#イエズス会
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〒859-1415 長崎県島原市有明町大三東戊1447
島原市有明歴史民俗資料館
最初に行ったのはここ!
閉まってた!
定休日かな?
土日忙しかったんだろう、ゆっくり休んでまた頑張って下さいね笑
#長崎#島原#キリシタン#カトリック#イエズス会#正教会#プロテスタント#キリスト教#マリア#クルス#キリスト#十字架#666#ファティマ#ポルトガル#隠れキリシタン#隠しキリシタン#人身売買#奴隷#生贄#布教#西側#西洋医学#西洋文化#ヤジロウ#赤十字#十字軍#海賊#日本乗っ取り
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https://youtu.be/h7V4b-c3Eek?si=o5WeVWtnrXeV8nqi
えーー!!!
キューバの革命の英雄カストロってーーー!!!
黒い貴族のカストロ一族⁉️
ナチスはイグナチウスのドイツ語変形⁉️
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陰謀論者らしい方の投稿を眺めていたが「中世にペストを広めたのはフェニキア出身でビザンツ帝国を追い出されたメディチ家でイエズス会はワクチン開発と繋がりがあり、ウクライナにあったウイルス研究施設は46箇所で秋元康と繋がる」という主張で、読んでいる方が狂いそうになった。
XユーザーのVatanabeusさん
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(Xユーザーの中公新書さん: 「ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』(中公選書)は、補章「イエズス会と奴隷貿易」などを加えて刊行した一冊。アジアにおける人身売買とはいかなるものだったのか? ヨーロッパ勢力の動きに連動した奴隷貿易を背景に、大航海時代のもう一つの相貌が浮かび上がります。 https://t.co/9RKgoAiveG」 / Xから)
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イエズス会とフランシスコ会
のお話しを少しお聞きして👂
思い浮かんだ、『ゴンサーロと秀吉』を再び見ました!🥲
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また、ウィキペディアで二十六聖人の方々の出身や状況を見ていて、
日本、スペイン、メキシコ、ポルトガル、
大阪や京都で捕縛された方々という事は、
現在大阪や京都にゆかりのある方々も
多くいるのかなとも思わされたり、
フランシスコ会・イエズス会の方々は世界中にいて、
日本二十六聖人に捧げられた教会は、
日本各地に沢山あって、
イタリア、ブラジルにもあって、
.
日曜日のサリーさんのお話しにあった、
雪の聖母マリア教会(チェコで二番目に大きい教会?)の隣に隣接している修道院にある二十六聖人の絵を、司教さんが外して持ってきてくださって、見せてくださって
遠く離れた日本で、プロテスタントの教会が、二十六聖人の事を思って、毎年2/5に西坂の丘で礼拝している事に感動されていて、
是非合同賛美集会に加わらせてくださいという事で
サンフランシスコ会のチェコの最高責任者の方が、
合同コンサートに来られて挨拶・スピーチをされる事や、
プロテスタントのチェコの最高責任者も来られる事や、
.
今、チェコでカトリックとプロテスタント合同賛美集会大きく展開している、激流の中に遣わされるチームで✈️
.
まとまりませんが、、
さらにお祈りをして行きたいと思わされています🇨🇿🇸🇰🇵🇱
.
December 30,2024
明日は大晦日👀
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25.12. & 26.12. History of Christmas in Japan
Put the following historical events related to Christmas in Japan in order and add the correct year ⬇️

Answer and Translation
5. It is said that the beginning of Christmas in Japan was in 1552 when Franz Xavier, who came to Yamaguchi Prefecture as a Christian missionary, gathered a group of followers together to hold mass on December 24th.
2. In 1568 the Jesuit Luis Frois wrote that "Nobunaga Oda und Hisahide Matsunaga called a truce on Christmas": it thus seems that Christmas took place in several regions in Japan.
4. However, in 1612m the Edo Shogunate issued a ban on Christianity, and Christmas temporarily disappeared.
1. After the Meiji Restoration, the ban on Christianity was lifted in 1873 and Christmas had a resurgence.
3. In 1904 in Tokyo's Ginza district, a Christmas tree was decorated for the first time as part of a commercial display.
Vocab
明治維新(めいじいしん)Meiji Restoration
キリスト教禁止令(くりすときょうきんしれい)ban on Christianity
復活する(ふっかつする)to have a resurgence; to make a comeback
イエズス会士(いえずすかいし)Jesuit
一時休戦する(いちじきゅうせんする)to have a temporary truce/cease-fire
商業(しょうぎょう)trade; commerce
飾る(かざる)to decorate; to adorn
宣教師(せんきょうし)missionary
江戸幕府(えどばくふ)Edo Shogunate
信徒(しんと)believer; follower (of a religion)
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それと、前々回の記事でチラッと書きましたが、実はコロナになっていました笑;;
レポート漫画もちょっと描いては倒れ、ちょっと描いては倒れ…で進めていたので間に合って良かったです。。
実は初コロナでして…。先日、母を眼科の検診のために車で送迎してあげていたら、どんどん熱っぽくなって。帰って熱を測ったら39.7度!と言う高熱で;;;;どビックリでした;;
それでも実は海外からイベルメクチンを取り寄せていたので、それを飲んだら、翌日には平熱から微熱を行ったり来たりするくらいまでには回復してくれて;それでもなんだか不思議な体調が続く日々でした。
なんかまた変なこと言いますが;;作業している間、頭の中を公園?草原で遊ぶ関西圏のお母さん?と頭が繋がって、物凄いはっきり会話できるんですよね;; その後も別の地方の人と頭が繋がると言ういか;熱に浮かれた夢なのかわからないですが;;
あと、夜も動物みたいなキャラクターみたいなのとベッドの上で会話してたりとか…なんかおかしかったです……。。今は正常です。。
それと、画像はその前に行った陸奥国分寺で歴史を学ぶツアーに参加してきた時の画像です。
その後、仙台市博物館で特別展『大航海時代』を見てきたのですが、今話題の黒人侍、弥助に関するものもちらほらあって興味深かったです。信長記って、随分小さい書物だったんですねぇ。
印書深かったのは、イエズス会の船が来航してきた時の���大な絵が展示されていたのですが、船のマストのところに多くの黒人がいることでした。彼らは使役されているように見えましたし、それを多くの日本人は驚いて見ている絵でした。
某日大の英国人教授の言うように、日本で黒人奴隷が流行していたのなら、こんな絵にはならない気がします。
後はコロナになったのを見かねて、隣のおばちゃんが玄関にスイカを置いて行ってくれたのものや、動物病院へ行くあさり。。
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キリスト教に不信感を持った秀吉は、イエズス会に対して4つの質問状を送りつけました。「なぜ人民にキリスト教を強制するのか」「なぜ寺社を破壊するのか」「なぜ奴隷貿易するのか」という内容でしたが、残りの一1つに「肉食」に関する質問がありました。 【秀吉の質問】 「汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。それは道理に反することだ。馬は道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれらを食するならば、日本の諸国は、人々にとってははなはだ大切な二つの助力を奪われたことになる。汝らをふくめ、シナから船で渡来するポルトガル人らが、もし牛馬を食べずに生きられぬものならば、全日本の君主である予は、多数の鹿、野猪、狐、大猿、その他の動物狩りを命じ、それらを一つの囲いの中に入れておくから、汝らはそれを食べるがよかろう。もしそれを不服とするならば、予はむしろ(南蛮)船が日本に来航せぬことを望む」 この秀吉の質問に対しイエズス会は次のように返答しました。 【イエズス会の答え】 「我らの出身国においては、馬(肉)とか、日本人が食べる他の動物、すなわち大猿、ネコ、鼠、狐、その他これに類する動物を食べる習慣はない。だが仰せの通り、牛(肉)食べることは確かである。これは世界でもっとも古い習慣だからで、そこでは国家になんら損失を及すことも農業に害を与えることもなく、この習慣が保たれている。……日本に来るポルトガルの商人らに対しては、この件で(我ら)司祭から(牛肉を食べぬよう)注意を喚起するであろう。ただし、日本人が彼らに(肉を)売りに来る以上、彼らが(牛)を用いるのを止めるかどうか保証の限りではない」 『豊臣秀吉と南蛮人/松田穀一著』から抜粋 この質問状が出た直後の天正15年(1587)「伴天連(ばてれん)追放令」が出され、全国の大名にキリスト教布教の禁止が通達されました。翌年、「教会領」は秀吉に取り上げられ、長崎は秀吉の「直轄領」になり、佐賀の鍋島直茂が長崎代官に任命されました。天正20年(1592)秀吉の命令で長崎の多くの教会が破壊され、そしてついに慶長元年(1597)あの「二十六聖人の殉教」が起こったのです。この事実だけ見ていると長崎の「キリスト教」及び「南蛮文化」は「一掃」されてしまったかのように感じます。ところが南蛮貿易にはお咎めはなく、長崎での「ポルトガル人居住」も以前の通りでしたので、洋食も続けられていました。布教に関しても、キリシタン版と呼ばれる宗教書が出版されるなど、むしろキリシタン文化が謳歌された時代になりました。
ナガジン!|特集:発見!長崎の歩き方 「西洋は長崎から~「洋食」」
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National Anthem of the Republic of Portugal (A Portuguesa)
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A calming national anthem befitting an old superpower. But at its peak, this country would have been full of ambition. In Japan, Louis Frois, a Jesuit priest who dated Nobunaga Oda during the Warring States period, would have been ambitious to take over Japan if given the chance.
ポルトガル共和国国歌(ポルトガルの歌)
老大国らしい、落ち着いた国歌。でも、最盛期には、この国も野望に満ちていただろう。日本では、ちょうど戦国時代、織田信長と付き合ったイエズス会士:ルイス・フロイスは、隙あれば日本を乗っ取ろうと野心を燃やしていただろう。
#National Anthem of the Republic of Portugal#calming#Babylman#Portugal#Louis Frois#Nobunaga Oda#ambitious#Japan#Youtube
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「ロシアの弱みにつけ込んだら、永遠に配当金が得られるとは期待しないでください。ロシア人はいつもお金を求めてやってくる。そして、そのような時が来ても、自分を正当化するために署名したイエズス会の協定に頼ってはなりません。それらは書かれた紙の価値がありません。したがって、ロシア人と公平にプレーするか、まったくプレーしないかのどちらかでなければならない」 - オットー・フォン・ビスマルク
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久しぶりのテキサス。11年振り。まだPjが修士を取り終えたばかりで、PimmyがAustinに住んでいた時に、Austinに行ったのが最後。今回は、Austinより少し南のSan AntonioでAARの年次会議があるので参加。仲間で出す本の会議や、来夏ローマの世界哲学会議の準備会合、自分の発表、研究者仲間内の夕食会などは全て月曜日に上手くスケジュール調整できてしまったので、金曜日から土日は遊ぶ。Dallasから飛んできたPimmyと空港で集合して、早速、テキサスといえばBBQ。巨大ベビーバックリブを食す。
SanAntonioはメキシコとの領土争い��時に、Rooseveltが拠点とした場所。今回宿泊したMengerホテル内には、Rooseveltがメキシコからの独立のために中心的に戦った12名のカウボーイを集めた酒場、Menger Barがある。彼らが戦闘拠点としたAlamoという場所は、元々はスペインからのミッションが立てた修道院。そこに立てこもってアメリカ人が戦ったので、テキサスがアメリカの一部になっている。Texas prideの中心地でもある。
Mengerでは4泊するので、角部屋のAlamoが見える良い部屋をあてがってくれた。土曜日は朝、ダラダラしながらUNESCO遺産になっているカトリック修道院の午後からの半日ツアーに申し込む。BrunchをTexmexで有名なレストランへ歩いて行く。San AntonioはRiverwalkといって川沿いの道が整備されており、川に沿って街が形成されようとしている。ここ二十年位でwalkable cityへ改造していっている。世界遺産は、スペインのミショナリーが建てた教会や共同生活場所。フランシスコ会や、ベネディクト会が主に来ていたらしく、イエズス会の強欲的ながめつさから思うと、フランシスコ会やベネディクト会は少し性格が異なる。アメリカンインディアン達を教化していくと同時に、機織り、鋳造などの技術も伝授したらしい。見物の後はJazzバーへ。満席といって断られたので、適当に夕食を取っていると、受付のボーイがわざわざ探しに来てくれた。ノーショーだから、席を半額で売りたいという。店にしたら二重の商売だが、有り難く、半額なだけにショーの半分だけを聞く。やっぱり、アメリカのJazzは良い。身体に音楽が染み込んでいるのが良く分かる。でも、この日は良く歩いて、Pimmyによると27000歩も歩いたらしい。
日曜は、またダラダラして、Pimmyが行きたかった有名なパン屋カフェに行く。注文が届くのが遅いと文句を言ったら、注文していなかった私の分のホットチョコレートもサービスでくれた。お昼過ぎにはPimmyを見送り、学会発表準備の結論部分を練る暇もなく、Yale時代の教え子、WayneがAustinから車をぶっ飛ばして2時間もかけて会いに来てくれる。
Wayneはずば抜けて優秀だった。お母さんが大好きな甘えん坊の次男坊。お兄ちゃんと一緒に日本を訪ねてくれた時は、二人を山梨ドライブへ連れ出した。暫くお互いに忙しく、全然連絡を取っていなかったのだが、NYにいる時に、そういえば、WayneってAustinにまだ住んでいるの?とダメモトで聞いてみたら、なに~!!!って感じで会いに来てくれた。金土日は、彼女の誕生日で小旅行中だったのに、彼女をAustinの家に連れて帰ってから、わざわざ来てくれた。ありがたい。
Wayneは、この4年ほどFacebookで働いていたらしいが、12月からはAI関係会社で決算状況をAI判断させるサービスを提供するらしい。Facebookでも、決算関係プログラムを統括していたらしい。コロナ禍で相次いでお父さま、お母さまを心筋梗塞で亡くされたらしい。もう2年前だよマキ。。。ようやく、立ち直ってきたとこなんだよ。。。と。そんなWayneを見ながら、私の方が大泣きする。毎週のようにお母さんやお兄ちゃん、お父さんの話をしては嬉しそうにしていたWayne。無邪気さが無くなり、急に大人っぽくなったと思ったら、苦労していたんだ。お兄ちゃんがいて良かった。。。と。そして、ボストン出身の彼女はお父さんが脳腫瘍宣告を受けて3ヶ月で亡くなるなど、若いカップルは、私の知らない間に、大変なコロナ時代を過ごしていたらしい。人に会わなくて良かったから、本当に助かったねと、段々、昔の無邪気な笑顔に戻る。
今度はいつ会えるのだろう。お兄ちゃんの側に住みたいからと、お兄ちゃんが家を買ったGeorgia、Atlantaに引っ越すらしい。それと同時に転職。彼女は、もうずっとオンラインでの仕事なので、どこに住んでも同じ。彼女ができた時は嬉しく、私にまで報告してくれたっけ。僕は未来に希望を抱いていたいんだよ、マキ。と微笑む。心優しいWayneは、昔のWayneのまま。そして、人生は色々あるね。疲れる。。。と溜息をつく。
Wayneだけでなく、今回はTianyuやYui、Tucker先生と、ほぼ10年程度会っていなかった友人達と再会できた。彼らは、まるで昨日までと変わらない。普通に、つい昨日も会っていたような感覚なのだ。人生の生き方やスタンスが変わらない。結婚やら何やらで人格が変わるように感じる人間は、やっぱり、元々が底浅い人なのかなぁなどと思う。本質は、変わらないでいてほしいが、それが変わったように感じさせる時点で、人間として底浅いっていうことなんだろうな。主体的に人生を生きていないで、周りに流されるバカの証拠でもあるが。。。それに気付かない、気付けないのだとしたら、家族といえど、もうアホすぎて付き合いきれんやろ。。。とも改めて思った。
世界中散らばっている若い友人達。私はなんて幸せ者だろう。Wayneは別れ際に、マキは何も変わっていない。マキはマキのまま。安心した。というかホッとした。Yaleを思い出した。と、ボソボソ恥ずかしそうに言っていた。ちゃんと言語化できているだけ偉い。やっぱり、Wayneはお母さんに可愛がってもらっただけに、性格が可愛いのだ。私はWayneのお姉さんを自負していたが、また、思い出した。お姉さんを自負している分、彼らみたいな良い人間達の精神的拠り所になり続けて上げられるようにと。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)9月2日(土曜日)弐
通巻第7893号
バチカンのフランシスコ教皇がモンゴルを訪問
「異教徒の国」へ何が目的か。200人の大使節団
*************************
9月1日、ウランバートルのチンギスハーン空港は異例の緊張に包まれていた。
ローマから九時間半かけて、バチカンのフランシスコ教皇(266代)がやってきたのだ。モンゴルはチベット仏教の国、キリスト教信者は1450名しかいない。司祭が25名いるが、モンゴル人はわずか二人。ローマからの使節団は、じつに200名。
教皇は中国上空を通過するとき、習近平あてにメッセージを送った。西側メディアは、こんかいのモンゴル訪問は、中国への本格的接近の前触れと分析した。
はたしてそうか?
バチカンの現在の教皇はイエズス会から選ばれた最初の教皇であり、しかも600年ぶりというコンクラーベ(教皇選出選挙)で、115名の枢機卿が五回の投票を経ての就任という異例の経緯がある。そのうえ、フランシスコ教皇はアルゼンチン出身というのも異例である。
イエズス会はゴアからマカオを拠点にザビエルが日本にやってきて布教したが、その「神の尖兵」という軍事的性格から日本での布教に失敗、秀吉が禁教とし追い出した。耶蘇教が日本に再上陸するのは明治である。
中国への進出はすでに七世紀、ネトリウス派(景教)が入り、これが中国経由で推古天皇期に日本にも伝わったという説がある。本格的な進出はマテオ・リッチの功績によるところが大きい。リッチはマカオで中国語をマスターし、宮廷に近づき多くの著作を通じて、当時の中国の知識人に影響力をもった。
マテオ・リッチはマカオから広州で布教を開始したが、数学・天文学・地理学の知識や世界地図・地球儀などを中国に紹介した。またわが国の関ヶ原の頃に北京に赴き、万暦帝に拝謁した。
皇帝から北京に天主堂を建設することを認められ、『天主実義』『坤輿万国全図』などを中国語で著した。
このマテオ・リッチをフランシスコ教皇は5月���1日にピエトロ広場で行った演説で触れて高く評価しているのである。
これまでの教皇と違ってフランシスコ教皇は他宗教との対話を重んじ、ユダヤ教、イスラム教、プロテスタントなどと頻繁に対話に取り組んできた。
何が狙いか。物見遊山でないことだけは確かである。
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弥助に関してのトーマス・ロックリー氏の著書が「史実」として欧米で拡散されているんだけど、この本の中で『イエズス会は黒人を奴隷にする事は無い(ので護衛として連れていた)。信長以降権威の象徴として日本では黒人を奴隷にする流行が始まったようだ』って記述有るのよ……
Xユーザーのノア@政♡虎沼に果ては無いさん
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(Xユーザーの糖類の上さん: 「清の乾隆帝の宮廷の猫たち 名前は 左が舞蒼、飛睇、苓香、涵虚、妙静 右が清寧、仁照、普福、采芳、翻雪 みんな凛々しく、そしてかわいい! 当時宮廷にいたイエズス会士ボヘミア人のイグナティウス・シケルバルトが描いた。 https://t.co/t3Ow6zvGig」 / Xから)
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二条御所で明智軍と交戦するも捕縛され、家臣達から処分を聞かれた光秀は「動物同然の奴隷で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、「インドの聖堂に置け」との指示で南蛮寺(=教会)に送られ一命を取り留めたという。その後の消息は不明。 この処遇について、現代の感覚では黒人に対する蔑視とも取れるが、比較文化学者の藤田みどりは弥助を憐れんだ光秀が、彼を殺さずに逃がすための方便だったのではないかという解釈を主張しており、また弥助を南蛮寺に送った事からイエズス会との関係を良くしたい光秀の政治的な思惑があったと解釈する意見もある(結局処刑しなかったことを考えると、それらの可能性は有力である)。
弥助 (やすけ)とは【ピクシブ百科事典】
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