#夏めくエゴ
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6月の雨
青白くなっていく部屋を眺める
傷つけ合える時期がもう終わったことを
���知のならなくなった携帯で知る
許されたくても
許すことは出来ないまま
誰かを無条件に愛してしまえる性を
叱って欲しいと思ったエゴは
もうここにはない
わざと嫌われるようなことを
たくさん繰り返した
あの日から歪んだ時計の針を見つめてる
意味の無い時間だって
それくらいわかってる
ほんとならこんなはずじゃなかった
とか言って
憎む理由とか泣く理由を
今でも探してる
ただひたすらに消えたくて
でもまだ死ねないならいっそ
海の中沈んで
揺らめきを見上げる砂になりたい
いつかの誰かの笑顔に届く
光になれたなら
夏の間だけでも
僕を透明にさせて
最初からいなかったみたいに
眠れない夜に溶かして
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20231103 文化の日、快晴
このところずっと天気がよい。あまりにも雨が降らないおかげであちこちカラカラである。今年の秋は台風がきていない。発生しても日本列島にまであがってこない。気温も連日25℃をこえている。 文化の日という祝日は、日本国憲法が公布された日である。古来は天長節、明治天皇の誕生日にあわせ、新暦のこの日と明治節と定めた。そして戦後においてわざわざこの日を日本国憲法の公布日としたのは、明治節を祝日として残したいという政府の思惑と、日本という国が戦争を放棄した平和国家に生まれかわる、というつよい願いの入り混じった結果である。 でもそういうことはあまり現代では知られておらず、何か文化的なことをして過ごす日、と漠然と認識されている。文化的な行いを為すには、世の平和によって担保される必要がある。現実において、殺し合い、破壊の応酬をおこなっているような地域では、そんな余裕は生まれない。理想と社会的な現実は大きくちがうのかもしれないが、それでも「理想」を思いうかべることのできる能力を人間は持っているのだから、それを追い求めることは可能である。 夫鳥俛而啄、仰而四顧。夫獣深居而簡出、懼物之為己害也。猶且不脱焉、弱之肉強之食。(韓愈・『送浮屠文暢師序』より) いわゆる「��肉強食」の出典とされる鳥や獣が捕食活動をするさまを描写したところだが、食物連鎖の一部をとりあげたもので、それは肯定も否定もされるようなことがらではない。生存競争という字句には勝者や敗者という価値判断を含まない。ルールを整備し、誰もが気持ちよく生きてゆけるようにつかえるだけの知能をもちながら、それをあえて見ないふりをしてゆくというのは、なんとももったいないことだと思う。 紅葉がいくらかすすみはじめた。京都の風景が、いちばん美しく映えるのは、この時期、これからという人は多い。春は霞み、夏は暑すぎる。冬は彩の多くを失う。秋がよい。 当然のことながら、観光客がふえてきた。海外からもたくさん来ているし、道路を走っているクルマも他府県ナンバーが目立つ。新聞には毎度のことながら観光公害を危惧する記事が週に一度は掲載される。市バスは観光スポットのみに停車する急行バス導入をきめ、巨大な手荷物持ち込み対策もすすめようとしている。京都駅からの乗合タクシー運用も試験的にはじまった。それでもあちこちで、いろいろと問題はでてくる。問題の根幹は、観光客がふえることで利益を得られる人と、迷惑をこうむる人が別々であるという点にある。地元以外の業者の進出も、コロナ禍をうけてさらにすすんだ。 実際のところ、海外から観光に訪れる大半の人たちのマナーはそんなに悪いものではない。たまに、文化的なちがいの何かが目だつだけである。(あとはサイズの問題)。ちゃんと説明して呼びかければ、ほとんどの場合は通じる。 そうやって文化的な交流がすすめば、先々の思わぬいさかいは減らせることができる。知らないから畏れる。敵対するよりも仲間となるほうが、はるかに生存にかけるコストは小さくすむ。場合によって統治者は、共通の敵を設定することによって生まれる集団の結束を利用し、統治コストを落としたいと願うことがあるが、それは統治者のエゴである。文化とは非権威主義的なものである。人が人を支配することに、根本的に抗議するものである。 文化の日に思う。
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2024.06.18
夏日の後、どっさり雨が降って
昨夜は冬に戻ったかの様な寒さ!
むちゃくちゃな気候です
前に、Cat ch.22に来た事がある
ボーカルをやってる子が、訪ねて来た
恐らく、模索してるんだろうけど
この尾道での環境、そして世の中的に
音楽、バンドムーブメントが下火な状況を考えたら
路頭に迷うわな(笑)
ワイが高校生の頃、どうやったら
この街から飛び出る様な活動、活躍、
プロミュージシャンになれるか?を模索してた
彼はまだ20歳
まだまだ先輩が沢山居る世代
吸収しまくりの世代だからこそ
この街にミュージックシーンが無いのは
砂漠を旅する様なもんだろうな
今回は自作の音源を聴いて欲しいと持って来た
人に聴かせる程の自信が無い…と言ってたな
オリジナル曲を作ってます!と言いつつ
人に聴かせる自信が無い作品は
オリジナルを作るレベルでは無いって事
今、世の中にある楽曲では
自分の事を表現、代弁、体現してくれないし
泣く、笑う、悲しむ…なんて感情を音で、曲で
表現すること行為が作曲、作詞、オリジナル曲に
辿り着くのが本来なのだから
彼の曲を聴いた。
作り方も分かってしまう。
図星だ。
例えるなら、コンビニ弁当買って来て
自宅のお皿に盛り付けて、はい!手料理作ったよ!
は、自分をよく見せたい彼女がやる事で
そこには、彼の為にって言う、愛情よりも
自分を良くみせたいエゴが優ってる訳
こちとら、コンビニ弁当マスターだから
おい…これ、ローソンの唐揚げ弁当やんけ!!
と、答えが分かってしまうと、一気に冷めてしまう
初めは模範から入ればいい。
コンビニ弁当の盛り付けを真似て
お皿に盛ればいいのよ。
でも、オリジナル!とか嘘言っちゃダメ。
そこから盛り付けのセンス学べばいいやん。
次はセブンイレブン、ファミリーマートの弁当買って
盛り付けの違いや普遍性を学べば良い
次は、取り出した 唐揚げを
フライパンで黒酢餡掛けにカット野菜でも
ぶち込んで炒めたら、八宝菜みたいになる
そうなると、コピーバンドから少し、
オリジナルバンドに近付くぢゃない
真似る事は基礎を学ぶ事。
マジョリティの中から逸脱して、
俺は違うんだ!マイノリティで、特別で、
才能あって、認められたいんだ!
は、先ず、作品を作ってから。
弁当容器変えたくらいで、オリジナル作りましたは
ちと虫が良すぎる
無知な人に聴かせる分には、
そもそも音楽に興味無いんだから
すごーい!と言われるかも知れないが
プロの料理人や、その唐揚げ弁当の開発者には
通用しないよ
聴かせる自信が無いのは、その執着が見えるから
過去や執着を乗り越えてから
初めて自信が持てるわけ。
聴かせて貰った、彼の自称オリジナル曲は
まだ絵コンテの段階。
やりたい事は分かった!
その曲で自然を表現したい!と言ったから
自然も、山なのか?海なのか?川なのか?
その季節は、夏なのか?冬なのか?
年代は、現代なのか?50年前なのか?
日本なのか?海外なのか?宇宙なのか?
コンセプト決めは、しっかりと!
落葉を表現するなら、その木々の種類まで!
あと10日で、この曲の
ブラッシュアップの宿題を出しました
かなりヒントはあげましたが(笑)
彼と同じ歳の頃
ワイはプロの現場で揉まれて、
けちょんけちょんに言われてた事
悔しくて泣いたし、実力も知識も無かった
あのブースからトークバックで返ってくる
デレクターの、
お前、才能無いんぢゃん!辞めちゃえよ!
声は、トラウマになってるわ(笑)
逆に、良いテイクだと、
お前!いいぢゃん!才能あんぢゃん!
と、言われた
飴と鞭?ツンデレ?
そこまでの感情や、ワイに対する思い入れは
感じなかったが、ビジネスとして
ちゃんと仕事してる現場だったな。
しかし、今は、あの経験がワイにとっては
大切だったし、好きだった音楽が嫌いになったし
プロの厳しさを知った瞬間だった。
やっぱ厳しく行かないとさ。
そういう意味で
自分で曲聴いて下さい!と門叩くだけ
彼は頑張ってる!偉いよ。
そこは、才能あんぢゃん!とデレクター風に。
そして、曲聴いて、才能無いんぢゃん!と
デレクター風に言ってあげといた。
これがワイが通ったみ道。
遠回りしても、脇道外れても
走ってりゃ、追いつくからな。必ず!
宿題提出が楽しみだな
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「答えは愛」
「で、質問は何でしたっけ?」
Dr. アリーナ・レセニヒによるインタビュー
ゲスト:サンユ
オリジナル動画:https://youtu.be/ZJSXAyWoPw8
【和訳】 ALAE PHOENICIS by Telegram
サンユとは
Dr.アリーナ・レセニヒが「サンユ」を紹介:
サンユは私にとってとても特別な人。4年半前に出会ってから、私の人生はとてつもなく変化し、良い意味でひっくり返りました。それ以来彼女と共に歩んでいます。あらゆるレベルでの学びがあり、それまでの人生では想像も出来なかったことを実行できるようになりました。今やれていることは以前はとても出来ませんでした。私はとても怖がりな人間だったからです。特別な時代に、流れに逆らって泳ぎ、自分の顔を公に晒して啓蒙活動をし、多くの逆風を受けて…それでもって、結構楽しくしていられるなんて…誰も信じなかったでしょう。きっと叫びながら逃げ去っていました。
そして、考えたこともなかったような新たな人生の基準も得ました。
人との付き合い方や、自己表現の仕方はとても自由になり、彼女のおかげで濃い喜びを感じるようになったことで、人生が良きように代わりました。
本日、私のスピリチュアルな師であり、愛する友人であるサンユが来てくれてとても嬉しいです。
アリーナ:こんにちは、チョコ・マウス(笑)
サンユ:こんにちは、愛すべき人(笑)
アリーナ:来てくれてありがとう。彼女には大方50回ぐらいお願いしたのよ、私の公開インタビューに来て「愛」と言うテーマについて語って欲しいって。だって、それがサンユ自身であり、サンユが人生で体現していることであり、彼女を構成するすべてを表現しているから。
彼女は常に断っていたのだけど、あるとき私は彼女が弱気になった瞬間を捉えたわけ。とっても嬉しいわ。でも、エンジェル、どうしてこんなに時間がかかったの?
サンユ:…愛とは、永遠から来ているもの。言語とは、限られたツール。ということは、何かを言葉にする度に、私は「これは完全ではない、何かが違う」と感じる。それは「大海を風呂桶に流��入れる」ような感覚がする。そして…(口ごもって)
サンユ:それに...言語は、「味」を伝えることが出来ない。もし、私が今、あなたの知らないインドの果物の味を教えたくて、「想像してみてね、噛み心地はデーツとバナナを合わせたような感じで、甘みはラズベリーとキウイとパイナップル、でもそれほどジューシーではない」って描写するとします。…どれぐらい時間が掛かる?
アリーナ:決して無理な話ね。
サンユ:もし、果物の味さえも伝えることが出来ないならば、「たったひとつの味」をどうやって伝えられる?
一方で、言語はガイドにもなる。あなたが「塀を作りたいのだけど、どうすればいい?」と尋ねてきたとすると、「石、次に粘土、石、粘土…これを積んでいけば?」って伝えて、何が起こるか見てみましょう、となる。ここで私がどう思うのかはどうでもいいの。あなたが私を信じようが信じまいが、どうでもいい。要は、あなたが「この体験」に心を開けるのかどうか。そして、単純にまる一日、石と粘土を交互に積み上げてみれば、出来上がったものと「塀」とに結びつきを見つけられるのかどうか、あなたが自分自身のために知ることができる。こうして、「言語」は道標にはなる。
そうやって、あなたは私が弱気になる瞬間を捉えたわけ。
アリーナ:なんて、素敵!
でも…「愛」とはあなたにとって何なの?「とても言葉には出来ない」っていっているのはわかったけれど、それでも言葉にしてみようとするならば、どのように描写する?どういう意味で言っている?
サンユ:私のいう「愛」とは、二人の人間がお互いに「愛している」といい、それと同時に「他の人は愛していない、もしくはより少なく愛情を感じている、もしくは別の種類の愛情である」ということを示唆するものではないわ。私が話そうとしている「愛」とは、そういうジャンルのものではなく…
アリーナ:でもそれが、殆どの人が「愛」だと思っていることでしょ?
サンユ:そう。その通り。
私の云う愛は、ある種の、深くて普遍的な真実で、それは私たちの心の器の底の方に眠っている。そして、一つ一つの心は、巨大なダイヤモンドの一側面であり、神聖さを映している。すべての側面(ファセット)は、その神聖さを自分なりに映し出し、その他のあらゆる心を同じように照らす。なぜなら、それらも「自分なりの神聖さ」を映し出しているから。
つまり、私の云う「深い愛」とは、ひとつには「創造物全体の中に在る意識はたったひとつ、唯一の愛流である」ということ。そして私たちはこの愛を源泉として湧き出ているということ。愛という根源が私たちを織りなしてる物質。それが、私たちをここに生み出した意図だということ。
創造物は全体でひとつをなしており、人は誰でも、その「唯一の光」から生まれ出た。
私たちの身体は個性という差異のある世界に生まれ、その物質的なレベルにおいては多様性という原理がある。しかし、その物質的レベルの背後には、非物質的なもの、スピリチュアルなものがある。そして、そこにはこの、たったひとつの流れしか無い。
そして、ふたつ目の秘密。これは誰でも、望みさえすれば自分の中に発見できる。それは、私たちが永遠の存在だということ。生み出されたこともなく、死ぬこともない。私たちはスピリチュアルな精神的存在で、人間的な体験というのを80年とか90年間ぐらいをこの身体の中味わう。そして、身体が亡くなっても、私たちは未だそこに在る。つまり、私たちは永遠なる意識体として、時間制限付きで人間としての経験をしている存在だということ。
アリーナ:OK。ご説明ありがとう。でもね…
それは私たちが日常体験していることではないわ。だって、私たちはお互いに別々の存在としての体験をしている。分離され、孤立し、殆どの他人のことはどうでも良くて…なぜ、そうなのかしら?
サンユ:私たちにはある種の社会的に導入された催眠、心理的条件付けが施されている。「私は私の身体であり、私のマインドが考えているものであり、自分の過去を合計したものである」、そのように教育されている。いわゆる「ボディ=マインド・アイデンティティ」と呼ばれるもの。それはとても精鋭な輪郭を持っていて、形があり、顔があり、名前がある。「ここに居る私以外は、その他の世界」だと思っている。それを私は「分離のアイデンティティ」と呼んでいる。
エゴとはEGO - edged God out - つまり、普遍的な宇宙意識は自意識から追い出されている。まるでメルヘンにあるように、偽の王様(EGO)が王座に座り、本物の王様が追放されている状態。
アインシュタインは、こうして私たちが互いに分離していると思い込んでいることを「意識の視覚的錯覚」と呼んだ。
アリーナ:そうね… では何故、EGOと同一視するのをやめて「愛の意識」の中で生きることが大事なのかしら?
サンユ:量子物理学、そして古き叡智によると、私たちは自らの精神を以て、その現実・人生・世界を創造しているとのこと。イエス・キリストは「汝の信じる通りのことが、汝に起こる」「汝が考えるものに、汝はなるだろう」といった。
量子力学は「あなたの思考が、あなたの現実を創る」と��た。
一日に、6万の思考がマインドに入ってくる。天才と統合失調症の人には一日8万にまで至ることも。
つまりそれは、まるで宇宙飛行士のヘルメットをかぶっているような感じで、その中では6万の思考が軌道に乗ってヒューヒュー飛び回っているようなもの。私たちは自己解釈の世界にいる、(頭を指して)これはストーリーテラーなわけ。これは毎秒毎秒、ストーリーを創り出していて、私たちはシミュレーションのような世界の中にある。
ここで、例え話をすると、真夏の暑い中、アイスカフェの外席に100人ぐらい座っているとして、そこへ想像を絶する驚くほど美しい女性がやって来る。ミニスカから覗く長くてスリムな足。豊満な胸。とにかく華麗そのもの。彼女は前列��あるすべてのテーブルの間を通り抜ける。最初のマインドが思うことは「ワオ!なんて美しいのかしら!…毎日鍛えてるの?どうしよう、私はもう半年もちゃんとトレーニングしてないわ。いい加減にジムに行こうとずっと思ってたのに。ああ、でも毎月の費用を払えるかしら…でももうイヤ、お腹はダボついているし、足だって…明日絶対に申し込みに行こう」。次のマインドはこう思う:「なんて女。あんなのと付き合いがなくてよかったわ」。その次のマインド:「まあ…60年前は私もああやって人生を楽しんだわ。人生の春は本当に良かったわ。でも正直なところ、80歳になった今は、あんな虚栄心市場で誰かと張り合ったりしなくていいので私は楽だわ。あの娘はせいぜい楽しめばいい」。次のマインド:「なによ、売春婦みたい。この世は売春宿じゃないのよ。もうちょっと肌を隠せないのかしら。親にしつけられていないの?破廉恥な」…等等。
あ、一つ忘れていた。もう一つのマインドは「おお!あの娘とベッド・インしたいな。でもあんな外見の娘が僕になびいてくれるはずがない」というやつ。
そこで、懸賞付きの質問。このアイスカフェの客たちは「誰」を見ているのでしょう?
アリーナ:誰もが、自分のことしか見ていない。
サンユ:その通り。誰もが、この美しい女性をスクリーンに見立てて、自分の価値観、自分が癒せていない心の傷…または自己の存在価値に残された傷、自分の夢や願望、世界観、人間観を眺めている。
彼女はスクリーン。(頭を指して)これはスライド投影機で、スライドを差し込む割れ目がここにある。そしてこれまで自分が溜めてきたすべての条件付け・刻印・プログラミング・パターン・過去が、このスライドに入っている。このスライドを通して、自分自身をこの女性に見ている。…ということは、私たちはかつて、自分自身以外をこの世の中に見たことがない、ということ。誰もがこの女性の中に別人を見ているだけではなく、誰もがこのアイスカフェという同じ場所に居るのに、そこには100種の世界があって、ひとつは爆発せんばかりの楽しい気分になっているのに、1,5メートル先の席では爆発せんばかりの憤りを感じている。誰もが、自分だけの世界に生きている。
そうなると、トランプについて、コロナについて…何に関しても、誰かの意見に耳を傾けたところで、世界についてそんなに多くのことはわからない。実際には、「世界とはこういうものである」と主張している人物のことが、本を開くように見せられているだけ。
私がまだ、診療所を営んでいたころ、多くの愛すべき患者さんたちがやってきた。コロナの期間に関していうと、ある人は人類史上最大の残酷で邪悪な黙示録を目前にしており、ある人はパラダイス・黄金時代へ移行する直前のように感じていた。そしてその中間には更に、様々な色彩があった。そして、全員が同じ惑星に住んでいるのに、そこには75億種類もの世界が存在しているのは驚くべきこと。
エゴ意識には、いくつかの強迫観念がある。
その内のひとつは、分極化という意識。こいつは常に審判しないと気が済まない。審判のひとつは、世界を善と悪に区分化することで、当然、善側は私だ、となる。
アリーナ:違う違う。善側は私よ!私の方が善側よ!
サンユ:あら…(笑)言っておくけど、あなたは邪道に走っているわ。私たちのどちらか一人が善側なのだとすれば、それはどちら?
アリーナ:そう、それは私よ。善側は私。
サンユ:アハハハハ!じゃあ、こうしましょう。「私たち」は善側ね?OK?(アリーナ:OKよ!どっちにせよね(笑))
それで、「善良」だと謳ってきた者たちが残してきた血痕を辿れば…善良なキリスト教徒たち、善良な回教徒たち、善良な資本主義者たち、善良な植民地主義者たち、善良な共産主義者たち、善良な国家社会主義者たち… これらを振り返ると、私たちは本当に「善側」に属したいのかわからなくなってくる。そして意図的ではなかったことは確かであろうと、どうやら地獄への道というのは「善良」という名の石畳で張り巡らされている。
人類の歴史は、人類の歴史を何一つ教えてくれていない。今のところはね。でも、それはこれから変わるかも知れない。(アリーナ:今がチャンスよ)そうね(笑)。私たちには、自分自身と世界を別の形で眺めることが出来る。その別の形とは、創造物を全体として捉えることと、すべての小さなパーツは大きな全体を反映している。ラテン語の pars pro toto (一部が全体を代表)。小宇宙は即ち大宇宙である。イエスの述べていた、天界は即ち地上界、鏡の法則、アナロジーの法則。露の玉がどれだけ小さかろうが、それは創造物全体を反映している。どういうことかというと、私がこの世で目にするもののすべてを、私は自分の中に見出すことが出来るし、私が自分の中に見出すすべてを、私はこの世に見出すことが出来る。
そして…私は何に対して戦おうとしているのだろう。
そこで、あなたの「EGOから離れて「愛の意識」への移行がなぜ大事なのか」という質問だけど、アインシュタインの言葉を借りると「原因がつくられたレベルでは、その問題を解決することが出来ない」ということ。
アリーナ:つまり、憎しみは憎しみをもって解決できないし、怒りは怒りをもって解決できない、ということね?
サンユ:そういうこと。だって、不安・憎しみ・憤りといったものは、分離のアイデンティティから起こったものであり、この問題解決には、上位の階層へ移行しなければならない。それが「一体感」という意識。ワンネス、統合、愛。
そして…病んでいるマインド(意識)は、分離のアイデンティティという幻想の中にあり…つまりワンネスを破り飛び越えてしまっていて、断片化された世界を創造してしまう。
マインドが健全ならば、それは愛の意識の中にあり、愛に満ちた世界を創造することになる。
アリーナ:ここで、ちょっとプライベートな質問をするわね。あなたは心理セラピストであり、27年間いくつかの診療所を営んできたけれど、あの巨大な「C危機」がやってきたとき、あなたはあなた自身や何よりスタッフに、今後どのような規制が及ぶのかを懸念して、診療所を閉鎖する決断を下して、それまでほぼ500㎡の敷地にある大きな家に住んでいたのに、今後何をどうするのかわからないまま、ほとんどすべてのものを手放したわけだけど…
サンユ:でも知ってる?以前、私はいつも鍵を探しまくっていたでしょう?でも今は、この惑星で私の車の鍵はひとつしか無いのよ。なんという気楽さ!(笑)
アリーナ:それがまたあなたらしいわね。生活基盤のすべてを失ったのに、鍵が減ったって喜ぶなんて。でも、あんな形で自分の生活基盤を手放すよう強要されて、あなたにとってそれはどういうことだった?
サンユ:強要された?(アリーナ:ええ)
ねえ、ちょっとしたゲームをしない?(アリーナ:いいわよ)
私は思春期の娘で、あなたは私の母親ね。
あなたは娘に、自分の人差し指で自分の鼻を触らせたいの。
娘の私はそれを最高に馬鹿馬鹿しいと思っていて…だって子供が思春期になると親ってなんだか変になるのよね。私はそれが嫌で。母親のあなたは云うことを聞かせようと頑張って欲しいの。
アリーナ:わかったわ。
サンユ、人差し指で鼻を触ってご覧なさい、いい子だから。
…サンユ?…ほら、鼻を触ってよ。ねえ、触ってったら。今すぐに!
指図を受けて、うつむくサンユ
しつこく言われて、目をそらすサンユ
サンユ:OK。ちょっと待って。
では、云う通りにしなければ、どうなるの?
アリーナ:4週間テレビ禁止。3ヶ月間外出禁止。次の誕生会は3回なし。それとxボックスも3ヶ月間禁止。
サンユ:ちょっと待って…(上の条件を復唱すると、アリーナが肯定)。
ふーん…(しばらくうつむいて考えてから)
ゆっくりと鼻を触るサンユ
サンユ:エンジェル、(満足そうに微笑むアリーナ)今、決断して行動したのは誰?
アリーナ:あなたね。
サンユ:(頷いて)正解。どこで強要されたのかしら。私がやった。自分の決断。
そしてあなたの質問は、それがCの時期にどのように反映されたのか、ということよね…(しばらく考えて)そうね、アジェンダ2030を取り上げましょう。ワーストケース(最悪の場合)は、信じがたい虐殺があり、生存者は皆バイオロボットに変身。
私はそれ同類のものを自分の中に見いだ���るのだろうか?
長く探す必要はない。私も人生の最初の3分の1はお肉を食べていた。たった3センチの口内で味わう喜び。如何なる呵責も感じずに、敢えて…いえ、何も考えてさえいなかった。この3センチの喜びのために、誰かが動物を一生「収容所」で虐待し、苦しませることを容認していた。
ここで誰かが、「サンユ、だって人間とは違って、動物なんだから」って云うかも知れない。それは理解できる。けれど、動物の痛覚は人間と変わらないことも今は知っている。動物も人間と同じように愛情を感じること、そして自分以上に子供に愛情を掛けることも知っている。私にとってその点で、人間と動物の区別がない。やっぱり「感性を持つ存在」。その意味で、それを主義として自分の中に見出すのなら、何に対して私は戦闘をおこなうのだろう。それでも、だからといって私はそのアジェンダに自分を差し出すつもりはない。全くない。どちらかといえば、私はその主義を自分の中に再発見しようと決断し、自分の中で統合しても、今後はマニフェストしなくて良いということになる。これは他のテーマにも繋がってくる。
「お前はクリスマスも大晦日も、家族と過ごしてはいけない」と言われれば「はあ、そうですか。ご説明ありがとう。でも私のつもりは全然違って、当然クリスマスを家族と過ごすために会いに行きます」と言うでしょう。
そう。当時、私はマスク解除証明を発行していたことで、警察との対峙があった。そして、自分の中のどこに“警察”を見いだせるのか、自問した。すぐに明らかになったのは、彼らは「自分たちの世界」、つまり「階層構造と秩序で成り立っている法と規律と義務と権利の世界」を愛しているということ。そして、彼らは自分たちのやり方で、自分たちのツールを自分たちの世界のために駆使する。私は自分のやり方で、自分の世界を、彼らとは違う手段で確保しようとするわけで、そこには当然差異がある。それでも、自分の世界を確保しようとする主義主張を彼らは映し出していた。そこで私は争う必要がない。
私に言えるのは、「ご訪問ありがとう。当然、私は証明書を発行し続けますが、この問題をどう解決しましょうか」ということ。「私は罰金を払わねばならない?なるほど。私がそれを受け入れたいのか、よくかわからないので、様子を見ましょう。私の子供はマスクを着用すべきということですが、何故なのかご説明いただけますか?あなたの見解は興味深いですが、私にとってはそれは全くもって真実ではないし、重要でもありません。私の子供がマスクを着用せずにいられるよう、何でもやります。父兄イニシアチブを設け、動画を構成し、なぜマスク義務に反対なのか説明します。その他の組織に働きかけ、法律家に相談します。これらのすべてに効果がなければ、私は子供を学校には行かせません。そして、あなた方がホームスクーリングをさせたくないのであれば、私たちは国を去ります」。
「あなた方は、私にワクチン接種を受けさせたいのですか?なぜ?絶対にイヤですね。どうしましょうか?私は刑務所行き��すか?OK。この転生では私はまだ刑務所に入ったことがないです。では、外からの条件に縛られないで自由に生きるための訓練を喜んでさせてもらいます。それは何時からスタートしますか?」
これらはひと言で言い換えると、「no war(戦争反対)」。
私は繋がり(connected)続けていたい(訳注:高次の自分と)。この、何事もジャッジしないという繋がり(connection)。ドイツ語のUrteil (音:ウルタイル/意味:審判・ジャッジ) という言葉は良く出来ている。Urーというのは原初・オリジナルなものを指し、Teilというのは「部分、分けた一部」と言う意味。原初の段階ではひとつだったものが、意識によって分割されているからジャッジが起きる。
そうして、審判・ジャッジするいかなるものにも、私はエネルギー的に連結しようと思わない。それは私を弱らせるので。
つまり、私は自分自身のエネルギーの中に留まり、そこと繋がり続けます。それは当然「民事不服従」ということになる。だって、私の世界で不正が正義として扱われるのなら、民事不服従とは「愛の行動」だということになり、服従こそが犯罪。私が愛に満ちた抵抗の道を選ぶのは当たり前じゃない?でも、そこには憎しみも分断もなく、戦争も起こらない。
アリーナ:わかったわ。そこにあるのは唯一、愛だけ、ということね。でも、それならばこの世の邪悪はどうなるの?
サンユ:(大きく頷いて)…うーんと。
同様のイメージとして… 「電流」をとってみましょう。ラジオに電流を流すと音が出る。電球に流すと明かりが灯るし、ヒーターを通すと暖を取れる。
このイメージをもって、「愛」という流れを想像すると、権力志向の人の頭に差し込まれたスライドのフィルターを通った結果、その愛は「暴君」という姿で映し出されるかも知れない。
別のフィルター、お金に執着する人のスライドの場合、愛の流れがやって来ると、その先の結果は窃盗犯かもしれない。
3つめのフィルター、3つめのマインドセットであるスライド。それは宗教的…もしくは政治的思想。愛の流れがその意識フィルターを通ると、果には狂信的なテロリストが表現されるのかも知れない。
愛流は、どんなマインドセットによって濾過されるかで、最終的表現の形が異なるだけ
どんなスライドがフィルターになっているかによって、結果は歪み、果には倒錯的なものにまで至る。
だから、いわゆる「邪悪な人物」というのも、自分がやりたいようにやる権利がある…もしくは、それをするのが正しいことになるのかも知れない。…例えば自爆テロ…そうして他人を死の巻き添えにするとか。その者のマインドセットからは、それは正しい行動ということになっているか、もしくは「自分にはその行動を起こす権利がある」とみなされている。
改めていうと、私は彼らを正当化しているのではなくて、心というのはジャッジに興味がなく、ひたすら「理解したいだけ」なのです。
2000年前のベストセラー(訳注:聖書のこと)には「隣人を自分のように愛せよ」とあったけど、私には「隣人を自分自身として愛せよ」と聞こえてくるし、その声から更に「敵を愛せよ」とも聞こえてきた。
そして、ここであなたに質問するけれど、私は「隣人(訳注:原語では「最も近くにいる人)」そして「最も遠くにいる人」を愛すべきだという。では、この最も近距離の人と、最も遠距離の人、これら両者の間のどの辺りに切れ目があるのか?
どういうことかというと、ファウチだとか、ゲイツだとか、ドイツ健康相のラウターバッハだとか、シュワブだとかなんだとか…みんながこの中に含まれている。
「主よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。
では、彼らは何故、知らないのでしょうか?
彼らは、自分たちが何者かを、知らないのです。
自分が永遠の意識体であり、しばしの間、短い体験をするために肉体に宿っているだけなのだ、ということを知らなければ、その無知から苦悩が生み出される。それは、無常のものにしがみつくことであり、死に絶えてゆく儚さへの恐怖がそこにあり、自身をそれと同一視していると、その他の創造物と自分とは分離しているという世界観にあり、そのために利己的考えに陥って、その他の世界と自分との繋がりは絶たれてしまっている。
この世の犯罪のすべては、加害者が被害者と自分を同一視しないことから起こる。
だからこそ、私たちは自分の意識に働きかけ、エゴという意識によって生み出される分離分断を手放し、ワンネスの意識に至ることに価値を置くことになる。
アリーナ:うん…それで、この世の行く先についてのあなたの予見は?終末の世がやってくるのか、それとも新世界の誕生へ向かうのか。
サンユ:…蛹にとっての「この世の終わり」というのは、この世にとっては「蝶の誕生」を迎えること。
私たちは今、本当に自分たちがどのようなプロセスの中の、どの地点にいるのか、わかっているのだろうか。
私にはわからない。
ただ、愛というのは「目的地点」にとらわれてはいない。
想像して��て。今日が月曜日だとして、木曜日にはこの世のすべての核爆弾が投下されるとする。どの島だろうが、逃げ場はない。そこで、あなたの玄関のベルがなり、開けてみると誰もいないので、ドアを締めようとした時、足元の玄関マットには赤ちゃんが寝かされていた。木曜日には世界が崩壊すると知っているあなたは、足元の赤ちゃんを有機ゴミに出すだろうか?それとも、抱き上げて栄養を与え、おむつを換えて愛撫し、木曜日に原爆が落とされたら、自分の身体で赤ん坊を覆い、守ろうとするのだろうか。
それはつまり、愛は「結果とは無関係」だということであり、結果は自ずと現れてくる、それだけのこと。
アリーナ:そう、そういうことなのよね。ありがとう。私は皆さんに、身体的健康について自分の知識をシェアしたいとは思っていますが、その他にすこしでも、感情面、そしてスピリチュアルな側面についても自分が学んだことを、皆さんんにシェア出来ればと思って。
〈2022年秋に開催されたワークショップ・セミナーの紹介〉
サンユ:私たちの核となるものは、永遠に神聖であり続ける、これは全く持って素晴らしいこと。どういうことかというと、私たちの奥深くにある自然は太陽であり、人生において何が起ころうと、この太陽は決して破壊されることはない。この核心は永遠に神聖なまま。
スクリーンに上映されているのはホラー映画だったり、アクション映画だったり、家族ドラマだったり。しかし、上映が終われば、スクリーンは真っ白に戻り、なんの破損もなく、焼き跡もついていない。全く変化はなく、壊されることはない。私たちの内なる太陽(光)とはそういうもの。
人生を歩む中には、転生という観念、つまり別の人生の存在と共鳴することがある。人生は今回一度きりと考える人たちは、スラグのようなものに撒かれている。つまり幻想が玉ねぎのような層になっていて、そうした「概念(コンセプト)」に覆われている。それは分離の意識という誤った知覚であり、傷心、被害者意識にまみれている。
私たちが取り組むべきことは、この覆われた殻を取り外していくこと。
これはミケランジェロの説明に通じるものがある。
「こんな、雑な大理石の塊から、君はどうやってこの世のものとは思えないほど美しい、あのダビデのような姿を掘り出すことが出来るのか」という問に、彼はこう答えた「ダビデは既に大理石の塊の中に居るんだ。私はそれを覆っている余分な部分を取り除いているだけ」。
私たちはみんな、まさにそれをやっている。私たちは、真実ではないものはすべて、幻想として見抜くようになり、時と共に内なる光は自ずとして輝き出してくる。
こうした概念を自覚していくワークは大事。
私たちはあまりにも多くのことを、信じ込んできた。
そしてもしかすると、信じてきたすべてのことが、真実ではなかったのかも。
それで、人類は自分が考えていることを信じてきたために、苦悩してきた。繰り返して言います:もし、私たちがこれまで考えてきたこと、これが嘘であったのなら、これを信じていれば私たちは苦悩することになる。
しかし、素晴らしことに、宇宙は私たちの内部にナビシステム、いわゆる「感情ガイドシステム」を設置してくれた。私の感情は、私にとっての方磁石のようなもので、毎秒の如く私の日常、そして私の人生に寄り添ってくれている。
そして、アインシュタインはこうも言った:「私は神の思考が知りたい。それ以外は二の次だ」。
では、神の思考とは?実際には神は思考をしておらず、存在そのものなだけだけど、イメージとして、神という存在が思考するならば、。それは愛という思考。
もし、私たちが宇宙に漂う愛の思考と一致して振動しているならば常に、私たちは感謝、感激、献身、結束、幸福を感じるはず。
しかし、もし私たちが宇宙の思考と一致して振動していないのならば。即、憤り、悲しみ、失望、傷心…いわゆるネガティブな感情に襲われることになる。
そして、そのようなネガティブな感情が降りてきたときこそ、高次の自分はあなたに向かってサインを送っている:「君は今、君の真実とは共鳴しない振動の仕方をしているよ、戻りなさい」。
私たちはこれを学ぶべき。〈部分的にワークショップの内容紹介〉
アリーナ:締めくくりに、何か私たちに向けて言っておきたいことはあるかしら?
サンユ:アインシュタインの引用だけど、「人は、最初から実現不可能に思えるかどうかで、その思想の良し悪しを見極めることができる。それゆえ私は、希望するすべての人たちとともに、愛の思想、愛に満ちた世界をあえて夢見るのである」
そして、ヴィクトル・ユゴーの引用:その時が訪れたアイデアほど大きな力を持つものはない。そして今、約1万3500の戦争と36億人の死者を経て、ついに愛の時が来た。
安全を守るために自由を放棄すれば、自由も安全も失いかねない。
そして、安全とは港に停泊する船でもある。しかし、船はそのために造られたのではない。
そして今、変化の風が吹くとき、私たちは何を望むのだろうか?
防護壁を作りたいのだろうか?それとも風車を作るのか?
防護壁とは、抵抗すること、コントロールすること、しがみつくことを意味し、風車は手放すことを意味する。
そして時には、自分らしくいられるようにするため、私たちは自分らしさを手放さなければならないこともある。
そして、ケーテ・コルヴィッツ(ドイツの女流版画・彫刻家)はかつてこのように言った:私たちの才能は、使命である。(ドイツ語で才能は「ガーべ」、使命は「アウフガーべ」)
そして、私たちのガーべが誕生時に託されるものならば、今私たちはどうすべきなのか。闇について嘆きたいのか、それとも明かりを灯したいのか、そして、私たちのガーべを昼の光に晒し、大いなる全体に捧げ、私たちが己の道を行くことで愛の意識へと到達することを望んでくれる人たちのために、どんな明かりを灯すのか。
なぜ���ら、きっと今こそ人類史上最も重要な革命の時代が訪れているのだから。政治革命ではない。経済革命でも、社会革命でもない。
起ころうとしているのは、自己の意識変容。分離のアイデンティティから、愛の愛テンティティへと移行しようとしている。
マハトマ。「偉大なる呼吸」と言う意味。
マハトマはこう言った:「あなたがこの世に見たいと願う変化、あなたがその変化になりなさい」。
彼は、何故そのように言ったのでしょう。
それは、私たちはひとつであり、分離した存在ではないから。
そこにあるのは大きなひとつの意識という大海。
私たちは人間という意識領域の中に、互いに繋がり合いながら集団として存在している。
あなたが成し遂げる如何なること、どんな針穴をあなたがくぐり抜けようと、それは何処かの誰かに何かをもたらし、この誰かも、自分なりの針の穴をくぐり抜けている。
そして、何処かの誰かが自分のためにくウォンタム・リープを成し遂げたとして、それはあなたに跳ね返ってきて、もしかするとあなたは自分にとっての新しいレベルへとジャンプすることになるのかも。
一人は万人のために、万人は一人のために。
そして…危機というものが来るのは大抵、ある種の生き方がもう耐え難くなった時。
そして、問いかけるべきことは「すべての社会には、それ相応の革命が起こる」ということ。そして今、私たちは愛の革命を望むに値しないだろうか?
アリーナ:私はそれにイエスと答えるわ。そして、その道へ向かおうとする誰もを、喜ばしく思う。
サンユ:そして、その道へ向かおうとしない誰かをも、喜ばしく思っていいのよ。彼らが己の道を往き、自分の魂が求める全てを得ていけるよう、願いましょう。
アリーナ:その通りね。私のエンジェル、一千回、感謝を述べさせて。
サンユ:ありがとう。百回分の感謝をお返しするわ。
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2023年に聴いてよかったもの
聴いた良かったもの、ではなく 「2023年に聴いて」良かったもの、という様な意味です
Lyra - deep purple
ついったーでfuckのリリック貼ってメンヘラ過ぎて草とか言われてるのを見て えーって思った いや他の歌詞でメンヘラって言ってるけど
中身のないヒステリーを求めてラップを聞いてる気がする 中身のないヒステリーはラップかデマかなので アーティストとしてこれを続けられる気はあんまりしない 最近のEPを聞くと危なそうに感じた ヒステリーって基本的には本人に全部返ってきて、貫通して全員に降りかかるという順序だと思います 最初から雨みたいに降るわけではない
現実みろ - アン・ドゥ・トロワ
追ってるVTuberさんのEP オリジナル曲が4曲あるんだけどそれを纏めたものではなくうち2作の作曲者Narumi Helveticaさんとの共作 この時点で結構やられた
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4曲という最小構成のEPながら週末のメトロポリスのカバーを軸にしたコンセプトアルバムとして聞ける…のがすごくよかった
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Amuxax - endandstart
これもコンセプトアルバムですね
コンセプトっていうのはハチワレが言う転調みたいな意味だと思う 多分
完全に期待値を飛び越えてくれた感謝の一作 半数が既出曲のアレンジなんですけどまったくそう聞こえない 強い
TrashAngelsの時はかなり独自性で重たい印象が強かったけど 今回のアルバムで何となく音楽的バックグラウンドが垣間見えていてそれも良かった
monolog - Jern
長年追っていて私の趣味を大体形成したmonolog
キャリア前半期のピークが Aerodymanic(2010)、Ad Noiseam時代のピークが Conveyer(2017) という感じだと思っていて、正直その後のリリースは重厚すぎてピンとこなかったところある
昨年Murder channelから出した Four Four twenty twenty と本作では初期の音響ジャズエレクトロごった煮感へ急に回帰した感じ 個人的にはとても嬉しい うれしくて泣いた そんな初期作品はほとんどネットから消えてますが
本作のレーベルはウクライナ支援なんだけどMerzbowやMuslimgauzeの再発をしていてちょっと話題になった 見ると面白いと思う
moreru - 呪詛告白初恋そして世界
夏コミ帰りの台湾人十数人がShelterに来て最初に見たのがmoreruだった話すき
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computer fight - gushagushavinyl
最近自分的にもバンドサウンドがけっこう来てる そういうことがある
関係ないけど去年は一巡したな~と思うことが多かった 主にミソシタ氏がぶいちゅーばに回帰してるのを見てそう感じました
戸張大輔 - ドラム
2009年2nd 実は聴いていなかった
今だから聞けると感じられる音が詰まっている 本当でしょうか
Local Visions, 長瀬有花 - OACL
VSingerというものを全く追ってなくて知らなかった
LVの捨てアカさんがライブ配信の演出で動いているのを見て視聴
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これが映像含めてすごくよかった
その後リキッドルームのライブにも行った これもバンドがとんでもない感じで良かったけどライブハウスなるものに行くのがあまりにも久々でベコベコに疲れてしまった
吉村弘 - Music for Nine Post Cards
回顧展 を見に行って、聴きなおした
自分はComputer Soupをきかなかったら全てがこうなっていないので タージ・マハル旅行団と吉村弘にはすごい恩義がある
去年?Surroundも再発されたけど私はこっちがすき
ひがしやしき - Nyan Nyan Innovation(Open)
ナードラップというジャンルが日本にあるわけじゃないけれど、ナードコア同人サウンドとHARD GU.W-C.Iとひがしやしきをもってして到達できたアニメ憑依型めんどくさ心象表現がある
そのナードコア同人サウンドに必然性が無くなったとするとひがしやしきがナードラップを終わらせたという話にやがてなるのかもしれない
コロナ以後の心象の変化とやっていきを示した4巻.zip と本作を聞きながら、その過程を勝手に感じていた 正確に言うと T.M.P のリリパで 空中後攻撃'95 の初ライブを観たときに文脈がバチバチに繋がった感じがした その後でたのが本作 パーソナルな日常感の曲が本当に下らないのがいい 素直
響現 - Mirage
残暑がきっかけで頭と身体がボコボコに破壊されて、さらにコミケの準備で全てを破壊させたりして秋からは音がまともに聞こえる状態じゃなかった気がする 多分
コミケ原稿の作業中によく聴いた
ネタ元にあんまり馴染みがない フュージョン~ジャパニーズピュアテクノ~ 音作りに良い意味でのエゴの無さ、風通しの良さが行き渡っている もうテン年代エクスペリメンタルは終わって、異形より強度の時代になってるんでしょうね
ライブ見たかった 響現さんもπさんも今後どんどん名を上げていくだろうからこの座組で次があるか、わかりません
そんな感じでボンクラに音楽を聞いています
あとプレイヤーの埋込みできなくて驚きました 要らないと思うけど
読んでくれてありがとう!よく寝てね
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BTS Sugaのワールドツアーは究極のポップス転覆 / The Atlantic 翻訳
アメリカでグループ初となるソロコンサートを開催、アーティストとしての個性を強烈に宣言した。
Story by Lenika Cruz
フォグマシーンの柔らかな吐息に包まれたステージから、フードを被った4人の人物が舞い降りてきたかのようだった。その肩には、黒をまとった体が乗っている。雨と稲妻が背後のスクリーンに真っ白に映し出される。ようやく、その男が地面に横たえられた。その後には、まるで死からの復活を思わせるような光景が待っていた。スポットライトが彼を見つけ、歓声が上がり、ついに彼は動き出した。そして、マイクを口に当てた。
この��ックスター、ラザロの正体はミン・ユンギ。グラミー賞にもノミネートされ、チャートを席巻している韓国のグループ、BTSのラッパー兼ソングライターのSugaとして広く知られている。しかし、その夜ニューヨーク州ロングアイランドにあるUBSアリーナのステージには、彼のバンドメンバーは誰もいなかった。なぜなら、この日は彼のソロワールドツアーの初日だったからだ。昨年の夏以降、メンバーは各々の兵役義務遂行に向け、個人活動に集中してきた。BTSで初めてソロツアーを行うSugaはグループ作品よりも暗く、生々しく、パーソナルな音楽制作のために2016年につけた名前、Agust Dとしても公演を行っていた。先月、Agust Dの3部作の完結編となる強烈なスタジオアルバム『D-Day』をリリースした。このアルバムで社会批判やトラウマの黙想、名声、精神疾患、孤独、そして許しについて語っている。
同じくD-Dayと題されたSugaの現在進行中のツアーは、彼の作品を初めて本格的にショーケースするものだ。完売したアメリカでのツアーは、まるで10年以上の歳月を経て作り上げた芸術的個性の宣言のようだった。コンサートはフロントマンのエネルギーと作家主義的な華麗さで爆発していた。しかし、彼の最も際立った功績はポップミュージックが持つ共感を生み出す潜在的な力を受け入れながらも、その非人間的な作用に立ち向かっていることだ。
水曜日の夜、カリフォルニア州オークランド��幕を閉じた全米ツアーの全11公演は雷雨の中、道路に横たわるSugaの姿で終わるショートフィルムからスタートした。これはBTSとしてデビューするまでの練習生時代、生活費を賄うためにソウルで配達のアルバイトをしていた時に、車にはねられたことにちなんでいる。この事故で肩に傷を負った彼はBTSが世界的な名声を得た後も、この怪我に悩まされ続けた。この映像の後に命を落としたかのような実物のSugaがステージに担ぎ込まれる展開は、スムーズでありながらも衝撃的であり、何日も会場の外で待ち続けるファンを持つポップスターの人間的な脆さを再認識させるものであった。
初日のUBSアリーナ、そしてアメリカ最終日のオークランド・アリーナで私が観たSugaの公演は、ポップ・コンサートの常識を覆すものだった。ある面では子供の頃に日本の作曲家である坂本龍一の曲をサンプリングして自分のビートを作っていた技術に長けたラッパーによるダイナミックなヒップホップショーだった。Sugaは『Haegeum』でこの夜の空気を作った。タイトルは韓国の弦楽器と解禁を意味する。「溢れ返る情報は想像の自由を禁ずると同時に思想の統一を求める」「資本の奴隷 カネの奴隷 憎悪と偏見 嫌悪の奴隷 / YouTubeの奴隷 Flexの奴隷」とSugaは韓国語でラップする。Haegeumの耳に残るストリングスと、心地よく荒れたベースが空気を振動させた。この曲はすべて韓国語で書かれたものだが、観客は歌詞を大声で彼に歌い返した。反骨精神に満ちた『Daechwita』、初期のファンに人気の『Agust D』、『Give It to Me』と激しいラップ曲で序盤を駆け抜ける彼は催眠状態にあるかのようだった。
観客がまだ落ち着かないうちに、Sugaはアコースティックギターを取り出した。ギターにはBTSの他の6人のメンバーからのメッセージや絵が描かれていた。パンデミック期間中にギターを習得した彼のアンプラグド・バージョンの『Seesaw』は、振り付けやバックダンサー、凝ったセットを伴う過去のパフォーマンスとは一線を画すものであった。序盤の盛り上がる曲で見せた力みのない威勢が、静かなシンガーソングライターモードのSugaへと移り変わっていった。その後、アップライトピアノの前に座り、2020年のBTSの楽曲『Life Goes On』の自作バージョンを披露した。特に感極まる瞬間は、歌手のWoosungと亡き坂本龍一が参加した楽曲『Snooze』のソロパフォーマンスだった。2022年後半にSugaと坂本が唯一対面した時の映像が、前もって大型スクリーンに流れ��。グランドピアノで曲を演奏する年上のミュージシャンと喜びを抑えようとする若者。Snoozeは、坂本にとって最後のコラボレーション作品のひとつになった。坂本を敬愛し、苦闘する若きアーティストを慰めるためにこの曲を書いたSugaにとって曲中の坂本の存在は、とりわけ心に響くものだろう。
BTSの活動で、できなかった試みをD-Dayで再三にわたり実践するSugaの姿は、実にスリリングだった。 そう、彼は依然として熟練したエンターテイナーなのだ。何万人もの観客の心をつかむ術を熟知している。BTSのコンサート中盤の爽快なラップメドレーで見せるとおり、息をつく様子もなくラップをしながらステージを飛び回れる人なのだ。そして、ロサンゼルスの2公演ではアメリカ人歌手、MAXとHalseyをゲストに迎え、それぞれのコラボレーションを披露した。その一方で、彼の破壊的な選択も際立った。コンサートに散りばめられたショートフィルムは、デヴィッド・リンチの夢の論理とグラインドハウス映画の粗い質感を思わせる。ポップアイドルのSuga、影のAgust D、そして人間ミン・ユンギという3つのアイデンティティーのストーリーが描かれている。このコンサートにおける究極の芸術的意図は、それぞれの自己を観客に明瞭に示すと同時に、それらがすべて共存していなければならないのだと認識させることにあるようだ。BTSのソロ曲である『Interlude: Shadow』やBTSの他のラッパーたちとの曲のヴァースを披露する姿を見て、彼は自分の過去を否定しているのではなく、むしろ誇りに思っているのだと確信した。なにしろ、その過去が彼を韓国の青瓦台、アメリカのホワイトハウス、国連総会、そしてグラミー賞の舞台にまで導いたのだから。
もうひとつの魅力的な演出があった。公演全体を通じて、舞台の一部がチェーンで天井に引き上げられ、Sugaのパフォーマンスできるスペースが次第に狭くなり、より慎重に舞台を進行させる必要があったのだ。 アンコール前の最後の曲『Amygdala』では、寂しげな四角い床に立っていた。周囲には炎が燃え上がり、まるで恐ろしい牢獄のようだった。アルバム D-Dayの核となる、このエモ・ラップトラックには、Agust Dのオルター・エゴの起源が記されている。交通事故、母親の心臓手術、父親の肝臓がん宣告など、彼の人生を決定づけたトラウマに言及し、それらがいかに彼を形成したかを語っている。曲の最後のフレーズで、力尽きたように地面に倒れ込むとフードをかぶった人物たちが戻ってきて彼を運び去った。ただし、今回は全身真っ白な服を着ていた。まるで浄化されたかのようだった。彼のカタルシスが完了したのだ。
アンコールの頃には舞台装置がすべて取り払われ、下に隠れていた��材が露わになった。 消火器、電気コード、発火装置などが散乱していた。Sugaはもう観客の頭上に立つことなく、地面の高さからファンの目の前で最後の数曲をパフォーマンスした。時にはファンの携帯電話を手に取り、自身の姿を撮影してみせた。最後の瞬間は、ほろ苦かった。ほとんどの観客は、6月下旬にあるソウル公演でツアーが終了した後、Sugaが少なくとも18ヶ月間の兵役に就くことを知っていたからだ。その現実がコンサートを一時的な別れのように感じさせた。ファンが持つライトスティックの輝きが、まるでひとつの波のようにアリーナ全体を駆け巡った。 時折、野生的なエネルギーに駆られた観客が吠え始めるとSugaは驚いたり笑ったりしていた。オークランドでは観客に向かって、BTSの他のメンバーと一緒に戻ってくること伝え、ファンにもう少しだけ待って欲しいと頼んだ。
ツアー初日の夜、もうひとつのサプライズが待っていた。私は最後の曲は感傷的なものなのか、軽快なものかだと思っていた。 ところが、Sugaは不気味なビデオカメラの輪の中に入っていき、その真ん中に立った。つぶやきはじめたのは『The Last』のヴァースだった。第一作目のミックステープに収録されているこの曲は、彼の最高傑作であり、私が最も好きな曲のひとつだ。そして、このところ私が聴くのに苦労している曲でもある。The LastでSugaは、強迫性障害、鬱、社交不安について語っている。低く控えめな表現から徐々に切迫していき、最後には叫び声と泣き声の間のような声へと変化していた。数年前、この曲を初めて聴いたとき、私は自分自身の絶え間ないパニック障害による発作と息苦しい死への渇望を思い出した。この曲は私の心に刺さり、歓迎すべき欠片になったのだ。
ここ数年、Sugaは成長、自己愛、不安や苦しみを肯定することをテーマにした音楽を多く作ってきた。 コンサートの序盤、彼は英語で「あまり怒りを抱えずにパフォーマンスしたい」と語り『SDL』、『People』、『People Pt.2』といった曲に焦点を当てた。これらの曲は人生の試練を前にして冷静に考え、許し、謙虚でいられる人物像を描いている。ひどい苦しみから解放され、自分なりの癒しを見つけられたときの安堵感を私もよく知っている。だから、The Lastの出だしの歌詞(「有名なアイドルラッパーその後ろに、弱い俺が立ってる 少し危険だ」)を聴いたとき、私は凍りついた。彼は一体何をしているのだろうか。 監視システムのように並んだカメラ、その映像が映る彼の頭上のスクリーン。彼が見せる苦しみを貪るように映し出す。つまり私もまた、彼の苦しみを貪っているのだ。
しかし、すぐに理解できた。23歳のときと同じように息もつかせぬ情熱でラップしているが、単なる激高ではなく時間とともに和らいだ怒りでパフォーマンスしているのだと。その感情の力強さ���真摯さに陰りはないが、それを発信する側が受けるダメージは少ないのだ。今の彼は炎の中に立って熱を感じながらも、その炎に飲まれることはない。若き日の自分に回帰することなく、当時の自分と心を通わせられる。
そして、魔法が解けた。曲が終わった瞬間、客席の照明がつき、彼が舞台袖に無言で歩いていくのが見えた。別れの挨拶も、長々とした感謝の言葉も、歓声を上げる観客に手を振ることもない。後ろを振り返ることさえもしなかった。初日の夜、突然の退場に衝撃を受けた人々は戸惑いの表情を浮かべた。このフィナーレを観客との静かな対決、愛されてやまない芸術家による大いなる自己主張と捉えることもできるかもしれない。けれども、もしそれが対決であったなら、それは見下しているのではなく、むしろ信頼に基づくものだ。観客が不快感に耐えられるだけの知性を備えており、彼が見せたものに気分を害したり、恐怖を感じたりしないのだという信頼だ。
完璧なエンディングだった。闇と神話作りから始まったコンサートが明かりの中で、さらけ出すように終わったのだ。他の誰かに運ばれきてスタートさせた公演をSugaは自らステージを去ることで終わらせたのだ。これ以上、何を望むというのか。彼は私たちに何もかも見せてくれたのだから。
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2023年、会社を辞めてからのあれこれ

7月末に会社を辞めて、5ヶ月が経過した。 8月末からハワイに1ヶ月留学し、9月に帰国。10月からは大学の通信で学芸員課程の勉強を始め、現在��至る。 4単位分の課題とテストは終わり、2単位分は課題を出してテスト日程を調整中。今はさらなる2単位分の課題をやっている。来年の6月までに20単位を取って、7月に実習(3単位分)をクリアできれば、9月には晴れて課程修了となる。その先の転職活動がどうなるのか全く予想がつかないが、とりあえず今は単位取得の心配をする時間……と思うことにする。
勉強と並行して、昨年4月の引っ越しから手つかずになっていた段ボールの開梱も進めた。40個近くあった段ボール(私が一人暮らししていたアパートと実家の一軒家からの引っ越し荷物)を6個まで減らし、もう使わないものは断捨離した。本は古本屋に70冊ほど売り、CDも中古CD屋に30枚ほど売った。 本棚や収納の中にとりあえず入れたものは後で確認して捨てるか残すか判断しなければならないが、その作業ができるスペースを確保するためにも段ボールを減らす必要があったので、年内にここまで進められたことは大きい。
今は課題も進めつつ、服の断捨離をしている。箪笥やクロゼットの中の服をすべてベッドに並べ、迷った時はその場で着てみて、残すかどうか判断する。古くなった服や、買ったものの結局あまり着なかった服をまとめて捨てた。会社員時代によく着ていた紺のブラウスは、襟の部分がすり切れかけていたので、一緒に処分した。このブラウスを着て、その上に黄色いカーディガンを合わせた格好でよく出社していたな、と記憶が蘇った。 手持ちの服を把握できたことで、今後どのような格好をしたいのか、そのためには何を買い足すと良いのかも具体的に考えられるようになった。12月に入ってからは、ブラウスや靴下を新たに買った。裾の縫い目がほどけてしまった夏のズボンと葬儀用のワンピースもお直しに出した。
そして、会社員時代の遅れを取り戻す気持ちで、色々なことをインプットしている。 呪術廻戦や少女革命ウテナなどのアニメを観る。気になっていた音楽をまとめて購入して聴く。読書会でジェンダー・セクシュアリティを考えるヒントになるような本を読み、人と感想を言い合う。(半分は課題のためだが)美術館に行く。舞台や映画を観る。パレスチナに関する展示を見たり、デモに行ったりする。
身辺が整ってきて、今後どう生きるか考える時間も持てるようになった。
会社員時代には、「作家かライターに転職したい」と強く思っていた。 でも時間ができた今は、私は純粋な作家には向いていない気がしてきた。何時間もパソコンや原稿用紙に向かうことを毎日繰り返しても、書けない時は書けない。��入も不安定だ。執筆も人生も計画が立てづらく(私が書きたいのはエンタメでなく純文学寄りの作品なので)、書いたものが誰かの人生を照らすまでには長いタイムラグがあり、場合によっては努力して書いても的外れな批判に晒され、それでも自分なりの良い作品の基準を持ち続けなければならない人生を思うと、それに飛び込むだけの覚悟が今の自分にはないことに気付く。 会社員だったら、とりあえず出社して手を動かせば、日によって出来にばらつきはあっても一応誰かの役には立ったことになり、その労働に対する報酬が月1回支払われる。会社員時代は日々のストレスで「もっと違う生き方がしたい」という気持ちが強まっていたが、私は決して会社員生活自体が嫌いではなかったのだと思う。業務内容や環境に納得できれば、会社員をやっている時間にも楽しみを見出せる気がする。 退社前の私は、文芸を生業にすることの大変さを真剣に想像できていなかった。そして、自分が優位に立っていることを事あるごとにアピールせずにはいられない父がいたことで、分かりやすく成功したいというエゴに囚われてもいた。「作家やライターになることで、自分は本当に幸せになれるのか?」と冷静に考えることができていなかった。 もちろん書くことは続けたいが、権威のある文学賞からデビューして、年間1冊は作品を出して……というような生活を私が目指す必要はないと感じている。自分のペースで、肩の力を抜いて、地道に書いていきたい。
手つかずになっていたタスクが少しずつ片付いてゆき、徐々に心がクリアになっている感覚がある。 来年の秋に学芸員課程を終えた私は、どんな未来を思い描いているのか。 残された時間は、まだ9ヶ月ある。慌てて答えを出そうとせず、散らかった身辺の整理と今後に向けたインプットを粛々と進めながら、冷静に心の声に耳を澄ませたい。
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、という幸せ
末吉の御籤を本の栞に また大雨だ 貴方と会うと雨が降る
笑顔で人を明るくする、音楽で人を元気にする、言葉で人を救う、私は私で、貴方を守りたい 私という存在で守りたいんです 明日がもし世界の終わりでも私が貴方を守った事実で終わらせたい 貴方にとっての天国でありますように そんな私の涙を慰めるのは、貴方だ 湖で日が沈むのをみて、スローペースで曲が終わっていって、キャンドルの火が消えた 神様も涙するほどの失態 貴方を失うこと 感情が無という感情 なんでも名前つけなくていい 言語化しないでいい 16分割しないでいい貴方が私を見ていてくれたらいいから 今晩、電話でてくれたらいいから 丸一日中は考えなくていいから 星も月も見なくなって、太陽を浴びるようになって 悪口を言わなくなって 愛想を覚えた 私は貴方と幸せになりたいのだ 貴方という人を愛でていたい 褒めていたい称えていたい誇りを誇りのまま飾っておきたい 誰にも触れさせずに。あそれはエゴで我儘で傲慢なのだ でもね、貴方 春になっても焦らなくていいし 変わろうとしなくていいし 良い方向に前進しなくていい 夏になっても秋になっても冬がきても、貴方のままでいいから 今踵を返したらこれまで積んできた徳が、運になってるよ
それは全部貴方が教えてくれた 受け売りだよ
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「君たちはどう生きるか」
ジブリの新作映画 宮崎駿監督作
これ、予告もないしなにを言ってもネ��バレな気がする。情報を入れたくない人は読むな。

〜〜ここから完全ネタバレ〜〜
キービジュの鳥のインパクト。まさか鳥一本で話題をつなげる気か…!?とびっくりしてたけど、見終わった後だと「あの鳥で!?!?」と更に新鮮に驚ける。
広報スタッフは正気じゃない。
宮崎駿の原液を飲まされてる。ものすごく原液。いままで手加減されてたのか……。味だとハウルとポニョと風立ちぬが近いのかな。いや割と全部の味がするんですけど。
映像作品としてどのカットも動きが繊細に組まれていてアニメーションへの執念を感じる。アニメ文化を築いてきた偉大な監督が出す作品がここまでのものを積んでくるの怖すぎる。マジで後輩に負ける気ねぇじゃん……。
永遠に絵がうま過ぎる。なんというか、絵が綺麗じゃなくて絵がうまいなんだよね。見た目じゃなくて本質がヤバいというか。ぬかるみの土とか戸を開ける動作、物に触る仕草とか。現実を観察して研究して描いてるじゃん。細かい所も見逃さずに生活してるんだろうな。その上でちゃんとディフォルメもしてファンタジーであるのがほんと、宮崎駿監督のバランス感覚がえげつない。
ストーリーも結構好みでした。ジブリ作品、結構上手く飲み込めない時があるんですが今回のはスッと自分の中を通った。後妻の夏子にもエゴがあるし、実母もそう。やりたいことを通す力のある母親像を見せてもらえてうれしい。というか病弱な母親で共にいられなかったから、作品の中では強い女性像を出してくるよね。癖なんだろうな……。今作もオバちゃん(若返ってる)がよかった。婆ちゃんたちが集まってるところは妖怪過ぎる。ジブリの婆ちゃん大体妖怪じみた生き物。
この映画、とにかく説明しない。いろんな場面で説明が入りそうなところでも、絵の力で押し通す。ジブリほど絵が巧みだとこんなことできるのかよ……。どう生きるかというタイトル通り作り手が観客に投げかける映画であって、観客に丁寧にストーリーを教えてやる映画ではないなと感じた。両者は対等じゃない。
今回、情報を出さなかったのもこういう作りの映画だったからなんだろうな。見てる最中、ずっとどういうことなんだろう?と考えながらみるじゃないですか。最近の作品は説明台詞が多いって意見があるなかで、言葉ではなく絵で伝える映画を送り出す宮崎駿のメッセージ性は強いと思ったな。
もっとストーリーの話とか主人公の眞人くんの話もしたいんだけど、複雑で整理がつかないから2回目観た後になんかまた文章にするわ。たぶん。
ラスト、東京に戻る場面で鞄の中に本と手紙を詰めていたように思う。勉強してるんだな。友達、出来たんだね。良かった。ここのシーンちゃんと確認したい。あれ手紙で合ってるのかな。違ってたらごめんなさい……
包丁研いでるインコ大好き。アイツのグッズ欲しい。
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出逢って3度目の夏、
つい最近まで肌寒さも感じていたのに、あっという間に季節は巡って俺らが最も苦手とする季節がやってきたね。去年の今頃はどうやって過ごしてたかなあ、なんて思い返すけどやはり「あっつ!無理すぎ!外出たくなーーい!」ってふたりでぶつぶつ文句言ってたような気がするわ。2年前の今頃の俺からは想像もしてなかった現在があって、俺が描く遠い将来にも君がいる確証があることがしあわせで仕方ねえなあって思うそんな毎日です。今年に入って目まぐるしく去っていく毎日にメンタルをやられながらも、欠かさずに過ごす寝る前の時間は俺にとって無くてはならない大切な時間です。当たり前のようで当たり前じゃない君がいる毎日があまりにも愛おしくて、大切で、好きが募るからこそ、時に怖くなるんだよね。なんて突如の告白(笑)直近で色んなことがあって人の裏切りを目の前にして、今の俺は侑李を幸せに出来ているのか、本気で考えてた。そんな悩みを持つ俺とは裏腹に楽しそうに「今日こんなことがあってね!」って話してくれたり、「 んあー、ねむい!」って相変わらずの君を見て根拠もねえけどこのままでいいんだって思えた。これはただの俺のエゴかもしれないけれど、ね。今の俺は君が中心で、君がいるから成り立つもので。今更、君がいない毎日は考えつかねえほど君に夢中です。暑さが顔を出すとやる気さえもどこかに行ってしまうけれど、付き合った当初に行きたいねって話してたところ、いつか行けるようにもう少し一緒に頑張ろうね。満面の笑顔を魅せてくれるところ、「目黒くんかっこいー!」って俺の前でニヤケるところ、なんやかんや俺のことがだいすきで仕方ないところ、不機嫌な君も全部引っ括めてあいしてます。あと2ヶ月で2年経つなんて、流れる月日の速さにびっくりするけれど変わらずにのんびり一緒に生きていこーね。これからもどーぞよろしく。あいしてるよ。
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[translation]夏が死ぬ/summer is gone
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Music by Citron Translation: tofupurin
二人の熱的死 飲めないアポトキシン 不可逆的エントロピー 溶けてく綿菓子のよう 流れ星も石ころに 花火が散れば潮時 僕らの夏が死ぬ
The heat death of the universe for us two APOPTOXIN that cannot be drank Irreversible entropy Like cotton candy that’s melting away Even shooting stars turn into pebbles When fireworks fade it’s my tidal hour chance Our summer is gone
いつかの黒歴史 猫なで声メッセージ 誓い合った「永遠に」 あれはまだ十四の頃 延命治療も 設定資料を徹底しようとも 何度も夏が死ぬ
A shameful history from days past In a coaxing voice, the message reads A shared promise “for eternity” That was when I aged fourteen Even if it’s a life-prolonging treatment, even if I go through the setting booklet For countless times, summer is dead
八月三一日 宿題はいつもギリギリ 君に言わなきゃいけないことも まだ言えずに
The 31st of August As per usual, making the homework deadline very barely The things I have got to tell you Are still left unsaid
祭囃子が鳴っている あの日の僕らとは違っている 笑ってはしゃいでいた遠くの星が 提灯のよう光っている
The festival music rings out It’s different from us on that day Laughing and frolicking, far away, the stars Shine like paper lanterns
予測可能で単調なエンドレスエイト 甘ったるいだけのレモネード ちゃんとした理由もないけれど こんな僕のエゴでごめんよ
Predicable and bland, endless eight Sickly sweet, this lemonade Even though I have no decent reason Sorry for this ego of mine
意気込む屋台はオレンジ色 君の横顔見ておセンチに酔う お面に祈る 「最後くらいは 良い彼氏を演じきろう…」
The determined food stall is a shade of orange Seeing your profile, drunk on sentimentality Praying into my festival mask “Please let me act the role of the nice boyfriend at the very last…”
二人の熱的死 飲めないアポトキシン 不可逆的エントロピー 溶けてく綿菓子のよう 流れ星も石ころに 「やがて」が指揮する呪い 僕らの夏が死ぬ
The heat death of the universe for us two APOPTOXIN that cannot be drank Irreversible entropy Like cotton candy that’s melting away Even shooting stars turn into pebbles The curse that is commanded by “soon after” Our summer is gone
いつかの黒歴史 振り返れば猛toxic 夢見たドレス&タキシード すべては瞞し 蜃気楼 延命治療も 設定資料を徹底しようとも 何度も夏が死ぬ
A shameful history from days past Looking back, it’s strongly toxic The dress&tuxedo I saw in my dreams Hiding everything, a mirage Even if it’s a life-prolonging treatment, even if I go through the setting booklet For countless times, summer is dead
或ル晴レタ日ノ事ダッタ 心の空白を埋め合うような告白を
It was during a certain sunset A love confession as if to fill the blanks in each other’s hearts
爽やかな朝練前の記憶が… 逆さまに傾けて時の砂 浴衣を通り抜ける涼しい風がやけに寂しかった
The memory before a fresh morning training… The sands of time reversed on its head The wind that blows through the yukata was especially lonely
何度辛い夜を語り明かし 悟った「痛いのお互い様」 赤色をまた光らす術を 何も持たないから僕ら 察したような涙声 I don't wanna realize yet. 「今まで あり��とね」最後の花火が舞う
For how many times we spoke through the night, realizing “the pain is mutually shared” The way to keep the redness glowing, we who hold nothing The tearful voice as if acknowledging, I don't wanna realize yet. “Thank you, for up till now” The final fireworks danced
二人の熱的死 飲めないアポトキシン 不可逆的エントロピー 溶けてく綿菓子のよう 流れ星も石ころに 「またね」と消えた彦星 僕らの夏が死ぬ
The heat death of the universe for us two APOPTOXIN that cannot be drank Irreversible entropy Like cotton candy that’s melting away Even shooting stars turn into pebbles The Hikoboshi that said “see you” and disappeared Our summer is gone
いつかの黒歴史 猫なで声メッセージ 誓い合った「永遠に」 触れぬ幻 懐う 延命治療も 設定資料を徹底しようとも 何度も夏が死ぬ
A shameful history from days past In a coaxing voice, the message reads A shared promise “for eternity” A fleeting dream that cannot be touched, reflecting Even if it’s a life-prolonging treatment, even if I go through the setting booklet For countless times, summer is dead
Translation notes: 1.アポトキシン/APOPTOXIN, a drug from Detective Conan that causes adults to shrink back to child form. 2.The title of 夏が死ぬ directly translates to “summer is dead”, but to respect the artist’s wishes, all occurrences of the phrase except one are translated into “summer is gone”, in accordance with the official English title. 3.エンドレスエイト/endless eight, from the Haruhi Suzumiya series where the main cast is repeatedly stuck in a time loop during summer. 4.彦星, for the story of Orihime and Hikoboshi, please look into the origin of Tanabata for further details.
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桜吹雪の中をのんびりとお散歩するのが楽しい季節ですね。バラたちもたくさん小さな蕾をつけ始め、メダカもホテイアオイの間を元気にスイスイ泳いでいます。
明日はアイイスのスプリングフェスティバルです。ミディアム達を介して霊界からもたらされる、光と愛と癒しに触れてみませんか? 13:00〜16:15 の開催時間中は自由にご入室、ご退出いただけます。ご参加は以下のリンクよりどうぞ!(プログラムの詳細はスクロールダウンしてご確認ください)
参加費は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています
ミーティング ID: 875 7391 5547
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先日、アカデミー賞脚色賞を受賞したミステリー映画『教皇選挙』を観て参りました。日本人にとっても馴染み深い言葉なので、原題通り『コンクラーベ』(ラテン語:鍵がかけられた)でも良かったかもしれません。(まさに根比べです!)最後のシーンで明かされる『秘密』はネタバレしない方がいいので、その部分を除いた感想です。
主人公トマス・ローレンス枢機卿演じるレイフ・ファインズの聖俗と真偽、善悪の間で揺れ動く心情を現す繊細な演技が素晴らしかったです。自らの霊性に疑問を抱き、辞職を考えていたローレンス枢機卿が、亡くなった前教皇の遺志を引き継いで止むをえず新教皇を選ぶコンクラーベを主導する中、自らの信仰に対する疑い(『トマス』はカトリックにおいて『疑い』を象徴する名前)から徐々に解放され、癒されてゆく過程を描いています。
この映画の中には、目が離せない『目に見えないモノ』が至る所に散りばめられています。聖務室で飼われている小鳥のさえずり、閉ざされた礼拝堂の外で選挙の過程を見守る民衆の声、修道女たちの献身ぶりが窺える修道院敷地内、投票権をもつ108人の枢機卿たちの思惑や舞台裏での交渉、亡くなった前教皇から届くさまざまなメッセージ、外側からは判断できない物語の最後に明かされる『秘密』、そして遍満する神の御心。
崩御した前教皇がなぜ『疑いのトマス』であるローレンス枢機卿を権力闘争とも言えるコンクラーベの進行役に選んだのか、その理由がこの映画の主題なのかもしれません。映画の始めのメインクレジットの中で、たくさんの『 i 』という一人称を意味するアルファベットだけがハイライトされていたのも、もしかするとそこにエゴ(ラテン語の一人称)の存在を示していたのかもしれません。なぜなら、自らが持つ『確信』という名のエゴは争いを生み、自らを見つめ続ける『疑い』という名の謙虚さこそが変化と改革をもたらし、自由や平等、平和を生み、真理に近づける鍵なのだと、この映画は伝えているように感じるからです。

春学期に行った誘導瞑想から4つを選んでショップにて販売しています。クラスのないこの時期にも瞑想をしたり、積読していた本を読んだり、100日行をしたりと、できることを続けながら夏学期の準備を整えてはいかがでしょうか。
ショップから直接ご購入いただけます。
誘導瞑想「種まき祭」 30:00
ベトナムの山岳地帯に住む少数民族の村を訪ね、幸運と繁栄をもたらすとされる「種まき祭」 に参加しましょう。永遠の愛と希望のメッセンジャーとされる花や、自然の法則を全て満たしている果樹、天と地の合一を象徴する木を祝福し、一定の法則で互いに影響を与えあいながら循環している哲学に触れ、自然界に宿る五つの元素と繋がってください。
誘導瞑想「インカ・レインボー」 30:50
インカ帝国の太陽神に見守られながら、さまざまな姿で現れる美しく神聖なレインボーに出会います。ケチュア族と共に 「浄化の道」を辿り、地球のエネルギーが身体の不純物や精神的な重荷を浄化する重要な儀式に参加しましょう。また、ヒーラーとして数多くの病人の治療を行ったともいわれている創造神に出会い、あなたの内側にも存在する虹の光を癒しましょう。
誘導瞑想「神殿の谷」 30:30
南イタリアのどこまでも広がる青い海と澄み切った空、春の風物詩であるアーモンドの花に出迎えられ、自然の営みの中に自分自身の生命の輝きを見出してください。ドーリア式のギリシャ神殿では神々があなたの魂を清め、癒し、愛で満たすでしょう。かつて最も美しい街、と称えられた悠久の歴史を持つ土地のエネルギーに出会い、あなたは何を学ぶのでしょうか。
誘導瞑想「メメント・モリ」 31:15
葡萄畑の中に建つ、簡素で高潔なシトー派の修道院で祈りと勤労の生活を送る白い修道士達と共に、彼らの教えの中核である愛、調和、美、光に触れ、死の概念に出会い、命を吹き込まれた肉体となって霊的収穫を得るための恩恵に近づきましょう。葡萄の古株が冬眠から目覚めた時に現す恍惚の姿に、あなたという魂にとっての光の祝福を見出してください。
動画ではなくBGM付きの音声ファイルです。 価格:700円(税込)
アイイス・スプリングフェスティバル
アイイスのフランチャイジーと一緒に、春の訪れを祝いませんか?たくさんの人が集まってお互いの光を持ち寄り、共に祈り、笑顔で楽しむと、霊界からも大きな光と愛と癒しがもたらされます。生命が息づき、輝き、成長し始める春を一緒に賛美しましょう!
開催日:4月13日(日) 13:00〜16:15 出演ミディアム: 森 梢・本村 香耀・澤輪 燕・亜笠 未來・蒼井 ふみ・恵子 タイムテーブル: 13:00 開会の祈り(蒼井) 13:03 遠隔ヒーリング(阿笠) 13:11 サーモン(森) 13:21 ヒーリング希望者募集 13:25〜霊界通信のデモンストレーション 13:25〜13:35 蒼井ミディアム(先祖・身内・知人霊) 13:35〜13:45 澤輪ミディアム(指導霊) 13:45〜13:55 亜笠ミディアム(先祖・身内・知人霊) 13:55〜14:05 恵子ミディアム(過去世) 14:05〜14:15 本村ミディアム(先祖・身内・知人霊) 14:15〜14:25 森ミディアム(指導霊) 14:25〜ヒーラー有志によるヒーリングタイム<別室> <同時進行> 14:25〜14:35 レクチャー『スピリチュアリズムの発展』(本村) 14:35〜14:50 瞑想(恵子) 14:50〜14:55 休憩 14:55〜霊界通信のデモンストレーション 14:55〜15:05 蒼井ミディアム(指導霊) 15:05〜15:15 澤輪ミディアム(先祖・身内・知人霊) 15:15〜15:25 亜笠ミディアム(過去世) 15:25〜15:35 恵子ミディアム(先祖・身内・知人霊) 15:35〜15:45 本村ミディアム(指導霊) 15:45〜15:55 森 (サイキックアート) 15:55〜ワンポイントメッセージ(ミディアム全員) 16:10 閉会の祈り(恵子) ご参加は以下のリンクまたはミーティングIDからどうぞ!
ミーティング ID: 875 7391 5547
参加費は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています
クラスの詳細及びお申し込みはこちらのページからどうぞ。
継続受講の方は直接ショップからお申し込みください。
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アウェアネス・ベーシック後期 Zoomクラス
このクラスは、2025年春学期以前のベーシック前期クラスを受講された方のみ、ご受講いただけます。
土曜日:19:00~21:00 日程:5/24、6/7、6/21、7/5、7/19
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アウェアネス・ベーシック通信クラス
開催日程:全6回 お申し込み締め切り:5/14
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アウェアネス・オールレベルZoomクラス
火曜日:19:00~21:00 日程:5/27、6/10、6/24、7/8、7/22
木曜日:10:00〜12:00 日程:5/22、6/5、6/19、7/3、7/17
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アウェアネス・マスターZoom クラス
月曜日:19:00〜21:00 日程:5/19、6/2、6/16、6/30、7/14
火曜日:19:00〜21:00 日程:5/20、6/3、6/17、7/1、7/15
金曜日:19:00〜21:00 日程:5/23、6/6、6/20、7/4、7/18
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サイキックアートZoomクラス
日曜日:17:00~19:00 日程:5/25、6/8、6/22、7/6、7/20
水曜日:16:00~18:00 日程:5/21、6/4、6/18、7/2、7/16
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インナージャーニー 〜瞑想と内観〜 Zoomクラス
木曜日:19:00~20:00 日程:5/22、6/5、6/19、7/3、7/17
土曜日:13:00~14:00 日程:5/24、6/7、6/21、7/5、7/19
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マントラ入門 Zoomクラス
金曜日:10:00~12:00 日程:5/30、6/13、6/27、7/11、7/25
土曜日:13:00~15:00 日程:5/31、6/14、6/28、7/12、7/26
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トランスZoomクラス
木曜日:10:00~12:00 日程:5/29、6/12、6/26、7/10、7/24
土曜日:19:00~21:00 日程:5/31、6/14、6/28、7/12、7/26
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サンスクリット・般若心経 Zoomクラス
水曜日:19:00~21:00 日程:5/21、6/4、6/18、7/2、7/16
金曜日:10:00~12:00 日程:5/24、6/7、6/21、7/5、7/19
ドロップイン・ナイト
5月29日(木)19:00〜20:00 会員限定・参加費2,500円
7月24日(木)19:00〜20:00 会員限定・参加費2,500円
内容:指導霊(スピリット・ガイド)のサイキックアート
詳細とお申し込みはこちらからどうぞ。
過去の開催の様子はこちらからご覧ください。
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サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
5月25日(日)12:30〜14:00 担当:森+神塔ミディアム
6月15日(日)12:30〜14:00 担当:森+松山ミディアム
7月13日(日)12:30〜14:00 担当:森+恵子ミディアム
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
5月〜7月へのご参加は全て以下のリンクよりどうぞ。
#conclave#thomas lawrence#awareness#unfoldment#spiritualism#supiritualist#mediumship#spirit communication#霊性開花#アウェアネス#スピリチュアリズム#教皇選挙#誘導瞑想#guided meditation
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シダレエゴノキ(白花) エゴノキ の特徴と育て方 value808
● エゴノキ シダレエゴノキ(白花)の品種の特徴 悠々自然な樹形をつくります。日陰にも強く、生育も旺盛で大変丈夫な木です。洋風にも合います。枝ものとして切花にも使えます。初夏にかわいい釣鐘型の花が無数に下を向いて咲きます。枝垂れた樹形も美しく、年間通して楽しめます。やや見上げるような樹高の方が開花期を楽しめます。自然な樹形と花を楽しむ雑木です。シンボルツリーとしても人気が高いです。 エゴの木は自然樹形で楽しむ雑木です。ナチュラルなお庭に向きます。街路樹にも使われる丈夫で手間が少ない木です。日陰にも強く、生育も盛んな丈夫で育てやすい木です。樹形も美しく、年間通して楽しめます。エゴの木の果実は有毒なので食べないようにしてください。食べるとエグイことから「エゴノキ」という名前がついたそうです。 学名 Styrax…

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さようなら2024年、こんにちは2025年。
年末になると、急いでその年を振り返るための文章を認めるのが恒例になっていた。 今までは、時間がなくともカタチにすることを至上命題とし、 書き終わった後に、もっとこんなことを書けたんじゃないかと思うことも少なくなかった。
この文章を書いている今時点、世の中はすでに2024年を終え、2025年を迎えている。
これまでの人生を振り返ってみると、どちらかといえば、ひとつのことに時間をかけるより、 とりえずは飛び込んでみる、やってみる、形にしてみることに重きを置いてきた。
齢を重ねてその性質が変わったかと問われると、根本的な部分は変わっていないと思う。 けれども、以前と比べると、やってみる<深める にシフトしつつある自分がいることは確かだ。
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2024年も、実にたくさんのことが私たちの日本、世界各地で起きた。
個人的な記憶として鮮明に残っているのは、米国大統領選挙。 数年前だとありえないとされたトランプ前大統領が、圧倒的な勝利を収めた。
日本のマスコミの「民主主義の敗北」というような報道を多く目にしたが、 どうもうまくその報道姿勢を飲み込むことができなかった。
私個人として、トランプ前大統領を全く支持はしておらず、彼が過去に行ってきたことは許容できない。 一方で、米国という国を大きな塊としてみた際に、彼を選ぶ他に選択肢がなかったのだと思う。
「民主主義の敗北」といった、耳障りの良い言葉で情勢分析をする日本のマスコミは、 今風の言葉でいうところの「オワコン」なのかもしれないと、夜の報道を観ながら思った。
別にマスコミ批判をしたいわけではない。 今まで良いとされてきたものがついに駆逐される時代がやってきたのだ。
同時に、やはり歴史は繰り返す。 欧州でみられる右派政権の台頭をみてみると、時代はまた同じ轍を踏むのだろう。
大きく悲観する気持ちはあると同時に、思考停止に陥りたくないと思う自分がいる。
――――――――――――――――――――――――
そんな2024年は僕にとって、「創る」年だった。
2024年9月、日本における移民の子どもの母語保障についてのドキュメンタリーを制作した。

(映画「In Between- in Search of Native Language Spaces / はざま-母語のための場をさがして-」」
「制作した」と書くと、短い期間でつくりあげたような印象を与えてしまうけれども、 プロジェクト自体は2023年の8月からスタートしており、
約1年の撮影と編集を終え、無事に完成した。
映画のTrailerはこちら。
大変ありがたいことに、すでに多くの大学や組織で上映をしていただいている。 (上映に興味を持ってくださる方はこちらからご連絡をください)
映画の細かい内容は割愛するとして、 一言でいうと、今回の映画制作はひたすらに自分との闘いだった。
映画を作るたび、どうしてこんなことに興味を持ってしまったんだうと思う。 ドキュメンタリー制作というのは、ある種の命を削る作業だと僕は思っているが、 それでもその削られた命はどこかで新たな芽を産んでいると信じてやまない。
こういう考え方をしているせいか、会う人会う人に「修行僧みたいですね」と言われることが多くある。 断じて言いたいのは、本来的に僕は「なまけもの」的性質が強い人であるということ。 ただ、成し得たいもののためには、あまりにも能力が不足している、 不足しているならば、できるひとたちより、より多くの時間やコストの投資が必要だ。
理由は、すごくシンプルなのだ。
そういえば、朝のルーティン(ランニング、筋トレ、ヨガ)を始めて、2025年で10年目になる。
体調不良にならない限り、どこにいようが、ほぼ毎日そのルーティンを繰り返してきた。 そういうことをいうと、これまた、「ストイック」ですよね、と言われることがある。 断じて言いたいのは、そうしなければいけない「理由」がそこにあるだけ、ということ。 (この場合は、偏頭痛や気持ちの浮き沈みを軽減することが何より重要だと10年前に考えたので)
話を映画制作に戻す。
ゴールデンウィークから映像編集作業を開始した。 こういった映画という構想はあれども、どこにもシナリオはない。 シナリオのなかで物語を動かすきっかけとなるのは、僕のペンだ。
見えない敵のような「なにか」を必死に掴もうと、 ほぼ毎日シェアオフィスの同じ席に、朝から夜まで座り、思考をこらし、編集作業もした。
編集を終えてみて思うのは、10年前の僕だったら絶対に放棄しているということ。
いや、放棄は大袈裟かもしれないけれども、多かれ少なかれ、妥協をしていた確率は非常に高い。 朝のルーティンを10年継続したことがよかったのかどうかわからないけれども、 ジリジリと積み上げることの深みというか滋味のようなものをここ数年で知ったとも言える。
(ちなみに次回作の編集を考えると、これまた面倒だなという感情があるのは確か)
あと2,3年もすると、齢40に到達する。 多動気味で、いつも怪我をして病院に運ばれてばかりいた少年が、 ここまで変わるなんて、人生わからないものだ。
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ところで、身体は順調に老化の一途を辿っていると感じている。
4月頃に感染症に罹患し、8月に原因不明の病気(?)に悩まされた。 後者の方は、検査をすれど感染症のサインはなく、それでも高熱が続き、1週間ずっと床にいた。 何より、いつもなら体調不良でもたくさんのご飯を口にできる僕だけれども、 今回はほぼ何も口にすることができず、それを隣で見ていた妻が非常に心配していた。
夏だけれども、冷房を入れずに、夏の風に揺られるカーテンを眺めながら、 いつになったら体調回復するんだろう、健康第一とはよく言ったもんだなんてことを思っていた。
身体とは、とことんわからないものだと思う。
2024年は、近しい人の身体に関する悪い報告がたくさんあった。 いわゆる、「がん」と呼ばれる病におかされてしまったという報告。 なんで、「がん」は私たちの体にやってくるんだろう、何がしたいんだろう、 そもそも現代の医学で治癒できないなんてことがありえるのだろうか。 全知全能の神のように、なんでもわかりえてしまう現代社会においても、 私と大切な人の間を分断してしまうものが、存在するということがにわかに信じられなかった。
そして、今でもうまく自分のなかで咀嚼することができていない。 人は生まれた瞬間に死を迎えることを運命づけられる。 そんなことはわかっている、けれどもやはり、わからない。
こうしている間にも、私は死へ向かっている。
私は特定の宗教を信仰していないが、それでも何らかの神にすがりたいと思うのは、 極めて自然なことなんだろうと、自身の経験をもって、改めて理解したような気がした。
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あることがきっかけで、六本木で開催されていたLouise Bourgeoisの展示に赴いた。 展示途中に、「芸術は正気を保証する( Art is a guaranty of sanity)」という言葉に目が留まった。
私にとって、すべての行動は正気を担保するためのものだ。 とりわけ、創作活動は「表現せずにはいられない」気持ちによるものだ。
こういうことを書くと、格好をつけるなと言われるかもしれないが、本当にそうなのだ。 私から創作やそれ以外のアウトプットを奪ってしまうと、私はこの世に存在したいと思えない。
ただ、生物学的に考えると、生まれたことに理由はないことは明瞭なわけだし、 生き続けることにも必然性のようなものはないはずだ。 そこに物語を付与し続けるのは、人間の極めて傲慢なエゴによるものなんだろう。
私にとって、創作活動と同じく正気を担保するためのものとして、「旅」がある。
「旅」というと、「余暇」のようなバケーション的行為を連想されるかもしれないが、 私にとっての「旅」とは日常の延長性上にある、けれども「ホーム」ではないところを回ることだ。
そういった意味では、毎年、国内線・国際線含め年30回以上飛行機に搭乗し、 月の半分はほぼ自宅にいない状態をすでに10年以上続けている。
そういった意味では、「旅する人生」と言っても過言ではないと思っている。
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その「旅」と「創作」を合わせたのが、「シルクロード・プロジェクト」だ。
きっかけは、コロナ禍前のウズベキスタン渡航。 ウズベキスタンでは良い記憶しかなく、それがよかったのかウズベクに関わる創作をしたいと思った。
帰国後、早速次なる目的地であるイランへのフライトを予約し、渡航。それが2020年2月末だった。 渡航直後に世界的にコロナが流行し、イランのテヘランに軟禁状態で滞在し、 運休が続くフライトの中から、 なぞのイランの航空会社のフライトに搭乗し、マレーシア経由でなんとか帰国。
そこから、コロナ禍で長らく海外に赴くことは叶わず、コロナが明けたと思えた昨年、 私はインドに向かった。

(Hawa Mahal@Jaipur)
不勉強すぎて知らなかったけれども、行ってからわかったのは、 インドはウズベキスタンと深く関わりがあるということ。 例えば、ウズベキスタンで食べたプロフ(ラム肉を使ったピラフ)は、イランではポロと呼ばれていた。 遠い記憶にあった言葉、「シルクロード」。そう、すべてはシルクロードで繋がっていた。
そこから私は毎年訪れる国を、シルクロード縛り(?)でまわるようにしている。
前置きが長くなったけれども、今年選んだのは���トナムという国。 ベトナムとは、個人的な深い関わりもあり、 なんなら大学時代はたくさんのベトナムから来た友人に囲まれていた。
ベトナムがシルクロード?と思われるかもしれないが、 ベトナムの海岸沿いは交易の地として栄えていた。
事実、訪れたホイアンという街には、日本の長崎から贈呈された御朱印船のレプリカまで置かれていた。
そんなベトナムを、約10日間で南北横断する旅を敢行した。 順路は、ホーチミン→ホイアン→ハノイ。
今でも思い出す、成田発の飛行機が到着したホーチミンの空港に降り立ったときの蒸し暑い空気、 ベトナム名物と言われるバイクの隊列、日本でもよく食べるフォーをひたすら食べたこと、 プロパガンダアートが描かれた店内で飲んだベトナムコーヒー、 確かにここでは戦争があったんだとわかる跡地と博物館、 最終日に訪れたスペクタクルな建物、ホーチミン博物館。

(photo taken by my partner, Cong Ca Phe@Hoi An)
すごく平易な言葉かもしれないけれども、確かに世界は繋がっているのだと実感した。
インドを訪れた際は、初日と最終日しか食(主にカレー)に舌鼓を打つことができなかったが、 ベトナムでは毎日おいしさに溢れた日々を過ごせたのは、奇跡的だったと思っている。 (それくらいにインドが過酷だったわけだけれども)
インドがそうであったように、一度の滞在でベトナムを満喫できたとは言い難い。 次に訪れる際は、海岸沿いではなく、内陸地を時間をかけてまわりたいと思っている。
2025年、シルクロードプロジェクト。いよいよ、目的地を「中国」に据えてみようと思う。
これも何かのきっかけだと思い、2024年の年の瀬から、 HSK3級を目標として、中国語の勉強をスタートした。
さて、中国への旅、どうなるのだろうか。
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今でも実感がないと言えばそうなんだけれども、僕には法的に認められたパートナーがいる。 しかも、僕の場合は二つの国で夫婦として認められている。 書類は2箇所出す必要があり非常に面倒ではあったけれども、 二つの国で認められるなんて、なんか得した気分。
前述のシルクロードプロジェクト、昨年のインドも、 そして今年のベトナムもパートナーと一緒に移動し、旅をした。
旅をするということは、文字通りずっと一緒にいることになる。 それは、裸を見せ合う以上に恥ずかしいし、ストレスがたまることでもある。
何なら本来的に一人で行動するのが好きな僕にとって、 すなわち人に合わせることのできない僕にとって、 だれかと「ホーム」でない場所に滞在するというのは、決して楽とは言えない。
それが理由からかどうかはわからないが、ベトナムではたくさん喧嘩した。
インドは過酷さによって喧嘩をするほどの気力がなかっただけなのかもしれないが、 より安全で、より清潔であるベトナムにおいては、とりあえず喧嘩が多発した。 だからといって、パートナーを置いて、「ほな、日本集合で」というわけにはならないし、できない。 (そんなことをしかねないのが僕だから、非常に性格に問題ありだと自分で思う)
インドでの一番の思い出は、二人でトイレを取り合ったこと。 リアルすぎる体験談はさておき、バラナシのガンジス沿いで毎晩行われるプージャをみたこと。 事故にあったでもないのに、すべての音と動きがスローのように思えた。
では、ベトナムはどうだったか、これを書きながら改めて考えている。 ベトナムでは、たくさんの博物館や記念館を訪れた。 ベトナムという国の文化保存への意識の高さを感じた。
けれども、そういった博物館や歴史的建造物を一緒に訪れたことはあまり記憶に残っていない。
記憶としてもっとも深く刻まれているのは、中部の都市のホイアン市街を自転車で移動したこと。
ベトナムはありえない数のバイクがあまりにも有名だが、それらの隊列と共に、 ホイアン市街を颯爽と、自転車を漕いだ。
まだまだ暑さの残るホイアン市街を 二人で大した目的もなく街を知ろうと自転車で回ったこと、何より記憶に残っている。

(near Old Quarter, Hanoi)
不思議なのは、インドのときもそうであったように、 長期の旅から帰国すると、二人の関係性が良くなる、というより深くなることに気づく。 これは、パートナーも同意している。 環境や言語の違う場所で、時間を共有することは、何かを生み出すのかな。 2025年は、パートナーと共に、いざ中国へ。
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この文章、かなり時間をかけて、ゆっくり書いている。 だから、今までの振り返りブログと比にならないくらい長文になっている。 なので、ぼちぼち終わりにしたいと思う。
2024年、ご縁をいただいた方、出会ってくださった方、 時間を共にしてくださった方、ありがとうございました。 2025年、これから時間を共にするであろう皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。
笑って、楽しく、それでも真面目に、やりたいことをやっていくぞ。
良い一年でありますように。
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おまけ:Hoan Kiem Lakeでは妙齢女性の健康ダンスが盛んだった。
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書物礼賛①
ヨーゼフ・ロート/聖なる酔っぱらいの伝説 他四篇/岩波文庫2013
「フランツ・クサーヴァーには、はじめ、この不快な見世物の意味がさっぱり呑みこめなかった。ただその一団がいかなる連中でなりたっているかは感じとった。はれんちな老人ども(裾をまくりあげたマネキン女つき)、休日にハメを外している女中たち、シャンパンの売り上げ金と自分のからだを給仕と分けっこしているバーの女たち、女と小切手を売り買いする遊び人、肩をふくらませた背広に、スカートのようにひらひらした幅広ズボン。唾棄すべきブローカーともであって、家、店舗、市民権、旅券、免許、わりのいい縁談、洗礼証明書、信仰告解、称号、養子縁組、娼家、ヤミのタバコ等々、なんであれ斡旋しようというものだ。敗戦のうき目をみたヨーロッパの首都にあって、死体を食らって大きくなり、それでもいっこうに食いたりず過去をしゃぶり、現在の汁を吸って、高らかに未来を謳歌している。この手の連中が戦後このかた、肩で風切ってのし歩いている。モルスティン伯爵には、この自分が死体のような気がした。わが墓の上で、彼らが踊っている。かかる徒輩に勝どきをあげさせるために数知れない人びとが苦しみつつ死んでいった」
こんなに面白い、自分のことが描かれていると感じた海外小説は初めて。今夏に体調を崩し、リフレッシュを兼ねて大量の本を整理・処分するなかで、どうせ岩波の翻訳小説でしょ、でも最近の出版だしちょっとチェックするかと電車内で読み始めた「蜘蛛の巣」(5つの中短篇が収められた最初の中篇でナチ党に参加して成り上がる元兵士の男を描く)、流麗な日本語訳で読みやすく、まるでナチの暴動に居合わせたかのような臨場感で止まらなくなった。
引用したのは4つ目の短篇「皇帝の胸像」からで、円安が進み外国人が増えてきた今の東京に通じる新自由主義的な世界に、取り残された主人公の老伯爵の境遇が切実。5篇すべて傑作。

弓月光/お助け人走る!・全3巻/集英社マーガレットコミックス1980
処分するつもりで読み始めたら夢中になったというのは前項と同じ。最初にコミックス1巻を買って胸を熱くした80年夏がよみがえるかのよう。少女マンガ時代の代表作『エリート狂走曲』は連載から1年ほど遅れて出会って強く惹かれ、次の連載の本作からほぼリアルタイムで読めるように。週刊連載の過酷なスケジュールや人気競争も、弓月さんにとってはガソリンだったのか、ご本人がノリにノッて楽しくお話を組み立てているという熱気。今回の再読で特に感心したのは大願寺誠という大男のサブキャラのかっこよさ。そもそも矢口さん江口さん魔夜さんなどと同様に作者自身もギャグの一環としてしばしば作中に顔を出す作風であるが、このキャラにもご自身の投影が含まれているのではと思わせる力のみなぎりようでした。
藤原マキ/私の絵日記/ちくま文庫2014・原著1982
飲食時の娯楽として最近くりぃむしちゅーに次ぐ重要な存在になってきているのが中川家のラジオ。メディア上の印象とは逆に、学生の頃は兄の剛さんが社交的・積極的、弟の礼二さんが内向的でもの静かな性格だったそうで、ラジオでは剛さんが庶民の本音をうかがわせる毒舌やぼやきでトークを引っ張っていく場面がしばしば。互いを熟知し、持ち味の違いが完璧に噛み合っているコンビネーションの気持ちよさはくりぃむしちゅーと共通。
本書は82年の原著に、文春と学研、過去の2度の文庫化で加筆されたあとがきなどを増補しており、特に2003年の学研M文庫版のあとがきとなった夫・つげ義春さんの「妻、藤原マキのこと」では、既に亡くなったマキさんの日記での主張に本気で反論しているのが、逆に家族の濃密な愛と歴史をのぞかせて印象的。「本当のこと」しか描きたくないから、『無能の人』では貧しい暮しにもかかわらず執筆依頼を断る様子が描かれたり、本書もマキさんにとって本当の日々が描かれているからこそ、ずっと後になって海外で表彰されることになった(2024年・アイズナー賞・最優秀アジア作品賞)のだろう。
梶原一明 x 徳大寺有恒/自動車産業亡国論/光文社カッパビジネス1992
「確かに日本の自動車産業というのは、世界の自動車産業と比べて先進性がある。カンバン方式に代表される(中略)卓越した先進性は即、卓越した国際競争力につながる。 ところがこの先進性は、非常に特殊な先進性なのだ。かつてフォードが考え出した流れ作業、コンベア方式に代表されるアメリカの先進性は普遍的先進性だった。だからどこの国でも受け入れられるものなのである。日本の特殊先進性は、簡単にいえばほぼ単一言語、単一人種、単一価値観という特殊な前提、環境に支えられているといっていい」
「豊田章一郎氏の『七割が商社機能』という答えに関しては、まさに詭弁でしかない。(中略)その最後の最後は本当に地方の家庭のいわゆる三チャン労働者にまでいっている。電球のコネクターにハンダをちょこっと盛るという内容の仕事を、すでに日本の貨幣の単位ではない何十銭仕事でやっているのだ。おばあちゃんが『今日は二千円できたね』という、これはおよそ商社機能とはいえない」
「日本では通用しても世界では通用しない。いや、今日ではすでに日本でも通用しなくなっているのではないだろうか。たとえば企業エゴの問題で、他企業から名指しで批判を受けるケースがいちばん多いのは、トヨタと松下だという話を聞いた。この指摘は、トヨタや松下の商法が、それぞれトヨタ保護区、 松下保護区へお客を囲い込むことに執着するあまり、日本あるいは日本人全体に対して、トップメーカーは何をなすべきかという視点を欠落させていることを証明している。トヨタがもしお客さまは神様と思っているのであれば、本当にお客のためになること、たとえば車検制度の問題などに関しても、率先してユーザーの代弁をするべきなのである」
先日高校時代の友人K宮くんM��くんと歓談する機会があり、私が本書によるうろ覚えの知識をもとに「トヨタはじめ日本の近代工業は江戸の封建制を引き継いだ軍国主義の成功例で、今は同じ要因で没落している」と持論をぶったところ、トヨタ内部で社員証を持って働いた経験のあるM原くんが猛反論してヒートアップ。彼によれば国=運輸省・国土交通省から最も冷遇され、距離を置いて自分たちのやり方を洗練させてきたのがトヨタであり、既に自動運転やスマートシティ構想についても実現可能な技術力を蓄えているが、国が認めないから日本を出ていくことも視野に入れているという。信憑性のある話であり、今も世界各国を走っている自動車業界が、銀行・商社・家電・NTTや特に大学・マスコミなどの国民を人質に取った護送船団方式と一味違うことは頷ける。興味がある、もっと知りたいと彼に話したところ、彼が後日トヨタはじめ自動車産業の成り立ちをレポート形式でレクチャーしてくれるというので楽しみにしているところです。
鈴木直人/うつは「体」から治せる/BABジャパン2017
「副交感神経はリラックスしたり休んだりするだけでなく、『人と良好な関係を作る』という能力を持っている神経であるということです。(中略)副交感神経の感情である『悲しみ』が出せる人ほど副交感神経が活性化しているため、オキシトシンが出やすくなっています。そのため、悲しみをきちんと出せる人ほど幸せを感じられるようになるのです」
「自律神経は空想と現実の区別がつきません。また、時間の感覚もありません」
先日、やっとパソコン作業のための椅子など環境が整ったとホッとしていたら、翌日の昼ころパソコンに向かっていると少し体調が悪くなって。どうやら「睡眠が若干足りない」「明け方悲しい夢を見た」のに加え、午前中洗濯するので履き替えた新品のパンツのゴムがキツ過ぎて、血液やリンパの流れを阻害したのが決定打になったようだ。着替えてウォーキングをしたら調子が戻ったのですが、そんな些細なことからクヨクヨと思い悩んでしまう、神経過敏な性格の方が問題なのかも分らない。
今夏に自律神経失調に見舞われ、たくさんのユーチューブを見たり整体に通ったり健康本や道具を買っては捨てる、期待と失望の連続でしたが、それらを総合して分ったことは、体は生命の億万年の歴史を記憶していて脳より賢い、むしろ脳が勝手に過去に縛られたり、取り越し苦労をして体に嫌がらせをしている面が強く、痛みや発疹をはじめ体の発するサインに耳を澄ませて、自分の体のことは自分が一番知っている、医師や整体などに助けてもらうにしても最短距離で回復できるよう真面目に今を積み重ねていかねばということです。
そのためにも、gooブログから引っ越して再スタートするにあたり、これまでのような悪口・ヘイトはやめ、批判するにしても個々を良くない方へ導くような構造や歴史こそを見据えていきたいと考えています。
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昨日から突然気温が下がった。秋を感じざるを得ないというよりかは、夏が終わるのを肌で受けとめるような感覚。曰く、四季の中で夏だけが死ぬらしい。だからいまさみしいのはわたしの肌が晒された所為。ねえ、ずうっと続く関係なんてないんだ、続くのは地平線と祈りだけだ。あなたの想いなんてただのエゴだよ、本当は最初から嬉しくもなんともなかった。わたしのボーダーレスな部分が招いた終焉。切るための道具を切りつけるために使った。誰のちかくにも居たくない、それは傷つけたくないからじゃなくて傷つきたくないから。自己嫌悪。全部ぐしゃぐしゃに、滅茶苦茶にしたい、わたしが滅茶苦茶になったらいい、狂わないように必死になっているけれど、何のために?好意と憎しみが同義じゃない辞書で引く言葉に正しさなんて、ないだろ
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