#一時違えば三里の遅れ
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三上絵里子は日テレではそこそこ実績のあるプロデューサーである。 但し、オリジナル企画か原作レイプ(悪評判も含む)しか成功しておらず、基本原作とは、レイプする為に存在すると考えているに違いない。 同作では、もう一つありがちな芸能プロダクション持ち込み企画とは聞こえてこないので、社内者、多分三上絵里子が企画準備会議に持ち込んだのであろう。 一応のGOサインを得た三上絵里子は小学館に、更に芦原妃名子に接触し、原作者の強硬な条件を突き付けられるが、そんな物は先に原作レイプすれば勝ちと、報告する事無く編成会議の承認を得る(報告したらプロデューサーは別の者に差し替え)。 原作レイパーの周りには原作レイパーが集まる。 お気に入りの原作レイパー相沢友子を登用、シナリオ案原作者承認を得ようとするも、大きく手戻りが発生しつつも少修正とスケジュール遅延などで責め立てて、何とか8話まで持っていったが、とうとうここで原作者から作品引き上げを突き付けられ、相沢友子と三上絵里子を接触させないまま、原作者へのシナリオライター切り替えでどうにか完成させる(原作者はプロデューサーとしか接触できてないと報じられている)。 ここで相沢友子とそのお仲間が言わずもがな事を投稿して、芦原妃名子の自殺に至る。 三上絵里子は日テレ幹部に正確な経緯報告をしないまま、三上絵里子の上司たるドラマ制作部幹部が同放送局報道部に報道管制を要請し、ほぼ同時に日テレ役員周辺で起草された一回目ステートメントが公表された
見えないところで三上絵里子チーフプロデューサーは相当怒られたはず (#4602214) | 訃報:漫画家の芦原妃名子さん。テレビドラマ化されたセクシー田中さんの原作者 | スラド
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雑記20240428
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最近、毎日これ聴いてます。いままでのアレンジと違ってかなり原曲に忠実なので“2024年のTM”っていう感じがする。
ちょっと前までボーカルの宇都宮さんの声に違和感があったんだけど、最近は「これはエージングなんだな」と思うようになった。昔のボーカルとはまた違った、同じ人物なんだけど歳月を重ねた結果なんだって。
中には森高千里さんみたいに全然変わらない人もいるけど、変わる人もいる。人間だもの。個人的には、今でも歌ってくれているっていう、そこが一番嬉しいポイントなんだって思う。
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ちょっと小さいリュックが欲しくてカリマーのcot18をAmazonで買ったんですけど、

たぶんAmazonでも最大クラスのデカい段ボール箱に入れられて届きました。宅配ボックスのいちばんでかいボックスにギリギリ入るサイズのやつ。なんで? 最近のAmazonで多い紙袋タイプで来るのかと思ったし、あのサイズで十分なんですけどね。割れ物でもないし。
cot18は前から欲しいと思っていて価格を見ていて、いまAmazonで何故かめっちゃ安くてかつ10%オフクーポンがあったんで買いました。アトランティックブルーかわいい。
[カリマー] 登山リュックサック cot 18(Amazon)
僕は死んでも黒くて四角いビジネスリュックは買いません。スーツにビジネスリュックを強制されるなら会社辞めます!
買うならやっぱり、世界一のならず者国家・グレートブリテンの安心ブランド。ファッションもそうだけどイギリスのブランドもんばっかり買ってんなって自分でも思う。島国根性という美学。
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新生銀行のキャッシュカードを探していたら、なぜか大学の学生証が出てきました。

うーんこれはイケメン。証明写真が白黒なのはカラーより白黒のほうが安かったから。銀塩写真を知らない若者には通じない話。学生証が紙って、いまどきの大学ならあり得ないでしょ。
これなんで持ってるんだと思ったんだけど、卒業式に出てないから未だに持ってるんだろうなってこと。学位記と引き換えに学生証を返還するのが普通っていう話なので。学位記もらってないもんな。留年生が卒業式に出るわけないじゃん。
で結局見つからないわけですよ、新生銀行のキャッシュカード。SBI証券から外貨入出金をするにはSBI新生銀行か住信SBIネット銀行の口座が必要なので、どうせなら持っている新生銀行の口座を活かそうと思ったんですよね。
メールに何かヒントがないかと思って調べていたら、昔のフィスコの株式メールマガジンが見つかって、
なにこの株価、東電はあれだけどみずほとかNECとか太平洋セメントとか、3桁なんだけど。今の株価を考えると、株式併合とかしたんかな? この中だと三菱UFJだけは持ってましたね、当時から。300円代のときに買いましたけど。
たぶん当時の日経平均株価は1万円くらいだったと思うので、今の4分の1くらいですね。ということは、今から10年後くらいには日経平均株価も16万円くらいになってるかもね。単純計算おじさん。
こんな感じで新生銀行口座再利用作戦は遅々として進まないわけですけど、キャッシュカードが見つかったところで住所変更手続きもなにもしていないので、実際に口座が使えるようになるまでには結構手間が掛かりそう。じっくりやっていくかぁ。
ぶっちゃけ新規に口座開設したほうが早そうではあるんだけどね。なんか気持ち悪いからやりたくない。

学生証といっしょにPASMOが見つかった。僕がまだ実家(神奈川県)に居た頃に使っていたやつだから、相当古い。調べたら10年間使わないと失効するらしいので、たぶんもうこれ使えないわ。
関東に帰省してもJR西日本のICOCAで困っていないので、特にPASMOが必要な場面は無いのかな。バスとかしらんけど。

そして大捜索の結果、見つかりました、新生銀行のキャッシュカード。年代物の汚れな。見つかったけど、結局オンラインでの手続きができなくてサポートに電話が飛ぶも、日曜・祝日では対応できないので平日か土曜日にまた電話しろと言われる始末。こりゃ前途多難だわ。まあ今すぐに必要なわけじゃないからいいんだけど。
なんかしょうもないゴールデンウィークの過ごし方。
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2024年3月24日

アストラム延伸部分 全区間のイメージ動画を地元住民に公開 己斐地区には新しい道路も 広島市(RCCニュース 3月25日)2024年3月24日に追記
広島市を走るアストラムラインの延伸計画について、地元で住民説明会がはじまり、詳しい予定ルートなどが初めて示されました。
アストラムラインは、広島市安佐南区の広域公園前駅から、西広島駅まで延伸する計画です。計画ルートの住民に向けた説明会は、きのうから始まりました。説明会では、新たに設置される6つの駅の詳しい位置や構造が初めて明らかにされたほか、延伸区間のイメージ映像が公開されました。
延伸ルートは、現在の広域公園前駅から高架や地上を走って佐伯区の五月が丘団地に入ります。そして、”ジ・アウトレット広島”がある石内東地区へ向かい、そこからはトンネルになります。
己斐峠の地下を通って己斐上に出ると、再び高架を走って西広島駅へと向かいます。西広島駅では、南側広場の上にアストラムラインの駅ができる予定です。
また、歩道がなかったり道幅が狭かったりする場所の多い己斐地区では、新たに片側1車線の車道と、幅が4メートルの歩道を設置する新しい市道”己斐中央線”を整備し、その上をアストラムラインが走る計画です。

松井一実市長(2015年)「広域公園前駅からJR西広島駅までの延伸を、事業化することといたしました」
延伸計画は、2030年前後の開業を目標にしていましたが、コロナ禍の影響もあって需要予測が遅れ、先月、広島市は2036年ごろの全線開業を目指すめざす方針を固めました。総額760億円の巨大事業。今の街並みが大きく変わる可能性があります。
五月が丘団地の住民 「便利になるかなーと、でも12年後なんですよね? なんかかなり先だなーというのが」
「立ち退きになるかならないのかっていうのが早く知りたい。もしなったときに、引っ越すんなら早めに引っ越したいとかありますし」
石内東の住民 「トンネルの部分の説明がきょうすごく聞きたくて、振動とか騒音とかが心配なんで、何m下とか、どのぐらいのところに通すかとかが知りたかったんですけど」
◆スタジオ解説
改めてルートを見ておきます。現在の発着駅である広域公園前駅から、西広島駅までおよそ7キロを延伸するという計画です。計画ルートの周辺には、己斐や五月が丘という大きな住宅地もありますし、広域公園前駅周辺には大学もあります。周辺へのアクセス向上などが整備を進める理由となっています。また、現在はマイカーやバスが主なアクセスとなっている”ジ・アウトレット広島”の敷地の北東に仮の名前ですが”石内東駅”ができる予定です。

大きく変わりそうなのが、ジ・アウトレット広島からトンネルを抜けた先にある己斐地区です。
学生時代を己斐地区で過ごした田村友里アナウンサー 「己斐エリアは、住宅が多くて道幅が狭かったです。主な移動手段はバスで、結構道が混んだりもしていたので、アストラムラインができると便利になるのかなと思います」
己斐地区は、現在のバス通りとは違うルートに、広い新しい道路”己斐中央線”をつくって、その上を高架でアストラムラインを走らせようという計画です。”己斐上駅”と”己斐中駅”という2つの駅をつくる予定です。

開業も2030年前後だったのが2036年に遅れたり、いろいろ心配されている市民も多いのですが、広島市は「丁寧に説明して、理解をいただけるよう努めていきたい」としています。
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アストラムライン延伸計画で住民説明会はじまる 広島市 開業は2036年度ごろの見込み(広島テレビ)2024年3月24日
広島市はアストラムラインの延伸計画を巡り、24日から地元住民への説明会を始めました。
延伸区間の、広島市佐伯区で開かれた説明会にはおよそ320人が参加しました。
アストラムラインは、「広域公園前」駅から「JR西広島」駅までを延伸する計画です。開業は、新型コロナの影響などで当初より遅れ、2036年度ごろの見込みです。広島市は、再開発が進む西広島駅へアクセスしやすくなることなどを説明しました。
住民 「アストラムラインが延伸することを前提に家を購入したので、できてもらわないと困る。」
広島市は、沿線の3つの会場で来月にかけて24日を含���5回、説明会を開く予定です。

尊富士が110年ぶり新入幕Vの快挙!右足負傷を乗り越え歴史的賜杯、所要10場所の“史上最速V”で三賞も総なめ(TBS NEWS DIG)
尊富士 強行出場で110年ぶり新入幕V!記録ずくめの初賜杯、所要10場所は史上最速 やったぞ!大拍手(スポニチアネックス)
尊富士の母は感涙 優勝の瞬間は「会場の近くでスマホで」「震え止まらず」心配で急遽大阪入りも館内入れず(スポニチアネックス)
大相撲春場所千秋楽の取組が24日、エディオンアリーナ大阪で行われ、東前頭17枚目の尊富士(24=伊勢ケ浜部屋)が西前頭6枚目の豪ノ山(25=武隈部屋)を押し倒しで破り13勝2敗で初優勝を決めた。前日の朝乃山戦で右足首を負傷し、出場も危ぶまれた中での強行出場で気迫の一番を見せた。新入幕優勝は1914年(大正3年)夏場所の両国以来110年ぶりの快挙。初土俵から所要10場所目での優勝は両国の11場所目を抜く史上最速となった。
取組後は土俵上で少し表情を崩し万感の表情。場内から「凄いぞ~!」「良くやった!」「尊富士!」「バンザ~イ!」の大歓声と、割れんばかりの大拍手を浴びながら花道を引き揚げた。花道では関係者が涙する中、笑顔で握手や熱い抱擁を交わしていた。
館内に歓声がこだました。勝てば歴史的初賜杯となる豪ノ山との大一番。右足首の負傷を感じさせない五分の立ち合い。そこから豪ノ山の圧力に屈することなく前へ出続けた尊富士は、徐々にペースを握り、最後はこん身の押し倒しで110年ぶりの快挙を手繰り寄せた。
強行出場する息子を心配し、いてもたってもいられなかった。尊富士の母・石岡桃子さん(47)は「心配で急遽来ました。勝ってほしいのと、足が心配なのと…複雑でした。大丈夫かな?という気持ちで見てました。急遽でチケットが取れなかったので、会場の近くにはいたけど、スマホで見てました」とドタバタだった千秋楽の大阪入りを明かした。「今朝9時の飛行機で来ました。顔を見て安心したかったので。(学生時代)毎回いいところまでいった時にケガしてきてたので、それがちょっとよみがえってしまって…。初めての日本一がこの形でって震えが止まらなかった」。これまでを思い返し、言葉を絞り出すと感極まり涙がこぼれ落ちた。
その後、支度部屋で無事対面。偉業を成し遂げた息子と抱擁を交わし再び涙した。
優勝力士インタビューでは24歳の孝行息子が「おかげさんで、僕もそんなに体は大きくないですけど、こうやってしっかり幕内の土俵で勝てるように育ててくれて、感謝しても感謝しきれないです」と母への感謝の思いを照れ笑いを浮かべながら口にした。
年6場所制となった1958年以降、幕下付け出しも含めた初優勝の最速記録は1972年夏場所に初土俵から15場所目で賜杯を手にした輪島だった。尊富士は日大の大先輩でもある偉大な横綱の記録も塗り替えた。
最速新入幕を果たした尊富士は今場所、初日から11連勝。9日目には三役初挑戦で小結・阿炎を下すと、10日目には大の里との新鋭対決を押し出しで制した。11日目には大関・琴ノ若を寄り切りで破り、1960年初場所の大鵬に並ぶ歴代1位タイとなる新入幕初日からの11連勝を達成。出世が早過ぎて大銀杏の結えないちょんまげの24歳があの大横綱がつくった記録に並んだ。
12日目には99年度生まれの同学年の大関・豊昇龍に土俵下まで投げ飛ばされて初黒星を喫したが、「何も考えずに自分を信じてやるしかない」と切り替え。13日目は関脇・若元春を圧倒し、歴史的な新入幕優勝に王手を懸けた。しかし、14日目の朝乃山戦で右足首を負傷。花道を自力で歩けず車椅子で医務室に直行し、ギプスで固定した状態で救急搬送されていた。
尊富士はこの日、午後2時17分、エディオンアリーナ大阪に到着した。14日目の朝乃山戦で右足首を負傷。この日はゆっくりとした足どりで、右足を少し引きずっているようにも見えた。1差で追う大の里(24=二所ノ関部屋)は午後1時25分に会場入りしており、尊富士は通常よりかなり遅めの到着だった。そして、負傷した右足首にサポーターを装着も、しっかりとした足取りで土俵入り。大歓声にも表情を崩さず、鋭い眼光で前を見据えていた。
青森県五所川原市出身で鳥取城北高、日大と強豪校を歩んだ。22年秋場所で初土俵を踏むと序ノ口、序二段、三段目は1場所で通過。今年初場所に新十両に昇進すると13勝を挙げて新十両優勝を果たし、部屋の横綱・照ノ富士とアベック優勝でパレードでは旗手を務めた。
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初篇 その十四
北八は、苦々しい顔で、 「ふん、今夜は、一段とつまらない。やけどをするは、金は取られるは、その上、一人で寝るなんて。本当に今日はついてない。」 「ハハハ。まあ、そのうちお前にもいいことがあるさ。 なんか、どきどきしてきた。 ハハハ、おや、北八、もう寝るのか、もっと起きていたらどうだ。」
北八は、弥次郎兵衛の言葉にも耳をかさず、ふて寝する。 さて、残された弥次郎兵衛は、どきどきしてどうも落着かない。 「それにしても、遅い。」 さては、先に金をやったのは、失敗だったか。 と、気が気でなくなり、たまりかねて、やたらに手を叩き、旅館の者を呼んだ。 やって来たのは、この旅館のおかみだ。 「はて、お客さん。こんな時間にどうしました。」 弥次郎兵衛は、それでも、 「いや、おかみさんでは、わからないだろう、さっきの女中に、ちょっと頼んでおいたことがあるんだが、呼んで来てくれないか。」 おかみさんは、ちょっと考えて、 「ああ、あなたがたの世話をしていた女中は、別の旅館から応援で来てもらっていたもので、もう、帰らしました。」 「ああ、そうか。そんなら、まあ、いいか。」 「はい、じゃ、お休みなさいませ。」 と、がっかりした弥次郎兵衛を尻目に、おかみさんは台所の方へ行ってしまう。
この様子を、たぬき寝入りしていた北八が聞きつけて、 「ワハハハ。」 と、思わず笑いだす。 「ふん、畜生め。何がおかしい。」 「ハハハ。いや、これで、安心して寝られる。ハハハ。」 「勝手にしやがれ。」 と、毒づく哀れな弥次郎兵衛は、北八がしくんだこととも知らないで、女中にやった金がもったいないやら、恨めしいやら、で、結局、独りで寝るはめになった。 この様子をおかしく見ていた北八は、一首詠む。
胡麻塩の 弥次郎だまされ 塩をふく 女はこわいと 塩をまく
そのうちに二人とも寝てしまった。
一夜明けて、遠くの寺の鐘の音が聞こえる。 二人は、起き出して、そこそこにしたくして旅館を出れば、今日はかの有名な箱根八里越えである。 道も心なしか上り坂になってきたようだ。 石の高く飛び出た石畳の道を行けば、風祭の里(小田原市)も近くなって、弥次郎兵衛は一首詠む。
人の足に 踏めど叩けど 箱根山 漆塗り箱なる 石高の道
さて、ここ湯本(箱根)の宿場というのは、両側の店の作りがきらびやかで、どこの店でも美人の店員が、二、三人でて、名物の箱根細工の挽き物を売っている。 北八は一軒一軒覗いて店員をみると、 「おやおや、みんな病気なのかね。どいつもこいつも、顔と手が真っ白だ。」 「せっかくだ。何か買っていこうか。」 弥次郎兵衛も店のぞいてまわり答える。
<飲まず食わず> 「いらっっしゃいませ。お土産はどうですか。」 の声につられて振り向くと、そこには弥次郎兵衛の好みの女店員がいる。 それとばかりにこの店に入ってみる。 「これこれ、すまんが、そこにあるものを見せてくれ。」 と言うのに、その女店員は、知らん顔で、他の客の相手をしている。 と、奥から婆さんが走り出てきて、 「はいはい。これですか。」 と、弥次郎兵衛が指し示したものを取り上げる。 弥次郎兵衛は、女店員ではなくて、婆さんが対応に出て来たのがきにいらない。 「ええい、それじゃね。おい、そっちのを見せてくれ。」 と、わざと、女店員の側をさしていう。 「はいはい、これですか。」 器用に立ち回って、先程の婆さんが、弥次郎兵衛の指し示したものを取り上げる。 弥次郎兵衛は、舌打ちして、 「違う、違う、それでもねえ。ほれ、その店員が手に持て持っている物だ。」 それで、やっと、この女店員が弥次郎兵衛に方を向いた。 「はいはい、お煙草入れでございます。」 と、弥次郎兵衛は、やっと、女店員と話が出来たことがうれしくて、 ニコニコしながら、 「そうそう、それのことだ。で、それはいくらだ。」 それに答えて、その女店員、 「はい、三百文でございます。」 弥次郎兵衛は、まだニコニコしたまま、 「それは、かなり高い。百文でも、高いと思うが。」 と、いうのにも、女店員動じず、 「あなた様の言いようは、ひどいです。 私どもは、お客様があっての商売、高い値段は言ってはおりません。 それだけ、いいものを売っているのでございます。」 と、弥次郎兵衛をじろりと見る。弥次郎たちまちデレっとなって、 「そんなら二百文でどうだ。」 「男らしくもない。もうちょっと、おだしくださいませ。」 と、おかしくもないはずなのに、満面の笑顔を作って、 弥次郎兵衛をまたじろりと見る。 弥次郎兵衛は、そんな女店員の様子にすっかりのせられて、 「そんなら三百、三百文でどうだ。」 「まだまだ、もっとでございますよ。オホホホ。」 と、いう、女店員の様子にますます乗せられてつい、 「ええい、面倒だ。四百文だ。これ以上は出せない。」 と、四百文をそこに放り出して煙草入れを買い取る。 弥次郎兵衛は、満足げに 「北八、さあ、行こうか。」 それを見送る女店員。 「ありがとうございました。また、きてください。」 と、手を振っている。
その様子をずっと見ていた北八は、 「ハハハ。初めてみた。三百の物を四百で買うとは、珍しい。」 それに答えて、弥次郎兵衛は、得意満面で、 「それでも惜しくはねえぞ。あの娘は、俺に気があったみたいだ。」 「いいきなもんだ。ハハハ。」 「それでも最初から、おれの顔ばかり見ていたぞ。」 「当たり前だろう。あの娘の目を見たか。ありゃ、斜視だ。 目線があってなかったろ。ハハハ。」
「おっと、あの音はなんだ。」 と、北八は、僧侶がならす杖の先についた鐘の音を聞いて言うと、 弥次郎兵衛が、目を凝らしてみて、 「どうやら、賽の河原へついたようだ。」 と、言いながら、続けて一首詠む。
辻堂は さすがに賽の かはら屋根 されども鬼は 見えぬ極楽
これは、普通、道端の辻堂は、みすぼらしい草屋根なのに、ここでは当時なら贅沢な瓦屋根だったのを、賽の河原とかけたのである。 それに答えて北八も一首詠む。
お茶漬けの 賽のかはらの 辻堂に 煮しめたような 形の坊さま
その先に、あの箱根の関所がある。そこも、手形のおかげで難なく通れた。 箱根の峠の宿場に旅館を見つけると、二人は箱根まで来たことを祝して、よろこびの酒をくみかわした。 で、弥次郎兵衛が、一首詠む。
春風の 手形をあけて 君が代の 戸ざさぬ関を 越ゆるめでたさ
これで、初篇は終わりです。
二篇に続きます。
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本橋成一と奈良美智 もう一つの交差する物語

東京都写真美術館・「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」展会場の前で。本橋成一(右)と奈良美智
東京都写真美術館で写真展「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」が開催され、日本とフランスの写真家に通じ合うヒューマニズムとその親和性が共感を呼んでいる。 6月30日、同館ホールにて、本橋成一とアーティストの奈良美智とのトークショーが開催された。奈良は本橋が画家の丸木位里と俊夫妻を撮影した写真集『位里と俊』(2017年、オフィスエム)に「ふたりの画家とひとりの写真家、とぼくたち」と題したテキストを寄稿している。そして今回の展覧会では本橋が奈良の制作風景を撮影した新作が出品されるなど、互いに親睦を深めており、対談中二人とも笑顔がたえなかった。
司会 奈良さんは、この展覧会をご覧になって、いかがでしたでしょうか?
奈良 どの写真も、時代が持っている強さみたいなものがあって。それは生命力だったり現代社会にないものが、庶民の間に漂っている感じ。かつて自分が子どもの頃、どんだけ走っても走り続けられていたバッテリー満タンみたいな感じを思い出すことができて、そういう写真群にかこまれて、リフレッシュされました。
本橋 奈良さんとおつきあいさせてもらって、そんなに長くないんですけど、なにかとっても新鮮なんです。彼の絵画はぼくにとって、とても新鮮なんです。
司会 丸木位里さんと俊さんの写真を撮影されたときのことをお話しいただけますか?
本橋 丸木ご夫婦のおかしさは何だろうっていうのが撮るきっかけだったんです。お二人が生き生きと絵を描かれている日常は、「原爆の図」の丸木位里と俊ではなく、いつもおかしな夫婦で、その写真を奈良さんがとてもほめてくださったので、すっかりぼくは奈良さんと友達になった気になってしまって。
奈良 お二人が絵を描いているのを、隣近所の人たちが見に来ているんですよね。
本橋 なんか自由なんですよね。

本橋成一著『位里と俊』(2017年、オフィスエム)より 沖縄県読谷村にて 〈作品「読谷村三部作・チビチリガマ」制作中〉 1987年1月 ©本橋成一
奈良 二人のそばにいる人がいっぱい写っていて、その誰かの間から見ている感じ。現場の空気感が伝わってくる、それを一番感じました。 本橋さんとはじめて会ったときに、サハリンに行った話をしたんです。「何で?」と聞かれて、ぼくのおじいさんが炭坑夫だったと言ったら、「坑夫の血が流れているんだよね」って本橋さんが言われて、そのときぼくはひじょうにうれしかったんです。
司会 本橋さんは奈良さんのアトリエに2回ほど撮影に行かれたのですね?
本橋 たったの2回なんです……。ぼくは写真を撮るときに、ともかく面白いことを見つけるのが大好きなんですよ。撮影の1回目が終わって、ふとアトリエの天窓から朝日が入ってきたら、もっと面白くなるじゃないかと思った。どうしてももう1日来たくなって、また来ていいですかと聞いたら、「いいですよ」と。 2回目に行くと、奈良さんがごそごそ箱に絵の具や何やらを詰め込んでいるんです。それを見て、面白いなと思いまして。
奈良 自分も客観的に見て、あの写真は面白いなと思いました。

本橋成一〈奈良美智のアトリエ〉2022年 ©本橋成一
本橋 でも一向に天窓から光が入ってこないんですよ。ちょっと2階へ行こうか、となって。2階の部屋には本棚があって、そこにいろんな人形や動物や、こけしも並んでいたり。1回シャッターを押すと癖になって、次々にいろんな人形を撮りたくなって。ぼくもこういうのが好きだから。
奈良 ぼくは知らない人に撮られるのが苦手で、大体断るんです。でも本橋さんが来たときは、絵の具とか並べたり、人形を見せたり、自然な感じですね。
司会 奈良さんご自身も写真を撮られていますね。
奈良 中学校1年生のときにカメラをもらってから、ずっと撮っていたんです。(スライドを見ながら)これはサハリンの少数民族の方を撮ったものですが、後で並べてみて、自分が何を見ていたのか確認して、「こういうことだったのか」と思うんです。
本橋 奈良さんの写真は面白いところがたくさんあって、本当に楽しいんですよ。
奈良 2014年から2018年までiPhoneで記録みたいに身の回りのものを撮って、2つを組み合わせていくのが好きで。1つだけだと、じつは個性のない写真かもしれない。でも2つで1つにして、後からで何で撮ったのかと考えてわかるのが好きです。自分は絵を通して構図とかそういう基礎訓練をしてきたんじゃないかなと思います。

奈良美智〈Hello World〉〈days 2003-2012〉より 「TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見」展(東京都写真美術館,2023)の展示の一部 ©奈良美智
本橋 じーっと見ていると面白い。なんか理由があるんですね。
奈良 偶然にシャッターを切っていて撮れている写真っていっぱいあるんですよ。でも偶然というのはじつはない、シャッターを切るのは必然なんです。自分が本来どういうことに興味があるのかとか、まったく違うものを並べても、その2つに共通する見えない奥のつながりを感じ取ることができるので面白い。
本橋 いい話ですね。ぼくも長い間写真ばかり撮っているけど、早くそういう話を聞いてたらよかったなあ。今からでも遅くないものね。写真を撮る人間は、そういう意識で撮り溜めていくのは本当は一番大事なことなんだよね。みんな何か完成させようとするけど。
奈良 完成をイメージして、それを撮りに行っている人もいるんです。そういうのはすぐわかっちゃって、テレビのコマーシャルの作り方を見ているみたいで面白くないです。脚本があるみたいな。それが壊れると何が出てくるかわからないから、全然ダメなときもあるかもしれないけど、何かすごいものができるかもしれない。
司会 今回の展覧会で、奈良さんが被写体の写真が3枚選ばれて展示されていることに、ご感想はありますか?
奈良 じつはその3枚の前だけ素通りしていまして。周りで見ている人たちに「あ、この写真の人だ」って気づかれると思った瞬間に、さっと移動してしまって。自分が写っているのはたいてい嫌いなんですけど、この絵の具を並べて考えているところとか、それは本当に自分っていいなって思いました(笑)。自分が人形の前にいてうれしそうに笑っているのも、これも自分なんだって。この2枚、自分でも好きです!
本橋 絵の具をあれほど考えて並べて置く絵描きの方ってはじめてですよ。ともかく何が始まるんだろうなって、撮り進めていかないと。 (2023年6月30日 東京都写真美術館1階ホールにて)

〈奈良美智のアトリエ〉(2022年)3点の展示風景
「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」 会場:東京都写真美術館 2階展示室 東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内 会期:2023年9月24日(日)
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各地句会報
花鳥誌 令和5��7月号

坊城俊樹選
栗林圭魚選 岡田順子選
………………………………………………………………
令和5年4月1日 零の会 坊城俊樹選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 春昼や質屋の硝子なないろに 小鳥 伊勢屋質店今生の花とほく 光子 菊坂に豆煎る音や花の昼 和子 一葉の質屋は鎖して春の闇 はるか 本郷の亀を鳴かせて露地住ひ 順子 おかめ蕎麦小声で頼み万愚節 いづみ 文士らの騒めきとすれ違ふ春 三郎 一葉を待つ一滴の春の水 光子 物干に如雨露干したり路地の春 和子
岡田順子選 特選句
一葉の家へ霞の階を きみよ 金魚坂狭め遅日の笊洗ふ 千種 菊坂の底ひの春の空小さし 光子 坂の名のみな懐かしき日永かな 要 赤貧の欠片も少し春の土 いづみ 本郷の間借りの部屋の猫の妻 同 質店の中より子規の春の咳 俊樹 止宿者の碑のみ残すや蝶の舞 眞理子 本郷の北窓開く古本屋 きみよ かぎろひの街をはみ出す観覧車 いづみ
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月1日 色鳥句会 坊城俊樹選 特選句
花冷の背後より声掛けらるる 美穂 幾年も陽炎追ひて遊びけり 散太郎 濃きほどに影のやうなる菫かな 睦子 化粧水ほどの湿りや春の土 成子 画布を抱き春の時雨を戻りけり かおり 昼月は遠く遠くへ花満開 愛 シャボン玉の吹雪や少女手妻めく 勝利 麗かや砂金三つ四つ指の先 睦子 成り行きの人生かとも半仙戯 朝子 鞦韆の羽ばたかずまた留まらず 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月3日 花鳥さざれ会 坊城俊樹選 特選句
花吹雪卍色と云ふが今 雪 花冷に後姿の観世音 同 そぼ降りてひと夜の契り花の雨 笑 観世音御手にこぼるる花の寺 同 お精舎やこの世忘れて糸桜 啓子 逝きし友逢へないままに朦月 同 裏木戸を開ければそこに花吹雪 泰俊 御仏と咲き満つ花の句座に入る 希 愛子忌や墓にたむけの落椿 匠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月5日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
縋りつく女心や桃の花 世詩明 肌寒く母の手紙はひらがなぞ 同 啓蟄や鍬突き立てし小百姓 同 日野河原菜花の香る祭りかな ただし 菜の花や石田渡しの蘇る 同 雛祭ちらしずしそへ甘納豆 輝一 ぽつたりと落ちて音なき大椿 清女 花吹雪路面電車の停車駅 同 大拙館椿一輪のみの床 洋子 花の山遠く越前富士を抱く 同 吉野山日は傾きて夕桜 誠
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月6日 うづら三日の月 坊城俊樹選 特選句
花の下天をを仰げば独り占め さとみ 春陰やおのが心のうつろひも 都 春耕や眠りたる物掘り起す 同 左手の指輪のくびれ花の冷え 同 園児等のお唄そろはず山笑ふ 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月8日 枡形句会 栗林圭魚選 特選句
膝をまだ崩せずにをり桜餅 秋尚 登り来て本丸跡や花は葉に 百合子 葉脈のかをり弾けて桜餅 同 桜餅祖母の遺せし会津塗り ゆう子 売り声も色つややかに桜餅 幸子 木洩日の濡れてゐるやう柿若葉 三無 春愁や集ふふる里母忌日 多美女 伍しゐても古草の彩くすみをり 三無
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 武生花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
心経をとなへ毛虫に火をはなつ 昭子 マンホール蓋の窪みに花の屑 昭子 栄螺売潮の香りを置いてゆく 三四郎 金の蕊光る夕月てふ椿 時江 禅寺の読経流るる花筏 ただし 若者の髭に勢や麦青む みす枝 龍が吐く長命水の春を汲む 三四郎 花吹雪受けんと子等の手足舞ふ みす枝 土器の瓢の町や陽炎へり ただし 海遠く茜空背に鳥帰る 三四郎 紅梅のことほぐやうに枝広げ 時江
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月10日 なかみち句会 栗林圭魚選 特選句
片棒を担いでをりぬ四月馬鹿 三無 薬草園とふ門古りて松の花 和魚 だんだんと声ふくらみて四月馬鹿 美貴 四月馬鹿言つて言はれて生きてをり 和魚 松の花表札今も夫の居て 三無 白状は昼過ぎからや四月馬鹿 のりこ 一の鳥居までの大路や松の花 秋尚 松の花昏き玄関応へなく 美貴
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月11日 萩花鳥会
京よりの生麸草餅薄茶席 祐 不帰のヘリ御霊をおくる花筏 健雄 ただ一本ミドリヨシノの世界あり 恒雄 堂々と桜見下ろす二層門 俊文 猫に愚痴聞かせて淋し春の宵 ゆかり 杵つきの草餅が好きばあちやん子 美惠子
………………………………………………………………
令和5年4月13日 鳥取花鳥会 岡田順子選 特選句
便り待つポストをリラの房覆ふ 栄子 畑打つや鍬を担ひし西明り 宇太郎 軒下の汚れし朝や燕来る 都 桜蕊降る藩廟の染まるまで 美智子 桜蕊降るももいろの雨が降る 悦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 伊藤柏翠記念館句会 坊城俊樹選 特選句
何氣なく来て何気なく咲く花に 雪 神御座す杜の新樹に聞く鳥語 かづを 老の踏むひとりの音や落椿 ただし 野辺送り喪服の背に花の蕊 嘉和 夜ざくらのぼんぼり明り水あかり 賢一 喝采の微風を受けて花は葉に 真喜栄 生きる恋はぜる恋ととや猫の妻 世詩明 葉ざくらに隠されてゐる忠魂碑 同 眩しさを残して花は葉となれり かづを
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月16日 風月句会 坊城俊樹選 特選句
極大と極小としやぼん玉宙へ 要 穴出でし蟻の列追ふ園児どち 経彦 頰をつく石仏の春愁 貴薫 酸模を噛む少年の今は無く 要 稲毛山廣福密寺百千鳥 同 瑠璃色を散らし胡蝶の羽ばたきぬ 久 春陰の如意輪仏へ女坂 慶月 棕櫚の花年尾の句碑に問ひかくる 幸風 朴の花仏顔して天にあり 三無
栗林圭魚選 特選句
蝌蚪の群突くひとさし指の影 千種 峠道囀り交はす声響き ます江 美術館三角屋根に藤懸かる 久子 こんもりと句碑へ映るも若葉かな 慶月 微かなる香りや雨後の八重桜 貴薫 朝の日に濃淡重ね若楓 秋尚 落ちてなほ紅色失せぬ藪椿 経彦
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 さくら花鳥会 岡田順子選 特選句
通勤のバスから見ゆる日々の花 あけみ 花馬酔木白き房揺れ兄の家 令子 亡き鳥をチューリップ添へ送りけり 光子 偲ぶ日の重く出たるや春の月 令子 あの頃の記憶辿って桜散る 美加
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月19日 福井花鳥会 坊城俊樹選 特選句
矢車の音きしみ合ふ幟竿 世詩明 風よりも大きく揺れて糸柳 啓子 花万朶この世忘れて花の下 同 あたたかやお守りはねるランドセル 同 甘き香の女ごころや桜餅 千加江 春場所や贔屓の力士背に砂 令子 落椿掃きゐてふつと愛子忌と 清女 春の虹待ちて河口に愛子の忌 笑子 散りそめし花の余韻も愛子の忌 同 城の濠指呼の先には花の渦 和子 花筏哲学の道清めたる 隆司 故郷の深き眠りや花の雨 泰俊 山道の明るさを増す百千鳥 同 ほころびて色つぽくなり紫木蓮 数幸 花桃に出迎へられて左内像 同 瞬きは空の青さよ犬ふぐり 雪
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 鯖江花鳥句会 坊城俊樹選 特選句
忠直郷ゆかりの鬱金桜とぞ 雪 椿てふ呪縛の解けて落つ椿 同 春愁や言葉一つを呑み込んで 同 御襁褓取り駈け出す嬰や麦は穂に みす枝 鶯の機嫌良き日や鍬高く 同 ただならぬ人の世よそに蝌蚪の国 一涓 あの角を曲つてみたき春の宵 日登美 春の果次も女に生れたし 世詩明
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月21日 さきたま花鳥句会(四月二十一日)
清冽な水は山葵を磨き上げ 月惑 連写して柳絮の舞ふを収めけり 八草 天守閉ぢ黙す鯱鉾朧月 裕章 行き先は行きつく所柳絮飛ぶ 紀花 南無大師遍照金剛春の風 孝江 揚浜に春の虹立つ製塩所 とし江 柳絮飛ぶ二匹の亀の不動なり ふじ穂 筍堀り父編むいじこ背負ひ来て 康子 花吹雪ひと固まりの風の道 恵美子 満天星の花揺らしつつ風過ぎる 彩香 夢叶へ入学の地へ夜行バス 静子 啓蟄やピンポンパンの歌聞こゆ 良江
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令和5年4月23日 月例会 坊城俊樹選 特選句
真榊はあをばの中に立つてをり いづみ 水の上の空のその上鳥の恋 順子 掌の中の春の蚊深き息を吐き 炳子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 春の闇より声掛けて写真館 順子 零戦機日永の昼の星狙ふ ゆう子
岡田順子選 特選句
玉砂利の音来て黒揚羽乱舞 和子 耳朶を掠めて蝶のうすみどり 緋路 仕上りの緻密なる蒲公英の絮 秋尚 風光る誰にも座られぬベンチ 緋路 緋鯉とて水陽炎の中に棲み 俊樹 手放して風船空へ落ちてゆく 緋路 蜂唸る神の園生に丸き井戸 炳子 佐保姫は夜に舞ひしか能舞台 俊樹
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年4月 九州花鳥会 坊城俊樹選 特選句
つかまへし子亀に問へり亀鳴くか 美穂 亀鳴くや拷問石にある哀史 ちぐさ 亀鳴ける賓頭盧尊者撫でをれば 美穂 板の戸に志功の天女花朧 喜和 連子窓に卯の花腐し閉ぢ込めて かおり 大人へのふらここ一つ山の上 光子 ふらここや無心はたまた思ひつめ 同 ふらここや関門海峡見下ろして 同 さくら貝ひとつ拾ひて漕ぎ出しぬ かおり 午後一時直射にぬめる蜥蜴の背 勝利 花冷の全身かたき乳鋲かな 睦子
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
令和5年3月4日 立待花鳥俳句会 坊城俊樹選 特選句
落城の如く散りたる落椿 世詩明 三人の卒業生以て閉校す 同 双葉より学びし学舎卒業す 同 氏神の木椅子はぬくし梅の花 ただし 鳥帰る戦士の墓は北向きに 同 草引く手こんなですよと節くれて 清女 雛あられ生きとし生くる色やとも 洋子 官女雛一人は薄く口開けて やす香 露天湯肩へ風花ちらちらと 同
(順不同特選句のみ掲載) ………………………………………………………………
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 11月26日(土) #先勝(癸未) 旧暦 11/3 月齢 2.2 年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 玄関ドアに郵便ポスト受口があるじゃ ないですか✋共同住宅にはどのお宅 にでもありますよね✋個人宅の豪邸 にお住いの方なら、別に立派なポスト があると思いますが💦ここに入居を した時に前住居人がポスト口にテープで 塞いで「投函お断り!」の張り紙も してありました😅💦多分、必要ない チラシ投函で困ってるんだろうと思い 暫くは、そのままにして置いたので すが、私の場合Amazonやら荷物とか あるし不在の場合に不在伝票やらが 入れられないし郵便だってあると思 うしで、剥がしてしまった🤣😆🤣 . したら、案の定に、ほぼ毎日の様に 見たくもないチラシが凄いわ😅💦捨て りゃあ良いだろうと思うでしょうけ ど、あまりにも多いと意外に手間✋ その中で今朝は、夕べに投函された チラシを珍しく眺めて居たら不動産の 分譲住宅の金額に👀が飛び出た🚀 月々均等払いで36,676円で4LDプラス ってのが買えるって1,499万円ダッテw 熊本って家が安いんですねって驚愕w しかも、頭金なしって😅💦なんだろ コレ!買えちゃうじゃないって一瞬👀 思ったけど、40年ローンって💦そんな に生きれないし働けんだろうと⤵️⤵️⤵️ . せめて20年早ければっ東京じゃなく ても、ここで良いかなって思ったw そんな今朝の妄想ですわ🤣😆🤣 でも、小金持ちの方なら現金でも 行けちゃうでしょこれだったら... . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋️はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #いいブロッコリーの日. 石川県白山市に本社を置き、🥦をはじめとしてさまざまな農産物の生産および販売を手がける有限会社安井ファームが制定。 記念日をきっかけに🥦の消費拡大を促進することが目的。 好き嫌いが分かれがちなブロッコリーだが、好きな人にはもちろんのこと、苦手な人にも食べやすいレシピを発信するなど、🥦 の美味しさや良さを知ってもらい、実際に食べてもらいたいという想いが込められている。 日付は11と26で「いい(11)ブロ(26)ッコリー」と読む語呂合わせから。 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 寝坊は、もっての他とされますね😅💦 . . #鉄分の日. . #ポリフェノールの日. . #いいフォローの日. . #いい風呂の日. . #ペンの日. . #プロ野球2リーグ制発足. . #いいチームの日. . #いい付録の日. . #いいプルーンの日. . #西鉄クリッパース結成(現在の#西武ライオンズ) 1949(昭和24)年11月26日(土) 、西鉄クリッパース(現在の埼玉西武ライオンズ)設立。 . . #ツローの日(毎月26日). #ダブルソフトでワンダブル月間. #プルーンの日(毎月26日). #ふろの日(毎月26日). #生命保険見直し月間(1日から30日). . . #モンゴル独立記念日. . . ■本日の成句■. #一時違えば三里の遅れ(ヒトトキチガエバサンリノオクレ). 【意味】 少しの間でもぐずぐずしていると、たちまち大きな差が開くと云う事。 . . 1976(昭和51)年11月26日(金)友引. #光邦(#みつくに、宮澤 光邦《#みやざわみつくに》) 【ディスクジョッキー、ラジオパーソナリティ】 〔東京都北区〕. . . (Saburou, Kumamoto-shi) https://www.instagram.com/p/ClZirXJSjH5HuOnLT6_utReFrzVc-D85NPYWVs0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#先勝#いいブロッコリーの日#鉄分の日#ポリフェノールの日#いいフォローの日#いい風呂の日#ペンの日#プロ野球2リーグ制発足#いいチームの日#いい付録の日#いいプルーンの日#西鉄クリッパース結成#西武ライオンズ#ツローの日#ダブルソフトでワンダブル月間#プルーンの日#ふろの日#生命保険見直し月間#モンゴル独立記念日#一時違えば三里の遅れ#光邦#みつくに#みやざわみつくに
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沖縄:楽園の光と影
冬休みに沖縄本島へ旅行したので、ちょっとばかし、僭越ながら感想を。
沖縄へ行ったのは生まれて初めてなので、初心者らしく、那覇市と本島南部をめぐっての旅行とした。中部、北部は、またの機会があれば、ということで。
冬とはいえ、気温 17 度くらいで秋のような感じがする。22 度まで上昇した日もあり、さすがに初夏のように暑く、那覇市内のモノレールでは冷房が効いていた。これだけ温暖だと、移住する人が多いのも分かる。

さて、琉球民族の創世神話によれば、東の海の彼方にニライカナイという楽園があり、太古の昔そこからアマミクないしアマミキヨという女神が、沖縄本島の東に位置する久高島(クダカジマ)へ降臨し五穀を伝えたという。沖縄本島の南部にある聖地、斎場御獄(セーファウタキ)から、この久高島を拝むことができる。この斎場御獄へ行ったが、隆起珊瑚による巨岩がのしかかるようにそびえ立ち、非常に神秘的かつ迫力あって圧倒的。上の写真は、その聖地にある三庫理(サングーイ)という最高聖地のパノラマ写真で、今でも神女と呼ばれる神に仕える女性たちしか入ってはいけない区域がたくさんある。
大和民族が戦国時代にあって乱世を過ごしているころ、琉球王朝は、ひとあし先に琉球列島の統一を果たし、中国、台湾、日本、そして東南アジアはマレー半島のマラッカ王国やインドネシアのマジャパイト王国といったイスラム国家にいたるまで、広範囲にわたって大いに交易し活躍した。東南アジアには琉球王国の商館がいくつも点在し、イスラム商人との商談で熱気を帯びていた。また中国とは冊封体制に入り、明の皇帝から琉球国王の称号をさずかり、盛んに貿易を行った。

しかし江戸時代初期に、琉球王国の富に目をつけた島津藩が、武力をもって琉球王国へ侵攻。それ以来、琉球王国は中国と大和民族との二重支配を受けつつも、行政的には独立国家として存在し続けた。このために、琉球地方の文化は、中国と大和との両方の影響を色濃く受けつつ、独自のものへ昇華し、独特の進化を遂げるに至った。
首里城へ行けば、往時の琉球王国の活躍ぶりや、二重支配に苦しむさまなどがよく分かる。ちょうど年始イベントとして首里城にて行われた琉球王朝の宮廷の踊りや民族舞踊の踊り手たちの集合写真。

大和民族のものとは違う、あでやかで鮮烈な色彩感覚が、南洋の青空とシャープなコントラストをなして目にしみる。首里城の正殿は、一見、紫禁城のミニチュア風に見えなくもないが大和民族の建築と同じ唐破風(からはふ)があり、その上に龍が乗っているところが、なんともハイブリッド文化ぶりを発揮していて興味深い。しかも単に混ぜただけでなく、それがさりげなく沖縄独特の味付けでもって昇華されているところが、おもしろい。

また、首里城から南へ下ると金城町の石畳道があり、ここも古色豊かで風情満点。沖縄民家にかこまれた石畳道を歩くと、いつの時代にいるのかも忘れる。NHK 朝ドラ「ちゅらさん」の主人公の家も、ここの民家を借りて撮影された。
だが明治時代に入り、帝国日本政府は琉球王国に対し、清との冊封関係を廃止するよう通告、これを琉球王国が拒否すると武力で琉球へ侵略、ここに琉球王国は消滅した。これを日本では琉球処分という四文字熟語だけで表現しているが、独立国家を武力征服したその帝国主義的実態は、韓国併合と同じく琉球併合と言ったほうが良いのではないか。
やがて起きた太平洋戦争における日本唯一の地上戦、それが沖縄。
大戦末期、米軍は、沖縄本島を、来たるべき日本本土上陸作戦のための拠点として占領すべく、1945 年4月に沖縄本島への上陸作戦を開始。対する日本軍は、やはり沖縄を本土決戦のための前哨戦とするも、米軍を撃退するのではなく、あくまで本土決戦を遅らせるための時間稼ぎとして、沖縄を利用した。つまり、極力長く持久戦に持ち込むことで米軍が本土上陸するのを遅らせたのであり、沖縄は本土を守るための捨て駒として利用されたのである。
米軍が投入した戦艦や巡洋艦などによる艦隊は 200 隻以上におよび、激しい艦砲射撃が沖縄を襲い、先ほどの斎場御獄にも、砲弾が着弾して炸裂した直径数メートルものクレーターが、にごった泥水をたたえて今なお存在する。

そしてもうひとつの戦跡、ひめゆりの塔と資料館は、私にひとつの大きな疑問と宿題を残した。
戦前、那覇市にあったひめゆり学園は、教師になることを夢見る女学生たちが学んだ場であった。彼女らは、沖縄戦のため看護兵として動員された。米軍は沖縄本島の北部と中部を一ヶ月ほどで制圧するも、南部では日本軍がおびただしい陣地や地下壕をはりめぐらし、その激しい抵抗に遭って、この小さな島の狭い南部だけを制圧するのに2ヶ月以上もかかった。そしてこの南部にて、ひめゆり学園の女学生たちは看護のため投入された。
太平洋戦争当初、ひめゆり学園では毎年、美人投票が行われるなど、おだやかな毎日が続いていた。だが、教師になるべく勉強していた彼女らは、臣民の模範となるべく、戦前の軍国主義教育を受けた軍国少女たちでもあった。だから日本が勝つことを信じ、降伏することを恥とした。敗戦色が濃くなると、お国のために射撃訓練も経験し、慣れない銃の反動で肩を痛める者もいたという。看護兵に動員されても赤十字がかかげてある病院施設は攻撃されないと信じ、注射や点滴などの作業にも熱心に取り組んだ。しかし米軍は全てを無差別攻撃し、ひめゆり学園の女学生たちは、その半数以上が命を落とした。
資料館では、英語と日本語の両方で、戦前から戦後までの様子が描かれている。それを観て私の中にわきおこった疑問と宿題とは、これをいかにして戦勝国の人々に伝えるか、であった。
帰国子女の私がかつて直面したのは、たとえばアメリカ人が「日本が真珠湾を奇襲したから、我々は原爆を落としたのだ。結果、我々は全体主義国家を打破し、民主主義の世界を取り戻したのだ」という自負心あふれる論調であった。東アジアの人なら「我々の祖父母は日本軍に乱暴され殺されたのだ。その報いが沖縄であり原爆だ」などと言うかもしれない。アメリカでは、真珠湾攻撃での悲話が語り継がれている。たとえば撃沈した戦艦の中に生存者がいて、救いを求めるべくハンマーで艦体を必死で叩く音で知らせるのだが、それがやがて聞こえなくなった、という話。そんな人たちに、いくら沖縄戦や原爆の悲惨さを訴えても、なかなか彼らのこころには届かない。リメンバー・パールハーバーは復讐の合言葉だが、ノーモア・ヒロシマはノーモア戦争なのだという反戦思想は、彼らには響いてこないのだ。私には重い宿題が残った。
正義は国や民族によって違う、それは教育によって刷り込まれる。我々の民主主義とて、遠い未来から見れば原始的な思想かもしれない。我々が教育によって刷り込まれた殻をやぶって、ほんとうの反戦・平和へと実現するためには、どうしたらいいのか。正義は違えど共存できることを証明するには、どうしたらいいのか。
平和祈念公園へ行けば、そこには平和の礎(へいわのいしじ)と呼ばれる石板がえんえんと続き、その表面には沖縄戦の犠牲者ひとりひとりの名が刻み込まれて、とむらいとしている。沖縄人や日本軍だけでなく、韓国朝鮮人、台湾人、中国人、米軍、英軍の犠牲者まで、とむらっているところが、全世界の平和への祈りとなっている。沖縄戦では 12 万人が犠牲になり、12 万人の未来が消えた。

黙して語らぬものは、それゆえに語るべきものが、あまりに大きい。
ささやかながら献花。そこから見下ろす太平洋は、冬とはいえ青い亜熱帯の海の色で、何事も無かったかのように、波がひねもす打ち寄せ、ただ潮騒だけが、静寂をつつみこんでいた。

嘉数の丘(かかずのおか)に登り、そこに残された日本軍のトーチカの残骸を前に、全世界へ黙祷。ここは大戦中の激戦地で、米軍が忌まわしい丘とまで呼んだという。トーチカは激しい銃撃戦のため原形をとどめないまでにぼろぼろになり、鉄骨がむきだしになっていた。
そして丘の上から見下ろすは、普天間基地���
一説には、日本の敗戦が視野に入っていた 1945 年4月に米軍が沖縄上陸作戦を強行したのは、すでに米政府は日本敗戦後の世界情勢を考えており、共産圏へ対抗すべく橋頭堡として沖縄を手に入れて要塞化しておきたかった、という思惑があったからだとも言われる。いずれにせよ沖縄は米軍の要塞の島となったことに、変わりは無い。
戦争が終わり、ようやく我が家へ帰ってきてみれば、家はブルドーザーでつぶされ米軍が使う滑走路の下敷きになっていたという沖縄の人々。その上に、日本の国防がなりたっている皮肉。
普天間基地には、オスプレイが8機ならんで見えた。オスプレイが危険かどうか、そんなことはどうでもいい。それより基地の周囲には背の高いマンションがびっしり密集していて、こりゃーこんなところに基地をつくったらいかん、と強く思った。現に 2004 年には、米軍大型ヘリの墜落事故まで起きているし。

カミさんが言ってたが、沖縄では敗戦はあっても、まだ終戦を迎えていないのだ。
関空やセントレアのように海上に造られた空港や、全国にある赤字垂れ流しローカル空港を、米軍と共同利用できるようにして、基地を分散させたらいい。でもそんなことすれば、地元民は猛反対するだろうし、韓国や台湾も在沖縄米軍をあてにしてるから反対するだろうが、自分がいやがることを沖縄だけに押し付けるのは、やはり良くない。騒音は爆音でうるさいし、墜落事故は怖いし、やっぱオスプレイは来てもらいたくないし、米兵で治安悪化するだろうが、沖縄の負担が軽くなるなら、受け入れるしかない。韓国や台湾での有事における初動が遅れるというなら、それをカバーするような外交政策と戦略をたてたらいい。日本の首相や地方自治体の首長連中は孤独な決断を迫られるが、国土の 0.6 %の面積しかない沖縄に、全国の米軍基地の 75 %が密集する負担を軽くするためなら、いずれは歴史がその英断をたたえることになるのではないか。
そして、沖縄の経済は基地に依存しなくても良いよう、海底資源を開発するとかしたらいい。琉球トラフにプレート境界ならでの海底温泉でもあって、そこでレアメタルでも見つかれば儲けもの。

那覇市の最大観光スポット国際通りと第一牧志公設市場「まちぐぁー」では、あふれんばかりの活気に圧倒される。市場の持ち上げシステムを使い、1階で熱帯魚やカニなどを注文し、2階にて調理してもらって食す、うまい!! 沖縄そば、うまい!! 夜は居酒屋でイラブー(海蛇)汁、うまい!! アグー豚、うまい!! ゴーヤ、うまい!! 海ブドウ、うまい!! なに食っても、うまい!! こんなうまいもんばっかりに囲まれて沖縄の人は、ずるい。
ライヴハウスにて、ネーネーズのライヴを観る。かつて坂本龍一のアルバム「Neo Geo」「Beauty」に参加した沖縄民謡を歌う若い女性アーティストを中心に結成された、女性4人組の沖縄民謡ポップス集団、それがネーネーズ。メンバーチェンジのため初代メンバーはいなくなったが、今でも那覇市のライヴハウスを拠点にアルバム出したり全国ツアーしたりしている。そのライヴハウスで彼女たちを観た。楽しい歌と語り、皆でカチャーシーなる沖縄伝統の振り付けで踊るも、観客全員が盆踊り状態になってしまい、やはり沖縄人には勝てない。

外国人観光客も多く、島のあちこちで韓国人観光客がヒュンダイのハッチバック型レンタカーを乗り回しているのに出会う。韓国には、ここまで南にある島は無いからね。日産の電気自動車 LEAF も、那覇市内のそこらじゅうでレンタカーとして走っている。
でも、その足元がかつての大戦の激戦地であり、今では地上の楽園となっているという実感は、やはり現場にたってこその説得力。こればかりは、ほんとうに現場へ行かないと、その押しつぶされそうなくらい圧倒的な実感がわいてこない。
サザンの桑田による歌に「平和の琉歌」というものがある。私は桑田は汗くさいまでに暑苦しくて苦手だったが、ネーネーズによるカバー版には、深く考えさせられた。詳しくは「たるー」という人による下記サイトでの解説を読んでほしいが、要約すると、標準語による原曲に対し、カバー版では琉球語での歌詞が追加されており、大和民族たる桑田が「愛を植えましょう この島に」と言えば、琉球人のネーネーズは「情けを知らせてあげたい この島の」と琉球語で返事する。愛や情けが必要なのは琉球ではなく、大和民族なのではないかと:
ひめゆり学園の生存者は、米軍が沖縄の子供たち相手に開いた学校にて、米人教官の助手教師として働いた。彼女らは子供たちと共に、民主主義という慣れない言葉に初めて接した。
そしてその上に、今の楽園のような南の島、沖縄がある。
2013年01月08日19:54 初出
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松本人志名言集
深夜番組で騒ぎまくる今田、東野、ホンコンに対して 「テレビ付けながら寝てる人もおんねんから静かにしろ!」
大林素子に 「あなたマヨネーズやったら業務用ですよ」
フットボール岩男の顔に 「たぶん前世で日本のお地蔵さん全部蹴ったんやろな」
サングラスをかけた糸井重里に 「モグラの親分かと思いました」
浜田に対して 「浜田の屁の臭いを嗅ぐと楽しかった思い出が一つ消える」 「日本語話されへん外人が浜田の屁嗅いで「クサ!」言うたからね」 「こいつは他人がやられてる時サル8匹分くらいの声で笑うねん」 「世界広しと言えど、十二支を全部殺したのは浜田さんだけですからね」
浜田が笑瓶にわざとらしく「おはようございます」と頭を下げた時 「久しぶりにお前のつむじ見たわ」
出川と山崎が乳首相撲をやってる時 「こんなもんに勝ち負けはないですよ。やってる時点で既に負けですからね」
リンカーンでどもるウド鈴木に対して 「ウドちゃん、食べ物変えた~?」
ホンコンの若い頃の写真を見て 「格闘ゲームにこれおったら絶対選ぶわ」
光浦靖子がスキンケアにお金をかけている事を聞いて 「ずっとビフォーですもんね」
スベってしまった芸人に 「こいつを運んできた新幹線のぞみにまで腹立ってくるわ!」
HEY×3に若者に人気のあるバンドが出てダウンタウンがそのバンドを知らなかった 観客「遅れてる~」 松本「お前らと同じ道走ってへんわ!」
リンカーンの料理の企画で 「味がないから評価のしようがない。だって裸のやつにセンスがないとは言えへんもん」
宇多田ヒカルとテトリスで勝負をすることになって 「俺ホンマにテトリス上手いよ。ブロックの角が丸くなるまでやったからね。」
山崎方正が芸能生活20周年を迎えて 「ギュッとしたら2年やけどね」
今までCDに8000万円使ったと言ったクリス松村に 「漢字の 傘 みたいな顔して」
関ジャニ∞の移動車の背もたれが動かないと聞いて 「レゴか!」
エドはるみが歌を披露したが声が小さかったので 「上でお爺ちゃん寝てんの?」
東野をどっきりにかける企画の前ふりにて 「えー、今から東野を殺します」
雨上がり蛍原のサイフから、競馬の調教師の全身写真が出た際 「もしも俺がこのおっさんを探してるとしても、このおっさんの写真をサイフに入れることはないわ」
ハイテンション・ベストテンで滑ったケンコバに対して 「いやぁ、これはビデオに録ってない人たちは悔しがってるんじゃないですか? 早送りできなくて」
リンカーン水着ショーのハリセンボンに 「この水着で2人が出かけたら、何らかの事件にあうのは確実ですねえ」
浜田が描いた下手っ糞なムーミンを見て 「なに谷に住んどんねん!」
HEY×3でISSAの本名が一茶(いっさ)で次男が二茶(にーちぇ)と聞いて 「じゃあ十六番目の子はどうなんねん!」
お金がない頃、タバコが吸いたくて拾いに行ったというドランクドラゴン塚地に 「トリュフ探すブタやな」
ガキを卒業する邦正に対して 「悲しいと言えば・・・嘘になりますけど」
龍が好きで龍グッズをいっぱい持っているという的場浩司に 「でも本物の龍が来たら逃げるんでしょ?」
フリスクが入った大福を作ったココリコ遠藤に 「こんなもんお地蔵さんにお供えしてみ、絶対夜殴りに来るよ?」
すっぽんのコラーゲンをおかずに白飯を食い出すバキューム藤原に対して 「コラーゲンでメシ食えるって事はお前もう・・・嫉妬とか勇気とかでも食えるんちゃうか?」
浜田が志村けんにお前!と言ったのに対して 「こいつにお前って言うなや!」
DXの私服ランキングで叶恭子だけ後ろからライティングされていて 「お姉さん、後ろから車来てますよ」
ブーイングする客に向かって 「お前ら全員和えたろか!」
好みのタイプは「守ってくれそうな人」という女性に対して 「え? あなたには敵がいるんですか?」
かわいい子犬を抱いて 「かわいいなぁ何やこれちょっと、誰かフォークとマヨネーズ持って来て」
海藻青汁についての感想 「半魚人絞ったみたいな感じ」
ドライマンゴーを食べて 「おじいさんのスネをピーラーで削ったみたいな感じ」
ガキの罰ゲーム中 「こんなもん罰ゲームちゃう、ただの罰や」
部屋にゴキブリは出た際に 「俺は一人暮らしがしたいねん!」
もし明日地球が滅びるとしたら、最後の日は何をしますか? 田原総一郎「んー、寝てるかな」 松本「1日早く死んでるやん」
東幹久が射的屋で 東「あまりにもムカついたから射的屋のババアのケツ撃ってやろうかと思いましたよ」 松「倒れたらそのババア持ち帰らへんとアカンよ」
HEY×3で女性ゲストが作ってきた弁当を食べて 松本「何点?」 浜田「そりゃ・・・、100点よ。お前は何点やねん」 松本「僕は人の作ってくれたものに点数なんかつけられへん」
HEY×3での藤井フミヤとの絡み 藤「でもフミヤは本名は漢字なんだけどね」 浜「そんなこというたら俺もほんまは濱田やし」 松「そんなこというたら俺も松本と人志の間にF入るし」
松本「サッカーのキーパーって誰でも出来るんちゃうん?」 浜田「そんなことないよ」 松本「電気屋のおっさんでも出来るやろ」 浜田「でけへんよ。高い所も届かなあかんし」 松本「電気屋のおっさんも高い所の電球替えたりしてるからね」 浜田「ものすごい早く動かんとあかんねんで」 松本「それは電気屋のおっさんが早く動く必要がないからであって、早よしてくれ言うたら、あいつらも早く動き出しますよ」 浜田「無理やって」 松本「何を根拠に電気屋のおっさんを下に見たがるのか分からへん」
こんなタクシーのお客さんが困るっていうアンケートに「とりあえず、まっすぐ行ってくれ」という答えが出て 松「まっすぐ行けっていうだけなら、別に困らへんやろ。まっすぐ行くだけやんけ」 浜「いや、目的地言ってくれんと、はっきりせぇへんやろ・・」 松「別に困らへんやろ。そら『右折左折を繰り返せ!』言われたら困るけどやな」
ガキ使の葉書トーク
ゴリラを使った料理を教えてください 「若ゴリの竜田揚げ」
鼻くそほじってるのを見られた時、なんて言い訳すればいいですか 「頭蓋骨に触ってみたかったんや」
階段にある踊り場はなんで踊り場というんですか 「階段には段差がありますよね? 段差、ダンサ、ダンサー」
新しい彼氏ができたんですけど、元カレの名前を彫った刺青はどうしたらいいですか 「その名前の下に『など』って彫りましょう」
ヒラヒラの付いてる枕と付いてない枕は何が違うんですか 「ヒラヒラ付いてる方がメスです」
ペットのモルモットに名前をつけてくれませんか 「モル本人志」
シャンプーをしている時の背後の気配は誰の気配なんですか 「リンスです」
ウッチャンナンチャンの内村さんはなぜあんなに白いんですか 「イカの食べすぎです」
マナカナの見分け方を教えてください 「マナの悪口を言うとニヤッと笑うのがカナです」
日本でよく言う言葉ベスト10を教えて下さい 「一位がすみません、二位がこれのMないの?」
もしも願いが三つ叶うとしたら松本さんは何を願いますか? 松「まず一つ目は金持ちになりたい。 二つ目は口の臭い人間をこの世から消したい。 三つ目は相方を変えたい」 浜「おい、三つ目はおかしいやろ! どういうことやねん?」 松「だって二つ目の願いが叶ってる時点でお前はこの世から消えてるからね」
どんな動物でも手乗りにしてきた松本さん、という手紙に 浜「ゾウとか無理やろー」 松「いやできますよ。でもコウモリだけは無理。手ぶら下がりになる」
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ダ-ティ・松本 不健全マンガ家歴30年[-α]史 ●はじめに この文章は同人誌「FUCK OFF!7」において書かれたものをベースにして逐次増補改定を加えていき、いずれ歴史の証言として、[というほど大袈裟なものでは無いが…]一冊の本にまとめたいという意図のもと、近年どんどん脳が劣化していくダ-松の覚え書きとしても使用の予定。事実関係は間違いに気付き次第 訂正。同人誌発表時のものも今回自粛配慮して、実名、エピソード等を削除した箇所有り。有り難い事に某出版社よりすでに出版打診があったがまだまだその時期ではない、マンガを描く事が苦痛になったら活字の方も気分転換にいいかも…。 /*マークは今後書き加える予定のメモと心得たし。 ●前史/修行時代・1970 さいとうプロの短くて濃い日々…… 1968年に上京。数カ月後東京は戦場に。熱い季節の始まりだった。 2年後親元を飛び出し友人のアパートに転がり込む。場所は渋谷から井の頭線で駒場東大駅下車、徒歩5分。地図で見ると現在の駒場公園あたり。昼間でも裸電球を付けなければ真っ暗という馬小屋のような部屋。数メートル先には当時の建設大臣の豪邸が…。前を通りかかるだびに警備のおまわりがじろり。 いつまでも友人に迷惑もかけられないのでとりあえずアシスタントでも…と手元にあったマンガ誌をひっくり返し募集を探す。幸いさいとうプロと横山まさみち氏のところでアシ募集があり両方応募。どっちか一つ通れば…と思っていたら何と両方受かってしまい、双方に条件を聞く。当時高円寺 のアパート、風呂無し4畳半の部屋で相場12000円の時代。前者一ケ月の給料10000円、後者20000円との事。給料の方がボロアパートの家賃より安いとは…!どう考えても前者は食う方法がないと判断し、後者さいとうプロへ入社。 ここに居たのはたったの半年に過ぎないけれど今思えばこれだけで本が一冊描ける位の濃い半年だった。しかしこのあと2X年分も書かねばならないことを思えば今回はいくつかのエピソードを書くだけに留めよう。 ダー松が入った時は小池一夫氏[クビ?]、神田たけ志氏や神江里見氏、きしもとのり氏[現・松文館社長]等と入れ替わりの時��、きし氏の女遊びの凄さと神江氏の絵のうまさは伝説になっていた。現在「亀有」「ゴルゴ」が歴代単行本の巻数の多いベスト1、2位だが[ともに100巻を越えた]、3位は神江氏の「弐十手物語」[70巻以上]だという事は知ってる人は少ないだろう。 当時の制作部は、さいとうたかを[以下ゴリ]をトップに石川班[ゴルゴ13、影狩り]、甲良班[バロム1]、竹本班[シュガー、どぶ等]の3つに分かれ、それぞれのキャップにサブ・チーフが一人づついて、ヒラが2~6人いるというシステムで総16名。独立し現在も活躍中の叶精作、小山ゆう、やまさき拓味の3名がそれぞれの班のサブ・チーフ。ダー松は石川班で左右1メートル以内に叶氏とゴリにはさまれ、のんびり出来ない状態で、はなはだ窮屈。叶氏はほとんどマンガ家になりたいとも思った事のなかった人で、設計事務所みたいなところで図面を引いていた人がなぜマンガプロダクションに来たのか不思議だった。格別マンガ好きというわけでもなかったせいか現在まで全ての作品が原作もので、オリジナルは一本もないのはそのせい?祭りなどの人がうじゃうじゃ出てくる群集場面が得意。 やまさき氏は大の競馬好き、現在競馬マンガを多く描くのは当時からの趣味が生きたというべきか。もう一つの趣味である風俗についてはここでは書くのは差し控えよう。小山氏は後日ここの事務の女性と結婚するが、当時はつき合っているとは誰も知らず、スタッフの一人がやめる時その女性に交際を申し込んだら、茶店に呼び出されて小山氏からと凄まれたと聞いたが嘘か本当かは不明。 ここでの生活は新入り[ダー松を含めて3名]は朝の9時前に会社に行き、タイムカードを押し、前日のごみをひとまとめして外に出し、トイレ掃除をして、16人分のお茶を2Fで入れて制作部のある3Fへの狭い階段をふらふら昇り、机ごとに置いて歩き、終れば、一息ついて買っておいたパンと牛乳を3分で食べて、やっとそれから仕事。しかし新入りの3名の内1人折茂は常に遅刻なのでいつも佐藤と2人でやっていた。佐藤も遅れる時はダー松1人で。辞めてから10年位、16人分のお茶を持って階段をふらふら歩きお盆をひっくり返す夢をよく見たものだが、実際ひっくり返したのは折茂と佐藤の2人で、よく茶碗を割っていた。 たまには夕方6時には帰れるが、普通は夜10時までで、アパートに帰って銭湯に行けばもう明日にそなえて寝る時刻、このくり返しの日々。週1日は徹夜で明け方に帰り、その時は当日の昼12時出勤。休日は日曜日のみで忙しい時はそれも取り消し。���まり休みは月3日。[これで給料2万円!]そんな日々の繰り返し。 夕方までは皆和気あいあいと仕事していたが、ゴリが夕方6時頃に「おはようさん」と現れると、全員無駄口がたたけなくなり、仕事場はシーンと静まり返り、以下その日が終わるまでは疲れる時間がただひたすら流れるのみ。 当時石川班は「ゴルゴ13」と「影狩り」を描いていたがゴリは主人公の顔と擬音のみ。マジックで最後に入れる擬音はさすがに入れる位置がうまいと感心。ゴルゴの顔はアルバムに大小取り混ぜてコピーがとってあり、忙しい時は叶氏がピンセットで身体に合わせて「これが合うかな~」といった感じで貼り付けていた。 その頃すでに「ゴルゴ」は近々終わると噂されていたが、現在もまだ続いているとは感嘆ものだ。 ゴリと石川氏が「ゴルゴ」の最終回の終わり方を話しているのを聞いたら、何ともつまらない終わり方。しかしあれから20年以上も経つ事だし、きっともっといい終わり方を考えてあるだろうなと思っていたら、先日TVで本人が最初から考えてある終わり方だと言うのを聞き、がっくり。企業秘密だろうから書かないが、作品の最初の方に伏線が数度出ているのでわかる人にはすぐわかる筈。 辞めた小池一夫氏とさいとうプロに何があったかは知らないが、漏れ聞く話では結構もめ事があったみたいだ。 「子連れ狼」で「ゴルゴ13」と同じ設定の回があった時、「小池のガキャー訴えたるー!」とゴリが吠えていたものだが、結局たち消え。さいとうプロ作品で脚本を書いた本人が辞めた後、他の作品で同趣向の作品を書いても著作権は脚本を書いた原作者のものだと思うがどんなものだろう。その回のタイトルは忘れたが、ある場所に居合わせた人々が武器を持った集団の人質となり、その中に素人だと思われていた主人公、実は殺しのプロフェッショナルがいて、次々とその集団を殺していく、といったプロットで、ミッキー・スピレーンの短編に同じような作品があり、本当に訴えていたら恥をかいたと思うが・・・。 そういえば事務の方には山本又一郎という男がいたが、後年映画プロデューサーとして 「ベル薔薇」や「太陽を盗んだ男」等を創る事になるが、この野郎が生意気な男で当時皆に対して10歳は年上、といった感じの振る舞いだったが後日俺と一つしか年が離れてなかった事を知り、そんな若造だったとは、と皆怒ったものだ。以来奴の事を「マタさん」から「クソマタ」と呼ぶようになる。 さて半年後に先輩たちが積もり積もった不満を爆発させる反乱事件が勃発し、2年は居るつもりでいたここでの生活も、辞めるか残るかの選択を迫られる。残ればさいとうプロの現体制を認める事となるので、ダー松も退社。 しかし反乱グループとは別行動をとって一人だけの肉体労働のアルバイター生活へ突入。超ヘビーな労働の製氷工場、人使いの荒い印刷所、命綱もない高所の足場で働く建設現場等々。トラックの助手をしていた時は運ちゃんが「本宮ひろしって知ってるか?うちの息子の友達でさぁ、昔、おっちゃんメシ食わしてくれーなんて言ってきたもんだが、今は偉くなっちゃってさー、自分のビル建てたらしいよ。赤木圭一郎みたいにいい男なんだ。」とうれしそうに話してくれたが、運ちゃんには悪いがそいつは今も昔も一番嫌いなマンガ家なんだ。あの権力志向はどうにかならんか。天下を取る話ばかりだもんなぁ。 ところで後日、単行本の解説で高取英が「さいとうたかをのヤローぶっ殺してやる!」とダー松が言ったなどと書いているが、小生はそんな危ない事言った覚えはないのでここできっちり訂正しておきます。 「会社に火ィつけてやる!」位は言ったかも・・・[嘘] 。 悪口は言っても別に怨みなど無い。ところでアシスタントとしてのダー松は無遅刻、無欠勤以外は無能なアシだったと反省しきり。理想的なアシスタントとはどんなものか、それはまた別の機会に。 *入社試験はどんな事を? *さいとうプロには当時ほとんどろくな資料は無かった? *ハイジャックの回の飛行機内部の絵は、映画「大空港」を社内カメラマンが映画館で写してきたものをもとに描く。 *当時のトーンは印刷が裏面にしてあり上からカッターでけずったり出来ない。 *トーンの種類は網トーンが数種、それ以外はほんの3、4種類位しかなかった。 *仕事中のB.G.M.はアシの一人が加山雄三ばかりかけるので大ひんしゅく。好評だったのは広沢虎造の浪曲「次郎長三国志」、初代桂春団次の落語。眠気もふっとぶ位笑えた。 ダ-松が岡林信康の「見る前に跳べ」をかけてるとゴリは「何じゃー!この歌は!」と怒る。名曲「私たちの望むものは」はこの男には理解不能。 ●1 9 7 1 ~ 1 9 7 4 持 ち 込 み & 実 話 雑 誌 時 代 当時は青年劇画誌全盛時代で、もともと望月三起也氏や園田光慶氏のファンで活劇志向が強く、 主にアクションもののマンガを描いて持ち込みに行っていた。今のようにマンガ雑誌が溢れかえって、山のようにマンガ出版社がある時代ではなく、数社廻るともう行くところがない、という状態で大手では「ビッグコミック」があっただけで 「モーニング」も「スピリッツ」も「ヤン・ジャン」も当然まだない。テーマを盛り込んだ作品を持って行くと編集から「君ィ、うちは商売でやっているんだからねぇ」と言われ、アクションに徹した作品を持って行くと「君ぃ、ただおもしろいだけじゃあねぇ」と言われ 「おい、おっさん!どっちなんだ?」とむかつく事多し。この辺の事は山のように書く事があるが、有りすぎるのでパス。 *そのうち書く事にする。 ただ金属バットで頭をカチ割って脳みそをぶちまけてやりたいような奴が何人もいたのは事実。今年[’97]「モーニング」に持ち込みに行って、断られた奴が何万回もいやがらせの電話をかけて逮捕された事件があったが、そのうちトカレフを持って殴り込みに行く奴が出てくるとおもしろい。出版社も武装して大銃撃戦だぁ!などと馬鹿な事書いてどうする!とにかく持ち込みにはいい思い出が何もない。そんな中、数本だけ載った作品は渡哲也の映画「無頼」シリーズの人斬り五郎みたいな主人公がドスで斬り合う現代やくざもの[この頃の渡哲也は最高!]、ドン・シーゲルの「殺人者たち」みたいな二人組の殺し屋を主人公にした『汚れたジャングル』、陽水の「傘がない」が好きだという編集さんの出したテーマで車泥棒とブラックパンサーの闘士とのロード・ムービー風『グッバイ・ブラザー』、拳銃セールスマンを主人公にした『ザ・セールスマン』、等々10本ちょい位。 さてその頃並行してまだエロマンガ専門誌といえるようなものがなかったような時代で、実話雑誌という写真と記事ページからなる雑誌に4~10ページ位を雑誌の味付けとして描かせてもらう。当時、お手本になるようなエロマンガなど皆無で、エロ写真雑誌を古本屋で買ってきてからみのポーズを模写。マンガで裸を描く事はほとんど初めてで、これがなかなか難しいのだがエロシーンを描くのは結構楽しい。当時出版社に原稿持って行き帰りにグラフ誌をどっともらって帰るのが楽しみだった。SM雑誌の写真ページも参考になる。なお当時のペンネームは編集部が適当につけた池田達彦、上高地源太[この名前はいけてます。また使いたい]等。その数年後、逆にマンガが主で記事が味付けというエロマンガ誌が続々と創刊される。 *さいとうプロをやめたあと編集や知人に頼まれて数人のマンガ家の所へ手伝いに行く。秋田書店「漫画ホット」で『ジェノサイド』を連載中の峰岸とおる氏の所へ行き、仕事が終わったあとまだ売れてない頃の榊まさる氏も交え酒を飲む/川崎のぼる大先生のところへ数日だけ/3000円たこ部屋/小山ゆうオリオンププロ *当時のアルバイトは記憶によると時給150~200円位/大日本印刷市ヶ谷駐屯地/坂/ *一食100円/どんなに貧しい漫画家もみかん箱の上で書くやつはいない/TV萩原サムデイ *ろくでなし編集者 ●1 9 7 5 ~ エ ロ マ ン ガ 誌 時 代 に 突 入 実話誌は意外とエロは抑え目で描くように口すっぱく言われていたのだが、以前活劇っぽい作品を描かせてもらってたが潰れてしまった出版社にいた児島さんが編集する「漫画ダイナマイト」で打合せも何にもなしに好きに描かせてもらい、ここでエロマンガ家としての才能[?]が開花する。描いてて実に楽しく眠る時間がもったいない位で、人に睡眠時間が必要な事を恨んだ程。出来る事なら一日中休まず描いていたい気分で完全にはまってしまう。 初の連載作品「屠殺人シリーズ」はこの頃から/『漫画ポポ』。中島史雄氏は大学時代にこの作品を見ていたとの事で、トレンチコートにドクター・ペッパー模様のサイレンサーつきマグナム銃で遊戯人・竜崎一也が犯しまくり殺しまくり、サディスト、マゾヒスト、殺人狂、まともな奴が一人も出てこない性と暴力の祭典。ちなみにタイトルページは描かないでいい、との事でどうするのかと思っていたら編集部が中のワンカットを拡大してタイトルページを創り、1ページぶんの原稿料をけちるというせこいやり方だった。けちるといえば、原稿の1/3にCMを入れる際、原稿料を1/3削った会社もあり。 ●1 9 7 6 ~ 後に発禁仲間となる高取英と出逢い、『長編コミック劇場』で「ウルフガイ」みたいのをやろうと、怒りに震えると黒豹に変身してしまう異常体質の主人公を設定し、獣姦のイメージで「性猟鬼」なるエロマンガをスタート!しかしその号で雑誌が潰れる。この路線は今でもいけそうな気がするがどんなものだろう。 この頃の珍品に「快楽痴態公園」がある。タイガースに11-0とワンサイドで打ちまくられ、怒ったジャイアンツファンのおっさんが公園でデート中の女をずこずこに犯りまくり、その間にジャイアンツは9回裏に12-11とゲームをひっくり返してしまうのである!その時のジャイアンツの監督はもちろんミスター長嶋、先発堀内、打者は柴田、土井、高田、王、張本等々がいる。タイガース監督は吉田、ピッチャー江本、キャッチャーフライを落球する田淵、そしてあの川藤もいる。解説は牧野…… ●1 9 7 7 ~ 上記2作品を含む初の単行本「肉の奴隷人形」が久保書店より発行。後にリングスの会場で逢った佐竹雅昭氏はこの本が一番好きとの事だった。 「闇の淫虐師」もこの年スタート。一話完結でバレリーナ、バトンガール等々、毎回いろんな女たちをダッチワイフのごとくいたぶりまくるフェチマンガとして1979年まで続け、単行本は「堕天使女王」「裂かれた花嫁」���エロスの狂宴」「陶酔への誘い」「終りなき闇の宴」の全5巻。ちなみに今年「闇の淫虐師’97」を『コミック・ピクシィ』にて発表。いつか『闇の淫虐師・ベスト選集』でも出したいところ。 [’98に実現、’99には続刊が出る] ●1 9 7 8 ~ 久保書店より第2弾の単行本「狂った微惑人形」。収録作品の「犯された白鳥」は持ち込み時代に描いた初のバレリーナもの。結構気に入っていた作品なのに、後年再録の際、印刷所の掃除のおばさんが捨ててしまい、この世にもはや存在しない不幸な子となる。[’99に宝島スピード・ブックに本より直接スキャンして収録] エロ、グロ、ナンセンスの会心作「恍惚下着専科」を発表。サン出版より同名の単行本発行。また同出版より「コミック・ペット/堕天使画集」として今までの作品を続々単行本化。全10巻位。これは今でも古本屋で流通しているとの事で、まだまだ世間様のお役にたっているらしい。 この年、「堕天使たちの狂宴」を描いていた『漫画エロジェニカ』が発禁処分、来年でもう20年目となる事だし、当時の人たちと集まってその大放談を収録し「発禁20周年特集号」でも創ってみようかと計画中。さて当時の秘話としてもう時効だろうから書いてみるけど、前述の『堕天使画集』に「堕天使たちの狂宴」は収録される事となり、当然修正をガンガン入れて出版されるものと覚悟していたら、米国から帰国後出来上がった本を見ると発禁になった状態のまま再録されている!以下桜木編集長との会話 ダ/いや~、いい度胸してますね。 編/だって修正してあるじゃない。 ダ/その修正状態で発禁になったんですよ 編/・・・・・ ダ/・・・・ 以下どんな会話が続いたのか失念…… それにしてもサドの「悪徳の栄え」の翻訳本は発禁後20年以上して復刻されたけれど、「堕天使たちの狂宴」は半年もしない内に単行本になっていたとはエロ本業界とは何といいかげんな世界!しかし作品そのものは、今見るとリメイクする気にもならないどうという事もない可愛い作品で、結局あれもあの時代の姑息な政治のひとかけらに過ぎなかったのだろう。いい点があるとしたら一つだけ、それまでのエロマンガになかった瞳パッチリの少女マンガ的ヒロインを登場させた事位か。今の美少女エロマンガは本家の少女マンガもかくや!という位眼が大きいが当時としては画期的だったかも。 ●1 9 7 9 ~ この年の「淫花蝶の舞踏」は「堕天使たちの狂宴」よりずっといい/『漫画ソフト』。今年出た「別冊宝島/日本一のマンガを探せ!」でベスト2000のマンガがセレクトされているが、ダー松の作品の中ではこの作品が選ばれている。教師と生徒、二人の女たちが様々な男たちの手によってに次々ともてあそばれ、闇の世界を転々として再び巡り会う時、女たちは蝶と化し水平線の彼方に飛び去り、男たちは殺し合い血の海の中で屍と化す。ダー松作品にはこのように男根が女陰の海に飲み込まれてに負けるパターンが多い。[性狩人、遊戯の森の妖精、美少女たちの宴、人魚のたわむれ・・等々] この年からスタートの「性狩人たち」シリーズ[劇画悦楽号]はバレエ、バイオレンス、SEXの三要素がうまくからみあい、それぞれが頂点まで達する幸福な神話的作品だ。ここから派生した路線も多く、美少年路線は’83の「聖少女黙示録」へ。身体障害者路線は’80の「遊戯の森の妖精」、’84からの「美姉妹肉煉獄」へと繋がる。’81の最終話「ハルマゲドンの戦い」ではせりふなしで24ページ全てが大殺戮シーンという回もあり、中でも一度やりたかった見開きで銃撃戦の擬音のみという事も実現。こんな事がエロマンガ誌で許される時代だった。ちなみにこの回は[OKコラルの決闘・100周年記念]だが、何の意味もない。単行本は最初サン出版より、その後久保書店より「白鳥の飛翔」「少女飼育篇」「ヘラクレスを撃て!」「眼球愛」「海の女神」の全5刊。現在入手出来るのは後の3刊のみ。[「海の女神」も最近在庫切れ] この年出た「人魚のたわむれ」の表題作は性器に{たこ}を挿入するカットを見た編集長が「・・・[沈黙]・・・頭おかしいんじゃ・・ブツブツ・・気違い・・・ブツブツ・・・」と呆れてつぶやいていたのを記憶している。たこソーニューは今年出た「夜顔武闘伝」で久しぶりに再現。なおこの作品は’83にマンガと実写を噛み合せたビデオの珍品となる。水中スローモーションファックがなかなかよい。 ●1 9 8 0 ~ なぜか「JUNE」の増刊として作品集「美少女たちの宴」がサン出版より出版され、その短編集をもとに脚本化し日活で映画が創られる事となる。[「花の応援団」を当てたこの映画の企画者・成田氏は日活退社後「桜の園」等を創る。]その際、初めて映画撮影所を見学し、せこいセットがスクリーン上ではきちんとした絵になってるのを見て映画のマジックに感心。タイトルはなぜか「性狩人」で、’96にビデオ化された。監督・池田敏春のデビュー第2作となり現在までコンスタントに作品を発表しているが、出来のいい作品も多いのになぜか代表作がない。初期の「人魚伝説」が一番いいか。 この映画に合わせて「美少女たちの宴」を2~3回のつもりで「漫画ラブラブ」で描き出すがどんどん話がふくらみ、おまけに描いてる出版社が潰れたり、雑誌が潰れたりで雑誌を転々とし条例による警告の嵐がきた「漫画大飯店」を経て、「漫画ハンター」誌上で完結したのは’83になる。この作品でクリトリスを手術してペニスのように巨大化させるという人体改造ものを初めて描く。 この年の「遊戯の森の妖精」は身体障害者いじめ鬼畜路線の第2弾!森の中の別荘に乱入したろくでなしの二人組が精薄の少女の両親達を虐殺し���暴行の限りをつくすむちゃくちゃな作品で、雷鳴の中、少女の性器に男達のペニスが2本同時に挿入されるシーンは圧巻!しかしこのとんでもない男達も少女の性のエネルギーに飲み込まれ、朽ち果てていく・・・。 ●1 9 8 1 ~ 美少女マンガ誌のはしり「レモン・ピープル」誌創刊。そこで描いたのが「白鳥の湖」。虚構の世界のヒロインを犯すというコンセプトは、アニメやゲームのヒロインをずこずこにするという今の同人誌のコンセプトと同じかも。バレエ「白鳥の湖」において悪魔に捕われたオデット姫が白鳥の姿に変えられる前に何にもされてない筈がないというモチーフにより生まれたこの作品は、悪魔に男根を植えつけられたヒロインが命じられるままに次々と妖精を犯して歩き悪魔の娘となるまでを描くが、あまり成功したとは言えない。ただ人形サイズの妖精をしゃぶりまくり淫核で犯すアイデアは他に「少女破壊幻想」で一回やっただけなのでそろそろもう一度やってみたいところ。「ダーティ松本の白雪姫」はその逆をいき、犯す方を小さくした作品で7人の小人が白雪姫の性器の中にはいり、しゃぶったり、処女膜を食べたり、と乱暴狼藉![ちなみに両者をでかくしたのが同人誌「FUCK YOU!3」の「ゴジラVSジュピター」]この童話シリーズは意外と好評で続いて「ダーティ松本の赤い靴」を上記の単行本に描き下ろして収録。童話は結構残酷なものが多く、この作品も切られた足だけが荒野を踊りながら去って行くラストは原作通り。 *近年童話ブームだがこの頃もっと描いておけば「こんなに危ない童話」として刊行出来たのにとくやまれる。 「2001年快楽の旅」もこの本に収録。快楽マシーンを逆にレイプしてしまう、珍しく映画「2001年宇宙の旅」風のSF作品。 掲載誌を決めずに出来る限り多くのマンガ誌で描こうというコンセプトで始めたのがこの年スタートした「怪人サドラン博士」シリーズ。「不死蝶」シリーズや「美少女たちの宴」シリーズの中にも乱入し、「漫画ハンター」最終号では地球をぶっ壊して[その際地球は絶頂の喘ぎ声をあげ昇天する!]他の惑星へ行ってしまう。今のところ10誌位に登場。いつかこのサドラン・シリーズだけ集めて単行本化したいところ。ちなみに「サド」と「乱歩」を足して「サドラン博士」と命名。作者の分身と言っていい。 [後年、「魔界の怪人」として全作品を収録して刊行、04年現在品切れ中] この年描いて’82の単行本『妖精たちの宴』に収録の「とけていく・・」はレズの女たちが愛戯の果てに、肉体が溶けて一匹の軟体動物と化す、タイトルも内容も奇妙な作品。作者の頭もとけていた? ●1 9 8 2 ~ 1 9 8 3 ’83年に「美少女たちの宴」が完結。全てが無に帰すラストのページは真っ白のままで、このページの原稿料はいりません、と言ったにもかかわらず払ってくれた久保書店、偉い![明文社やCM頁の稿料を削った出版社=某少年画報社なら払わなかっただろうな……と思われる……]この作品以外は短編が多く、加速度をつけてのっていく描き方が得意のダー松としてはのりの悪い時期に突入。また10年近く走ってきてだれてきた頃でもあり第一次落ち込み期と言っていい。マンガがスタンプを押すように描けないものか、などとふとどきな考えまで湧いてくる。思えば一本の作品には、いったい何本の線を引いて出来上がっているものなのか。数えた馬鹿はいないだろうが数千本は引いている筈。一ヵ月に何万本とペンで線を引く日々・・うんざりする筈です。 この頃のめぼしい短編をいくつか書くと、少女マンガ家の家に税務調査にきた税務署員が過小申告をネタにねちねちいたぶるが、アシスタントに発見された署員は撲殺される。そして板橋税務署は焼き討ちにあう、といった作品「[タイトル失念]xx税務調査」。[後日読者よりこのタイトルを「色欲ダニ野郎」と教えていただく。ひどいタイトル *編集者のつけるタイトルはその人のセンスが実によくわかる。しかしサイテ-の題だなこりゃ…。 果てるまで「おまんこして!」と言わせながら処女をやりまくる「美処女/犯す!」はラスト、狂った少女が歩行者天国の通行人を撃ちまくり血の海にする。「嬲る!」はパンチドランカーとなった矢吹ジョーが白木葉子をサンドバッグに縛りつけ、殴って、殴って、殴りまくる。段平おっちゃんの最後のセリフ「・・ブスブスくすぶっちゃいるが・・・」「打てッ!打つんだ!ジョー!」「お前はまだ燃えつきちゃいねえ!」とはエロ・ドランカーの自分自身に向けて発した言葉だったのかも。トビー・フーパーばりの「淫魔のはらわた」は電気ドリルでアナルを広げてのファック!とどめにチェーンソーで尻を切断!いまだに単行本に収録出来ず。[’98の「絶頂伝説」にやっと収録]「からみあい」は夫の愛人の性器を噛みちぎる。「危険な関係」はアルコール浣腸をして火をつけ尻から火を吹かせる。この手は『FUCK YOU!2』の「セーラー・ハルマゲドン」で復元。そういえばこの作品の序章と終章だけ描いて、間の100章位をとばすやりかたはこの頃の「禁断の性獣」より。女性器にとりつき、男性器に変身するエイリアンの侵略により地球は女性器を失い滅亡する、といったストーリーで当時聞いた話では谷山浩子のD.J.でこの作品がリスナーの投書でとりあげられ、ダー松の名はダーティ・杉本と読まれたそうな。ヒロインの少女がひろ子という名前なのでこのハガキが選ばれたのかもしれないが、作者は薬師丸ひろ子からとったつもりだったのだが・・。[別にファンではない。] 「女教師狩り」は映画館で観客に犯される女教師とスクリーン上の同名のエロ映画の二本が同時進行し、一本で二本分楽しめるお得な作品。 ’83は’80に「漫画エロス」にて描いた「エロスの乱反射」の最終回の原稿が紛失したため単行本が出せないでいたのを、またまた「仏の久保さん」に頼んでラスト近くをふくらませて「漫画ハンター」に3回程描かせてもらい、やっと’85に出版。見られる事に快感を覚えるファッション・モデルが調教される内に、次第に露出狂となっていき、街中で突然裸になって交通事故を起こさせたり、最後はビルの屋上でストリップショー。そしてカメラのフラッシュの中に飛び降りていき、ラスト1ページはその性器のアップでエンド! 本格美少年・ゲイ・マンガ「聖少女黙示録」も’83。レズの姉たちの手によって女装に目覚めた少年がホモのダンサーたちに縛られなぶられ初のポコチンこすり合いの射精シーン。そして性転換して女となった主いるが、その中の’84の「白い肌の湖」はタイトルで解る通りのバレリーナものだがポコチンを焼かれた男が、一緒に暮ら人公が手術で男になった少女と暮らすハッピーエンド。この作品は単行本「美少女ハンター」に収録されてす二人の女と一人の男に復讐するエンディングがすごい!まず男の性器を切り取り、片方の女の性器にねじ込んだあと、その女の性器ごとえぐり取る。そしてその二つの性器をつかんだまま、もう一人の女の性器にフィストファック!のあげく、その二つの性器を入れたままの女性器をナイフでまた切って、ほとんどビックマック状態でまだヒクヒクうごめく血まみれの三つの性器を握りしめるとんでもない終り方!全くダー松はこんな事ばかりやっていたのかとあきれかえる。もう鬼畜としか言い様がない!しかし「ウィンナー」を二枚の「ハム」で包むなんて・���GOODなアイデアだ、又やってみよう。 ●1 9 8 4 ~ 「漫画ハンター」で「闇の宴」前後篇を描き、後日これをビデオ化。雪に包まれた六本木のスタジオで痔に苦しみながらの撮影。特別出演として中島史雄氏が絶妙の指使い、東デの学生時代の萩原一至が二役、取材に来たJITAN氏もスタジオに入ってきた瞬間、即出演で生玉子1000個の海で大乱交。カメラマンが凝り性で照明が気に入るまでカメラを廻さず、たった二日の撮影はやりたい事の半分も出来ず。撮影が終ると痔はすぐに完治。どうもプレッシャーからくる神経性だったみたいでこれに懲りてビデオは一本のみ。 この年の「肉の漂流」は親子丼もので、近所の書店のオヤジからこの本はよく売れたと聞いたが、一時よく描いたこのパターンは最近では「FUCK YOU!3」の「母娘シャワー」のみ。熟女と少女の両方が描けるところが利点。「血の舞踏」は久しぶりの吸血鬼もの。股間を針で刺し、噛んで血を吸うシーン等々いい場面はあるが、うまくストーリーが転がらず3回で止める。短編「果てるまで・・」は核戦争後のシェルターの中で、父が娘とタイトル通り果てるまでやりまくる話。被爆していた父が死んだ後、娘はSEXの相手を捜して黒い雨の中をさまよう。 またリサ・ライオンの写真集を見て筋肉美に目覚め、マッチョ女ものをこの頃から描き出す。しかしなかなか筋肉をエロティックに描くのは難しい。 ●1 9 8 5 ~ くたびれ果ててすっかりダレてきたこの頃、8年間働いてくれたアシスタント女史に代わってパワーのかたまり萩原一至、鶴田洋久等が東京デザイナー学院卒業後加わってダーティ・マーケットも第2期に突入!新旧取り混ぜておもしろいマンガをいろいろ教えて貰って読みまくる。「バリバリ伝説」「ビーバップハイスクール」「ペリカンロード」「めぞん一刻」「わたしは真悟」「Be Free!」「緑山高校」「日出処の天子」「吉祥天女」「純情クレイジー・フルーツ」「アクター」「北斗の拳」「炎の転校生」「アイドルをさがせ」「綿の国星」「いつもポケットにショパン」「バツ&テリー」「六三四の剣」永井豪の絶頂期の作品「バイオレンス・ジャック」「凄之王」「デビルマン」等々100冊以上とても書ききれない位で、う~ん・・マンガってこんなにおもしろかったのか、と感動! そこで眠狂四郎を学園にほうり込んで、今まであまり描かなかった学園マンガをエロマンガに、というコンセプトで始めたのが「斬姦狂死郎」。「六三四の剣」ばりに単行本20巻を目指すものの、少年マンガのノリは今では当たり前だが、当時はまだエロマンガとして評価されず、ほんの少し時代が早すぎたかも。’86に中断、今年’97に「ホリディ・コミック」にて復活!果たしていつまで続けられるか? →後に「斬姦狂死郎・制服狩り」、「斬姦狂死郎・美教師狩り」として刊行完結 前年末から始めた「美姉妹肉煉獄」は身障者いじめの鬼畜路線。盲目の姉とその妹を調教して性風俗店等で働かせ、娼婦に堕していく不健全・不道徳な作品で、肉の快楽にひたっていく盲目の姉に対し妹も「春琴抄」の如く己の眼を突き、自らも暗黒の快楽の世界にはいり、快楽の光に目覚めるラスト。 また、これからは女王様物だ!となぜか突然ひらめき「筋肉女」シリーズの延長としてフィットネス・スタジオを舞台に「メタル・クイーン」シリーズも開始。これは単行本2冊分描いたが、連載途中でヒロインの髪型を歌手ステファニーのヘア・スタイルにチェンジしたり、レオタードもたっぷり描けてわりと気に入っている。 10年近く描いた「美蝶」先生シリーズもこの年スタート!こうしてみるとマンガを描く喜びに満ちた大充実の年だったかも。 ●1 9 8 6 ~ この年は前年からの連載ものがほとんどだが、「エレクト・ボーイ」は空中でファックするシーンが描いてみたくて始めた初の超能力エロマンガ。コメディ的要素がうまくいかず2回で止める。この路線は翌年の「堕天使輪舞」で開花。 「夜の彷徨人」は自分の育てた新体操選手が怪我で選手生命を失ったため、その女を馬肉のごとく娼婦として夜の世界に売り渡した主人公という設定。しかし腕を折られ、女にも逆に捨てられ、そして事故によってその女を失ったあげく不能となってしまう。失った快楽を取り戻すため無くした片腕にバイブレーターを取りつけ、夜の街をさすらい次々と女たちをレイプしていくというストーリー。がっちり設定したキャラだったのにまったく話がはずまず、男のポコチンは勃起しないままに作品も不発のまま終る。 「斬姦狂死郎」が不本意のまま終わったため学園エロス・シリーズは「放課後の媚娼女」へと引き継がれる。当時見ていた南野陽子のTV「スケバン刑事・」とS・レオーネの「ウエスタン」風に料理。ラストの「男といっしょじゃ歩けないんだ」のセリフは一番好きな映画、鈴木清順の「東京流れ者」からのもじり。単行本は最初司書房から出て、数年後ミリオン出版から再販、そして’97久保書店より再々販ながら結構売れて今年また再版。この作品は親を助けてくれる有難い孝行息子といったところ。 ●1 9 8 7 ~ さいとうプロOBで那珂川尚という名のマンガ家だった友人の津田が「漫画ダイナマイト」の編集者になっていて、実に久しぶりに同誌で「堕天使輪舞」を描く。超能力エロマンガの第2弾。今回はエロと超能力合戦とがうまくミックスされ一応成功といっていい。この路線は「エレクト・ボーイ」とこの作品、そして’96の「夜顔武闘伝」も含めてもいいかも。一時、この手の作品は数多くあったが最近はめったに見かけない。しかし、まだまだこの路線には鉱脈が眠っているとにらんでいるがどんなものだろう。 ●1 9 8 8 ~ 「放課後の媚娼女」に続いて抜かずの凶一無頼控え「放課後の熱い祭り」を2年がかりで描く。’89に完結し司書房より単行本化。そして今年’97に改定してめでたく完全版として復刊!この頃が一番劇画っぽい絵で、たった2~3人のスタッフでよくこれだけ描き込めたなと改めて感心!エロシーンがちょっと少なめながら中島史雄氏がダー松作品でこの作品が一番好き、とお褒めの言葉を頂戴する。 TVで三流アマゾネス映画を見ている内、むくむくとイメージがふくらみ、昔から描きたかった西部劇と時代劇がこれで描けると、この年スタートさせたのが「不死蝶伝説」なるアマゾネス路線。昔々青年誌の創世期にあのケン月影氏がマカロニ・ウエスタンを描いていたことを知る人は少ないだろう。俺もあの頃デビューしていたらウエスタンが描けたのに、と思う事もあったが、このシリーズでほんの少しだけその願望がかなう。 この頃、アシスタントやってくれてた格闘技マニアの鶴田洋久に誘われ、近所の空手道場通いの日々。若い頃修行のため新宿でやくざに喧嘩を売って歩いたという寺内師範は、もう鬼のような人で、行けば地獄が待っていると判っててなぜ行く?と不思議な位休まず通う。体育会系はマゾの世界と知る。組手は寸止めではなく顔面以外は当てて可だったので身体中打撲のあざだらけ、ビデオで研究したという鶴田の体重をかけたムエタイ式の蹴りをくらい、右手が饅頭のように腫れ上がる。先輩たちの組手の試合も蹴りがもろにはいってあばら骨が折れたりで、なぜこんなヘビーな事をする?と思うが、闘う事によって身体の奥から何か沸き上がってくるものがある。スリランカの元コマンドと組手をやった時、格闘家の気持ちが少しだけ判るようになった。 ●1 9 8 9 ~ ’94まで続く「美蝶」シリーズでこの年は『ノスフェラトウ篇』を描き、シリーズ中これが一番のお気に入り。同人誌の「王夢」はこれが原点。 短編では「悪夢の中へ」はスプラッタ・エロマンガで久しぶりにチェーンソゥでお尻のぶった切り!はらわた引きずり出し、人肉食いちぎり!顔面叩き割り等々でラストに「ホラービデオの規制をするバカは俺が許さん!」などと書いているので、この年が宮崎事件の年か?世間は彼が日野日出志・作のホラービデオ「ギニーピッグ」を見てあの犯罪をおかした、としてさんざんホラービデオの規制をやっといて、結局見てもいなかったとわかったあとは誰一人日野日出志氏にもホラービデオさんにも謝らす゛知らんぷり。残ったのは規制だけで、馬鹿のやる事には全く困ったもんである。先日の「酒鬼薔薇・14才」の時も犯罪おたくの心理学者が、「これはマンガやビデオの影響です。」などと相も変わらずたわけた寝言をぬかしていたが、馬鹿はいつまでたっても馬鹿のまま。少しは進歩しろよ!お前だよ、お前!短絡的で幼稚な坊や、小田晋!よぅく首を洗っとけ!コラ! 「獣人たちの儀式」は退学者や少年院送りになつた生徒、暴走族、ヤクザ達が集まって酒盛りしながら女教師たちをずこずこにしてOB会をひらく不健全作品。編集長が「また危ない作品を・・・」とこぼしたものだが、岡野さん、田舎で元気にお過しでしょうか。この頃の「漫画エロス」には「ケンペーくん」だとか「アリスのお茶会」だとかおもしろい作品が載っていたものです。「爆走遊戯」は伝説のストーカー・ろくでなしマンガ家の早見純が一番好きな作品と言ってくれたが、なぜ��かわからない。人の好みはいろいろです。以上3本は単行本「熱き唇の女神」に収録。 「ふしだらな女獣たち」はフェミニストの女二人が美少年をいじめる話。これは「氷の部屋の女」に収録。 ●1 9 9 0 ~ この年の「美蝶」シリーズは『ダンシング・クイーン篇』。マネキン工場跡でJ・ブラウンの「セックス・マシーン」にのせて5人プレイをするシーンや文化祭でのダンスシーン等々結構好きな場面多し。暗くて硬い作品が多いので、この「美蝶」シリーズは肩肘張らずに、かなり軽いノリでキャラクターの動きに任せて、ストーリーも、そして次のコマさえも先の事は何にも考えず、ほとんどアドリブで描いた時もある。 「不死蝶伝説」に続いてシリーズ第2弾「不死蝶」は2誌にまたがって2年位続ける。これも結構お気に入りの一遍。 ●1 9 9 1 ~ 1 9 9 3 「性狩人たち」の近未来版、といった感じの「夜戦士」は学園物が多くなったので、マグナム銃で脳天をぶっとばすようなものが又描きたくなって始めたミニシリーズ。全5話位。松文館より単行本「黒い夜と夢魔の闇」に収録。 この年から知り合いの編集者がレディス・コミックを始める人が多く、依頼されてどうしたものかと思ったが、エロなら何でもやってみよう精神と何か新しい世界が開けるかも、という事から’94位までやってみたものの結果的に不毛の時代に終わる。与えられた素材が体験告白物という事で、非現実的なものは描けないという事は得意技を封印して戦うようなもので苦戦を強いられ、これって内山亜紀氏がやまさき十三原作の人情話を描いたようなミス・マッチングで不発だったかな。今後、もしやることがあれば美少年SMのレディス・コミックのみ。そんな雑誌が出来れば、の話だが。 いくつかやったレディコミの編集の一人「アイリス」の鈴木さんは同じさいとうプロOBで、マンガ・アシスタント、マンガ家、マンガ誌の編集、そして今はマンガ学校の講師、とこれだけ多くのマンガに関わる仕事をしてきた人はあまりいないだろう。これでマンガ評論でもやれば全て制覇だが・・・。 この頃はいつもと同じ位の30~40本の作品を毎年描いていたが、レディコミは一本30~40枚とページが多く結構身体にガタがきた頃で、右手のひじが腱傷炎になり1年以上苦痛が続く。医者通いではさっぱり痛みがひかず、電気針で針灸治療を半年位続けてやっと完治。その後、住んでいたマンションの理事長を押しつけられ、マンション戦争の渦中に巻き込まれひどい目にあう。攻撃するのは楽だが、話をまとめるなどというのは社会生活不適格のダー松には大の苦手で「お前等!わがままばかり言うのはいいかげんにしろー!」と頭をカチ割りたくなるような事ばかりで、ひたすら我慢の日々で血圧がガンガン上がり、病院通いの日々。確実に寿命が5年は縮まる。あの時はマジで人に殺意を抱いたものだが、今でも金属バット持って押しかけて奴等の脳みそをクラッシュしたい気分になる時もある。いつかこの時の事をマンガにしようと思っていて、まだ誰も描いてない「マンション・マンガ」というジャンル、タイトルは「我が闘争」。え?誰も読みたくない? この間に出た単行本は「血を吸う夜」、「赤い月の化身」「熱き唇の女神」[以上・久保書店] /「牝猫の花園」「真夜中の人魚たち」[以上久保書店]、「美蝶/放課後篇」「美蝶/ダンシング・クイーン篇」「不死蝶/鋼鉄の女王篇・上巻」[以上ミリオン出版]。 ●1 9 9 4 ~ 1 9 9 5 ろくでもない事が続くのは厄払いをしなかったせいか、このままここにいたら頭がおかしくなる、と15年以上いたマンションから引っ越し。板橋から巣鴨へ移動し気分一新!以前からうちもやりましょうよ、と言われていた同人誌創りをそのうち、そのうちと伸ばしてきたものの遂に申し込んでしまい、創らざるをえなくなる。しかもそれが引っ越しの時期と重なってしまい大いに後悔する。しかしい��んな人にお願いして何とか一冊でっちあげ、ムシ風呂のような夏コミに初参加。これが運命の分岐点。レディコミもこの年で切り上げ、以下同人街道をまっしぐら。現在まで「FUCK OFF!」が9まで、「FUCK YOU!」が4まで計10+&冊創る。 ’95からダーティ松本の名前にも飽きてきたしJr,Sam名でも描き始める。 レディコミ時代は松本美蝶。あと2つ位違うペンネームも考案中。 この間の単行本「氷の部屋の女」「双子座の戯れ」[久保書店]、「黒い夜と夢魔の闇」[松文館]、「危険な女教師/美蝶」[ミリオン] ●1 9 9 6 ~ 美少女路線の絵柄もこの年の「夜顔武闘伝」あたりでほぼ完成、今後また少し変化させる予定。しかしこの作品は超能力、アマゾネス、忍法エロマンガとでも呼ぶべきか。「グラップラー刃牙」みたいに闘技場での勝ち抜き性武道合戦までいきたかったけれど、残念ながらたどり着けず。 「冬の堕天使」は久しぶりの吸血鬼もの。都営住宅で生活保護をうけている吸血鬼母子のイメージが浮かび、そこから漫画家協会・加藤芳郎を撃つ有害図書騒動のマンガへ。吸血鬼少年が光の世界との戦いに旅立つまでを描き、「闇に潜みし者」は時空を越えて近未来での戦い。その間を描く作品を今後創らなければ。 「FUCK CITY 2006」はクソ溜めと化した近未来のTOKYOを舞台に久しぶりにダーティ・バイオレンスが炸裂!ハード・エロ劇画と同人誌風・美少女路線の合体は果たしてうまくいったかどうか?30ページほど描き足して、’97、9月にフランス書院のコミック文庫にて発売。[「少女水中花」] 「放課後の媚娼女」と「人形愛」刊行。[いずれも久保書店刊]前者は以前、上下巻だったのを一冊にまとめて。後者は近作を集めた同人時代を経ての初単行本で、同人誌を知らなかった読者はショックを受ける。メタルフアンから以下のようなお手紙を受け取る。「これはジューダス・プリーストの『ターボ』だ。ラストの『眠れる森の少女』は『レックレス』にあたる。しかしジューダスもその後『ラム・イット・ダウン』や『ペイン・キラー』という傑作を世に出した事だし、今後を期待したい」という意のダー松のようなメタルファン以外は意味不明の激励をうける。 ●1 9 9 7 同人誌「エロス大百科シリーズ」スタート!いろんな項目別に年2刊づつ計100ページ位を別刊シリーズとして出し続ければ10年で1000ページになり、以前「谷岡ヤスジ1000ページ」という枕に最適の本があったが、これも一冊にまとめて枕にして寝れば、目覚める頃は3回夢精しているなんて事に・・・などとまだたった40ページの段階で言っても何の説得力もないか。飽きたら2~3号でSTOPするだろうし・・。[推測通り「毛剃り」「美少年SM」「女装」3号でストップ中]冬にはやおい系にも進出の予定。 今年出した単行本は厚くて濃いエロマンガを集めた久保書店MAXシリーズ第2弾!「放課後の熱い祭り/完全版」と「夜顔武闘伝」オークラ出版。ともに大幅描き足して25周年記念出版として刊行。ティーツー出版よりJr,Sam名で「昼下がりの少女」、9月にはフランス書院より「少女水中花」の文庫本が出る予定で現在、この同人誌と並行して描き足し中。「斬姦狂死郎」第2部も「ホリディ・COMIC」誌にて6月よりスタート!年内創刊予定の『腐肉クラブ』なる死体姦専門のマンガ誌にも執筆予定。 さてさて25年間、旅行の時を除いて、現在まで2日続けてマンガを描かなかった事はほとんどない。これはその昔、伊東元気氏というマンガ家とお会いしたとき「今月何ページ描いた?」との問いに、「今月仕事ないんでぜんぜん描いてません」と答えたら、「そんな事じゃ駄目だ。仕事があろうがなかろうが、毎月100頁は描かなきゃ。」と言われ、以後その教えを守り[描けるページ数は減ったが]、マンガは仕事ではなくなり、朝起きたら顔を洗うのと同じで生活そのものとなり現在に至る。 今は何でも描けそうなハイな状態で、以前はたまには外出しないと煮詰まってしまうので週いち位ガス抜きをしていたものだが、最近はせいぜい月いち休めば十分の「純エロマンガ体」。[純粋にエロマンガを描くためだけの肉体、の意。ダー松の造語] こうしてふり返ると、この路線はまだえぐり足りない、これはあと数回描くべし、なぜこれを一度しか描かない!等々、残り時間にやるべき事、やりたい事の何と多い事! 爆裂昇天のその日まで・・・ 燃 え よ ペ ン ! なお続きは 1997年後期 1998年 INDEX
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。それには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」
なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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20200608
御坂黒岳登拝(黒岳・破風山・中藤山・不逢山・大石峠)

地元の黒岳に登った。
御坂峠、黒岳、すずらん峠、破風山(はふさん)、新道峠、中藤山(なかっとうさん)、不逢山(あわずやま)、大石峠という河口湖北岸の山々を東から西へぐるっと巡るコース。







センチコガネの鮮やかな色は色素ではなく構造色という微細構造と光による発色現象である。宝石のように美しい虫だが動物の糞や腐肉を食べて���きている。
古代エジプトにおいては同じ糞虫の仲間であるスカラベ(フンコロガシ)が糞を丸めて作った球体は太陽に見立てられ、それを転がすスカラベは太陽の運行を司る神、太陽神ケプリと同一視され神聖な昆虫とされた。太陽と同じく復活と再生の象徴である。
このスカラベにはユングのシンクロニシティーの逸話がある。
心理学者のC.G.ユングはある女性患者を診察していた。その女性の心は合理主義に凝り固まっており対話による治療は困難を極めた。ある日の診察で女性は昨晩見知らぬ男性から黄金のスカラベを象った宝飾品を渡される夢を見たと話した。
すると突然暗い部屋の窓をコツコツと叩く音が���こえユングが窓を開けると一匹の甲虫が飛び込んできた。ユングはその虫を空中で捕まえると彼女に見せた。それはスカラバエイデという彼女が夢で見たスカラベによく似た緑色に輝くコガネムシだった。ユングは「これはあなたのスカラベですよ」と言いコガネムシを女性に手渡した。この出来事により女性の頑な合理主義的態度に穴が開き治療は満足すべき結果をもたらしたという。スカラベは復活・再生という象徴の意味通りの役目を果たしたのだ。
意味のある偶然の一致、いわゆるシンクロニシティーによって夢(内界)と現実(外界)が同期する、言わば内外が統合されることで状況が改善へと導かれるという話。ユングは夢を記述し夢の領域を知覚することでシンクロニシティが起るとも言っている(確か言ってた)。
私は割にシンクロニシティーや妙な偶然に遭遇する方だと思うのだが特に状況が変わるでもないしそこに意味も答えも、何らかの法則性も見い出せないので起きた出来事にただ目を回すばかりである。
以前横尾忠則氏の本を読んでる最中に切らした煙草を買いに近所のコンビニ行ったら横尾忠則氏と糸井重里氏にバッタリ遭遇した話をこのブログでも書いた気がするが、他にもアナログフィッシュというバンドの「最近のぼくら」というアルバムにはまって聞き込んでる時期(2014年頃)に、車でいつものように曲を聞きながらホームセンターに行き、直前まで聞いていた曲の余韻のままに鼻歌まじりで駐車場を歩いていると目の前を横切った軽自動車が妙に気になってというか確信に近い予感があり、その車が止まるまで目で追い運転席に目をやるとアナログフィッシュのボーカルの下岡氏だったことがある。
あれは一体なんだったんだろう?つうかこんなもんほぼ虚言だろう。でも本当のことなのである。現実の嘘臭さとあの予感や直感把握の感覚の気味の悪さ。この頃から目の前の現実に対して若干乖離気味というか現実感がどこか希薄で、それゆえ登山のようなフィジカルな行為を求めていった気がする。
死ぬまでに何か謎が解けるのかな?その神秘をただ味わうしかないのか。
というか何でこんな話を書いてんだっけ?
コガネムシか。
話が随分と長くなりました。

ブナ

黒岳山頂南側の露岩からの不二。黄砂が飛来しているのかもやもや。
今年は富士山を閉山するらしいが、思えば去年辺りから台風で石垣が崩れ山開きが遅れたりニコ生主の滑落死や落石で外国人が亡くなったりと、人と場の気のズレというような微妙な感覚はあったから後から考えてもやっぱりなあという感じはする。


フデリンドウ



2020年になって初登山だったが、去年は12月に甥と金峰山や三つ峠に登ったりして山納めが遅かったからか久しぶりという感じも体力的な問題も感じなかった。稜線歩きで体力を使わなかったというのもあるのだろう。
途中五人程の登山者とすれ違う。時節柄か皆一様にどこから来たかなど深くを聞かないし言わない。頂上で朗らかな老夫婦と昼食を共にしたが、仲睦まじくて微笑ましかった。私にもあんな可愛い人生の可能性もあったのかしらと噛み締めながら独り山道を歩く。
山に登ってやっと寝てた身体が起きた感じだ。登山した次の日から一日の体感時間が妙に長い。
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2020年3月26日(木)

SOU・SOUから「卯月号」が届く、伊勢木綿手ぬぐいと足袋下2足、今月のテーマは「ぞう」。をを、足袋下が「くるぶし丈」にかわっている。ちょっとした違いではあるが、普通丈に比べて足下が軽く感じられるのだ。明日のお出かけに、早速履いていこう。
息子たちは休み。
プラゴミ45L*1。
阪急桂駅から快速急行乗車、少し早い時間帯ではあるが座ることが出来た。
内田樹先生から、山崎雅弘さんの竹田恒泰氏からの裁判費用 寄付受付フォームが完成したとのメール。早速、募金する。
国立劇場チケットセンターからメール
新型コロナウイルス感染症対策に係る政府等の要請を受け、日本芸術文化振興会では、3月末まで主催公演等の中止を決定しておりましたが、なお慎重な対応が求められている状況に鑑み、引き続き感染症拡大のリスクを低減するために、4月12日(大阪 国立文楽劇場は14日)まで中止期間を延長することといたしました。中止となったステージのチケット代金は払戻しいたします。
やれやれ、文楽もなくなってしまった。
露の新治さんから電話、3/30の露の五郎兵衛一門会中止とのこと、こちらも残念。
IM嬢来室、午後に会議が入ったので早めに始めることにする。
今日の落語は桂米朝「替わり目」、私が最も好きな噺。酔っ払いと人力車夫、口うるさいが良き理解者である妻、流しのうどん屋、それぞれに愛すべきキャラクターが展開する市井の日常。とは言え、「ほたら(大阪弁)「左官(しゃかん)」「水屋」など若い女性と私とのギャップもくっきりと浮上、学ぶこと多し。

今日のランチはおにぎり2個、左が辛子明太子、右が梅干し。
後半は映画、今日は「山のトムさん」
東京で暮らしていたハナ(小林聡美)は、友人のトキ(市川実日子)、トキの子どもトシ(佐々木春樺)と、慣れない田舎での生活を始めます。そこに中学を卒業したばかりのハナの甥アキラ(伊東清矢)が加わり、4人の新しい家族の暮らしが始まります。近くに住み、何かと相談に乗ってくれるゲン(光石研)とシオリ(高橋ひとみ)の夫婦に助けられながら、少しずつ慣れていく畑仕事の毎日が続きます。そんな中、ネズミ退治の目的で飼われた新しい家族、猫のトムがやって来ます。やんちゃな猫トムに、少しだけ振り回されながらも、人間と動物たちが、やがては楽しく共生していく、そんな田舎暮らしのお話です。(C)2015 WOWOW INC. 監督 上田音 主演 小林聡美, 市川実日子, 光石研
(amazonサイトより)
田舎暮らしを支えるものは地元サポーターと経済的裏付け、無理の無い脚本で楽しめた。
14時から第3回危機対策会議、新学期のスケジュールについての検討。他大学では4/20以降に授業開始日を遅らせる動きが顕著、本学はどうするか。ウィルスの権威であるS副学長の解説に信頼を置き、学年暦に変更を加えず通常のスタートを確認する。そのために必要な対策を具体的にチェック、換気・座席・手洗い、キーボードの消毒など。同席したS先生に挨拶、図書館長の引き継ぎについて相談。
終了後、図書館で会議内容を報告、図書館としての対応について検討を依頼する。館長デスクのPCに久しぶりに電源を入れる、Windows10の更新が多くて閉口、自分で入れたプログラムをアンインストール。
帰路のバスを西大路七条で下車、ライフで買い物。
iPadOS 13.4にバージョンアップ。

息子たちの夕飯、目玉焼きとソーセージ、具沢山納豆汁。

ツレアイ帰宅、割引のスルメイカ・ホタルイカで乾杯。
録画番組視聴。
【痛快娯楽!新感覚時代劇】スローな武士にしてくれ~京都 撮影所ラプソディー
あの池田屋階段落ちのシーンが最先端の映像技術で華麗によみがえる!新選組を描いた時代劇舞台裏の人間模様。涙あり、笑いあり、チャンバラありの痛快娯楽超大作ドラマ! 詳細水しぶき一滴まで鮮明に写るスーパースロー!屈強な身体を要するマシンで撮る壮絶チャンバラ!ワイヤーアクションで宙を舞う池田屋階段落ち!かつて人々を熱狂させた活劇が、最新技術で前代未聞の映像としてよみがえる。舞台は京都の撮影所。NHKからの依頼で時代劇を撮ることになるが、主役に抜擢されたのはしがない大部屋俳優(内野聖陽)。撮影はハイテクとは無縁の高齢スタッフたち。次々と過酷なアクションシーンに挑む! 出演者ほか【作】源孝志,【出演】内野聖陽,柄本佑,中村獅童,水野美紀,藤本隆宏,モロ師岡,深水元基,大高洋夫,伊勢志摩,古河耕史,楠見薫,中川晴樹,たかはしあいこ,石垣佑磨,峰蘭太郎,福本清三,浜田晃,佐川満男,本田博太郎,伊武雅刀,石橋蓮司,里見浩太朗
いやぁ、面白い。けど、以前放送されたのを観ているのだが、なぜか「再放送」とは表示されていない。
入浴。
就寝前読書は『めぞん一刻③』、気がつけば夢の中へ。
授業が始まれば、学内移動あわせて12,000歩/日が達成出来るはず。
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ところが、そんなことは二年も三年も続かない。そのうちに、大きな大きなタイヘンな仲間たちの死に直結するような事件が勃発する。事故のような事件かもしれない。ところが、その事件を糊塗するために、さらなるウソと不和とがまき撒き散らされる、ついには不義・・・無仁義と言えるような状況に立ち至る。
ここまでくると、気が付かなかったスタッフたちも、巻き込まれ過ぎ、余裕がなくなりすぎ、状況と事件によっては『鬱的な神経症』みたいになってくるスタッフたちも出てくる。ますます、オモタい病者たちに支援の手が届かなくなり、再入院者や病状を崩すなかまたちが増えてくる。そいつは、我関せずのように何も感じていないかのように、自分のことだけを進めようとする。さすがに、ここら辺でみんなが気づく、なかまたちにとっては、そいつがジブンだけがエラく為ったり、学者や活動家や何らかの名分を得るためだけに、そのためダケに利用されたんだと云うことに気が付いてくる。そして、本当に友達と言えるのかどうかわからなくなる。
そういえば、最初から、トモダチは要らなかったように思える言動ダッタと気付く。
裁判がやりたくて、弁護士が必要だっただけ。その法廷に傍聴人が必要だっただけ。何かの文章を発表するのに、有名な雑誌媒体が必要だっただけ。何かをやるための名分の御立派な組織が必要だっただけ。
学会の理事会や評議員になりたくて、その推薦してくれたり紹介してくれたりするスタッフが必要だっただけ。そう、だから、通所者のオモタい病者の友達は、ハナッからいなかったのだ。友達になる気はなかったのだ。
だから、よく考えてみると、自分にとって利用価値のある人間にだけ話をしていたはずである。そして、そう云うことがバレないように、上手く、立ち回らんがために、ウソや誹謗や中傷や不義や不和が必要だったのだ。だから、一見、良さそうに見えながら、非情な冷たさや冷酷さや、さらには、その場でヘゲモニーを握るために想像を絶するような汚いやり口のヘゲモニー争いのようなことが為されていたことに気付くのである。オモタい病者たちは、ただ単に利用されただけではない、バカにされ、否定され、虐められ続けられていたことに、やっと気付く。ところが、それに気付いたたときには、もはや遅い。ナニかの重大なジケンがおきてしまう。再入院者は出ている。死人も出ているかもしれない。そして、その場が実質上たまり場としての機能を失い、崩壊寸前であることに何人かは愕然とするであろう。その時に、恐怖を、想像を絶するような「こんなニンゲンもいたんだ」「いるんだ」という絶望と暗闇と後悔に苛まれることになる。
ところがこれでコトは終わらない。
この状況を改善して、再度やり直そうとしたときに、その動きを潰そうと、今度はなりふり構わず襲ってくるのである。
何故か、再度やり直そうとしたときに自然と、そいつのやり様ややり口を明らかにするところから出発せざるを得ないからである。だからなりふり構わず潰そうと躍起になる。ところが、それが再構築しようとする側にはなりふり構わずというように見えるのだけれども、実は、計算ずくのとてつもない冷徹な、例えば、第三者機関や適正化委員会やあるいは刑事法廷や民事法廷、さらには警察、そしてネット上のアカウント停止審査委員会や、市役所や県庁などを駆使した、しかも、その時には、何かの学会の役員などになっており、その学会も、あるいは、スタッフ側が何かの専門職の場合、その専門職能性の学会や協会の監査委員会や倫理委員会などの、ありとあらゆる権力機構を利用とするのである。そしてここまでくれば、これを外から見ている人達からは、まるで、そいつが『正義の改革活動家』のように見えたりもし、ということは逆に、その場をまるで掌中の珠のように、時間をかけてじっくりと育て上げてきた仲間たちとともに、重たい病者たちとともに、スタッフたちとともに、まるで自分の子どもの様に、自分の人生を賭けて守ろうとしている側が、打倒されなければならない悪の施設や専門職や作業所のように見えたりシテしまうのである。
これが、一つの典型例である。このような『無仁義なヤタラとヤカラ』な連中が、当事者として自分たちの名分として最大限利用しているのが、『ハッタツ障害』なのである。だから、『発達障害』に反対している。
だから、申し訳ないことながら、作業所患者自治会から『ハッタツ障害』のミナサンは出て行ってくれという言い方になってしまう。勿論、そういう人たちばかりでないことは分かっている。キーサンとして、十分分かっているつもりなのである。だから、そういう人たちは、分裂病圏や躁鬱病圏のなかま達に配慮してくれるなら、一緒にやって行こうと言いたいのである。
だから、だからこそ、上記のような『無仁義アクジ犯』があまりにも当事者として『ハッタツ障害』を名分とするので、『発達障害』に反対せざるを得ないのである。しかもさらに言えば、この点に関しては、また別項で書かなければならないのだけれども、書くつもりなのだけれども、さらに言えば、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものが、上記のような『無仁義アクジ犯』を良いものだとするような方向性を打ち出しているのだと想う。だから、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものが、『無仁義アクジ犯』たちを力づけ、勇気づけ、再復活を遂げさせていると想う。「再」と書いたのは、ムカシから、こういうヒトたちはいたからである。いたが、パシーーン���と「ええ加減にせなあかんぞ。このマンマなら出て行け!」と言えたのである。もちろん、みんなで話し合いを重ねた上でのことではあるのだが、、、それが言えなくなったのは、まさしく、この『所謂言うトコロの発達障害』概念そのものの持つ恐ろしいところであり、「再」と書いた所以である。そう、『所謂言うトコロの発達障害』概念に胡坐をかき、『我々も障害当事者だ』と云うワケなのだ。
だから、そう、これらの無仁義な行動を『所謂言うトコロの発達障害』概念が正当化してしまうのである。その最初の第一歩が、「コミュニケーションに障害があるので、人の話は聞きません」「人のことは知りません」「人の気持ちなんて理解しなくてもいいんです」「自分だけに支援者が付けばいいです」「好きなことだけします」「能力があるので、その能力を花開かせたいです」「そのためのサポートチームが要ります」「その上で、責任はとりません」「しかも、友人はいりません」「人と付き合いません」「でも、自分にとって必要な人は、いります」「挨拶もしません」「年長者も病気のオモタイ人も、弱い人も、関係ありません」「これが何で嘘なんですか?」「嘘だという証明をしてください」「こちらは、学者が学問が第三者委員会が裁判所が学会が、正当だと認めています」「間違いだと言うのなら、そちらが証明してください」「最後に、これが正義だ、と言わせてもらいます」「こうやるのは、これが正義だからです」「間違っているのはそちらだ」と云うカタチで、『所謂言うトコロの発達障害』概念に胡坐をかいて、好き放題、不和をバラまき、ウソをつき、どうも自分だけは右肩上がりの人生が歩めると思っているのが、そのためなら、ナンでも利用するものは利用すると云うのが『無仁義アクジ犯』の『ハッタツ障害者』なのである。ハッキリ言う。作業所患者自治会からは出て行ってほしい。来ないでほしい。それは、サロン自治会でも、デイケア自治会でも、一緒である。もう一層のこと、『無仁義アクジ犯』の『ハッタツ障害者』だけで会を作ってほしい。
ところがそうはならない。なんとならば、利用する相手がいないからである。
喰い物にする相手がいないからである。だから、我々はそいつらが利用できるような対象にならないことが、最大の防御策である。
つまり、『キチガイのキーサンのオモタい病者中心の潰れかかった、汚い、風呂も入らない、口の意地汚いキーサンばかりが集まって、どこからも相手にされていない』もんで、こいつらもう利用のしようがない、と云うのが最大の防御策である。ところがそうもいかない。ドウイウワケダカ、こいつらが利用したいような名分や、ナンなのか分からないが、こちらはトンと解らぬが、ナニかがあるらしく、利用しようとして来るのである。更には、今回、新しく『意識的に』、作業所内にデイケア内にサロン内に、精神病者自身の通所者自身の病者自身の患者自身の自治会を作ろう、と言い出したのである。
これが、もしかしたら『意識的な』精神病者運動としては、最初の動きかも知れない。上手く行かないこともあろうが、みんなで、掌中の珠のように信頼関係を構築し合って、ナントカナントか、もし上手く行きかけたら、それこそ、利用するにもってこいの名分となるだろう。いや、来るのは確実なのであろう。まさに『利用するために来る』のである。
精神病患者会前進友の会やすらぎの里作業所
あくまでキーサン革命の鬼えばっち 江端一起
えばっちのホームページ 乾坤一擲
http://ebacchihomepage.dousetsu.com/index.html
えばっちのはてなブログ
https://ebacciblog.hatenablog.com/
えばっちのタンブラー
https://kisanebacci.tumblr.com/
前進友の会やすらぎの里のホームページ
http://yuinoumi.web.fc2.com/zenshin-index.html
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(た��し、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 5月29日(土) #先負(丁丑) 旧暦 4/18 月齢 17.3 年始から149日目(閏年では150日目)にあたり、年末まではあと216日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に行き💪夜を感謝に眠ろう😪💤 夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦 睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 23週目の5月最後の週末になりますね✋今日明日月曜で 5月も終わりですが「早いですなぁ~💦」今日で一年の 約4割を消化してしまうんですけどドンドン月日が経つの が早く感じてしまい心細くなる気がしませんか😅💦 . もうグループエクササイズなんてやらんだろうなぁ~ってGGに 移って思ってたのですが都内で唯一だろうか?レスミルズ のレッスンを受けられる店舗が国立にあったのは知ってた が遠いと思うし行かないだろうなぁ~って思ってた😅💦 . 新コロレジスタンスの同士の誘いで乗っかって遂に行く事に 決心✋行くなら早目にと思い定時で上がって向かうが やっぱり遠いし車の渋滞が半端じ��ない😅💦単車なの で、そうにかすり抜けて来ましたが小一時間も↴↴↴ . 国立なんて訪れるの多分ですが10年どころじゃないw どんな町だったかも記憶にないぐらい忘れてしまって 居るんだが、とにかく田舎で何もない所だった様な? しかし、今じゃ凄いビルやらマンションもステーションが凄い👀 . でっGGですが小奇麗にしてるしお風呂もサウナもあって マシンも一通りあるしスタジオも2個もあって池袋みたいに ドデカクイはないが20人ぐらいでするなら丁度良いと💕 なかなかここはお気に入りになりましたね✋ . それで昨日は久々にアタックなんですが60分のレギュラーは 1年以上もしてないし大好きなランニングトラックも超久々 とりあえず体力はマダマダ衰えてないのが確認できて 良かったです✋ラストスパート金曜日の第四コーナー決まりデス . 今日一日どなた様も💁♂お体ご自愛なさって❤️ お過ごし下さいませ🙋♂ モウ!頑張るしか✋はない!ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #横浜大空襲(#日本本土空襲). 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心地域に対して行われた無差別爆撃である。 B-29爆撃機517機・P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃で、約8千から1万人の死者を出した。 . #幸福の日. 世界の人々が幸せに平穏に暮らせることを祈って「幸福の日」を制定したのは、インターネットなどでグリーティングカード、慶弔関連ギフトなどを販売している株式会社ヒューモニーの長谷川博之氏。 「幸せになりたい」「幸せにしたい」メッセージの公募などを行う。 . #エベレスト登頂記念日. . #シリアルの日. . #胡麻祥酎の日. . #エスニックの日. . #こんにゃくの日. . #呉服の日. . #白櫻忌/晶子忌. . #Piknikの日 (毎月29日). . #ふくの日 (毎月29日). . #クレープの日(9の付く日). . #国連平和維持要員の日(#国際デー). . #ナイジェリア民主化の日. . . ■今日のつぶやき■. #一時違えば三里の遅れ(ヒトトキチガエバサンリノオクレ) 【解説】 一時でもぐずぐずしていて進まないと、たちまち旅程が三里遅れると云う事。 少しぐらいと思って油断すると大きな差がついてしまうと云う事。 . . 1942年(昭和17年)5月29日 #北野大 (#きたのまさる) 【化学者、タレント、コメンテーター】 〔東京都足立区〕 . . (牧野記念庭園) https://www.instagram.com/p/CPb7oxuHtKJIf4ADbMkLjiCVKdEPHYTC2Cl6bs0/?utm_medium=tumblr
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