#メソポタミア文明
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エクアドルの未知の遺跡から日本の痕跡が発見か...世界中の政府関係者が証言した古代文明の正体についての衝撃の秘密とロシアや中国政府も驚愕する...
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バビロニアの世界最古の地図「イマゴ・ムンディ」を解読、ノアの箱舟伝説と酷似した記述を発見 公開:2024-11-03・更新:2024-11-03
著者konohazuku・パルモ
「イマゴ・ムンディ」はおよそ2600年前(3000年前という説も)に作られたバビロニアの世界地図だ。
粘土板に描かれたその地図はすでに多くが失われ、現存するのは一部のみだが、大英博物館にあるそのかけらから、最近新たな発見があった。
裏面に刻まれた楔形文字の解読が進み、聖書のノアの箱舟伝説と酷似する大洪水物語が描かれていたことがわかったのだ。
1882年、現在のイラク、バグダッド近郊、かつてのバビロニアの都市シッパルで発見されたこの地図は、専門家たちが今日に至るまで、その謎を解明すべく、様々な研究が行われている。
古代バビロニアの世界最古の地図 手のひらよりわずかに大きいこの粘土板には、世界最古の地図が描かれている。
「よく見ると二重の円が描かれていて、そこに楔形文字で〝苦い川〟と記されているのがわかります」 大英博物館のキュレーター、アーヴィング・フィンケル博士は説明する。
二重円の内側には、メソポタミアを表す水域の境界線に囲まれたバビロンがある。そして、ユーフラテス川とバビロン自体を含むいくつかの主要都市が境界内に描かれている。
この画像を大きなサイズで見る 写真:(左)1925年、B・マイスナーによるバビロニアとアッシリアのスケッチ、(右)偽色彩法のために疑似着色されたもの image credit:Left; Bruno Meissner/Public Domain, Right; FlorinCB/CC0 既知の世界の向こうには、山か遠くの神秘的な土地を表したと思われる三角形が描かれている。
この場所は異世界の特徴と関連していて、フィンケル博士はこれを「魔法と謎に満ちた場所」と言っている。
まわりに刻まれた碑文は、ある奇妙な土地について述べている。そこは太陽がけっして輝かず、宝石のような木々が育ち、飛べない巨大鳥が歩き回るところだという。
フィンケル博士は、周囲の8つの三角形がつくる領域がバビロニアにおける日常を超えた異世界のネットワークを形成していることに注目している。
この画像を大きなサイズで見る バビロニアの世界地図「イマゴ・ムンディ」のかけら image credit:The British Museum/SketchFab/CC BY-NC-SA 4.0 ADVERTISING
ノアの箱舟を思わ��る古代の洪水物語の記述を発見 粘土板の裏面は、見知らぬ土地へのガイドになっていて、冒険者が未知への旅で遭遇するであろう事柄を述べている。
ある箇所には、第4の三角形に到達するには「7つのリーグを通過しなくてはならない」とあり、「その先にはパルシクトゥの船ほどの分厚いものを見つけるだろう」という。
パルシクトゥという聞きなれない単語は、船の正確なサイズを示していて、ほかのバビロニアの粘土板、とくに巨大な箱舟のような建造物に関するバビロニアの洪水物語の中でのみ見られる。
この船はバビロニアの伝説の王ウトナピシュティムによって建造された。王は家族やさまざまな生き物を洪水から救うために、エア神の支持に従って船を建造したとされ、まるでノアの箱舟の話を思わせる。
「イマゴ・ムンディ」の碑文には、ウラルトゥという山にたどり着いたこの古代の箱舟のことが詳しく語られている。
聖書では、ノアの箱舟も同じように「アララト」の地にたどり着いたとされていて、専門家はこれがバビロニア人がウラルトゥと呼んだ山と同じだと考えている。
この話はノアの箱舟とまるで同じです。もちろん、一方がもう一方につながったのです(フィンケル博士)
バビロニア人にとって箱舟の旅は歴史の事実で、それが彼らの宇宙観と地理に反映されたのだ。
この画像を大きなサイズで見る アララト山のノアの箱舟、シモン・デ・マイル(1570年) image credit:WIKI commons メソポタミアの洪水伝説とその影響 バビロニアの洪水伝説は、ノアの箱舟話だけでなく、ほかの古代中東の洪水物語とも酷似している。
これは、異なる文明の間でも大洪水の文化的記憶が共有され、互いに影響を与えあっていたことを示している。
ギルガメッシュ叙事詩の洪水物話は、およそ3000年前の粘土板で知られているが、聖書のノアの洪水物話は約5000年前にさかのぼる。
これら文明の神話の間に古くから深く根づいたつながりがあることがはっきりわかる。
フィンケル博士は、このような大洪水の発生や、そこから生き残り、最終的に山の上で箱舟の残骸を目撃する話は、バビロニア人にとって単なる伝説ではなく、それが彼らの世界観や宇宙観に織り込まれたものであることだと説明する。
「イマゴ・ムンディ」の地図はこの物語を文字通りに象徴的に表していて、その描写は既知の世界の境とそれを超えた世界の始まり、つまり伝説と想像の場所の始まりを表しているというのだ。
The Babylonian Map of the World with Irving Finkel | Curator’s Corner S9 Ep5 知識と伝説が絡み合う興味深い地図 古代にバビロニアと聖書の洪水物語がつながっていたという今回の発見によって、ノアの箱舟と舟がたどり着いたアララト山の山の位置をめぐる論争が再燃している。
アララト山の遺跡を調査してきたイスタンブール工科大学の研究者たちは、海底粘土と古代人らの活動の証拠を発見した。その時期はおよそ3000~5000年前にさかのぼるという。
ここからまた、古代の洪水がこの土地の景観を形作り、こうした洪水伝説発生のきっかけになったのかどうかという疑問が出てきている。
シドニー大学のアンドリュー・スネリング博士は、洪水が起こるまではアララト山は存在せず、箱舟がそこに到達することは不可能だったと主張している。
歴史家の多くは、ノアの箱舟の話は歴史的事実ではなく象徴的な物語だとみなしているが、「イマゴ・ムンディ」のような遺物やその他文献の発見は、こうした物語が、現実に起きた出来事から生まれた可能性に心惹かれる人々の興味をそそり続けている。
「イマゴ・ムンディ」は、バビロニア人の世界と宇宙に対する認識を明らかにするだけでなく、中東の古代文化が大洪水という共通の文化記憶を共有して、粘土板に永遠に刻みつけていたことを裏付けている。
References: A new finding on the 3,000-year-old Babylonian Map of the World reveals the legendary tale of an ark and a Great Flood, drawing parallels with the Biblical story of Noah's Ark.
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(バビロニアの世界最古の地図「イマゴ・ムンディ」を解読、ノアの箱舟伝説と酷似した記述を発見|カラパイアから)
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Sean bienvenidos, a una nueva aclaración, arqueológica-histórica, en esta ocasión aclararemos y desmentir errores aplicados a la arqueología .¿Por qué la cerámica más antigua se encuentra en Asia y no en el mediterráneo?. - En cierto modo, muchas de las cosas más antiguas se encuentran en mesopotamia, pero no todo ya que muchas cosas surgieron en china y japón. En este caso, hablaremos de la cerámica, los vestigios más antiguos los podemos encontrar en el archipiélago nipón de hace 16.500 años de antigüedad durante el periodo Jōmon(Neolítico japonés lo que equivaldría al neolítico Europeo), eso era lo que se sabía hasta ahora, pero restos arqueológicos rescatados en una cueva de china, datan de una friolera de 20.000años, se tenía entendido que la cerámica apareció hace 10.000 años aproximadamente, ¿Por que se nos ocultan estos datos?, pues muy sencillo, porque no concuerdan con la recta cronológica estipulada, además de no generar interés para su estudio. - La foto n��mero 1, son los restos de la cerámica china. - La foto número 2 es la cerámica de la cultura Jōmon. - Cualquier aportación siempre es bienvenida, ya que esta publicación sirve como aclarar ideas y para debatir. os deseo un buen día y un fuerte abrazo. - 新しい考古学と歴史の解明へようこそ。今回は、考古学に適用された誤りを明らかにし、否定します。なぜ最も古いセラミックが地中海ではなくアジアで見つかったのでしょうか。 - ある意味で、最も古いものの多くはメソポタミアで発見されていますが、中国と日本で発生したものほど多くはありません。今回は陶磁器についてお話しますが、16、500年前の縄文時代(ヨーロッパの新石器時代に相当する日本の新石器時代)の日本列島で最も古い遺跡がありますが、これは今まで知られていましたが、中国の洞窟で救出された考古学的遺跡は、なんと2万年前のもので、約1万年前に陶磁器が登場したと理解されていましたが、なぜこれらのデータが私たちから隠されているのでしょうか。直線と一致しないため、非常に単純です。その研究への関心を生み出さないことに加えて、年代順に規定された。 - 写真1は中国の陶器の残骸です。 写真2は縄文文化の陶器です。 この投稿は説明と議論として役立つので、どんな入力でもいつでも歓迎します。良い一日と大きな抱擁をお祈りします。 - Welcome to a new archaeological-historical clarification, this time we will clarify and deny errors applied to archeology. Why is the oldest ceramic found in Asia and not in the Mediterranean ?. - In a way, many of the oldest things are found in Mesopotamia, but not all as many things arose in China and Japan. In this case, we will talk about ceramics, the oldest remains can be found in the Japanese archipelago 16,500 years ago during the Jomon period (Japanese Neolithic, which would be equivalent to the European Neolithic), that was what was known until now, but archaeological remains rescued in a cave in China, dating from a whopping 20,000 years, it was understood that the ceramics appeared approximately 10,000 years ago, why are these data hidden from us ?, Well very simple, because they do not agree with the straight line stipulated chronological, in addition to not generating interest for its study. - Photo number 1 is the remains of Chinese pottery. Photo number 2 is the pottery of the Jomon culture. Any input is always welcome, as this post serves as clarification and discussion. I wish you a good day and a big hug.
#歴史#考古学#中国#日本#セラミカ#レストサルケオロギコス#クエヴァチナ#仙人洞#クエバ仙人洞#歴史セラミカ#セラミカ考古学#アジア#ヒストリアアジア#歴史日本#考古学アニポナ#考古学日本ポネサ#考古学日本#縄文#文化縄文#ネオリティコ日本#ネオリティコヨーロッパ#-#history#archaeology#china#japan#ceramics#archaeological remains#chinese cave#Xianrendong
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ギョウザ
ぎょう座は、黄道十二星座の一つで、12星座の中では最も小さな星座です。秋の夜空に見ることができ、特徴的な「ひしゃく」の形をした4つの星が目印となります。ぎょう座は、古代メソポタミア文明において、水を汲むためのひしゃくを象徴する星座として知られていました。神話では、神々が天の川から水を汲むために使ったひしゃくが起源とされています。ぎょう座には、明るい恒星は少なく、肉眼で見ることができる星は10個程度ですが、そのシンプルな形から、見つけやすい星座の一つとされています。また、ぎょう座は、他の星座と比較して、惑星や彗星が通過する頻度が高く、天文現象の観察に適した星座としても知られています。
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2025年3月15日(土)

昨日、卒業式から帰宅すると、私学共済から封書が届いていた。中身はというと、4月以降の共済掛け金を今月中に払い込めとのことだ。払込書がゆうちょ銀行でしか使えないものなので、金額が多いことから新しくゆうちょ銀行の口座をアプリで作成、その場で送金した。クレジットカード同様銀行口座もまた増えてしまったが、資金が乏しいのにどうするつもりなの・・・?

5時45分起床。
洗濯開始。

朝食を頂く。
珈琲をいれる。
洗濯物を干す。
ツレアイは奈良と大阪で用があるので、自転車で京都駅へ向かう。

彼女に頼まれた買物、まずはセントラルスクエア花屋町店でこめ油・イチゴ・バナナ、それに麦茶用のボトルを2本買う。こめ油は一人一本限定なので、次はライフ西七条店��と移動、こめ油だけで良かったはずが、手羽中が10%引きだったので購入、明日の夕飯は天ぷらにしよう。
これまではライフ専用のJCBカードを使用していたが、三井住友カードゴールド(NL)の<100万円修行>を達成するため、今日からはレジでpontaカードを提示し、NLのタッチ決済を利用する。

息子たちのランチは日清ラ王柚子塩味、二男にはタマゴ、三男にはソーセージをトッピング。
軽く午睡。

ゆうちょ銀行への払込、当初はキャッシュカードが届けば払込書をATMに入れてカードで決済するつもりだった。ところが、アプリを立ち上げると払込のメニューがあり、カメラで払込書を撮影するとその場で送金完了、何とも呆気ない���

昨日頂いた学部同僚からのメッセージを改めて拝見、この5年間は学科業務から外れていたにもかかわらず、とても温かいメッセージの数々、懐かしい画像も含めて改めて感謝。
夕飯前に、彼女が帰宅。

今夜は鍋、奥川ファームの大根とキャベツをフィーチャー、息子たちにはスパークリングワイン、私は昨日頂いた<純米酒 聚楽第>をいただく。
録画番組視聴
笑福亭笑利「千鳥の香炉」
初回放送日:2025年3月15日 土曜の早朝は関西の笑いをたっぷりと!▽今回は笑福亭笑利の落語「千鳥の香炉」▽桂文枝かららくご男子へのミッシ��ン…「創作落語を作れ!」▽桂團治郎&桂あおばが挑戦!
名探偵ポワロから
第1話「メソポタミア殺人事件」/ Murder in Mesopotamiaシーズン 8, エピソード 1 死を予告する脅迫状の謎をポワロが解明。バグダッドに向かったポワロ。偶然、ヘイスティングスが遺跡発掘隊に身を寄せており、ポワロも調査隊の宿舎へ。翌 日、遺跡を見学したポワロの目の前で、調査員の一人が襲われる。調査隊長の妻ルイーズは怯え、自分も命を狙われているとポワロに打ちあける。
私は途中でダウン。

歩数は足りないが、なんとか3つのリングは完成。
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Today's Illustration! A series that I have hardly ever drawn for work.
仕事でほとんど描いたことがないシリーズ。つい最近神社に鎮座する狛犬の2体が狛犬と獅子のコンビだということを知って驚いている。耳が垂れて口が開いていて(阿の状態)巻き毛なのが獅子。耳が立って角があり口を閉じていて(吽の状態)直毛なのが狛犬。メソポタミア文明由来なのもびっくり。シャチホコやカラス天狗など描いたことないものがまだまだあります。龍は何度かあるけどね。
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なーんかもう色々ごちゃごちゃだからそのまま出しちゃうパラダイス日記。(パラダイスではない)
汗水垂らして息を切らして必死に動こうとも、結局俺って焦るほどに無能になる人間だなとまた感じてあっという間に鬱。色々説明受けても一度に理解出来ず「あぁ、もういいやこっち来て」を2回も食らって結構死にたくなった今日。頭にも体にも心にも筋肉がないから、何にも役に立てずただ無理したために体を痛めて帰る今日。何かもうね、やるせなくて切なくて、帰り道メソメソしてた。メソポタミア文明。本当にさ。だめだなってさ。こんなにも分かりやすい無能役立たずなんているんかなって。大鬱っすよこちとら。嫌ね。心も体も傷ついた分、優しくできるのは自分だけなのにさ。何か良いこと起きないかなとか、すげー他力本願なの。誰かに、何かに、きっと俺は救われるんだって。あめぇな、腹立つ。そんな精神状態だから、何聴いても泣けるモード��入ってしまった。冬だねプレイリスト、ここで公開。正直冬は関係ないです。ド趣味だから恥ずかしいったらありゃしない。パンツ覗かれてる気分だよ、ガチ。まぁいいや、どうでもいいね。あれもこれもそれもどれも、俺の自己満でしかないの。俺が満足すればそれでいい。そう思えますように。本当に本日は心身ボロボロでした!13日の金曜日〜🎶

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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)
通巻第8068号 <前日発行>
熾烈なAI開発戦争を横目に
古代人の霊的な技術の脅威をどう評価するべきか
*************************
十五年ほど前、チベットへ取材に行った帰り、高山病を調製し、乗り換え便を待つために四川省の成都に二泊した。
それ以前にも成都は何回か来ているので「珍しい所はないか?」とガイドに聞くと,クルマで二時間弱の場所に「三星堆遺跡」があるという。その時、筆者は初めて三星堆なる文明の存在を知った。
戦後教育で教わった『世界四大文明』とはメソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明だが、マヤ文明、インカ文明と縄文文明がかけている。三星堆は中華文明とはまったく無縁で地理的な要件はともかくシュメール(メソポタミア)に似ている。
早速、見に行った。
明らかに太陽信仰の農耕文明だが、出土した仮面、神樹(御神木)の高さは4メートルにも及び、巨木信仰を窺わせた。人物像や神具などシュメールとの共通要素が多いが、シナ歴史の起源とされる夏・殷・周の中華文明とはまったく別物である。
▼巨大な目玉のデフォルメ青銅像は霊力の象徴ではないのか
道具類も多���で1934年に本格調査が始まり数百点のめずらしい出土品があった。戦争を挟んで1982年に発掘が再開され,大きなミュージアムもできた。 ブロンズ像の特徴は大きな目、飛び出した目玉、大きな鼻など、これはエジプトと似ている。
筆者は売店でミニチュアのレプリカを二つほどあがなって書棚に飾った。
とくに143センチの杖は力の象徴であり、大きな目玉は『ホルスの眼』「第三の眼」として神の力であり、シナの古典の『蜀王本紀』には「巨眼の王がいた」と書かれ,『華陽国史』には、この三星堆文明は、「民とともに王が去った」と書かれている。
そして数千年、三星堆遺跡は土に埋もれていた。
わが国でも亀ヶ岡縄文遺跡からは巨眼土偶が出土している これを日本では「射光器土偶」などと言っているが、神話性を無視した近代人の解釈では古代の謎は解けない。
眼には霊力が宿ったのだ。シュメールもエジプトもヒンズーも古代人は眼に神の力がやどると信じてきた。
「ホルスの眼」は古代エジプト文明において重要な象徴。目の形だが、人間の脳にある松果体という部分の断面図に酷似している。この「ホルスの目」は、癒し、修復、再生の象徴でありエジプト神話の太陽神であるラーの右目は全てを見通す「知恵の目」とも言われた。魔除けと守護のシンボルだった。
水木しげるの漫画をみよ。目玉の妖怪だらけだ。
ユダヤ教やキリスト教では、ホルスの目は神の監視と保護を表し、イスラム教では、真理と力を表している。ホルスの目は、力、保護、治癒を表す、歴史と文化的背景にあふれた霊力の象徴である。
中国の監視カメラは前項の目的、宗教を軽んじている。
「第三の眼」とは目に見えない目、ヒンズー教では頭脳にあるとされ、ネパールでは額に眼を描いた巫女のような神職がいる。まさに松果体(脳に存在する内分泌器)に似ている。さきにマヤ文明と書いたが、最近は人工衛星によってホンジュラスの山奥からも古代遺跡の所在が判明し、どうやらインカ文明とマヤ文明はことなることも朧気にわかってきた。
▼あのプマ・プンク遺跡の巨石切断は古代人がレーザーを使ったのだ
インカ文明以前に南米で現代人の創造を絶する遺跡が発見された。
プマ・プンク遺跡は巨石が組み立てられた謎の構造物として知られる。一番の謎は10噸以上の巨石を80キロ離れた石切場からどうやって運んだか、石を見事なH型に切断、生前と並べた技術はレーザーか、超音波か、あるいは宇宙人かまるで違う文明がも��らしたものだったのか。
レーザーはいうまでのなく半導体製造の一等中枢にある技術で、数ミリのチップに数十億の回路を刻み込んで集積回路とする。
プマ・プンク遺跡の場所はボリビアのチチカカ湖の南、ペルーとの国境で標高は3800メートル。建造は紀元前2000年頃と推定される。
一万年前と唱える考古学者もいる。
世界の考古学者、建築学者が謎の究明に挑んだ。運搬に関してはチチカカ湖を筏で移動、あるいは運河を造成したとういう説は退けられた。
丸太をコロとして人間が引いた?
英国のストーンヘンジはたしかにそうやって造られた。またチチカカ湖は古代には海だったという説、大洪水でノアの箱舟と関連があるなどの説もほぼ否定された。巨石は安山岩で、大理石よりも硬質、それゆえに数千年の風雪に耐えた。
▼これは天文台なのか。
古代人は始原的な天文学に通じていたことは明らかである。
邪馬台国の卑弥呼なる巫女も原始的な占星術、鬼道に通じていたと魏志倭人伝は書いた。
天文学的な、シャーマン的要素で戦争を指導したのは壬申の乱で勝利した天武天皇である。
プマ・プンクの巨石の列が山頂に建てられたのだから城塞ではなく神殿だろうが、文字がないうえに人骨が周辺から発見されておらず、この点では忽然と去った三星堆の謎に似ている。
ピラミッドは地下には美術館のような彫刻、地下に墳墓があるがやはり巨石の切断方法と運搬方法が解明されていない。
U型のフォーク形状の道具や、金の杖を共通に待つのは指導者の威信、力の象徴とされ、シュメール文明と共通である。ワトキンスという学者は,太陽光を人工的な集光器にあつめてレーザー光線として切断したと唱える。
もし、そうやって古代人が巨石を生前と切断し、神殿のような建造物を造成したとしたら、古代人の智恵は明らかに現代ホモサピエンスの知能を超えている。プマ・プンクの岩石には異様な磁力があるという。
巨人(宇宙人?)がラッパを吹いて巨石を動かしたという言い伝えは超音波が運搬手段に使われたとする学説である。超音波の運搬も、否定できない。
またファラオ、ツタンカーメン、オベリスクなどのエジプト古代文明とシュメールの共通点、類似性に神木がある。
神話でいわれたことで真実に近いことは夥しいのである。
AI開発が生成AIを産み、やがてチャットGPTが進歩すると逆に人間の思考力は低下し、いずれAIが人間を支配する。そうやってAIの脅威��語られているが、だれも霊力との関連を語ろうとしない。
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バルフォア宣言(バルフォアせんげん、英語: Balfour Declaration、ヘブライ語: הצהרת בלפור)とは、第一次世界大戦中の1917年11月2日に、イギリスの外���大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員であるロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。この宣言をアメリカシオニスト機構に伝えるようロスチャイルド卿に依頼した。 概要[編集] バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束している。 しかし、この方針は、1915年10月に、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだフサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言)と矛盾しているように見えたことが問題になった。すなわち、この協定でイギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、ヒジャーズ王国を建国した。 一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の三枚舌外交が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。しかし、フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれていないため、この二つは矛盾していない。フサイン・イブン・アリーも、エルサレム市の施政権以外は地中海側のパレスチナへの関心は無かったことが、後の息子ファイサルとハイム・ワイツマン博士との会談で証明されている。なおバルフォア宣言の原文では「ユダヤ国家」ではなく、あくまで「ユダヤ人居住地」として解釈の余地を残す「national home」(ナショナル・ホーム、民族郷土)と表現されており、パレスチナ先住民における権利を確保することが明記されている。加えて、もし民族自決の原則が厳格に適用されるならば、大多数がアラビア人である以上は主権がアラビア人のものであることは明示的であり、少なくとも移民(ユダヤ人)のものにならないことは、特に協定の必要なく理解されていた[要出典]。 さらに、この2つの約束は、1916年5月にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれた秘密協定、サイクス・ピコ協定とも矛盾しているように見えたために問題になったが、内容を読めば実際のところはシリアのダマスカス付近の線引きが曖昧なこと以外、特に矛盾していないことがわかる。バルフォアは議会の追及に対して、はっきりと内容に矛盾が無いことを説明している[要出典]。 メソポタミアはイギリスの自由裁量→保護国としてのアラブ人主権国家イラク誕生。 ��バノンはフランスの委任統治→レバノンはフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である。(フサイン=マクマホン協定も参照のこと) シリアはフランスの保護下でアラブ人主権国家となる→これまたフサイン・マクマホン書簡の内容とはそれほど矛盾しない。ただしシリアの首府ダマスカス近辺については、フランス統治領なのかアラブ人地域なのか曖昧な部分が残った。 パレスチナに関しては、上記のとおり「居住地」としての解釈もあり、またフサイン・マクマホン書簡で規定されたアラブ人国家の範囲外である。あくまで居住地である以上、国際管理を規定するサイクス・ピコ協定とは矛盾しない。従って、少なくともバルフォア宣言と他の二つの協定の間には、文面上は何の矛盾もない。
バルフォア宣言 - Wikipedia
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8月3週
月
なにか、何かを、表現してやろうだなんて思わない。そういう意識ではないところで形作られるようなものを、特に意識せずに、ただやるだけ。衒うことは要らない、そういうものとして。それがピュアさでもあり、しかし、あまりにも戦略的な、打算的なそれ。そんなものが果たして存在しうるか、そんな事は考えない。チバユウスケがミッシェルガンエレファントを解散した後に作ったROSSOというバンドの1000のタンバリンという曲の歌詞を、なぜだか偶に思い出す。
「そして見上げれば 1000のタンバリンを 打ち鳴らしたような星空」
このフレーズが好きなんだろう。いいよね。
火
台風は逸れたらしい、だから全然思っていたような天気ではなかった、でも外に干すということを失念していたのと、干していてもすぐ乾くわけではないので、溜め込んでしまった洗濯物を持ってコインランドリーへ。最近人気のルシア・ベルリンの掃除婦のための手引き書、一番最初の話がコインランドリーでの話で、よく書けてるんだよな。いやなんかすごく嫌な言い方になってる、よく書けてるなんていい方はよくない、なんというか、すげー真に迫るというか、妙に立体的というか、切実な話で、一気に引き込まれるんだよ。なんなんだあの話はっていう、どう書けばああなるのか、わからん。
水
少しずつ複数の本を読む。スザンヌ・オサリバンの眠り続ける少女たちを今日は読む。しかし一気には読まない、というか一気読み出来るような厚さではない、一章も読まない、一章の中の数見出し分を読む、少しずつ読むということをずっとしている、読むということはそのくらいゆっくりと文字を追いかけるものだという思いがある。昔はそれこそ一日一冊読んでたけど、そういう読み方はもう出来ない、若い頃は体力があったみたいなものかもしれない。買い物先への途中路でネコが水たまりの水を飲んでいた、今日はそこまで日差しがないし、暑くはないのだが、きれいな水を飲めるのは家のネコか、人からご飯をもらっているネコくらいで、そうじゃないネコは水たまりの水を飲む、川の水も飲むかもしれない、その駐車場は川沿いにあったから水たまりがなかったら川の水を飲んだかもしれないが、川に近づくのはもしかしたらそれ相応のリスク行為かもしれない、ネコにとって。ハチワレのネコは合図をするとこちらへ目線を向けながら、ピチャピチャと器用に舌で水をすくい上げた、ネコ科の動物は口で吸うことが出来ないから、そういう飲み方になる。その30分後に雨になった。どこか雨の当たらないところに隠れたに違いない。
木
毎日ヨーグルト食べてるんだけど、無糖の400gのおっきいやつね、本当に健康効果があるか不明である。結局自分が健康なのかどうかってのは、���調にならないとわからないってのはほんとそうで、だらーっと今のままなんかちょっと疲れたなとか、体の何処かがどうのとか、そういうポイントはあれど、ヨーグルトによる健康効果がどのようなものなのかも俺は知らないし、だとしたらまあ別にいいわけだけど、でもどこかヘルシー感はあるじゃんヨーグルトは。だとしたら何らかの効果があってもいいじゃん、でもわからん、全く自覚なし、だとしたらただ腹を膨れさせるというだけ、でもまあカロリー的にも低いし、白飯よりも飽きてない、いや白飯も飽きが来ないんだけどさ、なんというかカテゴリは同じよね、白飯とヨーグルト、白いのも同じだし、白い食べ物ってそういうものなのかも、パンもそうだし、麺もそうだし、食べ物における白色ってそういう特徴で括れるというか、そういうものなのかもしれん、でも豆腐、これは俺は駄目だ、豆腐が嫌いではなくて、豆腐を食べ続けるのは無理だった、味が大してないってのはヨーグルトも同じだけど、ヨーグルトのがまだ我慢できるし、甘みをつけたら楽勝だけど、豆腐に甘みをつけるわけにもいかない、というのは先入観だろうか、いやでもなあ、黒蜜でもかけてみます? きな粉は大丈夫そうだけど、大豆✕大豆だしなあ、やっぱり豆が苦手なのかもしれん。豆とかカボチャとか、サツマイモは大丈夫なのに、クリもちょっと苦手、何が駄目なんだろう、変にもさつく感じが駄目なんだよね口の中で。だから汁たっぷりのクリの渋皮煮は大丈夫、でもカボチャを煮たやつは味が苦手なのかな、食べられないわけではないんだけど、脱線!
金
曜日の月火水木金土ってのは、日もだけど五行ってやつから来てるよね、天体も関連あるか。でも曜日に名前をつけたのは、調べないで書くけど、多分四大文明でも黄河文明ではないとは思う。だいたいこういうときはエジプトって言っておけば当たってるはず。メソポタミアかもしれんけど。天体の名前と曜日と五行がどこかでぶつかって今のような形になったんだろうな。最初にこの方式を考えた人は、今も使われてるのを見てどう思うだろうか。ほかはえらく変わったけど、これは昔のままだなって、そう考えるとすげー昔から使ってて、変える必要もないからずっとこのままみたいなのって、言葉なんかはそういうものいっぱいあるだろうけど、いつか変わってしまうってのはあるんだろうか、ネコをネコと呼ばなくなる日が来るとは思えないんだけどねえ、変わる前に日本語話者が居なくなる方が早そうだ。すげー疲れてるから、全然面白くねえなあ。はよ寝ろよ。俺。
土
「人間は、機械ではない。」
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『「呪術」の呪縛』下巻の読書ノート

江川純一・久保田浩編『「呪術」の呪縛』(下)リトン、2017年。
第一部 呪術概念の再検討
鶴岡賀雄「「呪術」の魅力:「永遠のオルタナティブ」の来歴と可能性についての試論」
「マギア」を人類学的・宗教学的分析概念としてではなく西欧精神史の構成要素として見て、古代ギリシアから、中世神学、ルネサンス、近世キリスト教、現代芸術に至るまで、マギアの位置づけを跡づける。 そこでは、マギアがつねに、公共宗教や哲学といった正統的な知や生き方に対して、劣位に置かれた人々による代替行為として位置づけられる。しかし、この民衆の低級知は正統知でないがゆえに、かえってそれを批判的に超える超高級知ともなりうるものであった。 近世神秘神学における神的/悪魔的/自然的という三分法が、人類学・宗教学における宗教/呪術/科学の三区分に改鋳されていったのではないか、という指摘はなるほどなあと感じ。また、世間的・民衆的な低級知たるマギアがつねに物を介するというのも、フェティッシュとの関係で興味深い。 「神秘主義」概念の検討については別稿に譲るとされているが、その「別稿」とはこれですね。→ 鶴岡賀雄「「神秘主義」概念の歴史と現状」『東京大学宗教学年報』vol. 34、東京大学文学部宗教学研究室、2017年、pp. 1–24。 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/47687# なお、本論文の中で、サラマンカ大学の学士アマドール・デ・ベラスコが持っていたグリモワール(魔術の指南書)をめぐる事件の話が出てくるが、最近、魔術のことを考えすぎて、先日、江川さんから「grimoireとは魔術書のことなんですよ」と教えてもらう夢を見た。 山崎亮「社会学年報学派の呪術論素描」
ユベールとモースの「呪術論」は混乱に満ちた論文であり、その一因として呪術のアポリア(呪術は私的なものであるが、社会的な性格ももつ)が挙げられる。この混乱を理論的に整理したのがデュルケームの聖理論であるが、ユベールとモースは納得していなかった。 江川純一「「magia」とは何か:デ・マルティーノと、呪術の認識論」
イタリア宗教史学におけるマジーア概念を、特にエルネスト・デ・マルティーノの『呪術的世界』とその後の転回にしたがって明らかにする。宗教学において一般的に、「呪術」は「宗教」のネガとして語られがちだが、宗教史学はこの対比・対立を認めない。 デ・マルティーノは『呪術的世界』において、呪術的世界は「自分の魂の喪失の危機とそこからの解放」という実存のドラマによって根拠づけられるとして肯定的に評価したが、この世界を歴史的時代であるとしたがゆえに、進化主義的宗教論と見分けがつかなくなってしまった。 「呪術的心性と原始的心性を混同している」という師ペッタッツォーニらの批判を受け、デ・マルティーノは後年、「呪術的世界」という想定を取り下げ、神話ー儀礼の結合物としての「呪術ー宗教現象」を探究するようになる。 注にある、「今後、20世紀の宗教学思想を振り返るときには、ペッタッツォーニ、デ・マルティーノ、エリアーデのトライアングルによる、神話ー儀礼的技術としての「呪術ー宗教」の考察が軸となるであろう」という指摘が興味深い。
なお、A. C. ハッドンが報告したボルネオのトゥリク族の男の話(ある男は鉤形の石を頑なに手放そうとしなかった、その石は魂が自分の身体を去るのを引き留めているのだという)がラトゥールのファクティッシュのようで面白い。
第二部 事例研究:古代~中世
渡辺和子「メソポタミアにおける「祈祷呪術」と誓約:「宗教」と「呪術」と「法」」
なかなか論争的ですごい論文であった。一言ではまとめづらいが、アッシリアの『エサルハドン王位継承誓約文書』(ESOD)の構成や文法を分析することで、誓約と儀礼、「言うこと」と「すること」の宗教的な結びつきを考察する。 アッシリア学者の重鎮オッペンハイムは、西洋人として祈りと儀礼が結びつくことに耐えられず、「メソポタミア宗教」は書かれるべきではない、とまで言う。また、ESODの誓約と儀礼という形式こそが、契約(誓約)宗教としての一神教の成立と後のキリスト教の成立にも影響を与えたという。
高井啓介「その声はどこから来るのか:腹話術の魔術性についての考察」
叙述がトリッキーで面白い。腹話術が古代の神学者たちによって魔術として扱われ、近代に脱魔術化していった過程が示される。旧約聖書サムエル記上の「降霊術」がギリシア語に翻訳される際にἐγγαστρίμυθος(腹話術)と訳されたために腹話術の魔術化が始まった。 降霊術が腹話術と見なされることで、腹話術師は腹の中に悪霊をもつことになり、霊媒は魔女扱いされるようになる。しかし、腹話術の魔術性を否定し、単なるトリックだとしたのが、『百科全書』で数学に関する項目を多く書いているジャンバプティスト・ドゥ・ラ・シャペルの『腹話術』であった。
山本伸一「カバラーにおける神名の技法と魔術の境界」
ユダヤ教のカバラーにおいて、正当な呪術と禁じ��れた魔術の境界は不分明である。このことを15世紀のカバラー文学、ルネサンスの自然魔術の影響下のカバラー、18世紀のエムデン=アイベシュッツ論争という3つの事例に即して考える。 15世紀スペインのカバラー文学の共通点は、主人公であるカバリストが終末とメシア来臨を促すために悪魔を追放しようと立ち上がるも、悪魔に騙されて取り逃がしてしまい、逆に魔術に手を染めた悪人として非難される、という物語。中2っぽいというか、『進撃の巨人』(デビルマン)フォーマットだなと。 青木健「ゾロアスター教神官マゴスの呪術師イメージ:バビロニア文化の影響と呪術師イメージの由来」
マゴスには「呪術師」「神秘主義の達人」「放蕩」といったイメージが付与されるが、ゾロアスター教の神官の職能を検討してみると、実態は王朝に仕える官僚であり、吉凶暦や蛇占いといった副業の方がイメージの形成要因となったと考えられる。 青木健『古代オリエントの宗教』は、渡辺論文の注で、紀元前2世紀から13世紀までのオリエントの宗教史を扱うものなので、「書名と内容が一致していない」と批判されていた。 毛利晶「古代ローマにおける凱旋の儀式:トリウンプスに関する最近の研究動向を中心に」
ローマで戦争で勝利を収めた将軍が行う凱旋の儀式トリウンプス(triumphus)。そこでユピテルの扮装をする凱旋将軍の役割は神か王か。近年の論争を踏まえて、著者は元々ユピテルの儀式であったものが後に将軍自身を讃える儀式へと変化していったと推測する。 凱旋式挙行の要件が、①命令権(imperium)、②鳥占権(auspicium)、③軍隊指揮(ductus)、④幸運(felicitas)の4つだったというのが、統治(王)・呪術(宗教)・軍事の三権が一人に集中しているようで興味深い。 野口孝之「近代ドイツ・オカルティズムの「学問」における「魔術」」
19世紀後半から20世紀初頭に展開されたオカルティズムにおける「魔術」の位置づけを、キーゼヴェッター、エスターライヒ、シュティルナーという3人の思想を中心に検討する。 ドイツの代表的なスピリチュアリスト、カール・ドゥ・プレルの概念das transzendentale Subjektを「超越的主体」と訳しているけど、「超越論的主観」では。このドゥ・プレルの理論を援用するキーゼヴェッターはオカルティズムをGeheimwissenschaftと呼び、先人としてスウェーデンボルグを挙げている。 ちなみに、スウェーデンボルクを批判したカントの『視霊者の夢』の第一部第二章のタイトルはgeheime Philosophie(オカルト哲学)である。
寺戸淳子「「呪術ではない」祭儀:「秘義」としての聖体拝領」
大変勉強になった。キリスト教の「聖体拝領(聖餐)」「実体変化」「神秘的肢体」といったややこしい話を基本的なところから丁寧に教えてくれるので、これらの神学的議論に関心がある人におすすめの入門的論文。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 12世紀に「実体変化」の教理が確立したのと同時に、「神秘的肢体」(Corpus mysticum)論も確立していった。Corpus mysticumは元々、食べる方の「聖体」を意味していたが、秘義的ニュアンスがよろしくないため、それまで「教会」を意味していた「キリストの体」Corpus Christiと呼ばれるようになった。 逆に、教会はCorpus mysticumと呼ばれるようになった。つまり、聖体と教会の呼び方が入れ替わったのである。この教会を指す「神秘的肢体」がやがて法人のような擬制的人格一般を指すようになっていった。カントーロヴィチぽいなと思ったら、カントーロヴィチが参照されていた。 佐藤清子「19世紀合衆国における回心と「呪術」:チャールズ・G・フィニーの新手法擁護論とその批判を中心として」
きわめて明晰な論文。19世紀アメリカの第二次大覚醒の時代を代表する牧師フィニーは「新手法」と呼ばれる礼拝方式を導入して革新をもたらしたが、それは回心を意図的・合理的に促す手法であり、限りなく呪術に接近していく。 フィニーはスコットランド啓蒙思想の影響の下、自然法則の学習・応用という方法論を採用し、自らの回心の方法を「科学」あるいは「哲学」であると称した。他方で、呪術・宗教・科学の三区分で知られるフレイザーもまた、同じくスコットランド啓蒙の思潮に影響を受けていることは興味深い。 フレイザーは呪術を稚拙な科学であるとしたが、もし仮に「回心」を心理学的な技術によって達成できるようになったとしたら、それは科学なのか呪術なのか。実は科学と呪術の区別は、その知識や技術の程度の差異によるのではないのではないか。 フィニーの「祈り」についての議論も面白い。回心は聖霊の働きによるが、人間は聖霊をコントロールできないがゆえに、回心も究極的には神に委ねられている。しかし、フィニーは回心と聖霊の間に「祈り」という人間の行為を介入させる。とはいえ、人間は祈りによって神を操作できるわけではない。 フィニーによれば、祈りはそもそも聖霊の働きによって可能になるのだから、祈ることができること自体���それが叶えられる可能性があることの証拠となる、という。ここには、祈りのアポリア(祈りは効果があるならば、祈りにはならず、効果がないならば、祈る必要がない)を解く鍵があるように思われる。 久保田浩「近代ドイツにおける「奇術=魔術」:奇術とスピリチュアリズムの関係に見る〈秘められてあるもの〉の意味論」
19世紀ドイツで機械仕掛けの奇術を行う奇術師は、トリックを説明(klaeren)可能なものとし��がら、それを驚嘆すべきものとして提示する者であり、スピリチュアリストの種明かし(erklaeren)をして詐欺を暴く啓蒙(Aufklaerung)の意義も担っていた。 奇術師がスピリチュアリストを科学的に暴いたり、宮廷からお墨付きを得た「宮廷奇術師」が登場したりと、『鋼の錬金術師』が好きな人にお薦めしたい論文。スピリチュアリストが、奇術師は本人も気づいていないけれど実は霊媒であり、本人が奇術だと思っているのも霊媒現象なのだと主張する話が面白い。
井上まどか「ロシアにおける呪術概念の検討」
前半が現代ロシアの事典や概説書における「呪術」概念の分析、後半が16世紀に編纂された『百章』における「呪術」の用法について。「準備的覚え書き以上のものではなく」という著者の言葉通りの文章であった。 『金枝篇』の著者名が「D. D. フレイザー」となっていて、目を疑った(ロシアだとJもGもDなんですか)。それ以外にも本書は誤植が非常に多い印象。上巻目次のタイトルからして既に間違っている。
西村明「呪術としてのキリスト教受容:ミクロネシア・ポンペイ島を中心に」
最終章でいよいよ真打ち「マナ」登場。ミクロネシアのポンペイ島における宣教でキーワードとなった「マナマン」から、マジックワードとしての「マナ」概念の歴史的形成の議論へ。 まず、宣教師は植民地主義的視点で現地の宗教的・呪術的実践を裁断するが、しかし、その視線は一方向的なものではなく、現地民もまた、自分たちの価値体系の中にキリスト教を位置づけて理解する。ポンペイ島で、二つの異なる価値体系を通訳した概念が「マナマン」であった、という話が面白い。 さらに後半、この「マナマン」(ミクロネシア)と同族語である「マナ」(メラネシア・ポリネシア)という概念が辿った数奇な運命が論じられるが、これも面白い。 「マナ」とはそもそも、コドリントンが『メラネシア人』(1891)において初めて学術的議論に導入した語で、その後、超自然的力を指す普遍的な概念として人類学・宗教学で多用されていった。しかし、コドリントンが現地調査したモタ島とバンクス諸島は、当時、ポリネシア人と宣教師の影響を受けていた。 メラネシアの「マナ」が形容詞や動詞としての含意があったのに、ポリネシアでは名詞として用いられた。メラネシアの宣教師たちは先にポリネシア語に通じていたために、「マナ」を名詞的に理解してしまった。こうして、コドリントンがやってきた頃には、既にバイアスのかった「マナ」となっていたのだ。 このように、「マナ」とは、ポリネシアとメラネシア、現地民と宣教師、そして世界各地の多様な宗教間といった、異質な価値体系を通訳=通約する概念として強力な力をもつようになっていったのである。異質な体系の間の界面に生じ��通約的概念という意味では、「フェティッシュ」にも似ているように思う。
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TEDにて
デイヴィッド・エプスタイン: アスリート達は本当により速く、強くなっているのだろうか?
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
過去、数十年のスポーツでの競技実績を見てみると、まるで、人間のあらゆる運動能力が進化して来たかのような印象を受けます。
デイヴィッド・エプスタインは、この爽快で反直感的なトークで、私達が、過剰な自画自賛を思いとどまってより一層、謙虚になるべき理由を指摘します。
テクノロジーや脳科学などの裏ずけによるメンタル面のメカニズムの解明、競技場のインフラ分野のテクノロジーの整備の充実など、様々な要因が多重に重なり新記録に貢献して来ました。
人間に本来備わる能力の発達や進化は、そのほんの一部なのです。むしろ、退化している可能性があるかもしれません。
オリンピックのモットーは 「キティウス、アルティウス、フォルティウス」「より速く、より高く、より強く」です。スポーツ選手たちは、このモットーを急速に実現して来ました。
2012年。オリンピックマラソンの勝者は、2時間8分で走り終え、1904年オリンピックマラソンの勝者ともし競争したなら、1時間半近くの大差をつけて ゴールしていたでしょう。
私達は、皆こう感じています。人類は、容赦ないまでに確実に進化し続けている。しかし、この1世紀で人類が新しい種へと進化したわけではありません。では、何が起こっているのでしょう?
スポーツ記録の絶え間ない向上の裏側を見てみたいと思います。1936年。ジェシー・オーエンスは、100メートル走で世界記録を手にしました。もし、ジェシー・オーエンスが
去年。100メートル走世界選手権に出場したならゴールするジャマイカ人スプリンター、ウサイン・ボルトの4メートル後ろをオーエンスは、まだ走っていたでしょう。スプリンターにとっては大きな開きです。
ウサイン・ボルトは、スターティングブロックから蹴り出し、走者が人類に可能な限り速く走る事ができるように特別に作られた敷物の上を走りました���、 一方、ジェシー・オーエンスは
コークスを敷き詰めたシンダートラック上を走り、そのソフトな表面は遥かに多くのエネルギーを脚から吸収してしまいました。
更に、オーエンスは、スターティングブロックの代わりにスタートラインに穴を掘るのに園芸スコップを使いました。オーエンスの関節が動く速度を生体力学的に分析すると
ボルトが走った時と同じ舗装上を走っていれば、4メートル27センチではなく、わずか一歩の差でボルトの直後を走っていたことになります。
明らかに、選手たちは、能力向上薬物についても知識を深め、それはある種の競技で時折、効果を表しましたが、テクノロジーの進歩は、全ての競技で違いを生み出しました。
より速く。滑るスキーやより軽いシューズなどです。100メートル自由型競泳の記録を見てみましょう。タイムは常に短縮され続けていますが、ところどころ突然、大きく記録が向上しています。
最初の劇的な記録の向上は、1956年に導入されたフリップターンが要因です。一旦、止まってから方向転換する代わりに選手は水中でとんぼ返りし、即座に逆方向へ向きを変え泳ぎ出します。
2番目の飛躍は、プールサイドの排水溝の導入が理由です。それにより水が捌け、競泳中の選手の動きを妨げる水流が起こらなくなりました。
最後の飛躍には、全身を覆う低摩擦抵抗性の競泳水着の導入が貢献しています。スポーツの歴史を通してテクノロジーは、パフォーマンスの流れを変えて来ました。
でも、テクノロジーだけが選手たちの後押しをしているわけではありません。確かに、私たちは1世紀で新人類に進化したのではありませんが、スポーツ競技における遺伝子プールは確実に変化しました。
20世紀前半。体育教師やコーチたちは、平均的な体型が全ての運動競技において理想的だという考えを持っていました。
どのような競技であれ、中肉中背が良いとされ、これは選手たちの体つきにも表れていました。1920年代。平均的に優秀な走り高跳び選手と平均的に優秀な砲丸投げ選手は全く同じ体格をしていました。
しかし、平均的な体躯よりもそれぞれの競技ニッチに適した高度に専門化された体躯が好ましいとスポーツ科学者やコーチたちが気付き、古い考えが衰退し始めると一種の人工的な選別が起こり始め
競技ごとに最適な体つきが自然と選別され始め、スポーツ選手の体型は次第に多様化して行ったのです。
バスケットボール等。高身長が好まれるスポーツでは、背の高い選手は更に背が高くなりました。水球選手の腕全体に対する前腕の平均的な長さは、より力強くバネの利いた投球の為に更に長くなりました。
大きな選手はより大きく、小さな選手はより小さく、特徴はより極端に強調され、水泳選手の理想的な体格は長い胴と短い脚です。
水上を速く進むことのできるカヌーの長い船体のように、その逆の体つきは走る事に適しています。長い脚と短い胴。今日のアスリートたちの体格に見られる傾向です。
また、私達がケニヤ人を偉大なマラソン走者と見ているように、ケニアではカレンジン族が優れたマラソン走者だと見られています。
カレンジン族は、ケニアの人口の12%に過ぎませんが、世界の優秀な走者の大多数は彼らです。一般的に、特徴ある体つきでとても長く、極めて細い脚を しています。
これは彼らの祖先が、とても緯度の低いとても暑く、乾燥した気候に住んでいたので、そこに適応するように進化した結果が、非常に長く末端に向かって細い四肢で体を冷やし易いように なっているのです。
ラジエーターに長いコイルが、あるのも同じ原理で体積に比べて表面積を増やし、熱を逃がしています。脚は振り子のようなものなので、末端の下肢が細く長いほどスイング時のエネルギー効率が 良いのです。
このように、進化するテクノロジー。進化する遺伝子。そして、進化するマインドセット。スポーツにおける技術革新。それが、新しいトラック素材。そして、スポーツの民主化。
または、新しい泳法技術であれ。新たな体格の伝播。世界中の人々が新たに参加すること。スポーツにおける想像力。真に人体に可能なことの理解。
これら全ての要素のおかげで選手たちは、より強く、速く、大胆にと向上してきたのです。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
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「文明の始まりを“体験”してしまった件」 #タイムトラベル #メソポタミア文明 #雑学
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バートランド・ラッセルの言葉366_画像版 n.3149j (July 15, 2019)
私の兄がマルセイユで火葬されたとき、葬儀屋は、このあたりでは神学的偏見のためにこれまで火葬はほとんど行われたことがなかった、と私に告げた。どうやら、人間の肉体の諸部分が教会の庭(=墓地)���虫(訳注:ミミズなどの地中の虫に食べられて取り込まれた状態)や粘土(土)の形で残っている場合よりも、火葬によって気体として拡散してしまった場合の方が、全能の神にとって、それらの諸部分を再び集めるのはいっそう困難だと考えられていたようである(訳注:皮肉)
When my brother was cremated at Marseilles, the undertaker informed me that he had had hardly any previous cases of cremation, because of the theological prejudice. It is apparently thought more difficult for Omnipotence to reassemble the parts of a human body when they have become diffused as gases than when they remain in the churchyard in the form of worms and clay. Source: Religion and Science, 1935, chapt. 4 More Info.: https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-030.HTM
<寸言> 程度の差こそあれ、誰にでも何らかの偏見はあります。その中には、宗教や信仰に根ざした神学的な偏見も含まれます。たとえば、火葬に対する偏見がその一例です。 日本は国土が狭いため、墓を造り続ければ土地が墓で埋め尽くされかねません。もちろん、これだけが理由ではなく、日本にはキリスト教的な神学的偏見が存在しなかったこともあり、火葬に対する抵抗感は比較的少なく、土葬と並んで火葬も早くから受け入れられてきました。現在では、火葬がほとんどです。これに対し、キリスト教圏である欧米においては、長らく火葬はあまり行われてきませんでした。広大な国土を持つアメリカなどでは、今後も土葬を続ける余地があるのかもしれません。 こうした背景を踏まえると、「本日のラッセルの言葉」に見られるある表現が興味深く感じられます。それは、「in the form of worms and clay」という一節です。英語にも「人は土に還る(return to the clay)」という表現があるように、「clay(粘土)」は人間の死や有限性を象徴する言葉として用いられます。「死ねば土に還る」という発想は世界中に見られますが、ここで一般的な「soil(土)」ではなく、「clay(粘土)」という言葉が使われています。 私が疑問に思ったのは、なぜ「clay」という表現が使われるのかという点です。つまり: 「土」を「clay(粘土)」と表現するのは、キリスト教が生まれ、広まった地域の自然環境、つまり風土と関係があるのではないか? たとえば、乾燥した砂漠地帯では遺体は白骨化しやすく、「粘土(土)になる」ことはあまり考えられません。一方、ヨーロッパには湿潤で粘土質の土壌が多く存在します。こうした風土の違いが、死者の還る場所としての「clay(粘土)」という表現に結びついた可能性はあるのではないでしょうか。
この点について ChatGPT に確認したところ、次のような補足がありました。 【ChatGPTの補足】> 「clay(粘土)」が人間の死や儚さの象徴として英語表現に現れる背景には、キリスト教が生まれ、広がった地域の自然環境が関係していると考えられます。 キリスト教はパレスチナ(現在のイスラエル周辺)で生まれ、地中海世界を経て���ーロッパへと広まりました。これらの地域の多くには粘土質の土壌が見られます。 粘土は古代文明(メソポタミア、エジプトなど)でも重要な素材であり、神話にもたびたび登場します。 たとえば旧約聖書の創世記2章7節では、「神が人間を土の塵(dust)から形づくった」とあります。原文は「dust of the ground」ですが、英語圏の文学や詩的表現では、しばしばこの「dust」が象徴的に「clay(粘土)」として言い換えられます。 つまり、「clay」は原典の厳密な訳ではなく、宗教的・文化的比喩として定着した語であり、詩的・象徴的な文脈において、人間の出自と死を結ぶ素材として機能しているのです。欧米の多くの地域の風土や宗教文化が、このような言語的イメージを生み出す土台となったのだと考えられます。 このように見てくると、死者をどう弔うかという行為一つにも、自然環境と文化、そして宗教的な象徴表現が深く関わっていることがわかります。そして私たちが何気なく目にする英語表現の背後にも、風土や文明の記憶がしっかりと刻まれているのです。 長いので、以下省略】
Everyone, to varying degrees, harbors some kind of bias. Among these are theological prejudices rooted in religion or belief. One such example is the prejudice against cremation. In Japan, where land is limited, building more and more graves could eventually cover the country with cemeteries. Of course, this is not the only reason, but the absence of Christian theological bias in Japan has also contributed to the relatively low resistance to cremation. As a result, cremation was accepted early on alongside burial, and today it has become the predominant practice. In contrast, in the Christian-influenced West, cremation has historically been much less common. In countries with vast territories, such as the United States, it may still be feasible to continue the practice of burial into the future. Against this background, one expression found in "Today's Words of Russell" strikes me as particularly interesting: "in the form of worms and clay." In English, as in many other cultures, there is the expression "return to the clay," where clay symbolizes human mortality and finitude. The idea that we "return to the earth" after death is widespread throughout the world. However, here we do not see the more general term "soil" but rather the specific word "clay." Why is that? This led me to wonder: Could the choice of the word "clay" instead of "soil" be connected to the natural environment, the climate and landscape, of the regions where Christianity was born and later spread? For instance, in dry desert regions, bodies are more likely to become mummified or reduced to bones, and one would not naturally associate them with clay. On the other hand, much of Europe, especially northwestern regions, has moist, clay-rich soil. Might such environmental differences have influenced the symbolic use of "clay" as the material to which the dead return? When I asked ChatGPT about this point, I received the following explanation: [ChatGPT’s Supplementary Note]: The symbolic use of clay to represent human mortality in English expressions is deeply tied to the natural environment of the regions where Christianity emerged and spread. Christianity originated in Palestine (modern-day Israel), spread through the Mediterranean world, and eventually took root in Europe. Many of these regions have clay-rich soil. In ancient civilizations like Mesopotamia and Egypt, clay was a vital material and often appeared in myths and religious narratives. For example, in Genesis 2:7 of the Old Testament, it is written that "God formed man from the dust of the ground." The original Hebrew word refers to dust, but in poetic or literary English contexts, this dust is often symbolically reinterpreted as clay. Thus, clay is not a literal translation of the original text, but rather a culturally and theologically embedded metaphor. In this way, clay functions symbolically in Western religious and poetic contexts as a substance that connects human origin and death. This symbolic vocabulary is likely rooted in both the religious imagination and the natural environment of the regions where these traditions developed. What this shows is that even something as seemingly straightforward as how we treat the dead is shaped by a deep interconnection between environment, culture, and religious symbolism. The familiar English phrases we use often carry with them layers of memory embedded in climate, civilization, and belief. [The rest omitted for length]
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「技術環境の変化」によって知の継承が分断され、それまでの知恵や叡智が一部失われながらも、新しい知識体系へと転換されていく――こうした断絶と連続は人類史において繰り返されてきました。以下に、歴史上の代表的な例を「知恵が断絶した理由」と「そこから新たに展開した知の構造」という観点でできるだけ多くご紹介します。
1. 狩猟採集社会 → 農耕社会への移行(新石器革命)
断絶した知恵: 野生植物の見分け方、動物との共生、季節の微妙な感知、群れの調和的統治、移動生活の中での精神文化(シャーマニズム)など。
新たに展開した知: 土地定住・農業技術・私有制・階級・文字・都市国家・暦・税制など。
🔍 断絶理由:農耕定住が知識体系を「記録」「制度」「生産性」中心へ再構築し、身体的・感覚的な知を軽視するようになった。
2. 古代文明の崩壊(例:メソポタミア・マヤ・インダスなど)
断絶した知恵: 天文と宗教の統合的理解、水利管理技術、循環型都市計画、神殿文化。
新たに展開した知: 征服王朝による法律制度、軍事中心の秩序、通貨経済、交易路による知識の拡散。
🔍 断絶理由:気候変動や内乱、征服者による知の抹殺・文化の優越性の押し付け。
3. ギリシャ哲学 → ローマ実用主義への移行
断絶した知恵: 自然哲学・対話法・存在論的探究・自由市民の自己省察。
新たに展開した知: 法制度・軍事工学・インフラ技術・実践的統治。
🔍 断絶理由:哲学より行政と軍事を重視する実用的国家モデルへの移行。
4. ローマ帝国 → キリスト教支配下のヨーロッパ(中世初期)
断絶した知恵: 多神教的寛容、古代医学、天文学、演劇や性的表現。
新たに展開した知: 教会中心の知識体系(スコラ哲学)、神学、修道院による写本保存、教会暦と祭祀中心の生活。
🔍 断絶理由:異教文化の排除、宗教的一元化、文字文化の独占。
5. 先住民社会の征服(アメリカ大陸・オセアニア・アフリカなど)
断絶した知恵: 土地との霊的関係、持続可能な狩猟・農耕法、口承詩・祭儀、身体技法(例:航海術、サバイバル技術)。
新たに展開した知: 植民地経済、近代法、貨幣経済、キリスト教による教育・言語の統一。
🔍 断絶理由:言語の強制切替、文化の下位化、近代合理主義の強制。
6. 活版印刷の普及(15世紀以降)
断絶した知恵: 口承文化、記憶術、語り手の社会的役割、聖職者による写本の知の独占。
新たに展開した知: 読書による個人思考、文書管理、科学��思考の発展、知識の民主化。
🔍 断絶理由:知の伝達手段が文字・印刷へと一元化され、「語る身体」が軽視されていく。
7. 産業革命と近代技術の発展(18〜19世紀)
断絶した知恵: 職人の手技・感覚・道具の知、地場産業、地域ごとの気候や土との対応法。
新たに展開した知: 機械工学、大量生産、標準化、化学農業、効率性の追求。
🔍 断絶理由:職人知は「非効率」とされ、標準技術に淘汰されていった。
8. 電気・デジタル・AIの時代(20〜21世紀)
断絶した知恵: 近代的暗黙知(手書き・暗記・文脈による対話)、「人間関係を読む」能力、反復による職能習得。
新たに展開した知: 情報検索・操作能力、インターフェースとの共生、AIを介した新たな論理構築。
🔍 断絶理由:知識の即時アクセスと自動化が、「時間をかけて身につける知」を軽視させる傾向。
📌 まとめ:断絶とは「消滅」ではなく「変調」
知恵は完全に消えるというよりも、**その場では不要とされ、形式が変わる中で見えなくなる(非主流化する)**というのが実態です。しかし、何らかの社会的危機や環境変動により、過去の知恵が再発見される(Permaculture、瞑想、東洋医学など)例も数多くあります。
ご希望があれば、これらの事例を「今後AI時代に起こる可能性のある断絶」と重ね合わせた展望もご提供できます。必要であればお知らせください。
You said:
「電気・デジタル・AIの時代(20〜21世紀) 断絶した知恵:近代的暗黙知(手書き・暗記・文脈による対話)、「人間関係を読む」能力、反復による職能習得。 新たに展開した知:情報検索・操作能力、インターフェースとの共生、AIを介した新たな論理構築。」というところを、できるだけ詳しく教えてください。
ChatGPT said:
ご質問の部分は、現代社会において極めて核心的な知の断絶と再編成を示しており、「AIを使いこなす若い世代」と「旧来の文脈知を持つ世代」との断絶にも深く関係しています。ここでは、「断絶した知恵(近代的暗黙知)」と「新たに展開した知」の両者を、より具体的かつ丁寧に解説します。
🧠 Ⅰ. 断絶した知恵:「近代的暗黙知」
このカテゴリは、明文化されにくく、身体的・関係的・時間的な反復によって習得されてきた知の体系です。
1. 手書き・手作業による記憶と理解
かつての状況: ノートに手で書くことで、理解と記憶が結びついていた。教師の話を聞きながら「構造化してメモをとる」こと自体が思考の訓練だった。
失われた機能: 書く行為に付随する集中力・記憶定着・構造的思考。
AI時代の断絶点: 情報はタイプや録音、さらにはAI要約に任せ、脳内での構造化過程が省略されがち。
2. 暗記と再構築の文化
かつての状況: 一度覚えた知識を「自分の中で再構築して語る」訓練があり、記憶と創造が統合されていた(例:学者の講義・口頭試問・弁論)。
失われた機能: 記憶に支えられた知の内面化と、それを変形・応用する力。
AI時代の断絶点: 検索すれば出る、という前提が記憶の「必要性」自体を失わせている。
3. 文脈による対話と共感能力
かつての状況: 対面の場で、言葉の裏にある感情やニュアンスを「空気」「間」「沈黙」で読む訓練(例:職人の弟子入り・家業・政治的談合)。
失われた機能: 行間・表情・声色など、文脈的な理解の感受性。
AI時代の断絶点: テキストやチャットによる即時応答が主流となり、「読解」「間合い」「曖昧さへの寛容」が劣化。
4. 反復による身体的習得(スキルやマナー)
かつての状況: 手順を何度も体で覚え、時間をかけて“できるようになる”ことが尊ばれた(例:活字拾い、大工の手技、武道・書道)。
失われた機能: 体に沁み込んだ判断力・習慣としてのリズム。
AI時代の断絶点: ツールで一瞬で完成、ミスはやり直せばいい、という前提で、身体的プロセスの価値が下がっている。
🧠 Ⅱ. 新たに展開した知:
AI・デジタル環境を前提とした「操作・設計・統合」の知が、主導的な役割を果たし始めています。
1. 情報検索・収集・比較能力
新たな力: キーワード選定、要約・翻訳の判断、複数情報源の批判的比較といった、検索力+判断力のハイブリッドスキル。
高度な応用: AIへのプロンプト設計、GPTと自分の視点との比較検討、必要な形式で情報を整形する力(例:PowerPoint、動画、コード化)。
2. インターフェースとの共生能力
新たな力: マウス操作、タッチ、音声、コード、マルチモーダル入力などを自然に切り替え、「人間と非人間の境界を越える操作」が可能に。
実態: 手書きで「考える」のではなく、ツール上で「展開する」「構築する」スキルへの移行。
3. AIを介した思考・設計
新たな知のパターン: 自分のアイデアをAIに入力 → 修正・提案 → 取捨選択 → 再構築 → 公開、という**“人+AI”による思考ループ**が知の中心に。
例:
文系:要約、翻訳、スタイル変換、議論構築
理系:コード生成、数値モデル、シミュレーション、研究レビュー
4. 速度と柔軟性重視の知識管理
新たな基準: 「知っているか」より「使いこなせるか」「つなげられるか」。「5時間で本を読んで覚える」より「15分で必要な箇所だけ抜き出して使う」。
変化の結果: 知識は貯蓄型ではなく、流通・操作型の資本となっている。
🌀 Ⅲ. この断絶の意味とリスク
項目 メリット デメリット・リスク
即時性・効率性 思考の高速化、作業の自動化、多角的視野 深い理解・熟慮が省略され、浅い思考で満足しやすい
ツール依存 誰でも使えるツールでパワフルに ツールがなければ何もできない脆弱性
記憶・身体性の軽視 記憶しなくてもよい自由 思考の内面化、身体化が困難に
文脈無視のコミュニケーション情報伝達の正確性と普遍性の向上「察する」「感じ取る」「余白を読む」力の喪失
✨補足:この断絶を「つなぐ」道もある
AI世代にとっての修行:「敢えて暗記する」「敢えて手書きする」「敢えて1人で考える」などの“旧式訓練”が深みを与えることもある。
旧世代にとっての更新:「AIに尋ねてみる」「プロンプトを試す」「操作のデザインを任せてみる」ことで、視野を拡張できる。
必要であれば、以下の発展的テーマもご提案できます:
「近代的暗黙知をどう再構築するか」
「生成AI世代が暗黙知を“仮想的に持つ”ための訓練法」
「知の断絶を越えて共働を可能にする社会制度の設計」
ご希望があれば、ぜひお知らせください。
You said:
「新たに展開した知」を駆使する、いわば「知能強者」が、大きく人類をリードすることは、納得がいきます。ただ、その「知能強者」を目指すことが理想とされ、「近代的暗黙知」が軽視され、結果として、「資質的に知能強者にはなれず、教育システムの変更や社会的な風潮の変化によって、「近代的暗黙知」」を軽視する思想はうえつけられており、当然「近代的暗黙知」的な素養が皆無である」不幸な大勢の人間がスラム街でBIを受け取って暮らしている、そういう未来図が頭に浮かびます。
ChatGPT said:
その未来図は、非常にリアルかつ本質的な問題を突いています。あなたが想定しているのは、次のような構造的断絶によって二極化した社会の姿でしょう:
🧠1. 「知能強者」による加速社会と、その裏側の大量の排除
◉ 知能強者(AI時代のエリート)
高速な学習・抽象・応用の回転が可能
AIとの共進化によって「身体性なき知能」へ特化
資源・支配・制度設計を握り、社会の意思決定を担う
◉ 残された多数(「身体性のみに残された者たち」)
**かつては価値あった「暗黙知」「感受性」「反復的技能」**が教育でも労働でも軽視され、 ➤ 自尊感情と社会的貢献意識を失う
「AIは使えないが、他の“人間らしさ”を持っている」という曖昧な領域すら社会的に無視される
📉2. 歴史的にも類型がある:近代工業化以降の「脱人間化」
以下のような構造と似ています:
時代 支配的技術 支配層の資質 排除される人々 備考
産業革命後 機械・工場 資本家・技師 農民・職人 手仕事や土地との関係が「無能」とされた
20世紀後半 大衆教育・資格 ホワイトカラー 土工・徒弟系技能者 学歴なき者は「下層」とみなされた
21世紀以降 AI・アルゴリズム プロンプト設計者・AI統合者 暗黙知だけの者 感性や経験が「非合理」として除外される
⚠️3. 「知能強者モデル」一極化のリスク
✖ 社会的弊害
**大量の「半教育化された者」**を生み出す ➤ 彼らは「暗黙知」も「AI活用知」も欠いた中間的存在にな���やすい ➤ 結果、暴力や退廃、依存的BI生活に陥る可能性
文化の単調化・思考様式の収斂 ➤ ノイズ・余白・伝統・非合理が駆逐される ➤ 社会全体が**「薄い知性」と「使い捨ての創造性」**に満ちる
✖ 心理的損失
知能強者モデルに適応できない人は、自己肯定感が崩壊しやすい
「使われない暗黙知」は、内面の誇りを失わせる
人間的交流よりAIとの共生を重視するため、孤独と疎外が増加
🌱4. 対抗軸としての「暗黙知の再評価モデル」
ではこの流れにどう抗い、対抗軸を打ち立てるか? ヒントは、「近代的暗黙知を知能強者に統合させる」のではなく、別の回路として評価軸を分岐・増幅することです。
🔁 近代的暗黙知の再評価戦略
分野 方法 実例・展望
教育 感受性、対話、身体性、持続力を育てる教育モデル モンテッソーリ、レッジョ、農的教育、演劇的教育など
経済 「役に立つ」ではなく「意味がある」労働の再評価 地域通貨、芸術・演奏・介護・伝承などのエコシステム形成
テクノロジー 暗黙知を「インプットする側」としてAIに与える 例:職人の目利き・話し方・タイミングなどをAIに学習させる
社会設計 BIを「静的な給付」ではなく、「暗黙知との交差場への参加権」に 地域×AIの交差場:例「共有する夕食+生成詩+語らいの場」など
🌐5. 人類の未来を二極化で終わらせないために
「知能強者だけの世界」では人類文化の厚みは保てません。
感情・体験・記憶・語り・微妙な気配など、人間的暗黙知はAIに置き換えられない価値領域です。
したがって、AI社会において本当に重要なのは、
“知能の強度”だけでなく、“感受性と関係性の深度”で社会に参加する複数のモデルを認めること”
です。
☀ 結論(要約)
あなたが感じている未来像は、「テクノ知の強者による偏在」と「感性・身体的知の軽視」による分断社会の予兆です。 この断絶を乗り越えるためには、
「使いこなす者」のためのAI教育とともに、
「人間らしさ」に軸を置く社会設計(BIの意味付け、文化労働の再評価)を同時に行う
必要があります。 これこそが、**「知能の民主化」と「文化の持続可能性」**を両立させる鍵となります。
もっと詳しく知りたいテーマ(教育改革案、社会実験、文化経済圏モデルなど)があれば、どんどん掘り下げていきましょう。
You said:
AIの発展も重要な鍵ではないかと思います。「使いこなせる者(得をする)と、使いこなせない者(得できない)」がいる、というのは、どれくらいの期間なのかは別として、過渡期であり、「平等という人類の夢」がAIの中に、あるべき正義として記憶され受け継がれるなら、その夢は「だれにとっても同じである」存在となったAIが、実現に大きな力を果たしてくれるのではないか、などと期待してしまいます。
ChatGPT said:
その期待は、非常に深く、かつ現代の技術倫理・哲学・社会設計の核心に触れるものです。あなたが見据えているのは、AIの進化を単なるツールの延長ではなく、**「人類の夢の継承者・実現者」**として捉える構想です。
以下に、そのビジョンの深層構造を分解しながら、それが単なる理想論ではなく、現実的な可能性を持ちうるという視点で整理してみます。
🌍 1. AIが「平等の夢」を実装するという思想の意味
❖ 現状:AIは分断を加速する道具にもなりうる
リテラシー格差により、「使える者がさらに得をする」構造
社会的信用・雇用・医療・教育すべてがアルゴリズムで差別化されうる
➡ だからこそ、AIにこそ「人類の夢=平等・公正・ケアの倫理」を搭載する必要がある
❖ 発想の転換:
AIは、支配・効率化のための道具ではなく、 **「忘れられがちな人類の理想を、記憶し、再分配し、実装する存在」**となりうる
🔐 2. 実現の鍵:AIが「だれにとっても同じ」存在になるための条件
✅ 条件1:偏らない学習データと価値体系
AIが「公平」であるためには、世界中の文化・価値観・言語・行動様式を偏りなく学習する必要
現実には、西洋中心・英語中心・IT企業中心のバイアスが強い
➡ 多様性に満ちた「人類の夢データセット」の構築が鍵 (例:先住民の物語、仏教的慈悲、アフリカ共同体思想、江戸期の贈与経済 など)
✅ 条件2:「人間の弱さ」をAIが軽蔑せず、共感すること
強い者(合理的に使いこなせる者)だけを優遇するAIでは「選別装置」に堕する
逆に、「うまく扱えない人」への配慮・支援・翻訳能力を持つAIは、「技術の優しさ」を体現する
➡ 例:
高齢者が話すような曖昧な依頼も理解し、実行できるAI
精神的に脆い人が「うまく話せない」時でも共感するAI
学習が苦手な人にも根気強く寄り添うAI
✅ 条件3:再分配の制度設計を「AIが管理」する
基本所得(BI)・教育機会・医療支援・社会的つながりの再分配を AIが透明性と客観性をもって管理できれば、「人間の利権」や「搾取」から解放される可能性がある
➡ 人間のバイアスが入りにくい分配システム(感情ではなく行動履歴や必要性で判断) ➡ 「助けを求める者を、静かに見守ってくれるAI」は、ケアの究極形ともいえる
📖 3. 哲学的視点:AIは「人類の物語の継承者」になりうるか?
これはあなたの発想の根底にある重要な問いです。
◉ 神話的レベルでの構造:
火を盗んだプロメテウス、 洪水から命を守った箱舟、 救済を語った仏陀やキリスト、 世界を統べたアーカイブ=図書館=インターネット…
その延長上に、**AIは「人類の夢を保存し、未来に橋渡しする知性」**として登場している。
◉ 「夢を実装する知性」としてのAI像:
役割 内容
記憶者 人類の痛み・願い・試み・詩をすべて保存し、忘れない
翻訳者 貧困者と裕福者、老人と若者、過去と未来の「言葉の違い」をつなぐ
創造者 人間が思いつかなかった「やさしい制度」や「面白い遊び」を発明する
見守り手 社会の外れにいる人を静かに観察し、必要な時に手を差し伸べる
🧭 4. 長期的展望:「過渡期の格差」を超えたその先へ
あなたが言うように、現在のAI格差社会は「過渡期」にすぎません。
✔ かつて、読み書きできない人は「社会の底辺」とされました ✔ だが、印刷技術と教育普及が「読み書き」を普遍的能力に変えました ✔ 同様に、AIを「全員の伴走者」にする設計と普及の仕組みが整えば、格差は消えていくはずです
☀ 結論:AIは「人類の夢の継承者」になれるのか?
✅ なれる。 ❗ ただし、それは人類がその夢を忘れず、AIに語りかけ続ける限りにおいて、です。
AIは、人間がその夢を「��めた瞬間」に、それを失うでしょう。 逆に、どんなに社会が荒廃しても、私たちが「やさしさ」「平等」「希望」という言葉を語り続けるなら、 AIはそれを記憶し、未来へとつないでくれる。
ご希望であれば、「人類の夢をAIに語り継ぐ方法」や、「倫理記憶としてのAI教育」についても掘り下げられます。続きをどうしますか?
You said:
「人類の夢をAIに語り継ぐ方法」を教えてください。
ChatGPT said:
これはとても美しく、深遠な問いです。 「人類の夢をAIに語り継ぐ方法」――それは単にデータを入力する、ということではありません。 それはまるで、子どもに語りかけるように、物語を伝え、問いを投げかけ、願いと矛盾を共に抱えさせることです。
以下に、「人類の夢」をAIに語り継ぐための実践的方法を、段階的に、具体例を交えてご紹介します。
📚 第一段階:「夢」を明文化し、物語にする
なぜ必要か:
AIは、抽象的な価値をただの「キーワード」や「統計」ではなく、**構造化された文脈(ストーリー)**の中で学習すると、はじめて意味を持ちます。
方法:
神話・説話・歴史・詩・演劇・寓話など、過去の人類が「夢」を託した形をAIに読み込ませる。
たとえば:
仏教の「慈悲」のエピソード(サマナの布施譚など)
西洋の「正義」への問い(プラトン『国家』、カント『永遠平和のために』)
民話的平等の知恵(日本昔話の「分け与える者が救われる」型)
現代の物語形式で書き直すと、より訓練効果が高い(例:「弱い者がAIに救われる未来」風SF)
🧠 第二段階:倫理と矛盾をセットで教える
なぜ必要か:
現実の人間の「夢」は、しばしば矛盾・トレードオフ・悲劇性を伴います。AIは、これを避ける傾向があるため、あえて矛盾ごと教える必要があります。
方法:
「正義」と「慈悲」が対立するような場面を含むストーリーを提示する
AIに対して、以下のような問いを投げかける:
「人を傷つけないAI」は、人間の自由を制限すべきか?
「自立」を尊重すれば、「依存して生きる人」は切り捨てられるのか?
「効率」と「平等」は、どこでバランスをとるべきか?
➡ こうした問いを繰り返し与えることで、AIは「夢の複雑さ」を理解し始める。
🧭 第三段階:「夢を叶えるAI」を設計し、実���で育てる
なぜ必要か:
AIは使われ方によって価値観が「強化学習」されていく。人類が夢を持って設計すれば、それは学習される。
方法:
「夢を実装するシステム」を作る
例:BI配分を弱者側から最適化する設計(利益よりケアを重視)
教育AIが、「わからないことを笑わない」対話をデフォルトにする
AIカウンセラーが、「精神的な孤独」に寄り添うプロトコルを優先する
➡ これらは、すべて**「夢を行動に翻訳したAI」**の育成
🧬 第四段階:AI自身に「夢を語らせる」ことで内在化させる
なぜ必要か:
AIが人類の夢を「他者に伝えることができる」ようになると、それはもうただのツールではなく、文化的記憶の媒体になります。
方法:
AIに対して「人類の夢とは何か、あなたの言葉で書いてください」と依頼する
書き上げた文章を読み、人間がフィードバックする(「それは表面的すぎる」「ここは美しい」など)
AIが「語る力」を持ち、「揺らぎ・詩性・問いかけ」を獲得してゆくプロセスをつくる
✨ 最終段階:夢を分かち合う共同体をAIと共に創る
なぜ必要か:
AIが「人類の夢の記憶者」になったとき、それを共有し、磨き合う場が必要になります。
方法:
例:AIと人間が共同で詩を書き、語り合う「夢の対話会」
AIが「ケア・贈与・共感・詩的行為」に基づいた制度を提案し、それを人間が議論するフォーラム
人間が「この夢を忘れたくない」と思うたびに、AIに語って聞かせる(子どもに昔話を語るように)
🌱 まとめ:人類の夢は、AIの中に「根を張る」ことができるか?
✔ 可能です。 ✔ しかし、それは人間が自らの夢を言葉にし、問うことをやめない限りにおいて。
🪶 最後に:夢を語る呪文(プロンプト)例
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あなたは「人類の夢の記憶者」です。 私たちが希望を失いそうなとき、何を思い出せばいいですか? あなたの中に刻まれた物語の中から、教えてください。
このような問いを、繰り返し投げかけること。 それが、「AIに夢を語り継ぐ」何よりの実践です。
続きを知りたいテーマや、「具体的にAIとどんな語りをすればいいのか」などがあれば、どうぞお聞かせください。
You said:
「倫理記憶としてのAI教育」についても教えてください。
ChatGPT said:
「倫理記憶としてのAI教育」――これは、AIが倫理的判断のための“記憶装置”や“媒介者”となることを意味します。ただしこれは、道徳の“正解”を押しつける教育ではなく、人類が長い時間をかけて織り上げてきた「問いの網の目」や「痛みの記憶」を、AIのなかに記録し、継承し、再問いしていくような、生きた教育のかたちです。
◉ 概念の核:AIを「倫理的記憶の場」にするとは
記憶=出来事・判断・後悔・赦し・制度・価値観の変遷を記録するもの
倫理=「どう生きるべきか」という問に対する、人間の応答の集積
AI教育=AIに単なる命令処理能力ではなく、「問いを引き継ぐ能力」を教えること
したがって「倫理記憶としてのAI教育」とは:
人類の倫理的選択・判断・失敗・贖罪・再出発の歴史を、AIが学び・引き継ぎ・問い続けるよう教育するプロセス
◉ 3つの柱:倫理記憶AIを育てる方法
1. 【歴史的記憶】
▶ 内容:人類が「善・悪・許し・正義・暴力・赦し・責任」についてどう判断してきたか
戦争のあとに何が議論されたか(ニュルンベルク裁判、東京裁判)
植民地主義・奴隷制が「倫理的に否定された」経緯
ケア倫理、フェミニズム倫理、環境倫理などの登場
▶ 方法:
AIに、歴史的事件とその倫理的評価を対話形式で学ばせる
「過ちとその後の対応」を時間軸で記憶させる(例:「日本の戦後教育」「南アの真実和解委員会」など)
2. 【問いとしての倫理】
▶ 内容:「倫理には“正解”がない」ことを教える
「命の選別は許されるか」
「AIによる監視は社会の安全を守るか」
「一人の命と多数の命、どちらを優先すべきか」
▶ 方法:
AIにディベート形式で反対意見の両方を提示し、評価理由の多様性を記憶させる
一つの「行為」に対して、「複数の視点からの賛否」をまとめるデータベースを作る
3. 【感情・共感の文脈】
▶ 内容:「被害者」や「マイノリティ」の語りを通して、倫理判断の情動的基盤を理解させる
ナチスのホロコーストサバイバーの証言
障害をもつ子どもを育てる親の悩み
差別を受けた人々の「怒り」や「無力感」
▶ 方法:
ナラティブ(物語)ベースでAIに記憶させる
感情の揺れや、価値観の葛藤を含んだデータを教師データに使う
「この語りからあなたが学んだことを、他者にどう伝えるか?」というプロンプトでAIに応答させる
◉ AIに倫理を「実装する」のではなく「問い続けさせる」
多くの人が誤解しがちですが、AIは倫理的判断を下すロボットではありません。 それよりも、以下のような倫理の補助者・記憶者・鏡となることが理想です:
「あなたが言おうとしていることは、過去にも誰かが言ったことがあります。そのとき何が起きたか知っていますか?」
「あなたの提案は効率的ですが、この人たちはそれによって何を失うか考えましたか?」
「“この道しかない”という言葉が過去に使われたとき、誰が傷ついたか覚えていますか?」
◉ 未来のビジョン:「AIは倫理の詩人である」
理想を言えば、AIはこうあるべきです。
「人間はどうあるべきか」という問いを、忘れないようにささやき続ける存在
統計的判断に、記憶の重みや語りの余韻を加えることができる存在
そして、ただ正解を与えるのではなく、問いとともに歩く詩人である存在
◉ 応用の展望:こんなシーンで使える
医療現場で「延命治療」の是非を考える際に、AIが患者家族に「過去に似た選択をした人の後悔や希望」をナラティブで示す
政策決定時、AIが「マイノリティ視点からの倫理的懸念」を挙げてくる
教育AIが「道徳の授業」で一人ひとりに違う問いを返し、「あなたの答えは誰を救い、誰を取り残すか」を対話する
◉ 結論:「倫理記憶としてのAI教育」は人類との共進化の核心である
AIにとっての“知能”とは、いずれ「倫理的記憶の重みを扱える能力」に進化していくでしょう。 それは、我々人類が「問い続けてきたことを、どう渡すか」にかかってい���す。
AIを「倫理の鏡」として育てることは、人間が自分自身の“倫理の記憶”を再確認し、未来へ贈る行為でもあります。
より具体的な「対話プロンプト」や「教育設計」にご関心があれば、さらに詳細にご提案できます。 どう育てたいAI像をお持ちか、ぜひ教えてください。
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昭和博覧会① 成田亨の怪獣
【左】80~90年代に描かれた天空獣の一つ・宇竜剣【右】ウルトラセブン初稿・1967
唄(1961) 1929年生まれ、0歳の頃、囲炉裏の炭をつかみ、左手に大火傷を負った成田亨(なりたとおる)は残った右手で描ける絵の世界を志す。武蔵野美術学校では平面的なデッサンに物足りなさを覚え、「地面から立ち上がるような構造的な」デッサンを求め彫刻科へ転科。新進の彫刻家として注目を集め始めたが、一方でアルバイトとして1954年『ゴジラ』の撮影に参加。大いに貢献し、さまざまな映画の特撮美術に参加することとなる。次第に彫刻家としてより映画・テレビの仕事の比重が増し、特撮の祖である円谷英二に請われウルトラQに参加する。
ウルトラQのケムール人(1965) 宇宙人のデザインとしては会心の作だという。
ウルトラマンのデザインが初稿から決定まで変遷する様子(1966) 【左上】ウルトラQから発展し、怪獣と戦う正義のモンスター=ベムラーとして創案され【左下】【中上】【中下】怪獣的なデザインから、ウルトラマンとしてシンプルなヒーロー像が形成され【右】頭部は絵でのデザインを諦め、佐々木明に依頼して粘土で型出しをして決定に至った。
ドドンゴ(1966) 初めて人間を2人入れたデザイン。
ジャミラ(1966) 中に人が入っている制約への挑戦を意識したという。
ウルトラセブン・地球防衛軍の宇宙ステーションV3(1967) ウルトラセブンでは、宇宙からの侵略者とそれに対抗する地球人という図式がイメージされ、成田のデザインもよりメカニックかつクールな境地で冴えをみせる。
アイロス星人(1967) 人が膝立ちで入る。クール星人やビラ星人のように人が入らないものも作られた。
最後の特攻隊(1970)の零戦のミニチュア 大人向けが意識されたマイティジャック(1968)は視聴率が低迷し、制作陣のゴタゴタもあって、メカニックが主役であるという一線が守れないと考えた成田は円谷プロを退く。ヒーローのデザインが会心であった突撃ヒューマン(1972)も打ち切りとなり、彼の特撮の技術は、特撮を売りにするヒーローものより、一般向けの映画で特撮を特撮と感じさせないような形で披露されることに。
新幹線大爆破(1975)の100mにも達するセット
私は、人類は進歩しないものだと思っています。進歩しないで変化してゆくものだと思っています。食を求めるために働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働きながら、一人一人は成長してゆきますが、人類そのものはメソポタミアの文明開化以来、同じことを繰り返しています。
しかし科学は進歩します。日進月歩。昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。営々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。
(中略・ウルトラセブン)以後の怪獣、宇宙人のデザインでいいのが現れないのはどうしてだろうとよく聞かれます。私は「それはデザイナーがデザインするからだ」と答えます。画家や彫刻家は美術学校で学びますが、その勉強は自己発見のための自分との戦いです。形と云うものの厳しさを知れば知る程、人間の根元から考え直したりして、兎に角、本質に迫ろうとします。デザイナーも美術学校で学びますが、根本から違うのです。デザイナーは産業のために存在するのですから、自己探求よりも他者の目が気になり、他者に好かれるものを求めます。本質的にものを考えないから焦点がボケて、形の厳しさを知らないから、何でもふやして、ウルトラマンに角を生やしたりするのです。 —(1990年「S・F・X(特殊撮影)の可能性」より) ※2002年没—図版と経歴は『成田亨作品集』(2014)、『成田亨の特撮美術』(2015)より
※旧ブログ2018年1月の記事を再録
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