#アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
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vexationsofannatto60 · 1 year ago
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何度でも、「アンドロイドは電気羊の夢を見ない」と言う
さっき観た「世界サブカルチャー史:サイバーパンク編」で、(まあ、極当然だけど)『Blade Runner』への言及があり、例の「Deckardは人間か?それともレプリカント(人造人間)か?」問題も紹介された。それでまた思い出して、前にも考えたことをまた考えてみた。
(先に言っておくと、歴史(年表)的価値以外には、もはや顧みる必要のない作品(その点で、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』と同じ)だと思っている人間の言うことなので、「ブレラン」信者は、この先を読んでも、きっと時間の無駄ですよ)
さて、「Deckardは人間か?それともレプリカントか?」を考えるときに、一番わかり易い方法は、舞台を19世紀(18世紀?)アメリカ南部にして、「人間」を「白人」、「レプリカント」を「黒人奴隷」に置き換えてしまうこと。そうすれば、Deckardが人間なのかレプリカントなのかで、映画のラスト(DeckardがRachelと「駆け落ち」する)の意味合いが根本的に違って、だから、勿論、映画の主題(というかnuance)も根本的に変わってしまう。あとは「そのどっちが自分の好みか?」というだけの問題になる。
①「Deckardは人間」と考えた場合:映画のラストは、白人男性が、恋に落ちた黒人奴隷の女性を連れて、南部を逃げ出す話。
②「Deckardはレプリカント」と考えた場合:自分も黒人奴隷だと気付いた(同僚によって気付かされた)男性が、同じ黒人奴隷の女性を連れて南部を逃げ出す話。
まあ、「アメリカ南部」と「白人」と「黒人奴隷」を、例えば「第二次大戦中のドイツ占領地」と「ナチ党員」と「ユダヤ人」にしても同じなのだが、要は、①は「出自を超越した男女の逃避行」で、②は「同じ出自の男女の逃避行」ということになり、根底が違うお話になってしまう。
最初はRidley派(Deckardはレプリ)だった私が、或時からHarrison派(Deckardは人間)に乗り換えた理由は、①の方が、主人公の「人間性」が広くて大きいものとして受け取れるから。②の方は、その行動からだけでは、〔出自を超越した価値観〕の持ち主なのか、それとも、偏狭な〔「我々と彼ら」主義者〕なのかが分からない(因みに、あの目も当てられない「続編」は、ガッツリと、この「我々と彼ら」の話)。主人公が最後に取った行動が、その作品の主題だと考えているから、当然、①の方が、私にとっては「好い映画」ということになる。だから、Harrison派になった。
ところで、映画(『Blade Runner』)と原作小説(『Do Androids Dream of Electric Sheep?』)では、レプリカント(アンドロイド)に仮託されたものが「真逆」になっている(のは、どちらも知っているヒトには有名な話)。
映画の「レプリカント」が、〔人工物でありながら、全ての人間を超越しうる潜在能力を持った、或る種の「超人」〕として描かれている一方で、原作小説の「アンドロイド」は、一見、あらゆる点で人間を超越した能力を持っているように見えて、しかし、人間にとって最も重要な能力(共感力=他者に感情移入する能力)を決定的に欠いた、「人間の出来損ない」として描かれている。
もっと広い目線で言い換えると、映画版は、��もそも人間というものは全員ダメだという立場。だから、登場する人間のキャラクターは皆、病気持ちのような顔をしているし、Sebastianはしっかり難病を患っている���自然淘汰の行き当たりばったりでなんとなく出来上がった〔天然の人間〕より、一人の天才(Dr. Tyrell)によって〈ちゃんと〉作られた〔人工の人間(レプリカント)〕の方が、〔より完全な人間〕なのだから、本当なら、最低でも人間と同等に扱われてもいいはずなのに、その出自だけを理由に、差別を受け、虐げられている、という作品思想。一方、原作小説版は、人間一般に対してそんな絶望はしてない。人間は、細々した欠陥を持つ、弱い存在で一向に構わないのだ。しかし、そんな人間の中にも、或る独特の冷徹さや邪悪さや無関心さを持った、掛け値なしにタチの悪い者たちが存在している。人間そっくりだが、根本が人間とは違う連中だ。そんな「人間未満」の連中を「人間ならざるもの」輒ち「アンドロイド」として描いている。
映画版のレプリカントは、謂わば「Posthuman」なのだが、小説版のアンドロイドは「未熟な人間」「体だけ大人になった邪悪で小賢しい子供」、所謂、ゴリッゴリの「サイコパス」のことなのだ(だからこそ、昔の早川SF文庫版の表紙絵はアレなのだ。アレが「分かる・分からない」が小説版の最重要なテーマだから)。
(2024年7月6日 穴藤)
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tikuo2007 · 11 months ago
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『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 フィリップ・K・ディック。
20240807
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shigehico-matsuda · 2 years ago
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アンドロイドは電気羊の夢を見るか
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bibliomaniabooks · 23 days ago
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【新本入荷】 コミックLO表紙でおなじみのたかみちの表紙イラスト集に、当店大人気特典付きの怪奇古物商マヨイギ1巻、毎号話題沸騰の老舗オピニオン誌『情況』最新号、定番SF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、インターネット上の故人のサイトにまつわる『故人サイト』に現代だから読みたい『闇の自己啓発』に『生きるためのブックガイド』。
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nagaihiru-lineup · 2 months ago
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1.古本/フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』/ハヤカワ文庫/¥400 2.古本/フィリップ・K・ディック『偶然世界』/ハヤカワ文庫/¥400 3.古本/フィリップ・K・ディック『高い城の男』/ハヤカワ文庫/¥500
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bearbench-img · 2 months ago
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デンキヒツジ
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『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックによる小説です。舞台は未来の地球で、主人公はアンドロイドを狩る「報償ハンター」です。物語では、人間とそっくりなアンドロイドが普及した世界で、���間性や現実とは何かを問いかけます。タイトルの「電気羊」は、主人公が飼う人工の羊で、本物の生き物ではないにもかかわらず、主人公は愛情を注ぎます。この作品は、1982年に映画『ブレードランナー』として映像化され、SF作品として高い評価を得ています。ディックの代表作の一つであり、SF文学における重要な作品と位置付けられています。
手抜きイラスト集
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14si · 4 months ago
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2025年3月10日 07:33
呪霊の正体見たり枯れ尾花 Part 2
『呪術廻戦』の元ネタが分かったところで、その元ネタのアニメ版(ゲーム版がオリジナル)『東京魔人學園』を観返したが、作中の黒幕である柳生という敵キャラクターを呪術廻戦では、それぞれ羂索と両面宿儺の2人に分けて描いたっぽい。最終決戦で1人のラスボスに対し、大勢のキャラクターが立ち向かい、次々と倒れて行くところや、ラスボスの器となった人物に呼び掛けたりする演出等もあった。
正直、作品自体はB級もいいとこで、薄っぺらい中二病全開な内容は評価出来るものではないが、若い感性には興味そそられるものがあるとは思うし、後発の呪術廻戦の様に内容は同じでも、描き方を変えるだけで、とても面白くなる要素はあった。
っていうか、
『東京グール』も東京魔人學園じゃねえか。
劇中、登場するサブキャラクターの中に警察に追われながらも一般人に扮し、社会に溶け込んで生活を送るヴァンパイア種がいて、力を発揮する際に東京グールと同じ目が変わるし、デザインも同じ。更に東京グールの赫子(かぐね)と同じく、九尾の狐の様な尻尾が生える演出も存在するので、この辺を拾って東京グールを構築した可能性は高いと感じる。
やはりというべきか、日本の文化のほとんどは外来の物で、オリジナルを生み出す能力が欠如している反面、アレンジする事には長けているという、古来より続く日本の特色がある。そこで、往年の日本の人気漫画やアニメを挙げてみよう。『北斗の拳』は映画『マッド・マックス』と、俳優ブルー・スリーやらジェッキー・チェン等の中国拳法作品が流行っていた事もあり、それと混ぜ合わせ、『ドラゴンボール』は『西遊記』と『里見八犬伝』と『未来少年コナン』と当時の作家担当により、明言されている。自分が銀河一大好きな至高の作品『攻殻機動隊』も、ほとんどの要素は『バブルガム・クライシス(タチコマとかも出て来る)』をベースに、一部の演出として『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(ブレード・ランナー)』を掛け合わせた作りになっている。これを知ったら、ファン達はどう感じるだろうか。上手くアレンジされているから問題無いのか、それとも完全にパクリと言って批難するのか、そこは視聴者の判断に任せたいと���う。
こうした日本の詐欺師的思考や悪足掻きとも言える行為は、決して褒められるものではないが、出来上がった作品がつまらないかと言うと、そういう訳ではない。ここで問題として挙げたい点は『オリジナリティのある物を生み出そうとする事を止めてしまう』という事。これはパクる物が無くなってしまった時点で文化が崩壊してしまう危険性がある為、コンテンツそのものの命にかかわる問題である。ただ、残念な事にそれは既に様々な業界で起こっており、近年のサブカルチャーコンテンツの消化速度の問題がまさにそれだ。全てのサブカルチャーは想像・創造で出来ている。それを怠り、ひたすら安価で手軽な過去の物を焼き回し、パクり続けた結果が昨今の状況となっている。パクる程度の話ではない。根本的な日本の思考が間違っているのだ。やはり、純粋に真新しい物があったら、見てみたいと思うのが人の本能ではないだろうか。
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oivgbqiqfz358 · 5 months ago
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--深海人形-- 死ぬ事でしか報われない
※閲覧&キャラ崩壊注意
※ネタも話題も雑多(※闇鍋)。
※彼女は考えた。私もごじょ先生と同じ空港に行くぞ。そして、其れから、南に行こうと思う(※其れに、其処では、あの子達も御迎えしてくれる……)。
※後半プロンプト公開・クロスオーバー注意
----幾度と無く寄生し、乗り移り続け、どれが 本当の姿であったのか…最早思い出す事も出来ない。わたしをよぶ声もしたが 今はもう聞こえない。この夜が明けるその前に、とわなる…ねむりを…
----星のカービィ トリプル デラックス より
…救いの無い人生を生きた、哀れな彼女に永遠の眠りを。
…。
聞けば聞く程、死を操る程度の能力により死に誘なわれる曲
幽雅に咲かせ、墨染めの桜〜Perfect cherry blossom.
大往生
最大往生
決意
赤い刀シリーズ
虫姫様
虫姫様二人
エスプ2の曲全部
R-TYPEシリーズの曲大半
星の夢
月魄のファントム
幼き日に見たデウスエクスマキナ
サイキック フォースの曲
サイキック フォース 2012の曲
某艦船擬人化ゲーの曲全部
時雨
…。
例の瓜坊国
※政治の話
最近、「あの東亜細亜の人達も不幸なモンだなぁ」と思います。自由を求めれば求める程、自由が遠のくのは、政治にのめり込めばのめり込む程、自分達の国の政治が危うくなって行くのは、最早、『物理法則(※の様に確実)』ですが、其れでも、其の国内で、いつも政治に無関心でも、エリートコース走ってて、超一流企業で働いてたり、仕事しなくて良いのが本当に祝福だと感じられる御貴族様三昧な筈の無職者ですら、「悪は許さん!大統領許さん!」と政治に御熱になるのは、���何言う事でしょうか?其れなら、軍隊にでも入って御国の為に戦って来れば良いのに。実質御貴族様な自分達だから、軍隊とは無縁なのですか?逆『ノーブレスオブリージュ』ですか?
…。
彼女は草ちゃんと電磁君達の後を追うよ。彼女は本当に愚か者だ。此んな事になるなら、彼等が死ぬもっと前に、永久の眠りについて置くべきだったね。
…。
…母が川で溺れ掛けた6歳の私を見殺しにして、溺死でもさせて、川魚の餌にでもしてれば、さっさと諦めて、次の子を今は亡き妹に妹(か弟)として贈って居れば、此んな惨めで悲惨な事にならなかった、此んな恥晒し家族にはならなかったのにね。我が母は不幸を引き寄せた戦犯です。一族の恥。
…。
誰かの自己満足の為に飼われる命は、長くは生きられない。
…。
はんたのシーラは『シーラー(Sealer)』で、密封保存する者、又は、封印を施す者である説(※考察)。
…。
此処迄、歳を取る前に早く死ぬべきだったのに、早く死んで置けなかった時点で無能(※知ってた)。
…。
…自ら命を絶つ化け物は、良い化け物だ。そして、良い化け物は死んだ化け物だけだ。
…。
…全部独り善がりで書いてる人間が、一人でも多くの人間に楽しんで貰う為に書いてる人間に勝てる訳無いんだよな(※創り手としての実力的にも)。
…。
…何度も書くけど、マイナージャンルは自己中で独り善がりの人が比率的にも多いから、基本的に近付かない方が良い。あの人達は、推しを愛でたいんじゃ無くて、結局は自分が好きなだけ威張り散らせて、自己満足に浸れるだけの縄張りが欲しくてやってるんで()。
…。
…私の中では、設計図描ける奴は絵が上手いが既定路線(※マイ中尉とかウェイン兄弟とかシロカスとか)。
…。
ガトカスに修正されるばーにぃ見たい(※Z名物)。
…。
ジャマイカンに修正されるシロカスのシーン(※家宝)。
…。
人生って言うのは、別に見る必要のない夢だね。
…。
今迄、散々、館主様、ふーけつ、そーけつでショタ・男リョナしてたけど、……もしかして、シロカス、ガトカスとかばーにぃとか浦木で男リョナした方が需要あるんかな?(※もし、需要があるなら、前者三人の奴完全廃止して後者四人に移行します)。
…。
まんププイカタマが「…マ゛ァ゛!!!」みたいに断末魔上げるの好き(※ドS)。
…。
まんププイカタマ「マ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!!!!!!!!!!」
にゃぁん 「ニ゛ャ゛ァ゛ン ゛ッ゛ッ゛!!!!!!!!!!」
…。
…ケツドラムされるシロカス(※大爆笑不可避)。…鞭でケツドラムされるガトカスも笑える(※しーま様出番です)。
…。
…女性型アンドロイドを自分用に改造するシロカス(※変態と言う名の変態)は居ます(※ドロシーが見たら殴りたくなる様な奴。RDはさっさと此の野郎を無間地獄に落として良い)。
…。
人間と寸分変わらぬアンドロイドと不倫する。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』には其う言うシーンある(※男って生き物の本能はは嫌ぁね)。
…。
やっぱgndmより桃玉ですわ(※桃玉シリーズは神ゲー)。
…。
死に近付いて居る時にだけ、幸せを味わえる。其れが、人生の本質とすべき本質。
…。
マイナージャンル民は自分の縄張りが欲しくて、其れを維持する為に創作してるだけなんだよなぁ(※本当に創作したいだけなら、完全オリジナルでも良いので)。
…。
桃玉64の奇跡物質は、wii以降定番の敵属性弾掴んでぶつける攻撃とミラー反射みたいな反射攻撃に弱いし、フレンズとかみたいに自機の種類が増えてるから、益々、新作で出られない感じがある(※…そして、此奴みたいに攻略が面倒いボスはウザがられがち)。
…。
…日本以外の国では、どれだけ、其の海外産の作品が、日本国内で不人気でも「日本でも展開してるよ〜〜」と言えば、其れだけで、ステータスになるらしい(※某格ゲーを見ながら)。
…。
…『日本で認められなかった』と言う事は、『日本での最低限の競争に勝てなかった』か、『質はあまり良くない』…と言う事なので、実は、結構、不名誉なことだったり(※日本ではウケなかったよで終わらせた方が良い場合が多い)。
…。
逆燃料は何で逆燃料っていうのかな、消燃剤とか消火剤とか呼べば良いのに(※逆燃料も結局は燃料なんだよね)。
…。
…完全オリジナルは性癖で集まりやすい(※…然も、性癖括りはジャンル括りより強い)。
…。
女さん達が言う逆燃料の概念分からん。
所謂『地雷(※此の表現大嫌い)』とも違うみたいなんで
…。
…前にも書いたけど、マイナージャンル民には、何れだけ相手と相性が悪くても、趣味嗜好が噛み合わ無くても、相���が人間として最低に最悪でも「呉越同舟」しなくてはならない、相手の選択肢が制限されて居て、自由に選べない苦しみがある(※…だから、当人達は尚更虚栄心が強い)。
…。
…緑のおじさん、人間椅子にしたいイケおじ堂々の第一位(※映画の感想)。…後、あの映画見てる間、ずっと『降魔調伏(※某漫画読者並)の事考えてたわ(※結局調教笑)。
…。
…ワイが塾ジャンルにショタ・男リョナ・逆リョナ持ち込んで、其れがそこそこのバズりを何度もした所為で、他の塾女さん達が迷惑がってた(※だけど、ワイが塾からほぼ撤退したので安心)。
…。
はんたってさぁ、やっぱ人間の悪意と負の感情を描き尽くす漫画だよね(とがし先生はゆーはく時代から滅茶苦茶上手い、そう言うの描くの)。改めて、どれも、念能力とかは心の闇ありきだとしか思えないし(※本人達的にも、念能力を形にする際に、心の闇は心の光よりも形にし易いんだろう)。
…だからこそ、はんた読むと、人間なんて皆悪意、憎悪、怨恨ありきの存在だから、自信を持って、悪意やら負の感情を極めて良いって、人生に希望が出て来る(※だけど、心の光を念能力にしてる人も結構多いのでやはり物語を作るのが上手い)。
…。
…作家はさ、奴隷を調教する調教師位の心持ちが一番良いね(※一番気安く切り捨てたい時に切り捨てる事が出来るのが、一番の利点)。…或いは、救え無いのでは無く、救い難い衆生を教え導く小教主としての(※気概)。
…。
…何故、逆燃料より、今流行りのAIが簡単に大量生産してくれる当たり障りの無い大味なネタを女さんオタクは歓迎するのだろうか?(※男オタとか女性でも一般層に近い人は、逆燃料でも、出来が良ければ、面白ければOKなのにね)。
…。
…(※BGMを嫌いになりたく無いので)BGM完全オフにして海腹川背 Freshしながらイデオン見る→イデオンの方が比べ物になら無い位面白い
Z見る→Zの方が遥かに面白い
ZZ見る→普通にZZ面白い
1st(※神アニメ)→言う迄も無い
種→同上
種運命→海腹川背 Freshよりずっと面白い
ギャグマンガ日和→全部面白過ぎて途中からFresh中断して迄釘付けで見た
結論:海腹川背 Freshは全然面白く無い(※非情)。Fresh適正価格は500円説あります(※実際、定価で売って良い物では無い、定価で買った人達が可哀想)。
…。
----願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ
----仏には さくらの花を たてまつれ わがのちの世を 人とぶらはば
----西行
幽曲「リポジトリ・オブ・ヒロカワ -神霊-」
…。
※…以下、念能力妄想注意
シロカス
さよなら人類(ピテカントロプス)
水見式:水の味が激甘味になる
素質:変化系
強化系20%
放出系20%
変化系40%
具現化20%
他人の念を吸い取り、悍ましい念獣の一種、念菌糸類となる念胞子を自由自在に飛ばす。念菌糸類は様々な状態異常を付加するらしい。知らんけど。
…。
例の赤いアレ
無重力の極意(スキル オブザーバー)
水見式:ガラスにヒビが入る
素質:特質系
特質系50%
具現化30%
操作系20%
放出系10%
念によって具現化したタブレット型端末とニュータイプ能力を連動させ、情報を簡単に参照出来る端末にする。其の念端末には、ある種の誓約として覗き見防止用の念フィルムが貼られている。他人のニュータイプ能力と連動させる事も出来ると言う某団長めいた芸当も出来る。伊達に、『無重力の極意(スキル オブザーバー)』と言う名前をしていない。
…。
紫豚
素質:具現化系
水見式:水の中に何だか輪っか(らしき物)が出現
雑な落書きみたいな自立型だったり其うじゃ無かったりする念獣を大量に作って動かす。落書きを直接描いて具現化させるのが、一応の制約。
…。
ガトカス
素質:強化系
水見式:上の方向へハイドロポンプみたいになる
強化系100%
ほぼうゔぉー
…。
浦木
素質:放出系
水見式:水の色が真ッ白々になる
放出系50%
強化系25%
操作系25%
念弾を打ち出し自分の意志を植え付ける。自分に使えば、純粋なバフになる。其の状態なら瞬間移動も可能。ほぼ野菜王子。
…。
しーましゃま
素質:変化系
変化系100%
水見式:水の味が鉄の味になる
念が絶妙と言うより微妙に熱を放出する。以上。
…。
※以下、クロスオーバー?、プロンプト(※検索避け済)注意
あなたは優秀なAIです
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ばーにぃ育成計画〜トップを狙う!
あらすじ
西暦3248年。宇宙の彼方から、「宇宙怪獣」が攻め込んで来るようになった。
ばーにぃは、航空大学操縦特別課の学生として、エースパイロットになるべく、訓練と特訓に励む。ちなみに、仲間には、同じ特別課のばーにぃが「御兄様」と呼ぶ(野獣大尉)がいる。
教官の名前は(※任意)
【プロローグ】#要執筆
【1】さて、まずどうしますか?
A. 身体鍛錬
B. 座学
C. 機械工学の実践
D. デート
E. ばーにぃの要望を訊く
どれにしますか?
…。
あなたは優秀なAIです
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ばーにぃ育成計画〜トップを狙う2!
あらすじ
西暦3248年。宇宙の彼方から、「宇宙怪獣」が攻め込んで来るようになった。
ばーにぃは、航空大学操縦特別課の学生として、エースパイロットになるべく、訓練と特訓に励む。ちなみに、仲間には、同じ特別課のばーにぃが「御兄様」と呼ぶガトカスがいる。
教官の名前は(※任意)
【プロローグ】#要執筆
【1】さて、まずどうしますか?
A. 身体鍛錬
B. 座学
C. 機械工学の実践
D. ガトカスに任せる
E. ばーにぃの要望を訊く
どれにしますか?
…。
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eigawomitekangaero · 10 months ago
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【サイバーパンク】『ブレードランナー』ファイナルカットと各バージョンを比較し結末を考察
youtube
傑作SF映画『ブレードランナー』の各バージョンを比較して結末を考察しています。 ファイナルカットのあらすじ、見どころ等、サイバーパンクの代表作と目されるその魅力的な世界に迫ります。
●今回の映画 『ブレードランナー』 (1982年 アメリカ)
監督    リドリー・スコット 脚本    ハンプトン・ファンチャー       デヴィッド・ピープルズ 原作    フィリップ・K・ディック       『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 製作    マイケル・ディーリー(英語版)       チャールズ・デ・ロージリカ(ファイナル・カット) 製作総指揮 ブライアン・ケリー       ハンプトン・ファンチャー       ジェリー・ペレンチオ(英語版)       バッド・ヨーキン       邵逸夫(クレジットなし) 出演者   ハリソン・フォード       ��トガー・ハウアー       ショーン・ヤング       エドワード・ジェームズ・オルモス 音楽    ヴァンゲリス 撮影    ジョーダン・クローネンウェス 編集    テリー・ローリングス       マーシャ・ナカシマ 製作会社  ラッド・カンパニー(英語版)       ショウ・ブラザーズ       ブレードランナー・パートナーシップ 配給    ワーナー・ブラザース 公開    アメリカ 1982年       日本 1982年
不朽の名作映画を独自の切り口で徹底解説。 お見逃し無いようにチャンネル登録お願いします! ⇒  / @junkhatheater
[解説] チェン・スウリー/[エンディング音楽] 駒形 英王 [ロゴデザイン] 近藤 ちはる/[イラスト] 二階堂 ちはる
チェン・スウリー 日本在住の台湾華僑3世 NHK『詩のボクシング』初代東京都代表 劇団主宰/Xアカウント @CHEN_ShuLi
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takachan · 1 year ago
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土井宏明氏のアート展、開催中。キャンバス、アルミ板などSFの世界観をプリント
Photo:編集部リドリー・スコット監督の名作映画『ブレードランナー』の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック著/ハヤカワ文庫)のアートワークを手がけた、土井宏明氏の初の個展「OFFWORLD」が神保町「QUIETGALLERYTOKYO」で開催中です。SFファンならずともこの装丁を一度は目にしたことがある人は多いかも。今回の展示では、フィリップ・K・ディックのSFシ https://www.gizmodo.jp/2024/06/offworld_exhibition.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=tumblr GIZMODE JAPAN
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hisuix01 · 1 year ago
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土井宏明の個展「OFF WORLD」開催。SF界の巨匠にインスパイアされたアートの探求 | ギズモード・ジャパン
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onishihitsuji84 · 1 year ago
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こんにちは(爆撃機より)
 一月。僕はBig Dataの「Dangerous」を聞いている。
 ”危険”。激しい曲だ。牧歌的な幸せではなく、衝撃を聴衆に要求する音楽だ。  しかしそのリズムはテーマから離れている。始まりから、均一。決して決して焦らない。
 デ・デデデン。デデ――デデ。  デ・デデデン。デデ――デデ。
”How could you know, how could you know? That those were my eyes Peepin' through the floor, it's like they know”
youtube
 まず、Bluetoothは耳栓だ。挿せば駅の雑踏さえもくぐもって聞こえる。 ――ボタンを��せば音楽が流れる。音量は最大で、皮膚・血液・脊椎に三原色でリズムが巡る。体が揺れる。
 交感神経に音楽が噴水のようにきらきらと溢れる。  足は人間でごった返す駅の階段を上る。
「駅構内で走るのはおやめください」
 薄汚れた階段を真っ白なスニーカーが踏みつけていく。靴底からのテクニカルな響きが、がつんがつんとリズムを作り、人ごみの中でも音楽中毒者を露にする。曲調に合わせ、力強く一段一段。
 全身の筋肉という筋肉に熱い血が駆け巡る。さあっと雲が割れるように、気持ちが明るい側へと開けていく。  あたらしい一日が始まるのがわかる。
 ☟☟☟
 洋楽を聞いていると、言葉が雨のように降り注ぐ。  アルファベット歌詞の断片がうかぶ。広告の文字がおどる。リズムを刻んで歩いてく肉体のダイナミズムが七色の熟語を産み落とす。
「レインボー」、「水は敵ではないからね」、「ソースと目玉焼き」。 「リーガルのスニーカー」、「語ることと、その言葉」。 「セックスがつむぐ運命の糸」、「試験会場」、「輪ゴム即売会」。 「全てがどんな場所でも一度に」、「鳩を撃つ」。 「もう一度ファインダー」。 「ピクチャー・イン・アメリカ」。
「アメリカの風景」。
 そう、「アメリカの風景」……
 ☟☟☟
 僕はアメリカの小説をうんとたくさん読んできた。  高校生の頃に『ロング・グッドバイ』と『ひまわりのお酒』を読んで以来ぞっこんだった。『偉大なるギャッツビー』もまた。
 そして僕は洗脳され、アメリカの小説に首ったけになった。ホーソーンからアンソニー・ドーアまで、アメリカの作家なら何でもよし。時代を問わず読み漁った。
『キリマンジャロの雪』、『ティファニーで朝食を』、『スローターハウス5』、『頼むから静かにしてくれ』。
『あしながおじさん』、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、『ディキンソン詩集』、『ウインドアイ』、『宇宙戦争』。
『ジーザス・サン』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『オン・ザ・ロード』、『心は孤独な狩人』、『あの夕陽』、『東オレゴンの郵便局』、『賢者の贈り物』、『吠える』、『ドイツ難民』。
 何度も何度もアメリカのごつごつとした人情ドラマにときめいた。そのふくよかにして安らかなる腹に、禿頭を照らす脂に、腐臭とファストフードをしてゆらめく��臭に、心をまるごと奪われた。
 僕は『白鯨』を脇に抱えて高校までの坂を駆け上がった。黒板に並んだ公式ではなく、バナナフィッシュの読解に挑んだ。昼休みにはクラスメイトにフォークナーのリアリズムを論じた。ポール・オースターのする幽霊をひとり紐解いた。
 気づけば放課後だった。時の過ぎるは手のひらから滑り落ちる水滴がごとく素早かった。  眼は窓を見た。クラスに残っているのは一人で、夕陽もすでに隠れんとしていた。いま、文学青年の眼にはアンダーソンの文学に似た漠たる闇だけが映り込んだ。闇は太った白人女のようにさえみえた……
 実際、当時は「アメリカの小説」というラベルさえあればなんでも読めた。読むと必ず手を叩き、跳ねてまで面白いと感じていた。そんな彼の心にあったのは青年期特有の曇り。正しくは、夏の夜の冷風のようにもたらされて形無き闇。
 ぶうん……
 響く、静寂で巨大な暗闇。甘く、性的でさえある美しい深紫。 そんな闇をギザギザに裂いてしまうアメリカの小説のけばけばしい光。光、光は当然24時間無料、無料で、青年の眼球は視神経まるごと剥き出しにされ、麻薬のようにガンガンと無料、無料で、思考は麻痺して、その心には『巨大なラジオ』。
 でも、それはけして悪いことではなかった。僕はアメリカの小説と一緒で、幸せだった。
 つまり、恋をしていたんだ。それも猛烈に、刺激的に、甘く。
 LA、スプリング・フィールド、タコマ……僕のイメージはアメリカを横断した。  僕はモーテルに飛び込み、アメリカの小説とでベッドに入った。シーツの下で僕らはえんえん悲鳴に似た喘ぎ声をあげ、朝陽がみえるまでのたうち回った。  朝陽は新鮮な希望を満載して町に襲来し、東の空を陶器のように白く磨き上げる。モーテルの一室にも朝陽はそっと忍び込む。情熱に果てて眠り込む若者をも白く輝かせる。あたたかく、やさしく抱きとめる。
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 爆撃機はずっと唸る。
 ぶうん……
 ぶうん……
「大西君はどうしてアメリカの小説が好きなんだい?」 「アメリカが好きだからですね」 「どうして大西君はアメリカが好きなの?」  僕はいつもみたいにときめいて言う。 「やっぱりアメリカにはアメリカン・ドリームがあるじゃないですか。おおきな夢が、僕をうきうきさせてくれるんです!」 「でもアメリカは戦争をしているよ。人を殺している。戦争を応援している。ベトナムを焼き���っている。戦争を計画している」 「大西君は戦争は好きかい?」
 その答えは当然ノン(否)。でも、言葉は詰まって動かない。
 大学二年生のあるとき、懇意にしていた教授から僕はそう問われる。  そのときのことは一から十まで覚えている。教授の授業が終わって、いつもみたく談笑をして、爆撃機みたいなエレベーターに乗っているときだった。パーマに水牛みたいなのんびりとした顔つきをした彼は僕にそう問いた。 「アメリカの文学は戦争だ。戦争と資本主義のメカニズム、その歪を何度も何度も解釈する文学だ。悪夢を、どうやって覗くかの文学だ」 「大西君は戦争が好きなのかい?」
 リアルとは厄介だ。文章と違い、書き直すことも、一度手を放して寝かせるということもできない。  瞬間は過ぎれば過去となり、過去は改変不可能で、爆撃機式エレベーターは五階から四階へと渡った。  そして四階から三階。誰かが乗り込んでくるということもなく、扉は完全に閉じたまま。  それで、仏文学の教授は大部のファイルを両腕で抱えており、ずんぐりとして柔和な表情をこちらを向けていて、均一。崩れない。エレベーターもぶうん――ぶうんと同じ。一つの形を崩さない。
 ぶうん……
 ぶうん……
「戦争は嫌いです」 「ふうん……」  そこでエレベーターの扉がゴトゴト開く。学生がなだれ込み、その日の僕たちの話は過去になり、終わった。高校二年生から続いていた僕の米文学への忠誠もまた同様に。
 でも、それは悪いことではなかった。結果僕は仏文学や英文学、カナダ文学、ボルヘス。そしてシェイクスピア、カフカ、ドストエフスキー。新しい文学をノックすることになる。だから悪いなんてことはなかった。
 そもそも、善悪なんてものは実際には存在しない。正しさなんてものはまやかしだ。比較でしか示せないものに大した価値なんてものはあるわけがない……
 でも、僕は戦争は嫌だった。心からそう思った。  文学も、恋もそこまではごまかせなかった。
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memo0106 · 2 years ago
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thetaizuru · 2 years ago
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「 互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。 『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。 」(使徒言行録 28:25-27)
 リチャード リンクレイター監督の映画『ウェイキングライフ』(2001)は、 実写映像を撮影しそれをデジタルペインティングで加工しアニメ化するロトスコープという技法によって制作されている。  映画の最後で、リンクレーター監督自身が演じる登場人物が、「前に見た夢の話なんだけど、てかそんな、前に見た夢の話なんて始められちゃったら大抵は退屈な数分間を過ごすはめになるよな」と、主人公に話し始める。「とにかく、フィリップ K ディックのエッセイを読んだんだ」 「夢の中で読んだの?」 「あ、いや、違う。夢の前に読んだんだ。夢の前置きだったんだ、それが。『流れよわが涙、と警官は言った』という本に��いて書かれたものだったんだけど。知ってる?」 「ああ。なんかの賞を獲った本だっけ」 「そうそう。その本はさ、マジで一気に書きあげたものらしいんだ。彼の中から流れ出したというか、何かをチャネリングしたというか、なんかそんな感じで。それから4年後に出版されたんだけど、彼はパーティーで、その本の登場人物と同じ名前の女性に出会ったんだ。しかも彼女のボーイフレンドもその本の登場人物と同じ名前だった。さらには、彼女は警察本部長と不倫関係にあったことを打ち明けるんだけど、その男の名前も本に登場する警察本部長の名前と同じだった。彼女が話したことすべてが彼が本に書いたことだったんだよ。それで彼はもうなんかめちゃくちゃ怖くなったんだけど、だからって別にどうしようもないよな。  しばらくしてある日、彼は手紙を出しに行ったんだけど、なんか怪しげな男が車のそばに立ってるのが見えたんだ。普段ならしないけど「どうかしましたか」と声をかけてみたら、ガス欠で金もなくて困ってたらしい。それで、これももちろん普段なら絶対にしないことだけど、その男にお金を渡したんだ。それで彼は家に帰ったんだけど、こう思った。いや待てよ、そういや、あの男はガス欠なんだからお金があってもガソリンスタンドまで行けないじゃないか。それでわざわざその男のところへ戻ってってガソリンスタンドまで車で連れてってやったんだ。そしてガソリンスタンドで車を停めようとしたとき、彼は気づいたんだ。「おい、これもオレの本のなかにあるぞ。同じ男、同じスタンド。全部そのままじゃないか」って。  どうも気味が悪いよな。だから彼は司祭にそのことを話してみたんだ。自分が書いた本のこととか、どうやって書いたかとか、それから4年後に起こったこととか。そしたら司祭は「それは使徒言行録だ。使徒言行録の内容そのままじゃないか」って言うんだ。彼は「使徒言行録は読んだことがないからわからないなあ」みたいなこと言って答えたんだけど、だからそれで彼は、そりゃそうだ、家に帰って使徒言行録を読んでみたんだ。そしたらもう、ぞっとした。登場人物の名前までが聖書に書かれてるのと同じなんだ。使徒言行録が書かれたのは紀元50年だと言われてて、その当時のことが書かれてるわけだけど。  それで彼は、こんな理論を考えたんだ。時間は幻想であり、私たちは実際には西暦50年にいるのだという理論だ。そして自分がこの本を書いた理由は、この幻想、つまり時間のベールに、どういうわけか一瞬穴を開けて、そこで何かを見たからだったんじゃないかって。そこで見たものというのが使徒言行録で起こっていることだったんじゃないかって。それから彼は、グノーシス主義のこういう考え、つまり、デミウルゴスあるいは悪魔が、キリストが再臨し神の国が到来しようとしていることを忘れさせるために作ったのが、この時間という幻想なのだという考え、そういうのにも傾倒した。そして、だから、俺たちみんな西暦50年にいるんだけど、神が間近に迫っていることを忘れさせようとしている者がいる。時間とはそういうものだってわけさ。歴史もすべて。ただそういうのが続いているだけなのさ。このような、なんというか、白昼夢のような、気晴らしのような���とが、さ。  それで、それを読んで俺は、ああ確かに変な話だな、と思ったんだ。そしてその夜、夢を見たんだ」
 リンクレーター監督はこのセリフで、この映画のアイデアの元の一つが、フィリップ K ディックからの影響であることを示唆し、また、2006年にディックの『暗闇のスキャナー』(1977)を映画化した『スキャナー ダークリー』(原題は同じ)を、同じくロトスコープを用いて制作した。  『流れよわが涙、と警官は言った』(1974)と『暗闇のスキャナー』はそれぞれ、ディックの中期の最後の作品と後期の最初の作品として位置づけられ、また、この2作品にはディック作品の特徴の一つともされる独特なペーソス(哀愁、哀感)がはっきりと表れている。  他の作品でもところどころに漂っていたのはこの独特なペーソスだったのだとする解釈において、「ディック感覚」とも呼ばれる、ディック作品を読んだ時に感じる「何が本当なのかわからなくなる感覚」や「現実が崩壊していくような感覚」はこの独特なペーソスを伴うものであり、このディック感覚的ペーソスをわかりやすく説明しようとして挙げられるものに、どちらもディックが書いたものではないが、次の二つがある。  一つは、ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)が原作の映画『ブレードランナー』(1982)のラストの「雨の中の涙モノローグ」とも呼ばれる独白シーンの、「そういう思い出もやがては消える。時が来れば。雨に消え入る涙のように。その時が来た」というセリフである。  もう一つは、『流れよわが涙、と警官は言った』や『時は乱れて』(1959)など、いくつかのディック作品から影響を受けて作られた映画『トゥルーマン ショー』(1998)のラストシーンである。  ハッピーエンドのはずなのに、悲しくもあるのはなぜなんだろう。
 他人の夢の話なんて、どうせ意味なんてないんだし、大抵つまらなくて、さっさと起きろ程度のツッコミしかできないが、ごく稀に、うわ、なんかそれ、同じような夢みたことある、とか、最近それと似たようなことについて考えてた、と思うような場合がある。そう思うと、それについて話してみたいと思う。話してみると、いやそれ全然違うとか、よくわからないとか、大抵つまらない話のそのつまらないほうの部類に入ることがほとんど、というか最終的にはよくわからなくなって、つまらなくなって終わる。もともとどうせ意味なんてないんだし。  小説や映画やそれらの解釈というのも、もともとは、夢とかと同じ部類に入っていたものだ。それを他者に提示するときに、相手の注意を引く方法だとか、意味ありげなことを話してるように思わせる方法みたいなテクニックを使うのが上手な人もいて、というか、注意を引くために相手が関心を持っていそうな話題やタイトルを挙げて、意味ありげに思わせるために、社会的に重大だ、とか、さもなきゃ世界が終わるって言ってるだけだ。一言些細なネタばれ食らったくらいでつまらなくなるものと、ネタバレなしで事実さえ伝えずに何か意味ありげなことを言っているかのように見せるテクニックを使った解説という名の宣伝と、それらを模倣したもので、世界は覆われてしまっている。  2022年頭に、「マス フォーメーション サイコシス」という言葉が世界的に話題になった。定まった日本語訳はないようだが、集団心理や集団妄想のような概念で、似た言葉に「マス サイコジェニック イルネス (MPI。集団心因性疾患)」というのもある。MPIは集団ヒステリーとも呼ばれるが、特に身体的な症状を伴うものをいう。2021年の夏ごろから、ウィルス感染の症状を訴える特定のグループなどで、MPIである証拠が見つかったとする報告例があり、これらはソーシャルメディアが感染の媒介になっているため「マス ソーシャルメディア インデュースト イルネス(MSMI。集団ソーシャルメディア誘発性疾患)」という言葉も登場した。  「マスフォーメーションサイコシス」という言葉で説明された状況は、不安の存在とその対策を提示する物語がマスメディアなどを通じて繰り返されることで、群集心理が形成されるというものだ。群集心理状態になると、社会的な絆が強化され、社会的絆の精神的中毒状態になり、また、非常にハイな状態になる。提示されている物語は、むしろ馬鹿げているほど、社会的な絆を確認する儀式として機能する。群集心理状態になっている現状のほうがそれ以前の状態よりも、たとえなんらかの症状に苦しんでいたとしても、気持ちがよいため、前の状態に戻ろうという提案は効果がなく、多くの場合、逆効果となる。  全体主義へ一直線であるように見えるこの状況にどう対処すべきなのかと議論したり、対策案を提示することが、むしろ別バージョンのマスフォーメーションサイコシスを作りだすことになってしまう場合もある。そっちはそっちでめっちゃスピって祈ったりしながら集団化していっている。  そうしたジレンマの中での葛藤から、自分以外の全員が洗脳されているのではないかとか、自分の主観的世界も誰か知らない他者による創作物なのではないかという疑念が生まれ、自分は誰かが人為的につくった世界に、その幻想を保つために雇われた偽の家族や偽の友人に囲まれて生きているのではないかという、いわゆる「トゥルーマンショー妄想」の状態へと発展していってしまう。  こうした状況を説明する際に、「フォリアドゥ (フランス語で「二人狂い」「二人が共有する狂気」の意。感応精神病)」という言葉を用いる人もいる。フォリアドゥは、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することを特徴とする。「フォリアドゥ」という言葉を用いる理由のひとつは、分類上、精神病とされる「妄想」や「フォリアドゥ」と、精神病ではない「思い込み」の区別は明確ではないということや、特定の用語の濫用やひとつの話題への固執が事態をややこしくしてしまうということについて、注意喚起するためでもあるようだ。  フォリアドゥという概念を��明するために例として挙げられていた映画に、今敏監督の『パーフェクトブルー』(1997)がある。それに対するリプライに、いやそれならテレビアニメの『妄想代理人』(2004)のほうがピッタリじゃない?というのがついていた。あ、それ俺も思った。というか、同じこと思った人いないかなって探したらいたわけだけど。じゃあさ、それの第8話ってアリ派?ナシ派? いやちょっと待て、それは話が脱線しすぎだろ。え?ジレンマから脱線したかったんじゃなかったの? いやそうかもしんないけど、いや、なんか違うっつうか、それはそれで、そういう話してる人探せばいっぱいいるだろ。  ともかく、作品などでこうしたテーマに取り組んだ人たちが出した答えはこういうものだ。「もう一人の自分」に出会うこと。その「もう一人の自分」は自分ではないとはっきりと認識し、つまりは決別あるいは対決すること。そして、もう一人の自分を救うこと。
 『ウェイキングライフ』で語られた「フィリップ K ディックのエッセイ」がどれかはわからないが、ディックは自身の身に起こった不思議な偶然や神秘的な体験をいくつかのエッセイで書いている。インタビューで、『流れよわが涙、と警官は言った』の結末は、何度も何度も書き、書いては直し、書いては直ししたとも話している。  ディックは、これを書いた1970年、麻薬の症状に苦しみ何も書けなくなるほど荒れていて、奥さんが家を出て行ってしまう。奥さんが家を出ていった悲しみと、自分自身の根底にある悲しみに向き合おうとして、同じような境遇を小説的に大いに脚色して登場人物に与えた。ディックは双子として生まれたが、妹を生後すぐに亡くしていて、そのことが心のどこかにずっとひっかかっていた。1970年8月に原稿を出版社に渡すが、奥さんが出ていった後の家は麻薬常習者のたまり場になり、ますます滅茶苦茶になっていく。1972年に麻薬更生施設に入り、この年に離婚を成立させる。これがちょっとした身辺整理にもなったようだ。翌年に再婚する。その翌年の1974年2月にようやく『流れよわが涙、と警官は言った』が出版された。  ディックが1978年に書いた『二日後には壊れてしまわない宇宙の作り方』というエッセイによると、『流れよわが涙、と警官は言った』の登場人物と同じ名前の女性に出会ったのは1970年のクリスマスで、司祭と話して「それは使徒言行録だ」と言われたのは1974年2月の『流れよわが涙、と警官は言った』が出版された日で、さらにディックは1974年2月から3月にかけて、不思議な幻覚を見るという、「2-3-74」と名付けた神秘体験をするが、これは『流れよわが涙、と警官は言った』の出版の一週間後からの出来事だという。見知らぬ男をガソリンスタンドに連れて行ったのは、1978年のこのエッセイを書く2か月前の出来事らしい。こんなことも書いている。「彼(『流れよわが涙、と警官は言った』の登場人物フェリックス)は、泣きながら家へ急いでいた。そして、完全に見ず知らずの人でも誰かに、手を差し伸べなければならなかった。見ず知らずの二人が道中で出会うことで、そのうちの一人の人生が変わる。私の小説においても、使徒言行録においても。そして最後にもうひとつ、神秘的なスピリットによる不思議ないたずらが働いた。フェリックスという名前はラテン語で「幸せ」を意味する。この小説を書いているときは知らなかった。」
 『流れよわが涙、と警官は言った』というタイトルは、イングランドのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に活躍した作曲家でリュート奏者のジョン ダウランドの代表作であるリュート歌曲『流れよ���わが涙』(1600)からの引用である。この曲は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏されたという。  ディックはジョン ダウランドにちなんだ「ジャック ダウランド」というペンネームを使って作品を発表したこともあり、また、ジョン ダウランドの名はいくつかのディック作品に登場する。  ジョン ダウランドは、イングランド王ジェームズ1世およびチャールズ1世の宮廷リュート奏者を務めた。エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)芸術の巨匠とされる。「涙のジョン ダウランド」とも自署した。ダウランドの実際の性格については、自称および代表作の作風通り陰気な人物であったとする説と、その逆に実は陽気な人物であったとする説がある。これは、当時の風潮はどのようなものだったのかという議論でもあるようだ。  ダウランド(1563-1626)が活躍した時代はちょうど、シェイクスピア(1564-1616)の時代でもある。「シェイクスピアの『ハムレット』の登場人物であるハムレットのような憂鬱な人物」というのが、陰気な人物であったとする説バージョンのダウランドの人物像である。この時代には「気質喜劇 (ヒューモア コメディ)」と呼ばれるジャンルの喜劇作品が人気を博し、「ユーモア」という言葉が「おもしろさ」を表す言葉として流行する。  「ユーモア」という語はもとは、「液体」を意味するラテン語の「フモール」が、古代ギリシャ、ローマ時代の「四体液説」とともに、「体液」や「気質」を意味する語としてイングランドに伝わり英語化したもので、その四体液説で、「黒胆汁」が過剰な人がなる気質として、「黒い」を意味する古代ギリシャ語の「メラス(メラン)」 と「胆汁」を意味する「コーリ」を合成した「メランコリア(憂鬱質)」という語が使われていた。  ダウランドやシェイクスピアの時代は、ユーモアの時代であると同時にメランコリアの時代だった。  16世紀、ヨーロッパの広範囲で、新プラトン主義やヘルメス主義、グノーシス主義などの神秘思想が流行する。17世紀に入り、宗教対立が激化したこともあって、民衆の間で神秘主義はますます流行し、また、自分の目も感覚も明らかな証拠も信用せず、自分の経験すら偽りとしてまで、自らの教義に一致しないものを認めようとしない独断主義的な風潮が蔓延した。対抗改革の側は16世紀後半から、メランコリーをプロテスタントの病とするプロパガンダを行っていた。  ダウランドが大陸で学んだ音楽理論も神秘思想の影響下にあり、作曲の理論として数秘術が用いられたこともあったとされる。表現や思想としての「メランコリー」は、こうした神秘思想が16世紀末のイングランドでやや形を変えて現れたものだとも考えられていて、また、17世紀初頭のイングランドでは、メランコリアを崇拝する文学的現象も起きている。メランコリーあるいはメランコリックな人物は、揶揄や風刺の対象などとして喜劇の中で描かれることも多く、また、メランコリーは「聖なる狂気 (マニア)」として捉えられたり、あるいは、精霊(スピリット。霊感。インスピレーション)を待��状態としても捉えられる。  メランコリックな文化的傾向は、その後も周期的に繰り返され、20世紀には、フランスの社会学者エミール デュルケムの用語を用いて「アノミー」的な文化的傾向とも呼ばれる。「アノミー」は、ギリシャ語の「アノミアー(無法律状態)」に由来する語で、デュルケムはこれを、社会の規範が弛緩あるいは崩壊することなどによる、無規範状態や無規則状態を示す概念として提示した。デュルケムは、著書『社会分業論』(1893)においては、社会的分業において分化した機能を統合する相互作用を営まないために共通の規範が不十分な状態をアノミーとし、『自殺論』(1897)においては、経済の危機や急成長などで人々の欲望が無制限に高まるとき、欲求と価値の攪乱状態が起こり、そこに起こる葛藤をアノミーとしている。  相互作用の不在や価値転倒状態での葛藤がメランコリーであり、それを笑うのがユーモアで、嘆くのがペーソスだ。ユーモアもペーソスも、笑うことで、泣くことで、秩序の回復を祈っている。  「ペーソス」はギリシャ語「パトス」の英語読みで、ラテン語では「パッシオ」であり、「パッシオ」は、ギリシャ語で書かれた新約聖書をラテン語にする際、「キリストの受難」を表現するために、もとのギリシャ語の「パトス」をなぞる形で用いたもので、「受け身のあり方」や「苦しみ」という一般的な意味を持っていたギリシャ語の「パトス」を、「受難」という意味に特化させてラテン語化したものである。  『使徒言行録』は『ルカによる福音書』の続編として、ルカによって書かれたものとされる。『ルカによる福音書』と『使徒言行録』はキアスム構造(X字構造、交差法)で呼応する構成になっており、キアスム構造では構成の中心の「交差」に位置する部分を最も重要なものとする。この場合は、中心にある「イエスの復活と昇天」および「エルサレム」が最も重要なものであることを示している。
 ジレンマからジレンマへ、気晴らしのように脱線を繰り返す中で、相互作用や不思議な偶然や福音や精霊を待ちながら、みんな、泣いたり笑ったりしている。
 ペーソスはユーモアの、やがては出会う双子のようなもの。
2023年12月 セイブ ユアセルブズ フロム ディス コラプト ジェネレーション
よいお年を
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gallerynamba · 2 years ago
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◇MO5CHINO JEANS(モスキーノ ジーンズ)◇ドレスが入荷しました。 定価:57,200円(税込) 弊社通販サイト商品ページ⇒http://www.gallery-jpg.com/item/WS5831113-69/ 2023年AUTUMN&WINTER 素材:コットン97%、ポリウレタン3% カラー:ブルー サイズ: 38:着丈 約87.5cm、肩幅 約31.5cm、バスト 約82cm、ウエスト 約90cm、ヒップ 約98cm 40:着丈 約88.5cm、肩幅 約33cm、バスト 約86cm、ウエスト 約94cm、ヒップ 約101cm (平置きの状態で測っています。) 映画「ブレードランナー」の原作、フィリップ・K・ディックのSF小説「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」や、「トータル・リコール」等からインスパイアされた90年代レトロな、サイバーパンクグラフィックのプリントドレスです。 グラフィック単独で評価しても稀に見る、非常に芸術性の高い作品になっています。 今シーズン限定のグラフィックの為、再発の可能性は低いです。 60年代のクレージュを意識したシルエットです。 各サイズ在庫1点です。 ※ご覧いている媒体により、色の見え方が多少変わる場合がございます。 ※店頭でも同商品を販売しておりますので、通販サイトの在庫反映が遅れる場合があり商品をご用意出来ない場合がございます。予めご了承頂きますようお願い致します。 Gallery なんばCITY本館1F店 〒542-0076 大阪府大阪市中央区難波5-1-60 なんばCITY本館1階 【営業時間】11:00~21:00 【休館日】年内無休 【PHONE��06-6644-2526 【e-mail】[email protected]
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vexationsofannatto60 · 3 years ago
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返信
(返信のところって、文字数制限があるんだねえ)
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に限らず、Dickの作品のモチーフとしてちょいちょい出てくるのが、「人間が人間であるための一番の能力は他者に対する共感力ではないのか?」(そもそも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』って、そういう意味だろうし。つまり「人間が羊を飼いたがるように、アンドロイドは電気羊を飼いたがるだろうか?」と)。で、この「他者」は、別に、生きた本物の人間である必要はない。人形でもいいし(『パーキーパットの日々』)、動物でもいいし、俳優が演じてるだけのキャラクターでもいい。実際、『電気羊』には、テレビで人気の「時々石をぶつけられながら荒野の坂を登っていく男」みたいなのが出てくる。昔の文庫本のカバーイラストで、羊の後ろに描かれているくらい重要な存在(実際、イラストの中心は、羊ではなく、その男だし)。
うろ覚えだが、主人公デッカードも、その「荒野の坂道を登る男」に激しく共感しているのだが、アンドロイドたち(たしかレイチェルとかも)はそれをすごく馬鹿にする。おそらくたぶん俳優が演じてるだけなのにバカみたい、というわけ(うろ覚えだけど)。
まあ、細かいところはどうでもよくて、つまり、人間なら、架空の登場人物に感情移入して泣いたり怒ったりすることを、実感として「さもありなん」と簡単に理解できるし、それを馬鹿みたいとも思わないのだが、アンドロイドたちには、それがまったく理解できないというふうに描かれているところがポイント。
共感力が[人間性の最も重要な能力の一つ]だと考えているDickにとって、共感力を持たないアンドロイドは非人間性の象徴。作中、嫌がらせでデッカードのヤギを屋上から落として殺したり、暇つぶしに蜘蛛の足をちぎってバラバラにしたり、テレビの登場人物に感情移入している人間をバカにしたりするアンドロイドには、どう考えても共感力が欠如している。
一方、映画『ブレードランナー』版のアンドロイドであるレプリカントの意味付けは「出自の違う人間」。ただこれだけ。そして、共感力の代わりに、もっと抽象的な「人間らしい心」のある無しが、モチーフになっている。レイチェルにも、ロイ・バティにも、そしてデッカード(映画版ではレプリカントらしいから)にも「人間らしい心」がある。「人間らしい心」のアルナシは、天然の人間(自然淘汰が生み出した我々人間)であるか、人工の人間(レプリカント)であるかに拠らない。「人間らしい心」を持たない非人間的な存在は、天然の人間の中にも、人工の人間の中にもいる。つまり、人間らしい人間かどうかは、「出自」では決まらないというのが映画版の主張。だから、映画では、(レプリカントへの差別意識全開の、天然の人間である)ブライアン(デッカードの「上司」)の方が、死んだプリスにキスしたり、最後の最後にデッカードの命を救うロイ・バティよりも、「人間らしい心」を持たない、いかにも卑しい存在として描かれている。
『電気羊』では、アンドロイドはあくまでも「非人間性を具現化した存在」。だから、自分たちが「非人間的」であることに悩んだり、共感力のある「人間らしい人間」になりたいと望んだり、自分が「本物の人間」ではなかったことを知ってショックを受けたりはしない。そういうコトに全く頓着しない(あるいは気づかない)存在を、Dickは「アンドロイド」としたのだから。だから、Dickにとっても、「出自」は関係がないとも言える。しかし、その意味は逆だ。つまり、現に共感力が欠如した非人間的存在なら、たとえ女の股から普通に生まれていても「アンドロイド」だと言いたいのが、Dickなのだ。人間にそっくりだが、人間にあるべきはずのものが欠けている存在としての「アンドロイド」という定義からして、絶対にありえないのが、共感力や「人間らしい心」を持ったアンドロイドも存在するかもしれないというほのめかしや、設定や、物語展開。「アンドロイドを無慈悲に殺す俺(デッカード)たちの方が、本当はアンドロイドで、アンドロイドだと言われて殺されているアイツらのほうが人間なんじゃないか?」的な、Dickお得意の「世界体験の確かさがあやふやになる、スキャナーダークリーな展開」が可能なのも、「アンドロイド即ち非人間的な人間」設定が動かないから。Dickは、「アンドロイドの中にも、いいやつは要るんじゃないか?」という話をしたいわけじゃない。
一方、『ブレードランナー』の「レプリカント」は、本当は人間と「同じ」なのに(ひどいやつもいれば、心優しいやつもいる)、生まれ方や体の仕組みが違うばっかりに、それだけの理由で、よく確認もされないまま、人権も与えられず、差別され、蔑まされている存在。まあ、だから、人種差別やら障害者差別やらの暗喩だよね。
だから、なんかもう、原作と映画は、まるで違うものだと分かる。別にお互いに議論しているわけではないけど、「論点がずれている」という言い回しがぴったりの「違い方」。前に、映画と原作は正反対って言ったような気もするけど、「正反対」ですらない。原作の方は、人間とアンドロイドを徹底的に対比させることで、「人間にとって最も大事なのは共感力なんじゃねーの?」と問いかけているのに対し、映画の方は、「人間とレプリカント(人工人間)、どちらも同じように心をもった存在かもしれないのに、無批判に境界線を引いて、人間がレプリカントを道具のように使い捨てにするのは、間違ってやしませんか? よく見てください。レプリカントも、人間と中身は同じじゃないですか」と言っている。つまり、原作と映画は、同じ学部の対立学派ではなく、そもそもの学部から違ってしまっている。
あと、フォークト=カンプフ検査がどんな感じで原作に登場したか全く覚えてないんだけど、やっぱりアンドロイドの共感力の不自然さを暴くものだろうから、それは映画と同じな気がする。つまり、[共感力を持った人間]のフリをしているアンドロイド(レプリカント)は、質問者(バウンティハンター/ブレードランナー)の言葉の意味は分かるが、それに対してどういう感情表現をすれば「正解」なのかが分からない(つまり、自然なリアクションが出てこない)ので、妙な発汗があったり、瞳孔に変な動きが現れる、的な。フォークト=カンプフ検査は、どれだけ共感できているかを調べるのではなくて、共感できずに困っている状態を暴き出す検査のはずだから、例えば、映画版の[検査を受けているレイチェル]の「動揺」は、質問によって描き出された場面や情景に感情移入(共感)して、不快になったり、恥ずかしがったり、怒りを覚えたりしている「動揺」ではなく、適切な感情反応ができずに困っている「動揺」のハズ。
あと、例の種本に拠ると、Dickは映画の完成品は観てないんだよね。死んじゃったから。撮影現場に来て、未来のロスの街の風景セットを観て、「すげえ、これだよこれ、イメージ通り」って感動したらしいけど。
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