ビルのすぐ傍に、今にも崩れそうな家があったりして、バランスがないと思った。もっと大きなスパンでの景観を考えるべきだと思う反面、そこが人間らしくて面白いと思った。
人と脳と心の矛盾や、社会全体の勘違いや生きること、死ぬことに興味がある。張さんがバスの中で自分のしたいことを語ってくれたあと自分自身も考えた。私は自分の思いを作品にして、不特定多数の人がそれを見て笑ったり批判したりしてほしい。そして世の中が私の作品をきっかけとして、変わっていってくれることが、芸術の世界に生きる人間としての願いである。だから、わたしはそれをやる。
この旅を企画してくれて、一緒に楽しんでくれてありがとう。心から感謝します。たのしかった。楽しくてしょうがない!
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張さん、まずお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
私にとってこの旅は、初めてのアジアを体験する日々だったのですが、もちろん自分の少ない知識の中から作り上げたイメージは持っていたものの、予想以上にアジアというものはすごいパワーがみなぎっているところだと感じました。
エネルギーに満ちあふれた人々と文化に触れることで、自分が今までになく興奮し、感動していることに気づきました。広大な大地に広がる自然と動物がたくましいものに感じました。寝台車でフフホトにくるときに見た窓からの景色にはゾクッとしました。
列車の中で知り合えた人はもちろん、この地での出会い全てがいい経験になったと思います。それに一緒に十数日間をともに過ごした仲間との交流は、そのつながりの大切さ、面白さ、難しさを感じたし、私の場合友達三人と参加したのですが、いつもと違う環境での友達の新たな一面みることや、この生活を通して自分のことを改めて見つめ直す良い機会となりました。
トイレなどはやはりまだ抵抗があるけれど、モンゴルのすばらしさを味わえたと思います。これからもアジアにたくさん足を踏み入れていきたいです。
この体験は私の素晴らしい財産です。この機会を与えて下さった張さんに本当に感謝しています。ありがとうございました。
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日記を書こうとしてもなかなか言葉が出てこなくて、それでも無理矢理書こうとすると、あまりに書くことが多すぎて結局収拾がつかなくなってしまいます。
この旅では何かを得たというよりも、無駄なもの、余計なものがそぎ落とされたというような感じがします。将来のビジョンなんてな���けど、自分がなんだかシンプルになった気がします。
奔流中国のメンバーは初めてあったときから、なんだか前から知っているような気がする人ばかりで、本当に出会えて良かったと思います。みんなのことが大好きだし、歌うことが気持ちいいし、星はきれいだし、ご飯はおいしいし、お酒もおいしいし、全てが、書ききれないほど良すぎて、そんな今に少し戸惑ってしまいます。
このごろ旅の終わりを感じてしまって、少しくらい気分になってしまう瞬間があります。日本に帰っていつもの生活に戻るのが怖いような気がしているのかもしれません。
でもきっと帰ってからも、歌を歌って、オカリナを吹いていると思います。そして、今までとは違う作品を創っていきたいと思います。何か違うものができる予感がします。
最後に、張さん、ありがとうございました。他に何て言ったらいいか分からないけれど、張さんに出会えて良かったです。
また、ムサビのコートで会いましょう。
バスでこの手紙を書いていたら、隣の席に張さんが来たので焦ってしまいました。
ばれないように隠したり、かなりドキドキでした。
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私は今回モンゴルに来て本当に楽しかったし、草原にいて、とても考えるところがありました。同じ人間で、生きて行く事は同じなのだけれど、私が住むところとはまるで違う。
モンゴルの草原で風を受け太陽の光を浴びて歌を歌い、踊り、満天の星空の下で眠ることは彼らにとっては日常だけれども、私にとってこんなにも貴重な空間はなかった。彼らの歌や馬頭琴には、風や大地や天の歌、自然の歌が多く、私たちの歌には人のことを歌った歌が多いと思った。
また、彼らは自分たちの文化に誇りを持っている。中国の学生と話をしたとき、彼女は中国文化、中国語、英語、日本の文化についてたくさん話してくれた。私が彼女に教えてあげられる日本の文化がとても少ない事にとても恥ずかしい思いがした。他国の文化を知るのにはまず日本の文化をもっとよく知って、日本に誇れる文化がある事を知らなくてはいけない。
何かを守ったり維持するためにそこに固執するよりも、何に対しても興味を示して体験してみたいと思う。この旅ではそれができたし、想像以上に得るものが大きかった。
自分が将来何をするかはわからないけれど私は何かを創り出す人でいたい。在るものを維持するのは、それも大変で大切だけれど何かから自分の手で創り出す事が私はしたいし、できたらいいと思う。何かをしなくては、というよりも何かをしたいという気持ちでいつもいたいと思う。
私が好きなアーティストの名前でもあり、好きな言葉でもあります。“Dreams come true”. きっとそうだと思います。願いは届きます。本当にありがとうございました。がんばりましょう。そしてまたみんなで会いましょう。
私の夢はひとつ叶いました。それは満天の星の下で星を見てねむること。
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これだけ大人数の引率で、張さんもだいぶお疲れのことと思います。乗馬やパオ作りをはじめ、色々な場面でみられる張さんの気配りや毅然とした態度にはいつも感心させられていました。上に立つ人の重責感は相当なものです寝。それだけの苦労をしょってもなおこの企画を実現して下さったことに感謝しています。
私にとって今年の夏は学生最後の夏休みでもあり、今しかできない事を経験して有意義な時間にしたいという思いを強く持っていました。はじめは個人旅行を希望していたのですが、それは許可されず、この奔流中国の企画に参加したわけですが、当初の思い通り或いはそれ以上に密度の濃い時間を過ごせました。それは団体でありながら一人一人の個性や自由を尊重するという張さんのコンセプトがこの旅の基底にあったからこそだと思います。
張さんとゆっくりお話する機会はほとんど持てませんが、短いお話からうかがえる人生のヴィジョンや情熱は、就職活動を終えて、ひとまず落ちついてしまった私にとって大きな刺激となりました。来春から法律事務所で働く事になっていますが、プライベートでの熱い思いは持ちつづけていきたいと思っています。
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ここへ来る前に電話で3人同じ班にしてほしいとわがままを言ったのを覚えていますか?そのとき張さんは皆仲良くなるから班は関係ないといってましたね。結局その言葉通りになり、今では別々の班で良かったとさえ思えるようになっていました。
船、バス、列車と、幾日も乗り続ける中で、皆と語り合い、外国人と友達になり、名刺をもらったり、タバコを共に吸ったりと様々な交流ができました。
私達が来た内モンゴル自治区という場所はとても素晴らしいところでしたが、もしかしたら一生訪れる事がないかもしれません。広い世界の中で私が日本以外でこの地がはじめて訪れたのですが、この地は天と地と人が平等であるように思われます。草原は土をレンガやコンクリートではなく草で覆い隠し、本当に自然と共存する人間の姿がそこにあると思いました。
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このモンゴルの旅で私は新しい自分を発見しました。なんでもできてしまう自分をです。きっとテンションが上がっているせいもあると思いますが、何事に対しても積極的になれてしまいます。笑顔と、気持ちと、歌があれば、誰とでも仲良くなれるものだと思いました。
私は陶芸をしています。今はとにかくろくろが上手になりたくて毎日ひいてます。自分は何者なんだと思う時があります。自分の中の何かを表現したいと思う時があります。陶芸を始めるまでは、そんな考えを何にぶつけてよいのかわかりませんでした。でも今は、毎日たくさんの自分を土にぶつけています。とても楽しい。生きている自分を再確認できています。出来上がった作品はまだまだ下手ですが、みんなかわいい私の子達です。
モンゴル、中国で自分を表現することの手段として歌は最大の武器だと思いました。人前で歌うことがこんなに気持ちのいいことだったなんて。
日本にいるだけではわからない事を旅は教えてくれるものですね。初めての海外旅行がこんなに素晴らしいものになるとは。これからもたくさんの国にいってみたい。いろんなものが見たい。もちろん歌と、そして笑顔を武器にするつもりです。
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この旅に参加して、いろいろなことを考えたのは、巨大な国、中国の様々な側面を見せつけられたからだと思う。現在、建設ラッシュの上海では、高層ビルの建ち並ぶ横に、劣悪な状況の民家が広がっている。貧農の差をまざまざと見せつけられた。
内モンゴルでは、毎晩の様に歓迎してくれるという民族性、見事なほどの羊のさばき方、見渡す限り一面の草原、満天の星空…数え上げればきりがないほど強烈なインパクトを受けた。
TIAN JIAO HOTEL の前に「百聞不如一見」とあったが、正にそのとおりで、この旅を通して学べたものは多い。
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小川さやか × 千葉雅也トークイベント「人を信頼するとはどういうことか」 『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)刊行記念
『チョンキンマンションのボスは知っている』は、一攫千金を狙って香港に集まるタンザニア人をフィールドワークした話題作です。 海千山千の彼らの辞書に、「100%の信頼」という文字はありません。 時に裏切り、裏切られながらも、それでも関係を断絶せず、ゆるやかにつながっていられるのは、なぜなのでしょう。
経済と文化人類学の視点で本書をつづった小川さやかさんと、哲学者の千葉雅也さんが、信頼とは何かについて語り合います。 私たちは相手を信用することで何を手にしているのか。 コミュニケーションのうえで予測できること、できないことは、どんな作用をもたらすのか。 さまざまな角度から、とことん掘り下げていただきます。 乞うご期待!
【参加条件】 代官山 蔦屋書店にて、いずれかの対象商品をご予約・ご購入頂いたお客様がご参加いただけます。
【お申込み方法】 以下の方法でお申込みいただけます。 (1)代官山 蔦屋書店 店頭 (1号館1階 レジ) (2)お電話 03-3770-2525 (代表番号 担当:人文フロア) (3)オンラインストア
【対象商品】 ・書籍『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社・2,200円/税込)+イベント参加券(550円/税込)セット 2,750円(税込) ・イベント参加券 1,600円(税込)
【ご注意事項】 *参加券1枚でお一人様にご参加いただけます。 *イベント会場はイベント開始の15分前から入場可能です。 *当日の座席は、先着順でお座りいただきます。 *参加券の再発行・キャンセル・払い戻しはお受けできませんのでご了承くださいませ。 *止むを得ずイベントが中止、内容変更になる場合があります。
【プロフィール】 小川 さやか(おがわ・さやか) 1978年愛知県生まれ。 専門は文化人類学、アフリカ研究。 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程指導認定退学。 博士(地域研究)。 日本学術振興会特別研究員、国立民族学博物館研究戦略センター機関研究員、同センター助教、立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授を経て、同研究科教授。 『都市を生きぬくための狡知――タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』(世界思想社)で、2011年サントリー学芸賞(社会・風俗部門)受賞。 著書に、『都市を生きぬくための狡知』、『「その日暮らし」の人類学』がある。
千葉 雅也(ちば・まさや) 1978年栃木県生まれ。 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。哲学、表象文化論�� 立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。 著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出文庫)、『別のしかたで――ツイッター哲学』(河出書房新社)、『勉強の哲学――来たるべきバカのために』、『メイキング・オブ・勉強の哲学』、『アメリカ紀行』(いずれも文藝春秋)。 対談集・鼎談集に『思弁的実在論と現代について――千葉雅也対談集』(青土社)、『欲望会議「超」ポリコレ宣言』(KADOKAWA)、訳書に『有限性の後で――偶然性の必然性についての試論』(共訳、人文書院)など。
会期 / 2019年10月31日(木) 定員 / 70名 時間 / 19:00~21:00(15分前に開場) 場所 / 蔦屋書店1号館 2階 イベントスペース 主催 / 代官山 ��屋書店 共催・協力 / 春秋社 問い合わせ先 / 03-3770-2525(代表番号 担当:人文フロア)
チケットのご予約はこちら オンラインショップでの受付2019年10月29日(火)午前9時の受注分までとさせていただきます。

イベント情報の詳細はこちら
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NONAI7
においと記憶の関係性について、突然に彼は考えた。知らない国の知らない街、の知らない建物の廊下を歩いていて、懐かしいにおいがしたすみれの花時計、と大黒先生の歌詞が流れてきそうになる瞬間がある。 物質そのものは似ても似つかない異国のものであるはずなのに、小学生の時に学校でそれとなく香ったにおいと同じに感じる。自分たちのみえない粒子、マイクロブリーズ?マイクロソフト?のレベルで様々な成分が合体したり分裂したりして、偶然にもおなじにおいを発するのか。においを研究し続けている花王やライオンの洗剤担当の方々に機会があれば詳しくお話を聞きたい。 その懐かしいにおいに、心踊らされて歩行中悦に入ったり、実際小躍りをしたりする瞬間すらある。彼にとってにおいは、本能的に好き嫌いを判断する重要な五感のうちのひとつなのだと思う。 日本人を筆頭に、アジア人は比較的体臭があまりない。そんなものだから、ひとたび脇からスパイスの効いたにおいを放つ人がいると、絶対悪として社会から忌み嫌われる。彼もそのにおいに心地よさは覚えないが、海外では自然な体臭こそ最高のフェロモン!とかたくなにデオドラントの類を拒む人たちもいて驚いた。 人工的に作り出されたさわやかな石鹸のかおりや、甘くトロピカルな香水、できる男を演出する紳士的なアフターシェイブなどは、所詮偽物、天然素材で勝負しなよ、というところなのだろうか。潔さと野性的な情熱を感じなくもない。 が、いくら海外にかぶれたからといって、彼にそこまでの適応力はなかった。俗に加齢臭と呼ばれるようなにおいを、肉体試合中に感じ取ったら最後、一挙に興奮のゲージが下がってしまう。そんな偉そうなことをぬかしつつ、すごく疲れた一日の終わりなどに、それと同じにおいが己から発せられているのに気づき大急ぎで風呂に入ることもある。白髪も生えてきたし、若作りにぬかりはないが、やはりおっさんだ。 自分と同じフェロモンを発する相手には本能的に惹かれない、という噂を耳にしたが、本当かもしれないなとその時彼は思った。なぜだろうなぜかしら。知らん。
しかし逆に、客観的に考えて決していいかほりの棚には収まらないはずのにおいに惹かれることもまた、ある。本能的に惹かれている場合。なのだろう。そして一度好きと認知した相手に対しては、かつて苦手だったにおいまで愛おしくなるケースもある。恋は盲目。鼻まで馬鹿になる。 彼がロンドンにいた頃、数回肉体試合をした相手がいた。外見もそれなりに整った方だったのだが、どうしても試合相手以上にステージを進めることはなく終了した。 とにかく口がくちゃい
程よいリラックスした雰囲気の中試合を開始した途端、眉間に皺をよせてしまった。胃か?胃が悪いんか。途中で、あなたは口が臭いのでわたしは帰ります、と言い放つわけにもいかず、水中に潜るイメージで鼻呼吸を止め、しのいだ。 果たしてこの地球上に一体何種類のにおいが存在するのだろう、そのあたりも花王かライオンの方に聞いておきたい事項として、彼はメモをとった。メモをとり、ふうと息をついた。「うわにんにく臭っ」
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最新報告によると、2013年からの5年間で中国人男性との結婚を強いられたミャンマー人女性は7500人、出産を強いられた女性は5100人にのぼる。 その背景には、一人っ子政策によって「あぶれる」男性が中国で多いことがある。 その一方で、連れ出される女性のほとんどはビルマ人ではなく少数民族であり、そこにはミャンマー国内の問題もかいま見える。 ミャンマーは70万人以上にのぼるロヒンギャ難民の流出で注目されたが、この国ではそれ以外の少数民族も困苦のなかにある。最新の報告では、少数民族カチンやシャンの多くの女性が中国への人身取引の犠牲者となり、そのほとんどが「子どもを産むための道具」として扱われている実態が明らかになった。
子どもを産むための道具 アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学ブルームバーグ公衆衛生研究科(JHSPH)が12月7日に発表した報告書は、2013年から2017年までに、ミャンマーから中国へ17万1000人が移住し、このうち7500人の女性が中国人男性との結婚を強制され、5100人が子どもを産むことを強制されたと報告した。
結婚や出産を強制された女性のほとんどは、中国との国境に面したカチン州やシャン州北部から中国に入国しているが、そのほとんどがミャンマー人口の7割以上を占めるビルマ人ではなく、少数民族のカチン人やシャン人とみられる。しかも、そのなかには子どもを産まされた後、ミャンマーに戻っても、再び中国に連れ出されるケースさえある。
JHSPHがタイに拠点をもつNGOカチン女性協会との協力により、中国に移住して戻ってきた経験をもつ女性を対象にカチン州、シャン州北部で行った調査と、カチン州、シャン州出身者女性を対象に中国で行った調査では、39.8パーセントが中国人男性との結婚を、30.2パーセントが出産を、それぞれ強制された経験をもっていた。
報告によると、65.6パーセントでブローカーが介在しており、ここからミャンマーと中国の間に人身取引ルートができていることがうかがえる。
これに加えて、親の指示に逆らえない文化も、女性たちを追い詰めているとみられる。JHSPHの報告書によると、回答者の14.7パーセントの場合、親が中国へ渡ることを命じており、こうしたケースでは娘の意志にかかわらず、ブローカーから親に金銭の授受があるものとみられる。
一人っ子政策の影 なぜ、中国にミャンマーから数多くの女性が「輸出」されるのか。そこには、中国が抱える一人っ子政策の影がある。
1979年から2015年まで中国で実施された一人っ子政策は、膨張する人口を抑制することが最大の目的だったが、その副作用として男性人口が女性人口を上回り続けてきた。この背景には、一人しか子どもを持てない場合、男の子が好まれる傾向が強いことがある。
しかし、その結果、例えば20~40歳代に限っても、世界銀行の統計によると男性(約3億3286万人)は女性(約3億1235万人)より2000万人以上多く、必然的に「あぶれる」男性が生まれやすい。とりわけ、農村在住、年齢が高い、病人、障がい者といった場合はなおさらである。
ただし、親の求めや世間体もあり、子どもを求める風潮も根強くある。
こうした背景は、たとえ違法(あるいは合法か怪しいというレベル)であっても、外国から女性を連れてきてでも子どもを出産させたい需��が発生する土壌となっている。
そのため、JHSPHの報告によると、「子どもを産むのに適している」とみられる20代前半以下、場合によっては10代の若い女性が好まれる傾向があり、20歳以上離れた相手と結婚させられるケースも珍しくない。
なかには家族の一員として迎えられることもあるが、身分証を取り上げられたり、日常的にドメスティック・バイオレンスにさらされたり、あるいは子どもを産めない場合に「転売」されたりすることも珍しくない。その逆に、子どもを産めばそれ以上は必要ないために「転売」されることもあると報告されている。
「売る側」から「買う側」に移った中国 この問題は、世界全体を取り巻く人身取引の一部であり、中国はその経済成長によって「消費者」としての立場を強めてきた。
人身取引の利益は年間およそ1億5000万ドルで、そのうち約1億ドルはセックス産業でのものとみられる。
その多くは「貧しい側」から「豊かな側」への移動で、例えばイタリアとベルギーのセックスワーカーの60パーセントはナイジェリア出身とみられる他、日本でも特に風俗店などで働く東南アジア系などの女性には人身取引の犠牲者も少なくないと国連は報告している。
【参考記事】「誘拐大国」ナイジェリアと日本の共通点とは:人身取引サプライチェーンの闇の奥
このサプライチェーンのなかで中国は従来、海外に人を送り出す立場にあった。そのうえ、「国内市場」向けの子どもの誘拐が社会問題化していた。
しかし、近年では経済成長にともない、中国でも女性の「輸入」が増えている。そのなかにはウクライナなど経済状況の思わしくない東欧諸国まで含まれており、ミャンマーの事例はその一端といえる。
忘れられた戦争 こうした中国側の事情の一方で、ビルマ人ではなく少数民族の女性が集中的に連れ出される背景には、ミャンマーの抱える問題も見過ごせない。
ミャンマーでは1988年にクーデタで権力を握った軍事政権のもと、少数民族をその居住地から力ずくで追い出し、その土地にビルマ人を住まわせる「ビルマ化」政策が進められた結果、ミャンマー東部に暮らすカチン人やシャン人などの少数民族は、西部ラカイン州に多いロヒンギャと同じく迫害されてきた。
【参考記事】ミャンマーの民主化と少数民族問題、そして日本
ジャーナリストのガイ・ホートン氏とオランダ開発協力省が国連に提出した報告書によると、2005年段階で少なくとも40万人が居住地を追われていた。この報告書は、軍によって無差別に殺傷された者が少なくないだけでなく、居住地を追われた少数民族が貧困に苦しむなか、国外に逃れたり、バラバラになったりすることで、民族として死滅しつつあると指摘し、「ゆるやかな大量虐殺」と表現している。
東部の少数民族のなかには麻薬を栽培・販売して軍資金を調達し、武装組織を結成してミャンマー政府と敵対するものもあり、この一帯では現在も散発的に戦闘が続いており、ロヒンギャ危機に注目が集まるのと対照的にほとんど関心が払われないことから、「忘れられた戦争」とも呼ばれる。
この背景のもと、少数民族の生活が困窮する状況は、人身取引ブローカーが暗躍しやすい環境になっているといえる。
スー・チー政権の隘路 ミャンマーでは2011年に選挙が復活し、2015年に政権が交代してアウン・サン・スー・チー氏を事実上の責任者とする政府が発足したことで社会・経済の安定が期待された。しかし、議会の議席の4分の1を軍人が占め、さらに5141万人の人口に対して約40万人の兵士を抱えるなど軍が大きな影響力をもちつづけるなか、スー・チー政権はこれを管理しきれていない。
これはロヒンギャ危機でもみられたことだが、東部の少数民族の危機的な状況についても、ほぼ同じことがいえる。
【参考記事】ロヒンギャ問題とは何か:民主化後のミャンマーで変わったこと、変わらないこと
ミャンマー東部には、天然ガス産出国であるミャンマーから中国へのパイプラインが伸びており、さらにミャンマーの港と中国の雲南省を結ぶルートにあることから「一帯一路」構想にとっても重要な立地条件にある。これに加えて、カチン州は近年「世界最大のヒスイ生産地」として注目され、各国からの投資も相次いでいる。
つまり、「ビルマ化」政策を継続する軍と「一帯一路」を掲げる中国政府の意向を前に、スー・チー政権は東部の少数民族の置かれた状況の改善に着手できておらず、これが結果的に女性の人身取引を促しているといえる。言い換えると、ミャンマーの少数民族の女性たちは、人間を商品として扱う市場と冷徹な政治の被害者として売られているのである。
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∵ ∵ ∵ 日本の時の読み方
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∵ ∵ ∵ 日本の時の読み方 ★比較文化史の試み37 旧石器時代 https://00m.in/8ulBa 旧石器時代 日本の旧石器時代は、約3万5千年前の後期旧石器を始まりとする。 いわゆる、原人や猿人などのことではなく、私たちと同じ 「新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)」の時代に入ってきてからである。 しかも、ナイフ型石器というかなり完成された石器を伴う。 つまり、旧石器人は高度な技術をもって、日本列島にやってきた。こ のナイフ型石器には日本固有の特長があり、周辺地域とは異なる点がいくつかある。 もちろん、彼らには日本人などといった意識はないし、 単に現在の日本の領土内にいたということにすぎない。 文化の継承があるとは断定できないが、現在に我々が存在する以上、 旧石器時代に我々の先祖にあたる人々どこかにがいることは間違いない。 ★比較文化史の試み38 旧石器時代2 https://00m.in/i84RV 旧石器時代 その2 北海道は大陸と陸続きの関係で、本州・四国・九州とは異なった石器文化をもっていた。 大陸から見れば半島であり、北海道までは容易に到達することができる。 ナイフ型石器が日本列島独自の文化であることは前述のとおりだが、 それは本州・四国・九州が対象となる。 北海道に到達した旧石器人が「まだ舟をつくっていない」と仮定するなら、 津軽海峡を越えられるのは厳寒期の凍結時だけと思われる。 おそらく、これが文化を分けた理由だろう。 ★比較文化史の試み39 旧石器時代3 https://00m.in/TbNdW 旧石器時代 その3 ナイフ型石器II期になると、角錐状の石器が出現する。 しかし、現在のところ北海道では出土しない。 これも津軽海峡という「海」が影響しているのだろう。 北海道は旧石器時代を通して本土とはやや異なる文化圏に属していたようだ。 旧石器時代の黒曜石の産地のひとつに神津島があり、神津島が本土と 陸続きになったことがないと考えられ、このことから舟の存在が指摘されている。 その根拠となった「石斧と砥石(といし)」がナイフ型石器I期の途中で 忽然(こつぜん)と消えてしまう。 この原因は全く不明である。磨製石斧が舟を作る道具で、より便利で 新しい道具に置き換わったのなら、その石器が出土するはずだが、 現実には、そのような石器は見つかっていない。 その結果、磨製石斧を動物解体用の道具とする説が有力視されることになる。 そして、大型動物の激減が磨製石斧の生産を止めさせる。 そのように説明するのが「動物解体道具説」である。 出土した磨製石斧の一部から動物の脂肪酸が検出できたとの報告もあるが、 疑問視するむきもある。 ★江戸時代の時間の感覚は弥生時代と変わらない...?: あまのじゃくの羅針盤 http://aze.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-4ff7.html 2011/02/17 江戸時代は,なんせ...2時間単位で行動していたみたい。 この間の1時間は半刻と呼ばれてはいたが、これはもう時間の経過が分からない。 したがって腹時計でやっていたとも...? 「明け六つ」も一定の時刻ではなかった。 文字通り夜のあける時間...という程度の割り振り、感覚だった? 故に、この明け六つは季節によって動いていく。 季節が変われば明け六つの時刻が変わり 「一刻」の時間の長さも季節によって変わっていた。 また昼と夜の長さが季節で変わるから、 一刻の時間の長さも昼と夜では少し違うものになる。 ★第75回 時計と時間 – 縄文エッセイ - 縄文ファン https://aomori-jomon.jp/essay/?p=7477 2014/12/09 蚊やダニは我々が気づかない間に皮膚に穴をあけて管を刺し、血を吸って立ち去るという離れ業をやってのけます。小さくてすばしこい蚊の眼には人間の巨大な肉体の動きはスローモーションに見えると聞いたことがあります。反対に、静かに立っていると思える樹木は早回しのフィルムで見ると、実は生き生きと陽の光を追って葉や枝を動かし、成長していることがわかります。 小さな虫、大きな木それぞれに流れる時間は、その速さが違うということになります。 木と虫にとどまらず、あらゆる生き物にはそれぞれに流れる時間の速度があって、惑星レベルで考えれば、マントルの動きや季節風の代謝などさらにマクロな時間が流れ、宇宙に至っては時間の流れはさらに混沌とした不確かなものになると考えられます。 ★西孝二郎著『古代史のからくり』の紹介 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/ekikyo.htm 1 古代日本の古典や祭祀・信仰が道教など中国の古代思想の影響を受けているという指摘が、これまでかなりなされてきた。個人的には、扶桑国問題などで『山海経』が興味深いものの、これを含めて中国や朝鮮半島の経典・祭祀を念頭においた観点からの日本古代史の考察や古典の分析も望まれる。 さて、本書(2007年8月刊、彩図社ぶんりき文庫)は、儒教の基本テキスト「五経」の筆頭に挙げられる易経と記紀との関係について、考察を加え所説を展開するものである。裏表紙に記載の紹介文には、「古代史料のあちこちに潜む文字遊び・言葉遊びの数々。その大半は『易経』に立脚して創作された記紀の内容……。長年月の間に築き上げられてきた数多の定説の塔を粉砕し、一からの再考を強いる、古代史研究のための新・基礎解釈!」と記される。通読してみても、これは要を得た説明といえよう。 ★「古事記」「日本書紀」の読み方(地名、人名) https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/2097f44e1e6324b1c803c2b9bac344b7 2018-06-09 歴史の祠(ほこら) 魏志倭人伝の読み方(地名、人名) https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/61bca435a9719951984e1a1073501a6a を参考に日本の歴史書「古事記」「日本書紀」の漢字について考えてみましょう。 漢字が仏教と共に日本に伝わったのが飛鳥時代の6世紀ごろ 氏姓制度で、地名や豪族の名前に漢字が使われます。 基本的には、漢字二文字が名前です。 ★日本が好きになる!歴史全授業(小6・中学) 2013/05/14 http://aokihumu.blog69.fc2.com/blog-category-6.html ★弥生時代の開始年代 http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yayoi.htm 国立歴史民俗博物館で「弥生はいつからか」というテーマで企画展示が行われているので2007年8月11日に四年ぶりに佐原まで出かけました。四年前にマスコミに大きく取り上げられ、その後の成果の報告を期待���てでかけました。九州から東北までの縄文晩期~弥生の遺跡で発掘された土器に付着した炭化物や、水田に打ち込まれた杭(くい)や矢板で年代測定が行われました。国立歴史民俗博物館では、弥生時代の開始時期の定義を、水田稲作の始まった時期とし、九州北部で水田稲作が始まった前10世紀後半としています。従来の弥生観では、水田稲作と金属器がセットで生産性が非常に向上し、わずか100年間で畿内や東海の一部にまで伝播したことになっていましたが、報告された弥生時代では、早・前期の600年間が石器時代であり、ゆっくりと時間をかけて水田稲作が広がっていきました。 ★道祖神 男根 胞衣(えな)信仰 猿楽 [No5] http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/enasinko.html 精霊の王/中沢新一 註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出し、のこりなくその芸を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったはてに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したのだった。その地で、はじめ秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であることの、まぎれもない証拠であると書いたのである。 ●onia222さん 縄文時代は,みな3,4時間ほどの労働で,あとは歌ったり踊ったりと楽しい生活をしていたと思います。 なので世界中から永く日本は憧れの的だったようです。
諸外国は先天的に戦う宿命を持つ蕃族割拠のローカルの地でしたし、 従って歴史文化も永続きはなかったですからね。 今のほうが便利かどうかも疑問です。便利が進歩ではないかも知れません。
今と古代とは、価値観が全く違いますから、単純に比較できません。 人口比や食糧の多少で比較しても其れが要件になるかどうかは分からない。 貧しさとは何なのか?今は食料が豊かなのか?今は平和なのか? こうした点についてそもそも日本人は認識できていない。
例えば、縄文時代は戦争をした形跡が見られないのに対して、 「20世紀は戦争の世紀」だったと言われる。 それで凡そ1億人が犠牲になった。今も何処かで戦争や内乱が続いています。 食料と水飢饉で何百万人もが苦しんでいます。
此れでは、人類には学習能力が皆無である証拠であり、今の世間の常識が 「生命第一」としたり、モノカネ主義の価値観こそ大きな誤解である事を 知るべきです。 日本人は昔から長寿でしたが、長寿は結果であって、病気や苦しみの中で 生き永らえるのは無意味です。
戦後の日本や今のアジアのように多産多死ではなくて、今のように少子化でした。 縄文時代は、今のようにどっさり食ってどっさりウンコをする快楽文明ではなかった。
マスプロ、マス消費、大量生産、大量消費と大量ゴミと大量殺りくの戦乱、 病気、苦しみはなかった。 寧ろ其れをなくす知恵や哲学がありました。 また四季折々の滋味豊かな旬の食べ物が、家の周りの天然の冷蔵庫である 森や川に多種多様に幾らでもあった。
其れに比べて今はスーパーに色んな物があるけど、全て年中変わり映えのない 汚染された加工食品や偽装食品であり、ペットフードと大差ない商品。 そんなものしか食べられない生活は貧しいし、量より質の問題です。
それしかない中で、毎日仕事仕事の状況で有るなら、 ペットでも欝になってしまいますね? 其れとは違って縄文時代から江戸時代までの日本は、 凡そ上述のような平和と調和の暮らしでした。
一体どこが違ったのかと言えば、モノカネ主義ではなくて、 根本的には、どうせ一生、生きるなら悪魔の中ではなくて、 神様と共に生きようとする考えで暮らしていたからです。
◆消えた歴史 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-922.html 戦後、ほんとうに日本的なもの、日本人が絶対に知っておくべき様々な歴史が、 次々と消えて行っているように思います。 たとえば、物語として、日本の神話や、 曽我兄弟、二宮尊徳、赤穂浪士、山鹿素行、乃木希典、天狗党、天誅組、 義経と頼朝の相克、壬申の乱、朝鮮進駐軍、ハーグ陸戦条約、軍人勅諭、 教育勅語等々、数え上げればきりがない。
◆縄文紀行 北日本の遺跡~実像に迫る http://okome-okome.sakura.ne.jp/data/touhoku.htm 47 ナゾの板材 縄文の戦争論に一石 (2004.03.16) 「縄文の狩猟採集民は富や蓄えがなかった。従って戦争はなかった。 定義は難しいが、戦争は農耕社会が成熟した弥生時代から始まった」 これは三年前に青森市内で開かれた、ある原子力関係の大会で、 佐原真・国立歴史民俗博物館館長(故人)が、 特別講演の中で述べた弥生の戦争論だ。
◆大平山元I遺跡 - Wikipedia http://bit.ly/ylekLh 大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)とは、青森県外ヶ浜町にある、縄文時代遺跡である。出土した土器片.この遺跡から発掘された縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で16500年前(暦年較正年代法による)と...
◆大平山元遺跡 - 北海道・北東北の縄文遺跡群 https://jomon-japan.jp/jomon-sites/odai-yamamoto/ 大平山元遺跡. [おおだい やまもと いせき]. 2013(平成25)年3月27日 史跡指定. 時代区分-草創期. 青森県津軽半島の東側中央部、陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高26mの河岸段丘上に立地する、縄文時代草創期初頭(紀元前13,000年頃)の遺跡です。 旧石器時代の特徴を持つ石器群とともに、土器片と石鏃(せきぞく)が出土しています。土器片に直接付着していた炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ、12,680±140~13,780±170yrB.P.という年代が得られました。これにより約16,500年前のものである可能性が指摘されています。また、共伴する神子柴・長者久保石器群は、旧石器時代末期の特徴を引き継いでいます。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
時の流れていうか時間の使い方は様々で時間を遡るほどのんびりしていた。
現代人が果たして時間を無駄に使っているのか。 人それぞれの考え方がある。
忘年会 新年会 懇親会 など 身近で行う模様しや宴会などは短時間で企画して実行できる。
人を集めるとなると最低 経験では三ヶ月。 大きくなればなるほど時間は掛かるもの。 時間かければ良いとは限らないけど。
時の流れの中で時間の観念はその時の情景なども加味されて人により変わってくる。
縄文時代は,みな3,4時間ほどの労働で, あとは歌ったり踊ったりと楽しい生活をしていた
こんな生活をしてみたいもの。 キット時間はユ��クリと たゆとう様に流れ居たのだろう。
時計に縛られて生活している。 現代人は幸せなのかな。
今は 武漢コロナウィルスに触り回されている。
支那人や 白人が 関わると 碌なことは無い。 のんびりと ゆったりと 行きたいものである。
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[翻訳] パキスタンにおける「アラブ化」
言語の対立
フマー・ユースフ、2015年6月22日(Dawn紙)
ルーヤテ・ヒラール〔=新月観測〕委員会が〔月始めを告げる〕新月を見つけようとしていた頃、ソーシャルメディア上ではまた別の現象が起こっていた。パキスタン人たちは聖なる月がアラビア語の発音であるラマダーンではなく、ウルドゥー語やペルシア語の発音でラマザーンと呼ばれることを求めて、TwitterのアカウントやFacebookのステータス・アップデートに没頭していたのである。
ラマザーン対ラマダーン論争は新しくも珍しくもない。多くのパキスタン人は徐々に進む自身の言語・文化のアラブ化に戸惑っている。外来者や新しい知人にさようならを言うことも、〔ペルシア風に〕「クダー・ハーフィズ」と言う者と〔アラブ風に〕「アッラーフ・ハーフィズ」を好む者の間の対立が明確になるにつれ、緊迫したやり取りになってしまった。〔礼拝を意味するペルシア語由来の〕ナマーズはだんだんと〔アラビア語由来の〕サラートになっている。
これらの言語的な争いはパキスタンのナショナル・アイデンティティの危機を見事にまとめている。分離後のパキスタンがイスラーム・アイデンティティを涵養することで「ヒンドゥー」インドから自らを峻別しようとしたことについては多くの著作が書かれてきた。
インダス渓谷の古代文明に遡る亜大陸固有の共通の歴史は、手際のよいイスラーム化の語りに取って代わられてしまった。それはムハンマド・ブン・カーシムのシンド征服〔711年〕に始まり、ムスリムのためのホームランドとしてのパキスタンの創出によって終わる。ペルシア語・ペルシア文化の影響は、1980年代以降「シーア派」イランと結びつけられたことで徐々に衰えつつもあり、アラブ的表現に有利になっている。
アラブ化の風潮に抗う人たちは、ナショナル・アイデンティティとは一種の構成体であって、パキスタンはまだ自身を形成する過程にあることを忘れるべきではない。私たちの言語のアラブ化は構造的または自発的なトレンドではないし、よく論じられているような、湾岸諸国におけるパキスタン人移民労働者の広範なプレゼンスがもたらす副作用でもない。アラビア語への傾斜は、ナショナル・アイデンティティが形成されるお決まりの場所を通じて私たちのアイデンティティに組み込まれている。
これら��場所のうち最もあからさまなのは、公立学校・大学のカリキュラムである。その他、TV・ラジオ双方の公共放送、政府奨学金、国立美術学校・財団、映画産業、検閲委員会、広告、スポーツ、博物館、そして国民の祝日のパレードも含まれる。
パキスタンへのアラビア語の導入は、計画的な政策の結果である。アイユーブ・カーン〔第2代大統領、1958–1969年〕はパキスタンの公立学校におけるアラビア語教育を最初に求めた人物である。彼の教育政策はまた、ウラマーの近代化をねらいとして、神学校カリキュラムへの現代アラビア語テキスト導入のほか、マドラサにおける英語教育も推奨した。それ自体が軽率であったかはともかく、アリッサ・エアーズ〔南アジア研究者〕が論じているように、カーンの教育政策は近代性と進歩の言語としての英語とアラビア語をパキスタンにもたらした。
当然ながら、パキスタン社会の主流にアラビア語を導入する本当の努力はジヤーウルハック将軍〔第6代大統領、1978–1988年〕政権下でなされた。明らかに彼はアラビア語とウルドゥー語を、土地ごとの、民族的な、そして言語的な多様性の結果として頑なにバラバラのままのムスリム・ネーションを統一しうる言語と考えていた。その結果、国営局はアラビア語でニュースを放送している。公共の電波はまた、アラビア語と宗教的知識を広めるためにも用いられた。
1980年代はじめ、ウルドゥー語が教えられていた公立学校およびイクラー・センター〔識字教育施設〕でアラビア語を教えるためにマドラサの教師たちが募集され、宗教教育と世俗教育の区別、公教育の空間と非政府系教育の空間の区別を曖昧にした。規制がないマドラサ(国家の視界から外れていた)に教育に対するコントロールを与えた結果は明白であり、ウルドゥー語の漸進的なアラブ化にとどまらない。それは今日のパキスタンで優勢な反啓蒙主義者や退行的なイデオロギーと政策に明らかである。
違った形で私たちのアイデンティティを形成するには、もしそれを私たちが望むならであるが、ナショナル・アイデンティティの危機がどのように作り出されたかを忘れないことが重要である。ナショナル・アイデンティティが構築されるプロセスに常に注意を払うことで、さもなければ見逃してしまうような、しかし未来においてそれがパキスタン人であることを意味する何事かを教えてくれるような、ローカル・レベルのまったく異質な出来事の重要性がより大きくなる。
これらは次のような最近の出来事を含んでいる。バーナデット・ディーン博士がシンド州の教科書カリキュラム改革に取り組んだことで宗教政党から殺害予告を受けたあとパキスタンを離れたこと、宗教的寛容についてのジンナーの8月11日演説を公立学校のシラバスに含めるというシンド州政府の最近の決定、果てのないYouTube禁止令、考古学的遺物が日常的に盗まれているのを前にした政府の無関心、等々。
これらの事件は累積的に私たちのナショナル・アイデンティティを形成していき、数十年後には私たちが自分たちをどのように見るか、さらに、実際私たちがどのように喋るかに深刻な影響を与えるだろう。ラマザーンというウルドゥー語/ペルシア語の発音を保持しようとするソーシャルメディア上のキャンペーンが、ぱっと見の印象ほど浅薄でないのはそれゆえである。今日、私たちがある1字の音をいかに選ぶかは、今後数十年、それがパキスタン人であることを意味する何事かに影響しうるのだ。
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来歴・人物[編集] 誕生から青年期にかけて[編集] 京都の呉服屋に生まれる。朱雀高校入学後、父親の横浜出店に伴い横浜山手町の洋館に引っ越し、東京都立九段高等学校に通う[1]。早稲田大学文学部フランス文学科進学。高校から大学にかけて、学生紛争の論客として鳴らす。早大在学中は、早稲田大学新聞会に所属した。一方で教会、禅寺などをめぐり、量子力学と民俗学に関心を寄せ、様々な思索にふける。 大学4年の時に父親が多額の借金を残して死去したため、やむなく早大を中退。広告会社に勤め、営業活動のかたわら、高校生向けのタブロイド版の新聞『the high school life』を創刊。この時期、編集活動を通じて、稲垣足穂、土方巽、寺山修司、唐十郎、鈴木忠志、宇野亜喜良、横尾忠則らと親交を深める。とくに早稲田の先輩でもあった寺山修司からは『the high school life』の活動について「東京のヴィレッジボイス(英語版)である」と評された。 工作舎編集長として[編集] 1971年(昭和46年)にのちに編集工学研究所主任研究員となる高橋秀元ら友人3人で工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年(昭和46年) - 1982年(昭和57年))を創刊する。「オブジェマガジン」と称し、あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。松岡はこの雑誌の編集長を務めつつ、雑誌そのものへの寄稿、対談出席なども行い、1979年(昭和54年)には初の単独著書となる『自然学曼荼羅』を刊行する。 『遊』刊行中から、外部の各種プロジェクトにかかわり、1978年(昭和53年)から翌年にかけては、パリ装飾美術館(フランス語版)、ニューヨークのクーパー・ヒューイット美術館などで「間MA展」(磯崎新、武満徹プロデュース)にエディトリアル・ディレクターとして参加する。この展覧会はロラン・バルトやミシェル・フーコーなどが訪れるなど評判を呼んだ。(20年後の1998年(平成10年)には東京芸術大学で再編して開催された) 編集工学者として[編集] 1982年(昭和57年)に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。古代から現代まで続く「情報」そのものの歩みを年表化した大作『情報の歴史』を編纂するために各ジャンルの知識人を集め、この本の監修を務める。この仕事が発展し、1987年(昭和62年)に株式会社編集工学研究所を設立することになる。(現在、編集工学研究所は丸善 の子会社となっている) 1984年(昭和59年)からは、NTTが主催する「情報文化研究フォーラム」の座長を務める。ジャンルを超えた各界の研究者と議論を交わしながら、情報文化に関する考察を深めていく。また、同時期にNTTの広報戦略アドバイザーの役も担い、グループCFの制作、監修を行う。情報と生命、情報と歴史という視点から映像化した「進化篇」「擬態篇」「図書館篇」といったCFシリーズを生み出し話題を呼んだ。同CFシリーズのうち、「図書館篇」はカンヌ国際広告祭のブロンズ賞を獲得した。この頃からテレビ番組の構成なども務めるようになり、1984年(昭和59年)からはじまった『極める』シリーズ(テレビ東京系列)を監修した。また『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日系列)の企画構成、『ときの探訪』(中部日本放送)の監修も担当。『世界一受けたい授業』(日本テレビ)には2005年(平成17年)から構成協力として参加している。 1990年(平成2年)に放送がはじまった『日本人のこころ』(NHK)では、五木寛之、田中優子とともにレギュラー出演し、日本各地を歩き回りながら、日本文化に潜む魅力とその可能性について討論を交した。また、この時期、リチャード・ワーマン著『情報選択の時代』『理解の秘密』をたて続けに監訳。当時、情報建築家として世界的に注目されていたワーマンを日本ではじめて紹介する。 1995年(平成7年)、愛知県岡崎市の美術館計画にプロデューサーとして関わる。目に見えないもの(心の風景)を感じるという意味から、館名を「マインドスケープ・ミュージアム」と名づけた。 1997年(平成9年)からは、岐阜県で織部賞を開始、総合プロデューサーを担当し、ジャンルを問わずに内外の様々な人物を顕彰する。また、帝塚山学院大学に招聘され、教授としてゼミを担当した。このゼミの内容は1冊の本に編集され、2006年(平成18年)に『17歳のための世界と日本の見方』として春秋社から出版され、4万部を売り上げた。 「千夜千冊」執筆以降[編集] 2000年(平成12年)2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、話題を呼んだ。第一夜は中谷宇吉郎『雪』。2004年(平成16年)7月に良寛『良寛全集』で“1000夜”を達成した。 しかしその直後に胃癌が発覚し、手術入院を余儀なくされる(その詳細は「千夜千冊」番外『退院報告と見舞御礼』に語られている)。しばらくの療養後、再び「千夜千冊」の執筆を開始し、2006年(平成18年)5月22日に柳田國男『海上の道』でもって「放埓篇」として完結した。この放埓篇・全1144夜に大幅な加筆と構成変更を行い、全8冊の大型本『松岡正剛 千夜千冊』として2006年(平成18年)10月に求龍堂より出版された。定価99,750円という高額にもかかわらず初版1000部を完売し、2006年(平成18年)の出版界の事件として話題となる。その後「遊蕩篇」として、1145夜の2006年(平成18年)6月6日(日浦勇『海を渡る蝶』)から1329夜の2009年(平成21年)11月22日(丁宗鐵『正座と日本人』)まで185冊を執筆した。 2009年(平成21年)11月より、「連環編」と「番外録」を開始し、2012年(平成24年)以後、新たに「意表篇」「思構篇」「歴象篇」「分理篇」など8篇を追加、現在は計10篇のテーマインデックスで定着している。同年、松岡自身が「千夜千冊」を語り伝える音声コンテンツ「一册一声」の配信をスタート(オーディオWebマガジン「方」で月2回配信)。2013年(平成25年)橋本達雄編 『柿本人麻呂』で“1500夜”を達成し、記念イベント「千夜千冊ナイト」を開催した。 また、長年培ってきた編集的世界観に基づき確立した「編集工学」をもとに、2000年(平成12年)6月、「イシス編集学校」を設立し、校長に就任。単なる文章術にとどまらない、プランニングからコーチングまでを幅広くカバーする「編集術」を伝授するという独特なスタイルが評判を呼んでいる。一方、2005年(平成17年)からは企業の次世代リーダーを育成するための直伝塾、「ハイパー・コーポレート・ユニバーシティ[AIDA]」を開始するなど、独自の編集的世界観をもとにしたカリキュラムを多方面で応用・展開している。 2003年(平成15年)には、長年にわたって研究・思索してきた「日本文化にひそむ方法」を伝承することを目的とした特別塾「連塾」をスタート。山口小夜子、柳家花緑、田中泯、高橋睦郎、森村泰昌、真行寺君枝、内田繁、浅葉克己、しりあがり寿、井上鑑、井上ひさし、押井守、岡野弘彦、いとうせいこう、川崎和男、藤原新也、といったジャンルをこえた多彩なゲストとともに対話を深めてきた。また、松岡正剛を囲みながら日本文化における創作技術や伝統の精神を学ぶためのサロン「椿座」を開催。このような日本にかかわる活動の多くは、資生堂の名誉会長福原義春を代表理事とする一般社団法人「連志連衆會」を母体として行われた(2012年10月に連志連衆會は解散したが、「椿座」は「蘭座」に名称を変え、新たな活動として引き継がれている)。 2009年(平成21年)10月には、丸善丸の内本���に、松岡正剛プロデュースによる松丸本舗をオープン。ショップ・イン・ショップという形態、松岡をはじめとする著名人の書斎を再現した本棚など、その斬新な店舗づくりが話題を呼んだ(実験店舗としての3年間の役割を終え、松丸本舗は2012年の9月末をもって閉店。その詳細は、『松岡正剛の書棚:松丸本舗の挑戦』(中央公論新社)、『松丸本舗主義:奇蹟の本屋、3年間の挑戦。』(青幻舎)で明かされている)。2011年(平成23年)には、イシス編集学校の有志とともに体系化した知のカテゴリーである「目次録」を公開し、それをもとに新たなコンセプトによる書籍探索エンジン「システム目次録」を開発。書物という情報単位から意味をとり出し、システムに応用した、連想検索の仕組みを研究し続けている。 2010年(平成22年)平城遷都1300年祭の集大成として「平城京レポート」が作成された。レポート作成につき、奈良県と随意契約をしたのは松岡正剛事務所と編集工学研究所、財団法人日本総合研究所だが、レポート執筆にはISIS編集学校の師範、師範代、師範養成コースのコーチが多数参加していた。1300年祭終了後、レポート284ページ中に170ヵ所の誤記・間違い・要確認箇所があることが判明し、その杜撰な編集ぶりが報道された。 2012年(平成24年)には、経済産業省によるクール・ジャパン戦略の一環として、官民有識者会議の座長代理、CREATIVE TOKYOフォーラムでの講演を担い、日本文化のクリエイティビティを伝えるコンセプトブック『Roots of Japan(s) 面影日本〜日本の本来と将来のために』を監修。一方、奈良県(荒井正吾県知事)と共同で行っている、東アジア(日中韓)の目指すべき進路を構想する「NARASIA」のプロジェクトでは、定期的に「NARASIAフォーラム」を開催し、有識者をゲストに招き、文化的、経済的テーマを深めている。2013年には、松岡監修による東アジアジャーナル『NARASIA Q』が創刊された。 2013年(平成25年)からは、長年拠点としてきた港区赤坂の事務所から世田谷区赤堤の新事務所へと移転。建築家の三浦史朗、スペースエディターの東亨らとのコラボレーションにより、万巻の書物に囲まれたイベントスペース「本楼」(ほんろう)と、本の茶室空間である「井寸房」(せいすんぼう)をかたちにした。念願叶って実現された、この6万冊の書物で構成された共空間は「GISIS」(ゴートクジISIS)と呼ばれ、読書術にかかわるワークショップや、編集工学を伝える講義が日々行われている。 2014年(平成26年) 平城遷都1300年祭「弥勒プロジェクト」の一プロジェクトで奈良県が七千万をかけて製作した地域交流サイト「NARAcom」「NARApedia」が公表されず一般に知られることもないまま閉鎖されていたことが判明した。このサイトは「東アジアの未来を考える会」(松岡正剛幹事長)が奈良を中心に据えた東アジアの知のアーカイブとして構築していたはずだった。奈良県からサイトの構築運用を請け負っていたのは、松岡正剛事務所、編集工学研究所、財団法人日本総合研究所のJV(共同企業体)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/松岡正剛
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