#新・極道の妻たち 覚悟しいや
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ゴールまで1km、倒れた女性 使われなかったAED…「抵抗なくなる社会に」考え続ける家族
3/7(金) 7:00配信
withnews

2013年、マラソン大会に参加した柘植彩さん。ゴールまで残り1kmの地点で突発的な心停止に見舞われました=家族提供
ゴールまで残り1km、ひとりの女性ランナーが急に倒れました。心臓が止まっていて、すぐにAED(自動体外式除細動器)が運ばれてきましたが、使われることはありませんでした。命は助かりましたが意識障害が残り��女性は寝たきりの生活を送ります。家族は「抵抗なくAEDが使える社会にしていくにはどうしたらいいのか」と考え続けています。(朝日新聞withnews編集部・河原夏季)
【画像】現在、寝たきりの生活を送る女性と家族 AEDが使われなかった理由は
〝性別〟を理由に使われず 「決して速くはありませんが、夫婦でマラソンを楽しむ生活をしていました」
京都府に住む柘植(つげ)知彦さん(57)は、そう振り返ります。
2013年12月、地元のマラソン大会で8.8kmのコースを走っていた妻の彩さん(50)は、ゴールまで残り1kmの地点で突発的な心停止に見舞われました。当時39歳の彩さんに持病はなく、突然のことだったといいます。
沿道にいた女性が異変に気づいてすぐに胸骨圧迫(心臓マッサージ)を始め、数分後にはAEDを載せた大会の救護車も到着しました。
AEDは車から降ろされたものの、使われなかったといいます。
のちに柘植さんが大会の主催者に確認したところ、「駆けつけた救護員が男性で、倒れていたのが女性だったから使われなかった」と説明を受けました。
AEDは素肌に直接パッドを貼るため、女性への使用がためらわれることもあります。
しかし、もっとも大切なのは命です。心臓が止まってしまった場合、AEDによる電気ショックが1分遅れるごとに救命率は約10%ずつ低下するといわれています。
下着をずらすなどしてパッドを素肌に貼ることができれば、服をすべて脱がさなくても使うことができます。
服を脱がせた場合でも、パッドを素肌に貼った後なら上からタオルや服をかけて隠しても問題ありません。
ほかにも、救助者が何人もいる場合は人垣を作って周囲の目から隠したり、救助の様子をスマートフォンで撮影しようとする人に声をかけてやめるように促したりもできます。
「どうしたら…」考え続ける家族 彩さんが倒れてから約20分後、救急車が到着しました。救急隊によってAEDが使われ、彩さんは病院へ搬送されました。沿道にいた女性は、救急隊が来るまでの間、1人で胸を押し続けてくれたそうです。
当日は夫の知彦さんもマラソン大会に参加予定でしたが、熱が出たため彩さんだけが参加していました。知彦さんが知らせを受けて現場に着いたとき、彩さんはすでに運ばれたあとでした。
彩さんの心拍が戻ったのは、心停止から約50分後。脳の広い範囲に酸素が届かず、意識障害が残りました。
現在、まばたきで意思疎通ができるまで回復しましたが、体はほとんど動かせず、在宅で治療を続けています。
「どうしたら性別や年齢の区別なく、手を差し伸べられる社会を実現できるのか」
夫の知彦さんはそう考え続けています。
事故当時、4歳だった一人娘の奏恵(かなえ)さん(15)は、小学校高学年のときに初めて救命講習会に参加し、AEDの使い方を学びました。
夏休みの作文には、次のように記しました。
「決して簡単ではない内容だったが、私は母のことを考えながら一生懸命に取り組んだ」
「子どもも含め、多くの人が心肺蘇生やAEDについてもっと知るべきだと思う。そうすれば、倒れている人が男性でも、女性でも関係なく、救われる命が増えると思う」
「人が持っている優しい心に、こうした知識が加われば、お互いがお互いを助け合うことができると思う」
母の出来事と重ね…葛藤する娘 中学生になった奏恵さんは、葛藤を抱えていました。心肺蘇生法の授業で、心停止で倒れた人を助ける動画が流れたとき、母・彩さんの体験が重なって机に伏せて泣いてしまったといいます。
中学校は地元から離れていたため、入学当時は奏恵さんの境遇を知る人はいませんでした。しかし、仲の良い友達には彩さんの事故や後遺症について伝えてきたそうです。
「みんなそれぞれ何かしらつらいことを抱えているし、自分がかわいそうだというのは発信したくないと思っています。お母さんのことは隠しているわけではないけど、聞かれたら『ついに来たな』と思いながら話しています」
「女性だから使ってもらえなかった」と伝えると、「私だったら使ってほしい」と言う女子や、「女性だからってなんで使ってもらえないのか」と話す男子もいたそうです。
奏恵さんは、小学生のときからずっと「倒れた人にはAEDを使ってほしい」と考え、自らも使いたいと思っていました。
しかし、中学3年生になった今、自分にできる具体的な行動を考えるなかで「いざ救命現場に遭遇したときに自分が使えるかどうか」、悩むようになったといいます。
「お母さんのこともあるし、前までは絶対に私がAEDを使わないとと思っていたけど……倒れている人に触れて心肺蘇生をする前に自分のなかの色んなものがこみ上げてきて、できなくなるんじゃないかなって……」
目の前で人が倒れたら、母の出来事が頭をよぎってしまって行動に移せないのではないか。そんな複雑な思いを抱えるようになったそうです。
一方で、実際に自分が胸骨圧迫をしたりAEDを使ったりできるかは分からなくても、ほかにできることはあるとも話します。
「AEDを持ってきたり、救急車や応援を呼んできたり、無責任だけど誰かに『使ってほしい』と伝えたりすることはできる。AEDを使う覚悟は普段から持っていたいけど、まずは自分にできる行動をすることが大事かなと思い始めました」
男性より低い女性への使用率 総務省消防庁によると、心臓が原因で倒れた人のうち、通行人らに目撃された例は2023年に2万8354人でした。そのうち、AEDの電気ショックを受けたのは1407人で約5%にとどまっています。
熊本大学などが2005~2020年に心停止をし、市民に目撃された約35万人(平均年齢78歳、女性38.5%)を対象に調査(※)した結果、AEDの電気ショックを受けた割合は、男性が3.2%で、女性が1.5%でした。15~49歳の男女では、男性7.0%に対し、女性は3.8%。心肺蘇生を受けた割合も、男性56.8%に対して、女性は53.5%でした。
女性への使用について、インターネット上では「セクハラで訴えられる」という誤った投稿がありますが、意図的に危害を加えるといった悪意がない限り、罪や責任を問われる可能性はありません。善意で人を助ける救命処置は刑法37条の「緊急避難」と民法698条の「緊急事務管理」にあたります。
日本AED財団は、「一刻を争う事態では相手が女性であってもためらわずにパッドを装着してほしい」と呼びかけています。妊娠中と考えられるケースでも、心停止が疑われたら命を救うために積極的に使用してほしいそうです。
「手を差し伸べられる社会」になるために 依然としてAEDが使われていない現状について、マラソン大会で倒れた柘植彩さんの夫の知彦さんは、「そもそもAEDの仕組みがあまり知られていないのでは」と疑問を呈します。
AEDは、心臓がブルブル震える「心室細動」の状態になってしまった際、電気ショックによってリズムを元に戻すための機器です。パッドを貼るとAEDが自動で心電図を解析し、電気ショックが必要かどうかを判断してくれます。
生物科学を専門とし、京都大学化学研究所の准教授である知彦さんは、講師として高校で生徒たちに授業をする際、彩さんやAEDについても話すそうです。そこで、AEDを人間が作り出した「魔法の道具」と表現するのだといいます。
「AEDは、何もしなかったらまず生き返ることはない人に対して、こちら側の世界に戻してあげられる科学が生んだ『魔法の道具』です。『肌に触れていいのか?』『失敗してしまったら?』とためらってしまうと、その分『魔法』が効く時間を縮めてしまうように感じます」
AEDが使われる社会になるために、柘植さんは教育に期待しているそうです。現在、心肺蘇生法については中学・高校の学習指導要領に盛り込まれていて、日本AED財団などは小学校の学習指導要領にも採り入れるよう求めています。
「例えば、小学校高学年から高校生まで9年間、児童・生徒に心肺蘇生講習や、命の大切さを教える授業を毎年続けたら、蘇生が必要なときに、性別に関わらず『AEDを使って!』『AEDを使おう!』と叫べる世��が現れます」
「AEDを使うことに抵抗なく、誰もが一緒に助けの手を差し伸べられる社会になってほしいと思います」
ーーーーーーーーーーーーーーーー (※)Ishii M,Tsujita K,Seki T,et all; Japanese Circulation Society with Resuscitation Science Study (JCS-ReSS) Investigators. JCS-ReSS Investigators. Sex- and age-based disparities in public access defibrillation, bystander cardiopulmonary resuscitation, and neurological outcome in cardiac arrest. JAMA Netw Open. 2023;6(7):e2321783. doi:10.1001/jamanetworkopen.2023.21783
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250306 木
【16:00】
家モード。仕事すんの諦めて何もせず寝てるからヒスは発生してないし葛藤もない。ただ安らぎに身を任せている
こうなるのが嫌で頑張ってたんだけどなー
-----------------------
幸せだ。まあ、あれだ。40万入ったカバン見つかったことで感謝の気持ちで満たされている
この安らぎは運命からの贈り物なんだわ、きっと
近距離用紛失防止タグとリモコン1セットと、寿命10年の紛失防止カード届く
近距離用はシンプルでいいね。若干おもちゃ感あるけど、家の中でいくらでもスマホとカバンの所在忘れていいってのがたまらない
しなくていい緊張や集中は解いていくことで浮いた脳のバッファを生産や幸せの実感に充てたほうがいい
目的はあくまで「幸福感の実感」なんだからな
その実現の過程で味わう「ありあまる不幸」なんざただのゲームのギミックとシナリオに過ぎん
ハッ!? この調子でまた1時間駄文書くところだった...
16:20。娘を習い事に送りに行く時間だ。準備をしよう (そうだ、金バエ氏のことに触れようと思って書き始めたんだ、戻ってから軽く書くか)
----------------------- 【17:00】
送り終わり
先日の金バエ氏の配信の切り抜きを観た。肝臓・膵臓を悪くした人の末期は皆同じ様相を呈する
「ああーキツい もう続けられない」的なことを言っていたが、あのレベルで衰弱すると常に心臓と肺がいっぱいいっぱいなので同じ姿勢を保っていることすら困難なのだ
立っていてもキツい、寝ていてもキツい、快適ではないがベッドに身体を��たえ、背もたれを使って少しだけ腰を曲げている姿勢が相対的に一番ラク
心臓と肺に欠陥抱えている人は皆そう
多臓器不全に陥れば必ず肺と心臓もやられるので、皆最後はその姿勢にたどり着く
極度に痩せると視線が定まらず眼球が飛び出したような風貌になることがある。これは甲状腺に障害が発生して眼球突出が発生しているからだ
そのような症状が単体で発生することは珍しく、ほとんどの場合身体全体が病に侵され衰弱している
だから昔の人はそれを観て「死相」と呼んだのだろう
多臓器不全状態から恢復するには当人と周囲の並ならぬ努力と運が必須である。もとい、肝臓と膵臓を「終わらせてしまっている」場合はどうにもリカバリーは難しい
・
私はかつてアルコールに逃げていた。だからアル中に苦しむ人とその家族の人生には思うところがある
私はアル中になるよりも早く痛風になってしまった為、痛すぎて飲むのやめられたわけだが....
アル中治療も「アルコール飲むと超マズく感じる薬」を飲むことでアルコールへの忌避感情を植え付けていくわけだが、それはやっぱ自分から能動的に「ブレーキ」かけているって事なので脳はそれを「お為ごかし」と判断してすぐやめてしまう
快楽や安寧がすぐそこにあるのにわざわざ不快な禁欲を選ぶなんて真面目すぎて笑ってしまう、という気分なのだろう
健康になったあとの自分が有益な存在になれる保証なんて何一つないのに健康になる努力なんてできない
これ「すべての不幸の坂道下る人々の(悪い)共通マインドセット」な。健康の部分を「善良」や「建設的」に置き換えてもらってもいいぞ
上記の「怖じ気」や「損失への警戒」抱えている限り「ダメ人間」アンド「病人」アンド「老人」が幸せにたどり着くことはない、決して
希望は、持つんだ。努力して。どんな苦痛や我慢強いられても
コストは、かけるんだ。決意固めて。道すがらどんな徒労や無力感味わおうとも
知性と冷静さを維持するんだ。澄んだ覚悟と共に。「正しいエネルギーの投資先」を見誤らないために
もしそれらすべてから縁遠い「どん詰まり」にいよいよ追い詰められたなら、ありのままの失敗談晒し「悪くなかった」と言い残して終わればいい
そうすりゃ見知らぬ誰かのデッドエンドの運命変える「反面教師」くらいにゃなれるだろう
最期は呪いの言葉じゃあなくお礼の言葉で人生締めくく��たい
妻は最期に「笑い」で人生を終わらせた。だから私もそれに倣(なら)おう
・
優しい笑い
笑いと攻撃性は密接な関係性にあるという学説がある。だから優しい笑いというものは「矛盾」ではあるが、痛みや理不尽の需要とそれへの感謝の結果として漏れる笑いは、いいものだと個人的には思う
泥の河に浸かった人生も悪くはない
別に(一度きりと言わず)それを来世・再来世で再び味わわされる事になろうとも—
うん。駄文書いてたら迎えの時間になった
軽く準備して、娘を迎えに行く。世界はいつだって完璧で素敵だ
私の周囲100kmが不幸にまみれていようとも、その外側には必ず幸せな世界がある。ならば私が不幸の渦中で息絶えようとも世界の幸福の総量は常に不幸を上回る。だからいい。だから希望は消えない、消せない。世界の完成度は下がらない
この思考と思想は、私が失意のどん底でひぐらしとアドラーに出会った2015年からずっと、ずっと、変わらない
----------------------- 【19:00】
迎え終わり。その後一人でラーメン食べてきた
妻と娘とたまに行ったラーメン屋
スタッフは店主と女性店員。常連客との和気あいあいとしたやり取りがあたたかくて優しくて、ラーメンもチャーシュー丼も美味しくて、思わず涙が出た
まるでザ・ノンフィクションの世界に入り込んだかのようだ
20代末期に現実逃避で通っていた新宿二丁目の居酒屋やバーのような切なさと温もりがある
平和は秒で失われる
今この時間は誰かが死ぬほどたどり着きたかった明日であり、未来の誰かが死ぬほど戻りたいと願い続けた過去なんだ
そんな奇跡が街のそこかしこに散らばっていることに気づくと感謝の気持ちが止まらなくなる
平和は幻。温みは奇跡
そのふたつを同時に味わい、それを10年以上維持できたなら
もう思い残すことは何もない。そうなったとしても何もおかしくないだろう
妻を観るたび、娘を観るたび、こんな現実ありえないと思い続けた
なんて虫の良い、なんて贅沢な、なんて幸せな—
私の穢れた魂にはもったいなさすぎる景色だ
妻はことあるごとに私を怒らせ後悔まみれにする為、侮辱の言葉と露悪的な態度をぶつけてきた
だが私の幸福ハードルの設定値の低さはそんなものではビクともしない。私の隣に護っても愛しても警察に捕まることがない他者がいるのなら、私はそれを全力で護り全力で愛する
私が「今この状況を奇跡であり最高の幸せ」と定義したならば、それにケチをつける事は何人たりとも不可能
私は自分が望む通りの現実しか観ないし、私が望む理想の景色に沿うよう現実の方を捻じ曲げる
ああ、希望的観測超える圧倒的な「楽天性」で
それでは今日もありがとうございました。先生サヨウナラ。みなさんサヨウナラ
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🎼 01317 「負けるもんか」。
"この物語はフィクションであり、登場する人物・団体等の名称は架空のもので、実在のものとは 何等関係ありません" という前書きと 一昔前の新宿駅 (京王線もチラリ) と東京駅の朝の通勤風景を映しながら とある新聞社の新聞作りをチラ見させるところから始まります、とある新聞社で せっせと働く社員の日々を描いた 東映映画 「社葬」 を観ています。舛田利雄監督作品。"本日午後2次過ぎ、本社拡販団と北陸新聞拡販団が、富山市郊外山田村で衝突、パトカーの出動するところとなり、双方の責任者が警察に拘引された" 中で 「警察がこわくて新聞屋が勤まるかっ!」 と、テニスラケットをぶんぶん振り回しながら 太陽新聞社販売管理部の緒形拳さん似の重役ワシオは、仕事に熱く燃え上がり、燃え上がってガンダムしているのですけれど、社内の派閥に ひどく悩まされます。そんな中、会長と社長が倒れてしまって サァ大変なこの映画、ワシオが駆け抜けた 吉祥寺の街中にダンキンドーナツがあったりして 嬉し懐かしだったりします。
つづいて
"この作品は 家田荘子の原作をもとに、フィクションとして作られたものであり、登場する人物、団体等の名称は架空で、実在のものとは何等関係ありません" という前書きと、裸の男が冷蔵庫に閉じ込められ運ばれて、何処かの海に投げ捨てられたところから始まります、シリーズ第6作目な東映映画 「新・極道の妻たち 覚悟しいや」 を観ています。山下耕作監督作品。愛知県岡浜市。事務所の立退き要求を求める市民の運動により、しごとも映画もやり難くなってきてしまった とある組織 (中部坤龍会 千之崎組) は明治の時代から続いている歴史ある組織だというのに 出ていけ出ていけと言われて 親分こと 梅宮辰夫漬物本舗な梅辰亭は 頭を抱えます。といった中で、かたせ梨乃さん似の女性の髪を掴んで階段から突き落としたり、梅宮辰夫漬物本舗な梅辰亭な夫に拳銃を突き付けられたり、一撃で男を仕留めたことにより刑務所に服役したりと 岩下志麻さん似の女性が大忙しな この映画、1992年9月という月日の流れとともに 香港に移り "あなたは日本女性の中で一番美しい" なんて言われたり、突然にキラー・カーンの頭を瓶で叩いたりしたりと、何処に行っても大忙しだったりします。
つづけて
桜が舞い散る中、大勢の大人がワンサカしています。その中で一人、佐藤慶さん似の男性が煙草をぷかりと吹かしているところから始まります、日比谷公園横の "朝日中央銀行" に勤めるサラリーマンの哀愁を描いた 東映映画 「金融腐食列島 呪縛」 を観ています。原田眞人監督作品。1997年。朝日中央銀行こと ACB本部に 検察庁(東京地検) が強制捜査に入り、社内はヒッチャカメッチャカになってどうのこうのする中で 役所広司さん似の銀行マンがくったくたになる物語はさておき、この映画の中に (漢字だったころの) ギリジョーが出演されているということを知り、血眼になって探しました。いました。
#崩壊3rd#tokyo#アス���ン#社葬#緒形拳#野際陽子#小林昭二#新・極道の妻たち 覚悟しいや#岩下志麻#金融腐食列島 呪縛#役所広司#佐藤慶#椎名桔平#丹波哲郎#オダギリジョー#バービーボーイズ#barbee boys
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長くなります。よかったら読んでください。 まず、私から提案したいと思います。 私の家に遊びに来ませんか。鹿児島県のとある田舎町で農業を営んでいます。新規就農してからまだ半年余りなので、アルバイトをしながら何とかやっている状態ですが。 独り者です。バツイチです。質問者の方が男性でしたら、何日か泊まっていただいても構いません。 柴犬と猫とヤギ、ニワトリがいます。 以下、陰鬱な内容を含みます。耐性の無い方は読まれない事をオススメします。 私もうつ病でした。 それも重度のうつ病でした。主治医には、最終的には脳に電極をつけて電気ショックを施すことを勧められたぐらいです。 入院治療も2度行いました。 最初の入院は、自殺未遂をしてから運ばれました。施錠された病室に隔離されました。常にモニターで監視されていて、トイレなどハナから丸見えです。 1週間の後、一般病棟に移りました。 職場には、主治医からうつ病の為3か月の休職が伝えられました。 2週間後くらいから、躁状態に入りました。 室内では腹筋、腕立てを繰り返し、外出許可をもらってはランニングに勤しみました。 自分自身が何故うつ病になってしまったのか自省し、退院してから復職する迄のやるべき事リストを作り上げました。 前向きな様子を見て、主治医も退院時期を前倒しにしました。 一月後、退院しました。 退院してから、先ずは主夫業に精を出しました。 過剰なまでの不安と心配を与えてしまった妻の為、早起きして犬と散歩に行き、朝ごはんを作り、掃除、洗濯を済ませ、夕ごはんの買い出しに行き、夕ごはんを作って妻の帰りを待ちました。 週に2回の通院は、あえて15キロの道のりを自転車で通いました。散歩にも出かけ、野の花や小鳥なんかをスケッチしたりもしました。 全てはうつ病を克服するためだけに、日々を過ごしました。認知療法、行動療法、薬物療法すべて行いました。 1か月後、再発しました。 休職期間も残り1か月ともなると、緊張と不安が絶え間なく襲ってきます。また寝れない日々が続きます。食欲もなくなり、何をするのも億劫です。 復職1週間前ともなるとある思いが心を支配します。 (死にたい…) とにかく私は死にたかったのです。 いわゆる、希死念慮です。 簡単に言うと自殺願望なのでしょうが、色んな自殺の方法を探りました。 結局は首を吊る事に落ち着きました。 妻の居ない日中に、何度も何度もタオルなどで首を吊りました。でも死に切れませんでした。 勇気を振り絞って復職しました。 3か月ほど働いたでしょうか。職場での日々は、私にとって正に地獄でした。常に緊張していました。頭が上手く回転しません。真っ直ぐ歩くことさえままならず、何故か柱や机の角にぶつかりました。トイレに用がなくても頻繁に入り、周りの好奇な目から逃げました。その度にトイレの窓から飛び降りたい気持ちになりました。自殺を試みた人間に対して、同僚は腫れ物に触るように対応します。 毎週末、今日こそはと思い、首つりを繰り返しました。しかし、最後まで出来ません。 私は思い込みの世界で生き、想像の世界で苦しんでいました。 自殺未遂をしてから、うつ病と告知されてから、いやもっとずっと前から私は、私自身の妄想に自縄自縛の状態でした。 あいつは仕事が出来ない。 あいつのせいでみんな迷惑している。 自殺未遂するぐらい��ら仕事を辞めればいいのに。 それでも上司は私を励まします。 君なら出来る。死んだ気になってがんばりなさい。みんな君の事を心配しているんだ。恩返ししないとね。 妻も私を励ましてくれました。 折角、頑張って公務員になったのに、今辞めたらもったいないよ。家のローンはどうするの。その年から転職なんて出来ないよ。あなたの大好きな柴犬も手放して、動物も飼えないようなアパートに移る事になるよ。今が頑張りどきよ。 私はもう限界でした。いや、もうとっくに限界だったのでしょう。主治医からは兎に角強い睡眠剤と抗うつ剤を処方してもらいました。 起きていても何時もボーッとしていました。 漢字もどう書くのかよく分からなくなりました。 ひらがなさえ、「あ」と「お」の違いさえよく分からなくなり、度々授業中の計算ミスを子どもに指摘されました。 ある日、子どもに問いかけられました。 「先生、なんで死のうと思ったの?前の先生が、H先生はぼくたちのことが嫌いで死のうとしたって言ってたけど、本当?」 「そんなことないよ。死のうとなんかしてないよ。」 咄嗟に取り繕いました。 代行の先生が、断片的で恣意的な情報を子どもたちに伝えていたようでした。 再休職することになりました。 うつ病の原因は今だからよく分かります。 新しい学校に移動したものの、子どもたちと以前のような信頼関係を築けないことからの自己嫌悪。 同僚とも良好な関係を持てないことからの苛立ち、不安、不満。 それらから派生するように、仕事への自信喪失。 40過ぎても子どもを持てないことへの落胆。 35年住宅ローンの重圧。 自分の故郷が地震と津波で壊滅的な状況なのに、何も出来なかったことへの後悔。 妻とも友人とも、会話が噛み合わないことからの孤独感。 当時の私は客観的に見ても、八方塞がりでした。 でも多くの方たちも、多かれ少なかれ40も過ぎれば仕事や家庭で問題を抱えています。しかし、うつ病にはならないでしょう。だからこそ私は私自身に失望しました。失望感は再休職したことからさらに募り、積み重なった失望感��、絶望感へと集約されました。 再休職して、私はまさに生きるしかばねの様でした。 以前の休職期間のように、前向きにうつ病治療をすることも有りません。ただ、ただ死なないように生きているだけです。 誰かの歌詞にあったように、 私は小さく死にました。 当時の私は死にたいと云うよりも、「楽になりたかった」のです。 40も過ぎて再休職し、再び同僚や子どもたちに迷惑をかけ、上司の配慮や期待にも応えることが出来ず、その上、妻への罪悪感は筆舌に尽くし難いものがありました。 いつ自殺が成功しても大丈夫なように、定期的に遺書を書きました。妻への謝罪、同僚たちへの謝罪、両親兄姉への謝罪、毎日毎日こんな自分が生きていることが申し訳ありませんでした。 妻は週末になると、���社へとわたしを連れ出しました。近所の神社、箱根神社、鶴岡八幡宮、春日大社にも行きました。 2時間で2万円もするカウンセリングも受けました。 主治医から処方される薬は、5種類まで増えました。病院でのカウンセリング担当医は、大学を卒業したばかりのような若い女性です。彼女なりに真摯に私と向き合ってくれましたが、私は彼女から助けてもらえるとはとても思えませんでした。主治医で院長でもあった先生は、薬を処方するだけです。もしうつ病が治らず、教員を退職する事になったら精神障害者として生活保護を受けるしかないと言われました。 一向に良くならない私の状況に、妻は失望し、疲弊しました。あとで知った事ですが、リストカットなどの自傷行為をしていたようです。 毎晩、妻から叱責をされるようになりました。 このままだとどうなるか分かる?あなたがうつ病を治さないとどうなるか分かる?いい加減、治してよ!どれだけあなたが沢山の人たちに迷惑を掛けているのか分かる?だから早く治して! 時には包丁を持ち出され、一緒に死のうと懇願されました。 一度、人は道を踏み外すととことんまで堕ちるのだと思いました。しかも、底がありません。どこまでも堕ちるのです。 生き地獄でした。 翌年の4月、私は別の学校に移動し復職することになりました。 私は私を偽りました。うつ病は治っていません。しかし、治った事にしないと妻がもちません。 治ったと偽り、主治医にも復職を許されました。 復職して、3週間後の朝、自宅の梁に電気コードを括り付け、椅子を倒し首吊り自殺しました。 死んでいませんでした。 気づくと愛犬の柴犬が必死に私を舐めていました。 何も見えません。呼吸が止まっていたのでしょうか。私は必死に呼吸をしました。呼吸を繰り返し繰り返し行うと暗闇に光が差し込んできました。 何故かコードは解けていました。今際の際で、コードを解いていたようです。しかし自分が何をしたのか暫く理解できませんでした。失禁していることに気づきました。脱糞までしていました。眼球は出血し、白目部分は真っ赤に染まっていました。左半身が上手く動きませんでした。 その日、再入院することになりました。 主治医から、電気ショック治療を勧められました。一定の効果は期待できるが、全身に激しい電気ショックが流れるので多少の骨折や記憶の欠落などのリスクは覚悟してくれと言われました。妻の反対で行いませんでした。 もはや、自分が何をしたいのか、生きたいのか死にたいのか全く分かりません。ただただ矮小で卑屈で社会のゴミのような存在だと思いました。 生きている意味などあろうはずもありません。 でも私は生きていました。あの日以来首を吊るのも止めました。何も考えず何もせず、出されたものを食し排泄し、夜になれば睡眠剤でぐっすり寝て朝になれば看護師に起こされ、何もない1日が始まります。 2か月後退院しました。暫くして、教員を辞めました。無職になりました。新築の家も売りに出しました。妻には当然ですが、見放され東北の実家に帰ることになりました。実家にはまだ思春期の姪たちがいたので、兄がアパートを探してくれそこに1人で暮らす事になりました。 私は何も考えなくていいように、中古のゲーム機を買って一日中ゲームをしていました。たまにスーパーに食料を買いに行きますが、誰かに見られるのが恥ずかしくて、短時間で目につくものをそそくさと買ってアパートに戻ります。何も考えません。感情も有りません。風呂にも入りません。歯も磨きません。ある時、履けるパンツが無く、Tシャツを逆さにして履きました。チンチンが寒かったです。 以前の主治医から実家近くの病院を紹介され、紹介状も持たされていましたが、そこの病院に行く事は有りませんでした。もう精神科医も抗うつ剤も睡眠薬も私には必要ありませんでした。 なぜなら私は人の形をした、ただの醜いぬけがらでしたから。 時間も季節も、世間も仕事も、私には何の意味も有りません。物欲、金欲、食欲といった欲求もありません。ただ日々死なないように生き、金を食いつぶし、秋が来て、冬が来て、春が来ました。 定期的に父から電話がありました。その日は今までにない雰囲気で、もうアパートを引き払えと言ってきました。 実家で両親と兄家族と暮らす事になりました。 父は頻繁に私を外に連れ出しました。80も近い父の運転で、被災地の風景を見たり、故郷の野山を見たり、桜を見たりしました。 5月過ぎ、父が帯状疱疹になりました。 6月になると、胃腸に何らかの不調を訴えるようになりました。 7月、近隣の中核病院に入院することになりました。 最初は泌尿器系の病気が疑われ、手術を受けましたがあまり体調が改善されません。その後、ガンが疑われましたが、その部位が分からないと言われました。原発不明ガンと診断されましたが、本人には告知していませんでした。 父が体調を崩してから、病院の送り迎え、入院の準備や手続き、お医者さんの対応など、私が行いました。初めは嫌々でしたが、結局手が空いているのは私しかおりませんから、仕方なく対処していました。 原発不明のガンなので、具体的な治療方針が決まりません。何故か、一時退院が許されました。 退院してから、定期的に通院する事になりました。その日は泌尿器科の受診の日でした。泌尿器の主治医がお休みで代理の先生に診てもらいましたが、受診後父の様子が変で、帰り道に尋ねるとガンだと告知されたと言います。 何年ぶりでしょうか。私の中に忘れていた感情が芽生えました。 怒りです。 その日告知してきた先生は、あくまで泌尿器科の主治医の代理で、しかもガンの部位はおそらく消化器系だろうと言うことで告知する時期は消化器科の主治医と治療方針と共にこれから考えていきましょうという段取りになっていたのです。 父の落胆は見るからに明らかでした。父はタバコも吸いません。深酒もしません。健康番組が大好きで、健康に人一倍気を使っていました。 食事の世話も私が行っていましたが、食欲もめっきり無くなりました。歩くのも酷く疲れるようになりました。 私は消化器科の主治医とアポを取り、抗議の為病院に���きました。何の相談もなく、科も違う代替先生が告知をしてしまった事に、平謝りでした。 それから私は、ガンについてできうる限り勉強しました。通院の際は、ノートを持ち込んで先生の所見を事細かくメモしました。 PET検査なるものでガンの所在が分かるかもしれないと聞き、検査機のある病院まで連れて行きました。 しかしながら、ガンの所在、及び部位は特定できませんでした。 8月になり、いつも以上に辛そうな父を見て再入院させる事にしました。病院に着くともう自力では歩くことが出来ず、車椅子に乗せて診察室まで連れて行きました。 父は気丈で弱音を吐くことを聞いた事がありません。 私が小学生の頃、車のドアで親指を挟み、骨が見えていても自分で運転し整形外科に行き、夕方には仕事をしていました。 私が中学生の時には、母が粉砕機で薬指を切り落としてしまいました。側にいた父は、すぐさま薬指を拾い、氷袋に入れて母を病院まで連れて行きました。指はくっつきませんでしたが。 そんな父が、自ら車椅子に乗っている姿に愕然としました。 主治医からは、胸水が溜まっているのでお辛いのでしょうと言われました。とりあえず、入院治療することになりました。 胸水を抜いてもらい、多少楽になったのか父に少しだけ笑顔が戻ってきました。後から来た母とも談笑していました。 数日後、父は永眠しました。 死因は、原発不明ガンとのことですが直接的な死因は、窒息死です。深夜になって吐いたものが気管に詰まり、自力では解消されず看護師が気づいた時には亡くなっていたのです。 解剖はしませんでした。 母の取り乱しようは筆舌に尽くし難く、身内一同呆然としました。 それでも、お通夜や葬儀は粛々と進められます。 葬儀が終わり、明日早朝に火葬を残すのみという晩の頃、私は葬儀会場で棺の中にいる父と2人きりになりました。 止め処無く涙が溢れてきました。あんなに泣く事はもはやないだろうと思います。 おそらく1時間ほど泣き続けたでしょうか。その間、私は心の中で同じ言葉を繰り返していました。 (ごめんなさい。ごめんなさい。) (もう大丈夫だから。) ほぼ平均寿命とは言え、父は80手前で亡くなるような人ではありません。ましてや、ヘビースモーカーで高血圧の祖父より早死にするような人ではないのです。 では何故、こうも早逝してしまったのか。 原因は、私です。 私の存在がストレスとなり、私のうつ病が治らないこともストレスとなり、40過ぎの息子が無職になって帰ってきて引きこもりになっている現実がこの上なく父に負担を掛けたのは間違いありません。帯状疱疹になったのも、胃腸に不調をきたしたのも、がんと診断されて1か月余りで亡くなったのも、私のせいです。身内は誰も口には出しませんが、みんなそう思っている事でしょう。 それなのに私は、父の棺の前で1時間ほど泣いて泣いて泣き疲れた後、気づいたのです。 うつ病が治ったと…。 皮肉なものです。父の病と死が、私のうつ病を寛解に導いたのです。 半年前まで、私は私の抜け殻でした。 何もせず、何も考えず、ただ無意味に時間とお金を浪費する肉の塊に過ぎませんでした。他人と会話する事は勿論のこと、身内ですら顔を見て話すことも出来ませんでした。 それが3か月前から止むを得ず、父の世話をするようになってお医者さんと交渉したり、看護師と話したり、父の様子を親戚に伝えたりするうちに何となく、うつ病は回復の兆しを見せ始め、最終的にに父の死によって寛解に至ったのです。 父は全く意図していなかったでしょうが、結果的に父の病と死が、私を深い深い谷底から救ってくれたのです。 結局のところ、私のうつ病を治したものは医者でも無く、カウンセリングでもなく、ましてや薬でもありません。タイミングときっかけ、そして行動です。 以下は私の経験則からの私見です。異論がある方もいらっしゃると思いますが、ご容赦ください。 うつ病は、薬で治る病気ではありません。 一般的な解釈としては、うつ病は過剰なストレスなどにより、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンといった神経伝達物質が上手く働かなくなり、シナプス間における電気信号が不調となる為、活動性が低下し、感情が失われていくとされています。 抗うつ剤などの薬は、上記の神経伝達物質を良好に分泌させる為のものですが、あくまで一時的なものです。言わば、身体が疲れた時のユンケルみたいなものです。ユンケルのような滋養強壮剤の効果は、有って小一時間ぐらいらしいです。医者に聞きました。寧ろ(俺はりぽDを飲んだから元気だ!)といった暗示の副作用の方が大きいといいます。抗うつ剤も同じです。気休め程度にしかなりません。しかも抗うつ剤を服用し続ける事は何の根本的な解決にはなりません。また様々な種類があり、強いものを飲み続けると廃人になるようなものも有ります。ハイリスクローリターンです。 私が知っている精神科医で、うつ病を本気で治せると思っている人はおりません。彼らは、薬を処方し点数を稼ぎ、報酬を得ているに過ぎません。私が暫く通院していた病院は、正にそうでした。2年ほど通いましたが、沢山の精神病患者で寛解に至った方を私は知りません。私の主治医だった精神科医は、患者を1時間待たせ5分の問診で処方箋を書き、効率よく病院に富を蓄積させます。おそらくそれが出世の処方箋なのでしょう。 先日、NHKドラマで阪神淡路大地震を体験した精神科医の話がありました。患者の話を30分でも1時間でも真摯に聞く先生でした。私もそういう精神科医に出会ったら違っていたのでしょうが。 現実は違います。それでも精神科医に診てもらいたければ、開業医をお勧めします。少なくとも組織の中にいる精神科医はダメです。 カウンセリングもお金と時間がかかるばかりで、効果のほどは期待できないと思います。 中には、行動療法や認知療法で寛解する方もいらっしゃるとは思いますが、私は懐疑的です。 そもそもうつ病の根幹的な治療は何か? まず、うつ病に至ったストレスを無くすことです。私は公務員という立場や家のローン、世間体などから仕事を辞めるという選択肢を選ぶのか遅すぎました。 そして、死なないように生き、どこかのタイミングで行動を起こすことです。具体性に欠けますが、深い深い闇の中にいて、抗うつ剤や他人の空虚な言葉が一筋の光になる…なんて事は現実的ではありません。 最初はどんな行動でも構いません。ポイントは、うつ病を患ってか���した事がない行動です。 よくうつ病を患った人に、「神様から休みなさいって言われているんだよ。」という方がいますが、うつ病患者は休んでいるわけではありません。深く傷つき、深い闇の中でいつ終わるとも分からない嵐が過ぎ去るのを息を殺し、感情を捨て、ただただ耐えているのです。 話が逸れました。 質問者の方は、生きている意味があるかと問いかけられていますね。 私の答えは、「ない」です。 そもそもが、生きているだけで意味がある人間なんてどれほどいるのでしょうか?人間は人間を特別視し過ぎです。過去には、人間ひとりの命は地球よりも重いと言った政治家が居ました。馬鹿げています。 この地球には、既知の部分だけでも175万種の生命体がいるそうです。未知を含めたら500万とも800万とも言われています。その多種多様な生き物が懸命に命を繋いでいます。その中で、何故人間の命だけが尊いと言えるのでしょうか。 周りを見渡せば、ニュースを見れば犬、猫より価値の無い生き方をしている人が沢山います。蜂や蟻よりも生産性の無い生き方をしている人間がありふれています。 人間の命、そのものには意味がないのです。 あるとすれば、意味ではなく「時間」だと思います。 そして時間があるからこそ、「行動」ができるのです。 重度のうつ病患者は、行動が出来ません。 行動が出来ないということは、時間が止まっているのです。 故に今のあなたが、生きている事の意味を問いかけるのははっきりいって無意味です。 それはあなた自身が本当は理解されているはずです。 けれども今あなたがその漆黒の闇を抜け出せるその日が来た時、あなたの(生)に価値が生まれます。あなたが自分の足で、自分の意思で前に進み始めた時、時間が再び動き出します。 生きている限り、意味はなくてもあなたには「時間」がある。時間があるという事は、あなたの人生は何度でもやり直せるのです。 更にあなたが価値ある、より良い行動をとることで、あなたの(人生)に意味が生まれると思うのです。 人の(生)に意味があるとすれば、価値ある行動を実践した時、初めて生まれると思うのです。 人の人生の評価は何で決まるのでしょうか? 財産、出世、肩書き…人それぞれでしょうが、私は行動だと思います。どれだけ価値ある行動を人生で出来たか、だと思うのです。 だからまずあなたがするべき事は、死なないように生きることです。そして、私のようにきっかけを待つか、自らきっかけを作り行動することです。 正直言って、私のようなきっかけを待つことはお勧めできません。 だからこそ、私のところに遊びに来ませんか? もしかしたら、何かのきっかけになるかも知れません。仮にならなくても、きっかけのきっかけぐらいにはなるかも知れません。 私は今、農業に従事しています。何故、東北から南九州に来て、農業をしているかの経緯は割愛しますが、私はうつ病が寛解してから2年ほどの、50手前のおじさんです。 うつ病が治り、取り敢えず3つの事を目標に掲げました。 ①飼っている柴犬を、日本一幸せな柴犬にする事。 ②最低限、父の年齢まで生きる事。 ③世界の真理を一つでも多く学ぶ事。 です。 農業では、無農薬、無化学肥料での、循環農法を実践しています。なるべく、F1の種に頼らず固定種の種から作付けして、この土地に合った野菜を育て、種取りをして、安全、安心な、究極的には硝酸態窒素を過剰に含まない、ガンにならない野菜作りを目指しています。 知らない土地に来てからの挑戦なので、苦労もありますがやり甲斐も有りますし、生き甲斐も感じています。 何よりも、何度となく死んでしまってもおかしくない我が身がこうしてお天道様の光を浴びて働けることが、嬉しくて嬉しくて仕方が有りません。 昔、ドイツの哲学者が言っていました。 (自らを否定して否定し尽くした時、あなたは超人となるだろう。) 私のうつ病期は、自己否定の繰り返しでした。 もちろん、私は超人には成れておりません。 ただ、周りの人達よりちょっとだけ物事の本質を理解出来るようになったかなと思います。 一昨日、東日本大震災から9年経ちました。 2万人以上の方が亡くなられました。 彼らにはもう時間が有りません。行動を起こすことも出来ません。 だからこそ我々生きている人間は、然るべき行動により、震災を語り継ぎ、亡くなった方たちを忘れずに生きねばなりません。 あなたは生きている。 あなたには時間がある。 あなたは行動を起こせる。 大丈夫。時は必ず訪れます。 最後にアメリカの詩人の言葉をご紹介します。 (寒さに震えた者ほど 太陽の暖かさを感じる 人生の悩みをくぐった者ほど 生命の尊さを知る これから私は幸福を求めない 私自身が幸福だ) 長文につき、乱筆、乱文ご容赦ください。
私はうつ病です。昔の事も思い出せず、感動せず、感情もわからず、物を覚えられず、体を動かすのもつらく、毎日ただひたすら苦しく、生きているだけでお金がかかるのに生きてる意味ってありますか? - Quora
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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
パリ市街戦(アバンタイトル1) 物語中では赤く染まった姿で登場するパリ市街とエッフェル塔。エッフェル塔は戦闘で大破し、マリには武器がわりに使われる。赤く荒廃したパリ市街地に、上空のWILLEの旗艦ヴンダーから艦隊とマリの乗るEVA8号機、そしてリツコが率いる作業員たちが降下し、「ユーロNERV第1号封印柱」の復旧作業を始める。途中NERVのEVAによる妨害を受けるが、8号機がすべて撃破する。復元作業を終えたパリ市街地は元の美しい姿を取り戻し、WILLEは旧NERVユーロ支部に保管されていたEVA2号機の修理パーツと8号機改造のための追加パーツを入手できた。
第3村(アバンタイトル2からAパート) 前作『Q』のラスト後、アスカはシンジ・レイ(仮称)を連れ、救助を求めて赤い大地を放浪していた。やがて三人は大人になった相田ケンスケに救助され、ニアサードインパクトの避難民村「第3村」へ辿り着く。同じく大人になった鈴原トウジ・ヒカリ夫妻らに歓迎され、彼らと共に第3村での生活を始める。レイ(仮称)は鈴原家の世話になり、挨拶を教わったり、赤ん坊(鈴原夫妻の娘・ツバメ)の世話や、村民に農作業などの仕事を教わる交流を通じて、人間らしい感情や言葉を覚えていく。一方シンジはアスカとともにケンスケの家に泊まるが、重すぎる罪の意識やショックから声が出せなくなり、廃人に近い状態が続いていた。その様子をアスカに責められたシンジはケンスケの家から家出し、NERV第二支部跡地で一人で過ごすようになる。そんな中でもシンジはレイ(仮称)やケンスケたちに見守られ、次第に元気になっていくが、その矢先、レイ(仮称)がLCLとなって死亡する。その日、NERVとの最終決戦に向け準備を進めるヴンダーが第3村に寄港し、船に戻るアスカに対し、シンジは乗船を志願する。再びヴンダー(Bパート)ヴンダーに戻ったシンジは爆薬が設置された隔離室に収容される。ヴンダーは衛星軌道上で決戦準備を進め、NERVのEVA第13号機を無力化する「停止信号プラグ」を完成させる。また、2機のEVAも「新2号機」「改8号機」への改造が施される。一方、ネルフ本部は「黒き月」とともに旧南極のセカンドインパクト爆心地へ移動する。
ヤマト作戦(Cパート) WILLEはNERVを壊滅させる「ヤマト作戦」を発動させる。旧南極のNERV本部に対し、大気圏外からヴンダーで強襲、冬月が乗る同型の2番艦による迎撃を切り抜け本部を爆撃、さらにアスカの新2号機とマリの改8号機を投下する。両機はMark.07の大軍を突破するが、新たな小型EVAの敵軍により改8号機が足止めされ、新2号機は単独で第13号機へと向かう。アスカは、まだ停止している第13号機に停止信号プラグを打ち込もうとするも失敗。アスカは自身と新2号機を第9の使徒と化すことで事態の解決を図ろうとするが、突如第13号機が再起動して新2号機は大破し、現れた式波シリーズのオリジナルによって第13号機の中へ連れ去られる。第13号機が新2号機からプラグを抜き取ると、新2号機はLCLとなって崩壊する。
ヴンダーと交戦していた2番艦と3番艦が戦線離脱し、光の羽を展開、黒き月をもとに2本の槍を生成する。ヴンダー側はこれを好機と見て反撃しようとしたが、4番艦の不意打ちを受けて大破、Mark.09-Aによって再び制御システムを乗っ取られてしまう。改8号機はMark.09-Aを捕食吸収してアダムスの器の能力を手に入れる。無力化されたヴンダーの甲板に突如ゲンドウが現れ、ヴンダーの主機であった初号機を奪い、第13号機に乗り込みさらに深層の「マイナス宇宙」へと向かってゆく。甲板に出たシンジはEVAに乗ってゲンドウを追うことをミサトに願い出る。ミサトはそれを認め、シンジの行動の責任は全て自分が負うと宣言した上で、彼に託したいとクルーを説得する。シンジはミサトと最後の会話を交わし、マリの改8号機に同乗してゲンドウを追う。
マイナス宇宙(Dパート) シンジとマリの乗った改8号機はマイナス宇宙へと突入するが、ゲンドウの第13号機は量子テレポートを繰り返して接近を阻んでいた。そこでシンジは初号機に残っていたレイに呼びかけ、改8号機内から初号機に乗り込む。シンジは初号機を覚醒させ、第13号機と格闘しながらマイナス宇宙内を流れていく。やがて初号機と第13号機両機は「ゴルゴダオブジェクト」と呼ばれる巨大な構造物へと到達する。気が付くと、シンジは14年前のNERV本部の第7ケイジでゲンドウと対峙していた。人類はマイナス宇宙をそのまま認識することはできないため、シンジの過去の記憶が再現されているのだとゲンドウは説明する。
第3新東京市、ミサトのマンション、レイの団地など目まぐるしく変化していく記憶の場所を舞台に、初号機と第13号機はそれぞれの槍を手にして戦う。しかし初号機は第13号機に敵わず、決着をつける手段は力ではないとゲンドウに諭されたシンジは、彼との対話へと踏み出す。場面転換し、シンジとゲンドウは古い電車の中で対話を始める。ゲンドウはシンジに、自らの過去や内心や願いを吐露する。そして実在しない架空のEVA「エヴァンゲリオン・イマジナリー」へと到達したゲンドウは、自身の目的は虚構と現実とが渾然となる「アディショナル・インパクト」にあることを明かし、エヴァンゲリオン・イマジナリーに2本の槍を使ってアディショナル・インパクトを起こす。一方でマリは2番艦へ辿り着き、冬月と久しぶりに再会する。冬月は自身の役目を終えたことを告げ、「後はよしなにしたまえ」とマリに伝えてLCL化し死亡する。
改8号機は冬月が用意していたMark.10 - 12を捕食吸収し、2 - 4番艦を撃破する。ヴンダーはほぼ壊滅状態であったが、残った力で初号機に必要な新たな槍を生成する。クルーを退避させ一人操縦席に残ったミサトは、ヴンダーもろともエヴァンゲリオン・イマジナリーへと突撃。生成された「ガイウスの槍」はシンジの元へと届けられる。ミサトが命を捨てて送り届けた槍を受け取るシンジを見て、ゲンドウはシンジが他者の命を受け止めるほど成長したことを知り、同時に自らの計画が頓挫したことを悟る。ゲンドウはシンジのなかにユイの姿を見いだし、それまでの自身の行いをシンジに詫びて、一人電車から降りてゆく。それと入れ替わりにシンジの前にカヲルが現れ、後の役割を引き継ぐと語る。
ここからは、アスカ、カヲル、レイの魂の救済が描写されていく。
まず、シンジがアスカの魂に呼びかけると、彼女は自身の過去や内面を吐露する。そこでは、泣いている幼いアスカの横に大人のケンスケが寄り添っていた。赤い海の砂浜で横になるアスカにシンジとマリが別れを告げ、アスカが乗った第13号機のエントリープラグが射出され、救済は幕を閉じる。
次に、カヲルとシンジ、カヲルと加持の対話が続く。実はカヲルは複数人存在し、繰り返されて来たエヴァンゲリオンの作品世界で、シンジを幸せにするために何度も手助けして来たと告げる。しかし、本当は自分自身が幸せになるためにシンジを幸せにしたかったのだと気付いたカヲルは、加持と話しながらシンジのもとを去っていく。
最後に、シンジは初号機の中のレイに語りかける。シンジは、世界をEVAのない新しい世界へ作り変えることを伝えてレイを見送る。シンジは世界を作り変えるため自らと初号機を槍で貫こうとするが、彼を守るかのようにユイが現れ、シンジを元の世界へと送り返す。そして初号機はユイを、第13号機はゲンドウを中に残したまま自らに槍を刺し、消滅する。続いて他のEVAも立て続けに槍に貫かれて消える。
送り返されたシンジは、青い海の浜辺に座っていた。そこにマリが帰還し、彼女が機体から飛び降りた後、最後のEVAとなった彼女の機体もまた消滅する。大人の姿になったシンジは宇部新川駅のホームのベンチに座っていた。向かいのホームには会話しているレイとカヲルの姿があり、それとは別にアスカの姿もある。シンジのもとにマリが現れ、マリはシンジのDSSチョーカーを外す。2人は手を繋いで階段を駆け登り、駅の外へ走っていった。
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『君をのせて』(1971年)でのソロデビューから50年目となるジュリーこと沢田研二(72才)。昨年、新型コロナウイルスに感染して亡くなった志村けんさん(享年70)の遺志を引き継ぎ、14年ぶりの映画主演を決意した彼に、ファンの間では称賛の声が上がっていたが、ここにきて不穏な動きを見せ始め--。
「試写会も終わり、後は公開を待つだけなんですけどね。本当によい作品に仕上がったので、早く多くのかたがたに見ていただきたいのですが……」
複雑な面持ちでこう話すのは、映画『キネマの神様』のスタッフだ。『キネマの神様』は、松竹映画の100周年を記念して製作された大作映画。人気作家・原田マハの小説を原作とし、山田洋次監督(89才)がメガホンを取った。
主演には志村けんさんと菅田将暉(28才)が抜擢されたが、撮影を目前にして志村さんは新型コロナウイルスに感染し、帰らぬ人に。さらに、コロナの影響で昨年4月からの撮影は中断。当初12月予定だった公開は大幅にずれ込んだ。
志村さんを失ったことで、一時はお蔵入りの危機にもあったという本作。その窮地を救ったのが、志村さんの代役に白羽の矢が立った沢田研二だった。
「厳しいスケジュールの中、なんとか撮影を終えました。緊急事態宣言も明けているだろう今年4月16日の公開を目指して、急ピッチで編集作業などの準備を進めてきました」(前出・映画スタッフ)
��しかし、2月中旬、突如公開の再延期が発表された。新たなスケジュールは現状、明らかになっていない。準備はほぼ終わっているというのに、いったいなぜ。その裏にあったのは、ほかならぬあの人の存在だった。
「実は、沢田さんが4月の公開を承諾していないそうなんです。それどころか、最近は“窓口”も閉鎖して連絡もつきにくくなっているとかで」(前出・映画スタッフ)
本作の撮影に並々ならぬ決意で臨んでいた沢田。志村さん亡き後、山田監督から直々に代役のオファーを受け、その場で快諾したという。
「沢田さんは、かつて志村さんと同じ事務所に所属しコント番組『8時だョ!全員集合』などの番組でも共演経験があります。沢田さんは2006年を最後に映画出演から遠ざかっていましたが、盟友ともいえる志村さんの代役とあって、覚悟を決めて挑んだそうです。撮影では、毎回すさまじいほどの集中力で迫真の演技を見せ、14年ものブランクをまったく感じさせませんでした」(芸能関係者)
その沢田がなぜ、映画公開に難色を示しているのだろうか。実は、ここのところ沢田をめぐって、いくつかの異変があった。その1つがファンクラブの解散だ。
「昨年末、突如ファンクラブを解散したんです。昨年は、コロナのあおりを受けて、沢田さんもライブなどの音楽活動は中止を余儀なくされていました。そんな中で年末、ホームページに突然、新型コロナの収束が見えないとして『令和2年12月26日をもってファンクラブを解散する』と書かれた文章が発表されていたんです」(音楽関係者)
続いて、年が明けて1月には個人事務所を閉鎖したと報道された。
「事務所の代表は、以前と同じく『ザ・タイガース』の仲間だった岸部一徳さんで、登記上は役員の入れ替わりもなく、破産の形跡もない。それなのに、電話がまったくつながらなくなり“音信不通状態”になっているのです」(テレビ局関係者)
コロナ禍で活動が制限されているとはいえ、沢田には根強いファンがいまもたくさんいる。
「ファンクラブと事務所の閉鎖は、音楽業界でも話題になっています。『ジュリーはもう芸能活動を引退するのか』、『あの歌声をもうライブで聴くことはできないのか』などと多くの業界関係者が衝撃を受けていました」(前出・音楽関係者)
◆「時期をずらしませんか」
そして極めつきが、今回の延期騒動だ。沢田には、2018年に「会場が満席になっていない」としてさいたまスーパーアリーナでのライブをドタキャンした過去がある。
「このドタキャン騒動のインパクトが強すぎて、今回の映画の延期についても『またドタキャンか!?』とザワついたスタッフもいました。でも、事実は違うんです。原因は新型コロナ。実は沢田さんは、糖尿病の持病があって、感染を人一倍恐れているんです」(前出・映画スタッフ)
基礎疾患を抱えている人はコロナに感染すると重症化しやすいとされているのは周知のとおり。��に糖尿病の場合は、血糖値をうまくコントロールできないと重症化や死亡のリスクが2~2.5倍にまで高まることが報告されている。
「撮影の現場でも、沢田さんはスタッフに闘病を明かし、感染予防のため、細心の注意を払っていました」(前出・映画スタッフ)
代役のオファーを引き受ける条件として、沢田は「映画の宣伝のためにテレビや舞台挨拶に出ることはできない」と提示していたという。
「でも、映画の撮影が順調に進み、多くの人に見てもらいたいという気持ちがより強くなったのでしょう。7月にクランクアップを迎える頃には、『できる範囲で協力したい』という姿勢に変わっていたそうで、いまでは宣伝スタッフも大きな期待を寄せています」(前出・映画スタッフ)
しかし、ここでも沢田は強いこだわりを見せた。
「宣伝をやるからには、心置きなく全力で取り組みたいそうです。でも、テレビや舞台挨拶に登場すれば、その分多くの人と接することになる。山田監督もご高齢ですし、宣伝に駆けずりまわって感染リスクが上がることを恐れているんです。
コロナがもう少し収まってからという思いが強く、沢田さんが『時期をずらしませんか。万全の態勢でこの作品を届けたいんです』と山田監督を必死に説得して再延期が決まったというわけです。つまりこれは彼なりの男気なんですね。
映画の延期は、沢田さんの体調悪化が原因なのではないかと心配していたスタッフもそれを聞いて安心していました」(前出・映画スタッフ)
奇しくも沢田にとって、今年はソロデビュー50周年の記念すべき年。彼自身もそれをまったく意識していないわけではないだろう。
「50周年記念として、4月28日には、1973~1990年のTBSの出演映像を集めた7枚組のDVDボックスが発売されます。『8時だョ!全員集合』はもちろん、『ザ・ベストテン』『日本レコード大賞』での歌唱シーンも収録され、ファン垂涎のDVDになることでしょう」(TBS関係者)
さらに、所属事務所の一件も「現在は、仕事の窓口を妻で女優の田中裕子さん(65才)が所属する『アニマ出版』に移しているそうです」(別の芸能関係者)という。
2月下旬、寒さも和らぎ春の訪れを一層強く感じさせる日、田中とともに散歩を楽しむ沢田の姿があった。黄色いサングラスにニット帽をかぶった田中と、大きなマスクを鼻の上までしっかりと装着している沢田。どことなくリンクするふたりの服装は仲のよさを感じさせる。
事務所の閉鎖や映画の公開延期について尋ねたが、無言で立ち去った。コロナが落ち着いた暁には、全国のファンに元気な姿を見せてほしい。
※女性セブン2021年3月18日号
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第18回露新軽口噺(2019年10月25日)

露の新治・新幸師弟の研鑽の場「露新軽口噺」、数えて18回目となりました。70歳・70席を目ざす新治さん、今週は新開地・喜楽館の昼席主任を務める多忙ウィーク。果たして、今日のネタおろしはどうなることか?
「厩火事」露の新幸(18分)
来月で入門から丸5年、いまや羽織姿も板について立派な若手(?)噺家ですね。何よりも、上がってから会場を見渡してさりげなくマクラを振る、その流れが極めてスムーズ、客席に安心感を与えてくれます。年度か伺っているネタですが、私が聴いている限りでは「金明竹」と並んでの鉄板ネタです。できれば、次回はネタおろしを期待したいですね(笑)。
「つる」露の新治(22分)
上がるなり、「本当は井戸の茶碗のつもりでした」と。なるほど、忙しくてネタの相談も出来なかったのでしょうね。「厩火事」には茶碗が重要なアイテム、さすがに付くことは避けるのがプロ、すぐにこのネタに入りました。実は高校の落研時代に私も取り組んだネタ。落語の基本要素がつまった入門編ではありますが、さて、これで客席を沸かすというのはプロでも結構難しい。話全体の構成と、持ち時間との兼ね合いをきちんと按分する余裕が必要なのです。それ故、ベテランの演者の手にかかると「わかっちゃいるけど笑っちゃう」ことになるのです。
「撮影タイム」新幸(5分)
師匠の着替えをつなぐ時間、新幸さんの近況報告となりました。ご自身の YouTube の紹介、是非ご覧下さい!
露の新幸 チャンネル TUYUNO SINKOU channel
「撮影タイム」新治(5分)
着替えを終えて新治さん登場、そのまま撮影タイムの続き。
「魂切源五郎」新治(35分)
携帯の電源を再び切っての2席目、実は、五郎兵衛師匠のお供で初めて鈴本演芸場に行った思い出のネタとのこと。あらすじは・・・
山陽道・正条の宿、遊び人の源五郎は今日も今日とて博打に負けてすっからかん、土地の大店・油屋の前まで来ると、蔵の前で2つの人魂が争う様子。不思議なものをみたと帰宅すると、亡くなった油屋の女房・お絹の幽霊が現れる。上女中から後妻に入ったお久の仕打ちが恨めしく、源五郎にお久の人魂を切ってほしいとの頼み。欲に駆られた源五郎、翌晩の丑三つ時、蔵の前で見事お久の人魂を切ってお絹との約束を果たすのだが・・・。ここから先は、木戸銭を払った客だけのお楽しみ(笑)。
露の団四郎師と新治さんだけが受け継ぐ噺だとか、いやぁ、良い物を聴かせていただきました。
仲入り

「源平盛衰記」新治(37分)
先年亡くなられた露の慎悟師の形見分けを身につけ、「堀江の盆踊り」での登場。久しぶりの「源平」とのことですが、今夜は何と、「保元の乱」「平治の乱」が誰と誰の争いで、それがどのような意味を持っていたかと、自作の資料を用意しての日本史講義。学校の授業でも、こんな風に解説されればもっと勉強が楽しかったかも知れませんね。ただし、「牛若の目が覚めますと常磐言い」、こんな川柳は学校では教えてくれないでしょうから、みなさん、落語を聴きましょう!
糸・はやしや薫子
終演後は、今日の資料を手にしての撮影タイム、楽しい夜に感謝しつつ、早く晩酌したい私はすぐに失礼しました。
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Kienと別れてから、ドレスデン城を観光できなったから、また今度、マイセンとセットにして帰ってこよう!と思いつつ、Anjaの待つLeipzigへ。Leipzigは、言わずと知れた音楽の町。Bachが教会音楽奏者として活躍し、メンデルスゾーンが王侯貴族ではなく、市民のために開放された音楽堂ゲヴァントハウスの指揮者として、近代指揮法を確立した晩年を過ごした場所だ。憧れの場所。
Anjaさんには申し訳ないが、午後到着後はBach博物館へ一人で行く。夕方から閉館近くまで3時間も入り浸る。幸せ。Bach家の紋章が入った布バッグも閉館直前にゲット。館内には中国人や日本人など、アジア人比率の方が高い。Anjaさんには夕食を御一緒したいと御願いしておく。19時からの夕食に、18:45にホテルまでお迎えにきてくれた。ゲーテが通い、森鴎外も留学中に来ていたレストランに連れて行ってくれた。

上の写真はLeipzig大学。この大学は東ドイツ時代にはKarlMarx大学という名前に変更されていたが、1989年の壁崩壊、1990年の東西ドイツ統一を経て、名前が戦前に戻ったらしい。Anjaの御主人ChristofはLeipzig大学でチェコ語を教えている。Leipzigは、19世紀から文化の中心地であったのだが、王政により統治されていたドレスデンと異なり、ハンブルグと同じで商人市民による自治地区に当たる。印刷業、綿花取引の中心地として栄えていたので、ユダヤ人も多く暮らす地区であったらしい。ユダヤ人は金融業や工業等で成功している者が多く、金持ちは盛んに文化、教養や音楽にお金をふんだんに使っていく。そのため、Leipzig大学は戦前から有名大学だったし、元々はカトリックのベネディクト派によって運営されていたらしい。

夕食は、チェコで辟易したKnodelのKartoffel(じゃがいも)版の舌鼓を打つ。Knodelとは、小麦粉を練って茹でたり、蒸したりした丸い団子状の食べ物。Hamburgのような金持ち地区では、Knodelには肉が入り、小麦粉と挽肉を練って茹でて、上から濃厚クリームソースをかける料理になる。チェコでは、パン代わりに食されるようで、メイン料理の付け合せに、濃厚なソースと共に良く出てきていた。Knodelの不味さに辟易していたワシは、最初、ゲーテと森鴎外が好きだったレストランのメニューに、Knodelの無いメニューが無いことに焦っていたが、覚悟を決めて牛肉のシチューとKartoffelnknodelを食べることにする。心配無用で、LeipzigのKnodelは、ふわふわで、北海道の芋団子より美味しく、ソースと絡めながら、ペロリと食べてしまった。夜は10時過ぎまでお喋りし、Anjaとの再会を楽しむ。Anjaは、南部ドイツ出身の詩人。私の最初のお友達。
翌日は朝から東ドイツ時代の市民監視技術を集めた博物館へ行く。市民監視の徹底ぶりは、小説1984並み。手紙はほぼ全て、蒸気を当てて開封されて、中味チェックされてから、再度封をして、送られる。街には監視カメラだらけ、隠しカメラの技術、スパイ活動のための変装技術など、徹底しているところがドイツっぽい。面白いのは、エリート主義により、子供の頃から優秀人材を選別し、優秀な者から国家の統治側に迎え入れていくという幼少期からの教育が徹底されていた事。また、スポーツや音楽などが、ある種のナショナリズム高揚のために使われていた事。右下の写真は、常に改善していくためのプロセス思考がプロパガンダとなっていた事の証拠。この図を見た時に、アメリカのコンサル会社にいた私は、背筋が凍った。この図表は、良く好まれて使われる。
また、Demokratikであることを謳い、東ドイツこそが、資本主義の悪に対し、平和と民主主義を守る砦なのだ!や、良く生きる、生きる喜び(lebensfreund)というプロパガンダが、今の左翼社会と同じで笑えた。新左翼主義の方々は、ほぼ極右と反転的に同じだという私の仮説は、全く正しいという事だ。ワシは、みんな仲良く(するために仮想敵を作ろう)とか、気候変動云々という新左翼はナチズムの再燃だと睨んでいるが、なんだか、その読みが正しいとしか思えないような展示の数々だった。



次にバッハが勤めていた聖トーマス教会へ。前日はバッハの墓の前でゴスペルが歌われていて、ズッコケたが、Anjaと再訪した時には、ザルツブルグから招かれた楽団がイースターのためのコンサートのリハーサルをしていた。バッハの墓にはチューリップが置いてあり、ステンドグラスにはバッハがいる。リハーサルではバッハの楽曲が弾かれていたが、音がマイルドな事に驚いた。オルガンは、教会の出口側にあるが、そのオルガンの周りのスペースでオケが練習していて、教会の座席に座ると上方から音が流れてくる形になる。弦楽器が、マイルドな音になる教会の音響は、オルガンのための教会だった���だという事を、実感させてくれた。
昼食はAnjaが気に入っている、住宅地にあるフレンチカフェでキッシュを食べる。その後、近所のパン屋さんでケーキを買って、彼女のお家へ。リビングルームは大きな窓で、工業地帯を流れていた運河を見下ろせる。運河には時折、競技カヌー練習をしている人々が競艇をしている。穏やかな日差しを浴びながら、ずーっとお喋り。Anjaさんとのお喋りは、メチャクチャ楽しい。Anjaはロシアの女性詩人の比較研究で博士号取得。自身もウィーン大学などで単発講座を持ちながら詩人活動をしている。フランス語、ロシア語、チェコ語、英語に堪能な語学の才女だ。詩人である時点でも凄いのだが、彼女は現代ドイツの詩人として賞もいくつか授与されている。とても繊細で優しい。



夕食は、Anjaさんのお家の近くでモロッコ料理を食べる。翌日は、憧れのメンデルスゾーン博物館へ。メンデルスゾーンはハンブルグ生まれ。ハンブルグで成功したユダヤ人銀行家の家に生まれ、1870年の独仏戦争をきっかけにハンブルグを離れてLeipzigへ引っ越す。唸るほどの金持ちだったので、子供の頃からGoetheに会いに行ったり、イギリスやスイスへ旅行したり、水彩画を学んだりと多才。祖父が哲学者だったので、自身も哲学で博士号を取得している。が、運命は音楽へと彼を導く。
上は彼の自筆の楽譜。繊細で几帳面なのが良く伝わってくる。字は人柄を語る。羽根ペンで、良くこんなに美しい繊細な文字を書くと感心する。愛する妻Cecileとの間に子供も4名もいたものの、姉が急死したことで神経衰弱になり、姉の死後、療養のためスイス旅行に出た時の水彩画が残されていた。美しい色合いに、メンデルスゾーンの心象風景は美しく静かだったんだなぁと思う。療養も虚しく、38歳で亡くなる。
メンデルスゾーンの功績としては、やはり近代指揮法を確立したこと。それまでは、作曲者が自ら楽器を弾きながら指揮する事が通常だったが、楽器編成が大きくなり、楽団員の人数も増えていく事に伴い、指揮者の存在が必要になっていく。Handelの編曲などを通して、近代オーケストラの在り方のために奔走する。楽団員として給料を貰えるように奔走したり、Bachの楽譜収集家と研究したり、彼の交友関係は広い。その中で、ゲヴァントハウスの指揮者として、ドイツ国内やイギリスまで公演旅行をしている。
メンデルスゾーンはユダヤ人であったが、先見の明があった父により、プロテスタントに改宗させられている。それでも、ユダヤ人はユダヤ人だとして、ナチス下でのメンデルスゾーンの評価はボロボロだった。近年になってようやく、ドイツ国内でも再評価が進んでいるらしい。。。が、まだドイツ人には受け入れられていないというか、あまり知られていないらしい。演奏する事すら禁止されていたんだから。また、ナチスだったワーグナーが酷評しており、ドイツ音楽としては認め難くロマン的過ぎるとの評価らしい。しかし、メンデルスゾーン自身は、亡くなるまで、Bachを起点にした古典派を自称していた。無盲目的につまらぬ権力に従う羊どもの無知さに、憤りしか感じないが、大衆の多くはそんなもんである事も重々承知している。


最終日は、民主主義の集会をしていた聖ニコラス教会へ。内装がパステルピンクとパステルグリーンの可愛らしい教会。教会全体が植物をモチーフにしており、Anjaによると、綿事業によるコロニアリズムの影響だとの事。ハンブルグに戻る16:16発の電車まで、起点駅だったLeipzig駅の戦前にあったカフェでお喋りしまくり。ちなみに、LeipzigもDresdenも、第二次世界大戦中、メチャクチャに空爆されている。Leipzig中央駅も再建されているもの。ここのKarottenkuchenが、人参とクルミのケーキにホワイトチョコがかけられていて、とてもおいしかった。
またの再会を約束して、お別れ!これからは、週末は旅行に出るぞ!
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救い主が嗤われるまで ーいわゆる「鬱三部作」についてー
ラース・フォン・トリアー監督『ニンフォマニアック』は、そのいつもながらのセンセーショナルな話題性に乗せられて、ついついこの原稿を書くことを約束してしまった私を、なかば予想(期待?)通りに思い切りげんなりさせてくれた、つまりはいつもながらのフォン・トリアー映画であると、ひとまずは言える。 よく知られているように、この作品は完成前からさまざまな噂や憶測が飛び交い、有名俳優たちがハードコアポルノ顔負けの場面を演じるという触れ込みでおおいに物議を醸した、二部併せて四時間を超える大作である。けれどもしかし、私は実際観てみて、少なくともそのような意味合いでは、事前に騒がれていたほどのものではないと正直思った。別にそういうアレを楽しみにしていたわけではなかったので特に落胆はしなかったが、もちろん日本公開版であるからにはボカシの問題はあるにせよ、局部や交接が見える見えないといったことはどうでもよくて、だがハードというならたとえば『アンチクライスト』の方がはるかにハードだったのじゃないかとも思ったのである。この「事前に予想(期待?)していたほどスキャンダラスではない」という落差は、昔『ドッグヴィル』を観た時にも感じたことだった。どんだけ救いがないんだろうか、と覚悟しつつ観に行ったら、別にそうでもなかったのである。 ここでお断りしておくが、私はラース・フォン・トリアーの作品が好きではない。いや、好きか嫌いかでいったら積極的に嫌いだとさえ言ってもいいかもしれない。彼の映画が格段に優れたものだとも、率直に言うと、全然思ってはいない。むしろこれではやはり駄目なのではないか、と思うことの方がずっと多い。だが、にもかかわらず、私は彼の映画をそれなりに熱心に観てきたし、後でも触れるが過去にも論じてみたことがあり、今またこうして何かしら書いてみようとしている。それは取りも直さず、やはりトリアーという存在を興味深いと、何かしら考えるに足るものがあると思っているからだろう。では、それは何なのか、ということをあらためて語ってみるにあたって、ここでは『ニンフォマニアック』によって結したとされる、いわゆる「鬱三部作」について少々論じてみようと思うのである。 トリアーは二〇〇七年後半から二〇〇九年初頭にかけて重度の鬱に苦しみ、映画監督としての活動休止を余儀なくされた。種々のセラピーを受けることによってようやく恢復した彼は、シャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォー主演(といっても、この映画にはほぼこの二人しか出てこない)で『アンチクライスト』を撮り上げる。もっともこの作品は『マンダレイ』発表後の二〇〇五年から準備されており、必ずしも鬱の経験によって発想されたものとは言えない。しかしトリアーはそれ以前にもたびたび鬱の症状があったとのことなので、ある意味で、これを皮切りとする「鬱三部作」は、生まれるべくして生まれた連作と言えるかもしれない。 この映画のストーリーは次のようなものである(この先も含めて本稿ではネタバレは一切気にしないのでご注意を)。ある夜、洗濯場で夢中になってセックスしている間に幼い息子が窓から落ちて死んでしまう。後悔と絶望に打ち拉がれる妻を、セラピストでもある夫は何とか救おうとする。彼は彼女を森に連れてゆく。妻はそこを「エデン」と呼ぶ。山小屋で二人きりで過ごしながら夫婦は語り合い、善悪について、罪と罰について、女について延々と議論を続けるが、次第に妻がおかしくなってくる。偶然に夫は妻が我が子を虐待していた事実を知る。すると妻は「私を捨てる気だな!」と激昂して夫の太腿に大きな丸研石を埋め込み身動き取れなくする。それでも夫は逃亡をはかるが呆気なく見つかり、激しい暴行のあげくに彼女は自らのクリトリスを鋏で切り取って悶絶する。その隙に夫は丸研石を外して逃げようとするが、気付いた妻と取っ組み合いになり、遂に彼女の首を絞めて息の根を止める。彼は妻の死体を燃やし、森を後にする。ふと見ると、たくさんの人々(全員、顔にボカシが入っている)が山の斜面を登ってくるのが見える。 まったくもってヒドい話だ。鬱から恢復してこんな映画を撮(れ)るトリアーの神経は如何なるものだろうか。この映画を私は今回、DVDで再見したが、見直さなければよかったと思った。そしてふと思い出したのは、三浦大輔率いる演劇ユニット、ポツドールの『おしまいのとき』という舞台である。この芝居でも、冒頭で夫婦のひとり息子が事故で亡くなる。妻は絶望から鬱状態に陥る。だがある時、エアコンの修理に来た若い男と不倫を始め、それからはもうすさまじい勢いで堕ちてゆく。『アンチクライスト』の日本公開は二〇一一年の二月、『おしまいのとき』の初演は同年九月。三浦大輔が映画を観たのかどうかは不明だが、タイミング的には十分にあり得ることだし、少なくとも基本設定において二つの作品は明らかに似通っている。だがむしろ興味深いのは、そこからの両者の違いである。『おしまいのとき』の妻は、性と悪の権化のごとき男にひたすら溺れていき、しまいには犯罪的な行為に手を染めさえするが、しかしそこで描かれるドラマはあくまでも即物的で世俗的である。だが『アンチクライスト』の場合、子を死なせた哀しみや悔恨や辛さ、それそのものはいつのまにかどこかに行ってしまって、トリアーはもっと観念的な何ものかを相手にしようとしているように見える。 三浦大輔は『おしまいのとき』公演時に受けたインタビューの中で、次のように話している。
「今回は“人が終わってしまう瞬間”っていうものを描きたかった。それは何かというと、例えば、不幸が自分に舞い降りてきても人はそこで終わるのではなくて、生きていかなくてはならないと思うんです。そのとき人を突き動かしているのは何かと考えたら、理屈なんだと思ったんですね。その理屈をこねくり回して人は生きている気がするんです。自分の理屈がまだ自分の頭の中にあるうちは、人は終わらないんじゃないか、その理屈をこねくり回した末に、自分のなかでつじつまが合わなくなって破綻したときに終わってしまうんじゃないかなって思ったんですよね」。 (東京ヘッドライン http://www.tokyoheadline.com/vol522/stage.5989.php 2014年9月9日最終アクセス)
この発言からも『アンチクライスト』とのシンクロを感じる。ここで三浦の言う「理屈」は『アンチクライスト』の妻と夫がすがろうとしたものでもある。「理屈をこねくり回した末に、自分のなかでつじつまが合わなくなって破綻したときに終わってしまう」というのは、映画の結末そのものだとも言える。だが『おしまいのとき』の妻が「理屈」によって、いわば無限の自己正当化をはかることで逆に追い詰められてゆくのに対して、『アンチクライスト』の妻は自己処罰の欲望をどんどん過剰にしていきながら、それを「女性一般」へとあっけなく超越させてしまう。わたしが愛する子どもを喪ったのは、子どもの靴を無理矢理互い違いに履かせるという陰湿な虐待に及んでしまったのは、わたしがわたしだからではなく、わたしが女だからである、と。彼女はこのような「理屈」を捏ねているように見える。『アンチクライスト』は二〇〇九年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、当然のごとく激しい毀誉褒貶を醸したあげく、シャルロット・ゲンズブールが女優賞を受賞したものの、「女性嫌いの最たる作品」として「最低賞」を受賞している。この「女性嫌い=ミソジニー」こそ、そもそもこの映画の隠れた主題(のひとつ)であることは、エンドロールにミソジニーにかんするリサーチャーがクレジットされていることからもわかる(したがってカンヌの審査員たちは、またしてもこの監督の策略にまんまと乗せられたに過ぎない)。トリアーがややこしいのは、ミソジニーを或る独特な形で宗教的な意識に関連付けていることである。『アンチクライスト』の妻は「理屈」を「宗教的な観念」へと昇華させることによって、より破滅的な「おしまいのとき」を迎えることになるのである。 『アンチクライスト』を最後まで観ると思うのは、この作品の真の主人公が妻よりもむしろ夫の方なのではないかということである。見ようによっては、これは「夫が妻をセラピーしようとして失敗する物語」ではなく「妻の狂気と死をもって夫が救済されるに至る物語」だと捉えられなくもない。荘厳なラストシーンは、それを暗示しているようにも思える。だが、誰にもわかるように、これはどう考えても「救済」とは言えない。それはいうなれば贋の救済、救済のパロディでしかない。なぜこの夫婦は、子どもの死という事実と現実に向き合うことを早々に止めてしまい、観念的で宗教的な、不毛なディスカッションに明け暮れ、それどころか子どもが死んだ時と同じくセックスばかりしているのか。ふたりはあまりにも不真面目にシリアスなのである。実際、妻はほとんど確信(自信?)を持って狂気へと突き進んでいくように思える。『おしまいのとき』の妻の「理屈」とは、言い換えるなら要するに「言い訳」である。だが『アンチクライスト』の妻には言い訳の意識は微塵もない。彼女はむしろ真理へと、自分自身を超えた世界の真理へと超脱しようとして(そう出来ると信じて)、しまいには自分で自分の小陰唇を割礼するのである。妻の狂気に否応無しに巻き込まれてゆく夫は、映画の後半はただただ恐怖しているかに見える。この映画は途中から、ほとんど『エクソシスト』のようなホラー映画になってしまったかのようなのだ。 もう一点、『アンチクライスト』を『おしまいのとき』と比較することで見えてくるものについて指摘しておきたい。しばしば露悪趣味と呼ばれたりするほどに、常に人間(性)のネガティブな側面を題材にしながら、極度に完成された劇的世界を造り上げてきたポツドールだが、それだけに、二〇一一年秋の公演の内容はおおいに注目されていた。何故ならば、それが他でもない「二〇一一年三月十一日」からたった半年足らずで三浦大輔が発表する演劇であったからである。結果として『おしまいのとき』は、より純度を上げたポツドール中のポツドールというべき作品になっていたのだが、創作にあたって三浦大輔にも迷いがなかったわけではないことを、本人が公演のプレスリリースで語っていた。「この間、色々なことがありました。そして、今、この時期に、自分が何をやりたいのか、何をやるべきなのか、とても悩みました。で、出した結論がこの芝居です」。つまり、ある意味で「色々なこと」があったからこそ、こんな作品だったのである。この回路もまた、トリアーが鬱を経て『アンチクライスト』を撮ったのと似ていなくもない。つまり、トラウマに対するセラピーとしての更なるトラウマ的体験の導入。いや、トラウマを治癒するために発動される、より強力なトラウマ(の戯画化?)。すなわち結局のところ治癒など絶対にあり得ないということを潔く認め、認め続けること自体を動機として作品を拵えること。 「鬱三部作」の二作目に当たる『メランコリア』については、私は以前『批評時空間』という書物の最終章で論じたことがある。それは同作と、時期を同じくして公開された二本の映画(大畑創監督『へんげ』と石井岳龍監督『生きてるものはいないのか』)を繋げて「世界のおわり」にかんする想像力を扱った文章だった。以下はそこで書いたことの引用及び繰り返しを含む。この映画は二〇一一年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されたが、トリアーは記者会見で「ヒトラーの気持ちは理解できる」と発言し、カンヌ映画祭評議会は彼を「好ましからぬ人物」として追放を決定した。だが作品自体は上映され、キルスティン・ダンストが主演女優賞を受賞している。 この映画のストーリーは次のようなものである。二部構成になっており、前半がダンスト演じるジャスティン、後半がシャルロット・ゲンズブール扮するクレアを中心に描かれる。新郎マイケルと共に披露宴の会場である屋敷へと向かうジャスティンの様子から映画は始まる。ジャスティンの姉クレアとその夫ジョンの人脈によって大勢の招待客が集まり、豪奢なパーティが催されようとしている。しかしジャスティンは重度のメランコリア=鬱に罹っており、宴が進行するにつれ異常な言動を取っていく。遂に彼女は決定的なトラブルを起こし、いたたまれなくなってマイケルは去る。ジャスティンは職場の上司をも罵倒し、あっけなく全てを喪う。ここまでは前半。後半に入ると物語は一変する。メランコリアと名付けられた巨大な星が周回軌道を外れて地球に近づいており、五日後には最接近するという。心を病んだジャスティンを自宅に引き取ったクレアは、夫のジョン、幼い息子レオと一緒に、その時を迎えようとしている。ジョンは、メランコリアは地球とすれ違うだけで安全だと言う。だが、それは間違いで、やはり星は地球と激突し、この世の終わりが訪れることがわかってくる。すると一番落ち着いていた筈のジョンは、誰にも告げずに突然、納屋で自殺してしまう。無邪気に星の到来を心待ちにしているレオを守りつつ、クレアはパニックを起こす。だがジャスティンはむしろ破局が近づくにつれ落ち着きを取り戻していく。ラスト・シーンは、メランコリアとの接触の瞬間を迎えるジャスティン、クレア、レオの姿である。絶望に震えるクレア、いまだ事態を理解しないままのレオ、そして穏やかに微笑むジャスティン。強烈な音と光と爆風が画面の奥からやってくる。これが最後のショット。 トリアーは、これを「ハッピーエンド」だと称している。地球の終わりと人類の滅亡が、どうして幸福な結末なのか。この点にかんして私は、先の批評文で長々と論じたのだが、それは『批評時空間』を読んでもらうとして、そこでの分析を踏まえつつここで述べておくべきことは、『アンチクライスト』の動機付けにかんして触れた「トラウマを治癒するために発動される、もっと強力なトラウマ(の戯画化?)」が、この作品にも当て嵌まるということである。ジャスティンがなぜ鬱に陥ったのか、その原因や背景は映画にはまったく描かれていない。むしろそのようなものは無いのだと考えるべきかもしれない。だが明白なのは、彼女がメランコリアの襲来=世界の終末によって恢復するということである。姉のクレアとの立場は、映画の後半になって逆転する。他のひとびととは正反対に、地球を滅ぼす星の到来が彼女を元気にするのである。 いささかデリケートな話題なので気を遣うが、私の知人に、長年鬱病(的なもの)に悩まされていたが、「二〇一一年三月十一日」以後に急に元気になった、という人が居た。そのメカニズムのほんとうのところは知るところではないが、同じような話は当時、幾度か耳にしたように思う。だがジャスティンの復調は、それらとはやはり違う。災厄や危機と、終焉や滅亡は異なるからである。だがひとつの共通点は、自分自身の罪や責任からは完全に切り離された、紛れもなく具体的な悲劇、無根拠で不条理な悲劇こそが、具体的でない、説明の不可能な、つまり気分としての鬱に対する、一種のショック療法として作用することがある、ということである。そして重要なポイントは、私の知人の体験は現実の出来事だが、トリアーはわざわざ『メランコリア』のような物語を自ら創り出して観客に向けて語ってみせているのだということである。 『アンチクライスト』と『メランコリア』に限らず、少なくとも或る時期(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』辺り?)以降のラース・フォン・トリアーの映画の多くは、ほぼどれも次のセオリーに従って出来ている。
1。物事はどんどん悪くなってゆく。 2。それは最悪の極みに達するまでけっして止まらない。 3。物語(映画)の最後は、あらかじめ予測された最悪の達成であり、それ以外ではない。
映画のはじまりにおいて観客の誰もが容易に想像し得るバッド・エンディングへと殆ど迷いなく突き進んでゆき、そして想像通りに最悪の結末が描かれることによって彼の映画はおわる。『アンチクライスト』も『メランコリア』も、考え得る限り最低最悪のラストでありながら、トリアーはそれを「ハッピーエンド」だと考え、そのためにこそ映画を構想しているのである。そしてそれは彼自身の鬱と深く関係している(ことも自ら表明している)。トリアーにとって、先のセオリーこそが自己救済のプログラムなのである。だが、それはいったい、どういう意味なのだろうか? 三部作の末尾を飾る『ニンフォマニアック』も二部構成になっているが、前作とは違って、ここでは長尺を便宜的に分割しただけで、前半と後半で視点や話法に変更があるわけではなく、物語は最初から最後まで基本的に連続している。公開前でもあるし、細かい挿話を記すのも無粋なのでざっくりと述べておくなら、トリアー作品の常連ステラン・スカルスガルド演じる男セリグマンが、激しい暴行を受けて路地裏に横たわる女を発見し、自分の家に連れ帰って介抱するところから映画は開始される。どうしたのかと尋ねる彼に、ジョーと名乗る女は自分は色情狂なのだと告白し、幼い頃から現在までの波乱に満ちた人生を物語り始める。この映画は、ニンフォマニアの女ジョーの自分語りと、それに時々、文学的/哲学的なコメントを加えるセリグマンのやりとりを外枠として、全8章にわたって様々なエピソードが描かれてゆく。 前二作に較べると、色情狂というテーマは、いささか軽いと思えなくもない。実際、目をそむけたくなる場面が続出する『アンチクライスト』、容赦なき終末論的な終末の映画『メランコリア』よりは、これははるかに普通に楽しんで観られる映画である。ジョーの描かれ方は、ニンフォマニアというよりは、一種の体質的(?)なセックス依存症とでも呼ぶべきものであり、エロティシ���ムの追究などといった高尚さは完全に脇に置かれて、ただひたすらヤリたくてヤリたくてたまらない、ヤラないと頭がおかしくなってしまう人物であるかに描かれている。 トリアーがやりたかったことのひとつは、そんなヒロインの行動をいちいち「理屈」で粉飾せずにはいられない童貞(と彼は自ら告白する)中年男セリグマンの人物造型だろう。いうなれば彼は『アンチクライスト』でウィレム・デフォーが演じていた人物のパロディアスな反復である。パロディというのは、妻の狂気を起動し促進し止めることの出来なかった夫とは、物語におけるその機能がほぼ逆転されているからだ。そのことは、ここではさすがに書くわけにいかない、だがほんとうは書いてしまっても全然構わないとも思える、ネタバレ厳禁的な映画のラストシーンで明らかになる。ただ言えることは、これも『アンチクライスト』と同様に、『ニンフォマニアック』の真の主人公は、ジョーではなくセリグマンなのだと考えてみることで、俄に見えてくるものがある筈だということだ。ほんとうの「色情狂」は、彼女ではなく彼のことなのだ、と。 ラース・フォン・トリアーの映画、とりわけ「鬱三部作」は、一言でいうならば、救済とその不可能を、ただそれのみを語っている。その無理、その無効、その無意味を。それは彼自身が体験した鬱と、そのセラピーから発想されたものかもしれない。それは結局、わからない。だが彼は明らかに、誰かを(自分を)救おうとする者に無能を宣告するために、これらの物語を語っている。この意味で、トリアーの映画はどれも、徹底的に倒錯した宗教映画だと言える。救い主は嗤われるためにのみ、彼の映画に召喚されているのである。
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8月4日、俳優の津川雅彦さんが心不全で78歳の人生の幕を閉じた。約3か月前の4月27日、妻で女優の朝丘雪路さん(本名・加藤雪江)がこの世を去ったばかりだった。朝丘さんはアルツハイマー型認知症を患い、2009年から別居していた夫の津川雅彦さん(78)が3年ほど前から同居し、介護をしていた。津川さんは、45年間連れ添った朝丘さんに対し、生前「娘を産んでくれたことを含め、すべてに感謝です」と語っていた。女優の道に進んだ長女の真由子さん(44)が、家族3人で過ごした日々を語る。 (出典:文藝春秋2018年7月号 インタビューは2018年5月23日に行われました)
◆ ◆ ◆
「眠れる美女」のように
母の死がこれほど突然に訪れるとは思ってもみませんでした。
母を看てくれているお手伝いさんから「少し様子がおかしい」と電話をもらったのは、お昼頃、仕事先へ向かおうと自宅で準備しているときでした。心配ですぐに車で5分ほどの実家へ駆けつけました。
母はベッドのなかで、すやすや眠っているように見えました。寝息のようにスースーと息が聞こえ、いまにも目を開きそうです。私は「ママ! ママ!」と何度も呼びかけました。
お手伝いさんの話では、朝はいつもの様子でしたが、しばらくして声をかけると反応がなかったそうで、あわてて仕事で外出していた父と私に連絡したとのことでした。
父から、とにかくお医者さんに連絡をとるように言われましたので、主治医に連絡をとりました。
あまりに急なことで私は気が動転し、「本当にこのまま亡くなってしまうのかな」と不安でいっぱいでした。父も初めは驚いた様子でしたが、今思うともう覚悟していたのでしょう。母の様子を見て安らかに逝かせてあげようと思っているようでした。母を心配しながらも私のことも気づかい支えてくれた父はすごいなと思いました。
私たちの声や思いは母の意識にきっと届いていたと思います。母はおとぎ話の「眠れる森の美女」のように目を覚ますことなく眠ったまま、夕方に静かに息をひきとりました。
自宅で家族に看取られたのは理想的な最期だったのかもしれません。私たちに苦しむ姿を見せなかった母は、本当に家族孝行だと思います。
母との最後の会話
最後に母と話したのは、その1週間前でした。部屋に入って「ママ元気? 真由子だよ」と言ったら、初めは「ん?」という顔でこちらを見ていましたが、私だとわかったら「頑張ってる?」といつも通りの会話になりました。
「うん、一生懸命頑張ってるよ」
「そう、ありがとうね」
「ありがとうって、何もしてないよ(笑)」
そんな会話を交わしながら、母の部屋で30分ほど一緒に過ごしたのが最後でした。
家族と近親者だけで葬儀を済ませ、納骨を終えたら、ようやく落ち着き、これから母の居ない世の中を父と2人で力を合わせて生きていかなきゃと思えるようになりました。父の意向でみなさんにお知らせしたのはその頃です。すると、母のことを知る方々からたくさんの電話やメールをいただき、母が亡くなった日のことを伝えるたびに、「ママは死んだんだよ、ママは死んだんだよ」と自分に言い聞かせるようで悲しみがあふれてきました。
仕事が命だった
母と私は、親子というより姉妹のような関係でした。私がまだ小さい頃から、母は家にいることが少なく、長期の舞台公演などがあれば、1カ月ほど留守にすることも当たり前でした。幼い私がお母さんは通いで来る人なんだと思い、玄関で「ママ、また遊びに来てね」と見送った話は、母から何度も聞かされました。たまのお休みで自宅にいるときには、母は悲しそうな顔をしていました。「ママ、どうしたの?」と尋ねたら、「ママ、お休みになっちゃった。何したらいいのかわからないの」と言われました。母はそれぐらい仕事が命でした。
反対に父のほうは、休みになると「真由子、どこ行きたい?」といろいろなところへ遊びに連れて行ってくれました。授業参観や運動会などの学校行事もすべて父が来てくれて、いまでも旅行に行くと、父と一緒にお風呂に入るほど、私はパパっ子に育ちました。
私は子供の頃、将来の夢を依かれると「3食昼寝つきのお母さん!」と答えていました。学校帰りに友だちの家へ行くと、お母さんがおやつを作って待っていてくれるのが羨ましくて、「こういうお母さんになりたい」と思ったからです。それからしばらくして私は「お手伝いさんになりたい」と思っていました。家では、お手伝いさんといつも一緒でしたから、自分も大人になったら、お料理やアイロンがけをして、誰かのお世話をしたいと思っていたからです。
高校生になるころには、私の夢はスチュワーデスに変わっていました。アメリカンスクールに通っていた私は英語が得意だったので、英語を活かせて誰かのお世話が出来る仕事に就きたかったからです。20代に入ると、父が経営していたおもちゃを販売する会社「グランパパ」を手伝いながら、スチュワーデスになりたいという夢を膨らませていました。ところが、父に相談すると「万が一、事故が起きたら確実に死ぬような仕事はダメだ」と反対されてしまいました。
「女優をやってみない?」
ガックリきて、自分には何もやることがないと悩んでいたとき、母に突然「ちょっと、女優をやってみない?」と言われました。女優なんて、1度も考えたことがなかったから「それはイヤ」と答えたら、「食わず嫌いはダメよ」という言葉が返ってきました。「パパとママの仕事を頭ごなしに嫌いって言うのは良くないわ。1回やって味見してみなきゃ。嫌ならやめればいいんだから」。
そういわれて、私は25歳で母が座長を務める舞台に出演することになりました。自分で舞台に立ってみると、父と母はこんなに素晴らしい仕事をずっとつづけてきたんだと初めて実感しました。自分の演技で客席から笑い声やすすり泣きが聞こえ拍手が起こる。これはすごい仕事だと、母のいうことがわかった気がしました。
ただ、あとになって「あれはママの策略だったのかな」とも思います。お客様の反応が直接見えない映画やテレビの仕事が最初だったら、芝居の面白さをすぐに実感できなかったかもしれないからです。
父、津川雅彦が舞台で母を起用した理由
母自身も舞台を愛していました。私が子どもの頃は、父が演出、母が主演、伯父の長門裕之さんが相手役という舞台をよく観ました。感動の涙を流した場面は、いまでも思い出すと鳥肌が立つほど鮮明に覚えています。舞台に立っているときの母は本当にすごかった。父は同じ役者として、母を尊敬していました。父は私が女優の道に進んでから、よくこう話していました。
「舞台の花道で芝居をするのは本当に難しい。普通の役者は間が持たないから、一発決めて、さっと引っ込む。でも、(二代目)中村鴈治郎さんと雪江だけは花道で30分も客席を沸かせられるんだ」
父が自分の演出する舞台に必ず主演女優として母を起用したのは単純に身内だからではないと思います。
「台本を渡して、最初に稽古で立ったときの兄貴(長門裕之)と雪江の芝居はすごいんだ。あの2人は天才だよ」
そう言って、伯父と母を絶賛していました。私も両親と同じ道に進んで、その感覚がわかるようになりました。舞台の上で大先輩の女優として母に接し、そのすごさを体感するようになったからです。
家でも浮世離れしていた
そのような舞台での顔とは別に、母はテレビの世界では、“浮世離れしたお嬢様”“天然ボケ”のキャラでした。例えば、家事が一切できないとか、結婚するまでお金を払って買い物をしたことがないとか。私がデビュー後に母と料理番組に出たときは、結婚後、初めて包丁を握ったと話題になりました。
そんな“世間知らず”になったのは、母の父・日本画家の伊東深水が母を溺愛して、深窓の令嬢として育てたからです。父はよく「雪江が何もできないのは伊東深水のせい」だと文句を言いましたが、結婚する時に「雪江は何もしなくていい、女優だけをやってくれていればいいんだよ」と言ったそうです。
母と私で「クイズ$ミリオネア」に出場したときには、こんなことがありました。第1問は「都道府県の都はいくつ?」。私は「1つ」と答えを言いました。直後、ファイナルアンサーと言われると、母が絶妙なタイミングで「でも、京都もあるわよ」と耳元でささやきました。そういわれると、私も急に自信がなくなり、2人であたふたと相談するうちに再度司会のみのもんたさんにファイナルアンサーを求められました。思い切って「1つ!」と答え、「正解」の一言が返ってきた瞬間、母は大はしゃぎ、私は感極まってうれし涙を流してしまいました。みのさんからは「第1問でここまで盛り上がったのは、あなたたちぐらいですよ」と言われました。帰宅すると、番組を観ていた父から「みっともないから、もうクイズ番組には出るな」と2人で叱られましたが、いまとなってはいい思い出です。
「卒婚」と報じられた別居の真相
父と母が別々の家に住むようになったのは2009年のことです。当時の芸能ニュースでは、熟年夫婦が円満に別れる「卒婚」だといわれましたが、父と母は不仲になったから別居したわけではありません。
きっかけは父が経営する「グランパパ」が経営難に陥り、6億円以上の負債を返すために私が生まれ育ち、父と母が住んでいた家を売却せざるをえなくなったことです。その家は母の持ち物でしたから、父はそのことを今でも悔やんでいます。そのとき私はすでに実家を出て1人暮らしをしていましたが、父と母は新たに住まいを探さなければならなくなりました。しかし、父と母は物持ちなので、2人が同居し、快適に過ごせるような一軒家を探すのは容易ではありませんでした。そこで別々の家を借りて、別居することにしたのです。長年住んだ家と別れることになり、悲しんでいるかと思ったら、母は「雪江、1人暮らし初めて。ちょっと大人になれるかしら」とウキウキしていました。以前から父と母の生活スタイルは仕事上別々でしたから、部屋の住所が変更されただけのようなもので、実質的な変化はありませんでした。
コンビニをホテルのクロークと勘違い
1人暮らしをしている時、スーパーやコンビニに1度も行ったことのない母は、マンションの1階にあるスーパーに行きたくなると「真由子、今日うちにご飯食べに来る?」と電話をかけてきました。「うちね、1階に24時間の大きな冷蔵庫があるの」といって、とても楽しそうでした。
一緒にコンビニに行く際には、まず2つあるレジの片方のカウンターにコートを預けます。ホテルなどのクロークと勘違いしているのです。それから売り場を回って、「あの、すいません、これちょうだい」と商品を指さすと店員さんが母に気づき、カゴを持って来てくれたので、私が「コンビニではカゴは自分で持って買い物をするんだよ」と注意しました。すると「重たくて、ママ、あんなの自分で持てない」。万事がこんな調子でした。
母が「もっと遊びなさいよ」と父に言った話や父が合コンしていることは、よく知られていますが、父と母は若い俳優さんや女優さんたちとよくご飯を食べに行っていました。両親とも私が不勉強に思えるほど、最新の情報をキャッチしていて「いま、これが流行ってるんだぞ」「あんた、そんなことも知らないの?」と言われることがたびたびありました。��のような刺激があって、父も母もずっと若々しく、格好よくいられたのだと思います。それで元気でいてくれるなら、むしろ心配が減って、いいことだと私は思っていました。父も母もお互いがイキイキしていることを誇らしく思っていたことでしょう。
「私のことも忘れちゃうのかも」
母が認知症の診断を受けたのは2013年のことです。そのことは本人には知らせませんでした。
母が若い頃から話し相手の名前を間違えるのは日常茶飯事で、娘の私と話しているのに「ねぇ、ヤマちゃん」と運転手さんの名前で呼んだり、外出先で仕事関係の方に出会って、ひとしきり話して別れてから「いまの誰?」と尋ねてきたりすることは、しょっちゅうでした。そのようなキャラクターですから、いつから認知症になったのか、家族にもわからないところがありました。
私は身近に認知症の人がいなかったので、映画などで観た知識で「そのうち私のことも忘れちゃうのかも」と不安になりました。ですから、元気なうちにできるだけのことをしてあげたいと、私が母のところへ通って、なるべく一緒に過ごすようにしました。近所へ散歩がてらショッピングをしたり、食事や温泉に出かけたり。いま振り返っても、母との思い出は最後の5年間が一番多いような気がします。
家族でつくった最後の舞台
母にとって最後の舞台になったのは、2014年の時代劇ミュージカル「花や…蝶や…」でした。これは私がプロデュースした舞台です。
認知症になって、母が大好きな仕事をもうできなくなるかもしれない、と思ったら、胸が締めつけられました。娘として何かしてあげたくなり、もう1度だけ舞台に立たせてあげたいと思ったのです。
父に相談すると「気持ちはわかる。でも、雪江が舞台に立つなら座長になるからね。万が一、何かあったら他人様に迷惑をかける。家族の思いだけで、やらせるのは役者として無責任すぎる」と反対されました。そのとおりだと思ったとき、妙案が浮かびました。「じゃあ、私がプロデュースをすればできるんじゃないか」と考えたのです。その提案には父も賛成してくれました。
私は脚本の脚色、演出、振り付け、出演とすべてを担当し、深水流の家元でもある母の日本舞踊を活かして「ウエスト・サイド・ストーリー」の時代劇版にしようと決めました。そして父に「私が演出、ママが主演だから、ナレーションで出ていただけないでしょうか?」とお願いしました。こうして家族3人で1つの舞台を作ることになったのです。
母から来たクレーム
私も母に万が一のことがあってはいけないと、演出には細心の注意を払いました。しかし舞台に立った母は、病気の影響も78歳の年齢も感じさせないどころか、女優のプライドを最後まで持ちつづけていました。芝居の冒頭で、母が花魁道中を演じる場面があり、転んで骨折でもされたら大変だからと高下駄はやめて、小道具さんに厚めの草履をお願いしました。すると、母から直接クレームがきました。
「先生、���たし女優です。草履ではなく高下駄でお願いします」
「朝丘さん、大変失礼しました。すぐに高下駄をご用意します」
そう言って高下駄を用意すると、母は難なく履いて、凜とした姿で花魁道中をこなしました。帰りの車でも「あんたね、馬鹿にするんじゃないわよ」と怒っているので、「ほら、年齢も年齢だから、娘としては心配でしょ」となだめると、「そんなおばあちゃんじゃないから」とぷりぷりしていました。体に負担がかからないような振り付けにしていたら、目一杯に踊る振り付けに変更させられ、演出家としてはタジタジでした。
セリフのほうも、途中で「あら?」と思うことはありましたが、ベテランらしく自分なりの言い方でうまくごまかしていました。80歳近くになれば、セリフ覚えが悪くなるのは誰にでもあることです。
不思議なもので、日常生活で、もの忘れが目立つようになっても、母は芝居や歌になると驚くほど記憶は、はっきりしていました。昔覚えたジャズの英語の歌は、一言一句漏らさず覚えていました。
「花や…蝶や…」は結果として母の最後の舞台になりましたが、母は亡くなるまで再び舞台に上がる日を楽しみにしていたと思います。「花や…蝶や…」の公演が終わった後も「先生、次はいつ?」と尋ねられましたから。
病状が進んで、母は「姉」から「妹」になった
別居していた父と母が3年ほど前からまた一緒に暮らすようになったのは、母の病状が進んだためです。父が心配して「すぐ会えるように、お前の近くに引っ越そう」と広い家を見つけて、母と一緒に住むことになりました。
わが家には昔から「おはよう」や「おかえり」の挨拶でキスをする習慣があって、父と母の間にはまたその習慣が復活しました。父と暮らすようになって母は明るくなり、新婚時代に戻ったような初々しさまで感じられました。
母の場合は病状が進んだといっても、大きく変わったのは、恥ずかしがり屋さんになったことくらいでしょうか。食欲は旺盛で、特にあんこの和菓子などはよく食べていました。甘いものを買ってきて一緒に食べようとすると、私の前にある同じお菓子をじっと見つめているので「これが食べたいの?」と差し出すとパクパクッと食べて、さらに自分のも食べてしまう。「それ私にくれないの?」と言うと、「これはおいしいからダメ」と返してくる。子どもに戻った感じでした。私にとって以前の母は姉のようでしたが、病気になってからは妹のようでした。母の現役時代に比べたら、本当に多くの時間を過ごすことができて幸せでした。最後にしっかりと母親をやってくれました(笑)。
「また女優になりたい」
母は病気が進んでからも、不意に「明日のスケジュールはどうなってるの?」と尋ねることがありました。「明日もお休みよ」と答えると、「えー、休み多すぎよ」と不満そうでした。ふと見ると、踊りの手ぶりを工夫していることもありました。母は最後まで女優として、女優人生の千穐楽の幕を下ろすことができたんだと思います。
「ママ死んでもね、生まれ変わったらまた女優になりたいの」
母は昔からよくそう話していました。いまごろは、新しい女優人生の初日を迎えるための準備をしていると思います。
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2021/12/27
朝、目覚ましで目が覚める。布団の奪い合い合戦だの布団を譲り合い合戦の夢をみるのももっともな寒さ、今年いちばんの寒さを更新。ここまで寒いと、このむちゃくちゃさ加減にむしろ笑けてくる。そとは雲ひとつない快晴、日差しはほんのちょびっとだけ熱を寄せてくる。並木道の花壇の土塊には霜柱が立っている。花壇にしゃがみ込んでいるおばあさんがいて病人かと思ったら、一眼カメラで熱心に霜柱の写真を撮っている。 朝からファスビンダー映画のことがあたまをもたげる。ファスビンダー的人物からひたすら語られる孤独の二文字。彼(彼女)の不幸はその孤独がセクシャルという記号に回収されるものですらなかったことにあるように思う。彼(彼女)の孤独がセクシャルな孤独程度に収まっていれば、たぶん、もう少しはマシだったにちがいない。きっと、孤独になるのにも才能がいるのだろう、欲するという才能が。それもたんにある条件が与えられて満足するような生半可な欲しがりではない。彼(彼女)には愛する妻子がいるのだし、また妻子からも愛されている。つまり、彼(彼女)の欲しがりはある不足の状態からくるのではなく、純粋な欲しがり、不足を前提としない過剰な欲しがりとして発揮される。不足を補うことを仮に−1+1=0と表現するのなら、彼(彼女)の過剰な欲しがりは0という調和ある枠組みから常に逃れてはみ出ようとする余計な1と表現することができる。事実として彼(彼女)は男性でありそのことに何の不足も感じていないのにもかかわらず、つまり、トランス的なセクシャリティを抱えていないのにもかかわらず、手術でおちんちんをカットして女性になってしまう。これこそ余計な行いと言うほかなく、純粋な欲しがりを視覚的に体現しているのがファスビンダー的人物だと言える。0という枠組みから逃れるようにファスビンダー的人物は婚姻関係という社会制度から逃れ、性という生物学的な枠組みからも逃れている。ファスビンダー的人物は固定的な枠組みを嫌い、絶えずその外に流出しようとする、そうした枠組みは純粋な欲しがりの邪魔になってしまうから。手術でおちんちんをカットしたファスビンダー的人物はそのことを一度目の死と表現している。なるほど、たしかに社会的な死ではあったかもしれないが、ファスビンダー的人物から語られるこの一度目の死は二度目の死が示唆するようにそんなに易いものではものではないように思われる。その純粋さのためには産まれながらに与えられた固定的な身体性すら放棄する必要があったという覚悟の現れであって、このことは二度目の死にも通じてくる。そんな彼(彼女)も施設にいた子どもの頃は不足を補う欲しがりに躍起になっていた。彼(彼女)はとても利口で、やがて嘘をつくことを覚えた。つまり、本心は二の次に相手の望むようなことを言い、その対価として報酬を受け取ることを覚えた。誰も彼(彼女)の悲しみに気づく者はいなかった……。やがて、不足を補おうとすることに虚しさを感じた彼(彼女)は周囲の人間に対して無関心になり、今度は盗みを働くようになった。それも何故か彼(彼女)にとって特別必要とは思えないようなものばかりを積極的に盗んだ。盗みを働くようになると、嘘をついていたときとは打って変わって、周囲の人間に虐められるようになった。彼(彼女)はそのことを楽しんでいるようだった。この施設時代の彼(彼女)のエピソードは、つまるところ下手な芝居をうって他人に気に入られるより、より真実らしさを志向するようになって、尚且つそのことで他人に蔑まれることを意に介さなくなったということだと思う。さて、そんな転機が案外いちばんの近道だったのか、やがて、大人になった彼(彼女)はじぶんの理解者たる妻や友人と出会い、さらには子宝にも恵まれる。ところが、すでに彼(彼女)の純粋な欲しがりはとどまることを知らなかった。ある男の些細なひと言が彼(彼女)を破滅に誘うことになる。「あんたが女だったらよかったのに」それからの破滅ぶりは火を見るより明らかで、13回の新月のある年(その年は精神が不安定になりやすい)の効果も手伝って彼(彼女)を二度目の死へと向かわせることになる。彼(彼女)は死というものに対して、一度目の死のときからすでに自覚的で、だからそこ唐突に目のまえに自殺を繰り広げようとするひとが現れても何ら物怖じすることなく、たまたまタバコにつける火がなかったから首を括ろうとしている自殺志願者に火が欲しいとお願いする始末で、そんな自殺志願者からこん��ことが語られる「人間の道徳的価値は、人間の運命から知ることができる。人間が無価値ならば運命を嘆く必要はなく、その意味で世界とは法廷である。生の意志の否定すなわち自殺という行為についてはひどく誤解されており、実は自殺は否定的行為でない。自殺者は生を求めているがその条件に不服なのであり、生への意志を決して放棄することなく、現象としての自己を破壊するのだ」と。彼(彼女)はこの言葉にいみじくも賛同するかのように現象としての自己を破壊して、もはや彼とも彼女ともつかない無機物になる、第二の死を遂げる。じぶんとして自殺志願者の考え方には肯定も否定もしかねるが、では、彼(彼女)は孤独な人間であったか。客観的にみれば彼(彼女)はまったくもって孤独ではなかった。事実として彼(彼女)はみずから捨てた妻子にすら未だに愛されているし、理解のある友人もいるし、死の際に至っては妻子友人たちがこぞって彼(彼女)の安否を心配して奔走するからには彼(彼女)は孤独だったとは言い難い、むしろ、そこらへんの誰よりも恵まれているとさえ言える。でも、それでも、彼(彼女)の純粋な欲しがりとそれとはあまり関係がない。それこそが彼(彼女)の孤独の根深さであって、彼(彼女)の生きようとする力動でもある。彼(彼女)の育ての親である施設のシスターは言う「人生を台無しにしたのは彼(彼女)のせいではなく人の作った秩序のせい」だと。彼(彼女)の純粋な欲しがりはことごとく世間様が望んでいるような安易な条件とは合致しなかった、その根深さよ、と。ある程度の秩序がなければ何も生まれ得ないことはよく理解しているつもりだし、じぶんが挑発的な物言いでほかでもないその秩序を破壊しようとしていることもよくわかっている。ただひとつ、ここだけは取り違えたくないのは、ファスビンダー自身は同性愛者だったらしいが、ファスビンダー的人物はそもそも同性愛者ではないし、少数派という不足を起点に欲しがってはいないということ、ファスビンダー自身は37歳で死んでいるが、死因はたんにコカインの過剰摂取で自殺かどうかは不明であるということ、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手としてその短い人生で44本もの映画を撮ってしまうほど映画を欲していたということ。 昼、カレーうどんを食べて口のなか火傷だらけ。 夜、お風呂も済まして、あとは寝るだけの状態で映画へ。河辺怜佳の『過ぎ行くみなも』。トレーラーを観て、これは観るべしと思って行ったら、劇場の隅のほう席にちょこんと万田邦敏が座っていて、ま、まさか、となる。万田、ジェダイ・マスターみたいな変な服を着ている。ていうか、万田ってすごい小さいし、なんかフォースも使えそうだし、もしかしてマスター・ヨーダなのでは? さて、映画がはじまり、冒頭のスーパーでのショットから、物語の中心になるふたりの人物がこれしかないよねって感じのポジションで画面に収まっていて鳥肌が立つ。そして、万田がいるということはやっぱりそういうことで、演出がどんどん『愛のまなざしを』の万田印になってゆく。まるで踊りの振り付けのような演出に、座れ、立て、転がれ、縋り付け、そして『関係』しろ! それが万田だ! 万田が万田映画で万田印の演出をする限りにおいてはわかりずらかったこの演出の効果がほかのひとによって実践されるとその怪力ぶりが見事に明るみになる。とくに縋り付くということの怪力ぶりよ、この映画はほとんど縋り付くことの怪力ぶりで物語を動かしている。ちなみに脚本のテーマ系も『愛のまなざしを』に酷似していて、おそらく制作時期は『過ぎ行くみなも』のほうが早いか同じくらいだと思うのに、すれ違いというテーマが『愛のまなざしを』ではトンネルのなかで宙づりにされ『過ぎ行くみなも』では橋の上で宙づりにされる。ただ、どんなに万田印でも映画の持ち得る質感はぜんぜん異なっていて、両監督の個性が出ているように思う。万田映画のドライで無機質な感じがこの映画にはない。この映画を観ようと思ったきっかけはトレーラーにふたりの人物がくの字で横たわるのを俯瞰で撮っているショットがあって、同じようなショットをまえに観ていたく感動したから。そう、マレーシアの母と言われるヤスミン・アフマドの『タレンタイム 優しい歌』。ヤスミンの映画には、まさに母と形容されるのがふさわしい優しい包容力があって、それと同じような優しさがこの映画にもあって、それは万田のドライで無機質な質感と大きく異なっているように思う。
万田が来ているということは、やっぱりそうで、ぜんぜん知らなかったけれどトークショーがある。もはや言わずもがな監督の河辺怜佳は万田の教え子だそう。河辺怜佳がなんか言葉に詰まった様子で「万田邦敏監督です」と万田のことを紹介する。お客さんの前で何て紹介すべきか一瞬迷ったんだろうなぁ、躾が行き届いているなぁと思う。そしたら、やっぱり話し始めてみると万田監督とは呼ばずに、万田さん、万田さんと言う。万田ゼミの幕内話からはじまり、万田ゼミに入るとまずいちばんに「欲望するということ」を学ばされると河辺怜佳の口から語られ、もうそれだけで今夜わざわざ来た甲斐があったと、カッカッカーと高笑いしたい気分。いずれ、万田には師事するつもりでいたけれど、もはやそんな必要もないのでは? とちょっと強気な気持ちになる。
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生活がただあるだけ
11/1 日曜日だけど、イレギュラーで仕事。 朝早くてその時点で体力0。 ひたすら人の発表を聴き続けた。めちゃくちゃ疲れた。
帰ってから予約していた焼鳥屋の時間まで少しあったのでマクドに寄ってしまった。 もう激疲れで。疲労困憊の助だった。(これを打っているいまも疲れている。)
今回も焼鳥屋はうまかった。ああ。めちゃくちゃうまかった。 腹いっぱいやのに焼きおにぎり食べたらまだもう10個はいけるな、ってなった。 焼きおにぎりってなんであんなにおいしいんだろうな。 もちろん、焼鳥もおいしかった....。
帰りにライブハウス横のカフェスタンドみたいなところに行って帰り。 めっちゃくちゃ疲れたけれど、結局、夜中まで起きてた。
11/2 こころから有休にしていてよかったと思った。 会心の有休だな。
1日中、雨だったので借りていて読めていなかった又吉直樹さんの『人間』を一気に読了。 インスタのほうに感想はだだっと書いてしまったからやめるけど、1章のあの嫌な感じちょっとわかるな~。 体験ではなくて、ああいう変な仲間内の感じ。 又吉さん自身が体験したことがベースになっていることが多そうだった。
録画していたクイズ違和感!のノブ違和感が相変わらず最高でした。 へこんだときにはあの映像を見て元気を出したい、というくらいにおもしろかったー。 あれは人を救えるよ。
11/3 文化の日。すなわち、結婚記念日。はやいな1年。 昼にうどんを食べに行って、カフェへ行った。ひさしぶりなとこ。 相変わらずの静寂。
さーっと歩いていたら、偶然にもイルミネーションに出くわした。 どうやら、今日からだったらしい。 歩行者天国になっていたのでなかなか貴重な体験だった。 これをサプライズ演出とさせていただきます。
休憩してからスーパーへ買い物に行った。 今日はということでパーティーみたいなアイスとスイーツを買う。 そして、帰ってアイスとかチーズケーキを食べた。 これこそおウチDEパーティー。楽しみました。
11/4 アメリカ大統領選挙がどうなるんだろうと見守っている日。 僕は健康診断でした。 相変わらず恐怖の採血。大ストレスだったけど、今年も問題なかった。 やってくれてる人がうまいのかな。
5年くらい前に受けたとこ最悪で何回もぶっ刺された。 血が苦手すぎて倒れそうになるんだよな。 恐怖で医療ドラマとか全然見られない。イメージ力が強すぎるが故に。
帰ってから夜中に作っていた煮物を食べる。 作っておいてよかった。鶏からでたダシがしみしみ。
11/5 ギターを引き取りに。 バスの揺れがつらかった。酔いそうになりますね。 帰りに地下鉄にした。地下鉄とバスの割引ありがたい。
なんだか消化不良の感じがして帰りにラーメンを食べに行く。 天下一品をひさしぶりに食べるとおいしいよね。
いろいろと試してみる。 どうやったらライブできる環境になるんだろうな。 というか再現性がないからなあ。 ピアノが弾けないとだめだし、ループじゃないから困る。
11/6 夜にシースーに連れて行ってもらう。おいしかった。 ごちそうさまでした。
その後に消極的選択肢としてスタバへ行く。 スタバの正解のメニューってなんなんだろう。 そして、なぜあんなに人気なんだろうな。
11/7 全席禁煙になった喫茶店へ行く。 苦手な人っているよね。
熱い議論を交わした。 僕はそっちを目指そうということ。険しい道だけど。
この恋あたためますかを見たけど、明るくて王道でいいなあ。 1、2話が録画できてなかったので見たい。 森七菜ちゃんがかわいすぎるのは当たり前だけど、他のキャストもいいなあ。 中村倫也さんってなんであんなかっこいいんだろうな、すごい。
11/8 昼にひさしぶりに味噌汁をつくる。 チャーシューがいい感じに切れて嬉しい。
その後、喫茶店へ行く。 いつの間にか、全席禁煙から喫煙可能になっていた。 このご時世に喫煙可能にするってどうかしてるでしょ。 おかげで頭痛を発症。深夜まで頭痛が続く。 もう行きません。さようなら。
本当に副流煙が出るたばこなんて全滅したらいいのにね。 嗜む本人だけじゃなく、周り影響あるのになくならないっておかしいよな〜。
最近、野菜不足を感じていたので帰りに野菜を多めに買う。 ブロッコリーなんてひさしぶりだなー。栄養素が多いので有用な食材である。
これまたひさしぶりに飲みたかったカフェオレを飲む。 あー、やっぱりフルーティなコーヒーも摂取したくなる。
ガキ使の長州力さんへのプレゼント企画でココリコ 田中さんのセンスがひどすぎて腹捩れるくらい笑いました。おかんニットに執刀医ニット、最高です。これも元気が出るやつですね。
あ、あと進撃の巨人の総集編を見た。これは見ないと、、、めちゃくちゃおもしろいね。。
11/9 昼に和のものを食べる。 和食は精神的にも落ち着くね。
なんだか、仕事で担当の人がわーっとなってたんだけど、落ち着いて考えたらそんなに難しいことじゃなかった。 もうちょっと落ち着いて考えようぜ。
夜にフレッシュネスバーガーへ行く。 Go To使えるってすごすぎ。実質の値段が驚く価格。 明日に行けばよかったかもしれないけど。。 まだ、やらないといけないことあったからいいか。
ということで帰ってアイロンやら弁当作りに勤しんだ。 ダイアンのよなよなはやっぱり、だらーっと聴けていいね。
しかし、大阪だとキョートリアル聴けないのつらい。 ラジコプレミアム入らないと垣根を越えられない。 ラジコのタイムフリーが再生スピード変えられたらよりいいんだけど。
11/10 割とバタっとして終了。
疲れていたが晩御飯を良い感じにつくる。 パスタに入れていた唐辛子が恐らく、「激辛」の大当たりでめちゃくちゃ辛かった。 おいしくはあったのだけれども。。
11/11 朝からZOOMでのシミュレーションがあったので疲れた。 しかし、ZOOMのいろいろな機能あるんだね。
昼にたまに見かけるけど、たぶん、あの味だろうな、というラーメン屋へ行ってみる。 おいしかった。濃厚だった。あの味だった。
晩御飯として豚しゃぶをする。 大量のきのこを入れてみたら水の色がきのこ色になった。 きのこで染め物ができそうだ。
相席食堂でのスギちゃん ハンター相席を見る。 当人としてはなにもかもうまくいかなくて手応えなしで終わってたけど、視聴者としては爆笑でした。 「ワイルドだろ!」の言い方もうまくいかないし、ロケ中は話せないし、猟師は弾撃たないしと盛りだくさんで笑った。 おっぱい先生でもめちゃくちゃ笑っちゃうんだよなあ。 センスがないとされる芸人さんが汗かいて一生懸命やってる姿が大好きなんだよな~。
suzuriというサービスをよく知らなかったんだけど、すごいね。 在庫抱えずにグッズ作れるって。いろんなサービスを持ってるGMO系列かーすごいなー。 ちょっとなにか考えてみようか。アプローチ次第ではなんかできるかも。 かわいいデザイン前提だけど。
11/12 隣の工事がうるさすぎて朝の眠りが妨げられる。 挨拶あれば心象も少し違うんだけど。。
働いて疲れました。
11/13 流し見でさんまVS東大生を見てたけど、いろんな人がいるね。すごいな~。 なにより、結局どんなキャラが来ても笑いに変えてしまうさんま大先生がすごいんだよな。 カービィみたいな感じ。新しいものを吸い込んでは結局、笑いというものに変えてる。
夜に肉を食べに行った。うまい。やっと合う量を見つけられた気がする。 完全に録画していたテレビを見ていた影響。 やっぱりステーキにも行ってみたい。
11/14 夕方から芦屋市立美術館へ宮内優里さんのライブを見に行く。 即興演奏も読書もよかった。声いいよなあ。もっと歌ってもいいんじゃ…。 緊張しながらお話させていただく。 優しくいろいろと教えていただいた。 展示は見られなかったので明日に行く。
日付が変わってから残っていた水炊きを食べていた。 普通に考えて良くない。うまかったけれど...。
11/15 昨日よりかは随分、早めに出る。 宮内優里さんのBGM演奏が外の気候と音と合っていて心地よかった。
天気が良かったのでパンを買ってきたらよかったと後悔。 完全にピクニック日和だった。
展示見たあとに美術館横の喫茶店であー、この可もなく不可もなくだよな、というハヤシライスを食べる。 ひさしぶりに食べたなあ。ハヤシライス。
夕方から暗くなるまでBGM演奏を聴いて終了。 再び、お話させていただく。 昨日と今日でなんかいろいろとヒントを貰った気がする。
ちょっといろいろやり方を考えてみよう。
11/16 あーっと忙しかった。というかちょっとやりすぎた。 別に全部終わらせなくてもできたな、きっと。
疲れた1日だった。
11/17 思い切ってOSをアップデートする。MojaveではLogic最新にアップデートできひんのかーい。 ってことでCatalinaまでアップデートした。Big Surだと僕のはフリーズの可能性があるらしい。 Catalinaでもキーボードの設定に苦しんだ。 キーボードのソフトもアップデートが必要だった訳ですが、アップデートしたら配列が変わった。 微妙に打ちにくい。くい。
Logicを最新にアップデートしてLive Loopsを使ってみる。 さて、これを練習していきます。 そんなこんなで練習曲をアップしていく企画盤を思いついたのでタイトルやらいろいろ考えてみる。 冬の日記みたいなのしようと思ったけれど、最終的に変わった。 それに合わせてビジュアルも変えなければ。 最終的にどうなるかはわからない。
思いのほか夜ふかしをしてしまっておやすみ。 完全にモードが変わってしまったのでちょっと前に作ったやつを出さないと...。
11/18 昼から仕事。ささっと済ませてから自分のやりたいことに集中。 買い物して帰り。 勤務先駅前のスーパーの雰囲気がいいから買い物はここでしたい。
相席食堂、最高でした。 Live Loopsを触って寝る。
11/19 ランチに近くのうどん屋へひさしぶりに行った。 相変わらず麺の量が多すぎて食べきれない。並盛なのに。 がんばったらいけたけど、血糖値スパイクがね。。 血糖値上がりにくい人がうらやましい。
一回家帰ってきたら買い物のやる気が失われたけど、なんとかがんばって行った。 夜でも全然温かった。半袖の人もいた。 天気、これくらいでええで。
有吉の壁が最高でした。 一般人の壁でのジャンポケのコントの「アンティーク芸人」というフレーズ、すばらしかった…! その後のブレイク芸人選手権でのインポッシブルの声量がすごくて、まさに体現してたな、、笑 大きい声ってだけでおもしろさは増すから声量はめちゃくちゃ大事。 ギャラクシー賞取ってほしい。
ラジオコントを聴きながら携帯で簡単なデザインをしていた。 昨日作ったものよりこっちのほうが良さそう。
11/20 朝からいろいろ調べ物。しかし、なかなか決められない。決めるか〜。
あのコの夢を見たんです 大原櫻子さん回の音楽(使い方含め)がめっちゃよかったんだけど、クレジットにグッドラックヘイワのお二人の名前が…! そして、大原櫻子さんがかわいすぎ。
やっぱりステーキに初めて行ってみた。 この価格でこのおいしさは行くな〜。 ライスとかサラダが自分の量で調節できるのがいいね。満足でした。
11/21 昼にうどんに行ったけれど、あれ、思ってたんとちゃうな、っていうのだった。 やっぱ、うどん屋って種類別で選択しないといけない。 かけはここ、カレーはここ、ぶっかけはここ、というように。 それを加味した上で総合ベストはいまのところあの店だなってなる。 行ってみたいところまだあるからそこも行かないとなー。
若者の街を通ったらこの前までブームが過ぎ去って閑散としていたタピオカ屋が違う店になっていてとんでもない行列ができていた。外とはいえ、密接、密集ではあるぞと思いながら。 本当にとんでもない行列だったので思わず行列整理しているスタッフさんになにかと聞くとユーチューバーさんが接客しているお店が今日オープンだったらしい。 調べてみると全くもって存じ上げない方だったけれど、客層がティーン、本当に中学生くらいでうわー、すごいな、と思いました。 これがユーチューバーネイティブ世代か、、 本当に全くわからない世界が目の前に広がっていた。すごい。
深夜にちょっと前に買っていたAirPods proを試してみる。 OSがバージョンアップしたのでね。 結果、これはすごい。。。ノイズキャンセリングがすばらしいですね。 家の窓が薄いので車の音がけっこう聞こえたり、爆走バカライダーのエンジン音とかが気になってたんですが聞こえなくしてくれる。 ただ、ほんのすこしの遅れが発生するから音楽制作には使えないな。。 いや、しかしとても価値があるものだと思います。
11//22 ひさしぶりにホットケーキを食べておいしいと思ったの段。 子供の頃、朝マックでたまにホットケーキを食べていた、なつかしい。 でも、朝マックは絶対にハッシュドポテトだよな。あれはもう最強。 ひさしぶりに食べたい。軽く6000個はいける。 沖縄行ってホテルで朝食バイキングしたい。最高に違いない。
そんなこんなでラーメン屋へ行く。 ノドグロのダシのラーメン食べたかったけど売り切れ。残念。。 しかし、丸鶏のスープがうますぎた。本当においしかったなあ、、 またきます。
再びAirPods Proの話だけど、台所で作業するときが完全に力を発揮してくれる。。 ラジオを聴きながら自由に動きも取れることができるのがいい、というのは想定していたけれど、ノイズキャンセリングのおかげで食器洗うときのガチャガチャ音もかなり軽減してくれる。 あの音がつらくてそーっといつもやっているんだけど、それでもつらいからとても助かった。 HSPの特徴で音に敏感すぎて、というかあらゆるものに敏感なので音が小さくなるのはこれかなり助かるのかも。 通勤時とか試してみよう。耳栓代わりみたいに。
おやすみなさい。
11/23 買い物をたくさんした。しすぎて疲れた~。 おかげで冷蔵庫がぱんぱん。
夜中にラジオを聴きながらラジオを取る。 魚介系の和ダシと、野菜くずと鶏ガラのダシ。 どちらも濃厚でそれぞれ塩と醤油を少しいれて試飲してみたけれどうまーっとなった。 最高ですね。 高い鶏ガラとか丸鶏でダシ取ってみたいな。 麺の製造なんだよな、問題は。ラーメン屋か。
11/24 Air Pods Proを使って初めての外出。 世界が黙りこくっちゃったのか、と思うくらい静か。 もちろん、少しの音は聞こえるんだけど、かなりシャットアウトされていてありがたい。
気付いてしまったけど、お得なパックが買える身分なんだよな、、。 もったいないことした。Apple IDに入れたお金どうしよ。 しかたがないからApple Musicに入ろうかな、と考えている。
買い物して帰り。職場駅目の前のスーパーの雰囲気が好きでより多く買い物をしてしまう。 や、安くなってたからというのもあるけれど、快適だなあ。
11/25 あー、と思っていろいろ変えないとなあ~というものを一斉に変えた。 16時くらいにやっと昼を食べた。 漬物とパン。組み合わせはおかしいけれど、どちらも自家製でおいしくいただきました。 パンは塩とオリーブオイルだけで十分おいしいんだよな~。
夕方に少し作業。音を作っていたりしたら、また分岐して曲のベースができそう。 こういうことが多い。 そもそも触っていたものも違うものから分岐したものだし。 1つの曲から2つも派生でできた。
家ついて行ってイイですか?をぼんやりと見ていたけれどの廃ホテルがすごかった。 幻を見せられてんのかなと。 気付いたらなくなってて、周りの住民に聞いてもあそこは何十年も前から空き地ですよ、とか言われたりして、撮ったはずのカメラの記録もなくなってて…みたいな。 世にも奇妙な物語的な感じがした。
11/26 1年ぶりに対面する方、お変わりないなあ。 もしかすると、と思ったこの日の期待は見事に打ち消される。 帰り際にメール対応、、大変でした。 この環境でなければ、すぐに解決できるのにな~という。
水曜日のダウンタウンが良い回だったなー。 天災の被害に遭ってない地域の説はとても興味深かった…! やってることってブラタモリっぽくもあるし、他の番組でもできそうだけど、この番組のフォーマット使ってというのがより入りやすかった。 番組が培ってきた雰囲気って大事だな。
あとは長風呂の説でのトム・ブラウンのみちおさんの怖ろしいくらいの優しさな笑 優しきモンスターだった。トム・ブラウンって本当にどんどん好きになるな。 ただ、メインの番組を持つイメージが全くつかない笑
相席食堂の体育祭も最高でした。
11/27 いろいろ整理していたら終わってしまった。 あー、なかなかいろいろと道は遠いよなあ。
ナンバガをひさしぶりに聴いたり。カップリングのかっこよさ、とらしさよ。 色褪せないなあ。。
ひょんなことから中田ヤスタカさん関連の音楽を聴いたらハマりそうなくらいよかった。 音圧激高で近年、聴けてなかったんだよな。
寝る間際に訃報が。 覚悟はしていたけれど、早かった、、つらい。
それでも生活は続く。
11/28 図書館へ行く。人がいると割と密な気がする。 密閉もされているし、大丈夫なのかな。
ちょっとひさしぶりにお気に入りのラーメン屋へ。 ああ、おいしかった。 新しいものが常に出ているし、それがどれもおいしくてリスペクト。。。 ちょっと元気出た。
その後にこの前行ったカフェへ。 2回目だけど好きだな~。 妻の祖母のときの葬式の話を聞いたけれど、11人兄弟だったからバーチャンズ11がかなり揃って���似た顔、似た体のフォルムが集まったとのこと。遺伝はすごい。 本当になんかまるこいんだよな~。沖縄って感じのまるさ。いいまるさ。
11/29 電車に乗り、地元へ帰る。 ジャケット忘れた、じっちゃん、ごめん。 1ヵ月前に病院行ったときにやせ細った姿を見てかなり厳しい状況だな、と思ったし、実際にあとはもう看取ることしかできないとのことだったので覚悟はしていたけれど、やっぱり、つらかった。 あー、人は死ぬな、本当に。
父方のじいちゃんって本当に謎な人で父でさえ詳しくないという。。 改めて聴いたら10人兄弟だったらしい。ということは本来、父にもいとこがいるはずだよな。とかやっと昨日に思った。 「せいじ」という人には会ったことあるらしいけれど。
じいちゃんもアレなんだけど、じいちゃんの母、つまり自分にとっての曾祖母もなかなかの人で、、 普通、生まれたての孫(後の父)を線路沿いに置いていくか。。。 じいちゃんが取りに行かなかったらいま自分もいなかったってことになる。 ルーツがわからないからずっと知りたいと思ってるんだよね。 父の産みの母親もどっかで生きてたりすんのかな~~。(じいちゃんの元妻ということになる。)
父と祖父は顔が似てるんだけど、自分は完全に母方よりなので全く似てない。 横たわってるのを見ると、顔のほりが深いし、鼻高いし、簡単に言えば濃ゆい。縄文顔。 京都の北のほう出身だけど、本当は南から来たんじゃないかと疑っている。
出棺して、母方の祖父のときにも来たはずだけど、初めて火葬場まで入った。 建物が静謐であれはすごくよかった。 火葬ということ自体はやっぱ受け入れがたいものがあるんだけど、静かなのはよかった。 数時間後に骨だけになってしまってまたつらさがきた。 しかし、骨太、骨密度がすごくてみんなで驚いた。 股関節に入ってたボルトも残っていた。なんならボルトも納骨さしてくれよな。
寝ようと思ってもやっぱしばらく眠れなかった。 なにがあっても生活は続くな、地獄のはてまで続くよな。 煙に変わっても。
〆
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第三十四回 武生をかえる哲学カフェ 9月19日(土)14:00 ~ 16:00 テーマ「旅って何だろう」 男性4名
前回の「近さ、遠さ」の参加者から提案されたテーマ。どうしてなのか尋ねませんでした。しかし、コロナウイルスの感染拡大による移動の「自粛」が関係しているだろうと推測します。外出を避けた生活が安全とされる時だからこそ、旅に出たいと思った方も多いのではないかと思います。「旅」って何だろうと対話しました。(若泉)
まず、「旅」の国語辞典としての意味を紹介しました。
デジタル大辞泉より 1 住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること。旅行。「かわいい子には旅をさせよ」 「日々―にして―を栖(すみか)とす」〈奥の細道〉 2 自宅を離れて臨時に他所にいること。 「あるやうありて、しばし、―なる所にあるに」〈かげろふ・上〉 [下接語]御(お)旅・帰らぬ旅・神の旅・死出の旅・長旅・俄(にわか)旅・一人旅・船旅・股(また)旅・宿無し旅
そのほか、英語の「旅」を表す言葉についても説明しました。
Travel:比較的長く、本格的な「旅行」 Journey:travelよりも、さらに長い「旅行」 「Life is a journey.」(人生とは旅である)など比喩としても用いられる Trip:どこか目的地へ行って戻ってくるような「旅」 Tour:何カ所か目的地を回り、一巡して出発地点へ戻ってくる「旅行」
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<旅とは…> ・芭蕉、西行、吉田兼好などを連想する。共通項として、「好きなところへ行く」「行きたいところへ行く」ということがあると思う。それらは「世俗を離れる」ということが理由と言える →旅とは人との邂逅(出会い)遭遇を引き起こす。若山牧水が歌ったような、「人の心のふるさと」を求めゆくということではないかと思う ・江戸時代は東海道中膝栗毛や股旅もののように、何日もかけてのんびり旅をした。現在はバスに乗って目的地に行くけれども、「旅」と言えるのか疑問がある →Go To トラベルなど、旅ではなく「物見遊山」だと思う。現代の旅は物見遊山 ・中世の日本人は活発に移動していたらしい。(富山の薬売りなどのように)仕事をしながら旅をしていた →被差別部落の人たちが芸をしながら旅もしていた。一方で、一般の人々もお伊勢参りなどは行っていた →かつての旅には事故や盗賊など危険性がつきものだったのではないか。現在のGo To トラベルには危険性がない →福島県相馬の人たちは、加賀藩からの移住者を先祖にする人たちが多い。農民の次男など移動する途中で殺されたりした人も多いとのこと。 →藩にとっては、コメは経済の基だから百姓が外に出ていくことは国力が下がるため禁じるだろう →お伊勢参りは神宮参詣でありながら、一方で遊郭で女遊びする場でもあった。一種のガス抜き(不満のはけ口)だったのだろう ・芭蕉の「奥の細道」序文「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」は、普通の旅は狭義の旅であり、生きていること自体が旅ということを言っていると思う →3か月前に妻を亡くした。現在、妻とのことやそれ以外の自分の歴史などを書き記しているが、「生きていることが旅」と感じる →旅には「(いろんな意味で)外に出る旅」と、大きな時間の中での「円環する旅」というものがあると思う →亡くなった父が生前書き残していたものがあり、何か考える必要があるとき、それらを取り出してみることがある。普段は手に取らないが。そこにはなにかヒントが書かれていると感じたりする →旅とは、必然ではなく偶然に支配されるということだと思う →それは人生と同じと感じる →吉田松陰が富士山にあこがれて実際に見たときに、落胆したことを歌で書き残している。旅もがっかりすることも含めて、旅だと思う ・2回目の世界旅行は妻と行った。しかし、写真は一枚も撮らなかった。写真を撮ると、撮ることに意識が向かい、現地を見たり感じたるすることが疎かにな��と考えたから。それがいいというのではない。写真を撮らなかったけれども、妻と価値観の共有は行えたと思う →昔は写真などなかったけれども、写真や映像が広まり、世界中でいろいろな国や地域の“エキゾチック”なイメージが広まり、そのことで旅が促されたこともあっただろう
<移動するとは…> ・バスなどに乗って景色を見るのと、自分の足で歩きながら冷たい川を歩くのとでは、自然の見方も変わるだろう →昔は旅に出るには「(危険性、死など)覚悟」して出た →大学時代にユーラシア、アフリカ、中近東など半年くらい旅をした。今の言葉で言えば「じぶん探しの旅」だったと言える。旅に出る際に、家族、好きな人などに遺書を書いた
<旅に出たいとは…> ・昔は、生まれたところから出たことがないという人も多かった。そういう人が「旅に出たい」と思うのはどうしてだろうか →西方浄土(阿弥陀如来を教主とする西方の浄土。人間界から西方に十万億の仏土を隔てた所にあるという。極楽浄土。西方極楽。西方世界。 デジタル大辞泉より)という思想、宗教的な考え方が外に出たいと思わせたということもあったのではないか。「あいつは浄土を探しに出ていったが、そっとしておいてやろう」というような態度も人々にあったのではなか →福島県で福島第一原発事故後にボランティアに長期間参加した時、「自分の身を投げ出す」と、自然と邂逅する、予期せずにいろいろなことに出会うという体験をした。旅とは、そうした「自分の身を投げ出す」という行為ではないか →自分は自分以外のものになれない。そのことに苦しむということがあり、そこで「自分を変える」場としての旅、という捉え方ができるのではないか →僕は「自分とは何か」、分からないと感じる。自分を説明する属性(先祖、家の歴史など)はある。旅とは「じぶん探し」ではなく、「じぶん発見」ではないか →大学時代に本を読むことで「頭でっかち」になると感じた。それより、即物的に外の世界に出ていく(旅に出る)ことで自分を変えることを選択した。一方、旅にはマルコ・ポーロの「東方見聞録」のように、見聞を広める意味もある →昔は、他所に行った人が「こんなところだったよ」と語ったりして、行きたいと思うようになり旅に出たということもあっただろう。現代は、きれいに整えられ与えられるものになっているのではないか →テレビの旅番組でも対象地域が狭く、細かくなり、そこに行って「確認する」という内容のものもある →例えばキリスト教の巡礼などを追った記録などは、私の考える「旅」と近い。お遍路さんも同じ →巡礼は出発点があり、目的地がある。つまり、日常の世界とは異なる、別の「時間」、「システム」というようなものに入るということではないか。別の時間を通して、普段の時間を見つめ直すということではないか。巡礼という大きな枠の中で、巡礼者一人一人は自分の感覚で旅を進める ・芭蕉の「虚に居て実を行ふべし。実に居て、虚にあそぶ事はかたし」という言葉は、色即是空ということだと思う。実が日常の生活、虚が旅という風に捉えると、両方の関係性を考えることが大切なのではないか ・人の誕生も精子が卵子へと旅して結合する旅の結果、細胞分裂して生物として「進化」する旅をするとも言えるのではないか。誕生した後は、死に向かって旅をする
<仮想旅行をもとに考える>※掲示の記事の写真を参照 ・人間は自然との関係性を基盤に置くことが大切ではないかと思う。自分が自然から働きかけられ、何かを感じるというような捉え方が大切ではないか →仮想旅行よりも、ゲームの方がどきどきすると思う →仮想旅行は、人間の感覚の「(実際の時空間しか受け入れないというのではない)柔軟さ」とも言えるのではないか。そのことによって、何か遠いところの危険性を見つけるなどもあり得るのではないか →妻の先祖が富山なのだけれども、インターネットでどのようなところなのか、写真で見ることがたやすくできる。しかし、そこで終わらず、実際に行ってみたいと思った →仮想旅行も体が自由に動かせない人などにとっては歓迎されるなど、いろいろだろう。実際に旅にすることは、歩いて見て歩く、ということだと思う →5Gなどにより大量の情報が一瞬でやり取りできるようになることなど、新しい技術を生み出していくのは、資本主義の宿命ではないか。そこのとに私たちは左右されていて、旅についても「こういうものが旅なのだ」と思わされているという面があるのではないか
<これも“旅”か…> ・旅は、普段の生活、時間の外に出て、また普段の生活に戻るということであるなら、戻ってこない旅もあるのではないか。惑星探査機が地球から離れ、地球の外から地球を見るような旅に出たとしたら、何を感じるのだろうか →かぐや姫が月に帰っていくというような、もう帰って来ないという感じではないか ・旅とは「自分の行きたいところに行く」とするなら、行きたいくないけれども移動する「旅」は難民なのではないか。あるいは、帰りたいのに帰れない人として「残留(取り残された)」者がいるのではないか。宙づりになった人たち、そういう「旅」もあるのではないか
【次回予告】 2020年10月17日(土)14時~16時 第35回テーマ:快適さ 空気を読むことも、忖度も、知らず知らず行っていることに気づくという方も多いのではないでしょうか。僕もそうです。すべては「快か、不快か」を探知することから始まっているのではないか。いろいろなサービスや電子機器など、そうした快適さを支えているものに囲まれている私たち。 じゃあ、快適さって何だろう……。哲学カフェでともに考えてみませんか?
参加無料
◎哲学カフェは対話が目的であり、決して特定の思想などを押しつけるものではありません◎マスクをしてご参加ください
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この事件は、2009年に大阪地裁で懲役12年の判決が言い渡され、2010年に大阪高裁・2011年に最高裁でもそのまま有罪となったレイプ事件である。 しかし、2014年に冤罪が発覚、2015年に再審で無罪が確定した。 最初の懲役12年の判決は、被害者とされた少女の証言を有罪認定の最大の根拠としたものであった。 再審の開始も、この少女の証言が偽証であることが認められたことによるものだった。 では、なぜ大阪地裁・高裁・最高裁は、一度は少女の証言を信じ、被告人を有罪だと判断したのだろうか? そこには、かつて幾多の悲惨な冤罪を生んだ裁判官の考え方が現代日本でも健在であることを示していた・・・ 事件登場人物 被害者Dの証言 恐怖の「訳がない論法」 否認供述~否認供述には根拠がありません 判決~徹底的な人格攻撃 高裁での審理~裁判所はXさんにマホトーンを唱えた!! 再審~ウソだって言い出せなかったの・・・ 関係者のその後 どうしてこんなことに・・・親の事情の聞き方 裁判所が「訳が無い論法」に走った訳 事件 この事件の被告人、Xさんが起訴された事件の内容は、大体こんな感じである。 登場人物 X・・・被告人。ACDと同居していた。 A・・・Xの妻。 B・・・Xの娘。ただし、血はつながっておらず、Xが再婚した際のAの連れ子。 C・・・Bの子でXの孫。平成3年生まれで被害者Dの兄。Dが被害に遭う所を目撃した (実はウソ) 。 D・・・Bの子・Xの孫で 被害者 (実はウソ) 。平成5年生まれで平成20年の被害当時は14歳の少女。 E・・・Bの姉。美容院経営。 F・・・Bの夫。 ①2004年11月21日ころ,Xの自宅で当時11歳のDを押し倒して衣服をはぎ取ってレイプ。 ②2008年4月14日ころ、Xの自宅でDがXを怖がっているのをいいことに押し倒して衣服をはぎ取ってレイプ。 ③2008年7月上旬ころ、Xの自宅で当時14歳のDを背後から両腕で抱き着き、服の上から胸をつかんでもんだ強制わいせつ。 被害者Dの証言 全く身に覚えがないXさん、法廷でも無実を主張したが、検察はCとDを連れてきた。 そして、法廷に連れてこられたDは法廷でこう証言した。 「私は、小学校高学年の時から、おじいちゃん(X)におしりを触られたり、口にキスをされた。 平成16年11月21日ころ、Aが家にいないときに引き出物を食べているとおじいちゃんが家にやってきて服を脱がせていろいろやってきた。 体が固まっているとおじいちゃんにレイプされた。 おじいちゃんは「いったら殺すぞ」と脅された。 中学生になると、おじいちゃんの揉んだり触ったりするようになり、中1の時にも両手で胸をもまれたり、レイプされたこともある。 大体Aが銭湯に行ってしまっていない時で、場所は自分の部屋だった�� 平成20年4月に部屋で名探偵コナンを見ていると部屋に入ってきた。固まってしまっていると おじいちゃんに服を脱がされたが、怖くて抵抗できずにレイプされ、「Bに言うな」と口止めされた。 7月初めころ、またAがいないとき、 トイレに行こうとしてドアを開けようとしたら後ろからつかまれて揉んできた。この時は抵抗して逃げることができた。 これまで、誰にも相談できなかった。Cに相談したこともあったが、「我慢するしかない」と言われた。 おじいちゃんに抗議したこともあったが、横からAが口の利き方が悪いと言って怒ってきたこともあり、信じてもらえないと思って相談できなかった。 お母さん(B)もおじいちゃんに襲われたという話を聞いたことがあり、迷惑をかけたくなくてお母さんにも相談できなかった。 平成20年7月頃、高校生になるので嫌なことを振り切って新しい生活をしたいと思ってEに打ち明けようとしたが全てを打ち明けられなかった。 7月下旬に、お母さんが大阪に来たときお尻を触られたということだけ話した。 8月初めころ、実家にいるときに胸も触られているという話をした。お母さんに「最後までやられたの」と話したが、恥ずかしいのと思い出すのがつらくて、レイプされたことは話せなかった。 その後警察で話をし、9月初めころにお母さんと話した時にお母さんが「命に代えてでも守ってあげる」と言われて覚悟を決め、全部話した。」 Dは裁判所で尋問されたが、尋問の前日は寝られず、途中で体調を崩し、涙ながらに話し、弁護人からの尋問に動揺することなく対応していた。 そして、 Dの兄Cも、Dが被害に遭っているのを見たと証言したのだ。 恐怖の「訳がない論法」 後になって分かったことだが、Dが被害に遭ったという証言も、Cが被害を見たというのも、 見間違いどころか 何から何まで真っ赤な嘘 であった。 そして、実は、Dの証言にもおかしな点はいくつかあり、第一審判決も、このおかしな点についてはいろいろと検討していた。 Xさんの弁護士が様々に主張したため、Dの証言を全く検討しなかったという訳ではなかったのだ。 だが、その検討方法は恐ろしいものであった。 判決はまず、Dの証言についてこうぶち上げた。 「Dは自分の親族であるXからレイプされたということを内容とする供述をしている。14歳の少女がありもしないレイプ被害等をでっち上げてまでXを告訴すること自体非常に考えにくい。そんなことがあるならよほど特殊な事情があるはずで、そういう事情がなければDの言っていることは本当だ。」 年少の少女が、ありもしない被害を主張する訳がない。 面倒なので「訳がない論法」と書こう。 この訳がない論法、セイラム魔女裁判で、19人を絞首刑にした恐るべき冤罪思考法であった。 セイラム魔女裁判では、まだ当時の裁判官が名士と兼業する仕事に過ぎず、裁判官としての専門教育を受けていない言わば素人裁判であった。 だが、現代日本で、裁判向け教育を受けた裁判官が複数で検討しても、この訳がない論法は健在だったのだ。 そして、Xさん側としても、なぜそんなことを言われるのか心当たりはない。心当たりもないのだから、CやDが嘘をつくという証拠が準備できるはずもない。 ただ、Xさん側ももしかしたら過去にXさんとトラブルのあったDの母Bが言わせているのではないか…ということを主張はしたが、Xさんの側も当然、そんな動機があるという証拠など持っているはずもない。 裁判官は 「Bが自分でXに仕返しをするならともかく、自分の子どもDを使ってそんなことをする訳がない」 という訳がない論法で一刀両断。 CDが嘘をつくかもしれない、という動機からCDの証言を批判する弁護側の主張は「訳がない論法」で封じられてしまった。 それでも、まだAの証言その物に不合理な点がないかどうか、チェックするという手が残っている。 だが、ここでも訳がない論法の手は容赦なく及んできた。 訳がない論法のせいで、弁護士が主張した Dの証言の不合理な点は片っ端から裁判所によって好意的に解釈され、「不自然ではない」という扱いにされてしまった のだ。 弁護側 「BがXの勤務先や近隣住民に言いふらしているのはおかしいだろ?」 裁判官 「Dの被害が噂になったから確認して回っていただけだし、会社での態度を知りたいと思っているという説明をしていただろう。 この説明は一応納得できるものだし、Bが嘘をつく訳がない。」 弁護側 「Bがすぐに被害を言わないのはおかしいだろ?最初は胸だけだったのに後から尻、レイプと被害がどんどん大きくなっていったのもおかしいよ!?」 裁判官 「おじいちゃんから性的被害に遭っていたならば思春期の少女が躊躇するのは当たり前だし、被害がだんだん大きくなるのも不自然ではないし、おじいちゃんが圧力かけていたんだから、言えなくても不自然ではない。 それに、BECの言っていることとも一致している。憶測で被害者を非難するのは慎みたまえ。 Dが嘘をつく訳が(ry。」 弁護側 「Cは見たって言ってるけど兄だよ?口裏合わせなんていくらでもできるし、Cは助けようとも、周囲に相談もしてないじゃないか。」 裁判官 「Dと2歳しか違わないCがそんな嘘をついたって得をする訳がないではないか。 得がないのに言ってるってことは、本当のことを言ってるからと考えるのが当然であろう。 助けようとしなかったのも、Xを告発したりすれば自分の生活が危うくなるのだから当然だろう。 Cが嘘をつく(ry。」 弁護側 「Dの言ってる被害状況は曖昧すぎるよ。」 裁判官 「曖昧なところは多少はあるが、全体から見れば十分真に迫った証言だと言える。 肝心の被害の所が曖昧なのは、Dが精神的ショックを受けて正確に覚えていない部分があるだけだ。 Dが嘘を(ry。」 弁護側 「Aはいなくたって、隣の部屋にはCやXの母親(事件当時存命)もいたんだよ?バレる所でレイプをするバカはいないだろ?」 裁判官 「Xの母親は耳が遠かったし、多少は音もさえぎられるんだから、別におかしくはないではないか? Dが嘘(ry。」 弁護側 「DはPTSDになったが、警察に告訴した後にそうなっている。 告訴自体が精神的負担になって、虚偽がバレるのを恐れたんじゃないか?」 裁判官 「弁護側のストーリーからすると、BCDで組んででっち上げたということかね。 でっち上げをするような者が、でっち上げ対象が捕まった途端にPTSDになるなんて不自然であろう? Dがウ(ry。」 弁護側 「Dの言うことは途中で変わってる部分がある。本当のことを言ってるなら変わる訳がないだろ?」 裁判官 「途中で変わってる部分があるとはいっても、大筋の所は全く変わっていないではないか。 一部だけが変わったからと言ってDが(ry。」 このように、訳が無い論法にはまってしまった裁判官は、Dの証言の不合理な点を 「Dが言っているのは本当のことではなかったから」 とは考えず、 「Dは本当のことを言っているのだが、被害に遭ったことを言うのが恥ずかしいから隠そうとしてしまった」 などと考え、信じても良い証言と扱ってしまったのだった。 「疑わしきは罰せず」という言葉を思い出した方も多いだろう。 有罪か無罪か、どちらが正しいのか分からず両方とも可能性があるなら、被告人に有利に考えるのが刑事裁判の鉄則である。 しかし、裁判官や検察官などは 「疑わしきは罰せず」というのは証拠が全て揃った後に考えればいいことだと考える傾向が強く、個々の証拠の信用性を判断するにあたって「疑わしきは有罪に使わず」という考え方をすることは少ない。 結果として、裁判官は疑わしい証言を支えるだけ支えてあげて、信用できるだけの証拠を全て整えてしまった。 証拠を全部信用できるものと判断した上で、その後になって疑わしきは罰せずと言っても遅すぎたのである。 否認供述~否認供述には根拠がありません Xさん自身も、全く身に覚えがないが、それでも変じゃない?という要素については主張をした。 弁護側 「勃起障害があって、やろうにもやれないよ!!勃起障害だって���定すればわかるから鑑定してよ!!」 裁判官 「勃起障害の治療を受けていないではないか。 当時50代ならば、妻との夫婦生活もあったであろう。全く治療しないということは、嘘を言っている証拠だ。 鑑定?却下。そんなことをしなくても君の言っていることはウソに決まっている。」 弁護側 「Dは部屋の場所をいろいろ言ってるけど、当時の部屋と違うよ!」 裁判官 「何の根拠もない発言である。君の言っていることはウソに決まっている。」 弁護側 「AもXと性交渉ないって言ってるし、部屋の場所が違うって言ってるよ?」 裁判官 「Aの言ってることにも何の根拠もない。AはXの妻だから庇おうとしてるだけに違いない。」 裁判所は、Dの言い分については、訳がない論法で好意的に解釈して筋を通させていた。 ところが、弁護側の言い分についてはそうしようとせず、むしろ弁護側に主張の根拠を要求し、根拠がない、根拠が不十分だとなるとたちまち一蹴。 Xさんの妻を連れてきても、身内をかばっているだけだと判断してしまうのだった。 正当防衛を主張する場合のように、被告人に主張の根拠を要求するような場合は存在する。 だが、Dには好意的に解釈して筋を通ったことにしてあげる一方で、Xさんについては全く筋が通らない扱いするとなると話は全く変わってくる。 Xさんは実質、疑わしきは被告人を罰する裁判で戦わされていたのだ。 判決~徹底的な人格攻撃 こうしてDの証言は全面的に信用される一方、Xさんの言い分は全く認められず、Xさんには懲役12年の判決が言い渡された。 判決理由では、「罪を認めずに否認を続けるふてえ野郎」であるXさんに対して情け容赦のない人格攻撃が行われた。 「言語道断」 「犯行動機は誠に身勝手極まりなく,そこには一片の酌むべき点すら見出せない。」 「その行動は誠に醜悪極まりなく,齢60を超えた者の振る舞いとも思えぬ甚だ恥ずべき所業であるといわざるを得ない。」 「不合理な弁解に終始して本件各犯行を全面的に否認し,反省の情が皆無であるばかりか,挙げ句には,Bが自分に恨みを持っていることから被害をでっち上げたなどと同女を誹謗中傷するまでに至っている。」 本当にXさんが真犯人で、Xさんの弁解が苦し紛れの弁解だったなら拍手喝采ものである。 だが、後の結末を考えると、大上段にXさんを人格攻撃するこの判決のしらじらしさは際立つ。 しかし、無罪であると主張して、結果有罪になってしまうことは、裁判所にこんな風に考えられてしまい、処罰が重くなる一因となってしまうのである。 被疑者・被告人が戦うことを諦めてしまった冤罪事件のたびに、「戦わなかった被疑者・被告人が悪い」という意見はしばしば上がるが、この事件から、徹底的に無罪を争うことはリスクがあるのだということを噛み締めてほしいものである。 高裁での審理~裁判所はXさんにマホトーンを唱えた!! Aさんはなおも高裁に控訴。しかし、一審で有罪判決が出ている件を高裁でひっくり返すのは、よほどのことがなければいけない。 高裁で弁護側はDが病院にかかったという記録があったことからそこの医療記録を出せと検察官に迫った。 ところが、検察官は「ない」と回答。 検察の手元にないだけで医療機関にはあったのだが、弁護側は手を封じられてしまった。 そして、有罪判決の最大の根拠となったDの証言を何とか崩そうと、 弁護側はDの証人尋問を申請したが、高裁はこれも却下してしまう。 高裁は判決を受けての追加の証拠調べをなかなか認めないことが多い。 高裁になってからでないと出せない証拠は認めることも多いが、Dの尋問は一審で既にやっていることであった。 また、Dが年少者の被害者だったこともあって、 「また尋問するなら、Dが傷ついてしまう。一度尋問したんだからもう十分だ」 となってしまったのだった。 結局、弁護側は打つ手がなくなってしまった。 こうして、高裁も一審の有罪判決は間違っているとは言えないと言うばかりの有罪判決を言い渡したのだった。 上告もしたものの、最高裁では追加の証拠を調べることはできないことになっている(例え裁判官がやってあげたいと思っても、裁判官に権限がない)。 本来ならば私は冤罪だということで最高裁判所に上告することは門前払いされても仕方がないことになっている。 結果、裁判は確定。Xは無実の罪で12年の服役をすることになってしまった。 再審~ウソだって言い出せなかったの・・・ 有罪判決が出て諦める被告人も決して少なくはない。 だが、刑務所に服役させられてもXさんはあきらめず、担当の弁護士が活動していたら、重要な証拠がやっと登場した。 Dがレイプ被害に遭ったとされる日時の後、Dは産婦人科にかかっていた。 検察が「ない」と言っていた産婦人科の診療記録であったが、 弁護士が該当する産婦人科に記録があることを突き止めた。 まさか弁護士も診療記録があるのに検察が「ない」というとは思わなかったか、どこの産婦人科か分からず産婦人科を手あたり次第探すしかなかったために、判決確定後になってしまったのだと思われる。 弁護士がその診療記録を取り寄せると、 なんとレイプされたならあるはずがない処女膜が健在だったことがはっきり記録に残っていたのだ。 さらに、C・D自身が証言を翻した。 これに基づいてXさんの弁護士が再審請求。 弁護士の再審請求にびっくりした検察が再捜査。 Dがかかった医者の記録を調べたところ、 平成22年にDが受診した精神科の診療録にも、実は被害に遭っていないとDが話していたことまで記録に残っていた。 そして、裁判所でもCとDは揃って、裁判で言ったことはウソだったと認めたのだった。 Dはこう語った。 「あれはウソだったんです。 Xにおしりを触られたと話したら、 母親BとFから、他にも何かされたんじゃないかと何日間も、深夜まで問い詰められてしまいました。 それで、最後には胸をもまれたと認めて、その後レイプされたと質問されても否定できなくなりました。 取り調べや裁判でもBとFに怒られるのが怖くて、嘘だったと言えなかったんです・・・。 裁判が終わった後、あれはウソだったとBとFにも話したんですが、処罰されたり、他に証言した人たちに迷惑がかかると思って黙っておくことになりました。 でも、今になってB・Fとも疎遠になったし、他の家族からも勧められて、話すことにしました。」 更にCも 「本当は犯行を見ていた訳じゃないんです。Bから見てないはずがないだろと問い詰められて、見たと喋ってしまったんです。 今更ウソだと打ち明けても信じてもらえないと思って本当のことを話さなかったんです…」 CDの言うことがもし本当なら、CDは場合によっては偽証罪による処罰も考えられたところだが、それでもCDは揃って、Bに問い詰められて発した口から出まかせであったことを白状した。 もちろん、「CDがそんな嘘をつく訳がない!!」だけでは判決の訳がない論法と同じである。 しかし、 カルテなどの証言以外の証拠と見比べても、どう考えても正しいのは証言が誤りであるという言い分の方であった。 第一、CDが真摯に喋ってるから有罪だ、という判決だったのに、そのCDがXが犯人であるという主張を撤回してしまったら、もうXを有罪にするまともな証拠なんか残っているはずがない。 Fも、Dに対して尻を触られたということならレイプもされたんじゃない?と聞いたら、最初は否定していたが認めたという。 Bだけは、CDを問い詰めてなんかいないと主張したが、CDから被害を告白された状況についてはあいまいな供述しかしなかった。 更に、BはDをつれていった産婦人科医に 処女膜が破れていないと診断された後も他所の産婦人科医に執拗に連れて行っていた ということが検察の捜査で発覚していた。 頭からDはレイプ被害に遭ったに違いないと決めつけ、産婦人科医にそんなことはないと言われても信じなかったのか、弁護側が主張した通り、実はXさんを陥れようとしていたのか、裁判所はそこまでは判断しなかった。 だが、どちらであれ、BがCDを執拗に問い詰め、CDはそれに乗せられてしまった可能性が高い。 こうして有罪の根拠を失った検察は、再審請求に対してXさんが有罪であるという主張を諦めた。 検察自らXさんは無罪であるとして、無罪判決が確定する前に手続を取ってXさんを釈放。Xさんは裁判中・裁判後含め、およそ6年の獄中生活から解放されたのだった。 その後も再審手続は進み、2015年に再審無罪判決が確定。 再審に当たり、検察は自らXさんの無罪を主張したほか、判決言渡しの後は上訴権放棄の手続を取った。 (*1) また、再審を担当した大阪地裁の裁判長(有罪判決を書いた裁判官とは別の裁判官である)は、判決を言い渡すにあたってXさんに謝罪の言葉を述べている。 関係者のその後 Xさんは、国に対して国家賠償訴訟を起こすことを検討していると言う。 ただし、Xさんは役員をやっていた企業に復職することもできず、被害の回復にはまだまだ時間がかかることと思われる。 CやDのその後は定かではない。 建て主が調べたところでは、C・Dとも偽証罪で起訴された、という話は見つかっていない。 (*2) 実は起訴されて既に有罪になっているという可能性もないわけではないが、この事件自体は全国的に報道された件であり、起訴されたが報道されないとは考えにくいのではないだろうか。 自白だけで有罪とすることは許されないため、証拠不十分と判断されたかもしれない。 経緯からCやDもB・Fに半ば言わされた被害者に近い立場であることや、遅すぎたとはいえ正直に白状したことを評価されて情状酌量されたのかもしれない。 XさんもCDに対しては怒りも恨みもない、とコメントしたという。 また、有罪の判決を書いた一審の裁判官のうち、 裁判長は2013年、この件の冤罪が発覚する前に57歳で死亡。 この裁判長は大阪地裁の名物裁判官であり、死去に当たって弁護士からも哀悼の言葉が述べられる有名人であった。 万引き再犯を行なった二児の母親に対し、家庭を考慮して執行猶予を与えたエピソードがよく知られている。 (再犯であれば実刑が普通だが、被告人の家庭事情を考慮し、敢えて執行猶予を与えた) 残りの2名のうち、一人は現在東京地裁で裁判官をしている。 平成27年までは、司法試験に合格した将来の裁判官や検察官・弁護士を育てる仕事をしていた他、司法試験の問題を作ったり採点をする仕事もしていた。 もう一人は、現在千葉地裁木更津支部で裁判官をしている。 彼ら裁判官一人一人がこの件をどう考えたかは、あいにく定かではない。 地裁判決では、個々の裁判官の意見を書いたりしないし、評議の秘密を公開することはできないため、この判決に反対した裁判官がいたとしても、真相は不明である。
大阪市レイプ虚偽証言冤罪事件 - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ
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