#日本文学
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motuko · 13 years ago
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「生徒諸君に寄せる」 宮沢賢治
生徒諸君 諸君はこの颯爽たる 諸君の清潔な風を感じないのか それは一つの送られた光線であり 決せられた南の風である
諸君はこの時代に強いられ率いられて 奴隷のように忍従することを欲するか 今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば 我らの祖先の至は彼らに至るまで すべての信仰や徳性は ただ誤解から生じたとさえ見え しかも科学はいまだに暗く われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ さらに新たな正しい時代をつくれ
諸君よ 紺色の地平線が膨らみ高まるときに 諸君はその中に没することを欲するか じつに諸君は此の地平線における あらゆる形の山岳でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する 誰が誰よりどうだとか 誰の仕事はどうしたとか そんなことを言っているひまがあるか
新たな詩人よ 雲から光から嵐から 透明なエネルギーを得て 人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ あまりに重苦しい重力の法則から この銀河が系統を解き放て
衝動のようにさえ行われる すべての農場労働を 冷たく透明な解析によって その藍色の影といっしょに 舞踏の範囲にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ これらの盲目な衝動から動く世界を 素晴らしく美しい構成に変えよ
新しい時代のダーウィンよ さらに東洋風静観のチャレンジャーに乗って 銀河空間の外にも至り 透明に深く正しい地史と 贈呈された生物学をわれらに示せ
おおよそ統計に従わば 諸君のなかには少なくとも千人の天才がいなければならぬ 素質ある諸君はただにこれらを刻出すべきである
潮や風・・・・ あらゆる自��の力を用い尽くすことから一歩進んで 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
ああ諸君はいま この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る 透明な風を感じないのか
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ross-nekochan · 4 years ago
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卒業論文のために、三島の小説を日本語で読もうと思ったけど、彼の日本語を読むのはやっぱ辛い。😅
È vero che volevo leggere Mishima in giapponese SAPENDO quello a cui andavo incontro... devo dire che questo piccolo stralcio mi ha fatto cambiare idea per il momento. 😅
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novaki-enu · 8 years ago
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知らないということが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなわち「死」に。
三島由紀夫『暁の寺 豊饒の海(三)』(新潮文庫)
p231 ジン・ジャン(月光姫)、死の空へ架ける虹。
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vauva-blog · 14 years ago
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インターネットが普及した現代では、澁澤龍彦の世界を追いかけるのもそう苦ではないように思われるが、あの時代に諸外国の書物を読み説いて独自の世界を構築せしめた澁澤龍彦は…。
私が目を通した作品はごく一部に過ぎないが、エッセイもさることながら、小説も好きだ。特に、遺作となった「高丘親王航海記」 はお気に入りで、神保町で初版本を買ってしまったほどである。
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heime-blog · 12 years ago
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「ねえ、海で、ぼうっとして何を考えるの?」 「教えない」 「けちね」 「おまえねえ、自分だけ、そういうことを教えてもらえると思ったら大間違いだよ。おまえみたいなやつこそ、ほんとは、誰からも、秘密を教えてもらえないんだ」 「どうして?」 「良い人のふりするのは、一番、悪人なんだよ」 「私が悪人だって言いたいの?」 「まあな」  私は、なんだか、また悲しくなってき来て、ひとしきり泣きました。哲夫くんは、少しも動じることなく、わらを引っこ抜いて、結んだり、齧ったりしていました、私は、いつまでたっても、彼が、私を慰めようとはしないので、あきれて、顔を覆っていた指を広げて、彼の顔を盗み見ました。彼は、私のことなど気にも止めていないようでした。ぼうっと考えているんだ。私は、そう思い、納得しました。すると、西日で金色に染まっている田んぼが、なんだか夕方のうみのような気がして来ました。涙のせいかもしれません。あたりは、静かに漂うさざ波で満ちて来たような、そんな気がして、私は、小さな声で叫びました。哲夫くんは我に帰ったように、私を見ました。 「どうした?」 「なんかねえ、私、海辺にいるような気になってたんだよ」  哲夫くんは、顔をくしゃくしゃにして笑いました。歯が、白いんだなあと私は感じていました。 「な。やっぱ、そう思うだろ。海、ちゃんと見えるだろ」 「うん」 「おれの目、片方しかないけど、ちゃんと、何でも見えるんだ」 「うん」  私は、哲夫くんの横顔こっそり見詰めて、綺麗だなあと思いました。見えていない方の瞳は夕陽を浴びて、きらきらと輝いていました。耳の後ろから、砂がこぼれたような気がしました。海の方の子なんだなあ。私は、つくづく、そう思いました。 「私、なんか、哲夫くんと結婚するような気がするな」 「ええ!?」
『海の方の子』 山田詠美
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ross-nekochan · 5 years ago
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どんなに勉強しても、どんなに頑張っても、失敗する。
6月の試験そうだった。来週の試験もそうなる気がする。
また失敗するのが怖い。失敗な人になってるかな。
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konoissetsu · 9 years ago
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頭の中には膨大なイメージが渦巻いているのに、それを取り出そうとすると言葉は液体のように崩れ落ちて捉まえることができない。
火花 / 又吉 直樹
すごくよくわかる。上手に喋る人を見てそう思う気持もわかる。自分だってそうなりたいけど、どんなことに気をつけて日々生活すれ��そうなれるのだろう。 (証券会社勤務 男 22歳)
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novaki-enu · 4 years ago
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これが、死というものだろうか。人の恐る死というものだろうか。永遠の眠りとは、誰が言い初めた言葉であろう。ああ、何という平和!何という静寂!(再び近寄りて、)親愛なる小林、哀れなるアンニイ。生きている時、苦悶している時、反抗している時、その時の鋭い、その時の疲れた、その時の憂わしい、その時の病的な、すべての面影は残りなく消え失せた。愛する女、愛する男。愛する二人が、春の光に笑い、秋の雨に泣き、冬の風に争い、遂に疲れて、しめやかな夏の夜に、喧(さわが)しい夜明けはもう来ぬとばかり、夢穏やかに寝入って��るとしか、どうしても思われない。冷たい二人の面には、何という深い満足、深い幸福が漂っているであろう。
-永井荷風『ふらんす物語』(岩波文庫) 「脚本 異郷の恋」より
P143 二人を救う最後の幸福として自殺を断行した小林とアンニイ
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orochi-text · 20 years ago
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『夏の砦』 辻邦生
この長編小説の中にちりばめられた数々の問題は、時に我々読者を混乱に陥れる。片時も気の抜けないあまりに密度の濃い出来事すべてが結末への伏線のように感じられ、主題が一体何であるかを見抜くために我々は常に神経を尖らせなければならない。読み進めていくうちに数々のキイワード出会い、それらのすべてが何かを���徴しているのではないかと疑う中、第一章に入るとすぐ、象徴的に輝いて見える存在として我々の目の前に提示されるのが「グスターフ候のタピスリ」である。このタピスリの存在は、『夏の砦』が作品として動いてゆくため、冬子がスエーデンに近いS**諸島に赴くため、言うなれば物語として動き始めるための鍵である。第一章の冒頭から終章まで登場するこのタピスリは、言わずもがなだが物語において重大な役目を果たしていることは括弧付きで登場したそのときから安易に想像ができ、目に見えそうで見え難い、何かを象徴しているに違いないと読者は踏むのである。  主人公である支倉冬子は幼少期である序章から既に何かを感じ取り、漠然とした違和感のようなものを覚えている。辻は実に巧妙に子供の複雑に構成された説明のできぬ心情や行為を描き出し、恐らくそれに軽い痛みと共にノスタルジイを覚える読者は少なくはないはずだ。物語そのものである、幼少期よりフリース島で消息を絶つまでという冬子の生涯を大胆に分けるならば、輝くような自己の世界での生活し、そしてそれが失われ空虚になり、再びその輝きを見出すというような流れになるだろう。  幼い彼女は夢中で飛行飛びをし、亀のヒューロイと遊び、きらきらと輝くまるで兄の作ったあの人形劇のような世界の中で生きていた。しかし次第に幼少期における子供ながらの絶対的な美学や理想や純粋といった世界が壊され、まるでぽっかりと口を開き待ち受ける大きな闇の中に流されてゆくように、厳しい現実というものの中に否応無く飲み込まれてゆくことになる。その喪失は様々な場所で描き出され、例えば兄の作った人形劇の不思議な神秘さが終演と共に途端に消え果て、彼女はそのきらきらと輝くような世界が実際は作られたもの、まるで生きたように見えた狐や猟師がただの人形でしかない事実に、理不尽な、理解のできない虚しさを覚え、そのときに感じた激しい淋しさの描写など象徴されているといえるだろう。彼女が心地良く暮らしていた理想に背を向けはじめたのは、己の美学のようなものに一心に向かい合う劣等生と扱われる兄や、世間からひとつの境界線を引いてその中に生きる叔父に対していくらか情け無いという感情を抱いていたことにはっきりと描かれているし、彼女は彼らを通して「動かし難い」、「我侭なぞ許しえない」、「学校や社会や人間関係」という���不機嫌な重い物体」である現実を知ることになるのである。 「私は自分の肉体というものをあらためて、両手で確めてみないではいられなかった。風呂のなかに沈めながら、ようやくふくらみはじめた胸のあたり、まるくなりはじめた肩のあたりを、信じられないもののように眺めた。自分の考えや感じとは別に、妙な重い他の生きもののような肉体があるということ、それは、その後ながいこと、私には、最後まで、なじむことのできない事実となったのだ」  冬子は己の肉体の変化を、どうしようもない現実として受け止めた。彼女が自ら言うように、自分の考えなどとは別に、どうしても抗うことのできない事実が存在することに絶望のような戸惑いを覚えている。大切にしていた人形を、木の上に忘れ、雨に晒されるままに放置したり、好意を寄せていた女の子を池の中に突き落としたり、当時の幼い彼女には何か理由がわからないまま、まるで自分がこれから置き去りにする理想を省みないように愛したものを突き放し切り離していった。そして厳しい現実にすっかり飲み込まれてしまう決定的な切欠が、祖母や母の死というものであり、冬子があのきらきらした世界を過ごしていた懐かしい樟の木のある家が戦争で焼けることであった。 「そうです。私はこうしてあの樟のざわめく古い広い家を失ったのでした。父の言ったように、それは私の目の前から失われると同時に、わたしの心の中からも消えていったのでした。しかしそれはまた、なんという恐ろしい過酷な事実が、むきだしになって、私たちを襲い掛かった瞬間だったのでしょう。私はその瞬間夢想や空想の無意味さと無力さを痛いほどに感じました。祖母の死にはじまった過酷な事実は、こうして最期には、この樟のざわめく家そのものを滅ぼし、そこにまつわる一切の思い出を消し去ったのでした」  結果として、終章に至るまでには彼女の失われた感情は取り戻されることになるが、このひとつの冬子の理想と現実、過去と現実の間を行き来する流れは、冬子が「グスターフ候のタピスリ」に感じる感情の律動と重ねられるのである。  その後彼女は芸術家の道を辿ってゆくが、彼女が美術学校の工芸科に入った当初、芸術への輝かしい想いはこういったものとはまだ別にあった。当時の彼女は芸術へ絶望をしてはおらず、諦めもしていない。母の仕上げたかった作品の世界を彼女なりに完成させようと熱いものを胸に機に向かっていたのである。しかし彼女は次第に制作に倦怠を感じてゆく。それは染色のために調剤カードを作り、その法則のようなものを作品作りの中央に置き始めてからである。 「私が美術学校にいるころ、自分の美的な仕事が任意な、曖昧な、根拠の薄弱なものに感じられてくるようなとき、なんど私は医学部とか工学部とか農学部とかに学んでいる学生たちを羨ましいと思ったことでしょう。(中��)根拠あるもの、動かないもの、確実なる物を私は望んでいましたし、そうしたものに力を尽くすことが、ちょうど鉱夫が鉱脈につるはしを打ち下ろすように、意味もあり、生産的でもあると思われたのでした。(中略)私はこうした認識や技術と、作品とが融合しえないものだろうかと考えてみました。また、作者の恣意をこえた美の法則性を求めて、本をよみあさったり、考えたりしました。」  根拠、確実を求め、まるで調剤カードを使うように美の法則を機械的に操ってゆくことは、夢中になりその情熱によって作られてゆく芸術というものを彼女の中から失わせてしまったのだ。こうして彼女にとっての制作の苦しみが始まる。しかし苦悩した彼女の心の中に講義を切欠として「グスターフ候のタピスリ」が甦り、この傑作に触れ、そしてそれが伝統として生きている北欧の都会に生活すれば解決するのではないかという希望が生まれた。こうして希望を見出すべくスエーデンに近いS**諸島の都会に訪れた彼女だが、「グスターフ候のタピスリ」と対面し、再び絶望に浸ることになったのである。彼女は何故、期待に胸を躍らせタピスリの前に立ったときに失望感を味わったのであろうか。そして結果的に彼女の生涯と同じように、タピスリへの感動もまた甦ることになるが、一度は絶望したものに再び希望を見出すことになったのであろうか。  ここで彼女の芸術観を確認してみようと思う。作中に登場する油絵科に通う本庄玲子とのエピソードにより、冬子の芸術観が伺える。本庄玲子と冬子は、その美のあり方、芸術のあり方について幾度となく論争していたようである。本庄玲子にとっての芸術とは、「芸術作品は宗教や政治や実用などへの従属を脱して自分自身の目的(「それを美と呼んでも、精神性と呼んでもいいわ。」と彼女は言った)を追求するようになってから、はじめて<芸術>となりえたと主張した」というものであり、彼女のことばをすべて引用するならば、 「実用的な芸術なんて、言葉の矛盾もはなはだしいわ。芸術の世界と実用の世界は、火と水、天と地、月とすっぽんよ。昼と夜よりも違っているわ。実用の絆を脱したからこそ、それが芸術になれたのよ。昔は芸術家なんていなかったのよ。ただ信仰の対象となるかもしれないわ。あるいは記録のため、飾りのため、功労の顕彰のために、音や色や言葉で何か形あるものがつくられたかもしれないわ。しかしそんな人たちは芸術家じゃないし、そんなものは芸術作品じゃない。芸術はそうした一切から脱却して、感覚を通して精神に至る道を見出したとき、言い換えると美を自己目的としたとき、はじめて<芸術>となりえたのよ。」 というものである。しかし冬子はこれと真逆の芸術観を持っており、彼女にとっての本当の美とは、 「そのように美自体で孤立するようなものではなく、もっと人間の魂や生の陰影や哀歓と深く結びついているはずのものなのだ。それは必ずしも大衆売場の実用品と結びつくという意味ではないけれど、でもそうした実用品���つくりだした人間の状況には無縁でいられないものなのだ。それは、もっと深く、もっと広く、人間のすべての活動や状態と結びついてゆくものなのだ……。」  というものである。彼女はタピスリについて玲子に話したとき、確実に「人間のすべての活動や状態と結びついてゆくもの」をタピスリに感じていたのであり、それを求めてS**諸島に赴いたのである。しかし彼女が初めてその眼で見た「グスターフ候のタピスリ」は、「厚地の、全体に色の褪せた、糸のほつれや補修の目立つ、ひどく物質的な素材感の強い織物」、「ただそれだけのもの」であった。彼女はタピスリから、己の求める芸術、すなわち「人間のすべての活動や状態と結びついてゆくもの」が感じることができなかったのである。それはタピスリそのものに彼女が思い描いたものが無かったということではなく、タピスリにこめられたものを、冬子が感じることができなくなっていたからであると考えられよう。 「私は、後の時代の、写実風で、ただ優美さを狙った農耕図よりは、ずっと生活の本質に近い、瞑想的な、深い、暗い、重苦しいものを感じました。(中略)そこに、まだ生活から切り離された孤立する芸術家意識がない、ということに他なりません。この織匠は、大工が家を建て、指物師が大机をつくるのと同じ気持ちで、せっせとこの機織を織り上げていったに違いないのです。彼は汗を流し、慎重に機の技巧を駆使したはずです。しかしそこには、どこか子供じみた無心さ、単純な熱中を感じます。」  後に終章で彼女自身がエンジニアへの手紙の中でそう語るように、タピスリは確実に、冬子の求めたあの最初に情熱を抱いていたころの芸術の理想を持っていたのである。しかし彼女がそれを感じ取ることができなかったのは、タピスリから感じた「どこか子供じみた無心さ、単純な熱中」というものを彼女自身から既に失われていたからではなかろうか。彼女が見捨てた理想や純粋、過去が、あのただ直向に社会を省みず己の美学のようなものを貫いた兄や叔父、純粋に夢中になっていた冬子自身が、織匠の純粋な魂と共にタピスリの中にあったのである。彼女がこれらを見て絶望するのは、己の最も理想としたタピスリが、もう既に過去の中に捨ててしまったもので構成され、「作者の恣意をこえた美の法則」や理論のみで出来ているわけではないからである。先にも彼女の独白から抜き取ったように、美にさえも機械的に根拠や確実を欲しがる彼女に、タピスリに込められた理論や法則や冷静だけに従うことのない「どこか子供じみた無心さ、単純な熱中」などは感じることができるはずがない。彼女にとってはあの樟のある家が燃えたとき、タピスリの中に込められているものは愚かなものとして捨ててしまっていたのである。無論喪失されたものは彼女の手元には無く、彼女はその時点で失望の原因が何であるかは気づくことができない。既に無くしたもので構成されたタピスリは、彼女にとって、全体に色の褪せたものに見えるのも当然なのであろう。それと同様に色褪せた己の過去と対面することとなった彼女は、まるでタピスリから抜け出たかのような自分の過去が黒い影となって襲い掛かり、神経症にも似た苦しみを味わい、自殺した母のように入院をするまでに至ってしまう。  その彼女に光を与えるのは、病室に飛び込んできたエルス・ギュルデンクローネである。この物語、冬子自身にとってエルスの存在は欠かせないものであり、エルスが冬子��とってどのような光を与えたのかを確かめなければならない。 「たしかに私もこうしたエルスと一緒に暮らしているうち、自分がどんなにかこの健康な、生命にみちた営みを無視していたか、よくわかってくる。エルスの目のくらむような自然への陶酔こそ、あの巨石文化を残していった北方の先住民の生き方だったのかもしれない。走ったり、泳いだり、投げたり、木にのぼったり、高い梢を渡ったり、飛鳥のようにとびおりたりする動きそのもののなかに、私は、古代的な不思議な純血を感じる。エルスが露台に休んで放心しているときの、日焼けした背にかげを落としているあのような古代的な憂いは、おそらくこの純潔さと無関係ではないのだ。  わたしはエルスといると、自分がこの大自然の一部分に還元し、その中で甦り、新しい生命に目ざめでもしたように、裸足で地面や草を踏み、胸にじかに風を感じ、腕も脚も頭もこうした自然のなかに融けこんでゆくのだ。自分の身体の裏面がむきだしにされ、快楽が深い奥底から火のように激しくつきあげてくるのを感じる。」  冬子はエルスに対してこうまで神秘的なものを感じ、好意を身体中で感じている。エルスは冬子の求める芸術の理想、すなわち人間の生命、生活がそのまま結びついているものをダイレクトに与え、はっきりと、彼女に触れたことにより自分が「生命に満ちた営みを無視していたこと」気づいたと告白し、徐々に己の中にあった芸術の根本を甦らせてゆくのである。そして冬子はギュルデンクローネの館で暮らすようになってから、彼女の内面の変化があったと家が焼けた事件に続いてエンジニアへの手紙で告げている。 「わたしはこの過酷な事実を自分の生き方の基準にしたのは、家が焼けるより以前のことでしたが、家が焼けたことによって、それがさらにいっそう徹底したものになっていったのです。こうした生き方、考え方の結果がどんなものだったか、私は、あなたに、織物の制作が次第に困難になり、不可能になっていった過程に触れながら、たしかお話申し上げたと存じます。そうなのです。私は自分の過去を見すてることによって前に進みでたわけですが、この過去とは、多くの場合、前へ進む力を汲みだす深い豊かな源泉であることがあり、それに私は気が付かなかったのでした。  この事実に気が付いたのは、「グスターフ候のタピスリ」を見にここの都会へ来てからでした。とくに私がマリーやエルスと知り合い、ギュルデンクローネの館で暮らすようになってからでした。」  彼女は自然と一体となるエルスと心を通わせ、そしてホムンクルスの悲劇的な火事に駿の死んだ火事を見た結果、彼女は再びあのタピスリの中にある「人間のすべての活動や状態と結びついてゆくもの」や「どこか子供じみた無心さ、単純な熱中」を、過去に思い描いていた期待を遥かに超えた感激を伴って感じることができるようになるのである。これは冬子が過去を取り戻したという結果であり、先にも述べたとおり、冬子の理想と現実、過去と現実の間を行き来する流れは、冬子が「グスターフ候のタピスリ」に感じる感情の律動と重ねることが可能であり、「グスターフ候のタピスリ」というものが、冬子の過去そのものであるという象徴になるであろう。  さて、ここで更に指摘したいのは、作者である辻邦生がどうしてこのような深く豊かな、複雑な冬子の人生、芸術論を巧み��描ききれたかという点である。無論彼の作家としての技量によって生み出されたのは言うまでも無いだろうが、すべてが完全なる創作、想像の世界であるにはあまりに強い力、湧き上がるような、いわば魂の叫びのようなものが深く根底に息づいているように感じられる。  作者、辻邦生が生まれたのは一九二五年、大正十四年。日本は一九三七年、日支事変が起きると戦争時代へ流れ込んでゆく。一九九九年まで生きた彼の人生の中に、戦争というものがあった。彼自身の著作集である『遥かなる旅への追憶』で語るように、彼は高等学校理科に在籍していたために戦争へ駆り出されることは免れたものの、戦死した友人を持つ過去を持つ。わたしが頭に思い浮かべるのは主に詩人であるが、戦争を経験した戦後作家の多くを見てみるとその多くは戦争の影は大きく暗く、創作にその色を強く滲ませている。辻もまた、ただの想像上のものとしてではなく『夏の砦』にその戦争を描いている。戦争時代を生きた彼は既に高等学校での劇作などで創作の発表を始めていたが、終戦を迎えると同時、混乱の時代の中でそれに疑問を抱き、飢えや病に苦しむ戦後の最中彼は文学に苦痛を感じるようになったのである。彼はその心情をこう語る。 「よしんば生活ができたとしても、小説などよりもっと大切なことは、たとえば、医者になり病人を実際に治すというような実践的な仕事によって、世の中にはたらきかけることではないかと考えるようになったわけです。そうした状況のなかでは、小説を自分の仕事として書いていくには、周囲の事情がきびしすぎた、その非常に過酷な現実に対してどのように対処するかが、当時の私の最大の課題だったのです。(中略)現実を変えうる力・技術としての知識の重要性を感じていたのです。」  この疑問を抱いた辻は、次第に文学への道を見失うことになる。そして彼は、パリへと留学をするのであるが、 「我々が考えている自由・正義・愛といった言葉は、日本で考えると、いかにも「観念」にすぎないものに見える。しかしヨーロッパ的風土のなかではぐくまれ、それを我々が敬称しているとすれば、本場に行って考えたなら、それは決して単なる「観念」というものではないのではないか。もし、それが単なる「観念」ではなく、何か事実と見合うごとき充実した内容のものだったら、また「文学」にも同じことが言えるのではないか。そして、そこに突破口もみつかるのではないか――――といった期待もあったわけです。」  と語っている。この動きは見覚えがあるとおり、冬子が彼女の人生ともいえる芸術の突破口を探しに、S**諸島へと赴いたのと同じではなかろうか。そして辻は、その後ギリシアへ訪れてその突破口になる大きな出会いをすることとなる。彼はそのギリシア旅行でパルテノン神殿を見、感激している。辻は神殿に「この世のあらゆる営み、人間が発生し様々な文明を作り、歴史を築いたその活動���うえにたつ、いわば、動きを超え、永遠の領域に達している一つの実在」というものを感じたと語り、「そのとき、私のなかをたしかに美しいものが貫いていきましたし、一種の酩酊感に似たよろこびが私を包みました。しかし同時にそれは、それまで私がさまよっていたこの世・この過酷な現実というものを超えられた瞬間であった、ということができると思います」と感激を語っている。これは冬子にとってのタピスリに感じた感動や、タピスリを再び感動を持って見つめる切欠を与えたエルスに感じたような冬子の芸術観などに重ねることができまいか。    戦争、戦後という同じ時代を生きた辻と冬子、文学という現実とは密接になりえない世界に生き混乱の中根拠や確実を求め苦しんだ辻と、芸術に法則や根拠や確実を求めた冬子は、よく似てはいまいか。辻にとってのギリシアは、冬子にとってのS**諸島、あるいは消息を絶ったフリース島、そして、冬子を救った「グスターフ候のタピスリ」とエルスという少女の存在は、辻にとっての「パルテノン神殿」ではなかろうか。冬子がエルスやタピスリに出会い、「動かし難い」、「我侭なぞ許しえない」、「不機嫌な重い物体」という現実の中で感じた芸術のジレンマから救われたように、辻はパルテノン神殿に出逢ったことにより、戦後の混乱という厳しい現実の中で、創作に対して苦しみを覚えた「過酷な現実」から救い出されたのである。  辻がギリシアを訪れたのは一九五九年、八月という夏の季節である。『夏の砦』の創作ノートはギリシアを訪れた時と同じくして一九五九年に書き始められている。彼は自分の想いや経験を支倉冬子に重ね、委ねていたのであろう。それゆえあの重みのある、魂の叫びのような『夏の砦』が完成したに違いない。  冬子は作中で必死に書くという行為を行っている。それは日記であり、誰かへの手紙である。エンジニアが言うように、「この書く行為は、誰かに伝達しようとして行われているのではない。彼女は書き、言い、表現することによって、現実を自分のものにしていっているのである。もし書く行為が創造であるといえるのだったら、まさしくこのような場合にそれがぴったりするような気がする。なぜなら彼女ははっきり書くことができたものだけ自分の領域とすることができたからだ。そうした彼女の格闘を示している息苦しいまでの箇所がこの第三冊目のノートの終わりの部分なのだ。」そう語るのであれば、正に辻が経験したジレンマの息苦しいまでの格闘こそ、この『夏の砦』なのであろう。 参考文献
『夏の砦』 辻邦生・著 文春文庫 『遥かなる旅への追想』 辻邦生・著 新潮社
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ahotest · 13 years ago
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vauva-blog · 14 years ago
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満願/太宰治
これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの二階で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。
満願は私小説らしい書きだしで始まる、太宰治の短編小説。 文庫本にして約2~3ページ程度と非常に短い作品でありながら、若い女のひとのさわやかな姿が鮮やかに描かれており、好きな作品のひとつとなっている。
ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。 「けさ、おゆるしが出たのよ。」奥さんは、また、囁く。 三年、と一口にいっても、――胸が一ぱいになった。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。
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weizy0219 · 7 years ago
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村上春树推荐的100本书
对读书人或者自诩的读书人来说,面对浩如烟海的出版物往往无所适从,村上春树的小说中,常常包含了作者自身对其他作家及其作品的评论或推荐,《了不起的盖茨比》、《漫长的告别》、《魔山》、《卡拉马佐夫兄弟》都是由于村上春树的推荐才去读的,尤其是在村上春树没有新作品问世的间隙,这些书可以用来填补其中的空间。然而,虽然村上春树推荐的都是经得起考验的经典作品,但数量众多,实在不容易一一读完,下面便是村上春树作品中推荐的100本书,你看过多少呢?
我喜欢阅读、听音乐、我还爱猫。即使我还是个小孩子,我也很高兴,因为我知道自已的所爱。直到现在我都没变过,这三样东西就是我的所爱,我的信心。”  ——村上春树 
弗朗茨•卡夫卡曾在1904年,致友人的一封信中说:“ 我想,我们应该只读那些咬伤我们、刺痛我们的书。所谓书,必须是砍向我们内心冰封的大海的斧头。”  ——村上春树 
……菲茨杰拉德的《了不起的盖茨比》、陀…
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bananaunderground800 · 7 years ago
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『聖女伝説』
多和田葉子
2018/01/08 読了
『容疑者の夜行列車』に並ぶくらい好きかもしれない。アンナ・カヴァン?と思うような。落下している時の思考の運動、そして生に宙吊りにされる、という死。歪さはもとより、こんな甘美な小説を書く人なのか、と意外(夜行列車は甘美さはあったかもしれない)
言葉遊びは、その企みに読者が気づいてしまうと興醒めするが、この作品のそれは言うなれば遅効性の毒、意味を孕みつつも意味から脱線する、それが読むにつれて堆積し、読むものはその場に縮こまって震えているような、倒れ伏して幻覚を見ているような、引き裂かれる、と言えば言い過ぎでそぐわない気もするが、そんな体験をするのではないか。
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pt2intake · 7 years ago
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夏の朝
なにといふ虫かしらねど
時計の玻璃のつめたきに這ひのぼり
つうつうと啼く
ものいへぬ
むしけらものの悲しさに
『室生犀星詩集』(岩波文庫)
p20-p21 抒情小曲集
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